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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 KESARI ケサリ 21人の勇者たち 』 -トンデモ史実のトンデモ映像化-

Posted on 2019年12月15日2019年12月19日 by cool-jupiter
『 KESARI ケサリ 21人の勇者たち 』 -トンデモ史実のトンデモ映像化-

KESARI ケサリ 21人の勇者たち 65点
2019年12月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アクシャイ・クマール
監督:アヌラーグ・シン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191215125349j:plain

インド映画を鑑賞する時、たまには頭を空っぽにして『 バーフバリ 』のようなアクションを楽しんでみたいと思う。なので近所のTSUTAYAで本作をピックアウト。真面目に鑑賞してもそれなりに面白く、アクションだけに注目しても、まあまあ面白い作品であった。

 

あらすじ

1897年、英国領インドの北方、パキスタンとアフガニスタンとの国境地帯。イシャル・シン(アクシャイ・クマール)はイスラム教徒パシュトゥーン人の女性への蛮行を見逃せず、命令違反を犯してその女性を救う。そのため僻地の通信基地、サラガリ砦に左遷されてしまう。そこには通信兵21名と調理人1名のみが配属されていた。一方で、パシュトゥーン人は他部族と連合を組み、1万人規模でのインド侵攻を目論んでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

21対10,000という荒唐無稽な史実の戦闘に目をつけたのは面白い。日本で言うならば桶狭間の戦いや立花道雪vs島津および北九州豪族連合軍、それらよりもさらに酷い数的不利での戦いである。つまり結末は見えている。後はどう料理するかである。その意味では、いくらでもドラマチックな演出を施すことができる。本作はボリウッドらしく、荒唐無稽なバトルアクションを練り上げた。

 

まず、砦に立てこもる。当たり前である。そして手当たり次第に迫り来る敵を撃つ。戦略も戦術も作戦も、この規模の数的不利では意味を成さない。撃って撃って撃ちまくるしかない。下手に小賢しい作戦を用いない分、シク教徒の矜持が素直に表れていて分かりやすい。パシュトゥーン人も、作戦らしい作戦もなく烏合の衆が、バタバタと倒れていく。アホである。痛快である。まるで『 スター・ウォーズ 』世界のトルーパーの如しである。それでも彼我の戦力差はいかんともしがたく、ついに門扉は破られる。

 

あの時代、あの地域では近接戦闘では銃器を使わないという暗黙のルールがあるのか、ここからは手持ちの獲物でのバトル・シークエンスに突入する。ここでのアクシャイ・クマール演じるイシャル・シンのアクションは、『 マトリックス 』的であり、ゲームの『 三国無双 』や『 戦国無双 』的であり、韓国映画的でもある。特に高くジャンプしてからの回転切りは韓国ドラマや韓国映画で何千何万回と見たアクションである。これについては、 

1.韓国映画がインド映画を真似ている
2.インド映画が韓国映画を真似ている
3.コレオグラファーが共通の学びの土台を持っている
4.偶然の一致である

などが考えられる。インド人の一番の留学先はやはり英国らしいが、韓国人はソウル大学以外のどこで映画や演劇を学ぶのだろうか。それともソウル大学の教授陣が英国などで学んだ背景があるのだろうか。本作を観ながら、そのような比較文化論も考えてしまった。つまりは、日本のゲームや韓国映画的なデタラメなパワーを、インド映画もやはり持っているということである。『 散り椿 』や『 居眠り磐音 』のような、正統的な剣術も悪くないが、『るろうに剣心 京都大火編 』の左之助vs安慈のようなクレイジーなバトルを邦画でもっと見てみたい。そんなふうにも思わされた。

 

イシャルの人間造形も良い。自らの信念を軍の規律よりも優先し、良き家庭人であり、良き地域人であり、厳しい上官であり、部下への思いやりも持ち合わせている。砦では仏頂面を通しているが、ユーモアを解する心もある。そして敵と味方を人道的に区別できる。つまりはヒーローなのである。これが『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』その人である。このような男になってみたい。

 

少人数で拠点に立てこもるというと、本能寺の変の際の二条城が思い出される。掘りもあって、武家御城とも称され、武器弾薬もたんまりあったであろう二条城に500人が籠城したにもかかわらず、明智勢1万数千の前に一時間で陥落させられたという史実(?)のシミュレーションを本作を通じて行ってみるのも面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

中盤から終盤にかけてのバトルシーンに比して、序盤のイシャルとパシュトゥーン人との闘いは迫力を欠いていた。冒頭の非常に説明的なナレーションと図示的な映像から、さらにインド、ロシア、英連邦なども絡んでの国際情勢と国境の云々を語って、いきなり観る側の眠気を誘うのだから、それを吹っ飛ばすだけの迫力を伴ったアクションが欲しかった。正直なところ、この冒頭のバトルでは近接での殴り合いやチャンバラにスピードやパワーが不足していた。

 

終盤のバトルでも、いくつか不自然な編集が目に付いた。最も残念だったのは背中から出血しているイシャルの格闘シーン。衣服にまだ赤い血がへばりついているショットと、土ぼこりや泥と混じり合った血が完全に乾いているショットが混在していた。デパルマ・タッチやブレット・タイムで撮影しているものだから、余計にそうしたおかしな点が目立つ。これは非常に大きな減点材料である。

 

イシャルは倒れた敵兵は敵兵ではないという慈悲の哲学に忠実であり、ジュネーブ条約の定める傷病者取り扱いの体現者でもある。その一方で、捕虜の取り扱いに関して信じられないほど非人道的な行為も行っている。これは史実なのだろうか。それとも映画オリジナルの演出なのだろうか。いずれにしろ、Jovianはこれを見て『 ハクソー・リッジ 』のデズモンドと日本兵を思い起こした。いくら戦争とはいえ、やってはいけないこともあるはずだ。これによってイシャルのヒロイズムがいくぶん弱められている。

 

21人の兵士が勲章を贈られ、顕彰されたのは当然であるが、サラガリの戦いの英語版のWikipedia記事によると、one civilian employeeがいたということである。これが料理長かどうかの記述はなかったが、デズモンド・ドス的な活躍を見せた彼にも、エンドクレジットで何らかの言及が欲しかった。

 

総評

インドという国の中だけでも複数の民族、複数の言語、複数の宗教が混在しているのに、そこに更に植民地と属国の関係と他国の他部族、他宗教勢力、さらに国境線も絡めたストーリーというのは、極東の島国の我々にはもはり理解不能である。史実や国際政治、紛争史を学ぼうなどという心構えは一切不要である。単純にボリウッドアクションを楽しむか、という気持ちで鑑賞するのが正しい態度である。これは英雄譚であって、ドキュメンタリー的な何かを期待してはいけない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話

Cock-a-doodle-doo.

鶏の鳴き声、コケッコッコーの英語である。ここからcookという動詞を聴きとるのは、確かに難しいことではない。Cookという動詞とバトルに無理やり関連を見出すなら、俳優のドウェイン・“ザ・ロック”・ジョンソンのWWE(WWFと言うべきか)の“If you smell what the Rock is cooking!”を知っていれば、アメリカのオールドプロレスファンと話す時に盛り上がれるかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクシャイ・クマール, アクション, インド, 歴史, 監督:アヌラーグ・シン, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 KESARI ケサリ 21人の勇者たち 』 -トンデモ史実のトンデモ映像化-

『 屍人荘の殺人(映画) 』 -原作をさらにライトに仕上げた映像作品-

Posted on 2019年12月15日2020年4月20日 by cool-jupiter

屍人荘の殺人 50点
2019年12月14日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:神木隆之介 浜辺美波 中村倫也
監督:木村ひさし

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『 屍人荘の殺人(小説) 』の映画化である。しかし、原作小説の忠実な映像化ではなく、一応ちょっとした変化を織り交ぜている。なので原作を読んだ人も、興味があれば映画館に足を運んでもよいだろう。それなりに面白い出来に仕上がっている。

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あらすじ

大学のミステリ愛好会の明智恭介(中村倫也)と葉村譲(神木隆之介)は、同じ大学の探偵少女・剣崎比留子(浜辺美波)の誘いで、ロックフェス研究会の夏合宿に参加することとなった。宿泊先は紫湛荘。しかし、その別荘が屍人荘に変貌。外部の人間も数人交えて閉じこもるメンバーたち。そこで密室殺人が起きてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

『 センセイ君主 』で強く感じたことだが、浜辺美波の真骨頂はコメディエンヌを演じることかもしれない。本作でも非常に理知的な探偵を演じながらも、本質的には普通のお茶目なところもある女子大生になれていた。

 

中村倫也は顔芸で、神木隆之介も心の声でコメディを盛り上げる。特にサノスばりの指パッチンは明智恭介というキャラの切れ者ぶりと間抜けっぷりの両方を描き出す効果的な演出となった。言わずと知れた明智小五郎の明智の名前を冠しているだけあり、高等遊民の雰囲気を醸し出している。そしてワトソン役の葉村は、心の声がダダ漏れの、ある意味では非常に等身大のミステリ愛好会員であった。ミステリの世界に浸り過ぎたせいで、可愛いあの子との距離の縮め方が分からないという、『 桐島、部活やめるってよ 』で橋本愛にドギマギしていたあの姿が思い起こされた。

 

原作小説からのキャラも、映画オリジナルのキャラも、本作ではとにかくユーモアを前面に押し出している。それはやはりとある「舞台装置」とのバランスの為なのだが、それが効果的に機能している要因に、昨年公開の邦画『 カメラを止めるな! 』が挙げられる。また韓国映画の『新感染 ファイナル・エクスプレス 』や『 ゾンビランド:ダブルタップ 』など、このジャンルは常に新しいアイデアが投入されるものだ。ここでもどういうわけか、とあるプロレスラーが参戦してくる。非常に滑稽であり、恐怖でもある。その比率は9:1で、もちろん滑稽が9で恐怖が1である。そこかしこで笑えるのが本作の大いなる特徴である。

 

グロいはずの描写もレントゲン写真的に処理され、グロ耐性の無い人への配慮がされている。これはありがたい。おかげでデートムービーに使うこともできる。推理を楽しみたいという向きにも、それなりにフェアな材料提示がされている。ライトなミステリ好きにとってもそこそこ楽しめるように作られている。

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ネガティブ・サイド

原作小説もそうであったが、ハードコアなミステリファンを唸らせるような出来にはなっていない。序盤でこれ見よがしに、とある人物の不在をアピールしたり、マスターキーを濫用したりと、少々過剰サービスとも思える描写や演出が気になった。また原作にはない明智の台詞、「事件はまだ起きてはいないが、犯人は分かった」という台詞は、原作を読んだ者にとっては完全なるノイズである。原作未読者でも、すれっからしの人であれば、すぐにピンと来たことだろう。ライトなファンへの配慮かもしれないが、ハードなファンには雑音である。このあたりのバランス感覚にもう少し敏感になることが木村ひさし監督には求められる。

 

また、ギャグの面で滑っているものもあった。「迷宮太郎」はその最たるものだろう。キャラクターにしても、原作ではマニアか学者かというキャラが、映画では『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』を鑑賞しながらニヤニヤしているだけ。また、このキャラの分析によって推理が進み、またサスペンスも生まれるのだが、そうした要素をほぼ全カット。ユーモアを前面に押し出してきたのは、サスペンス路線を放棄したからだという見方も成り立つ。事実、本作の「舞台装置」に対してのキャラクター達の対策はお粗末もいいところである。

 

また映画オリジナルの要素に関しては、現実的な感覚が欠けている。一番に思うのは、「スマホの画面ロックをしないのか?」である。この映画の一番の客層あたりは、この点だけで真相はともかくも犯人を当ててしまってもおかしくない。

 

原作にあったちょっとしたお色気どぎまぎ要素をキスに置き換えているにもかかわらず、肝心のキスシーンもなし。そこは比留子に大真面目な顔で『 覚悟はいいかそこの女子。 』の小池徹平と同じで投げキッスさせれば良かったのだ。そういうサービスシーンすら思いつかなかったのか。

 

最終盤に明智と比留子が再対決。そんなアホな。原作のマイナス要素だったシリーズ化への野望が、映画本編ではかなり薄まっていたにもかかわらず、ここでそれをやるか?しかも、自分が葉村ならば、この展開で比留子についていこうとは決して思わないだろう。続編(『魔眼の匣の殺人 』)も映画化するなら、少なくとも監督は変えてもらいたい。

 

総評 

浜辺と神木の掛け合いを楽しむ作品である。推理についてはライトなファン向け、○○○要素についてもライトなファン(このジャンルにそんな層が存在するのか疑問だが)向け。結局のところ、高校生や大学生カップルが一番の客層になるだろうか。悪い作品ではない。しかし手放しで褒められる作品でもない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話

Awesome!

劇中の「すごい!」である。ただし、Awesomeは「すごい」、「素晴らしい」といった意味以外にも、リアクションで使われることも多い。

A: Can you get this job done by the end of the day?

B: Sure. No problem.

A: Awesome.

などのようにも使える。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, コメディ, ミステリ, 中村倫也, 日本, 浜辺美波, 監督:木村ひさし, 神木隆之介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 屍人荘の殺人(映画) 』 -原作をさらにライトに仕上げた映像作品-

『 ひとよ 』 -家族の崩壊と再生の物語-

Posted on 2019年12月13日2020年4月20日 by cool-jupiter

ひとよ 75点
2019年12月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:田中裕子 鈴木亮平 佐藤健 松岡茉優
監督:白石和彌

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『 凶悪 』や『 彼女がその名を知らない鳥たち 』、『 孤狼の血 』など、作品ごとに日常と非日常の境目(それは多くの場合、犯罪である)を描いてきた白石和彌監督であるが、今作では家族と非家族、あるいは家族と疑似家族の境目を映し出そうとしている。やっと劇場鑑賞できたが、なかなかに刺激的な作品であった。

 

あらすじ

稲村こはる(田中裕子)は、家族に暴力を振るう夫を自身のタクシーで轢き殺し、刑務所へ。残された長男の大樹(鈴木亮平)、次男の雄二(佐藤健)、長女の園子(松岡茉優)はDVから解放されたが、周囲の偏見と圧力に耐えて生きてきた。そして15年。その母が帰ってきた。子どもたちは母の受け入れに戸惑い・・・

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ポジティブ・サイド

日本の少子化の背景には、生涯未婚率の上昇がある。さらに離婚率も33%ほどもあるそうだ。つまり、家族が新しく生み出される機会そのものが減少し、なおかつ家族の崩壊(というと少しドラマチック過ぎるか)も進行中ということである。また乳幼児の虐待のニュースも定期的にメディアをにぎわせる。家族観は確実に変化しつつある。本作はその点を改めて問い直している。

 

罪を憎んで人を憎まずと言うが、このようなことわざが存在するということは、取りも直さず我々は罪を憎んで人をも憎むことが往々にしてあることを示唆している。警句が存在するのは、そうすることが望ましくとも、そうすることが難しいからである。罪を犯した人間だけではなく、その親類縁者まで攻撃するのは東北アジア、特に日本の地方に根強く残る慣習のようである。そのことは『 影踏み 』でも描かれていたし、今作でも同様である。奇しくもどちらも“北”関東。東京の人間に言わせれば、“南”東北である。

 

家族の一員の犯した罪のせいで、残された家族が被る被害は誰の責になるのか。一度そのようにして壊れた家族は再生可能なのか。そのような家族の出の者は幸せな家族を作ることができるのか。この点は『 友罪 』でも問われていた。Jovianは家族が殺人者でも、その家族の一員には新たな家庭を築く権利はあると考える。同じ轍は踏まないとの決意があることが条件になると思うが。本作では鈴木亮平演じる長男・大樹が、この問いに真正面からぶつかった。その中盤のシークエンスは、人によっては怒りに震え、人によっては悲痛の涙を流すことだろう。Jovianは大樹の言動に怒りを覚えた。Jovianの隣に座っておられたシニアの女性の方々は嗚咽を漏らしておられた。家族というものは難しい。それが呪縛になることがあるからである。

 

子どもたちの中で、しかし、最も印象に残ったのは松岡茉優の園子である。ひたすらにネガティブな兄二人とは対照的に、帰ってきた母に愛情を与える。『 “隠れビッチ”やってました。 』よりも、よほど健全なビッチになっていたが、それによりDVの父親に育てられると何故かDV男に惹かれてしまうという因果を上手く表現できていた。『 スリー・ビルボード 』のミルドレッド並みの口の悪さでありながら、そのうちに秘めた愛情への狂おしいまでの飢餓は、個人的には本作のハイライトだった。園子の胎内回帰願望が成就するシーンで、不覚にもJovianは涙した。

 

田中裕子は遂に『 二十四の瞳 』を超えたのかもしれない。TVドラマ『 おしん 』をリアルタイムで鑑賞していない世代としては、この御方はどちらかというと縁の下の力持ち的な役者だった。だが、ここにきて遂に代表作を送り出してきたと言える。まるで『 セッション 』のJ・K・シモンズのようである。酸いも甘いも噛み分けた、ではなく酸いしか噛みしめてこなかったような女性。その弱さと強さを同居させた圧倒的な存在感は、邦画もまだまだ捨てたものではないと思わせてくれた。

 

また、今作の子役たちの演技も堂に入ったものである。少女漫画の映画化に出てくるアイドル的な役者とは違い、しっかりとした演技になっている。このような子役らをしっかり育てていかないと、韓国映画やインド映画には勝てない。業界は頑張って欲しい。

 

ネガティブ・サイド

雄二の言う「飯のネタ」とは何なのだ。「飯の種」ではないのか。エロ本の記者でも、それぐらい語彙は正しく使ってほしいと思うが、小説家志望だという。それでこの誤用は戴けない。喝である。だが、直近でも『 屍人荘の殺人(小説) 』でも「断然」と「俄然」が堂々と間違えられていたりするので、日本語の乱れはいよいよ激しくなり過ぎて、もはや誤用が誤用ではなくなっているのかもしれない。憂うべきことである。

 

また、序盤にタクシーのルーフ視点でのショットがあったが、これはなかなか新鮮だった。惜しむらくは、終盤のアクションシーンでも、このようないつもと異なる視点からの撮影ではなかったことだ。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3 』でも、時速100km/h超の機関車走行を、線路下から見上げるようなショットで、スピードを上手くごまかすシーンがあった。最後のシーンはおそらく時速10数キロといったところだろう。運転席や車内からの視点だと、スピードの見当が一瞬でついてしまう。別視点、別角度からの撮影はできなかったのかだろうか。やや興醒めするシーンでもあった。また、個々のタクシーと本部の無線の使い方が非常に巧みだったが、最後の韓英恵こそ、無線をちゃんと使ってほしかった。そこからでも三兄弟出撃という流れは作れたはずである。

 

総評

白石監督は、家族というものに今作はとことんこだわったようである。泣く泣く割愛させてもらったが、筒井真理子や佐々木蔵之介のキャラクターにも、現代社会の闇が宿っている。決してハッピーエンドではないが、しかし重く苦しい空気の中にも希望が見出せる作品である。今年の邦画の中ではトップテンに入るだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

And you’re a fucking part of it!

佐藤健がいう「外から見てみろ、この家族、狂ってんぞ」に対して松岡茉優が「テメーもその一人だよ!」と返す台詞の私訳である。日本語には多種多様な一人称(わたし、僕、吾輩、拙者、小生etc)や二人称(あなた、きみ、貴様etc)が存在するが、英語にはRoyaltyを除けば、IとYouしか存在しない。「テメー」という強い意味を出すには、上のようなFワードが最適解である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 佐藤健, 日本, 松岡茉優, 田中裕子, 監督:白石和彌, 配給会社:日活, 鈴木亮平Leave a Comment on 『 ひとよ 』 -家族の崩壊と再生の物語-

『 パターソン 』 -平凡な男の平凡な日々が輝く-

Posted on 2019年12月12日 by cool-jupiter

パターソン 75点
2019年12月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アダム・ドライバー ゴルシフテ・ファラハニ ネリー
監督:ジム・ジャームッシュ

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『 マリッジ・ストーリー 』が傑作だったので、アダム・ドライバー作品をさらに渉猟。こちらも良作。映画らしくない映画だが、そこが映画らしいと思えるのはエンターテイナーというよりはアーティストであるジャームッシュの持ち味か。

 

あらすじ

 

バスの運転手のパターソン(アダム・ドライバー)は愛妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)と愛犬マーヴィン(ネリー)と暮らしていた。バスの運転手と変わり映えのしない毎日を送るパターソン。しかし、彼は詩を読むことが日課だった。ある朝、ローラは双子を身ごもった夢の話を語る。その時からパターソンの目には街の様々な双子が映るようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

なんという平々凡々とした日々の繰り返しだろうか。それ自体は映画に限らず、様々な物語の導入部として充分に機能する。しかし、本作は最初から最後まで、ほとんどがパターソンの日常を描写するのみ。それが不思議な心地好さを生み出す。物語には事件がつきものである。そして、主人公は往々にして事件に巻き込まれるか、主人公の持つ背景がその事故の遠因になっているものだ。そうした映画的、物語的文法は本作には存在しない。まるで自分の日常であるかのように、彼の仕事ぶりや家庭人としての姿にリアリティが感じられる。パターソンという男の平穏無事な日常、そこにあるちょっとしたアクセントを存分に観察して堪能してほしい。

 

それにしてもアダム・ドライバーという男は稀有な存在である。大柄できわめて個性的な顔立ちをしていながらも、どんな役にもハマる。『 スター・ウォーズ 』でのカイロ・レンも良いし、『 ブラック・クランズマン 』での警察官役もクールにこなし、『 もしも君に恋したら。 』の悪友役も魅力的だった。本作でも、仕事をきっちりこなし、近所のバーで毎晩一杯やり、バーテンダーや常連客とちょっとした会話をし、妻を抱いて眠り、妻を抱きながら目覚め、白河夜船の妻にキスをする、そんな至って普通の男をこれ以上ないリアリティで演じた。まるで特徴のない男にすら思えるが、さにあらず。彼には詩人としての顔がある。Jovianには詩の何たるかを語る能力が不足しているので、例を二つ引きたい。漫画『 蒼天航路 』で夏侯惇が「こういう日にゃ詩才のないのが腹立たしくなる」とぼやくと、曹操が「続けろ、もう少しで詩になる」と促す。つまりはそういうことである。もう一つの例は詩人ジェームズ・ライトの“It goes without saying that a fine short poem can have the resonance and depth of an entire novel.”という言葉である。「洗練された短い詩一篇には小説一冊分の響きと深みが宿りうるということは言うまでもない」のである。パターソンが書きつける詩の言葉の一つひとつが、変わり映えしない日常の中のアクセントなのである。

 

妻ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニもとても愛らしい雰囲気を醸し出している。手作りカップケーキがマーケットで売れたことで大喜びし、その臨時収入で夫とディナーをして白黒映画を観に行く。子どものいない夫婦であれば、特に珍しい光景ではない。しかし、そうした外出を心から喜び、楽しみ、夫に感謝し、人生を謳歌する様を見て、我々アホな男連中は「愛」という感情、そして「結婚」という因習の重みと意義を知るのである。『 ファウスト 』の「時よ止まれ、お前は美しい」ではないが、一つひとつの瞬間に有りがたみを感じられれば、それは素晴らしい人生であり、人間関係なのだ。フーテンの寅さんの言葉を借りれば、「なんて言うかなあ、ほら・・・、はあ、生まれきてよかったなって思うことが、なんべんかあるじゃない。ねえ、そのために人間、生きてんじゃないのか?」である。そうした心構えを実践し、こちらもそうした気分にさせてくれるローラは、妻の鑑である。

 

だが何と言っても、本作を最も輝かせているのはマーヴィンを演じたブルドッグのネリーである。TVドラマ『 まだ結婚できない男 』のタツオには悪いが、演技者としては月とすっぽんである。もちろん、ネリーが月でタツオがすっぽんである。それほど、この犬の演技は本作ではずば抜けている。終盤になって大事件を引き起こしてくれるが、そこに至るまでにも数々の名演技を披露する。特にイスの上から「何だ、テメー、この野郎」的にパターソンを見つめる様は、目の演技としては『 ジョーカー 』のJ・フェニックスに次ぐものであると感じた。

 

終盤、唐突に日本人が登場する。彼とパターソンが交わす言葉、彼がパターソンに贈るものの意味を考えてみよう。パターソンの生活は、一歩間違えればスティーブン・キングが『 ドリームキャッチャー 』で言うところの“SSDD, same shit, different day(日は変わっても同じクソ)”なのである。そうした日々が輝くのは何故か。それは彼が詩人だからである。なんと清々しい物語であることか!!!

 

ネガティブ・サイド

双子以外にも、カップケーキやギターなど、愛妻ローラの言葉を媒介に、パターソンが世界を観察する目を変えていく描写が欲しかったと思うのは贅沢だろうか。それは描かれなかった二週目、三週目の物語だろうか。

 

後は、パターソンがあまりにも普通の男過ぎて、映画に彩り、色が足りなかった。別の女性に話しかけてみたいという欲求があるのなら、それを試してみればよかったのだ。その上で、妻との会話や触れあいでしか得られない満足感や充足感があるのだということを、ほんのちょっと、本当に些細な出来事を通して描くことはできなかったか。しかし、このあたりの塩梅は実に難しい。それをひとつのイベントにしてしまうと物語世界全体のトーンが崩れる。かといって、そうした要素を極限まで排してしまうと観客が眠気を催す。だが、トライをしてみて欲しかったと思うのである。パターソンは、全ての平凡な男の象徴なのだから。

 

総評

アダム・ドライバーという役者のキャリア的には『 マリッジ・ストーリー 』と鮮やかなコントラストを成している作品である。どちらも傑作である。しかし、雨の日の室内デートでの鑑賞にはおそらく耐えられない。既婚で子どもなしという夫婦で鑑賞してみてほしい。いや、むしろTHE虎舞竜の『 ロード 』をカラオケで歌って、一人たそがれるようなオッサンにこそ観て欲しいと思える作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Speak of the devil.

「噂をすれば影」の意である。バーのとあるシーンで、女性が呟く一言である。ちなみに中国語では「说曹操,曹操就到」、「曹操の噂をすれば、曹操がやって来る」と言うようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, ゴルシフテ・ファラハニ, ヒューマンドラマ, 監督:ジム・ジャームッシュ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 パターソン 』 -平凡な男の平凡な日々が輝く-

『 ルパン三世 THE FIRST 』 -Lupin is back in action!-

Posted on 2019年12月11日2020年4月20日 by cool-jupiter

ルパン三世 THE FIRST 65点
2019年12月8日 東宝シネマズなんばMX4Dにて鑑賞
出演:栗田貫一 小林清志 浪川大輔 沢城みゆき 山寺宏一 吉田鋼太郎 藤原竜也 広瀬すず
監督:山崎貴

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フランスのアルセーヌ・ルパンに、日本の和のテイストと鼠小僧のエッセンスを加えてルパン三世が帰ってきた。小栗旬バージョンの実写はどのキャストも頑張っていたものの、峰不二子役の黒木メイサが残念ながらノイズだった。ならばと3DCGアニメでルパンたちを蘇らせた。この判断は正解である。『 ドラゴン・クエスト ユア・ストーリー 』の傷も少しは癒された。

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あらすじ

時は第二次大戦。稀代の考古学者ブレッソンは、ある宝のありかを示した日記、“ブレッソン・ダイアリー”をナチスに狙われていた。時は流れ、パリにてお披露目されるそのダイアリーをルパン三世(栗田貫一)が狙って現れる。レティシア(広瀬すず)という考古学者の卵の少女と共に、ルパンは宝の謎解きに乗り出すが・・・

 

ポジティブ・サイド

ルパン三世とは何か。それは大泥棒にして義賊、犯罪者にして正義漢、破廉恥にして紳士、そうした非常に矛盾に満ちたキャラクターである。かかる複雑な属性がルパンの大いなる魅力になっていて、そのことは本作でもいかんなく発揮されている。例えば不二子に対しては「報酬は俺の体で」と下品なオファーをする一方で、レティシアには「いい女になれ」と優しく諭す。元々の漫画では、割とすぐにすっぽんぽんになって不二子に襲いかかっていたが、一般大衆アニメになるにつれて、そうしたエロ要素が薄れてきた。本作はルパンのそうしたスケベ属性を残している。山崎監督のルパン三世へのリスペクトは本物だと思える。

 

他のキャラも立っている。常にルパンに先んじて、しかし途中でルパン一味に合流しながらも、最後には美味しいところを奪っていく峰不二子。今回はつまらないものを斬らずに、斬るべきものを一刀両断に斬る石川五ェ門。超絶ドライブ・テクニックと超絶射撃テクニックを披露する次元大介。そして、おそらくララ・クロフトよりも強くてセクシーな峰不二子。まさに役者がそろっている。彼ら彼女らが生き生きと銀幕上を動くだけで、実に楽しく感じられる。

 

ストーリーも悪くない。ナチス第三帝国の復活ネタは古くは小説では『 ブラジルから来た少年 』、近年の映画でも『 アイアン・スカイ 』や『 帰ってきたヒトラー 』など、いつの時代でも掘り起こされるテーマだ。それこそ、ヒムラーやゲッベルスが映画化される日も近いはずである。また戦後70数年になんなんとする今、ナチス・ドイツは日本の若い世代にはファンタジー的な存在になりつつもある。そうした世界でルパンという架空のキャラクターを活躍させることで、かえってリアリティを増しているようにすら感じられた。

 

ストーリーはテンポよく進むし、スリルとサスペンスとユーモアの配分も見事である。ルパン三世とその仲間たちは見事に復活したと言えるだろう。なによりも名曲“ルパン三世のテーマ”が流れてくるだけで、少年時代が蘇ってくる。“ゴジラのテーマ”や“ロッキーのテーマ”と並んで、それが聞こえてくるだけで物語世界に一気に引き込まれるように感じる。THE FIRSTと副題にあることから、THE SECONDやTHE THIRDへの期待もふくらむ。

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ネガティブ・サイド

アクションシーンやプロットのあまりにも多くの部分がクリシェである。クリシェという言葉が辛辣に過ぎるなら、過去の名作へのオマージュが多過ぎると言い換えればよいだろうか。パッと思い浮かぶだけでも

 

映画『 インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 』

映画『 ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 』

映画『 ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 』

映画『 天空の城ラピュタ 』

映画『 ルパン三世 』(実写版)

TVアニメ『 未来少年コナン 』

TVアニメ『 ふしぎの海のナディア 』

 

などが挙げられる。特にお宝の封印は、びっくりするほど『 インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 』のそれにそっくりである。正直なところ、本作にはオリジナリティは認められない。

 

またヒロインであるレティシアの年齢はいったいどうなっているのだ?物語冒頭では赤ん坊で、その後十年だか十二年が経過したところで、美術館のキュレーター的ポジションについているというのか。大学への進学を夢にしているところからも10代後半であると思われるが、それでもやはりこのヒロインは年齢不詳である。

 

総評

個人的にはアクションに胸が躍り、ユーモアには笑顔にさせられたが、ストーリーそのものには驚きはなかった。劇場鑑賞後、Jovianの嫁さんは「サイコー!」と言っていた。そこまで良かったか?と思ったが、同じく観客にいた6人組アラサー女子たちが滂沱の涙を流しながら、シアター内でも劇場ロビーでも称賛の言葉を次々に述べていた。観る人によって異なる感想を抱くということの好例である。ルパン三世のファンであってもそうでなくても、チケット代に見合うエンターテインメント作品にはなっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

If you are an archaeologist, you have got to be a romanticist.

レティシアの「考古学者ならロマンチストじゃないと」という台詞である。ロマンチストは英語ではromanticist=ロマンティシストである。このように一般論を語る時は、しばしば主語をyouに設定するのが英語の特徴である。Jovianがアメリカ人の友人から聞いたこれと同じ構文として“If you don’t know about Harriet Tubman, you are not American.”というものがある。ここでは彼はyouを使ったが、これがJovianを指すものではないことは明らかである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アドベンチャー, ミステリ, 小林清志, 広瀬すず, 日本, 栗田貫一, 浪川大輔, 監督:山崎貴, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ルパン三世 THE FIRST 』 -Lupin is back in action!-

『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

Posted on 2019年12月9日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

“隠れビッチ”やってました。 40点
2019年12月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐久間由衣 森山未來
監督:三木康一郎

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三木康一郎監督は、平凡な作品を量産するという印象を持っている。ただし、時々『 旅猫リポート 』のような駄作も作るので、楽観はできない。本作はどうか。可もなく不可もない・・・というより、可もあるが不可もあるという作品である。

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あらすじ

ゲイのコジとヤリマンのアヤの3人でシェアハウスに暮らす荒井ひろみ(佐久間由衣)は、男を自分に惚れさせては、付き合うことなく袖にするという自称“ビッチ”。しかし、ある日、勤め先のデパートのアルバイトの男子に恋心のようなものが芽生えて・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の佐久間由衣と同居しているコジ役の村上虹郎とアヤ役の大後寿々花が印象的な演技をしてくれた。女性二人と同居している男性というのは、それだけで奇異に感じるが、登場した瞬間から「ああ、このタイプの人間なのか」と腹にストンと落ちる。それだけ表情、身のこなし、仕草、声の出し方に話し方、そして偏見とも取られかねないが、その家事家政能力の高さから、三人の中で最も女性的である。より正確に言えば最も姐御肌である。コジの存在が、この奇妙な三人組の関係と生活を引き締めている。

 

アヤも良い。彼女のような女性の方が、主役のピロよりも遥かに共感できる。寂しさを紛らわせるために肌と肌を合わせるというのは、ごくごく自然なことだ。体と体がつながって、それから先にある心と心のつながりを求めるというのも、ごくごく自然なことだ。これが高校生ぐらいだと、互いの心がある程度充分に惹かれ合っているということが望ましいが、社会的に自立した大人(それが必ずしも精神的に自立した大人であるとは限らない)であれば多少の手順前後は構わない。『 シンクロナイズドモンスター 』のアン・ハサウェイが良い例である。

 

三沢さんを演じた森山未來は、ある程度アヤとの共通点が認められる。線路脇でいきなりとある行動に出るわけだが、Jovianは劇場で思わずガッツポーズをしそうになった。自分ならこうするだろうな、という行動をまさに彼が体現してくれたからである。気弱そうに見えるが、自分の弱さや負い目をさらけ出せる人間というのは、それだけで強い人間である。彼には“逃げた”過去があり、ひろみからも逃げそうになる。そこで条件付きながら踏み止まったのには拍手喝采である。なぜなら、Jovianは似たようなシチュエーションで逃げ出したことがあるからである・・・。三沢さん、幸せになってくれ・・・。

 

ネガティブ・サイド

佐久間由衣は悪い演技をしていたわけではないが、では良い演技だったかと問われれば、答えに窮してしまう。ただ単にでかい声を出せばいいわけではないし、鼻をほじほじすればガサツな印象を生み出せるわけでもない。公園で大声を出して木に話しかければ酔っ払いに見えるわけでもない。全てが演技臭い演技で、見ていて全く自然体に感じられなかった。演技というのは、演技していると悟らせないように演技するもので、映画というのは、連続していないシーンとシーンを連続したものとして見せる技法である。佐久間由衣のシーンでは、全てが不自然な作り物であるという感覚をぬぐえなかった。

 

ひろみのバックグラウンドについても矛盾がある。中盤では、母親は父親に経済的に支配されていたというが、終盤になると父親はまともに仕事をしていなかったことになる。どういうことだ?経済的に支配されるというのは、妻が稼いだ金を全て夫が略取するということか?そうではないだろう。普通は『 アンダー・ユア・ベッド 』の千尋のような状態を、経済的に支配されると言うはずだ。

 

もう少しライトなところでは、惹句にある「3年でふった男の数600人」というのも眉つばである。1年で200人ふるということは、ほぼ2日に一人をふっているわけで、それだけの出会いの機会を生み出す、もしくは与えられるということがいささか現実離れしている。また、それだけの男に接してきて、これまで暴力男や、もっと言えばデートドラッグを使うような男に引っかからなかったのは、棋士・藤井聡の言葉を使わせてもらうならば「僥倖」以外のなにものでもない。というか、暴力男に育てられた女性は、どういうわけか暴力男を引き寄せてしまう傾向があるのだが、その辺のリアリティにも欠けていた。暴力男が出てこないことが問題なのではなく、ひろみがどのようなアンテナやセンサーを使って男を選り分け、嗅ぎ分けているのかの描写が不足していたように感じられた。

 

エンドクレジット後の1コマも蛇足である。焼けぼっくいに火がついても構わないし、怒りの炎が燃え盛っても構わない。なぜなら、ひろみというキャラクターにはまったくと言っていいほど共感できなかったからである。まあ、普通にこのスキットを見て、効果音を聴く限りは後者なのだろうが、原作者のエッセーその他を買って、自分の解釈を確かめてみようとも思わない。

 

総評

タイトルが刺激的なだけで、ストーリーとしてはそれほど練られたものでもない。主演の演技にも褒められるところも少ない。Jovian夫婦は観終わって劇場の照明がついた時に「何じゃこりゃ?」と二人して眉間にしわを寄せて見合ってしまった。カップルのデートムービーには向かない。女子中高生あたりがグループで鑑賞するか、あるいはお一人様上等の男性または女性あたりが本作のターゲットになるだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

chew up the scenery

これは慣用句で、『 グランドピアノ 狙われた黒鍵 』で紹介した ”break a leg” と同じくtheater languageである。意味は≪大げさな演技をする≫である。主演の佐久間由衣の熱演には敬意を表すが、空回り気味であった。ニコラス・ケイジ、船越英一郎、藤原竜也あたりがscenery-chewing actorの好例だろうか。映画のレビューを英語で読みたいという人ならば、是非知っておくべき表現である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンス, 佐久間由衣, 日本, 森山未來, 監督:三木康一郎, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

『 ラスト・クリスマス 』 -ワム!のファンならずとも必見-

Posted on 2019年12月7日2020年4月20日 by cool-jupiter

ラスト・クリスマス 70点
2019年12月7日 東宝シネマズなんばにて感想
出演:エミリア・クラーク ヘンリー・ゴールディング ミシェル・ヨー エマ・トンプソン
監督:ポール・フェイグ

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英国には偉大なシンガーを生み出す土壌がある。『 イエスタデイ 』のビートルズ、なかんずくジョン・レノン、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョン、そして現代ではサム・スミス。本作はワム!、特にジョージ・マイケルの楽曲で彩られている。上に挙げた歌い手に共通するのは、愛を求めて彷徨ったということだろうか。永遠の名曲“Last Christmas”にインスパイアされた本作も、大きな愛を歌っている。

 

あらすじ

ユーゴスラビアからの移民であるケイト(エミリア・クラーク)は、“サンタ”(ミシェル・ヨー)の経営するクリスマスショップで働きながら、歌手としてデビューすることを夢見て、オーディション参加を繰り返していた。家族と疎遠であるケイトは、友人宅などを泊まり回るも、トラブルばかりで行き先をなくしてしまう。そんな時、店先に現れた不思議な青年(ヘンリー・ゴールディング)と知り合って・・・

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ポジティブ・サイド

名曲“Last Christmas”に新たな解釈を施したエマ・トンプソンに満腔の敬意を表したい。失恋からの立ち直りの歌をこうも鮮やかに再解釈するのかと唸らされた。何をどう解説してもネタばれの恐れがあるので、敢えて類似の作品を挙げるだけに留める。

 

『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』

『 イソップの思うツボ 』

『 思い出のマーニー 』

『 勝手にふるえてろ 』

 

パッと思いつくのは、これらだろうか。作品タイトルだけでネタばれになりかねないので、シネフィルな方々におかれては、鑑賞前に上の白字部分を読むのは自己責任でお願いしたい。

 

『 シンプル・フェイバー 』でもヘンリー・ゴールディングを起用したポール・フェイグ監督だが、そのヘンリー・ゴールディングは『 クレイジー・リッチ! 』に続いてアジアのレジェンド女優ミシェル・ヨーと共演。アジア人がメインキャストを占めて、舞台がロンドン、製作国はアメリカというところに、時代の変化を感じざるを得ない。また、主人公がユーゴスラビア移民であること、国際化・多様化が極度に進むロンドンを舞台にしていることにも大きな意味がある。そしてJovianが冒頭でF・マーキュリーやE・ジョンやS・スミスに言及したことにも意味がある。ミシェル・ヨーというマダムがメインキャストを張ることにも意味があるのである。生きるとは、助け合うことであるということを本作は高らかに宣言する。

 

エミリア・クラークは『 ターミネーター:新起動 ジェニシス 』ではウブ、『 ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 』ではウブから百戦錬磨に、本作では逆に百戦錬磨からウブに戻って行く感じがして、非常に健康的な魅力を物語中盤からふりまくようになった。特にスケートリンクでのシーンは『 ロッキー 』でのロッキーとエイドリアンの語らいを彷彿とさせた。

 

小説『 クリスマス・キャロル 』では、スクルージは悔い改め、クリスマスは孤独に過ごすものではなく、家族と過ごすものだと気付いた。本作ではケイトも同じことに気付く。そう、これは家族の物語だったのだ。ケイトが見つけ出した家族とは誰か?それは劇場で確認して欲しい。クライマックスに楽曲と共にもたらされるカタルシスは『 リンダ リンダ リンダ 』のそれに匹敵する。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーが本当の意味で始まるまでに、かなりの時間を要する。また、ケイトのあまりのダメ人間っぷりは、何らかの精神的な疾患もしくは障がいをも疑わせるレベルである。もしくは『 女神の見えざる手 』のスローン女史のような、セックス依存症一歩手前なのかとも考えた。終盤になってこのあたりの事情が明かされるのだが、これは少々アンフェアというか、非常に分かりづらかった。青春の真っただ中を空爆されるユーゴスラビアで恋を知らずに生きてきた反動で、bitchになってしまったのかと思ったが、そういうわけでもない。このへんの見せ方とストーリー上の秘密を、もう少し上手い具合に組み合わせるべきだった。

 

ビミョーにネタばれになるが、“Last Christmas”を一曲まるごと、どこかの場面で歌う、もしくは流してほしかった。『 ロケットマン 』でも“Your Song”がフルで流れることがなかったように、少々フラストレーションがたまる構成である。また、ワム!というよりは、ジョージ・マイケルにフォーカスした楽曲の選定になっているので、ワム!のファンは少々物足りなく感じるかもしれない。

 

総評

ジョージ・マイケルのファンにもワム!のファンにも観て欲しい。彼らのファンではない方々にも観てもらいたい。聖歌ではないクリスマス・ソングとしては、おそらくビング・クロスビーの “White Christmas” に並ぶ知名度の“Last Christmas”を聴いたことがないという人は、日本でも超少数派だろう。ジョージ・マイケルが泉下の人となって3年。この偉大なアーティストへのR.I.P.の念も込めて、是非多くの人にこの物語を味わってほしい。

そうそう、本作をきっかけにユーゴスラビアに興味を持った向きには、米澤穂信の小説『 さよなら妖精 』をお勧めしておく。

 

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・トンプソン, エミリア・クラーク, ヘンリー・ゴールディング, ミシェル・ヨー, ラブロマンス, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ラスト・クリスマス 』 -ワム!のファンならずとも必見-

『 生理ちゃん 』 -男性、観るべし-

Posted on 2019年12月6日2020年9月26日 by cool-jupiter

生理ちゃん 60点
2019年12月5日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:二階堂ふみ 伊藤沙莉 松風理咲 豊嶋花
監督:品田俊介

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性に関する情報や議論はずいぶんとオープンになってきた。「性癖」という言葉の意味も曲解されるようになって久しいし、LGBTを公言する人々や、そうした人々にフォーカスする作品も近年とみに増えてきた。だが、そのテーマはマイノリティとしての苦悩や葛藤という精神的なものだった。全人類の半分である女性の「生理」という身体的な現象を描いた作品というのは、本邦では史上初ではないだろうか。

 

あらすじ

編集者の米田青子(二階堂ふみ)は、仕事に追われながらも、恋人との交際も順調だった。しかし彼は二年前に妻と死別し、11歳の娘、かりんを抱えていた。かりんとの距離感をなかなか把握できない青子。そんな日々の中でも月に一度の「生理ちゃん」は律義にやってきて青子にボディブローを見舞う・・・

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ポジティブ・サイド

『 存在のない子供たち 』のゼインは、初潮を迎えた妹に対して、実にテキパキと行動した。このように即座にアクションを起こせる男性は日本にどれくらい存在するだろうか。医療従事者や研修を受けた学校教諭以外で、どれだけの男性が生理のメカニズムを理解しているのだろうか。本作は無神経な男性の代表として青子の上司を描くが、これは製作陣からの日本の中高年向けの痛烈なメッセージであるように思えてならない。男というのは生来アホな生き物であるが、可愛げのあるアホか、ただの嫌味なアホかで、男の価値は上下する。前者でありたいと切に願う。

 

本作は20代半ばと思しき青子、同年代と思しき山本さん、青子の妹での17~18歳のひかる、青子の交際相手、久保の娘で11歳のかりんらが、「生理ちゃん」と向き合っていくストーリーである。

 

青子にとっての「生理」とは、仕事の邪魔をしてくる厄介な存在であり、同時に自分は母親にまだなれていないことを示すサインであり、多くの人に望まれているわけでもないのにきっちり自分の役割を果たすバリキャリの象徴でもある。

 

山本にとっての「生理」は、性交をしなかったこと、すなわち身を寄せ合い一つになれる異性の不在を告げる忌々しい存在である。彼女は真正のヲタクであり、その事実が彼女自身の殻になってしまっている。演じた伊藤沙莉は『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』では場末のクラブではじけていたが、このような陰キャも見事に演じられるのかと感心させられた。

 

ひかるにとっての「生理」は、肉体的に性行為が可能であるということの証明であり、同時にそれが来たら性交は不可であるとのサインでもある。

 

かりんにとっての「生理」=初潮は、子どもという存在からの脱却の始まりである。母親の死からわずか2年のかりんは、「私はお母さんの子どもだ!」という事実に固執する。

 

四者四様に自身の生理現象と向き合う女性たちの物語は、性=セックスもしくは好きになるタイプの人間の嗜好性・志向性と規定されがちな現代において、非常に根源的である。Jovian含めアホな男たちは、彼女らへの思いやりを決して忘れてはならない。

 

『 ジョーズ 』や『 オペラ座の怪人 』をパロったBGMが使われたり、ファミコン・ソフトの【 アトランチスの謎 】や【 いっき 】に、アラフォーのJovian夫婦は映画館の片隅で盛り上がってしまった。自分と同世代の人間たちがクリエイティブな世界でも主導権を握るようになってきたのかと、エンパワーされたように感じた。

 

ネガティブ・サイド

『 空の青さを知る人よ 』でも、姉妹の物語が描かれたが、年齢の離れた姉はしばしば妹にとっては母親代わりとなる。青子を25歳と見積もれば、高3の受験生であるひかるとの年齢差は7~8歳。妹の様々なライフステージで青子が母親代わりに positive female figure の役割を果たしてきたはずではないか。かりんとの適切な距離を探るのに難儀するのは当然としても、そのことをまったくの初めての事柄のように捉えている姿には少々違和感を覚えた。

 

本作には生理ちゃんだけではなく、その他のゆるキャラも登場する。性欲くんはまだしも、童貞くんとは何なのだ?処女ちゃんがいないにも関わらず童貞くんが存在する世界というのは、バランスに欠けるのではないか。また、ひかるのボーイフレンドについて回る「性欲くん」があまりにもおとなし過ぎる。10代の男子の性欲など、ほとんど動物のそれと同じである。製作陣はほとんど全員男性のはずだが、なぜこのような大人しい描写に落ち着いてしまったのか、あるいは妥協してしまったのか。また、このボーイフレンドの「性欲くん」が呟く一つひとつのエロ単語が、あまりにも笑えない。いや、それらを単体で聞く分には充分に面白いのだが、この物語の中では不協和音である。ガールフレンドの部屋にいるなら「ブラチラ」、「パンチラ」、「うなじ」といったようなワードを呟きそうだが、実際の「性欲くん」のつぶやきはエロ動画につけられていそうなタグばかり。女性の女性性(=妊娠と出産が可能な生命体であること)をテーマにした作品なのに、女性の性的な部分だけを取り出して呟くような「性欲くん」のノイズであるように感じられた。製作した男性陣が、自身の男性性に向き合えていない証拠である。

 

また青子と父との会話のシーンにも不満が残る。高校生の愛娘が、部屋に男を招き入れているというのに、この父親はそのことを従容として受け入れているかのようだ。不器用な男であることは分かるが、無関心または鈍感である必要はない。ひかるのボーイフレンドに対して、複雑な感情を抱いているシーン、または青子の交際相手に関心を持つシーンが描けていないことで、男女のコントラストがぼやけてしまっている。本作には「夫」という属性が出てこない。それは「妻」が不在だからである。生理とは、母親への予感である。だからこそ、「父」という属性をもう一段上の鮮烈さで描く必要があったと思えてならない。そこが残念である。

 

総評 

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』は、インド社会の慣習や因習の打破を願った傑作であったが、女性の身体的な苦痛やストレス、また生理によって否応なく思い知らされる生殖機能までは描いていなかった。本作はそこを描いた。本作は中国や台湾でも配給されるとのこと。日本人の男性が原作を描き、日本人男性がそれを脚本化し、日本人男性がその映画化を監督し、その作品が海外でも公開されることの意義は大きい。東京オリンピック開催を前にコンビニからグラビア表紙の雑誌を撤去するらしいが、多くの国の人間が日本人のそうした「性癖」をすでに知っている。だからこそ、日本人男性像が変わりつつあることをアピールできる本作のような作品を、当の日本人、特に男性諸氏に強くサポートしてもらいたいと思うのである。生理バッジも試験的に導入され始めている。時代の変化に敏感になるとともに、最も身近なパートナーたちに敏感になろうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m late.

文脈が無ければ「遅刻している」の意味だが、貴君のガールフレンドが突然このように言ってきたら、それは「(生理が)遅れてるの」の意である。生理とは、受精卵を受けとめるためのふわふわのじゅうたんを体外に排出する現象である。つまり生理が遅れているということは、胎内に受精卵が存在しているかもしれないということである。世の男性諸君、特に10代、20代に告ぐ。近所の病院の性教育セミナーやパパママ教室に、一度は足を運ぶべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, コメディ, 二階堂ふみ, 伊藤沙莉, 日本, 松風理咲, 監督:品田俊介, 豊嶋花, 配給会社:よしもとクリエイティブ・エージェンシーLeave a Comment on 『 生理ちゃん 』 -男性、観るべし-

『 マーターズ 』 -監禁拷問の果てにあるものは-

Posted on 2019年12月5日2019年12月5日 by cool-jupiter

マーターズ 65点
2019年12月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:モルジャーナ・アラウィ ミレーヌ・ジャンパノワ
監督:パスカル・ロジェ 

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『 ゴーストランドの惨劇 』のパスカル・ロジェ監督の作品で、『 マーターズ 』の方が先発作品である。前々から「やばい映画だ」、「すごい映画だ」とは聞いていた。ホラーは嫌いではないが、拷問ジャンルは好きではない。まして『 ソウ 』の twist を一発で見破ったJovianなのだから、たいした捻りでもないだろうと高を括っていた。それは間違いだった。

 

あらすじ

 

傷だらけの少女リュシーは路上で保護された。彼女は廃墟に監禁され、拷問と虐待を受けていた。施設に預けられたリュシーはPTSDに悩まされながらも、アンナ・アサウェイの介護によって回復していく。しかし15年後、リュシーは自分を監禁していた者たちを見つけてしまう。復讐心に駆られた彼女は、銃を手に取り、アンナと共に彼らの家に踏み込んでいく。しかし、それは更なる悲劇と惨劇の始まりで・・・

 

ポジティブ・サイド

 

血が ドバッ とか ピュー と出るのは別に構わない。そういうのは小さい頃に『 13日の金曜日 』で充分に堪能した。本作は、いたいけな女子がこれでもかと痛めつけられる描写に目を背けたくなる。それだけなら、凡百のホラー映画だろう。本作が際立っているのは、リュシーを痛めつける者が、ビジュアル的かつ精神的に、とてもおぞましい存在であると言うこと。恐怖を感じさせる極意は『 はじまりのうた 』でキーラ・ナイトレイがヘイリー・スタインフェルドに諭したこと、すなわち「肌を見せてはいけない。衣服の下がどうなっているのかを男たちに想像させなければならない」という点に尽きる。その意味では、リュシーにとっての恐怖を、観る側にとっての恐怖と同一視させることに成功している本作は、それだけでも稀有な作品と評すことができる。

 

ところがストーリーはここから思わぬ展開を見せる。まさかの主役交代である。リュシーのパートナーのアンナが、かつてリュシーが経験したおぞましい苦痛の数々を味わうことになる。それは『 デッドプール 』でウェイド・ウィルソンがミュータント変身のために受けた拷問よりも、遥かにフィジカル的に残忍である。特に最終盤は『 羊たちの沈黙 』の行き過ぎたバージョンである。あまりにもおぞましい。デッドプールなら笑えるが、相手は女性である。ここまで彼女に拷問と虐待と苦痛とストレスを与える意味は何か。それがタイトルの『 マーターズ 』の意である。以下、ネタばれになる部分は白字で。

 

本作は映画『 ソウ 』、『 羊たちの沈黙 』にダンテの『 神曲 』と野崎まどの小説『 know 』を組み合わせたものである。アンナがクライマックスに観るビジョンをその目で確かめたら、ぜひこの画像を見てみてほしい。パスカル・ロジェ監督が上に挙げた古典作品をモチーフにしていることは間違いなさそうである。その上で、ラストの一連のシークエンスの意味をよくよく考えてみて欲しい。なぜ念入りに化粧をするのか。なぜ側頭部を撃つのではなく銃口を加えて後頭部を破壊するのか。なぜ「疑い続けなさい」と言い残すのか。いかようにも解釈可能だが、黒沢清の『 CURE 』の和尚の言葉「ありと見ればあり、なしと見ればなし」なのだろう。

 

ネガティブ・サイド

吐き気を催すほどの拷問が繰り広げられるが、後半にアンナをとことん痛ぶる場面は編集の粗が出たか。大柄な男がアンナに拳を振り下ろすシーンとアンナがフロアに叩きつけられるシーンが繋がっていないように感じられたし、アンナ自身も痛みの声と表情は見せても、痛みを体で伝えてはいなかった。WWEのジョバーの仕事を見て、痛いふりをすることと、痛みを観客に分かるように大げさに伝えることは、似て非なるものであると学ぶべし。

 

マドモアゼルが少し喋り過ぎである。いや喋るのは構わないが、明らかに観客に語りかけている。『 ミスター・ガラス 』でもサラ・ポールソン演じる精神分析医がイライジャ・プリンスの説明をご丁寧に観客に説明して白けさせてくれたが、このあたりの語りにも改善の余地がある。

 

後は重箱の隅をつつくようなものである。尿の色が薄い、食べさせられているものや置かれている状況からして量が多いなどの医学的なケチもつけられるし、あのような身体的ダメージを受けて生きていられるはずがない。感染症にかかって、即死亡であろう。もっと言えば、アンナは監禁されていた女性を見つけた時点で警察にすぐに通報すべきだった。だが、かの家の電話は何番にダイヤルしようと全てマドモアゼルの息のかかったところに繋がる・・・などの設定にしておけば、より絶望感が生まれたのではないだろうか。

 

総評

暴力的な描写に耐性が無いのであれば観てはならない。ただのホラーではない。スーパーナチュラルなホラーは大好物だぜ、という向きにもお勧めはできない。『 悪魔のいけにえ 』やそのリメイク『 テキサス・チェーンソー 』を堪能したような向きにこそお勧めしたい。リメイク版の『 フラットライナーズ 』や『 ラザロ・エフェクト 』的なテーマに興味のある向きは、片目をつぶりながら観るべし。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

Mademoiselle

カタカナでは「マドモアゼル」、または「マドモワゼル」だろうか。「嬢」、「さん」に当たる表現である。未婚ではこちら、既婚ではマダムとなる。テニスファンならば、全仏オープンのアンパイアの声に耳を傾けてみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, カナダ, フランス, ホラー, ミレーヌ・ジャンパノワ, モルジャーナ・アラウィ, 監督:パスカル・ロジェ, 配給会社:iae, 配給会社:キングレコードLeave a Comment on 『 マーターズ 』 -監禁拷問の果てにあるものは-

『 アイリッシュマン 』 -M・スコセッシの心の原風景-

Posted on 2019年12月4日2020年4月20日 by cool-jupiter

アイリッシュマン 65点
2019年12月1日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:ロバート・デ・ニーロ アル・パチーノ ジョー・ペシ
監督:マーティン・スコセッシ

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『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』がQ・タランティーノの心の原風景を映画化したものだとすれば、本作はM・スコセッシの心の原風景を映画化したものなのではないか。これが観終わって一番に感じたことである。

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あらすじ

時は第二次大戦後の1950年代。マフィアの台頭と抗争の華やかなりし時代。フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)はマフィアのラッセル・“ルース”・バッファリーの下でヒットマンとして働いていた。彼は頭角を現し、全米トラック組合「チームスター」のトップであるジミー・ホッファ(アル・パチーノ)の知音となるが、それは更なる暴力稼業の始まりで・・・

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ポジティブ・サイド

この映画を私的に表現するなら、(『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』+『 ゴッドファーザー 』+『 ゴッドファーザー PART II 』+『 ゴッドファーザー PART III 』+『 グッドフェローズ 』+『 アウトレイジ 』)÷(『 JFK 』+『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』)だろうか。つまり、懐かしさの中に悪辣さ、悪辣さの中にある懐かしさ、そこに真実を追い求めようとするストーリーであるように感じられたのである。

 

『 ジョーカー 』でも健在をアピールしたロバート・デ・ニーロが、意気軒高、老いて益々盛んな様を銀幕に刻み付けた。タクシー・ドライバー・・・じゃなかった、トラック・ドライバーが何の因果かマフィアの暴力のお先棒を担ぐようになるまでの経緯を、煤けた空の元で重厚に描かれる。一昔前には日本でもデコトラがちらほらと生き残っていたが、確かに『 トラック野郎 』には荒くれ者が多いようである。ただし、“アイリッシュマン”のフランク・シーランには戦争のバックグラウンドがある。戦争であれ抗争であれ、先に撃った奴が有利であることを、この男はよくよく知っている。いったい何人を殺すのかというぐらいに劇中でも殺しまくるが、フランクの狙撃は全てが近距離、それもほとんどゼロ距離で行われる。これは相手の懐に完全に入り込み、確実に命中させ、なおかつ反撃を食らわないという確信がなければできないことである。フランクが殺しの方法論や哲学を語るシーンはないが、それでもヒットマンとしての確立された自己があるということが如実に伝わってくる。稼業が何であれ、仕事人ならばこのようなプロフェッショナルでありたい、そう思わせるだけの迫力がある。ロバート・デ・ニーロ、健在である。

 

アル・パチーノ演じるジミー・ホッファも素晴らしい。チラッと名前を聞いたことがあるぐらいの人物だったが、そのカリスマ的な演説力と行動力、クレイジーなまでの権力欲、律儀にもほどがある連帯意識、破滅に向かっていたとしか思えない自意識は、『 スカーフェイス 』や『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』での演技に並ぶものと評したい。本人は怒り狂っているのだが、その様が意図せざるユーモアになっているシーンもいくつかある。「どのトニーだ?」の問いかけには、笑ってしまうこと請け合いである。

 

ルースを演じたジョー・ペシには、日本でいえば國村隼的な迫力がある。好々爺に見えて恐い。こんな爺さんがボソッと何かを呟いたら、忖度の一つや二つ、誰でもしてしまいそうだ。小柄な俳優が暗黒街の大物を演じることで、無言の圧力や不気味なオーラといった名状しがたい雰囲気が醸し出されている。彼の味方にせよ敵にせよ、関わりのある人間のほとんどがまともな死に方をしていない。そんな彼自身がまともな死を迎えられたのかどうか。観る者の想像に委ねられている部分もあるが、“Ill weeds grow fast.”とは、このような事柄を指すのだろうか。

 

本作は家族のストーリーでもある。より正確に言えば、親子のストーリーである。父が娘に寄せる愛情、そして娘が父に向ける軽蔑の眼差しの物語である。ヒットマンとして数々の殺しを請け負い、様々な犯罪をほう助してきた男も、その内側には人並みの愛情を持っている。アメリカ犯罪史の生き証人でもあるフランクは関係者の全てが鬼籍に入っても沈黙を保ち続けた。しかし、自らの愛情を隠すことはできなかった。何と悲しい男であることか。誰かが自分を訪ねてくるという希望にすがるフランクの姿を、人間らしさの表れと見るか、それとも哀れで孤独な末路と見るか。それはNetflixで確かめるか、もしくはレンタルできるまで待ってから確かめて欲しい。

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ネガティブ・サイド

アメリカ史についてある程度の知識がないと、何のことやら理解が難しい場面が多い。そういう意味でも冒頭に挙げたマフィア、ギャング系の映画のいくつかは鑑賞しておくことが望ましいのかもしれない。マフィア間の抗争や他グループとの抗争、国家権力との闘争など、彼らが現代に残した影響は計り知れない。ボクシングでは、ギブアップの意思表示のためには本来ならタオルは投入しない。それは大昔のことである。正しくは、セコンドがリングサイドに立ってタオルを振るのである。これは、まさにこの映画の描く時代に、自分の側のボクサー(それはギャンブルの対象でもある)がピンチに陥った時に、観客席からタオルを投げ込んで一次的に試合をストップさせてしまう不届き者が後を絶たなかったからである。こうしたチンピラ行為は、今では連邦法で取り締まられる。つまり、FBIに逮捕されてしまう。マフィアやギャング連中の何たるかを、劇中でもう少し詳しく描いて欲しかった。この映画を鑑賞するのはデ・ニーロやパチーノのファンがマジョリティかもしれないが、全員が全員、こうした歴史的背景に詳しいわけではない筈である。実際にJovianも前半はところどころがちんぷんかんぷんであった。

 

その前半のパチーノやデ・ニーロにはデジタル・ディエイジングが施されているが、これが気持ち悪いことこの上ない。『 キャプテン・マーベル 』のサミュエル・L・ジャクソンは普通に受け入れられたが、本作は無理である。特にアル・パチーノが不気味で仕方がなかった。『 アリータ バトル・エンジェル 』のアリータはだんだんと可愛らしく見えてきたが、今作の前半のパチーノは人間が機械的な仮面をかぶって演技をしているように見えて、とにかく気持ちが悪かった。これは何なのだろうか。

 

あとはとにかく長い。漫画『 クロス 』でもハリウッドのプロデューサーであるジャック・ザインバーグが「間にほどよく休憩をはさんだ3時間超の映画を作りたい」と言っていたが、インド映画のようなIntermissionをはさむことはできないのだろうか。それともNetflix映画にはそのような配慮は無用なのだろうか。長さは措くとしても、ペーシングに難がある。ジミー・ホッファが退場してからが異様に長く感じられる。ここからはアクションらしいアクションやサスペンスがなくなり、どちらかというとフランクの内省が焦点になるからだが、このパートだけでも10分は削れたのではないか。もしくは、もう少しメリハリのある作りにできたのではないか。自宅で適度に自分のペースで観ることができるように計算して作られたのかもしれないが、映画の基本は照明にしろ音響にしろ長さにしろ、劇場鑑賞を旨とすべしだと思いたい。

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総評

Netflix映画で、期間限定でミニシアターで公開されている。『 アナイアレイション 全滅領域 』もそうだった。Jovianはこちらはレンタルで観た。今秋、どこの映画館も一律に値上げを行ったが、年間50本を映画館で観るとするなら5000円、100本観れば10000円である。ボディブローのように財布には効いてくるかもしれない。本作を劇場鑑賞して、Netflixなどの配信サービス加入を真剣に考え始めている。アナログ人間のJovianにそう思わせてくれるだけの力のある作品であることは疑いようもない。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

That does it.

「 ひどすぎるぞ! 」、「 我慢ならん 」のような意味である。『 デッドプール 』でも、コロッサスに気を取られていたデッドプールがフランシスを逃がしてしまった時に、この台詞を叫んでいた。さあ、仕事や学校で気に食わないこと、理不尽なことがあった時には、心の中で“That does it!”と叫ぼうではないか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アル・パチーノ, サスペンス, ジョー・ペシ, ロバート・デ・ニーロ, 伝記, 歴史, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:NetflixLeave a Comment on 『 アイリッシュマン 』 -M・スコセッシの心の原風景-

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