ヘレディタリー/継承 50点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トニ・コレット アレックス・ウルフ ミリー・シャピロ アン・ダウド ガブリエル・バーン
監督:アリ・アスター
heredityという言葉がある。遺伝という意味で、よりなじみ深い英単語ならinheritが挙げられるだろう。ityがつくことで、性質や状態を意味する。身近な例としては、abilityやunity、facilityがある。これにさらに、aryをつけると、場所や範囲、領域を意味するようになる。好個の一例がdictionaryだろう。dictについては、predictやcontradictから類推は容易だ。原題も”Hereditary”であることから、誰かが何かを受け継いでいることを指すのは一目瞭然なのだが、誰かとは誰か、何かとは何であるのかを理解するのは一筋縄ではいかなかった。
あらすじ
その一家は祖母を亡くした。その娘のアニー(トニ・コレット)は母には複雑な感情を抱いていながらも、仕事のミニチュア・ハウス作りに没頭する。息子のピーター(アレックス・ウルフ)と娘のチャーリー(ミリー・シャピロ)も日常に回帰しようとするが、名状しがたい異様な空気を一家は振り払うことができず、ある夜、悲劇が発生してしまう・・・
ポジティブ・サイド
非常に珍しい Establishing Shot から始まる映画である。ミニチュアのドールハウスを映したかと思えば、その部屋の一つにどんどんズームインしていく。それがピーターの寝室とぴたりと重なるところで、父がピーターを実際に起こしに来る。のっけから唸らされた。今からあなたが観るのは、全て誰かが組み立てた話なのですよ、とあけっぴろげに語られたような気がしたからだ。そして、実際にその通りなのである。
何と言ってもチャーリーを演じたミリー・シャピロに拍手を送りたい。強面のジェイソン・クラークをそのまま性転換させ幼児化させたようで、メイクの力もあるだろうが、尋常ならざる雰囲気を見た目だけで醸し出している。天才肌のグレイス・マッケナとは一味違う、一種異様な空気を纏うことができる子役だ。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアのようなキャリアを歩まないことを切に願う。
アメリカのメジャーな映画の母親役はトニ・コレットかアリソン・ジャネイとでも決まっているのだろうか。ほんの少し前まで、邦画のきれいなおばあちゃんは吉永小百合、ちょっとエキセントリックなおばあちゃんは樹木希林だったように。本作では主演だけではなく製作総指揮も務めたとのことだが、おそらく鏡の前で相当に顔の筋肉を動かしてから撮影に臨んだに違いない。恐怖の演出のための表情が、コメディ一歩手前にまで到達してしまっている。トニ・コレットでなければギャグになってしまうところを、その存在感と卓抜した演技力で見事に場面を締め付けている。
顔芸ではピーターも負けてはいない。特に運転席のシーンでは、観ているこちらも冷や汗をかくというか、脂汗をかくというか、バックミラーを見て後ろを確認すると、そこには!という演出は、おそらく『 ジュラシック・パーク 』で一気にスパークし、今やクリシェと化したが、今作はバックミラーを覗きこみたくても覗きこめないという演出で観る者の不安と恐怖を掻き立てた。残念なのは、恐怖の描写ではこのシーンがピークだったことか。
ネガティブ・サイド
ホラーとは何か、については実に興味深い議論がある。Cinemassacreの二人(James RolfeとMike Matei)による Is it horror? という動画がある。議論の冒頭で“Horror is something that’s always changing and adapting to the state of the world”=「ホラーは常に変化して、世界の状態に適応していくもの」という指摘がなされるが、これは正しい。そして、その議論を援用するならば、ホラーの定義は地域によって異なってもよいはずだ。極めて日本的なバックグラウンドを持つ人が、この映画から感じ取る恐怖とは、視覚的な恐怖や聴覚的な恐怖であったり、家族の崩壊の恐怖であったりで、宗教的・哲学的な意味での恐怖を感じ取る人がいたとすれば、相当に鋭い感受性か、もしくは類まれな知識と教養の持ち主と思われる。この映画から後者の意味での恐怖を受けるとすれば、それは西洋文明に相当明るい人のはずだ。Jovianは平均よりも上の知識をその方面に有していると自負しているが、正直なところ、家族の崩壊以上の意味を感じ取ることは難しかった。最後の最後の場面で諸々の伏線、前振りが回収されていく様は見事であったが、それはホラーといよりもサスペンスやスリラーであるように感じられた。
ホラー=恐怖とは、理不尽なもの、理屈が通じない状況から生まれるものだろう。しかし、本作の悲劇の始まりは、チャーリーがある行動を取ったから、という実に他愛のないものだった。隠す意味もないのだが、その行動とは「ケーキを食べる」である。もう、これだけでホラーの要素が薄まってしまうだろう。もちろん、その後の悲劇は本当に悲劇としか言いようがないのだが、その過程で観る者が感じるのはサスペンスであってホラーではない。これは西洋人であろうと東洋人であろうと同じだと考えられる。
本作は『 ローズマリーの赤ちゃん 』になろうとして、しかし『 タロス・ザ・マミー/呪いの封印 』になってしまった、と言えば通じるだろうか。誰がどう見ても怖い作品を作ろうとして、謎解き要素が強めの作品が出来上がったという感じである。同工異曲でもっと怖い作品を観たいという人は、『 ウィッチ 』を観よう。色々と腑に落ちた点をしっかりと頭に叩き込んでもう一度劇場に向かえば異なる感想を持つ可能性は高いが、残念ながらその予定はない。
総評
おそらく評価が真っ二つに分かれる作品である。恐ろしさを感じる人は感じるだろうし、スリルやサスペンス、またはミステリー要素を感じ取る人も相当数いると思われる。ホラーというものは常に現実に即しながら、必ず現実をはみ出た部分を持っている。どの方向にどの程度はみ出るかによって、どのような人にどの程度の恐怖感を催させるかが決定されるわけだ。そうした意味では、観る人を選ぶ作品である。もしもトニ・コレットのファンならば、即、劇場へGO!! である。イヤミス好きという人にもお勧めできる。