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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: D Rank

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181011185603j:plain

これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

Posted on 2018年10月9日2019年8月24日 by cool-jupiter

クワイエット・プレイス 50点
2018年10月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エミリー:ブラント
監督:ジョン・クラシンスキー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181009020309j:plain

以下、ネタばれに類する情報あり

あらすじ

地球はいつの間にか静寂の支配する世界に変貌してしまった。音を立てるものを容赦なく抹殺する謎の侵略が原因である。そんな世界でも、エヴリン(エミリー・ブラント)とリー(ジョン・クラシンスキー)の家族は、手話やその他の工夫を凝らしながら生き延びていた。しかし、末っ子が音の出るおもちゃで遊んでしまい、あえなく襲われ死亡。その遠因となってしまった聴覚に障害を持つ姉は、罪悪感に苛まされる。それから約1年、エヴリンはお腹に新たな子を宿していた。しかし、謎の侵略の魔手がすぐそこまで迫っていた・・・

 

まず、この映画は突っ込みどころが満載である。その点を最初に指摘しておかねばならない。何故、人類は滅亡の一歩手前まで追いやられてしまったのか。何故、そこに至るまで音を立ててはいけないという鉄則に気付かなかったのか。許容される音の大きさや波長はどうなっているのか。次から次へと疑問が湧いてくる。しかし、それらのマイナス点と同じくらいプラスな点もある。まずはそれらを見ていこう。

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントとジョン・クラシンスキーの演技の全てが圧巻である。実生活でも夫婦である二人だからこそか、手話や、本当に小さな囁き声でしか会話ができない世界でも、ほんのちょっとした表情や仕草でコミュニケーションが成立するのは見事である。といっても、我々も実は同じようなことをやっている。例えば、ベテラン夫婦になってくると、「なあ、アレってどこやったっけ?」という夫に対して「ほら、コレやろ?」というように返す妻はそれほど珍しくないだろう。必要最低限以下の言葉でも通じてしまうのが、夫婦の絆の一つの証明と言えるかもしれない。

 

またクラシンスキーのキャラは、科学者でありエンジニアでもある。文明が崩壊した世界でも川で魚を獲り、住処の周りに警戒網と信号を張り巡らし、他都市との通信もあきらめず、娘のために補聴器を試作したりさえする。まさにアメリカ社会の思い描く Positive Male Figure の体現というか理想形のような男である。『 オデッセイ 』が強く打ち出していたことであったが、科学的な知識と技術はサバイバルの基礎であり土台である。そのことが分かっているから、エヴリンも息子への教育を怠らない。この一家は未来への希望を捨てていないのだ。話の設定上、台詞で状況を説明することができないのだが、それを逆手にとって濃密な人間ドラマを構築する。SFホラー映画のはずが、いつの間にやら見事なヒューマンドラマ、ファミリードラマに仕上がっている。クラシンスキーは監督としてもなかなかの手練れである。

 

ネガティブ・サイド

一方で否定的にならざるを得ない面も確かに存在する。本作は『 フィフス・ウェイブ 』と『 クローバーフィールド HAKAISHA 』的な事態が地球上で展開され、『10 クローバーフィールド・レーン』および『 死の谷間 』的な世界に取り残された一家が、『サイン』さながらに『スーパー8』のモンスターから逃れようとする映画である。つまり、どこかで観たようなシーンのツギハギ、パッチワークなのである。そこに「 音 」という要素をぶち込んできたのが、古い革袋に新しい酒というやつで、本作の売りになる部分なのだが、とにかくストーリーが余りにも弱すぎる。その他のオリジナリティが無さ過ぎる。

他には、冒頭の末っ子が殺されてしまうシークエンスについて。あの世界のあのシチュエーションで目を離すか?何をするか分からないのが子どもという存在で、夫婦としての経験値の高さと親としての経験値の低さの同居を見せられたような気がして、その後の展開にもう一つ釈然としない場面が出てきた。ああでもしないことには平穏無事に一家が過ごしてしまっては映画にならないのは分かるが、しかし・・・

 

また、音を立ててはいけない世界でジャンプスケアを使うというのは、あまりにも陳腐ではないか。我々が恐怖を感じるのは、恐怖を感じる対象の正体が不明だからであって、ジャンプスケアには恐怖を感じない。あれはただ単にびっくりしているだけなのだ。というか、ジャンプスケアのタイミングも余りにも予定調和すぎる。ホラー映画初心者ならいざ知らず、ある程度の映画鑑賞経験の持ち主には子供だまし、こけおどしに過ぎない。音でびっくりさせるのではなく、いつ、どこで、どのように音が鳴ってしまうのか分からない。そんなシチュエーションでこそスリルやサスペンスが生まれるし、それこそが本作が目指すべき王道のホラー路線だったはずだ。いきなり化け物や悪霊、エイリアンが姿を現すのではなく、その姿を見せながらゆっくりとゆっくりと近づいていくる異色のホラー作品『イット・フォローズ』のように、もしかしたらホラー映画にパラダイム・シフトを起こし得たかもしれないポテンシャルを秘めていたのにと思う。続編があるらしいが、期待できるのだろうか。

 

総評

もしも観るとするなら、レイトショーがお勧めかもしれない。本作のような作品を芯からじっくりと味わうためには、真っ暗な劇場で、少数の観客と互いに呼吸や衣擦れの音さえも意識し合いながら、大画面に没入したい。中学生辺りが劇場にいると、空気を読まずにポップコーンをボリボリと頬張ったり、隣の奴とひそひそ声で話したりするからだ。エミリー・ブラントが体現する「女は弱し、されど母は強し」を味わうも良し。クリシェ満載と知りながら、敢えてホラー要素を楽しむも良し。チケット代の価値は十分にあるだろう。

 

考察

あの侵略者は、上位の異性文明のペット動物か人工生命体だよね?続編を作るなら、世界観を壊すことなくリアリティを確保しなければならないけれど、『 インディペンデンス・デイ:リサージェンス 』の続編(出るの?)みたいに、嫌な予感しかしない。You have to prove me wrong, John Krasinski !!

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョン・クラシンスキー, スリラー, 監督:ジョン・クラシンスキー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

『プレデター2』 -宇宙の広大さを感じさせるという一点のみが評価ポイント-

Posted on 2018年10月4日2019年8月22日 by cool-jupiter

プレデター2 40点

2018年9月30日 レンタルDVD鑑賞
出演:ダニー・グローヴァー ルーベン・ブラデス ビル・パクストン
監督:スティーブン・ホプキンス

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181004002154j:plain

*以下、ネタばれに類する記述あり

 

前作の『プレデター』が余りにも鮮烈な印象を残したため、その続編も標準以上の面白さを持っているにもかかわらず、標準以下に見られてしまう。極めて不遇な作品である。同じような憂き目に遭った作品としてはまあまあ古いところでは『あネバーエンディング・ストーリー』、そこそこ古いものでは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、それなりに最近のものでは『パシフィック・リム』が挙げられるだろう。

異常な暑さに襲われるLAの街では麻薬取引を仕切るコロンビア系ギャングとメキシコ系ギャングが市街地で警察相手に銃撃戦を繰り広げていた。ハリガン警部補(ダニエル・グローヴァー)は体を張って現場に介入するが、そこにはギャングの惨殺死体が吊るされていた。さらに、LAの街では奇妙な惨殺事件が続発する。得体の知れない殺人者を相手に、ハリガンの死闘が幕を開ける・・・

大昔に親父と一緒にWOWOWだかレンタルビデオで観た記憶がある。『リーサル・ウェポン』と『リーサル・ウェポン2 炎の約束』は劇場で観たんだったか。まあ、とにかくハリガン警部補がマータフにしか見えないのである。役者というのは、あまりに強烈なハマり役を持たない方が良いのだろう。寅さんを演じた渥美清しかり、スーパーマンを演じたクリストファー・リーブ然り、ルーク・スカイウォーカーを演じるマーク・ハミル然り。そういう意味ではハン・ソロでありインディ・ジョーンズでありリチャード・キンブル医師でもあるハリソン・フォードは大したものである。

閑話休題。SFは本来はScience Fictionの頭文字を取ったものだが、人によってはSpace Fantasyの頭文字だという人もいる。宇宙の謎、神秘、広大さ、深遠さをテーマにした娯楽作品ということだ。本作は後者として定義づけられたSFに属すると言える。プレデターの船内でハリガンが目にする数々の頭蓋骨および脊椎らしきものの中に、ゼノモーフのそれが見られるからだ。この点だけで、『プレデター』のシリーズは、『エイリアン』の持つ世界観、いや宇宙観に並んだと言える。なぜなら、我々はそこに新たな宇宙の広がりを予感するからだ。『エイリアン』を傑作たらしめた最大の要素は、疑いようもなくH・R・ギーガーが手掛けたエイリアンの造形美であるが、「エンジニア」の存在も見逃してはならない。この宇宙には未知なる存在が眠っている、潜んでいると思うだけで、胸が興奮で、あるいは恐怖で高鳴るではないか。J・P・ホーガンの傑作小説『星を継ぐもの』も、月面で見つかる死体が最大のサプライズなのだが、木星の衛星ガニメデで見つかる宇宙船に読者は宇宙の途方もない広大さを予感するのである。とは言うものの、では何故『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』にはJovianは全く感銘を受けなかったのだろうか。結局は、個人の好みの問題に尽きるのだろう。

AVPシリーズとなると、はっきり言って観るのが苦痛だったが、今なら、あるいは今こそ、フレッシュな目で観られそうな気がする。さて、今年中には観てみるとしよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ダニー・グローヴァー, 監督:スティーブン・ホプキンス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プレデター2』 -宇宙の広大さを感じさせるという一点のみが評価ポイント-

『ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー』 -女の友情の美しさと醜さを目撃せよ-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 45点

2018年9月27日 レンタルDVD鑑賞
出演:スカーレット・ジョハンソン ケイト・マッキノン ジリアン・ベル イラナ・グレイザー ゾーイ・クラヴィッツ
監督:ルシア・アニエロ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180930002759j:plain

原題はRough Night、≪大荒れの夜≫の意である。『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の女性版でもあるし、『バチェロレッテ あの子が結婚するなんて!』や『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』の亜種というか系列作品でもある。

ジェス(スカーレット・ジョハンソン)とアリス(ジリアン・ベル)、フランキー(イラナ。グレイザー)、ブレア(ゾーイ・クラヴィッツ)の4人は大学生時代からの親友。一生変わらぬ友情を誓った仲である。大学卒業後10年、ジェスは政治家を目指して選挙運動中、そして婚約者のピーターとの結婚も迫っていた。旧知の4人にジェスのオーストラリア留学時代のルームメイト、ピッパ(ケイト・マッキノン)も含めて5人はマイアミにてバチェロレッテ・パーティーを行うこととなる。それがとんでもない騒動の幕開けとなるとも知らず・・・

マイアミは、LAほどではないが、数多くの映画の舞台となってきた。しかし、ここで思い浮かんでくるのは『マジック・マイク』、マシュー・マコノヘイがキッドと共に旅立って行った先がマイアミである。男性ストリッパー、マジック・マイク風に表現すれば、メイル・エンターテイナー(male entertainer)である。そして彼らの仕事と言えば、女性に奉仕することである。バチェロレッテ・パーティーと言えば、メイル・エンターテイナーが定番らしい。本作では、ジェスの独身最後の夜に思いっきり羽目をはずすべく呼んだストリッパーを、アクシデントによりアリスが殺してしまう。元々、亀裂が入っていたというか火種をはらんでいた彼女らの関係は、ここからドラマチックに展開していく。それを目の当たりにする我々男性陣は、女の友情の美しさの裏にある脆さ、儚さに、時に失笑し、時に戦慄するのである。

映画として映像や音楽、脚本、演技などの面で特段に優れた点も悪い点というのも見当たらない。DVDスルーとなったのもむべなるかなという作品である。台風で何もすることがないという時に、暇つぶしがてら観るのには適しているかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, スカーレット・ジョハンソン, 監督:ルシア・アニエロ, 配給会社:コロンビア映画Leave a Comment on 『ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー』 -女の友情の美しさと醜さを目撃せよ-

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

Posted on 2018年9月18日2020年2月14日 by cool-jupiter

響 -HIBIKI-  50点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180918020051j:plain

編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分を突いてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞や芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, 北川景子, 小栗旬, 平手友梨奈, 日本, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

3D彼女 リアルガール 45点
2018年9月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 佐野勇斗 清水尋也 恒松祐里 上白石萌歌 三浦貴大 濱田マリ 竹内力
監督:英勉

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180917034514j:plain

筒井光(佐野勇斗)はアニメをこよなく愛する高校生。統合失調症を疑うレベルで、アニメキャラの声を聞き、対話してしまう。そんな光は、ひょんなことから学園カースト最上位に属する五十嵐色葉(中条あやみ)と付き合うことになる。恋愛経験0の光の運命やいかに・・・

まず、オタクの定義を考えておきたい。漫画、ゲーム、アニメなどのコンテンツにどっぷりとハマる人間=オタク、というのは誤りである。なぜなら、それらのコンテンツの明確な境界線は誰にも引くことができないからだ。ジブリ映画の熱心なファンは通常はオタクとは見なされないが、スター・ウォーズの熱心なファンはかなりの確率でオタクである。特定のコンテンツ内部の線引きはかなりデリケートな問題で、それができれば専門家もしくはオタクであろう。またコンテンツを楽しむ方法も変容してきている。例として、将棋が挙げられる。一昔前までの将棋ファンは、プロの強さを堪能していた。つまり、端的に言えば棋譜を味わっていたわけだ。棋譜を鑑賞するには相応の棋力が必要となるが、今では「見る将」という将棋もしくは棋士を見るだけのファンもかなり多い。というか完全に市民権を得たと言ってもよいだろう。梅田望夫の啓蒙の効果もあるだろう。棋士が昼食や夕食に何を食べるのかで盛り上がるファンも多い。彼ら彼女らの中には将棋ファンもいれば将棋オタクもいる。同じことは野球やサッカーにも当てはまる。様々な人が様々な競技や娯楽を、それを提供する側が意図していなかったような方法で楽しんでいる、というのが今という時代なのだ。一億総オタク化時代とまで言う人もいるが、それはオタクという言葉を現代的な意味で用いるならば正鵠を射た表現であると思う。オタク=なんらかの対象の熱心なファン、というのが現代的なオタク像である。

それでは前時代的なオタクとは何か。その最も忌むべき象徴は宮崎勤であろう。今の10代や20代の中には、全く知らないという者もいるかもしれない。詳しくはググってもらうとして、オタク=社会不適合者、オタク=犯罪者予備軍というイメージは、ほとんどすべてこの男によって形作られたと言っても過言ではない。実際に本作中でも、光はしばしば「引きこもり予備軍」と同級生らから呼ばれる。これも一面では正しい。栗本薫はコミュニケーション不全症候群という言葉でもって極めて簡潔に言い表したが、オタクとは人間以外のものとのコミュニケーションを、人間とのコミュニケーション以上に重視する新人類なのだ。栗本薫は、最後の世代の旧人類にして新人類の理解者であると自らを以て任じていたが、おそらく原作者の那波マオの持つオタクのイメージは、もう少し後の時代のものであると推測する。おそらく漫画『げんしけん』と同時代か、その数年後に形成されたイメージだろう。『げんしけん』の最大の貢献のひとつは、オタクの心理的排外主義を明らかにしたことである。「げんしけん」への移籍を希望する他サークル所属者を、オタクたる笹原や斑目は躊躇し、一般人たる春日部さんはあっさりと受け入れるシーンがそのハイライトだ。本作でも恒松祐里が清水尋也をオタクの輪に呼び込むシーンがあるが、当の光はそこでは積極的にはなれなかった。光は旧時代のオタクでありながら、周囲の環境は新時代、現代になっているところに、本作の弱点が露呈している。

本作の欠点を無理やりまとめるなら、光はオタクとして中途半端な存在でありながらも、オタクの長所はあまり体現できておらず、しかしオタクの短所を具現化してしまっているところであろう。光がいろんな人に分け隔てなく接すると評されるのには違和感しか覚えなかった。なぜならそんなシーンはなかったから。冒頭のおばあさんと猫のシーンは、原作者や脚本、監督は光の心優しさを印象付けるために用意したのかもしれないが、逆効果だ。迷わずおばあさんに駆け寄って、工事現場の人間に大声で救急車を呼ぶように頼む。これがあるべき姿で、学校に遅刻したくないからという理由ですべてを抱え込んで突っ走るのは、心優しいオタクではなく極めて自己中心的なオタクだ。なぜなら社会のルール、規範よりも、自分のルール、規範に忠実だからだ。他者を助けるために、他者に頼る、関わるということを拒否するからだ。親友・伊東からしばしば「リアルに関わるな」という助言をもらうが、これらのキャラクターに感情移入しろと言われても、それは難しい。特に旧時代から現代までのオタク像の変遷を知っている者にとっては。とにかく歯痒くなるからだ。

中条あやみのキャラも弱い。おそらく「もやもや病」の持ち主なのだと思うが、そのことがプロットに有効に作用していない。光を好きになるきっかけはどうでもよい。人は人をとんでもない理由から、または特に大きな理由もなく好きになる。しかし、色葉が光に愛想を尽かしてもおかしくないシーンがあまりにも多すぎる。「つっつんは、なんで私と付き合ってるの?」という質問への光の答えを聞いて、それでも別れないというのは、正直理解ができない。この分野には『電車男』という優れた先行作品がある。であるならば、エルメスが電車男を変えたように、色葉が光を変えていく、または光が色葉を変えていくような、そんなプロットが必要だった。お互いが自然体のままで上手く行くのであれば、その他のキャラはばっさりと切り捨てるぐらいのことはできたはずだ。英勉監督は『トリガール!』ではそれなりに上手くオタクの特徴と魅力を引き出せていたのに、今作はなぜこうも切れが悪くなってしまっているのか。物語のペーシングも悪く、カメラワークにも光るものは無く、キャラクターの魅力も少ないとなると、どうしても辛く点をつけるしかない。キャストはそれなりに知名度も実力もある者がそろっているので、観に行くのであれば、彼ら彼女らを見に行く感覚で劇場に向かえばよいのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンス, 中条あやみ, 佐野勇斗, 日本, 監督:英勉, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

君の膵臓を食べたい(2018・アニメーション版) 40点
2018年9月13日 梅田ブルク7にて鑑賞
声の出演:高杉真宙 Lynn 和久井映見
監督:牛嶋新一郎

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これは原作小説の良さと実写版映画の良さの両方を、悪い意味で消してしまった残念な作品である。実写版は、主人公の二人に気鋭の若手二人(浜辺美波と北村匠海)を充てることで、いくつかの欠点を抱えながらも傑作となった。であるならば、アニメ版は、実写であるが故の制約を乗り越えなければならない。少なくとも観る側はそれを期待する。そしてその期待は裏切られてしまった。以下はJovianの感想なので、波長が合う人は参考にしていただければ幸いであるし、波長が合わなければ、そんな見方をする人間も世の中にはいるんだな、くらいに思っていただければ幸いである。

まず、何よりもアニメーションの良さとは、写実性から解き放たれることである。だからこそ、あるキャラクターの数年後、数十年後を描くことも容易であるし、その逆にキャラクターの若かりし頃、幼い頃を描くことも可能なのである。実写は人間を使わざるを得ないので、どうしてもそこに解決できない問題が残る。本作をアニメ化するということは、人間では実現できない表現に挑み、成功させなければならないのだが、そんなシークエンスは残念ながら見つからなかった。実写版が原作に付け加えて成功した部分と、それによりキャラクターの成長シーンに違和感を覚えるところなどの解決にアプローチしてほしかった。それにしても、なぜCGでもアニメでも、花火の音は光とほぼ同時に届くのか。本作など、パッと見ただけでも軽く1キロメートルは離れた所から花火が上がっても、音の到達に要する時間は1秒ほどであった。どこの異世界なのだろうか。

「僕」役の高杉真宙は頑張っていたと思う。ただ、「僕」というキャラをあまりにも没個性にしすぎた。実写版にあった、女子だらけのスイーツの店で、周囲の反応に密かに焦り、狼狽していたシーンでも、無表情に抑揚のない声を貫いたのはある意味で称賛に値するものの、それは「僕」というキャラの本質を捉え違えているだろう。『ファイナルファンタジーVIII』のスコールよろしく、「僕」が他人に興味がなく、他人にどう思われているのかについてはどうでもよいという姿勢を貫いているのは、本質的には他者に対する恐れがあるからであり、実際に他者(桜良)との交流を通じて、困惑、動揺、怒りなどのネガティブなエモーションに襲われる。実写版では北村の好演もあり、その点が上手く伝わってきた、しかし、この「僕」はあまりにも無感情すぎたし、ネガティブな感情を見せるのも、他者との交流の経験不足から来るからではなく、単純に呆れているからとしか映らなかったのは大いなるマイナスだ。観る側が「僕」に感情移入するのが著しく困難になるからだ。新人監督と声優初挑戦の若手俳優にそれを望むのも詮無いことではあるのだが。

そして、個人的にもっとも落胆させられたのはラストの共病文庫に関する一連のシークエンスである。詳しくは劇場で体感してもらうしかないが、我々はここで『はじまりのうた』にてキーラ・ナイトレイがヘイリー・スタインフェルドに語った言葉を思い出すべきなのだろう。すなわち、若気の無分別から、露出度が極めて高い服に身を包むヘイリーに、大人の女子たるヘイリーは「確かにあなたはセクシーよ。その服もそそる。けど、それを男の子たちに見せてどうするの?服の中を想像させるのよ」というアドバイスを送るのである。これは映画製作にも当てはまることで、何でもかんでもナレーションしたり、キャラにやたらと説明させるものは、ほとんど間違いなく作品としては二流以下である。もちろん、ラスト一連のアニメーションを楽しむ人もいるだろう。最初に述べたように、これは波長の合う合わない問題でもあるのだ。ただ、実写版が桜という植物の強かさに寄せて、桜良の時を超えるメッセージを仮託したのに対して、今回のアニメ版はあまりにも fantastical な映像でメッセージを届けてきた。それこそがアニメーションにしかできないことだ、と言ってしまえば確かにそうなのだが、桜良の生きた証たるメッセージをあまりにも非現実的なビジョンでもって語るのは、正直テイストに合わなかった。したがって、この点数となる。

東宝シネマズ梅田では、公開からそれなりに時間がたっても、レイトショーのチケットは入手困難な日が続いた。リピーターも多いと思われる。もしも貴方が時間とお金を使って、自分の目で作品の真価を確かめたいという気概ある映画ファンであれば、ぜひ映画館に行って欲しい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 監督:牛嶋新一郎, 配給会社:アニプレックス, 高杉真宙Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

MEG ザ・モンスター 50点
2018年9月8日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイソン・ステイサム リー・ビンビン レイン・ウィルソン ルビー・ローズ クリフ・カーティス マシ・オカ 
監督:ジョン・タートルトーブ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909200235j:plain

  • 一部、原作小説や映画本編に関するネタバレあり

深海でのレスキューミッションのスペシャリストであるジョナス(ジェイソン・ステイサム)は、事故に遭った原潜からクルーの救出を試みるも、何かに襲われ、一部のクルーを見殺しにすることで辛くも脱出。しかし、自身の非情な決断を赦すことができず、一線から退き、タイで酒に溺れる日々を過ごしていた。一方で海洋探査基地のマナ・ワンは、マリアナ海溝の底には固い地盤ではく硫化水素の層であると推測し、さらなる深海の探査ミッションを遂行していた。予想通りに探査船は未知の深海に到達。世紀の大発見を成し遂げる。しかし、そこには探査船を攻撃してくる「何か」の存在があった。このレスキューミッションに、ジョナスが再び立ち上がる。

というのがストーリーの最初の30分ぐらいだろうか。本作は個人的にずっと楽しみにしていた。20年前だったか、小説を読んで「奇想天外な話もあるもんだ」とスケールの大きさに感動したのを覚えている。当時の小説の帯の惹句にも《映画化決定!》みたいな文字は躍っていたと記憶している。あれから20年になんなんとして、ようやっと日の目を見るとは、MEGも原作者のスティーブ・オルテンも思いもしなかっただろう。

本作は映画化にあたって、原作から大きく改変されている箇所がかなりたくさんある。ただし、Jovianも20年前の記憶に基づいて書いているので、不正確なところもあるかもしれない。悪しからずご了承を。さて、まず何が一番大きく変えられているかと言うと、それは冒頭のプロローグである。小説版では、とある肉食恐竜が海に入ってきたところをMEGが現れ、ガブリとやってしまう。読者はこれで度肝を抜かれる。実際にJovianも、「これは明らかにマイケル・クライトンの小説およびそれの映画化を意識した演出的な描写だろう」と思った。さらにクライマックスのMEGとの対決シーン。ここでジョナスは、MEGの歯の化石を刃として使い、小型潜水艇でMEGの体内に入り、中からMEGを切り裂く。MEGを倒せるとしたら、それはMEGだけ。このアイデアにも当時は大いに感銘を受けた。同じような人は他に大勢いたらしく、この手法は某怪獣映画にもその後割とすぐに取り入れられていた。しかし、映画化にあたっては別のアイデアを採用。これはこれで確かに面白い。『ジュラシック・ワールド』の第三作は、広げてしまった風呂敷をどう畳むのかがストーリーの焦点になるはずだが、案外と答えは地球自身が用意してくれているものなのかもしれない。火山がそうだったのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

ジェイソン・ステイサムの元高飛び込み選手というバックグラウンドが大いに活きる作品で、ジョナスはこれでもかと言うぐらいに果敢に海に飛び込んでいく。男の中の男である。さらにジョナスのLove Interestであるスーイン(リー・ビンビン)もmilfyで良かった。海と美女は相性が良いのだ。その子どものメイインも印象に残る。反対にマシ・オカのキャラクターのトシは良い意味でも悪い意味でも日本人というものを誤解させる作りになっている。原作小説の田中の恰好よさの反動だろうか。『 オデッセイ 』や『 グレートウォール 』で見られるように、中国の存在感は映画の中でも増すばかりである。そのことに対してとやかく言いたくなるような人、特に原作小説の大ファンであるというような人は、観ないという選択肢もありかもしれない。それでも、夏恒例のシャーク・ムービーに、久々に傑作ではないが、決してクソではない映画が作りだされた。カネと時間に余裕があるならば、劇場へGoだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アクション, アメリカ, ジェイソン・ステイサム, 監督:ジョン・タートルトーブ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

Posted on 2018年9月6日2020年2月14日 by cool-jupiter

バッド・バディ!私とカレの暗殺デート 40点

2018年9月4日 レンタルDVDにて観賞
出演:サム・ロックウェル アナ・ケンドリック ティム・ロス
監督:パコ・カベサス

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原題は”Mr. Right”、すなわち“正しい男”の意である。マーサ(アナ・ケンドリック)が自宅で待っていると、ボーイフレンドが帰って来る。どこの馬の骨ともしれない女を伴って、なおかつ熱烈なキスを交わしながら。当然、マーサは怒り心頭。男を放り出すが、傷心のマーサはヒステリーを起こし、友人(女子)にも耳を貸さず。そんな時、ふと店で知り合った凄腕の殺し屋フランシス(サム・ロックウェル)と一挙に相思相愛に。しかし、フランシスの殺人の話やバックグラウンドをすべてユーモアとしか思わないマーサは、フランシスが殺人を行う場面を目にしたことで・・・

まず、アナ・ケンドリック演じるマーサがキモい。キモすぎる。キモ子と名付けたいぐらいである。情緒不安定な今時女子を演じているのだろうが、普通に常識離れした感性の持ち主で、これを演じられる女優としては他にエマ・ストーンやジェニファー・ローレンスが思い浮かぶが、彼女らはアナ・ケンドリックほどのキモさは出せないだろう。ちなみに褒めている。

サム・ロックウェル演じるフランシスは一捻りの効いたキャラクター。自分の名前が大嫌いで、名前を呼ばれるのを嫌う。CIA上がりで、体術やナイフ、銃の扱いを極めており、殺し屋として一頃活動していたが、ある時から良心の呵責を感じ、殺しを頼んでくる依頼者を逆に殺していくという倒錯した生き方をしていた。

この2人が出会い、犯罪組織やフランシスを追いかけるFBIに扮した殺し屋達と交わることで、コメディックな展開が生まれていく・・・わけだが、少々ユーモアのポイントを外してしまっているのは否めない。サム・ロックウェルはチャランポランのキャラクターからシリアスなキャラクターまで演じられる実力派であることは『プールサイド・デイズ』や『月に囚われた男』、『スリー・ビルボード』で証明済み。今回も一部スタントダブルを使っているとはいえ、格闘アクションも自らこなすなど、トム・クルーズほどではないにせよ、まだまだ体も動かせる。日本で言えば寺島進、椎名桔平的な男と言えようか。

ただし、能力も実績もあるスター二人を共演させることで面白さが生まれるかと言うと必ずしもそうではない。というよりも、映画の面白さは何よりも脚本、撮影、そして役者の演技で決まるものだろう。これは邦画で言えば『カメラを止めるな!』や『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』などが好例である。フランシスのキャラが、単なる頭のネジが吹っ飛んだキャラなのか、それとも何らかの小ネタが数多く仕込まれた綿密に構築されたキャラなのか判別がつかないまま、結局たいしてキャラの深掘りがされなかったのは大きな減点材料である。それでも、両名、いやどちらかのファンであれば、雨の日の暇つぶしなどにDVDなど観賞する分には良いのではないだろうか。なぜなら、深く考えることなく頭を空っぽにして観ることができるからだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, サム・ロックウェル, 監督:パコ・カベサス, 配給会社:ハピネット, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

『プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング』 -プリンス・チャーミング不要論-

Posted on 2018年9月2日2020年2月14日 by cool-jupiter

プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング 55点

2018年8月30日 レンタルDVD観賞
出演:アン・ハサウェイ ジュリー・アンドリュース ヘクター・エリゾンド クリス・パイン
監督:ゲイリー・マーシャル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180902123451j:plain

原題は”The Princess Diaries 2: The Royal Engagement”、つまりは『お姫様日記2 王室の婚約』というわけである。舞台は前作『プリティ・プリンセス』から5年。ミア(アン・ハサウェイ)はジェノヴィアの王女として悠々自適の生活を送っていた。しかし、300年前に制定されたジェノヴィアの法律では、女性は結婚していなければ王位を継承できないと定められていたことが判明。その法律を掘り起こしてきたのは、王位簒奪を企み、自分の甥ニコラス(クリス・パイン)を王にしようと画策するデヴロー卿だった。かくしてミアは花婿探しに奔走する。そして女王クラリス(ジュリー・アンドリュース)はミアを支えながらも、ジョー(ヘクター・エリゾンド)との関係の進展に逡巡していた。かくして、ミアの戴冠に向けての婿探しが始まった。

前作はまさに王子様不在のシンデレラ・ストーリーであった。王子様、しばしばおとぎ話に名無しで登場し、主役の少女を颯爽と救っていく存在である。彼は英語では基本的にPrince Charmingと呼称される。敢えて訳せば「白馬の王子」となるだろうか。おとぎ話は基本的に民話/昔話が時代に取り込まれ、再構成されることで生まれる。姫の存在は、王子によって担保されているというわけだ。ミアにも「白馬の王子」が現れる。それがニコラスであり、イングランドのジャコビー公爵である。ミアが選ぶのは、前者なのか、それとも後者なのか。

本作が問うのは、女性が幸せになるのに男性の力を必要とするのかどうかであろう。もちろん、時代背景や住む国や地域が異なれば、事情も変わってくる。しかし、劇中でも言及されるように、21世紀という時代においてそうした考えが支配的である必然性があるのだろうか。一方で、政略結婚によって幸福になることもありうる。クラリス女王がそうであったように。そのクラリスが、退位してジョーとの関係をさらに一歩先に進めることに悩んでしまうのは、結婚の持つ魔力ゆえか。女王という存在のままでは、女性としての幸福を追求できない。しかし自分が女王たりえたのは、政略結婚(だけが要因では決してないが)があったからで、その結婚相手とは良き友人になれた。ジョーとの情愛からの結婚に踏み出せない理由もそこにある。政略結婚から友情が芽生えた。では、恋愛結婚からは一体何が芽生えるのだろうか。

ミアはジャコビー公爵と頻繁にデートする一方で、ニコラスとも逢瀬を重ねる。政略結婚と恋愛の、非常に分かりやすい対比である。ここでミアは、何故そもそも自分が結婚相手を探し始めたのかという原点に回帰する。『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』を思い起こさせる、感動的なシークエンスがある。それはもちろん、構図上のことであって、ミアがここで手を差し伸べるのは、過去の自分であり、21世紀という時代を担う若年世代であり、自分の人生の主役は自分であるという自覚を持って生きるべき全ての人である。これは素晴らしく胸を打つシーンで、プリンセスの乗ったヴァンを追い回して交通事故を誘発させて悪びれない島国や、ロイヤル・ファミリーの人格を無視し、単なる象徴としてだけしか扱おうとしない、これまた島国の保守派は、よくよくこのシーンを消化吸収すべきだ。王は、追いかけられたり、微笑み返したりするだけの存在を指すわけではない。

それにしても、アン・ハサウェイはこの頃に既にアン・ハサウェイとして完成されているということに驚いてしまう。垢抜けない女子高生だったはずが、見事なセレブに変身してしまっている。ある意味、『ゴジラvsビオランテ』でびっくりするような大根役者っぷりを披露した沢口靖子が、『科捜研の女』に鮮やかに変身したのを見るかのようだ。そしてクリス・パインの青さも堪能できる。この男は『モンスター上司2』でもそうだったように、悪い男を演じる時に、目の奥に純粋さを残す。栴檀は双葉より芳し。

すでに第三作の脚本が存在するらしいが、監督のゲイリー・マーシャルが鬼籍に引かれた今、実現はやや疑わしい。しかし、ジェノヴィアとミアを巡る物語の最終章を見てみたいというファンは世界中にたくさんいるに違いない。期待して待ちたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン:ハサウェイ, クリス・パイン, ジュリー・アンドリュース, ヘクター・エリゾンド, ロマンス, 監督:ゲイリー・マーシャル, 配給会社:ブエナ・ビスタLeave a Comment on 『プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング』 -プリンス・チャーミング不要論-

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