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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 国内

『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

Posted on 2020年3月1日2020年9月26日 by cool-jupiter

ロマンスドール 70点
2020年2月26日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:蒼井優 高橋一生
監督:タナダユキ

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劇場公開最終日の夜に駆け込んだ。平日の夜にもかかわらず、かなりの入り。席は7割がた埋まっていただろうか。意外というか予想通りというか夫婦やカップルが多かった。次に目立ったのは女性同士のペア、その次は女性のおひとり様。男性おひとり様は2名だったか。

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あらすじ

美大卒業後にフラフラしていた北村哲雄(高橋一生)はひょんなことからラブドール生産工場に就職する。新ドール作成の起爆剤として、本物の女性の胸を型に取ることになる。人工乳房作成のためと偽ってバイトを募集。そこにやって来た園子(蒼井優)にほれ込んでしまった哲雄は勢い余って即告白。やがて二人は結婚する。順風満帆に見えた結婚生活だが、哲雄は自分の本当の職業を園子になかなか告げられず・・・

 

ポジティブ・サイド

『 宮本から君へ 』でも感じたことだが、蒼井優にはオスの本能をくすぐる何かがある。本人はどうかは知りようもないが、演じている時の彼女からは常にそのような匂いが感じられる。それがフェロモンというものなのかもしれない。そうした匂いを無意識に分泌しつつも、屈託のない笑顔で社会貢献を語るギャップ。居酒屋での談義のシーンでは、その魅力のギャップに震えた。今、最も女盛りの女優だろう。

 

『 嘘を愛する女 』や『 九月の恋と出会うまで 』では、物語自体の弱さもあってか高橋一生がそれほど光らなかった。本作では対照的に男の人生のアップダウンを見事に好演。居間のテーブルに掛けて、夫婦で向き合い、真剣に話し合う様は、さながら日本版『 マリッジ・ストーリー 』である。定点カメラで撮影されたBGMも何もないシーンから、確かに圧を感じた。それは劇場内にいた他のカップルや夫婦も同じだっただろう。夫婦とは「なる」ものではなく、「あり続けようとする」ものなのだと、あらためて思い知らされた。

 

夫婦とは何か。哲学的な答えなら夫婦の数だけ出てくるだろうが、社会的に最も端的な定義(日本国内)はおそらくこれである。すなわち、「この人以外とはセックスしませんと公にできるパートナーを持つこと」である。だからこそ不貞が叩かれるのである。『 500ページの夢の束 』でも指摘したが、セックスは生殖行為以上に愛情表現である。とある老夫婦とペットのシークエンスは、それを迂遠に、しかし端的に表していた。ペットは我が子なのである。大多数のペットオーナーが飼い犬や飼い猫を指して「うちの子」と言うのはそういうことである。この老夫婦と哲雄と園子の夫婦のコントラストは非常に鮮やかだった。

 

仕事に打ち込み、仕事に逃避する哲雄像も良かった。職人というのは少々世間ずれしているものであるが、「仏作って魂入れず」とならないために、文字通りに一肌脱いだ園子に負けず、哲雄も一肌脱ぐ。このシーンから生じるパトスは男やもめの悲哀そのものである。不覚にもJovianも落涙しそうになった。タナダユキ監督は何という絵を作るのか。

 

ピエール瀧が本作では工場経営者として光っている。終盤で警察に逮捕されるシーンは、その絵のシュールさと現実とのリンク具合いに不覚にも笑ってしまった。実際にこういう艇的にしょっぴかれる仕事というのは存在する。こち亀で両津が部長に裏ビデオ屋の店長職を紹介していたのは一例である。風俗店の店長職などで求人があったら、こうしたポジションであるかもしれないと思った方が良いだろう。

 

閑話休題。蒼井優の脱ぎっぷりに期待してはいけない。やっぱり乳首は見せてくれない。けれど、それは大した問題ではない。色っぽい濡れ場が企図されているような作品ではない。セックスシーンは生きている証、愛情表現の手段の描写である。夫婦で観に行くべき作品と言えるだろう。

 

ネガティブ・サイド

妻・園子の抱える秘密があまりにも陳腐である。できの悪い韓国ドラマのようである。というか、冒頭のシーンは必要だっただろうか。これのせいで、ストーリーによい意味での緊張感が生まれなかった。冒頭1分はカットすべきだった。

 

きたろう以外の職人たちとの仕事描写や対話の描写があれば尚よかったのにと思う。本作においてはラブドールに求められているのは、性欲処理の手助けではなく愛情の注ぐ対象となることである。男はしばしばクルマを愛車と呼んだり、飛行機を愛機と呼んだりする。つまり、ドールは相棒なのだ。相棒に何を求めるのか、それは男によって違う。そうした男同士の哲学をほんのちょっとでもぶつけ合う描写があれば、哲雄が究極のドールの制作に没頭していく様にもっとリアリティを与えられただろう。

 

細かい点では無精ひげのタイミングも気になった。生活においてセルフネグレクト状態になった時、キッチンの惨状とは対照的に顔面はきれいだった。『 わたしは光をにぎっている 』のラストにおける光石研のような容貌や状態にはできなかったか。元々生えていた無精ひげが、仕事にのめりこみ過ぎてどんどんと伸びてきたという描写の方が説得力があったように思う。

 

総評

彫刻ガラテアを作ったピュグマリオンの逆バージョン、それが哲雄である。夫婦関係、特に閨房のそれをこのような形で描くことは非常に示唆的である。「俺なら・・・なのに」とか「俺のところとは・・・が違うな」と思いながら鑑賞しても良し、「なんだこりゃ?」と困惑しながらも観るのも良し。「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」と言われる。哲雄の生き方から何かを感じ取れれば、蛆がわくことはないに違いない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

To err is human.

正式には、“To err is human, to forgive divine.”である。「過つは人の性、許すは神の心」などと訳されることが多い。劇中できたろうが弟子たる哲雄に「間違うからな、人間ってのは」と語り掛けたセリフの私訳には、この格言を選びたい。Jovianがもしもこの格言を訳すのであれば、「失敗したっていいじゃないか、にんげんだもの」と相田みつを風に訳してみたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:タナダユキ, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 高橋一生Leave a Comment on 『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

Posted on 2020年2月24日 by cool-jupiter

恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 55点
2020年2月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:田辺誠一 大塚寧々

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『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』に続く、劇場版第二弾。恐竜ネタはタイムリーではあるが、作りにいくつかの欠点が見られた。

 

あらすじ

時は白亜紀。海から陸に進出した生命が恐竜に進化した時代。恐竜に関する現代の知識が更新されている中、最新の知見をCGと実写の融合で描き出す。

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ポジティブ・サイド

CG技術の進歩は留まることを知らない。もちろん、『 ライオンキング 』や『 ジュラシック・ワールド 炎の王国 』 のようなクオリティに達しているわけではない。だが『 ジュラシック・パーク 』のCGと本作の恐竜CGの水準は同程度であると感じた。だが、CGについた予算は同じ通貨ならば、おそらく本作の方がゼロ二つは少ないだろうと推定される。(現時点で科学的に得られている)恐竜の実像をリアルに感じさせるCGを映画館の大画面で見られるのは、子どもならずともスペクタクルに感じられる。

 

ティラノサウルスやモササウルスなど、『 ジュラシック・ワールド 』でお馴染みになった面々にフォーカスするのもタイムリーだ。通常のテレビ版『 ダーウィンが来た! 』でも自然界の弱肉強食は強調されているが、太古の恐竜世界はスケールが違う。観ているうちに恐竜たちのサイズとダイナミズムに飲み込まれ、後半に登場するトロオドンが「体長わずか2メートル」などと紹介されることに違和感を抱かなくなる。実際に体長2メートルの野生動物を目の前にしたら、現代人ならまずびっくりすることだろう。本作は観る者をごく自然に恐竜世界に誘ってくれる。

 

前作『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』と同じく、恐竜をキャラクター化するのも観る者の感情移入を誘いやすい。本作にはティラノサウルスのマックス、デイノケイルスのニコ、トロオドンのホワイト、モササウルスのジーナが登場する。それぞれに特徴を生かして過酷な恐竜時代を survive していく様には科学的な知見が盛り込まれており、実に興味深い。劇場の観客の8割以上は親子もしくはジジババとその孫であったように見受けられた。終了後、子ども達はかなり満足した表情に見えたし、Jovianもいくつかの点を除けばそれなりに満足できる出来だった。

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ネガティブ・サイド

これは相性の問題でもあるのだろうが、ナレーションが良くない。もっと言えば下手である。残念ながら田辺誠一も大塚寧々もどちらも練習が足りない。もしくは残念ながら本読みのセンスがない。句点で区切る場所を間違っているのではないかと思われるほど、田辺も大塚も読み方が拙い。同じNHKの番組でも『 コズミック フロント☆NEXT 』の萩原聖人や『 地球ドラマチック 』の渡辺徹とは雲泥の差である。NHKはもっと真剣に“語り手”を探すべきだった。

 

いや、前作でもそうだったが、こうしたテレビ番組制作時の映像をつなぎ合わせて映画にしてしまう時も、やはり監督を置くべきだ。映像や音響、音声、ストーリーの進行やカメラのアングル、その他の諸々の細部に至るまで、一貫性を持ったものとして作品を仕上げるディレクターが必要である。例えば、本作のメインの視聴者はおそらく年長~中学三年生ぐらいまでだろう。であるならば、デモグラフィックを小3~小4に設定しなければならない。にもかかわらず「抱卵」、「雑食性」、「獰猛」、「窒息」、「ハンター」などといった言葉を使うのは何故なのか。通常のテレビ番組であれば、子どもはその場で親などに尋ねるか、スマホやPCで調べられる。だが、これは真っ暗で静かな映画館で上映される作品なのだ。実際にJovianの左隣に座っていた男の子は、しきりに母親に「今の何?」と尋ねていた。別にその程度の声は気にしない。6歳ぐらいの子どものやることである。残念なのは、作り手側にこのような想像力が欠けていたことである。

 

恐竜に関する知見をアップデートするということであれば、ビジュアルとナレーションでもう少しできたはずだったとも思う。例えば劇中で「恐竜」と「海竜」を峻別するシーンがあったが、それをやるなら翼竜や首長竜、魚竜にも触れるべきだろう。また、ティラノサウスるの社会性やトロオドンの知能の高さについても、化石から割り出した脳の容積や形、そこから計算・推定される知能の種類、その高低については、小学校高学年ぐらいにビジュアルで理解させられるような工夫ができたはずである。デモグラフィックの想定を、ここでももっと正しくできたはずである。

 

総評

不満な点もあるが、恐竜というロマンあふれる太古の生物は我々を魅了してやまない。恐るべき存在で神秘的な存在。かつてこの地球の陸海空を支配した生物の実像が、科学の進歩の学問の分野横断的な融合によってどんどんと明らかにされつつある。映画は芸術媒体であるが、教育媒体になってもいい。NHKは2年に一度ぐらいは『 コズミック フロント☆NEXT 』や『 地球ドラマチック 』の劇場版を作るべきである。子どもから大人までを楽しませ教育できる映画を作る。できるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

don

恐竜の名前の語尾によくある~~~ドンのドンである。元は古代ギリシャ語のodon、古代ラテン語のdenから来ている。意味は「歯」である。デンタル・クリニックと言えば、歯の診療所である。未知の生物の名前を見たり聞いたりしたときは、まず語尾に注目してみよう。ドンとあれば、歯に特徴があると考えればよい。その好個の一例は『 MEG ザ・モンスター 』の“メガロドン”である。語彙力増強のためには形態素の知識をある程度持つこと、そして語の意味をイメージで頭に刻むことである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ドキュメンタリー, 大塚寧々, 日本, 田辺誠一, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

『 37セカンズ 』 -鮮やかなビルドゥングスロマン-

Posted on 2020年2月11日 by cool-jupiter

37セカンズ 80点
2020年2月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佳山明 神野三鈴 大東駿介 渡辺真起子 板谷由夏
監督:HIKARI

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日本に格差が根付いて久しい。その一方で、コンビニの店員さんがノン・ジャパニーズでいっぱいになったり、あるいはあちこちの中規模駅にエレベーターが設置され、車イスの乗客を見ることが日常的になったりと、日本社会は確実に包括的な方向にも向かっている。そうした中、障がい者に焦点を当てた映画に、また一つ傑作が生まれた。

 

あらすじ

23歳の貴田ユマ(佳山明)は脳性まひのため、手足の運動が思うようにならない。しかし、絵を描く才能に恵まれていたユマは、売れっ子漫画家のアシスタント(実際はゴーストライター)をして生計を立てていた。そんなユマを母(神野三鈴)は過保護に育てていた。自立を求めるユマはアダルト誌に原稿を持ち込むが「性体験がないとリアルな作品は描けない」と言われてしまう。夜の歓楽街、風俗街に入り込んだユマは、そこで舞(渡辺真起子)や俊哉(大東駿介)らと知り合い、新しい世界を知るようになる・・・

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ポジティブ・サイド

車イス、あるいは重度の障がい者が主人公や主要キャストの映画となると、

『 ドント・ウォーリー 』
『 パーフェクトワールド 君といる奇跡 』
『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』
『 ブレス しあわせの呼吸 』
『 最強のふたり 』
『 パーフェクト・レボリューション 』
『 博士と彼女のセオリー 』 

などがパッと思い浮かぶ(一部、クソ作品が混じっているが思いついた順に列挙しているだけなので気にしないでほしい)。それぞれにテーマがあり味わい深い作品であるが、この『 37セカンズ 』が特に優れている点は二つある。一つには、主演を務めた佳山明の演技と、それを引き出した監督の力量。もう一つには、障がい者ということそのものをテーマの主軸にしていないことである。

 

演技のバックグラウンドのない主役を、経験豊富な役者たちがカバーすることで生まれる一体感というのは確かにある。毎回ではないが、時々素晴らしいケミストリーを起こす。最近では『 町田くんの世界 』の主役二人にそれを感じたし、『 風の電話 』からも感じ取れた。それでは本作の主役である佳山明が実力ある脇役に支えられながら、町田君やハル以上に輝くのは何故なのか。彼女自身が脳性まひを患った本当の身体障がい者であるということが指摘できる。それにより演技が演技に見えないのである。というか、演技なのに演技ではないのである。映画というのは一部のジャンルや作風を除けば虚構の芸術である。『 ボヘミアン・ラプソディ 』は伝記映画であったが、現役の歌手にフレディを演じさせるという選択肢も、制作前には検討されたはずである。役者に歌わせるよりも、歌手に演技させた方が良いという場合もある(ちなみに、これで大失敗したのが『 タイヨウのうた 』)。実力ある俳優に障がい者を演じてもらうよりも、障がい者が物語世界に降臨した方が説得力がある。これはそうした作品であり、さらにそれを成功させている。冒頭の入浴介助のシーンでは佳山も神野もヌードを披露してくれる。Jovianはこれで一気に本作をドキュメンタリー映画であると受け止めてしまった。すべてが計算ずくで作られたドラマではなく、現実を忠実に映し取った作品であると感じたのだ。このような導入でリアリティを生み出すとは、HIKARI監督は手練手管を心得ている。障がい者が障がい者を演じるのは演技と言えるのかと思う人もいるかもしれない。だが、こう考えてみてはどうだろう。邦画お得意の実写青春映画で美少女が美少女を演じることはどうなのか。イケメンがイケメンを演じるでもいい。橋本環奈が不細工な女子高生という設定や、松坂桃李が醜男という設定に納得できる人がいるだろうか。本作での佳山のキャスティングにケチをつける人は、一度自分の思考を整理されたし。それがすなわち差別であるとまでは言わないが、障がい者を特別視している自分がいることに気づくことだろう。

 

本作で佳山が特に光っているのは、人懐っこい笑顔を見せる時である。上で書いたことと少々矛盾して聞こえるかもしれないが、人が人を魅力的に思うのは見目麗しさ以上に、笑顔であると思われる。ユマの笑顔を見よ。これほどチャーミングな笑顔が邦画の世界でどれほど映し出されてきただろうか。そう思えてくるほどに、ユマの笑顔には魅力がある。人間関係の基本にして究極がそこにある。目の前の人を笑顔にすること。それに必要なのは、介護の知識やスキル、ポリコレ意識ではなく、対等な人間関係を結ぶということなのだろう。

 

本作は障がいそのものをテーマとはしていない。障がい者であるユマが恋愛やセックスに興味を持つのは年齢的にも肉体的にも自然なことである。似たようなところでは『 聖の青春 』の村山聖が挙げられる。もしくは『 覚悟はいいかそこの女子。 』の恋愛未経験イケメン男子を思い起こしてもいいだろう。恋愛やセックスは健常者だと障がい者、イケメンだとかブサメンだとかは関係ない、普遍的なテーマなのである。本作のユマがユニークなのは恋愛やセックスへの興味以上に、自分の仕事の幅を広げたい、あるいは深みを増したい、自立をしたいという強い想いに駆られている点である。恋愛やセックスそれ自体がゴールになっていることが多い日本の多くのエンタメ作品とは、そこが決定的に異なっている。『 娼年 』をカネで買ってスムーズに初セックス・・・とならない。このあたりから物語が一気に加速していく。舞や俊哉と共に生き生きと過ごすユマに、我々は逆説的に教わる。すなわち、恋愛やセックスはそれ自体が単独で成立するイベントではなく、濃密なコミュニケーションや人間関係の一側面である、と。そして、ユマに対等に接してくれるのは夜の街のポン引きだったり、クィアな方々であったり、ゲイバーの店員と思しき人々だったりする。社会のはみ出し者、日陰者とされているような人々なのだ。だが、彼ら彼女らの交流の模様がスクリーンを鮮やかに彩るのを見れば、「障がいも個性の一つ」という少々行き過ぎた考えにも頷けるような気がしてくる。ユマが不意に宇宙人を夢想するのは、宇宙人から見れば、地球人はすべて地球人という同じカテゴリに分類されるからだろう。そこにはもはや人間関係の上下や思考の左右の違いはない。本作は障がい者ではなく人間を映し出している、言葉そのままの意味でのヒューマンドラマなのだ。

 

ユマの自立への旅は思わぬ方面にまで飛んでいくことになるが、そこはぜひ劇場で鑑賞を。彼女が家に帰って来るシーンでの母親の落涙は、完璧に計算された証明とカメラアングル、そして演技によって成立している。ここには作為を感じたが、その美しさに観る者の胸はいっぱいになることだろう。

 

映画的な文法に忠実に従って、すなわち映像で物語を語らせる場面が多いのも良い。未見の方は、ユマが這ってシャワーを浴びに行くシーンで、彼女の両足に土踏まずが全くないことを見逃さないようにしよう。そのうえで、母親が見つめるとあるアイテムが何なのかをじっくり考えるようにしよう。その先には非常に上質な人間ドラマが待っている。

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ネガティブ・サイド

大東駿介演じる介護士はいったい何者なのだ?片言ではあるが、英語や、その他外国語を操れるのは何故だ?組織に属する介護士ではなく、フリーランス・自営業的に介護サービスを提供しているのか?いや、それでは自分が風邪を引いただけで代わりを見つけることもできず、顧客に迷惑をかけるだけだ。この男はいったい・・・

 

またユマがパスポートをしっかりと持っているのは何故だ。所有しているだけなら構わないが、あのタイミングで持っていることは不可解極まりない。運転免許証以外の身分証明書。ということなら普通に障がい者手帳で間に合うはずである。終盤入り口の超展開には少々納得がいかなかった。

 

アダルト誌編集長を演じた板谷由夏の「セックスをしたことがないとリアルな作品を描けない」というのは一理あるが、別にセックス経験がなくとも面白い作品は描けるはずだ。「人を殺したことがないのに、面白い殺人事件は書けないだろう」などと言う編集者がいたら「頭がおかしいのか?」と思うだろう。

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総評

エンドクレジットになぜか我が町・尼崎の尼崎市立身体障害者福祉センターが出てきてびっくりした。何か縁があったのだろう。分断をキーワードにする映画が続々と生産されるなか、“包括”や“包含”をテーマにする作品も同じくらい作られていいはずだ。本作を観れば、世界が目指すべきは分断ではなく包括であることは自ずから明らかである。とにかく、できるだけ多くの老若男女に観てもらいたいと思える傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get laid

セックスする、の意である。直訳のhave sex でも良いが、日常会話ではget laidをよく使う気がする。面白いことに、この表現では相手を表現することは滅多にない。他に同様の意味の表現としては

have sex with somebody

sleep with somebody

make love to somebody

hook up with somebody

などがある。こういう表現が実地に使えるようになれば、英会話スクールは卒業してよい。

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Posted in 国内, 映画, 海外Tagged 2020年代, A Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, 佳山明, 大東駿介, 日本, 板谷由夏, 渡辺真起子, 監督:HIKARI, 神野三鈴, 配給会社:エレファントハウスLeave a Comment on 『 37セカンズ 』 -鮮やかなビルドゥングスロマン-

『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

Posted on 2020年2月9日2020年9月27日 by cool-jupiter

ヲタクに恋は難しい 10点
2020年2月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高畑充希 山崎賢人
監督:福田雄一

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うーむ、日本版『 ラ・ラ・ランド 』だと喧伝されていたので、ミュージカル好きとして観に行ったが、これは酷過ぎる。過去10年でも最低レベル。『 シグナル100  』も酷かったが、2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤーはこちらで決まりである。

 

あらすじ

桃瀬成海(高畑充希)は転職先で幼なじみの二藤宏嵩(山崎賢人)に再会する。成海は前の勤め先で恋人に腐女子であることがばれてしまい、逃げるように転職してきたのだった。そんな時、ゲーヲタであることを隠さない宏嵩に「俺という選択肢はないのか?」と問われた成海は、宏嵩と付き合うことにするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

高畑充希は、かなり歌唱力がある。

 

山崎賢人は、まあ並みより少しマシ程度の歌唱力である。

 

佐藤二朗のオープニングのプレゼンは、つまらないか面白いかの二択で言えば、まあ面白いのではないだろうか。

 

賀来賢人の顔芸は、おそらく本職の声優ドルヲタを怒らせる一歩手前のギリギリの線を見切ったユーモアがあったように思う。

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ネガティブ・サイド

まず、福田監督は何の意図があってミュージカル形式にしたのか。歌や踊りというのは、自己表現の極まった形なのである。言葉にできないサムシングを歌や踊りで表現するのである。ヲタクであるという自分の本性を隠したくてたまらない成海が、その心情を歌や踊りで表現するという営為の矛盾についてどう思うのか。『 キャッツ 』にはいろいろと不満を抱いたが、それでも天上世界に昇り、再生を果たしたいというジェリクル・キャッツの想いは歌と踊りから溢れ出ていた。本作にはそれがない。例えば『 モテキ 』の森山未來の喜びのダンス、あるいは『 愛がなんだ 』の岸井ゆきのが口ずさむ魂からのラップ、もしくは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』のトランスジェンダーのユリシーズの苦悩、そうした言葉にするのが難しいサムシングが、本作では歌と踊りの形で表出されていない。ミュージカルであることに必然性を一切感じないのである。

 

それだけならまだマシなのだが、『 オペラ座の怪人 』をパロったシーンでは久しぶりに映画を観て頭に来た。劇中でもイケメンと評される宏嵩がクリスティーンの位置に置かれるだと?火傷で爛れた顔を持つファントムを、某キャラが仮面をかぶって演じるだと?「彼女の趣味ごと彼女を愛せ!」と主張する菜々緒(もう某キャラをばらしてしまったが別にいいだろう・・・)が、それを言うか?イケメンだけれど内面が醜男である宏嵩と、醜男だけれど内面が純粋すぎるファントムを対比させたつもりなのだろうが、ファントムに本当に足りなかったのは外見上のルックスではなく自分への自信と他者への信頼である。だからこそクリスティーンを必死に口説くのではなく、催眠術を使うのであるし、男と女ではなく、師匠と弟子という関係で迫ろうとするのである。ファントムに欠けているのは対人能力、コミュニケーション能力であり、それは一世代も二世代も前のヲタク像である。福田監督の意識の根底にあるのは、非常に古いヲタク像であり、ヲタクという種族が迫害されている時代のイメージなのではないか。ストーリーは2018年のことのようだが、本作で描写されるヲタクはゼロ年代、いや90年代のそれである。ムチャクチャもいいところである。

 

大解釈に就職し、恋人もおり、趣味も充実し、その趣味を存分に表現できる場を持ち、その感動を分かち合える仲間がいる成海が、「リア充援護」などという言葉を使う。それは欺瞞である。リア充というのは成海のような人間を指す言葉である。もはやオッサンであるJovianの肌感覚でしかないが、2015年以降のヲタクには栗本薫のヲタクの定義、すなわち「人間よりも非人間に親しみを持つ」という定義は当てはまらない。20年前にコスプレしていれば準犯罪者か犯罪者予備軍のように見られていたが、今ではハロウィーンに代表されるように、コスプレも一つの文化となった。同じことが他の多くのヲタク趣味にも当てはまる。なぜ2020年、令和にもなって『 電車男 』の時代のヲタク像を見せられなければならないのか(『 電車男 』が悪いと言っているわけではない、念のため。電車男の時代は、オタクは日陰者で迫害される側だったと強調しているに過ぎない)。

 

時代錯誤はこれだけではない。成海は趣味の異なる宏嵩相手にもATフィールドを張っていたが、これなどは90年代のヲタクの心のバリアの象徴である。当時のヲタクは、それぞれの分野ごとに異民族であり、異なる離島に暮らして平和共存していた。だからこそ、出会ってしまうと分かり合うことができず激しい対立を引き起こしてしまっていた。だが、ゼロ年代以降、特にインターネットの発達とともにそうした不毛な争いは(少なくともリアル世界では)減少していった。これは歴史的な事実である。そして、雑多なオタク趣味が確立すると同時に、オーバーラップする領域はボーダーレス化していった。これも歴史的事実である。離島に橋がかかったのである。そして、そうした離島同士の付き合いが現実の付き合いに発展していくのが今という時代である。Twitterを見よ。定期的に#カプ婚が報告されてくるではないか。

 

本作が最も意味が分からないのは、そうした離島と離島の架け橋を渡る行為、すなわちゲーヲタを声優アイドルヲタ、もしくはBLやギャルゲーのヲタ趣味を理解するために宏嵩が手を出すアイテムやイベントが、ことごとく的外れであることだ。それは自分の好きな分野以外のことにはとことん疎いという従来のヲタクの性質だけでは説明がつかないほどである。対する成海もキャラに一貫性がない。下着の色をそこまで気にする女性なら、あのシチュエーションで見送りにすら来ない宏嵩は、恋愛相手としてもセックス・フレンドとしても対象外だろう。ヲタク趣味を隠さないで済むという気楽な相手なら、下着の色など本来どうでもいいはずである。主役二人のヲタクとしての性質が、時代の面でも、人物の面でも、一貫性をとにかく欠いているのである。

 

観ていて、ひらすら疲れた。何度寝てやろうかと思ったことか。恋をするのは難しいというのは、自分がヲタクだからではない。自分で自分を好きになれないから、他人を好きになれないだけだ。様々なジャンルのヲタクを一括りにして「ヲタクはキモイから無理」と切って捨てる成海という人間のこの考え方は、まさに差別主義者のそれである。原作は知らないが、この映画は全編が壮大な茶番劇である。『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』よりも馬鹿にされた気分である。かつてのゲームヲタク、SFヲタク、現役のボクシングヲタク(見るだけ)、映画ヲタク、ミステリヲタクであるJovianは本作によって大いに気分を害された。

 

総評

上映中にあちらこちらで「クスクス」という笑いが漏れていたが、声の主たちは皆、若々しく聞こえた。きっと若い世代にはちょっと変な人たちがネットスラングをリアルに使ったりするフシギな物語に映ったのだろう。だが、90年代やゼロ年代のヲタク文化を少しでも知っている人間なら、本作はとうてい許容できるものではないだろう。結局、福田監督はヲタクに対して何のリスペクトも抱いていないからである。それは人間模様を映し出す映画監督としては、あまりにも基本的素養に欠けているということである。元々、作る作品のほとんどが賛否両論を呼ぶ御仁であるが、今作はシリアスな映画ファンからは9割以上の酷評を得るのではないか。それほど酷い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

So, sue me.

映画に出てくるセリフではないが、「だから俺を訴えろよ」という意味の言葉である。往々にして開き直って言われることが多い。2000年前後、アメリカの掲示板などではしょちゅう、“I’m an otaku, so sue me,”(俺はヲタクだけど、それが何か悪いのか?)と書き込まれていて、「アメリカという国は、何か違う空気が流れているなあ」と感心したことを今でもよく覚えている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, コメディ, 山崎賢人, 日本, 監督:福田雄一, 配給会社:東宝, 高畑充希Leave a Comment on 『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

『 犬鳴村 』 -ジャパネスク・ホラー終了のお知らせ-

Posted on 2020年2月8日2020年9月27日 by cool-jupiter

犬鳴村 20点
2020年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花
監督:清水崇

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『 ブライトバーン 恐怖の拡散者 』がクソ駄作だったので、思わず『 シライサン 』と本作に過度な期待を抱いてしまっていた。『 シライサン 』はそれなりに楽しめるところもあったが、本作はもう駄目である。何度も寝そうになったし、いっそのこと途中で席を立とうかと思ったのも1度や2度ではない。令和の訪れと共にやって来た『 貞子 』は、ジャパネスク・ホラーの黄昏だった。そして本作によってジャパネスク・ホラーは終焉したのかもしれない。

 

あらすじ

森田奏(三吉彩花)の兄・悠真とその恋人・明菜が、地図から消された「犬鳴村」に行ってきた。そして明菜が怪死した。そして奏の周囲で次々と怪異が起こる。いったい「犬鳴村」とは何なのか、どこにあるのか。そこで何が起きて、地図から消されてしまったのか・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭はなかなかに不気味な感じを漂わせている。アホなYouTuberが体を張っていると思えば、それなりにリアリティもある。このYouTuberの死にっぷりはなかなかである。そこだけは評価したい。

 

また終盤の手前で、白いシャツを着た三吉の上半身をスクリーンにするという構図はなかなか面白いと感じた。犬鳴村と奏の関係を、視覚的に見事に表現できていた。

 

全体的に坂東真砂子の小説『 狗神 』に通じるものがある。霧がけぶる山々を見ると、特にそう感じる。同小説の映画化作品である『 狗神 』は、最後の最後で小説にある重要なシーンを削ってしまったが、本作はある意味で清水崇流に『 狗神 』を脱・構築してから再構築しものであると言える。それが成功しているかはさておき、その試み自体は評価したい。

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ネガティブ・サイド

『 呪怨 』に味をしめたのかどうか知らないが、ジャンプ・スケアを多用し過ぎである。そして馬鹿丁寧にも、重低音の利いたBGMをじわじわとビルドアップしていくことで「ハイ、ここでびっくりして!」と教えてくれる。ホラー映画、特にジャパネスク・ホラーは本当に終わってしまったのかもしれない。

 

まず肝心の犬鳴村の存在が怖くない。まず昭和24年というのは、そこまで昔か?江戸時代以前ならまだしも、戸籍制度が高い水準で整備されていた戦前、そして戦後の時代に、村一つを無理やり消せただろうか。2020年時点から71年前だから、当時20歳の人は91歳。かなりの高齢だが、存命の人間もまだまだ多いだろう。犬鳴村の住民を迫害した側の者たちで生き残っている人間がいても全く不思議ではないと思うが。序盤で意味ありげに「あの村で何が起こったのかを知っているのは、もはや自分とお前だけ」と語る院長先生と、それに無言でうなずく高嶋政伸が、事の真相を何一つ語ろうとしないのは拍子抜けもいいところである。というか、犬鳴村が消された理由に心底がっかりである。お上にまず懐柔され、そして迫害された・・・って、懐柔される部分は要らんやろ。

 

犬鳴村出身の怨霊たちも何がしたいのかさっぱり分からない。集団でわらわらと現れて、訳の分からん民謡だか童謡を歌って、奏を追いかけまわす意味は?病院内のチェイスは、そのあまりのシュールさに思わず笑ってしまった。また、奏の兄の友人だか子分だか分からない連中の霊が、奏のクルマに乗っているシーンもシュールなことこの上ない。一歩間違えればギャグにしか見えないシーンである。というか、ギャグだ。クルマのバックミラーに追跡してくる何かが映っているというのは『 ジュラシック・パーク 』へのオマージュかもしれないが、三馬鹿トリオが追いかけてきても怖くない。クルマに乗り込んできても、奏に襲いかかわるけでもない。何がしたいのか分からないが、奏を傷つけようとはしてこないので、そこで恐怖を感じることがない。

 

その奏が犬鳴村に出向く流れも不自然極まりない。父親が口をつぐむのなら、まずは母親に尋ねるのが定跡ではないのか。不思議な力を持っていた祖母が、「奏にもできるはずだよ」と言っていた能力が、序盤に一回、クソどうでもいいシーンで発現しただけだったのは何故だ?というか、その能力もまんま『 シャイニング 』の輝きのパクリではないのか。輝きを使って、犬鳴村の怨霊に語り掛けるのかと思いきや、結局何もしない。味方(?)の霊の存在意義もよく分からないし、奏の兄の悠真の死体のあり様も説明がつかない。男の方は女に抱きついているべきで、男が男に抱きついてどうするのだ・・・ そしてビデオカメラがあったなら、中をちゃんと見ろ。そして映像を再生したのなら、最後まで観ろ。

 

犬鳴村のボス的存在の怪異が怖くない。というか、どこかで観た要素のパッチワークで、シラケるばかりである。和服の女性というのはクリシェもいいところだし、変な動き方をするのなら『 エクソシスト 』並みにやってほしい。『 サイレントヒル 』や『 バイオハザード 』にすら及んでいない。というか、『 地獄少女 』の取り巻き禿爺いのブレイクダンスのようなことをやっても、怖くない。言葉そのままの意味で尾も白い・・・、ではなく面白いだけである。なぜ犬のように四足歩行をしない?なぜ犬のように遠吠えをしない?犬鳴村をテーマに観客を怖がらせたいのなら、「犬」という要素は絶対に外してはいけないのではないか。

 

エンディングもシラケる。「あ、この展開は間違いなく〇〇〇やな」と思わせて、本当にその展開へ。捻らんかい。というか、謎の家族団らんシーンとエンディングのシーンは順番が逆でないか。バッドエンドを示唆するなら“母親”という概念をもっと効果的に使えるはずだろう。これよりもマシなエンディング演出を脚本家は考えられなかったのか・・・誠に残念至極である。

 

総評

ジャパネスク・ホラーは終わった。そう感じさせられるほどにつまらない作品である。いっそ三吉彩花を川上富江役に起用して、令和の時代に合った『 富江 』映画を作ってみてはどうか。三吉彩花なら魔性の美女たる富江にふさわしいルックスとスタイルの両方を備えている。『 富江 Resurrection 』を清水崇が監督するなら、それはそれで観てみたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I really need to forget about this film ASAP.

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ホラー, 三吉彩花, 日本, 監督:清水崇, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 犬鳴村 』 -ジャパネスク・ホラー終了のお知らせ-

『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

Posted on 2020年2月6日2020年9月27日 by cool-jupiter

AI崩壊 35点
2020年2月2日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:大沢たかお
監督:入江悠

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AIの進化が著しい。日本は良きにつけ悪しきにつけ新しいものを使っていくことを好まない。しかし将棋棋士がAIを効果的に使い、今も棋力を向上させているように、普通の仕事でもAIを使い、効率や能率を上げていくことが期待される。だが、AIが『 ターミネーター 』のスカイネットにならない保証はどこにもない。本作はそんな物語・・・とはちょっと違う。

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あらすじ

桐生浩介(大沢たかお)は病気の妻を救えなかった。しかし、彼の開発したAI「のぞみ」は医療と健康管理のため国民的ツールとして普及し、日本人の健康増進に寄与していた。だが「のぞみ」は突如、暴走。国民を「生存」と「死亡」にカテゴライズし始める。その原因を開発者の桐生にあると判断した警察は、桐生の逮捕に乗り出す。桐生は逃げ延び、「のぞみ」暴走の原因を解明できるのか・・・

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ポジティブ・サイド

一部の分野ではAIが人間の能力をはるかに凌駕していることは周知の事実である。完全自動操縦の自動車がリリースされない理由は、費用が高くなりすぎること、そして事故があった時の責任の所在がどこ(製造者?所有者?運転していない同乗者?)にあるのかが議論しつくされていないという政治的・倫理的理由からである。逆に言えば、技術的には可能なわけで、ならば健康管理AI「のぞみ」という存在も荒唐無稽とは言い切れない。実際には飛行機は、離陸と着陸以外はオートパイロットで飛ばしている。厳密にはAIとは言えないものにも、我々はすでに命を預けているのである。

 

本作ではドローンも大活躍する。特に地下道で放たれるドローンのデザインはなかなか良い。Droneとはミツバチの雄を指す言葉で、蜂を模した形の超小型ドローンは近未来的でクールである。

 

微妙なネタバレになるが、本作には現実の政治批判の意味も込められている。序盤早々に女性総理大臣が死亡するが、その跡を継ぐ副総理の姓は、亡国の・・・いや、某国の総理大臣に縁のある姓だからである。入江監督の思想がどのようなものかは寡聞にして知らないが、国民を「上級国民」と「下級国民」に選別することは止めよ、というメッセージを入江監督は持っているようである。その意気や良し。

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ネガティブ・サイド

『 プラチナデータ 』と重複する部分が多い。犯人の思想もそっくりであるし、警察が使用するAI「百眼」による捜査方法もそっくりである。つまり、新鮮な驚きがない。いや、『 プラチナデータ 』の公開当時、歩行パターン認識などはまだまだマイナーな技術だった。その点に、説得力はあまりなかったが、驚きは十分にあった。一方、本作の「百眼」の性能には驚きを感じられるものがなかった。それがマイナス点である。後発作品は、先行作品を何らかの意味で乗り越える努力をすべきである。また、百眼も高度に発達したAIである割には、自律的思考力を持っているとは到底思えない判断を最終盤で連続して下している。もはやギャグの領域で、ここまで来るとリアリティも何もない。また、桐生が下水道の中を逃げる時の足音を聞いて、「これは桐生である」と百眼が判断する場面もあるが、元データをいつ採取したのだろうか。百眼という存在のアイデアは悪くはないが、才物の詰めの設定が甘すぎる。

 

また、百眼を使う警察があまりにも最初から強引すぎる。これではのぞみ暴走の黒幕が誰であるのか、あっという間に分かってしまう。本作はSFサスペンスであり、ミステリ要素は確かに薄い。しかし、謎の見せ方にはもう少し節度を持ってもらいたい。ミランダ宣告をしないのはまだしも、容疑者かどうかも怪しい段階でいきなり銃を突きつけるか?最初は「話はとにかく署で聞く」ぐらいの堅物さ、強引さで、そこからのぞみ暴走のカウントダウンが進んでいくとともに警察も過激になっていく、という展開で良かったのにと思う。

 

逃げる桐生を警察官の描写にも不満がある。土地勘があるとは思えない桐生が、土地勘を持っていないとおかしい所轄の警察官たちを、路地裏などを通って次々と振り切っていくシークエンスには説得力がない。元警察官のJovianの義父が本作を観たら、笑うか呆れるか、さもなくば警察官たちに憤慨するであろう。

 

「のぞみ」の暴走にもリアリティが不足している。「のぞみ」が命の選別をすることにリアリティがないのではない。「のぞみ」のカメラアイは『 2001年宇宙の旅 』のHALをどうしても想起させるが、人を殺害するAIというアイデアは大昔から存在してきたのである。問題は、AIが人を殺すことを考えたときに、その思考過程をわざわざ人に見せるだろうか、ということである。もちろん、それを見せてくれないことには物語が前に進まないのだが、「のぞみ」暴走のカウントダウンにどうしても緊張感が生まれなかった。というのも、パッと見た限り、「のぞみ」は命の選別を1秒間に6人ほど行っているように見えるが、この計算で行くと、1分で360人、1時間で21,600人、24時間でも518,400人である。10年後の日本の人口が1億人にまで減っていたとしても、全く届いていないではないか。「のぞみ」がモニター越しに見せる命の選別の過程がスロー過ぎて、観ている側に焦燥感や恐怖などの負の感情が生まれてこないのだ。

 

黒幕は命の暴走によって日本を救いたいわけだが、その思想もすでに漫画『 北斗の拳 』のカーネルが「神はわれわれを選んだのだ!!」という言葉で先取りしている。実際に命の選別をやってしまえば、諸外国から非人道的との烙印を押され、あっという間に中露、あるいはアメリカあたりに力での侵略を許す口実を与えるだけになると考えられる。それに墓場はともかくとしても(全部無縁仏扱いしてしまえばよいので)、火葬場などで死体を荼毘に付す処理が絶対に追いつかないだろう。それとも、死体の大部分は腐敗するに任せるというのか。馬鹿馬鹿しいようであるが、こうしたことまで考えられて作られた物語に見えないのである。

 

桐生も『 逃亡者 』のリチャード・キンブルさながらに逃げまくるが、盗んだノートPCであまりにも多くのことを成し遂げ過ぎではないか。「俺はもう人工知能の開発はやっていない」と言いながら、発砲を辞さない警察に追われるという極限の緊張の下、5年ぶりであっても流れるようにコードを書くというのは、プログラマーならぬJovianの目にはスーパーマンに見える。桐生が卓越した頭脳と肉体の両方を備えていることが、物語を逆につまらなくしている。桐生が百眼やのぞみと対峙し、たとえば『 search サーチ 』のように、カメラなどを通じてではなく各種のウェブ上に記録を多角的に総合的に分析することで、AIとの“対話”を行うような形での対決をしてくれれば、もっとリアルに、もっとスリリングになっただろう。発想は陳腐だが悪くない物語である。物語の進め方にもっと工夫の余地があったはずである。

 

総評

桐生にも警察にもリアリティがない上に、肝心のAIも過去作品の模倣の域を出ない。AIを巡る思想についても、山本一成が『 人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか? 』で語った「いいひと」理論が先行している。映画館はかなりの人が入っていたが、正直なところ、映画ファンの期待には届かなかったと思われる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

trigger-happy

『 図書館戦争 』ほどではないが、本作は警察がバンバンと発砲する。そのような、すぐに撃つ短慮な性格を指してtrigger-happyと言う。40歳以上の世代なら、『 おそ松くん 』における本官さんを思い出してもらえればよい。『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』でも、ホルドがポーを指して“trigger-happy flyboy”と揶揄していた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, SF, サスペンス, 大沢たかお, 日本, 監督:入江悠, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

Posted on 2020年1月30日2020年1月30日 by cool-jupiter

Kioku-ya: Anata wo wasurenai / The Memory Eraser: Forget You I Will Not  10/100
At MOVIX Amagasaki, on January 30th, 2020
Main Cast: Ryosuke Yamada, Kuranosuke Sasaki, Kyoko Yoshine
Director: Yu-ichiro Hirakawa

 

記憶屋 あなたを忘れない 10点
2020年1月30日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山田涼介 佐々木蔵之介 芳根京子
監督:平川雄一朗

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I assumed Signal 100 was the front-runner to be chosen as the worst film of the year, but surprise surprise, there will always be something far worse. This film is the worst one by far I’ve seen in the last five years.

 

『 シグナル100 』が国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補かと思っていたが、それをさらに上回る駄作がもうすでにあったとは驚きである。本作は、過去5年にJovianが鑑賞した作品の中でも群を抜いて駄作である。

 

Plot Summaries

Ryoichi – played by Ryosuke Yamada – is a college student who is going after the person called Kioku-ya, The Memory Eraser. His girlfriend’s memory of Ryoich was erased, and since then, he has been seeking clues of The Memory Eraser with the aim of restoring her lost memory…

 

あらすじ

大学生の遼一(山田涼介)は記憶屋を追っている。恋人の記憶から、遼一に関するものが消されてしまったのだ。以来、彼女の失われた記憶を取り戻そうと遼一は記憶屋に関する手がかりを探し求めるが・・・

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Warning: Mild Spoilers Ahead!

 

注意!軽いネタバレあり

 

Positives

Sorry, no positives to mention. That’s proof of how awful this film is.

 

ポジティブ・サイド

残念ながら無い。それが、この映画の酷さを証明していると言えるだろう。

 

Negatives

First of all, what’s the heck is with lawyers and medical doctors in this movie’s world? Don’t they know a jack shit about what the duty of confidentiality is all about? It’s OK to give away a little bit of information, because we are all human and to err is human. Nobody is impeccable. With that being said, there is absolutely no need to write down on the whiteboard every F-ing detail of the victims of the criminal cases. There is something wrong with the doctor’s head, too. What’s the point of allowing a girl’s boyfriend to be right there while asking her some serious questions? A doctor should have no problem anticipating a flashback especially when dealing with a patient who could be deeply traumatized. Why no female doctors? Why not allowing her to lie down during the medical interview? The stupid and senseless boyfriend should know better.

 

The problem with this film is that the true identity of The Memory Eraser is so blatantly obvious that avid movie-goers will find out who it is only about 15 minutes into the film. Nevertheless, no characters picked up on the clue that leads to The Memory Eraser until much later, which I didn’t like at all. All you have to do is connect the dots, and no one fucking does it. Why?

 

I am also unhappy with the sequence where Ryoichi makes his sincere apology for what he thought was a terrible mistake. However, they say that kidnapping was rampant in the area in those days. Nonetheless, the adults in the area allowed their 5 – 6 year-old children to go outside AT NIGHT, ON THEIR OWN, so that they could go see a fireworks event. WTF? Heck, it wasn’t Ryoichi’s fault. It was the adults and the police who were to blame. And the ex-cop old man just saying to Ryoich, “It has fallen under the statute of limitations.” is simply unthinkable and unacceptable. This man really has dementia. If not, he should have turned in his badge waaaaay before his retirement.

 

Ryoich’s odyssey for The Memory Eraser culminates at the lowest of the low point. It was such an anti-climactic ending sequence. With this, the director and the screenwriter didn’t seem to give much thought to the impact of what happens at the end on the people around the main characters. I also found it extremely difficult to relate to any of the characters, and almost all of the things they did in the course of this entire story didn’t come across as compelling or meaningful. I could not help but get up from the seat and leave the theater as soon as the ending credit began to roll.

 

I could keep talking forever, but I want to wrap all this up by saying that I have no idea why this film exists.

 

ネガティブ・サイド

まず、この物語世界における医師や弁護士の職業倫理はどうなっているのか。守秘義務という概念が存在しない世界なのか。いや、多少の秘密をばらすのは人間のやることだから許容できる。だが、どこの誰がどんな事件でどんな被害を受けたのか、それを事細かくホワイトボードにでかでかと記しておく必要が一体どこにあるのか。医師も頭がどうかしている。心因性の記憶障害だとしても、いやしくも脳外科医であるならば女性医師に変わるか、あるいはフラッシュバックを予期してベッドに寝かせて問診するだろう。いや、そもそもボーイフレンドは同席させないだろう。いくら親密とはいえ、親や保護者ではないのだ。

 

また記憶屋の正体があまりにも簡単に分かってしまうにも問題である。ちょっと映画を見慣れた人であれば、開始15分で記憶屋が誰であるかが分かってしまうだろう。にもかかわらず、登場人物の誰も記憶屋につながるヒントに物語後半まで気が付かないということが不満である。点と点をつなげば記憶屋の正体は自ずから明らかなのに、何故そうしない?

 

主人公の遼一が過去の自分の過ちを詫びるシークエンスにも納得がいかない。誘拐事件が地域で頻発している。にもかかわらず当時の大人たちは未就学児童の集団を夜に外出させ、花火大会に行かせた。悪いのは遼一ではなく、大人たちであり、注意喚起を怠った警察である。遼一の謝罪を「時効だ」と言って流してしまう元・警察官の爺さんは、本物の認知症である。さもなければ、無責任極まりない警察官である。

 

主人公の遼一の記憶屋を求める旅の終着点、その結末。そのことが周囲にもたらす影響について何らの考察もされていないように思える。はっきり言って、登場人物の誰にも感情移入できないし、彼ら彼女らの行動原理がこれっぽっちも理解できない。エンドロールが始まって、すぐに席を立ってしまった。

 

このままいくらでも酷評を続けていくこともできるが、きりがないので以下をもって結論とする。Jovianは何故この映画が存在できるのかが分からない。

 

Recap

This is a complete disaster. Hardly anything in this film makes sense, and I was fed and fed and fed with so much meaningless information till the end. I say this film is a steaming load of bullshit. Only those who are gullible and naive are encouraged to buy a ticket and check this out.

 

総評

完全なる失敗作である。劇中で起こるほとんどの出来事の意味が分からない上に、意味のない情報ばかりを次から次へと終わりまで与えられ続ける。これはもうデタラメもいいところの作品である。極めて無邪気な人だけがチケットを買って鑑賞すべきなのだろう。

追記

遼一も弁護士も記憶屋を追うなら綿密に記録を残せ。それぐらいの自衛行為は当たり前だ。『 リピーテッド 』を観ろ。もしくは新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』を読め。

また記憶屋が仕事をしようがしまいが、遼一のところには警察なり何なりが来るだろう。それとも、この物語世界の警察は無能の集団だから、来ないのだろうか。

エンディングも酷い。『 バタフライ・エフェクト 』を模したつもりだろうか。そんな名作に張り合おうとするよりも前に、まずは『 パラレルワールド・ラブストーリー 』と勝負してはどうか。それでも本作の方が劣るだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ヒューマンドラマ, 佐々木蔵之介, 山田涼介, 日本, 監督:平川雄一朗, 芳根京子, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

Posted on 2020年1月30日 by cool-jupiter

風の電話 85点
2020年1月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:モトーラ世理奈 三浦友和 西島秀俊 西田敏行
監督:諏訪敦彦

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地震大国の日本であるが、それでも阪神淡路大震災と東日本大震災による打撃は群を抜いている。そして、あまりにも多くの犠牲者が出たことで、我々は被害を個々の人間ではなく、単なる数字として捉えてしまう。阪神大震災を間接的にではあるが経験したJovianでさえ、東日本大震災がもたらした悲劇については想像が及ばなかった。これはそうしたドラマである。

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あらすじ 

3.11によって父と母と弟が行方不明になってしまったハル(モトーラ世理奈)は、広島の叔母の家で暮らしていた。そんな叔母が倒れてしまった。また独りになってしまうかもしれないという不安から、ハルは家族と別れることになった地、岩手を目指して旅に出る。そして、道中で様々な人々と触れ合って・・・

 

ポジティブ・サイド

ワンカットがとにかく長い。が、それが気持ちよい。BGMも最小限に抑えられている。ジャンルとしてはヒューマンドラマ、ロードトリップになるのだろうが、まるでドキュメンタリー映画のようである。プロットは全く異なるが、『 存在のない子供たち 』のようである。ゼインは子どもとは思えない逞しさやしたたかさを備えていたが、ハルの時間はある意味では8年間ずっと止まったままである。子どものままなのである。誰かの庇護がなければ生きていけない存在。しかし、その庇護を与えてくれる人間が存在しない。そんな中途半端な状態で、ハルは死んではいないが、生きてもいない。17歳という子どもではないが大人でもないという中途半端な存在。そんなハルが、ロードトリップを経て、守られる側から守る側になる。目指す先に着いた後、さらなる目的地を見つけるというストーリーには、我にもなく涙を流していた。

 

三浦友和演じる公平は言う、「生きてるからには、食べて、出して、食べて、出して、しないとな」と。その言葉の通りに、本作の登場人物たちは常に皆、何かを食べている。まるで『 食べる女 』のようである。そのレビューで「失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『 万引き家族 』は我々に見せつけた」と指摘したが、本作はそうした描写からさらに一歩踏み込んだ。すなわち、孤食の解消である。詳しくは鑑賞してもらうべきだが、常に誰かが何かを食べている本作で、ハルが一人で食物を消費するシーンは剣呑である。そのことがすぐに伝わってくる。本作は、非常に逆説的にではあるが、【 日本全国を子ども食堂化しようプロジェクト 】のキャンペーンの一環であり、プロモーションビデオなのである。

 

広島の叔母の家でも、三浦友和の家でも、名もなき姉弟が連れて行ってくれた場末の食堂でも、西田敏行の家でも、Happy Kebabでも、トルコ人家族の家(ここは家の様子はほとんど映らないが)でも、どこもかしこも『 万引き家族 』的な物で溢れかえった家ばかりである。そこに小奇麗さは一切ない。比較的経済的に余裕のある家庭の子ども達が集まり、肝心の貧困層や孤食を余儀なくされる子ども達が来てくれないと嘆く子ども食堂の運営者の方々は本作を参考にされたい。さっぱりとしていてお洒落で明るい空間などを演出しても、ターゲットにしている子どもたちは入りづらいだけである。他人同士が身をぎゅうぎゅうに寄せ合い、カップ麺にお湯を注いだり、大人が缶ビールを開けたりするぐらいがちょうど良い・・・かどうかは分からないが、そうした雰囲気に救われる子どもはきっと数多くいるはずである。本作が映し出すのは、徹頭徹尾、社会的な弱者たちの連帯なのである。美しく頼もしいのは空間ではなく、人なのである。

 

不勉強にして“風の電話”の存在を本作鑑賞まで知らなかった。これは一種の自己内対話を促す装置である。『 ウインド・リバー 』で語られた、「子どもの死を受け入れろ。そうすれば、心の中でその子の笑顔が見られる」という悟りにも似た感覚を励起させる。死者と通話できるということは、その電話ボックスに入った時点で、相手の死を受け入れているということだ。これは辛く、悲しい。しかし、そうしなければ前に進めないことも事実である。本当に苦しいのは、家族や友人知人の遺体を見つけた人ではなく、彼彼女らが行方不明なままの人たちだろう。ハルが行う“風の電話”での通話は『 ラストレター 』における自己内対話と相通するものがある。この通話のシーンは万感胸に迫るものがある。観る者はハルの悲しみに同調し、あるいはハルの勇気に感動することだろう。

 

認知症の老婆、高齢の妊婦、家族が崩壊した中年男性、何もなくなってしまった故郷で死ぬと決めた老夫婦、家族の死に責任を感じる男たちが、意識的にも無意識にでもハルに生命力を分け与えていく姿に、観る側も大きな力を与えられたように感じられる。それらを受け止め、与える側へと成長していくハルの姿は究極のビルドゥングスロマンである。そんなハルを見事に体現したモトーラ世理奈は、2020年国内最優秀俳優に1月末にして内定した。

 

西田敏行が劇中で語る『 警察日記 』はモノクロ映画である。それが映し出した美しい福島の山や川とは何であったのか。諏訪監督の答えは明快である。西島秀俊演じる森尾とハルが、ハルの実家跡を訪ね、そして去るシーンの得も言われぬ美しさがその答えである。“美”とは風景の中に存在する客観的な実体ではない。人と人とが純粋な気持ちで触れ合い、響き合う姿の中に存在するきわめて主観的なものであることを、ここで我々は知るのである。このシーンの美しさに、Jovianは打ちのめされた。

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ネガティブ・サイド

2時間30分の長編である。そのことは別に構わない。セリフの少なさに比して、本作に込められている情報やメッセージは圧倒的に多いからである。ただ、これだけの尺を取るからには、ハルの旅先での数々の経験を、その次のシークエンスに生かしてほしかったと思う。例えば、三浦友和からもらった果物をかじるシーンや、トルコ人の同世代の女子の「看護師になろうかな」という想いを受けて、車窓から病院や看護学校に目が留まる、などの演出があればパーフェクトだった。

 

あとは、最初に倒れた広島の叔母さん、もしくは入院先の病院に電話なり何なりをハルがするシーンが一瞬でもあれば、いや、電話したと分かるような素振りか何かが最終盤にあればとも感じた。しかし、これは下手をすると余韻を壊すかな。ドラマの演出と編集のせめぎ合いになるか。

 

総評

2020年が始まって1か月も過ぎていないが、本作は年間ベスト候補である。モトーラ世理奈が邦画界から数々の賞を受け取る姿が早くも目に浮かぶ。また貧困問題や格差社会、移民問題までも含む、様々な問題提起もなされている。エンターテインメント作品かと言われれば否であるが、芸術作品であるかと問われれば間違いなく芸術作品である。観る者をかなり選ぶだろうが、脚本、演技、演出、撮影のどれを撮っても一級品である。是非とも劇場鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m back.

帰ってきたよ、というハルの心の叫びである。come backやget backを過去形や完了形で使ってしまうと受験英語となる。かのマイケル・ジョーダンが野球からバスケに帰ってきたときの記者会見の第一声も“I’m back.”だった。状況的に“I’m home.”とも言えそうだが、家が破壊されている状況では使いにくい表現かもしれないと感じた。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, モトーラ世理奈, 日本, 監督:諏訪敦彦, 配給会社:ブロードメディア・スタジオLeave a Comment on 『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年1月29日2020年11月11日 by cool-jupiter

サヨナラまでの30分 40点
2020年1月28日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:北村匠海 新田真剣佑 久保田紗友
監督:萩原健太郎

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入れ替わり系のストーリーは時代や地域を問わずに生産され続けている。それだけ思考実験しやすいジャンルであり、またテクノロジーの進化とも相性が良いジャンルなのだろう。本作は新しい視点は提供してくれたが、様々な描写が不足しているため、説得力がなかった。

 

あらすじ

アキ(新田真剣佑)はギタリスト兼ヴォーカリスト。バンドのメジャーデビューを前に不慮の交通事故で世を去ってしまう。カセットテープとウォークマンを残して。そのウォークマンを偶然に拾った颯太(北村匠海)は、カセットテープを再生している間は、颯太の体にアキが入り、颯太は幽霊状態になってしまうことが分かり・・・

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ポジティブ・サイド

以外と言っては失礼かもしれないが、北村匠海の歌唱力が目立った。声を張り上げる役をあまり演じてこなかったというのもあるが、アマチュアの声ではなかった。それとも本職がアテレコしているのか?いや、そうは聞こえなかった。一応歌手もやっているようだが、もしまだタバコを吸っているのなら止めたほうがよい。また演技力でも成長を見せた。『 累 かさね 』における土屋太鳳と同じく、一人二役とは言っても、実際は北村が1.5、新田真剣佑が0.5ぐらいの配分に感じられた。

 

邦画の青春映画というと、おそらく7割以上が高校を舞台に高校生が繰り広げるが、大学生や社会人ものというのも味わい深いものがある。ある程度、酸いも甘いも嚙み分けてきて、その上で自分の道にのめりこめるからだ。好きという気持ちだけで突っ走る中高生も、それはそれで甘酸っぱく感じないわけでもないが、オッサンにはもうそろそろキツイ。自分がそれなりに謳歌した大学時代を軸にした映画の方が楽しみやすい。

 

本作のテーマである“上書き”は、おそらく意見がかなり割れることだろう。Jovian自身は賛と否、両方の意見を持っている。ここでは賛の意見を。バンドというのは不思議なもので、英単語のbandは音楽のバンドだけではなく、ひも、縄など、ぐるぐる巻きにして留めるもの、縛るものなどを指す。ボクシンググローブをつける前に、ボクサーは拳にバンデージを巻くのである。アキは、自分自身が生き返ることではなく、バンドの存続を願った。虎は死して皮を残すではないが、自分抜きにバンドが続くことを承認している。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のレビューでは、「フレディ死すともクイーンは死せず」と書いた。フレディ在りし頃のQueenは記録にも記憶にも残っている。そして、フレディが死に、ディーコンも事実上脱退したQueenは今も活動中で、まさに日本ツアーを敢行中である。もっと卑近な例を挙げればモーニング娘。やAKB48などは、メンバーが入れ替わってもグループとしては存続を続けている。大切なのは、人間同士のつながりそのものよりも、そのつながりによって何を生み出すのかである、という主張にも一理はある。本作はそのことをファンタジー形式で提示したと言える。我々はすぐにスマホで録音をし、写真や動画を撮るようになってしまったが、萩原監督は本作を通じて、「人とつながれ、何かを生み出せ」という現代人批判を行っているのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

厳密には入れ替わりものではないが、それでもオリジナリティはなかった。カセットテープというのも、『 ルーム・ロンダリング 』で渋川清彦が「バカヤロー、デモと言えばテープと相場が決まってんだよ」と喝破している。

 

また肝心の入れ替わりにおいても、高畑京一郎の小説『 ダブル・キャスト 』のプロット、すなわち入れ替わり可能時間がどんどん短くなっていく、が遥かに先行している。その上、サスペンス要素や謎解き要素でも面白さでも、高畑の小説の方が優っている。今風に言えばラノベに分類されてしまうかもしれないが、一昔前のジュブナイル小説の傑作なので、今の若い世代にもぜひ読んでほしいと思う。

 

閑話休題。本作は『 小さな恋のうた 』のパラレル・ストーリーであるとも言える。バンドの主要メンバーが死んでしまった。さあ、どうする?という問いに、“上書きする”という一定の答えを出した。それは良い。だが、その過程でアキの霊体?が随時にツッコミを入れるのが気に入らない。「俺がいないと何もできない奴らが・・・」というセリフは本当に必要だったのだろうか。また、肝心のアキと颯太の対話劇がもう一つ盛り上がらない。この点でも同じ音楽にフィーチャーした作品『 さよならくちびる 』に及んでいないと感じられた。絵的にも、オリジナリティに欠ける。颯太とカナが連弾でトロイメライを弾くところなどは、『 蜜蜂と遠雷 』の月の光の連弾シーンに重なる。とにかく、どこかで観た構図のオンパレードなのだ。

 

本作は颯太のビルドゥングスロマンであるが、肝心の颯太のキャラが一貫性を欠いている。アキが地獄と感じる透明人間状態を天国だと言いながら、ちゃっかりECHOLLのメンバーとの交流を楽しんでいる。アキと自分の間に即席カーテンを設けながら、いつの間にかそれも消えている。駄作の『 L・DK 』でも、雷鳴に怯えて思わず手を伸ばしてしまったというベタな描写は為されていた。そもそも颯太の音楽のバックグラウンドに関する描写が何もないままにストーリーが進行していくのはご都合主義であるし、アキが無断でアップした曲の評価も最後まで判明しなかった。このアキと颯太の対話劇の欠如・不足により、颯太が「彼女も共有すべきでしょ」と不敵に言い放つ流れが、とてつもない違和感を生み出す。

 

細かいツッコミになるが、クライマックス前も颯太もカナも汗一つ流していない。真夏に自転車を全力で飛ばしてきた、もしくは走ってきたのなら、汗ぐらい流そう。別に久保田紗友の白シャツを汗で濡らして透け透けにしろ、などと言っているわけではない。シーンとシーンの連続性を大事にしなさいと言いたいのだ。バラバラに撮影したものが、一つの流れに見える。それが映画の技法なのだ。

 

総評

単体で見れば、鑑賞には耐えうる。しかし、他の先行作品や類似作品と比べた時に、ストーリーの面でも音楽の面でも、光る点が少ない。北村や新田のファンならチェックしておくべきだろうが、熱心な映画ファンを満足させうるクオリティに達しているとは感じなかった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

live on borrowed time

借りられた時間を生きる、の意。本作のアキのような状況を指す。すなわち、死んだも同然の身だが、天から与えられたかりそめの時間を奇跡的に生きている、という意味である。または、余命が残りわずかな状態で生きている、という意味にもなる。ボクサーがまぶたから大量に出血して、それでもTKOにならず戦い続けている様を指して、“He’s fighting on borrowed time!”という実況を2~3度聞いたことがある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ファンタジー, 久保田紗友, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:萩原健太郎, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

Posted on 2020年1月27日2020年10月18日 by cool-jupiter
『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

ハルカの陶 70点
2020年1月25日 プラット赤穂シネマにて鑑賞
出演:奈緒 平山浩行 笹野高史
監督:末次成人

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Jovianは岡山県備前市伊部に8年住んでいたことがある。まさに伊部駅から高校へ通学していたし、映画にはJovianの実家があった場所も一瞬だけ映ったし、実家そのものも映った(というか身バレ上等で書くが、スナックがずばりそれである。あそこは昔、焼き肉ハウス「ジャン」という店でJovianの両親が経営していた)。またほんの数年前までは毎年1~2回は帰省していた土地である。それなりに最新の状況も見聞している。なので、好意的にレビューしているところもあるし、かなり厳しめにレビューしているところもある。

 

あらすじ

東京でOLをしていたハルカ(奈緒)は偶然に目にした備前焼の大皿に心を奪われてしまった。そして、その作者である若竹修(平山浩行)に弟子入りするために、岡山家備前市伊部を訪れたのだが・・・

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ポジティブ・サイド

劇中登場人物たちの岡山弁はまあまあ上手い。程度の低い邦画では、むちゃくちゃな関西弁が幅を利かせていたりするが、『 ちはやふる 』における福井弁のように、地方の方言に対するリスペクトを欠かさない映画監督はまだまだいる。こうした作り手は大切にしたいし、こちらもリスペクトしたい。

 

ハルカが備前焼に惹かれるようになるまでを一瞬で描き切るのも潔い。生まれ育ちがどうで、交友関係がどうで、こんな仕事をしていて、今はこんな日常を送っています、というような描写をほとんど全部省いてしまうことで、我々観る側もハルカと共にまっさらな状態で備前焼の世界に入っていくことができる。備前焼というのはメジャーな世界ではメジャーだが、全国規模で考えれば全くもってマイナーな陶器であり、芸術であろう。だからこそ、描くべきは備前焼の世界であって、ハルカというキャラクターの背景はノイズになる。だからそぎ落とした。末次監督のこの判断は正解である。

 

ハルカの師匠となる若竹修の造形も良い。真に迫っている。職人というのは往々にして、気が乗らないと仕事をしないし、逆に興が乗ってくるといつまでも仕事をしている。その姿は時に神々しくもあるだろう。ハルカのスイッチが本格的に入ってしまったのにも納得ができる。少し例は違うが、Jovianは実際に窯出しされてすぐの作品を作家(同級生の父)がポイっとその場で投げ捨てるのを見たことがある。芸術家の美意識というのは、普通の人間とは異なるのである。その点でハルカが若竹修(の作品)と波長が合ったという事実が、ハルカは東京で没個性的に生きていたのだという背景情報を補足してくれている。Aを描くことでBを明らかにするという、大人の手法である。それにしても、この若竹修を演じた平山浩行には感じ入った。おそらく彼のキャリアの中でベストのパフォーマンスではないか。心の鎧を脱いだ瞬間に流す滂沱の涙は改悛の涙であり、子ども返りの涙であり、恐怖や不安から解放された安堵の涙でもあった。近年の邦画の男泣きの演技の中では白眉であろう。

 

そのハルカを陰に日向に支える人間国宝の榊陶人(笹山高史)も良い味を出している。イメージ的には金重陶陽か藤原啓だろうか。岡山弁もかなり練習しており、また作務衣が異常によく似合っている。ハルカにとっても修にとってもpositive male figureを体現しており、彼の存在が物語のリアリティを一段高めている。

 

ハルカが菊練りやろくろの実演に悪戦苦闘するところも好感が持てる。やってみれば分かるが、ろくろを回して形を作る時には、指の腹を使わないとあっという間に粘土がペラペラになってしまう。そのことを師匠の修や同世代の弟子練習から教わるのではなく、野良仕事に精を出す「宮本のおばあちゃん」なるキャラから間接的に教わる描写が秀逸である。一か所に集中するためには全体像を見なければならない。そうした気づきを直感ではなく、人との関わりから学ぶ様が心地よい。ハルカが妙な土ひねりの才能を発揮したりしないところが良いのである。そんなハルカだからこそ修や陶人、その他の備前焼作家の卵たちとの交流や衝突がリアルであり説得力を生んでいる。

 

小ネタだが、伊部小学校の校長室に過去の小学生の優秀作品が飾られているというのは確かにJovianも聞いたことがある。細かいところをしっかり取材しているのは素晴らしい。これは原作者のディスク・ふらい氏の取材力を褒めるべきか。また修が「備前焼は用の器」と言い切る言や良し。実際は茶器やマグには使えるし、一部の和食を盛り付ける平皿や大皿にも使えるが、直火や高熱に弱い、表面がざらついているのでパクついて食べるような料理には使いづらい。だが、直火に弱いところや釉薬を使うことなく表面が滑らかな備前を作ろうと奮闘する若い世代がいるのも事実。Jovianの同級生も若干名が新生面を切り拓こうと奮励している。若竹修というキャラクターに、そうした気概を見出すことができたし、小山ハルカというキャラクターにそうした未来を託せるような気がした。備前のことを肌で知っているJovianにこのように言わしめるのだから、本作品のクオリティは高いと判断してもらってよい。

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ネガティブ・サイド

残念ながら大きな粗もいくつかある。最大のものは時計の示す時刻。午前8:00前に車で飛び出した修が、駅についてみると11:15とはこれいかに。修の窯から伊部の駅は、車なら5分ほどのはずだが。撮影や編集の時点で誰も気づかなかったのか。ありえない。こういう時はCGで時計盤を修正してもよいのだ。

 

また伊部周辺の地理の描写がめちゃくちゃである。一部のブログ記事やレビューに、「伊部でロケをしていて、町並みの描写は実際のものに忠実」というような解説が見られるが、残念ながらかなりテキトーな記述であると言わざるを得ない。関西人に分かりやすく説明するとしたら、「ハルカは大阪から京都に行こうとした。大阪を出発したハルカはまずは新大阪に着き、そこから尼崎、伊丹を経て、高槻へ。高槻から交野を経て、京都に着いた」というような移動をしていたりする場面がある。ただ、これは地元民や地元をよく知る人間以外にはネガティブとはならないだろうが。

 

備前焼は「土と火と人が作る」というセリフが語られるが、土と火へのフォーカスが不足していると感じた。備前焼の材料となる土は粘土とも呼ばれ、伊部の田んぼだった土地の地下深くから掘り出されることが多い。小ネタになるが、山陽新幹線を新大阪―岡山間に通すとき、基礎工事で伊部の土を掘り返したとき、地元の住民はこれ幸いとばかりにその土を回収したと言われている。単なる土が黄金のような価値を持っているのである。そうした良質な粘土を生む土地、その元となる田んぼの描写が欲しかった。火も同様である。プロの作家はその目で炎の様子を見て、顔に水膨れを作りながら、窯の番をする人もいるのだ。炎の大きさや色合い、それによって生まれる熱風の流れ、だからこそ登り窯という独特の窯が生まれたのだという説明的な映像演出も欲しかった。

 

全体的にハルカ/奈緒にカメラが寄り過ぎであると感じた。奈緒というキャラクターも大切であるが、漫画という媒体では困難で、映画という媒体で可能なこと、色鮮やかに、さまざまな角度から、事物の変化を見せることである。土の粘り気や炎を揺らめき、小川の流れや田んぼ、畑、山などの土地や、備前焼の作品そのものを、もっと画面に映し出してほしかったと思う。

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Jovian所有の備前焼の一部

 

豆知識

店頭販売もしている窯元の人間は、若竹修とまではいかないが、不愛想な人間が多い。これは彼らは商売の売り上げの3割~5割を年に二日開催される備前焼祭りで稼ぐ、そしてもう3割~5割をお得意様相手の通販で稼ぐからである。畢竟、一見さんや旅行客にはぶっきらぼうになる。残念ながらこうした傾向は事実である。もしも備前を尋ねて「愛想がない人が多いな」と感じたら、「偏屈な職人だからしょうがない」と気持ちを切り替えて頂ければ幸いである。

 

本物の備前焼のとっくりは、あの程度では割れないし、折れない。

 

陶人の娘が苦悩しているのは非常にリアルである。Jovianの小学校の一つ上の学年には金重陶陽の親戚の孫にあたる生徒がいたようだが、彼は頑なに土ひねりはしなかったそうである。プレッシャーのためだろう。

 

『 哲人王 李登輝対話篇 』で少しだけ紹介した閑谷学校も本作では一瞬だけ映っている。瓦が全部備前焼で出来ているというユニークな特徴があるので、備前焼に興味のある向きは備前観光のついでに寄ってみても良いだろう。

 

備前焼は武骨な感じがしてちょっと・・・と敬遠する向きには播州赤穂の雲火焼きを紹介したい。備前焼が1000年の歴史を伝えるものなら、雲火焼きはここ数十年の間に“復活”した、現在進行形で進化中の陶器である。播州赤穂は塩と忠臣蔵だけの土地ではないのである(と、こっそり兵庫県もアピール)。

 

総評

備前焼をフィーチャーした作品というのは、この原作漫画以外にほとんど無いのではないか。せいぜい漫画『 美味しんぼ 』で2、3度取り上げられたぐらいだろう。そんなマイナーな文物を題材にした作品が映画化されるのだから、邦画の世界もまだまだ捨てたものではない。役者陣もなかなかに頑張ってくれている。土地や備前焼の周辺へのフォーカスが甘いと感じられるが、これはかなり厳しめの評価だと思っていただきたい。是非とも多くの人々に観て頂きたい作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

apprentice

「弟子」の意である。『 スター・ウォーズ 』世界におけるジェダイやシスは師=masterと弟子=apprenticeの関係が基本となっている。とにかく、弟子とくれば英語ではapprenticeが第一変換候補である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 奈緒, 平山浩行, 日本, 監督:末次成人, 笹野高史, 配給会社:ブロードメディア・スタジオLeave a Comment on 『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

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