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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年6月

『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

Posted on 2018年6月28日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハクソー・リッジ 80点 

2017年7月2日 東宝シネマズ梅田 その他爆音上映など複数回観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド テリーサ・パーマー サム・ワーシントン ヒューゴ・ウィービング ビンス・ボーン
監督:メル・ギブソン

まずはメル・ギブソン監督に賛辞を送らねばならない。これは戦争映画の傑作であり、英雄譚の傑作であり、なおかつリアルな軍隊論、戦争論のドキュメンタリー映像でもある。小さな頃の兄弟喧嘩で弟を反射的にレンガで殴打してしまい、意識不明になるような重傷を負わせてしまったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)。それ以来、彼は「汝、殺すなかれ」の教えを胸に刻みつける。時は流れ、第二次世界大戦も佳境へ。同世代が次々と志願兵となって戦地に赴く中、デズモンドは将来の妻となる看護師のドロシー(テリーサ・パーマー)と出会い、恋に落ちる。そして彼自身も遂に戦場へと向かう決心をする日が来る。無事に入隊するものの、「銃には触らない」「人は決して殺さない」という軍と対極にあるその思想信条に、仲間や上官は困惑し、デズモンドを排除しようとするようになるが・・・

何がこの男をそこまでして戦地に向かわせるのか。そして、銃を持たず、ただただ衛生兵として戦場で傷ついた兵士たちだけを救出していくことにどのような意味があるというのか。自らの身を守る術を持たないまま、戦場に立つことの恐ろしさや危険性をどれほど自覚できているのか。デズモンドが子どもの頃は、ただの性質の悪い飲んだくれにしか見えなかった父親(ヒューゴ・ウィービング)が、息子が戦地に向かうと聞いた時に語る昔話は、これらの疑問に対する彼なりの答えであった。思いの丈をこのような形で見せるのは反則である。劇場でも、そして自宅でも泣いてしまったではないか。懐古趣味とすら映ったその行動は、過去の戦争によって植え付けられたトラウマのせいであったことを我々はここで初めて明確に知る。ウィービングのベスト・パフォーマンスはこれまでは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』であったと思っていたが、今作にこそ彼の最高の演技があると評価を見直したい。

戦場シーンは凄惨の一語に尽きる。血みどろなどという表現では生ぬるい、泥と臓物と火薬と煙が入り混じった、命であったモノがそこかしこに散らばっている。もちろん、五体満足な遺体も、死んだふりをしている役者ではなく、本当に仮死状態にでも追い込んでいるのではないのかという迫真の演技。我々はよく「死んだ魚の目」などと言って生気の無さを表現したりするが、今作もひょっとして微妙に目や顔などにVFXを施しているのか。いや、ギブソン監督はCGを多用するスタイルは好まないから、これもやはり迫真の演技か。

戦場の悲惨さが際立つのは、命の火はあまりにも呆気なく消えるのだという、その無慈悲なまでの描写にある。これは日本のテレビ映画『 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~ 』でも取り入れられていた手法である。まさかギブソン監督が香川照之を観たりはしていないと思うが、それでもアメリカ人である彼が日本人の水木しげると同じ問題意識にたどり着いたのは興味深い。水木は戦局苛烈と報じられた南部戦線で左腕を失うわけだが、同じく戦争で左腕を失ってしまった人物を我々はちょうど最近、『 焼肉ドラゴン 』の龍吉に見出したところである。つくづく戦争の理不尽さを思い知らされる。ギブソンと言えば『 マッドマックス 』、『 マッドマックス 』と言えばオーストラリア。大日本帝国軍がオーストラリア北部にまで侵攻していたことは、一般にはあまり知られていないのではないか。やってしまったことは取り消しようがないが、やってしまったことを無かったことにしようとしても仕方がない。論語に「過ちて改めざる、是を過ちという」とある。いつか来た道に舞い戻ってはならない。

Back on track. 戦争前の訓練シーンではお決まりとも言える愉快なキャラクター達が登場するが、最も笑えるのはおそらくハウエル軍曹(ヴィンス・ヴォーン)であろう。オーウェン・ウィルソンと組んだ『 ウェディング・クラッシャーズ 』や『 インターンシップ 』で残した印象が強烈で、それゆえに彼が『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹並みに口汚く新兵を罵っていく様は痛快ですらある。しかし、この痛快さが上述した戦場および戦闘シーンの凄惨さを倍増させている。ギブソン監督の手腕である。

その戦場でデズモンドが取る行動、すなわち衛生兵として負傷者の救護にあたることの意味を、観る者はすぐには見出せない。なぜなら、あまりにも呆気なく命が消えていくから。デズモンドが徹宵で戦場を駆け巡り、一人また一人と兵士を救い出していく様には初めはその英雄的行動に感動を、次にはその早く逃げてほしいという祈りを我々にもたらす。なぜ逃げないのか。それがデズモンドの信念であり信仰であると言ってしまえばそれまでだが、これは彼なりの父殺し(あくまでも文学的意味での)になっているのだろう。戦場で共に戦い、ともに死ねなかった戦友たち。父は友の死を悼んでいるのではなく、共に死ねなかったことを悔やんでいる。まるで『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』冒頭でトニー・スタークがスカーレット・ウィッチに見せられたようなビジョンだ。父が戦争に行きたいが許可してもらえない息子の願いを叶えるために、かつての上官を頼るシーンには、このような背景が見えてくる。軍を強くするのは、訓練ではなく「お前を独りでは死なせない」という連帯意識を共有することであろう。父やかつての上官はそれを知っていた。デズモンドは現実にそれを証明した。もしかしたら彼こそが軍人の鑑とすら言えるのかもしれない。なんという逆説であることか。

対照的に、日本軍兵士の描写は極めて陰鬱的である。この点をどう評価するのが、ある意味での思想のバロメーターになるのかもしれない。映画的演出上の脚色と見るもよし、史実の忠実な描写と見るもよし、フィクションとして距離を置くのもよいだろう。ただこの作品を通じて感じた何らかのメッセージを受け取ったのであれば、それを大事にしてほしい。戦争とは往々にして美化されるものだし、逆に美化されなければ、とても戦争などに行けるものではない。平和日本の今に乾杯するためにも、多くの人に今作に触れてほしいと思う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, オーストラリア, ヒューマンドラマ, 監督:メル・ギブソン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

沈黙 サイレンス 80点

2018年4月18日 レンタルBlu-rayにて観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー リーアム・ニーソン 浅野忠信 窪塚洋介 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈
監督:マーティン・スコセッシ

原作は高校生の時に読んだが、その頃はあまりピンと来なかった。その後、いつか再読しようとは思っていながら、その機会は訪れないまま、映画化され、それでも都合が合わず、劇場観賞はできなかった。そしてようやくTSUTAYAで借りてきた。心が切り刻まれるような物語であった。たとえば『 ハクソー・リッジ 』に対して、「日本兵の描き方がおかしい」という声を挙げる人がいるが、今作にはそうは言えまい。なぜなら原作者は遠藤周作なのだから。日本の気候や風土の描き方がおかしいという批判は当たるだろう。なぜならロケ地は台湾だから。本作に対して批判すべき点があるとするなら、なぜ皆が皆、ポルトガル語ではなく英語をしゃべるのか、という点ぐらいであろう。

この映画が観る者の心を切り刻むのは、その三重の対立構造にある。迫害を受ける信徒と神父、そして迫害する幕府。そして信仰を棄てる者と信仰を棄てない者。そのような彼ら彼女らを見ながら、迫害を止めてほしい、信仰を棄ててほしいと思う自分と、信仰を棄てるな、祈らずとても神や守らんと思ってしまう自分。いずれの立場も分かる。高校生の頃にはあまり理解できなかったフェレイラ神父や井上筑後守、キチジローの選択や決断が、物理的な重みを持っているかのように、心に圧し掛かってくる。宗教的な信仰心と、政治的な信念の間にある違いとは一体何であるのか。それはおそらく、前者には≪沈黙≫の問題がいつでも、どこでも、誰にでも起こりうることではないだろうか。というのも、(為政者にとって)政治的な信念が試されるのは、それが自分のためではなく、他人のためになるかどうかを問われる時である一方で、宗教的信仰は自分が危難に陥った時、さらに他者が危機にある時にも問われるからだ。政治的な決断、自分の内なる声は、他人に聞いてもらうこともできる。しかし、信仰の対象=神が、信徒の苦難の時に沈黙を保つ理由が何であるのかは、誰に問えばよいのか。実際に、宣教師のガルペ(アダム・ドライバー)は信徒の危機を見過ごすに忍びず、結果的に命を落としてしまう。同じく宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、その悲劇を目の当たりにするのだが、これとても彼にとっての受難の端緒に過ぎなかった。

今でも小学校の社会科では、踏み絵を教えているのだろうか。小学生の頃の自分は、「形だけのことなら、踏めばええやん」と思っていた。形だけのことで・・・と思うが、我々の社会は一事が万事、形へのこだわりで構成されているではないか。ネクタイはいずれ廃れるかもしれないが、尊敬語と謙譲語の使い分け、お辞儀の角度からハンコの押印の角度に至るまで、形式の尊重は社会の隅々まで行きわたっているように感じる。しかし、信仰はおそらくそうではない。祈り=自己内対話と説明する書籍も読んだことがあるが、対話の相手が沈黙を保っているというところに、信徒の懊悩を感じ取らざるを得ない。なぜなら、我々が後生大事に守っている形式というのは、社会的な要請=他者の存在が当たり前のように前提になっているが、信仰=祈り=自己内対話においては、神の存在を確信しつつも、その不在を強く疑わなくてはならないからだ。

信仰を持つからこそ、棄ててしまう。神に語りかけるからこそ、沈黙が返ってくる。そもそも日本に渡ってきた目的は、フェレイラ師(リーアム・ニーソン)を探し、本当に棄教してしまったのかを確かめるためだったが、そのフェレイラ師もまた、心を切り刻まれてしまっていた。何が、もしくは誰が彼の心を切り刻んだのか、引き裂いたのか。決断の時に、声は聞こえてきたのか、聞こえなかったのか。それは、同じ責め苦を受けるロドリゴと痛苦を分け合うことで実感してほしい。信仰心というものが人を生かし、人を殺す。信仰心が人を救い、人を苦しませる。切り裂かれた心の奥底から湧き起る声は、誰のものなのか。それは、本作を通じて確かめてほしい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

わたしに××しなさい! 50点

2018年6月24日 梅田ブルク7にて観賞
出演:玉城ティナ 小関裕太 佐藤寛太 山田杏奈 金子大地 佐藤寛太
監督:山本透 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180624213244j:plain

*以下、ネタバレに類する記述あり

まず、こんなポスターを作った配給会社の担当者および責任者は記者会見を開いて謝れ。景品表示法違反の疑いがある。というのは冗談だが、別に過激ミッションでも何でもない。単なるこじらせウェブ小説家女子高生(雪菜=玉城ティナ)が、自身の作品に恋愛要素を織り交ぜていくために、自分でも恋愛的な体験をしていくことで、作品の質も上がるだけではなく、当初予想もしていなかった自分自身の変化に戸惑いを感じ初めて・・・という、そこだけ見ればよくある話。むしろ、このストーリーを支えるのは、疑似恋愛の相手役である生徒会長(北見時雨=小関裕太)や、ウェブ小説のライバルである氷雨(=金子大地)、雪菜の従兄弟の霜月晶(=佐藤寛太)、さらには時雨の幼馴染の水野マミ(=山田杏奈)や小説の編集者(=オラキオ)などだ。

主人公は『 暗黒女子 』で輝けそうで輝けなかった玉城ティナ(清水富美加に光をかき消されたという印象)。『 あさひなぐ 』の西野七瀬もそうだったが、メガネが似合う女子というのは、一昔前に比べて確実に増えているらしい。それでもこのメガネ女子は、冒頭のクレジットシーンで見事なキャットウォークを披露して、独立不羈で我儘、甘えたい時に甘えて、無視する時は無視しますよ、というキャラクターであることを観る者に予感させてくれる。そして、その期待は裏切られない。

ウェブ小説が好評を博している雪菜は、編集者や読者からの要望もあり、恋愛要素を作品に取り入れようとする。しかし、空想するばかりで実体験の無い自分にはそれはできそうにない。そうか、それなら疑似恋愛体験をして、それを自作に盛り込めばよい、と考える。ここで候補として従兄弟の昌が浮上してくるが、雪菜はあっさりと拒絶。その代わりに、ひょんなことからダークサイドを秘めていた北見時雨の弱みを握り、ミッションと称して、手を握らせたり、ハグさせたりして、その心象風景を小説に取り入れていく。それにより、ライバル作家の氷雨に一歩リードするものの、時雨の幼馴染には何かを感づかれ・・・

というように、どこかで見たり聞いたりしたようなプロットのモンタージュ作品である。それによってある意味、安心して観賞もできるが、興奮させられたり驚かされたりすることも少ない作品である。したがって、観る側の興味は畢竟、役者の演技や作品の演出に移行していく。

まずは主演の玉城ティナ。何度でも言うが、メガネが似合う。そして定番中の定番、女友達がいない。これは安心して見ていられる。女の友情は一定年齢以上の男には共感できないところが多い(理屈である程度の理解はできるのだが、長々と大画面で見せつけられるのは正直キツイ。『 図書館戦争 』での柴崎と笠原の関係ぐらいが清々しくていい)。特徴的なのは容姿だけではない。話し方もだ。当り前だが、活字と発話は異なる。漫画や一部のライトノベルなどでおなじみの手法として、特徴的な語彙を多用する、または語尾を特定の形に統一する、などがある。雪菜の喋りは、この文法に映画的に正しく則っており、メガネ以外のもう一つの特徴としてキャラ立ちに大きく貢献しており、彼女の役者としての力量を見た気がする。

相手役の古関は『 覆面系ノイズ 』では学ランがパツパツで、高校生役はちょっと無理では?という印象を受けたが、ブレザーなら充分に通用する。また終盤では素の顔と仮面の顔を一瞬で入れ替えるシーンがあるが、こんな演技力あったっけ?とも思わされた。どこか坂口健太郎を思わせるルックスもあって、同じぐらいの活躍を期待したい。

その他、三白眼が印象的な佐藤寛太、武田玲奈とキャラもろ被りに思える山田杏奈、普通に出版社もしくは証券会社あたりにいそうな会社員役のオラキオなど、若手を中心に今後に期待を持てるキャストが集まっていた。だからこそ、もっとユニークなテーマを追求してほしかったと思う。「誰かを傷つけたくない」というのは恋愛(に限らず人間関係全般)において、美しいお題目ではあるが、ただ臆病であることを誤魔化したいからこその台詞。そんなことは誰もが分かっている。それを乗り越えるのが青春の、醍醐味であり、ある意味では終わりでもある。実験的なテーマの作品に、ポテンシャルを秘めた若手キャストで挑むからには、監督にも何らかのチャレンジが求められるが、エンディングのあのバレット・タイムは何とかならなかったのだろうか。他にもっと印象的な絵作りはできなかったのか。監督と自分の波長が合わなかっただけなのだが、最後の最後の着地で少しミスってしまった作品、そんな感想を抱いた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 古関裕太, 日本, 玉城ティナ, 監督:山本透, 配給会社:ティ・ジョイLeave a Comment on 『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

Posted on 2018年6月24日2019年4月18日 by cool-jupiter

焼肉ドラゴン 75点

2018年6月23日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:キム・サンホ イ・ジョンウン 真木よう子 井上真央 桜庭ななみ 大泉洋
監督・原作・脚本:鄭義信

『 血と骨 』の脚本家が、監督・原作・脚本の全てを手掛けた本作は、限りなくダークでエログロな要素を持っていた『 血と骨 』とは異なり、どこかコミカルで、それでいて本気で頭に血が上るシーンあり、思わず涙があふれるシーンありの、期待以上の作品に仕上がっていた。

時は大阪万博(1970)直前、舞台は兵庫県伊丹市。おんぼろのあばら家が立ち並ぶ、行動経済成長が取り残されたその場所に彼らはいた。店主は韓国人の金田龍吉。龍の字をとって、いつの間にやら店の名は人呼んで焼肉ドラゴン。そのこじんまりとした焼肉屋を舞台に、小さな家族が慎ましやかに、けれど幸せに暮らしていく話・・・だと思って、劇場に行った人は混乱させられるであろう。これは時代に翻弄されながらも、時代に抗い、時代に折り合いをつけ、時代に飲み込まれながらも、確かに歴史に足跡を刻んだ家族の物語である。

父(キム・サンホ)、母(イ・ジョンウン)、長女の静花(真木よう子)、二女の梨花(井上真央)、三女の美花(桜庭ななみ)、末っ子の時生(大江晋平)、梨花の婚約者の哲男(大泉洋)らは、家族でありながらも実は血がつながっていたり、いなかったりのやや複雑な家族。このあたりはどこか『 万引き家族 』を彷彿とさせる。最初から違和感を覚えるシーンがいくつかある。哲男があまりにも慣れ慣れしく静花に接するシーンや、時生がまったく言葉を発しないところなど。しかし、そんな小さな違和感は脇に置き、物語はアホそのもの痴話喧嘩を交えながら陽気に進んでいく。龍吉が時生のいるトタン屋根の屋上で一緒に眺める夕陽は、沈んでいくもの、光を失うものの象徴でありながらも、必ずまた昇るもの、必ずまた光を与えてくれるものの象徴でもある。ここから物語は、家族のダークな一面を少しずつ掘り下げていくのだが、決して『血と骨』のようなバイオレントなものではない。むしろ、人間らしいというか、人間の最も根源的な本能から生まれてくる衝動のようなものにフォーカスをしていく。ある者にとってはそれは自己承認欲求かもしれない。ある者にとってはそれは認知的不協和かもしれない。ある者にとってはデストルドーであるかもしれない。

物語は適齢期3人娘たちが男とくっついてく過程を追いながら、つまり新たな家族を生み出していくための巣立ちを描きながらも、飛び立つことができなかった、いや、飛べないままに、飛行機の如く飛べると勘違いしてしまった若鳥も描く。時生が学校で受けるイジメは陰惨であり、過酷であり、残虐ですらある。こうした排除の論理と力学的構造は現代においても決して弱まってはいないと思う(ネトウヨ春のBAN祭りは、おそらく一過性のイベントとして記録および記憶されるのではなかろうか)。

それでも3人娘たちはそれぞれに自分にふさわしい男を見つける。それは決して美しい恋愛の末に勝ち取った相手ではなく、本当に本能的な、動物的なカップリングであるとしか名状できないようなものもある。そして、どんな映画であっても、このシーンではなぜか自分まで必ず緊張してしまう、父親との対面シーンが美香とその男にやってくる。ここで龍吉が語る言葉は訥々としていながらも万感胸に迫る圧倒的な説得力を有して観る者に訴えかけてくる。2018年の演技のハイライトを挙げるなら、安藤サクラとキム・サンホの二人は絶対に外せない、外してはならない。真木よう子、大泉洋、桜庭ななみ、イ・ジョンウンらの演技も堂に入ったもので、韓国ドラマ的スラップスティックコメディとなってもおかしくないシーンを、各役者が表情や声でしっかりと抑えつけていた。何という日韓のケミストリーか。個人的には今作の演技力ナンバーワンは期待も込めて大江晋平に送りたい。飛行機を睨め付ける表情とアアアーーーッッ!!という奇声からは、『 ディストラクション・ベイビーズ 』の柳楽優弥に匹敵する不気味な迫力を感じた。

それにしても印象的なワンショットの多い映画であった。特に飲み比べのシーンと龍吉の昔話のシーンは、真木とキムの表情やちょっとした仕草に注意を払って見てほしい。特に訳の分からないワンカットのロングショットを多用して『 ママレード・ボーイ 』という駄作を作ってしまった廣木隆一監督は本作から大いに学ばねばならない。

朝鮮戦争終結という歴史的なイベントを目の当たりにするかもしれない現代、そして日韓の間の歴史認識にこれ以上ないほど乖離が存在する現代にこそ、答えではなく真実(≠史実)を探すきっかけとして、多くの人に観てほしいと思える傑作である。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, キム・サンホ, ヒューマンドラマ, 大泉洋, 日本, 監督:鄭義信, 真木よう子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

Posted on 2018年6月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

スウィート17モンスター 70点

2018年3月21日 レンタルDVD観賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ウッディ・ハレルソン ヘイリー・ルー・リチャードソン
監督:ケリー・フレモン・クレイグ

原題は“The Edge of Seventeen”、つまり「17歳の刃」である。洋楽ファンなら、これがスティーヴィー・ニックスに同名のナンバーがあるのを知っているかもしれない。ジャニス・ジョプリンやロッド・スチュワートといったしわがれ声を武器にするシンガーで、マイ・フェイバリットは“Stand Back”である。日本で言えば映画『不能犯』のテーマソング「愚か者たち」を見事に歌い上げたGLIM SPANKYの松尾レミもこの系統のシンガーと言えるかもしれない。

Back on track. この作品で描かれるのは、17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)がくぐり抜けて行く数々の試練である。まず、これを目にするのが10代なのか、20代なのか、30代以上なのかで、ネイディーンへの感情移入度合いが相当に変化してくるであろう。10代であればシンクロ率は400%… 20代でも女性なら100%に到達する人もいるかもしれない。それはあまりにも典型的なトラブルの数々ではあるが、ネイディーンの性格・パーソナリティとも相俟って、とんでもなくエクストリームな展開を見せる。

親友のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)が、あれよあれよと言う間にイケメンで秀才の兄のダリアンとベッドイン。最初は兄の気まぐれな遊びかと思っていたが、二人の仲が本物であると知ったネイディーンは大爆発。兄と親友の2人を一気に失ってしまう。と書くと悪いのは2人のようだが、実際はネイディーンのひとり相撲。兄貴も親友も幸せで、自分が幸せではないのは、2人のせいだと勝手に勘違い。そして自分は、片思いの相手に勢いでとんでもないテキストを送ってしまい・・・

父親不在の家庭で育ったことが大きな影響を及ぼしているのは分かるが、これほどキレやすい高校生というのも、洋の東西を問わず、なかなか見つけられないのではないか。邦題の『スウィート17モンスター』は言い得て妙である。このモンスターを手懐ける時に必要なのは、positive male figureである。そう、『 プールサイド・デイズ 』におけるサム・ロックウェルのような。今作でその役割を果たすには教師のウッディ・ハレルソンである。この男には登場シーンから注目してほしい。おそらく日本の教育機関でこの男の言動が通報されれば、一発で教員として追放されてもおかしくないのではと思う。しかし、17歳のモンスターを大人しく躾けるのには、もう一人の17歳が必要となってくる。それがアーウィン・キムというアジア系アメリカ人、おそらく韓国系アメリカ人だろう(しかし、家族は中華料理屋を経営していてかなり羽振りが良い)。白人であることが必ずしも社会的なステータスを保証するものではなく、White Trashなる言葉さえ生まれている中(その典型例は『 パティ・ケイク$ 』だ)、アーウィンという少年がネイディーンにアプローチしてくる様はある意味、痛快である。観る者によっては、アプローチしていく様、とも表現できるだろう。白人と付き合うのは白人という時代ではない、つまり白人と分かりあえるのは白人だけではないのだ。ほんの少し、自分の殻を破れば、兄や親友が手に入れたような幸せに手が届く。このアーウィンという少年の内面やその努力を知ることで、観る者はネイディーンの幸せを祈りたくなってくる。だが、残念ながら彼の恋心は実らない。怪物の心の殻を優しく溶かしてくれるのは、ウッディ・ハレルソン・・・ではないのだ。このシーンは本当に心温まるというか、直前に母親ととんでもないトラブルを起こしているが故に、余計に輝くシーンとなっている。大人と子どもの境目、他人への不信感、自己嫌悪など、様々なものが入り混じったせいでひねくれるしかなくなった少女がどのように癒されるようになっていくのか。これは誰もが青春の一頃に通ってきた、一種のイニシエーションを極端な形で切り取ってきたストーリーなのだ。私立高校ぐらいなら、道徳の教材として使っても良いのではないかと思わせる完成度である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:ケリー・フレモン・クレイグ, 配給会社:カルチャヴィルLeave a Comment on 『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

『図書館戦争 THE LAST MISSION』 -この恐るべき想像のパラレルワールドでいかに生きるか-

Posted on 2018年6月18日2020年2月13日 by cool-jupiter

図書館戦争 THE LAST MISSION 55点

2015年10月18日 大阪ステーションシネマおよびWOWOWにて観賞
出演:岡田准一 榮倉奈々 松坂桃李
監督:佐藤信介

*『図書館戦争』および本作に関するネタバレあり

 子どもたちのために有害図書を追放する。耳障りは確かに良い。だが、例えばごく最近の新幹線内での無差別殺傷事件の犯人が読んでいた本がハイデガーやドストエフスキーだったということに対して、識者からは特に何も聞こえてこない、少なくとも宮崎勤事件の時のような欺瞞と偏見に満ちたようなコメントは。

前作が追求したテーマが思想の対立であったとすれば、今作が追求するテーマは対立を解消するために思想を捨てられるか、ということだ。言い換えれば、命と信念、どちらをより大切に感じるのかということでもある。3秒以内にどちらかを選べ、と言われればたいていの人は「命」を選ぶのではないか。だが、ちょっと待て。人類の歴史、なかんずく戦争という視点から見れば、人間は命よりも大切なものをずいぶんとたくさん見出してきたようである。「命より大切なものがあるというのが戦争を始める口実で、命より大切なものは無いというのが戦争を終える口実」というのは誰の言葉だったか。けだし本質を突いた言葉であろう。本作で図書隊タスクフォースの面々は、本を読む自由、思想の自由、検閲に対抗するための力の存在の必要性のために勇敢に戦う。だが図書隊員の中には、命よりも尊い守るべき価値のあるものに対して疑念を抱くものがいた。そしてそれは元図書隊エリートにして現文科省職員、そして手塚(福士蒼汰)の兄(松坂桃李)の思惑によるもので、彼の次なる狙いの矛先は笠原(榮倉奈々)へと向かい・・・

相変わらず現実の日本社会と乖離した世界が物語世界では展開されている。しかし、笑えないのはその現実離れの度合いではなく、その現実離れが映し出す現実の残酷さ、冷酷さである。前作のフィナーレは、メディア良化委員会と図書隊の戦闘の様子が遂にメディアで大々的に報じられ、国民の関心が検閲を可能にしたメディア良化法に厳しく向けられる可能性を示唆するものだった。だが続編たる今作では、またも国民は図書隊の闘いに無関心であった。そしてそれは現実の日本に生きる我々にも当てはまってしまうことではないのか。国会で議論が尽くされていない自衛隊のイラク・サマワ派兵(派遣ではなく派兵と書くしかない)に関して、また南スーダン派兵に関しても現地で戦闘行為があったことは、もはや隠しようの無い事実である。そしてそのことがどうして斯くの如く長期に隠蔽されてきたのか。それは結局、国民が無関心だったからに他ならない。記者会見でアホのように泣き喚いた兵庫県西宮市の市議会議員が、政務活動費を不正にじゃんじゃん使いまくれたのはなぜか。そして彼以降、メディアや市民が目を光らさせたことで同様の問題が激減したのはなぜか(もちろんその過程で10人以上が辞職せざるを得なかった富山市議会のような自治体も出てきたが)。

大切だと思えることを必死で守ろうとする。それを実行に移せることこそが自由なのではないか。笠原が任務を全うしようと走るのは、自らの思想信条のためではなく、愛する堂上(岡田准一)のためであり、仲間のためであろう。思想と命、どちらを選ぶのが正解なのかではなく、どちらを選ぶにしろ、その選択が自由意思によって為されることが真に大切なのではないかと思う。哲学者のE・カントは自由を「先立つ一切の前提に囚われないこと」と定義した。与えられた選択肢以外を選ぶ者がいてもよいではないか。そうしたテーマ性を感じさせてくれた佳作である。

ひとつ不満に思えるのは、岡田准一と松坂桃李の対面シーン。「直接来い」という岡田の挑発に「兵隊は辞めました」という松坂。もちろんここで観る者は「ははーん、そんなことを言いながらも、最後はこの2人の一騎打ちか」と期待する。しかし、そんな展開は訪れなかった。残念至極である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アクション, ラブロマンス, 日本, 松坂桃李, 榮倉奈々, 監督:佐藤信介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『図書館戦争 THE LAST MISSION』 -この恐るべき想像のパラレルワールドでいかに生きるか-

『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

Posted on 2018年6月18日2020年2月13日 by cool-jupiter

空飛ぶタイヤ 70点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:長瀬智也 ディーン・フジオカ 岸部一徳 笹野高史 寺脇康文
監督:本木克英

 

『 TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ 』以来の久しぶりの長瀬智也である。あの「マザァファッカァァーーーーーーッ!!!!」の長瀬智也である。我々はもっとはっちゃけた長瀬を観たいのだが、この作品で長瀬は、演技力という技術ではなく、リアリティというか存在感で大いに魅せる。それは中小企業の赤松運送の社長ながらホープ自動車という大企業を相手に一歩も引かず、最後には勧善懲悪的に勝利を収めるからではない。むしろ、長瀬の人間としての至らなさや苦悩を今作は冒頭の5分である意味描き切っている。長瀬は決して超人的な体力、知力、精神力、リーダーシップを持った人間ではなく、本当にそこかしこにいるような中小企業の社長なのだ。そこには先入観もあり、誤りもあり、逡巡もあり、後悔もある。つまり、極めて人間的なのだ。今作が描こうとしたのは、人間の強さは、弱さに飲み込まれないところにあるということでもあるはずだ。

また『 坂道のアポロン 』で何故か妙に浮いていたディーン・フジオカは本作ではスーツとネクタイの力を借り、若くして大企業の課長職を務めることで説得力ある存在感を発揮した。大企業では往々にして血も涙もないようなタイプが上に行きやすいが、観る者にあっさりと「ああ、コイツもその類か」と思わせる職場での所作は見事。芝居がかった演技も、ムロツヨシと並ぶことで中和されていた。この男は多分、スーツ以外の衣装を着こなすことはまだできない。が、ポテンシャルはまだまだ十分に秘めているし、良い脚本や監督との出会いでいくらでも上に行けるに違いない。

それにしても、これは元々の題材となった事件があまりにも有名すぎて、WOWOWでドラマ化までは出来ても、銀幕に映し出されるようになることは予想していなかった。本作で思い出すことがある。Jovian自身、とある信販会社で働いていた頃、〇菱〇そ〇の会社員から「不良品作りやがって、このヤローー!!」と電話口で怒鳴られたことがある。一瞬カチンと来たが、すぐに冷静さを取り戻し、「ああ、この人もきっと全く関係ない人にこうした言葉を浴びせかけられたのだろうな」と分析したことを覚えている。組織の中では、個の意思は時に無用の長物にさえなってしまう。その個の意思を貫こうとすることで、思いっきり冷や飯を喰らわされることもありうる。超巨大企業などは特にそうだろう。かといってそれは中小企業でもありうることだということは、佐々木蔵之介の役を見て痛切に感じさせられた。

これは中小企業と大企業の闘い、というよりもゲマインシャフトとゲゼルシャフトの闘い、と言い表すべきなのかもしれない。なぜなら長瀬演じる赤松社長は資金繰りに奔走し、カネの誘惑に溺れかけてしまうところもあるし、長年一緒に戦ってきた戦友に去られてしまう場面すらある。一方でディーン・フジオカ演じる沢田は、実は濃密な人間関係を社内に持っていて、彼らと共闘もするからだ。我々は何を軸に人間関係を構築し、何を信念に行動していくのか。問われているのは、大企業や中小企業の在り方だけではなく、個の生きる指針でもあったように思う。

今作はエンドクレジットが微妙に短く感じられたが、気のせいだったのだろうか?それにしてもつくづく凄いなと唸らされるのは、映画製作に関わる人間の数とその職種の多様さ。このキャスティングが長瀬ではなく山口だったらと思うとぞっとする。そんなことさえ思えてしまうほどの、大作であり力作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ディーン・フジオカ, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:本木克英, 配給会社:松竹, 長瀬智也Leave a Comment on 『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

Posted on 2018年6月18日2020年1月10日 by cool-jupiter

メイズ・ランナー 最期の迷宮 50点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ディラン・オブライエン カヤ・スコデラーリオ トーマス・ブロディ=サングスター キー・ホン・リー ウィル・ポールター
監督:ウェス・ボール

*一部ネタバレあり

第一作を60点、第二作を50点と考えるならば、今作にもこの点数を付けざるを得ない。まず、迷宮が出てこない。シティーを目指すのは分かるが、一部のポスターにあったような迷路に囲まれた巨大なタワーが立ち並ぶようなシティーではなく、普通に壁に囲われた、どちらかといえあ『進撃のタイタン』のような壁、そして街だ。もっとも、謎の超高層ビル群がそこには存在するのだが。

本作のような、いわゆるYAノベル(Young Adult Novels)を原作にしたヒット映画には他には『ハンガー・ゲーム』シリーズや『ダイバージェント』シリーズがあるが、いずれの作品にも共通するのが、「なぜこんなポスト・アポカリプティックな世界で、これだけ資源を浪費できるのか?」ということ。まあ、これは『マッドマックス』の頃から、決して尋ねてはならない問いなのかもしれないが。

原作のトーマスその他一部キャラが持っていたテレパシーという要素を取り除いたことで生まれたサスペンスもあれば、そのために付け加えられた余計なアクションもあった。特に最後のモブとWCKDの激突と戦闘のシーンは、「とりあえず爆発シーンを入れとくか」程度のやっつけ仕事にしか見えなかった。なぜあのタイミングでローレンスは突撃し、なぜシティーを奪還すると息巻いていた連中は、ビル群を灰燼に帰すまで破壊しつくしたのか。元々がYAノベルだけにあまり深く追及しても仕方がないのかもしれないが、映画のスペクタクルとは爆発や格闘シーンにあるのではなく、活字で表現されない/され得ない細部の描写にこそあるはずだ。まさかそれがラストシーンの Maze ならぬ Maize にあるわけではないと信じたいが・・・

1および2を観たファンであれば観賞して、この結末を見届けるべきなのだろう。そして自分なりにトーマスの目に宿る決意とその手に握りしめた血清の意味について納得がいくように解釈をしてほしい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ディラン・オブライエン, 監督:ウェス・ポール, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

Posted on 2018年6月17日2020年2月13日 by cool-jupiter

ワンダー 君は太陽 75点

2018年6月16日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイコブ・トレンブレイ ジュリア・ロバーツ オーウェン・ウィルソン
監督:スティーブン・チョボウスキー

*一部ネタバレあり

これは傑作である。何が本作を傑作たらしめるのか。それは主人公オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)が自分自身の力で何かを成し遂げる様子を逐一カメラに収めているからではなく、むしろオギーの周囲の人間が知らず知らずのうちにオギーの影響を受けているということを観客に非常に分かりやすい形でプレゼンテーションしてくれているからだ。またオギー自身も、決して子どもに似つかわしくない明晰すぎる頭脳やタフすぎる精神力を備えているわけでもない。言わば、ちょっと特殊な顔を数々の手術で治してきただけの普通の男の子なのだ。オギーを見ることは、ある意味で自分自身の暗い心と向き合うことでもある。誰もが何かしらの罪悪感や劣等感に苛まされているものだが、もしもそれがほんのちょっとのきっかけで取り除かれるのであれば、人は人にもっと優しくなれるかもしれない。どうせ自分は背が低いから、どうせ自分は太っているから、どうせ自分は二重瞼じゃないから、どうせ自分は・・・ と自分にマイナスの符号ばかりつけるということを、我々はしがちである。しかし、ほんの少し見方を変えれば、ほんの少し接し方を変えれば、ほんの少し勇気を振り絞れば、何かが大きく変わるかもしれない。そんな気にさせてくれる作品である。

もちろん、オギーの学校生活は初めはとても辛いものだ。誰もがオギーを「疫病神」扱いする。しかし、そんな中でも手を差し伸べてくれる子どもはいるし、オギーにはその手を握り返すだけの勇気があった。またテストで困っているクラスメイトに、こっそり自分の答案用紙を見せてやるなどの優しさや茶目っ気もある。他校の年上の生徒に友達が殴られたのに対して敢然と立ち向かう姿勢すら見せる。しかし、考えてみれば、こうしたことは全て普通のことであると言える。これがドラマチックであるのは、オギーが特別な少年だからではなく、オギーを特別な少年であると思い込んでいる我々の側にその原因があることが明らかになってくる。そのことを本作はある種の群像劇の形で教えてくれる。

この映画は、オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)、母イザベル(ジュリア・ロバーツ)、姉ヴィアや愛犬のデイジー、その他にも姉の友人やボーイフレンド、オギーのクラスメイトや友人、教師、校長先生らの目を通じて、オギーの周囲の人間ドラマを構成していく。特に姉ヴィアが経験する親友との突然の断絶と新しい出会いは、『 レディ・バード 』でも似たようなテーマが扱われていたように、普遍的な事象であると言える。それが特殊な色彩と帯びて見えるとするなら、やはりそれは観る側の目にフィルターが掛かっているからなのかもしれない。そのことを暗示するのがオギーが友達のジャック・ウィル(ノア・ジュプ)と組んで発表する理科研究プロジェクトであると思う。

その他、個人的にツボだったのは、スター・ウォーズからチューバッカとダース・シディアスが参戦していること。このぐらいの年齢の子になると、旧三部作と新三部作を分け隔てなく愛でられるということは『 ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス 』でも触れられていたが、時代は確実に進んでいるようである。それでも学校のとあるイジメのシーンでオギーを指して悪ガキのジュリアンが”Darth Hideous”と呼ぶところなどは、前述のジャック・ウィルの子どもらしさとはまた別の子どもらしさを見せられ、ぞっとしてしまった。このクソガキを巡ってはさらに一悶着あり、彼の良心と両親にも見せ場が与えられる。そこで、この世は陽の光と虹だけで出来ているわけじゃないんだ、というロッキー・バルボアの言葉を言葉を思い出す人もいるだろう。また劇中で『オズの魔法使い』が一瞬出てくるのだが、この作品でも虹は重要なモチーフになっている。それをオギーとジャック・ウィルはあっさり観ないという選択をするのだが、ここからもオギーと皆の物語は、魔法ではなく皆の知恵や勇気によって紡がれているものだということが暗示されているようだった。

再度繰り返すが、本作の素晴らしさは、オギーその人ではなく、彼の生きる世界の明るさと暗さ、その両方に我々が魅せられるからだ。愛犬デイジーとの別れや、そのことに独り寂しく涙する父などの姿なくして、オギーの成長はなかったし、物語世界の豊饒さは生まれなかったのではないだろうか。人は変わることができる、それは『スリー・ビルボード』のテーマでもあったが、そのことは本作にも通低している。映画ファンであってもなくても、見て損は無い傑作である。

それにしても主演のジェイコブ・トレンブレイはアダム・ドライバーそっくりだし、親友役のノア・ジュプはトーマス・ブロディ=サングスターに良く似ている。将来に期待が持てそうな子役たちである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オーウェン・ウィルソン, ジェイコブ・トレンブレイ, ジュリア・ロバーツ, ヒューマンドラマ, 監督:スティーブン・チョボウスキー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

Posted on 2018年6月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

プールサイド・デイズ 65点

2016年にWOWOWで録画観賞
出演:スティーブ・カレル トニ・コレット リーアム・ジェームス サム・ロックウェル
監督:ナット・ファクソン ジム・ラッシュ

初っ端からスティーブ・カレルに左フックを一発喰らったような気分にさせられる。母親の恋人に「お前は10点満点で3点だ」などと言われて、夏のバカンスを楽しめる子どもがどこにいるものか。こんな嫌味な役をやらせると何故かハマるのは往々にしてコメディアン。『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』における品川佑もそんな感じだった。

14歳のダンカンは、母親(トニ・コレット)とそのボーイフレンドのトレントと共に夏を過ごすべく海辺のリゾート地に車で移動していた。そんなダンカンの居場所は車の最後尾の座席とも言えないような空間。現代の“The Way, Way Back”はここを指すようだ。もちろん居心地が悪いのは車の中だけではない。別荘ではトレントの連れ子が派手系のギャルでダンカンとは明らかに違う”人種”なのだ。畢竟、ダンカンはそんないたたまれない場所には長くは留まれない。自転車に乗ってウォーター・パークへ逃避するのだが、そこでパークの従業員のオーウェン(サム・ロックウェル)と出会う。

アメリカではよく、子どもを育てるには Positive Male Figure が必要だ、などと言われる。実際に、父親のいない家庭では、娘が早期に妊娠することが多いとするデータもあるようだ。日本でも昔は欠損家庭(恐ろしい響きだ)、今では父子家庭や母子家庭と呼称されるが、やはり父、あるいは父に相当する人物の不在は子の成長に影響を及ぼすことは想像に難くない。ただし、父は父だから父なのではなく、父親であることの勤めを果たすからこそ父になりうるということを我々は決して忘れてはならない。そのことは『 万引き家族 』におけるリリー・フランキーが逆説的に証明してくれた。その役割を果たしてくれるのは、今作ではサム・ロックウェルなのである。

14歳というのは不思議な年齢で、まさに子どもと大人の中間地点と言える。第二次性徴が終わっている頃とはいえ、肉体的な成熟はまだまだ先だし、精神的な成熟はもっともっと先だ。そうした自らの変化に誰もが戸惑う時期で、女子はだいたい母親から一通りのレクチャーを受けるものだが、男子に対してしっかりと向き合う大人の男というのは、今はどれほどいるのだろうか。というよりも、昔から日本にはこのような意味での「父親」はあまり存在しなかったのではないかと思う。だからこそ一頃、『父性の復権』なる文庫が飛ぶように売れていたのではないか。

話が逸れた。プールに逃げ場を見出したダンカンは、オーウェンにアルバイトに誘われる。別荘に居場所がないダンカンには断る理由は無い。かくしてダンカンの一夏の成長物語が始まる。本作の素晴らしいところは、オーウェンというキャラがダンカンを対等の男として扱うところであり、大人のあれやこれや(たとえば恋愛や仕事振り)についても隠さないところである。それはつまり、大人に成りきれていない男子を体現しているとも言える。威厳や威圧で関係を構築しようとするトレントと、仲間意識で関係を構築するオーウェンのどちらが「父親役」としてふさわしいのかは言うまでもない。ダンカンも一夏の恋を経験し、オーウェンも同僚のケイトリンと真剣交際に至る一方で、トレントは別荘の目と鼻の先で浮気・・・ 当たり前のように一悶着があり、そしていよいよ夏も終わり、別離の時へ。

最後の最後でトレントに立ちはだかるオーウェンは、間違いなく父親像を体現していた。人生には Positive Male Figure と Negative Male Figure の両方が存在するが、オーウェンは間違いなく前者であった(ちなみに後者でいっぱいの映画の代表例はエドガー・ライト監督の『 ベイビー・ドライバー 』)。それにしても幸薄い母親役と言えば『 シックス・センス 』の時からトニ・コレット、その一方で殺人者からレイシストの暴力警察官役までこなすサム・ロックウェルが共演するというのは、それだけでなかなかに味わい深いものがあった。夏に観賞するにはぴったりであるし、ファミリーもしくは父子で堪能するのも良いだろう。素晴らしい作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, 監督:ジム・ラッシュ, 監督:ナット・ファクソン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

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