Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: B Rank

『 モガディシュ 脱出までの14日間 』 -極限状況から脱出せよ-

Posted on 2022年7月4日 by cool-jupiter

モガディシュ 脱出までの14日間 75点
2022年7月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:キム・ユンソク チョ・インソン チョン・マンシク
監督:リュ・スンワン

名優キム・ユンソク主演作。韓国が国際社会での存在感を増そうともがいていた時代を映したという意味で『 国家が破産する日 』とよく似ている。あちらも焼けつくようなサスペンスがあったが、こちらも言葉そのままの意味で手に汗握り、固唾をのんでしまう作品であった。

 

あらすじ

1990年、国連加盟を目指す韓国はアフリカ諸国の支援を取り付けようと躍起になっていた。ソマリア駐在大使ハン(キム・ユンソク)も、ソマリア大統領やその側近に接近していた。しかし、同じく国連加盟を目論む北朝鮮の妨害にあっていた。そんな中、内戦が勃発。北朝鮮のリム大使(ホ・ジュノ)は、韓国大使館へ助けを求めようとするが・・・

ポジティブ・サイド

太陽政策以来、南北は、少なくとも韓国側は融和への路線を歩んでいる。だが、本作は1990年、つまり南北がバチバチに対立していた頃の話。その争いも、北がソマリアのチンピラを雇って、韓国大使の自動車を銃撃し、大統領との面会に遅刻させるという、ユーモラスなのか深刻なのか分からないもの。だが、いったん内戦が勃発するや、わずかに残っていたユーモアは消し飛び、物語は戦場さながらの、いや戦場そのままの修羅場からの脱出劇へと変貌する。

 

まずソマリア人たちの trigger happy ぶりに怖気を奮うしかない。銃社会と言えば『 女神の見えざる手 』のアメリカが思い浮かぶが、銃を誰がどう手に入れるかではなく、誰もが銃を持ち、政権側は反乱軍に発砲するし、反乱軍も政権側に発砲する。同国人に対してそうなのだから、外国人に対して容赦などするはずもない。相手が外交官であっても反乱軍は気にしない。いや、反乱軍だからこそ気にしない。そんな恐怖感が、逆に南北朝鮮人の心を近づける。

 

命からがら韓国大使館へと逃げ込む北朝鮮外交官たちとその家族たちが、晩餐を振る舞われるが、誰もそれに手を付けない。元々一つの国家だった朝鮮半島であるが、彼らはその文壇の始まりをモガディシュに見出していたのだろう。キム・ユンソクがホ・ジュノと自分の器を無言で入れ替え、むしゃむしゃと食べ始めたところで、北朝鮮側も三々五々食べ始める。ここで、南北の女性が同時に荏胡麻の葉に同時に橋を伸ばすシーンは、人間が本来持っている思いやりというものを淡々と描く名場面だった。

 

本作は南側の視点に立っているが、北を問答無用の悪に描くことはせず、また南を無条件に善に描くことをしない。北の人間が自分たちの子どもたちに南の文化を見させまいとして、我が子の目を覆うシーンもある一方で、南の人間は北の人間すべてが暗殺者として育てられていると陰口をたたく。どっちもどっちである。この相容れない同民族が、極限状況で互いを認め合っていくのが本作の一つの見どころである。分断されるソマリアと、分断される中で統一・・・とは言わないが、一つにまとまっていく南北朝鮮の人々のコントラストが映える。非常に逆説的であるが、民族や部族がまとまるために極限状況は不要であるというメッセージが強く伝わってくる。

 

クライマックスのイタリア大使館に向けての逃走劇はカーアクションの白眉である。カーアクションだけ見れば『 新 感染半島 ファイナル・ステージ 』や『 ただ悪より救いたまえ 』よりも上である。4台のクルマが連なって銃撃の雨あられをかいくぐる一連のシークエンスは、カメラワークの巧みさもあり、非常にスリリングな出来に仕上がっている。脱出した先に見る光景、それはもう一つの分断だった。このやるせなさよ。清々しい余韻を残して終わることを良しとしない韓国映画の面目躍如である。

 

1990年と言えば湾岸戦争勃発のイメージが強く、ソマリアで内戦が起きていたことなど当時はリアルタイムで知りようがなかったし、そんな情報も自分には入ってこなかった。小学生だったから当たり前だが、当時の大人も海外の一大事といえば湾岸戦争だったはずだ。だが、そんな戦争の裏でこれほど濃密なドラマが繰り広げられていたとは知らなかった。韓国映画の勢いは、コロナ禍でも衰えを知らないようだ。

ネガティブ・サイド

南北の参事官同士が肉弾戦を繰り広げるシーンがあるが、あまりにも南が北を圧倒しすぎではないか。もっと互角の殴り合い(というか蹴り合い)をしてくれれば、終盤のカーアクション後の展開をもっとドラマチックに演出できたことだろう。

 

各国大使たちの丁々発止のやりとりや、時に支え合い、時に出し抜こうとする外交官の駆け引きが描かれていれば、終盤のイタリア大使館やエジプト大使館から協力を得られる展開がもっと感動的になったと思われる。

 

総評

韓国映画はしばしばハリウッド映画の亜種とされるが、まさにハリウッド的なテイストに溢れた作品。序盤はユーモアを交え、60分で一つ目の山場、90~105分に対立と緊張の中で芽生える南北の人間の奇妙な友情や連帯感は、陳腐ではあるが、それゆえにいくらでもドラマを生み出すことができる。『 PMC ザ・バンカー 』はスーパー・エクストリームな展開だったが、こちらは歴史的な事実に基づいている。その意味ではリアリティが抜群である。韓国映画と邦画の差は開くばかりである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

15 minutes late

『 シャンチー テン・リングスの伝説 』で紹介した 90% confident の類似表現。劇中ではキム・ユンソクが We were only 15 minutes late. = たった15分遅刻しただけなのに、と正しい形で使っていた。前にも書いたが、Jovianの以前の職場の英検1級ホルダー3名はそろいもそろって 〇〇 san will be late for 15 minutes を「正しい英語である」と認識するトンデモ英語講師であった。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アクション, キム・ユンソク, サスペンス, チョ・インソン, チョン・マンシク, 歴史, 監督:リュ・スンワン, 配給会社:ツイン, 韓国Leave a Comment on 『 モガディシュ 脱出までの14日間 』 -極限状況から脱出せよ-

『 PLAN 75 』 -姥捨て山は他山の石たりえるか-

Posted on 2022年6月25日 by cool-jupiter

PLAN 75 75点
2022年6月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:倍賞千恵子 磯村勇人 河合優実
監督:早川千絵

 

なんかこんな小説読んだなと思っていたが、小説『 七十歳死亡法案、可決 』と本作は全く別物だった。それでも10年前に提起された問題が、そのまま2022年に持ち越されているところが日本らしいと言えば日本らしい。

あらすじ

社会保障費増大の原因とされる高齢者が殺害される事件が頻発。満75歳から安楽死を選択できる法律、通称「プラン75」が施行された。客室清掃員の角谷ミチ(倍賞千恵子)は突然、ホテルを解雇されてしまう。仕事や、それまでの人間関係も失ってしまたミチはプラン75への申し込みを検討するが・・・

ポジティブ・サイド

冒頭でショッキングな事件が描かれる。高齢者施設に銃を持った男が侵入し、大量殺人を犯す。その後、速やかにプラン75成立までが描かれる。ここの描写に時間を使わなかったのは英断。『 図書館戦争 』で昭和から正化への移り変わりをダイジェスト的に描いていたのと同様の手法である。

 

ホテルの客室清掃員のミチを演じる倍賞千恵子が、どこまでも真に迫っている。70代後半でありながら年金暮らしではなく、日々あくせく仕事をしながら、同僚や友人を持ち、社会とつながりを保っている。しかし、同僚の一人が仕事中に倒れてしまったことから「高齢者を働かせるとは何事か」との投書があり、ミチらは解雇されてしまう。ここから日本社会の冷たさというか、早川千絵監督の描きたいものが見えてくる。社会参加の意思があり、その能力もあるにも関わらず、拒絶される。このあたり、Jovianは仕事柄、よく経験している。語学企業の教務トレーナーとして、学校・企業・官公庁でレッスンを担当する講師を採用・育成・オブザーブ・研修しているが、特に学校は65歳あるいは70歳以上の講師はNGというところが本当に多い。能力的にも体力的に、もちろん認知の面で問題ない講師でも、年齢だけで弾かれる。人間が人間ではなく数字で判断されてしまう世の中なのである。

 

そうして社会から孤立を深めていくミチとは対照的に、プラン75の受付業務に精勤するヒロム(磯村勇人)が描かれる。典型的な役人なのだが、そこに長く音信不通になっていた叔父が現れ、プラン75に申し込んでくる。ここで黙々と職務に励むヒロムと、叔父の死への旅路を自分が用意してしまうことに葛藤を覚える。このあたりの対照も非常に際立っている。なぜなら、叔父のプラン75を受け付けつつも、その一方で公園のベンチでホームレスが寝られないようにする仕切り金具をあれやこれやと試して、「ああ、これはもたれにくい」、「これなら寝られないな」と無邪気に感想を述べる。名前のない人間に対して、人はいともたやすく冷酷になれる。それは職務に忠実だからこそで、それこそまさにハンナ・アーレントが呼ぶところの「凡庸な悪」である。悪意のない悪と言ってもいい。

 

もう一人の重要人物として、フィリピンから来日したマリアの存在が挙げられる。祖国にいる病気の子どもを助けるための治療費捻出のために、教会から非常に shady な仕事を紹介される。それがプラン75で亡くなった人々の遺品処理。キリスト教の教会がそんな仕事の仲介をしているのにもビックリするが、では遺体の処理はどうなっている?という疑問が、ヒロムやミチの物語に絡んでくる。なるほどなと思わされた。脚本の妙である

 

切った爪をゴミ箱に捨てずに植木鉢=土に還すミチの姿に、命に対する彼女の考え方が静かに、しかし如実に表れている。人間だれしも年老いてしまえば「吾日暮れて途遠し」となる。しかし、そこで国家が「故に倒行して之を逆施す」となってはならない。残念ながら、日本は逆施倒行している。「年金は100年安心」と言いながら、「老後に自分で2000万円貯めろ」とも言っている。正直なところ、プラン75のような法案が日本で可決される可能性は2〜3%あるのではないかと疑ってしまう。社会派の硬質な映画が送り出されてきたなと思う。

ネガティブ・サイド

プラン75に対して「最初は反発していたけれど、孫のためならしょうがないかな」という女性の声があったが、こうした pro-Plan 75 の声をもっと紹介するべきだったと感じる。別にプラン75そのものが素晴らしいからという意味ではなく、プラン75へのニーズは潜在的に存在するという現実もあるからだ。Jovianの祖母が亡くなった数年後に、Jovian父はNHKの老老介護の番組を観ながら「おふくろは寝たきりになる前に死んでくれたなあ」と口にしたことがある。なんちゅうこと言うんや、と思いはしたものの、老老介護による共倒れという現実がそこにある以上、一個人の極めて健全な感想と受け取るしかない。そうした市井の声を劇中でもっと紹介してくれれば、個人の声も国家に届くということが逆説的に示されたのではないだろうか。

 

河合優実演じるコールセンター職員・成宮とミチが実際に出会う展開は興ざめ。必要なのはコールセンター側の人間の想像力であって、想像力を喚起するのは出会いではなく、声だけの触れ合いの方だろう。ミチとの電話のやり取りを通じて、成宮の社会を見る目、人を見る目が変化しつつある、ということを感じさせる演出こそがふさわしかったのでは?

 

総評

劇場はかなりの入りで、その多くが中年以上、あるいは高齢者だった。彼ら彼女らは本作が高齢者を虐げる物語ではないと直感的に感じ取ったのだろう。だからといって、高齢者を肯定する物語でもない。淡々と進行しながらも、物語の奥行きが広い。命についての深い考察がある。『 Arc アーク 』や『 いのちの停車場 』で慨嘆させられた映画ファンは、本作で大いに留飲を下げることができるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

abort

「途中でやめる」の意。プラン75はいつでも止められるということだが、この場合の止めるに当てる訳語は abort がふさわしい。stop と言ってしまうと restart してしまう可能性があるが、abort は止めてしまって、もう元には戻らない。中絶を abortion という言うわけである。  

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 国内, 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, カタール, ヒューマンドラマ, フィリピン, フランス, 倍賞千恵子, 日本, 河合優実, 監督:早川千絵, 磯村勇人, 配給会社:ハピネットファントム・スタジオLeave a Comment on 『 PLAN 75 』 -姥捨て山は他山の石たりえるか-

『 英雄の証明 』 -人は偏見から自由になれるのか-

Posted on 2022年6月12日 by cool-jupiter

英雄の証明 75点
2022年6月11日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:アミール・ジャディディ
監督:アスガー・ファルハディ

カンヌ国際映画祭のグランプリ作品ということで注目を集めていた一作。SNSによる狂騒が偉く喧伝されていたが、もっと直接的な人間関係に注目した作品だった。

 

あらすじ

刑務所から仮出所したラヒム(アミール・ジャディディ)は、婚約者が金貨入りのバッグを拾ったことを知る。着服しようという考えも頭をよぎるが、結局は拾得物として警察に届け出る。落とし主が出てこなければ、婚約者が落とし主として名乗り出ればいいと考えて。しかし、実際に落とし主が現れたことで、ラヒムは感謝され、また刑務所幹部らもラヒムを称賛し、ラヒムはTVメディアにも出演することになるが・・・

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

主人公のラヒムは徹頭徹尾、小市民である。タイトルは英雄であるが、この男を英雄と呼ぶのは難しい。人間らしいと言えば人間らしいのだろうが、心の弱さというか未熟さというか、そういったものが冒頭からずっと見えている。だが、そのことを誰が責める気になれようか。借金が返済できず刑務所に入っているというのに、婚約者がたまたま見つけた拾得物のカバンに入っている金貨を着服しようと考えるなど言語道断!などと考えられるのは、よっぽどの聖人君子だろう。

 

出所直後にバスに乗り損ねてしまったラヒムがたまたま金貨を手に入れて、しかし気まぐれからそれを届け出て、落とし主が現れた。正直な囚人として一時のメディアの寵児となるラヒムだが、アスガー・ファルハディ監督はラヒムを一方的な悪者にはしない。物語のここまでの段階で観る側はラヒムの積み重ねてきた小さな嘘や不実の数々を知ることになる。またラヒムが負った負債は結局、債権者(意外な人物!)には返せていない。英雄的な行為があっても、結局は債務者であることに変わりはない。真人間への道を歩み始めようとするラヒムだが、色々な横槍が入ってくる。それが誰によるものなのかを物語は明示しないが、観る側はあれこれと邪推してしまう。

 

そう、邪推する。邪な推測をしてしまうのである。ラヒムの視点からすれば、元妻やその家族は自分を認めようとしない分からず屋ということになるが、彼らの視点に立てば、ラヒムは借りた金を返さない不誠実な男ということになる。ラヒムが善意で金貨を持ち主に返したかどうかは大して意味を持たない。お互いの視点はすでに固定されてしまっているからだ。ラヒムおよびその周辺の人物たちは、まさに確証バイアスに囚われている。

 

これらの人間関係の不和に加えて、序盤から中盤にかけては、金貨の持ち主である女性に擁護してもらうべくラヒムは彼女を探すが、ここで『 幻の女 』風味のミステリも味わえる。また、その過程で知り合うことになる元服役者のタクシーの運転手と吃音賞の息子との一種のロードトリップの要素も併せ持っている。地味な作風ではあるのだが、エンタメ要素を盛り込むことも忘れていない。

 

終盤には、ラヒムが起こした騒動が動画に撮られてしまう。そしてその動画が拡散される危険が迫る。ラヒムのイメージ低下を防止せんと、刑務所や支援団体はラヒムの息子による父親の擁護動画を作成しようとする。結局は多数の人間の認知に働きかけようとするばかりである。これは非常に重要なことを示唆しているように思う。ある事柄が事実であるかどうかは、客観的に決まるのではなく、極めて主観的に決まるということである。英語の fact はラテン語の facio を語源に持つ、「作られたもの」という意味の語である。ラヒムが終盤に下す決断は、事実を確定させるためではなく、自分自身の誇り、名誉のための行動だった。人は自分の見たいように現実を見てしまう、つまり人にそのように見られたいという思いから行動しがちであるが、ラヒムのたどり着いた結論はそのことに真っ向から異議を唱えるものだった。 

 

最後の最後に刑務所に帰っていくラヒム。入れ替わりで出所していく男。迎えに来てくれた女性とスムーズに出会い、スムーズにバスに乗り込んでいく。彼とラヒムの違いは何であるのか。ほんのわずかなタイミングの違い、運命の気まぐれのようなものに思いを巡らせつつ、物語は閉じていく。

ネガティブ・サイド

最も重要であるべき、金貨入りバッグをラヒムとファルコンデが拾うという発端部分にかなりの曖昧さが残る。ファルコンデがバッグを拾得する。それを警察または銀行に届け出るか考える。仮出所してくるラヒムに相談するとどんな反応をするだろうか・・・というシーンがあれば、それ以前、そして以後の二人の関係性についてもっと考察を深められただろうと思う。

 

息子の吃音症の設定は必要だったのだろうか。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』でも描かれていた通り、吃音は結構な心理的なダメージを与える。はっきりとものを言えない息子を利用する「大人たち」に対してラヒムは抵抗を見せるが、ラヒム自身が息子の気持ちを代弁する、または言葉を介さずに息子と分かり合うようなシーンがないために、終盤の展開が少々陳腐になってしまっている。

 

総評

SNSが云々という宣伝文句を見かけるが、それは終盤のごく一部で、なおかつネット上で炎上が起きて・・・といったような展開はない。少なくともそうした直接的な描写はない。日本の配給会社や代理店は何故このようなプロモーションを行うのか。それはさておき、主人公ラヒムと彼の周囲の人間の誰もかれもが非常に人間らしさに溢れている。論語に「一人に備わらんことを求むるなかれ」と言うが、過去に罪を犯したからといって、今も罪を犯しているとは限らない。完全な善人がいないように、完全な悪人などもいない。イラン特有の問題ではなく、日本にも当てはまる展開が多いと感じる。偏見なしに人を見られないというのは、現代社会というよりも人間の業の問題なのだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

stutter

名詞ならば「吃音」、動詞なら「どもる」の意。英会話ではたまに

A: Come again? = もう1回言って?
B: Did I stutter? = 俺、どもったっけ?

のような皮肉っぽいやり取りをすることがある。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アミール・ジャディディ, イラン, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:アスガー・ファルハディ, 配給会社:シンカLeave a Comment on 『 英雄の証明 』 -人は偏見から自由になれるのか-

『 ザ・スイッチ 』 -コメディ・ホラーの良作-

Posted on 2022年6月5日 by cool-jupiter

ザ・スイッチ 70点
2022年6月1日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ヴィンス・ヴォーン キャスリン・ニュートン
監督:クリストファー・ランドン

公開時、MOVIXあまがさきで見逃してしまった作品。コメディ色の強いヴィンス・ヴォーンが殺人鬼・・・ではなく殺人鬼の体に乗り移った女子高生を演じる。この設定だけで惹きつけられるではないか。

 

あらすじ

冴えない女子高生ミリー(キャスリン・ニュートン)は、ホームカミングの夜に伝説の殺人鬼ブッチャー(ヴィンス・ヴォーン)に襲われる。しかし、不思議な短剣がミリーの肩に突き立てられた瞬間、二人の体が入れ替わってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から夏恒例の糞ホラー映画そのままの展開。酒を飲みながら怪談に興じ、セックスに耽る。これは100%死ぬサインである。ここでの殺しのシーンもなかなかグロテスクで見応えがある。内気な少女が運悪く連続殺人鬼に襲われるところまではあらすじにある通りだが、そこに至るまでにミリーの家族関係、学校での人間関係、そして物語上の重要な伏線の全てが無理なく詰め込まれている。なかなか練られた脚本である。

 

入れ替わり後は、ミリーのパートはホラーに、ブッチャーのパートはコメディとなる。ここでの主役二人の演技は見物である。見る者すべてを獲物として捉えるサイコパスの目をしたミリーは、あらゆる場面で惨劇の予感をもたらす。一方で巨大中年殺人鬼のブッチャーは、その表情、しゃべり、所作、立ち居振る舞いの全てが女子校生で、その一挙手一投足に笑ってしまう。この入れ替わってしまった二人が元に戻るためにスラップスティック・コメディとスプラッター・ホラー的な展開が同時進行するというところが独特で秀逸。特にブッチャーの体に入ってしまったミリー/ブッチャーが、親友のナイラとジョシュに自分こそがミリーだと信じてもらうために奮闘する一連の流れには笑わずにはいられない。一方で、ブッチャー/ミリーが気に食わない教師を殺害するシーンは、まさに『 13日の金曜日 』。

 

24時間以内に儀式を行わないと、両者の魂は入れ替わったまま。儀式のために奮闘するミリー/ブッチャーとナイラ、ジョシュの3人と、その周囲の人間も巻き込んで物語は加速する。友情あり、恋愛あり、見失っていた家族愛の再発見ありと、これでもかと詰め込みつつも、軽妙なテンポで物語は進んでいく。序盤のちょっとした一言が大きな伏線になっているなど芸も細かい。最後の最後まで観る側を飽きさせはしないぞ、というサービス精神も嬉しい。

 

設定だけで勝負しているように見せて、さにあらず。ヴィンス・ヴォーンは思いっきり女子校生になりきっているし、キャスリン・ニュートンはシリアルキラーが憑依したかのような鬼気迫る演技を見せる。映画を良作にするのは、脚本と演技の両方だなとあらためて得心した。

 

ネガティブ・サイド

冒頭以外の殺害シーンにゴア要素が足りない。いけ好かない技術の教師をブッチャー/ミリーが殺すシーンは、それこそ精巧な人体模型を作って撮影してほしかった。『 ザ・ハント 』のような低予算映画でも内臓やら血しぶきやらが飛び散るシーンには力を入れていたのだから、本作でも頑張って欲しかった。パーティーの裏で殺される男子3人も同様。あまりやりすぎると、ミリーがミリーの体に戻った時にピンチに陥ってしまうのは分かるが、そんなことまで気にする視聴者はいない。

 

終盤でダンス・パーティーが中止にされてしまうが「廃工場でやればいい」というブッチャー/ミリーのアイデアにまるで全校生徒が乗ったのかというぐらいに人が集まったが、あれだと兄弟姉妹や友人などを通じて一発で親や警察にばれるだろう。魂の入れ替わりという非現実な設定のためにも、その他のプロットは極力現実的にすべきだった。

 

総評

コロナ禍の最中に劇場公開されたホラー映画という点で『 ウィッチサマー 』と重なるが、完成度はこちらの方がはるかに上。ゴアに課題を残すも、ティーンの友情や家族愛もしっかり描写されるし、若い男女の淡い恋愛を、少年と中年オヤジの形で描いてしまうのには、笑ってしまいつつも感動してしまう。コメディ色が薄れつつあった近年のヴィンス・ヴォーンが原点に立ち返った面白コメディである。冒頭の血みどろの殺人シーンさえクリアできれば、ティーンの友情物語を堪能できるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Que Será, Será

What will be, will be. の意。英語スペイン語とでも言おうか。意味としては「なるようになる」で ”Let it be” に近い。元々のスペイン語にはない表現。その意味では『 ターミネーター2 』の ”No problemo” 的であるとも言える。「ケセラセラ」自体は日本語にもなっているはずだが、大学生ぐらいの若者にはまったく通じない。これは世代のせいなのか、それとも時代のせいなのか。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, ヴィンス・ヴォーン, キャスリン・ニュートン, コメディ, ホラー, 監督:クリストファー・ランドン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 ザ・スイッチ 』 -コメディ・ホラーの良作-

『 南極物語 』 - 南極でサバイバルする犬を活写する-

Posted on 2022年6月2日 by cool-jupiter

南極物語 75点
2022年5月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:高倉健 渡瀬恒彦
監督:蔵原惟繕

NHKの『 歴史探偵 』で南極タロジロ物語を観て、「そういえばVHSで観たな」と思い出した。しかし覚えていたのはオーロラのシーンだけ。今回あらためて鑑賞して、なかなかのリキ作であると感じた。

 

あらすじ

国際地球観測年、日本は南極へ第一次観測隊を派遣する。その中には犬ぞりを引くための22頭の犬の姿もあった。第一次観測隊は、犬たちを南極基地に残したまま第二次観測隊と入れ替わろうとするも、天候が急激に悪化。隊は基地に入れず、犬たちは南極に取り残されてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

南極の過酷さがよく出ている。実際に多くのシーンは南極で撮影したらしい。荒ぶる海、どこまでも続く極寒の大地、凍てつく風。むき出しの自然の荒々しい力が画面越しにも伝わってくる。近年の邦画にはない、非常に角度の広い、そして奥行きの深い絵がこれでもかと映し出される。映画館の大画面なら、どれほどの迫力があっただろうか。

 

1980年代なら第一次観測隊のメンバーの多くが存命だろうから、製作者や役者隊も存分に隊員たちに取材ができたことだろう。日焼け具合に無精ひげ、伸びきった髪などが、極地までの旅路、そして極致での生活がどんなものであるのかを雄弁に物語る。説明的なセリフを挿入すりゃいいんだろ、と開き直り気味の現代の作り手は、このあたりを大いに意識すべきだろう。犬ぞりでの南極観測も自然の大スペクタクルを堪能させてくれる。凍てつく大地の乾いた空気に、ヴァンゲリスの音楽が非常にマッチしており、この絵と音楽だけで画面に文字通り釘付けになってしまう。

 

人間パートも熱い。救助に来てくれたアメリカ艦船の乗員に啖呵を切るのはどうかと思うが、当時の日本人あるいは映画の作り手には日本人としての誇りや矜持があったことがひしひしと伝わる。また高倉健が「それなら自分が犬を殺してくる」と宣言するシーンも史実なのだろう。普通なら「そこまで思うか?」と感じるだろうが、見渡す限り無人の氷原で、人と犬が昼夜を問わず行動を共にすれば、連帯感などという言葉では生温い紐帯が生まれても不思議ではないだろう。

 

その南極で生き抜く犬たちのドラマが渋い。ほとんど推測なのだろうが、アザラシを襲ったり、氷に閉じ込められた小魚を食べたりというのは実際に考えられそうだし、そうした絵を実際に撮ってしまう構想力に感服する。犬たちの関係性、協力、別離、再会、生存が人間の介在なしに濃密に描かれていく。オーロラのシーンは特に素晴らしい。過酷すぎる大地にほんの少しの福音を予感させている。氷の斜面を犬が滑落したり、氷海に落ちたりと、いったいどうやって撮影したのか分からないが、雪に人間の痕跡を一切残さずこれらのシーンを全て撮り切ったのには脱帽するしかない。ドッグトレーナーにも I take my hat off.

 

犬たちが雄々しく生き、そして死んでいく一方で、高倉健は大学を辞して、犬の飼い主たちへのお詫び行脚に出る。それがまた痛々しい。特にある姉妹にリキのことを詫びる高倉健が、すべてを飲み込んでただただ沈黙する場面は名シーンである(演じている姉が若き日の荻野目慶子なのだ)。また渡瀬恒彦も婚約者との仲睦まじさを見せつけるが、完全に心ここにあらず状態。魂を南極に置き忘れてきた男を好演した。南極の男たちが日本本土で世捨て人同然になってしまう。しかし、南極の大地に再び舞い戻ってタロとジロと再会することで生気を取り戻すというコントラストが最後の最後に鮮やかに際立つ。「生きる」ということの尊さに、人も犬もないということがよく分かるリキ作である。

 

ネガティブ・サイド

製作された年代が年代とはいえ、渡瀬恒彦が犬たちに本物の鞭をふるうシーンは観ていて本当に痛々しい。犬好きにはお勧めしづらい作品になってしまっている。

 

南極隊員と犬の関係者ばかりにフォーカスしすぎで、世間一般の反応についてもう少し描写があってもよかった。当時の報道によって、一般大衆からはボロクソに叩かれたらしいが、そうした世間からの容赦ないバッシングがあれば、高倉健や渡瀬恒彦らの打ちひしがれた姿がもっと印象的になったかもしれない。

 

南極の氷原を犬ぞりで駆けていくシーンのカメラの手ブレが酷い。酔いそうになった。当時の技術的限界かもしれないが、信じられないくらいブレまくるシーンがいくつかあるので、そこも鑑賞時は注意を要する。

 

総評

『 ハチ公物語 』や『 マリリンに逢いたい 』など、1980年代の邦画には犬をテーマにした良作映画があったのだなあと懐かしく感じた。またJovian世代は子どもの頃にちょうど『銀牙 -流れ星 銀-』を漫画またはテレビアニメで観ていた。なので、本作のタロやジロたちもある程度勝手に脳内で喋らせることができたりする。犬好きなら是非観よう。高倉健や渡瀬恒彦といった大御所も出ている中、こっそり佐藤浩市も出演している。今の時代には珍しくなってしまった飾らない人間の物語、そして犬たちのドラマが堪能できる。若い世代にも観てほしい。



Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

sled

「そり」の意。あまりなじみのない言葉かもしれないが、ボブスレー = bobsled だと分かれば理解・記憶しやすいだろう。ちなみにそりには sleigh もあるが、こちらは sled よりも乗る位置が高いものを指す。クリスマスの定番曲『 Jingle Bells 』の Jingle bells, jingle bells, jingle all the way. Oh what fun it is to ride in a one-horse open sleigh. という歌詞からサンタクロースの乗るそりを連想されたし。ボブスレーは直接雪と接するが、サンタの座っている部分は雪とは直接は接しない。   

 

 にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 1980年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 歴史, 渡瀬恒彦, 監督:蔵原惟繕, 配給会社:日本ヘラルド映画, 配給会社:東宝, 高倉健Leave a Comment on 『 南極物語 』 - 南極でサバイバルする犬を活写する-

『 流浪の月 』 -善悪の境目はどこにあるのか-

Posted on 2022年5月24日 by cool-jupiter

流浪の月 70点
2022年5月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松坂桃李 広瀬すず
監督:李相日

『 悪人 』、『 怒り 』の李相日監督の作品。今回も人間社会の善悪や強弱について、非常に示唆に富む作品を送り出してきてくれた。

 

あらすじ

家に居場所のない10歳の少女・家内更紗は、ある夏、佐伯文(松坂桃李)の家で過ごすことになる。しかし、文は警察に逮捕され、更紗は元の家に帰ることに。15年後、恋人と同棲する更紗(広瀬すず)は、思わぬ場所で文と再会することになり・・・

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

まずは主演の松坂桃李と広瀬すずの脱皮に感銘を受けた。広瀬すずは冒頭からベッドシーンを披露。見せてはいないが、脱いではいるし、触らせてもいる横浜流星爆発しろ。『 ラストレター 』のような静かな役もあったが、基本的に天真爛漫な役ばかりを演じてきた広瀬すずが、初めて陰のあるキャラクターになりきったように思う。バイトに恋人との生活にと、充実した生活を送っているように見えるが、その目は常に空虚だった。文と再会してからの目とそれまでの目、あるいは文を見る目と恋人の亮君を見る時の目の違いに注目してほしい。この目の演技は素晴らしいの一語に尽きる。李相日監督の演技指導もあるだろうが、広瀬自身の演技力向上も大きいだろう。

 

松坂桃李も負けていない。『 空白 』では徐々に目から生気が抜けていく青年を演じたが、本作では最初から最後まで空っぽの目をしていた。その空っぽの目の奥には、しかし、ある光景が焼き付いていた。人生のある時点で目にしてしまったその光景によって、文の目には現実ではなく「自分」しか映らなくなってしまった。しかし、そこに更紗という存在が現れ、空っぽの目に徐々に力が戻っていく、という『 空白 』とは逆の演技を見せた。役者として着実にレベルアップしているという印象である。また、脱ぎっぷりという意味では『 娼年 』に次ぐ、ショッキングなシーンがある(『 いのちの停車場 』でも脱いでいたが、あれはノーカウント)。Jovianは看護学校で習った内容をうっすら覚えていたが、文はかなりの確率で先天的な染色体異常だろう。まあまあの確率で男は美形になるが不能になるという疾患があったと記憶している。その意味では松坂桃李のキャスティングは正解である。

 

かつての二人の幸せだった時間を回想しつつ、物語は現在を冷静に追っていく。誘拐の被害者として憐憫の情を集める更紗と、前科者としての烙印を押されっぱなしの文が、それゆえに互いを求め合うという展開には胸を打たれる。弱者とは誰なのか?善とは、そして悪とは何であるのか?当人ではどうにもならない属性をもって人を判断する、あるいは当人のものではない属性をその人に押し付ける行為を差別と定義づけるならば、更紗と文は紛れもなく被差別者であり、二人の周囲の人間の多くは差別者である。

 

「死んでもバレてほしくないことがバラされてしまう」という序盤の文の言葉、さらに「人は見たいように人を見る」という更紗の言葉から、文は真性のロリコンではなく、ロリコンを隠れ蓑に自分の性的不能を誰からも隠し通したかった、というのが真相か。だからこそ、過去のトラウマからセックスに嫌悪感を抱く更紗との奇妙な連帯関係が成立したのだろう。

 

様々に歪な親子の関係をまざまざと見せつけ、家族というものに対する希望を消していく。『 真っ赤な星 』同様に寄る辺ない二人の逃避行を予感させて物語は静かに閉じていく。この何とも言えない苦味の余韻こそ、本作が観る側に与えたかったものなのだろう。現代社会における人間関係、就中、家族に代わる新しい関係性の模索こそが、一種のタブーでありながらも今まさに求められていることであると思う。

ネガティブ・サイド

松坂桃李も子役をもっと使えなかったのだろうか。少年院に入ったということは犯行当時は未成年。『 娼年 』の時点で大学生役はギリギリセーフだが、今作での大学生役は相当無理があった。

 

広瀬すずの子役は顔の造形がそっくりでびっくりしたが、少女時代の方が声が低いとはこれいかに。まあ、似た顔と似た声なら、似た顔の方が探しやすいか。

 

ファミレスでのバイトで本名を名乗るのは現代ではほとんどないと思われる。冒頭、スマホを観ていたガキンチョどもが2007年のニュースを指して「15年前か」のように言っていたが、2022年ならファミレスでもコンビニでもコールセンターでも、労働者はほぼ全員が源氏名を名乗っている。特に更紗のようなバックグラウンドの持ち主が馬鹿正直に本名を名乗るのは非現実的に過ぎる。

 

児童相談所に通報があったわけでもないのに、いきなりリカを保護する道理はいくら警察でもないだろう。また逮捕状がない=任意同行を求めているはずなのに、実力行使に出る警察を見て、頭がクラクラした。元警官のJovian義父なら憤慨したことだろう。

 

総評

邦画特有の弱点も抱えているが、完成度の高い非常にシリアスな物語である。現代社会への鋭い問題提起も行うという、李相日監督らしい作品である。松坂桃李、広瀬すず共に表現者としての階段を確実に一歩昇ったという印象を受ける。高校生、大学生の子どもがいる親御さんは、家族で鑑賞してみてはどうか。親子関係、友人関係などについて考察を深める良いきっかけとなることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

drift away

徐々に消えていく、の意。劇中で更紗が文に語る「二人で流れていこう」の私訳。ネタバレ回避のためにそのやりとりを英語にすると

文: People might take notice of us.
更紗:Then, we can drift away.

のような感じになるだろうか。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 広瀬すず, 日本, 松坂桃李, 監督:李相日, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 流浪の月 』 -善悪の境目はどこにあるのか-

『 愛なのに 』 -不思議な愛の物語-

Posted on 2022年5月13日 by cool-jupiter

愛なのに 75点
2022年5月8日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:瀬戸康史 さとうほなみ 河合優実 中島歩
監督:城定秀夫

テアトル梅田で見逃してしまった作品。塚口サンサン劇場にて上映中。R15作品だからなのかどうか知らないが、観客の中高年男性率が非常に高かった。

 

あらすじ

古本屋を営む多田(瀬戸康史)は女子高生の岬(河合優実)に突如プロポーズされる。「自分には好きな人がいるから」と丁重に断る多田だが、岬はあきらめない。一方、ただの想い人である一花(さとうほなみ)は婚約者の亮介の浮気を知ってしまい・・・

ポジティブ・サイド

事実は小説より奇なりと言うが、この脚本は実際にはなかなか現実にはならないだろう。アラサー男が女子高生に求婚される。丁重にお断りする。またまた求婚される。丁重にお断りする。その理由は他に好きな人がいるから。しかし、その好きな人は婚約者に浮気をされていた。しかも浮気相手が自分たちの結婚式のプランナー・・・。よくこんな人間模様を構想できるなと感心する。この設定だけで面白いと感じられる。

 

女子高生を演じる河合優実が本作でも鮮やかな存在感を放つ。恋に恋する女子高生で、多田にストレートに「結婚してください」と伝える。「そんなこと(=淫行)したら俺、逮捕されちゃう」という多田に、「あ、そういうのは無しで」とぬけぬけと言ってのける。もうこれだけで笑えてしまう。微笑ましい気分になる。その後も同級生男子と多田の間を行きかい、さらには親まで出張らせる始末。まさにおぼこさと小悪魔さの両方を遺憾なく発揮している。

 

極めて対照的なのがさとうほなみ演じる一花。こちらはトップレスを披露し、妖艶な濡れ場も熱演。『 RED 』の夏帆を上回る色気を存分に堪能させてもらった。多分、劇場に来ていた中高年たちも、さとうほなみを見に来ていたのだと思われる。いや、それにしても河合優実が小悪魔なら、こちらは悪魔というか魔女、いや魔性の女?婚約者に浮気されたからと、自分も同じことをしてやろうという発想もなかなかユニークだし、その相手に自分を一途に想い続ける男を選ぶというのも、ナチュラルに鬼畜だ。元々ミュージシャンということだが、表現方法が独特。無表情なようで表情がある。感情の起伏に乏しそうで、しかし感情が時に爆発する。自然体と言おうか、演技が上手いなあと感じない。等身大の悩めるアラサー女子を act しているのではなく、等身大の悩めるアラサー女子に be しているからだろう。素晴らしいとしか言いようのない performance である。

 

本作のテーマはタイトル通りに「愛」なのだが、『 愛なのに 』という逆接の通りに、きれいに成就することがない。愛する相手から愛のない求められ方をされることがどれほど酷なことか。それでいて、その求めに応じざるを得ないというジレンマ。瀬戸康史の渾身の演技に我あらず感情移入してしまった。男性の99%は恋を引きずった経験があるはずだが、そうした気持ちがわずかでもあれば、きっとこの多田という男とシンクロできはずだ。

 

本作の撮影はおそらく三鷹市だろう。Jovianの母校は三鷹市の国際基督教大学で、見覚えのある街並みがいくつかあった。おそらくゲーセン(芸術文化センター)あたりなのではないかと思う。上連鳥というバス停にも思わず笑ってしまった。上連雀など、まさにかつての庭である。さらに物語終盤の神父様の説教が笑える。Jovianは霊肉一致の神学論を打ち出した関根正雄の弟子の並木浩一門下だったので、この神父の説教が何であるのかよく理解できた。なので一花が盛大な勘違いをしているのをニヤニヤしながら映画を鑑賞していた。おそらく濃厚なベッドシーン目的にチケットを購入していたどのオッサン連中よりも、Jovianの方がキモイ表情をしていたはずだ。まあ、それだけ刺さる人には刺さる作品になっているということである。

ネガティブ・サイド

現代風のLINEと古風な手紙。昔からの想い人である一花とのやりとりがスマホで、Z世代の女子校生の岬とのやりとりが手紙というコントラストが十全に追究されていたとは言い難かった。このあたりを愛のないセックスとセックスのない結婚との対比にまでつなげられていれば、年間ベスト級に仕上がったのではないだろうか。

 

終盤近くの多田のある台詞があまりにも陳腐である。ここはそれこそタイトル通りの「愛なのに!」でよかった。

 

総評

R15ということは、場合によっては高校生や大学生のカップルでも鑑賞できるわけだが、子どものデート向きではない。むしろ30代以上の夫婦で余裕をもって鑑賞するべき作品であると思う。愛の形はそれぞれで、何が正解というものでもない(不正解はありうるが)。男女のあれやこれやを赤裸々に語り、男にとっては非常にショッキングなセリフも聞こえてくるが、世の男性諸賢に提案したい。逆にそうしたシーンこそ呵々と笑ってしまおうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

To err is human, to forgive divine. 

「過つは人の常、許すは神の業」の意。確か高校生の時に学校で配られた『 WORD BANK 4000 』という単語帳で初めて見たと記憶している。大学の寮生活でネイティブ連中が何度か ”To err is human” と言って自己弁護しているのを聞いて「ああ、ホンマに使うんやなあ」と感動したのも覚えている。今度、仕事でミスった時に同僚ネイティブ相手に使ってみようと思う。

 

 にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, さとうほなみ, ラブロマンス, 中島歩, 日本, 河合優実, 瀬戸康史, 監督:城定秀夫, 配給会社:SPOTTED PRODUCTIONSLeave a Comment on 『 愛なのに 』 -不思議な愛の物語-

『 さがす 』 -邦画サスペンスの良作-

Posted on 2022年5月4日2022年5月4日 by cool-jupiter

さがす 75点
2022年5月1日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:佐藤二朗 伊東蒼 清水尋也
監督:片山慎三

 

テアトル梅田で見逃した作品。地元の塚口サンサン劇場で遅れて上映していたので、これ幸いとチケット購入。邦画もまだまだ捨てたものではない、と感じさせてくれた。

あらすじ

大阪市西成区に暮らす原田楓(伊東蒼)の父、智(佐藤二朗)が突如失踪した。智は前日に報奨金300万円で指名手配中の連続殺人犯を偶然見かけたと言い残していた。警察も取り合ってくれない中、楓は父の働く日雇いの工事現場を訪れる。そこには原田智という名前の全く別人が働いていた。しかし、その男は智が目撃したと言っていた指名手配犯に酷似しており・・・

ポジティブ・サイド

舞台が大阪、それも新今宮=西成区なので、コテコテの大阪を通り越して、時代に取り残された大阪が活写されている。尼崎出身、尼崎在住のJovianには非常に親近感のある風景である。単に下町が舞台だからではなく、地べたを這いずり回って生きる人間の姿がしっかりと見えた。邦画だと『 万引き家族 』以来の描写であるように思う。

 

佐藤二朗と伊東蒼の親子がリアリティを生んでいる。特に佐藤二朗はダメな大人を見事に体現している。20円が足りずに万引きしようとし、そこへ娘が駆け込んでくる冒頭のシーン、さらに路上でクッチャクッチャと音を立てながら食べる父親、それを注意しながらも、家に帰れば互いに気の置けない親子であることを映し出す。外で見える風景と中から見る風景のコントラストが鮮やかである。

 

万引きの場面では警察官がスーパーの店長に示談を勧める。元大阪府警のJovian義父が憤慨するであろうシーンだが、大阪府警=無能という印象を一発で観る側に与える非常に効果的な演出である。これがあるおかげでその後の様々な警察絡みの展開に無理がなくなっている。

 

父を必死に探す楓を伊東蒼が熱演。『 空白 』でトラックにはねられる万引き娘や『 ギャングース 』の家なき子の印象が残っているが、本作の熱演はそれらの印象をすべて上書きするもの。まさに西成のじゃりン子で、身寄りのない子を引き取るシスターの顔面に唾を吐きかけるわ、街中で先生に相手に大声で悪態をつくわと、周りの大人の協力を自ら遠ざける。しかし、一方で日雇い外国人労働者とはじっくり話ができるなど、他者や大人をすべて拒絶しているのではなく、同病相憐れむ的な価値観で動いていることが分かる。このあたりは日本の現実、就中、大阪という都市の闇も垣間見せていて興味深い。

 

単純に姿を消した父親を娘が探し出そうとする物語と見せかけてさにあらず。スクリーンに「3か月前」と表示されたところから、一気に物語の背景が明かされ始める。そこで明らかになる真実に関しても、序盤のうちにフェアな伏線が張られているので、納得しながら受け入れることができる。この脚本は上手いと感じた。

 

疑惑の殺人鬼役を清水尋也が怪演。『 ミスミソウ 』でも存在感を発揮していたが、日本の俳優で異常者を正面から演じられる若手俳優は少ない。『 キャラクター 』のFukaseや『 ミュージアム 』の妻夫木聡が印象に残っているが、清水は韓国のクライム・サスペンスなどに出ても爪痕を残せるのではないかと感じた。『 殺人の追憶 』を日本でリメイクするとしたら、柔らかい手の青年は清水尋也で決まりだろう。

 

近年話題になったSNSの闇や、人間の生と死についての非常に現実的な問題提起もなされている。『 ドクター・デスの遺産 BLACK FILE 』や『 いのちの停車場 』などが有耶無耶にしてしまった命の尊厳について逆説的な形で切り込んでいった野心作。かなり血生臭いが、ぜひ多くの人に鑑賞いただきたい一作である。

ネガティブ・サイド

伊東蒼はさすがの大阪弁ネイティブだが、佐藤二朗の大阪弁はイマイチだった。じゃりン子チエ役の中山千夏レベルとまでは言わないが、それぐらいにまでは仕上げてほしかった。佐藤の芸歴なら出来るはずだし、片山監督もそこまで演出してもよかった。

 

楓のボーイフレンドが終始役立たずだった。この男が活躍する、そしてあっさり撃退されるシーンや、あるいは楓の父・悟に正面からぶつかっていくような展開があれば、もっとドラマが盛り上がっただろうと思う。

 

総評

佐藤二朗というと福田雄一作品の常連だが、ハッキリ言ってJovianは福田はあまり好きではない。『 HK 変態仮面 』は面白かったが『 ヲタクに恋は難しい 』あたりで絶望して『 新解釈・三國志 』は観ても腹が立つだけだろうと思い、回避した。佐藤二朗もNHKの『 歴史探偵 』の所長っぷりがチャラけていて好きではなかったが、良い脚本および良い演出に巡り合えば、こんなにも違う顔を見せるのかと感心させられた。老老介護の悲劇やSNSを通じた集団自殺・殺人など、命について考える機会が否応なく増える日本社会において、本作の放つメッセージは決して軽くはない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Not a chance

劇中であるキャラが言う「んなわけねーだろ」の私訳。Not a chance = そんな可能性はない、という意味で、質問に対する答えとして使われる。

A: Do you think I’ll get a job offer from them?
あの会社から内定もらえるかな?

B: Not a chance.
まあ、無理だろ。

というのが用例である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, サスペンス, 伊東蒼, 佐藤二朗, 日本, 清水尋也, 監督:片山慎三, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 さがす 』 -邦画サスペンスの良作-

『 銀河鉄道999 』 -A Never Ending Journey-

Posted on 2022年4月24日 by cool-jupiter

銀河鉄道999 70点
2022年4月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:野沢雅子 池田晶子
監督:りんたろう

どういうわけかこのタイミングで本作のデジタルリマスター版が劇場公開。『 ネバーエンディング・ストーリー 』に続いて、A Never Ending Journey へ。

 

あらすじ

星野鉄郎(野沢雅子)は機械伯爵の人間狩りによって母を殺されてしまう。復讐を誓う鉄郎は宇宙のどこかにあると噂される無償で機械の体を与えてくれる星に向かうため、メガロポリスのスラム街で銀河鉄道999の切符を手に入れるチャンスをうかがう。そんな時、鉄郎は自分に銀河鉄道999のパスをくれるという謎の美女メーテル(池田晶子)と出会い・・・

ポジティブ・サイド

冒頭から貧富の格差を描くシーンにぎょっとさせられた。本作が公開された1979年はJovianの生年である。イラン・イラク戦争前夜で、景気が良い時代とは言えないが、それでも経済的な格差の萌芽はすでに当時あったのだろう。松本零士の炯眼と言えるかもしれない。

 

鉄郎とメーテルが999に乗って赴く先がそれぞれに興味深い。特に土星の衛星タイタンが『 オブリビオン 』以前にフィーチャーされているのも先見の明があると感じた。冥王星が惑星から準惑星に格下げになったのは仕方ないが、だからといってその独特の軌道=彷徨う星としての性格が失われたわけでもない。今日では冥王星は実は内部に熱源を持っているとされるが、そのことが本作の価値を損なうわけでもない。宇宙には常にロマンがあり神秘がある。宇宙空間を記者が走るのだ。本作はサイエンス・フィクションではなくファンタジーであり、アドベンチャーである。

 

キャプテン・ハーロックにエメラルダス、海賊アンタレスやトチローなど、主要な登場人物が皆アウトローなのも良い。人間的な秩序が行き渡った宇宙は冒険の対象にはなりえない。特にトチローは(Jovianの勝手な推測だが)松本零士その人の東映・・・ではなく投影だろうと感じる。男は見た目ではなく甲斐性。強い思いに支えられた生き様があれば、エメラルダスのような美女とも添い遂げられる。

 

キャラクターで最も印象深いのは、やはりメーテル。切れ長の目に面長の金髪美女。しかし、服装は上から下まで黒というコントラスト。フードにコートと非常に厚い着こなしだが、脱ぐ時は脱ぐというギャップ。漫画でも映像でも魅せる。主役である鉄郎も漫画のユーモラスなところはそのままに、シリアスさを増したキャラ造形で、漫画の方が男の子なら、映画では「男の子」と「男」の中間だろうか。本作は人類全体の「幼年期の終わり」=Childhood’s End を描いているが、同時に星野鉄郎の「少年期の終わり」=Boyhood’s End をも描いている。

 

銀河鉄道の実現は難しそうだが、軌道エレベーターは何とかなるかもしれない。機械の体は難しくても、人体の一部の機械化なら可能かもしれない。作品自体はレトロだが、現代から未来にかけて考えるべき材料をたくさん含んだ良作だろう。懐かしのテーマソングと共に宇宙旅行に思いを馳せるのも一興である。

ネガティブ・サイド

原作漫画の主要なエピソードを詰め込みすぎな感じがする。アンタレスやエメラルダス、キャプテン・ハーロックなどはいずれもお馴染みのキャラだが、一作に全員を集めてしまうのは少々やりすぎ。鉄郎に何かピンチやトラブルがあるたびに彼ら彼女らが現れる。これではデウス・エクス・マキナと変わらない。もう少し鉄郎とメーテルの二人旅と言うことを強調した作りにはできなかっただろうか。

 

後はメーテルの正体というか、鉄郎の母との関係が少し曖昧だった。機械伯爵に剥製にされた母とプロメシュームの与えた肉体との関係については、もっとはっきりさせるか、あるいはもっとぼんやりさせた方がよかった。

 

総評

あまり小難しいことを考えなくても、アクション多めのアドベンチャー映画になっているので、小さな子どもでも楽しめる構成になっている。ブルートレインに乗ってあちこちへ旅したという世代は、ちょうど本作をリアルタイムで観た、あるいはテレビ放映などで見た世代だろう。ぜひ親子二代で劇場鑑賞してほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

miss one’s stop

電車やバスで「乗り過ごす」ことを言う。誰しも一度は経験があるだろう。個人的に最もショックだったのは、新幹線で新大阪で降りるはずが、福山まで行ってしまったこと。I missed my stop and found myself at Fukuyama station. 

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 国内, 映画Tagged 1970年代, B Rank, アドベンチャー, アニメ, 日本, 池田晶子, 監督:りんたろう, 配給会社:東映, 野沢雅子Leave a Comment on 『 銀河鉄道999 』 -A Never Ending Journey-

『 ネバーエンディング・ストーリー 』 -王道ファンタジー-

Posted on 2022年4月22日 by cool-jupiter

ネバーエンディング・ストーリー 75点
2022年4月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:バレット・オリヴァー ノア・ハサウェイ タミー・ストロナッハ
監督:ウォルフガング・ペーターゼン

ふと思い立ってTSUTAYAで本作をレンタル。古い(といっても1980年代だが)時代の映画には、CGには出せない質感があるなと、あらためて実感。だからこそ自分はこの年齢になっても『 ゴジラ 』が好きなのだろうと再確認した。

 

あらすじ

母の死から逃避するために、以前にも増して本の世界に逃避するバスチアン(バレット・オリヴァー)は、いじめっ子から逃げる際に駆け込んだ本屋で不思議な本と出会う。学校の屋根裏でバスチアンは密かにその本を読みふけるが、やがて物語の中のファンタージェンとバスチアンの世界が重なり始め・・・

 

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

Jovianは別に幼くして母を亡くしてはいないが、それでも小学生にして江戸川乱歩の世界に惑溺していた。なので初めて鑑賞した時はバスチアンと自分を自然に重ね合わせられたし、今回あらためて観返してみて、やはり少年の気持ちに戻れた。アドベンチャーは、やはり良いものである。

 

ファンタージェンの手作り感が素晴らしい。何でもかんでもCGで表現できてしまい、しかもそれが実写と見紛うばかりのクオリティーに達しつつある現代だが、逆にこうした昔の映画のキャラクター造形、衣装、小道具&大道具、背景などの持つ本物の質感には劣る。ロック・バイターは『 太陽の王子 ホルスの大冒険 』のモーグの実写化のようだし、ナイト・ホブのゴブリンっぷりは、数多くの映画や絵本、ゲームに登場したゴブリンの中でもトップクラスだろう。レース用のカタツムリやコウモリ、巨大なカメのモーラに、ラッキードラゴンのファルコンなど、ファンタジーの王道的なキャラクターばかりである。

 

アトレーユの行く冒険の旅でも、いくつかの野外シーンの背景は絵だろう。『 オズの魔法使 』の時代から使われてきた手法だ。象牙の塔は精巧なミニチュアで、これにもCGには出せない味わいがある。「虚無」の描写も、絶望感が漂ってくる。ドライアイスに色をつけて、カメラを上下逆にして撮影したのだろうか。これらを様々な特撮技術で料理しているのだから、当時の人々の創意工夫には脱帽するしかない。

 

第4の壁をキャラクターが破るというのをJovianは本作で初めて経験したが、よくよく観れば、最初に壁を破ったのはバスチアンの方だった。これはなかなか洒落た構成である。アトレーユの冒険に心躍らせる少年が、実は・・・という一種のトリックは、傑作ゲーム『 Ever17 -the out of infinity- 』をインスパイアしたのではないだろうか。また虚無=The Nothingnessという世界を破壊する現象は『 ファイナルファンタジーV 』に取り入れられたと勝手に信じている。実際にそっくりだし。

 

BGMも素晴らしく、特に象牙の塔のテーマ曲は荘厳さと崇高さを感じさせる名曲。またLimahlの ”The Never Ending Story” も非常に印象的だ。映画や小説は知らなくても、なぜかこの歌は知っている人は結構多いだろう。『 炎のランナー 』や『 スティング 』と同じで、映画そのものよりもサントラの方が長生きしている作品の一つ。けれど、映画そのものの出来栄えも非常に高いと評価できる。大人が観ても楽しめるし、子どもにも積極的に見せたいと思える作品でもある。Jovianも甥っ子たちにDVDを買ってやろうと思う。

 

ネガティブ・サイド

アトレーユの冒険部分の描写がもっと必要だと感じた。アルタクスと共に草原や砂漠を疾走するシーンは勇壮だが、アトレーユが素手で戦う、あるいは危険を予測して見事に回避する、といった展開を2~3分で良いので加えてほしかった。

 

ティーニー・ウィーニーやナイト・ホブたちにもう少し見せ場が欲しかった。彼らが持ち寄った情報をアトレーユに渡す、あるいは南のお告げ所の前後で再会するなどしても良かったのではないか。

 

エンディングが少々拍子抜けである。いじめっ子たちにリベンジを果たして終わり・・・ではなく、多くの子どもたちがバスチアン同様に『 ロビンソン・クルーソー 』や『 指輪物語 』、『 ターザン 』を読むようになったことを明示する、あるいは示唆するようなエンディングこそが A Never Ending Story ではないだろうか。

 

総評

メルヘンでありファンタジーでありアドベンチャーでもある良作。ビブリオフィルが主人公というところも希少価値を高めている。活字の良い点は、読者が想像できるところであり、活字の悪い点は、読者が想像しなければならないところである。テクノロジーの発達で文字よりも映像優位の時代になった。映画の世界でも、これを逆手にとって、本を読むという映画を作ってほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

keep one’s feet on the ground

直訳すれば「両足を地面につけたままにする」ということだが、意訳すれば「空想に耽らず現実的に考える」ということ。バスチアンが ”I have to keep my feet on the ground!” と叫ぶシーンがあるが、このセリフはその後の展開の伏線になっているところが面白い。

 

 にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, B Rank, アドベンチャー, タミー・ストロナッハ, ノア・ハサウェイ, バレット・オリヴァー, ファンタジー, 監督:ウォルフガング・ペーターゼン, 西ドイツ, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 ネバーエンディング・ストーリー 』 -王道ファンタジー-

投稿ナビゲーション

過去の投稿

最近の投稿

  • 『 モガディシュ 脱出までの14日間 』 -極限状況から脱出せよ-
  • 『 四畳半神話大系 』 -青春とは何かを知るための必読書-
  • 『 ベイビー・ブローカー 』 -家族像を模索する-
  • 『 トップガン マーヴェリック 』 -MX4D鑑賞-
  • 『 犬王 』 -異色の時代劇ミュージカル-

最近のコメント

  • 『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』 -賛否両論を呼んだ革新的ミュージカル- に cool-jupiter より
  • 『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』 -賛否両論を呼んだ革新的ミュージカル- に 佐藤 より
  • 『 TENET テネット 』 -細かい矛盾には目をつぶるべし- に cool-jupiter より
  • 『 TENET テネット 』 -細かい矛盾には目をつぶるべし- に Rr より
  • 『 TENET テネット 』 -細かい矛盾には目をつぶるべし- に cool-jupiter より

アーカイブ

  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme