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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2020年6月

『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

Posted on 2020年6月29日2021年1月21日 by cool-jupiter

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

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『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

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ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。

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ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

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総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don’t wear that, don’t step out of place

Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin’ you’re having a good time

‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ジュリー・ウォルターズ, ソフィー・オコネドー, ヒューマンドラマ, 監督:トム・ハーパー, 配給会社:ショウゲート, 音楽Leave a Comment on 『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

『 タバコイ タバコで始まる恋物語 』 -本音と建て前と男と女-

Posted on 2020年6月27日 by cool-jupiter

タバコイ タバコで始まる恋物語 50点
2020年6月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:又吉直樹
監督:中川通成

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煙草に対する風当たりが強くなって久しい。『 風立ちぬ 』ですら喫煙シーンの多さで叩かれる時代である。Jovianも2012年7月23日にタバコをやめて今に至る。ある意味、2020年代では作れない映画なのかもしれない。

 

あらすじ

宮内正(又吉直樹)は馬鹿がつくほど正直な男。他人の言葉は全て鵜呑みにするし、嘘をついたこともない。おかげで合コンでは失敗続き。だが、ある日、馴染みの中華そば屋の主人からタバコをもらう。そのタバコを吸ってみると、宮内はどういうわけけ他人の本音が目に見えるようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

色々なところで芸が細かい。又吉のタバコのくわえ方、火のつけ方、たばこの持ち方、火の消し方、全てが素人っぽい。実際に喫煙者ではないのだろう。もしくは喫煙者だったとしても、見事に非喫煙者になりきった。煙の吐き出し方も、肺まで吸い込んで吐き出している時と、単にふかしているだけの時があった。タイトルの通りに、タバコの描写には一定のこだわりが見られた。

 

ヒロイン役の遠藤久美子のファッションも細かい。もともと高身長なところへハイヒールを履いているため、又吉を見下ろす構図になることがほとんどだが、はじめてキスをする場面だけはヒールではなかった。つまり、目線の高さが又吉とエンクミでちょうど合う。高飛車と呼ばれる女性が、ちょっと下に降りてきたわけで、このビジュアル・ストーリーテリングは上手い。

 

描き出される男女のステレオタイプも嫌味には感じられない程度に抑えられているので許容できる。男は女をベッドに連れ込むためならアホになる。というか、下半身と脳が戦うと大抵の場合、下半身が勝つ。脳が勝つのは、羞恥心が極度に強いか、あるいは相手に対して本気の時である。本気ではない相手に自分のセックスの感想を求めるところはリアルである。本命にそれができるとすれば、極度のナルシストか、あるいはベテラン夫婦だろう。

 

非常にコンパクトにまとまって、それなりにツイストもあり、カタルシスも感じられる。典型的なrainy day DVDだろう。

 

ネガティブ・サイド

タバコの効果効能がよく分からない。嘘をついた時にその人の本音が見えるようになると宮下正自身は得心しているが、必ずしもそうではない。ダイレクトに思考を読んでいる時も多い。昨今話題になっている賭けマージャンで正がカネを稼ぐシーンがあるが、マージャンは相手の待ちを回避しただけで勝てるゲームではない。また、せっかくのアイテムであるが、その効果に一貫性がないように見えるのは減点対象である。

 

合コンで調子に乗り過ぎた結果、会計に窮した正がクレジットカード払いをする。それは良い。問題なのは、飲食店で分割払いを申し出るところだ。飲食店や宿泊施設は一回払いしか受け付けられない。なぜならそうした店は返品が不可な商品やサービスを提供しているからだ。一回払いで清算した後にリボや分割に変更する、あるいはリボや分割専用カードを使うべきだった。

 

正の鈍さも、正直なところどうかと思う。人を疑うことを知らないことと、物事を深く突き詰めて考えられないことは、全く別の事柄だ。『 アントマン 』のスーツでも、『 続・夕陽のガンマン 』の金(ゴールド)の情報でも、誰か一人だけしかそれを持っていない、ということはありえない。『 水曜日が消えた 』でも感じたことだが、“水曜日”が消えたなら、他の“曜日”も消える/消えたのではないか?普通はそう疑うものだ。正が仕事でも恋愛でも絶好調になった時に、「仕事でも恋愛でも成果を出せる奴はこういうアイテムを持っているんじゃないのか?」という考えに至らない愚鈍なキャラクターである点がマイナス、さらにこれまでに嘘をついたことがない正直者というキャラ属性とその愚鈍さの間につながりがないのもマイナスである。

 

ストーリーそのものも極めてありきたりだ。もうちょっと捻りが欲しかった。特に序盤のとある女性の言う「彼氏はいないよ、旦那はいるけど」は必要だったか?『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』のホークアイ以前にこのセリフが日本で使われていることには少々感心したが、アベンジャーズの原作コミックの方がおそらく先だし、このセリフのおかげで、エンクミの背景がすぐに見えてしまう。色々な意味で工夫しすぎたせいで、面白さが減じてしまっているように感じた。

 

総評

悪い作品ではないが、面白い作品でもない。又吉の演技の稚拙さには敢えて目をつぶってこの点数をつけている。ただ、4~5年前、Jovianが結婚を意識していたころに観たEテレの『 オイコノミア 』で又吉が自身の恋愛観や結婚観を語っていたり、公開が延期になっている映画『 劇場 』の原作小説を読んだりしていれば、本作には興味深い点もいくつか発見できる。正の参加する合コンの回数が3回というのは、ある意味良く出来たプロットである。又吉のファンならば観ても損はないかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

obnoxious

『 ハンナ 』で gross =キモイ を紹介したが、この obnoxious はその上級版だろうか。意味は「キモイ」、「うざい」、「イヤな感じ」など、ネガティブなイメージを持つ人に対して使うことが多い。合コンで正は何人かの女子に obnoxious であると思われていた。この語が日常会話でスラっと使えれば、英会話スクールは卒業していいだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, コメディ, 又吉直樹, 日本, 監督:中川通成Leave a Comment on 『 タバコイ タバコで始まる恋物語 』 -本音と建て前と男と女-

『 哀しき獣 』 -韓国ノワールの秀作-

Posted on 2020年6月25日 by cool-jupiter

哀しき獣 75点
2020年6月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ハ・ジョンウ キム・ユンソク
監督:ナ・ホンジン

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『 暗数殺人 』のキム・ユンソクに痺れたので、本作もさっそくレンタル。韓国社会および朝鮮族というアウトサイダーのダークサイドをまざまざと見せつけられた。

 

あらすじ

中国・延辺朝鮮族自治州のタクシー運転手グナム(ハ・ジョンウ)は借金で首が回らず、妻を韓国に出稼ぎに出していた。だが、妻とも連絡が途切れた。そんな時、犬商人のミョン(キム・ユンソク)から韓国である人物を殺害すれば借金と同額の報酬を約束された。グナムは意を決して黄海を渡るのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

暴力の描写に一切の妥協をしない韓国映画界の中でも、ナ・ホンジン監督は図抜けている。『 チェイサー 』のキム・ユンソクは殴る蹴るの暴行だったが、本作ではハ・ジョンウもキム・ユンソクも手斧や刃物で相手を傷つけ、殺しまくる。良い意味でも悪い意味でも度肝を抜かれたのが、ミョンがぶっとい牛骨で敵を撲殺していくシーン。さっきまで自分たちが鍋で食っていたものを武器にするのは、映画史上に残る珍演出ではなかろうか。骨で何かをぶっ叩くシーンがこれほど印象的なのは『 2001年宇宙の旅 』の冒頭のサル以来ではないか。これは誉め言葉である。『 アジョシ 』のテシクの洗練された殺人術ではなく、本能のままに殺していく、まさに獣である、

 

暴力だけではない。走る。走って走って走りまくる。『 チェイサー 』でも走りまくったハ・ジョンウとキム・ユンソクがさらに走る。『 ターミネーター2 』のロバート・パトリックを彷彿させる走りっぷりである。人間にも動物にも、闘争・逃走反応(Fight-or-flight-response)というものがあるが、本作のグナムは逃走から闘争へとドンドンと狂暴化していく。走って逃げた先が袋小路であれば、牙を剥くしかない。窮鼠猫を嚙むというのは真実である。

 

本作は前半と後半でがらりと趣が変わる。ソウルに渡ったグナムがターゲットの店を入念に下見して行動パターンを掴むまではクライムドラマ風味だが、ターゲットが死んだところから、一気に逃走サスペンスになりアクション映画にも変貌する。『 逃亡者 』のリチャード・キンブルもかくや、というほどの逃走劇。ビルの壁を伝い、窓を突き破ってクルマの上に落下し、路地を走ってパトカーを振り切り、大通りを突っ切って事故を誘発して、警察から逃げおおせる。山を越えるし、検問も逃げ切る。原題の英語版は“The Fugitive”ではないのかと思ったほどだ。この警察からも裏社会からも追われるという緊張感と恐怖は、ちょっと想像がつかない。大型船をめぐる逃走劇と闘争劇がクライマックス近くにあるが、『 AI崩壊 』の入江監督は、本作をもっと研究すべきだったのだろう。それぐらい、船の中でのバトルシーンには迫力と迫真性がある。狂乱の逃走劇は、実際には様々なカットを編集しているだけとはいえ、ジャンパーが切り裂かれた時に羽毛がひらひらと舞うシーンを挿入することで、一連のシークエンスに見せることに成功している。これはすごい演出である。

 

本作を観ていると、本当に身につまされる。朝鮮族という、中国人でもなく韓国人でもない立場の人間とは、いったい何なのか。寄る辺ない人間にも、やはり寄る辺は必要なのだ。グナムは確かに甲斐性無しであるが、だからといって妻への思慕の念や子への愛情までも否定されてよい存在ではない。特に何度も夢に見る妻との閨房のシーンの切なさは、男やもめならずとも容易に想像がつくだろう。哀しき男だ。だが本作の邦題は『 哀しき獣 』である。その意味は、ラストシーンで明らかになる。この救いの無さに救いを感じることができる自分に虚しい乾杯をあげたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

ミョンの大暴れシーンで二度ほど画面がセピア色に変わるが、これは不要な演出。頸動脈から血液がドバっ、というシーンや脳天がカチ割られるシーンでこれが起こるが、そこをカラーで映し出してこその韓国映画ではないのか、ナ・ホンジン監督。

 

ミョンがグナムに殺しの依頼をする背景と真相は、かなり拍子抜けさせられるものである。というか、『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』でも感じたが、韓国ではバス会社の社長や常務というのは、社会的に決して尊敬されない、逆に忌避され疎外される存在なのだろうか。財閥の人間とまでは言わないが、もっと社会的に実力のある人間であるように描写すべきだ。上級国民が下級国民を使嗾して悪事を働かせた。それが自らに盛大なしっぺ返しとして返ってきた。このようなプロットは書けなかったか。本作における朝鮮族には、あまりにも救いや希望がなさすぎる。

 

グナムがたびたび妻との房事を夢に見るが、それによりエンディングのシーンの悲哀が逆に少し薄れてしまっているように感じた。最後の最後に一瞬、妻のことを思い出す。あるいは、いざ殺人という瞬間に妻の顔が脳裏をよぎる。それぐらいの演出の方が個人的には望ましかった。

 

総評

原題は『 黄海 』=The Yellow Sea、すなわち朝鮮半島と中国の間の海である。中国人でも韓国人でもない朝鮮族の悲哀の象徴なのだろう。本作はテーマだけではなく技法でも優れている。グナムの髭の伸び具合をよくよく観察してみよう。時間の経過がリアルに感じられるはずである。そして、グナムが持ち運んでいる指の汚れ具合や腐敗具合にも注目しよう。一昔前の邦画の任侠映画における指が、いかに作り物然としているのかが一目瞭然である。バイオレンス描写に耐性がないのなら、本作を観てはならない。耐性があるのなら観よう。韓国映画の特徴と魅力が本作にたっぷりと詰まっている。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

オイ

日本語でも「おい」という相手に対する呼びかけの言葉として使われている。日韓共通語かと思わせて、さにあらず。英語でも“Oi!”という表現は、話し言葉でも書き言葉でも使われる。意味もやはり「おい」である。なにか間投詞として人間の根本的な言語感覚に普遍的に訴える音の響きがあるのかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, キム・ユンソク, クライムドラマ, ハ・ジョンウ, 監督:ナ・ホンジン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 哀しき獣 』 -韓国ノワールの秀作-

『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

Posted on 2020年6月23日2021年2月23日 by cool-jupiter

暗数殺人 75点
2020年6月21日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:キム・ユンソク チュ・ジフン チン・ソンギュ
監督:キム・テギュン

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心斎橋シネマートで予告編を観た時から気になっていた。これはタイトルの勝利である。暗数という聞き慣れない言葉それ自体が強烈なインパクトを持って我々に迫って来る。そして本編も実に強烈なサスペンスであった。

 

あらすじ

刑事キム・ヒョンミン(キム・ユンソク)は恋人殺しの容疑をかけられたカン・テオ(チュ・ジフン)から、「全部で7人殺した」という告白を受ける。テオが死体を埋めたと供述した場所を掘ってみると確かに白骨死体が発見された。だが、テオは突如、「自分は死体を運んだだけだ」と供述を翻して・・・
 

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ポジティブ・サイド

まずはカン・テオという殺人者を演じたチュ・ジフンの迫真の演技に満腔の敬意を表したい。ADHDなのかと思わせるほどの落ち着きのなさの中に、冷酷冷徹な計算が働いている。テオという男は警察や検察がどういう論理で動き、どういう論理では動かないのかを熟知している。人を食ったような態度はその余裕の表れである。同時に、警察や刑事の個人的な心情や信条を巧みに利用する。狡知に長けたサイコパスで、「他人の命はゴキブリと同じ。けど俺の命は違う」という酒鬼薔薇聖斗のような二重倫理の持ち主である。また『 チェイサー 』の殺人鬼ヨンミンが語っていたように、血抜きに言及するところ、死体の重さを生々しく語るところに、韓国映画と邦画の決定的な差を思い知らされるようだった。銀幕の世界の殺人者をどこか神秘的な存在に描いてしまいがちな邦画と、文字通りの意味で血肉の通った人間として描く韓国映画の違いである。命が鴻毛よりも軽く、理不尽な理由であっさりと奪われる。その背景には、お定まりの悲惨な過去があり、うっかり同情させられそうになる。

 

対するキム・ユンソクの刑事役は、警察という「組織でこそ力を発揮できる組織」の一員にはとても馴染まない男である。検挙数や起訴数がそのまま手柄になり昇進に直結するとなれば、誰も暗数殺人などに興味は示さないだろう。では何故、キム・ヒョンミン刑事はテオの供述する暗数殺人に殊更に執着するのか。明確には語られないが、そこには死別した妻に対する愛情が感じられた。悪気はなく、むしろ善意から「結婚はしないのか?」と声をかけてくる同僚警察。だがヒョンミンにそのつもりはない。詳しい説明はなされないが、彼は妻を忘れていないし、忘れるつもりもない。だが、周囲は自分の妻がまるで最初から存在していなかったかのように扱う。そのギャップが刑事ヒョンミンの静かな原動力になっているかのような描写には唸らされた。最後に彼が語る刑事としての捜査の哲学は、韓国社会全体に向けたキム・テギュン監督のメッセージなのだろう。

 

本作のキーワードの一つに「再開発」というものがある。村落の墓地の再開発、アーバンスプロールによって無秩序になってしまった地域の再開発。そうした社会の姿勢は否定されるべきものではない。『 パラサイト 半地下の家族 』で注目されたエリアは再開発と保存の間で揺れていると報道された。開発は、それがsustainableなものである限り、許容されるべきとは思う。一方で、開発されることによってその痕跡を消し去られてしまう者も確実に存在する。

 

『 トガニ 幼き瞳の告発 』のように、韓国映画は実在の事件から着想を得るのが得意なようである。それはつまり、社会を揺るがすような事件は風化させてはならないという韓国映画人の気概の表れなのだろう。本作も同様である。少し異なるのは、大きなスポットライトを浴びた事件ではなく、そもそも日の目を見なかった事件の深淵に光を当てようという試みであることだ。これは現代日本にとっても関連が無いこととは言えない。COVID-19がどこか他人事のように扱われていた2020年2月~3月であったが、志村けんや岡江久美子といった「名前のある」人物が相次いで死亡したことで、国民全体に危機意識が急激に高まった。逆に言えば、名前のない人間が死亡しても、特に誰も気にしないということである。そして名前とは認知・認識の最たる道具である。余談だが、この「名前」というものに意識を持ちながら本作を観ると、名優キム・ユンソク演じる刑事キム・ヒョンミンにある瞬間に同化することができる。

 

認識されない。それは取りも直さず、その人間がいなくなったとしても社会が回っていくということである。だが、個人のレベルではどうか。御巣鷹山への日航機墜落事故、尼崎の福知山線脱線事故など、被害者の遺族の多くが望むのは「事故を風化させないこと」である。事件の被害者も同じだ。忘却しないこと。あなたという人間が存在したこと、その痕跡を消さないこと。それは推し進めるべきは分断ではなく連帯だという強力なメッセージであると思えてならない。

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ネガティブ・サイド

中盤にヒョンミンが失態を犯して、刑事から交番勤務の警察官に降格および左遷させられるが、ヒョンミンは気にすることなく捜査を継続する。果たしてそんなことは可能なのだろうか?交番勤務でも警察のデータベースにはアクセス可能だが、足を使った捜査は無理だろうし、何より上司に報告の義務があるだろう。それとも韓国の交番勤務の警察官は日本とはまったく違う仕組みで働けるのだろうか。エンドクレジット前の字幕で、キム・ヒョンミン(仮名)は2018年時点でも刑事として捜査継続中とされるが、こうした降格・左遷劇は脚色なのか。だとすれば少々やり過ぎである。

 

『 エクストリーム・ジョブ 』でブレイクを果たしたチン・ソンギュの活躍が少ない。コミカルな役から大悪人まで演じ分けられる遅咲きの役者だが、見せ場がいかんせん少ない。目立たないバディで終わってしまったのが残念である。

 

総評

韓国映画らしい骨太のメッセージと、娯楽映画として申し分のないサスペンスに満ちた良作である。社会の暗部から決して目をそらさないというあちらの映画人の哲学や思想信条を感じる。静のキム・ユンソクと動のチュ・ジフンの演技対決も見応えがある。映画館に足を運ぶ価値がある一作である。 

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ソンベ

先輩の意味である。先=ソン、輩=べ。『 建築学概論 』でも聞こえてきていたように思う。日本語も韓国語も結構な部分を中国語に負っていることは否めない。上下関係に厳しい韓国社会にも日本語と同じように「先輩」が存在する。階級社会の警察なら、辞めても関係は残る、または続くのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, キム・ユンソク, サスペンス, チュ・ジフン, チン・ソンギュ, 監督:キム・テギュン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

Posted on 2020年6月22日2021年1月21日 by cool-jupiter
『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

水曜日が消えた 30点
2020年6月20日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:中村倫也 石橋菜津美 深川麻衣
監督:吉野耕平

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多重人格ものと記憶喪失もの、そしてタイムトラベルあるいはタイムパラドックスものは、たいてい始まりは抜群に面白い。その面白さをいかに維持するか、それが共通のテーマとなるが、それに成功した作品はごく少数である。本作はどうか。Fizzle outした。

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あらすじ

幼い頃の交通事故の影響で“僕”(中村倫也)は曜日ごとに異なる人格に入れ替わるようになってしまった。成長し、各人各様に生きるようになった“僕”だが、その中でも火曜日は掃除やゴミ捨てなど損な役回りを押し付けられていた。だが、ある日、目覚めてみると、水曜日だった。“水曜日”が消えて、“火曜日”が火曜と水曜を生きるようになったのだ。火曜日はいなくなった“水曜日”を不審に思いながらも、水曜日の生活を堪能するのだが・・・ 

ポジティブ・サイド

“火曜日”と深川麻衣とのロマンティックな関係が、平凡ながらも幸せの意味を実感させる良いシークエンスだった。テレビドラマ『 まだ結婚できない男 』でなかなか売れない芸能人役がハマっていたように、元がアイドルとは思えない地味さが深川麻衣の魅力だ。褒めている。決してけなしてなどいない。実際に本人を目の前にしたとすれば、相当にキュートであろう。しかし、スクリーンで見ると地味なのだ。そのギャップが良いのである。

 

“僕”の友人を演じた石橋菜津美もなかなかに奥ゆかしい。ベリーショートで、体の曲線をまったく感じさせない服装で、言動もかなりの男前。その一方で、そうした態度はすべて“僕”への好意の裏返しであることがバレバレというとても分かりやすいキャラ。そんな人物が「じゃあ、深夜らしいことするか」というシーンは、「お?お色気シーンがあるのか?」と期待させてくれた。もちろん、そんなものはない。『 月極オトコトモダチ 』はやはりファンタジーだ。そういったサバサバ系女子の因果は、ちゃんと後半に明らかにされるし、そこにはそれなりの説得力がある。

 

“火曜日”が別の人格とコミュニケーションを取るシーンの演出はそれなりに斬新か。どこか初代『 グレムリン 』を思わせる深夜のルールも、序盤から中盤のサスペンスを効果的に盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド

なんというか、プロットだけ見れば『 セブン・シスターズ 』と『 ジョナサン -ふたつの顔の男-   』を足して2で割ったようなストーリーである。つまり、オリジナリティが無い。他に類似作品としては新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』の某キャラや漫画『 嘘喰い 』の某キャラなどが挙げられる。とにかくキャラクター設定が陳腐だ。

 

また多重人格ものの定石として、物語の割と早い段階でそれぞれの人格がいかに異なり、独立したものであるのかをオーディエンスに明確に示す必要がある。観客の一定数は役者の演技力を堪能したいがために鑑賞しているからだ。そうした意味でも、本作の構成には不満が残る。『 スプリット 』のジェームズ・マカヴォイのレベルは別に求めない(そんなことができる役者は世界的にも40~50人しかいないと思われる)。しかし中村倫也の一人七役というのは過剰広告であった。実質的には一人二役で、それも正反対のキャラクター。こういうのは非常に演じ分けやすく、はっきり言って役者のポテンシャルをとことんまで引き出す演出にはなりにくい。スマホの録画機能で対話するシーンは現代的だが、それも『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』が似たようなことを先に行っている。スマホと対話するのではなく、スマホで録画するシーンを交互に映し出せなかったか。あるいは、スマホを右手に構えながらシームレスに人格同士が語り合うシーンは撮れなかったか。そこまでやらないのなら多重人格ものを撮る意味は薄い。

 

映像演出の面でも不満が残る。割れたサイドミラーに映る鳥が分裂していくのは、どう考えても『 スプリット 』のジャケットやポスターの二番煎じだし、そもそもそのシーンを繰り返し再生しすぎである。またキーとなる図書館が『 図書館戦争 』 のそれ。もっと別の図書館を探せなかったのか。同じ図書館を使うにしても、上方からの俯瞰のショットや、円周部分の書棚など、『 図書館戦争 』で飽きるほど見た構図である。もっと別の角度からのショットを監督や撮影監督は模索すべきでなかったか。

 

腑に落ちないのは、“火曜日”の態度。普通は“水曜日”が消えたら、第一に「自分も消えてしまうのではないか」という恐怖、第二に「他にも消えている曜日がいるのではないか」という疑念を抱くはずである。そうはならずに、いきなり未知の水曜日を楽しんでしまうところに、とんでもないご都合主義およびDIDへの無知と無理解を感じた。『 スプリット 』のカウンセリングシーンや『 ISOLA 多重人格少女 』を観ろ、そして原作小説『 十三番目の人格 ISOLA 』を読めと吉野耕平監督に強く言いたい。『 セブン・シスターズ 』も“月曜日”が姿をくらませたことで残りの曜日たちは大混乱に陥ったではないか(あちらは七つ子だが)。普通に考えれば10年単位で付き合いのある人間がいなくなれば困惑するだろう。あるいは、“水曜日”が水曜日を拒否したくなるような出来事があったのかと、水曜日に警戒することはあっても、ウキウキはしないだろう。七重人格という設定だけを先走らせて、人間というものが描けていない。

 

“僕”の面倒を看るべき医療関係者たちの目も節穴なのだろうか。脳への器質的なダメージでDIDを発症した、あるいは器質的なダメージの回復過程でDIDを発症したということは、“各曜日”との面談(カウンセリング)とメディカル・チェックが人格の独立あるいは統合という、いわゆる治療への道筋を立てるための大きなカギとなる。それを火曜日に“火曜日”相手にしか行っていない。アホなのだろうか。脚本および監督を務めた吉野耕平は、どこまで取材し、どこまで考察し、どこまで七重人格へリアリティを付与しようと努力したのか。おそらく満足にしていない。様々な先行作品の色々な要素をつまみ食いしただけの企画に予算とゴーサインを出した配給会社と制作委員会の罪である。ということは邦画という産業構造の罪でもある。勘弁してくれ。

 

メインキャスト以外の演技が総じて学芸会レベルである。特にきたろうと若い医者。これで出演料を受け取っていいと感じているのか。監督も何テイク撮ったのか。編集にどこまで関わったのか。どこまで現場で演出や演技指導をしたのか。せっかく昨今珍しい小説や漫画原作ではない邦画だというのに、この出来はあまりにも無残であり残念である。

 

総評

邦画のダメなところが凝縮されたような作品である。映画館が徐々に日常(withコロナだが)を取り戻しつつある中、割と楽しい気分で劇場に向かったのだが。これがTOHOシネマズ梅田のScreen 1というスクリーンの大きさと画質、そして音質に優れた劇場でなければ、もうマイナス5点したい。それぐらいの酷い出来である。某映画サイトなどで好評レビューが多いが、サクラだと思いたい。そうでなかれば映画ファンの劣化も甚だしい。というのはさすが言い過ぎか。はっきり言って中村倫也のファンでなければ、観る価値は極小である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get along

劇中で火曜日の言う「僕たち、仲良いんだよ」を英語にすれば、“We get along.”となるだろうか。A and B get along. = AとBは仲良くやっている、We get along = 僕たちは仲良くやっている、である。一定以上の世代の人間ならば“We can get along together.”と言えば通じるだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, ミステリ, 中村倫也, 日本, 深川麻衣, 監督:吉野耕平, 石橋菜津美, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

Posted on 2020年6月20日 by cool-jupiter

チェイサー 80点
2020年6月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ユンソク ハ・ジョンウ ソ・ヨンヒ
監督:ナ・ホンジン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200620190125j:plain
 

『 PMC ザ・バンカー 』のハ・ジョンウの出演作。鬱映画だと聞いていたが、この作品は確かに精神的にくるものがある。

 

あらすじ

元刑事のジュンホ(キム・ユンソク)はデリヘルを経営している。しかし、所属する女性二人が行方をくらます。誰かに売り飛ばされたと直感したジュンホはミジン(ソ・ヨンヒ)使って独自におとり捜査を開始。自店に他店にも記録のあるヨンミン(ハ・ジョンウ)という客をジュンホは追走して捕まえるが・・・

 

ポジティブ・サイド

2000年代の作品だが、やはりここにも『 国家が破産する日 』の傷跡が見える。刑事を辞めて、どういうわけかデリヘル経営者になっているジュンホが、最初は自社の商品を誰かに奪われていると憤慨し、行動を起こす。それが徐々に、社会的な弱者を自分が守らねばという使命感へと変わっていく。警察はあてにならない。所詮は権力者の犬である。ナ・ホンジン監督のそんな信念のようなものが物語全体を通じて聞こえてくるようである。

 

それにしても、ジュンホ演じるキム・ユンソクの妙な迫力はどこから生まれてくるのか。『 オールド・ボーイ 』でオ・デスを演じたチェ・ミンシクもそうだが、一見すると普通のオッサンが豹変する様は韓国映画の様式美なのか。『 アジョシ 』の悪役、マンソク兄のように三枚目ながら、やることはえげつない。こうしたギャップが、決してlikeableなキャラクターではないジュンホを、観ている我々がだんだんと彼のことを応援したくなる要因だ。最初の15分だけを観れば、ジュンホが主役であるとは決して思えない。むしろ、こいつが悪役・敵役なのでは?とすら思える。普通に社会のゴミで、普通に女性の敵だろうというキャラである。何故そんな男を応援したくなるのか。その絶妙な仕掛けは、ぜひ本作を観て体験してもらうしかない。アホのような肺活量と無駄に高い格闘能力も、何故か許せてしまう。なんとも不思議なキャラ造形である。

 

だが、キャラの面で言えばハ・ジョンウ演じるヨンミンの方が一枚も二枚も上手。『 殺人の追憶 』の真犯人はこんな顔だったのではないかと思わせるほど平凡な見た目ながら、その内面は鬼畜もしくは悪魔。このギャップにも震えた。それも『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクター博士のような超絶知性のサイコパスではなく、『 殺人の追憶 』や『 母なる証明 』などのポン・ジュノ作品でも静かにフィーチャーされた知的障がい者を思わせる男で、どこまでが素なのかが全くつかめない。本当に知的に問題のあるキャラかと言うと違う。ミジン(そして、その前の二人も)を自宅に連れ込んで、あっさりと監禁してしまうまでの流れは、非常に知性溢れる犯罪行為である。けれど、警察の取り調べにあっさりと口を割ってしまうところなど、どこか幼い子どもを思わせる素直さ。これほど掴みどころのない猟奇殺人者はなかなか見当たらない。その語り口はどこか『 ユージュアル・サスペクツ 』のケビン・スペイシーを彷彿させる。実在の事件と犯人に基づいているというところに韓国社会の闇と、その闇に多くの人に目を向けてほしいという韓国映画人の気迫を感じる。

 

それにしても韓国映画のバイオレンス描写というのは、いったい何故にこれほど容赦がないのか。ミジンを殺そうと金槌で特大の釘を後頭部にぶち込もうとするシーンは、観ているだけで痛い。『 ソウ 』でとあるキャラクターが壮絶な自傷行為を行うシーンも視覚的に痛かったが、本作はもっと痛い。路上のチェイスでついにジュンホがヨンミンを捕らえ、マウント状態からアホかというぐらい殴るシーンも痛い。邦画にありがちな口から血がタラリといったメイクや演出ではない。顔が腫れる、出血する、傷跡が残る、痛みで目がチカチカする。殴られる側の痛みが観る側にまで伝染してくるかのような描写だ。

 

鬱映画とは聞いていたが、エンディングも救いがない。まさしく韓国版『 セブン 』である。奇しくもこれもケビン・スペイシーか。猟奇殺人者やシリアル・キラーの恐ろしいところは、殺人行為そのもの以上に、何が彼ら彼女らを殺人に駆り立てるのかが不明なところにある。弁護士との接見シーンでヨンミンが性的に不能だから、その腹いせに女性を殺したのだという説が開陳される。単純で分かりやすい説明だ。だが、ヨンミンの甥っ子の負った頭の大怪我はいったい何なのか。ヨンミンが女刑事の“性”を揶揄するシーンは何を意味するのか。宗教的なシンボルを半地下の部屋の壁に描きたくったのは、いったいどういう衝動に突き動かされたからなのか。ヨンミンという殺人鬼の内面に迫ることなく閉じる物語は、我々に圧倒的な無力感と敗北感を味わわせる。だが、その先に一縷の望みもある。社会の底辺に生きる者同士の連帯を予感させて、物語が終わるからだ。後味の悪さ9、光の予感1である。それでも光は差しこんでくると信じたいではないか。

 

ネガティブ・サイド

ギル先輩とその仲間たちとジュンホの絡みが欲しかった。何の説明も示唆もないままに、「またお前が何かやりやがったのか!」という態度は、下手をすると偏見や差別になりかねない。もちろん偏見や差別に対する糾弾の意味合いも本作には込められている。けれど、偏見・差別は関係性が全く存在しない相手との間に発生する傾向のあるものだ。彼らの態度は、悪を許すまじというある意味で度を超えた正義感の持ち主であるジュンホという人間へのまなざしではなく、デリヘル経営者という社会のはみ出し者への視線に感じられた。

 

ジュンホの部下であるチンピラは最後はどこに行った?素晴らしく良い顔の俳優である。この男の活躍をもっと堪能したかったのだが。

 

クライマックスの展開の引っ張り方が少々強引かつ冗長だった。検事から12時間以内に証拠を出せと言われて、タイムリミットが設定されているうちはよいが、それを過ぎてしまった後の流れとテンションが中盤から後半のそれに比べて、やや落ちた。

 

総評

傑作と評して良いのかどうかわからないが、それでも最後までハラハラドキドキを持続させる良作である。グロ描写や暴力描写が多めなので観る人を選ぶ作品だが、社会矛盾を穿つメッセージ性と、社会的弱者を救うのはまた別の社会的弱者という希望とも絶望とも取れる内容は、これまた観る人を選ぶ。サスペンスの面だけ見れば、迷うことなく傑作である。この緊張感はちょっと他の作品では得られない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

アニ

日本語では「いいや」ぐらいの軽い否定語。アニアニ=いやいや、も韓国映画ではちらほら聞こえてくるような気がする。外国語学習のコツの一つに「はい」、「いいえ」と1~10の数字をまずは覚えろ、という教えがある(ボクシングジャーナリスト・マッチメーカー・解説者のジョー小泉)。なかなか機会は訪れないだろうが、韓国旅行や韓国出張の際に土産物屋であれこれ売りつけられそうになったら「アニアニ」と言ってやんわりと断ろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, A Rank, キム・ユンソク, サスペンス, スリラー, ソ・ヨンヒ, ハ・ジョンウ, 監督:ナ・ホンジン, 配給会社:アスミック・エース, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

Posted on 2020年6月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 70点
2020年6月14日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン エマ・ワトソン フローレンス・ピュー ティモシー・シャラメ
監督:グレタ・ガーウィグ

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Jovianと同世代(不惑)か、それ以上の世代ならば、ハウス名作劇場の『 愛の若草物語 』を観ていたことだろう。まさかグレタ・ガーウィグが同作品を参照していたとは思わないが、豪華なキャスティングにもかかわらずマーチ四姉妹の特徴はしっかりと保たれていた。

 

あらすじ

ジョー(シアーシャ・ローナン)は小説家志望。長女メグ(エマ・ワトソン)や三女エイミー(フローレンス・ピュー)、四女ベス、そして向かいに住む裕福なローレンス家の長男ローリー(ティモシー・シャラメ)らと、南北戦争時代の陰鬱なアメリカで、それでも健気に前向きに生きていこうとするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメの共演となると『 レディ・バード 』を思い出す。実年齢からすればハウス名作劇場のような10代半ばを演じるのは厳しいはずだが、それを感じさせない。フローレンス・ピューとベス役のエリザ・スカンレンの童顔の果たす役割も大きいだろう。若草物語と言えば、どうしたって姉妹の少女時代の話がメインになる。同時に原題のLittle Womenというのも、「私たち姉妹は小さいけれども立派な大人の女性なのだ」という意味を内包している。そうでなければ Little Sisters や Little Girls というタイトルがつけられていたはずだ。そうした姉妹のビルドゥングスロマンを、本作はジョーの15歳時代と22歳時代を交互に行き来することで、効果的に、そしてユニークに描き出した。

 

効果的に、というのは『 若草物語 』の背景をくどくどと説明しなかったところ。『 スパイダーマン ホームカミング 』でも、蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを手にするも、自らの不注意でアンクル・ベンを死なせてしまって・・・という誰もが知っているオリジンをばっさりと省略したところが潔かった。それと同じで、いきなりジョーが作家として世に旅立とうとするところから本作は始まる。これでいいのだ。

 

ユニークというのは、ある意味で観る側を置いてけぼりにしてもかまわないぐらいの勢いで二つの時間軸を何の前触れも説明もなく移動するところである。もちろん、ジョー15歳の時点ではあるキャラクターが存在して、ジョー22歳時点ではあるキャラクターが存在しないなど、『 若草物語 』に関する事前の背景知識があったり、キャラクターたちの話している事柄をすぐに理解できれば、目の前のシーンが“いつ”なのかを把握するのはたやすい。そうでなければ多少難しい。だが、それでもよいのである。この少々ややこしい時間の描写方法により、ストーリーの虚実皮膜の間が徐々にblurryになっていく。これがクライマックスの演出で効いてくる。これはなかなかの仕掛けである。

 

ローラ・ダーンはやはり『 ジュラシック・パーク 』のイメージが強かったが、『 マリッジ・ストーリー 』で完全に独立不羈の女性へと飛躍して、今では完全なる肝っ玉母ちゃんである。『 ジョジョ・ラビット 』のスカジョも良かったが、あちらはママ。こっちは母ちゃん、という感じ(本人は「ママと呼んで」とローリーに言っていたが)。

 

それでもパフォーマーとしては主役のシアーシャ・ローナンが光っていた。抑圧された時代を雄々しく生きる強い女性・・・ではなく、抑圧された時代に打ちのめされることで強くなった人物という印象を強く受けた。生涯をかけて打ち込めるもの、それが彼女にとっては物語や小説を執筆することだった。冒頭で「辛いことが多かったから、私は楽しい物語を書く」といった趣旨のジョー・マーチの言葉が映し出されるが、彼女にとって物語をつづることは、自分の人生を追体験することであり、経験することのなかった人生を生きることであり、生きていた人物が確かに「生きていた」ということを証明するための試みでもある。そして、それはそのまま今の時代に『 若草物語 』を再解釈しようとしたグレタ・ガーウィグ監督の意図と重なる。想像力があり、聡明で、時代によって規定される人間の枠組みにはまらず、孤高の生き方を目指すが、孤独に対して怯えや悲しみの心情を隠すことなく素直に吐露することもできる。どこまでもリアルなジョー・マーチ像が、確かにシアーシャ・ローナンによって生み出された。女性のみならず、男性も、子どもも、高齢者をエンパワーしてくれる、力強いパフォーマンスである。

 

ネガティブ・サイド

時代背景に関する説明がもう少し欲しかった。キャラクターの説明をばっさりと省略した点は評価に値するが、それと同じように時代背景や当時の社会の空気の説明までも省いてしまうのは賛成しない。国が内戦状態であることや、家父長の不在、独身女性の不遇なども、もう少し語れた、あるいは描写できたはずだ。

 

出版社の編集長に、女性キャラクターの行く末のあれこれを指示させるやり方はあまり上手いとは言えない。これはおそらくグレタ・ガーウィグ監督自身の経験が投影されているものと推測する。過去の人間の声を現代人が代弁することは良い。だが現代人の声を過去の人間に代弁させるのには少々違和感を覚える。

 

エマ・ワトソンとフローレンス・ピュー、特にピューにもっと見せ場が欲しかった。一番の見どころがジョーとの喧嘩とは・・・。さらにはclichéとしか言えない仲直りを見せつけられては・・・。『 ミッドサマー 』の時のように、精神的な脆さ、不安定さを引き出すことができていれば、後半の幸せなシーンがより際立ったように思う。シアーシャ・ローナンが主役ではあるが、その主役を最も輝かせるべき姉妹は、フローレンス・ピューであるべきだった。

 

総評

若草物語を知っている人なら劇場へ行こう。若草物語を知らないなら、最低限のあらすじやキャラクターだけを予習して劇場へ行こう。生きづらさを抱えていたり、過去に囚われて前になかなか進みだせない。そう表現してしまうと大仰だが、誰もがどこかで何かを間違えて、そのせいで目の前の現実に向き合えないことがある。そうした現実に、物語の力で向き合ったジョー・マーチの姿は、観る者に勇気を与えてくれる。豪華女優陣が勢ぞろいしているからではない。単純に良い作品だから、ぜひ劇場へ行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be hard on ~

三女エイミーの台詞に、“The world is hard on ambitious girls.”というものがあった。「若い女性が大志を抱くと、世間の風当たりが強くなる」のような意味である。be hard on ~=~にきつく当たる、のような意味である。いじめに少し近いか。学校でのいじめはbullyだが、「職場でマネージャーにいじめられて、腹立つ!」は“I’m so frustrated because the manager is hard on me!”のようになる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ワトソン, シアーシャ・ローナン, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, フローレンス・ピュー, 伝記, 歴史, 監督:グレタ・ガーウィグ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

『 勝手にふるえてろ 』 -理想と現実のはざまで悶えろ-

Posted on 2020年6月17日 by cool-jupiter

勝手にふるえてろ 80点
2020年6月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:松岡茉優 渡辺大知 北村匠海
監督:大九明子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200617004600j:plain
 

これは確か2017年の年末と2018年の年始にシネ・リーブル梅田で観たんだったか。男とか女とか関係なく、自分の古傷、封印していたほろ苦い思い出を無理やり呼び起こされ、それをズタボロに引き裂かれ、しかし最後に肯定してもらえたような気分になった。映画館にはまだまだ少々行きにくい。なので面白さが保証された過去作を観るのも有意義だろう。

 

あらすじ

江藤良香(松岡茉優)は24歳OL。中学二年生の頃から一(北村匠海)に恋焦がれている。だが、ある時、会社の同期の二(渡辺大知)が猛アプローチを仕掛けてきた。大好きだけれど手が届かない一か、好きではないけれど自分を好いてくれる二か、良香は思い悩むのだが、ある出来事をきっかけに一に会おうと思い立つ・・・

 

ポジティブ・サイド

青春とは不思議なもので、長い人生の中では比較的短い期間に過ぎないが、その時に受けた影響は何年も何十年も残る、あるいは続くことがある。往々にしてその影響は歳月を経て希釈されるものだが、中には逆に強化してしまう者もいる。その代表例が主人公の江藤良香だ。

 

中学二年生の頃から一途に一に懸想して・・・と言えば聞こえは良いかもしれないが、これはもはや重度の中二病である。そうした痛い女を松岡茉優は見事に体現してくれた。ソーシャルな意味でのコミュニケーションが上手いのか下手なのか分からないキャラクターで、我々はそれをパブリックな自分とプライベートな自分を華麗に使い分ける、ある意味で立派な女性像として許容する。こうしたキャラ造形は見事だし、実際にそのように映る演出も随所に挿入されている。個人的に感じ入ったのは、良香が自分で自分にアンモナイトの化石をプレゼントとして贈るところ。玄関のむこう側とこちら側で、キャラクターがガラリと入れ替わるシーンは、良香の二面性を大いに印象付けた。こうした良香のイメージが後半の怒涛の展開とドンデン返しを大いに盛り上げる。

 

二である渡辺大知も、いつも通りの三枚目キャラながら、人間の本質の部分では熱血漢、けれど表面的にはストーカー気質という少々一通りでないキャラを好演。なんというか、ラブコメやラブロマンスやヒューマンドラマの文法に全く従わないキャラである。なので、良香と同じく、観る側が共感するようになるのに少々時間がかかる。けれど、現実にこのような男がいれば、それはよっぽど根が野暮か、さもなければよっぽど自分に正直であるかのどちらかだろう。いや、男性だけではなく女性でもそうだ。八切止夫は著書『 信長殺し、光秀ではない 』で「人間関係とは一にかかって、いかに相手に自分のこと良いように誤解させるかだ」と喝破していた。それをしない人間というのは逆に信用できる。二はそういう男である。

 

それにしても松岡茉優は本当に代表作を作り上げたなと思う。『 脳内ポイズンベリー 』の真木よう子と吉田羊を同居させたような女で、なおかつ社会性に欠ける言動=二のみならず観ている観客全員をドン引きさせる大嘘を、いたって大真面目につくところ。さらには会社を休んで自宅で過ごす様のあまりにも健康的な健全さ。世俗の歓楽には興味はなく、自分の価値観だけで十分に満足できるという、仙人のようである。一方でそうした生活を長くし過ぎたせいで、一を好きなだけで満足できる人生を10年間過ごしてきたせいで、もはや軌道修正できるかできないかギリギリのところにいる様が、多くの男女の共感も呼びやすい。『 電車男 』の逆というと変だが、構図としてはそうである。人間関係というと非常にニュートラルに聞こえるが、そこになんやかんやのドロドロとした、決して綺麗ではないものがある。だが、それらすべてが汚泥であるわけではない。ふとした言動が誰かを傷つけたりすることはある。二がそうした俗世の在り方を良香に説く様には、なにかこちらが圧倒されるようなリアリティがある。自分は知らないところで他人を傷つけてOKでも、他人が自分を傷つけることは許さない。そんな良香、さらには全ての中二病経験者に、雨中の二が切々と語りかけてくる様は感動的である。こんな痛い女を包み込めるのは、こんな泥臭い男しかいない。そんな、一歩間違えればセクシズムと受け取られかねないことも本作についてなら言える。そんなパワーを放つ快作である。

 

ネガティブ・サイド

辞表とはなんだ?退職願ではないのか?と、昨年、会社に退職届を出したJovianが突っ込んでみる。綿矢りさのミス?それとも小説の編集者や校正も見逃していた?脚本にする時に間違えた?

 

多少気になったのがフレディ。『 ボヘミアン・ラプソディ 』前の作品であるが、それでももう少し似せる努力はしてほしい。同時にやはり松岡茉優は顔が整い過ぎていて、中学時代の良香には苦しかった。いかに野暮ったく描いても栴檀は双葉より芳しである。

 

片桐はいりのキスシーンは必要か?ぎりぎりで見せないようにするほうが、観る側はかえって想像力をそそられる。想像力がテーマの一つである本作には、そうした映さない映し方がふさわしかったのでは?

 

総評

Third viewingだったが、それでも面白い。見るたびに発見ができる。松岡茉優は極めて薄い化粧で、ちょっとした照明の工夫で明るい時と落ち込んでいる時、自分の世界にいる時と会社などの他人の世界にいる時で、光量が使い分けられている。ストーリーやキャラクター以外の映画作りの技法の面でも優れた、近年の邦画の一つの到達点である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

go extinct

絶滅する、の英語である。become extinctも同じくらい使われる。絶滅すべ~きで~しょう~か~?を、“I should let my love go extinct, shouldn’t I?”とすれば、収まりがよく聞こえる。英語のフレーズやセンテンスは、リズムと一緒に覚えよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ラブコメディ, ラブロマンス, 北村匠海, 日本, 松岡茉優, 渡辺大知, 監督:大九明子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 勝手にふるえてろ 』 -理想と現実のはざまで悶えろ-

『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

ハーフェズ ペルシャの詩 60点
2020年6月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:メヒディ・モラディ 麻生久美子
監督:アボルファズル・ジャリリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200614230819j:plain
 

近所のTSUTAYAでジャケットだけ見て借りてきた。あるすじも読まなかった。ジャケ買いならぬジャケ借りである。それにしても難解であった。一応、宗教学や比較人類学をやっていたJovianにも理解が及ばない部分が多くあった。

 

あらすじ

シャムセディン(メヒディ・モラディ)はコーランの暗唱者“ハーフェズ”の称号を得たことで、大師の娘ナバート(麻生久美子)がチベットからやって来た際に、家庭教師に任命された。コーランの教えを読み聞かせするうちに、シャムセディンはナバートに恋心を抱く。だが、それは許されぬ恋慕であった・・・

 

ポジティブ・サイド

シリアスなラブロマンスのはずだが、冒頭のシーンから笑ってしまった。シャムセディンと詩塾の先生との対峙が、まるで『 パティ・ケイク$  』や『 ガリーボーイ 』のストリート・ラップバトルと重なって見えたからだ。言葉と言葉の格闘技、詩歌の空中戦である。笑ってしまったと同時に唸らされもした。詩文を即座に暗唱するのは、記憶力に拠るものではなく熱情によるものだということが、このシーンでは強く示唆されていたからである。頭で考えてみると答えはXだが、心で考えてみると答えはYになる。そうした時に、人はどうすべきなのか。それが本作のテーマであることが、あらすじを読まずとも冒頭のシーンだけで伝わってきた。この監督は手練れである。

 

面白いなと思うのは、同じ名前を持つ二人の男という設定だ。厳格なシーア派優位のイラン・イスラム社会では、一昔前の日本など比較にならないほど家父長および共同体の長の権限が強い。婚姻も裁判も、法治主義国家ではなく人治主義国家のそれである。個人の自由がない社会で、共同体の規範からはみ出る者には容赦の無い排除の論理が適用される。このあたりは、程度の差こそあれ、日本も「人の振り見て我が振り直せ」であろう。片方の男は妻を愛しながらも、妻に愛されない。片方の男は、女を愛しながらも女への愛を忘れるように強要される。どこでもある物語だが、ハーフェズのシャムセディンが辿る忘却の旅は、行く先々で様々な社会矛盾をあらわにしていく。

 

なぜ処女信仰(という名目で、実際は女性への差別と抑圧に他ならない)をここまで大っぴらにするのか。愛を忘れるために処女7人に儀式に協力してもらうというのは、人の心をコントロールしたいという願望か、あるいはコントロールできるという過信の表れだろう。そしてジャリリ監督は、ある意味でそうしたイスラム社会の因習を嗤っている。それもユーモアのある笑いではない。毒を含んだ笑いだ。この村の処女は私だけだ、と語る老婆の一連のシークエンスは、悲劇であると同時に喜劇である。外国人(日本人)キャストを起用したのは、本作を諸外国に売り込むためで、その目的の一つは外部世界の視線を自国に集めることだろう。近年、レバノンが『 判決、ふたつの希望 』や『 存在のない子供たち 』を世に問うているように、2000年代のイランも、自国の矛盾を外部に観てほしいと感じていたのだ。

 

詩想の面でも本作はとても美しく、また力強い。数々の言葉が空中戦、銃撃戦のように繰り広げられるが、その中でも最も印象に残ったのはハーフェズのシャムセディンの「あなたの歩いた道の砂さえ愛おしい」というものだった。これは『 サッドヒルを掘り返せ 』のプロジェクト発起人の一人が「クリント・イーストウッドの踏んだ石に触れたかった。理由はそれだけで十分だ」という考え方に通じるものがある。クリミア戦争の前線の野戦病院では、ランプを手に夜の見回りをするナイチンゲールの影にキスをする兵士がたくさんいたと言う。このような間接的なものへの愛情表現は、一歩間違うと下着泥棒などに堕してしまうが、だからといってその気持ち、心の在りようまでは決して否定はできない。宗教でも哲学でも道徳でも、なんでもかんでも行き過ぎてしまうと有害になる。まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。なかなかに複雑な悲恋であり、なおかつ恋愛の成就である。

 

ネガティブ・サイド

イラン社会に関する説明があまりにも少なすぎる。チベット帰りという設定のナバートにコーランの読み聞かせの家庭教師をつけているのだから、コーランの文言以外にも、イラン社会の風俗習慣についてもっと語るべきだった。あるいは公序良俗についてもっと映像をもって説明すべきだった。

 

「シャムセディンが二人いる、二人に見える」というセリフが繰り返し子ども達などによって放たれるが、これも分かりにくい。シャムセディンはおそらく男性性の象徴(性的な意味ではなく)で、それが分裂している、あるいは統合失調症的症状を呈していると言いたいのだろうか。または、男性性が社会・文化・宗教によって引き裂かれている、システムの一員としてのパーソナリティと独立した個人としてのパーソナリティに分裂していることの表れなのだと思うが、どちらのシャムセディン自身の交友関係も描写がないので、内面の事象なのか外面の事象なのかが分かりづらい。というか分からなかった。

 

鏡というのは比喩的なアイテムであるが、それを処女に拭いてもらうことの意義もよく分からなかった。ペルシャ語やペルシャ文化が精通すればよいのだろうか。最大の問題は、ハーフェズという歴史上の詩人が現代イランでどのように受容され、評価されているのかが観る側に伝わってこないところだ。『 ちはやふる -上の句- 』の中で1千年前の藤原定家の歌が唐紅のイメージで描写されたように、ハーフェズの詩の世界観を、ほんの少しで良いので映像や画像で表してみてほしかった。そうすれば、言葉ではなくイメージで、ハーフェズの詩歌の影響力や遺産、その功績の大きさなどが多少なりとも伝わったのではないか。

 

総評

なんとも解釈が難しいストーリーである。はっきり言ってちんぷんかんぷんな部分も多い。ただし、一つ言えることは、今後の日本社会を考えるうえでヒントになる作品であるということである。『 ルース・エドガー 』と同じく、異文化育ちながら日本に“帰って来る”者たち(大坂なおみetc)は、今後増えることはあっても減ることは無い。そうした者たちをどのように受け入れるのか。問われているのそこである。そうした意味で本作を観れば、個の尊重と共同体の維持のバランスがいかに難しいかが肌で感じられるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント語学学習レッスン

今回は勉強法である。麻生久美子は『 おと・な・り 』でもフランス語を熱心に勉強していたが、大人(おおむね20歳以上)の語学学習はインプット→アウトプットが原則である。耳で聞く、文字を読む、それを声に出す。このサイクルを崩してはならない。もしもあなたの通う英会話スクールや、あなたが使っている教科書・参考書が「四技能をバランスよく学習する」と謳っていれば、勉強法を変えた方が良いかもしれない。語学をやるなら、リスニング50、リーディング20、スピーキング20、ライティング10ぐらいの配分で良い。中級者以前ならなおさらである。

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Posted in 国内, 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, イラン, メヒディ・モラディ, ラブロマンス, 日本, 監督:アボルファズル・ジャリリ, 配給会社:ビターズ・エンド, 麻生久美子Leave a Comment on 『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

『 シラノ恋愛操作団 』 -韓流・大人のビタースイート・ロマンス-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

シラノ恋愛操作団 65点
2020年6月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:オム・テウン イ・ミンジョン パク・シネ チェ・ダニエル
監督:キム・ヒョンソク

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『 オズの魔法使 』で満たされた心をどう鎮めるか。それは普通の現代映画を観ることである。そこで本作をチョイス。予想通り、期待通りの普通~標準以上の作品であった。

 

あらすじ

小さな劇場で俳優をしているビョンフン(オム・テウン)は、副業としてシラノ・エージェンシーを営んでいる。つまり、クライアントに演技指導をして恋愛を成就させるのだ。ある日、訪れたサンヨン(チェ・ダニエル)の依頼にビョンフンは驚いた。サンヨンが恋焦がれる相手は、かつての自分の恋人だったのだ・・・

 

ポジティブ・サイド

シラノ恋愛操作団のシラノとは、言わずと知れたシラノ・ド・ベルジュラックである。『 累 かさね 』でも触れたが、顔の美醜は恋愛においては大きなアドバンテージにもディスアドバンテージにもなりうる。だが、そんな恋愛模様はもう見飽きた。韓国映画お得意の過去に囚われる男と未来に目を向ける女の物語を堪能しよう。

 

まず、恋愛操作団を作ってしまおうという発想が面白い。日本の少女漫画を映画化した作品は、だいたい主人公とヒロインの両方に頼れるサポート役がいて、そいつらは決して主人公たちの領域に入ってこない。くっつくとしても自分たち同士がくっつく。いや、主役の領域に割り込んでくるキャラクターもいるが、それも必ず予定調和的に退場していく。名前を挙げるのが憚られるほどに、そうした作品は数多い。そうではなく、カネで恋愛サポーターを買うというのが、いかにも即物的・現世利益重視の韓国らしい。勘違い召されるな。彼ら彼女らはカネに汚いのではない。自分の願望を成就させたいという気持ちにひたすらに忠実なだけである。そうしたカネは持っていても恋愛の手練手管はちょっと・・・という一歩間違えれば非常に剣呑なキャラクターをチェ・ダニエルは見事に好演。そして、彼が恋焦がれる美女を演じたイ・ミンジョンは、ハリウッドにも進出しているイ・ビョンホンの細君。それにしてもイ・ミンジョンにせよぺ・スジにせよぺ・ドゥナにせよチャン・ジヒョンにせよ、コリアン・ビューティーには、ちんちくりんは存在しないのか。日本では広瀬すず、土屋太鳳、杉咲花、浜辺美波など、160cm未満ばっかりである。何故だ、遺伝子レベルでそこまで差はないはずだが。あと、コリアン・ビューティーの共通点として、おしとやかさゼロという特徴がある。これまた大和撫子幻想を夢見ていると、本作のイ・ミンジョンにはまったく共感できないだろう。というか、美人であるがゆえに余計に憎たらしくさえ思えてくるだろう。そう思わせない存在感と迫真性がイ・ミンジョン演じるヒジュンというキャラクターには備わっていた。

 

『 建築学概論 』のオム・テウンが、本作でも良い味を出している。劇中でパク・シネ演じるシラノ・エージェンシーの同僚が「男は女の過去の相手が気になるけれど、女は男の次の相手のことが気になるものよ」と言うくだりには感銘を受けた。男女の恋愛観の違いを「男は名前を付けて保存、女は上書き保存」とPC用語で説明したフレーズもすっかり定着したが、パク・シネの上の言葉も、もっと真剣に捉えられても良いのではないだろうか。初恋は実らないものであるが、やけぼっくいも実らない方が多いのではないか。やけぼっくいには火が付き易いと言うが、火が付いてしまっては実るものも実らない。大人になるということは、ある意味では可能性を狭めていくことである。現実を受けいれるということである。野坂昭如だったか誰かが雑誌の恋愛相談で、「男の最後の仕事はふられてやること、忘れられてやること」みたいなことを言っていた。至言であろう。韓国女性と大和撫子に大きな違いがあったとしても、韓国男性と日本男性に大きな違いはない。そう、ふられてやろう、忘れられてやろう。女が上書き保存できるのは、男たちが最後の仕事を全うし、死屍累々たる惨状の歴史を紡ぎ続けているからだ。本作は基本的にはラブコメであるが、人間の本質をしっかりと突いている。

 

ネガティブ・サイド

ヒジュンの外見的な魅力は問題ない。問題は、彼女の性格や人間性である。はっきり言って、彼女と主人公のビョンフンの過去のいさかいの原因には、共感できる人と反感・憎悪を抱く人に二分されるだろう。極端なキャラクター造形は物語作りの基本ではあるが、この展開はかなりの人の心をえぐるだろう。

 

チェ・ダニエル演じるサンヨンも、財力にモノを言わせるなら、もっといろいろな使い道があるだろう。ファンドマネージャーというと『 国家が破産する日 』を思い出すが、地獄の沙汰も金次第である。美容院やら服装やらクルマやら貴金属にカネを使ってみたものの、恋愛が上手く行かなかった。だからこそ最後の最後にシラノ・エージェンシーにたどり着いた。そんな因果を描いてほしかったと思う。

 

クライマックスへの入り方も少々間延びし過ぎの感がある。「ふられてやる、忘れられてやる」のが男の最後の勤めであるならば、もっと切れ味よくスパッと介錯してやれよ、とキム・ヒョンソク監督に言ってやりたい。

 

総評

大人が色々とこじらせると、それだけでドラマになる。愛するから信頼できるのか、信頼しているから愛せるのか。そんなことを考えるのも乙なものである。別にどちらが正解というものではない。ただ、愛さなかったことを後悔する人間はいないだろうが、信頼しなかったことを後悔する人間は星の数ほどいるだろう。そうした経験の持ち主なら、本作はそれなりに楽しめるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

an old flame

古い炎、つまりはやけぼっくいである。しばしば rekindle an old flame = やけぼっくいに再び火をつける、のような使い方をする。賢明なる諸賢が rekindle an old flame をしないことを祈る。

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