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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 犬鳴村 』 -ジャパネスク・ホラー終了のお知らせ-

Posted on 2020年2月8日2020年9月27日 by cool-jupiter

犬鳴村 20点
2020年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花
監督:清水崇

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『 ブライトバーン 恐怖の拡散者 』がクソ駄作だったので、思わず『 シライサン 』と本作に過度な期待を抱いてしまっていた。『 シライサン 』はそれなりに楽しめるところもあったが、本作はもう駄目である。何度も寝そうになったし、いっそのこと途中で席を立とうかと思ったのも1度や2度ではない。令和の訪れと共にやって来た『 貞子 』は、ジャパネスク・ホラーの黄昏だった。そして本作によってジャパネスク・ホラーは終焉したのかもしれない。

 

あらすじ

森田奏(三吉彩花)の兄・悠真とその恋人・明菜が、地図から消された「犬鳴村」に行ってきた。そして明菜が怪死した。そして奏の周囲で次々と怪異が起こる。いったい「犬鳴村」とは何なのか、どこにあるのか。そこで何が起きて、地図から消されてしまったのか・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭はなかなかに不気味な感じを漂わせている。アホなYouTuberが体を張っていると思えば、それなりにリアリティもある。このYouTuberの死にっぷりはなかなかである。そこだけは評価したい。

 

また終盤の手前で、白いシャツを着た三吉の上半身をスクリーンにするという構図はなかなか面白いと感じた。犬鳴村と奏の関係を、視覚的に見事に表現できていた。

 

全体的に坂東真砂子の小説『 狗神 』に通じるものがある。霧がけぶる山々を見ると、特にそう感じる。同小説の映画化作品である『 狗神 』は、最後の最後で小説にある重要なシーンを削ってしまったが、本作はある意味で清水崇流に『 狗神 』を脱・構築してから再構築しものであると言える。それが成功しているかはさておき、その試み自体は評価したい。

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ネガティブ・サイド

『 呪怨 』に味をしめたのかどうか知らないが、ジャンプ・スケアを多用し過ぎである。そして馬鹿丁寧にも、重低音の利いたBGMをじわじわとビルドアップしていくことで「ハイ、ここでびっくりして!」と教えてくれる。ホラー映画、特にジャパネスク・ホラーは本当に終わってしまったのかもしれない。

 

まず肝心の犬鳴村の存在が怖くない。まず昭和24年というのは、そこまで昔か?江戸時代以前ならまだしも、戸籍制度が高い水準で整備されていた戦前、そして戦後の時代に、村一つを無理やり消せただろうか。2020年時点から71年前だから、当時20歳の人は91歳。かなりの高齢だが、存命の人間もまだまだ多いだろう。犬鳴村の住民を迫害した側の者たちで生き残っている人間がいても全く不思議ではないと思うが。序盤で意味ありげに「あの村で何が起こったのかを知っているのは、もはや自分とお前だけ」と語る院長先生と、それに無言でうなずく高嶋政伸が、事の真相を何一つ語ろうとしないのは拍子抜けもいいところである。というか、犬鳴村が消された理由に心底がっかりである。お上にまず懐柔され、そして迫害された・・・って、懐柔される部分は要らんやろ。

 

犬鳴村出身の怨霊たちも何がしたいのかさっぱり分からない。集団でわらわらと現れて、訳の分からん民謡だか童謡を歌って、奏を追いかけまわす意味は?病院内のチェイスは、そのあまりのシュールさに思わず笑ってしまった。また、奏の兄の友人だか子分だか分からない連中の霊が、奏のクルマに乗っているシーンもシュールなことこの上ない。一歩間違えればギャグにしか見えないシーンである。というか、ギャグだ。クルマのバックミラーに追跡してくる何かが映っているというのは『 ジュラシック・パーク 』へのオマージュかもしれないが、三馬鹿トリオが追いかけてきても怖くない。クルマに乗り込んできても、奏に襲いかかわるけでもない。何がしたいのか分からないが、奏を傷つけようとはしてこないので、そこで恐怖を感じることがない。

 

その奏が犬鳴村に出向く流れも不自然極まりない。父親が口をつぐむのなら、まずは母親に尋ねるのが定跡ではないのか。不思議な力を持っていた祖母が、「奏にもできるはずだよ」と言っていた能力が、序盤に一回、クソどうでもいいシーンで発現しただけだったのは何故だ?というか、その能力もまんま『 シャイニング 』の輝きのパクリではないのか。輝きを使って、犬鳴村の怨霊に語り掛けるのかと思いきや、結局何もしない。味方(?)の霊の存在意義もよく分からないし、奏の兄の悠真の死体のあり様も説明がつかない。男の方は女に抱きついているべきで、男が男に抱きついてどうするのだ・・・ そしてビデオカメラがあったなら、中をちゃんと見ろ。そして映像を再生したのなら、最後まで観ろ。

 

犬鳴村のボス的存在の怪異が怖くない。というか、どこかで観た要素のパッチワークで、シラケるばかりである。和服の女性というのはクリシェもいいところだし、変な動き方をするのなら『 エクソシスト 』並みにやってほしい。『 サイレントヒル 』や『 バイオハザード 』にすら及んでいない。というか、『 地獄少女 』の取り巻き禿爺いのブレイクダンスのようなことをやっても、怖くない。言葉そのままの意味で尾も白い・・・、ではなく面白いだけである。なぜ犬のように四足歩行をしない?なぜ犬のように遠吠えをしない?犬鳴村をテーマに観客を怖がらせたいのなら、「犬」という要素は絶対に外してはいけないのではないか。

 

エンディングもシラケる。「あ、この展開は間違いなく〇〇〇やな」と思わせて、本当にその展開へ。捻らんかい。というか、謎の家族団らんシーンとエンディングのシーンは順番が逆でないか。バッドエンドを示唆するなら“母親”という概念をもっと効果的に使えるはずだろう。これよりもマシなエンディング演出を脚本家は考えられなかったのか・・・誠に残念至極である。

 

総評

ジャパネスク・ホラーは終わった。そう感じさせられるほどにつまらない作品である。いっそ三吉彩花を川上富江役に起用して、令和の時代に合った『 富江 』映画を作ってみてはどうか。三吉彩花なら魔性の美女たる富江にふさわしいルックスとスタイルの両方を備えている。『 富江 Resurrection 』を清水崇が監督するなら、それはそれで観てみたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I really need to forget about this film ASAP.

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ホラー, 三吉彩花, 日本, 監督:清水崇, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 犬鳴村 』 -ジャパネスク・ホラー終了のお知らせ-

『 9人の翻訳家 囚われたベストセラー 』 -犯人に思わず共感-

Posted on 2020年2月7日2020年9月27日 by cool-jupiter

9人の翻訳家 囚われたベストセラー 75点
2020年2月2日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ランベール・ウィルソン オルガ・キュリレンコ
監督:レジス・ロワンサル

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Jovianは子どもの頃は宇宙飛行士になりたかった。長じてからは翻訳家や通訳になりたいと考えるようになった。今は何故か英会話スクールで働いている。それでも翻訳家がテーマとなった作品となると、やはり食指が動く。そして本作は傑作だった。

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あらすじ

世界的なベストセラー小説『 デダリュス 』の完結編を翻訳するために、カテリーナ(オルガ・キュリレンコ)ら9人の翻訳家が外部との接触が断たれた豪邸に缶詰めにされた。彼ら彼女はそこで1日に20ページずつ翻訳をしていった。しかし、ある時、出版契約を持つ出版社の社長エリック・アングストローム(ランベール・ウィルソン)に「『 デダリュス 』の冒頭20ページをネットに流出させた。カネを払わないと、さらに流出させる」という脅迫が届く。いったい誰が原稿を流出させたのか・・・

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ポジティブ・サイド

『 アメリカン・アニマルズ 』+『 11人いる! 』+『 ア・フュー・グッド・メン 』=本作、というのがJovianの観終わった直後の印象である。序盤は少々だるい展開を見せるが、中盤以降から物語は一気に加速する。サスペンスを盛り上げるためには、こういう展開・構成が必要なのだ。『 AI崩壊 』と同日に観たので、なおさら強くそう感じた。

 

本作の事件の元となる『 デダリュス 』が覆面作家の手による作品という点が、物語の大きなスパイスになっている。覆面作家というのは、その作品が売れれば売れるほどに、その正体にも注目が集まるものである。そして翻訳家というのは、作家が著名であろうと無名であろうと、正体が分かっていようと不明であろうと、ほとんど常に黒子である。Jovianは翻訳家が池央耿というだけで古本屋で買ってしまった文庫がいくつかあるが、そんな購買行動をする人間はマイノリティも良いところだろう。池ほどの翻訳の手練れでも、アイザック・アシモフやジェームズ・P・ホーガンなど巨匠の名前に埋もれてしまう。それが翻訳家の悲哀である。本作は、そんな影の存在である翻訳家たちの、いわば心の中のドロドロを様々な形で吐き出す。その思いにJovianは強く共感を覚えた。

 

本作のスリルとサスペンスは、1)脅迫者は誰か、2)覆面作家の正体は誰か、3)原稿はどうやって流出したのか、などの疑問が深まっていくのに比例して、どんどんと高まっていく。これらの1)、2)、3)の絡まった謎が次々に解き明かされていく終盤の怒涛の展開は、文字通りに手に汗握るものである。ここでもJovianは犯人に強く共感した。Jovian自身、以前の会社の退職時に、職務著作の取り扱いその他に関して会社と少々トラブルを持ったからである(権利の帰属の問題ではない、念のため)。小説であれ教材であれ、創作物であるからには作った人間がいるのである。そして、作った者にしてみれば、作りだされた物は、大げさな言い方をすれば我が子にも等しいのである。あれこれと書きすぎるとネタバレをしてしまいそうである。一つ言えるのは、この犯人の犯行は一部の人の心を文字通りに鷲掴みにするだろうということだ。

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ネガティブ・サイド

エリックが脅迫に屈して、カネを捻出するために自らの持ち株を売却するが、それが本当にあっという間に売れてしまう。Jovianは株式取引のプロでも何でもないが、まとまった株を市場で一気に売却すれば、それだけでその銘柄の株が値崩れを起こすのではないだろうか。それに、買い手がないと売れないのは株でも何でも真理である。「売れ」と言った途端に大金が口座に転がり込んでくるというのは、少々現実離れしていた。

 

クルマをバンバン走らせるシークエンスがあるが、誰もバイクには乗れなかったのだろうか。『 ドラゴン・タトゥーの女 』ばりのバイク・アクションを魅せるチャンスだったと思うが。

 

劇中で断片的に『 デダリュス 』のプロットについて語られるが、全体的な構成や、前巻がどのようなクリフハンガーで終わったのかを、誰かに喋らせてくれても良かったと思う。

 

総評

多言語が飛び交うクライマックスの展開の緊張感は、近年の映画の中では出色である。また、どこか『 女神の見えざる手 』を思わせるエンディングは、続編の予感も漂わせている(実際に作るとなると、プリクェル=前日譚となるだろうが)。少人数を旨とするフランス産ミステリーにしては登場人物が多いが、それが全くストレスにならない。これだけ話を詰め込んで1時間45分というのは脚本と監督と編集の大いなる勝利だと言えるだろう。素晴らしい作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

nothing to lose and everything to gain

nothing to lose=失うものは何もない、というよく知られたフレーズだが、実際は have nothing to lose and everything to gain =失うものは何もなく、逆に何もかもが手に入る、というようにeverything to gainがくっついてくることも多い。“The challenger has nothing to lose and everything to gain in this fight.”のように、ボクシングなどで比較的よく聞こえてくる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, オルガ・キュリレンコ, サスペンス, フランス, ベルギー, ミステリ, ランベール・ウィルソン, 監督:レジス・ロワンサル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 9人の翻訳家 囚われたベストセラー 』 -犯人に思わず共感-

『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

Posted on 2020年2月6日2020年9月27日 by cool-jupiter

AI崩壊 35点
2020年2月2日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:大沢たかお
監督:入江悠

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AIの進化が著しい。日本は良きにつけ悪しきにつけ新しいものを使っていくことを好まない。しかし将棋棋士がAIを効果的に使い、今も棋力を向上させているように、普通の仕事でもAIを使い、効率や能率を上げていくことが期待される。だが、AIが『 ターミネーター 』のスカイネットにならない保証はどこにもない。本作はそんな物語・・・とはちょっと違う。

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あらすじ

桐生浩介(大沢たかお)は病気の妻を救えなかった。しかし、彼の開発したAI「のぞみ」は医療と健康管理のため国民的ツールとして普及し、日本人の健康増進に寄与していた。だが「のぞみ」は突如、暴走。国民を「生存」と「死亡」にカテゴライズし始める。その原因を開発者の桐生にあると判断した警察は、桐生の逮捕に乗り出す。桐生は逃げ延び、「のぞみ」暴走の原因を解明できるのか・・・

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ポジティブ・サイド

一部の分野ではAIが人間の能力をはるかに凌駕していることは周知の事実である。完全自動操縦の自動車がリリースされない理由は、費用が高くなりすぎること、そして事故があった時の責任の所在がどこ(製造者?所有者?運転していない同乗者?)にあるのかが議論しつくされていないという政治的・倫理的理由からである。逆に言えば、技術的には可能なわけで、ならば健康管理AI「のぞみ」という存在も荒唐無稽とは言い切れない。実際には飛行機は、離陸と着陸以外はオートパイロットで飛ばしている。厳密にはAIとは言えないものにも、我々はすでに命を預けているのである。

 

本作ではドローンも大活躍する。特に地下道で放たれるドローンのデザインはなかなか良い。Droneとはミツバチの雄を指す言葉で、蜂を模した形の超小型ドローンは近未来的でクールである。

 

微妙なネタバレになるが、本作には現実の政治批判の意味も込められている。序盤早々に女性総理大臣が死亡するが、その跡を継ぐ副総理の姓は、亡国の・・・いや、某国の総理大臣に縁のある姓だからである。入江監督の思想がどのようなものかは寡聞にして知らないが、国民を「上級国民」と「下級国民」に選別することは止めよ、というメッセージを入江監督は持っているようである。その意気や良し。

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ネガティブ・サイド

『 プラチナデータ 』と重複する部分が多い。犯人の思想もそっくりであるし、警察が使用するAI「百眼」による捜査方法もそっくりである。つまり、新鮮な驚きがない。いや、『 プラチナデータ 』の公開当時、歩行パターン認識などはまだまだマイナーな技術だった。その点に、説得力はあまりなかったが、驚きは十分にあった。一方、本作の「百眼」の性能には驚きを感じられるものがなかった。それがマイナス点である。後発作品は、先行作品を何らかの意味で乗り越える努力をすべきである。また、百眼も高度に発達したAIである割には、自律的思考力を持っているとは到底思えない判断を最終盤で連続して下している。もはやギャグの領域で、ここまで来るとリアリティも何もない。また、桐生が下水道の中を逃げる時の足音を聞いて、「これは桐生である」と百眼が判断する場面もあるが、元データをいつ採取したのだろうか。百眼という存在のアイデアは悪くはないが、才物の詰めの設定が甘すぎる。

 

また、百眼を使う警察があまりにも最初から強引すぎる。これではのぞみ暴走の黒幕が誰であるのか、あっという間に分かってしまう。本作はSFサスペンスであり、ミステリ要素は確かに薄い。しかし、謎の見せ方にはもう少し節度を持ってもらいたい。ミランダ宣告をしないのはまだしも、容疑者かどうかも怪しい段階でいきなり銃を突きつけるか?最初は「話はとにかく署で聞く」ぐらいの堅物さ、強引さで、そこからのぞみ暴走のカウントダウンが進んでいくとともに警察も過激になっていく、という展開で良かったのにと思う。

 

逃げる桐生を警察官の描写にも不満がある。土地勘があるとは思えない桐生が、土地勘を持っていないとおかしい所轄の警察官たちを、路地裏などを通って次々と振り切っていくシークエンスには説得力がない。元警察官のJovianの義父が本作を観たら、笑うか呆れるか、さもなくば警察官たちに憤慨するであろう。

 

「のぞみ」の暴走にもリアリティが不足している。「のぞみ」が命の選別をすることにリアリティがないのではない。「のぞみ」のカメラアイは『 2001年宇宙の旅 』のHALをどうしても想起させるが、人を殺害するAIというアイデアは大昔から存在してきたのである。問題は、AIが人を殺すことを考えたときに、その思考過程をわざわざ人に見せるだろうか、ということである。もちろん、それを見せてくれないことには物語が前に進まないのだが、「のぞみ」暴走のカウントダウンにどうしても緊張感が生まれなかった。というのも、パッと見た限り、「のぞみ」は命の選別を1秒間に6人ほど行っているように見えるが、この計算で行くと、1分で360人、1時間で21,600人、24時間でも518,400人である。10年後の日本の人口が1億人にまで減っていたとしても、全く届いていないではないか。「のぞみ」がモニター越しに見せる命の選別の過程がスロー過ぎて、観ている側に焦燥感や恐怖などの負の感情が生まれてこないのだ。

 

黒幕は命の暴走によって日本を救いたいわけだが、その思想もすでに漫画『 北斗の拳 』のカーネルが「神はわれわれを選んだのだ!!」という言葉で先取りしている。実際に命の選別をやってしまえば、諸外国から非人道的との烙印を押され、あっという間に中露、あるいはアメリカあたりに力での侵略を許す口実を与えるだけになると考えられる。それに墓場はともかくとしても(全部無縁仏扱いしてしまえばよいので)、火葬場などで死体を荼毘に付す処理が絶対に追いつかないだろう。それとも、死体の大部分は腐敗するに任せるというのか。馬鹿馬鹿しいようであるが、こうしたことまで考えられて作られた物語に見えないのである。

 

桐生も『 逃亡者 』のリチャード・キンブルさながらに逃げまくるが、盗んだノートPCであまりにも多くのことを成し遂げ過ぎではないか。「俺はもう人工知能の開発はやっていない」と言いながら、発砲を辞さない警察に追われるという極限の緊張の下、5年ぶりであっても流れるようにコードを書くというのは、プログラマーならぬJovianの目にはスーパーマンに見える。桐生が卓越した頭脳と肉体の両方を備えていることが、物語を逆につまらなくしている。桐生が百眼やのぞみと対峙し、たとえば『 search サーチ 』のように、カメラなどを通じてではなく各種のウェブ上に記録を多角的に総合的に分析することで、AIとの“対話”を行うような形での対決をしてくれれば、もっとリアルに、もっとスリリングになっただろう。発想は陳腐だが悪くない物語である。物語の進め方にもっと工夫の余地があったはずである。

 

総評

桐生にも警察にもリアリティがない上に、肝心のAIも過去作品の模倣の域を出ない。AIを巡る思想についても、山本一成が『 人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか? 』で語った「いいひと」理論が先行している。映画館はかなりの人が入っていたが、正直なところ、映画ファンの期待には届かなかったと思われる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

trigger-happy

『 図書館戦争 』ほどではないが、本作は警察がバンバンと発砲する。そのような、すぐに撃つ短慮な性格を指してtrigger-happyと言う。40歳以上の世代なら、『 おそ松くん 』における本官さんを思い出してもらえればよい。『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』でも、ホルドがポーを指して“trigger-happy flyboy”と揶揄していた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, SF, サスペンス, 大沢たかお, 日本, 監督:入江悠, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』 -やや演出過多か-

Posted on 2020年2月4日2020年9月27日 by cool-jupiter

イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 65点
2020年2月1日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:フェリシティ・ジョーンズ エディ・レッドメイン ヒメーシュ・パテル
監督:トム・ハーパー

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原題は“The Aeronauts”、飛行士であるが、aviator=アビエイターが飛行機の操縦士を指す一方で、気球の操縦士を主に指す。ジェームズ・グレイシャーは実在した気象学者だが、アメリア・レンは歴史上の人物たちから着想を得た架空の人物である。エディ・レッドメインとフェリシティ・ジョーンズのコンビは、『 博士と彼女のセオリー 』には及ばないものの、またも良作を作り上げた。

 

あらすじ

時は1862年、ロンドン。科学者のジェームズ・グレイシャー(エディ・レッドメイン)は気象を予測できるようになりたいと研究心を燃やしていたが、学会では相手にされなかった。そんな折、気球操縦士のアメリア・レン(フェリシティ・ジョーンズ)の気球に乗せてもらえることになるのだが・・・

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ポジティブ・サイド

気象学は目立たないながらも非常に重要な学問である。スパコンの使い道のトップは天気予報であるとも言われる。日本のここ数年の猛暑酷暑に、今季の暖冬など、さらに本土での竜巻の発生やゲリラ豪雨など、日本の天候気候は確実に変化しつつある。天気予報や気象学の果たす役割は大きくなるばかりである。そうした時代の到来を予見していたのかどうかは分からないが、気象学の始祖の一人であるジェームズ・グレイシャーにフォーカスするというのは意義深いことであると感じた。

 

エディ・レッドメインは年齢に不相応なチャーミングさがある。『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』のニュート・スキャマンダー役でも若い魔法生物学者をこれ以上ないほど具現化してくれたが、本作でも少年の目と志を持つ科学者を体現した。科学者は往々にして子どもがそのまま大きくなったような人間が多く、純粋さというものを感じさせることが多い。それは素晴らしくもあり、また危うくもある。マッド・サイエンティストというのは大抵の場合、好奇心があまりにも旺盛で、それが倫理を大きく上回ってしまう時に生まれてしまう。本作のジェームズも、科学調査の名の下に自信の装備を軽視し、フライトそのものを危機においやってしまう。観る側に、「頑張れ!」という気持ちと「何やってんだ、お前は!」というフラストレーションを絶妙のバランスで起こさせるのである。

 

有川浩の自衛隊三部作ではないが、『 海の底 』と『 空の中 』というのは人類にとってかつては謎多き領域であり、今に至っても謎が残された領域である。航空パニック映画などではしょっちゅう乱気流に揺さぶられたり、積乱雲の中で雷に襲われたり(『 天空の城ラピュタ 』が好例だろう)するのが定番である。そこに、ほぼむき出しの気球で挑もうというのだから、なにをどうしたってスリリングになる。実際に、『 ゼロ・グラビティ 』とまではいかないが、全編これスリルと驚異と恐怖のオンパレードである。

 

それに立ち向かうヒロインとして、フェリシティ・ジョーンズが気球操縦士を熱演した。彼女は、ジェシカ・チャステイン同様に、クソ作品に出演することはあるが、自身の演技がクソだったことは無いという素晴らしいactressである。未亡人として打ちひしがれていながらも、社交界の場で如才なく振舞う。そしてダンスパートナーを抜かりなく観察し、王立協会の権威に屈従することもない。アメリア・レンは架空のキャラクターであるが、そのファースト・ネームからはどうしたって『 アメリア 永遠の翼 』のアメリア・エアハートを思い起こさずにはおれない。空を飛ぶことが危険なのではなく、墜落することが危険なのであるが、ヴィクトリア朝時代には、飛行がそれなりに娯楽であったようだ。ジョーンズは、いわばそうした道化の役どころも理解していた。言ってみれば、ありえないほど完璧な人物なのである。それを嫌味に感じさせないのが、この役者の凄いところである。

 

『 キャッツ 』のクライマックスにも気球が出てくるのだが、映画そのものの出来はイマイチだった。だが、本作によって個人的にはredeemされたかなと感じることができたのは僥倖であった。

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ネガティブ・サイド

スリルを生むための演出なのだろうが、ジェームズがベテラン飛行家アメリアのアドバイスを聞かず、防寒着を持ってこないというのは考えられない。気球による飛行そのものの歴史が極めて短いというのならまだしも、フランスでも高度7000メートルを飛んだという知らせが届いている。つまり、新聞記事なり何なりで、その高度の空はどのような環境なのか、知っているはずだ。それはアメリアにしても同じで、なぜ手袋を持ってこないのか。自他ともに認める経験豊富なaeronautであるならば、せめて自分だけでも装備は万全を期してもらいたい。そうするとスリルやサスペンスを生み出しづらくなる、というのは製作者側の甘えである。

 

また、アメリアもジェームズも危機的な状況の中、しゃべり過ぎである。観る側に状況説明をしてくれるのはありがたいが、どのような仕組みで危機が到来しているのかを解説してくれなくても構わない。飛ぶことは危険なことではない。落ちるのが危険なのだ。そのことは、現代人たる我々観客はよくわかっている。ピンチの場面でのセリフ量をもっと減らし、映像やBGMに状況を語らせる努力をトム・ハーパー監督は行うべきだった。

 

また一部の危機的な飛行シーンでアメリアが超絶的な活躍を見せるのは、正直言って演出が過剰であると感じた。ほんの少しでよいので、アメリアが気球を作る作業場で、ロープの素材やその強度、球皮の素材や厚みなどについて語ってくれていれば、彼女の行動は無鉄砲さではなく勇気や信念に支えられたものであると確信できたのだが。

 

映画そのものについての注文ではないが、字幕にも少々注文を付けたい。アメリアが新聞記事を読んで落胆と後悔がないまぜになったような表情を見せるシーンで、新聞の文字はPierre and his brideとなっているところが、「ピエールとアメリア」となっていた。女性は男性の所有格付きで表現される時代に、aeronautとしての矜持を捨てなかったアメリアの葛藤を描く重要なシーンだが、字幕がそれを壊してしまっていたと感じる。細かいところではあるが、指摘しておきたい。

 

総評

ケチをつける箇所もあるが、良作であることは間違いない。ジェームズとアメリアが吊り橋効果のせいでロマンスを始めてしまうということもない。劇場の大画面で美しい空や荒れ狂う空を体感頂きたいと思う。気球(のような乗り物)が重要なテーマやモチーフになっている作品としては、野尻抱介の小説『 ふわふわの泉 』や『 沈黙のフライバイ 』所収の短編『 大風呂敷と蜘蛛の糸 』をお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

reach for the stars

直訳すれば「星に向かって手を伸ばす」であるが、実際は「手に入れられそうにないものを得ようとする」という比喩的な表現である。これは割とよく使われる表現で、テレビドラマ『 ニュースルーム 』のシーズン1のエピソード1の冒頭シーンのジェフ・ダニエルズの名演説でも使われているし、『 グレイテスト・ショーマン 』のtheme songである“This is me”の歌詞の一部として力強く歌われている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アメリカ, イギリス, エディ・レッドメイン, ヒメーシュ・パテル, ヒューマンドラマ, フェリシティ・ジョーンズ, 歴史, 監督:トム・ハーパー, 配給会は:ギャガLeave a Comment on 『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』 -やや演出過多か-

『 ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密 』 -過大評価が過ぎる-

Posted on 2020年2月2日2020年9月27日 by cool-jupiter

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密 55点
2020年2月1日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:クリストファー・プラマー ダニエル・クレイグ
監督:ライアン・ジョンソン

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『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』の監督ライアン・ジョンソンが脚本および監督を手掛け、アメリカでは喝采を浴びたとのことだ。うーむ。正統派の倒叙(的)ミステリをそれなりに上手く撮影しただけのはずが、SWエピソード8をいじくりまわした監督の作品ということで必要以上に持ち上げられているだけではないのか。原題のKnives Outは英語の慣用表現のthe knives are out、すなわち「矛先を向ける」、「刃を抜く」、「牙をむく」など、誰かを(物理的というよりも比喩的に)攻撃する体制ができている状態」から来ているのだろう。

 

あらすじ

ミステリ作家にして大富豪のハーラン・スロンビー(クリストファー・プラマー)は、彼自身の誕生日パーティーの翌日に遺体となって発見された。謎の人物から依頼を受けた名探偵ブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)は、彼の遺産を相続できる立場にある家族全員を容疑者と考え、唯一、ハーランの死亡による恩恵を受けない専属看護師を助手に調査を進めていくのだが・・・

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ポジティブ・サイド

大きな館でミステリ作家が死ぬ。これ以上ないほどにクリシェな設定ではあるが、だからこそ光り輝くものもある。ダニエル・クレイグ演じるブノワ・ブランは、いわゆる安楽椅子探偵やハードボイルド系の肉体的に屈強な探偵という像を見事に覆した。理知的であるが、感情的でもある。頭脳明晰であるが、コミュニケーション能力に少々難がある。端的に言って、面白いオジサン探偵である。クレイグのファンであれば、彼の怪演を楽しむためにチケットを買うのもありだろう。

 

容疑者連中は豪華な顔ぶれである。特に『 ノクターナル・アニマルズ 』や『 シェイプ・オブ・ウォーター 』、『 華氏451(2018) 』などで、善人だろうが悪人だろうが、頑迷固陋なまでに信念を貫く頑固者を演じさせれば天下一品のマイケル・シャノン、『 ヘレディタリー/継承 』など、顔芸と言えばこの人、トニ・コレットの二人は要チェックである。

 

真相もそれなりに捻ってある。あまり詳しくは書けないが、ハーランの死の真相はなかなかにショッキングである。ライアン・ジョンソンはアガサ・クリスティ的なミステリを志向したとインタビューで語っていたそうだが、Jovianのような鵜の目鷹の目のすれっからしには、カトリーヌ・アルレー的なミステリを志向したように映った。真犯人(これはすぐに分かる)ではなく、真相の方をあれこれと考えて、その部分では騙された。以下、白字 カトリーヌ・アルレーであれば、マルタの嘔吐症をマルタ自身が長年かけて周到に準備した演技であると設定したことだろう。だが、この演出はそれなりに楽しくもあり、またカタルシスをもたらしてもくれる。

 

アメリカ映画というのは、往々にしてロボットやAI、そして異星人といった存在を“敵”として描いてきたが、近年では『 アス 』など、意識の変化が見て取れる。本作ではアメリカ人が敵視するのは移民である。このことを我々はどう感じるべきなのか。アメリカ人自身がヨーロッパからの移民であるということを忘れてしまっているわけだが、人類はその歴史的な発展段階のどこを取り上げても、ほぼ例外なく移民である。陸路の面でも、海流に任せた海路の面でも、日本は移動する人類の最終目的地の一つであったことは疑いようがない。ミステリ要素以外、つまりハーランの家族たちの思考や思想をどう見るのか。日本の映画ファンの感想を、これから渉猟してみたいと思っている。

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ネガティブ・サイド

ダニエル・クレイグの名探偵っぷりは堂に入ったものであるが、その推理は穴だらけである。詳しく書くと興が削がれるので、ある程度ぼやかして書くが、冒頭のEstablishing Shotで重要な役割を帯びていることが示唆される犬の扱いがめちゃくちゃである。なぜランサムが1度目に来た時には犬にまとわりつかれ、2度目には犬に気づかれず、3度目にはまた犬に気づかれ、吠えられたのかについて合理的な説明がなかった。

 

警察も同じで、容疑者として考えられる者には、屋敷を立ち去った時間だけではなく、帰宅した時間も尋ねなければならない。そのうえで街中の防犯カメラの映像と屋敷の防犯カメラの映像などとも合わせて、アリバイを確認する、もしくは崩していくのが王道であり定石である。何故そのようにしないのか。屋敷の防犯カメラの映像は消去されたとなったら、なおさら他の方法でアリバイを確認しなければならないではないか。何故あっさりとあきらめるのか。

 

また登場人物の行動原理にも不可解なところがある。ある人物が怪しい行動をしているところをたまたま目撃した。その人物に人気のないところに呼び出されたので、逆に詰問してやろうとその場に向かったところ、返り討ちにあってしまった・・・って、アホかいな。これではまるで火曜サスペンス劇場である。何故のこのこそんなところに出向くのか?何故に警察や探偵、もしくは自分が信頼できる相手に自分の目撃した事柄を伝えないのか?あるいはメモや手紙を残さないのか?現実に殺人事件があったとして、「ひょっとしてコイツが犯人なのでは?」と疑っている人物の誘いにホイホイ乗る人間がどれくらい存在するだろうか?おそらく100人に1人いるかいないかだろう。

 

本作の真相(≠真犯人)で個人的に最も納得がいかないのは、ブラン探偵の推理、すなわちマルタが長年の経験から来る感覚で、ラベルが貼り変えられていたにもかかわらず、モルヒネとそうではない薬品を、間違えることなくハーランに投与していた、ということである。って、そんなわけがあるかーーーーい!!!由良三郎先生の『 ミステリーを科学したら 』に敬意を表して、モルヒネの投与量が実はそれほど過剰ではいとか、ハーランはモルヒネにかなりの耐性を持っていたはずだとか、10分で死に至るということに科学的な根拠がないということなどには納得ができる。問題なのは、薬液のちょっとした色味や粘度の違いを看護師ならば感覚的に感知できるという設定である。念のため、看護師歴30年以上のJovian母に尋ねてみたが、「においのあるビタミンB剤や抗生剤なら、『 ん?匂いがしないぞ? 』と感じることはあっても、透明な薬液の違いは分からないし、何よりもラベルをダブルチェックするという習慣が身についているので、ラベルを疑うことはない」という返答だった。そしてバイアルというのは匂いを外に出すような作りの容器ではない。一度ひっくり返したものを、さらにもう一度ひっくり返すというのは、なかなかのどんでん返しであるが、アイデアだけが先行してしまっている感は否めない。『 屍人荘の殺人 』でも指摘した、“理論的に実行可能なトリック”と“実際に実行可能なトリック”の境目を本作はあまり上手くごまかせていない。アイデアは秀逸だが、見せ方がまずいのである。

 

アメリカの批評家連中がやけに本作を高く評価しているらしいが、彼ら彼女らは“移民”というテーマを絶賛しているのであって、ミステリ要素が好評を博しているのではないのだと思いたい。それも、今後時間を見つけて色々と読んでいってみたい。

 

総評

ミステリとして真剣に捉えるか、それとも火サスのようなライトなサスペンスものと割り切って捉えるかで評価がガラリと変わる。Jovianはこれをミステリだと思ってチケットを買った。そして裏切られた。これはサスペンス、あるいは松本清張ばりの社会派ミステリだと思えば、また違った感想を持ったことだろう。『 アガサ・クリスティー ねじれた家 』のような本格ミステリを期待する向きは、そうではないということを心してチケットを買うべきである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Up your arse.

ムカつくことを言われた時の返答にしばしば使われるスラングである。日本語にすれば、「うるせー、黙れ」ぐらいだろうか。TVドラマの『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』のとあるエピソードでも、ベテラン刑事コーサックがジェーンに向かって“Up your arse, Rizzoli.”と不敵に言い放つシーンがあった。ムカつく上司にムカつくことを言われたら、心の中で“Up your arse.”と唱えようではないか。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, D Rank, アメリカ, クリストファー・プラマー, サスペンス, ダニエル・クレイグ, 監督:ライアン・ジョンソン, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密 』 -過大評価が過ぎる-

『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

Posted on 2020年1月30日2020年1月30日 by cool-jupiter

Kioku-ya: Anata wo wasurenai / The Memory Eraser: Forget You I Will Not  10/100
At MOVIX Amagasaki, on January 30th, 2020
Main Cast: Ryosuke Yamada, Kuranosuke Sasaki, Kyoko Yoshine
Director: Yu-ichiro Hirakawa

 

記憶屋 あなたを忘れない 10点
2020年1月30日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山田涼介 佐々木蔵之介 芳根京子
監督:平川雄一朗

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I assumed Signal 100 was the front-runner to be chosen as the worst film of the year, but surprise surprise, there will always be something far worse. This film is the worst one by far I’ve seen in the last five years.

 

『 シグナル100 』が国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補かと思っていたが、それをさらに上回る駄作がもうすでにあったとは驚きである。本作は、過去5年にJovianが鑑賞した作品の中でも群を抜いて駄作である。

 

Plot Summaries

Ryoichi – played by Ryosuke Yamada – is a college student who is going after the person called Kioku-ya, The Memory Eraser. His girlfriend’s memory of Ryoich was erased, and since then, he has been seeking clues of The Memory Eraser with the aim of restoring her lost memory…

 

あらすじ

大学生の遼一(山田涼介)は記憶屋を追っている。恋人の記憶から、遼一に関するものが消されてしまったのだ。以来、彼女の失われた記憶を取り戻そうと遼一は記憶屋に関する手がかりを探し求めるが・・・

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Warning: Mild Spoilers Ahead!

 

注意!軽いネタバレあり

 

Positives

Sorry, no positives to mention. That’s proof of how awful this film is.

 

ポジティブ・サイド

残念ながら無い。それが、この映画の酷さを証明していると言えるだろう。

 

Negatives

First of all, what’s the heck is with lawyers and medical doctors in this movie’s world? Don’t they know a jack shit about what the duty of confidentiality is all about? It’s OK to give away a little bit of information, because we are all human and to err is human. Nobody is impeccable. With that being said, there is absolutely no need to write down on the whiteboard every F-ing detail of the victims of the criminal cases. There is something wrong with the doctor’s head, too. What’s the point of allowing a girl’s boyfriend to be right there while asking her some serious questions? A doctor should have no problem anticipating a flashback especially when dealing with a patient who could be deeply traumatized. Why no female doctors? Why not allowing her to lie down during the medical interview? The stupid and senseless boyfriend should know better.

 

The problem with this film is that the true identity of The Memory Eraser is so blatantly obvious that avid movie-goers will find out who it is only about 15 minutes into the film. Nevertheless, no characters picked up on the clue that leads to The Memory Eraser until much later, which I didn’t like at all. All you have to do is connect the dots, and no one fucking does it. Why?

 

I am also unhappy with the sequence where Ryoichi makes his sincere apology for what he thought was a terrible mistake. However, they say that kidnapping was rampant in the area in those days. Nonetheless, the adults in the area allowed their 5 – 6 year-old children to go outside AT NIGHT, ON THEIR OWN, so that they could go see a fireworks event. WTF? Heck, it wasn’t Ryoichi’s fault. It was the adults and the police who were to blame. And the ex-cop old man just saying to Ryoich, “It has fallen under the statute of limitations.” is simply unthinkable and unacceptable. This man really has dementia. If not, he should have turned in his badge waaaaay before his retirement.

 

Ryoich’s odyssey for The Memory Eraser culminates at the lowest of the low point. It was such an anti-climactic ending sequence. With this, the director and the screenwriter didn’t seem to give much thought to the impact of what happens at the end on the people around the main characters. I also found it extremely difficult to relate to any of the characters, and almost all of the things they did in the course of this entire story didn’t come across as compelling or meaningful. I could not help but get up from the seat and leave the theater as soon as the ending credit began to roll.

 

I could keep talking forever, but I want to wrap all this up by saying that I have no idea why this film exists.

 

ネガティブ・サイド

まず、この物語世界における医師や弁護士の職業倫理はどうなっているのか。守秘義務という概念が存在しない世界なのか。いや、多少の秘密をばらすのは人間のやることだから許容できる。だが、どこの誰がどんな事件でどんな被害を受けたのか、それを事細かくホワイトボードにでかでかと記しておく必要が一体どこにあるのか。医師も頭がどうかしている。心因性の記憶障害だとしても、いやしくも脳外科医であるならば女性医師に変わるか、あるいはフラッシュバックを予期してベッドに寝かせて問診するだろう。いや、そもそもボーイフレンドは同席させないだろう。いくら親密とはいえ、親や保護者ではないのだ。

 

また記憶屋の正体があまりにも簡単に分かってしまうにも問題である。ちょっと映画を見慣れた人であれば、開始15分で記憶屋が誰であるかが分かってしまうだろう。にもかかわらず、登場人物の誰も記憶屋につながるヒントに物語後半まで気が付かないということが不満である。点と点をつなげば記憶屋の正体は自ずから明らかなのに、何故そうしない?

 

主人公の遼一が過去の自分の過ちを詫びるシークエンスにも納得がいかない。誘拐事件が地域で頻発している。にもかかわらず当時の大人たちは未就学児童の集団を夜に外出させ、花火大会に行かせた。悪いのは遼一ではなく、大人たちであり、注意喚起を怠った警察である。遼一の謝罪を「時効だ」と言って流してしまう元・警察官の爺さんは、本物の認知症である。さもなければ、無責任極まりない警察官である。

 

主人公の遼一の記憶屋を求める旅の終着点、その結末。そのことが周囲にもたらす影響について何らの考察もされていないように思える。はっきり言って、登場人物の誰にも感情移入できないし、彼ら彼女らの行動原理がこれっぽっちも理解できない。エンドロールが始まって、すぐに席を立ってしまった。

 

このままいくらでも酷評を続けていくこともできるが、きりがないので以下をもって結論とする。Jovianは何故この映画が存在できるのかが分からない。

 

Recap

This is a complete disaster. Hardly anything in this film makes sense, and I was fed and fed and fed with so much meaningless information till the end. I say this film is a steaming load of bullshit. Only those who are gullible and naive are encouraged to buy a ticket and check this out.

 

総評

完全なる失敗作である。劇中で起こるほとんどの出来事の意味が分からない上に、意味のない情報ばかりを次から次へと終わりまで与えられ続ける。これはもうデタラメもいいところの作品である。極めて無邪気な人だけがチケットを買って鑑賞すべきなのだろう。

追記

遼一も弁護士も記憶屋を追うなら綿密に記録を残せ。それぐらいの自衛行為は当たり前だ。『 リピーテッド 』を観ろ。もしくは新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』を読め。

また記憶屋が仕事をしようがしまいが、遼一のところには警察なり何なりが来るだろう。それとも、この物語世界の警察は無能の集団だから、来ないのだろうか。

エンディングも酷い。『 バタフライ・エフェクト 』を模したつもりだろうか。そんな名作に張り合おうとするよりも前に、まずは『 パラレルワールド・ラブストーリー 』と勝負してはどうか。それでも本作の方が劣るだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ヒューマンドラマ, 佐々木蔵之介, 山田涼介, 日本, 監督:平川雄一朗, 芳根京子, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

Posted on 2020年1月30日 by cool-jupiter

風の電話 85点
2020年1月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:モトーラ世理奈 三浦友和 西島秀俊 西田敏行
監督:諏訪敦彦

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地震大国の日本であるが、それでも阪神淡路大震災と東日本大震災による打撃は群を抜いている。そして、あまりにも多くの犠牲者が出たことで、我々は被害を個々の人間ではなく、単なる数字として捉えてしまう。阪神大震災を間接的にではあるが経験したJovianでさえ、東日本大震災がもたらした悲劇については想像が及ばなかった。これはそうしたドラマである。

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あらすじ 

3.11によって父と母と弟が行方不明になってしまったハル(モトーラ世理奈)は、広島の叔母の家で暮らしていた。そんな叔母が倒れてしまった。また独りになってしまうかもしれないという不安から、ハルは家族と別れることになった地、岩手を目指して旅に出る。そして、道中で様々な人々と触れ合って・・・

 

ポジティブ・サイド

ワンカットがとにかく長い。が、それが気持ちよい。BGMも最小限に抑えられている。ジャンルとしてはヒューマンドラマ、ロードトリップになるのだろうが、まるでドキュメンタリー映画のようである。プロットは全く異なるが、『 存在のない子供たち 』のようである。ゼインは子どもとは思えない逞しさやしたたかさを備えていたが、ハルの時間はある意味では8年間ずっと止まったままである。子どものままなのである。誰かの庇護がなければ生きていけない存在。しかし、その庇護を与えてくれる人間が存在しない。そんな中途半端な状態で、ハルは死んではいないが、生きてもいない。17歳という子どもではないが大人でもないという中途半端な存在。そんなハルが、ロードトリップを経て、守られる側から守る側になる。目指す先に着いた後、さらなる目的地を見つけるというストーリーには、我にもなく涙を流していた。

 

三浦友和演じる公平は言う、「生きてるからには、食べて、出して、食べて、出して、しないとな」と。その言葉の通りに、本作の登場人物たちは常に皆、何かを食べている。まるで『 食べる女 』のようである。そのレビューで「失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『 万引き家族 』は我々に見せつけた」と指摘したが、本作はそうした描写からさらに一歩踏み込んだ。すなわち、孤食の解消である。詳しくは鑑賞してもらうべきだが、常に誰かが何かを食べている本作で、ハルが一人で食物を消費するシーンは剣呑である。そのことがすぐに伝わってくる。本作は、非常に逆説的にではあるが、【 日本全国を子ども食堂化しようプロジェクト 】のキャンペーンの一環であり、プロモーションビデオなのである。

 

広島の叔母の家でも、三浦友和の家でも、名もなき姉弟が連れて行ってくれた場末の食堂でも、西田敏行の家でも、Happy Kebabでも、トルコ人家族の家(ここは家の様子はほとんど映らないが)でも、どこもかしこも『 万引き家族 』的な物で溢れかえった家ばかりである。そこに小奇麗さは一切ない。比較的経済的に余裕のある家庭の子ども達が集まり、肝心の貧困層や孤食を余儀なくされる子ども達が来てくれないと嘆く子ども食堂の運営者の方々は本作を参考にされたい。さっぱりとしていてお洒落で明るい空間などを演出しても、ターゲットにしている子どもたちは入りづらいだけである。他人同士が身をぎゅうぎゅうに寄せ合い、カップ麺にお湯を注いだり、大人が缶ビールを開けたりするぐらいがちょうど良い・・・かどうかは分からないが、そうした雰囲気に救われる子どもはきっと数多くいるはずである。本作が映し出すのは、徹頭徹尾、社会的な弱者たちの連帯なのである。美しく頼もしいのは空間ではなく、人なのである。

 

不勉強にして“風の電話”の存在を本作鑑賞まで知らなかった。これは一種の自己内対話を促す装置である。『 ウインド・リバー 』で語られた、「子どもの死を受け入れろ。そうすれば、心の中でその子の笑顔が見られる」という悟りにも似た感覚を励起させる。死者と通話できるということは、その電話ボックスに入った時点で、相手の死を受け入れているということだ。これは辛く、悲しい。しかし、そうしなければ前に進めないことも事実である。本当に苦しいのは、家族や友人知人の遺体を見つけた人ではなく、彼彼女らが行方不明なままの人たちだろう。ハルが行う“風の電話”での通話は『 ラストレター 』における自己内対話と相通するものがある。この通話のシーンは万感胸に迫るものがある。観る者はハルの悲しみに同調し、あるいはハルの勇気に感動することだろう。

 

認知症の老婆、高齢の妊婦、家族が崩壊した中年男性、何もなくなってしまった故郷で死ぬと決めた老夫婦、家族の死に責任を感じる男たちが、意識的にも無意識にでもハルに生命力を分け与えていく姿に、観る側も大きな力を与えられたように感じられる。それらを受け止め、与える側へと成長していくハルの姿は究極のビルドゥングスロマンである。そんなハルを見事に体現したモトーラ世理奈は、2020年国内最優秀俳優に1月末にして内定した。

 

西田敏行が劇中で語る『 警察日記 』はモノクロ映画である。それが映し出した美しい福島の山や川とは何であったのか。諏訪監督の答えは明快である。西島秀俊演じる森尾とハルが、ハルの実家跡を訪ね、そして去るシーンの得も言われぬ美しさがその答えである。“美”とは風景の中に存在する客観的な実体ではない。人と人とが純粋な気持ちで触れ合い、響き合う姿の中に存在するきわめて主観的なものであることを、ここで我々は知るのである。このシーンの美しさに、Jovianは打ちのめされた。

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ネガティブ・サイド

2時間30分の長編である。そのことは別に構わない。セリフの少なさに比して、本作に込められている情報やメッセージは圧倒的に多いからである。ただ、これだけの尺を取るからには、ハルの旅先での数々の経験を、その次のシークエンスに生かしてほしかったと思う。例えば、三浦友和からもらった果物をかじるシーンや、トルコ人の同世代の女子の「看護師になろうかな」という想いを受けて、車窓から病院や看護学校に目が留まる、などの演出があればパーフェクトだった。

 

あとは、最初に倒れた広島の叔母さん、もしくは入院先の病院に電話なり何なりをハルがするシーンが一瞬でもあれば、いや、電話したと分かるような素振りか何かが最終盤にあればとも感じた。しかし、これは下手をすると余韻を壊すかな。ドラマの演出と編集のせめぎ合いになるか。

 

総評

2020年が始まって1か月も過ぎていないが、本作は年間ベスト候補である。モトーラ世理奈が邦画界から数々の賞を受け取る姿が早くも目に浮かぶ。また貧困問題や格差社会、移民問題までも含む、様々な問題提起もなされている。エンターテインメント作品かと言われれば否であるが、芸術作品であるかと問われれば間違いなく芸術作品である。観る者をかなり選ぶだろうが、脚本、演技、演出、撮影のどれを撮っても一級品である。是非とも劇場鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m back.

帰ってきたよ、というハルの心の叫びである。come backやget backを過去形や完了形で使ってしまうと受験英語となる。かのマイケル・ジョーダンが野球からバスケに帰ってきたときの記者会見の第一声も“I’m back.”だった。状況的に“I’m home.”とも言えそうだが、家が破壊されている状況では使いにくい表現かもしれないと感じた。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, モトーラ世理奈, 日本, 監督:諏訪敦彦, 配給会社:ブロードメディア・スタジオLeave a Comment on 『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年1月29日2020年11月11日 by cool-jupiter

サヨナラまでの30分 40点
2020年1月28日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:北村匠海 新田真剣佑 久保田紗友
監督:萩原健太郎

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入れ替わり系のストーリーは時代や地域を問わずに生産され続けている。それだけ思考実験しやすいジャンルであり、またテクノロジーの進化とも相性が良いジャンルなのだろう。本作は新しい視点は提供してくれたが、様々な描写が不足しているため、説得力がなかった。

 

あらすじ

アキ(新田真剣佑)はギタリスト兼ヴォーカリスト。バンドのメジャーデビューを前に不慮の交通事故で世を去ってしまう。カセットテープとウォークマンを残して。そのウォークマンを偶然に拾った颯太(北村匠海)は、カセットテープを再生している間は、颯太の体にアキが入り、颯太は幽霊状態になってしまうことが分かり・・・

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ポジティブ・サイド

以外と言っては失礼かもしれないが、北村匠海の歌唱力が目立った。声を張り上げる役をあまり演じてこなかったというのもあるが、アマチュアの声ではなかった。それとも本職がアテレコしているのか?いや、そうは聞こえなかった。一応歌手もやっているようだが、もしまだタバコを吸っているのなら止めたほうがよい。また演技力でも成長を見せた。『 累 かさね 』における土屋太鳳と同じく、一人二役とは言っても、実際は北村が1.5、新田真剣佑が0.5ぐらいの配分に感じられた。

 

邦画の青春映画というと、おそらく7割以上が高校を舞台に高校生が繰り広げるが、大学生や社会人ものというのも味わい深いものがある。ある程度、酸いも甘いも嚙み分けてきて、その上で自分の道にのめりこめるからだ。好きという気持ちだけで突っ走る中高生も、それはそれで甘酸っぱく感じないわけでもないが、オッサンにはもうそろそろキツイ。自分がそれなりに謳歌した大学時代を軸にした映画の方が楽しみやすい。

 

本作のテーマである“上書き”は、おそらく意見がかなり割れることだろう。Jovian自身は賛と否、両方の意見を持っている。ここでは賛の意見を。バンドというのは不思議なもので、英単語のbandは音楽のバンドだけではなく、ひも、縄など、ぐるぐる巻きにして留めるもの、縛るものなどを指す。ボクシンググローブをつける前に、ボクサーは拳にバンデージを巻くのである。アキは、自分自身が生き返ることではなく、バンドの存続を願った。虎は死して皮を残すではないが、自分抜きにバンドが続くことを承認している。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のレビューでは、「フレディ死すともクイーンは死せず」と書いた。フレディ在りし頃のQueenは記録にも記憶にも残っている。そして、フレディが死に、ディーコンも事実上脱退したQueenは今も活動中で、まさに日本ツアーを敢行中である。もっと卑近な例を挙げればモーニング娘。やAKB48などは、メンバーが入れ替わってもグループとしては存続を続けている。大切なのは、人間同士のつながりそのものよりも、そのつながりによって何を生み出すのかである、という主張にも一理はある。本作はそのことをファンタジー形式で提示したと言える。我々はすぐにスマホで録音をし、写真や動画を撮るようになってしまったが、萩原監督は本作を通じて、「人とつながれ、何かを生み出せ」という現代人批判を行っているのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

厳密には入れ替わりものではないが、それでもオリジナリティはなかった。カセットテープというのも、『 ルーム・ロンダリング 』で渋川清彦が「バカヤロー、デモと言えばテープと相場が決まってんだよ」と喝破している。

 

また肝心の入れ替わりにおいても、高畑京一郎の小説『 ダブル・キャスト 』のプロット、すなわち入れ替わり可能時間がどんどん短くなっていく、が遥かに先行している。その上、サスペンス要素や謎解き要素でも面白さでも、高畑の小説の方が優っている。今風に言えばラノベに分類されてしまうかもしれないが、一昔前のジュブナイル小説の傑作なので、今の若い世代にもぜひ読んでほしいと思う。

 

閑話休題。本作は『 小さな恋のうた 』のパラレル・ストーリーであるとも言える。バンドの主要メンバーが死んでしまった。さあ、どうする?という問いに、“上書きする”という一定の答えを出した。それは良い。だが、その過程でアキの霊体?が随時にツッコミを入れるのが気に入らない。「俺がいないと何もできない奴らが・・・」というセリフは本当に必要だったのだろうか。また、肝心のアキと颯太の対話劇がもう一つ盛り上がらない。この点でも同じ音楽にフィーチャーした作品『 さよならくちびる 』に及んでいないと感じられた。絵的にも、オリジナリティに欠ける。颯太とカナが連弾でトロイメライを弾くところなどは、『 蜜蜂と遠雷 』の月の光の連弾シーンに重なる。とにかく、どこかで観た構図のオンパレードなのだ。

 

本作は颯太のビルドゥングスロマンであるが、肝心の颯太のキャラが一貫性を欠いている。アキが地獄と感じる透明人間状態を天国だと言いながら、ちゃっかりECHOLLのメンバーとの交流を楽しんでいる。アキと自分の間に即席カーテンを設けながら、いつの間にかそれも消えている。駄作の『 L・DK 』でも、雷鳴に怯えて思わず手を伸ばしてしまったというベタな描写は為されていた。そもそも颯太の音楽のバックグラウンドに関する描写が何もないままにストーリーが進行していくのはご都合主義であるし、アキが無断でアップした曲の評価も最後まで判明しなかった。このアキと颯太の対話劇の欠如・不足により、颯太が「彼女も共有すべきでしょ」と不敵に言い放つ流れが、とてつもない違和感を生み出す。

 

細かいツッコミになるが、クライマックス前も颯太もカナも汗一つ流していない。真夏に自転車を全力で飛ばしてきた、もしくは走ってきたのなら、汗ぐらい流そう。別に久保田紗友の白シャツを汗で濡らして透け透けにしろ、などと言っているわけではない。シーンとシーンの連続性を大事にしなさいと言いたいのだ。バラバラに撮影したものが、一つの流れに見える。それが映画の技法なのだ。

 

総評

単体で見れば、鑑賞には耐えうる。しかし、他の先行作品や類似作品と比べた時に、ストーリーの面でも音楽の面でも、光る点が少ない。北村や新田のファンならチェックしておくべきだろうが、熱心な映画ファンを満足させうるクオリティに達しているとは感じなかった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

live on borrowed time

借りられた時間を生きる、の意。本作のアキのような状況を指す。すなわち、死んだも同然の身だが、天から与えられたかりそめの時間を奇跡的に生きている、という意味である。または、余命が残りわずかな状態で生きている、という意味にもなる。ボクサーがまぶたから大量に出血して、それでもTKOにならず戦い続けている様を指して、“He’s fighting on borrowed time!”という実況を2~3度聞いたことがある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ファンタジー, 久保田紗友, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:萩原健太郎, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

Posted on 2020年1月27日2020年1月28日 by cool-jupiter

デンジャラス・バディ 55点
2020年1月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サンドラ・ブロック メリッサ・マッカーシー
監督:ポール・フェイグ

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嫁さんが借りてきて、一緒に観た。まあ、普通の出来ではないだろうか。真犯人はこの二人のどっちかだろう、と迷っている最中にヒントが。まあ、ミステリではないので謎解き要素を求めなければ、そこそこ楽しめるはず。

 

あらすじ

敏腕FBI捜査官のアッシュバーン(サンドラ・ブロック)は上司の昇進に伴って、空いたポジションを得ようと意気込むが、その上司からボストンの事件を担当するに命じられる。そこでは粗野で乱暴な女刑事マリンズ(メリッサ・マッカーシー)とコンビを組むことになってしまった。水と油の二人は果たしてバディとして認め合って、事件を解決できるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

劇場公開2014年の作品であるが、アラフィフのサンドラ・ブロックが胸元をかなり露出し、悪玉にお色気作戦で近づき、そしてバディ役であるメリッサ・マッカーシーに酒場その他の猥談で完敗を喫するのだから面白い。サンドラ自身も、こういう映画を大ヒットさせようとはあまり思っておらず、気分転換にたまには映画製作を気軽に楽しもうというノリでいるのではないか。そう思えるほどに脚本はぺらっぺらである。次の展開が見え見えである。だが、それで良いのである。アッシュバーンというキャラもどこかで観たキャラ要素の寄せ集め。美人で頭脳明晰な腕利き刑事。しかし男には縁がなく40代で独身。Single cat ladyをしているが、肝心の猫はお隣さんの借り物。吉田羊とテイラー・スウィフトを足して二で割ったようではないか。

 

バディ役を努めるメリッサ・マッカーシーは『 ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン 』をテアトル梅田で観た記憶がある。そして『 ゴーストバスターズ(2016) 』でも。レベル・ウィルソンと渡辺直美とフランシス・マクドーマンドを足して三で割ったようなキャラである。美貌はないが、勘の良さと腕っぷし、そして正義感と報われない家族愛とセックス・フレンドを持っているという、アッシュバーンとは正反対のキャラ。こういう二人を組ませようというのは、作ったような話でリアリティはない。だからこそ、逆に安心して観られるのである。

 

アッシュバーンとマリンズが互いを人間として認め合えるようになるため二つのクラブが重要な役割を果たすが、これらのシークエンスは誠にユーモラスである。我々が笑うのは、たいてい意味や認識にずれが生じている時だが、アッシュバーンの服装をマリンズが強制的に変えてしまうところに、ニヤリとさせられてしまう。決してエロティックな意味ではなく(それもないことはないが)、服をビリビリと破いてしまうことで、逆に男っ気のなさが際立ってしまうからである。このあたりから、この一風変わった女刑事たちが本格的な凸凹コンビに見えてくる。そして、次なるクラブのシークエンスで、凸凹コンビはバディとなる。酒というのは人間関係の潤滑油にも燃焼材にもなるが、酔っぱらった女二匹の乱痴気騒ぎは、確かに観る側をして彼女らを応援したくなる気持ちにさせてくれる。

 

事件の解決の仕方も明快だ。アッシュバーンに男はいりませんよ、というビジュアル・メッセージである。陳腐ではあるが、死線を共に潜り抜ける経験は「血よりも濃いものを作ることがある」(B’zの“RUN”)のである。

 

ネガティブ・サイド

ドジでお茶目なアッシュバーンが序盤から中盤にかけてどんどん冴えてくるのが、ちょっと不満である。敏腕であることは十分に伝わる。ただ、バリバリに仕事ができる女刑事ではなく、どういうわけか事件を解決できてしまう不思議ちゃん的なキャラが面白さの源泉なのだから、その設定を崩してはダメである。終盤でそのおっちょこちょいのダメ設定が復活するが、流血ネタにする必要はあったのだろうか?また仮にも警察官であればハイムリッヒ法ぐらい知っているのではないかと思うが。

 

マリンズのファック・バディが一人だけしか出てこないのも不満である。ファックの相手は10人中9人が黒人だというなら、黒人のバディも出すべきだ。そうすることでアッシュバーンとマリンズの女の艶のコントラストがくっきりと浮かび上がってきたことだろう。それによってアッシュバーンがマリンズ相手にシャッポを脱ぐのもスムーズになっただろうと思われる。そうしたシーンがないと、麻薬のディストリビューターの黒人男が追いかけて痛めつけるシークエンスが一種の弱いものイジメに見えてしまう。

 

また、内勤の黒人刑事も色々な情報を渡してくれるが、結局は主役の女性二人の引き立て役になってしまっている。サポート役ではなく引き立て役である。彼に警察官らしい見せ場を作ってほしかった。

 

総評

基本的にコメディであって、サスペンスやミステリ要素を期待してはいけない。とにかくメリッサ・マッカーシーのパワフルなパフォーマンスと、サンドラ・ブロックの微妙にずれた変なおばさんっぷりを楽しむ映画である。まあ、典型的なrainy day DVDだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Same page

縁の下の力持ちポジションの黒人捜査官のセリフである。正しくは“We are on the same page.”だが、略してsame pageとなっている。be on the same page = 同じページにいる = 共通の認識を持っている、という意味である。外資系企業の会議では“Are we on the same page?”や“I believe they and we are on the same page on this deal.”というように使われているはずである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, サンドラ・ブロック, メリッサ・マッカーシー, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:エスピーオーLeave a Comment on 『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2020年1月27日2020年2月9日 by cool-jupiter
『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

キャッツ 25点
2020年1月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:フランチェスカ・ヘイワード テイラー・スウィフト
監督:トム・フーパー

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『 マンマ・ミーア! 』のレビューで「Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』」であると述べた。それらに続くのが『 オペラ座の怪人 』と『 キャッツ 』である。両親が劇団四季・友の会の会員だったのだ。劇は確か5回観た。サントラはオリジナル・ロンドン・キャストで数限りなく聞いた。その上で言う。これは映画化失敗である。

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あらすじ

ロンドンの片隅。新参猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのは年に一度のお祭り、ジェリクル・ボールだった。オールド・デュトロノミーによって選ばれた一匹の猫は天上に昇り、新たな生を得るのだ。その座を競って、猫たちは夜を徹して歌い、踊って・・・

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ポジティブ・サイド

オールド・デュトロノミーを雌に変えたことに最初は戸惑ったが、これはこれでありだろう。英語では、猫の人称(猫称?)代名詞はしばしばsheになるし、イングランドに君臨するのは女王である。ロンドンの猫たちの頂点が雌であっても不都合は何もないし、それぐらいの設定変更をしないと、映画化の意義もない。実際にジュディ・デンチは良かった。

 

また、アスパラガスをイアン・マッケランに演じさせるというのはキャスティングの大いなる勝利である。老人が時代を嘆くのは滑稽かもしれないが、それを実力者が演じることで大いに説得力が増している。

 

アンドリュー・ロイド・ウェバー御大とテイラー・スウィフトの手による“Beautiful Ghosts”は言葉で説明するのが難しいほどに感情を揺さぶる音楽であり歌詞であり歌唱である。劇中で歌うヘイワードとエンディング・ロールで歌うテイラーに最敬礼する。

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ネガティブ・サイド

見た目や動きの気持ち悪さは英語でも日本語でも死ぬほど語られているので、敢えてJovianが触れるまでもないだろう。ジェニエニドッツとゴキブリどもとの大きさの比率がおかしいし、水を飲むバストファー・ジョーンズの顔が一切濡れないのも不自然である。どうしても言わないと気が済まないのはこれぐらいか。

 

夜中~深夜にかけて街中を散歩していると、公園の砂場で猫たちが集会を開いている場面に遭遇することがある。そうした経験のある人は多いだろうし、人からそのような話を聞いたことがある人も多いことだろう。その中には首輪をした猫もいれば、ボロボロに傷を負った野良もいるのである。まさかジェリクル・ボールを本当に開いているとは思わないが、それでも猫たちの営為には、人知の及ばないミステリアスな領域が常に存在しているようである。『 キャッツ 』というのは、そうした人間の与り知らない猫の世界の物語である。であるにも関わらず、オープニングでいきなりロンドンの街のネオンライトを浴びながら自己紹介をしていく猫たちに強い違和感を覚えた。“月明かりの中”で密やかに、しかし盛大に行われるのがジェリクル・ボールではないのか。夜目が効く猫があんな光を浴びたら動けなくなるのではないのか。というか、人間の世界の片隅で繰り広げられるドラマのはずが、人間の世界のど真ん中で行われるかのような演出を入れるのには感心しない。舞台演出をそのまま映像にしてしまうとシネマティックにならないというフーパー監督の判断なのだろうが、それは間違っている。映像的に煌びやかであることと、それが素晴らしいものであるということは必ずしもイコールではない。キャッツのような物語は特にそうである。

 

色々と演出にも首尾一貫性がない。ジェニエニドッツが躾けるゴキブリやネズミの寸法がおかしかったかと思えば、バストファー・ジョーンズの言う高級クラブ通いは実際は高級残飯漁りという猫の生活のリアルさを描いている。一方で、舞台版ではスキンブルシャンクスが車掌を務める“魔法列車”はゴミとして捨てられた廃品の寄せ集めで作られたものという、これまた猫の生活のリアルさを表現していた一方で、こちらの映画では本物の線路に本物の鉄道を見せていた。なぜ人間の領域に出てくるのだ?ロンドンの片隅でこっそりやってくれ。シネマティックな演出をするなら、猫のリアルな生態とミステリアスな側面を絶対に外してはいけないのである。

 

マキャビティとグロールタイガーが手を組むというのも妙に感じた。犯罪世界のナポレオンが海賊と組むか?フーパー流の新規の味付けなのだろうが、これは個人的には受け入れられなかった。またイドリス・エルバ演じるマキャビティがどこかユーモラスになってしまっていたのも減点対象である。神出鬼没で猫世界のルールもお構いなしというのが、マキャビティの魅力であり、怖さでもあった。それが生まれ変わりを切望して、オールド。デュトロノミーを脅迫するチンピラに成り下がるとは・・・ 舞台版ではジェリクル・キャッツ候補たちが総力を結集して追い払う悪の権化が、なんともみみっちく矮小化されてしまったという印象である。

 

ハイライトであるはずのグリザベラが歌う“Memory”のシークエンスにも不満である。心の底からの“TOUCH ME!”という悲痛ともいえる叫び、そして歌い終わって、猫たちに背を向けながらも、後ろに手をそっと差し出し、誰かがその手に触れてくれるのを恐る恐る待つグリザベラ、そこにデュエットを歌ってくれたシラバブがグリザベラの手をそっと撫でる。そして猫たちが次々にグリザベラに触れていくという、あの流れが感動を呼ぶのではないか。天に昇る猫を選ぶのはオールド・デュトロノミーだと言いながらも、その場の猫たち全員がデュトロノミーの宣告を待たずにグリザベラを認めるという、あのシークエンスが胸を打つのではないか。それを序盤からヴィクトリアがべたべたとグリザベラに触り、あまつさえジェリクル・ボールに招き入れる。違う。ボロボロに打ちひしがれていながらも、それでも誰かに触れてほしい、抱いてほしいというグリザベラの勇気と圧巻のパフォーマンスが我々の心を震わせるのである。無理やり連れてきてはいけないのだ。なぜトム・フーパーとリー・ホールはこのような脚本を書いてしまったのか。理解に苦しむ。最も感動的であるはずのシーンで萎えてしまうった。おそらく舞台『 キャッツ 』を愛する人の多くが、このように感じたのではないだろうか。

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総評

舞台版をこよなく愛する人と、本作を映画で初めて観る人によって、評価はガラリと変わるのだろう。実際にJovianの嫁さんはミュージカルを未見の状態で本作を鑑賞し、高い評価を与えていた。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』の評価が割れているのも、従来通りの物語を期待するファンと、新世代の物語を期待するファンの間で評価が割れていて、それが予想以上の低評価につながっている。SWでは後者の勢力がマジョリティであるが、本作『 キャッツ 』では前者の勢力が優勢なようである。舞台版『 キャッツ 』を愛する人は、期待をせずに劇場へ向かわれたし。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ghost

幽霊、の意ではない。テイラー・スウィフトが歌う“Beautiful Ghosts”というのは、おそらく Beautiful Ghosts(from the past)のことかと思われる。a ghost from the past は「過去の亡霊」という意味ではなく、「長らく出会っていなかった過去の知り合い」ぐらいの意味である。生まれ変わるグリザベラに「あなたはこれだけ多くの素晴らしい猫たちに祝福された」というメッセージを送っている・・・のだと思う。猫とポエムを真面目に解釈しようとしてはいけない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, テイラー・スウィフト, フランチェスカ・ヘイワード, ミュージカル, 監督:トム・フーパー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

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