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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 約束のネバーランド 』 -漫画実写化の珍品-

Posted on 2020年12月21日 by cool-jupiter
『 約束のネバーランド 』 -漫画実写化の珍品-

約束のネバーランド 20点
2020年12月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北川景子 浜辺美波 板垣李光人
監督:平川雄一朗

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私的年間ワースト候補の『 記憶屋 あなたを忘れない 』の平川雄一朗がまたしてもやらかした。原作漫画は未読(Jovian嫁は序盤だけ読んだ)だが、それでも色々とストーリーが破綻しているのは明白である。

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あらすじ

グレイス=フィールドハウス孤児院ではママ・イザベラ(北川景子)によりたくさんの子ども達が養われ、里親に引き取られる日を待っていた。ある日、里親に引き取られたコニーが忘れたぬいぐるみを届けようとエマ(浜辺美波)とノーマン(板垣李光人)は孤児院の門へと向かった。そこで彼女たちが目にしたのは、コニーの死体、人を食らう巨大な鬼、そしてママ・イザベラだった・・・

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ポジティブ・サイド

孤児院の建物および周囲の自然環境が素晴らしい。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した西洋建築だと言われても全く驚かない。また草原および森林も風光明媚の一語に尽きる。陽光とそよかぜ、そして鬱蒼とした森はまさに別天地で、現実離れした孤児院の設定に大きなリアリティを与えている。

 

浜辺美波の顔と声の演技は素晴らしい。嫁さん曰はく、「漫画と一緒」ということらしい。嫁さんの評価は措くとしても、イザベラとの探り合いで披露する「演技をしているという演技」は圧巻。20歳前後の日本の役者の中では間違いなくフロントランナーだろう。ノーマン役の板垣李光人も良かった。オリジナルの漫画を知らなくとも、原作キャラを体現していることがひしひしと伝わってきた。

 

北川景子と渡辺直美の大人キャラも怪演を披露。特に渡辺の演技は一歩間違えれば映画そのもののジャンルをホラー/ミステリ/サスペンスからコメディ方向に持って行ってしまう可能性を秘めていたが、出演する場面すべてに緊張の糸を張り巡らせていた。北川景子も慈母と鬼子母神の二面性を見事に表現していた。彼女のフィルモグラフィーに今後くわえるとすれば『 スマホを落としただけなのに  』の被害者のような役ではなく、逆にサイコなストーカー役というものを見てみたい。

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ネガティブ・サイド

 

以下、マイナーなネタバレに類する記述あり

 

演技者の中で断トツに印象に残ったのは城桧吏。好印象ではない。悪印象である。『 万引き家族 』では元々無口な役柄だったせいか悪印象は何も抱かなかったが、今作の演技はあらゆる面で稚拙の一言。はっきり言って普通の中学生が暗記した台詞を学芸会でしゃべっているのと同レベル。これが未成年でなければ、返金を要求するレベルである。普段から発声練習をしていないのだろう。表情筋の動かし方も話にならない。能面演技とはこのことである。身のこなしも鈍重で、数少ないアクションシーン(殴られるシーンや回し蹴り)でもアクションが嘘くさい。本人の意識の低さにも起因するのだろうが、それ以上に周囲のハンドラーの責任の方が大きい。本作に限って言えば、これでOKを出した平川監督に全責任がある。クソ演技・オブ・ザ・イヤーを選定するなら、城桧吏で決定である。

 

頭脳明晰な年長の子ども達とママ・イザベラとの頭脳戦・神経戦が見どころとなるはずであるが、そこにサスペンスが全く生まれない。3人で密談するにしても、ハウス内の扉も閉まっていない部屋で、秘密にしておくべき事項をあんなに大きな声で堂々と話すのは何故なのか。「壁に耳あり障子に目あり」という諺を教えてやりたい。だったら屋外で、というのもおかしい。ママ・イザベラは発信機を探知する装置を常に携帯しているわけで、誰がどこにどれくらいの時間集まっているのかは、探ろうと思えば簡単に探れるわけで、密談をするにしても、その時間や場所や方法をもっと吟味しなければならないはずだ。例えば3人の間でしか通用しないジャーゴンや暗号を交えて話す、手紙や交換日記のような形式でコミュニケーションするなど、ママの目をかいくぐろうとする努力をすべきではなかったか。ミエルヴァなる人物が送ってきてくれた本から、いったい何を読み取ったというのか。もちろん、この部分をある程度は納得させてくれる展開にはなるのだが、そこまでが遅すぎるし、途中の展開にはイライラさせられる。

 

シスター・クローネの扱いにも不満である。渡辺直美演じるこのキャラおよび他キャラとの絡みはもっと深掘りができたはず。途中で退場してしまうのが原作通りのプロットであるならば仕方がない。だが、彼女がエマやノーマンやレイに見せつけた心理戦の駆け引き、その手練手管がエマにもノーマンにも伝わっていない。その後に見事にママを出し抜くのはストーリー上の当然の帰結として、そこに至るまでの過程には必然性も妥当性もなかった。本当にこいつらは頭脳明晰なのか。仮に鬼のテリトリーを脱出して人間の世界に入れたとしても、これでは人間に騙されて別のプラントにさっさと収容されて終わりだろう。

 

最後の脱出劇も無茶苦茶もいいところだ。あるアイテムを使うこともそうだが、それ以上に、カメラアングルが変わった次の瞬間にロープの片側がありえない地点に固定されていることには失笑を禁じ得なかった。そんな技術と身体能力があるのなら、それこそ回りくどく迂回などせず、正攻法で谷を降りて崖を昇れば済むではないか。

 

建築や自然が素晴らしかった反面、小道具のしょぼさや不自然さにはがっかりである。特にこれ見よがしに出てくる大部の書籍は、どれもただの箱にしか見えなかったし、実際にただの箱だろう。開けられるページは常に最初のページのみ。手に持った時の重みの感じやページ部分がたわむ感じが一切なかった。外界とほぼ完全に隔絶されたハウスに、ボールペンや便せんといった消耗品がたくさん存在するところも不自然だし、食料も誰がどこでどのように調達しているのだ?原作には説明描写があるのだろうが、映画版でそれを省く理由はどこにもない。世界の在り方をエマたちと共に観客も知っていく過程にこそ面白さが生まれるのだから、この世界観を成立させるためのあれやこれやの小道具大道具はないがしろにしてはならないのである(大道具は頑張っていたと評価できる)。

 

劇中ではずっと“脱獄”と言われているが、別に監禁や留置をされているわけではないだろう。正しくは脱走または脱出と言うべきだが、これについても何も説明がなかった。全編を通じて、正しい日本語が使われておらず違和感を覚えまくった。

 

アメリカのヤングアダルトノベルの映画化『 メイズ・ランナー 』の劣化品で、実写化失敗の『 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 』と並ぶ邦画の珍品の誕生である。

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総評

予備知識がほぼゼロの状態で観に行ったが、映画を通して原作の良いところと悪いところが結構見えたような気がする。おそらく原作漫画ファンでこの映画化を喜ぶのは10代の低年齢層だろう。そうした層をエンターテインしようとしたのなら、平川監督の意図は理解できるし、実写化成功と評しても良い。だが、上で指摘したような欠点の多くを改善することで、10代の若い層が本作を楽しめなくなるか?ならないと勝手に断言する。そうした意味では、平川監督は流れ作業的に映画を作った、原作ファン以外のファン層を開拓する努力を怠ったことになる。2021年も邦画の世界は小説や漫画の映画化に血道を上げ続けるのだろうが、それをするなら一定以上の気概と技術を持って欲しいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

edible

食用の、食べられる、の意。一応辞書には載っているが、eatableとはまず言わない。同じようにdrinkableもほとんど使われない。飲用可能はpotableと言う。portableとしっかり判別すること。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, アドベンチャー, サスペンス, ミステリ, 北川景子, 日本, 板垣李光人, 浜辺美波, 監督:平川雄一朗, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 約束のネバーランド 』 -漫画実写化の珍品-

『 ワンダーウーマン 1984 』 -前作よりも少々パワーダウン-

Posted on 2020年12月20日 by cool-jupiter

ワンダーウーマン 1984 70点
2020年12月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ガル・ガドット クリス・パイン クリステン・ウィグ ペドロ・パスカル
監督:パティ・ジェンキンス

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前作『 ワンダーウーマン 』は傑作だった。微妙な出来だった『 バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 』や『 ジャスティス・リーグ 』でも、ワンダーウーマンの登場シーンは良かった。期待を高めすぎるのは禁物だと分かっていながらも、やはり期待して劇場へ向かった。裏切られたとまでは感じないが、前作の方が面白さはあった。

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あらすじ

スミソニアン博物館で働くダイアナ(ガル・ガドット)は、願いを叶えてくれるという謎めいた石の存在を知る。ダイアナがその石に願うと、本当にスティーブ(クリス・パイン)が復活した。再会を喜ぶ二人だったが、実業家のマックス・ロード(ペドロ・パスカル)とダイアナの同僚バーバラ(クリステン・ウィグ)も石に願いを行っていて・・・

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ポジティブ・サイド

オープニングからのセミッシラでのアマゾネスたちの競技大会が奮っている。元々は2020年の夏前の公開予定だったので、これは東京五輪を意識していたのだろう。Jovianの勤務先は東京五輪2020のオフィシャルサポーターではあるが、個人的には日本での五輪開催はもう諦めている。そうした意味で、幼少期のダイアナが大人たちとアスレチックを競うシークエンスには I felt redeemed. 青い空と青い海、そして豊かな緑の中を駆け抜けるアマゾネスたちの姿はそれだけで非常にシネマティックだった。

 

ヴィランの設定も悪くない。神が作った石というのも説得力がある。前作のオープニングは、いきなり神々の話だったし。前作が神殺しであれば、本作は人間の弱さにフォーカスしている。マックス・ロードは悪になろうとして悪になったわけではないし、バーバラも最初から悪を志向したわけではない。強さを求めることそのものを悪とは決して言えない。問題は、力を正しく使えるかどうか。そのことは冒頭のオリンピック的シークエンスで明示されている。単純な善と悪の物語に割り切ってしまわないところに好感が持てるし、本来スーパーヒーローとはそういうものだった。ウルトラマンは街を破壊しながら人間を守ることに疑問を持った少年少女は多いだろうし、『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』や『 バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 』はまさにヒーローによる戦いが一般の人間に災厄をもたらしている点を鋭く突いていた。本作はテーマ的にそれらの先行作品の一歩先に進んだとも言える。

 

スティーブとダイアナの交流も微笑ましい。前作でダイアナが浮世離れしたファッション・センスを見せつけたが、今作ではスティーブがオールド・ファッション感覚を披露する。第一次大戦から60年以上を経て1984年に蘇ったスティーブがエスカレーターや地下鉄に驚き、自室にあるチープなファースト・フードに大興奮する様はひたすらにチャーミングだ。ありふれたものに幸福を感じられるのも愛する人がそこにいるからだという、ある意味で非常に陳腐な、しかしどこまでも真実である命題が、マックス・ロードが人々の願いを叶える代償として、力を奪っていくことと対比になっている。マックスの最後の選択は、だからこそ説得力があった。

 

アクションも見応え充分。特にエジプトの道路のバトル・シーンは迫力満点。ダイアナがパワーダウンして、ダメージを負うところも緊張感を高めている。チーターと化す前のバーバラとの格闘シーンも手に汗握るもの。バーバラがダイアナと同等の力を持っていて、ダイアナがパワーダウンしているからだ。強すぎるヒーローが戦ってもハラハラドキドキが生まれにくいが、本作はプロットと論理的に絡めて、戦闘シーンの緊張感を高めるのに成功している。

 

エンドクレジットの幕間に続編を予感させるような、予感させないようなスキットが挿入されている。ここで登場する人物に興味がある人は「リンダ・カーター」でググるべし。

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ネガティブ・サイド

ワンダーウーマンのイメージを映画ファンに決定づけたのは、やはり盾と剣だと思われる。そのいずれもが本作でフィーチャーされなかったのは残念だった。

 

前作も『 スーパーマン 』のオマージュに満ちていたが、本作でもそれを繰り返すのはちょっと芸がない。愛する人との生活を手に入れるためにスーパーパワーを失い、自分の使命のためにもう一度スーパーパワーを手に入れるというのは、まんま『 スーパーマンII 冒険篇 』のプロットではないか(ロイス・レーンは死なないけど)。また、ダイアナが空中で右腕を前に突き出して左腕を引いて一気に加速して滑空していくシーンにもスーパーマンのシルエットが見えてくる。ここまで来ると興ざめする。

 

黄金のアーマーを身にまとったダイアナのチーターとの戦闘シーンも暗い。『 アクアマン 』以来、DC映画も“暗さ”から抜け出したと思ったが、ここでも戦闘シーンが暗すぎる。黄金のアーマーがまったく画面上で映えない。前作のように、夜でも爆発の炎に囲まれて十分にライトアップされているという環境を作り出せなかったのだろうか。

 

細かい点だが、エジプトからワシントンD.C.にダイアナとスティーブはどうやって帰ってきたのだ?

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総評

前作『 ワンダーウーマン 』と同レベルのクオリティを期待してはいけない。しかし、キャラクターの造形と成長は素晴らしい。スーパーマンと言えばクリストファー・リーブ、アイアンマンと言えばロバート・ダウニー・Jr.、というのと同じレベルで、ガル・ガドットはワンダーウーマンというキャラクターのイメージを不動のものにしたと言えるだろう。三作目があるのかどうかは現時点では未知数のようだが、ぜひ剣と盾で大暴れする姿を見てみたい。それもDCEUではなく、スタンドアローンで。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

renounce

辞書を引けば「捨てる」、「放棄する」、「断念する」などと出ているが、こういうものは文脈で理解したい。個人的に最もよく目にして耳にする使い方は、“renounce the belt/championship”=ベルト・王座を返上する、というもの。いったん手に入れたものを元の場所に返す、というのがコアの意味となる。そのことは本作からでも十分に理解できるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アクション, アドベンチャー, アメリカ, ガル・ガドット, クリス・パイン, クリステン・ウィグ, ペドロ・パスカル, 監督:パティ・ジェンキンス, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ワンダーウーマン 1984 』 -前作よりも少々パワーダウン-

『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

Posted on 2020年12月19日 by cool-jupiter
『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

バクラウ 地図から消された村 65点
2020年12月13日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:バルバラ・コーレン ソニア・ブラガ ウド・キア
監督:クレベール・メンドンサ・フィリオ ジュリアノ・ドネルス

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カンヌで『 パラサイト 半地下の家族 』とカンヌで各種の賞を争った作品。なるほど、寓話的であり社会批判であり、エンタメでもある。ただし、物語のトーンとペーシングに難があるか。

 

あらすじ

祖母が亡くなったことからテレサ(バルバラ・コーレン)は故郷の村、バクラウに戻ってきた。しかし、その後、不可解な事象が発生する。村がインターネットから消え、給水車のタンクには発砲されて穴が開いていた。また、村はずれの牧場から馬が大量に脱走、牧場主たちは惨殺されていた。さらに、ある村人は、空飛ぶ円盤に追跡された。バクラウに何が起こっているのか・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭の宇宙空間からゆっくりと南米、ブラジルへとカメラ映像がズームインしていく様は、非常に不穏で不吉な感覚をもたらしてくれた。とても小さな領域で起こる事柄を俯瞰する視点を持て、という Establishing Shot である。

 

豊かな自然の中を走る給水車が、道路わきの棺桶を次々に轢いて破壊していく様は異様なである。人が死んだことを明示している一方で、そんなことは俺の知ったことじゃないよと言わんばかりのドライバーにも剣呑な雰囲気を感じ取らざるを得ない。これまで見事な Establishing Shot だった。

 

近代人にとって村という共同体は、もはや異世界なのだろう。小説の『 八つ墓村 』も『 龍臥亭事件 』も村を舞台にしているし、映画では『 ミッドサマー 』や『 哭声 コクソン 』、さらに『 光る眼 』(原題はVillage of the Damned)もそうだ。こうした村へやって来る闖入者は往々にして招かれざる客である。それがバイクに乗って現れるのだから、『 アンダー・ザ・スキン 種の捕食 』を思い起こした人も多いだろう。

 

物語中盤でバクラウを襲う怪異の正体が明らかになった時、我々はこれが現代社会の縮図の物語なのだということを知る。ポスターその他の販促物が壮大にネタバレしているが、血で血を洗う闘争が本作の本質ではない・・・と思う。正直なところ、解釈が非常に難しい。が、ひとつだけ言えるのは、地元の人間の言うことには耳を傾けておくべきだということ。コロンブスの大航海時代以上に、現代世界は広がっている。なぜなら旅することができる領域が格段に広くなり、また知るべき事柄も格段に増えているからだ。これ以上は言わぬが花だろう。と書いてきて、ふと思った。これは世界ではなく、宇宙レベルで考えても、同じことが言えるのではないか、と。

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ネガティブ・サイド

主人公が誰であるのかが分かりにくい。結局はバクラウという村落共同体そのものが主人公となるのだろうが、そのことが明らかになるまでがとにかく長い。『 エイリアン 』のように、序盤はクルー全体が主人公なのだと思わせておいて、突如リプリーが覚醒し、リーダーシップを発揮し始めたようなシークエンスを、テレサを使って撮れなかったのか。

 

“地図から消された村”という副題は必要だったか。『 犬鳴村 』じゃないんだから。ネットから消したとしても、市販の地図や書籍からは消せないし、昔あった「はてなマップ」のようなサービスがブラジルにあれば、誰かがバクラウの存在を地図上に復活させてしまうだろう。この副題は無い方がよかった。

 

『 サウナのあるところ 』以来の男性器丸見えはOKとして、そのじいさんの活躍がイマイチである。いや、活躍はしているんだけれど、このじいさんに求められているのはそういうことじゃないでしょ。『 夕陽のガンマン 』のラストのようなスケールで襲撃者たちの死体を運ばないとダメでしょ。

 

子どもが殺されるシーンは胸が痛む。だが、水も電気も手に入らず、近隣で大量殺人も起きているのに、真夜中に子ども達を無邪気に外で遊ばせておく大人がいるか?普通に徘徊老人が殺された、ではダメなのか。その方がテレサの祖母の死に続いて、バクラウの長老がまた死んでしまった、バクラウという共同体を何としても維持していこう、という機運も盛り上がると思うが。

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総評

正直に告白すると、前半の40分のうち、おそらく7~8分は寝てしまった。それぐらい盛り上がりに欠ける立ち上がりである。そこさえ乗り越えてしまえば、訳の分からない異様な雰囲気の高まりに、you’re in for a ride. 本当は怖いメルヒェンのように感じるも良し、格差社会における一種の下克上と受け取るも良し。インドや韓国も似たような映画を作れそうだ。日本でもインディーズ系の野心的な作家が日本流に翻案した作品を作れそう。自己流解釈を楽しめる人向きの映画である。

 

Jovian先生のワンポイントポルトガル語レッスン

Obrigado

「ありがとう」の意。多くの人が聞いたことぐらいはあるはずだ。劇中の前半でもかなりの頻度で使われている。いろんな国の映画を観ていて思うのは、日本は謝ってばかりで、感謝することを忘れつつあるのかな、ということだ。それは少し悲しい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, ウド・キア, サスペンス, ソニア・ブラガ, バルバラ・コーレン, ブラジル, フランス, 監督:クレベール・メンドンサ・フィリオ, 監督:ジュリアノ・ドネルス, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

『 アンダードッグ 二人の男 』 -とにかく鉄拳、やっぱり鉄拳-

Posted on 2020年12月14日 by cool-jupiter

アンダードッグ 二人の男 55点
2020年12月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ミンホ マ・ドンソク キム・ジェヨン チョン・ダウン
監督:イ・ソンテ

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『 アンダードッグ 』が個人的には少々消化不良気味だったため、ストーリーやキャラクターについてあまり深く考える必要のなさそうな本作を近所のTSUTAYAでセレクト。とにかくマ・ドンソクと来れば鉄拳なのである。

 

あらすじ

バイクや車の窃盗、万引き品の違法転売をしながらストリートで生きるジニル(ミンホ)たちは、バイクの転売に失敗、無一文になる。ジニルの恋人ガヨン(チョン・ダウン)が売春客を取るが、そこに現れたのはカラオケ店経営者のヒョンソク(マ・ドンソク)だった。ジニルたちはヒョンソクのクルマとクレジットカードを盗み出すが、カードの決済情報からすぐにヒョンソクに補足されてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

韓国のストリートというのは容赦の無い世界であると感じる。ストーリーとしては『 ギャングース 』に近い。刑務所上がりの半端者たちが、やはり半端な生き方しかできずに街を彷徨うところなど、韓国も日本も社会のセーフティネットの底が抜けてしまっているところは同じのようである。一方の主人公であるミンホは気の強さはあるもののケンカの腕はそれほどでもなく、頭の回転もそこまで速いほうではない。だが、恋人を一途に守ろうとする気概だけは見上げたもの。売春もしくは美人局の客がその筋の人間だった、あるいは自分の手に負える相手ではなかったというのは『 聖女 Mad Sister 』でもお馴染みの展開。ミンホがマ・ドンソクと対峙する場面では格の違いを見せつけられているのだが、ここで相手に向かっていけるのは男の証明だ。

 

そのジニルの追撃者、ソンフンを演じたキム・ジェヨンの凄みよ。モデル上がりの俳優らしいが、これは間違いなく兵役経験者、あるいはテコンドーやボクシングの心得がある。暴力シーンが生々しい。パンチの放ち方が素人ではない。そして狂人そのものの目つき。ジニルらを追いかける目つき、仲間に半笑いで謝罪を要求する時の目つきなど、クスリをやっている人間のそれとしか思えない。『 アジョシ 』の噛みつき攻撃にも驚嘆したが、本作でソンフンは禁断のサッカーボールキックを披露。こんなのは『 デッドプール 』ぐらいでしか見たことがない。演技者としてのキャリアは浅いようだが、それでもこれだけの演技を見せるのは本人の才能と努力か、それとも監督の演出力か。イってしまった目のソンフンと『 息もできない 』のサンフンの対決を、個人的に見てみたい。

 

マ・ドンソクもいつも通りの剛腕キャラなのだが、家族、特に娘という明確な弱点を持つことで、ガキンチョたちとある意味で対等の地点に引きずり下ろされてしまう。それによって本来の力関係ならば生まれることのないスリルやサスペンスが生まれている。表社会と裏社会のちょうど中間に生きるような存在で、冷酷無比に見えて、実は血も涙もあるタイプ。こういうキャラクターは確かにマブリーの得意とするところなのだろう。

 

ジニルたち、マ・ドンソク、そしてソンフンの三つ巴の争いがラストに収れんしていくプロセスは非常にスピーディーだ。クライムドラマとしても見応えがある。頭を空っぽにして90分鑑賞できる作品である。

 

ネガティブ・サイド

クライマックスの展開があまりにも衝撃的すぎて、これは減点対象である。普通に最後はヒョンソクがミンホにもサンフンにも鉄拳制裁し、サンフンは刑務所に送り返し、ミンホとガヨンはヒョンソクのカラオケ店で死ぬまで働く・・・ではダメだったのだろうか。このエンディングは、最後の最後に監督がすべてを放り出したかのように映る。

 

警察が無能というのは韓国映画の鉄則だが、それでもジニル4人組をここまで放置というか、犯罪をさせておくだろうか。4人組でつるんでいる窃盗団など、すぐに捕まりそうなものだが。まあ、韓国映画の警察にツッコミを入れるのは野暮というものか。邦画の警察とは違うのだ(邦画の警察も、最近ちょっと怪しくなってきているが)。

 

ジニルの実父の遺産のエピソードは不要。完全にノイズだった。マ・ドンソクがカードと車を取り返しにやって来た時に「育ててくれた叔父さんを裏切るとは」という内容をアリバイ作りに喋っていた内容が伏線になっていたのは感心するが、ならば本当にジニルが叔父さんを裏切ったエピソードを臭わせるべきだった。ジニルがstreet smartなバッド・ボーイでないと、他の仲間たちとの連帯感の説明がつかなくなる。

 

そのジニルの仲間のボンギルに、見せ場が一つもないとはこれいかに。「ここでアイツに礼を言わないと一生後悔しそうだ」と格好いいセリフで出陣しながら、ソンフンに文字通りに一蹴されるとは・・・ 同じことはボンギルの彼女のミンギョンにも当てはまる。

 

総評

『 スタートアップ! 』からコメディ要素を抜いて、『 悪人伝 』の三つ巴の争い要素をプラスしたような作品である。面白さとしては『 スタートアップ! 』 < 本作 <『 悪人伝 』である。別にマ・ドンソクでなくともよかったのではないかと思う(キム・ユンソクやチェ・ミンシクが良かったというような意味ではない、念のため)。これも典型的なrainy day DVDだろう。自粛を強制されそうな週末もしくは長期休暇時のお供にするのがよいかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

イーセッキ

『 スタートアップ! 』でも何十回と聞こえてきたが、本作でも同じくらい聞こえてくる表現。意味は「この野郎」。北野武映画を韓国語に訳した時にも、イーセッキが何十回と字幕もしくは吹き替えで使われるのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, キム・ジェヨン, クライムドラマ, チョン・ダウン, マ・ドンソク, ミンホ, 監督:イ・ソンテ, 配給会社:マクザム, 韓国Leave a Comment on 『 アンダードッグ 二人の男 』 -とにかく鉄拳、やっぱり鉄拳-

『 ミセス・ノイズィ 』 -事実、必ずしも真実ならず-

Posted on 2020年12月13日 by cool-jupiter

ミセス・ノイズィ 75点
2020年12月12日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:篠原ゆき子 大高洋子 新津ちせ
監督:天野千尋

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2020年現在、30歳以上なら奈良の「騒音おばさん」を覚えていることだろう。本作は、あの事件にインスピレーションを得つつも、現代的に翻案し、見事なドラマに仕立て上げられている。Jovianはしかし、どちらかと言うと、別の事件のことも思い出した。

 

あらすじ

小説家の吉岡真紀(篠原ゆき子)は、引っ越し先の隣人・若田美和子(大高洋子)が毎朝早くから布団を叩く音のせいで、スランプから脱却できず、お互いの小競り合いに発展していった。しかし、このことをネタに『 ミセス・ノイズィ 』という小説を執筆したところ、騒動の動画のヒットもあって好評を博すのだが・・・

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ポジティブ・サイド

90年代からゼロ年代まで、数多くの宗教団体による信者の拉致監禁事件があった。そしておそらく現代にもある。そのことは『 星の子 』でも示唆されていた通りである。一方で、カルト宗教に洗脳された信者を脱会させ、家族の元に奪還してくる団体が、また別の洗脳手法を使っていることが物議をかもしたこともあった。けれども90年代末だったか、ワイドショーを騒がせた「女性ばかりを拉致監禁して地方を転々とするカルト」が、実はDV被害者や無理やり苦界(もはや死後だろうか?)に落とされた者たちを救出していた団体だった判明したことがあった。当時、高校生だったJovianはこのニュースに驚かされた。そして、マスコミが誤報を詫びず、しれっと新しい情報を流して終わりにしてしまうことに強烈な違和感も覚えた。物事を一面から見る。そこには確かに事実がある。しかし、真実は事象を多角的に捉えないと見えてこないのだ。

 

本作も同じである。物語の前半は真紀視点から語られ、そこでは真紀は騒音の被害者で、若田さんは異常な隣人である。特に大高洋子は圧巻の存在感で、風貌や声の出し方までが「騒音おばさん」を彷彿させる鬼気迫る演技である。若田さんが嫌がらせをしてくるのは、彼女が異常な人物だからであると思いたくなる。典型的な“行為者-観察者バイアス”(Actor-Observer Bias)の陥穽に真紀はハマってしまう。それを補強するような衝撃的なエピソードが真紀の愛娘から語られることで、我々はますます怖気を震ってしまう。どうすればこの「騒音おばさん」を撃退できるのか、懲らしめられるのかを考えてしまう。

 

しかし、後半に差し掛かるところで、物語は若田さんの視点から描かれる。そこで我々は若田さんの抱える様々な事情を知ることになる。彼女の背景が明確にセリフで語られるわけではないが、一目見ればすべてが理解できる。このシーンでは強烈な左フックをチンに一発もらったかのような衝撃を覚えた。我々はしばしば知覚は十全に世界を捉えていると思い込んでいるが、実際には知ることのできない「超越」的な領域があるというのが、現代哲学である。我々が見聞きするものは事実であるが、すべてではない。他方から見た事実も存在する。真実とは、事実の側面ではなく総体なのだ。若田さんが路上でとるちょっとした行動が、少し角度を変えれば全く違うものに見える場面が存在する。世の中のたいていの事象はこうなっているのではないか。

 

世間をも巻き込む大騒動に発展する隣家同士の小競り合いは、とんでもない展開を見せる。そして日本人が大好きな“謝罪”の意味を問う展開につながっていくが、ここで差し伸べられる救いの手が意外なもの、いや、予想通りのものと言うべきか。『 響 -HIBIKI-  』でも主人公の響が「自分は当事者に謝った。世間に何を謝れと言うのか」とマスコミに問うシーンがあったが、メディアは時に真実を捉え損なう。それどころか一方(メディア側)から見た事実だけを拡大再生産していく。そして、その波に普通の一般人たちもどんどんと乗っていく。単なるメディア批判ではなく、世間一般の危険な風潮に対して警鐘を鳴らしている点を大いに評価したい。

 

ネガティブ・サイド

真紀を金儲けの種にしか思っていないアホな甥っ子(従弟?)に天誅が下るシーンがないのはいかがなものか。天誅と言っても、大袈裟なものである必要はない、キャバクラで嬢に相手にされず、バーでも仲間から軽く無視される。そんな程度の描写で十分だったのだが。もしくは、エンドロールの最後で良いので、「盗撮はプライバシーの侵害です。盗撮した映像をネットで公開するのはやめましょう」みたいなdisclaimerが必要だったと思われる。

 

真紀の夫が役立たずもいいところである。『 滑走路 』の水川あさみの夫と同じく、妻に向き合わず、子どものことに関しても主体的に関与しようとしない。まるで自分を見るようだと自己嫌悪に陥る男性が、全国で200万人はいるのではないだろうか。最後の最期で歩み寄りを見せるのが真紀なのだが、なぜ夫の方ではないのか。この夫が最後の最後まで傍観者的な立ち位置から離れないのは納得しがたい。

 

総評

『 白ゆき姫殺人事件 』に並ぶ面白さである。ネットの誹謗中傷に耐えられず自死を選んだリアリティ・ショー出演者が残念ながら出て、大きな話題となった2020年の締めに本作が公開されたことの意義は大きい。我々は傍観者(observer)としても当事者(actor)としても、真実を追求することが求められるのではないか。向き合おうとする、知ろうとする、語ろうとする、そんな姿勢こそが必要なのではないか。エンタメとしても社会批判としても、今年の邦画としてはトップレベルの良作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

superficial

「薄っぺらい」の意味。物理的に厚みがないという意味ではなく、物語やキャラクター造形に深みを欠く、の意。現代日本の政治や芸能の世界には、superficialなコメントやsuperficialな謝罪が溢れている。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 大高洋子, 新津ちせ, 日本, 監督:天野千尋, 篠原ゆき子, 配給会社:ヒコーキ・フィルムズインターナショナルLeave a Comment on 『 ミセス・ノイズィ 』 -事実、必ずしも真実ならず-

『 滑走路 』 -過去と向き合い、現在から未来に飛び立つ-

Posted on 2020年12月13日 by cool-jupiter
『 滑走路 』 -過去と向き合い、現在から未来に飛び立つ-

滑走路 75点
2020年12月9日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:水川あさみ 浅香航大 寄川歌太
監督:大庭功睦

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201213005222j:plain
 

ずっと気になっていた作品。ようやく時間が取れたので劇場鑑賞。非正規やいじめの問題以上に、生きづらさを抱える全ての現代人に贈られた物語であると感じられた。

 

あらすじ

厚生労働省の若手官僚・鷹野(浅香航大)は、過酷な労働から不眠に悩まされていた。ある時、自分と同い年で自死を選んだ男性の背景を探ることになる。切り絵作家の翠(水川あさみ)は作家としてのキャリア、そして優柔不断な夫との関係について考え始めていく。中学2年生の学級委員長は、親友をいじめから救ったところ、自分がいじめの標的にされてしまう。三者三様の物語は、実は相互に関わっていて・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201213005247j:plain
 

ポジティブ・サイド

本作には大きな仕掛けがある。鑑賞してすぐに、こいつとこいつは同一人物の過去と現在の姿だなとピンと来たが、まさか3人の物語がそれぞれ3つの異なる時間軸で描かれているとは思わなかった。そんじょそこらのミステリ作品の真相よりも、こちらの方に驚かされた。これは脚本の勝利であろう(と我が目の不明を誤魔化しておく)。

 

キャラクターの描写も真に迫っている。霞が関の官僚の離職者数がわずか数年で激増したと報道されたのは記憶に新しい。いまだに大量の書類をプリントアウトし、ファイリングして仕事をしている様に、政府がこの国の頭脳および実務処理能力のトップレベルにある人間たちをいかに無駄遣いしているのか、慨嘆させられる。それでも健気に職務に励み、そして責任感および正義感ゆえに、自死を選んだ非正規雇用労働者の背景を探っていく。そうした官僚としての姿、および個人としての生き様を、浅香航大は実に印象的に描き出した。

 

水川あさみ演じる切り絵作家の姿にも現代社会の在りようが色濃く反映されている。DINKSという点でJovianは勝手に嫁さんを投影してこのキャラクターを見つめていたが、わが身につまされるような視線というか、夫婦関係の機微がいくつも見て取れた。もちろん、お互いを理解し合い、支え合う姿も描かれているが、ほんのわずかなすれ違いがどうしようもない歪みにつながっていく様は、この上なくリアルに感じた。特に、ある大きな決断を下した理由を夫に告げるシーンは、凡百のホラー以上の恐怖を世の男性諸氏に与えることだろう。『 喜劇 愛妻物語 』とは一味も二味も異なる妻を水川あさみは見事に体現した。

 

学級委員長のいじめ、シングルマザー家庭、同級生の女子との淡いロマンス、親友との関係の崩壊、そのすべてにリアリティがあった。いじめの何が辛いかというと、身体的・精神的に苦痛を負わされること以上に、苦しんでいる自分を自分で認めたくない、自分の親しい人に自分の苦しみを知ってほしくないと思うところだろう。耐えていれば何とかなる、自分には耐えられると思ってしまう。それが陥穽になる。Jovianはちょうど氷河期世代の真っただ中で、ちょうどリーマンショックの時期に最初の転職を決めた時に内定取り消しを食らったこともある、世の理不尽というものをそれなりに体験して感じるのは、「自分で自分を責めてはならない」ということである。同時に、自分で自分を責める者は、他人を責めることのない優しくて思いやりのある人間である。そのようにも感じるのである。

 

鷹野が追う若者の死の真相は明かされない。釈然としない思いもある一方で、それでいいではないかとも感じる。なぜ死を選んだのかではなく、なぜ自分には生きる理由があるのか。それをあらためて問い直すことになるからだ。

 

随所に、どこからともなく現れ、どこへともなく飛び去っていく飛行機が描かれる。生きるというのは、飛ぶことと似ているのかもしれない。知らない間に我々はこの世に産み落とされるわけだが、生まれたからには生まれた理由がある。飛んでいるからには、どこかに滑走路がある。あるいはどこかに着陸する。そんな風に物語を見つめていた。エンドロールの最後に歌人・萩原慎一郎の一節の詩が映し出される。そうか、自分は萩原の目線とは異なる目線で本作を見つめていたのかと感じた。けれど、それはそれでいい。自分は自分なりに生きている。素直にそのように思えた。これは異色の良作である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201213005312j:plain
 

ネガティブ・サイド

鷹野が自死した青年について調べ始める動機が弱い。自分と同い年であるという以外に、写真やプロフィールを見て、何か引っかかるものがある、あるいは胸騒ぎを覚えたというシーンが欲しかった。顔写真をPCで拡大して、その瞳を覗き込んで、思わずのけぞるという描写は、被写体の目にその写真を撮影した人物が映っていて、その撮影者に驚いたように見えてしまった。

 

エンディングの曲も悪くなかったが、Jovianの脳内では勝手に『 翼をください 』を再生していた。もし『 翼をください 』を主題歌にしていたら、『 風立ちぬ 』と『 ひこうき雲 』並みにハマっていただろうにと無責任に想像させてもらう。

 

そのエンディングで、「登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません」というテロップには苦笑させられた。鷹野が務める厚生労働省はフィクションではないだろう。

 

総評

現代的でありながら普遍的なメッセージを持っている。生きづらさを感じることは誰にでもあるはずだが、その正体をこれほど回りくどく描いた作品はなかなか思いつかない。特に歌集にインスピレーションを得たという点で、脚本家の桑村さや香の翻案力は素晴らしい。生きるとは、この瞬間まで生きてきた生を引き受けることだ。賢明なる諸兄に今さらアドバイスするまでもないが、妻やパートナーに「○○はどうしたいの?」と尋ねまくるのはやめようではないか。男は理解者であることが求められるが、中身が空っぽではダメなのだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

move on

「前に進む」の意。物理的に前に進むだけではなく、過去を乗り越えて未来へ進むときにもよく使われる表現。“What happened happened. We have to move on.”=「起こってしまったものはしょうがない」のように使う。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 寄川歌太, 日本, 水川あさみ, 浅香航大, 監督:大庭功睦, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 滑走路 』 -過去と向き合い、現在から未来に飛び立つ-

『 サイレント・トーキョー 』 -竜頭蛇尾のグダグダのサスペンス-

Posted on 2020年12月9日2020年12月13日 by cool-jupiter
『 サイレント・トーキョー 』 -竜頭蛇尾のグダグダのサスペンス-

サイレント・トーキョー 30点
2020年12月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐藤浩市 石田ゆり子 西島秀俊 中村倫也 広瀬アリス 井之脇海
監督:波多野貴文

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トレイラーを観る限りはなかなか面白そうだった。だが本作は地雷であった。『 ドクター・デスの遺産 BLACK FILE 』並みに無能な警察、そして筋の通らない論理で動くテロリスト。邦画サスペンスの珍品である。

 

あらすじ

12月24日、クリスマス・イブ。恵比寿ガーデンプレイスに爆弾が仕掛けられたという通報がテレビ局に入る。アルバイトの来栖(井之脇海)ら向かったところ、山口(石田ゆり子)という主婦が座るベンチに爆弾が仕掛けられていた。すぐに警察を呼ぶが、予告通りに爆発が起こり・・・

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ポジティブ・サイド

渋谷の駅前はなんと作り物のセットだと言う。これには驚いた。ちょっと頑張ればCGでごまかせそうだが、そこにフィジカルな実体を与えるところに波多野貴文監督のこだわりを感じた。

 

セットだけではなく、クリスマスの渋谷らしさもよく描けている。お上がいくら自粛を要請しても、出かける人間は出かけるのである(そう、映画館に向かってしまうJovianのように)。同じく、警察がいくら交通を規制しても、アホなYouTuberや騒ぎたいだけの若者は渋谷という街に集ってくる。そのことは例年のハロウィーンで我々は嫌というほど知っている。そうした群衆の描き方が真に迫っていた。

 

野戦病院と化した渋谷近くの病院も、まるでコロナ患者にひっ迫されている大阪の医療現場のようであると感じられた。不謹慎極まりないが、本当にそのように映った。行ってはいけないとされている場所に、自分のみならず友人を連れて行ってしまった。そこで友人がダメージを負ってしまった。コロナ禍の今という時代と映画の世界が不思議にシンクロして、そこに広瀬アリスの絶望的な表情と悲鳴がスパイスとして効いていた。

 

政治的な主張もあり、単なるエンターテインメント以上の作品を志向したことだけは評価したい。

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ネガティブ・サイド

以下、ネタバレに類する情報あり

 

これも『 ドクター・デスの遺産 BLACK FILE 』と同じで、開始5分で真犯人が見えてしまう。30キロの重さがかかっている間は爆発しない爆弾を、誰が、いつ、どこでベンチに取り付けたというのか。そして、あの爆弾の仕掛けられ方で、どのようにベンチの対する荷重を算出しているのか。そして、石田ゆり子その人が座っている時に地面にしっかりと両足をつけてやや前傾姿勢になっていたが、これだとベンチにかかる荷重は下手したら体重の半分くらいになるのでは?石田ゆり子の体重を勝手に55キロ、冬場なので服装で1キロ、手荷物も1キロと考えると57キロ。かなり雑な計算だが、それでもちょっと姿勢を変えただけでも爆発するのでは?という疑念を生むには充分だろう。もうこの時点でストーリーに入っていけなかった。

 

だいたい警察は何をやっているのか。恵比寿ガーデンプレイスの防犯カメラの記録映像を確認すれば、一発で済む話ではないか。犯人が要求する総理大臣との対話まで何時間あったのか。西島秀俊演じる刑事も無能の極み。最初のゴミ箱に仕掛けられた爆弾が真上だけに爆風が向くように行動に計算されていたのを知って、「犯人は誰も傷つけるつもりはなかった」って、アホかーーーーーーーー!!!その瞬間にごみを捨てる人がいたら、金属製のふたが顔面または前頭部に直撃して大怪我するやろ、下手したら死ぬやろ。そんな想像力すら持ち合わせず、なにを腕利き刑事ぶっているのか。この時点で捜査する側のキャラクターを応援する気が失せてしまった。

 

渋谷関連のシーンでもそう。井之脇海演じる来栖など、最重要指名手配になるだろう。パスポート写真や運転免許証写真の情報、それにYouTubeに動画をアップした経路など、あらゆるルートであっという間に身元と居場所(少なくとも動画撮影した部屋)は警察が突き止めるだろう。でなければおかしい。そして、全捜査員がこいつの顔を覚えた上で、出動しているはず。その中で渋谷駅前のビルの屋上に昇ったというのか?マスクや覆面などしていれば、絶対に警察官に呼び止められるはずだが。来栖というキャラの恵比寿から渋谷までの移動に現実味が全くない。製作者は警察をコケにしすぎやろ・・・

 

中村倫也のキャラも全く深掘りがされていないため、物語に何の深みもエッセンスも加えていない。アプリ制作で名を上げただの、叔父叔母と横浜で会うだの、母親と電話で話すだのといったシーンのいずれもが皮相的すぎる。50メートル離れていたから大丈夫って・・・ ハチ公からどちらの方向なのか。なぜ50メートルなのか。仮に50メートルが安全距離だとして、パニックになった群衆が走り出して、それに踏みつぶされてしまうといったことは想像できなかったのか。平和ボケを揶揄していたが、そういう自分も平和ボケした頭であることを露呈した非常に間抜けな瞬間だった。だいたい母親が結婚するから云々と語るぐらいなら、素直に警察に協力せよ。といっても、その警察も超絶無能集団ときては頭を抱えるしかないが・・・

 

最もうすっぺらく感じたのは「これは戦争だ」という戦争観。戦争というのは国家間でやるもの。テロリズムというのは国家ではない存在が対国家に暴力・武力を行使するもの。犯人のトラウマになった事象は、犯人側から見れば戦争の一側面だろう。しかし、もう片方の視点からすれば、それは紛れもないテロリズムである。このあたりを峻別することなく、身勝手なテロ行為に及んでも誰の賛同も得られない。もとよりテロに賛同するも何もないが、それでもテロリストが掲げる理想や大義の元にはせ参じる者が多く存在するのも事実。本作の犯人に共感する者はほとんど存在しないだろう。だいたい「あんな総理大臣を選んだ日本国民に復讐する」という時点で頭がおかしい。総理大臣を選ぶのは国民ではなく国会議員だ。狙うなら渋谷に集まった無辜で無知な民ではなく、それこそ国会議事堂や自民党本部などを狙うべきだった。

 

アホな警察にアホなテロリスト。そのテロリストにアホ扱いされる国民。製作者の描きたいものは分からないでもないが、波多野貴文その他のスタッフはもっと勉強をしなければならない。

 

総評

話の荒唐無稽さ、細部の描写の粗さを考えれば、似たようなテーマとキャストの『 空母いぶき 』よりもさらに下の作品。製作者たちの言わんとしていることは分からないでもないが、物語をプロット重視で進めるのか、キャラクター重視で進めるのか、その場合に求められるリアリティとは何なのかを、もう一度考え直してもらいたい。本作よりもゲームの『 428 〜封鎖された渋谷で〜 』の方が遥かthrillingかつunpredictableで面白い。政治に物申す爆破テロリストの物語ならガイ・フォークスにインスパイアされた『 Vフォー・ヴェンデッタ 』を観るべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This is war.

「これは戦争だ」の意。『 ジングル・オール・ザ・ウェイ 』でもシュワちゃんが発していた台詞。冠詞の説明ほど手間のかかるものはないので省略させてもらうが、warにaをつけるかつけないかを正しく判断できれば、英検1級レベルより上である(英検1級合格者でも間違えまくる人は数多くいる)。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, kな徳:波多野貴文, サスペンス, ミステリ, 中村倫也, 井之脇海, 佐藤浩市, 広瀬アリス, 日本, 石田ゆり子, 西島秀俊, 配給会社:東映『 サイレント・トーキョー 』 -竜頭蛇尾のグダグダのサスペンス- への2件のコメント

『 アンダードッグ 後編 』 -画竜点睛を欠く完結-

Posted on 2020年12月7日 by cool-jupiter

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201207014740j:plain

アンダードッグ 後編 70点
2020年12月5日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:森山未來 北村匠海 萩原みのり
監督:武正晴

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『 アンダードッグ 前編 』はかなりの出来栄えだった。森山未來と北村匠海の激突に否が応にも期待が高まった。そこに至るドラマは文句なしだったが、肝心のトレーニングのモンタージュと試合シーンが・・・ これぞまさに「画竜点睛を欠く」である。武正晴監督にはもう一度、ボクシングを勉強していただきたいものである。

 

あらすじ

芸人ボクサーの宮木とのエキシビションマッチを終えた末永(森山未來)は、ついにボクシングから足を洗い、家族との時間を取り戻す決断をするが、妻には離婚届を突きつけられる始末。勤め先のデリヘルも開店休業状態に。そんな中、デビュー以来破竹の快進撃を続けていた大村龍太(北村匠海)があるアクシデントに襲われ・・・

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ポジティブ・サイド

物語冒頭から暗い。ひたすらに暗い。まるで末永のキャリアや人生そのものに暗雲が立ち込めていることを映像全体が示唆しているようである。事実、彼にはボクシングを続ける理由も、家族を幸せにする甲斐性も見当たらない。まるで八方ふさがりである。あたかも『 哀しき獣 』のハ・ジョンウのごとく、もはや野垂れ死ぬしかない。そのような予感だけしかない。ドン詰まりに思えた物語が、一挙に動き出すきっかけとなる事件も、たしかに伏線はあった。北村演じる大村龍太に闇を感じると前編レビューで書いたが、その勘は正しかった。自分で自分を褒めてやりたい。

 

本作はボクシングドラマでありながら、上質な人間ドラマの面も備えている。デリヘルという社会の一隅のそのまた一隅で、決して日の光を浴びない仕事に従事する人間たちの関係は、実に細く、それでいて時に強く太い。どこまでも孤独に見える人間たちの、実はしたたかで豊かな連帯が胸を打つ。序盤に見られる凍てついた人間の心の闇の深さゆえに、その温もりは一層強く、また感動的だ。特に少々遅滞気味のデリヘル店長は、そのまっすぐさ、ひたむきさ、裏表のなさゆえに、社会的には許容できない行動に打って出るが、しかし人道的にはそれもありではないかと思わせてくれる。「けじめをつける」とはそういうことで、世間様が決めたルールに唯々諾々と従う一方で、己が己に課したルールを粛々と守るのがけじめのつけ方だろう。元ライバルで元世界王者に「お前、もうボクシングするんじゃねえ」と言われようと、ジムの会長に匙を投げられようと、己の生き様を全うしようとする。末永の生き方は社会的にも常識的にも受け入れがたいものであるが、一人の男として向き合った時に、まるで矢吹ジョーのごとく「まっ白な灰」になることを望んでいるかのように映る。そのことに魂を揺さぶられない者などいようか。

 

末永と大村の因縁も、まるで昭和の日本ボクシングの世界そのままで説得力がある。というか、漫画『 はじめの一歩 』の木村と青木が鷹村のボコられてボクシングを始めたのとそっくりではないか。実際に尼崎のボクシングジムでは1970~80年代は、街で暴れている不良の中から見どころのある者をジムに連れてきて、練習生にボコボコにさせていたという話もあったようだ。ケンカ自慢のアホな不良ほど、ボクシングでやられたらボクシングでやり返そうとして、練習に励みケンカをしなくなるというのだから、かつての日本には面白い時代があったのである。実際に本作にも登場する竹原などは、そうした時代を体が覚えているだろう。また、そうした社会のルールを守らないアホほど、ボクシング(別にスポーツでも何でもいい)によってルールを守るようになる。萩原みのりが語る大村の過去と、『 あしたのジョー 』で描かれる、力石とジョーの試合に熱くなった少年刑務所受刑者たちが、順番を守らずにリングに上がろうとする者を集団でボコボコにするエピソードには共通点がある。ルールを守らなかった奴らが、ルールを守らない奴らを叩きのめすところに更生が見て取れる。実際にリングに復帰すると決め、大村と対峙した瞬間から、末永は煙草も女も断っている。ヒューマンドラマとボクシングドラマが一転に交わる瞬間である。

 

トレーニングのモンタージュは『 ロッキー 』シリーズから続くボクシング映画の中心的文法で、末永が仕事の合間にサウナでシャドーボクシングをする姿は、砂時計という小道具の演出もあって、リアリスティックかつドラマチック。朝の街をロードワークに出かける様もロッキーそのままだ。ジムのミット打ちで左フックの軌道を念入りに確かめるところが玄人はだし。背骨を軸に腰を全く上下動させることなく、ナックルがしっかり返っていた。

 

大村との因縁の対決。決着。勝ち負けではなく、自分の生きる道を見定めるための戦い。最後にまっすぐと駆けていく末永の姿にパンチドランカーの症状は見られない。陽光を全身に浴びて一心不乱にまっすぐと走る男の姿は、「俺も頑張ろう」と背中を押されたような気持ちにしてくれる。

 

ネガティブ・サイド

『 百円の恋 』ではあまり気にならなかった、ボクシング界のあれやこれやの厳密なルールや不文律的なものが本作では忠実に描かれていなかった。これは減点せざるを得ない。まず、いくらデビューから連続1ラウンドKOを続けても、フェザー級で日本ランクにすら入らないだろう。というか、新人王戦へのエントリー資格を得た程度ぐらいだろう。そんな戦績で、怪我からの復帰後、2階級上のライト級で6回戦を飛び越して8回戦???ボクシング関係者やボクシングファン全員が漏れなく首をかしげることだろう。また末永の所属ジムの会長がインターバル時にタオルで末永をパタパタと扇いでいたが、これはアメリカやメキシコのリングならいざ知らず、日本では禁止事項。制作協力にJBCがあったが、審判やリングアナを紹介しただけなのか?ちゃんと仕事しろ。というよりは脚本家の足立紳の取材不足だろうか。『 百円の恋 』や『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』のような傑作をものすことができたのはフロックなのか。ボクシング界OBやプロボクシングのライセンス持ちの芸人なども出演していながら、この荒唐無稽な設定の数々は一体何なのか。

 

前編に引き続き北村のボクシングシーンがファンタジーだ。特に試合では猫パンチの連発で、まさか前編でデリヘル店長が発していた「ミッキー・ローク」という言葉がここで意味を持ってくるとは思わなかった。またセコンドの「足を使え」という指示に従ってサークリングを見せるが、これがまた下手すぎる。前編で北村のシャッフルの下手さを指摘していたのは多分、映画レビュワーの中でもJovianくらいだったが、後編でもそれは改善されていなかった。サークリングする時はリズミカルに飛び跳ねて一方向に回ってはダメ。すり足気味に、時に前足(オーソドックスなら左足、サウスポーなら右足)を軸にピボットを交えないと、高レベルのボクサー相手には間違いなく一発を入れられる。なぜかこのシーン、末永視点のPOVになっているが、大村陣営がサークリングを指示したのは末永の片目がふさがっているから。にもかかわらずカメラ・アイは北村の全身を映し続ける。視界の片側を消すなどの演出はできなかったのか。編集中に誰もこのことに気が付かなったのか・・・ そして、このシーン最大の問題はレフェリーの福地がさっぱり動かないこと。元々Jovianは福地のレフェリング能力は高くないと思っているが、そこは監督がもっと演出しないと。サークリングする大村を追って末永視点でリングを360度見渡すと同じところに福地が立ち続けている。これがどれだけ異常なことであるかはボクシングファンならばすぐにわかる。

 

試合の最終盤のスーパースローモーション映像も、あそこまで行くと滑稽だ。アマチュアボクシングならジャブであごがポーンと跳ね上がるとそれだけで負けを宣告されることもある。ボクサーはあごを引くことが本能になっていて、あんな光景はKO負け直前か、もしくはヘビー級ぐらいでしかお目にかかれない。

 

その他、銭湯で働く末永は絵になっていたが、仕事の合間に体重計に乗るシーンが欲しかったし、末永と大村の両者が計量に臨むシーンも欲しかった。撮影したが編集でカットしたのか。だとすれば、その選択は間違いであると言わせてもらう。また前編の殊勲者の勝地涼の出番が激減とは、これいかに・・・

 

人間ドラマ部分は満足できる仕上がりだが、総じてリアルなボクシングの部分がパッとしない。本当は65点だが、ボクシング映画ということで5点はオマケしておく。

 

総評

かなり辛口に批評させてもらったが、これは熱心なボクシングファン視点でのレビューだからである。普通のスポーツファンや映画ファンなら、そんな鵜の目鷹の目でボクシングを観る必要はない。『 ロッキー 』の物語文法そのままに、うだつの上がらない男でも何者かになることができる、ボクシングでそれを証明してみせる、という点を評価すれば本作は十分に良作である。前編を観たら後編を観よう。後編から観始めるなどということは絶対にしないように。2時間半の長丁場、体内の水分はできるだけ排出してから臨まれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

retire

一般的には「引退する」「退職する」で知られているが、実際には他動詞「引退させる」という意味でもよく使われる。特にボクシングの世界では。劇中で大村が末永に「俺ら、引導を渡し合うしかないっしょ?」と言うが、その私訳は“We must retire each other, mustn’t we?”だろうか。引導を渡すなどという慣用表現は、逆にスパッとその意味だけを抽出して訳すべきだろう。

 

雑感

もしも末永が何かの間違いで世界タイトルマッチを戦ったら、こういう試合もしくはこんな試合になるだろう。興味がある向きは鑑賞されたい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ボクシング, 北村匠海, 日本, 森山未來, 監督:武正晴, 萩原みのり, 配給会社:東映ビデオLeave a Comment on 『 アンダードッグ 後編 』 -画竜点睛を欠く完結-

『 記憶の技法 』 -ミステリ要素が弱い-

Posted on 2020年12月6日 by cool-jupiter
『 記憶の技法 』 -ミステリ要素が弱い-

記憶の技法 55点
2020年12月2日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:石井杏奈 栗原吾郎
監督:池田千尋

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タイトルだけでチケット購入。販促物を見ても「ドンデン返し」や「衝撃の展開」などという惹句は見当たらない。こういう作品にこそドンデン返しや衝撃の展開が潜んでいるはずと期待して劇場に向かったが、期待は裏切られた。プロモーションとはかくも難しい。

 

あらすじ

華蓮(石井杏奈)は幼少時の謎の記憶のビジョンを見ることがあった。修学旅行で韓国に行くことになった華蓮は戸籍謄本から自身に姉がいて、さらに自分は養子だったことを知る。自分の出自や記憶の謎を探るため、華蓮は修学旅行をキャンセルし、同級生の怜(栗原吾郎)の強力の元、福岡へ向かうが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201206131937j:plain
 

ポジティブ・サイド

なかなか現代風なテーマを孕んでいる。移民大国となった日本の学校には、いわゆるハーフ(今後はダブルやミックスという呼称が一般的になるだろう)の子ども達がたくさんいる。同時に『 朝が来る 』絵にがかれたような養子もますます市民権を得ていくことだろう。そうした子ども達が大きくなる過程で自身のアイデンティティを問うことになるのはとても自然なことだ。両親はひそひそ話しているのを偶然にも聞いてしまい・・・というテレビドラマ的展開ではなかったところは評価したい。

 

劇中では明示されないが、華蓮のお供をすることになる怜も、おそらく祖父母あたりがミックスで、自身にたまたま劣性遺伝の青い瞳が発現したのではないか。裕福な家の出であらながら cast out されていることが暗示されている。怜が華蓮の旅に同行することによって、観る側はある種の「連帯感」を与えられる。安易なロマンスの予感を漂わせないところも良い。

 

怜の機転の良さやさりげない配慮が随所にあり、頼りない華蓮を支えるという演出が随所に光る。福岡の郊外で断片的な記憶のその先を思い出すシーンは非常にリアルだった。Jovian自身もハネムーンで訪れたカナダのホテルが、10代の時に宿泊したホテルと同じだと気づいた瞬間の脳内の奇妙な時間の流れ方をよく覚えている。その時は、ホテルのロビーの動物のオブジェを見て思い出したのだが、まさにこのオブジェが劇中で言うところの「検索ワード」だったのだろう。

 

華蓮の記憶のビジョンに映る女の子、そして最初からその存在が明示されていたもう一人の人物の造形も巧みだ。ちょっと老け過ぎだろうとは思うが、その影のある生き方には大いに説得力がある。またも卑近な例になるが、Jovianの備前市時代の同級生も、父親が犯した犯罪のせいで残された家族は逃げるように岡山を去った。しかし、その息子は岡山に帰ってきているのである。記憶、過去、出自。自分にとってあやふやなものであっても、確実に存在するそのようなものに、我々は翻弄されて生きている。けれど、そうした曖昧模糊としたものが確固たる意味を持つ時、人は強くなれるし、希望を抱いて前に進んでいける。本作からはそうしたことを感じ取ることができた。

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ネガティブ・サイド

色々なキャラクターの一貫性がないと感じられた。主人公の華蓮も、新宿の夜の街に制服姿で行くことができる、というよりも未成年お断りのバーを何軒も渡り歩く度胸があるのなら、両親にじっくり話を聞いてみるべきではないのか。警察に補導されることを全く恐れていないのなら、もう一歩踏み込んで両親に尋ねてみるべきではなかったか。自分で役所に行けるなら、新宿駅のINFORMATIONなどに足を運べば、どこで新幹線のチケットが取れて、どこで高速バスのチケットが取れて、宿の手配はどこそこの旅行代理店が・・・と親切に教えてくれるだろう。というか、スマホを持っていないのか、それとも極度の箱入り娘なのか。華蓮の積極性と消極性のアンバランスさが物語のリアリティを損なっている。

 

東京―福岡―釜山の記憶を巡る旅・・・というのは羊頭狗肉であった。というか、釜山は記憶に関係ないやろ・・・。非常にローカルな事件と見せかけたその裏に国際的なスケールの犯罪が・・・と深読みした自分が愚かだったと思うことにしよう。

 

旅の中でもう一人の主人公であるべき怜の因果が掘り下げられなかったのも残念だった。自分の家族が自分の本当の家族ではないという華蓮に、同病相憐れむ形で協力することになるのだが、何か一言、その複雑な胸中を吐露するシーンがあってほしかった。「修学旅行よりも、こっちの方が面白そう」だけではなく「一人でいるより皆といる方が独りだ」みたいなセリフがあれば、華蓮の旅について行き、あれこれと助けてくれることの理由の説明としては十分だったはずだ。

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総評

非常に静かな立ち上がりそのままに、ラストまで静謐な雰囲気を維持したまま収束していく。けれども、登場人物の内面は大きく変化している。日本的かつ現代調のビルドゥングスロマンとしては及第点であろう。しかし、ミステリ部分の演出が貧弱で、謎解きの感覚は味わえない。華蓮と怜の真相探しの旅にもっとミステリ要素があれば、ドラマも盛りあがったのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

a 30% interest rate

「3割増し」の意味。厳密には「30%の金利」の意。利子付きで返済する=give back the money with an interestは、金融・信販関係の人間なら押さえておきたい表現。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ミステリ, 日本, 栗原吾郎, 監督:池田千尋, 石井杏奈, 配給会社:KAZUMOLeave a Comment on 『 記憶の技法 』 -ミステリ要素が弱い-

『 ミッドナイト・イン・パリ 』 -時よ流れよ、お前は美しい-

Posted on 2020年12月4日 by cool-jupiter

ミッドナイト・イン・パリ 70点
2020年12月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:オーウェン・ウィルソン レイチェル・マクアダムス マリオン・コティヤール レア・セドゥー
監督:ウッディ・アレン

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近所のTSUTAYAで秋の夜長フェア的にリコメンドされていた作品。今はもう秋ではなく冬だろうと思ったが、久しぶりにウッディ・アレンでも鑑賞して天高く馬肥ゆる秋の夜長の気分だけでも味わおうと思った次第である。

 

あらすじ

脚本家のギル(オーウェン・ウィルソン)は婚約者イネズ(レイチェル・マクアダムス)とその両親と共にパリに旅行に来ていた。深夜のパリで偶然に乗り込むことになったクルマは、なんとギルを1920年代のパリに連れて行き、多くの歴史上の作家や芸術家と交流することに。それ以来、ギルは夜な夜なパリの街に繰り出しては、不思議な時間旅行に出かけて・・・

 

ポジティブ・サイド

画面に映し出されるパリのあれやこれやが精彩を放っている。パリではなく巴里と表記してみたい。そんな風情にあふれている。パリに暮らしている人間の視点ではなく、パリに憧れる人間の視点である。『 プラダを着た悪魔 』でも描かれたが、アメリカ人もフランスに憧れ抱くのだ。

 

ギルが夜ごとに体験する1920年代の華やかなりしパリの街と歴史的な文化人との交流は、見ているだけでエキサイティングだ。その一方で、昼の現実世界で見て回る芸術作品は物の鑑賞になってしまっている。そして、ギルとイネズの共通の友人であるポールがクソつまらない蘊蓄を喋ること喋ること。どこかで見たような奴だなと思ったら、なんのことはない、自分である。現実のJovianも時々こうなっている。人の振り見て我が振り直せ。

 

昼間の現実と夜の過去世界。ヘミングウェイやサルバドール・ダリがカリカチュアライズされる一歩手前で生命を与えられているのがウッディ・アレンらしいところ。個人的にはT・S・エリオットの登場シーンに痺れた。幻想的な雰囲気の中、ギルがある人物に重要なヒントを与えたり、あるいは現実の世界の小説の描写に心臓が止まるほどの衝撃を受けたりと、徐々に虚実皮膜の間がぼやけてくる感覚にゾクゾクさせられる。同時に、現在ではなく過去に囚われることの愚かしさや恐ろしさも感じられ始める。といっても極度の不安や恐怖がもたらされるわけではない。今そこにある現実から逃避することは誰にでもあるが、その「誰にでもあること」を客観視した時、本当に大切なことが見えてくる。ゲーテは『 ファウスト 』をして「時よ止まれ、お前は美しい」と言わせたが、ウッディ・アレンは「時よ流れよ、お前は美しい」と言うのかもしれない。

 

秋の夜長にはちょうど良い作品。本質的には『 レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』と同じで、主人公はウッディ・アレン自身の欲望・願望の投影だろう。歴史に名を刻んだ文化人と交流し、魔性の女と恋に落ち、婚約者と別れて、しかし現地で偶然に出会った女性と恋の予感を漂わせる。これがアレンの願望でなければ何なのか。多くの男性はアレンと己を重ねることだろう。

 

ネガティブ・サイド

ヘミングウェイの言う「真実の愛は死を少しだけ遠ざける」という哲学の開陳には眉をひそめざるを得なかった。Jovianは東洋人であるからして仏教が説くところの愛別離苦の方がしっくりくる。愛しているからこそ永遠の別れ=死が怖くなる、って聖帝サウザーか・・・

 

フィアンセのイネズのキャラが少々うるさすぎた。もちろん、ウッディ・アレンその人が嫌いなタイプを具体化したキャラクターに仕上がっているわけだが、それが行き過ぎているように感じた。ラスト近くでギルと破局する前に、とんでもない逆ギレをしてくれるが、そこは最後に「こう言えば満足?」ぐらいの台詞を最後につけてほしかった。色々な経験を積んできたギルはこれに動じなかったが、普通の男ならば精神の平衡を保つことができないほどの痛撃を心に食らったはずである。

 

総評

巴里に行ってみたくなる映画である。パリではなく巴里。Jovianの嫁さんはその昔、ルーブル美術館の女性職員に「英語を喋るな、フランス語で喋れ」と言われたことを今も憤慨している。いつかヨーロッパを旅行できるようになったら、嫁さんのリベンジを果たすためにも、そして深夜の巴里をぶらつくためにも、フランスに行ってみたい。そして『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』のエドモン・ロスタンと幻想の世界で語らってみたいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

come out of left field

野球由来の慣用表現。外野の左翼からやって来る=突然に予期しないことがやって来る、の意。しばしば、

This might be coming out of left field, but …

こんなことを言うと唐突かもしれないけれど・・・

のような形で使う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アメリカ, オーウェン・ウィルソン, スペイン, マリオン・コティヤール, ラブコメディ, ラブロマンス, レア・セドゥー, レイチェル・マクアダムス, 監督:ウッディ・アレン, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 ミッドナイト・イン・パリ 』 -時よ流れよ、お前は美しい-

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