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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年10月

『 エンジェル、見えない恋人 』 -ねっとりした男性視点を堪能できる作品-

Posted on 2018年10月31日2019年11月20日 by cool-jupiter

エンジェル、見えない恋人 60点
2018年10月27日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:エリナ・レーベンソン フルール・ジフリエ マヤ・ドリー ハンナ・ブードロー
監督:ハリー・クレフェン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181031015254j:plain

フランス小説、特にミステリが一時期は好きだった。アメリカ産の小説は、人物紹介欄にたいてい15~20人の記載があるものだが、フランス産ミステリは少人数、5~8人ぐらいで、非常に読みやすい。なおかつ、ミステリなのか超常的なスリラーなのか見分けがつかないような作品を送り出す作家も多い。カトリーヌ・アルレーが好個の一例である。そんなフレンチ・テイストの興味深い作品(ベルギー産)が生み出された。原題は“Mon Ange”、My Angelの意である。

 

あらすじ

あるマジシャン夫婦がステージで消失マジックを行っていたのだが、夫の方が本当に消えてしまった・・・ その後、身籠っていた妻(エリナ・レーベンソン)は「目に見えない透明な男児」を出産し、Mon Angeと名付け、密かに育てる。エンジェルはすぐそばの家の盲目の少女マドレーヌ(ハンナ・ブードロー、マヤ・ドリー、フルール・ジフリエ)と友達になり、共に成長する。片方は目が見えず、片方は姿が見えない。それゆえに惹かれ合う二人。しかし、マドレーヌが目の手術を受けるために家を離れることに、そしてエンジェルの母とも別離の時が迫っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

盲目の少女もしくは女性が、異形の、または異相の男を愛するというのは、古今東西で特に珍しいプロットではない。この系統の変化球では漫画『 HUNTER×HUNTER 』のコムギとメルエムが最近では記憶に新しい。しかし、片方が盲目、もう片方が透明というのは記憶にないし、少しググってみてもそれらしきプロットは見当たらなかった。これはアイデアの勝利であろう。透明人間というアイデアそれ自体はH・G・ウェルズの時代から存在するが、それをロマンティックに描き、なおかつ一定の成功を収めたところに本作の貢献がある。

 

まず、ヒロインのマドレーヌの幼少時代を演じたハンナ・ブードローと少女時代を演じたマヤ・ドリーが素晴らしい。盲目は人生最大の悲劇と言う人すらいるが、そのことが陰のあるキャラクターを生み出すのではなく、逆にエンジェルをエンパワーするようなエネルギーのあるキャラクターを生んでいる。実際にかくれんぼではマドレーヌは常にエンジェルを見つけてしまう。これがどれほどエンジェルの心に安心感を与えたことか。また、そうしたキャラクターの心情をむやみにナレーションにしてしまわないところもポイント高し。この監督は、観客を信頼している。その意気や良し。しかし、本作で最大の存在感を放つのは、エンジェルの母親である。ベルギーにも菩薩様がいるとすれば、このような女性(×じょせい× ○にょしょう)であろう。母性と辞書で引けば、挿絵はこの人だろうなと思わせるほどの説得力ある演技を披露してくれた。拍手である。

 

『 君の名前で僕を呼んで 』と同じく、人工的なBGMがほとんどなく、オーガニックな音や生活に根差した基調音で静かに満たされたシークエンスの連続は、主役二人の存在感を逆に大きく際立たせた。『 スターウォーズ/最後のジェダイ 』や『 君の名は 』のように全編が一種のミュージックビデオという作品もあるが、今作のような心地よい静謐さと適度な生活感をもたらすBGMも非常に良いものである。

 

ネガティブ・サイド

本作はPG12なのだが、実際はR15+ではなかろうか。エンジェルとマドレーヌのまぐわいは、確かに透明ならそうなるだろうなという部分をねっとりと描写する。だが、そこには美しさはあっても新しさは無い。こうした描写はインディ系、もしくは実験的なマイナー映画が既にやりつくした感がある。違いは前者は consensual で、後者は non-consensual だということ。

 

それと、観客への信頼の度が過ぎるというか、全編ほとんどがエンジェル目線で進むため、男性視点としては説得力を持つが、女性目線で見た時はどうなるのだろうか。エンジェルの顔や体は想像もしくは妄想で補ってくださいというのは、さすがに甘えすぎのような気もするが。『 何者 』では「どんな作品でもアイデア段階では傑作なんだ」という趣旨の台詞があったが、確かに顔が見えなければどんな男もイケメンの可能性は残る。しかし同時にオペラ座の怪人の可能性もあるわけだが。

 

エンジェルの父親は結局どこへ消えたのかという疑問や、エンジェルの存在が数年にも亘って施設に露見することがなかったのは何故かという疑問には、答えは一切呈示されない。その他、透明人間ものにおいてはクリシェと化した要素も一切が排除され、ややリアリティに欠ける世界観が構築されてしまっているのが残念なところである。

 

総評

デートムービーにちょうど良いだろう。しかし、高校生カップルには微妙かもしれない。大学生でもどうだろうか。逆に、付き合う前の仲の良い男女で鑑賞すべきかもしれない。エンジェルとマドレーヌの関係が友達から恋人へと発展し、難しい局面を乗り越え、思いっきりポジティブな解決策をひねり出して見事な円環を形作る過程を見るのは、カップルよりも友達向きである。20代独身サラリーマンは、違う部署のちょっと気になるあのコを誘ってみてはどうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, エリナ・レーベンソン, ハンナ・ブードロー, フルール・ジフリエ, ベルギー, マヤ・ドリー, ラブロマンス, 監督:ハリー・クレフェン, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 エンジェル、見えない恋人 』 -ねっとりした男性視点を堪能できる作品-

『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

Posted on 2018年10月29日2019年11月4日 by cool-jupiter

ここは退屈迎えに来て 50点
2018年10月25日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:橋本愛 門脇麦 成田凌 渡辺大知
監督:廣木隆一

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181029013048j:plain

以下、ネタばれに類する記述および私的考察あり

 

小説でも映画でもゲームでも、まず手に取ってみたくなる、もしくはクリックしてみたくなるのは、そのタイトルが魅力的なものである時だ。タイトルが魅力的というのは、こちらがそのタイトルの意味をもっと深く知りたい、と思わせるような妖しい力を持っているということだ。少年時代に『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』と出会った方々ならば、そのタイトルの不可思議さに惹き付けられた記憶、印象が鮮明であると思う。本作はしかし、先行する魅力的なタイトルを持つ映画と同じレベルに達しなかった作品である。

 

あらすじ

私(橋本愛)は東京で過ごすこと10年、「何者」かになることができず地元に帰り、フリーのタウン誌の記者をしている。ある時、友人の誘いで高校時代の憧れの存在だった椎名(成田凌)に会いに行くことになる。一方では、高校時代の椎名の彼女「あたし」(門脇麦)は、地元の冴えない男と付き合いながらも、椎名のことを吹っ切れずにいる。青春の輝き、東京への憧憬、椎名という太陽のような存在。誰もが何かを抱えて生きていく姿を、時系列を変えて、オムニバス的に活写していく作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、最も強く印象に残ったのは渡辺大知演じる新保だった。Jovianの気のせいなのかも知れないが、おそらくゲイもしくはバイセクシャル、もしかしたらトランス・ジェンダーなのではなかろうか。本人がそれを自覚できていないのかもしれないが。煙草の吸い方が、男のそれではないように思えて仕方がなかった。また、終盤に新保が原付きで疾走する場面があるのだが、そこでの光の使い方には是非とも注目してほしいと思う。あれは乳房の象徴にしか見えなかった。独特の哲学を持つキャラで、「幸福であるためには、まず何よりも孤独であれ」などとまるでアリストテレス哲学のような思想を披歴してくれる。彼の幸福論および死生観は、Jovianのそれと近く、ある観客によっては非常に強く共感でき、また別の観客によっては嫌悪の対象となろう。どう感じるか気になる方は、劇場へ行くべし。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』と同工異曲の青春群像劇である。青春というよりも、モラトリアムと言った方が近いだろうか。椎名という太陽のような存在に照らされていた高校時代が、ある者にとっては神話的な崇高さを帯びているところが、滑稽ではあるがリアリティの源泉にもなっている。程度の差こそあれ、こうした傾向は青春を完全な過去という遠近法で見られる人にならば、ある程度共通してみられるものだ。アメリカのちょっとしたテレビドラマや映画の同窓会シーンでは、アメフトの試合のあのパスが云々、野球の試合のあの補殺が云々、プロムで誰それと誰それが云々・・・ 人は誰もが否応なく成長するが、その成長を拒む人もいるし、個人の内面レベルで成長を拒む部分も存在する。そうした、ある意味では非常にダークな心の領域を本作は見事にあぶり出す。同様のテーマの作品に興味があれば、『ワン・ナイト』(原題は”Ten Years”)をお勧めしたい。

 

この作品の特徴として、閉鎖空間でのロングのワンカットを多用するということが挙げられる。ワンカットと言えば『 カメラを止めるな! 』が近年の白眉だが、こちらは車内、室内、ファミレス内、ラブホ内、ゲーセン内と、とにかく閉鎖空間での撮影にこだわりを見せる。このことが、観る者に否応なしに最も閉鎖された空間=人間の心を意識させる。本作は椎名という太陽に照らされた者たちと、椎名の陽の部分にまったく興味のない者たちとに二分される。そんな彼ら彼女らの紡ぐアンソロジーを、時系列をバラバラに描くのだが、全てが終盤近くのとあるシーンに収斂するにつれて、その意図が見えてくる。製作者が観客を信頼しているということで、私的に評価したい。

 

そうそう、本作はタイトルをスクリーンに映し出すシーンが完璧なのである。『 アメリカン・アサシン 』並みに素晴らしい。これがあるから、色々とケチをつけたくなる箇所があっても、上手くまとまったなという印象を持てるのだ。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 勝手にふるえてろ 』で使われたネタである。こうしたトリックというかツイストは、どうやっても最初に使った者/物の勝ちなのである。もしも『 勝手にふるえてろ 』を未見なら、すぐに観よう。

 

渡辺大知と片山友希以外の若手キャストが、全体的に力不足である。特に橋本愛は、役者業は厳しいかもしれない。『 貞子3D 』や『 Another アナザー』のように、あまり喋らない役であれば良いが、基本的に台詞に抑揚が無さ過ぎる。棒読みとまでは言わないが、どんな作品に出ても、結局は「ああ、いつもの橋本愛か」と思えてしまう。これがニコラス・ケイジやトム・クルーズのレベルにまで突き抜けてしまえば良いのだが、日本でそんな俳優はあまり見当たらない。強いて言えば北野武ぐらいか。本人が本人を演じるのが一番うまいというタイプの役者だ。あるいは、どんな役も自分色に染めてしまうという、演技力ではなく素の存在感、カリスマ、オーラ、そういったもので勝負できる力。橋本愛はそのレベルにはいないし、今後も行かないだろう。と書いてきて、もう一人思い当たった。樹木希林である。一癖あるおばあちゃんキャラは全部この人だった。『 万引き家族 』然り、『 海街Diary 』然り、『 我が母の記 』然り。合掌。

 

閑話休題。本作の最大の弱点(になっているかもしれない)ポイントは、東京に住んでいる人間に、果たしてどれだけ響くかということだろう。ここで言う東京とはもちろん東京都のことではない。地理的あるいは行政的な区分での東京は、東京ではない。Jovianも東京のど真ん中(地理的な意味で)に10年半住んでいたことがあるから分かる。我々が東京と言う時、それは往々にして山手線の内側もしくは周辺であったり、吉祥寺、高円寺、中野などのちょっとした離れ、隠れ家的な雰囲気の街までである。立川は決して東京ではない。況や奥多摩をや。実際にJovianの大学のクラスメイト(正確にはセクションメイト)が、「私は浦和(当時はまだ浦和市だった)に住んでるから、池袋まで40分ぐらい。八王子の人は新宿に出るのに50分ぐらいかかるから、その意味では浦和は八王子より東京なんだよ」と言ったのをよく覚えている。また寮の同級生も「木更津は確かに遠いけど、アクアライン通ったら近いんだっつーの」と言っていたのも覚えている。東京には強烈な重力がある。東京までの距離の近さを競うような意識が近隣の県や市町村にあり、それは東京都内でも同じだった。そうした東京の内部にどっぷり浸かっている人は、本作を見て「超楽しい」と言うだろうか。それとも悲憤慷慨するだろうか。おそらくどちらでもない。無関心を装うか、無関心を貫くかだろう。東京に住んだことがある、あるいは東京の空気がどんなものかを知っていなければ、本作のアイロニーが届かないというのは残念なことだ。

 

総評

観る人を相当に選ぶだろうなと思う。高校生以下はおそらく除外されるし、40代以上の男性にとっては精神的にきつい描写がある。ガールズトークが花開くシーンはそれなりに楽しめるので、「私」もしくは「あたし」に近いアラサー女子にこそ観られるべき作品であるのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 成田凌, 日本, 橋本愛, 渡辺大知, 監督:廣木隆一, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

『 アラサー女子の恋愛事情 』 -邦題をつけた担当者に天誅を-

Posted on 2018年10月28日2019年11月3日 by cool-jupiter

アラサー女子の恋愛事情 45点
2018年10月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キーラ・ナイトレイ クロエ・グレース・モレッツ サム・ロックウェル
監督:リン・シェルトン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181028010707j:plain

原題は ”Laggies” である。監督のリン・シェルトンは当初は本作の舞台をオレンジ・カウンティにしようとしていたようである。オレンジ・カウンティと聞いてピンとくる人はかなりの大谷翔平ファンであろう。そう、カリフォルニア州オレンジ郡なのである。しかし、様々な事情から舞台はシアトルに移る。このYouTube動画によると、シアトル(の一部の界隈、一部の世代?)では、Laggieという言葉を、友人や仲間を指す時に使うらしい。本作を鑑賞すれば、Laggiesとは誰のことを指すのかが分かる。それにしても、このようなふざけた邦題が付けられてしまうメカニズムとは一体何であるのか。映画ファンはもっと真剣に呆れ、怒ってもよいはずだ。

 

あらすじ

大学院卒の肩書を有しながら、仕事と言えば公認会計士の父親の事務所の看板持ちという28歳のメーガン(キーラ・ナイトレイ)は、女友達やボーイフレンドに囲まれ、それなりに幸せに暮らしていた。しかし、あるパーティーであるものを目撃したことでパニックになる。ひょんなことから知り合ったアニカ(クロエ・グレース・モレッツ)の家に匿ってもらうのだが、アニカやその友人たちの交流、そしてアニカの父親のクレイグ(サム・ロックウェル)との出会いにより、彼女は変化を自覚し始める・・・

 

ポジティブ・サイド

主要キャラの中では、キーラ・ナイトレイが最も素晴らしかった。コテコテのブリティッシュ・イングリッシュしか話せないと思っていたが、どうしてなかなかアメリカン・イングリッシュも上手い。また、同世代の仲間たちとの微妙なズレを知ってか知らずか際立たせてしまう、いわゆる空気の読めないキャラクターであることを絶妙な不器用さで序盤はに描き切った。この部分の説得力の有無が、物語のクライマックスの成否に関わってくるのだが、ひとまず合格点を与えられる。

 

サム・ロックウェルはちょいワル親父の雰囲気を存分に醸し出す安定の演技力を披露。この人の真価は、『 グリーンマイル 』や『 スリー・ビルボード 』のように、目には見えないものの、しっかりと圧を発するというか、ヤバい奴オーラとでも言おうか、底知れなさが魅力なのだが、どうしてなかなか普通のおっさんキャラもいける。『 プールサイド・デイズ 』のような、positive male figureを演じられる役者として、まだまだ出番は絶えないだろう。

 

ネガティブ・サイド

このあたりは主観になるが、キーラ演じるメーガンと観る側の距離感によって、彼女は最高のキャラであり、また最低のキャラにもなりうる。Jovianの目には、最低に近いキャラに映った。それは演技力の勝利でもあるのだが、脚本としては失敗であろう。第一に、自分の親が過ちを犯してしまうところで酷く動揺するのだが、自分も全く同じ構図の過ちを犯してしまうところ。しかも、こちらの方が性質が悪いというおまけ付き。第二に、人間関係というのは常に変化し続けるものだという尊い教えを得たというのに、結局その人間関係に引きずられて、切るべきところを切らずに、切らなくていいところを切ってしまうというトンデモな決断をしてしまう。これは我が妻もドン引きしていたので、あながち男目線だけによる一方的な分析ではないはずである。第三に、アニカという10歳も年下の女子相手にすることで自尊心を回復させてはいけない。もちろん、そんなことをするようなダメ人間だからこそ愛おしいと思える人もいるはずだ。しかし、『 はじまりのうた 』でヘイリー・スタインフェルドに余裕たっぷりに講釈を垂れたのとは、画的にはそっくりでも、その内実は全くもって異なる。あちらは大人と子ども、こちらは子どもと子どもだからだ。

 

サム・ロックウェルも、弁護士という、ある意味で人間の真実と嘘の最前線に立つ職業でありながら、キーラの咄嗟の出まかせにあっさり騙されるのは少し不可解だった。

 

全体的に見れば、アラサー女子なる不可解なワードは、映画の内容をしっかり伝えるためではなく、本作を手にして安心をしてほしい(と広告代理店などが思う)人、つまり30歳前後の仕事もプライベートもどこか地に足のつかない女性を対象にしているからなのかと妙に納得できる。『 ブリジット・ジョーンズの日記 』よろしく、ある意味で自分は何も変わらずに幸せを掴みたいという夢を見るだけの人は、本作で大いに勇気づけられるのかもしれない。そんな人は少数派だろうと信じでいるが。

 

総評

邦題に騙されてはいけない。そこまで浅はかな作りではない。しかし、練りに練られた作品かと問われれば、答えは否。結婚を意識していないカップルが、雨の日のお部屋デートに鑑賞して、気まずくなるのか、それとも真剣に将来に向き合おうとするのか、そこは分からないが、なにやらそうしたカップルのリトマス試験紙的な意味でなら、鑑賞する価値はあるかもしれない。すでに結婚している人や、高校生以下の人は敢えて観るまでもない。

 

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Posted in 未分類Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, クロエ・グレース・モレッツ, サム・ロックウェル, ラブロマンス, 監督:リン・シェルトンLeave a Comment on 『 アラサー女子の恋愛事情 』 -邦題をつけた担当者に天誅を-

『 ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 』 -可もなく不可もないファンタジー-

Posted on 2018年10月25日2019年11月3日 by cool-jupiter

ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 50点
2018年10月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ブルー・リチャーズ ヨアン・グリフィズ ティム・カリー
監督:ガボア・クスポ

 

近所のTSUTAYAで、“J・K・ローリングのお気に入り”という触れこみに惹かれてレンタル。あまり期待はしていなかったが、王道というか正直というか、素直に100分ほどの時間が流れた。当たりではないが、外れと断じるほどでもないという印象。

 

あらすじ

父をがギャンブルで借金をこさえたまま死亡してしまったため、マリア(ダコタ・ブルー・リチャーズ)はロンドンから遠く離れたムーンエーカーの領主ベンジャミン・メリウェザー(ヨアン・グリフィズ)に引き取られることとなる。父の残した本と養育係ヘリオトロープだけを共にムーンエーカーへ向かうも、ド・ノワール族に襲われたり、不思議な幻を見たりと、マリアの身の回りに不可解な出来事が頻発する。それは、ムーンプリンセスの伝説とその呪いが原因で、その呪いを解くためのタイムリミットはすぐそこまで迫っていたのだった・・・

 

ポジティブ・サイド

マリアを演じたダコタ・ブルー・リチャーズは、ロシアのフィギュア・スケーターのようと言おうか、妖精のような妖しい魅力を放っていた。彼女を見るだけでもオッサン映画ファンは癒されるのではないか。

 

そして『 ファンタスティック・フォー 』シリーズのミスター・ファンタスティックでお馴染みの好漢ヨアン・グリフィズの嫌な男の演技。これが以外にハマる。しかし、どういうわけか物語が進むにつれて、嫌さが薄れ、可哀そうな男に見えてくるから不思議だ。本作では存分にウェールズ訛りで話しているので、余計に生き生きと聞こえる。それが気難しい領主役に味わいを与えている。

 

副題にある、秘密の館の秘密の大部分を司るファンタジーには非常にありがちなキャラが、実に重厚な存在感を発揮する。こういう重々しくも、軽いノリのキャラクターを演じきれるキャラクターは、ミゼットを除外するにしても、日本にはなかなか見当たらない。子のキャラだけで、ファンタジー要素の半分以上を体現したと言っても過言ではない。

 

ネガティブ・サイド

マリアに付き添うミス・ヘリオトロープが事あるごとに burp = げっぷをするのには何か意味があったのだろうか。『 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 』(アニメ版)の「いい女を見るとうんこしたくなる」並みにどうでもいいネタだ。

 

また、ティム・カリーの存在感がイマイチなのは、やはり IT = イットのピエロ役の影響が強すぎるからか。ティム・カリーとジョニー・デップは、素顔またはメイクが薄い役をやると外れになる率が高い気がする。『 シザーハンズ 』、『 パイレーツ・オブ・カリビアン 』は当たりで、他は・・・『 ダークシャドウ 』など例外もあるが、『 トランセンデンス 』は酷い出来だった。

 

閑話休題。キャストで最も残念なのは初代のムーン・プリンセス。ちと大根過ぎやしないか?特にムーンエーカー谷に呪いがかけられる大事な場面での長広舌はあまりに硬すぎるし、棒読み過ぎる。

 

また、ややネタばれ気味だが、副題にもあるまぼろしの白馬は特に重要な役割を果たすことはない。まあ、原題は ” The Secret of Moonacre” =「ムーンエーカー峡谷の秘密」なので、これはちと説明過剰である。

 

総評

大人が真剣に鑑賞するには厳しい部分もあるものの、『 くるみ割り人形と秘密の王国 』に出演しているマッケンジー・フォイ以上にインパクトのあるダコタ・ブルー・リチャーズとの出会いだけでもレンタルの価値はある。ライトなファンタジーを楽しみたい向きならば、鑑賞しても時間の無駄になることはないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, イギリス, ダコタ・ブルー・リチャーズ, ティム・カリー, ファンタジー, ヨアン・グリフィズ, 監督:ガボア・クスポLeave a Comment on 『 ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 』 -可もなく不可もないファンタジー-

『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

Posted on 2018年10月24日2019年11月3日 by cool-jupiter

泣き虫しょったんの奇跡 60点
2018年10月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松田龍平 渋川清彦 イッセー尾形
監督:豊田利晃 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181024024021j:plain

将棋界が熱い。昨年2017年の羽生善治の前人未到、空前絶後の永世七冠達成と藤井聡太フィーバー、さらに加藤一二三の完全タレント化、それ以前にも映画化された『 聖の青春 』やアニメおよび映画化された『 三月のライオン 』など、将棋ブームが到来し、定着しつつあるようだ。もちろん、コンピュータ将棋の恐るべき進化、特に将棋電王戦でのプロ棋士の通算成績での負け越しや叡王戦での名人・佐藤天彦の完敗を忘れるべきではないだろう。もちろん将棋は偉大なるボードゲームで、その目的の第一は楽しむことである。当然、そこから派生するエンターテインメントも豊かに生まれてきた。近年だけでも小説『 盤上のアルファ 』がNHKでテレビドラマ化される見込みであるし、元奨作家による『 サラの柔らかな香車 』、『 サラは銀の涙を探しに 』も上梓された。そんな中、満を持して瀬川晶司の『 泣き虫しょったんの奇跡 』が映画化と相成った。

 

あらすじ

しょったんこと瀬川晶司は、勉強でも運動でも特に取り柄のない小学生。しかし将棋が大好きな子だった。兄やクラスメイト、隣の家の子らと切磋琢磨するうちに、プロ棋士の存在を知り、それに憧れ、奨励会に入会する。しかし、そこは天才少年、神童たちが鎬を削る過酷な世界だった。しょったんは青春を将棋に懸けるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

松田龍平の演技が光る。顔は瀬川棋士に似ているとも似ていないとも言えるのだが、それはオールデン・エアエンライクがハリソン・フォードに似ている程度には似ていると言えよう。つまり、それほど似ていない。が、雰囲気が実によく似ている。

 

だが、松田よりも特筆すべきは豊川孝弘役(と敢えて書く)を演じた渋川清彦だ。豊川はNHK杯での二歩による反則負けで一躍その名を全国に轟かせ、その後も地味にB1に昇給したり、バラエティやネット配信などで得意の親父ギャグを連発するなど、加藤一二三には及ばないものの、棋界の変人の末席に連なる人物と言える。風貌も相当に似ているし、話し方や表情などもかなり似せる努力をしていたのが見て取れる。その豊川本人が久保役で出演していることにも笑ってしまった。

 

しかし、本作で最も強烈なインパクトを残してくれたのはイッセー尾形である。しょったんの通う将棋道場の席主であり、将棋の技術ではなく、心構えの師匠役を完璧に演じてくれた。はっきり言って序盤の主役はイッセー尾形である。人によっては松たか子であると言うかもしれないが、Jovianの目にはイッセー尾形がより強力な輝きを放っているように映った。

 

将棋というのは躍動感にはどうしても欠けてしまう。それは『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』でも、しっかりと描くことはできなかった部分だが、本作は飛車が盤の端から端まで動くのを接写することで、躍動感を生み出した。ありきたりなようでいて、実は新しいこの撮影手法には大いに喝采を送りたい。漫画『 月下の棋士 』の氷室将介のように大きく振りかぶって駒を打ちつけてしまうような演出は一二三だけで十分だ。

 

瀬川の少年時代に少し時間を割きすぎとの印象も受けたが、松たか子演じる小学校の担任の言葉が瀬川にとっての心の拠り所でもあり、またある意味での呪いになってしまっていることを描き出すためには致し方なかったのだろう。実際に将棋指し=芸術家+研究家+勝負師なわけで、この勝負師という部分の弱さ=優しさが対局の相手を利することになってしまう場面がある。情けを知るトップのプロ棋士ならいざ知らず、奨励会の、しかも3段リーグという鬼の棲家では、この甘さは致命傷だ。実際に妻夫木聡演じる奨励会員が「ここでは友達を無くすような手を指さないと勝てない」とこぼすが、これは紛れもない事実だ。激辛流で名人位まで獲った男もいるのだ。そうした弱さを、非常に分かりやすい形で観客に伝えることは、将棋指しの世界の厳しさをそれだけ浮き彫りにしてくれる。元奨の監督ならではであろう。

 

なお、もしもまだ本作を未見で劇場鑑賞を考えている方がいれば、ぜひこちらのニコニコ動画を参照されたい。原作書籍『 泣き虫しょったんの奇跡 』以外に予習しておくべきものがあるとすれば、この動画である。1から5まであるが、ぜひ参照されたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、いくつかの弱点も存在する。現実世界に符合しないものが多々描写もしくは説明されるのだ。いくつか気になった点を挙げると、しょったんと親友が将棋道場に足繁く通う描写と説明だ。土日になると開店時間の11:00にすぐに入店したと言うが、瀬川が小学校高学年から中学生にかけての時代はまだ学校週休二日制は導入されていなかった。小学校でも5-6年生は3~4時間目までは授業があったはずで、土曜の11:00に入店は難しいのではないか。また1980年代初頭(‘80~’82)に、電車の駅にはアイスクリームの自販機は無かった。

 

他にも明らかに事実とは異なる描写が見られた。プロ編入試験がプロ相手に3勝と説明されたが、実際は奨励会員に女流棋士も試験官を務めたのだから、この説明はおかしい。一般人の監督であればリサーチ不足と切って捨てるだけだが、元奨の監督なのだから、ここは厳しく減点せざるを得ない。他にも、棋士や奨励会員が一手を指す時に、持ち駒を使う描写がやけに多い。素人のへぼ将棋ならまだしも、プロ一歩手前の実力たちの対局を描くにあたって、この辺は少し気になった。

 

また、瀬川のプロ編入試験の5局目で席主や元奨連中が一様に瀬川のニュースを知って驚くのだが、これも不自然極まりない演出だ。将棋の駒の動かし方すら知らない人間であればいざ知らず、瀬川のプロ編入試験は大々的に報じられていたし、一局ごとにテレビやネットで中継され、藤井聡太の連勝中ほどではないが社会現象化していたのだ。

 

最後に、日本将棋連盟執行部にプロ編入を嘆願する際のプロ側の態度。あれはどれほど事実に即しているのだろうか。当時の連盟会長の米長は、常に“行乞の精神”を説いていた。名人戦の移管問題でとんでもない騒動を引き起こしたが、逆に言えば話題作りに長けた男でもあった。名人位には特権的な意識を抱いていただろうが、プロ棋士という地位や肩書に胡坐をかいて、あれほどの特権意識をひけらかす男だっただろうか。このあたりに豊田監督の限界を見るように思う。元奨の残念さという点では、電王戦FINALで21手で投了した巨瀬亮一を思い出す。FINALはハチャメチャな手が飛び出しまくる闘いの連続で、特に第一局のコンピュータの水平線効果による王手ラッシュ、第二局のコンピュータによる角不成の読み抜け(というか、そもそも読めない)など、ファンの予想の斜め上を行く展開が続いた。特に第二局は、▲7六歩 △3四歩 ▲3三角不成 という手が指されていれば一体どうなっていたのか。

 

閑話休題。元奨の中には将棋界に憎悪を抱く者も少なくない。豊田監督は駒の持ち方、指し方に強いこだわりを示していたそうだが、心のどこかに将棋および将棋界へのネガティブな感情がなかっただろうか。監督が強くこだわるべきリアリティにこだわれなかったせいで、傑作になれたであろうポテンシャルを発揮できないままに本作は完成させられてしまった。そんな印象を受けた。

 

総評

ライトな将棋ファンには良いだろう。特に観る将ならより一層楽しめるだろう。将棋は何も指すだけが魅力ではなく、それを指す人間の面白さも大事なのだ。でなければ、誰が棋士の食事にまで関心を持つというのか。一方でディープでコアな将棋ファンの鑑賞に耐えられる作品かと言うと、そこは難しい。シネマチックにすることとドラマチックにすることは似て非なるもので、リアリティをそぎ落とすことでしか追求できない面白さもあるが、本作には当てはまらない。良い作品ではあるが、将棋ファンを唸らせる逸品ではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, イッセー尾形, ヒューマンドラマ, 伝記, 日本, 松田龍平, 渋川清彦, 監督:豊田利晃, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アンダー・ザ・シルバーレイク 65点
2018年10月21日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド
監督:デビッド・ロバート・ミッチェル

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181022025940j:plain

『 イット・フォローズ 』の監督の最新作。前作は、正体不明の何者か、というか何者かは分かっている=姿は完全に見えている者が、ゆっくりと歩いてついてくるという異色ホラー。特にイットがドアをノックするシーンは、笑いながらも怖気を奮ってしまった。あのシュールさをもう一度味わためなら1800円は惜しくない。だが、しかし、本作を真に鑑賞したと言えるようになるには1800円では足りないようだ。

 

あらすじ

サム(アンドリュー・ガーフィールド)は30歳過ぎても働かず、LAの街で自堕落に過ごしていた。上半身裸で過ごす同じコンドミニアムに住む中年女性を覗いたり、女優を夢見てオーディションを受けまくっているセックスフレンドがいたり、レトロゲーム機で共に遊ぶナーディな男友達がいたりと、家賃は滞納しながらも、それなりに何とかやっていた。ある日、ミステリアスな美女サラと良い雰囲気になりながらもベッドインできず、翌日にもう一度来てと言われたので尋ねてみたら、部屋はもぬけの殻。しかし、怪しい女がサラの部屋から何かを回収していった。その女を尾行するうち、サムはLAの街のアンダーグラウンドな領域に徐々に近づいていく・・・

 

ポジティブ・サイド

数多くの映画を想起させる作品である。『 マルホランド・ドライブ 』のように、ある意味で脳髄に損傷を与えかねない映画である。普通のサスペンスやスリラー、またはミステリだと思って劇場に行くと、予想や期待を裏切られることは必定である。しかし、それが良い。何もかもを説明してほしいと思うのは、あまりにもおこがましいのではないか。本作には、LAの街やハリウッドで功成り名遂げた人物は隠されたメッセージを発していて、それを受け取ることができるのはスーパーリッチな一部の人だけであるという、サムの妄想的な考えを通じて、観客に訴えかけてくる。すなわち、「この映画には秘密のメッセージが仕込まれているのですよ」ということだ。

 

我々はとんでもない量の小ネタを見せつけられる。とても書き切れるものではないが、おそらく誰もが初見でピンと来るのは、サムの手がネチャネチャと糸を引くシーンであろう。何をどうしたってスパイダーマンを思い出す。ニヤリとすべきなのだろう。小ネタというか直接ネタというか、ある映画を語るに際して別の映画にも言及しなくてはならなくなるという点では『 レディ・プレーヤー1 』的であると言える。劇中ではアルフレッド・ヒッチコックがfeature されるシーンがある。さらにサムの部屋には『 サイコ 』のポスターが貼ってあるのだ。彼の頭の中には一体何が詰まっているのだ、と思わされても仕方がない言動がどんどんと繰り出され、もはや彼の妄想なのか、全ては現実世界の偶然なのか、虚実が定かならぬ領域にまでストーリーが進んだところで、臨界点を迎え・・・ないのである!まるでジョニー・デップの『 ナインスゲート 』のエンディングを思わせる城に入っていくシーンには鳥肌が立った。

 

まだ本作を観ていないという人は、サムが自室でセックスしているシーンをしっかりと見ておくべし。見るのは彼の尻ではなく、壁に貼ってあるポスターである。万が一、それが何であるのか、もしくは誰であるのか分からないということであれば、このYouTube動画を見てみよう。それでも知らないというのなら、とにかく自分の中でカリスマと思える人物をしっかり思い描いて鑑賞に臨むようにしてほしい。

 

物語はここから一挙に漫画的領域にまで到達する。それは『 ゲット・アウト 』的な領域に到達するという意味でもあり、ノストラダムス予言のトンデモ研究者・川尻徹的な手法で暗号解読をする現代版geekであるとも言える(ちなみにnerdとは、『 X-ファイル 』のスピンオフ『ローン・ガンメン』3人組のような連中を指す)。普通に考えればサムはクレイジーであるとしか言いようがないのだが、途中では実際に人が死ぬ。しかし、それすらもサムの妄想であるかもしれないと思わせる仕掛けが施されている。サムのマスターベーションにも注目だ。

 

お前の言っていることはサッパリ意味が分からんし、何故こんな卑猥なレビューを読まされねばならんのだと思われる向きもあるだろう。しかし、冒頭で述べたように本作は一回こっきりの鑑賞では意味不明な箇所が多すぎる。それが魅力にも磁力にもなっている。吸い寄せられるように映画館に向かってしまう自分が想像できて怖いのだ。不思議な魅力が詰まった映画なのだ。

 

ネガティブ・サイド

LAが舞台だと聞いて胸を躍らせるような人、特に『 ラ・ラ・ランド 』に感動した人などは、本作には辟易させられることは間違いない。『 ノクターナル・アニマルズ 』や『 ドニー・ダーコ 』、あるいは『 ブレードランナー 』のように複数回見てようやく意味が分かる、もしくは見れば見るほどに発見があるというタイプは、DVDやブルーレイが手に入るようになるまで、非常に悶々とした気持ちにさせられる。おそらくカジュアルな映画ファンが10人いれば、そのうちの9人が一回鑑賞で満腹になるのではないだろうか。また、ハードコアな映画ファンが10人いても、そのうちの6人は一回で満腹になってしまうのではなかろうか。自分としては日本語と英語の両方でリサーチの上、何度でも観てみたいが、そうするとチケット代と時間が問題になる。そこを減点して良いものかどうか迷うが、『 ラ・ラ・ランド 』と同点になる程度には楽しめた。これは褒めているのだろうか・・・

 

総評

主人公サムの『 アイム・ノット・シリアルキラー 』的な行動が許容できる人、もしくはとんでもないシネフィルなら、本作を絶賛できるだろう。あるいは糞味噌に酷評できるかもしれない。案外、純愛ジャンルが好きだ、という人が最も本作を堪能できるのかもしれない。一人で鑑賞して、帰り道にリサーチをしたりレビューを渉猟するも良し、連れを誘って鑑賞し、帰りに喫茶店であーだこーだと解釈をぶつけ合うのも良いだろう。面白さは人によって異なるだろうが、手応えの重さがずっしりとあることだけは請け合える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, スリラー, 監督:デビッド・ロバート・ミッチェル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 50点
2018年10月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サム・ワーシントン オクタビア・スペンサー
監督:スチュアート・ヘイゼルダイン 

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説教と評させてもらったが、いわゆるお小言の意味ではない。言葉そのままの意味での説教である。つまり、宗教的な教えを説くことである。では、宗教とは何か。宗教はどのように定義されているのか。これについては古今東西のあらゆる思想家が、まさしく百家争鳴してきた。いくつかの卓抜な定義の一つに、加地伸行がその著書『 儒教とは何か 』で開陳した「宗教は、死および死以後の説明者である」というものがある。これだけで宗教なるものの十全な定義とは個人的には承服しがたいが、しかし宗教を定義するに際して欠くべからざる部分をしっかりと押さえているのは間違いない。人は何故に死ぬのか。特に無辜の良民が戦争や災害に巻き込まれて死ぬのは何故なのか。罪のない幼子が病魔や犯罪によって命を奪われるのは何故なのか。こうした悲劇と無縁な人もいるだろうが、それでもこうした問いと無縁な人がいるとは思われない。その意味で、欠点は多々あるものの、本作は十分に世に送り出される意味はあったのかもしれない。

 

あらすじ

マック(サム・ワーシントン)は、父の振るう理不尽な暴力に母と共に耐える少年時代を過ごした。そんなマックも成人し、結婚し、子を持つようになった。ある湖畔に家族でキャンプをしている時、マックの愛娘が姿を消す。連続誘拐殺人藩にさらわれた可能性が高い。ある小屋で娘の血染めの服が見つかるが、本人は見つからず。遺体のないまま葬儀が執行される。家族の不和は広がる。ある日、「あの小屋で待っている」という謎の手紙がマックに届く。差出人はパパ、これは家族の中だけで通じる暗喩で神のことだ。マックは家族を遠出させ、山小屋に一人で向かっていく・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からオクタビア・スペンサーが世話焼きなおばちゃんとして登場するが、何故に彼女はこうした役が異様に似合うのだろうか。『 ヘルプ ~心がつなぐストーリー~ 』然り、『 シェイプ・オブ・ウォーター 』然り、『 gifted ギフテッド 』然り、『 ドリーム 』然り。日本で今、母親役と言えば吉田羊なのかもしれないが、アメリカでおばちゃん役と言えば、オクタビア・スペンサーであろう。彼女の豊満で包容力ある演技を堪能したい向きはぜひ観よう。

 

ネガティブ・サイド

サム・ワーシントンは、broken-heartedの父親役で存在感を示した。ただ、ちょっと男前過ぎるか。ニコラス・ケイジが『 ノウイング 』で見せた哀切と安堵の入り混じった二律背反的な演技を求めるのは少し酷だろうか。彼の父親としての苦悩が、より静かに、しかし確実に観る者に伝われば、ドラマはもっと盛り上がったに違いないのだが。

 

本作の最大の弱点は、あまりに宗教色を強く出しすぎたところだろうか。登場人物が足繁く教会に通うからではなく、あまりにも聖書的な寓話の要素が強いからだ。旧約聖書のヨブ記に描かれる義人ヨブの如く、マックは苦難と絶望に何の前触れもなく落とされる。ヨブのように声高く神に抗議しないのは、自身の信仰心の薄さを自覚していたからなのか。神の愛については、小説および映画の『 沈黙 サイレンス 』が逆説的に描いた。これがあまりにもハードすぎるのであれば、旧約聖書のヨナ書がお勧めだ。わずか4ページほどの非常に人間味あふれる寓話である。神は小市民のヨナに対して、誠に人情味ある答えをしてくれる。もちろん、異なる宗教の神は異なる方法で人間に接するものであるのだが。

 

本作のテーマは“赦し”であると言えよう。娘の死を受け止められない父親が、それを芯から受け止めるためには、下手人をその手で殺すことが考えられる。だが、それをしても娘は決して浮かばれない。『 ウィンド・リバー 』、『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』が一定の答えを提示した、愛する者の死の受容と赦しが本作でも描かれるが、その点に弱さを感じる。本作は果たしてドラマなのか、それともファンタジーなのか。『 オズの魔法使 』的に、観る者を惑わせるのだが、その手法もやや陳腐だ。そうした見せ方そのものは批判しないが、もう少し洗練された方法で説得力を持たせてほしかった。

 

総評 

誰にでも手放しで絶賛してお勧めできるタイプの作品ではない。人によっては怒り心頭に発してもおかしくない描写があるので、異なる文化圏の異なる思想信条を持つ人たちの物語であることを踏まえなければならない。ここのところを納得できれば、もしくは適切な距離感を自分で保つことができれば、大人の鑑賞に耐えうる作品にはなっていると言えよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, サム・ワーシントン, ファンタジー, 監督:スチュアート・ヘイゼルダイン, 配給会社:アルバトロス・フィルム, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

Posted on 2018年10月19日2019年11月1日 by cool-jupiter

スターシップ9 40点
2018年10月16日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クララ・ラゴ アレックス・ゴンザレス
監督:アテム・クライチェ

 

シネマート心斎橋またはシネ・リーブル梅田で鑑賞するはずだったが、色々と重なり未鑑賞のままだった作品。閉鎖空間SFは、Jovianのまあまあ好物テーマなのである。この分野の傑作と言えば『 エイリアン 』であり『 CUBE 』だろう。また、少ない登場人物でスリルやサスペンスを生み出すのはフランスの小説や映画の技法だが、今作はスペインとコロンビアの合作である。期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

エレナ(クララ・ラゴ)は、独り恒星間宇宙船に乗っていた。ある時、空気の循環システムに故障が発生、近くの船に救難信号を送った。そこにやって来たのはエンジニアのアレックス(アレックス・ゴンザレス)。朴念仁のアレックスだったが、すぐにクララとまぐわい、惹かれ合う。故障も修理され、アレックスは自分の船に還っていく。クララも自分の旅を続けていく。しかし、アレックスにはある秘密があった・・・

 

ポジティブ・サイド

宇宙に漂う船に乗組員は一人。船内には無機質な機械音と、AIによる音声だけが響く。誰がどう見ても『 2001年宇宙の旅 』を想起させる設定である。もちろん、ほとんどの全てのSF(Space Fantasy)映画はキューブリックに多くを負っているわけで、そこから陸続と名作、傑作が生まれてきた。『 エイリアン 』や『 スター・ウォーズ 』のオープニングの巨大な宇宙船のショットは、いずれも『 2001年宇宙の旅 』にインスパイアされたものだ。本作はどうか。少し違う。本作がその名を連ねるべき系譜は『 パッセンジャー 』や『 月に囚われた男 』のそれである。非常に狭い空間を描くことで、宇宙の広大さと人間の心の孤独の深さの両方を描いているからだ。同時に、これらの映画(だけではなく、あれやこれらのSF作品)に通じている人は、本作の見せる展開に満足するであろうし、同時にがっかりもするであろう。この辺りは完全に個人差と言うか、style over substance とでも言おうか。雨の日にSFでも観るかぐらいの気分で再生するのが吉だ。

 

ネガティブ・サイド

自分の中で盛り上がりすぎていたせいか、イマイチ話に乗って行けなかった。例えば『 エイリアン 』は、それこそクルーの面々があまりにも普通にプロフェッショナルだった。宇宙船を飛ばすのは、船の操舵や飛行機の操縦よりも簡単な、大型バスを走らせるような、もしくは工場のアセンブリーラインを操作するかのようなカジュアルさが、テクノロジーの進化を何よりも如実に物語っていた。本作は、いきなり船が故障するわけで、もちろんそこから発生する素晴らしい物語も無数に存在する。賛否両論の『 ゼロ・グラビティ 』が一例か。

 

本作は、多くの先行作品に敬意を払うあまりに、オリジナリティをどこかに忘れてきてしまっている。率直に言わせてもらえば、本作のプロットは(そのツイスト=どんでん返しも含めて)下北沢の芝居小屋で見れそうなほど陳腐だ。構造的に全く同じ物語は『 世にも奇妙な物語 』でも見られた。そして、またもや森博嗣の『すべてがFになる』ネタである。SFはたいていの場合、時間と共に風化してしまう。なぜならテクノロジーや知識の進歩が、ほとんど常に物語を陳腐化させる方向に働くからだ。それを防ぐには、根源的な問いを作品をして発せしめるか、何よりもユニークな方向に作品を持っていくかをするしかない。本作は、残念ながら、そのいずれも果たせていない。

 

総評

新しいもの、もしくはSF的なアクションを期待すると失望を覚えること必定である。SF映画はそれこそ星の数ほどあるのだから、レンタルショップで適当に借りてきても、おそらく5割程度の確率でこれよりも面白い作品に出会えるはずだ。もちろん、この数字はその人の映画鑑賞歴によって上下する。ただし、もしも貴方が自らをして熱心なSF映画ファンであると任じるなら、本作に過度の期待を抱いてはならない。もしも貴方がライトなSFファンということであれば、本作を手に取る価値はあるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アレックス・ゴンザレス, クララ・ラゴ, コロンビア, スペイン, 監督:アテム・クライチェ, 配給会社:熱帯美術館Leave a Comment on 『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

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勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

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