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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年7月

『ウインド・リバー』 -忘却と抑圧の歴史を現在進行形で提示する傑作- 

Posted on 2018年7月31日2020年2月12日 by cool-jupiter

ウィンド・リバー 80点

2018年7月29日 シネ・リーブル梅田にて観賞
主演:ジェレミー・レナー エリザベス・オルセン ジョン・バーンサル
監督:テイラー・シェリダン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180731112507j:plain

最初にキャスティングを観た時は、何かの冗談だろうと思った。ホークアイとスカーレット・ウィッチで何を作るつもりなのだと。しかし、テイラー・シェリダンは我々の持っていた固定観念をまたしてもいともたやすく打ち砕き、『羊たちの沈黙』、『セブン』の系譜に連なるサスペンス映画を世に送り出してきた。それが本作『ウインド・リバー』である。

アメリカ・ワイオミング州のウィンド・リバー地区で少女の死体が見つかる。場所は人家から遠く離れた雪深い森林近く。発見者はコリー・ランバート(ジェレミー・レナー)、地元のハンターである。捜査のためにFBIから新米エージェントのジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)が送り込まれてくる。ジェーンは地元の地理や人間関係に精通し、何よりも雪を読む力を有するランバートに捜査の協力を依頼する。そして二人は事件の真相を追っていく・・・

あまりにも広大なワイオミング州に限られた人員、しかし捜査は拍子抜けするほどあっさりと進んでいく。なぜなら、この土地の人口密度の希薄さとは裏腹に、人間関係の濃密さは反比例しているからだ。さらにこの土地には『スリー・ビルボード』のような地方、田舎に特有な閉鎖的人間関係のみならず、ネイティブ・アメリカン居留地であるという歴史に由来する抑圧への憤りが静かに漂っている。それは主人公のランバートにしても同じで、彼の家族との関わり、殺された娘の両親との関わりから、我々は実に多くの背景を悟ることができる。何もかも分かりやすく会話劇やナレーションで説明してしまう映画が多い中、これほど画で語る映画に出会えたのは僥倖だった。ただし、ネイティブ・アメリカンと独立国家アメリカとの関わりの歴史を知らなければ、少し理解が難しいかもしれない面はあった。『焼肉ドラゴン』についても、日本が朝鮮半島を植民地化した歴史を知らなければ、理解が追いつかない部分があったのと同様である。ネイティブ・アメリカンの強制移住、就中、涙の道=The Trail of Tearsの話は、怒りと悲しみ無しに知ることはできないので、興味のある向きはぜひ調べてみてほしいと思う。

本作を特徴づけているのはその狭く濃密な世界観だけではなく、主人公ランバートの雪読みの能力。小説『スミラと雪の感覚』のスミラを彷彿とさせるキャラクターである。このスミラも、デンマーク自治領グリーンランドで生まれ育ったイヌイットの混血児で、デンマーク社会を複雑な視線で見つめるキャラクターで、ランバートとの共通点が多い。雪という自然現象が本作『ウインド・リバー』の大きなモチーフとなっており、観る者は雪の持つ美しさだけではなく、命を容赦なく奪う冷徹性、あらゆるものの痕跡を掻き消してしまう暴力性、なにもかもを一色に染めてしまう無慈悲さを見せつけられる。特に雪が一面を白に染めてしまうという無慈悲さは、そのままずばりアメリカの歴史の負の側面を象徴している。近代国家として成立したアメリカの歴史は端的に言えば、対立と融和の繰り返しだ。植民地と宗主国との対立と融和、弱小州と強大州の対立と融和、自然と文明の対立と融和、エリートとコモン・ピープルの対立と融和、男性と女性の対立と融和、白人種とその他人種の対立と融和、そしてネイティブ・アメリカンとアメリカンの対立と融和。しかし、これらの歴史がすべて今も現在進行形であるということに我々は慄然とさせられる。そうした差別と被差別の関係が今も残っていることにではなく、我々が普段、いかにそうした抑圧された側を慮ることが無いのかを突きつけられるからだ。雪が染め上げる大地は、白人に無理やり染め上げられるネイティブ・アメリカンの悲哀のシンボルであろう。

閉鎖社会の中でさらに抑圧された存在として描かれるネイティブ・アメリカンの女性は、我々に忘却することの残酷さを否応なく突き付けてくる。ジェレミー・レナーが被害者の娘の父親に語る彼自身の逸話は胸に突き刺さる。我々が初めてこの父親を目にする時、どこか無機質で非人間的とも思える印象を受けてしまうのだが、そうしたイメージをいかに容易く我々が形成してしまうのは何故なのか、そしてそうしたイメージを一瞬で粉々に打ち砕くようなシークエンスがすぐさま挿入されるところに、テイラー・シェリダンの問題意識が強く打ちだされている。人間とは何であるのか、人間らしさとは何であるのか。傑作SF『第9地区』でも全く同じテーマが問われているのだが、我々は人間であることを簡単に忘れ、獣に堕してしまう。そんな獣を撃ち抜くランバートとともに、本作を堪能してほしい。今年、絶対に観るべき一本である。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, エリザベス・オルセン, ジェレミー・レナー, ジョン・バーンサル, ヒューマンドラマ, 監督:テイラー・シェリダン, 西部劇, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ウインド・リバー』 -忘却と抑圧の歴史を現在進行形で提示する傑作- 

『(r)adius』 -ひとひねりは効いているが、着地に失敗したSFスリラー-

Posted on 2018年7月30日2020年1月10日 by cool-jupiter

(r)adius 40点

2018年7月28日 レンタルDVDにて観賞
出演:ディエゴ・クラテンホフ シャーロット・サリバン
監督:キャロライン・ラブレシュ スティーブ・レナード

リアム(ディエゴ・クラテンホフ)は交通事故に遭い、負傷していた。気がついた時には見知らぬ土地にいて、記憶を失っていた。そして、自分の半径15mに近づいてきた動物(植物や微生物は無事らしい)は、白目をむいて即死することに気づいた。そんな中、自分に近づいても死なない女性ジェーン(シャーロット・サリバン)と出会う。ジェーンもまた記憶を失っていたが、2人は元々一緒に行動していたらしいことが分かる。一緒にいれば、謎の即死現象が中和されることに気づいた2人は、警察その他から逃れるべく、逃亡を開始するが・・・

どこかジョニー・デップとシャーリーズ・セロンの『ノイズ』を思わせる雰囲気があったりと、予備知識ほぼゼロの状態で観ていたため、序盤の展開にはスッと入っていくことができた。記憶喪失物というのは、小説であっても映画であっても、始まりはたいてい面白いと決まっているのである。問題は、記憶を取り戻す方法とタイミングだ。もちろん、そこにも『ジェイソン・ボーン』式のきっかけとともに小出しで思い出していく方式、『メメント』式の終盤一気の思い出し方(というか説明の仕方か)、装置を使って思い出す『トータル・リコール』方式など、こちらも記憶喪失ジャンルと同様にある意味で確立されていると言える。残念なのは本作の記憶喪失とその記憶の取り戻し方が、あまりにもご都合主義過ぎるところ。良かったところは、失われた記憶が蘇ったことで分かるリアムとジェーンの本当の関係の意外性。しかし、この映画の最も残念な点は、テーマを絞り切れなかったところであろう。主題は分かりやすい。半径15m以内の生物を問答無用で即死させてしまう謎の現象だ。しかし、テーマが薄い。というか分散させすぎである。ジャンル分けするとすれば、SFであり、スリラーであり、記憶喪失物であり、ロードムービー的要素もあり、ロマンス要素もある。敢えて絞るとすると、良心への目覚めということになるのだろうか。しかし、タイトルにもある(r)adius=半径について、もっともっと深掘りするべきだし、観る側はそれを期待する。エレベーターのシーンはサスペンス感があったが、他にも例えば、リアム一人でボートで湖にこぎ出してたんまり魚をゲットしてくるなど、二人の逃避行にもっとほのぼのとした要素を入れてくれないと、オチとの落差があまり感じられず、結果的に着地で失敗したとの印象だけが強めに残った。誰も漫画の『B-SHOCK!』みたいなのは期待していないのだから。

もともと梅田のシネリーブルの未体験ゾーンの映画たちの一つとして公開されていた当時、都合がつけられず劇場鑑賞ができなかった。まあ、レンタルで観て、それなりに満足したということで、良しとしようではないか。ちなみに本作のジェーンは、ジェーン・ドウ=Jane Doeから来ている。身元不明の女性はジェーン・ドウなのだ。ちなみに男になるとジョン・ドウ=John Doeとなる。『マイノリティ・レポート』でトム・クルーズが一瞬言及するシーンがあるので、熱心なトム様ファンは見返してみてもいいかもしれない。直近では『ジェーン・ドウの解剖』、近年だと『ブラック・ダリア』がジェーン・ドウものの秀作かな。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, カナダ, シャーロット・サリバン, ディエゴ・クラテンホフ, 監督:キャロライン・ラブレシュ, 監督:スティーブ・レナード, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『(r)adius』 -ひとひねりは効いているが、着地に失敗したSFスリラー-

『セブン・シスターズ』 -七姉妹がシェアするアイデンティティが壊れる時-

Posted on 2018年7月28日2020年2月13日 by cool-jupiter

セブン・シスターズ 60点

2018年7月26日 レンタルDVDにて観賞
出演:ノオミ・ラパス グレン・クローズ ウィレム・デフォー
監督:トミー・ウィルコラ

原題は”What happened to Monday?”、「月曜日に何が起こった?」である。時は2073年、人口の爆発的増加により、水や食料、エネルギー資源のシェアが困難となり、戦争や紛争が頻発。それにより国家は衰退したものの、科学技術は進歩。より生産性の高い農作物を創り出すことに成功した。しかし、それは両刃の剣で、それを食べた女性は多胎児を妊娠するようになってしまった。ヨーロッパ連邦は人口管理の重要性を唱え、「一人っ子政策」を厳密に実施していた。二人目以降の子どもはクライオ・スリープにより、資源問題が解決される未来に目覚めることになっていた。そんな中、テレンス・セットマン(ウィレム・デフォー)は疎遠になっていた娘の出産に立ち会っていた。娘は七姉妹を出産、そのまま死亡した。残されたテレンスは秘密裏に孫娘たちを育てる。一人が指の先端を切断する怪我を負ってしまった際には、心を鬼にして残りの六人全員の指先を包丁で切り落としたほどである。そして娘たちが30歳(ノオミ・ラパス)に成長した時、祖父はもはやいなくなっていたものの、それぞれがその世界では一人のカレン・セットマンとして銀行員として働いていた。そして月曜日がある日、帰ってこなかった・・・

古くは『ソイレント・グリーン』、やや古いものでは『マイノリティ・レポート』、近年では『ハンガー・ゲーム』や『インターステラー』に見られるようなディストピアは、ありふれてはいるものの、ユニークな世界観を構築することができていた。食糧不足、生体情報管理社会、独裁者による体制・権力の維持などと書いてしまえば陳腐そのものだが、七姉妹が各曜日ごとに一人の人間を演じきるという点に、本作の独自性がある。一卵性の多胎児なので同一の遺伝子を有しているにもかかわらず、この月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日はそれぞれに実に個性的である。ある者はコンピュータ・ギークであり、ある者は格闘技に精通している。ある者は便器に嘔吐し、ある者はシャワーを浴びながら官能的な台詞を口にする。それぞれが互いに反目することもあるものの、協力しながら日々を過ごしていた。しかし、月曜日が帰ってこなかった日を境に、彼女らは自分たちの身に何かが起きつつあることを知る。そして、月曜日に何が起こったのかを追究していく。

なぜ月曜日は消えたのか。なぜ姉妹の連帯は破られたのか。本作を観賞する前に、ここのところを考え抜けば、ひょっとすると本編を見ずして真相に迫れる人もいるかもしれない。というか、このレビューもこの時点で、すでに重大な情報をバラしてしまっているわけだが、果たして貴方もしくは貴女は気付いただろうか。なにはともあれ本作を観賞してほしい。Jovian自身もシネマート心斎橋で観賞をしたかったが、スケジュールが合わずに劇場で観賞できなかったことに悔いが残る作品だった。『プロメテウス』以上のセクシーシーンから、『アンロック/陰謀のコード』並みのアクションシーンまであり、決して観る者を飽きさせない。あまりの気温の高さに外で遊んでいられないという向きは、レンタルやネット配信でどうぞ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, イギリス, ウィレム・デフォー, ノオミ・ラパス, フランス, ベルギー, 監督:トミー・ウィルコラ, 配給会社:コピアポア・フィルムLeave a Comment on 『セブン・シスターズ』 -七姉妹がシェアするアイデンティティが壊れる時-

『セッション』 -責める者と攻める者の一体化がもたらす究極のカタルシス-

Posted on 2018年7月27日2020年1月10日 by cool-jupiter

セッション 70点

2018年7月23日 WOWOW録画観賞
出演:マイルズ:テラー J・K・シモンズ
監督:デイミアン・チャゼル
製作総指揮:ジェイソン・ライトマン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180727013917j:plain

  • ネタバレに類する記述あり

原題は”Whiplash”、鞭打ちとジャズの名曲のタイトルのダブルミーニングである。または、第三の意味を持つTriple Entendreなのかもしれない。文字通り、鞭で打つが如くの言葉の暴力と折檻を繰り返す音楽学校の鬼教官テレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)と世界一のジャズドラマーになることを志す若きアンディ・ニーマン(マイルズ・テラー)。アンディの青春というか、ボーイ・ミーツ・ガール的展開もあるが、安心してほしい。すぐに終わる。というかアンディが終わらせる。君と会う時間も惜しい、練習をしたい、君と会ってもケンカを繰り返すばかりになってお互いに気まずくなる、だから今のうちにきれいに別れよう。それがアンディの言い分である。アホである。ドラム馬鹿である。よく失うものが何もない者は強いと言われるが、果たしてそうだろうか。守るものを持っている者の方が強いと思われる例も多々あると思うが。本作はそうした命題にも一つの答えを提示する。非常に興味深い答えである。

鬼教官と夢見る学生のぶつかり合いと言えば聞こえは良いし、激しいぶつかり合いが互いへのリスペクトにいつしか昇華するのだろうと予想するのはいとも容易い。しかし冒頭から物語が描き出すのはフレッチャーによる一方的な虐待である。正しくはアンディとフレッチャーの出会いの二日目からというべきだろう。フレッチャーの第一印象は、少なくともアンディにとってはすこぶる良かったからだ。フレッチャーはアンディのドラムの腕を認め、血筋や親の教育にその才能の源泉を求めたがるが、フレッチャーは音楽一家の生まれ育ちではない。それゆえに音楽学院の教授に、ある意味で見初められたのは、望外の僥倖だったことだろう。そして、翌日から、彼は地獄の責め苦を味わわされる。

その責めの苛烈さは実際の映画を観てもらうしかない。これまでJ・K・シモンズと言えば、色んな映画に脇役として色彩を添えることが多かった。最も印象的なのはサム・ライミの『スパイダーマン』シリーズの編集長だろう。『サンキュー・スモーキング』でも主人公のエッカートの上司として、ウィリアム・H・メイシーと共にどこかで観たことあるオッサンを好演していた。これらの役どころでは、本人はいたってシリアスであるにも関わらず、我々はそこに巧まざるユーモアを見出してしまうのである。けだし匠の技である。近年では『ワンダー 君は太陽』でオーウェン・ウィルソンが、『ハクソー・リッジ』ではヴィンス・ヴォーンが同じような路線の演技を堪能させてくれたが、本作におけるJ・K・シモンズは、ついにキャリアを代表する作品を手に入れた、というよりも自ら作り出したと言えよう。ブラック企業の経営者、あるいは軍隊にいる鬼教官、そうした言葉でしか名状しようのない情け容赦のない指導である。しかし、単にどなり散らすだけの役ではない。指先に至るまで神経を張り巡らさせたその演技により、我々はこの男に本物の指導者としての姿を見出すのである。アンディが学外でフレッチャーがピアノを演奏するのを見る機会を得る。鍵盤を慈しむかのようにピアノを弾くその姿に、アンディはフレッチャーの音楽への愛を見出す。そこで二人は言葉を交わす。フレッチャーは「第二のチャーリー・パーカーがいたとすれば、その男は絶対に諦めない」と切々と語る。その言葉にアンディは世界一のジャズドラマーになる夢を持つ自身を重ね合わせる。観る者はチャーリー・パーカーが誰であるかを知らなくても、何となくその凄さを理解できるようになっているのが脚本と演出の妙であろう。Jovian自身もRod Stewartの“Charlie Parker Loves Me”で名前だけ知っているぐらいだったが、フレッチャーの鬼のしごきの裏にある理想を追求してやまない、ある意味での求道者としての姿を見た時、クライマックスはこの歪な師弟の和解になるのかと思っていた。そんな予想は見事に打ち砕かれた。興味のある向きは日野皓正でググってみるとよいだろう。一頃、ワイドショーを賑わせたので、覚えている方もおられよう。あの時、日野氏はどう振る舞うべきだったのか、何をすれば良かったのか。その答えが本作にはある。というよりも、このドラマーは『セッション』を観ていたのではなかろうか。ヴォーカルと楽器の対話で個人的に最も印象に残っているのはB’zの『Calling』のイントロのギターと稲葉の歌唱、洋楽ではベタだが、やはりRod StewartとRon Woodが『Unplugged… and seated』で魅せた“Maggie May”か。音楽をやる人間というのは往々にして我が強く、音楽性の違いで解散するバンドは結局、カネの取り分で揉めて解散しているんだろうと思っていたが、実は結構な割合のバンドが“音楽性の違い”を理由に本当に解散しているという。フレッチャーが否定に否定を重ねるアンディーの音楽性が爆発するクライマックスは必見である。まるでボクサー同士が激しい殴り合いの末に互いへの尊敬の念を育むかのようなぶつかり合いは、観る者に息を吸うことすら忘れさせかねない迫力がある。爆音上映をしている時に、無理して観ておけばよかったと、後悔だけが今も募っていく。

本作のマイルズ・テラーのドラム演奏に感銘を受けた向きは、Rod Stewart & The Facesによる

www.youtube.com

のケニー・ジョーンズのドラムソロを観賞してみよう。若かりしロッドとロンも見られる貴重な映像である。それにしてもマイルズ・テラーはボクサーからドラマーまで何でもやる男だ。ハリウッドで売れるためには、渾身で臨まねばらないということを教えてくれる俳優だ。時間を見つけて、この男の出演作は一通り全てチェックしてみたいと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, J・K・シモンズ, アメリカ, ジェイソン・ライトマン, ヒューマンドラマ, マイルズ・テラー, 監督・デイミアン・チャゼル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『セッション』 -責める者と攻める者の一体化がもたらす究極のカタルシス-

『ビニー 信じる男』 -Because I can’t sing or dance.に替わる、もう一つの答え-

Posted on 2018年7月24日2020年2月13日 by cool-jupiter

ビニー 信じる男 70点

2018年6月 レンタルDVDにて観賞
出演:マイルズ・テラー アーロン・エッカート
監督:ベン・ヤンガー

原題は”Bleed For This”、「この為に血を流せ」である。実在のボクサー、ビニー・パジェンサのカムバック・ストーリーである。一定年齢以上の熱心なボクシングファンであれば、世界タイトルマッチが15ラウンド制だった頃のことを覚えているだろう。若い世代には、具志堅用高より下で、辰吉丈一郎より上の世代のボクサーだと言えば、何となく伝わるだろうか。

この映画はボクシング映画というよりも、夢追い人の物語だ。赤井英和がかなり昔に朝日新聞か毎日新聞かの紙面インタビューで「ボクシングはピークの時の自分のイメージが強く残る。だからやめるにやめられない」と語っていたし、吉野弘幸もおそらく最もアドレナリンが分泌された試合はクレイジー・タイガー・キム(金山俊治)だったのだろう。そこで引退しておけば良いものを、キャリアの晩節は連戦連敗だった。それもこれも、ピークの自分のイメージが忘れられないからだ。または、ジョー・カルザゲの言うように「歓声とスポットライトには中毒性がある」からだ。

ビニー・パジェンサを演じるはマイルズ・テラー、そのトレーナーのケビン・ルーニーを演じるはアーロン・エッカート。エッカートはいぶし銀の代名詞のようだ。主役も張れるが、縁の下の力持ち的な役割が似合う。それにしてもマイルズ・テラーはボクシングの型が相当に出来ている、身に付いている。どれくらいトレーニングを積んで撮影に臨んだのか。シルベスター・スタローンは『ロッキー』では相当ストイックにトレーニングを積み、ボクサーを演じる(acting)を通り越して、ボクサーになっていた(being)が、『ロッキー2』では一転して、明らかに当たっていないパンチをもらった演技になっていた。大金を稼ぐと誰でも一度は堕ちてしまうものなのだろうか。しかし、テラーや、最近では『レッド・スパロー』で、バレーシーンはダブルを使って、後からデジタル処理したのではないかという疑惑を一蹴したジェニファー・ローレンスなど、演技を通り越して「役そのものになりきる」役者が増えている。もちろん、日本にもそうした役者は数多くいるが、なりきりの到達度の面でどうか。MLBとNPBを比較するようだが、『セッション』におけるマイルズ・テラーのドラム演奏と『坂道のアポロン』における中川大志のドラム演奏は、同列には語れないだろう。日本にも『ボックス!』や『百円の恋』などの佳作があるが、『サウスポー』や『ミリオンダラー・ベイビー』に匹敵するかと言われれば、あくまで個人の主観ではあるが、残念ながら答えは否である。

本作のある意味での最大の見どころは、最後のインタビューにある。現在のビニー本人にJovianがインタビューすれば、違う答えが返ってくるかもしれないが、1990年代のビニーに「貴方が闘う理由は●●●なのか?」「貴方がカムバックする理由は■■■なのか?」と尋ねれば、おそらくビニーは「然り」と答えるだろう。●や■には、冒頭で書いたようなボクシングそしてボクサーに特有の思考や感性を当てはめてくれればよい。ちなみに記事のタイトルにある“Because I can’t sing or danec.”は『ロッキー』でロッキーとエイドリアンがスケートリンクで会話をしている時の一言。「なぜ闘うの?」とエイドリアンに尋ねられたロッキーの答えがこれである。本作は、ボクサーが闘う理由に、もう一つ別の解を与えたとも言えるだろう。スポーツドラマとしても秀作だが、打ちひしがれた男の再生を、セミドキュメンタリー風の再現VTRにしたものとしても鑑賞に堪える優良映画である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アーロン・エッカート, アメリカ, スポーツ, マイルズ・テラー, 監督:ベン・ヤンガー, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『ビニー 信じる男』 -Because I can’t sing or dance.に替わる、もう一つの答え-

『BLEACH』 -続編の製作は必要なし-

Posted on 2018年7月23日2020年1月10日 by cool-jupiter

BLEACH 20点

2018年7月22日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:福士蒼汰 杉咲花 吉沢亮 長澤まさみ 江口洋介 真野恵里菜 田辺誠一 早乙女太一 MIYAVI
監督:佐藤信介

* 以下、ネタバレあり

Jovianは原作を読んだことがないし、これからも読む予定は無いが、残念ながら本作は2018年の邦画ワースト5に入るであろうということは直感的に分かる。『修羅雪姫』に始まり、『図書館戦争』『GANTS』『アイアムアヒーロー』『いぬやしき』で我々を魅了してくれた佐藤信介はどこに行ってしまったのだ?まあ、『デスノート Light up the NEW world』のような珍作もこの人は作ってしまったこともあるのだけれど。もしかして青年漫画は上手く映画化できても、少年漫画は不得手なのだろうか。

黒崎一護(福士蒼汰)は、幼い日に母(長澤まさみ)を亡くしてしまう。その原因が何であるのかを知ることがないままに高校生になったが、一護には霊が見えるという特異体質があった。ある時、突如自宅に大穴が空き、妹が謎の存在に攫われる。その化け物、虚(ホロウ)と闘う謎の少女の姿をした死神、朽木ルキア(杉咲花)。そのルキアから死神の力を与えられることになってしまった一護は、人間世界の理とは異なる存在たちとの戦わなくてはならなくなってしまう。

これだけなら、なかなか面白そうな導入である。実際に日本のエンタメCG製作では間違いなく最高峰の白組が手掛けるホロウたちの迫真性は見事なものである。ただ、白組に関しても『寄生獣』、『シン・ゴジラ』では素晴らしい仕事をしたと思うが、『DESTINY 鎌倉ものがたり』はあまりにもCG臭さがあふれていて、全てを手放しで評価できるわけではないと思っている。本作の問題点は大きく3つに大別できる。

1つは、登場人物たちの関係の描写があまりにも希薄であるということ。その最たるものは一護の母(長澤まさみ)と父(江口洋介)であろう。冒頭のシーンは一護という男の子の心根の優しさを描くことはできていたが、母の愛情についてはあと一歩踏み込んだ描写がなかった。それが無かったが故にか、「時々母の夢を見る」と呟く一護に対して、父は「俺は毎日見る」と返す。そのコントラストは父親の大きさの影に隠れた弱さと、生意気盛りの息子の奥底に隠れている母への思慕を浮き彫りにする非常に重要なシーンだ。だが、その冒頭とクライマックスバトル直前の江口のキャラのあまりの軽さと軽率さが、せっかくの良いシーンの余韻を台無しにした。その他で目立った欠点は、一護とクラスメイトたちの関係性。ここが深掘りされないままなので、一護が死んだという冗談を繰り返す級友や、一護が好きであるというキャラ(真野恵里菜)やチャド?というポテンシャルを秘めていそうで結局そのポテンシャルを発揮しなかったキャラが、クライマックスで輝けなかった。

問題の2つ目は、まさにそのクライマックスシーンである。なぜ一護は郊外の山奥もしくは山頂近くに現れた因縁のホロウを市街地に誘い込む、もしくはそのホロウ相手に市街地に逃げ込むのか。原作もおそらくそうなっているのだろうが、なぜそうしたアホな行動を取ってしまうのかについての合理的な、あるいは論理的に納得できる説明も描写もなかった。それ以外にも細かい部分ではクインシー?とかいう種族の生き残りの石田雨竜(吉沢亮)がホロウを多数おびき寄せるシーンがあったが、結局退治したホロウは一匹だけで、後はどうなったのか説明は一切なし。また田辺誠一のキャラも、異様な雰囲気を発することには成功していたが、ルキアに謎のアイテムを渡したり、一護のクラスメイトに唐突に話しかけたりと、とても身を隠していなければならない元・死神とは思えない行動の数々。とにかく各キャラの行動原理や関係性があまりにも浅く薄く、とても観る側の共感や納得を得られるものではない。

問題の3つ目は、あちこちで行われていた(としか感じられない)アフレコに見られる無造作としか言えない編集である。いや、アフレコ自体はありふれた技術や編集過程なので全く問題ないが、それがすぐに分かってしまうような形で世に送り出すのはプロフェッショナリズムの欠如と批判されても仕方がないだろう。その他にも、意図的としか思えない学習塾関連のステマ。最も原作ファンが多い層に、何か訴えかけたいものがあるのかも知れないが、最後のバトルシーンでも、甚大なダメージを被った駅前繁華街で、なぜか塾関連の看板や表示がやたらと生き残っていた。原作がそうなのか、それとも監督から中高生へ何らかのメッセージを送っているのか。またMIYAVIという役者はどうにかならなかったのだろうか。OKテイクを何とか継ぎ接ぎしてあの出来ならば、途中からでもキャスティングを変更することはできなかったのだろうかと頭を抱えざるを得ない程の大根役者ぶりを発揮してくれた。

もちろん収穫もある。土屋太凰に続く、アクションができる女性俳優として、杉咲花には大いに期待が持てる。吉沢亮も、『ママレード・ボーイ』では孤軍奮闘の感があったが、今作でも存在感は示した。スルー予定だったが『猫は抱くもの』を観たいと思えてきた。しかし、総じて欠点ばかりが目立つ作品となってしまった。続編を作る気満々のエンドクレジットには辟易したが、逆に『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』の続きが観たくなってしまうという、思わぬ副作用というか副産物をもたらしてくれた。まあ、それぐらい酷い作品だったということ。頼むぜ、佐藤さんよ!

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, E Rank, アクション, 吉沢亮, 日本, 杉咲花, 監督:佐藤信介, 福士蒼汰, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 長澤まさみLeave a Comment on 『BLEACH』 -続編の製作は必要なし-

『君が君で君だ』 -この映画に共感する人は犯罪者予備軍か熱心な映画ファンか-

Posted on 2018年7月20日2022年2月20日 by cool-jupiter

君が君で君だ 65点

2018年7月19日 梅田ブルク7にて観賞
出演:池松壮亮 キム・コッピ 満島真之介 大倉孝二 YOU 向井理 高杉真宙 光石研
原作・脚本・監督:松居大悟 

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韓国から日本にやってきたパク・ソンヨン(キム・コッピ)にストーカー行為をする尾崎豊(池松壮亮)、ブラッド・ピット(満島真之介)、坂本龍馬(大倉孝二)の話である。以上、終わり。で、済ませてもよいが、それではあまりに芸が無いし、不親切であるし、記録にもならない。ストーカー映画というジャンルが映画において確立されているかどうかは寡聞にして知らないのだが、小説には傑作がいくつもある。Jovianの印象に強く残っているのは大石圭の『アンダー・ユア・ベッド』と吉村達也の『初恋』である。Amazonの関連商品を見るに、まだ他にもたくさんの未読の傑作がありそうだ。

元々、ブラピが恋人に振られた日に、尾崎とやけくそカラオケをしていた店で働いていたのがソンヨン、通称ソンであった。その夜、繁華街で酔った勢いで誰かれ構わず難癖をつけて行くブラピと尾崎は、女性に絡むチンピラに勢いで特攻する。当然返り討ちにあうわけだが、ソンがビール瓶を割って、男たちを脅かすことで事態は収拾。怪我で流れた血をハンカチで拭ってくれたソンに、二人は一気に恋に落ちる。そこにソンの元彼の坂本龍馬も加わり、ソンの家の裏手のアパートを借り、3人でソンを守る国を建国し、日夜ストーカー行為に励む。そんな奇妙な生活も10年目になっていた・・・

ストーカーという概念が認知されるようになったのはいつごろだったか。個人的に思いだせるのは、確かテニス選手のマリー・ピアースが元彼だったか父親だったかに付きまとわれていて、警察に相談した。裁判所は男の方に、半径20mだか50mだかに近づいてはならないと命じた、というような話をテニス中継の実況中に聞いた覚えがある。現代ではストーキングは、単に物理的に付きまとうだけではなく、ゴミ漁りや盗聴、無言電話および実際の電話、さらにはSNSでのストーキングなど、その行為のエスカレートする一方のようだ。

尾崎、ブラピ、坂本の三人は、ソンを姫に、そして自らを兵士に譬える。これは上手い比喩だ。軍の格言に「良い兵士とは考えない兵士だ」というものがある。言い得て妙であろう。軍の作戦行動には大抵の場合、損耗が織り込まれている。その現実を頭から追い出せないような者は従軍などできはしない。この三人組も同工異曲である。自分たちの好意を客観視できれば、このような犯罪行為を続けられはしないし、ソンが同居の恋人(高杉真宙)から虐待されるのを盗聴していながら、それを助けず、通報もせず、不気味な祈祷に耽る姿には嫌悪感を抱くしかない。

ことほど然様に狂った男たちを現実に呼び戻せるものは何か。本作のその回答として、カネと暴力を提示する。ソンの恋人が作った借金の取り立てにやって来る。友枝(向井理)とそのボスの星野(YOU)である。2人は彼らの国の入管を経ずに文字通り土足で入り込んでくる。それでも3人組は偏執な愛情を変えることなく、なぜか王子に借金返済の手伝いをさせて下さいとまで申し出る。ここまで来るとコメディだが、彼らの執拗な愛情に純粋さと美しさを見出した借金取りたちにも変化が表れ始める・・・

この映画の結末は賛否両論を巻き起こす。それは間違いない。しかし、純愛派が賛成するわけではないだろうし、否定派が異常な愛情そのものを否定するわけではないだろう。そのことは友枝というキャラクターの「自分は半端でいいっすわ」という台詞とその後の言動に現れる。おそらく中途半端なスタンスを取る、この結末を受け入れることができる自分と受け入れられない自分がいるというモヤモヤ感を良しとできれば、それで良いのではなかろうか。

エンドクレジットは絶対にその目に焼き付けてほしい。こういう効果を狙って松居大悟監督はこのようなキャスティングにしたのだろうか。自分がストーカー被害に遭うことも、自分自身がストーカーになることも、これはどちらも起こりうる。観客という立場からこの物語を眺めていた自分の頭を、監督にガツンと殴られたかのような衝撃を感じるクレジットであった。あのタイミングで、最後にYOUとか表示されたら、「え、俺もこの映画に登場してたの?」みたいになるでしょうよ、そりゃあ。惜しむらくは、“女子高生の頃から20年間同じ女性にストーカー行為をしていた男が逮捕された”というニュースが割と最近あったことで、映画のインパクトが薄まってしまった感は否めない。そういえば福山優治の『そして父になる』も、そんな感じだったな。現実は時に映画よりも奇なり。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, キム・コッピ, ロマンス, 日本, 池松壮亮, 監督:松居大悟, 配給会社:ティ・ジョイLeave a Comment on 『君が君で君だ』 -この映画に共感する人は犯罪者予備軍か熱心な映画ファンか-

『コクリコ坂から』  -戦争の傷跡残る時代の青春群像劇-

Posted on 2018年7月19日2020年2月13日 by cool-jupiter

コクリコ坂から 65点

2018年7月18日 レンタルDVDにて観賞
声の出演:長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 柊瑠美 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之
監督:宮崎吾朗 

ジブリっぽいイントロから、韓国ドラマにありがちな展開に進み、最後はきれいに着地をした。そんな印象の作品である。1963年という第二次大戦の終了後10年を経ていない時代に生きる高校生の海(長澤まさみ)、通称メル。フランスで海の意である。よく言われることであるが、日本語では「海」の中に「母」がおり、フランス語では「母」の中に「海」がある。イントロはまさに無言のままに海というキャラクターの属性を描き切る。それは母親の不在を見事にカバーする母としての海である。海たちが住むコクリコ荘は太平洋に臨み、妹の空と弟の陸、祖母の花、その他の居候たちと穏やかに暮らしていた。陸海空と聞けば、それだけで軍を想起するが、海の父親も海軍の軍人で、朝鮮戦争で戦死していた。海はそれでも父の眠る海に向けて、信号旗を毎日上げる。それに応える詩が、学校で発行される週刊カルチェラタンに掲載され、それを読んだ海は顔を赤らめる。私情ではなく詩情にほだされるところが時代の違いをあらためて浮き彫りにしている。

そんな海はある日、学生食堂で友達と食事をしている時に、カルチェラタンという学校の部室棟を取り壊すという計画に抗議するため、校舎の屋根から貯水池に飛び込んだ男子に手を差し伸べた。風間俊(岡田准一)との邂逅である。田舎育ちの今の70歳代ぐらいの親戚に言わせれば、「手をつないだら、もう相手には妊娠するものぐらいに感じていた」と言う空気が当時はあったらしい。しかし舞台は横浜。神戸や長崎と同じく、いやそれ以上に先進的で開けた都市だ。メルもそこまでうぶではなかった。本当の意味でメルが俊にキュンとなるのは集会の場だったのだろう。カルチェラタンの取り壊しに賛成する生徒と反対する生徒の弁論による対決である。俊は高らかと述べる、「古いものを壊すのは、そこにある文化や歴史を壊すのと同じではないのか」と。何というマルキズム! 何という唯物史観的思考!おそらく今の(2010年代)の高校生でも同じように考える者はいるだろうし、それは原作発刊当時の1980年代でも同様だろう。ただ、そうした知識や思考を彼ら彼女らがどこでどのように得たのかを思うと、感動に近いような気持ちになる。Wikipediaがあるような時代ではないのだ。戦後10年も経ない時代、脱亜入欧政策は失敗だったと認めつつも、学ぶべきものは素直に学び、間違いであると思えるものに対しては疑義を差し挟むことを恐れない若者が本当にいたかどうかは別にして、学生運動とはそういうものだったはずだ。現に我々は、かなり頼りない存在および現象に映っていたが、SEALDsという物言う若者の集団に、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、大いに刺激を受けたではないか。そういうわけで、メルが弁論する俊にコロッといってしまっても不思議は無いわけだ。というか、相手を曲学阿世と罵ることができる高校生が今日日、どれくらいいるだろうか。まあ、こうした言葉がどのような人間を指すのかを、我々が原発擁護に血道を上げる東大教授達の姿を見て知るわけである。

閑話休題。メルと俊の二人は順調に距離を縮めるが、ある戦争の傷跡が二人の間に壁を生じさせる。それでもカルチェラタンの大掃除や週刊誌のガリ版の原稿作りなどを通じて健気につながりを保つ二人にしかし、そのカルチェラタン取り壊しが正式に決定したという悲報が届く。生徒会長の水沼と二人は理事長に直談判しに、東京へ向かうが・・・

ここまででクライマックスの手前になるのだが、かなりテンポよく物語が進む。近所のTSUTAYAで借りてきてから1回通して観て、その後英語字幕で2回観た。ペーシングが素晴らしい。無駄なカットや台詞が一切排除され、物語を引き締めている。その一方で、主題は若い2人のほろ苦すぎる青春である一方、戦争の残した爪痕がテーマとして重くのしかかるストーリーでもある。話の重要な舞台装置であるカルチェラタン同様に、かなり衒学的な要素もあり、正直なところ、中高年がノスタルジアに浸るには良い作品だが、現代の青少年に、上辺の物語の底に流れる重いテーマを消化してほしいと願うのは少々しんどいかもしれない。お盆の帰省で田舎に帰る大学生や、もしくはそうした都会から帰って来て携帯をいじるくらいしかすることがない大学生と一緒に、家族や親せきと観賞するのも一興かもしれない。『火垂るの墓』では重たすぎるから。

本作は、観終った直後にもう一度、イントロのシーンに戻って欲しい。全く同じ構図のシーンが音楽の違いだけで観る者に全く異なる印象を与えてくれることに軽い驚きを覚えることだろう。その他、複数回の観賞に耐えるディテールへのこだわりも多い。観る人は選ばないが、楽しめる、もしくは何かを得られるという人をかなり選びそうな作品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ロマンス, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『コクリコ坂から』  -戦争の傷跡残る時代の青春群像劇-

『虹色デイズ』 -裏のヒロインは日本版スウィート17モンスター-

Posted on 2018年7月19日2020年2月13日 by cool-jupiter

虹色デイズ 60点

2018年7月16日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:佐野玲於 中川大志 高杉真宙 横浜流星 吉川愛 恒松祐里 堀田真由 坂東希 山田裕貴 滝藤賢一
監督:飯塚健

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180719003056j:plain

男子校のノリを共学に持ちこんだら、きっとこんな感じなのだろう。もしくは男子寮か。Jovianはどちらもよく知っているのでなおさらそう感じた。男は基本アホな生き物だが、恋は盲目とはよく言ったもので、片思い中の男は本当にアホになる。ここで言うアホというのは認知的不協和を起こしているということ。毎朝必死で自転車をこいで、目当ての子の乗る電車に追い付いて、何とか話をして、タオルを貸してもらえるところまで行ったのに、連絡先も訊けない。なぜなら「そんなことはしてはいけないんじゃないか。不純ではないのか」と思いこんでしまうから。何も心理学用語を使うまでもなく、思考と行動に矛盾があることは分かる。

主人公は一応、羽柴夏樹=なっちゃん(佐野玲於)ということらしい。この男が上のような行動に出て、小早川杏奈(吉川愛)といかにお近づきになるのか。それがメインの物語である。ではサブのプロットは何なのか。夏樹の親友(悪友というか悪童連というか)に松永智也=まっつん(中川大志)、直江剛=つよぽん(高杉真宙)、片倉恵一=恵ちゃん(横浜流星)は夏樹の恋を応援しながらも、高2=17歳という難しい局面にいかに対峙すべきか、自分なりに模索し始める時期を自覚していた。進学どころか進級も疑わしい者、進学するにしても地元に残るのか東京を目指すのか、女友達に囲まれてそれなりに楽しく過ごすのか、恋をするのかしないのか、エトセトラエトセトラ。

はっきり言って、どこかで観たり読んだりしたようなサブプロットのモンタージュである。メインのストーリーも少年漫画の王道と少女漫画の王道を足して2で割ったような話である。だが古い革袋に新しい酒を入れると、存外に芳醇な味わいに仕上がることもある。そしてその味わいの多くは、ヒロインである小早川杏奈(吉川愛)ではなく、その友人の筒井まり(恒松祐里)から来ている。このまりは、まさに日本版の『スウィート17モンスター』のネイディーンである。もちろん、杏奈が自分の兄と衝動的に寝てしまうという展開などは無いので安心してほしい。ただ、この兄という存在が、まりがひねくれてしまった大きな原因であると同時に、その歪みを正すべき相手に対して、まさに兄らしい言葉を投げつけるところが本作のある意味で最も重要なハイライトである。山田裕貴は良い仕事をした。まりの変化と、それを引き起こし受け止めたまっつん(中川大志)も良い仕事をした。『ちはやふる 上の句』冒頭で野村周平に啖呵を切っただけの女子高生がここまで来たかと感慨深くなる。特に本屋では、このキャラの内面と周囲との関係性を一瞬で描き切る素晴らしいシークエンスがあるので注目して見てほしい。

もう一人、滝藤賢一演じる数学教師も、ほんのわずかしか登場しないものの、強烈なインパクトを残した。実際にこういう教師はいたし、今もいることだろう。特に追試に関しては、合格者ではなく落第者を発表するというところに、アメリカ横断ウルトラクイズ的な意地の悪さを感じた。この男が進路相談で直江に投げかける言葉は案外と重い。あの一言をポジティブに受け取るかネガティブに受け取るかで、その後の直江がガールフレンドとの関係を維持できるかどうかを問われて、返す言葉に対する解釈がまるっきり異なってくるからだ。これは脚本の大いなる勝利であろう。

メインを張った佐野と吉川は大いに奮闘したものの、あの決定的なシーンにあれだけのわざとらしさ-もしくは不自然さと言い換えても良い-が残ったまま、劇場で放映されてしまったというのは、監督が妥協したか、もしくは佐野か吉川のどちらかがギブアップしたのであろう。この点は大いにプロフェッショナリズムを欠いたとしか判断できず、減点材料だ。『娼年』を10回見てこいと言いたくなる。

サブのはずの中川と恒松の物語が、メインの佐野と吉川よりも前に出てきてしまったという、オムニバス形式で作ろうとしたものが、どこかで破綻してしまったような作品で、ヒロインの吉川は漂わせる橋本愛または堀北真希のような雰囲気に辛うじて救われたという印象である。戦国武将を思わせる名字だらけのキャストのいずれかを見たいというのであれば、チケット代分の満足は得られるだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ロマンス, 佐野玲於, 日本, 監督:飯塚健, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『虹色デイズ』 -裏のヒロインは日本版スウィート17モンスター-

『ルームロンダリング』 -死んでいない ≠ 生きるの不等式、再び-

Posted on 2018年7月17日2020年2月13日 by cool-jupiter

ルームロンダリング 65点

2018年7月15日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:池田エライザ オダギリジョー 渡辺えり 田口トモロヲ つみきみほ 木下隆行 渋川清彦 伊藤健太郎 光宗薫 
監督:片桐健滋

【ありそうでなかった奇抜な職業“ルームロンダリング”】というのがパンフレットの惹句であるが、10年ちょっと前に東京には存在していた。実際にはJovian自身もそうした一時しのぎの仕事に手を出そうとしたこともある。それはさておき、今作の主題はルームロンダリング=自己物件の居住者歴の浄化であるが、今作のテーマは「生きること」の定義である。ちなみに主題とは、目に見える、もしくは手で触れられるような形で呈示されるもので、しばしば名詞で表現可能なもの。テーマとは、しばしば主題に潜む/隠されている事柄で、しばしばセンテンスもしくは名詞節の形で表現されるものと思えば良いだろう。例えば映画『ゴジラ』の主題は巨大怪獣、そのテーマは核の恐怖であり、戦争という災厄がもたらす破壊の悲惨さである。本作のテーマは『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』に通底するものがある。

八雲御子(池田エライザ)は訳あり物件に入居し、一定期間で引っ越していくルームロンダリングで生活費を稼いでいた。父はいない。母も失踪。自分を育ててくれた祖母(渡辺えり)も他界。天涯孤独だった。そこに父親の葬儀で真っ向を投げつけたとされる信長もかくや、とばかりに乱入してきたのは母親の弟、御子の伯父にあたる雷土悟郎(オダギリジョー)。悪態をついたかと思うと、おもむろに御子を連れ去り、以後、自分の経営する不動産会社(という名目の裏社会に足を突っ込んだ怪しい稼業)のアルバイトとしてルームロンダリングを任せる。足りない生活費はポケットマネーから渡す。思いやりがあるのか無いのか分からない男である。その御子はというと、自殺したパンク歌手の春日公比古(渋川清彦)、殺人事件の被害者、千夏本悠希(光宗薫)、団地の公園に住みつく少年幽霊らと奇妙な交流を通じて、自分を見失っていく。ココがまず面白い。凡百のシナリオなら、幽霊との交流を通じて、天涯孤独の少女が徐々に心を開いて、現実の社会に足を踏み入れられるようになっていく・・・となるはずだが、そうはならない。そもそも裏稼業をやっている会社のアルバイトで、経営者たる伯父も叩けばホコリが出るどころではない。また、パッと見でロマンスを予感させる二軒目のアパートの隣人の虹川亜樹人(伊藤健太郎)も、ある重大な秘密を抱えている、陰のキャラ。映像やストーリーはコメディタッチでありながら、そこで語られる物語は非常に暗い。御子が常に携帯しているアヒルは、観客にとっては信号機のような役割を果たすアイテムであるが、御子にとってはある種の精神安定剤かつ幼稚さの象徴になっている。『グーニーズ』のマイキーが喘息の薬の吸入器をなかなか手放せなかったのと同じである。あるいはスティーブン・キングの『イット』のエディと言えば分るだろうか。

その御子が変化を遂げていくきっかけとなる、橋の上のシーンがある。これは近年の邦画では稀に見る計算されたシークエンスで、電車は合成だろうか、それともタイミングを完璧にリサーチした上でのテイクだったのだろうかと、劇場鑑賞中に我あらず考え込んでしまった。また、もしもあの電車のタイミングが偶然であるのなら、伊藤健太郎のアドリブ力というか、臨機応変さは大したものである。『チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜』で中条あやみに延々と告白し続け、最後にはステージで踊りながら顰蹙を買うという印象的な役割を無難にこなしていたあの子がここまで来たかと感心させられた。

その相手役にしてヒロインの池田エライザは、今後は少女漫画原作の映画のヒロインにはなるべく使わず、本格的な女優への道を歩ませてやって欲しい。今作のようなオリジナル脚本の作品への出演が望ましい。彼女のハンドラー達には切にそうしてほしいと願う。日本とフィリピンのミックスというのは良い。Jovianがマニー・パッキャオ(昨日は予想外の勝利! でも早く現役を引退してくれ!!)好きなのもあるのだろうが、この子には華がある。色気、もしくは妖艶さと言い換えても良い。本作でも、ほんのわずかではあるが着替えシーンや入浴シーンがあるから、スケベ映画ファンは少しだけなら期待してもいい。個性的な目鼻立ち、意外と巨乳、確かな演技力・表現力というのが、どこかアナ・ケンドリックを思わせる。小松菜奈に続いてハリウッド映画から出演オファー来ないかな。そんな期待も抱かせてくれる良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, オダギリジョー, コメディ, ヒューマンドラマ, 日本, 池田エライザ, 監督:片桐健滋, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『ルームロンダリング』 -死んでいない ≠ 生きるの不等式、再び-

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