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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:東宝

『 メアリと魔女の花 』 -先行ジブリ作品のパッチワーク-

Posted on 2020年8月9日 by cool-jupiter

メアリと魔女の花 40点
2020年8月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:杉咲花 神木隆之介
監督:米林宏昌

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200809133717j:plain
 

『 思い出のマーニー 』の米林宏昌監督の作品。最近、ジブリが映画館に復活しているが、ジブリ退社後の氏の手腕はどうか。残念ながらさっぱりであった。公開前は、色々な劇場で死ぬほど流れていたトレイラーを観てスルーを決めた。どうにも地雷臭がしていたから。今あらためて観ても、やはりこれは地雷である

 

あらすじ

メアリ・スミス(杉咲花)は、黒猫に導かれて迷い込んだ森の中で、7年に1度しか咲かない不思議な花「夜間飛行」を発見する。それは、かつて魔女の国から持ち出された秘密の花だった。一夜限りの魔法の力を手に入れたメアリは、雲の上の世界でエンドア大学へ入学する。しかし、そこにはある秘密があり・・・

 

ポジティブ・サイド

スペクタクルとして過不足なくまとまっているので、大人でも子どもでも、飽きることなく観ることができる。古い洋館、鬱蒼とした森というだけで、なにか冒険に誘われているように感じる人は多いことだろう。某都知事の言う「特別な夏」(こんなものはただの言葉遊びだと思うが)ではない普通の夏であれば、多くの都会っ子が田舎に赴き、ひと夏の冒険に興じる時期である。本作からは、特に強く子ども向けのまなざしを感じる。

 

メアリやその大叔母さんシャーロット、召使いのバンクス、園丁のゼベディさんも素朴で純な良いキャラクターたちである。現実世界がどうかは別にして、どこか退屈な人間界とエキサイティングではあるが邪な気を感じさせるエンドア大学の教師たちの対比が映える。

 

クライマックスからの展開もスピーディーで良い。だらだらと見せ場になりにくいシーンをつなぎ続けるのではなく、きりの良いところでスパッと終わるのも大切である。

 

ネガティブ・サイド

冒頭からエンディングまで、驚くほど、いや呆れるほどの過剰なまでの先行ジブリ作品へのオマージュに満ち満ちている。いや、これはもうオマージュではなくパッチワークである。オープニングからして『 天空の城ラピュタ 』でシータが飛行船の窓から逃げるシーンであり、そこからホウキにまたがって逃げるシーンは『 魔女の宅急便 』、そして追撃してくるのは『 千と千尋の神隠し 』から抜け出てきたかのようなクリーチャー。場面が変わって映し出される洋館の趣は『 思い出のマーニー 』と同じ匂いが漂い、ちょっといけ好かない男の子との出会いは『 となりのトトロ 』のカンタや『 魔女の宅急便 』のトンボのそれとの劣化バージョン。これらが意図的なパッチワークでなければ、米林監督は重度のジブリ・コンプレックスに罹患していたと見て間違いはない。

 

エンドア大学も『 ハリー・ポッター 』のホグワーツとラピュタと油屋とその他B級SF映画に死ぬほど登場してきたガジェットのごった煮。そもそもエンドアも『 旧約聖書 』の「サムエル記」に描かれるエン・ドルで、『 スター・ウォーズ 』のエピソードⅥのエンドアの月でもお馴染み。原作の児童小説があるとはいえ、アニメ映画化に際してのオリジナリティはいずこに・・・

 

マダム・マンブルチュークとドクター・デイの追究しようとする究極魔法が“変身魔法”というのも狙い過ぎである。バイオテクノロジーや核技術、コンピュータ技術への皮肉が込められているのは明白であるが、もっとさりげない形で提示できなかったのかと思う。なぜドクター・デイが脳を半分いじくったようなマッド・サイエンティストなのか。脳を改造した設定は、ファンタジーには不要である。また変身がもたらす不幸や悲劇については『 美女と野獣 』がすでに十二分に描いており、なおかつ本作が否定している“変身”そのものの先に幸福があることも示している。変身をテーマにしていながらも、メアリが自分を好きになれない一面である赤毛の扱いが弱い。

 

赤毛についてもう一つ。冒頭で逃走する魔女も赤毛であるが、そのことをもっと大胆に、なおかつさりげなく示しておくシーンは不可欠だった。何故それがないのか。たとえばバンクスさんとシャーロットの会話の中で「私たちも若い頃には・・・」といった台詞などがあれば、中盤の展開にもっと得心がいったはずである。

 

最も腑に落ちないのはピーターとメアリの関係である。メアリが罪悪感に苛まれるところまでは納得できるが、ピーターがメアリを救い出そうと必死になる理由や背景がほとんど見当たらない。ボーイ・ミーツ・ガールにしても不可解だし、それを予感させるシーンもなかった。せめてカンタがサツキに傘を無理やり渡すようなシーンとまでは言わずとも、ほんのちょっとだけでよいので二人の関係性が発展する芽を描いてくれていれば、すべて納得できたはずなのに・・・

 

総評 

大人には大人なりの見方が成り立ち、子どもには子ども向けの見方が成り立つ作品。それを子ども騙しと見るかどうかは受け取り手次第だろう。小学生ぐらいの子どもがいるならば劇場で真正ジブリ作品を見せてやるのがベストだとは思うが、「特別な夏」を#StayHomeで過ごすのならば、本作も一応、選択肢に入るのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

go in the woods

森に入る、の意味。同じく、go into the woodsもよく使われる。『 もののけ姫 』に出てくる、人里離れた森は forest 、人の住むところの近くにある森は woods であると理解しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 杉咲花, 監督:米林宏昌, 神木隆之介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 メアリと魔女の花 』 -先行ジブリ作品のパッチワーク-

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

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ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 SPACE BATTLESHIP ヤマト 』 -邦画の欠点が凝縮されている-

Posted on 2020年7月18日 by cool-jupiter

SPACE BATTLESHIP ヤマト 15点
2020年7月16日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:木村拓哉 黒木メイサ
監督:山崎貴

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『 アルキメデスの大戦 』を観ても分かる通り、この国はどんづまりになると起死回生の大艦巨砲主義を選ぶ。緊急事態宣言然り、秋に囁かれる解散総選挙然り。GO TOキャンペーンなど狂気の沙汰、亡国政策だろう。劇場公開当時、華麗にスルーした本作だが、今という時に観返して何か発見があるかどうか。なかった。ただただ邦画の限界、弱点、欠点を見せつけられただけだった。

 

あらすじ

ガミラスの遊星爆弾攻撃により放射能汚染された地球。人類は地下に潜り、なんとか生き延びていた。そんな時、遠い宇宙から謎のメッセージが届く。そこには宇宙のとある座標と波動エンジンの設計図が込められていた。人類は戦艦ヤマトを駆って、宇宙へと飛び立っていく・・・

 

ポジティブ・サイド

ヤマトのワープの使い方に頷けるものがあった。これは確かに最高のヒット・アンド・アウェイである。ワープの演出がアニメ版の瞬間移動的なものとは異なっているが、これは確かに瞬間移動だと、ここだけは得心した。

 

緒形直人演じる島大介だけは良かった。

 

後はBGM。『 スーパーマン リターンズ 』でも John Williams のあの音楽が流れる瞬間は鳥肌が立ったようなもの。

 

ネガティブ・サイド

どこからツッコミを入れていいのかどうか分からないが、とにかく『 宇宙戦艦ヤマト 』の精神を受け継いでいないし、キャラクターの再現度も極めて低い。さらに同時代に送るメッセージもない。

 

古代進が「あのさぁ」とか言って、人に話しかけるか?森雪が平手打ちならまだしも、グーで人を殴るか?なぜ西田敏行が佐渡医師ではなく機関長なのだ?山崎努は、第二次大戦映画ならまだしも、沖田艦長のイメージでもないし、本人も似せようとしていない。また監督もそのような演出をしていない。何がしたいのだ?

 

言葉の使い方もいろいろとおかしい。「ガミラス機を捕獲しろ」ではなく「ガミラス機を鹵獲しろ」ではないのか?古代が「第三艦橋に取り残された者たちを見殺しにしました」と沖田艦長にサラッと大嘘を報告するのもどうなのか。実際は見殺しではなく、自分から切り捨てたというのに。妙なところでリアリズムが欠如している。というか、虚偽が混じっている。

 

行動も妙だ。直前のシーンでぜえぜえ言っているキャラが、次の瞬間に呼吸が落ち着いている。シーンとシーンがつながっていない。敬礼も沖田だけ脇を開く角度を極端に小さくする海軍式。その他のキャラは陸軍もしくは空軍式。混成軍だと言ってしまえばそれまでだが、宇宙戦艦という狭い空間内なら海軍式に統一すべきだ。あるいは人類最後の希望は寄せ集めであるというを見せる描写が必要だ。パイロット連中が最終出撃前に「ウェーイ!!!」というハイテンションになっているのは何故なのか。凡作だった『 空母いぶき 』でもパイロット連中は冷静さを保っていた。というかパイロット然り、キャビンアテンダント然り。空を飛ぶ連中、あるいは海に潜る連中に何よりも求められる資質は、冷静さを保てることだ。こんな連中がよく生き残れたな。またキムタク・・・じゃなかった、古代進のクライマックスでの「波動砲は撃てるか?」の問いにもズッコケである。軸線上に地球があるのに波動砲を撃とうという狂った発想は、一体全体どこから湧いてくるのか。

 

戦闘シーンも『 スター・ウォーズ 』と『 インディペンデンス・デイ 』を自分流にやってみたかったんだよね~、という山崎監督のエゴの声が聞こえてきそうな陳腐さ。CGやYFXの質に文句をつけているのではない。オリジナリティの欠如を嘆いている。あるいは、低いハードルを越えて満足している姿を憂いているのである。

 

細かいところではあるが、地球から42万キロメートルにいるシーンで、地球が異様に小さく映るのは何故か。月よりもほんのちょっと遠いだけだろう。編集時点で誰も気付かなかったのか。

 

ガミラスを個にして全、アルファにしてオメガな存在に描く必要はあったのか?『 風の谷のナウシカ 』や聖書を堂々とパクって開き直れる姿勢は称賛、ではなく硝酸に値する。

 

総評

ネガティブな評だけで5000~6000字は書けそうだが、それはあまりにも生産性が低い行為である。総評を書くのも面倒だ。何故ここまで原作をレイプできるのか。そして時代に向き合わないのか。何も原発事故やコロナ禍を予見しろなどと言っていない。だが、この中身スッカスカの実写版を観て、何を感じ取れと言うのか、誰か教えてほしい。キムタクが古代で森雪が黒木メイサ?役者を責めているのではない(演技面で褒められるものはなかったが)。そうしたキャスティングをしてしまう業界の構造や企画立案のプロセスにこそ邦画制作の病巣がある。そのことが再確認できただけの作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I want to forget about this awfully bad film ASAP.

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, F Rank, SF, 日本, 木村拓哉, 監督:山崎貴, 配給会社:東宝, 黒木メイサLeave a Comment on 『 SPACE BATTLESHIP ヤマト 』 -邦画の欠点が凝縮されている-

『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

Posted on 2020年4月26日 by cool-jupiter
『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

11人いる! 80点
2020年4月26日 YouTubeにて鑑賞
出演:神谷明 河合美智子
監督:出崎哲 冨永恒雄

映画館に行けなくなって久しい。まさに世界は、ゾンビが彷徨している。あるいは未知のウィルスが蔓延しているという設定のディストピアSFの様相を呈している。そこで、ふと思い出したのが本作。まさに“三密”な宇宙船内に多種多様な人種を詰め込んだ環境は、COVID-19が猖獗を極める今こそ、再鑑賞するのにふさわしい。Amazon Primeに見当たらなかったが、YouTubeで発見。ありがたや。

 

あらすじ 

タダ(神谷明)はコスモ・アカデミーへの第一次・第二次入学試験を順調にパスした。そして最終第三次試験で、漂流中の宇宙船内で他の9名の受験生、合計10名で53日間を過ごすという最終試験に臨む。宇宙船に到着した一行は、しかし、自分たちが11人いるということが判明し・・・

 

ポジティブ・サイド 

1950~1960年代の作家的想像力をメインに構築されていたSF作品ではなく、1970年代以降のジェイムズ・P・ホーガン的な、つまり当時の最先端の科学的知見を盛り込んだSFである。ここでいうSFとはScience Fictionではなく、Space Fantasyである。原作が1975年なので、『 エイリアン 』(1979年)や『 スター・ウォーズ 』(1977年)よりも前。つまり、『 2001年宇宙の旅 』の系譜を日本が引き継いだ作品とさえ言える。冒頭の鈍く銀色に輝く巨大宇宙船を見よ。巨大な宇宙船の船体表面をクロースレンジでじっくりと映し出すことで大きさを強調する手法は、『 2001年宇宙の旅 』に始まって『 スター・ウォーズ 』や『 エイリアン 』に直接継承された手法である。本作は1986年に劇場公開された。製作者たちが、これらの先行映像作品に影響を受けなかったはずはない。重力制御装置や超距離エレベーターなど、先行SF作品でお馴染みのガジェットが随所に詰め込まれている。

 

疾走感と虚無感を併せ持ったBGMも素晴らしい。どこかファミコンゲーム『 グラディウス 』に共通するテイストの音楽が、爆発とレーザーで彩られる終盤の展開を上手く観る側に予感させてくれるような気がする。

 

宇宙の様々な星系からの人種のトップ層が、コスモ・アカデミーに集まるというのも当時としては斬新な世界観だったのではないか。今では中国やインド、ナイジェリアやブラジルの超秀才がアメリカの大学や大学院で学ぶのはもはや既定路線になっている。世界的な視点では普通のことであるが、日本的な視点からは異質だ。日本発の同時代のSF作品の金字塔である『 機動戦士ガンダム 』は、地球人同士の争いであるし、『 宇宙戦艦ヤマト 』に登場する宇宙人は、第二次世界大戦時の日本の敵国人種の投影である。そうした意味で、萩尾望都は日本人離れした先見性と想像力を持っていたと、あらためて評価することができる。

 

キャラクター造形も素晴らしい。『 機動戦士ガンダム 』におけるニュータイプの概念を先取りしたのような直感力に秀でた主人公タダを始めとして、ほとんどのキャラが立っている。特に正真正銘の王様でありながら、民主主義的に多数決を自ら提案し、その多数決の結果に諾々と従うという“王様”はユニークだ。ヒロイン的なポジションにどっかと座るフロルも良い。男勝りなところがいかにもクリシェだが、本作は1980年代半ばに公開されていて、原作は1975年であることを思い出そう。女性である、女性になる、女性として生きるという概念が今とは全く異なる、まさに別の時代において、萩尾望都が産み出したこのキャラは、漫画家というよりも女流作家、いやクリエイターとして常に新境地を切り拓いてきた氏の投影そのものだったのだろう。

 

疑心暗鬼の船内、奇病の発生、ワクチンの争奪戦など、まさにCOVID-19が猛威を振るう世界そして日本の縮図的な環境が、ここには描き出されている。SFとしてだけでなく、ミステリとしてもサスペンスとしても、また青春ものとしても、非常にハイレベルに仕上がった逸品である。

 

ネガティブ・サイド

メニールが雌雄同体というのは、厳密には誤っている。実際は無性体または雌雄未分化と言うべきだろう。このあたりの科学的知識は、1970~1980年代においてもしっかり共有されていたはず。作家というよりも編集者や校正がカバーすべきだった。

 

船内の爆発物を除去しないという序盤の過ごし方についても、なんらかの説明が必要だったはず。特にコスモ・アカデミーのような合格率が数万分の一というような超難関の最終試験に残るような頭脳エリート集団が、何故このような選択をしたのか。またハンドガンの存在をコスモ・アカデミーは感知していたのか否か、そのあたりの説明も不十分だった。

 

ほとんどのキャラが存在感を放つ一方で、赤鼻やトトは明らかに出番も少ないし存在感もない。議論がヒートアップした時などに赤鼻が上手く仲裁する、あるいは妥協できる案を提出するなどすれば、彼のアカデミー卒業後の進路に説得力が生まれた。トトにしても同じで、『 オデッセイ 』のマット・デイモン並みに限られた資源で野菜や果物の栽培に成功したという描写がほんの少しでもあれば、尚よかった。

 

船内スクリーンに時々映し出される50 DAYS TO THE ENDや24 DAYS TO THE ENDというのは、非標準的な英語だ。50 DAYS REMAININGまたは50 DAYS LEFTの方がナチュラルな表現である。

 

総評

おそらく2050年になっても古さを感じさせない古典である。Jovian自身、鑑賞はおそらく4~5度目だが、ワンシーンごとに演出がしっかりしており、無駄が一切ない。1時間30分と非常にコンパクトにまとまっている点もポイントが高い。ある意味で性別を超越したロマンス展開もあり、Xジェンダーというアイデンティティを1970年代にして認知していた最初の作品群の一つであるとも評価できるかもしれない。家に引きこもってYouTubeを観るのなら、ぜひ本作もWatch Listに加えるべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This is fate.

ヌーの口癖、「これも定め」の私訳。fateについつい冠詞のaをつけてしまう人が多いが、これはほとんどの場合、無冠詞で使う語である。冠詞の使い方をマスターすれば、英検マイナス1級、TOEIC L&R換算1400点である。こういったものは丸暗記に限る。そして、丸暗記するのならば文法書や問題集ではなく、歌詞や映画の台詞にしよう。Jovianは『 インデペンデンス・デイ 』のウィットモア大統領の演説、“Perhaps it’s fate that today is the Fourth of July”を暗記している。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1980年代, A Rank, SF, アニメ, 日本, 河合美智子, 監督:冨永恒雄, 監督:出崎哲, 神谷明, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

『 ちょっと今から仕事やめてくる 』 -生きていれば何とかなる-

Posted on 2020年4月19日 by cool-jupiter

ちょっと今から仕事やめてくる 60点
2020年4月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:工藤阿須加 福士蒼汰 黒木華 吉田鋼太郎
監督:成島出

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原作小説を買って、そのまま積読にしてしまっていた。先にDVDを観てしまおうと決断。Jovianも去年、会社を辞めて転職したので、それなりの期待をもって鑑賞した。

 

あらすじ

広告代理店の営業の青山(工藤阿須加)は、ブラックな職場環境・上司によって精神的に疲弊していた。自ら線路に落ちようとしたところ、小学校の同級生の山本(福士蒼汰)に助けられる。意気投合した二人は飲みに行く。そこから青山は少しずつ明るさを取り戻し、仕事でも成果を出せるようになってきたのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない 』は、最後には先輩社員も怒鳴りながらも仕事に協力してくれた。一方で、本作で職場をブラックにしているのは、先輩社員ではなく部長。そこにある力関係の差はさらに大きい。Jovianは、管理職が怒鳴るだけではブラック企業とは認定できない。Jovianの幼馴染のブラック企業の定義を引用させてもらうと、「ブラック企業とは、お客さんからではなく従業員から儲ける企業である」。つまり、休日出勤や時間外労働をさせる、罰金を取る、有給休暇を取得させない、経費を出さない&給料から差っ引く、などなどである。青山の職場はこれらが漏れなくそろっている。間違いなくブラック企業である。暴力や暴言は認められるべきでも許されれるべきでもないが、それに値するミスをやらかしてしまうことはありうる。問題はそれに対して、どのようなフォローを組織が行うのかである。その他にもPCのセキュリティがガバガバだったりと、企業研究映画としても少々興味深い作品である。

 

工藤阿須加の自然体に近い演技も悪くない。最近、韓国映画を立て続けに見ているせいか、心情がそのまま言動に出てくるストレートな演技との対比がよく見て取れた。青山の会社の社訓の一つに「心なんか捨てろ、折れる心がなければ耐えられる」というものがあった。これは洗脳に近い。無表情に虚空を見つめて立ち尽くす青山の姿には、山本ならずとも剣呑な雰囲気を感じ取ることだろう。青山の心の声に「俺、このまま壊れちゃうのかな」的なものがあったが、これは“すでに壊れている”者の声であると思ってよい。壊れてからでは手遅れである。壊れそう=壊れている、という認識で動かなければ、過労死や自殺は減らないのである。青山はブラック企業勤めのサラリーマンの悲哀をかなり上手に体現していたものと思う。

 

福士演じる山本のケアも評価できる。経済的な格差が拡がって久しいが、日本における貧困層は遥か昔から存在していた。Jovianは大学の授業の課題図書であった『 日本の下層社会 』を読んで、衝撃を受けたことを今でも覚えている。貧困の原因の多くは、家族の喪失であったり、障がいや疾病にあることを看破していたのだ。というよりも、国はそうした者たちへのセーフティネットを整備してこなかった、と言ったほうが良いのかもしれない(このことは、コロナ禍にあえぐ一般国民への支援体制をさっぱり構築できない現政府を見れば実感いただけよう)。『 ヘヴィ・ドライヴ 』にも描かれていたが、すでにこの上なく奪われた者たちから、さらに奪うようなことをしてはならないのである。その先にあるのは正の拒否しかないのだから。山本は青山を常に酒食に誘うが、これは非常に重要なことである。一つには、鬱のサインの一つに食欲減退があるということである。劇中でそのことが明示されるわけではないが、山本は明らかに青山のヘルプサインの有無にアンテナを張っている。もう一つには、関係を近づけ、コミュニケーションを円滑にするためである。『 RED  』で柄本佑が夏帆に「コミュニケーション取りやすくしとくのって重要だよ?」といけしゃあしゃあと言ってのけるシーンがあるが、これは蓋し真実である。また、飲食を共にすることが実際にそのような効果を持つことは『 食べる女 』や『 風の電話 』が明らかにしている。

 

山本の生き様は、格差や分断が固定してしまった日本社会対する一つのアンチテーゼとしての意味を有している。日本語では“仕事”という言葉で一括りにされるが、例えば英語なら、job, work, task, occupationなど様々に分類されている。「アメリカの野球はプレーだが、日本の野球はワークだ」と言った助っ人プロ野球選手もいたのである。生きていくうえで何をすべきか、それはvocation = 天職を得ることだろう。Vocationとは、「声に呼ばれること」という意味である。天の声でも内なる声でもいい。そうした声に耳を傾けて行う仕事がvocationである。同義語にcallingもある。山本と青山の交流の果てにあるようなcallingを、我々も日々の生活の中で少しずつ追求していきたいものである。

 

ネガティブ・サイド

非常に良い話であるが、やはり福士蒼汰の大阪弁がノイズであった。イントネーションはだいたい合っている。大阪弁を研究し、練習した跡は認められる。しかし、決定的にダメなのは、ほんのちょっとした長母音の使い方である。なんのこっちゃという方は、身近に大阪人(関西人でもよい)に「目」「歯」「手」を音読してもらおう。それぞれ「めぇ」、「はぁ」、「てぇ」となるだろう。大阪出身京都育ちのはずの黒木華が、このあたりは現場で指導してやることはできなかったのだろうか。大阪弁ネイティブではない人間に山本役を演じさせることで、山本という存在の背景情報が非常に胡散臭く感じられてしまう。そういう効果を敢えて狙う必要はない。ストーリーが展開していけば、自然にそうなるようになっているのだから。

 

Facebookの投稿の“Hello! Stage first day today.”という投稿もいただけない。英語に堪能な者にチェックを受けていないのがバレバレである。stage first dayなどというコロケーションは存在しない。おそらく機械翻訳にかけたのだろう。正しくは“Hello! It’s opening day today!”もしくは“Hello! It’s my play’s opening day today!”などとすべきである。ニューヨークで演出家というのは『 マリッジ・ストーリー 』におけるアダム・ドライバーである。英語がペラペラでなければ絶対に務まらない。ファンタジーなのは福士の山本ではなくこちらであろう。

 

原題も本当は「ちょっと今から会社やめてくる」であるべきなのだろう。会社はいくらでも辞めていいが、仕事は辞めてはいけない。青山の母もが「生きていれば何とかなる」と言ってくれていることの意味の一部には、「会社で働かなくても、仕事をすることはできる」ということも含まれているはずである。

 

山本の正体が明らかになる後半からは、ストーリーのテンポがかなり落ちる。妙なホラーテイストのシーンもちらほらあるが、それらはすべてノイズである。1時間5分ぐらいで話のトーンが大きく変わるが、それを1時間15分あたりに持ってきて、後半から終盤をもっと凝縮することができれば、カタルシスもより大きくなったかもしれない。

 

総評

軽いタイトルに重い内容である。しかし、2017年の作品であってもまったく古くないし、おそらく2025年に鑑賞しても古くならない内容だろう。現代では個の強さが求められるとビジネス誌やインフルエンサーは叫ぶばかりだが、それらが指すのは結局スキルであることが多い。そうではなく、自分の心の声、あるいは天の声に耳を傾けてみようではないかというのが、本作のメッセージの一つである。大学生や20代、30代の比較的若いサラリーマンにお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

What do you do?

よく「お仕事は何ですか?」=What do you do? のように説明・解説されているいるが、厳密に言えば間違っている。What do you do? というのは文字通り「今は何をしているの?」である。小学校の同級生と10年ぶり20年ぶりに再会すれば「うわっ、久しぶり!今、なにやってんの?」と尋ねるだろう。そして答えは「今は自営業やねん」とか「実は大学院に行ってる」だったりするだろう。What do you do? は、必ずしも仕事だけを尋ねる表現ではないのである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 工藤阿須加, 日本, 監督:成島出, 福士蒼汰, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ちょっと今から仕事やめてくる 』 -生きていれば何とかなる-

『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

弥生、三月 君を愛した30年 45点
2020年3月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 成田凌 杉咲花
監督:遊川和彦

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一つの物語の中でキャラクターの成長や老いを描く作品は星の数ほどある。だが、本作は三月の一日から三十一日の1日を経るごとに、1年(何年か飛ばすところもあるが)が経過していく。この見せ方と構成は非常にユニークである。

 

あらすじ

山田太郎(成田凌)と結城弥生(波瑠)は、心の奥底では惹かれ合いながらも、親友のサクラ(杉咲花)の病気、そして死によって、いつしか別々の人生を歩むことになった。互いに結婚や別離を経験しながらも、二人はいつしか引き寄せられて・・・

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ポジティブ・サイド

専門家は映画を評価する際には Form と Content の面から行う。Formとは本で言うならば、装丁であり、文字のサイズやフォントであり、テキストのレイアウトであると言える。一方でContentは物語の中身そのものである。一般に映画や本の面白さは、コンテンツで決まる。だが、時にFormそれだけで桁違いの面白さやユニークさを生み出す作品が現れることがある。クリストファー・ノーラン監督の『 メメント 』が好個の一例である。本作の、一日経つごとに一年が過ぎていくという見せ方は非常に面白い。

 

高校生から50歳手前までを同一の役者で描く試みもユニークだ。『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』でも、小松菜奈が大学生から35歳ぐらいまでを演じていた。本作はその幅をはるかに上回っており、ある意味で大河ドラマ並みである。こういった大胆な試みにもっともっと邦画も取り組んでもらいたい。たとえその作品が大ヒットはしなくても、たとえばメイクアップアーティストやヘアドレッサーの技、照明の調節や光の当て方といった裏方スタッフの技術は確実に蓄積され、向上していくことだろう。その先に、第二第三のカズ・ヒロを生む土壌ができていく。突然変異を待ってはならない。豊かな才能の種を発見し、開花させなければならない。

 

本作では光と影の使い方も印象に残った。明るい背景では明るい場面と心情、薄暗い場面ではどこか沈みがちな心情、黄昏時の西日には関係の終わりが暗示されていたり、あるいは西日で満たされた病室を去る人物が完全に黒いシルエットとして映しだすことで、キャラクターの内面の闇、虚無感を表すなど、随所に工夫が目立った。なんでもかんでも光あふれる演出を施す作品が邦画には特に多い(『 君は月夜に光り輝く 』などはダメな一例だ)。真っ暗な映画館で見るからこそ光を強くしたいと思うのは理解できる。だが、真っ暗な映画館だからこそ光と影のコントラストも映えるのである。

 

今作はいまのところ波瑠のベスト・パフォーマンスになるのかな。笑顔よりも仏頂面の方が絵になる女性も一定数いる。波瑠はそんな一人だろう。『 コーヒーが冷めないうちに 』では、神経質な女性役だったが、どちらかというと感情表現を抑えた役柄の方が似合っている。ドラマや映画なら社長秘書や医師がマッチしそう。クール・ビューティー路線ではなく、満島ひかりや南果歩のような実力派路線を目指してほしい。

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ネガティブ・サイド

フォームには感銘を受けたが、コンテンツ=内容には少々興ざめした。ストーリーのほとんどはトレイラーで分かってしまう。なぜにあのような予告編を作ってしまうのか。様々なシーンの演出やメッセージも、古今東西の映画で使い古されてきたものばかり。あらゆるシーンでデジャヴを感じたと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、本作がオリジナリティに欠けるのは確かである。

 

まずもって病気で死んでいく高校生の名前が「サクラ」という時点で『 君の膵臓をたべたい 』の桜良ともろにかぶっている。そして、満開の桜に過ぎ去った幾星霜とかつての友の姿を見出すのも『 君の膵臓をたべたい 』の二番煎じである。

 

また、ラストの教室のシーンは『 傷だらけの悪魔 』と『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のクライマックスをそれぞれ足して10で割ったような迫力のなさ。というか震災をプロットに組み込むのはまだしも、放射能関連のイジメを絡める必要はあるか?いや、それをやるなら『 風の電話 』並みに取り組んでもらいたい。

 

サクラの好きだったという歌が作中の随所で重要な役割を果たすが、最後のデュエットは必要だったか。それに最後の最後のスキットも必要だろうか。日が昇り、そして沈んでいく。時は流れ、また物語が繰り返す。普遍的な事象であり、それゆえに既に陳腐化したテーマである。現に近年でも『 ライオンキング 』が再制作され、“Circle of Life”が熱唱されている。敢えて邦画がそれを繰り返す必要はない。

 

細部のリアリティに関しても改善の余地を認める。特にサクラの墓や、そこに佇立する桜の木が30年にわたって変化なしに見えるのはいかがなものか。サンタか、あるいは弥生が墓をきれいにしているという描写が一瞬でもあれば、まだ納得できたのだが。

 

電車のドアが閉まる瞬間に抱きよせる、あるいは飛び出るという描写もクリシェ以外の何物でもない。ボールを追いかけて車道に飛び出る子どもというのも、いい加減見飽きた。新しい形の表現を模索することにエネルギーの大半を費やしたのかもしれないが、中身にもほんの少しでいいから新奇さを求めてほしかった。

 

サンタの息子の歩の台詞にもおかしいところがあった。「おばさんに、『 ボールを蹴れ! 』って叱られた」と回想していたが、そんなシーンはなかった。あるいは撮影段階ではあったにせよ、編集作業の段階で誰もこの矛盾に気が付かなかったのだろうか。細部の詰めが甘いという印象ばかりが残った。

 

総評

このような新しい表現の形態は歓迎されるべきである。一方で、中身がほとんどすべてどこかで見た構図や展開のパッチワークである。評価が非常に難しい。ただ、固定電話が携帯電話に代わっていく時代の流れは面白い。40~50歳ぐらいの世代の人は本作の時間の流れに違和感なく入っていけるだろうし、若い世代は逆に古い世代のもどかしい恋愛模様を客観的に見て楽しめるのではないだろうか。ストーリーは陳腐だが、だからこそ万人に受け入れられやすいとも考えられる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s not meet anymore.

「もう会わないようにしよう」の私訳。~しよう = Let’s ~。~しないようにしよう = Let’s not ~ である。Let’s not V. というのは実際によく使う表現なので、積極的に使っていきたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ラブロマンス, 成田凌, 日本, 杉咲花, 波瑠, 監督:遊川和彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

Posted on 2020年3月10日2020年9月26日 by cool-jupiter

スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 40点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:千葉雄大 成田凌 白石麻衣
監督:中田秀夫

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前作『 スマホを落としただけなのに 』の続編。前作はスマホという文明の利器の闇を描いたという点では意欲的な作品だったが、本作はただのハッキング+シリアル・キラーもの。それも先行する作品のおいしいところばかりを頂戴して、ダメな料理を作ってしまった。

 

あらすじ

刑事の加賀谷(千葉雄大)が天才ハッカーにしてシリアル・キラーの浦野(成田凌)を逮捕して数か月後。浦野が死体を埋めていた山中から新たな死体が発見される。浦野は加賀谷に「それはカリスマ的なブラック・ハッカー、Mの仕業ですよ」と語る。時を同じくして、加賀谷の恋人である美乃里(白石麻衣)に魔の手が忍び寄っていく・・・

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ポジティブ・サイド

千葉雄大が前作に引き続き好演。闇を秘めたキャラであると見ていたが、それなりに納得のいくバックグラウンドを持っていた。こういうところでも、日本は律義にアメリカに20年遅れている。しかし、こうしたことがリアルに感じられるのも現代ならではである。最近、自動相談所が小学生女児を親の元に帰してしまったことで悲劇が起きたが、こうしたことは実は全国津々浦々で起こってきたのではないか、そして見過ごされてきたのではないか。そうした我々の疑念が、加賀谷という刑事の背景に逆に説得力を持たせている。

 

白石麻衣、サービスショットをありがとう。

 

役者陣では、成田凌の怪演に尽きる。まあ、ハンニバル・レクターもどき、もといハンニバル・レクター的アドバイザーを体現しようとしているのは十分に伝わってきた。犯罪を楽しむ、いわゆる愉快犯ではなく、社会的な規範にそもそも収まらない異常者のオーラは前作に引き続き健在だった。千葉と成田(というと地名みたいだが)のファンならば、劇場鑑賞もありだろう。

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ネガティブ・サイド

何というか、ありとあらゆる先行作品を渉猟しまくり、あれやこれやの要素をパッチワークのようにつなぎ合わせたかのような作品という印象を受けた。『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターとスターリング捜査官の関係、『 トップガン 』のマーヴェリックの入隊理由、『 ハリー・ポッターと賢者の石 』のスネイプ先生など、さらには高畑京一郎の小説『 クリス・クロス 混沌の魔王 』および『 タイム・リープ あしたはきのう 』の「あとがきがわりに」に登場する江崎新一など、メインキャストの二人、千葉と成田を評すにはクリシェ以外の言葉がなかなか見当たらない。千葉は童顔とのギャップで、成田は持ち前の演技力でなんとかこれらの手あかのつきまくった設定を抑え込もうとしたが、残念ながら成功しなかった。作品全体を通じて感じたのは、スリルでもサスペンスでもなく退屈さである。

 

凶悪な犯罪者が野に放たれたままであるという可能性が高い。そいつを捕まえんと警察も全身全霊で奮闘するが及ばない。獄中の天才犯罪者の力をやむなく借りるしかないのか・・・ こうした描写があればストーリーに説得力も生まれる。だが、本作における警察はアホと無能の集団である。しかも、そうした設定に意味はない。単に観る側にネットやスマホの技術的な解説や悪用方法を説明したいからだけにすぎない。この室長(?)キャラはただただ不愉快だった。無能でアホという点では、浦野の監視についた脳筋的ギャンブル男もどうかしている。浦野の食事に嫌がらせをするから不快なのではない。相手が大量殺人鬼であると分かっていながら油断をするからだ。というよりも、PCを使うのに支障がない程度に、浦野は両手両足は拘束されてしかるべきではないのか。ハンニバル・レクター博士並みというのは大げさだが、それぐらい警戒しなければならない相手のはずである。だいたい、なぜ監視が一人だけなのだ?現実の警察(富田林署除く)がこれを見たら、きっと頭を抱えることだろう(と一市民として信じている)。

 

浦野がMを追う手練手管はそれなりに興味深いものだったが、ブログ解説はいかがなものか。いや、ブログの中身ではなく、ブログ記事執筆者としての加賀谷の写真をいつどうやって撮影したのか。シリアスな事件の捜査中に、笑顔でPCに向かう写真を撮ったというのか。考えづらいことだ。それとも合成・生成なのか。また【 Mに告ぐ 】というメッセージをクリックさせるという罠にはめまいがした。そんなもの、M本人がクリックするわけないだろう。ダークウェブに潜み、あらゆるネット犯罪に精通するカリスマ的ブラックハッカーが聞いて呆れる。そもそも、こいつが怪しいですよというキャラクターをこれ見よがしに登場させるものだから、すれっからしの映画ファンやミステリファンならずとも、Mを名乗る者の正体は容易に分かってしまう。こういうのはもう、スネイプ先生に端を発するお定まりのキャラである。

 

他にも珍妙な日本語も目立った。脳筋ギャンブラーによる、ラーにアクセントを置く“ミラーリング”や、「とりあえずメール送った相手に注意勧告してください」(そこは注意喚起だろう・・・)など。撮影中、最悪でも編集中に誰も気付かないのだろうか?こんなやつらがサイバー犯罪を取り締まっているようでは、邦画の中での日本の夜明けは遠いと慨嘆させられる。

 

後はリアリティか。獄中生活が長い浦野が、毛根まで銀髪というのはどういうことなのか。最近の留置場は髪染めもOKなのだろうか。普通に黒髪でいいだろうに。

 

総評

ミステリやサスペンスものの小説や映画に馴染みがない人ならば、前作と併せて楽しめるのだろうか。ストーリーの根幹の部分は悪くないのだ。ネット社会、PC社会の闇というのは今後広がっていくのは間違いない。だが、そこに至るまでの過程に説得力がない。『 羊たちの沈黙 』とはそこが最大の違いである。続編作る気満々のようだが、原作者、脚本家、監督の三者で相当にプロットを練りこまないことには、さらなる駄作になることは目に見えている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

the most safest

劇中のダークウェブ侵入前にブラウザに上の表現を使った文章が現れていた。the most safestは、もちろん文法的には誤りである。the safestか、またはthe most safeとすべきだろう(後者のような形はどんどん受け入れられつつある eg. the most sharp, the most clearなど)。受援英語で the most 形・副 estと書けば間違いなく×を食らうが、実際にポロっとネイティブが使うことも多い表現である。Jovianの体感だと、the most awesomestという二重最上級が最もよく使われているように思う。受験や大学のエッセイ、ビジネスの場では使わないこと!

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, スリラー, ミステリ, 千葉雄大, 成田凌, 日本, 白石麻衣, 監督:中田秀夫, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

Posted on 2020年2月9日2020年9月27日 by cool-jupiter

ヲタクに恋は難しい 10点
2020年2月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高畑充希 山崎賢人
監督:福田雄一

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うーむ、日本版『 ラ・ラ・ランド 』だと喧伝されていたので、ミュージカル好きとして観に行ったが、これは酷過ぎる。過去10年でも最低レベル。『 シグナル100  』も酷かったが、2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤーはこちらで決まりである。

 

あらすじ

桃瀬成海(高畑充希)は転職先で幼なじみの二藤宏嵩(山崎賢人)に再会する。成海は前の勤め先で恋人に腐女子であることがばれてしまい、逃げるように転職してきたのだった。そんな時、ゲーヲタであることを隠さない宏嵩に「俺という選択肢はないのか?」と問われた成海は、宏嵩と付き合うことにするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

高畑充希は、かなり歌唱力がある。

 

山崎賢人は、まあ並みより少しマシ程度の歌唱力である。

 

佐藤二朗のオープニングのプレゼンは、つまらないか面白いかの二択で言えば、まあ面白いのではないだろうか。

 

賀来賢人の顔芸は、おそらく本職の声優ドルヲタを怒らせる一歩手前のギリギリの線を見切ったユーモアがあったように思う。

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ネガティブ・サイド

まず、福田監督は何の意図があってミュージカル形式にしたのか。歌や踊りというのは、自己表現の極まった形なのである。言葉にできないサムシングを歌や踊りで表現するのである。ヲタクであるという自分の本性を隠したくてたまらない成海が、その心情を歌や踊りで表現するという営為の矛盾についてどう思うのか。『 キャッツ 』にはいろいろと不満を抱いたが、それでも天上世界に昇り、再生を果たしたいというジェリクル・キャッツの想いは歌と踊りから溢れ出ていた。本作にはそれがない。例えば『 モテキ 』の森山未來の喜びのダンス、あるいは『 愛がなんだ 』の岸井ゆきのが口ずさむ魂からのラップ、もしくは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』のトランスジェンダーのユリシーズの苦悩、そうした言葉にするのが難しいサムシングが、本作では歌と踊りの形で表出されていない。ミュージカルであることに必然性を一切感じないのである。

 

それだけならまだマシなのだが、『 オペラ座の怪人 』をパロったシーンでは久しぶりに映画を観て頭に来た。劇中でもイケメンと評される宏嵩がクリスティーンの位置に置かれるだと?火傷で爛れた顔を持つファントムを、某キャラが仮面をかぶって演じるだと?「彼女の趣味ごと彼女を愛せ!」と主張する菜々緒(もう某キャラをばらしてしまったが別にいいだろう・・・)が、それを言うか?イケメンだけれど内面が醜男である宏嵩と、醜男だけれど内面が純粋すぎるファントムを対比させたつもりなのだろうが、ファントムに本当に足りなかったのは外見上のルックスではなく自分への自信と他者への信頼である。だからこそクリスティーンを必死に口説くのではなく、催眠術を使うのであるし、男と女ではなく、師匠と弟子という関係で迫ろうとするのである。ファントムに欠けているのは対人能力、コミュニケーション能力であり、それは一世代も二世代も前のヲタク像である。福田監督の意識の根底にあるのは、非常に古いヲタク像であり、ヲタクという種族が迫害されている時代のイメージなのではないか。ストーリーは2018年のことのようだが、本作で描写されるヲタクはゼロ年代、いや90年代のそれである。ムチャクチャもいいところである。

 

大解釈に就職し、恋人もおり、趣味も充実し、その趣味を存分に表現できる場を持ち、その感動を分かち合える仲間がいる成海が、「リア充援護」などという言葉を使う。それは欺瞞である。リア充というのは成海のような人間を指す言葉である。もはやオッサンであるJovianの肌感覚でしかないが、2015年以降のヲタクには栗本薫のヲタクの定義、すなわち「人間よりも非人間に親しみを持つ」という定義は当てはまらない。20年前にコスプレしていれば準犯罪者か犯罪者予備軍のように見られていたが、今ではハロウィーンに代表されるように、コスプレも一つの文化となった。同じことが他の多くのヲタク趣味にも当てはまる。なぜ2020年、令和にもなって『 電車男 』の時代のヲタク像を見せられなければならないのか(『 電車男 』が悪いと言っているわけではない、念のため。電車男の時代は、オタクは日陰者で迫害される側だったと強調しているに過ぎない)。

 

時代錯誤はこれだけではない。成海は趣味の異なる宏嵩相手にもATフィールドを張っていたが、これなどは90年代のヲタクの心のバリアの象徴である。当時のヲタクは、それぞれの分野ごとに異民族であり、異なる離島に暮らして平和共存していた。だからこそ、出会ってしまうと分かり合うことができず激しい対立を引き起こしてしまっていた。だが、ゼロ年代以降、特にインターネットの発達とともにそうした不毛な争いは(少なくともリアル世界では)減少していった。これは歴史的な事実である。そして、雑多なオタク趣味が確立すると同時に、オーバーラップする領域はボーダーレス化していった。これも歴史的事実である。離島に橋がかかったのである。そして、そうした離島同士の付き合いが現実の付き合いに発展していくのが今という時代である。Twitterを見よ。定期的に#カプ婚が報告されてくるではないか。

 

本作が最も意味が分からないのは、そうした離島と離島の架け橋を渡る行為、すなわちゲーヲタを声優アイドルヲタ、もしくはBLやギャルゲーのヲタ趣味を理解するために宏嵩が手を出すアイテムやイベントが、ことごとく的外れであることだ。それは自分の好きな分野以外のことにはとことん疎いという従来のヲタクの性質だけでは説明がつかないほどである。対する成海もキャラに一貫性がない。下着の色をそこまで気にする女性なら、あのシチュエーションで見送りにすら来ない宏嵩は、恋愛相手としてもセックス・フレンドとしても対象外だろう。ヲタク趣味を隠さないで済むという気楽な相手なら、下着の色など本来どうでもいいはずである。主役二人のヲタクとしての性質が、時代の面でも、人物の面でも、一貫性をとにかく欠いているのである。

 

観ていて、ひらすら疲れた。何度寝てやろうかと思ったことか。恋をするのは難しいというのは、自分がヲタクだからではない。自分で自分を好きになれないから、他人を好きになれないだけだ。様々なジャンルのヲタクを一括りにして「ヲタクはキモイから無理」と切って捨てる成海という人間のこの考え方は、まさに差別主義者のそれである。原作は知らないが、この映画は全編が壮大な茶番劇である。『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』よりも馬鹿にされた気分である。かつてのゲームヲタク、SFヲタク、現役のボクシングヲタク(見るだけ)、映画ヲタク、ミステリヲタクであるJovianは本作によって大いに気分を害された。

 

総評

上映中にあちらこちらで「クスクス」という笑いが漏れていたが、声の主たちは皆、若々しく聞こえた。きっと若い世代にはちょっと変な人たちがネットスラングをリアルに使ったりするフシギな物語に映ったのだろう。だが、90年代やゼロ年代のヲタク文化を少しでも知っている人間なら、本作はとうてい許容できるものではないだろう。結局、福田監督はヲタクに対して何のリスペクトも抱いていないからである。それは人間模様を映し出す映画監督としては、あまりにも基本的素養に欠けているということである。元々、作る作品のほとんどが賛否両論を呼ぶ御仁であるが、今作はシリアスな映画ファンからは9割以上の酷評を得るのではないか。それほど酷い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

So, sue me.

映画に出てくるセリフではないが、「だから俺を訴えろよ」という意味の言葉である。往々にして開き直って言われることが多い。2000年前後、アメリカの掲示板などではしょちゅう、“I’m an otaku, so sue me,”(俺はヲタクだけど、それが何か悪いのか?)と書き込まれていて、「アメリカという国は、何か違う空気が流れているなあ」と感心したことを今でもよく覚えている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, コメディ, 山崎賢人, 日本, 監督:福田雄一, 配給会社:東宝, 高畑充希Leave a Comment on 『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

『 ラストレター 』 / Last Letter

Posted on 2020年1月24日 by cool-jupiter

Last Letter  70 / 100
At MOVIX Amagasaki, on January 24th, 2020
Main Cast: Masaharu Fukuyama, Ryūnosuke Kamiki, Nana Mori, Suzu Hirose, Takako Matsu,
Director: Shunji Iwai

 

ラストレター 70点
2020年1月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:福山雅治 神木隆之介 森七菜 広瀬すず 松たか子
監督:岩井俊二

 

Before going in, I was a bit apprehensive because the trailers seemed to give away a bit too much. However, this film proved to be a lot better than I assumed it would be.

 

鑑賞前は、トレイラーがややネタバレ過ぎではないかと心配していた。しかし、実際の映画は思っていたよりも遥かに良い出来だった。

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Plot Summaries

Yuri – played by Takako Matsu – was attending a class reunion on behalf of her deceased elder sister Misaki – played by Suzu Hirose. Mistaken for her sister, Yuri had to start corresponding with Kyoshiro Otosaka – played by Masaharu Fukuyama –, her own first love and her sister’s ex boyfriend. And so, their bizarre correspondence began …

 

あらすじ

裕里(松たか子)は死去した姉・未咲(広瀬すず)の同窓会に出席して、姉の死を知らせようとした。だが、姉と間違われてしまった裕里は、自身の初恋の人であり、姉の大学時代の交際相手だった乙坂鏡史郎(福山雅治)と文通を始めることになってしまった。それは自分の娘と姉の娘が、未咲の人生を追体験することにも重なっていき・・・

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Positives

Great camerawork. The director of photography really did an awesome job framing nearly every shot so beautifully and quietly. Most of the shots in Acts 1 & 2 were dimly lit as hardly any lighting was provided, or so it seemed. However, that’s what made the picture of two girls walking together amazingly impressive as they shone in broad daylight in their full glory. It just made me feel as if the two girls, Ayumi and Soyoka, were reincarnations of their mothers. This is the kind of scene you have to see in a darkened theater.

 

I also liked the background music. The piano sounds make you feel serene and calm. Lately, there are many Japanese films that use orchestra as if to say “This is where you shed tears, Go ahead!” and those films just get on my nerves. I think director Shunji Iwai, along with Takeshi Kitano, is the best filmmaker in Japan who knows how to use discreet, transparent music. The tick tuck sound of a clock in Ayumi’s home was memorable as it made it much clearer that there was no one around. A beautiful entanglement of light and shade and sound and silence was simply breathtaking. While there are many creators who try to be artistic but end up being artsy, Shunji Iwai is definitely the one who is artistic not because he tries to be but because HE IS. You have got to love his works.

 

The scene where Kyoshiro visited his deceased first love was purely heart-wrenching. He hadn’t been able to move on for 25 years, and now he has to. The fact that the girl you were once in a relationship with is gone forever without you knowing that life was such a bi*ch to her is crushing. Whatever happened, Kyoshiro left Misaki, and that’s where her life began to get darkened. Being about as old as Kyoshiro, I was able to what was going on in his head. If I was a teenager or in my twentieth, it would be virtually impossible for me to sympathize with him in this moment. Tears welled up in my eyes as his lonely soul finally had the moment of redemption.

 

To think, when writing a letter, you are conversing with yourself. You write as you read and you read as you write. In your head is the person who will receive the letter. This is how Kyoshiro, an unpopular novelist, created his first and only book whose title was Misaki. That was his way of keeping Misaki alive. Now, the bizarre correspondence has brought Misaki back to life one more time, and that is the beauty of this story. All the characters relived the life of Misaki, and so, they start to live their lives. The Last Letter from Misaki, the mother, to Ayumi, her daughter, was meant to pass the torch of life. Great stuff.

 

ポジティブ・サイド

何とも美しい、そして計算されたカメラワークである。基本的には序盤から中盤にかけてのほとんどのショットは暗く、極力照明を使わず自然光のみを頼りに撮影されているが、だからこそ終盤の陽光をいっぱいに浴びる鮎美と颯香の姿が際立って美しい。暗転した劇場の大画面で観るとなおさらにそう感じる。

 

ピアノをメインにした控えめで淡い旋律も心地よい。壮大なオーケストラで「はい、ここが涙を流す場面ですよ」と出しゃばる邦画は結構多い。削ぎ落された、透明感あるBGMの使い手となると日本では北野武と岩井俊二が双璧だろうか。鮎美の家の時計のチクタク音も、周囲の静寂を引き立てている。光と影と音と静寂のコラボレーションが素晴らしい。芸術的であろうとして失敗する作家は多いが、岩井俊二は芸術的であろうとして芸術的な作品を送り出せる稀有な監督である。

 

未咲の思い出に囚われて前に進むことができなかった鏡史郎が、美咲の仏壇を訪れ、沈黙のうちに語らうシーンは胸が締め付けられるようだ。未咲の暗く、辛い人生の責任の一端が自分にもあるのだと自分を責める鏡史郎の気持ちが手に取るように分かる。これはおっさんにしかできないだろう。10代では到底不可能。20代後半でも無理だろう。そんな不甲斐ない男の魂も最後には救済されることに、落涙した。

 

思うに手紙というのは、自己内対話なのだ。書きながら読む、読みながら書く。その自己内対話の繰り返しが未咲という小説として結実した。そして今また文通という形で未咲が語られることで、それぞれの人生が動き出す。未咲は生きていたし、今後も未咲は語りかけてくる。なぜなら未咲の思い出は鮎美に受け継がれたから。

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Negatives

The biggest gripe I have with this film is that there are a couple of characters whose story arcs were left half-explored, one being that of Yuri’s husband and the other being that of Yuri’s mother in law.

 

Also, I just didn’t understand why Kyhoshiro never picked up on the difference between the handwriting of the letters. His knowing that Yuri was pretending to be Misaki wasn’t a good explanation, for there were two kinds of letters, those sent by Yuri and those sent by Ayumi. It’s unthinkable that Kyoshiro, a novelist who is into writing stuff with pencils, never noticed the handwriting differences

 

I wish that the makeup artists could have done a better job. Misaki and Ayumi, both played by Suzu Hirose, and the high school girl Yuri and Soyoka, both played by Nana Mori, matched the description right down to a tee and that caused me some confusion. If they resembled just a little less, the drama revolving around them would have been much more compelling.

 

ネガティブ・サイド

裕里の義母と夫をめぐる物語にしっかりとして決着(という表現は大げさかもしれないが)をつけてほしかったと思う。裕里はある意味で過去に一区切りをつけて現実に帰っていくわけで、その現実の先にある少々やっかいな夫と義母の姿を見たかったと思うのである。

 

また鏡史郎が手紙の筆跡の違いに気が付かないことにも納得がいかない。裕里が未咲のふりをしていたと知っていたということは答えにならない。いずれにしても裕里の筆跡と鮎美の筆跡は異なっているはずで、文筆を生業にする者の端くれの鏡史郎がそのことを一顧だにしないのは不自然である。塾かどこかで手書きの作文か小論文を教えているのだから猶更にそう感じる。

 

メイクアップアーティストの方々がもうひと頑張りして、未咲と鮎美、裕里と颯香をもう少しだけ「似ていない」ように見せてくれたらと思った。そっくりな親子というのは存在するが、これではまるで一卵性双生児である。髪型だけではなく、肌の色や肌質、鼻の形、目尻などはもう少し細工をできたのにと思う。似ていないところを出すことで、似ているところを強調する技法を追求してほしかった。

 

Recap

This is a well-shot, well-acted and well-directed film. Going back and forth between the past and the present and Miyagi and Tokyo felt like a smooth ride. Retelling the story of a deceased person is kind of a cliché, but the letter correspondence is such an old communication that it’s new today. And when a new story is penned by a director as good as Shunji Iwai in a well thought-out and well-executed manner, you get a masterpiece.

 

総評

カメラワークが素晴らしく、演技も良い。そしてディレクションにも文句なし。過去と現在、宮城と東京とを行き来する構成にも混乱はなく、スムーズに進行する。亡くなった人物の物語を語ることはクリシェであるが、文通という形を現在に蘇らせたのはユニークである。そして岩井俊二に物語を紡がせれば、傑作が生まれるのである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 広瀬すず, 日本, 松たか子, 森七菜, 監督:岩井俊二, 神木隆之介, 福山雅治, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ラストレター 』 / Last Letter

『 カイジ ファイナルゲーム 』 -ようこそ、底辺の世界へ-

Posted on 2020年1月15日 by cool-jupiter

カイジ ファイナルゲーム 55点
2020年1月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:藤原竜也 関水渚
監督:佐藤東弥

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原作はほとんど読んでいないが、映画されたカイジは2作とも観ている。比喩的な意味での地下世界と文字通りの意味での地下世界を融合させた独特の世界観は、本作でも健在である。

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あらすじ

2020年の東京五輪終了後、日本の景気は恐ろしく冷え込んだ。円の価値は暴落し、インフレが進行し、日本の産業は外資に次々と買われた。日本は、ごく一部の富裕層と大多数の貧民に分断されてしまった。派遣会社にピンはねを喰らいながら、カイジ(藤原竜也)は貧困の中で生きていた。ある時、多額の賞金もしくは秘密の情報が懸賞として得られる「バベルの塔」というゲームへの参加を促される。それは、日本という国家をも巻き込む壮絶なゲームへの入り口だった・・・

 

ポジティブ・サイド

もはや藤原竜也劇場である。独壇場である。底辺の似合う男とは言い得て妙である。Jovianは原作をほとんど読んでいないが、藤原竜也が漫画のカイジに似ていない(容姿や振る舞いetc)ことは直感で分かる。それでも、漫画のカイジというキャラクターを自らの演技でねじ伏せ、新たなカイジ像を作り上げたのは藤原の演技力の勝利として称えるべきである。

 

爽やかな優男という路線で行き詰っていた福士蒼太も、『 ザ・ファブル 』に続いて、まあまあ良い感じである。大義名分のために弱者を切り捨てることを厭わない姿勢に、今の日本の根本的な政治姿勢に通じる。財政健全化を謳いながら、道路や建設関連にカネをジャブジャブと使い、福祉の拡充を謳って消費増税を断行した直後に、高齢者医療費の自己負担比率の引き上げを検討する(Jovianはその政策自体には賛成であるが、現政権は言っていることとやっていることが違い過ぎるのが大問題である)など、口から出まかせもいいところである。虚偽と欺瞞に満ちた自分に陶酔する木っ端役人が実に似合っていた。福士は爽やか路線を中川大志に譲り、嫌味な奴、もしくはクズ路線を藤原竜也から受け継ぐべし。

 

日本社会全体を巻き込むスケールの壮大さは評価できる。カイジの世界(映画に限っては)について言えることは、クモの糸は常に垂らされているということ。その糸を奪い合うのか、順番に掴むのか。それとも全員が掴める方法を考えるのか。問われているのは、そこである。これは正解を選ぶという問題ではなく、自分の生き方を定義するということである。「こうするしかないんだ!」と絶叫する官僚=上級国民は、物事は白か黒か、正解か不正解かしかないという思考の陥穽に囚われている。「みんなで泥水をすするべきだ!」と力強く宣言するカイジは「みんなで貧困を分かち合うべきだ」と言っているわけではない。困っている人がいれば、手を差し伸べよう。情けは人のためならず。カイジはそう言っている。そして、それが原作者の福本伸行や監督の佐藤東弥のメッセージであろう。少々鼻につくメッセージではあるが、Jovianはこうしたストレートな社会的な主張を行うこと自体を評価したいと思っている。

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ネガティブ・サイド

『 カイジ 』シリーズを観たことがある者ならば、展開が容易に読める。というか、ちょっとしたミステリやサスペンスを見慣れていれば、中盤まではほとんど誰にでも分かるような展開である。愛人がいた。その愛人が子どもを産んだ。愛人は子どもを産んだ直後に死亡した。では、その子どもは?という疑問に思い至らないというのは考えづらい。

 

またストーリーの本筋(ゲーム/ギャンブル)と直接の関連がないので書いてしまうが、旧円を廃止して新円を発行するというトンデモなアイデアが出される。いや、そうしたアイデア自体は突拍子もないわけではない。本作は不景気がますます進行した近未来の日本を舞台にしているわけで、無能な政治家や官僚に打てる手は「徳政令」くらいだろう。本作では預金封鎖で庶民から接収したカネで国の借金をチャラにしてしまおうという気宇壮大なプランが描かれるが、これはリアリティが無さ過ぎる。第一に、減りつつあるとはいえ、日本のタンス預金は数百兆円と見積もられている。貧困が拡大した世界で、物語中のタンス預金がこの10分の1だとしても数十兆円。これらのカネが一気に新円と交換されれば、あっという間に円高となり、日本の生命線の輸出関連産業が吹っ飛ぶ。第二に、政治家や資産家が預金封鎖前に新円をしこたま仕入れておくというのもリアリティに乏しい。環境大臣・小泉進次郎の公開された資産が0円だったというのは記憶に新しいが、こういう連中はとっくにオフショアやタックスヘイヴンで資産を運用しているものなのである。劇中で総理大臣はじめ、有力政治家や資産家が新円の事前入手に血道を上げるのは不自然かつ不可解にも映る。まあ、金持ちの底なしの欲望を表しているのかもしれないが・・・

 

その欲深連中を映すカメラのアングルがおかしい場面がある。カイジ側が食い込んでいたのは造幣局であって、閣僚連中ではなかったはず。どう考えても閣僚・資産家の一人が撮影したとしか思えないショットが映る。これは普通に編集ミスだろう。

 

人間秤というゲームのルールにある3つのF、すなわちFRIEND、FIXER、FAMILYが最初に画面に映し出される時のFIXERの綴りがFIXARになっていた。2度目に表示された時は正しいFIXERになっていたが。この程度の英語はしっかり確認すべきだし、編集やCG作成作業時に誰も気付かなかったというのは、キツイ表現を使えば、恥ずべきことである。

 

関水渚のラッキーガールという設定は何だったのか。ゲームやギャンブルに絡む描写はほとんど無かった。もうちょっとマシな扱いをしてほしかった。また外野のザワザワもなかった。少しさびしいファイナルであった。

 

総評

過去作のキャストも一瞬だけ駆けつけたりしてくるので、いきなり本作を観るというのはお勧めできない。実質的なギャンブル勝負は2回だけなので、そこに物足りなさを感じる向きも多いかもしれないし、一部のキャラクターに仕込まれた設定の読みやすさは明白にマイナスである。しかし、一寸の虫にも五分の魂を感じさせる展開もあり、下剋上のカタルシスもある。シリーズに付き合ってきた人々も、カイジ/藤原竜也にお別れをするために、シリーズ未見の人は過去作をチェックした上で、劇場に向かわれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

The price has gone up again!

「また値上がりしてやがる」というカイジの台詞の私訳。「上がる」というのは、だいたい go up で表現できる。血糖値や血圧、税率、仕事量、飛行機、風船など、上に行くものなら何でも go up でOKである。

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