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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

Posted on 2019年1月4日2019年12月20日 by cool-jupiter

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 70点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人
監督:前田哲

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日本にも障がい者を正面から捉える映画が増えてきた。それが正しいか、もしくは多くの人々に受け入れられるかどうかは別にして、障がいもまた個性であるという考え方が提唱されて久しい。『 ブレス しあわせの呼吸 』の、ある意味では正統的な続編と言えるのかもしれない。

 

あらすじ

時は1994年、鹿野靖明(大泉洋)は34歳。筋ジストロフィーのため、動かせるのは首より上の筋肉と手首より先ぐらい。そんな鹿野は、我がままの言いたい放題でありながらも、ボランティア達とは不思議な縁で結ばれていた。医大生の田中(三浦春馬)とそのガールフレンドの美咲(高畑充希)もひょんなことからボランティアのメンバーになってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

実在の人間をモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、鹿野という人物が非常に生き生きと活写されている。『 聖の青春 』の村山聖もそうだったが、自分に残された命がそう長くはないと悟っている人間というのは、後悔をしたくないのだ。だからこそ、食べ物や雑誌のあれやこれやに非常に細かい注文をつけてくる。なぜなら、それが人生最後の食事や娯楽になるかもしれないから。劇中でも言及されるが、彼ら彼女らのわがままはは単なる駄々っ子のそれではない。生きるということを誰よりも真剣に捉えた上でのことなのだ。鹿野の言い放つ「医者の言う命って何なんだ?」という台詞は、劇中の時代から20年以上を経た今でも、非常に重い問いとして我々に圧し掛かってくる。その問いに対する答えはエンドクレジット中に示されるので、結末部分だけを見てさっさと劇場を後にするなどということは努々することなかれ。ここでは某韓国映画が持っていて、日本版リメイクが削ぎ落としてしまった、命に関する重要なメッセージが語られるのである。

 

それにしても『 パーフェクト・レボリューション 』や『 パーフェクト・ワールド 君といる奇跡 』など、日本もかつての無意識の差別意識がかなり薄まり、あらゆる人を社会的に包摂するにはどうすればよいのかを問うようになってきたようだ。作り出される映画の質は措くとしても、そのラインナップに可能性を感じる。『 博士と彼女のセオリー 』にあったような、ある意味での孤閨をかこつ女の寂しさと、ストレートに愛情をぶつけてくる男というのは、いとも容易くドラマを生む。高畑充希は『 アズミ・ハルコは行方不明 』で結構な尻軽を演じていた記憶があるが、今作でも体当たりの演技を披露してくれる。といっても脱いだりはしないからスケベ視聴者は期待すべからずだ。その代わりに、高畑の大ファンが聞いたら卒倒するような台詞も言ってくれるから、そこは期待していいだろう。しかし、赤ん坊の世話、高齢者介護においても、絶対に避けては通れないような問題をしっかりときっちりと描く本作の姿勢には非常に好感が持てる。

 

ブラックボランティアなる言葉がある。2020年の東京オリンピックでは、高度なスキルや経験を持つ人材数万人を手弁当で動員しようというプランがあるようだ。そのことの是非はここで判断すべきではないが、本作ではボランティア=無償の労働力とは捉えない。Volunteerという英語は、元はラテン語のvolo = I am wishingから来ている。鹿野は大げさでも何でもなく世界変革の夢を見ている。その夢に参画したいという者をボランティアとして募っているのだ。こうした個人が日本という国で確かに息をしていたということに驚かされるし、そうした人物を見事に銀幕に蘇らせた大泉洋に拍手。

 

ネガティブ・サイド

終盤のとあるシーンで、ドン引きさせられるシーンがある。人によってはぶん殴ってくるだろう。それも鹿野の人徳かもしれないし、もしかしたら映画化に際してのドラマチックな脚色かもしれない。しかし、個人的にはあの展開はないだろうと感じた。

 

田中の医学部生としての描写も弱い。体位交換のことを体交とボランティアが略して言うのに、気管切開のことを医大生の田中が気切(きせつ)ではなく、あくまで気管切開というのには違和感を覚えた。その他、様々な場面で田中に医者の卵らしさが見られてしかるべき場面があったのに、そのいずれでも田中は輝けなかった。それが事実だったと言ってしまえばそれまでだが、こういったところこそ脚色してナンボだろうと思う。映画とは一にかかってリアリティの追求なのだ。

 

最後に、音楽が重要なモチーフになる本作であるが、なぜジャズがフォーカスされなかったのか。鹿野が美咲につられて、あっさりとジャズからロックに宗旨替えしてしまうのは納得がいかなかった。ロックを魂の叫び、体制への反逆と定義するのならば、鹿野の生き方に合致しないこともない。しかし、ジャズは?『 ラ・ラ・ランド 』のセブが力説したように、ジャズはバンドのミュージシャンたちがその瞬間ごとに文脈を考慮しながら、新たに曲を書き、編曲し、そして演奏するのではなかったか。鹿野自身の来たし方はロックかもしれないが、ボランティアとの交流は間違いなくジャズだろう。ジャズの要素をもっともっと交えたシーン、ジャズ音楽そのものと協働するようなシーンが欲しかったと思うのは、決してない物ねだりではあるまい。

 

総評

これは素晴らしい作品である。高校生あたりの道徳の副教材に採用しても良さそうだ。障がい者を見る時、人はその相手に自分が障がいを負った時の姿を見ると言う。鹿野という人間が確かに生き、確かに死に、しかし今も人々の心に残っているのは何故か。それこそが生きるということであると本作は高らかに宣言する。ほんの少し性的な要素も描写されるが、聡明な中学生ぐらいなら逆にそれも勉強の糧にできるような良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 三浦春馬, 伝記, 大泉洋, 日本, 監督:前田哲, 萩原聖人, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

Posted on 2019年1月3日2019年12月7日 by cool-jupiter

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 65点
2018年12月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エイミー・シューマー ミシェル・ウィリアムズ ナオミ・キャンベル
監督:アビー・コーン マーク・シルバースタイン 

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原題は ”I Feel Pretty” である。そう聞けば『 ウェスト・サイド物語 』の同名の歌が思い浮かぶ。見目麗しくあることは常に世の女性の目標であり、それが同性からも異性からもプレッシャーとなって彼女らに重く圧し掛かる。しかし、美しさの定義とは何なのか。それは定量的に測れるものなのか。それともきわめて主観的な尺度なのか。美しい女が恋をするのか、それとも恋をするから美しくなるのか。本作は極めて普遍的なテーマを扱っている。

 

あらすじ 

レネー・ベネット(エイミー・シューマー)はぽっちゃり女子。職場は有名ブランド化粧品会社の通販部だが、オフィスはチャイナ・タウンの薄暗い地下倉庫。何とか自分を変えようとジムの扉を叩いたエイミーは、エアロバイクで大ハッスルするも、バイクが破損し、転倒。頭を強打してしまう。意識を取り戻したエイミーは、しかし、鏡に映る自分を見て、絶世の美女になったと信じ込んでしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

まず主演を張ったエイミー・シューマーを称賛したい。『 ピッチ・パーフェクト 』のファット・エイミーを超えるキャラクターを世に送り出してきたからだ。元々がコメディアンであるということだが、『 アリー / スター誕生 』のレディー・ガガのように、役者でない人間が演じるということが少しずつ一般的になって来ているようだ。エイミーの演技の素晴らしさは、その表情や行動、立ち居振る舞いの変化に見て取れる。視線、口角の上がり下がり、歩き方、口調、身振り手振りの一つ一つが、まるで別人であるかのように観る者を惑わせ、驚かせる。コメディとは面白いもので、面白いものとは笑えるものだ。笑いは、自己と対象の距離がずれた時に生じるが、そういう意味ではコメディアンは役者の素養があるとも言える。

 

日本でもお笑い芸人が映画に出演することが増えて来ているように感じるが、これは悪い傾向ではないだろう。クラシカル音楽のバックグラウンドが無い者がハリウッド映画の音楽をどんどんプロデュースするこの時代、役者に○○をさせる、ではなく○○できる者に役者をやらせる、という発想があっても良い。そうした突飛な発想で成功したのが、WWEの悪のオーナー、ビンス・マクマホンではなかったか。役者にプロレスをさせるよりも、プロレスラーに役者をさせることでアメリカのマット界は一気にエンターテインメント性を確立した。同時にドウェイン・ジョンソン、デイヴ・バウティスタらを役者として世に送り出した。日本の映画界の中でも外でも、もっと異業種交流が進んで欲しいと思う。ハリウッドの新陳代謝の良さを印象付けるという意味でも良作であると評価できる。

 

エイミーの上司を演じたミシェル・ウィリアムスも味わい深かった。元々演技力の高さは折り紙つきだったが、今作では妙に甲高い声にコンプレックスを持つ抱く女性経営者を好演している。声というのは不思議なもので、ある意味では容姿以上に人物を特徴づけることがある。そのことはクリスチャン・ベイル、そしてベン・アフレック演じるバットマンによく表れている。かといってそれだけが特徴というわけでもない。『 プラダを着た悪魔 』のミランダを正反対にしたようなキャラを、その頼りなさそうな表情、そしてルネーの忌憚のない意見に真剣に耳を傾ける姿勢、そしてその時に目の奥に宿る力強い光でもって、見事に体現していた。『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』の好演は伊達ではなかった。

 

ネガティブ・サイド

残念ながらクライマックスへ向かっての盛り上がりが弱い。レネーが超絶ポジティブ・シンキングで仕事に恋に大ハッスルして、エスタブリッシュメント層への階段を駆け上がっていく様は痛快ではあるが、そこでいわゆる嫌な女に変身してしまう必要性はあったのだろうか。いや、それが物語をより面白くするのであれば良い。しかし、本作のクライマックスでよりカタルシスを感じさせるのであれば、レネー目線のアドバイスや指摘がいつの間にか普通の女の子目線ではなくなっていく、という方が良かったように思う。

 

もう一つ、ミシェル・ウィリアムスのキャラの弟がもう一つ弱い。レネーの恋人になる男との対面シーン、会話シーンなどは元々脚本になかったか、編集でカットされてしまったのか。レネーのロマンスが絶好調になるのは良いとしても、そのことが思わぬ副産物を生み出してしまうことで、さらなるコメディもしくはドラマが展開されるポテンシャルがあったはずなのだ。これはしかし、尺の関係で泣く泣く削られてしまったというのが真相であろうが。

 

総評

近年は『 スリー・ビルボード 』、『 女神の見えざる手 』、『 ワンダーウーマン 』、『 ドリーム 』、『 パティ・ケイク$ 』など、アウトサイダーでありながらも独立不羈の精神を持つような女性に光を当てる作品が多く創り出されるようになってきた。本作もその系譜に連なる非常に軽快なコメディである。『 プラダを着た悪魔 』のアン・ハサウェイを『 ブリジット・ジョーンズの日記 』のブリジットに置き換えたような話だと乱暴にまとめてしまえば、食指が動く向きも多いと思われる。さあ、あなたもルネーを応援しよう。自分のまま、自分で自分を今よりちょっぴり好きになろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エイミー・シューマー, ナオミ・キャンベル, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:アビー・コーン, 監督:マーク・シルバースタイン, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

『 ロッキー4 炎の友情 』 -政治的なメッセージ以上のメッセージを持つ作品-

Posted on 2019年1月1日2019年12月7日 by cool-jupiter

ロッキー4 炎の友情 65点
2018年12月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン タリア・シャイア カール・ウェザース ドルフ・ラングレン
監督:シルベスター・スタローン

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12月25日はクリスマスである。クリスマスと言えば、『 ホーム・アローン 』や『 ナイトメア・ビフォア・クリスマス 』ではなく『 ロッキー4 炎の友情 』なのである。どこかに昔、WOWOWで録画したロッキーシリーズのDVDがあるはずだが、探すよりも借りてきた方が早いと思い、近所のTSUTAYAに行ってきた次第。

 

あらすじ

かつて死闘を繰り広げたロッキー(シルベスター・スタローン)とアポロ(カール・ウェザース)は友情を育み、悠々自適の生活を送っていた。そんな中、ソビエト連邦からイヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)がアメリカにやって来て、ロッキーと戦いたいとの意向を表す。アポロはロッキーではなく自分こそがドラゴと闘うとリングへ復帰、エキシビションに臨むもドラゴの強さの前に沈み、リング禍となってしまった。ロッキーはアポロとの友情に応えるべく、妻エイドリアン(タリア・シャイア)の制止を振り切り、ドラゴの待つソビエトに向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

あらためて見返して、ドルフ・ラングレンがスタローンよりもボクシングの型が整っていることに感心する。もちろんアマチュアのバックグラウンドがあるというキャラ設定によるものだが、普通にボクシングをやっていてもアメリカで8回戦ぐらいまではいけたのでは?と思わせる。昔も今も、ロシア人のボクサーは得体の知れない雰囲気を纏っている。日本と縁の深いボクサーで言えば、勇利アルバチャコフや、長谷川穂積も対戦を避けたサーシャ・バクティンなどが当てはまる。例外は池原信遂に貫禄勝ちしたウラジミール・シドレンコぐらいか。そうした不気味なソビエト人を、その図体と表情と無骨な喋りで演じ切ったラングレンに喝采。

 

ロッキーのトレーニングシーンも良い。もはや定番、クリシェと化しているトレーニング・シーンのモンタージュであるが、最新科学理論に基づき、機器を用いての効率的トレーニングを積むドラゴと、あくまで原始的なトレーニングに打ち込むロッキーのコントラストが、 ”Heart’s on Fire” に実にマッチする。ここでのロッキーのトレーニング風景は、Jovianが勝手にヘビー級プロボクサー史上最強(≠最高)と認定しているビタリ・クリチコのトレーニングとそっくりである。腹筋、雪中のランニング、丸太運び、薪割りと、笑ってしまうほどのシンクロ率である。ウクライナ人のビタリとアメリカ人のロッキーの不思議なトレーニング風景の一致は、現実(リアル)と映画(フィクション)の境目を曖昧にし、2018年という時代に見返してみた時、映画に更なる説得力(リアリティ)を持たせることに成功している。もちろん、“Burning Heart”はこれまでも、今も、これからも多くのプロボクサーに愛される名曲である(亀田興毅除く)。

 

本作の持つテーマには実に危ういものがある。友情は命に勝るのか。そして、アスリートは代理戦争を闘うべきなのか。前者に関しては分からない。しかし、後者に関しては今ならYesと言える気がする。イディ・アミンはある意味で正しかったと思う。紛争であれ戦争であれ、何らかの形で大規模な軍事力の衝突を引き起こすのなら、それらの国の首脳が殴り合えばよい。Jovianは大学時代にデンマーク人の友人から、「サッカーってのは疑似戦争なんだ!」と熱弁を振るわれたことがある。それはボクシングにも当てはまることで、近年の例で言えば、やはりフィリピンの英雄マニー・パッキャオ。彼がメキシコ人(フィリピン人からするとメキシカンはスペイン人のようなものらしい)やアメリカ人をぶっ倒すたびに国中がお祭り騒ぎになっていた。それはフィリピンがスペイン、日本、アメリカの実質的な植民地、属国になっていたという歴史と大いに関係がある。アメリカのアクション映画や戦争映画は9.11を境に大きく変わったと言われる。アンジェリーナ・ジョリーの『 トゥームレイダー 』が無邪気なアクション映画としては最後の作品であると考えられている。本作はもちろん、無邪気な映画。しかし、そんな無邪気な映画であるからこそ、あちこちに火種の燻る現代の世界を考えるに際して、ヒントになるものがあるように思えてならない。

 

ネガティブ・サイド

フィラデルフィアのロッキー・ステップが映されないとは何事か。監督スタローンに喝!

 

あのポーリーに贈った家政婦的なロボットはいったい何を象徴しているのだろうか。どう考えても、当時のアメリカの楽天主義丸出しの未来予想図にしか思えない。最新科学をトレーニングにしっかりと反映させるソビエトに対して、ロッキーは原始的なトレーニングに拘る。しかしそれはロッキーがロッキーだからであって、アメリカは決して科学技術においてソビエトに後れをとっているわけではありませんよというポーズなのだろうか。

 

そして日本版の副題をつけた配給会社に喝!なんでもかんでも『 炎の~ 』にするのが当時のトレンドだったのは分かる。音楽シーンでもマイケル・ジャクソンの『 今夜はビート・イット 』のように、何でもかんでも『 今夜は~ 』という日本語をつけてしまう時代だったのは確かだ。映画の『 ランボー 』シリーズにしてもそうで、何でもかんでも『 怒りの~ 』にすればよいというものではない。スティーブン・セガールの映画がやたらと『 沈黙の~ 』になってしまったように、日本の映画配給会社は一度前例ができてしまうとそれを変えたがらない。まるで官僚のようだ。映画本編とは関係のないところで陰鬱な気分にさせられてしまった。

 

総評

シリーズの中でもモスクワで闘うという異色の展開を見せる作品である。ロッキー映画の方程式は維持しているものの、舞台のほとんどがフィラデルフィアでないことに釈然としないファンも多かろう。しかし、『 クリード 炎の宿敵 』の日本公開が間近に迫る今、復習の意味で鑑賞する意義は充分に認められる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, C Rank, アメリカ, カール・ウェザース, シルベスター・スタローン, スポーツ, タリア・シャイア, ドルフ・ラングレン, ヒューマンドラマ, 監督:シルベスター・スタローン, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 ロッキー4 炎の友情 』 -政治的なメッセージ以上のメッセージを持つ作品-

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

Posted on 2018年12月31日2019年12月7日 by cool-jupiter

パッドマン 5億人の女性を救った男 80点
2018年12月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:アクシャイ・クマール ラーディカー・アープテー ソーナム・カプール 
監督:R・バールキ

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踊りと歌で特徴づけられるインド映画に、シリアスでありながらコメディック、ロマンチックでありながらもどこかに危うさと儚さが漂う傑作が誕生した。まさに時代に合致したテーマであり、インド社会の問題のみならず普遍的な人間社会のテーマに訴えかけるところに、インドの映画人が単なるエンターテインメント性だけを追求するのではなく、作家性や社会性を意識に刻んでいることが見て取れる。

 

あらすじ

インドの片田舎の小さな村で、ラクシュミ(アクシャイ・クマール)は最愛の新妻ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)が生理時に不衛生な布を使っていることに気がついた。腕の良い工事職人であるラクシュミは、清潔なナプキンを自分で作れるのではないかと思い立つのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

本作が2001年を舞台にしたものであることに、まず驚かされる。女性の生理現象に対する無知と無理解、そして忌避の制度が根強く残ることに、前世紀の話なのではないかとすら思わされる。しかし、性についての無知や無理解、もしくはまっとうな教育の提供については日本も他国を笑ってはいられない。Jovianの妹夫婦は小学校の教師だが、二人が小学校での性教育について憤っているのを聞いたことがある。性教育の講師を雇って高学年向けに話をしてもらったら、「君たちは赤ちゃんがどこから生まれるか知っているかな?赤ちゃんはおしっこの穴とうんちの穴の間の穴から生まれてきます」と説明したという。信じられないかもしれないが、これが関西のとある小学校の性教育の現場の実態なのである(その後、校長が激怒してその講師は某自治体からは事実上の追放になったようだ)。

 

Back on topic. インドの地方で孤軍奮闘するラクシュミの姿は、多くのアントレプレナーの姿が重なって見える。そんなものが作れるわけがない。上手くいくわけがない。売れるはずがない。あらゆるネガティブな評価や、妻や家族自身からの否定的な言葉や態度にラクシュミの心も折れるかと思わされる展開が続く。まるで韓国ドラマの25分もしくは45分で一話の韓国ドラマのように、上がっては下がり、上がっては下がりの展開が観る者の心を掴んで離さない。何故こんな単純な構成にここまで引き込まれるのか。それは主演を努めたアクシャイ・クマールの熱演が第一の理由だ。女性にとってのデリケートな問題に無邪気に取り組んでいく様は、観客に無神経さと思いやりの両方を想起させる。それは男の普遍的な姿と重なる。たいていの男は女性に対して優しい。しかし、優しいが故に残酷でもある。それは、男の優しさは女性の美しい部分だけに向けられがちだからだ。女性が抱える痛苦、労苦に関しては無理解を貫くからだ。女性が周期的に出血することを知っていても、その時に感じる内臓の痛みにまでは理解は及ばない。いや、及びはするものの、それに対しての共感を持たない。ラクシュミは痛みは追体験できないものの、自作ナプキンを着用してみるのだ。男性としても、職業人としても、何かを感じ取ることができる非常に印象的なシーンである。

 

ストーリーの途中でラクシュミのナプキン作りに加わってくるパリ―(ソーナム・カプール)も良い。ラクシュミとは何から何まで正反対で、男と女、地方育ちと都会育ち、菜食主義者と鶏肉大好き、学歴無しと高学歴、ヒンディー語スピーカーとヒンディー語と英語のバイリンガルと、何から何までが対照的な2人が協働していく様には胸を打たれる。何故なら、ラクシュミが何をどうやっても超えられなかった壁をパリ―はいとも容易く超えてしまうからだ。そしてそのことにラクシュミは怒りも慨嘆もしない。このことを描くシーンではJovianは自分が如何に器の小さい人間であるかを思い知らされた。Steve Jobsの ”Stay hungry, stay foolish.” と ”The only way to do great work is to love what you do.” という言葉の意味をラクシュミは体現しているのだと直感した。

 

映像と音楽も素晴らしい。冒頭のラクシュミとガヤトリの出会いから新婚生活までのすべてが色彩溢れる映像と歌と踊りによって圧倒的な迫力で描き出される。また、ラクシュミの妹が初潮を迎えたのを村の女性が総出で祝福するシーンの映像美も圧巻である。『 クレイジー・リッチ! 』でもシンガポールの建築や食べ物が活写されたが、インドにもこのような映像美を手掛ける監督やカメラマンがいるのかと、世界の広さに思いを馳せずにいられなくなる。

 

その世界の広さ、いやインドの広さについて物語終盤に実に inspirational なスピーチが為される。女性に対する差別や偏見、因習が支配する地方の村落共同体などのバリアを打ち破るためには、人間の数を数としてではなく、多様性として認めなければならない。何かを成し遂げるときには、他者への想いを絶やしてはならない。R・バールキ監督のメッセージがそこにはある。それはインドだけに向けたものでは決してない。先進国でありながら、驚くほど性差別に寛容な日本社会に生きる者として、本作は必見であると言えよう。

 

ネガティブ・サイド

パリ―の父親の台詞が、まるで不協和音のように今も耳に残っている。パリ―は才媛として父親によって育てられたのだが、その父親の子育ての哲学が作品全体を貫く通奏低音と衝突している。

 

また、ラクシュミの妻ガヤトリを始めとしたラクシュミの家族、共同体の構成員とラクシュミ本人の温度差が気になる。本作は映画化に際して、様々な改変を加えられたものであることが冒頭に明言されるが、ラクシュミの奮闘と家族の温度差がなかなか埋まらないのには胸が苦しくなってきた。ハリウッド映画やお仕着せの日本映画の見過ぎなのだろうか?

 

総評

ラクシュミの英語は素晴らしい。日本語話者が英語でスピーチをするときには、彼のような英語でよいのだ。英語学習者の目指すべき姿、ありうべき姿として本田圭佑や孫正義が挙げられるが、本作のパッドマンも日本のビジネスパーソンが目指すべきヒーロー像を、アントレプレナーとしても、英語のスピーカーとしても見事に体現してくれている。全ての映画ファンにお勧めしたいが、特にカップルや夫婦で観て欲しい逸品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクシャイ・クマール, インド, ソーナム・カプール, ヒューマンドラマ, ラーディカー・アープテー, 伝記, 監督:R・バールキ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

Posted on 2018年12月30日2019年12月7日 by cool-jupiter

ロッキー 90点
2018年12月24日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン タリア・シャイア カール・ウェザース バージェス・メレディス バート・ヤング
監督:ジョン・G・アビルドセン

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言わずと知れたボクシング・ドラマの金字塔。単なるスポ根物語ではなく、様々な登場人物の鬱屈が爆発しながらも、それが逆に見事なケミストリーを織りなしていくという稀有な作品。まさに脚本の勝利であり、スタローンその人の配役の勝利であり、Bill Contiの音楽の勝利である。ボクシング業界はこの映画にどれだけ感謝しても、感謝しすぎるということはない。

 

あらすじ

夜は場末のバーの古ぼけたリングで闘うロッキー(シルベスター・スタローン)は、昼はイタリア系マフィアの親分の下で借金の取り立て人をしながら日銭を稼いでいた。そんなロッキーはペットショップの店員のエイドリアン(タリア・シャイア)に美しさを見出していた。ボクシングはもう終わりだと思っていた矢先、ひょんなことから世界ヘビー級王者のアポロ・クリード(カール・ウェザース)とタイトルマッチを闘うことに。この試合で最後まで闘い抜くことができれば、何者かになることができる。そう信じるロッキーは、周囲の人間との衝突と和解を通じ、懸命にトレーニングに打ち込んでいく・・・

 

ポジティブ・サイド

スタローンは実はかなりボクシングセンスがあるのではなかろうか。パンチの型だけではなく、リングに立った時のシルエットがボクサーのそれに重なる。サウスポーのFinishing Blowと言えば、往々にして右フック。日本のボクサーで言えば長谷川穂積がカウンターの右フックの名手であった。その長谷川の右フックとは全然違うが、ロッキーの右フックの軌道は、大振りでありながらも背骨を軸にしたきれいな回転を保っており、本物のボクサー並みのトレーニングを積んできたことを容易に想像させる。そしてロッキー映画の方程式とも言うべき、音楽に乗せてのトレーニング・シーンのモンタージュ。特に不滅の名曲“Gonna Fly Now”に合わせてのそれは圧巻である。あのフィラデルフィアのロッキー・ステップスをいつか自分の両の脚で駆け上がってみたい。そう感じる映画ファンおよびボクシングファンはこれまでに数百万のオーダーで存在してきたに違いない。アメリカには何度か行ったが、いつかフィラデルフィアに行きたい。そしてあの階段を駆け上がって、ガッツポーズを決めたい。

 

しかし、ロッキー映画でJovianが最も好きなのは、トレーニングでも試合のシーンでもない。それはエイドリアンとロッキーの不器用ながらもまっすぐな恋。タリア・シャイアは、地味で内気で奥手な性格を眼鏡の向こう側に秘めていながら、麻生久美子的な健康的とも官能的とも言えない、何とも名状しがたい魅力を放っている。特にスケートリンクの上での他愛のない会話が好きだ。なぜボクシングなんかするのか?というエイドリアンの問いに「俺は歌ったり踊ったりできないからだ」と、自分を飾ることなく答えるロッキー。男の魅力は強さや富、ルックスから生まれるのは間違いないが、それ以上に飾らない実直さが大切なのだろうと観る者に強く思わせる隠れた名シーンだ。そして、初めてのキス。Jovianが好きな映画のキスシーンは『 スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲 』のミレニアム・ファルコン内でのハン・ソロとレイアのキスと、本作のロッキーとエイドリアンのキスである。

 

何年かに一回は必ず観てしまう映画だ。仕事に疲れた時。何か新しいことを始める時。この映画にインスパイアされた人間は、数限りなくいるはずだ。映画ファンは本作のような名作を語り継いでいかなければならない。

 

ネガティブ・サイド

字幕でNobodyを「クズ」と訳すのはどうだろうか。これは文字通りの意味で、「昔の俺は何者でもなかった」ぐらいの訳でよかったのではなかろうか。

 

ボクシングシーンをもう少しリアルにできなかったのだろうか。サウスポーがオーソドックスのジャブをあんなにポンポンもらうのは、当時ですら珍しかったはずだ。後は完全なない物ねだりだが、派手にパンチをもらうシーンで血と汗をもっと飛び散らせるべきだった。実際にリングサイドでボクシングを見たことがある人なら、どれほどのパンチの音が響いて、どれほど汗が弾き飛ばされるのかを身を以って体験したことがあるはず。低予算ではそこまでのリアルの追求は難しかったか。

 

総評

ボクシングを題材にした映画は数限りなく作られてきた。『 レイジング・ブル 』はボクシングの世界の闇をテーマにしていたが、『 ロッキー 』の世界ではミッキーやポーリーといった人生の落後者までもが輝く。自分も来年は頑張ろうかなという気分になれた。ありがとう、ロッキー。

 

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Posted in 映画Tagged 1970年代, S Rank, アメリカ, カール・ウェザース, シルベスター・スタローン, スポーツ, タリア・シャイア, バージェス・メレディス, バート・ヤング, ヒューマンドラマ, ロマンス, 監督:ジョン・G・アビルドセンLeave a Comment on 『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

二ツ星の料理人 55点
2018年12月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー ユマ・サーマン アリシア・ヴァイキャンダー リリー・ジェームズ
監督:ジョン・ウェルズ

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今、最も旬を迎えつつあるリリー・ジェームズやアリシア・ヴァイキャンダーが結構なチョイ役で出演している。それだけでも観る価値があるし、細部に注意を払えば、非常に興味深い東西比較文化論ができる作品でもある。今度、”What is the best culinary experience you have ever had in a foreign country?” というお題でエッセイでも書いてみようか。

 

あらすじ

アダム(ブラッドリー・クーパー)は天才的な料理の腕前を持ちながら、酒、ドラッグ、女に溺れ、トラブルと借金のためにパリの二つ星レストランを去るしかなかった。3年後、彼はかつての同僚らと和解し、自らが見出した才能たちと再起のために新しい店をオープンさせ、ミシュランの三つ星を目指すべく奮闘するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ブラッドリー・クーパーの出演作には基本的に外れが無い。その演技力もさることながら、駄作、凡作、佳作を本能的に嗅ぎわける嗅覚に優れているのだろうか。いつでも自信満々、自らの才覚と実績を隠すことなく誇り、仕事は大胆にして繊細、しかし気に入らないものには言葉の暴力と物理的な暴力を容赦なく行使する。そんな豪放磊落なキャラクターというのは、往々にして傷心と小心の裏返しなわけで、アダムもその例に漏れない。彼が傷つき、恐れたものとは何であるのか。劇中のカウンセラーとのセッションが印象的だが、それすらもある意味では彼の本心を包み隠さず語ったものではない。そう、本作は料理人の成長物語であるだけではなく、傷ついた男の再生物語でもあるのだ。

 

本作の序盤の料理シーンでは、極力、顔と手を同時に映さないようにしている。しかし、シーンが進んでいくごとに、料理シーンでは役者の手と顔を同時に映すようになっていく。これはウェルズ監督の意図した画作りだろうか。役者の成長と上達が、キャラクターの成長と上達にオーバーラップする、非常に良い演出であると感じた。

 

演出面で言えば、アダムが上着のボタンをはずすシーンがあるのだが、それが緊張から解放されたことを見事に象徴している。アダムの成長というか、変化を如実に実感させてくれるのだが、そのことを本人あるいは他の登場人物に説明させるのではなく、演技して見せる。映画の基本にして究極でもある。北野武の『 アウトレイジ 』でも、椎名桔平がカジノでジャケットのボタンをゆっくりと留めるシーンがあったが、こちらは緊張が高まるシーンだった。対照的ではあるが、どちらも語らずに見せる、印象的なシーンだ。

 

観終わってから、本作の原題が Burnt である意味をほんの少し考えて見て欲しい。そしてここで納得のいく定義を自分なりに探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

何故この映画に出てくる料理人はどいつもこいつも煙草を吸うのだ?いや、煙草を吸うだけならまだいい。結構な重要キャラが自室兼キッチンで堂々と喫煙するというのは、いったいどういう料簡からだろうか。

 

また、これは大部分は文化の違いに起因するのだろうが、何故西洋の料理というのは、素材に無頓着(に見える)のだろうか。フランス料理に関して言えば、都パリは意味から遠く、新鮮な魚介類がパリに着くころには、保存状態がかなり怪しくなっていた。したがって、濃厚なソースが必要になる。また英国は産業革命発祥の地であるがゆえに、農村や郊外から都市部への人口の流入があまりにも急激だった。それゆえに各地の伝統的な食材や料理法が継承されず、大量生産に適した都市型の味気ない料理が残ったという。いずれにしても、東洋が大切にする素材の良さと、料理そのものの熱が伝わらないのは、個人的には大いに不満である。このあたりは『 クレイジー・リッチ! 』や『 日日是好日 』といった作品が活写した文化としての食が伝わらなかった。もちろん、洋の東西の違いは十二分に承知しているが、ミシュランが大阪のたこ焼き屋にまで星をつけたりするこの時代、全てが白の丸皿に盛りつけられただけで「食べるのをやめられない料理」の魅力は十全には伝えられないだろう。

 

本質的には料理人ではなく、ブロークン・ハートな男の物語である。しかし、食材や調理のシーンにもっともっと凝って欲しかったと思う。リアリティとは、こだわりなのだから。

 

総評

普通に楽しめる作品である。しかし、料理人や料理そのもの、また食す側の人間や、食のレビュワーまでも描いた作品『 シェフ 三ツ星フードトラック始めました 』の方が面白さでは一段上であろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, アリシア・ヴァイキャンダー, ヒューマンドラマ, ブラッドリー・クーパー, ユマ・サーマン, リリー・ジェームズ, 監督:ジョン・ウェルズ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

人魚の眠る家 65点
2018年11月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:篠原涼子 西島秀俊 坂口健太郎 稲垣来泉 斎藤汰鷹
監督:堤幸彦

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181129001450j:plain

人魚と聞けば、たいていの人は八百比丘尼を思い浮かべるのではないか。その肉を食らえば、不老長寿が手に入るとされる伝説的な存在で、それゆえに本作のタイトルが示唆するものも生と死の境目をぼやけさせる不思議な力場となった家、そして家族の物語であるとぼんやりと理解していたが、予告編が次々と公開されていくのを観て、その認識を改め、なおかつ日本の映画制作および配給会社の宣伝の下手さに慨嘆させられるのであった。本作の予告編の最新版は、それさえ見れば本編の6割を予想できてしまうではないか。業界人たちにはもっと勉強をしてもらいたい。

 

あらすじ

薫子(篠原涼子)とその夫の和昌(西島秀俊)に、長女の瑞穂(稲垣来泉)がプールで溺れたとの連絡が入る。病院での治療の甲斐あって心臓は動いたが、脳には深刻なダメージがあり、瑞穂の意識は戻らない。脳死判定を受け、娘の臓器を移植のために供す決意を固めた両親の手はしかし、瑞穂の手が確かに動いたのを感じ取った。薫子は瑞穂は死んでいないと確信。在宅介護を決心する。和昌の部下の星野(坂口健太郎)の研究成果により、瑞穂の体を人工的に動かせるようになるも、そのことが薫子の愛と狂気を暴走させて・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田洋は属性が重複している。40代にして、その衰えぬ容色。自立した女性としての役柄が多いが、母親役もこなせる。慈愛に満ちた母親ではなく、狂気にも似た愛情を内包する母親を演じられるところが特にそうだ。優劣をつけられるものではないが、元々が役者ではなく歌手であることを考えれば、篠原も表現力という点ではど素人ではないのである。

 

本作の呈示するテーマは深い。単に脳死の意味や臓器移植の是非を扱うからではない。人間が人間を、生きているのか死んでいるのか判断する基準のゆらぎを描くからこそ深くなっている。たとえば冒頭で意識不明の状態に陥ってしまった瑞穂を見た時、和昌は「大きくなったなあ」という感想を漏らす。別居しているのだから、ある意味当然の感想である。一方で薫子にとっては瑞穂は現実にも心の中にもありありと存在する個人である。そのことは、全編を通して瑞穂の顔のどアップの回想シーンが薫子によってこれでもかと思い起こされることからも明らかである。つまり、和昌にとっては瑞穂は非常に肉体的・物理的な存在である一方で、薫子にとっての瑞穂は「瑞穂」という意識の容れ物なのだ。それゆえに、意識のない瑞穂の体を人工的に作れられた電気信号によって動かすことには抵抗を示さなかった和昌は、作られた笑顔には嫌悪感を催した。そこに意識の存在を読み取ってしまったからだ。しかし、薫子にとっては、プレゼントをもらえた瑞穂はきっとほほ笑むに違いないとの確信(=意識)から、瑞穂を笑顔にさせることに何の抵抗も抱かない。

 

これは墓参に譬えることもできるかもしれない。お墓参りでご先祖様に語りかけることはあるだろう。声に出してもいいし、心の中で語りかけるのでもよい。ただし、それは自分と相手(=死者)に特別な関係がある時だけに限られる。ここで言う特別な関係とは、相手の存在を自分の意識において再生できるような関係ということだ。と、ここまで書いてきて気がついた。原作者の東野圭吾は前野隆司の『 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 』を下敷きにした、というのは言い過ぎかもしれないが、参考ぐらいにはしているのだろう。ものすごく端折って説明してしまえば、前野の説は「意識とは、意識が意識を意識した時に現れてくる意識である」ということだ。何を言っているのか分からないという人は、本書を買ってよむべし。何を言っているのか分かったという人は、J・P・サルトルの『存在と無』を読もう。

 

Back on topic. もしも公共の墓地などで赤の他人に「これ、うちの祖父ちゃんです。よければ挨拶してあげてやってください」などとお墓を指して他人に話しかける人がいれば、ちょっと怖いだろう。なぜなら、その人は自分の心の中に存在しないからだ。死が不気味であるかどうかは、理性と感情の境目で決まるようだ。和昌は瑞穂の脳に生死の境目を見出し、薫子は瑞穂の心に生死の境目を見出そうとする。肉体は脳の容れ物なのか心の容れ物なのか。それは個と個の繋がり、その在り様で決まるとしか言いようがない。しかし、本作品が描き出す世界では、薫子は非常に孤独である。その薫子の姿を自分と重ねられるか否か、そこで本作の評価が定まると言ってもよい。その意味では篠原涼子は実に大きな仕事を果たした。お見それしました。

 

後は、子役たちが誰もかれもが素晴らしい。子役の演技というのは、天性の素質もあるのだろうが、指導者の影響力も大きいということは、音楽や芸術、スポーツなどの他分野を観察に基づくまでもなく、言えることだろう。本作は撮影の現場に演技指導者が常駐していたという。『 万引き家族 』の上映後舞台あいさつで是枝監督は「子役にはその場で台本を読ませて演技してもらった」旨を語ってくれたが、今後は子どものインスピレーションを大事にする派と、徹底的に指導を叩き込むスタイルのどちらが主流になっていくのだろうか。そんなことも考えさせられた。

 

ネガティブ・サイド

西島秀俊の演技力の低さは何とかならないのだろうか。この人は基本的に一本調子の棒読みで、唯一上手く話せるじゃないかと感じさせてくれた出演作は珍品『 ゲノムハザード ある天才科学者の5日間 』での韓国語ぐらい。

 

坂口健太郎も『 ヒロイン失格 』と『 俺物語!! 』を観た時には、「とんでもない大根が出てきたな」と慨嘆させられたが、珍品『 ナラタージュ 』で評価をかなり上げた。しかし、そこから成長していない。声のボリュームの大小だけで感情を表現しきろうとするのには無理がある。型どおり以上の表情も研究した方が良い。

 

最後に物語の主たる舞台となる「人魚の眠る家」の庭にあふれるスタジオ内のセット感は、もう少し何とかならなかったのだろうか。不自然なまでの人工の光、とってつけたような鳥のさえずり、全く荒れていないのは適切な世話をしたからと言えるかもしれないが、全てが一様にそろった芝目など、作り物感が満載だった。創作物のリアリティは細部にこそ宿るのだから、こうした点にこそもっと注力をしてほしかった。

 

総評

この子役たちをあらぬ方向に連れて行ってしまわぬよう、親、保護者、ハンドラー達、さらにその周囲の人間たちは決して軽々に動かぬようにしてもらいたい。そして東野圭吾という名前だけで作品を忌避する傾向にあった自分自身にも喝を唱えたい。大人の鑑賞に堪える作品に仕上がっている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 坂口健太郎, 日本, 監督:堤幸彦, 篠原涼子, 西島秀俊, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

Posted on 2018年11月16日2019年11月22日 by cool-jupiter

マイ・プレシャス・リスト 60点
2018年11月11日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ベル・パウリー ガブリエル・バーン ネイサン・レイン
監督:スーザン・ジョンソン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181116014725j:plain

原題は“Carrie Pilby”、すなわち主人公である少女の名前である。アメリカの映画は実在の人物であれ、架空の人物であれ、人名だけのタイトルの本や映画を結構作っている。これはお国柄の違いだろう。近年だと『 バリー・シール/アメリカをはめた男 』が当てはまる。キャリー・ピルビーは天才ではあるが、『 響  -HIBIKI- 』における響のような異能の天才ではなく、秀才が高じたような天才である。『 gifted/ギフテッド 』のメアリー(マッケナ・グレイス)ではなく、『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』のリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)のような少女が主役である。それゆえに、凡人たる我々にも共感しやすい物語に仕上がっていると言える。

 

あらすじ

飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学(映画.comのあらすじは間違えている)、18歳で卒業したものの、定職を持たず、ニューヨークのアパートで気ままに一人暮らしするキャリー。明晰な頭脳はしかし、社会に還元されず、彼女が唯一まともに話せる相手はカウンセラーのDr. ペトロフだけだった。ある日、キャリーはペトロフから6つの課題が書かれた紙を受け取る。その課題をこなせれば、世界の見方が変わると言われたキャリーは、課題に着手していくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

この分野には『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』という優れた先行作品が存在する。天才でありながらも心に抱えた傷のために自分に素直に向き合えないウィル(マット・デイモン)と妻の喪失を受け止めきれないショーン(ロビン・ウィリアムズ)の生々しい交流と清々しい別離の物語で、これを超える作品を産み出すのは難しい。しかし、同じようなテーマに違う角度からアプローチすることはできる。その一つの試みが本作である。そしてそれは一定の成功を収めた。

 

まず主役を女の子に設定したこと。『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』ではスカイラーという女子が、「そんなこと言うなら、もう抱かせてあげない」とウィルを窘めながら、「男って馬鹿ね」と呆れながら安心するシーンがあるが、本作はこれと裏腹なシーンが存在する。そう、古今東西、男は馬鹿なのである。その男の馬鹿さ加減を大いなる包容力で受け入れてくれる女性こそが男の理想像なのである。では、女性目線で見た時、この男の馬鹿さ加減にはどのように対応すべきなのか。しかも、その女子の頭脳は天才的で、その天才が自分よりも賢いと認められるような男が、一皮むけばやっぱり馬鹿だった、となった時、どうすれば良いのか。本作の最大のテーマはある意味でここに尽きる。そして、そうした男の馬鹿さ加減を、あっちでもこっちでも嫌と言うほど見せつけてくれる。世の男性諸氏は居た堪れなくなるであろう。なぜなら、そこに我々が見出すのは、キャリーの天才的な頭脳というフィルターを通して見える世界ではなく、誰がどう見ても馬鹿な男の性(さが)だからである。世の男はこれを観て、大いに縮こまることであろう。そして世の女性はこれを観て、男のことを「本当に馬鹿なんだから」と生暖かい目で見守ってあげるべし。

 

ネガティブ・サイド

キャリーの天才性の描き方が少し弱い。文学作品をいくつか暗唱したぐらいで、もっともっとキャリーの天才性を描き出してくれないことには、物語中盤の大きな山場が盛り上がらない。赤川次郎が何らかのエッセイか、自作のあとがきで「小説や文学で描かれている恋愛はたくさん読んできたが、現実の自分の恋愛も全く同じように始まって、全く同じように終わっていった」と述べていたが、キャリーにもこうした背景が必要だったように思う。極端に頭でっかちな女子が、自分のキャパシティを超えるような事態に遭遇した時にどうするのか、そうした時にこそ頭脳をフル回転させて局面の打開を試みるも上手く行かず・・・という展開を期待したくなったのは、やはり自分が馬鹿な男で、天才女子に嫉妬というか潜在的な恐れを抱いているからなのだろうか。

 

他に弱点として挙げられるのは、キャリーが初めてする仕事や、初めて持つ学校以外の場での人間関係の描写が極端に少ないということである。キャリーの課題は、コミュニケーション力の欠如ではなく、むしろ過剰なコミュニケーション力だからだ。トレーラーにもあったが、カフェでイスを貸して欲しいだけの男性客に「私を口説こうとしても・・・/ Before you move into your moves …」などと言ってしまうあたり、コミュニケーションが下手なのは、能力の欠如ではなく過剰であるのは明らかだ。だからこそ、キャリーの成長とは、キャリーが世界に受容されることではなく、キャリーが世界を受容することなのだ。そしてそれは、冒頭のカウンセリングでマシンガンの如く喋り倒して、ペトロフの言うことなど聞くつもりはないのだという姿から、友人たちに普通に話し、普通に話しかけられるようになる姿に変わっていくことで表現されてしかるべきだったと思うのである。

 

総評 

日本とアメリカを始めとした西洋世界では、幸せの概念が異なる。HappinessはHappenと語源を同じくするのである。ハッピーとは、自分の力でなにがしかのコトを起こす力を持つことを言うのだ。そう考えれば、メーテルリンクの『 青い鳥 』(The Blue Bird)というチルチルとミチルのアドベンチャー物語が、日本では『 幸せの青い鳥 』と訳されたというのは名訳と言うべきであろう。本作も、欠点は抱えながらも、幸せを追求する少女の物語として鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ペル・パウリー, 監督:スーザン・ジョンソン, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

Posted on 2018年11月9日2019年11月22日 by cool-jupiter

日日是好日 75点
201811月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 樹木希林 多部未華子
監督:大森立嗣

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181109014742j:plain

樹木希林との惜別のために劇場へ。彼女の作品で印象に残っているのは『 風の又三郎 ガラスのマント 』、『 39 刑法第三十九条 』、『 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 』、『 海街diary 』、『 万引き家族 』。平成の日本映画史を支えた女優が逝ってしまった。合掌。

 

あらすじ

20歳の典子(黒木華)は、自分が本当にやりたいことを見つけられないまま、惰性で大学に通っていた。ある時、母が茶道を習ってみたらと提案するも乗り気になれない。しかし、従妹の美智子(多部未華子)が乗り気になったことから典子も茶道教室へ。それが典子と武田先生(樹木希林)、そして自分が探していた何かとの邂逅だった・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は幸薄そうな役がよく似合う。『 散り椿 』、『 ビブリア古書堂の事件手帖 』は正直なところ、物語世界の構築には成功しなかった。しかし、そうした作品においても黒木華はキャラクターに息吹を与えていた。黒木華が出ているだけで「観ようかな」と思わせられるだけの存在感を発するようになってきた。今後も楽しみである。

 

本作は典子と美智子の茶道に対するアプローチの対照が前半の見どころである。何でも理屈で解釈しようとする美智子と、五感で茶菓子や茶器、茶室、書、掛け軸、生け花、そしてお茶を賞翫する典子、という構図である。茶道の作法に意味があるのか、それとも無いのか。これはそのまま典子の抱える疑問、大学に行くことに意味があるのか、それとも無いのか。古い映画を観ることに意味があるのか、それとも無いのか。将来の仕事を決めることに意味があるのか、それとも無いのか。これらは頭で考えてどうにかなる性質の問いではない。もちろん、無理やり答えを出して前に進むこともできる。ただ、それは典子の性(さが)ではないのだ。前半は観る者に、「あなたは典子型ですか?美智子型ですか?」と尋ねてくるかのようだ。それが不思議と心地よい。どちらの生き方も否定されないからだろう。

 

茶道が主題となると、画的にさびしいと思ってしまうが、さにあらず。『 クレイジー・リッチ! 』でも用いられた手法だが、多種多様なガジェットを画面いっぱいに次々と映していくことでもダイナミックさは生まれるのである。『 クレイジー・リッチ! 』では色々な食べ物が印象的で、本作では茶器と茶菓子、掛け軸が特に印象的である。特に掛け軸の瀧直下三千丈は、その書の雄渾さだけではなく視覚的なイメージで典子に、つまり我々に訴えかける。こうした技法はピーター・J・マクミランが『 英語で読む百人一首 』の三番、柿本人麻呂の「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む」という有名な句を英訳する際に使用している技法である。瀧という文字を、意味ではなく視覚で受け止めるべしというメッセージであり、同時に茶道というものを理性ではなく感覚で経験すべしというメッセージでもある。ナレーションもなく、わざとらしい説明の台詞もなく、ただただ書に見入る典子の姿を映し出すことで、観る者にメッセージを送る。これこそ映画の基本にして究極の技法である。このシーンだけでもチケット代の半分以上の価値がある。

 

作中では、ある重大な出来事を受け止めた典子が、止め処なく溢れ出てくる気持ちを爆発させるシーンがある。どことなくニヒリスト的であった典子が、自分のこれまでの生を肯定できるようになる重要なシーンである。ニーチェの言うニヒリズムと永劫回帰は、茶道の一期一会と、案外と近縁の思想なのかもしれない。ゲーテの『 ファウスト 』にも通底する思想で、生の一瞬一瞬を愛でることができれば、人生に悔いを残さないようになれるのかもしれない。小説『 神様のパズル 』で綿さんがコメを食べながら得た「閉じた」という感覚を、典子も抱いたことだろう(ちなみに、映画版の『 神様のパズル 』は原作小説の改悪なので、映画はスルーして小説の方を読むことをお薦めする)。茶道の向こうに人生の真実が、確かに見えてくる。

 

ネガティブ・サイド

典子のライフコースにおける一大イベント前に、美智子が絶対に現れると思っていたが、元々の脚本になかったのか、それとも編集でカットされたのか。序盤のコメディ・タッチがどんどんと鳴りをひそめ、シリアスとまではいかないものの、それなりに重いテーマを扱う後半こそ、美智子の軽さが必要だったのではないだろうか。

 

また、シーンごとのメリハリに一貫性も欠いていた。BGMやナレーションを極力使わず、映像と音だけでストーリーを紡ぐシーンもあれば、あまりにもナレーションや心の声を聞かせすぎるシーンもあった。中学生以下ならいざ知らず、高校生以上であれば、本作の各シーンが持つ意味や意義は掴めるはずだ。もう少し、受け手を信用した作りをしてほしいと思う。

 

総評

扱う主題は茶道だが、その奥に潜むテーマは深いとも浅いとも言える。それは観る者の人生経験や哲学、識見によって変わってくる。しかし、これをきっかけに両親や祖父母に電話をしよう。あいさつをしよう。部屋をちょっと模様替えしてみよう。料理の組み合わせを少し考えてみよう。などなどの、目の前の瞬間を大切に生きてみようという気持ちにさせてくれる力を持つ作品に仕上がっている。劇場でいつまで公開されているか分からないが、是非とも多くの方に観てもらいたい映画である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 多部未華子, 日本, 樹木希林, 監督:大森立嗣, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトル, 黒木華Leave a Comment on 『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

Posted on 2018年11月3日2020年9月21日 by cool-jupiter

ハナレイ・ベイ 70点
2018年10月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉田羊 佐野玲於 村上虹郎 佐藤魁 栗原類 
監督:松永大司

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181103194219j:plain

原作は村上春樹とのこと。Jovianは読書家であると自負しているが、村上春樹は読んだことが無い。これからも読まないだろう。同じことは東野圭吾にも当てはまる。彼の作品は2冊だけ買ったが、どちらも最初の20ページで挫折した。本作品を鑑賞するに際して、一抹の不安があったが、それは杞憂であった。

 

あらすじ

サチ(吉田羊)は一人息子のタカシ(佐野玲於)がハワイのハナレイ・ベイで死亡したと連絡を受ける。サメに襲われ、右足を噛みちぎられた死体の身元確認を粛々と行うサチ。手形を取ったので持ち帰ってほしいという地元の女性の声も聞き入れることができない。息子との関係は決して良好なものではなかった。しかし、あまりに突然の息子の死を受け止める術を知らないサチは、それから10年間、毎年ハワイのハナレイ・ベイを訪れ、日がな一日、読書をして過ごすようになる。ある時、日本人サーファーから「片足の日本人サーファーがいる」との噂を耳にしたサチは・・・

 

ポジティブ・サイド

ハワイの自然の美しさと恐ろしさは誰もが知るところである。キラウエア火山からの噴石が遊覧船を直撃したというニュースもあった。しかし、そんな自然の猛威、暴威などは描写されない。冒頭のタカシの死で充分だ。島民が「この島を嫌いにならないでほしい」という切なる願いは、しかし、サチには受け入れられない。まるでDV被害に遭った妻が、それでも家に帰ってしまうように、カウアイ島を毎年訪れてしまうサチに対して、無性に悲しみと憐れみを感じてしまった。サチは島を愛しているのではない。島を受け入れようとしても、それができない。息子の命が絶たれた呪われた土地に縛りつけられているのだ。一人息子を失ったという、行き場を無くした悲しみを胸にハワイを彷徨するサチは、まるで鬼子母神のようですらある。

 

鬼夜叉にも心は有る。E・キューブラー・ロスの『 死ぬ瞬間 』の考え方を敷衍、援用するとすれば、サチはタカシの死を「 受容 」する段階の手前で止まってしまっている。死とは、『 君の膵臓をたべたい 』や『 サニー 永遠の仲間たち 』で述べたことがあるが、生物学的な意味での生命活動を終えること=死では決してない。死とは、相手が生き生きとしていた記憶をこれからも持ち続けるのだという決意によって規定される現象である。葬式とは死を確認する儀式ではなく、思い出を共有する儀式だ。その意味で、サチは息子の死を受け入れられない。タカシの生の記憶があまりにもネガティブなそれであるからだ。そんな形で息子と離別したくはなかった。そのような後悔の念に心の奥底で苛まされている女の心情を、あてどもなく彷徨い続けることでこれ以上なく描出してくれた吉田羊は、表現者としての階段をまたさらに一歩上ったのではないか。『 ラブ×ドック 』や『 コーヒーが冷めないうちに 』といった珍品への出演が目立っていたが、ここに来て一気に株を上げてきた。この母親像は『 スリー・ビルボード 』のミルドレッドに迫るものがあるし、片親像としては『 ウィンド・リバー 』のランバートと相通ずるものがある。

 

本作は大人の映画でもある。安易にナレーションや、説明的な台詞を使わない。ドラマチックなBGMを挿入しない。兎にも角にも、ひたすら吉田羊にフォーカスすることで、いかに彼女の抱える闇が暗く、深いものであるのか、それが逆説的に愛の大きさを表すのだということ、観る者に明示しない手法を称賛したい。何でもかんでも説明したがる作品が増えてきている中、もう少し観客を信用してもよいのではないかと常々思っていた。本作には我が意を得たりとの思いをより一層強くさせられた。

 

そうそう、吉田羊の英語。あれこそが、日本の普通の学習者が目指す姿であるべきだ。はっきり、ゆっくり、難しい語彙などは用いずに、相手の目を見て話す。外国語を話すときは、この姿勢が大切だ。自身の英語力の低さに悩まされるサラリーマンも、ここから何某かのインスピレーションを得られるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

これは監督の意向なのだろうが、サーファー役の二人は、少し滑舌が悪いのではないだろうか。素人っぽさを意識したと言えばそれまでなのだろうが、この2人組が喋ると、ただでさえゆったりと感じられるハワイの時間が、さらにスローに感じられた。また、ブルーシートを使った疑似サーフィンシーンでのカメラ目線は必要だったか。全体的にスリムダウンすれば、もう5~10分は短縮できたはずだ。本作のように、ただひたすらに歩くシーンを追う映画は、存外に観る者の体力を消費させる。90分ちょうどぐらいが望ましかった。

 

総評

これは高校生~大学生ぐらいの男子向けなのではないだろうか。男という生き物は、どういうわけか何歳になっても、母親に何か言われると反発してしまう性の持ち主だ。だが、本作を見て何かを感じ取れれば、それは男として一皮むけた証になるかもしれない。静かだが、力強い余韻を残してくれる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ファンタジー, 吉田羊, 日本, 監督:松永大司, 配給会社:HIGH BROW CINEMALeave a Comment on 『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

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