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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ファンタジー

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200727021617j:plain
 

ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 かいじゅうたちのいるところ 』 -ファミリー向けファンタジーの佳作-

Posted on 2020年7月8日 by cool-jupiter

かいじゅうたちのいるところ 65点
2020年7月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マックス・レコーズ
監督:スパイク・ジョーンズ

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シカゴ在住の友人からキッズへの英語レッスン教材として勧められたのが、『 グリンチ 』と『 かいじゅうたちのいるところ 』だった。『 ブラッド・スローン 』をMOVIXあまがさきで公開していたのと同時期に『 アイム・ノット・シリアルキラー 』という珍作ホラーも公開されていた。その主人公のマックス・レコーズの子ども時代の作品。これも何かの縁ということでDVDをレンタル。

 

あらすじ

空想好きのマックス(マックス・レコーズ)は、どこか家族にも周囲の人間にも上手く馴染めない。母親とのちょっとした行き違いから大ゲンカになってしまったマックスは家を飛び出し、そのまま船に乗って大海原へ飛び出した。そして「かいじゅうたちのいるところ」にたどり着いたのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

疎外感を感じる子どもが主人公のファンタジーと言えば、まずは『 ネバーエンディング・ストーリー 』が思い浮かぶ。近年の作品では『 バーバラと心の巨人 』が思い出される。古典的な作品では、やはり『 オズの魔法使 』は外せない。また、子どもが空想の友人と遊ぶ作品では『 ジョジョ・ラビット 』の面白さが突出している。空想世界を題材にしたファンタジーの面白さは、現実世界がどのようにそこに反映されているのかで決まると言ってよい。その意味で、本作は及第点以上である。

 

まず、着ぐるみを採用したのが大きい。表情は後からCG処理したのだろうが、これによって「かいじゅうたち」の存在感、実在感が確実に増している。2020年時点ではCGだけならば『 ライオンキング 』や『 野性の呼び声 』からも分かるように、本物と見分けがつかないレベルに達している(もちろんカネと時間が必要だが)。しかし着ぐるみには重みや手触りがある。他の生き物や事物と触れ合うことができる。もしも本作の「かいじゅうたち」がフルCGだったなら、最終盤のとあるキャラとマックスの究極の触れ合いが、逆にちゃちなものに感じられただろう。これは一種の胎内回帰願望の表れで、冒頭の雪のトンネルでも強く示唆されていたことである。非常に分かりやすくシンボルを配置しているが、これは子どもでもなんとなく理解できるだろう。我々は皆、何故か小さい頃、押し入れだったり、屋根裏だったりと、暗く狭いところに惹かれていた時期があったはずである。本作は辛い現実を空想世界に投影することで、その空想世界すらも辛い場所にしてしまうストーリーであるが、そこには救いがある。庇護がある。また子ども自身の成長もある。予定調和的であるが、最後の最後には安心するし納得できるのである。

 

様々な悩みであったりストレスを抱える「かいじゅうたち」は、マックスの現実世界での人間関係・人間模様の投影である。そして、そこにはマックス自身の影も存在する。キャロルという「かいじゅう」はマックスの負の部分を体現したキャラクターである。疎外されていると感じていたマックスは、キャロルを通じて、自分が疎外されていたのではなく、悩みを抱えているのは自分だけだという錯覚に陥っていたことに気付く。簡単すぎず、かといって難しすぎない見せ方は、まさにファミリー向けである。

 

ネガティブ・サイド

一部のかいじゅうの行動にドン引きさせられる。木に穴をあけるのは、それが仕事とあらばしょうがないが、いたいけなフクロウを投石で撃墜して、「この子たちは、これが嬉しいんだ」と言い放つのには正直引いた。また、マックスに負けず劣らずの強情っぱりのかいじゅうが、「フクロウと一緒に寝られるか」というのにも違和感。そもそもフクロウは夜行性ではなかったか。

 

また、かいじゅうたちの理解に苦しむ言動がマックスを蝕む過程もやや唐突だ。子ども向けであるならば、もっとこの王国の愉快なところ、楽しいところを強調する描写が欲しかった。それこそ原作には存在せず、だからこそ映画というビジュアルな媒体で存分に表現すべきものだろう。

 

エンディングにも少々不満である。マックスが求めていたのは家族との触れ合い、お互いを認め合うことだった。そこに姉の姿が見られなかったのは個人的には納得がいかなかった。

 

総評

良作である。色々と???なところもあるが、絵本の世界をビジュアルの面でもストーリーの面でも、ここまで大きく膨らませて、なおかつ綺麗に着地させるのはスパイク・ジョーンズ監督の手腕だろう。COVID-19が静かに再拡大の様相を見せている今、映画館に行かないという選択をする映画ファン、特に家族持ちにお勧めをしたい作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話

Knock it off

「やめろ」、「うるさい」、「いい加減にしろ」、「そこらへんにしとけ」のような意味である。職場であまりにも雑談が過ぎる、あるいは声のボリュームが大きすぎる人がいたら、心の中でこのように唱えてみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, ファンタジー, マックス・レコーズ, 監督:スパイク・ジョーンズ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 かいじゅうたちのいるところ 』 -ファミリー向けファンタジーの佳作-

『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

Posted on 2020年6月12日2020年8月16日 by cool-jupiter
『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

オズの魔法使 100点
2020年6月9日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジュディ・ガーランド
監督:ビクター・フレミング

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『 ジュディ 虹の彼方に 』が公開されてからわずか3か月。まさか本作を映画館で観ることができる日が来るとは。コロナに感謝・・・とは口が裂けても言えないが、それでも1990年代にアメリカで『 スター・ウォーズ 』のオリジナル三部作(リマスター版)が劇場でリバイバル上映された時は、多くのファンが熱狂したのだろう。平日の朝だったためか、Jovian以外は女子大生二人組とおじさん一人、おばさん一人しか見当たらなかった。それでもTOHOシネマズには感謝しかない。

 

あらすじ

カンザスに暮らすドロシー(ジュディ・ガーランド)は、虹の向こうにより良い世界があることを夢想していた。ある日、竜巻がカンザスを襲う。風で飛ばされた窓で頭を打ったドロシーは、気が付くと魔法の国オズに飛ばされていた。そして、ドロシーの家は西の悪い魔女を下敷きにしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

陳腐な感想であるが、ジュディ・ガーランドが歌う“Over the Rainbow”が素晴らしい。フィルムそのものがまだまだ貴重な時代、ロングのワン・カットで一気に歌い上げる。そして歌い終わった直後、すぐそばでたたずむトトにキスをする。これは監督の意図した演出なのか、それともジュディ・ガーランド自身の自発的な演技なのか。ここではないどこかを夢想した少女が、家族ではなく犬によって現実に引き留められた瞬間である。このシーンがあるからこそ、“There is no place like home.”と祈るシーンが際立つ。

 

そのトトの演技も堂に入ったものである。犬の演技としては『 野性の呼び声 』などは問題にならない(というか、あちらは人間が演じている)。『 パターソン 』のネリーと互角だろうか。籠から飛び出すシーン、窓からドロシーの部屋に飛び込んでくるシーン、魔女に向かってキャインと吠えるシーン、全てが絵になる犬である。

 

ドロシーを出迎えるのがマンチキンというのもいい。言ってみればミゼットの町なのだが、『 ウィロー 』と同じく、現実的な非現実さを生み出すとともに、社会のdiversityとinclusivenessへの遠回しな批判にもなっている。元々のミス・ガルチもカンザスの大地主で土地の者に対して横暴に振る舞っていたことが伺い知れるが、西の悪い魔女もマンチキンを搾取していたことは想像に難くない。そういう見方が原作小説の発表から100年が過ぎた今も出来るのだ。

 

ミュージカルとしても特級品である。特に“We’re off to see the wizard”のシークエンスは、役者の演技と楽曲のリズムとクオリティが高いレベルで融合している。ドロシーの10代少女の躍動感のあるステップ、かかしのふにゃふにゃなステップ、ブリキ男のカクカクとしたステップ、臆病なライオンのネコ科を思わせる意外としなやかな足さばきから生まれるステップをYouTubeで観よ。ジュディ・ガーランドは赤いハイヒールで華麗なステップを踏んでいる!その他のキャストのダンスも見事。先日、『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でカイロ・レン/ベン・ソロを卒業したアダム・ドライバーがコレオグラファーとの議論で「カイロ・レンはそんな動きはしない」とこだわりを見せたと言われている。演技者として絶賛されているアダム・ドライバーのこだわりを100年近く前の役者たちが持っていた、あるいは監督のフレミングがしっかりとそう映るように演出したということに畏敬の念を抱く。

 

“If I only had a brain”、“If I only had a heart”、“If I only had the nerve”の3曲のインパクトも強烈である。特にかかしとブリキ男のダンスは幼少の頃に何度も観ては一緒に踊っていたように記憶している。そして、ブリキ男の左右に体をグイーンと傾けて、倒れそうだけれど倒れないという演出は、マイケル・ジャクソンのゼロ・グラビティとして80年代に蘇った。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンが音楽と映像をパーフェクトに結び付けた新時代である。MJのゼロ・グラビティのインスピレーションは、本作にあったと言われている。それだけ象徴的な映画なのである。

 

色々と記憶に残るシーンが多い本作だが、最も強烈な印象を残しているのは、やはり悪い西の魔女だ。緑の肌に漆黒の衣装、神出鬼没で炎とともに現れ煙とともに消えていく。そしてほうきに乗って、ブルーインパルスもかくやのcontrailを引いていく。その笑い声と笑い方はジャバ・ザ・ハットのペット、コワキアン・モンキーに受け継がれている。多くの兵士(『 スター・ウォーズ 』でルークやハン・ソロ、チューバッカがトゥルーパーに変装するネタ元も本作だ、間違いない)を従えながらも、しかし死亡するや否や、その部下たちはドロシーたちに感謝の念をもってひざまずく。これもまた当時の資本家と小作人の関係を戯画化し、さらに批判しているシーンである。こうした社会的なメッセージがそこかしこにあるのだ。また魔女の弱点が水というのもいい。M・ナイト・シャマランの『 サイン 』も、本作にインスパイアされたのではないのかと勝手に想像している。また、久々に“Over the Rainbow”とセットで本作を観て、Trouble melts like lemon dropsという歌詞に魔女の死に様が暗示されていることに気づいた。なるほど。

 

大道具や小道具、美術も良い仕事をしている。かかしやライオン、ブリキ男の衣装や顔のメイクアップにはケチのつけようがないし、マンチキンの国の建物や道は今見ても張りぼてには見えない。遠景が描かれた絵は、当時の遠近法と風景描写技術の粋だろう。ドロシーのパーティーが遠くに歩いていくたびに“We’re off to see the wizard”が歌われるが、その歌の切れ目と一行がカーブを曲がっていく、あるいは坂道を下っていくのが見事にシンクロしていて、なおかつ遠近法を壊さないギリギリのラインにもなっている。それらを完璧に収めたカメラワークも見事の一語に尽きる。

 

本作と全く同じテーマを異なるアプローチで追求したのがメーテルリンクの『 青い鳥 』だろう。結局、現代の作品から古典に至るまで、本作が及ぼした影響はあまりにも巨大で不滅である。職場の50代のイングランド人に最近尋ねたことがある。「Rod Stewartの“Sailing”は、本当にRod自身が言うように英国では第二の国歌のようなものなのか?」と。曰はく、「俺より上の世代ではそうだろう」と。同じように20代と30代のアメリカ人にも尋ねてみたことがある。「“Over the Rainbow”は第二のアメリカ国歌か?」と。答えは二人とも「然り」であった。

 

オズの国が現実なのか幻想なのか、それはどちらでもよい。いかようにも解釈可能なところが素晴らしいのである。ただ、ドロシーがマンチキンやグリンダらと話す時には使わず、かかし、ブリキ男、ライオンと話す時には使う特定の語彙がある。そこに注目すれば、オズの国の正体が見えてくる。これまでに何度も鑑賞しているのに気付かなかった。鑑賞するたびにこうした発見をもたらしてくれるのも、本作が名作たるゆえんである。

 

ネガティブ・サイド

無い。いや、無いことはないのだが、画質や音質にケチをつけても意味はない。

 

総評

20世紀の最高傑作と勝手に断言する。エンターテインメント性と社会的なメッセージの両方を併せ持っている。そのどちらにおいても、現代に通じる。むしろ、普遍性を持つと言うべきか。小学生ぐらいの子どもを持つ親は、ぜひ我が子に見せてあげてほしい。高校生や大学生のカップルは、ぜひ劇場で鑑賞してみてほしい。オールド映画ファンもこれを機に劇場へGo! だ。暗転した劇場で白黒~セピアなカンザスが、彩り鮮やかなオズの国に切り替わるシーンの感動は、劇場でこそ体験すべきである。そして、極上の歌と踊りと語りを大画面で心ゆくまで堪能しようではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

courage

ライオンが欲しがる勇気である。英会話講師としてよく受ける質問の一つに「courageとbraveryはどう違うんですか?」というものがった。「courage bravery differenceでググってください」と言いたかったが、そこはグッとこらえて、受講生の中から答えを引っ張り出さねばならない。それこがex(外へ)+duco(導く)=educateである。Enjoy = 楽しむ、enlarge = 拡大する、encourage = 勇気を与える、ここまで引き出せれば、courageとは、振り絞る勇気であると分かる。一方でbraveryは元々備えている勇気である。良い教師ほど教えないものである。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1930年代, SS Rank, アメリカ, ジュディ・ガーランド, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ビクター・フレミング, 配給会社:MGM映画会社Leave a Comment on 『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

『 ムゲンのi 』 -ジャンルミックス・ファンタジーの良作-

Posted on 2020年4月25日2021年1月8日 by cool-jupiter

ムゲンのi 75点
2020年4月19日~4月23日にかけて読了
著者:知念実希人
発行元:双葉社

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『 仮面病棟 』の知念実希人の単行本上下二巻の大部の小説。こちらはイージー・リーディングとは程遠いズッシリとした手応えが得られる。なので、活字に慣れていない人には少々しんどいかもしれない。だが、活字を苦にしないならば、本作を巣ごもりのお供にするのも良いだろう。

 

あらすじ

医師の識名愛衣は、眠りから目覚めることがないというイレスという奇病の患者の治療にあたっていた。だが、霊能者だった祖母から力の使い方を授かった愛衣は“夢幻の世界”で自分の分身的存在であるククルと共に、イレス患者の魂を救うマブイグミを行っていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

海堂尊の作品のような外科医一辺倒の医学ミステリや医学サスペンスではなく、純粋なファンタジーというのは、それだけで貴重である。そして本書の価値は、その希少価値ゆえではなく、その面白さによって高められている。

 

本書の面白さとは、第一にその壮大なる世界観である。フロイト的な個人の深層にある無意識世界、まさに夢幻の領域を探索するストーリーといえば真っ先に『 インセプション 』が思い浮かぶ。だが、本書が描写する夢幻の世界には、それこそ明晰夢のような臨場感と迫真性がある。『 インセプション 』は夢と現実の境目をどんどんと曖昧にしていったが、本書は逆である。夢幻の世界は、対象のイレス患者のトラウマ体験が極端に肥大化して存在する世界なのである。現実に絶対にありえないような世界の在り様は、そのままイレス患者の心の傷の深さの象徴なのである。非現実がますます非現実になっていく。それは、悪夢という名の現実に苛まれていることの証なのである。それを救うための旅路のお供がウサギ耳の猫というのがいい。我々は猫耳やウサ耳という属性には結構慣れている。しかし、猫にウサギの耳をくっつけるという発想は非凡だと感じる。Jovianと同世代である知念実希人、恐るべしである。

 

夢幻の世界に引きこもってしまったイレス患者たちの現実体験も非常に過酷で苛烈だ。特に父がパイロットだった女子高生と、人権派の弁護士に秘められた非常に悲しく苦しい物語は、読者の心に確かな爪痕を残すことだろう。特に後者は『 黒い司法 0%からの奇跡 』をひっくり返したような、何とも後味の悪い話だ。上巻は『 友罪 』と同じ、あいつは少年Xなのか、という疑惑で締めくくられる。Jovianや知念実希人の数歳年下である、あの少年Xがモデルであることは疑いようがない。現実に起きたあまりにも非現実的な事件をも効果的なガジェットとして使うことの意味は、終盤に分かってくる。なるほど、これは一種の『 HELLO WORLD 』なのだ。こうした構造の小説はそれほど珍しくはないが、読む側をもこのような形で包み込んでくるような物語はそれほど多くない。なんとなく映画にもなったミヒャエル・エンデの小説『 はてしない物語 』を彷彿させてくれる。

 

本作には、一種の叙述トリックも仕込まれている。種明かしされてみれば、確かにそうだった・・・と納得できるクオリティ。綾辻行人の『 Another 』や山本弘の『 詩羽のいる街 』を読んだ時に近い驚きを覚えた。下巻も3分の2まで読み進めれば、もうページを繰る手を止めることは不可能。毎日少しずつ読むのもアリだが、下巻も半分を過ぎたら、残りは翌日が休日となる日までとっておこう。ぐいぐい読ませるし、そしてベタではあるが感動的なフィナーレが待っている。

 

ネガティブ・サイド

犯人(という表現が適切かどうかはさておき)が、あまりにもあからさま過ぎる。いわゆる、いちばん犯人っぽくなさそうな人物が実は・・・というお約束は本作でもしっかり守られている。ミステリ愛好家は読む前にあれこれと考えたり、あるいは「コイツが犯人だな」と序盤で当たりをつけて読み始める習性がある。是非そうした読み方をしてほしい。案外簡単に犯人を当てられることだろう。もう少しひねりやミスリーディングさせる仕掛けが欲しかった。

 

最終盤手前のククルの言動がいかにもクリシェである。「まあ、多分そんなことにはならないと思うけど」というのは、「100%そうなるよ」の意味であることを、我々は熟知している。このあたりの定番の台詞や展開を外して、もっと悲壮感ある展開を生み出せなかったのかと、少々残念に感じる。

 

総評

ミステリであり、サスペンスであり、ファンタジーである。そのどれもがハイレベルにまとまったジャンルMIXの快作である。読み終わった瞬間に、初回では全く意味不明だった上巻の冒頭を読みたくなる。まるでジェームズ・P・ホーガンの『 星を継ぐ者 』や高畑京一郎の『 タイム・リープ あしたはきのう 』のような読後感である。ムゲンとは無限であり夢幻である。iは愛、英語の一人称のI、主人公の名前である愛衣である。アイを含むタイトルの小説としては、山本弘の『 アイの物語 』に次ぐ面白さだと感じた。活字嫌いにも、1か月かけて読んでほしいと思える。読みごたえは保証する。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m in the pink.

「絶好調だよ」というセリフの私訳。しばしば、be in the pink of healthという形で使われる。実際には「絶好調だよ、腰から上は」というセリフで、後半を英語にするなら、from my waist upとなるだろうか。これは、I’m paralyzed from my waist down.の裏返しである。元強豪ボクサー、ポール・ウィリアムスを思い出す。

 

 

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Posted in 国内, 書籍Tagged 2010年代, B Rank, ファンタジー, ミステリ, 日本, 発行元:双葉社, 著者:知念実希人Leave a Comment on 『 ムゲンのi 』 -ジャンルミックス・ファンタジーの良作-

『 いなくなれ、群青 』 -青春とは拘泥、成長とは妥協-

Posted on 2020年4月5日 by cool-jupiter

いなくなれ、群青 50点
2020年4月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:横浜流星 飯豊まりえ
監督:柳明菜

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これもたしか梅田ブルク7で公開されていたが、観に行けなかった作品。なかなかにartisticではあったが、cinematicではなかった。では、dramticだったか?うーむ・・・

 

あらすじ

七草(横浜流星)は気が付くと階段島にいた。この島にいる人たちは、なぜ自分がここにいるのか誰も知らない。島での生活に溶け込んだ七草は、しかし、幼馴染の真辺由宇(飯豊まりえ)と再会したことで、様々な人間模様が泡立ち始め・・・

 

ポジティブ・サイド

何というかPS2ゲーム『 ICO 』と『 CROSS†CHANNEL 〜To all people〜 』の一部の要素を抜き出してきて、足し合わせたような世界である。こうしたミステリアスな世界観は嫌いではない。魔女が支配する島、という響きも悪くない。古今東西、魔女は様々に再解釈され、そのたびに新しい世界観を生み出してきた。魔女は恐怖の対象であるだけではない、もはやない。『 魔女の宅急便 』しかり、変化球だがPSゲームの『ファイナルファンタジーVIII 』しかり。本作では明かされることのない魔女の正体だが、そこには支配者としての属性と庇護者としての属性、その両方が感じ取れる。こうした様々な解釈や考察の余地をほどよく残す作品で、賛否は分かれやすいだろうが、好きな人はとことん好きになれる世界観である。

 

本作のミステリアス、そしてファンタスティカル(fantasitical)な点を決定づけるものは、島の名前にもなっている“階段”である。もちろん、物理的な意味での階段ではなく、何かの象徴としての階段であることは明らかで、それが階段島にいる面々、特に真辺や七草ら高校生にとっては意義深いものであろう。我々はよく「●●への階段を上る」などと言ったりする。そして、階段島の階段を“一人で”上り切れた者はいないと言う。その意味するところは極めて明快である。

 

それは同時に、“群青”の象徴するものも明らかにしている。晴れ渡った空の色であり、文字通りの意味では“青”の“群れ”となる。終盤に空へと消えていく真辺由宇は、青春との決別の一つの形である。青春の終わりというのは、だいたいにおいて妥協なのだ。そして青春の始まりは、自意識の一部の極端な肥大化である。やたらと理屈っぽい奴、感情的な奴、逆に無関心・無感情な者など、何らかの特徴を自分で自分に与える過程とも言えるかもしれない。青春とは自己内対話の極まった形と定義してもよいのかもしれない。本作のキャラクターたちの、どこか誌的で、全体的に感情に欠ける対話の数々は、『 脳内ポイズンベリー 』と対比してみると面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

ドラマチックさに欠ける。それは間違いない。こういう作品は映画よりも、むしろ部隊演劇にすべきでは?と感じる。

 

飯豊まりえは演技力・表現力ともに今一つ。顔の表情だけで演技している。ふとした仕草もなく、声の出し方に工夫もない。原作に忠実なのかもしれないが、映画的とは言えない。同じことは横浜流星にも当てはまる。観念的・哲学的な対話をしばしば繰り広げるが、小説ならばそれでも良いし、舞台や野外円形劇場で上演するのなら、これも一つの演技・演出だろう。だが、どうにも映画的ではない。

 

映画は、何よりも視覚的に最も強く訴えてこなければダメだ。セリフでもってシーンを動かしていくなら、『 シン・ゴジラ 』や『 脳内ポイズンベリー 』のような超高速会話劇を志向するか、あるいは映像でもってセリフを補完するような演出を強めるべきだ。それが最も強く感じられるのは終盤およびエピローグ。無駄にだらだらと長い。ミステリアスなタイトルの「群青」の意味を思わせぶりなセリフとシーンで伝えようとするのではなく、群青の空を背景に一気に『 いなくなれ、群青 』というタイトルを映してしまえばよいのではないか。特に本作のような思弁的な作品は、説明してはならない。観る者の理性や知識ではなく、感性や直感に訴える方がはるかに効果的であると思われる。『 ここは退屈迎えに来て 』のような切れ味の鋭さは本作にこそ求められる。そうした方が余韻が残る。無意味に長いエピローグは完全に逆効果である。

 

原作の小説はシリーズ化されているようだが、続編の映画は作れないだろう。今でもキャストの年齢・容貌に無理があるのだから。

 

総評

映像化は成功している。海外や空の美しさを見事に捉えたショットが散りばめられている。また音楽も良い。特にピアノとバイオリンの合奏シーンは、近年の邦画では『 蜜蜂と遠雷 』のクライマックスの松岡茉優の演奏シーンに次ぐものであると感じた。一方で、ストーリーテリングは破綻している。いったんページを繰る手を止めて思考することができる小説と違い、否応なく場面が進んでいく映画なのだから、説明するのではなく、一発で理解できるような見せ方を追求すべきだった。これが原作未読者の感想である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Be gone, my blues.

『 いなくなれ、群青 』というタイトルおよび七草の台詞の試訳。解釈はそれこそ無数にあるが、字義通りの意味と象徴的な意味の両方を備えたblueを使ってみようと直感した。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ファンタジー, 日本, 横浜流星, 監督:柳明菜, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:エイベックス・ピクチャーズ, 飯豊まりえLeave a Comment on 『 いなくなれ、群青 』 -青春とは拘泥、成長とは妥協-

『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年1月29日2020年11月11日 by cool-jupiter

サヨナラまでの30分 40点
2020年1月28日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:北村匠海 新田真剣佑 久保田紗友
監督:萩原健太郎

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入れ替わり系のストーリーは時代や地域を問わずに生産され続けている。それだけ思考実験しやすいジャンルであり、またテクノロジーの進化とも相性が良いジャンルなのだろう。本作は新しい視点は提供してくれたが、様々な描写が不足しているため、説得力がなかった。

 

あらすじ

アキ(新田真剣佑)はギタリスト兼ヴォーカリスト。バンドのメジャーデビューを前に不慮の交通事故で世を去ってしまう。カセットテープとウォークマンを残して。そのウォークマンを偶然に拾った颯太(北村匠海)は、カセットテープを再生している間は、颯太の体にアキが入り、颯太は幽霊状態になってしまうことが分かり・・・

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ポジティブ・サイド

以外と言っては失礼かもしれないが、北村匠海の歌唱力が目立った。声を張り上げる役をあまり演じてこなかったというのもあるが、アマチュアの声ではなかった。それとも本職がアテレコしているのか?いや、そうは聞こえなかった。一応歌手もやっているようだが、もしまだタバコを吸っているのなら止めたほうがよい。また演技力でも成長を見せた。『 累 かさね 』における土屋太鳳と同じく、一人二役とは言っても、実際は北村が1.5、新田真剣佑が0.5ぐらいの配分に感じられた。

 

邦画の青春映画というと、おそらく7割以上が高校を舞台に高校生が繰り広げるが、大学生や社会人ものというのも味わい深いものがある。ある程度、酸いも甘いも嚙み分けてきて、その上で自分の道にのめりこめるからだ。好きという気持ちだけで突っ走る中高生も、それはそれで甘酸っぱく感じないわけでもないが、オッサンにはもうそろそろキツイ。自分がそれなりに謳歌した大学時代を軸にした映画の方が楽しみやすい。

 

本作のテーマである“上書き”は、おそらく意見がかなり割れることだろう。Jovian自身は賛と否、両方の意見を持っている。ここでは賛の意見を。バンドというのは不思議なもので、英単語のbandは音楽のバンドだけではなく、ひも、縄など、ぐるぐる巻きにして留めるもの、縛るものなどを指す。ボクシンググローブをつける前に、ボクサーは拳にバンデージを巻くのである。アキは、自分自身が生き返ることではなく、バンドの存続を願った。虎は死して皮を残すではないが、自分抜きにバンドが続くことを承認している。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のレビューでは、「フレディ死すともクイーンは死せず」と書いた。フレディ在りし頃のQueenは記録にも記憶にも残っている。そして、フレディが死に、ディーコンも事実上脱退したQueenは今も活動中で、まさに日本ツアーを敢行中である。もっと卑近な例を挙げればモーニング娘。やAKB48などは、メンバーが入れ替わってもグループとしては存続を続けている。大切なのは、人間同士のつながりそのものよりも、そのつながりによって何を生み出すのかである、という主張にも一理はある。本作はそのことをファンタジー形式で提示したと言える。我々はすぐにスマホで録音をし、写真や動画を撮るようになってしまったが、萩原監督は本作を通じて、「人とつながれ、何かを生み出せ」という現代人批判を行っているのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

厳密には入れ替わりものではないが、それでもオリジナリティはなかった。カセットテープというのも、『 ルーム・ロンダリング 』で渋川清彦が「バカヤロー、デモと言えばテープと相場が決まってんだよ」と喝破している。

 

また肝心の入れ替わりにおいても、高畑京一郎の小説『 ダブル・キャスト 』のプロット、すなわち入れ替わり可能時間がどんどん短くなっていく、が遥かに先行している。その上、サスペンス要素や謎解き要素でも面白さでも、高畑の小説の方が優っている。今風に言えばラノベに分類されてしまうかもしれないが、一昔前のジュブナイル小説の傑作なので、今の若い世代にもぜひ読んでほしいと思う。

 

閑話休題。本作は『 小さな恋のうた 』のパラレル・ストーリーであるとも言える。バンドの主要メンバーが死んでしまった。さあ、どうする?という問いに、“上書きする”という一定の答えを出した。それは良い。だが、その過程でアキの霊体?が随時にツッコミを入れるのが気に入らない。「俺がいないと何もできない奴らが・・・」というセリフは本当に必要だったのだろうか。また、肝心のアキと颯太の対話劇がもう一つ盛り上がらない。この点でも同じ音楽にフィーチャーした作品『 さよならくちびる 』に及んでいないと感じられた。絵的にも、オリジナリティに欠ける。颯太とカナが連弾でトロイメライを弾くところなどは、『 蜜蜂と遠雷 』の月の光の連弾シーンに重なる。とにかく、どこかで観た構図のオンパレードなのだ。

 

本作は颯太のビルドゥングスロマンであるが、肝心の颯太のキャラが一貫性を欠いている。アキが地獄と感じる透明人間状態を天国だと言いながら、ちゃっかりECHOLLのメンバーとの交流を楽しんでいる。アキと自分の間に即席カーテンを設けながら、いつの間にかそれも消えている。駄作の『 L・DK 』でも、雷鳴に怯えて思わず手を伸ばしてしまったというベタな描写は為されていた。そもそも颯太の音楽のバックグラウンドに関する描写が何もないままにストーリーが進行していくのはご都合主義であるし、アキが無断でアップした曲の評価も最後まで判明しなかった。このアキと颯太の対話劇の欠如・不足により、颯太が「彼女も共有すべきでしょ」と不敵に言い放つ流れが、とてつもない違和感を生み出す。

 

細かいツッコミになるが、クライマックス前も颯太もカナも汗一つ流していない。真夏に自転車を全力で飛ばしてきた、もしくは走ってきたのなら、汗ぐらい流そう。別に久保田紗友の白シャツを汗で濡らして透け透けにしろ、などと言っているわけではない。シーンとシーンの連続性を大事にしなさいと言いたいのだ。バラバラに撮影したものが、一つの流れに見える。それが映画の技法なのだ。

 

総評

単体で見れば、鑑賞には耐えうる。しかし、他の先行作品や類似作品と比べた時に、ストーリーの面でも音楽の面でも、光る点が少ない。北村や新田のファンならチェックしておくべきだろうが、熱心な映画ファンを満足させうるクオリティに達しているとは感じなかった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

live on borrowed time

借りられた時間を生きる、の意。本作のアキのような状況を指す。すなわち、死んだも同然の身だが、天から与えられたかりそめの時間を奇跡的に生きている、という意味である。または、余命が残りわずかな状態で生きている、という意味にもなる。ボクサーがまぶたから大量に出血して、それでもTKOにならず戦い続けている様を指して、“He’s fighting on borrowed time!”という実況を2~3度聞いたことがある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ファンタジー, 久保田紗友, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:萩原健太郎, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Fifth Viewing-

Posted on 2020年1月16日2020年4月20日 by cool-jupiter

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2020年1月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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色々とニュースやレビューやインタビュー内容や考察に接しているうちに、また観たくなってしまった。なので5度目の鑑賞へ。もっと時間とカネを有効活用せねばとは思うが、引き寄せられてしまうのだから仕様がない。

 

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』で、BB-8はどうやって崖を越えたのかという疑問を呈したが、よく見ると越えていなかった。一度向こう側へジャンプしたレイを、こちら側でずっと待っていたのを確認できた。やはり何事もよく目を凝らして見なければならない。

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今回は主にベン・ソロを鑑賞。確かに人差し指を立てて「黙れ」の意思を相手に伝えるのは、『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』のハン・ソロっぽかった。またブラスターのノー・ルック射撃も、『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』のハン・ソロへのオマージュなのだろう。

 

日本語のレビュー・感想でも英語のレビュー・感想でも、多くの人が共通して不満、または不可解に思っているのは、最後の最後にやってくる援軍。クレイトの戦いでの呼び掛けに応じなったのに、今回は何故だ?ということのようだ。素直に考えれば、自分のミニ脅威が迫っていることが分かったからだろう。『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』のスター・キラーも相当にヤバい代物だったが、今作のスター・デストロイヤーは本当に星を破壊してしまう。それが何百隻、何千隻と建造されて、出撃の時を待っていると聞かされれば、普通は「はあ?」だろう。だが、惑星キジーミが実際に破壊されたとの報は銀河を駆け巡ったことだろう。そうなると、明日は我が身。座して死を待つよりは、義勇軍として立ち上がり、乾坤一擲の勝負に出る。そのように考える者は何千、何万、何十万人と存在するはずだ。

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レイとベン(≠レン)のキスに異議を唱える人も多い。別にええやんけ・・・と思う。本編ではカイロ・レンの台詞としては出てこなかったが、トレイラーにあった

レイ “People keep telling me they know me. No one does.”

レン “But I do”

というやりとりが全てだろう。アダム・ドライバーも出演していた『 フランシス・ハ 』で、フランシスが自身の恋愛観を開陳するが、それは以下のようなものだ。

 

I want this one moment. It’s – it’s what I want in a relationship…which might explain why I am single now. Ha, ha. It’s, uh – It’s kind of hard lo – it’s that thing when you’re with someone…and you love them and they know it…and they love you and you know it…but it’s a party…and you’re both talking to other people…and you’re laughing and shining…and you look across the room…and catch each other’s eyes…but – but not because you’re possessive…or it’s precisely sexual…but because…that is your person in this life. And ifs funny and sad, but only because…this life will end, and it’s this secret world…that exists right there…in public, unnoticed, that no one else knows about.It’s sort of like how they say that other dimensions exist…all around us, but we don’t have

the ability to perceive them. That’s – That’s what I want out of a relationship. Or just life, I guess. Love.

 

Read more: https://www.springfieldspringfield.co.uk/movie_script.php?movie=frances-ha

 

かいつまんで言うと、「皆がいる公共の場で、それでも誰にも気付かれることなく、他の人々には知覚できないが確かに実在する別次元で目と目を合わせることができるような関係」をフランシスは「愛」と定義し、そうした関係を人生で手に入れたいと願っている。これはまさにレイとレンの関係そっくりである。文字通り、別次元で語らい戦う二人なのである。キスぐらい大目に見てやろうではないか。

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コリン・トレヴォロウの手によるEP9のスクリプトがYouTube経由でRedditにリークされたというニュースが入った。このバージョンではランド・カルリジアンが密輸業者の勢力を糾合する役割を担うとされていたらしい。2019年12月29日の『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』のレビューで

 

>マズやランド、チューバッカがその人脈を活かして地下勢力や非合法勢力を糾合し、

>それに民間人も呼応した。そのような筋書きは構想できなかったのだろうか。

 

という疑問を呈したが、トレヴォロウと似たようなことを考え付いた自分を褒めてやりたいと思う。

 

何か新しいニュースや考察が出てきたら、また劇場で鑑賞したいと思う。5回観たので、普通の『 スター・ウォーズ 』ファンの義理は果たしたと思いたい。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

up and running

元気である、正常である、順調である、などの意味で、人やモノ、システムなどを対象に使われる。しばしば

have / get + O + up and running

という形で使われる。ポーがミレニアム・ファルコン号の修理が完了したかどうか尋ねる際に“Did you get it up and running?”のように言っていた(台詞はうろ覚え)。ビジネス英語では、まあまあよく使われるので知っておいて損はないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, ファンタジー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Fifth Viewing-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Fourth Viewing-

Posted on 2020年1月3日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Fourth Viewing-

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2020年1月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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新年早々、また観に行ってしまった。中毒症状を呈している・・・とまでは思わないが、義務感に駆られているわけでもない。正月にすることがない。だからチケットを買い、劇場に行く。そこでたまたま『 スター・ウォーズ 』が上映されているだけのことである。

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久々に父と母に会ってきた。父は『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』を観て、卒業したとのことである。父は元々、筋金入りのトレッキーである。SF好きではあるが、そのルーツは劇場でリアルタイムで観た『 2001年宇宙の旅 』であり、『 エイリアン 』であったという御仁である・映画好きではあるが、『 ハリー・ポッター 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』はシリーズ途中で離脱している。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』を観る気にならないというのなら、それも善哉である。

 

母は、本作にいたく感動していた。シークエル三部作にはオリジナル三部作に共通するものが多く、それが良いと語っていた。最も気に入ったのは、CGがあまり使われていない、ということらしいが、それは母の目が曇っている。CGだらけである。だが、事の本質はそこではない。オーガニックな雰囲気が良いのである。オールドファンは着ぐるみに安心するのである。

 

今回もいくつかのこと考えながら鑑賞した。

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  • 楽しめた点

輸送船は確かに二隻あった。盲点というのは怖いものである。

 

エンド・クレジットにElisa Kamimoto(だったような気がする)という名前を発見。日系人も頑張っている。

 

スター・デストロイヤーは初代『 スター・ウォーズ 』の冒頭から登場している馴染みの戦艦だが、ついにその名の通り、星をデストロイする性能を手に入れた。このぶっ飛んだ発想は嫌いではない。

 

キジーミの酒場のJohn Williams、確認。2018年に大阪・福島のシンフォニーホールで【 Enjoy!オーケストラ ~オーケストラで聴く映画音楽の世界!~ 】を聴いたが、指揮者の尾高忠明氏はジョン・ウィリアムズを評して「生まれるのが200年早ければ、ベートーベンになっていたかもしれない人」と言っていた。『 スーパーマン 』や『 E.T. 』のテーマも唯一無二だが、『 スター・ウォーズ 』を『 スター・ウォーズ 』たらしめる最大の要素は、ジョン・ウィリアムズの音楽、そして各種の効果音(タイ・ファイターの飛行音やライトセーバーのバズ音など)かもしれない。それほど、『 スター・ウォーズ 』における音は特徴的である。そのことが本作で十二分に確かめられた。

 

最近、立て続けにアダム・ドライバーの出演作品を鑑賞していたせいか、本作を観る時にも主人公のレイ以上にカイロ・レンに注目してしまう。そして見れば見るほどに、この稀代の悪役にして正義のヒーローというキャラクター造形から、『 ハリー・ポッター 』シリーズのセブルス・スネイプに並ぶ愛憎入り混じる複雑な人物に仕上がったように思えてくる。奇しくも、黒を基調とした服装に、髪型や顔の造りにも共通点があるように思うが、いかがだろうか。彼がベン・ソロに回帰し、レイからライトセーバーを受け取る直前の険の消えた表情は、アダム・ドライバーのこれまでの役者人生のハイライトだろう。もちろん、この男のピークはここで終わりではないはずである。

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  • 疑問点

序盤のレイの修行シーン。BB-8はどうやって崖を超えたのだろうか。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でR2-D2が飛んだ時は、驚嘆したと同時にとてつもない後出しジャンケンを喰らった気持ちになったことを覚えている。どこか迂回路があったのであろう。

 

レンのスター・デストロイヤーに乗り込んだ際に、フィンが覚醒しつつあるフォースを使って、「どっちか分からないが、ついてこい!」というシーンでは、何故かレイの方が先に走り出している。フィンの見せ場は・・・ まあ、レイのフォースの方が格段に強く、正確だというふうに受けとめておきたい。

 

巷であーだこーだ言われているレイの妊娠説について。私見では、それはない。が、その可能性を追究しようとする人は世界中にいるようである。このことは実は、THE CANTINAやRedditで映画の公開初日から議論されていることである。Jovianがレイ妊娠説を否定する根拠は主に二つ。一つには、J・J・エイブラムスは「スカイウォーカー家のサーガを終わらせる」と宣言していたこと。またルークも“Some things are stronger than blood.”と明言していた。もう一つには、『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』でレイはカイロ・レンを、“ベン・ソロ”と呼ぶことはあったが、“ベン・スカイウォーカー”とは一度も呼ばなかった。そのベンの子を身ごもったことを理由にスカイウォーカー姓を名乗るだろうか。またレイを蘇らせようと手を胸ではなく腹に置いたこと根拠にする人もいるようだが、卵巣も子宮もそこにはない。まあ、ライフ・フォースは手を当てた位置の少し先に作用する(地下の巨大蛇やカイロ・レン)ようであるが、それを基に考えても、やはり純粋に蘇生の為にわき腹に手を置いたと考えるのが自然なような気がする。レイの妊娠説は仮説としては面白いが、仮説の域を決して出ない。

 

もう1~2回ぐらいは劇場鑑賞してみたいと思う。親父を無理やり連れて行こうかな。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, ファンタジー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Fourth Viewing-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -3rd and DolbyCinema Viewing-

Posted on 2019年12月29日2020年4月20日 by cool-jupiter

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スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2019年12月26日 梅田ブルク7(ドルビーシネマ)にて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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劇場鑑賞3度目。今度はドルビーシネマで。英語の批評サイトなどをひとしきり渉猟してみたところ、否定的なレビュー7、肯定的なレビュー3といったところか。面白い傾向として(英語で)読み取れるのは、肯定派と否定派の視点。肯定派はお約束の展開を楽しみ、否定派はお約束の展開を毛嫌いしているようである。『 スター・ウォーズ 』に何を望むのかを通して見えてくるのは、それを観る人間の心の在りようなのだろう。

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個人的には、『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』は何度観ても楽しめる。おそらく、あと3~4回は観るだろう。何故か。それは、童心に帰ることができるからだ。まだ自分が生まれていなかった頃に劇場公開された『 スター・ウォーズ 』と実質的に同じような作品をリアルタイムに、自分のお金を使って、自分のスケジュールを調整して観に行くことができる。やっていることは(一応)大人だが、劇場内にいる自分は子どもである。おとぎ話の世界に浸っているのである。

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『 スター・ウォーズ 』が新しい地平を切り拓いたのは間違いない。だからといって、続編が全て新しい地平を切り拓かなければならないわけではない。それに芸術の分野における「新しい地平」は、しばしば古くからある手法を新しい対象に適用した時、もしくは全く新しい手法を古くからある対象に適用した時に現れるものである。前者の好例はヨーロッパの技法でアメリカの風景を描いたトーマス・コール、後者の好例はアクション・ペインティングのジャクソン・ポロックだろう。『 スター・ウォーズ 』は、古くからある普遍的な要素を持つおとぎ話を、銀河にまたがる冒険譚風に味付けし直したものだ。よく知られていることだが、そこにはテレビドラマの『 フラッシュ・ゴードン 』や黒澤映画『 隠し砦の三悪人 』、さらに児童文学『 オズの魔法使 』の影響がある。というか、これらの作品は『 スター・ウォーズ 』の紛うことなき先行テクストである。『 スター・ウォーズ 』の革新性は対象ではなく、手法にあることは明らかである。どこからどう見てもSF映画なのに、それをおとぎ話的に語るという手法が『 スター・ウォーズ 』の革新性だったはずだ。

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ジョージ・ルーカスが構想していた物語が何であれ、エピソード1、2、3のような世界観は個人的には勘弁願いたい。おとぎ話世界の神秘性を、政治だの経済だの生物学だので剥ぎ取らないでほしい。その一方で、初めて『 スター・ウォーズ 』を初めて観た時に子どもだった者も、42年を経ればどうしたって大人になる。大人になるということは、色々な物事に距離を取ってしまう、もしくは客観視してしまうようになる。それは自然なことである。だが、たまには童心に帰っても良いのではないだろうか。桃太郎に向かって「犬、猿、キジではなく犬、犬、犬を連れて行けよ」だとか、笠地蔵の物語に「そんなことしても意味はないよ」だとか突っ込まないだろう。Rotten TomatoesやYouTubeあたりでネガティブ・レビューをしている者たちは、頭でっかちになりすぎている。普段から鵜の目鷹の目のJovianであるが、自分が好きなものを見る時には片目をつぶるくらいでちょうどよい。『 結婚前には両目を大きく開いて見よ。 結婚してからは片目を閉じよ 』と言われる。『 トレイラーは両目を大きく開いて見よ。 本編を観る時は片目を閉じよ 』が、本作への望ましい接し方ではないだろうか。

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  • 楽しめた点

3度目の鑑賞で感じたのは、『 アクアマン 』のようであるということ。つまり、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーのように、「目的地はあそこ。しかし、そこへ行くためにはこのアイテムが必要。そのアイテムはあの洞窟にあって、あの洞窟の敵を効果的に倒すには、この種類の武器を調達するべきだ」という、非常にRPG的な展開をしている。目まぐるしくはあるが、分かりやすくもある。

 

キャリー・フィッシャーが他のキャラクター達と対話するシーンは非常によく練られている。3度目となれば冷静に観察も出来るようになったが、不自然さが感じられない。これらのシーンを完成させたスタッフに最大限の敬意を表したと思う。

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  • 疑問点

マズ・カナタは何故にレジスタンスに加わっているのか?というよりも、レジスタンスでどういう役割を担っているのか。そこが今一つ分からない。前作のラストで銀河中に助けを求めたが、誰も来てくれなかった。反乱軍の将軍ではあるが、一方で亡国の姫でもあるレイアの助けを呼ぶ声には、応じたくても応じられないという勢力がいた。だが、マズやランド、チューバッカがその人脈を活かして地下勢力や非合法勢力を糾合し、それに民間人も呼応した。そのような筋書きは構想できなかったのだろうか。

 

シスのウェイファインダーへのヒントが刻まれた短剣は、いつ作られたのだろう?そもそも、デス・スターの残骸に合わせて作られていて、なおかつルークもそれを追っていたということは、エピソード6とエピソード7の間に作られたということで、その時点で皇帝は蘇っていた?というか、デス・スターは、文字通りに木っ端みじんに吹き飛んだのではなかったか?なぜ、あのように綺麗な断面を保った巨大な残骸が、エンドアの大気圏との摩擦熱で燃え上がった痕跡もなく、存在できているのか?

 

などと考えてはいけない。一見不合理な事象に意味ある説明をしようとすると、暗黒面に囚われてしまう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I could use your help.

レイが惑星キジーミでゾーイに対して言う台詞である。意味は「あなたの助力があれば有り難い」である。could use ~は、「~を使うことができた」ではなく「~があれば助かる」、「~を有り難く思う」である。『 スター・ウォーズ 』でも、デス・スターへの攻撃前にハン・ソロとルークが

“Why don’t you come with us? You’re pretty good in a fight. We could use you. Come on. Why don’t you take a look around?”

“You know what’s about to happen, what they’re up against. They could use a good pilot like you.”

という言葉を交わす。

“I could use some beer!”

“I could use your advice.”

など、色々なものを対象に使える表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, ファンタジー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -3rd and DolbyCinema Viewing-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

Posted on 2019年12月20日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2019年12月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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『 スター・ウォーズ 』が完結してしまった。そして批評家やファンの評価は割れている。それはとても良いことだと思う。なぜなら、好きな人はとことん好きになれて、好きになれない人には決して好きになれない。これはそんな物語だからである。Jovianは、これを素晴らしいフィナーレであると感じた。少年時代に帰れた、おとぎ話の世界に戻れた。そのように感じたからである。

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あらすじ

死んだはずの銀河皇帝パルパティーンが復活した!ファースト・オーダーの最高指導者カイロ・レン(アダム・ドライバー)は、銀河の覇権を争う相手としてパルパティーンと対立。彼を追っていた。一方、レイ(デイジー・リドリー)は来る最終決戦に向けて、レイアから課された修行に励んでいた・・・

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以下、ネタばれ部分は白字

 

ポジティブ・サイド

人によってはこれら全てをネガティブに捉えるのだろうが、Jovianはポジティブに捉えた。すなわち、本作はエピソード1、2、3、4、5、6、7、8のごった煮である。なおかつ『 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 』や『 ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー 』の要素まで盛り込まれている。どこかで見た風景、どこかで見たキャラクター、どこかで見たプロット、どこかで見たイベント、どこかで見た光と影のコントラスト、どこかで見たカメラアングル、どこかで見たガジェット。それらがジョン・ウィリアムズの音楽と共に観る者に迫ってくる。それを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは各人の自由である。

 

新しい要素に全く欠けるのかと言えば、さにあらず。『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』がフォースの新たな地平を開拓したように、今作もフォースのさらなる可能性を追求した。しかも、それがミディ=ファッキン=クロリアン的な要素を持ちあわせている。それを受け入れられた自分に驚いている。

 

『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』に散りばめられていたユーモアの要素と『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』の恐怖の要素が適度な割合で配合されているところでも、J・J・エイブラムス監督の手腕を称賛したい。オリジナル三部作とシークエル三部作が見事に地続きになっている。『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』で、パルパティーンがルークを暗黒面に誘った時よりも、遥かに強い誘惑をレイに対して行う。愛する者を救うために負の感情にその身を任せよという誘引は、プリクエル三部作、特に『 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 』が放った強烈なメッセージだった。それがパワーアップして帰ってきた。しかも、確たる意味を伴っている。ずっと謎に包まれてきたレイの出自と絡めた、絶妙の演出である。

 

そのレイをレイアがトレーニングするというアイデアも良い。前作ではカリスマ的な指導者から、ジェダイにしてフォースの使い手であることを体現した。そして演じるキャリー・フィッシャーの死そのものまでも物語に組み込むという大胆不敵なプロットに、フィッシャーはきっと満足しているに違いない。

 

エンディングは涙なしに見ることはできない。『 スター・ウォーズ 』を愛した全ての人は、それぞれに思い入れのある風景を持っていることだろう。だが、J・J・エイブラムスとJovianはこの点で波長が完全に合っていた。『 スター・ウォーズ映画考および私的ランキング 』で、自分にとっての『 スター・ウォーズ 』の原風景を語ったが、J・J・エイブラムスも同じだったようだ。光と闇、陰と陽、ジェダイとシス、そしてスカイウォーカー家のサーガは、見事な円環と共に閉じた。

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ネガティブ・サイド

なぜ2時間22分なのだろうか。きりよく2時間30分の物語にできたはずである。もっともっと語られるべきことを、徹底的に語り、見られるべきものを見せて欲しかった。

 

パルパティーン復活の経緯が完全に不明である。『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』の最後に、ヨーダとメイス・ウィンドゥは「シスは常に師匠と弟子の二人」と語っていたが、スノークとパルパティーンの関係をこれで説明してもよかったのではないだろうか。

 

新キャラに元トルーパーが出てくるが、最終盤にランドが引き連れてくる大援軍に元トルーパーの脱走兵らがいれば、なお良かったのだが。存在していたが、編集でカットされたのだろうか。

 

カイロ・レンの物語も見事に閉じるが、母レイアとのツーショットはついに実現せず。これはブルーレイの特典映像、もしくはディレクターズ・カットに収録されるのだろうか。

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総評

“スカイウォーカーの夜明け”という副題は、実は正しかった。なるほど、そうだったのかと感じた。日は沈むが、また昇る。それこそがフォースにバランスをもたらすということなのかもしれない。様々な物語の予感を残しつつも、一つのおとぎ話が幕を下ろした。けれども、少年時代の感動は消えないし、これからも、その“記憶”は続いていく。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Don’t be afraid of who you are.

be afraid of ~ =~を恐れる、である。レイアはレイに「自分が何者であるかを恐れるな」と伝える。ヨーダは

 

“Fear is the path to the dark side. Fear leads to anger. Anger leads to hate. Hate leads to suffering.”

 

と語った。レイは恐怖に屈しなかった。be afraid of ~という表現自体はそこまで大仰なものではない。I am afraid of dogs. = 私は犬が恐いんです、のように日常会話レベルで頻出する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, ファンタジー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

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