Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

月: 2018年8月

『ブラッド・スローン』 -刑務所のリアルを描くクライム・サスペンス-

Posted on 2018年8月31日2020年2月13日 by cool-jupiter

ブラッド・スローン 65点

2018年10月8日 MOVIXあまがさき 2018年8月29日 レンタルDVD観賞
出演:ニコライ・コスター=ワルドウ オマリー・ハードウィック ジョン・バーンサル エモリー・コーエン ジェフリー・ドノバン レイク・ベル
監督:リック・ローマン・ウォー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180831092839j:plain

エリート・ストック・ブローカーとして人も羨む生活を送っていたジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドウ)は、一瞬の不注意から交通事故を起こし、刑務所に入ることに。妻(レイク・ベル)とも離婚となり、同乗していた友人からも訴訟を起こされ、刑務所内の容赦ない弱肉強食の人間関係に否応なく巻き込まれていくジェイコブは、持ち前の頭脳を活かし、いつしかマネーの異名を得て、頭角を現していく。そして、刑期の85%を終えたマネーは娑婆に出る。刑務所内のボスのビーストの指示で動くために・・・

最初に劇場観賞した時は、途中でトイレに立つという痛恨のミスを犯してしまった。ようやくTSUTAYAでレンタルできたので、再観賞。人間が罪を犯すのは、往々にして一瞬の過ちからだが、人はしばしば再犯、さらには累犯にまで行きついてしまうのは何故なのか。刑務所を舞台にした映画の大傑作に『ショーシャンクの空に』があるが、そこでは釈放されたブルックスは現実の社会には馴染めず、刑務所に自分の居場所を見出すしかなく、結局自殺を選んでしまった。本作も、刑務所内の人間関係、力関係が現実の世界にも及ぶ様を生々しく映し出す。病院では、重病の者ほど偉く、刑務所では重罪の者ほど偉い、というのは冗談交じりによく言われることであるが、こうした映画を見せられると、やはり一抹の真実を含んだジョークなのかと思わざるを得ない。

本作は善良な市民であったジェイコブが、いかにして犯罪に加担する、というか主導する凶悪犯に変貌していったのかを、現在と過去の間をフラッシュバック形式で行き来することで、ジェイコブ/マネーのコントラストが、徐々に溶け合っていく様が鮮やかに活写されている。ヤクザ映画の文法とスパイ映画の文法に忠実に則り、誰が何を狙っているのかがもう一つ見えにくい構造が、サスペンスを生みだすことに成功している。

主演のニコライ・コスター=ワルドウ以外では、ジョン・バーンサルぐらいしか有名キャストは見当たらないが、本作の魅力は出演者のネーム・バリューではなく、彼ら彼女らの演技力の高さ。知名度と演技力は必ずしも一致しないということを映画ファンはよく知っているが、今作のような隠れた逸品はそのような確信をさらに強めてくれる。特に保安官のカッチャーは、顔がシェーン・モズリー似でJovian好みだ。自らの信じる正義のためならば銃弾を喰らっても怯まず、超法規的な取引さえも提案してしまうような、静かに燃える熱血漢。刑務官のロバーツは、刑務所の権力構造にいち早く気付き、囚人たちに秘密裏に協力する小市民。登場回数こそ少ないが、画面に現れるたびに映し出される瞳の奥の恐怖感が、我々がイメージする刑務所、囚人、刑務官というものがフィクションで、こちらの方がリアルなのではないかと思わせるに十分。その他、囚人役に本物のギャングや前科者や格闘技経験者を配したということで、映画という娯楽作品を作りながらも、ノンフィクション的な要素も込められている。実際に暴動シーンというのは1980年代の刑務所内の囚人暴動事件にインスパイアされたようだ。

日本語版のタイトルの『ブラッド・スローン』は明らかに『ゲーム・オブ・スローンズ』へのオマージュ。原題は”Shot caller”であるが、アメリカ人に尋ねたみたところ、あまり一般的な表現ではないらしい。元々の”call the shots”というイディオムは実際によく使われるようだが。主題はギャングの人間関係と権力構造だが、テーマは各々の信念の強さであろう。愛する女のため、金のため、家族のため。何でも良い。それこそが正義で、そのためならば相手の命を奪うことも厭わない。人間の最も凶悪で、最も素直とも言える暗部を照らし出す本作のような作品は、もっと作られ、もっと世に問われるべきであろう。

そういえば『デッドプール』のガンダルフらしき俳優もちらっと出ていたように見えたが、錯覚だったかな。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, クライムドラマ, ジョン・バーンサル, ニコライ・コスター=ワルドウ, 監督:リック・ローマン・ウォー, 配給会社:松竹メディア事業部Leave a Comment on 『ブラッド・スローン』 -刑務所のリアルを描くクライム・サスペンス-

『マンマ・ミーア!』 -世代を超える、世代をつなぐミュージカル映画-

Posted on 2018年8月30日2020年2月13日 by cool-jupiter

マンマ・ミーア 70点

2018年8月27日 WOWOW録画観賞
出演:メリル・ストリープ アマンダ・セイフライド ピアース・ブロスナン コリン・ファース ステラン・スカルスガルド ドミニク・クーパー ジュリー・ウォルターズ クリスティーン・バランスキー 
監督:フィリダ・ロイド

ABBAを知らない世代もいつの間にか増えてきた。当然と言えば当然である。今現在、20代の人間は、実は全員が平成生まれなのである。この事実に思い当った時、戦いた人は多いだろう。『シン・ゴジラ』がヒットするまでは、「ゴジラって何ですか?」という中学生や高校生もいたのである。ABBAを知らない中高生など、何をか況やである。それでもABBAの楽曲の数々は不滅である。その理由がここにある。

ギリシャの小島でソフィ(アマンダ・セイフライド)は結婚式を間近に控えていた。母ドナ(メリル・ストリープ)と二人でホテルを切り盛りしてきたが、ある時、偶然に母の日記を発見してしまった。そこには、21年前の一夏に、母が三人の男、サム(ピアース・ブロスナン)、ハリー(コリン・ファース)、ビル(ステラン・スカルスガルド)と情熱的な関係を持ったこと、すなわち自分の父親候補がこの世に三人いるということが書かれていた。ソフィは三人に結婚式への招待状を秘密裏に送る。結婚式での最大のサプライズを考えていたのだ。かくして往年のABBAのヒットソングに乗って、スラップスティックなドラマが描かれる。

アマンダ・セイフライドは高齢女優と相性が良いのだろうか。『あなたの旅立ち綴ります』でもシャーリー・マクレーンと絶妙のケミストリーを生みだしていた。今作ではメリル・ストリープ。キャリアの転換点になったことは疑いの余地は無い。

映画の一番の特徴はと言えば、暗いところで大画面、大音量で観る、というものだろう。もちろん、部屋を暗くしてテレビで観ても良いわけだが、良い映画というのは見た瞬間に分かることがある。光の使い方、取り込み方が絶妙なものは確かに存在する。古いものでは『2001年宇宙の旅』、近年では『ブレードランナー2049』など。今作はエーゲ海とその空だけを背景に、特に凝った構図が見られたわけではない。しかし逆に、これはモーション・ピクチャーとしての美しさを追求するものではありませんよ、という本作の宣誓とも受け取れる。もちろん、ドローン全盛ではなかった時にどうやって撮ったんだ?(ヘリボーンで撮影したのだろうけれど)と思わせるショットもいくつか存在していたが。

今作の最大の魅力はABBAの魅力的な楽曲が視覚化されたことだと断言してもよいだろう。”Money, Money, Money”や”Mamma Mia”、”SOS”などは忠実に歌われ、物語の各シーンに溶け込んでいるが、一方で”The Winner Takes It All”のように、新しく再解釈された歌もあった。何よりも永遠の名曲、”Dancing Queen”がビジュアライズされただけでも洋楽ファンは納得、そして感涙であろう。おそらくだが、ある一定の世代(1970年代に高校生以上だった世代)がABBAとThe Carpentersから受けたショックというか洗礼というか感動というかインスピレーションは、一言では言い表せないものがある。

今作のdemographicは明らかにABBAを現役で知っている世代であろう。だからこそ主人公はメリル・ストリープであり、お相手はコリン・ファースやステラン・スカルスガルドなのだ。しかし、ABBAが本格的な活動を休止してから幾星霜。今の若い世代にも、ABBAの音楽を再発見してもらっても良い頃だ。また、ABBAをリアルタイムで観賞した世代の子ども世代が、今のエンターテイメント界の意思決定者になりつつあるタイミングでもあろう。そういった意味で、正式な続編がリリースされるというのは喜ばしいと同時に誇らしくもある。優れた文化や芸術は、次世代に繋がねばならないからである。

ちなみに、Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『オズの魔法使』と『ジーザス・クライスト・スーパースター』で、次点は『ウエスト・サイド物語』である。『グレイテスト・ショーマン』でも、まだ少し足りない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アマンダ・セイフライド, アメリカ, コリン・ファース, ミュージカル, メリル・ストリープ, 監督:フィリダ・ロイド, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『マンマ・ミーア!』 -世代を超える、世代をつなぐミュージカル映画-

『ペンギン・ハイウェイ』 -異類、異界、そしてお姉さんとの遭遇-

Posted on 2018年8月26日2020年2月13日 by cool-jupiter

ペンギン・ハイウェイ 75点

2018年8月26日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:北香那 蒼井優 釘宮理恵 能登麻美子 西島秀俊 竹中直人
監督:石田祐康

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180826235745p:plain

以下、ネタバレ?に類する記述あり

『未知との遭遇』が傑作であることは論を俟たない。『E.T.』が傑作であることも論を俟たない。異類との交流は、良い意味でも悪い意味でも常に刺激的である。『銀河鉄道の夜』(猫アニメ版)や『千と千尋の神隠し』のような、異世界への旅立ちも、物語が数限りなく生産され、消費されてきたし、今後も不滅のジャンルとして残るのは間違いない。本作『ペンギン・ハイウェイ』は、こうした優れた先行作品に優るとも劣らない、卓抜した作品に仕上がっている。「アニメーションはちょっと・・・、」という向きや、「夏休みの子供向け作品でしょ?」と思っている方にこそ、ぜひお勧めしたい作品である。

以下にJovianの感想を記すが、これはもう全くの妄言であると思って読んで頂きたい。おそらく各種サイトやブログで十人十色の感想が百家争鳴していることであろう。何が正しい解釈なのかを考えることに意味は特にないと思うが、この映画からは絶対に何かを感じ取って欲しい。その何かを個々人が大切にすれば良いと心から願う。

本作は小学四年生のアオヤマ君(北香那)が歯科クリニック受付のお姉さん(蒼井優)という超越的な存在にアプローチしていくストーリーである。ここで言う“超越”とはフッサールの言う超越だと思って頂きたい。この世界には人間の知覚では捉えられない領域があり、それらは全て超越と見なされる。本作で最も超越的なのは、アオヤマ君の目から見たお姉さんのおっぱいであろう。その服の向こう側には何があるのか。もちろん、おっぱいがあるのだが、アオヤマ君にはそれが何であるのか知覚できない。つまり、見えないし嗅げないし触れもしないということだ。しかし、アオヤマ君は科学の子でもある。鉄腕アトムという意味ではなく、自らに課題を課し、科学的に仮説を立て、実験を通じて検証し、成長を自覚するという、大人顔負けの子どもである。そんなアオヤマ君の住む町に、突如ペンギンの大群が現れ、そして消える。アオヤマ君はこの謎にお姉さんが関連していることを知り、さらに研究を進めていく。そんな中、《海》という森の中の草原に浮かぶ謎の存在/現象にも出くわし、同級生のウチダ君やハマモトさんと共同で研究をすることになる。その《海》とお姉さんとペンギンが相互に関連しているというインスピレーションを得たアオヤマ君は・・・、というのがストーリーの骨子である。

まずはJovian自身がストーリーを観賞して、第一感で浮かんできたのは、CP対称性の破れである。何のことか分からん、という方はググって頂きたい。物語の中盤にアオヤマ君が父親から問題解決のアプローチ方法を教授されるシーンがある。アオヤマ君は忠実にそれを実行する。そして終盤、エウレカに至る。これは京都産業大学の益川敏英先生がCP対称性の破れの着想を得た時の構図の相似形である。考えに考えて考え抜いて、もう駄目だ、考えるのをやめてみたら、全てがつながったというアレである。スケールの大小の違いはあれど、誰でもこのような経験は持っているはずである。相似形になっているのは、ペンギンと海の関係が、物質と反物質になっているところにも見られる。《海》は『インターステラー』のワームホールを、どうやっても想起させてくる。であるならばペンギンの黒と白のコントラストはブラックホールとホワイトホールのメタファーであってもおかしくない。川がそれを強く示唆しているように思えてならない。ペンギンという鳥であるのに飛べない、鳥であるのに泳ぎが達者という矛盾した存在は、陰と陽の入り混じった様を思い起こさせる。生物学、動物学が長足の進歩を遂げたことで、鳥類は最も浮気、不倫をする動物であることが知られているが、ペンギンはかなり貞淑な鳥として認識されている。一途な愛情は、アオヤマ君の科学への姿勢であり、将来への希望であり、お姉さんへの憧憬にもなっているように思えるのは考え過ぎか。ハマモトさんがこれ見よがしに見せつける相対性理論の本から、どうしたって物語世界に理数系的な意味を付与したくなる。ましてや原作者は森見登美彦なのだ。その一方で、チェスもまた重要なモチーフとして物語のあちらこちらで指されている。「物理学は、ルールを知らないチェスのようなものだ」という言葉がある。宇宙の中でポーンが一マス進むのを見て、ポーンは一マスずつ進むと科学者は観測の末、結論を出すが、もしかすると我々はまだポーンがプロモーションの結果、クイーンになるという事象を見たことがないだけなのかもしれない。森見は理系のバックグラウンドを持っているが、その作品は常に文系的、哲学的な意味に満ち満ちている。「夜とは観念的な異界である」と喝破したのは、折口信夫だったか山口昌男だったか。お姉さんがアオヤマ君にぽつりと呟く「君は真夜中を知らないのか」という台詞は、「君は異世界を知らないのか」と解釈してみたくなる。事実、本作の指すところのペンギン・ハイウェイは牧歌的な雰囲気を醸し出しつつも、黄泉比良坂の暗喩であるとしか思えなかった。

おそらく他にもこうした印象を受けた人はいるであろうが、この見方こそが正解なのだと主張する気はさらさらない。本作は、謎の正体ではなく、謎にアプローチするアオヤマ君と愉快な仲間達の交流が楽しいのであり、逆にそれだけを楽しむことも可能なのだ。とにかく凄い作品である。今も思い返すだけで脳がヒリヒリしてくる。原作小説も買おう。『四畳半神話大系』も読み直そう。映画ファンのみならず、ファミリーにも、学生にも、大人にも、老人にもお勧めをしてみたくなる、この夏一押しの怪作、いや快作である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アニメ, ファンタジー, 北香耶, 日本, 監督:石田祐康, 蒼井優, 配給会社:東宝映像事業部Leave a Comment on 『ペンギン・ハイウェイ』 -異類、異界、そしてお姉さんとの遭遇-

『追想』 -掛け違ったボタンは元に戻るのか-

Posted on 2018年8月26日2020年1月10日 by cool-jupiter

『追想』 60点

2018年8月26日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:シアーシャ・ローナン ビリー・ハウル エミリー・ワトソン 
監督:ドミニク・クック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180826223855j:plain

原題は”On Chesil Beach”、「チェシル・ビーチにて」となるだろうか。原作の小説ではタイトルは『初夜』となっているようだ。つまり、結婚後、初の夜とその夜の営みを指す。性行為を子どもを作るために持つ、というカップルは少ないだろう。というか、性行為のほとんどは愛情またはコミュニケーションの延長もしくは一形態であって、子どもを作るためという共通の目的を持って行為を持つ割合は低い、と言い直すべきか。性行為に関する認識は時代によって変わるし、地域によっても変わるし、もちろん個々人によっても変わってくる。本作は若くして出会い、結婚した2人の結婚初日、馴れ初めと交際、その後を三幕形式でフラッシュバックを交えて描いていく。

第一幕は、若い二人の結婚式直後の様子を描く。フローレンス(シアーシャ・ローナン)は英国上流階級出身の教養あるお嬢様。エドワード(ビリー・ハウル)は悲劇的な事故から若年性認知症を患う母を持つ下層社会出身者。二人は新婚ホヤホヤにもかかわらず、いや、それ故にか、やけにぎこちない。ベッドインに向けてエドワードは一人で盛り上がるが、フローレンスは何故かはぐらかし続ける。その合間に第二幕、つまり二人の馴れ初めから交際の模様が描き出される。非常に対称的なペアで、1960年代という政治的な動乱の時代を背景に、社会階層の分断の様子も静かに、しかし力強いタッチで画面に映し出される。そんな中でも、フローレンスの献身性やコミュニケーション力、家政能力は卓越しており、エドワードの父は ”Marry her.” =「結婚しろ」と即座に息子にアドバイスするほど。これほど率直な結婚の勧めは、近年だと『ジオストーム』の大統領の ”Marry her.” ぐらいしか思いつかない。しかし、結婚という因習は、当時も今もこれから先も、目に見えて若部分の相性の良し悪しと、決して人目に触れない部分での相性の良し悪しの両方で維持されるものなのだ。本作は、本来なら人目に触れない性の領域に光を当てた、ダークストーリーである。どのあたりがダークなのかは実際に観賞してもらうとして、最も目を惹かれたのは第三幕、すなわち別離したその後である。

劇場は日曜日ということもあり、かなりの入りであった。そのほとんどが中年夫婦と思しきカップルであったのは果たしで偶然だろうか。本作が提示するテーマは、セックスの相性や良し悪しという皮相的なものでは決してない。愛は性行為が無くとも成立するし、そのことを鮮烈に描いたのが小説の映画化としては珠玉の名作『彼女がその名を知らない鳥たち』ではなかったか。反対に、愛の大部分をセックスに負っている映画としては昭和や平成の初めごろまで量産されていたヤクザ映画であろう。女をこれでもかといたぶったヤクザが、情感たっぷりに涙を流しながら「ごめん。ホンマにごめん。でも、お前のことを愛してるんやからこうなってしまうんや」という、紋切り型の洗脳セックスとでも呼べばいいのか、そういう作品が溢れていた。

フローレンスとエドワードのようなカップルは実は現代でも珍しくないのではないだろうか。一昔前は成田離婚なるワードがあったが、そうしたスピード離婚の背景には少なからず、本作が提示するテーマに関連したものがあったことは疑いの余地は無い。性的にかなり奔放になった現代、男女ともに晩婚化の傾向が進み、未婚率および離婚率が高止まりしているのも、フローレンスやエドワードのようなカップルが静かに増殖しているからなのか。

人間の心の中の仄暗い領域に光を当てる作品の常で、本作の Establishing Shot も非常に薄暗い。フラッシュバック手法が多用される本作に置いて、説明不足に感じる一瞬のフローレンスのフラッシュバックは、観る者によってはトラウマを刺激されかねないような想像力を喚起させる。しかし、その暗さから某かの教訓を引き出すことができるだろうと思わせるところに本作の価値がある。シアーシャ・ローナンのファンも、そうでない映画ファンも、時間があれば劇場に足を運んでみて観ても良いだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イギリス, シアーシャ・ローナン, ヒューマンドラマ, 監督:ドミニク・クック, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東北新社Leave a Comment on 『追想』 -掛け違ったボタンは元に戻るのか-

『 ザ・ホスト 美しき侵略者 』 -侵略映画の変化球-

Posted on 2018年8月26日2020年2月13日 by cool-jupiter

ザ・ホスト 美しき侵略者 45点

2018年8月23日 レンタルDVDにて観賞
出演:シアーシャ・ローナン
監督:アンドリュー・ニコル

シアーシャ・ローナン目当てで借りてきたレンタルDVD。人間の体を乗っ取る宇宙生命体の話と言えば、近年の邦画では、まず『散歩する侵略者』が思い浮かぶし、名作漫画原作の『寄生獣』もこのジャンルに分類できるだろう。さらに人間そのものに擬態するものでは古典的名作の『遊星からの物体X』や『ゼイリブ』が外せない。今作のエイリアンは人間のボディを乗っ取ると眼が白く光る。まるで『光る眼』だ。ことほどさように、古今東西のSFのパッチワークになっているのが本作であり、またそのような特徴を併せ持つ作品は、ちょっと大きめのTUSTAYAに行けば軽く50本以上は見つかるであろう。つまり、本作を観る目的は、大雑把に言ってしまえば2つしかない。

1.シアーシャ・ローナンを見ること。

2.雨や風の日、気温が高すぎて出歩けない日の暇つぶし。これである。

本作で少し面白いなと思うのが、メラニー(シアーシャ・ローナン)がしっかりと宇宙人として扱われるところ。物語の序盤過ぎに男だらけのコミュニティに加わることになるのだが、侵略してきたエイリアンとはいえ、人畜無害な若い女子がやってきたら、あっという間に嬲りものにされてもおかしくないように思うが、そこは一応、ライフル片手に叔父さんがグループのイニシアチブを握っているからか。もう一つは、男は女のキャラクターを愛するのか、それとも体を愛するのかという問題。公開間近の『寝ても覚めても』の主題もこれに近そうだ。人は人の外面を愛すのか、内面を愛すのか。人は、中身が人でなくとも外見が人であれば、無節操に愛することができるのか。このあたりは文学よりも、SFこそが追求すべきテーマになっている。なぜなら、人工知能に代表されるようなテクノロジーの進歩は確実に人間の人間性を狭める、もしくは拡張していくからだ。また、パラリンピックの走り幅跳び記録が、追い風参考とはいえ、オリンピックのそれを上回るということは、生身の体を超える可能性を持つ<義体>の萌芽が既にそこに見られるということだ。個人的に最も興味を惹かれたのは『第9地区』でのクリストファー・ジョンソンが茫然と佇立するシーンの焼き直しが本作にあったこと。人間の無慈悲さこそが、人間性の根源にあることを抉りだすシーンだ。

一つ素朴な疑問が。この地球外生命体、いったいどうやって繁殖しているのか。おそらくこの生態では、交配しても生まれてくるのは『寄生獣』と同じく、ホストと同じ生命が再生産されるはず。ソウルの名の通り、人類には及びもつかない方法で生殖しているのか。SFの文法に、論理的(≠科学的)に辻褄が合う世界を創り出すというものがあるが、オカルト・ホラー小説家のリチャード・マシスン著『地球最後の男』的などんでん返しっぽい展開もある。劇場で観賞するにはきついが、自宅でのひまつぶしになら最適だろう。シアーシャ・ローナンのファンであるならば、観ておいて損は無いだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, シアーシャ・ローナン, 監督:アンドリュー・ニコル, 配給会社:ハピネット, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ザ・ホスト 美しき侵略者 』 -侵略映画の変化球-

『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

Posted on 2018年8月26日2020年10月25日 by cool-jupiter

検察側の罪人 60点

2018年8月25日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:木村拓哉 二宮和也 吉高由里子 平岳大 大倉孝二 芦名星 山崎紘菜 松重豊
監督:原田眞人

SMAP解散により、図らずも実現してしまったキムタクと二宮の共演、または競演。相乗効果を生んだとまでは思わないが、新鮮に映ったことは間違いない。

タイトルが物語る通り、検察の側に罪人が存在する。法という武器を手に、容疑者を起訴する。しかし、その検察(だけではなく警察、司法などのシステム全体)が数多くの冤罪を生んできたことは誰もが知るところである。それこそ昭和の中期頃までの日本の警察および検察は、ヤクザよりも遥かに酷かったとすら聞く。何がどうヤクザよりも酷いのか。それは二宮の演技の見せ場に絡めて後述したい。

エリート検事の最上毅(木村拓哉)は、民間高利貸しおよび不動産業を営む老夫婦の殺人事件に携わるうち、捜査線上に、自らの同級生だったとある女子の殺人事件の容疑者と目される男が浮上したことを知る。不起訴となり、過去の亡霊となっていた殺人事件の被疑者、松倉重生(酒向芳)が思いがけず現れたのである。現在の事件と過去の事件、両方を結ぶ線を探るべく、最上は信頼できる弟子とも言うべき沖野啓一郎(二宮和也)に取り調べを委任する。

本作の主題は、検察官同士の対決であるが、その奥に潜むテーマは深く、暗い。最上は自らの信じる正義を執行するために法の定める手続きを無視し、犯し、隠蔽する。客観的な正義が存在すると信じる沖野は、その力を振るいながらも最上に師事し、最上を支持するが、そこに不正を嗅ぎつけた時、袂を分かち、対決する道を選ぶ。二つの異なる正義のぶつかり合い・・・がテーマであれば、実は話が早い。本作が追究しようとするのは、正義の相対性である。絶対の正義と絶対の正義のぶつかり合いは相対的である、と主張したいわけではない。人は、絶対の正義である信じていたものですら、あっさりと捻じ曲げてしまうような非常に強靭な、ある意味で都合の良い精神構造をしている。人は法が定める正義に粛々と従いながら、自らの信じる正義をいとも簡単に上位に置いてしまう。最上は裏社会の人間である諏訪部利成(松重豊)と持ちつ持たれつの関係なのだ。警察や検察がヤクザとズブズブというのは公然の秘密だが、そこに越えてはならない一線があるのも事実だ。それを踏み越えてしまうのは最上だけではなく、沖野もそうなのだ。検察官という職務の上で知り得た情報を、弁護側に渡すなどという無節操なことができるのならば、公安なり内調なりに転職すれば良いのである。成り行きでベッドインする事務官の橘沙穂(吉高由里子)ともども、それがお似合いだ。

本作のもう一つのテーマは、暴力の構造を暴き出すことだ。作中でやたらと強調されるインパール作戦。無謀、無責任、無駄死に、犬死になど、兵士の命を軽んじることこの上ない作戦であった。なぜこのような命を粗末にする作戦が罷り通ってしまったのか。それは、軍の上層部は、自分たちが下士官、下級兵から反抗や反逆を喰らうことは無いと確信していたからという部分も大きい。インパール作戦の立案者は、無謀な作戦と累々の死者の責任を全うすることも無く悠々と生き、悠々と死んだ。一方で、インパールから独自の判断で撤退した師団長は、真実を証言できる法廷に立つ機会すら与えられなかった。一方が他方を一方的に殴ることができるのは、反撃が来ないことを知っているからだ。沖野は松倉に対し、過剰なまでの人格攻撃や脅迫的言辞を弄し、最上の意図する有罪のストーリー作りに途中までは加担しようとする。そこで見せる攻撃的、威圧的、高圧低、脅迫的な言動は圧倒的である。これは個人の正義感や職務上の義務感以上に、やり返されないという確信あってこその態度に思えて仕方がなかった。なぜなら、「真実を解明したいという強い動機」がそこには一切無かったからだ。そこにあったのは、最上へのリスペクトであり、自らの正義と権力を執行するというエゴイスティックな考え方だけだったからだ。

本作の最後のテーマは、人間と、その人間の行使する力は、どこまで不可分なのかということであろう。我々は往々にして「罪を憎んで人を憎まず」と言ったりするが、実際は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の方が多いではないか。冤罪が証明され、裁判の勝利を祝う。それ自体は喜ばしいことである。だが、その人間が過去に罪を犯し、まんまと時効まで逃げ切っていたとしたら、我々はそれを素直に受け入れられるのか。そこまで極端な例ではなくとも、我々はしっかりお務めを果たした前科者の社会復帰を喜ぶよりも忌避する傾向の方が強いのではないか。トレイラーにもある「正義の剣」なるものが存在するとしよう。だが、その剣自体は、振るう者が正義であることを何ら証明しはしない。むしろ、我々は最上の持つ力を法律という国家権力よりも、裏社会、闇社会の人間である諏訪部とのつながりの方に見出す。最上は家族との関係も必ずしも上手く行っているわけではない。妻とセンテンスで会話もできないのだ。こうした人間が「正義の剣」を振るう様は、異様とすら映る。それこそが原田監督の意図であろう。本来、犯罪者と犯罪は別個に分けて考えるべきで、それは検察や警察にしてもそうである。検事=正しい行いをする人などというのは先入観であり偏見である。

物語のそこかしこに某ホテルチェーンとしか思えない一族の偏った思想や、どこかの島国の一党独裁政権を揶揄しているとしか思えない言葉が数多く聞かれる。そうした風刺の最も強烈なものは前述したインパール作戦であろう。これがプロット全体の通奏低音になっており、正しいと信じ抜いた道の先には死屍累々の結果しかなかった。残念ながら、これは歴史的な事実である。我々は客観的な正義や客観的な悪が存在するという思考に慣らされているが、それらは実は極めて恣意的なものであるということを本作は提示する。

登場人物たちのいくつかの行動は理解に苦しむというか、あまりにご都合主義的な面が見られるところもあり、そのあたりは減点せざるを得ない。特にいくつかのアイテムを調達しようとするキャラが、あんな大声で電話するか?とリアルタイムで訝しむ人は多いだろうし、一般人にも逮捕の権利はあるのだから、某女性キャラはその場で取り押さえられていたら、そこで何もかもが水泡に帰していただろう。そうした目立つ欠点を持ちながらも、非常にパワーのある作品であるとの評価は変わらない。一国の総理大臣が推定無罪の原則を無視して民間人を「詐欺師」と断罪してお咎めなしという亡国、もとい某国の国民は『三度目の殺人』とともに本作を鑑賞すべきだ。個人の信じる正義の拠って立つ基盤の強固さ故の脆さと、客観的な正義なるものがどこかに佇立するのだという幻想を見せつけられる。人を選ぶ映画であるが、単なるエンターテインメント以上の作品に仕上がっている。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, 二宮和也, 吉高由里子, 日本, 木村拓哉, 監督:原田眞人, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

『プリティ・プリンセス』 -王子様不在のシンデレラ・ストーリー-

Posted on 2018年8月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

プリティ・プリンセス 55点

2018年8月23日 レンタルDVDにて観賞
出演:アン・ハサウェイ ジュリー・アンドリュース ヘクター・エリゾンド 
監督:ゲイリー・マーシャル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180825092540j:plain

原題は”The Princess Diaries”、つまりは『お姫様日記』である。冴えない女子高生のミア(アン・ハサウェイ)は、母と二人暮らし。誕生日に毎年プレゼントだけを贈ってくれる父が亡くなった聞いてから2カ月。親友はいるものの、学校ではカリスマを持っているわけではなく、むしろスピーチコンテストで緊張しすぎて嘔吐してしまうようなタイプである。そんなミアを訪ねて、ヨーロッパから父方の祖母がやって来る。その人こそジェノヴィアの女王クラリス(ジュリー・アンドリュース)であった。ミアの父は実は皇太子で、今や王位継承権はミアにあるとクラリスは言うのだ。王室主催のボール(ダンスパーティ)までにプリンセスにふさわしい立ち居振る舞いを身につけることができるかどうか、ひとまずは訓練する。実際に王位を継承するかどうかはそれから考えればよい。かくしてミアの日常の風景は一変する・・・

何と言ってもアン・ハサウェイの映画初主演である。若い、細い、初々しい。しかし、演技力はすでにある。表情の作り方、話し方の抑揚と緩急、立ち居振る舞い、コメディカルな動き、我々の知るアン・ハサウェイがすでにそこにいる。着替え途中のバスタオルシーンもある。セックスしましたの描写はいくつかの出演作にはあっても、ベッドシーンそのものの描写は少ないハサウェイの、数少ないサービスショットである。ただし、非常に胸糞が悪くなるサービスシーンである。彼女が王位継承者、つまりはセレブとして認められたとしても、学校という、ある意味では究極の閉鎖空間には、外界の常識や知識が及ばないことがある。もちろん、こうした意地の悪い生徒がいるおかげで、ミアのステータスではなく、ミアのパーソナリティを認めてくれる友人の存在が際立つわけだが。他にも、青春のお定まりの、女の友情が見られる。男子校の学生あたりは観ておくべきだ。

そして『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア先生との再会。『ゲティ家の身代金』でもクリストファー・プラマーが、わずか2週間という準備期間で完璧とも言える演技を見せてくれたのは記憶に新しい。ジュリー・アンドリュースも同じく、気品ある西ヨーロッパの王国の君主を演じることに成功していた。ほんのわずかな目線や立ち方、歩き方、話し方に現れる女王らしさは、日本の皇室のプリンセスたちよりも、どちらかというと故ダイアナ妃に近い。といっても、おそらく平成生まれの若者にはイメージしづらいかもしれない。美智子様や雅子様、さらには眞子様でもなく、佳子様あたりを思い浮かべれば、何となくわかるだろう。

そしてヘクター・エリゾンド演じるジョーが、この2人を優しく包み込む。こういう男のことをchaperoneと呼ぶ。ナイスミドルにしか出せない味というものがあり、ジョーにはそれが出せている。ミアの親友と、ミアに恋する冴えないイケメン(この名詞にこの形容詞を使えるのが彼の魅力なのだ)も物語に興を添えてくれる。あなたが男性で、いきなり眞子様と結婚することになったら、どう変わってしまうだろうか。また周囲の人間は自分にどう接してくるだろうか。それによって、それまでの関係の本質が炙り出されることがある。それは決して心地よいばかりのものではない。もちろん、これまで自分を歯牙にもかけなかった相手がすり寄って来ることもあり得るし、そのことを好ましく思ってしまうことにも罪は無い。しかし、自分の価値を決めるのは自分自身なのだ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「幸福とは、他者の助けなしに達成できるもの」と定義した。こうしてみると、名声や評判、人気というのは、自分の心が決めるものではなく、他者に依存したステータスであることがわかる。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』でローズを演じたケリー・マリー・トランがSNSで人種差別的な誹謗中傷を受けていたことがニュースになったことを覚えている人も多いだろう。彼女は「自分の心よりも他人の言葉を信じてしまっていた」と言う。こうした状態では、幸福にはたどり着けないのだ。もちろん、ケリーが悪いといっているわけではない。悪いのは差別的な嗜好と思考の持ち主だ。大切なのは、自分が何者であるのかを決めるべきなのは自分自身であるということだ。お姫様という属性を維持するためには、その名に傅く臣民の存在が不可欠だ。そうではなく、自分が姫になるのだという決意こそが幸福に結びつく。ミアの決意はそのことを我々に教えてくれる。さあ、続編も借りてくるとしよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン・ハサウェイ, ジュリー・アンドリュース, ヒューマンドラマ, ヘクター・エリゾンド, ロマンス, 監督:ゲイリー・マーシャルLeave a Comment on 『プリティ・プリンセス』 -王子様不在のシンデレラ・ストーリー-

『主人公は僕だった』 -ライトノベル風味のタイトルに騙されることなかれ-

Posted on 2018年8月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

主人公は僕だった 55点

2018年8月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ウィル・フェレル マギー・ギレンホール ダスティン・ホフマン クイーン・ラティファ エマ・トンプソン
監督:マーク・フォースター

原題は”Stranger Than Fiction”、小説よりも奇なり、の意である。国税庁の会計監査員のハロルド・クリック(ウィル・ファレル)は寝る時間から起きる時間、歯磨きの時の縦方向と横方向のストロークの数まで決まっている真正の型物である。ある時、いつも通りのルーティンをこなしていると、どこからか自分の物語を描写するナレーションが聴こえてくる。幻聴かと思ったハロルドはカウンセリングを受けるも、問題は解決しない。ある時、時計が突如故障し、街頭で見知らぬ人に時刻を訪ねたハロルドだが、「この一見、何の変哲もない行為が、死につながるとはハロルドには知る由もなかった」というナレーションを聴いてしまう。文学者のヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)に相談したハロルドは「人生は悲劇か喜劇。死にたくなければ喜劇を生きろ」とのアドバイスを受ける。そして、税金を確信犯的に部分滞納する菓子職人のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)と恋人同士になるのだが・・・

どこかで見たり聞いたり、あるいはゲームとしてプレーしたこともあるような内容である。2006年製作の映画だが、それでもプロットとして真新しいものはない。妻が借りてきたDVDだが、10年ぐらい前にWOWOWか何かで観たことを覚えていた。冒頭からのナレーション(エマ・トンプソン)の非常に典型的なスタンダード・ブリティッシュ・イングリッシュが印象的だ(ちなみに最もオーソドックスなブリティッシュ・イングリッシュは『ハリー・ポッター』シリーズで聴くことができる)。アメリカ映画でブリティッシュ・イングリッシュが聞こえてきたら、たいていその話者は悪者だ。このあたりのクリシェにアメリカという国の潜在意識を垣間見ることができる。本作は、もしも自分の人生が誰かの創作物で、自分の命が自分の意図しない時、場所、方法で奪われるとしたら、一体どうすべきなのかを問う。大袈裟に解釈すれば、被造物たる人間が、創造主たる神に文句を言うべきか否かということである。それが大袈裟すぎるというのなら、『ターミネーター2』におけるサラ・コナーを思い浮かべてほしい。”No fate but what we make”=自分たちで作りだすもの以外に運命など無い、の精神である。

コメディとしては弱いし、原題通りの小説映画として捉えるべきである。日本で言えば、竹本健治、山口雅也、牧野修あたりが本作のようなプロットを思いつきそうだ。我々が小説のページを繰る時、物語の結末はすでに決定されているのだろうか。それとも、我々が読み進むにつれて、物語も紡がれていくのだろうか。もし自分の人生の結末を知ってしまったら、または知る機会を与えられたとしたら、あなたはどう生きるか、またはどう死ぬのか。人生はしばしば線路に譬えられる。電車は自分からは線路を外れられない。しかし、運転士ならばそれができる。運命にその身を委ねるのか、それとも運命にも抗うのか。生きることに疲れた人が、雨の日や強風の日に自宅でゆっくり鑑賞するのに適した一本である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, ウィル・フェレル, コメディ, ダスティン・ホフマン, 監督:マーク・フォースター, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『主人公は僕だった』 -ライトノベル風味のタイトルに騙されることなかれ-

『アイ、ロボット』 -近未来にあり得たかもしれない世界への警鐘-

Posted on 2018年8月22日2020年2月13日 by cool-jupiter

アイ、ロボット 45点

2018年8月13日 レンタルDVD観賞
出演:ウィル・スミス ブリジット・モイナハン ブルース・グリーンウッド アラン・テュディック
監督:アレックス・プロヤス

採点はあくまで現在の視点からによるもの。ある程度、アンフェアであることは意識している。AIの発展・発達が目覚ましく、一方で人型ロボットの開発は端緒についてから久しいものの、人間のような動きをすることができるロボットを生みだすことの難かしさばかりを研究者は思い知らされるばかりだと言う。技術の進歩は曲線的に、しかも我々に思い描いていたのとは異なる方向に進むのが常であるようだ。『2001年 宇宙の旅』が描いた世界は到来しなかったし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が描き出した2015年はやってこなかった。漫画『ドラえもん』や『火の鳥 生命編』を挙げるまでもなく、我々はロボットの到来と進化を予測していた。それは巨匠アイザック・アシモフにしても同じだったわけだが、ロボットという存在に対して我々は心のどこかに生理的な嫌悪感を抱くようにプログラムされているのかもしれない。いわゆる「不気味の谷現象」である。このことにいち早く気が付いていたクリエイターの一人にアレックス・ガーランド監督で、その作品の『エクス・マキナ』はまさに不気味の谷現象を我々に引き起こす。『ターミネーター』もこの系列の作品と呼んでも差し支えはなさそうだ。本作も同じで、スプーナー刑事(ウィル・スミス)も「何故こいつらに顔をつけた?」とカルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)に問いながら、ロボットに発砲するシーンがある。観る者に嫌悪感を催させるシーンで、その嫌悪感は顔のあるロボットを破壊することから来るのではなく、中途半端に人間に似ているものが存在することから来るのだ。ゾンビがその好例だ。我々は死んでいるはずのものが動くから恐れるのではない。ゾンビという人間の姿かたちをしたものが、およそ人間らしさを感じさせない動きを見せるところに、我々は不安と恐怖を掻き立てられるのである。実際に、Jovianが本作で最も嫌悪感や恐怖感を催したシーンは、『BLAME!』の大量のセーフガードさながらに、人間の形をしたロボット群が昆虫のような動きで建物の外壁をよじ登るところであった。

本作の主題はロボット三原則であるが、その奥に潜むテーマは複雑多岐である。上に挙げたような手塚作品のビジョンもあれば、『ブレードランナー』にも通底する人間と非人間の境、人間と非人間の混じり合うところ、人間と非人間の交流もある。このような世界が数年というスパンで到来することは到底なさそうだが、ありうべき他の世界線として考えるならば、全ての優れたSFがそうであるように、思考実験の場と機会を提供してくれるものとしての価値は十分にあった。

難点はあまりにもCGのクオリティが低いこと。同時代に観賞する分には良かったのだろうが、それでも本作に先行して作られた『マイノリティ・リポート』の方が遥かに自然に近いCGが見られたことから、残念ながら減点が生じてしまう。

カルヴィン博士はアンセル・エルゴートとシャーリーズ・セロンを足して2で割ったような顔が印象的。そんなに映画は出てないのね。妙に存在感があって、良い女優さんだと思うので、もう少しスクリーンに出てきてほしいものである。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ウィル・スミス, 監督:アレックス・プロヤス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『アイ、ロボット』 -近未来にあり得たかもしれない世界への警鐘-

『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

Posted on 2018年8月21日2019年4月30日 by cool-jupiter

君の膵臓をたべたい 70点

2018年8月16日 レンタルDVD観賞
出演:浜辺美波 北村匠海 小栗旬 北川景子 上地雄輔 矢本悠馬
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180821120209j:plain

タイミングが合わなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、本作を昨年のうちに劇場で観ることを選択しなかった我が目の不明を恥じる。いくつかの欠点に目をつぶれば、非常に優れた作品である。

“僕”(小栗旬)は高校の国語教師。ある仕事をきっかけに高校時代の友人の山内桜良(浜辺美波)を思い出す。彼女は膵臓の病を患っていた。そんな彼女と過ごしたかけがえの無い高校時代の自分(北村匠海)の回想を通じて、桜良が未来に宛てたメッセージを受け取ることになる。

浜辺は、南沙良と並んで、現在売り出し中の若手女優のトップランナーの地位を本作で築き上げ、『センセイ君主』で確たるものにしたと評してもよいだろう。病気と笑顔で向き合う。しかし、一瞬だけ垣間見せるその表情に我々は桜良が心の奥底にひた隠す死への恐怖と生への渇望を見逃すことは無い。さりげなく、それでいてハッと気づいてしまう。卓越した演技力の持ち主であることを随所で見せつけてくれる。 

桜良が“僕”に好意を抱くきっかけの一つに、“僕”が桜良の病気のことを知っても動じなかった(ように見えた)ことが挙げられる。看護師さんらによると、病院という場所では患者はしばしば「病気」で呼ばれるということだ。医者はしばしば「あの305号室の肺がんの人だけど云々」などと言うらしい。これは実は医療従事者だけに特有の考え方だったというわけではない。一昔前は障がい者を、disabled peopleと英語で言っていたが、その後はpeople with disabilitiesに、今ではspecial needs peopleまたはpeople with special needsと言っている。病気や障害を、その人と最も特徴づける属性として捉えていた時代があったのだ。今では医療や介護の世界にもセルフケアという概念が浸透し、「何ができないのか」ではなく、「何ができるのか」で人間を評価するようになっている。“僕”は意識的にも無意識的にも、桜良が何ができないのかを考えることは無く、桜良ができることに寄り添う姿勢や態度を見せていた。これは惚れるしかない。北村匠海の過去の出演作品を今回チェックしてみて驚いた。ほとんど全部観ているし、確かに印象的な演技を見せてくれていたことは思い出せた。しかし、俳優としての北村匠海の印象が極めて希薄なのだ。例えばニコラス・ケイジやトム・クルーズは、どんな作品に出ても、どんな役を演じても、結局は本人にしか見えないことがほとんどである。日本で言えば福士蒼汰や東出昌大がこれに該当する。北村匠海は違う。窪田正孝の系列の役者であると評しても間違いではないだろう。この若い二つの才能のぶつかり合いが作品に深みと奥行きを与えている。

残念ながらいくつかのマイナス点も指摘しなければならない。ホテルに泊まるところで、「僕」が髪をタオルで拭きながら出てくるシーンがあるのだが、いかにも不自然だ。髪も本当に濡らして、それをドライヤーで生乾きぐらいまで乾かした感じで出てくるぐらいでいい。また、小栗旬と北村匠海は、表情や目の動き、歩き方などでかなりお互いがお互いを同一人物として意識した役作りおよび演技ができていたが、他のキャストがあまりにも似ていない。というか、似せる努力をしていない。世界的に『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』が批判されているのは、オールデン・エアエンライクの演技力の低さではない。ハリソン・フォード演じるハン・ソロを意識した演技ができていなかったからだ。これは監督の罪でもあるが、本人の罪でもある。まあ、ハリソン・フォード自体がトム様やニコケイのような、ほとんどの役で「これはハリソン・フォードである」と認識されてしまう役者であるのだが。矢本と上地が同一人物設定というのはどうなのだ?また、大友花恋が北川景子に変身するのも、説得力がなさすぎる。だからこそ、このタイミングでアニメーション作品の制作および公開に至ったのだろうが。

Back on track. 本作は「生きることの意味」を追求する作品でもある。「君がいなくなったら、みんな、僕のことなんか忘れるよ」という“僕”の台詞に「そんなの死ぬに死ねないよ」と返す桜良。二人は死を心停止などという生物学的な意味では捉えていない。死ぬ=誰にも思い出されなくなる、と捉えている。これは『ウインド・リバー』でランバートが語っていたことと全くの同義である。生とは、ある一面では、思い出の中に宿るものなのだ。桜良が死ぬまでにやりたいこと=誰かの中の思い出として生き続けたいという欲求なのだ。

桜良はもう一つ、本や文字にも自分の生を託す。学校の図書館に眠る本の数々が、ある意味での永続性を象徴している。文字は一種のタイムマシーンだ。その場所が取り壊されることが決まってしまった時、桜良からのメッセージが見つかる。図書館の窓の外に覗くは、散り行く桜。我々はここで否応なく桜良の「桜は散ったふりして咲き続けている。散ってなんかいない。みんなを驚かせるために隠れているだけ」という台詞に思いを馳せずにはいられなくなる。健気に生きる姿だけが美しいわけではない。生きることは時に残酷なまでの悲劇を生む。死んでも、それでも生きていたいという想いの強さに打ちのめされるラストシーンに、観る者は大いに涙するだろう。

 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

投稿ナビゲーション

過去の投稿

最近の投稿

  • 『 シャザム! 神々の怒り 』 -少年から大人へ-
  • 『 Winny 』 -日本の警察と司法の闇-
  • 『 アビス 』 -海洋SFの佳作-
  • 『 シン・仮面ライダー 』 -庵野色が強すぎる-
  • 『 湯道 』 -もっと銭湯そのものにフォーカスを-

最近のコメント

  • 『 すずめの戸締り 』 -もっと尖った作品を- に cool-jupiter より
  • 『 すずめの戸締り 』 -もっと尖った作品を- に じゅん より
  • 『 トップガン マーヴェリック 』 -追いトップガン6回目- に cool-jupiter より
  • 『 トップガン マーヴェリック 』 -追いトップガン6回目- に まるこ より
  • 『 トップガン マーヴェリック 』 -MX4D鑑賞- に cool-jupiter より

アーカイブ

  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme