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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2020年代

『 初恋 』 -粗が目立つ意欲作にして珍作-

Posted on 2020年3月5日2020年9月26日 by cool-jupiter

初恋 50点
2020年3月1日 MOVIあまがさきにて鑑賞
出演:窪田正孝 大森南朋 染谷将太 小西桜子
監督:三池崇史

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『 ラプラスの魔女 』をはじめ、多くの奇作・珍作を作ってきた三池監督。本作もやはり、珍品であった。

 

あらすじ

新進気鋭のボクサー葛城レオ(窪田正孝)は、格下相手にラッキーパンチをもらいKO負け。病院行きとなってしまった。その病院で脳に腫瘍があり、余命幾ばくもないと告知されてしまう。自暴自棄になっていたところ、レオは夜の街で薬物依存症の娼婦モニカ(小西桜子)と巡り合う。それにより、レオはヤクザや刑事、中華マフィアをも巻き込んだ騒動の渦に否応なく巻き込まれていく・・・

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ポジティブ・サイド

窪田正孝は意外にボクシングの型ができている。試合のシーンでも左フックのダブルトリプルを見せたが、これは鬼塚勝也の得意技だった。ボクサーにフィーチャーした映画は色々あるが(『 あゝ荒野 』を早く鑑賞せねば・・・)、左オンリーのコンビネーションはかなり珍しいように思う。この一瞬のシーンを撮るためだけに、かなりの鍛錬を積んできたことが伺える。一瞬、角海老が映っていたように見えた。角海老と言えば坂本博之。坂本博之と言えばvs畑山隆則。レオが素手で格闘するシーンは、坂本vs畑山、あるいは吉野弘幸vs金山俊治のような“熱”が確かにあった。

 

染谷将太のヤクザ役はそれなりに堂に入っていた。チンピラ的な小物オーラから殺人を厭わない冷酷無比な暴力男の顔まで、硬軟自在に演じていた。予告編のパープリンな顔に騙されてはならない。『 君が君で君だ 』で向井理がヤクザ役を演じて新境地を拓いたように、また『 ザ・ファブル 』でも安田顕がヤクザを好演したように、少々伸び悩みやキャリアのプラトーにある役者がヤクザを演じるのは、良い転換になるのかもしれない。

 

中華マフィアの存在や暗躍にも説得力がある。『 ギャングース 』でも中華料理屋が中華マフィアの隠れ蓑になっていたが、これも日本の国力の衰えが顕著になっているひとつの証拠か。中国人が高倉健の“仁”に魅せられるというのも面白い。任侠は元々は古代中国に起源を持つとされているが、文化は辺境に残るものなのだ。ヤクザという非常に暗く狭い領域にも、高齢化以上にグローバル化の波が訪れている。外圧である。非常に屈折した形ではあるものの、これは三池監督流の日本へのエールであろう。そのことは終盤の「日本車を信じろ」という一言にも端的に表れている。

 

終盤のチャンバラも迫力十分。剣戟と言えば昭和の頃のVシネ任侠映画のクライマックスと相場が決まっていたが、北野武あたりから一方的な銃撃戦になってきた(それも非常に乾いた世界観にマッチしていて悪くなかったが)。やはりヤクザの喧嘩の華は昔も今もチャンバラなのである。

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ネガティブ・サイド

ベッキーの怪演が凄い!という評判が先に立っていたが、Don’t get your hopes up. 『 ディストラクション・ベイビーズ 』の小松菜奈の切れ具合と同程度では?あるいは本格的な役者ではないが、半狂乱を超えた全狂乱でヒール街道をひた走ったこともあるWWEのマクマホン家の娘、ステファニー・マクマホンの方がよほど迫力と凄みがあった。目を見開いてバイオレンスなアクトをすれば怪演・・・というわけではない。ギャップによる意外さはあっても演技として格別に優れていたとは感じられなかった。

 

ストーリーの上で、レオが天涯孤独であるということにいまひとつ必然性を感じられなかった。別に両親が離婚して施設に預けられたでも、小さなころに両親と死別したでも、なんでもよかった。生まれてすぐに捨てられた、だから親の顔も何も知らない。そのことがレオというキャラクターの性格にも天性のボクシングセンスを持っていることにも関連がない。つまりはキャラが立っておらず、薄いのである。冒頭でレオに取材に来る記者も笑わせる。人気のコラムのタイトルが「あしたのチャンピオン」とは、いかにも漫画『 あしたのジョー 』の「明日のために」をパロった、あるいはパクったものだろう。どうせパクるなら「熱病的観戦法」のような、一般人にはさっぱりでも古くからのボクシングファンならば思わずニヤリとしてしまうようなものにすれば良いのにと思う。作りが無難なのだ。

 

これは一種のファンタジー映画なのでリアリティ云々は興ざめであることは自覚している。それでも言わねばならない。

 

血は水では洗い落とせない!ボクサーであるレオがそれを知らないはずはない。いや、血ほど布から落ちにくいものはないというのは、鼻血でも何でもいいので、とにかく血を福に垂らしてしまった人ならば誰でも知っていることだろう。冷水シャワーを浴びて、肌はまだしも、衣服からもきれいに血の跡が消えてしまうのは不自然極まりない。

 

中華マフィアが使う刀剣が大刀(巷間言われる青龍刀)ではなく日本刀というのも疑問符である。確かに高倉健を憧憬する中国人女性は出てくるが、ポン刀を使う中国人はそこまで高倉健ファンではなかっただろう。せっかくの迫力あるチャンバラシーンなのだが、これが青龍刀と日本刀の戦いなら、もっともっと絵的に映えたように思えてならない。

 

最大の問題点は「日本車」である。日本車の性能云々ではなく、その描写である。本作は一種のファンタジーであるが、クライマックスで一挙に漫画、それもギャグマンガの域に到達する。三池監督でなければ「は?」となるが、三池監督なので「ま、ええか」となる。これは決してポジティブに評価しているわけではない。匙を投げているのである。

 

プロットもまんま『 ガルヴェストン 』である。死の宣告を受けた男が、娼婦を連れて逃避行に出る。そして行く先々でイザコザが起きる。ほら、『 ガルヴェストン 』でしょ。もうちょっとオリジナル要素を入れるべきだ。モニカが離脱症状(いわゆる禁断症状)で見てしまう幻覚にも、ギャグ要素は不要である。ホラーのテイストをそのまま保てばよかった。幻覚に怯えるモニカに目の前で渾身の右ストレートを一閃。そのあまりの鋭さに幻覚が霧散。生身の人間のパンチに宿る威力を思い出して、離脱症状に苦しむときにもそのパンチを思い出して、自身を奮い立たせる。モニカにそうした描写があればよかったが、ない。そして、『 ガルヴェストン 』のオチと同じオチが本作にも訪れる。って、ちょっとは捻らんかいな・・・

 

総合的に見て同じ東映でも『 孤狼の血 』にかなり劣る。一部にかなりのバイオレンス描写があるが、韓国映画の『 The Witch 魔女 』や『 ブラインド 』の暴力描写にも負けている。まあ、近年の三池クオリティの作品である。

 

総評

突出して面白いわけではないが、どこをとってもダメというわけでもない。とにかくオリジナリティがない。一部の役者の熱演に支えられてはいるが、かえってそのことが作品全体のトーンから一貫性を奪っている。ただし、映画を事細かにexamineしてやろうという目で見なければ、そこそこに楽しめる作品になっているのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Yakuza don’t belong in the sun.

「ヤクザに朝日は似合わねえ」というセリフの私訳。ヤクザはinternational languageでyakuzaとなり、これは単複同形である。受験英語ではしばしばbelongと来たらto、と教えるようだが、This belongs in a museum. (これは美術館に所蔵されるべきだ)だとか、あるいはテイラー・スウィフトの“You Belong With Me”のように、belongの後にto以外の言葉を自然につなげられるようになれば、英語の中級者である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, アクション, ラブロマンス, 大森南朋, 小西桜子, 日本, 染谷将太, 監督:三池崇史, 窪田正孝, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 初恋 』 -粗が目立つ意欲作にして珍作-

『 黒い司法 0%からの奇跡 』 -人間の良心に切々と訴える-

Posted on 2020年3月2日2020年9月26日 by cool-jupiter

黒い司法 0%からの奇跡 75点
2020年2月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン ジェイミー・フォックス ブリー・ラーソン
監督:デスティン・ダニエル・クレットン

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原題は“Just mercy”。これはdouble meaning=ダブル・ミーニングで、一つの意味は「ただ慈悲のみ」、もう一つの意味は「公正な慈悲」である。民法のドキュメンタリー番組か何かのタイトルのごとき邦題に頭痛がしてくる。黒人差別(正確には貧困差別)を撃つ作品のタイトルに「黒い」という形容詞を用いるセンスがよく分からない。普通に「慈悲と公正」とか「司法と正義」のような比較的シンプルなタイトルにできなかったのだろうか。

 

あらすじ

アラバマ州で林業を営むジョニー・D(ジェイミー・フォックス)は、突然警察に逮捕され、死刑囚にされてしまった。犯してもいない罪で、刑務所に入れられた彼のような人々の元に、ハーバード大学卒業の黒人弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)がやって来た。冤罪を晴らし、自由を得るための苦闘が始まるが・・・

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ポジティブ・サイド

これが30年前のアメリカの現実であり、そして21世紀も20年が過ぎようとしている今という時代にも現在進行形の物語である。そのことに驚かない自分に驚かされる。『 私はあなたのニグロではない 』から『 ブラック・クランズマン 』まで、黒人差別をテーマにした映画は、それこそ無数に作られてきた。本作は何が違うのか。それは、差別の構図に別の角度から光を当てたことである。

 

冤罪で収監され、有罪判決を受けた黒人。それを支援しようとする黒人弁護士。だが、ジョニー・Dはそのことに心を動かされない。彼にとっては最初、ブライアンは同胞でも味方でもない。北部からやってきたよそ者、大学卒のエリート。そうした自分とは異なる属性の人間だった。黒人差別や人種差別という言葉には、それ自体に差別の概念が埋め込まれている。なぜなら黒人は黒人を差別しない、アジア人はアジア人を差別しない、そうしたことを無邪気に前提しているかのように聞こえるからである。実際にはそうでない。ブライアンは最終盤で、差別の構造を鮮やかに解き明かして見せる。このシーンではJovianは思わず膝を打った。日本でも“上級国民”なるワードが人口に膾炙するようになって久しい。本当にそうした人種が存在するのかどうかはさておき、池袋高齢者ドライバー暴走事故は確かに我々に上級国民の存在を示唆する非常に象徴的な事件となった。上級国民の反対概念とは何か。それは下級国民である。では、下級とはどのようにして決まるのか。ブライアンは“それ”を正義の反対概念に置くことで、世界で急速に進む富の寡占、世界の分断を遠回しにだが強烈に撃ち抜く。ジョニー・Dの有罪の決め手となった証言をしたマイヤーズという男の肌の色、そして経済状態を見よ。彼こそが下級国民の象徴である。

 

同時に本作は差別からの解放を謳い上げるだけではなく、人間の尊厳についても非常に鋭く切り込んでいく。ベトナム戦争によりPTSDになり、殺人に至ってしまった男の死刑執行のシークエンスには恐怖と荘厳さが同時に存在する。なぜ死刑囚の死にこれほど心が揺さぶられるのか。それは我々が彼に同化するからである。共感するからである。ブライアンに心を開かなかったジョニー・Dが、なぜブライアンと共闘する気持ちになったのか。囚人たち(大部分は冤罪だが)が互いに固い絆を結び合っているのはどうしてなのか。それは孔子の言う仁である。巧言令色鮮し仁と言うが、ブライアンがジョニー・Dとの面談を重ねていく過程をよくよく見てほしい。人権派弁護士とは、理論家ではなく行動家なのだ。看護師の祖ナイチンゲールも「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」と喝破している。ブライアンは、『 クリード チャンプを継ぐ男 』、『 クリード 炎の宿敵 』のアドニス・クリード並みに戦っている。派手さはない。しかし、ブライアンもまたファイターであることは疑いようもない。

 

それにしてもアメリカでも日本でも、裁判官というのはむちゃくちゃだなと思わされる。『 裁判官! 当職そこが知りたかったのです。 -民事訴訟がはかどる本-  』は知り合いの弁護士先生方にすこぶる評判が悪いが、普通の人間であるならば感じるべきことを感じられない裁判官の存在に、恐ろしいまでの無力感や絶望感を味わわされてしまう。これは下手のホラー映画よりも遥かに怖い。ブライアンはそれをどう乗り越えたんか。それは良心である。従容として電気椅子に座る死刑囚にも、自らの正義を盲信する保安官にも、良心がある。それこそが人間を人間にしてくれるのではないだろうか。

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ネガティブ・サイド

ブライアンが受ける屈辱的な仕打ちや、命の危険すら感じる脅迫的な警察の対応が序盤でパタッと終わってしまうのは少々拍子抜けである。アラバマというディープ・サウスの土地柄を表しているのかもしれないが、実際には調査や接見のあらゆる局面で差別や妨害があったはずである。職務上のパートナーであるエバ(ブリー・ラーソン)も脅迫を受けるが、そうしたシーンやプロットにもう少し尺を割けなかっただろうか。再審請求までが、少しトントン拍子に進み過ぎているように感じられた。差別されるのは黒人という属性ではない。エバは白人であっても差別の対象になっている。マイヤーズもそうだ。序盤の展開があまりにも黒人差別にフォーカスしているせいで、終盤に差別の本質が明かされた時のインパクトがあまり強くなっていないように感じられた。

 

ブライアンを脱がせた刑務所職員の男の変節(?)というか変化も不自然に感じられた。彼が変わっていく契機は、死刑の執行ではなく、囚人たちの人間関係に感化されることであるべきだった。

 

総評

これは傑作である。このような戦う弁護士が存在し、着実にたくさんの人々を救ったということに畏敬の念を抱かずにはいられない。同時に、正義とは何であるのかについても強く考えさせられる。法の下での平等がただのお題目に過ぎないのか。法治国家と言いながらも人治国家になりつつある某島国に暮らす人々は本作を観よう。袴田事件に憤り、涙を流す人なら、本作は必見である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get away with murder

直訳すれば「殺人をもって逃げる」だが、実際は「めちゃくちゃなことをしてもお咎めなし」、「好き勝手し放題である」というような意味となる。ジョニー・Dは冤罪であり、真犯人は「文字通りの意味で殺人を犯しながらもお咎めなしで済んでいる(=literally get away with murder)」と劇中では使われている。読売新聞が米大統領の発言を「(日本や中国は)25年にわたって『殺人』を犯しておきながら許されている」と訳して物議をかもしたのは記憶に新しい。日本の貿易が犯罪的であるかどうかは別にして、某国の某総理大臣夫妻などはまさにこれ=get away with murderであろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, ジェイミー・フォックス, ヒューマンドラマ, ブリー・ラーソン, マイケル・B・ジョーダン, 伝記, 監督:デスティン・ダニエル・クレットン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 黒い司法 0%からの奇跡 』 -人間の良心に切々と訴える-

『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

Posted on 2020年3月1日2020年9月26日 by cool-jupiter

ロマンスドール 70点
2020年2月26日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:蒼井優 高橋一生
監督:タナダユキ

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劇場公開最終日の夜に駆け込んだ。平日の夜にもかかわらず、かなりの入り。席は7割がた埋まっていただろうか。意外というか予想通りというか夫婦やカップルが多かった。次に目立ったのは女性同士のペア、その次は女性のおひとり様。男性おひとり様は2名だったか。

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あらすじ

美大卒業後にフラフラしていた北村哲雄(高橋一生)はひょんなことからラブドール生産工場に就職する。新ドール作成の起爆剤として、本物の女性の胸を型に取ることになる。人工乳房作成のためと偽ってバイトを募集。そこにやって来た園子(蒼井優)にほれ込んでしまった哲雄は勢い余って即告白。やがて二人は結婚する。順風満帆に見えた結婚生活だが、哲雄は自分の本当の職業を園子になかなか告げられず・・・

 

ポジティブ・サイド

『 宮本から君へ 』でも感じたことだが、蒼井優にはオスの本能をくすぐる何かがある。本人はどうかは知りようもないが、演じている時の彼女からは常にそのような匂いが感じられる。それがフェロモンというものなのかもしれない。そうした匂いを無意識に分泌しつつも、屈託のない笑顔で社会貢献を語るギャップ。居酒屋での談義のシーンでは、その魅力のギャップに震えた。今、最も女盛りの女優だろう。

 

『 嘘を愛する女 』や『 九月の恋と出会うまで 』では、物語自体の弱さもあってか高橋一生がそれほど光らなかった。本作では対照的に男の人生のアップダウンを見事に好演。居間のテーブルに掛けて、夫婦で向き合い、真剣に話し合う様は、さながら日本版『 マリッジ・ストーリー 』である。定点カメラで撮影されたBGMも何もないシーンから、確かに圧を感じた。それは劇場内にいた他のカップルや夫婦も同じだっただろう。夫婦とは「なる」ものではなく、「あり続けようとする」ものなのだと、あらためて思い知らされた。

 

夫婦とは何か。哲学的な答えなら夫婦の数だけ出てくるだろうが、社会的に最も端的な定義(日本国内)はおそらくこれである。すなわち、「この人以外とはセックスしませんと公にできるパートナーを持つこと」である。だからこそ不貞が叩かれるのである。『 500ページの夢の束 』でも指摘したが、セックスは生殖行為以上に愛情表現である。とある老夫婦とペットのシークエンスは、それを迂遠に、しかし端的に表していた。ペットは我が子なのである。大多数のペットオーナーが飼い犬や飼い猫を指して「うちの子」と言うのはそういうことである。この老夫婦と哲雄と園子の夫婦のコントラストは非常に鮮やかだった。

 

仕事に打ち込み、仕事に逃避する哲雄像も良かった。職人というのは少々世間ずれしているものであるが、「仏作って魂入れず」とならないために、文字通りに一肌脱いだ園子に負けず、哲雄も一肌脱ぐ。このシーンから生じるパトスは男やもめの悲哀そのものである。不覚にもJovianも落涙しそうになった。タナダユキ監督は何という絵を作るのか。

 

ピエール瀧が本作では工場経営者として光っている。終盤で警察に逮捕されるシーンは、その絵のシュールさと現実とのリンク具合いに不覚にも笑ってしまった。実際にこういう艇的にしょっぴかれる仕事というのは存在する。こち亀で両津が部長に裏ビデオ屋の店長職を紹介していたのは一例である。風俗店の店長職などで求人があったら、こうしたポジションであるかもしれないと思った方が良いだろう。

 

閑話休題。蒼井優の脱ぎっぷりに期待してはいけない。やっぱり乳首は見せてくれない。けれど、それは大した問題ではない。色っぽい濡れ場が企図されているような作品ではない。セックスシーンは生きている証、愛情表現の手段の描写である。夫婦で観に行くべき作品と言えるだろう。

 

ネガティブ・サイド

妻・園子の抱える秘密があまりにも陳腐である。できの悪い韓国ドラマのようである。というか、冒頭のシーンは必要だっただろうか。これのせいで、ストーリーによい意味での緊張感が生まれなかった。冒頭1分はカットすべきだった。

 

きたろう以外の職人たちとの仕事描写や対話の描写があれば尚よかったのにと思う。本作においてはラブドールに求められているのは、性欲処理の手助けではなく愛情の注ぐ対象となることである。男はしばしばクルマを愛車と呼んだり、飛行機を愛機と呼んだりする。つまり、ドールは相棒なのだ。相棒に何を求めるのか、それは男によって違う。そうした男同士の哲学をほんのちょっとでもぶつけ合う描写があれば、哲雄が究極のドールの制作に没頭していく様にもっとリアリティを与えられただろう。

 

細かい点では無精ひげのタイミングも気になった。生活においてセルフネグレクト状態になった時、キッチンの惨状とは対照的に顔面はきれいだった。『 わたしは光をにぎっている 』のラストにおける光石研のような容貌や状態にはできなかったか。元々生えていた無精ひげが、仕事にのめりこみ過ぎてどんどんと伸びてきたという描写の方が説得力があったように思う。

 

総評

彫刻ガラテアを作ったピュグマリオンの逆バージョン、それが哲雄である。夫婦関係、特に閨房のそれをこのような形で描くことは非常に示唆的である。「俺なら・・・なのに」とか「俺のところとは・・・が違うな」と思いながら鑑賞しても良し、「なんだこりゃ?」と困惑しながらも観るのも良し。「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」と言われる。哲雄の生き方から何かを感じ取れれば、蛆がわくことはないに違いない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

To err is human.

正式には、“To err is human, to forgive divine.”である。「過つは人の性、許すは神の心」などと訳されることが多い。劇中できたろうが弟子たる哲雄に「間違うからな、人間ってのは」と語り掛けたセリフの私訳には、この格言を選びたい。Jovianがもしもこの格言を訳すのであれば、「失敗したっていいじゃないか、にんげんだもの」と相田みつを風に訳してみたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:タナダユキ, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 高橋一生Leave a Comment on 『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

『 ミッドサマー 』 -不協和音的ホラー映画-

Posted on 2020年2月27日2020年9月26日 by cool-jupiter

ミッドサマー 50点
2020年2月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:フローレンス・ピュー
監督:アリ・アスター

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予告編の日本語ナレーションが【 明るいところが怖くなる 】と煽ってきたので、「お、変化球のホラーが来たか」と思っていたら、『 ヘレディタリー/継承 』のアリ・アスター監督作だった。なんとなくだが、この人は波長の合う人はばっちり合うのだろうが、合わない人はとことん合わないように思う。Jovianはあんまり合わないかな・・・

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あらすじ

女子大生のダニー(フローレンス・ピュー)は、双極性障害の妹がる発作的に両親を殺害し、自身も自殺してしまったことから天涯孤独になってしまった。頼れるのはボーイフレンドのクリスチャンだけ。だが彼もダニーとの別れを考えていた。しかし、独りきりになってしまったダニーに別れを告げられない。そんな中、クリスチャンはダニーと距離を取るべく人類学の論文の調査のために、留学生の友人ペレの地元、スウェーデンの夏至祭に仲間と赴くことにする。だが結局はダニーも同行してしまう。その先には奇妙なコミューンが待ち受けているとも知らず・・・

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ポジティブ・サイド

何とも不穏な始まり方である。妹から奇妙な連絡が来たことを極度に不安がり、ボーイフレンドにヒステリックなまでに電話し続ける痛い女、ダニー。彼氏であるクリスチャンに粘着し、彼の「ごめん」の一言にも「謝ってほしいわけじゃない」と返す会話の無限ループ。さらには旅先にまで無理やりついて行くストーカー気質。映画文法に沿ったキャラではなく、極めてリアルなキャラなのである。つまり、ホラー映画もしくはラブコメに出てきそうなキャラではなく、実在するアッパーかつダウナー系の女子大生っぽさを醸し出している。主人公の女性が典型的映画キャラではないことが、今作にリアリティを与えている。

 

スウェーデン(実際はハンガリーらしいが)に作られた撮影用のコミューンも素晴らしい。このプロダクション・デザインは、ホラー映画としては異例の美しさである。陽の光が燦々と降り注ぐ自然に満ち溢れた村のかしこに見られる性的なアートやオブジェが、それゆえに際立って異様に映る。この神経にぞわぞわと来る感じがいい。明と暗のコントラストがあるが、この不快感に近い恐怖感はジョーダン・ピール監督の『 ゲット・アウト 』や『 アス 』に近いと感じた。こけおどしのジャンプ・スケアではなく、観る側が期待する恐怖感。それが本作にはある。

 

クライマックスのシュールさは近年稀に見るレベルである。詳しくは観てもらうしかないが、性的なオブジェに対して我々が抱くポジティブな感情・感覚とネガティブな感情・感覚がごちゃまぜにされる。その不快感たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。この混乱に近い感覚は、新時代のホラー映画のひとつの基軸になるかもしれない。理不尽な怪異ではなく、理解できそうで理解できない不条理。『 ヘレディタリー/継承 』とは異なるテイストのホラー映画である。

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ネガティブ・サイド

以下にJovianが本作鑑賞中および鑑賞後にパッと思い起こした作品をいくつか挙げる。

 

『 タイタス 』
『 グリーン・インフェルノ 』
『 ウィッカーマン(1973) 』
『 ウィッカーマン(2006) 』
『 レクイエム・フォー・ドリーム 』

 

他にも色々と先行作品はあるのだろうが、普通にこれだけ思い浮かぶ。つまり、ストーリーとしてはそれだけ陳腐である。本作の面白さの肝は、ストーリーの見せ方であって、ストーリー展開そのものではない。ここにもう一工夫、あるいはもう一捻りがあれば、もっと高い評価を与えることができたのだが。

 

ゴア描写も『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』の二番煎じだった。人体破壊を売りする安易なホラーと本作は一線を画すものだが、ここでもやはりオリジナリティの欠如が惜しまれる。

 

いくつか不可解に思えることもある。なぜ夏至祭は90年に一度なのか。人生を18年ごとに四季のように区切るのならば、72年に一度ではないのか?

 

夜中(といっても白夜なのだが)にしきりに聞こえる赤ん坊の泣き声が不快感をいやでも増幅してくるが、いったい何歳なのか。普通に考えれば夏至祭は4~5年に一回はやっているだろう。人類学・民俗学的に90年に一度のお祭りというのは考えづらい。『 凛 りん 』の“100年に一度”と同じで、信ぴょう性はゼロである。人類学の学徒であるクリスチャンやその友人が、このように思い至らないことが、宗教学専攻だったJovianにとっては全く腑に落ちない。

 

最も不満なのはドラッグの使い方である。『 レクイエム・フォー・ドリーム 』や、あるいは邦画では『 クリーピー 偽りの隣人 』など、ドラッグでトリップしたのでゴニョゴニョというのは個人的には受け入れがたい。これもまた二番煎じであるが、『 ジョーカー 』のように、抗うつ薬の効き目が弱くなった時のダニーが本当のダニーの姿である、というような描写をもっとクリアな形で序盤に入れておくべきだった。

 

また、ダニーの妹の死および両親との心中が双極性障害だったからというのにも説得力がない。というか配慮がない。躁状態であれ鬱状態であれ、それをはっきりと言明してしまうと、現実世界で双極性障害や鬱病、躁病に苦しむ人々があらぬ疑いをかけられてしまう。だからこそ、例えば『 四月は君の嘘 』や『 3D彼女 リアルガール 』では、病名が明かされないのである。

 

最も盛り下がったのは、とある動物が描写された瞬間である。上で挙げた作品の一つには、とんでもないギャグシーン(としか思えない)を含む作品があるが、まさかそれをここでも繰り返すとはゆめにも思わなかった。何度でもいうが、オリジナリティが欲しいのである。

 

総評

嫌ミス的なテイストの作品を好む向きにはぜひおすすめしたい。『 ヘレディタリー/継承 』と波長が合わないと感じた人も、本作は一度試しに見てみるのも一興である。ただし、カップルで鑑賞する際はタイミングに注意を要する。コミューンの住人との虚々実々のミステリに興味がある向きは、奥泉光の小説『 葦と百合 』を読もう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Problem solved.

「問題が解決された」の意である。冠詞やbe動詞は不要である。これはこういう決まり文句なのである。会議でトラブルの解決法が示され、実際にそれで解決の見通しが立った、あるいは解決された時に“Problem solved”とつぶやこう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, D Rank, アメリカ, フローレンス・ピュー, ホラー, 監督:アリ・アスター, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ミッドサマー 』 -不協和音的ホラー映画-

『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

Posted on 2020年2月24日 by cool-jupiter

恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 55点
2020年2月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:田辺誠一 大塚寧々

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『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』に続く、劇場版第二弾。恐竜ネタはタイムリーではあるが、作りにいくつかの欠点が見られた。

 

あらすじ

時は白亜紀。海から陸に進出した生命が恐竜に進化した時代。恐竜に関する現代の知識が更新されている中、最新の知見をCGと実写の融合で描き出す。

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ポジティブ・サイド

CG技術の進歩は留まることを知らない。もちろん、『 ライオンキング 』や『 ジュラシック・ワールド 炎の王国 』 のようなクオリティに達しているわけではない。だが『 ジュラシック・パーク 』のCGと本作の恐竜CGの水準は同程度であると感じた。だが、CGについた予算は同じ通貨ならば、おそらく本作の方がゼロ二つは少ないだろうと推定される。(現時点で科学的に得られている)恐竜の実像をリアルに感じさせるCGを映画館の大画面で見られるのは、子どもならずともスペクタクルに感じられる。

 

ティラノサウルスやモササウルスなど、『 ジュラシック・ワールド 』でお馴染みになった面々にフォーカスするのもタイムリーだ。通常のテレビ版『 ダーウィンが来た! 』でも自然界の弱肉強食は強調されているが、太古の恐竜世界はスケールが違う。観ているうちに恐竜たちのサイズとダイナミズムに飲み込まれ、後半に登場するトロオドンが「体長わずか2メートル」などと紹介されることに違和感を抱かなくなる。実際に体長2メートルの野生動物を目の前にしたら、現代人ならまずびっくりすることだろう。本作は観る者をごく自然に恐竜世界に誘ってくれる。

 

前作『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』と同じく、恐竜をキャラクター化するのも観る者の感情移入を誘いやすい。本作にはティラノサウルスのマックス、デイノケイルスのニコ、トロオドンのホワイト、モササウルスのジーナが登場する。それぞれに特徴を生かして過酷な恐竜時代を survive していく様には科学的な知見が盛り込まれており、実に興味深い。劇場の観客の8割以上は親子もしくはジジババとその孫であったように見受けられた。終了後、子ども達はかなり満足した表情に見えたし、Jovianもいくつかの点を除けばそれなりに満足できる出来だった。

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ネガティブ・サイド

これは相性の問題でもあるのだろうが、ナレーションが良くない。もっと言えば下手である。残念ながら田辺誠一も大塚寧々もどちらも練習が足りない。もしくは残念ながら本読みのセンスがない。句点で区切る場所を間違っているのではないかと思われるほど、田辺も大塚も読み方が拙い。同じNHKの番組でも『 コズミック フロント☆NEXT 』の萩原聖人や『 地球ドラマチック 』の渡辺徹とは雲泥の差である。NHKはもっと真剣に“語り手”を探すべきだった。

 

いや、前作でもそうだったが、こうしたテレビ番組制作時の映像をつなぎ合わせて映画にしてしまう時も、やはり監督を置くべきだ。映像や音響、音声、ストーリーの進行やカメラのアングル、その他の諸々の細部に至るまで、一貫性を持ったものとして作品を仕上げるディレクターが必要である。例えば、本作のメインの視聴者はおそらく年長~中学三年生ぐらいまでだろう。であるならば、デモグラフィックを小3~小4に設定しなければならない。にもかかわらず「抱卵」、「雑食性」、「獰猛」、「窒息」、「ハンター」などといった言葉を使うのは何故なのか。通常のテレビ番組であれば、子どもはその場で親などに尋ねるか、スマホやPCで調べられる。だが、これは真っ暗で静かな映画館で上映される作品なのだ。実際にJovianの左隣に座っていた男の子は、しきりに母親に「今の何?」と尋ねていた。別にその程度の声は気にしない。6歳ぐらいの子どものやることである。残念なのは、作り手側にこのような想像力が欠けていたことである。

 

恐竜に関する知見をアップデートするということであれば、ビジュアルとナレーションでもう少しできたはずだったとも思う。例えば劇中で「恐竜」と「海竜」を峻別するシーンがあったが、それをやるなら翼竜や首長竜、魚竜にも触れるべきだろう。また、ティラノサウスるの社会性やトロオドンの知能の高さについても、化石から割り出した脳の容積や形、そこから計算・推定される知能の種類、その高低については、小学校高学年ぐらいにビジュアルで理解させられるような工夫ができたはずである。デモグラフィックの想定を、ここでももっと正しくできたはずである。

 

総評

不満な点もあるが、恐竜というロマンあふれる太古の生物は我々を魅了してやまない。恐るべき存在で神秘的な存在。かつてこの地球の陸海空を支配した生物の実像が、科学の進歩の学問の分野横断的な融合によってどんどんと明らかにされつつある。映画は芸術媒体であるが、教育媒体になってもいい。NHKは2年に一度ぐらいは『 コズミック フロント☆NEXT 』や『 地球ドラマチック 』の劇場版を作るべきである。子どもから大人までを楽しませ教育できる映画を作る。できるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

don

恐竜の名前の語尾によくある~~~ドンのドンである。元は古代ギリシャ語のodon、古代ラテン語のdenから来ている。意味は「歯」である。デンタル・クリニックと言えば、歯の診療所である。未知の生物の名前を見たり聞いたりしたときは、まず語尾に注目してみよう。ドンとあれば、歯に特徴があると考えればよい。その好個の一例は『 MEG ザ・モンスター 』の“メガロドン”である。語彙力増強のためには形態素の知識をある程度持つこと、そして語の意味をイメージで頭に刻むことである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ドキュメンタリー, 大塚寧々, 日本, 田辺誠一, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

Posted on 2020年2月24日2020年9月27日 by cool-jupiter
『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

スキャンダル 70点
2020年2月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ニコール・キッドマン シャーリーズ・セロン マーゴット・ロビー ジョン・リズゴー
監督:ジェイ・ローチ

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日本でも2000年あたりから、焼肉屋や居酒屋から女性の水着グラビアつきのカレンダーが消えていったと記憶している。あれはビール会社から店へのプレゼントだった。女性をセックス・オブジェクトとして見る傾向は徐々になくなってきてはいるが、今でも外国人(西洋人だろうが東洋人だろうが)は、日本のコンビニに並ぶ漫画雑誌や週刊誌の表紙が一様にグラビアになっていることに衝撃を受けるようだ。何がセクハラかは定義しづらい。しかし、曖昧であればいいわけではない。本作は日本の中年おやじにはどう映るのだろうか。

 

あらすじ

TVネットワークの巨人、FOXニュースの元キャスターのグレッチェン・カールソン(ニコール・キッドマン)はCEOのロジャー・エイルズ(ジョン・リズゴー)をセクハラで提訴した。カールソンはその他の被害女性たちが立ち上がるのを待つ。主要キャスターのメーガン・ケリー(シャーリーズ・セロン)は女性を蔑視するD・トランプ大統領候補との論戦の中、自身とロジャーの関係を思い起こしていた。そして野心を秘めたケイラ・ボスビシルはロジャーと面会するチャンスを得るが・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭でシャーリーズ・セロン演じるメーガン・ケリーが第四の壁を突き破って、FOXニュースとはどんな組織であるのかを懇切丁寧に説明してくれる。つまりは究極のトップダウンな組織なわけである。権力者が長く居座るとろくなことがない。星野仙一が中日ドラゴンズの監督を辞した時に、そうした旨のことを言っていた。ここに抑圧された個の存在を容易に嗅ぎ取ることができる。

 

アナウンサーは、ニュースを正確に読み、ニュースに適宜にコメントをつけ、あるいは専門家から適宜にコメントを引き出す。その仕事に性別は本来は関係ない。それでも日本でも女子アナ相手にこんな質問が飛ぶ土壌が今でもあるのだ。女子アナという言葉はあるが、男子アナあるいは男性アナとは普通は言わない。つまりはそういうことである。

 

脚本家が『 マネー・ショート 華麗なる大逆転 』のチャールズ・ランドルフなので、ストーリーの進行の仕方がよく似ている。つまり、説明的なセリフもナレーションもなく、淡々と進んでいく。観る側はいきなりテレビ局の真ん中に放り込まれた気分になる。そこは完全なる別世界だ。異なる論理の支配する世界。組織の構造を知ったら、あとはキャラクターを追う。そうしないとストーリーについていけない。非常に上質な、大人向けの作りと言える。

 

本作ではロジャー・エイルズを単純なセクハラ大魔王として描いていないところが興味深い。彼の妻は彼をとことん信じているし、FOX内部にはチーム・ロジャーの一員であることを自認する女性も数多く存在する。彼女らに名誉男性というレッテルを貼ることはたやすい。だが、それは安直に過ぎる。『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』でジョーダン・ベルフォートから多額の金を前借した女性社員は、涙を流して彼に感謝していた。極悪人であっても人を重用することはできるし、人に好かれること、リスペクトされることもある。いや、むしろ巨大な帝国を築いた人間なのだからカリスマ性があって当然なのだとも考えられる。「英雄色を好む」と古今東西で言われるが、我々は人間をあまりにも性別や貧富などの属性で見ることに慣れすぎて、人間そのものを見なくなってしまっているのではないか。ロジャー・エイルズの没落は痛快である一方で、苦い味も残す。そのバランス感覚が良い。彼を全面的な悪に描くのではなく、その背後にトランプ現大統領のような人間がいることを描くことで、権力を持った男の危険性や組織論への新たな見方も提供しているからだ。

 

ニコール・キッドマンの不退転の決意を示す表情、弱気になりながらも子供たちの前では気丈に声を振り絞る様、そしてケリー・メーガンの同調に目を丸くする様は堂に入っている。セクハラの告発はやはり勇気がいるのだ。復讐に燃える女ではなく、個の強さを信じる個人を演じるからこそ、これほどの強さを感じさせてくれるのだろう。次に素晴らしいと感じたのは、ケイト・マッキノン。完全なる男社会におけるゲイなのだが、こういった存在に光を当てられる監督ジェイ・ローチや脚本家チャールズ・ランドルフの感覚は素晴らしいと思う。単純な男女の物語に二分化されてもおかしくないストーリーが、彼女の存在によって強者とマイノリティの対立の構図になっているからである。

 

後味は苦い。まるで『 ブラック・クランズマン 』のエンディングのようである。伊藤詩織さんが元TBS記者の山口敬之相手の裁判で実質勝利を収めたのが昨年の2019年。本作が描くストーリーはトランプ政権誕生前夜の2016年。これは記録映画ではない。現在進行形の物語である。

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ネガティブ・サイド

ストーリーのその後がもっと知りたかった。カールソンらが多額の示談金を得たこと、そしてロジャーらがさらに高額の退職金を得たことが字幕で示されたが、その後についてもう一言二言触れてほしかった。例えば、#MeToo運動との関連だとか、他局や他の会社、他国にもこうした運動が広まったということなど。

 

主役がカールソンなのかケリーなのかが少々分かりにくい。歴史的(と言うほど昔ではないが)にはカールソンなのだろうが、物語的にはケリーなのだろう。であれば、ケリーの存在感をさらに際立たせるためにD・トランプ候補との舌戦などにもう少し尺を割くべきだったと思う。例えば、トランプのツイッター連投をしっかり時系列順に画面に表示し、いかに彼の投稿が支離滅裂であるかを示すこともできたはず。

 

あとは視聴者側からの視点がほんの数か所で良いので挿入されていれば、もう少しわかりやすくなったはずである。ほとんどすべてがFOXの局内で完結してしまうストーリーであるため、市井の人の反応が分からない。テレビのニュースというのは報じる側と視聴する側の両方が存在してこそ成立するのだから、ニュースの受け手が「ロジャー・エイルズ提訴される」の報にどのように反応したのか、そうした声をもう少しつぶさに拾う必要があったのではないか。

 

総評

これは決して対岸の火事ではない。いや、火事という言い方をしてしまうこと自体が当事者意識の欠如になるかもしれない。狭義のセクハラとは性的な関係の強要なのだろうが、広義に解釈すれば性的な機能を人間性よりも上位に置く関係の構築という、人間性の否定となる。セクハラとはスケベな言動ではなく、無礼・失礼な言動であるということを、Jovianをはじめアホな中年男性はまず思い知る必要がある。セクハラはすまいと心に決めた男性はぜひ本作を鑑賞しよう。「俺はセクハラなんかしたことないよ」と無自覚に胸を張れる男性は、本作を観ても無意味であろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

A fish rots from the head.

「魚は頭から腐る」の意。日本語なら「鯛は頭から腐る」だが、元はロシアのことわざであるようだ。魚を鯛に置き換えたのが日本らしい。上等な魚に言い換えることで、上等な組織ほど、トップから腐敗していくことを端的に表している。某議員が某総理にあてた言葉がまさにこれである。偶然だろうが非常に良いタイミングで英語の同じ意味のことわざが本作で使われている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, カナダ, シャーリーズ・セロン, ジョン・リズゴー, ニコール・キッドマン, ヒューマンドラマ, マーゴット・ロビー, 伝記, 監督:ジェイ・ローチ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

『 1917 命をかけた伝令 』 -アカデミー賞級の傑作-

Posted on 2020年2月23日2020年9月27日 by cool-jupiter

1917 命をかけた伝令 80点
2020年2月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ジョージ・マッケイ ディーン=チャールズ・チャップマン
監督:サム・メンデス

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アカデミー賞レースでは惜しくも『 パラサイト 半地下の家族 』に敗れたが、芸術性や社会性ではなく娯楽性で言えば、こちらの勝ちであると感じた。全編ワンカットは『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』や『 ある優しき殺人者の記録 』、『 ウトヤ島、7月22日 』(近く観たい)が、一部ワンカットは『 カメラを止めるな! 』などが行っている。だが、本作はワンカットにロジャー・ディーキンスとトーマス・ニューマンまで加えてきたのである。

 

あらすじ

時は1917年4月。イギリスのブレイク上等兵(ディーン=チャールズ・チャップマン)とスコフィールド上等兵(ジョージ・マッケイ)は、エリンモア将軍より伝令となるよう指令を受ける。二人は戦地を潜り抜け、伝令を伝え、1600人の将兵の命を救えるのか・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは劇場で映画を観る時は、ほとんど毎回何らかの飲み物を買ってから行く。しっかりトイレを済ませておけば、少しはのども乾く。そうでなくとも唇やのどを単に少しだけ潤したいと思える瞬間もある。だいたい2時間の映画を観れば、500mlの飲み物の7~8割がたは飲み干している。だが、本作に関しては一口も飲むことなく映画が終わってしまった。エンディングクレジットが終わり、劇場が明るくなって、初めて一口目を飲んだ。それほど引き込まれていた。

 

本作の良さは、ワンカット編集にあるのではない。実際には、スクリーンが暗転するシーンが2回ほどある。ワンカットなのか、ワンカットでないのかはall but minor detailsである。素晴らしいのは、観る者に息をもつかせぬ工夫の数々である。ブレイクがマッケイを選び、将軍から伝令を届けるように言われ、すぐに出発することになるまでが、体感で5分程度。戦争映画にありがちな同僚の兵士とのいざこざや馬鹿話などは一切なし。塹壕の中、無数の兵士とすれ違い、あるいはかきわけながらも進むブレイクとスコフィールドを、トーマス・ニューマンの音楽が包み込む。この時に感じられる緊張感は、『 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』におけるチャーチルの執務室および会議室のBGMから生み出される緊張感と同質のものだった。本作では、心を癒してくれるような音は最後の最後近くになるまで聞こえてこない。極端な話、サントラだけを聞いても映像が目に浮かんでくるほど、音と映像がマッチしていた。『 シン・ゴジラ 』における“Persecution of the masses (1172)”や“Black Angels (Fob_10_1211)”を思い浮かべて頂ければ、この感覚が伝わるものと思う。

 

また数々のカメラアングルとズームイン、ズームアウトのタイミングの精妙さにも驚かされる。名手ロジャー・ディーキンスであるのだから当然だとも言えるが、いくつかのシーンでは純粋に撮影方法が見当もつかないものがあった。特にブレイクとスコフィールドが有刺鉄線網を抜けるところ、泥地を踏破するところは必見である。個人的に最も称賛をしたいのは、ブレイクとスコフィールドがドイツ軍撤退後の塹壕に潜入するシーンである。ここでの光と影の使い方には文字通りに息をのんだ。光と影だけでこれほどのサスペンスを生み出した映画は、近年では『 ブレードランナー2049 』ぐらいだろうか。奇しくもそちらもロジャー・ディーキンスである。

 

ブレイクとスコフィールドの顔にも注目してほしい。特にブレイクの見る見るうちに血の気が引いていく顔、そして序盤ではヘタレにすら見えたスコフィールドが最終盤では戦士の顔に変化しているところにぜひ気付いてほしい。コリン・ファースやマーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチらを惜しむことなくチョイ役に留めたことが大成功している。とにかく歩き、走り、戦い、逃げて、叫ぶ。非常に原始的であるが、だからこそ人間の本能に訴えてくるようなパワーのある作品である。第一次世界大戦の英国軍にも簗田政綱のような人物がいたのである。こうした集団に埋没した個を掘り起こすことができるのが、その国の強みなのだろう。

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ネガティブ・サイド

スコフィールドとスナイパーの撃ち合いは、緊迫感はあったものの、リアリティはなかった。鐘楼の上のスナイパーとの撃ち合いは『 ワンダーウーマン 』でも見た(撃ち合ってはいなかったが・・・)し、現実的に考えてupper groundは先に標的を見つけた鐘楼のドイツ軍スナイパーにあるはずだし、そもそもあれほど連発で的を外すスナイパーなどいないだろう。

 

またデヴォンジャー連隊の下士官や将校の連中があまりにも石頭なのは史実だったのだろうか。将軍からの伝令だと言っても、まともに取り合おうとしないのは説得力がなかった。これも史実だと言われてしまえばそれまでなのだが・・・ 確かに「将在外,君命有所不受」と『 孫子の兵法 』にあるが、第一次大戦の頃にもそんな現場の将校がいたのだろうか。それでは戦争に勝てないように感じるが・・・ 史実を脚色するのは良いが、あまりにもドラマチックにしてしまうのには個人的には反対である。

 

総評

『 ハクソー・リッジ 』や『 ダンケルク 』に匹敵する傑作である。20世紀までの戦争映画は、超人的な個人あるいは少人数のチームが絶望的な戦局をひっくり返すものが主流だったが、21世紀の戦争映画は普通の個人が全力で自分のミッションを遂行しようとする姿を描くのが主流になっているように感じる。ワンカット編集や撮影技術、音楽以上に注目すべきは、戦争そして人間の切り取り方が極めて現代的であるという点であるように思う。本作は傑作である。必見である。

 

Jovian先生のワンポイント仏語会話レッスン

Je ne sais pas.

英語にすれば I don’t know. である。「知らない」の意である。フランスに旅行に行くのであれば、Je ne sais pasにプラス、Oui, Non, S’il vous plaitの3つと、Bon jour, Bon soir, Bonne nuitのあいさつ、それにAu revoirを知っておけば、後は気合と笑顔でなんとかなるだろう。フランスに行ったことがないJovianだが、それは保証する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, A Rank, アクション, アメリカ, イギリス, ジョージ・マッケイ, ディーン=チャールズ・チャップマン, 伝記, 歴史, 監督:サム・メンデス, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 1917 命をかけた伝令 』 -アカデミー賞級の傑作-

『 37セカンズ 』 -鮮やかなビルドゥングスロマン-

Posted on 2020年2月11日 by cool-jupiter

37セカンズ 80点
2020年2月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佳山明 神野三鈴 大東駿介 渡辺真起子 板谷由夏
監督:HIKARI

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日本に格差が根付いて久しい。その一方で、コンビニの店員さんがノン・ジャパニーズでいっぱいになったり、あるいはあちこちの中規模駅にエレベーターが設置され、車イスの乗客を見ることが日常的になったりと、日本社会は確実に包括的な方向にも向かっている。そうした中、障がい者に焦点を当てた映画に、また一つ傑作が生まれた。

 

あらすじ

23歳の貴田ユマ(佳山明)は脳性まひのため、手足の運動が思うようにならない。しかし、絵を描く才能に恵まれていたユマは、売れっ子漫画家のアシスタント(実際はゴーストライター)をして生計を立てていた。そんなユマを母(神野三鈴)は過保護に育てていた。自立を求めるユマはアダルト誌に原稿を持ち込むが「性体験がないとリアルな作品は描けない」と言われてしまう。夜の歓楽街、風俗街に入り込んだユマは、そこで舞(渡辺真起子)や俊哉(大東駿介)らと知り合い、新しい世界を知るようになる・・・

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ポジティブ・サイド

車イス、あるいは重度の障がい者が主人公や主要キャストの映画となると、

『 ドント・ウォーリー 』
『 パーフェクトワールド 君といる奇跡 』
『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』
『 ブレス しあわせの呼吸 』
『 最強のふたり 』
『 パーフェクト・レボリューション 』
『 博士と彼女のセオリー 』 

などがパッと思い浮かぶ(一部、クソ作品が混じっているが思いついた順に列挙しているだけなので気にしないでほしい)。それぞれにテーマがあり味わい深い作品であるが、この『 37セカンズ 』が特に優れている点は二つある。一つには、主演を務めた佳山明の演技と、それを引き出した監督の力量。もう一つには、障がい者ということそのものをテーマの主軸にしていないことである。

 

演技のバックグラウンドのない主役を、経験豊富な役者たちがカバーすることで生まれる一体感というのは確かにある。毎回ではないが、時々素晴らしいケミストリーを起こす。最近では『 町田くんの世界 』の主役二人にそれを感じたし、『 風の電話 』からも感じ取れた。それでは本作の主役である佳山明が実力ある脇役に支えられながら、町田君やハル以上に輝くのは何故なのか。彼女自身が脳性まひを患った本当の身体障がい者であるということが指摘できる。それにより演技が演技に見えないのである。というか、演技なのに演技ではないのである。映画というのは一部のジャンルや作風を除けば虚構の芸術である。『 ボヘミアン・ラプソディ 』は伝記映画であったが、現役の歌手にフレディを演じさせるという選択肢も、制作前には検討されたはずである。役者に歌わせるよりも、歌手に演技させた方が良いという場合もある(ちなみに、これで大失敗したのが『 タイヨウのうた 』)。実力ある俳優に障がい者を演じてもらうよりも、障がい者が物語世界に降臨した方が説得力がある。これはそうした作品であり、さらにそれを成功させている。冒頭の入浴介助のシーンでは佳山も神野もヌードを披露してくれる。Jovianはこれで一気に本作をドキュメンタリー映画であると受け止めてしまった。すべてが計算ずくで作られたドラマではなく、現実を忠実に映し取った作品であると感じたのだ。このような導入でリアリティを生み出すとは、HIKARI監督は手練手管を心得ている。障がい者が障がい者を演じるのは演技と言えるのかと思う人もいるかもしれない。だが、こう考えてみてはどうだろう。邦画お得意の実写青春映画で美少女が美少女を演じることはどうなのか。イケメンがイケメンを演じるでもいい。橋本環奈が不細工な女子高生という設定や、松坂桃李が醜男という設定に納得できる人がいるだろうか。本作での佳山のキャスティングにケチをつける人は、一度自分の思考を整理されたし。それがすなわち差別であるとまでは言わないが、障がい者を特別視している自分がいることに気づくことだろう。

 

本作で佳山が特に光っているのは、人懐っこい笑顔を見せる時である。上で書いたことと少々矛盾して聞こえるかもしれないが、人が人を魅力的に思うのは見目麗しさ以上に、笑顔であると思われる。ユマの笑顔を見よ。これほどチャーミングな笑顔が邦画の世界でどれほど映し出されてきただろうか。そう思えてくるほどに、ユマの笑顔には魅力がある。人間関係の基本にして究極がそこにある。目の前の人を笑顔にすること。それに必要なのは、介護の知識やスキル、ポリコレ意識ではなく、対等な人間関係を結ぶということなのだろう。

 

本作は障がいそのものをテーマとはしていない。障がい者であるユマが恋愛やセックスに興味を持つのは年齢的にも肉体的にも自然なことである。似たようなところでは『 聖の青春 』の村山聖が挙げられる。もしくは『 覚悟はいいかそこの女子。 』の恋愛未経験イケメン男子を思い起こしてもいいだろう。恋愛やセックスは健常者だと障がい者、イケメンだとかブサメンだとかは関係ない、普遍的なテーマなのである。本作のユマがユニークなのは恋愛やセックスへの興味以上に、自分の仕事の幅を広げたい、あるいは深みを増したい、自立をしたいという強い想いに駆られている点である。恋愛やセックスそれ自体がゴールになっていることが多い日本の多くのエンタメ作品とは、そこが決定的に異なっている。『 娼年 』をカネで買ってスムーズに初セックス・・・とならない。このあたりから物語が一気に加速していく。舞や俊哉と共に生き生きと過ごすユマに、我々は逆説的に教わる。すなわち、恋愛やセックスはそれ自体が単独で成立するイベントではなく、濃密なコミュニケーションや人間関係の一側面である、と。そして、ユマに対等に接してくれるのは夜の街のポン引きだったり、クィアな方々であったり、ゲイバーの店員と思しき人々だったりする。社会のはみ出し者、日陰者とされているような人々なのだ。だが、彼ら彼女らの交流の模様がスクリーンを鮮やかに彩るのを見れば、「障がいも個性の一つ」という少々行き過ぎた考えにも頷けるような気がしてくる。ユマが不意に宇宙人を夢想するのは、宇宙人から見れば、地球人はすべて地球人という同じカテゴリに分類されるからだろう。そこにはもはや人間関係の上下や思考の左右の違いはない。本作は障がい者ではなく人間を映し出している、言葉そのままの意味でのヒューマンドラマなのだ。

 

ユマの自立への旅は思わぬ方面にまで飛んでいくことになるが、そこはぜひ劇場で鑑賞を。彼女が家に帰って来るシーンでの母親の落涙は、完璧に計算された証明とカメラアングル、そして演技によって成立している。ここには作為を感じたが、その美しさに観る者の胸はいっぱいになることだろう。

 

映画的な文法に忠実に従って、すなわち映像で物語を語らせる場面が多いのも良い。未見の方は、ユマが這ってシャワーを浴びに行くシーンで、彼女の両足に土踏まずが全くないことを見逃さないようにしよう。そのうえで、母親が見つめるとあるアイテムが何なのかをじっくり考えるようにしよう。その先には非常に上質な人間ドラマが待っている。

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ネガティブ・サイド

大東駿介演じる介護士はいったい何者なのだ?片言ではあるが、英語や、その他外国語を操れるのは何故だ?組織に属する介護士ではなく、フリーランス・自営業的に介護サービスを提供しているのか?いや、それでは自分が風邪を引いただけで代わりを見つけることもできず、顧客に迷惑をかけるだけだ。この男はいったい・・・

 

またユマがパスポートをしっかりと持っているのは何故だ。所有しているだけなら構わないが、あのタイミングで持っていることは不可解極まりない。運転免許証以外の身分証明書。ということなら普通に障がい者手帳で間に合うはずである。終盤入り口の超展開には少々納得がいかなかった。

 

アダルト誌編集長を演じた板谷由夏の「セックスをしたことがないとリアルな作品を描けない」というのは一理あるが、別にセックス経験がなくとも面白い作品は描けるはずだ。「人を殺したことがないのに、面白い殺人事件は書けないだろう」などと言う編集者がいたら「頭がおかしいのか?」と思うだろう。

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総評

エンドクレジットになぜか我が町・尼崎の尼崎市立身体障害者福祉センターが出てきてびっくりした。何か縁があったのだろう。分断をキーワードにする映画が続々と生産されるなか、“包括”や“包含”をテーマにする作品も同じくらい作られていいはずだ。本作を観れば、世界が目指すべきは分断ではなく包括であることは自ずから明らかである。とにかく、できるだけ多くの老若男女に観てもらいたいと思える傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get laid

セックスする、の意である。直訳のhave sex でも良いが、日常会話ではget laidをよく使う気がする。面白いことに、この表現では相手を表現することは滅多にない。他に同様の意味の表現としては

have sex with somebody

sleep with somebody

make love to somebody

hook up with somebody

などがある。こういう表現が実地に使えるようになれば、英会話スクールは卒業してよい。

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Posted in 国内, 映画, 海外Tagged 2020年代, A Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, 佳山明, 大東駿介, 日本, 板谷由夏, 渡辺真起子, 監督:HIKARI, 神野三鈴, 配給会社:エレファントハウスLeave a Comment on 『 37セカンズ 』 -鮮やかなビルドゥングスロマン-

『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

Posted on 2020年2月9日2020年9月27日 by cool-jupiter

ヲタクに恋は難しい 10点
2020年2月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高畑充希 山崎賢人
監督:福田雄一

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うーむ、日本版『 ラ・ラ・ランド 』だと喧伝されていたので、ミュージカル好きとして観に行ったが、これは酷過ぎる。過去10年でも最低レベル。『 シグナル100  』も酷かったが、2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤーはこちらで決まりである。

 

あらすじ

桃瀬成海(高畑充希)は転職先で幼なじみの二藤宏嵩(山崎賢人)に再会する。成海は前の勤め先で恋人に腐女子であることがばれてしまい、逃げるように転職してきたのだった。そんな時、ゲーヲタであることを隠さない宏嵩に「俺という選択肢はないのか?」と問われた成海は、宏嵩と付き合うことにするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

高畑充希は、かなり歌唱力がある。

 

山崎賢人は、まあ並みより少しマシ程度の歌唱力である。

 

佐藤二朗のオープニングのプレゼンは、つまらないか面白いかの二択で言えば、まあ面白いのではないだろうか。

 

賀来賢人の顔芸は、おそらく本職の声優ドルヲタを怒らせる一歩手前のギリギリの線を見切ったユーモアがあったように思う。

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ネガティブ・サイド

まず、福田監督は何の意図があってミュージカル形式にしたのか。歌や踊りというのは、自己表現の極まった形なのである。言葉にできないサムシングを歌や踊りで表現するのである。ヲタクであるという自分の本性を隠したくてたまらない成海が、その心情を歌や踊りで表現するという営為の矛盾についてどう思うのか。『 キャッツ 』にはいろいろと不満を抱いたが、それでも天上世界に昇り、再生を果たしたいというジェリクル・キャッツの想いは歌と踊りから溢れ出ていた。本作にはそれがない。例えば『 モテキ 』の森山未來の喜びのダンス、あるいは『 愛がなんだ 』の岸井ゆきのが口ずさむ魂からのラップ、もしくは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』のトランスジェンダーのユリシーズの苦悩、そうした言葉にするのが難しいサムシングが、本作では歌と踊りの形で表出されていない。ミュージカルであることに必然性を一切感じないのである。

 

それだけならまだマシなのだが、『 オペラ座の怪人 』をパロったシーンでは久しぶりに映画を観て頭に来た。劇中でもイケメンと評される宏嵩がクリスティーンの位置に置かれるだと?火傷で爛れた顔を持つファントムを、某キャラが仮面をかぶって演じるだと?「彼女の趣味ごと彼女を愛せ!」と主張する菜々緒(もう某キャラをばらしてしまったが別にいいだろう・・・)が、それを言うか?イケメンだけれど内面が醜男である宏嵩と、醜男だけれど内面が純粋すぎるファントムを対比させたつもりなのだろうが、ファントムに本当に足りなかったのは外見上のルックスではなく自分への自信と他者への信頼である。だからこそクリスティーンを必死に口説くのではなく、催眠術を使うのであるし、男と女ではなく、師匠と弟子という関係で迫ろうとするのである。ファントムに欠けているのは対人能力、コミュニケーション能力であり、それは一世代も二世代も前のヲタク像である。福田監督の意識の根底にあるのは、非常に古いヲタク像であり、ヲタクという種族が迫害されている時代のイメージなのではないか。ストーリーは2018年のことのようだが、本作で描写されるヲタクはゼロ年代、いや90年代のそれである。ムチャクチャもいいところである。

 

大解釈に就職し、恋人もおり、趣味も充実し、その趣味を存分に表現できる場を持ち、その感動を分かち合える仲間がいる成海が、「リア充援護」などという言葉を使う。それは欺瞞である。リア充というのは成海のような人間を指す言葉である。もはやオッサンであるJovianの肌感覚でしかないが、2015年以降のヲタクには栗本薫のヲタクの定義、すなわち「人間よりも非人間に親しみを持つ」という定義は当てはまらない。20年前にコスプレしていれば準犯罪者か犯罪者予備軍のように見られていたが、今ではハロウィーンに代表されるように、コスプレも一つの文化となった。同じことが他の多くのヲタク趣味にも当てはまる。なぜ2020年、令和にもなって『 電車男 』の時代のヲタク像を見せられなければならないのか(『 電車男 』が悪いと言っているわけではない、念のため。電車男の時代は、オタクは日陰者で迫害される側だったと強調しているに過ぎない)。

 

時代錯誤はこれだけではない。成海は趣味の異なる宏嵩相手にもATフィールドを張っていたが、これなどは90年代のヲタクの心のバリアの象徴である。当時のヲタクは、それぞれの分野ごとに異民族であり、異なる離島に暮らして平和共存していた。だからこそ、出会ってしまうと分かり合うことができず激しい対立を引き起こしてしまっていた。だが、ゼロ年代以降、特にインターネットの発達とともにそうした不毛な争いは(少なくともリアル世界では)減少していった。これは歴史的な事実である。そして、雑多なオタク趣味が確立すると同時に、オーバーラップする領域はボーダーレス化していった。これも歴史的事実である。離島に橋がかかったのである。そして、そうした離島同士の付き合いが現実の付き合いに発展していくのが今という時代である。Twitterを見よ。定期的に#カプ婚が報告されてくるではないか。

 

本作が最も意味が分からないのは、そうした離島と離島の架け橋を渡る行為、すなわちゲーヲタを声優アイドルヲタ、もしくはBLやギャルゲーのヲタ趣味を理解するために宏嵩が手を出すアイテムやイベントが、ことごとく的外れであることだ。それは自分の好きな分野以外のことにはとことん疎いという従来のヲタクの性質だけでは説明がつかないほどである。対する成海もキャラに一貫性がない。下着の色をそこまで気にする女性なら、あのシチュエーションで見送りにすら来ない宏嵩は、恋愛相手としてもセックス・フレンドとしても対象外だろう。ヲタク趣味を隠さないで済むという気楽な相手なら、下着の色など本来どうでもいいはずである。主役二人のヲタクとしての性質が、時代の面でも、人物の面でも、一貫性をとにかく欠いているのである。

 

観ていて、ひらすら疲れた。何度寝てやろうかと思ったことか。恋をするのは難しいというのは、自分がヲタクだからではない。自分で自分を好きになれないから、他人を好きになれないだけだ。様々なジャンルのヲタクを一括りにして「ヲタクはキモイから無理」と切って捨てる成海という人間のこの考え方は、まさに差別主義者のそれである。原作は知らないが、この映画は全編が壮大な茶番劇である。『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』よりも馬鹿にされた気分である。かつてのゲームヲタク、SFヲタク、現役のボクシングヲタク(見るだけ)、映画ヲタク、ミステリヲタクであるJovianは本作によって大いに気分を害された。

 

総評

上映中にあちらこちらで「クスクス」という笑いが漏れていたが、声の主たちは皆、若々しく聞こえた。きっと若い世代にはちょっと変な人たちがネットスラングをリアルに使ったりするフシギな物語に映ったのだろう。だが、90年代やゼロ年代のヲタク文化を少しでも知っている人間なら、本作はとうてい許容できるものではないだろう。結局、福田監督はヲタクに対して何のリスペクトも抱いていないからである。それは人間模様を映し出す映画監督としては、あまりにも基本的素養に欠けているということである。元々、作る作品のほとんどが賛否両論を呼ぶ御仁であるが、今作はシリアスな映画ファンからは9割以上の酷評を得るのではないか。それほど酷い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

So, sue me.

映画に出てくるセリフではないが、「だから俺を訴えろよ」という意味の言葉である。往々にして開き直って言われることが多い。2000年前後、アメリカの掲示板などではしょちゅう、“I’m an otaku, so sue me,”(俺はヲタクだけど、それが何か悪いのか?)と書き込まれていて、「アメリカという国は、何か違う空気が流れているなあ」と感心したことを今でもよく覚えている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, コメディ, 山崎賢人, 日本, 監督:福田雄一, 配給会社:東宝, 高畑充希Leave a Comment on 『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

『 犬鳴村 』 -ジャパネスク・ホラー終了のお知らせ-

Posted on 2020年2月8日2020年9月27日 by cool-jupiter

犬鳴村 20点
2020年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花
監督:清水崇

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『 ブライトバーン 恐怖の拡散者 』がクソ駄作だったので、思わず『 シライサン 』と本作に過度な期待を抱いてしまっていた。『 シライサン 』はそれなりに楽しめるところもあったが、本作はもう駄目である。何度も寝そうになったし、いっそのこと途中で席を立とうかと思ったのも1度や2度ではない。令和の訪れと共にやって来た『 貞子 』は、ジャパネスク・ホラーの黄昏だった。そして本作によってジャパネスク・ホラーは終焉したのかもしれない。

 

あらすじ

森田奏(三吉彩花)の兄・悠真とその恋人・明菜が、地図から消された「犬鳴村」に行ってきた。そして明菜が怪死した。そして奏の周囲で次々と怪異が起こる。いったい「犬鳴村」とは何なのか、どこにあるのか。そこで何が起きて、地図から消されてしまったのか・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭はなかなかに不気味な感じを漂わせている。アホなYouTuberが体を張っていると思えば、それなりにリアリティもある。このYouTuberの死にっぷりはなかなかである。そこだけは評価したい。

 

また終盤の手前で、白いシャツを着た三吉の上半身をスクリーンにするという構図はなかなか面白いと感じた。犬鳴村と奏の関係を、視覚的に見事に表現できていた。

 

全体的に坂東真砂子の小説『 狗神 』に通じるものがある。霧がけぶる山々を見ると、特にそう感じる。同小説の映画化作品である『 狗神 』は、最後の最後で小説にある重要なシーンを削ってしまったが、本作はある意味で清水崇流に『 狗神 』を脱・構築してから再構築しものであると言える。それが成功しているかはさておき、その試み自体は評価したい。

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ネガティブ・サイド

『 呪怨 』に味をしめたのかどうか知らないが、ジャンプ・スケアを多用し過ぎである。そして馬鹿丁寧にも、重低音の利いたBGMをじわじわとビルドアップしていくことで「ハイ、ここでびっくりして!」と教えてくれる。ホラー映画、特にジャパネスク・ホラーは本当に終わってしまったのかもしれない。

 

まず肝心の犬鳴村の存在が怖くない。まず昭和24年というのは、そこまで昔か?江戸時代以前ならまだしも、戸籍制度が高い水準で整備されていた戦前、そして戦後の時代に、村一つを無理やり消せただろうか。2020年時点から71年前だから、当時20歳の人は91歳。かなりの高齢だが、存命の人間もまだまだ多いだろう。犬鳴村の住民を迫害した側の者たちで生き残っている人間がいても全く不思議ではないと思うが。序盤で意味ありげに「あの村で何が起こったのかを知っているのは、もはや自分とお前だけ」と語る院長先生と、それに無言でうなずく高嶋政伸が、事の真相を何一つ語ろうとしないのは拍子抜けもいいところである。というか、犬鳴村が消された理由に心底がっかりである。お上にまず懐柔され、そして迫害された・・・って、懐柔される部分は要らんやろ。

 

犬鳴村出身の怨霊たちも何がしたいのかさっぱり分からない。集団でわらわらと現れて、訳の分からん民謡だか童謡を歌って、奏を追いかけまわす意味は?病院内のチェイスは、そのあまりのシュールさに思わず笑ってしまった。また、奏の兄の友人だか子分だか分からない連中の霊が、奏のクルマに乗っているシーンもシュールなことこの上ない。一歩間違えればギャグにしか見えないシーンである。というか、ギャグだ。クルマのバックミラーに追跡してくる何かが映っているというのは『 ジュラシック・パーク 』へのオマージュかもしれないが、三馬鹿トリオが追いかけてきても怖くない。クルマに乗り込んできても、奏に襲いかかわるけでもない。何がしたいのか分からないが、奏を傷つけようとはしてこないので、そこで恐怖を感じることがない。

 

その奏が犬鳴村に出向く流れも不自然極まりない。父親が口をつぐむのなら、まずは母親に尋ねるのが定跡ではないのか。不思議な力を持っていた祖母が、「奏にもできるはずだよ」と言っていた能力が、序盤に一回、クソどうでもいいシーンで発現しただけだったのは何故だ?というか、その能力もまんま『 シャイニング 』の輝きのパクリではないのか。輝きを使って、犬鳴村の怨霊に語り掛けるのかと思いきや、結局何もしない。味方(?)の霊の存在意義もよく分からないし、奏の兄の悠真の死体のあり様も説明がつかない。男の方は女に抱きついているべきで、男が男に抱きついてどうするのだ・・・ そしてビデオカメラがあったなら、中をちゃんと見ろ。そして映像を再生したのなら、最後まで観ろ。

 

犬鳴村のボス的存在の怪異が怖くない。というか、どこかで観た要素のパッチワークで、シラケるばかりである。和服の女性というのはクリシェもいいところだし、変な動き方をするのなら『 エクソシスト 』並みにやってほしい。『 サイレントヒル 』や『 バイオハザード 』にすら及んでいない。というか、『 地獄少女 』の取り巻き禿爺いのブレイクダンスのようなことをやっても、怖くない。言葉そのままの意味で尾も白い・・・、ではなく面白いだけである。なぜ犬のように四足歩行をしない?なぜ犬のように遠吠えをしない?犬鳴村をテーマに観客を怖がらせたいのなら、「犬」という要素は絶対に外してはいけないのではないか。

 

エンディングもシラケる。「あ、この展開は間違いなく〇〇〇やな」と思わせて、本当にその展開へ。捻らんかい。というか、謎の家族団らんシーンとエンディングのシーンは順番が逆でないか。バッドエンドを示唆するなら“母親”という概念をもっと効果的に使えるはずだろう。これよりもマシなエンディング演出を脚本家は考えられなかったのか・・・誠に残念至極である。

 

総評

ジャパネスク・ホラーは終わった。そう感じさせられるほどにつまらない作品である。いっそ三吉彩花を川上富江役に起用して、令和の時代に合った『 富江 』映画を作ってみてはどうか。三吉彩花なら魔性の美女たる富江にふさわしいルックスとスタイルの両方を備えている。『 富江 Resurrection 』を清水崇が監督するなら、それはそれで観てみたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I really need to forget about this film ASAP.

 

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