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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 海外

『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

判決、ふたつの希望 90点
2018年9月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アデル・カラム カメル・エル・バシャ リタ・ハーエク クリスティーン・シュウェイリー カミール・サラーメ ディアマンド・アブ・アブード
監督:ジアド・ドゥエイリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180916114703j:plain

元・新聞記者の先輩がSocial Media上で絶賛されておられたことにインスパイアされ、鑑賞。魂を持っていかれるかと思うほどの衝撃を受けた。邦画、外国映画を合わせて、間違いなく年間ベストである。ベスト級ではなくベストと断言させていただく。

レバノン人にしてキリスト教徒、右派政党のレバノン軍団の支持者であるトニー・ハンナ(アデル・カラム)は妊娠中の妻シリーン(リタ・ハーエク)と、どこか幸せそうに、どこか不幸せそうに暮らしていた。ある日、トニーはパレスチナ人技術者のヤーセル(カメル・エル・バシャ)との間でちょっとした諍いがあり、「クズ野郎」と罵られる。謝罪を求めるトニーに、新規の仕事を受注していきたい上司の仲介もあり、ヤーセルはトニーの自動車修理工場を訪れるが、その場でトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」という暴言を受け、思わず激昂し、トニーの腹にパンチを一発お見舞い、肋骨を折ってしまった。これによりトニーはヤーセルを告訴。裁判は、しかし、いつの間にかトニーの思惑を超えた次元にまで到達してしまう・・・

まず、本作の真価を味わうためには、レバノンとその周囲の政治と軍事と歴史についてある程度の造詣が求められるが、新聞や報道で知る程度の知識でも十分に意味は理解できるはずだ。というよりも、むしろレバノンという国固有の事情を全く知らない方が様々な意味やメッセージを本作から受け取ることが容易になるかもしれない。Jovianが受け取った、本作が発しているメッセージは以下の4つである。

1つには、言葉は時に刃物よりも簡単に人を抉るということである。古代ギリシャのヒポクラテスは「医者には三つの武器がある。第一に言葉、第二に薬草、第三にメスである」と語ったとされる。言葉には人を癒す力が宿るのだ。だとすれば、言葉は人を傷つける力を持つことがあるというのは理の当然であるとも言える。『検察側の罪人』で沖野が松倉に対して非常に脅迫的で威圧的な言動をとるが、あれは一にかかって相手の≪犯罪者≫という属性を責め立てるものであった。では、犯罪者ではなく個人の職業を罵ったら?出身地を罵ったら?性別を罵ったら?年齢を罵ったら?名前を罵ったら?国籍を罵ったら?宗教を罵ったら?政治的な思想信条を罵ったら?これらが時として、フィジカルな暴力よりも人を傷つけることを我々は知っているはずである。「シャロンに抹殺されていればな!」という台詞にあるシャロンが誰のことなのか分からないという人は多いだろう。しかし、ロヒンギャ難民に対して「ミャンマー軍に殺されていればな!」などと言えば、相手がどれほど怒り、悲しみ、混乱し、悶え苦しむかは想像に難くないだろう。他者の全人的な存在を否定し、ごく一部の属性を切り取り、それを理由にその相手の死を望むような言葉が許される道理はない。漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』で真田信繁が「人には触れてはいけない痛みがある。そこに触れれば、後は命のやり取りをするしかなくなる」と喝破するシーンがあったが、トニーがヤーセルに投げつけた侮蔑の言葉は正にこれに当てはまる。

2つには、人間は必ずしも理性的に振る舞うわけではなく、感情や欲望のままに言葉を発し行動を起こしてしまう生き物であるということである。哲学者ニーチェの考察を援用させてもらえれば、人間の理性の奥底には欲望が潜んでおり、我々の思考もよくよく分析してみれば欲望に基づいたものであることが分かる。トニーもある時点までは周囲の声に耳を傾けない、ただの頑固親父でしかなかったが、ある時を境に自分の心に向き合い、自分が求めているのは、争いではなく平和的な関係であることを悟る。しかし、一度口から出してしまった言葉はもはや飲み込めない。言葉では自分の心を表せない。そこで行動で自分の気持ちを表す場面がある。人間は愚かな=非理性的な存在ではあるが、それを認め、乗り越えていくだけの強さも確かにある。勇気を持って自分の素直な心に従えば、過ちを改める機会も訪れるのだ。どこかの島国では政治家がひょいひょいとコメントを撤回するが、それをするのならば行動変容、態度変容も同時に見せて欲しいものである。

3つには、人間は非常に狭い範囲でしか物事を考えられない、ある意味で生得的な欠陥を抱えているということである。あいつはパレスチナ人だ、不法難民だ、不法就労者だ、ムスリムだ、だから暴言の対象にしても良いのだ、という論理がトニーの頭の中で一瞬で成立したことは明明白白だ。もちろん、そのような思考回路が成立するための長い期間や環境があったことも考慮に入れるべきではある。それでも、人間はいとも簡単に他者にレッテルを貼る。Jovian自身も「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉を東京の某企業で幾度も聞いた。人口当たりのクレーム発生件数は、明らかに東京>大阪、関東>関西であったにも関わらず・・・ 人間は、理性ではなく、自分の信じたいものを信じるように出来ている。我々は欲望に突き動かされる、無力で非力な存在にすぎないのか。人間が無意識のうちに育てがちな、そして意識的に拡散させる傾向をもつ、差別的な思考については、山本弘が自身の小説内で、おもにロボットやアンドロイドとの対比で描いてきた。『アイの物語』はその中でも白眉であろう。同様のことは栗本薫も評論やエッセイで、主にオタク趣味・やおい趣味擁護の論を展開する中で行ってきていた。人間はほんの少しの肌の色の違いや目の色、髪の色の違いに敏感で、それだけで容赦なく差別に走る、極端に狭い思考に囚われているのだ。もう一度、「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉に注目しよう。「やっぱり」に着目されたい。考えての台詞ではない。既に自分の中に固定観念が存在し、それにたまたま符合するような事態が出来しただけのことなのである。それがこの「やっぱり」の本質であろう。もちろん、この言葉を肯定的なコンテキストやニュアンスで使うことも十分に可能である。だが、貴方も私も「やっぱり○○○は・・・」という思いを抱く、あるいは言葉に出す時、そこに差別的な感情が根付いていないとは言い切れないだろう。人間の持って生まれた弱さなのだ。人間は、現実をありのままに受け入れるよりも、自分にとって受け入れやすい、自分の中に受け入れる土壌のある現実の一側面だけを消化吸収する傾向があるのだ。

4つには、ジアド・ドゥエイリ監督からの「これはレバノンの現実ではなく、あなたの身の回りで起きている事柄なのですよ」というメッセージである。レバノンの状況や周囲の情勢、その歴史に詳しいという人は日本では少数だろう。では、これをアメリカに例えるなら?『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』ような思わぬアシストが転がり込んできたとはいえ、トランプ政権爆誕のニュースに世界が震撼したのは記憶に新しい。それは、ヒラリーが女性層を完全に敵に回してしまっていたという重大なエラーのせいでもあるのだが、他に大きな要因を挙げるとすれば、オバマ政権時代の反動だ。バラック・オバマという黒人議員が大統領職に登りつめることで、アメリカでマイノリティ(実際はマジョリティに近いが)とされてきた黒人およびその他の人種は、社会正義の実現を期待した。ここでいう社会正義とは、恐ろしく端的に言い切ってしまえば、黒人の白人への優越である。しかし、オバマが目指したのは、全人種の平等と公正であった。これにより、民衆の願望とオバマの政治理念の間に齟齬が生じ、アメリカ分断の端緒となったわけである。トランプの出現によってアメリカは The Divided States of America と揶揄されるようになったわけではない。その前政権から、分断の萌芽はすでにあったのだ。公平性の実現によって、自らの権利や利得が侵害されると人は感じるのだ。本作の呈示するメッセージは現代日本にも見事に当てはまる。一部の日本人は、外国人労働者によって日本人の職と所得が奪われていると感じるらしい。東京都心や関西都市部でも、確かにコンビニの店員さんや飲食チェーン店の店員さんに東北および東南アジアの人たちが増えてきた。しかし、彼ら彼女らが日本人の仕事を奪っているわけではない。逆だ。Jovianの後輩に東京都心でカレー屋とラーメン屋のチェーンを営む男がいるが、正社員にもパートにもアルバイトにも、応募してくるのは外国人だらけだと言う。これは彼だけの感想ではなく、同世代。同地域の小規模ビジネス経営者の共通の悩みであるということだ。日本人がやりたがらない仕事を外国人が補完してくれていると見るべきなのだろう。本作のトニーも、ヤーセルに対する負の感情が抑えきれないのだが、彼を外国人、難民、不法就労者という面ではなく、仕事に対して忠実なプロフェッショナルであるという自身とオーバーラップする側面に気がつかされた時、ヤーセルの視界は一変する。我々は彼我の違いではなく、共通点に目を向けるべきなのだ。究極的には、人間は皆、同じ人間なのだという境地を目指すべきなのだ。皮肉なことに、それをまさに究極の能天気さで実現してしまった映画に『インデペンデンス・デイ』がある。宇宙人の襲来を受けたことで、”We can’t be consumed by our petty differences anymore.”という不都合な真実にウィットモア大統領は気付いたのだ。他者を自分と同じく、生きた血肉を持つ人間として見、そして接する。そうすることが如何に困難で、そして如何に実は容易であるのかを本作は非常にドラマチックに我々に見せてくれる。

本作の素晴らしさは、プロットだけではなく、カメラワークや演技、演出全般にも当てはまる。『赤かぶ検事奮戦記』のような関係性が盛り込まれていたりするが、そのことがドラマの主軸にはならない。むしろ、人間は世代、性別や思想信条によって親子であっても、同胞であっても、あっさりと対立してしまうことをあっけらかんと見せつける。主演の男性二人だけではなく、弁護士の対決もサスペンス感たっぷりで、手に汗握る論理と言葉の応酬の裏に、自らの信じる社会正義と紛争の調停への使命感がありありと感じられる。裁判長の威厳と迫力も、アメリカ映画のそれとは段違いである。日本の判事や判事補など、実態はともかくとして、少なくともエンターテインメントの世界では存在感は無に等しい。法廷サスペンス映画としても本作は第一級品である。何よりも役者たちの演技力に脱帽する。レバノンという国が、自らの国の抱える問題や矛盾点をさらけ出し、世界に堂々と配信するという姿勢に感銘を受ける。そして、小規模ながら日本でも配給されることに感謝したい。観て後悔は絶対にさせない、まさに現代人のための映画であると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アデル・カラム, カメル・エル・バシャ, サスペンス, ヒューマンドラマ, フランス, レバノン, 監督:ジアド・ドゥエイリ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

Posted on 2018年9月14日2020年2月14日 by cool-jupiter

はじまりのうた 65点
2018年9月12日 レンタルDVD観賞
出演:キーラ・ナイトレイ マーク・ラファロ ヘイリー・スタインフェルド アダム・レヴィーン ジェームズ・コーデン キャサリン・キーナー
監督:ジョン・カーニー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180914020936j:plain

原題は“Begin Again”、「もう一度始めよう」の意である。もう一度、というところが本作の肝である。

音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)は、かつては敏腕でグラミー賞受賞者もプロデュースしたこともあるほど。しかし、ここ数年はヒットを出せず、酒に溺れ、妻のミリアム(キャサリン・キーナー)とは別居。娘のバイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)を月に一度、学校に迎えに行くだけの父親業も失格の男。ある日、娘を職場に連れて行ったものの、あえなくその場で解雇を宣告されてしまう。失意のどん底のダンは、しかし、とあるバーでシンガーソングライターのグレタ(キーラ・ナイトレイ)の歌と演奏に聴き惚れる。必死の思いで彼女を説得し、ニューヨークの街中を舞台にゲリラレコーディングを敢行していくことで、ダンの周囲も、グレタと恋人のデイヴ(アダム・レヴィーン)にも変化の兆しが見られるようになる。

『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』でも触れたが、アメリカという国は≪セカンド・チャンス≫というものを信じている。本作は、音楽の力を通じで、そのセカンド・チャンスを人々がものにしていくストーリーなのである。燻っていた情熱の残り火を、もう一度完全燃焼させたいと願っているサラリーマンは、日本には大勢ではないにしろ、それなりの数が存在しているはずだ。そんな人にこそぜひ見てほしい作品に仕上がっている。また、娘が難しい年頃になったことで、距離の取り方に難儀するようになった中年の悲哀に対しても、本作は一定の対応方法を提示してくれる。洋楽はちょっと・・・と敬遠してしまうような中年サラリーマンにこそ、観て欲しい映画になっているのだ。

一例を挙げよう。ダンはグレタのギターと歌唱を聴きながら、伴奏のピアノやバイオリンによるアレンジを生き生きと思い描き、歌に命を吹き込むビジョンを抱く。そんな creativity は自分には無縁だと思うサラリーマンも多いだろう。だが待ってほしい。街の中で空き地を見つけて、アパートかオフィスビルが駐車場にならないかと想像を巡らせたことが一切ないという不動産会社や建築・建設会社の社員がいるだろうか。ダンと我々小市民サラリーマンの違いは、スキルや能力ではなく、何らかのポテンシャルに巡り合えた時に、自分を信じられるかどうかである。何らかの可能性ある投資先を見つけられるかどうかではない。小説および映画の『何者』にあった台詞、「どんな芝居でも、企画段階では全部傑作なんだよ」という言葉が思い出される。当たり前といえば当たり前だが、我々はくだらないことよりも素晴らしいものの方を想像しがちだ。その想像を創造につなげていく勇気を持つ人間のなんと少ないことか。そんな小市民たる我々は、ダンとグレタに救われるのだ。

印象的な点をもう一つ。ダンとグレタが互いに素晴らしいと認めるミュージシャン、アーティストを挙げていく酒場のシーンがある。「どんなものを食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」とはジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの言葉であるが、これは「どんな音楽を聴いているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」と言い換えることも可能であろう。ダンとグレタは、互いのプレイリストを二股のイヤホンを使ってシェアするが、これなどは我々が互いの本棚や映画のライブラリを見せ合うのに等しい。我々は普段からスーツに身を包み、自分を偽装することに抜け目がない。しかし、自分が普段から聴いている音楽を人にさらけ出すというのは実は非常に勇気がいることだ。もし、この例えがピンと来ないのであれば、あなたのPCやスマホのブラウザのお気に入りを誰かに見せるということだと思ってみてほしい。ダンとグレタの男と女とは一味違う、もっと奥深いところで響き合う関係に感銘を受けるだろう。

それにしてもキーラ・ナイトレイの歌の意外な上手さに pleasantly surprised である。Maroon 5のアダム・レヴィーンが本職の実力と迫力を見せてくれること以上に、彼女の歌う“Like a Fool”に哀愁と力強さが同居することに感動のようなものを覚えた。恋人もしくは元彼がいかに約束を守ってくれなかったかを詰る歌は無数に存在する。Christina Perriの“Jar of Hearts”、Diana Rossの“I’m Still Waiting”など、枚挙に暇がない。それでもJovianがキーラの歌う“Like a Fool”に殊更に魅了されたのは、単にBritish beautyが個人的な好みだからなのだろうか。

いずれにしても、これは素晴らしい作品である。サラリーマンとして、父として、または夫として、とにかく人生に何らかの行き詰まりを感じている男性はここから何らかの「やり直す勇気」を受け取ってほしい。切にそう願う。そうそう、早まってエンドクレジットが始まった途端に再生を止めたり、画面の前から離れたりせず、最後まで観るように。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, マーク・ラファロ, 監督:ジョン・カーニー, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

Posted on 2018年9月13日2020年2月14日 by cool-jupiter

アントマン 65点
2018年9月12日 WOWOW録画観賞
出演:ポール・ラッド エヴァンジェリン・リリー マイケル・ダグラス コリー・ストール アンソニー・マッキー 
監督:ペイトン・リード

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180913135704j:plain

ちょうど3年前の今ごろ、大阪ステーションシネマで観たんだったか。続編観賞前に復習観賞。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では、キャプテン・アメリカ相手に、一般人があこがれの芸能人やスポーツ選手に会えた時のようなリアクションをとって、あらためて小市民であることを印象付けたものの、実際のバトルではとんでもないインパクトを残してくれたことで、ただの蟻んこサイズに縮むだけの男ではないことをライトな映画ファンも認識したことと思われるが、やはりヒーローはスタンドアローンの映画でこそ輝くものだ。そこで(時系列的には逆だが)本作である。

窃盗罪のために入っていた刑務所から出所したスコット・ラング(ポール・ラッド)は、再就職にも失敗し、娘の養育費の工面にも苦労する。貧すれば鈍すとはよく言ったもので、電子工学の修士号まで有しながら、コソ泥にまで堕ちたスコットは、再び盗み稼業に舞い戻るが、そこで盗み出してきたのは奇妙なスーツだった・・・

第一幕は非常にテンポよく進んで行く。なんだこれはという刑務所シーンからの出所、再出発、挫折、悪い意味でのリスタートまでが一気に、しかし過不足の無い映像での説明をもって進んで行く。時々ナレーションや、キャラクターに冗長に喋らせることで物語を動かす作品もあるが、それが有効なのはだいたいの場合、終盤である。そういう意味では、映画作りのお手本のような作品でもある。正義のヒーローらしからぬ小悪党が、実は痛快な義賊であったことが分かるまでの一連の流れは、シルクの滑らかさを持って我々を運んでいく。

第二幕はスコットがピム博士(マイケル・ダグラス)の捨て駒として、アントマンになり、使命を果たすという自覚に目覚めていくのがハイライトだ。博士の娘のホープ(エヴァンジェリン・リリー)は、かつて父がアントマンとして、母がワスプとして、極秘重大ミッションに従事し、その作戦の成功の裏に、母の犠牲があったことを知らなかった。爾来、父とは距離を置いてきたが、真相を知ることで父と和解する。スコットのことをまったく評価していなかったホープが、父が娘に注ぐ愛を知ったことで、スコットを見る目も変わっていく。父親とは何と不器用な生き物なのだろうか。

第三幕では、アベンジャーズの空飛ぶあの人との絡みもある。ここから、あのヒーロー同士の内戦に繋がっていったわけである。それにしても、アントマンの能力の何と地味なことか。小さくなることそれ自体は、科学的に何やらトンデモナイことであることは直感的に理解はできるが、原子間の距離を縮めるだとかの話になると、ちんぷんかんぷんだ。理解できれば立派な物理学者だろうし、実現したらノーベル賞どころではないだろう。しかし、アントマンがアントマンであるのは、何と言っても蟻とのコミュニケーションにある。漫画の『テラフォーマーズ』を挙げるまでもなく、蟻はパウンド・フォー・パウンドでの最強生物は何か、という議論には欠かせない存在であるし、地上のバイオマスに占める割合も人間並みに大きい。蟻にできることは何か、というよりも、集団の蟻を統率してできないことなどあるのか、という具合に問いを立て直す必要があるほど、集団としての蟻の優秀さは図抜けている。蟻さん達とのコンビネーション、チームワークが本作の大きな魅力で、アベンジャーズの他の面々と異なるところである。

アクションシーンは派手さには欠けるが、斬新さは多い。適度にコミカルなところもいい。主人公たちが小さくなる映画には古典的名作『ミクロの決死圏』があるが、我々の文明の辿ってきた道、そしてこれから進む道は、実は宇宙よりも、ミクロの世界なのではないか。量子コンピュータやナノマシンなどの話題は定期的に世間を賑わすし、それらを題材にしたエンターテインメント作品も陸続と生まれつつある。面白さや映画としての完成度はさておき、『ダウンサイズ』などは好個の一例であろう。

今まさに再撮影(?)が進行中のアベンジャーズ映画第4弾において、アントマンの果たす役割は、その体とは反比例、いや比例とも言えるだろうか、して大きい者になることが期待される。さあ、復習観賞ができたら、チケットを予約して映画館に向かうとしよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, エヴァンゲリン・リリー, ポール・ラッド, マイケル・ダグラス, 監督:ペイトン・リード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 80点
2018年9月9日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:スベリル・グドナソン シャイア・ラブーフ ステラン・スケルスガルド
監督:ヤヌス・メッツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909223208j:plain

往年のテニスファンならずとも、ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローの名前ぐらいは聞いたことがあるはずである。日本プロ野球で言えば、村山実や張本勲・・・、さすがに古すぎるか。これは彼ら二人がウィンブルドンの決勝で相まみえる過程とその結末をドキュメンタリー風に仕上げた作品である。『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』に並ぶ、いや超える作品である。あちらはフェミニズムを前面に出してきたが、こちらはテニス史上に残る名プレーヤーたちによる名勝負中の名勝負を前面に押し出してきた。扱う主題がテニスという点では同じでも、ジャンルが異なる映画である。こちらは社会性よりも、むしろ個人の内面や人間性に踏み込んだ内容になっているからだ。この作品で描き出されるボルグやマッケンロー像に、多くの人たちが類似のアスリートや他分野の偉人、もしくは身近な人間を思い浮かべることだろう。これはそういう見方ができる映画だし、そうした見方をされたがっているようにも思う。

ボルグのテニスは、乱暴に一言でまとめてしまえば大河ドラマ的だ。一話一話は抑揚に乏しく、1月に始まり、12月にクライマックスが来るようなものだ。対するマッケンローのテニスは韓国ドラマだ。一話一話が、まるでジェットコースターのように上がり下がりする。Jovianはテニス史上で最も強靭なメンタルの持ち主はシュテフィ・グラフだと信じている。彼女の動じない姿勢、ワンプレーが終わるたびにサッと後ろを振り向いて気持ちをリセットしようとしているかのような立ち居振る舞いに、多くのファンが魅せられ、畏敬の念を抱いてきた。その姿勢の源泉はボルグにあったのではなかろうか。ボルグのコーチ役のステラン・スケルスガルドの「一球に集中するんだ」という言葉に、松岡修造がウィンブルドンで叫んだ「この一球は絶対無二の一球なり!」という言葉を思い出すテニスファン兼映画ファンはきっと多いだろう。余談だが、大坂なおみがセリーナ・ウィリアムスを倒して全米オープン制覇を成し遂げた。偉業である。そこでのセリーナの振る舞いに、多くのファンがマッケンローの姿をダブらせたことだろう。動じないメンタル、少なくともそれを目に見える形で表わさないことが、トッププロには求められることが多い。例えばイワン・レンドルは1986年のウィンブルドンで、ボリス・ベッカー相手に、誤審から崩れた。いや、誤審から崩れたというよりは、誤審を許せなかったことで平常心を失い、あっさりとベッカーに退けられてしまった。しかし、メンタルの崩れからそのまま敗れ去ってしまった悲劇の例としてテニスファンの心に最も強烈に焼き付いているのは、ヤナ・ノボトナを措いて他にいないだろう。1993年のウィンブルドン決勝、最終第3セット、女王グラフを徳俵にまで追い込みながら、凡ミス連発で世紀の大逆転負けを喫した、あの試合である。ことほど然様にメンタルの在り方は、テニスにおいて、そして他の分野においても、勝負を分けるポイントになる。トップレベルなら尚更である。

Back on topic. 本作は、『 アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル 』の系統の映画と評するべきであろう。本作はプレーヤーとしてのボルグやマッケンローのフォームや仕草、話し方をよくよく研究しているとはいえ、テニスの試合そのものを直接的に魅せる手法は取っていないからだ。しかし、そのことが本作のスリルやサスペンスを減じることはいささかもない。なぜなら、本作はヒューマンドラマだからだ。内面に溜めこんだ負の感情をルーティンで抑えつけるのか、それとも蒸気機関車のエンジンよろしく、圧縮された蒸気は定期的に吐き出さなければならないのか。正反対に見える両者だが、その内側には非常に人間らしいドロドロとしたものが渦巻いていることに気付くだろう。そんな彼らが最高の舞台で究極の精神状態で闘うのだ。これ以上の対話は無い。そしてドラマの基本は対話、dialogueなのである。エンディング近くで2人が交わす誠に他愛の無い会話に、我々はこの2人の間に言葉はもはや必要ないのだということを悟るのである。何というドラマだろうか!こうしたことは実は往々にして起こることで、Jovianがパッと例として出せるのはアルトゥロ・ガッティとミッキー・ウォードのボクシング・トリロジーだ。特に第一戦の第9ラウンドは今でもボクシングファンの間で語り継がれる、言葉そのままの意味の伝説的ラウンドである。その後の二人の友情は必然であったと言える。なお、ミッキー・ウォードについては映画『 ザ・ファイター 』を参照されたい。

Jovianが観賞後、劇場のトイレから出てくると、60代と思しきシニアの面々6名ほどが、ホールウェイで感想を熱く語り合っていた。これから観る人もいるはずなので場所はもう少し選ぶべきなのだろうが、それでも実にでかい声で印象的な感想を述べてくれていた。以下、拾ってきた感想だが、いくつかを紹介する。

「いやあ、もう観てるうちにあの役者が本物のボルグに見えてきたで」

「マッケンローの人、よかったわあ」

「あの試合、やっぱり今でも覚えてるし、ホンマに凄かったなあ」

「コナーズ、ちょっとだけやったな」

「マッケンローの、あのえっちらおっちらのボレー、よう似てたわ」

分かる人には分かる感想であろう。我々はボクシングや野球、サッカーでも、もっとこうした上質のエンターテインメントたりうるドラマ映画を観たいのだ。

こうしたことは日本の映画界にも出来るはずだ。小説や漫画の映画化はそれ自体、作品やクリエイターの知名度アップや世界観の拡大、キャラクタービジネスの強化に繋がることではあるが、あまりにも画一的になりすぎてはいないか。広島カープの津田恒美をテレビ映画化した『 最後のストライク 』のような作品が、製作されねばならない。村山聖にフォーカスした『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』、さらには『 泣き虫しょったんの奇跡 』(近いうちに観に行く)など、将棋や棋士をフィーチャーした作品は作られてきている。喜ばしいことである。ある意味で絶頂で引退したボルグに、大棋士・木村義雄を重ね合わせる人も多いに違いない。個人的には『 ミスター・ベースボール 』を上回るような野球人映画を期待したい。しかも実在の人間に焦点を当てて。間違っても『 ミスター・ルーキー 』のような珍品を作ってはならない。できるはずだ、日本映画界よ!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, シャイア・ラブーフ, スウェーデン, ステラン・スケルスガルド, スベリル・グドナソン, スポーツ, デンマーク, ヒューマンドラマ, フィンランド, 監督:ヤヌス・メッツ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

MEG ザ・モンスター 50点
2018年9月8日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイソン・ステイサム リー・ビンビン レイン・ウィルソン ルビー・ローズ クリフ・カーティス マシ・オカ 
監督:ジョン・タートルトーブ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909200235j:plain

  • 一部、原作小説や映画本編に関するネタバレあり

深海でのレスキューミッションのスペシャリストであるジョナス(ジェイソン・ステイサム)は、事故に遭った原潜からクルーの救出を試みるも、何かに襲われ、一部のクルーを見殺しにすることで辛くも脱出。しかし、自身の非情な決断を赦すことができず、一線から退き、タイで酒に溺れる日々を過ごしていた。一方で海洋探査基地のマナ・ワンは、マリアナ海溝の底には固い地盤ではく硫化水素の層であると推測し、さらなる深海の探査ミッションを遂行していた。予想通りに探査船は未知の深海に到達。世紀の大発見を成し遂げる。しかし、そこには探査船を攻撃してくる「何か」の存在があった。このレスキューミッションに、ジョナスが再び立ち上がる。

というのがストーリーの最初の30分ぐらいだろうか。本作は個人的にずっと楽しみにしていた。20年前だったか、小説を読んで「奇想天外な話もあるもんだ」とスケールの大きさに感動したのを覚えている。当時の小説の帯の惹句にも《映画化決定!》みたいな文字は躍っていたと記憶している。あれから20年になんなんとして、ようやっと日の目を見るとは、MEGも原作者のスティーブ・オルテンも思いもしなかっただろう。

本作は映画化にあたって、原作から大きく改変されている箇所がかなりたくさんある。ただし、Jovianも20年前の記憶に基づいて書いているので、不正確なところもあるかもしれない。悪しからずご了承を。さて、まず何が一番大きく変えられているかと言うと、それは冒頭のプロローグである。小説版では、とある肉食恐竜が海に入ってきたところをMEGが現れ、ガブリとやってしまう。読者はこれで度肝を抜かれる。実際にJovianも、「これは明らかにマイケル・クライトンの小説およびそれの映画化を意識した演出的な描写だろう」と思った。さらにクライマックスのMEGとの対決シーン。ここでジョナスは、MEGの歯の化石を刃として使い、小型潜水艇でMEGの体内に入り、中からMEGを切り裂く。MEGを倒せるとしたら、それはMEGだけ。このアイデアにも当時は大いに感銘を受けた。同じような人は他に大勢いたらしく、この手法は某怪獣映画にもその後割とすぐに取り入れられていた。しかし、映画化にあたっては別のアイデアを採用。これはこれで確かに面白い。『ジュラシック・ワールド』の第三作は、広げてしまった風呂敷をどう畳むのかがストーリーの焦点になるはずだが、案外と答えは地球自身が用意してくれているものなのかもしれない。火山がそうだったのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

ジェイソン・ステイサムの元高飛び込み選手というバックグラウンドが大いに活きる作品で、ジョナスはこれでもかと言うぐらいに果敢に海に飛び込んでいく。男の中の男である。さらにジョナスのLove Interestであるスーイン(リー・ビンビン)もmilfyで良かった。海と美女は相性が良いのだ。その子どものメイインも印象に残る。反対にマシ・オカのキャラクターのトシは良い意味でも悪い意味でも日本人というものを誤解させる作りになっている。原作小説の田中の恰好よさの反動だろうか。『 オデッセイ 』や『 グレートウォール 』で見られるように、中国の存在感は映画の中でも増すばかりである。そのことに対してとやかく言いたくなるような人、特に原作小説の大ファンであるというような人は、観ないという選択肢もありかもしれない。それでも、夏恒例のシャーク・ムービーに、久々に傑作ではないが、決してクソではない映画が作りだされた。カネと時間に余裕があるならば、劇場へGoだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アクション, アメリカ, ジェイソン・ステイサム, 監督:ジョン・タートルトーブ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

ジャッジ 裁かれる判事 75点
2018年9月6日 レンタルDVD観賞
出演:ロバート・ダウニー・Jr. ロバート・デュバル ベラ・ファーミガ ビンセント・ドノフリオ ジェレミー・ストロング ビリー・ボブ・ソーント
監督:デビッド・ドブキン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180907112951j:plain

その明晰な頭脳で勝利を追求する敏腕弁護士のハンク(ロバート・ダウニー・Jr.)は娘を溺愛するも、妻とは不仲。そんな彼の元に、母の死を知らせる電話が入る。長年に亘って疎遠だった実家に帰り、判事である父ジョセフ(ロバート・デュバル)、MLBへの夢が断たれ田舎町に引き込む兄グレン(ビンセント・ドノフリオ)、軽度の知的障害を持つビデオカメラ好きのデイル(ジェレミー・ストロング)、幼馴染にして元恋人のサマンサ(ベラ・ファーミガ)とその娘らと再会する。葬儀の後、父ジョセフが20年前に刑務所送りにした男マークが刑期を終えて出てきたその夜、ジョセフが車でマークを撥ねて死なせてしまう事案が発生する。偶然の事故なのか、故意の殺人なのか。ハンクは苦悩しながらも父ジョセフの正義を信じ、弁護に乗り出す・・・

まず、何と言っても二人のロバートの奇跡的な邂逅である。特にデュバルの存在感は凄まじい。本作で彼のキャラクターの持つ属性は多岐に亘る。判事の顔を持ちながらも、厳格すぎる父親の顔を持ち、年齢から来る衰えに戸惑い、怯え、しかし受け容れ、妻の死を嘆きながらも毎日墓参することを前向きに誓う強さを持ち合わせ、そして良き祖父の顔も見せる。これぐらいのキャリアの役者になると、『 ゲティ家の身代金 』のクリストファー・プラマー然り、『 あなたの旅立ち、綴ります 』のシャーリー・マクレーン然り、演じること(Acting)と存在すること(Being)の境目が揺らいでくるようだ。クライマックスの法廷で、ジョセフはその心情を赤裸々に語るが、そこから見えるのは父親としての業である。父という種族は、なぜこうも不器用もなのか。

そしてダウニーJr.の息子としての苦悩、懊悩。アイアンマンでもそうなのだが、父との確執や過去のトラウマに苛まれる役が何故か似合う。当初ジョセフはハンクに弁護を依頼せず、ペーペーの新米弁護士を雇うが、予備審問の時点からヘマを打つばかり。この時のダウニーJr.の演技が見もの。表情を変えずに仕草やアクションで台詞以上に雄弁に語りまくる。ここに我々は、彼の弁護士としての血の騒ぎ以上に、息子として本心では父を救いたくて堪らないとの思いを見出さざるを得なくなる。彼が法廷で流す涙は、悔し涙以上の悔しさがあったのだろう。なぜ自分が娘に注いでいるだけの愛情を、父もまた自分に注ごうとしているのかに思い至らなかった自分への後悔が透けて見える。これは父殺しを通じた、家族の再生の物語なのだ。古今の文学のお定まりのテーマとはいえ、法廷という真実を追究する極めて社会的、公共的な意味合いの強い場で、親子、それも判事と弁護士の対峙と融和が図られるのだから、これを劇的(dramatic)と言わずして何と言おう。

名優同士のぶつかり合いと、それを支える確かな実力を持つ脇役達、さらに細かなサブプロットをも収めた脚本と、それらを見事に統合した演出と監督術。いったん再生すれば、エンディングまでノンストップとなること請け合いの傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ベラ・ファーミガ, ロバート・ダウニー・Jr., ロバート・デュバル, 監督:デビッド・ドブキン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

アメリカン・ハッスル 70点

2018年9月5日 レンタルDVD観賞
出演:クリスチャン・ベイル ブラッドリー・クーパー ジェレミー・レナー エイミー・アダムス ジェニファー・ローレンス ロバート・デ・ニーロ
監督:デビッド・O・ラッセル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180907090028j:plain

原題は”American Hustle”、その意味するところは「アメリカ的な詐欺行為」である。カタカナ表記してしまうと hustle なのか hassle なのか、判別が難しくなる。

アーヴィン(クリスチャン・ベイル)はクリーニング店を複数営みながら、客の引き取り忘れ品を堂々と頂戴して財を為す一方で、美術品の贋作取引や、愛人のシドニーと組んでの金融詐欺などの不正な詐欺行為でも利益を得ていた。しかし、連邦捜査官のリッチー(ブラッドリー・クーパー)にある時、あっさりと逮捕されてしまう。だが、アーヴィンの詐欺の知識と手腕を高く評価したリッチーは司法取引を持ちかけ、FBIの指示の元に動けとアーヴィンに迫る。かくして、政治家や裏社会の大物をしょっぴくためのおとり捜査(sting operation)が始まる・・・

本作品は、一人を除いて、登場人物が全員悪人もしくはアホである。まるで北野武の『アウトレイジ』のようだ。『アウトレイジ』でも、ヤクザがマル暴刑事にカネを渡して情報を得るという場面がたびたび挿入されていたが、本作には大物マフィア(ロバート・デ・二―ロ)を起用し、彼を使って非常にサスペンスを盛り上げる瞬間が用意されている。これだけでも本作を観る価値があろうというものだ。また、クリスチャン・ベイルもハズレが無い俳優である。『ターミネーター4』など、今一つパッとしない作品もあったが、彼自身が輝いていないわけではなかった。ブラッドリー・クーパーも魅せる。クレイジー一歩手前の執念で上司に食い下がる姿に、我々はサラリーマンの悲哀を見出す。その一方で彼の仕事への熱意を、どこか冷めた目でしか見られない自分にも気がつく。なぜなら、犯罪の証拠を得るために、詐欺師と組んでいるからだ。社会正義を実現するために犯罪者を有効活用する、巨悪を打倒するために小さな悪を使う。それは正しいことなのか。そのことに最も打ちのめされるのがニュージャージー州カムデン市長ポリート(ジェレミー・レナー)である。彼こそは公僕の鑑とも言うべき存在で、アーヴィンとリッチー、英国貴族に連なるシドニー(エイミー・アダムス)らに翻弄されるがままに、カジノ事業に邁進してしまう。彼の徹頭徹尾の全体の奉仕者としての姿勢に、我々は勧善懲悪という四字熟語の意味を思わず考えさせられてしまう。しかし、何と言ってもアーヴィンの妻であるロザリン(ジェニファー・ローレンス)の見せる演技が圧巻である。彼女が見せる感情と感傷、激情の発露の後に見せる一筋の涙に、百万言にも値する意味が込められている。映画でしか表現できない技法で、だからこそ映画には他の文化・芸術媒体とは異なる魅力がある。

日本はおとり捜査に消極的であるが、その理由を推測するに主に2つあるのだろう。1つには、善人(お人好しと言い換えても良い)が多すぎて、社会全体が得られる利益よりも市民が被る不利益の方が大きいと予想されること。もう1つには、社会=法共同体という意識の低さ故に、おとり捜査そのものが更なる犯罪を誘発させてしまう可能性が高いと考えられることだ。おとり捜査ではないが、このあたりを描いた邦画に『日本で一番悪い奴ら』が挙げられる。

内容が盛り沢山で、おとり捜査以外にもアーヴィンの人間関係(妻と愛人)やリッチーと上司の謎の問答(十中八九、即興の作り話であろう)もスキット的に挿入されているため2時間超の作品となっている。しかし、観賞中は中弛みを一切感じさせず、初めから終わりまで一気に見させる力を持っていた。特に、「ああ、結局のところ、こういう結末なんだろうなあ」という予想を外されたのは嬉しい誤算というか、それもまた納得ができるエンディングであった。久しぶりにニーチェに『善悪の彼岸』でも引っ張り出して、再読しようか。そんなえも言われぬ感覚をもたらしてくれる良作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エイミー・アダムス, クリスチャン・ベール, ジェニファー・ローレンス, ジェレミー・レナー, ブラック・コメディ, ブラッドリー・クーパー, ロバート・デ・ニーロ, 監督:デビッド・O・ラッセル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

Posted on 2018年9月6日2020年2月14日 by cool-jupiter

バッド・バディ!私とカレの暗殺デート 40点

2018年9月4日 レンタルDVDにて観賞
出演:サム・ロックウェル アナ・ケンドリック ティム・ロス
監督:パコ・カベサス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180906155324j:plain

原題は”Mr. Right”、すなわち“正しい男”の意である。マーサ(アナ・ケンドリック)が自宅で待っていると、ボーイフレンドが帰って来る。どこの馬の骨ともしれない女を伴って、なおかつ熱烈なキスを交わしながら。当然、マーサは怒り心頭。男を放り出すが、傷心のマーサはヒステリーを起こし、友人(女子)にも耳を貸さず。そんな時、ふと店で知り合った凄腕の殺し屋フランシス(サム・ロックウェル)と一挙に相思相愛に。しかし、フランシスの殺人の話やバックグラウンドをすべてユーモアとしか思わないマーサは、フランシスが殺人を行う場面を目にしたことで・・・

まず、アナ・ケンドリック演じるマーサがキモい。キモすぎる。キモ子と名付けたいぐらいである。情緒不安定な今時女子を演じているのだろうが、普通に常識離れした感性の持ち主で、これを演じられる女優としては他にエマ・ストーンやジェニファー・ローレンスが思い浮かぶが、彼女らはアナ・ケンドリックほどのキモさは出せないだろう。ちなみに褒めている。

サム・ロックウェル演じるフランシスは一捻りの効いたキャラクター。自分の名前が大嫌いで、名前を呼ばれるのを嫌う。CIA上がりで、体術やナイフ、銃の扱いを極めており、殺し屋として一頃活動していたが、ある時から良心の呵責を感じ、殺しを頼んでくる依頼者を逆に殺していくという倒錯した生き方をしていた。

この2人が出会い、犯罪組織やフランシスを追いかけるFBIに扮した殺し屋達と交わることで、コメディックな展開が生まれていく・・・わけだが、少々ユーモアのポイントを外してしまっているのは否めない。サム・ロックウェルはチャランポランのキャラクターからシリアスなキャラクターまで演じられる実力派であることは『プールサイド・デイズ』や『月に囚われた男』、『スリー・ビルボード』で証明済み。今回も一部スタントダブルを使っているとはいえ、格闘アクションも自らこなすなど、トム・クルーズほどではないにせよ、まだまだ体も動かせる。日本で言えば寺島進、椎名桔平的な男と言えようか。

ただし、能力も実績もあるスター二人を共演させることで面白さが生まれるかと言うと必ずしもそうではない。というよりも、映画の面白さは何よりも脚本、撮影、そして役者の演技で決まるものだろう。これは邦画で言えば『カメラを止めるな!』や『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』などが好例である。フランシスのキャラが、単なる頭のネジが吹っ飛んだキャラなのか、それとも何らかの小ネタが数多く仕込まれた綿密に構築されたキャラなのか判別がつかないまま、結局たいしてキャラの深掘りがされなかったのは大きな減点材料である。それでも、両名、いやどちらかのファンであれば、雨の日の暇つぶしなどにDVDなど観賞する分には良いのではないだろうか。なぜなら、深く考えることなく頭を空っぽにして観ることができるからだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, サム・ロックウェル, 監督:パコ・カベサス, 配給会社:ハピネット, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

Posted on 2018年9月5日2020年2月14日 by cool-jupiter

タリーと私の秘密の時間 60点

2018年9月2日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:シャーリーズ・セロン マッケンジー・デイビス マーク・デュプラス ロン・リビングストン
監督:ジェイソン・ライトマン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180905223810j:plain

マーロ(シャーリーズ・セロン)は40代にして、二人の子持ちに一人を妊娠中。2人目にして長男のジョナは、おそらく発達障害で、情緒的にかなり不安定なところがある。夫のドリュー(ロン・リビングストン)はSEで、出張が多く、家事はせず、夜はヘッドホンをつけてバイオ・ハザード(Resident Evil)的なゾンビ・シューティングに勤しむという、育メンからは程遠い男。オムツを替えて、授乳し、搾乳して取れたミルクを冷蔵庫に保存し、ご飯を用意し、子どもを学校へと送り迎えし、しかし家の掃除や自身の化粧はできないという、限界に近い生活の繰り返しが、コマ送りの如く、これでもかと画面上に映される。さらには学校ではspecial needs studentであるジョナにspecial aidを雇う、もしくは転校を校長から提案されてしまい、マーロのストレスは臨界点到達、メルトダウンを起こしてしまう。そこで親戚の助言を得て、ナイトナニー、すなわち夜間だけのベビーシッターをついに雇うことを決断する。

現れたタリー(マッケンジー・デイビス)は26歳という年齢に似合わぬしっかり者で、子守りのみならず、掃除や食事まで完璧にこなす。さらにはマーロのお悩みカウンセラーまで努め、さらには夫婦のセックスレス解消の手助けにまで乗り出す。はっきり言って、大きなお世話もいいところなのだが、それらが全て奏功してマーロはみるみる回復。ジョナの転校も前向きに受け入れ、長女と共にカラオケを熱唱する。ちなみに歌うのはCarly Rae Jepsenの”Call Me Maybe”。あの怪作『ピーチガール』の主題歌だ。この歌の詩は、本作にマッチしている。特に“Before you came into my life, I missed you so bad.”という部分など。Youをタリーに置き換えると、確かに”Call Me Maybe”である。それにしても日本映画は時々、どういうわけかあちらの大物の歌を拾ってくることに成功する。『秘密 THE TOP SECRET』で使われたSIAの”Alive”などが好個の一例だ。しかし、そういう慣れないことをすると往々にして失敗するのだという、反面教師でもある。

Back on track. 今、CMで濱田岳が《夫、史上初の台詞》すなわち「お、お、おれ、お皿、洗おうか?」に、《妻、3年ぶりの台詞》すなわち「ありがとう」というものがある。アメリカでも日本でも、夫というものは家政能力に欠けるようである。しかし、夫の家事や育児への参加をもっともっと促そうという動きは理にかなっているし、時代にも合っている。そもそも育メンなる言葉自体が存在することがおかしいのだと指摘する向きも多い。子育てする男、それを父親と呼ぶのだ、という指摘がまさにそれである。ドリューの姿に自分を見出す男がいれば、そのものは即座に回心、ではなく改心しなくてはならない。

本作は、惜しいかな、一部の販促物にネタバレに近いキャッチコピーが付されている。これから見てみようという諸賢は、そうした販促物にはゆめゆめ近づかないように。また、本作を見る時、何度か出てくる人魚のイメージについて、『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い起こしてみると良いかもしれない。半漁人は何のモチーフであったのか。半漁人によってサリー・ホーキンスのキャラクターは何を取り戻したのか。そのあたりに本作を読み解くヒントがあるかもしれない(ないかもしれない)。

このネタは、海外の作家ではジャック・フィニイ、日本の作家では山本周五郎もしくは赤川次郎あたりが思いつきそうだ。心理学に精通して、なおかつ鵜の目鷹の目で小説を読む、または映画を観るという人なら、タリーの登場シーンに違和感を覚えるだろう。その感覚はおそらく正しい。それを信じて観賞を続けてほしい。

シャーリーズ・セロンは、ジェシカ・チャステインと並んで、40代の女優ではトップランナーであることを本作でも証明した。シャーリーズ・セロンの出演作にハズレがあっても、セロン本人がハズレだったことはない。彼女の弛みきった腹部と、それ以上に化粧をすることも忘れてしまいました風の地味で控え目な目元の化粧に、あなたは戦慄するかもしれない。自分の奥さんがセロンほどの美人であるという人は(客観的に見て)そうそういないだろう。しかし、自分の奥さんがセロンのような疲れ切ったメイクになっていることに気付く夫はどれほどいるだろうか。我々は美貌が損なわれたところから、メイクの欠如に気付く。では、我々は妻が何を失ったのかに気付いていないことは何を意味するのか。それは、我々が妻への関心を失っていることを意味する。さあ、(一部の、いや多くの)男どもよ、本作を観て震えて眠るのだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, シャーリーズ・セロン, ブラック・コメディ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

Posted on 2018年9月3日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー 70点

2018年9月2日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:リリー・ジェームズ アマンダ・セイフライド ピアース・ブロスナン コリン・ファース ステラン・スカルスガルド ドミニク・クーパー ジュリー・ウォルターズ クリスティーン・バランスキー メリル・ストリープ シェール
監督:オル・パーカー

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180903012214j:plain

14:00の回を観賞したが、座席の埋まり具合は開演2分前の時点でおよそ9割。公開から1週間でもこの勢いを保っていられるのは、リピート・ビューイングをするお客さんが多いからだろうか。映画のキャラクターが現実と同じように年をとっていくのは、シリーズものではそれほど珍しくはない。『ミッション・インポッシブル』シリーズは言うに及ばず、『トレインスポッティング』や『ジュラシック・パーク』シリーズと『ジュラシック・ワールド』シリーズなど、オリジナル・キャストが年齢を重ねて再登場してくれることで、観る者が一気にその世界に帰っていくことができる。近年で最も衝撃的な形でそうした体験をさせてくれたのは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のトレイラーでハン・ソロ(ハリソン・フォード)が、”Chewie, we’re home.” と静かに、しかし力強く呟いたあの瞬間である。断言できる。

本作は冒頭から、サム(ピアース・ブロスナン)が呟くように歌ってくれる。前作でのあまりの音痴っぷりがトラウマになったのか、それとも編集で歌唱シーンがカットされてしまったのか、彼の歌声が聞けなかったのは、ホッとするような残念なような。ドナ(メリル・ストリープ)が亡くなったことで、ホテルを回想し、リ・オープニングすることを決めたソフィ(アマンダ・セイフライド)は、スカイ(ドミニク・クーパー)からニューヨークで一緒に暮らさないかという誘いに心が揺れる。島で母のホテルを継ぐのか、広い世界に飛び出していくのか。逡巡するソフィと島に迫り来る嵐と人々。過去と現在が、ABBAの音楽に乗って鮮やかに交錯し、若き日のドナ(リリー・ジェームス)の日記の...(dot dot dot)の部分を、我々は追体験する・・・

使用されているABBAの楽曲がややマイナーになっている点を除けば、非常に忠実に前作『マンマ・ミーア!』の世界観を継承している。こうした過去と現在をつなぐ映像作品の良し悪しは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、キャスト同士がどれだけ似ているが第一義である。例えば『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』や『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』がどうしようもない駄作で、世界観を一気にぶち壊しかねない設定(ミディ=クロリアンなど)を盛り込んだにもかかわらず、スター・ウォーズ的であり得たのは、ヘイデン・クリステンセンやユアン・マクレガーが、マーク・ハミルやアレック・ギネスと親子関係あるいは同一人物であると納得できるルックスを持っていたからだ。そこでリリー・ジェームズである。確かに前作では、若かりしドナの顔が少しぼやけた写真がいくつかあった。そして、それらはあまりにもメリル・ストリープにしか見えない写真だった。しかし、どういうわけか、メリル・ストリープとリリー・ジェームズの写真を介さずに並べるなら、同一人物であるとは言えないまでも、納得できるレベルで充分に似ている。もちろん、メイクアップ・アーティストやヘアドレッサー、照明や撮影監督の技量もあるが、このキャスティングだけで半ば本作の成功は約束されていた。ターニャとロージーの若い頃を演じた2人などは、それこそスタッフの力もあるが、びっくりするほど仕上がっていた。そしてシェール演じるドナの母親、ソフィーの祖母。確かにメリル・ストリープの母を演じて良いのは、このような妖怪(褒め言葉と捉えて頂きたい)しかいないのかもしれない。

唯一の懸念はジェームズの歌声。『シンデレラ』では“夢はひそかに/A Dream Is a Wish Your Heart Makes”を歌いあげたが、『ベイビー・ドライバー』では、やや調子っぱずれに Carla Thomasの“B-A-B-Y”とBeckの“Debra”を歌っていた(そういう指示があったのかもしれないが)。だが、それは杞憂だった。オープニングの“When I Kissed The Teacher”で、傑出したとまでは言えないものの、前作のセイフライドに全く見劣りしないパフォーマーであることを証明した。また、メリル・ストリープのあの「アッハハハーハハー」という笑いを完コピしていたのはポイント高し。その他でも、ストリープのほんのちょっとした仕草や立ち振る舞いも取り入れており、パーカー監督との息もばっちり合っていたようだ。後は物語の流れに身を任せれば良い。劇場では『コーヒーが冷めないうちに』のポスターがでかでかと4回泣けますと謳っていたが、Jovianは本作観賞中に4回涙した。そのうちの二つは、コリン・ファースとステラン・スケルスガルドの抱擁シーンと”Dancing Queen”。後の二つは劇場でご自身で確認頂きたい。

そうそう、劇場が明るくなるまで席を立ってはいけない。また、ハリーが東京で大きな商談をするシーンがあるが、そこに描出される日本および日本人像に腹を立ててはいけない。『ロスト・イン・トランスレーション』から『ラスト・サムライ』まで、日本人というのは誤解されてナンボなのである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アマンダ・セイフライド, アメリカ, ミュージカル, メリル・ストリープ, リリー・ジェームズ, 監督:オル・パーカー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

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