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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2010年代

『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

Posted on 2019年2月6日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ・リターンズ 55点
2019年2月2日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:エミリー・ブラント ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロブ・マーシャル

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メリー・ポピンズが50年以上の時を経て、続編に帰って来る。ジュリー・アンドリュースの後を継ぐのは、ブリティッシュ・アクトレスのトップの一人、エミリー・ブラント様とくれば期待しないわけにはいかない。ややCGヘビーなトレイラーが気になったものの、いざ劇場へ。予想や期待をしていた作品ではなかったが、これはこれで受け入れ可能だ。

 

あらすじ

『 メリー・ポピンズ 』の時代から時を経ること幾星霜。時は大恐慌時代。マイケルは妻を亡くし、画業をあきらめ、銀行の出納係をしながら、子どもたちと屋敷に暮らしていた。姉ジェーンも手助けはしてくれていたが、金策ならず、家を失う危機に瀕していた。しかし、そんな時、空からメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が降臨してきて・・・

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントによるメリー・ポピンズ。どちらかと言うと童顔だったジュリー・アンドリュースのメリー・ポピンズよりも、原作小説の雰囲気が出ていたのではないだろうか。メリー・ポピンズは結構気難しいキャラだからだ。それでいて優しさや情もある。歌って踊れる素敵な魔法使い。エミリー・ブラント以外のキャスティングは今では考えられない。なによりも登場シーンが良い。風吹きすさぶ空の雲間から光と共に神々しく現れる。凧と共に降りてくるのにも意味がある。これは物語の最後の最後で見事なコントラストを成す。

 

メリー・ポピンズは乳母であるが、バンクス家のマイケルが妻を亡くし、その子どもたちには母親代わりとなるべき人物が必要だった。メリー・ポピンズがマイケルの子どもたち、ジョン、アナべル、ジョージーを風呂に入れたり、花瓶の世界に連れて行ったりするシーンは、前作のアニメーションとの融合をかなり意識した作りになっている。つまり、一目でそれと分かるCGになっている。だが、今回はそれが不思議と心地よい。なぜなら、自分が観ているものがリアルなものではなくマジカルなものであるという意識があるからだ。トレイラーで観た時は「なんじゃ、この出来損ないのCGは」と思わされたが、本編で観てみると印象がガラリと変わる。これこそ映画のマジックであろう。

 

現代的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。時代が世界恐慌時代、なので1929年~1939年のどこかの時点の物語ということになるが、本作が訴えるのは80年前の時代の問題ではない。最も分かりやすいのは母子家庭の問題だろう。人生にはpositive female figureが必要とされる時期もあるのである。叔母や家政婦では力不足なこともある。母親不在という現実から逃避するには、非行に走るぐらいしかない。しかし、もし本当に現実逃避ができるなら?本作は魔法使いのメリー-・ポピンズに仮託して、子どもという存在の想像力と生命力のたくましさについて高らかに称揚する。シングル・マザーが激増している日本社会は何某かを感じ取るべきだろう。

 

不況なのはどこの先進国でも同じだが、その構造も共通している。大資本による庶民の搾取だ。トマ・ピケティの御高説を拝聴するまでもなく、資本は資本のあるところに集まるものである。トリクルダウンなる考え方は虚妄に過ぎない。本作はファンタジー映画であるが、容赦のない現実世界の経済論理が展開されており、子どもと一緒に観に行った保護者はかなり心理的にきつい思いを味わわされたのではないだろうか。そうした苦しい思いをしたからこそ、バンクス家の絆はさらに強まるのだ。ディック・ヴァン・ダイク御大との再会は我々に新鮮な感動と驚きをもたらしてくれる。水戸の御老公様が印籠を見せる時のようなカタルシスが味わえた。

 

ネガティブ・サイド

メリル・ストリープの出番はあれで終わりなのか?せっかくの大女優の出張ってもらったのだから、再訪場面まで描いて欲しかった。

 

クライマックスの風船は悪いアイデアではないが、『 プーと大人になった僕 』が既にガジェットとして使っている。というか、風船と言えばプーだろう。良い絵ではあったものの、個人的にはインパクトが弱かった。

 

前作の煙突掃除人に相当するシークエンスとしての、街灯点灯夫たちの大移動があるが、何故あのような『 マッドマックス 怒りのデス・ロード 』的な画作りをするのだろうか。正直なところ、あれでかなり白けた。普通にやればよいのにと今でも思う。

 

だが本作の最大の弱点は、前作の名曲を何一つとして引き継がなかったことであろう。「チム・チム・チェリー」は煙突がフィーチャーされないので無理だとしても、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」(Supercalifragilisticexpialidocious)は使っても良かったはずだ。ジョン、アナべル、ジョージーの3人と一緒にこれを歌うポピンズに、打ちひしがれていたマイケルとジェーンも加わってくる。誰もがそうしたシーンを観る前に夢想してはずだ。権利関係の鬼のディズニーなのだから、いや、だからこそ、楽曲の権利関係をきっちりとさせて、映画ファンに望むものを提供して欲しかったと切に願う。『 マンマ・ミーア! 』と『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィ-・ゴー 』が同一の世界観であると受け取られたのは、同じ役者が同じ役で続投したことと同じくらいに、”Dancing Queen”が歌って踊られたという事実があるからだ。”Dancing Queen”が流れてこその世界とも言える。前作からの楽曲が無かったのには大人の事情もあろうが、個人的には大減点をせざるを得ない。

 

総評

それなりに楽しい映画である。ミュージカル好き、ディズニー映画好きであればチケットを買っても損はしないだろう。Jovianはかなりバイアスが強い鑑賞者なので、あまりレビューの点数は気にしないで頂けると幸いである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エミリー・ブラント, ディック・ヴァン・ダイク, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ロブ・マーシャル, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

Posted on 2019年2月4日2019年12月21日 by cool-jupiter

あした世界が終わるとしても 45点
2019年1月31日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:梶裕貴 中島ヨシキ 内田真礼 
監督:櫻木優平

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これは『 風の谷のナウシカ 』以来の戦闘美少女の系譜の物語に、別世界(parallel universeやalternate realityと呼ばれるアレ)との対立、そして戦闘ロボットや、それでも変わらない醜い人間の政治力学などを一挙にぶち込んだ野心作である。しかし、監督やクリエイターたちのやりたいことを多すぎて、観る側にメッセージが伝わりづらくなっている。将棋指しが勝負師・芸術家・研究家の三つの顔を持つように、映画製作者も芸術家としてだけではなく、発信者や発明者のような側面にも力を入れて欲しいと願う。

 

あらすじ

何故かこの世界では人が突然死する。狭間真の母もそうして死んでしまった。以来、父は仕事に没入するあまり家のことを顧みなくなった。一人になった真に寄り添ってくれているのは幼馴染の琴莉だった。二人の仲がようやく動き出そうとする時に、突如、ジンが現れる。ジンはもう一つの世界の真だった。彼の目的は二つ。一つは真の保護、もう一つは・・・

 

ポジティブ・サイド

映像は文句なしに美麗である。ディズニーのように巨額予算が無くても、ここまで出来るというのがJapanimationの利点であろう(アニメーターの待遇の悪さ、および中国資本化によるアニメーターの待遇改善のニュースもあったが・・・)。アクションシーンでズームインとズームアウトを頻繁に行いながらも、キャラクターを猛スピードで動かすところには唸らされた。『 BLAME! 』でも用いられた手法であるが、それをもう一歩先に推し進めた印象を受けた。

 

また企業が政府に先立って動く世界というのも、この現実世界を先取りしているように思える。プーチン政権下のロシアがクリミアを力で併合したり、トランプ政権がメキシコ国境に壁を作る/作らないで大揉めしていたりしているが、歴史的な流れとして世界はどんどんとボーダーレスになっていっている。そして国境を超えることで新たな価値を帯びるのは情報と貨幣だ。特に仮想通貨の浸透とその暴落は記憶に新しい。今は振り子の針の揺り戻しが来ているが、反対方向に大きく振れるのも時間の問題だろう。

 

閑話休題。本作で最も面白いなと感じたのは、美少女ロボの言動。むしゃむしゃと食べ物を頬張り、「出るところから出るような構造になっています」と説明するのは、一部の純粋なマニアやオタクを欣喜雀躍させるか、あるいは彼ら彼女らは怒り心頭に発するのではないだろうか。好むと好まざるとに依らず、技術は進歩していく。ユダヤ・キリスト教の神がImago Deiに似せて人間を作ったように、人間もロボットをどんどんと人間に似せていく。これは間違いない。『 コズミック フロント☆NEXT 』の1月17日の回「 どこで会う!?地球外生命体 」で、ある科学者が「肉体というものは不完全で不要かもしれない、けれど、この目で美しい景色を見たり、この耳で美しい音楽を聴いたり、この口で美味しいものを食べたりすることが生き物としてのあるべき姿だと思う」という趣旨を述べていた。本作に登場するミコとリコに対して親近感を抱けるか、もしくは嫌悪感を催すかで、観る側の心根がリトマス試験紙のように測れてしまうかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

オマージュなのか、それとも作り手の意識の中にそれだけ強く刻みこまれてしまっているのか。作品のそこここに先行テクストからの影響が色濃く現れている。これが道尾秀介の『 貘の檻 』が横溝正史の『 八つ墓村 』へのオマージュになっていたのと同様の事象なのか、それとも意識して様々な作品の要素をぶち込むことで、監督兼脚本の櫻木優平氏が悦に入っているのか。おそらく後者ではないかと思われる。現代は、しかし残念ながら、パスティーシュやオマージュではなく、オリジナリティで勝負しなければならない。まずは守破離ではないが、何か一つの要素をしっかりと追求する。そこから自分なりのスタイルを確立していくことを目指すべきだ。以下、Jovianが感じたオリジナリティの無さについて。

 

まず並行世界というもの自体が、手垢に塗れたテーマだ。その古い革袋に新しい酒を入れてくるのかと期待したら、その世界の発生のきっかけは旧日本軍の研究開発していた次元転送装置とは・・・ 旧日本軍て、アンタ・・・ 『 アイアン・スカイ 』以上に荒唐無稽だ。こちらとあちらに同じ人間が存在していて、その命がリンクしているという設定がすでに理解できない。なるほど、世界が分裂してしまった時点ではそうだろう。だが、極端な例を考えれば、こちらの世界の妊婦さんが流産をしてしまった時、あちらの世界の人は必ず妊娠しているのか?そうでなければ、例えば妊婦が死んでしまった場合は胎児も自動的に死亡すると思われるが、そもそもあちらの世界で存在しない命がこちらで消えてしまった時は?などなど、観ている瞬間から無数に疑問が湧いてきた。並行世界というのは、タイムトラベルや記憶喪失ものと並んで、非常にスリリングな導入部を構成することができるジャンルだが、それだけに細部を詰め方、および物語そのものの着地のさせ方が難しい。その意味で本作は、離陸した次の瞬間に墜落炎上したと言っていいだろう。

 

また、その並行世界の成り立ちの説明がどういうわけかナレーションで為される。どうしても言葉で説明したいというのなら、何らかのキャラクターに喋らせるべきだ。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』における酔っ払い男のように。このナレーションは完全にノイズであった。

 

そこで生まれた世界の日本には皇女がいるという。ならば「にほんこうこく」というのは日本皇国かと思っていたら、日本公国であるという。どういう国体を護持すれば、そんな国が生まれるというのか。平安時代に並行世界が生まれたのならまだしも、昭和の中頃にこれはない。いくらアニメーション作品と言っても、歴史的な考証は最低限行わなくてはならない。映画とは、リアリティを追求してナンボなのだ。なぜなら、映画という芸術媒体が発するメッセージは往々にしてフィクションだからだ。だからこそ、それ以外の部分はリアルに仕上げなくてはならない。まあ、本作にはそもそもメッセージが無いわけだが。

 

護衛兼攻撃用ロボットが、エヴァンゲリオン、『 BLAME! 』のセーフガードなど、様々な先行作品の模倣レベルから脱していない。ボス的キャラもネットでしばしばネタにされる小林幸子を否応なく想起させてくる。そしてセカイ系で散々消費された僕と美少女戦士達の闘いが、世界そのものの命運を決めることになるという、周回遅れのストーリー。また『 ミキストリ -太陽の死神- 』と全く同じ構図がヒロインキャラに投影されていたりと、どこかで見た絵、どこかで聞いた話の寄せ集め的な物語から脱却できていない。櫻木監督の奮起と精進に期待をしたい。

 

総評

ポジティブともネガティブとも判断できなかったものに、キャラの動きが挙げられる。モーション・キャプチャをアニメの絵に適用しているのだと思うが、とにかくキャラがゆらゆらと動く。生きた人間であれば自然なのかもしれないが、アニメのキャラにこれをやられると不気味である。『 ターミネーター 』や『 ターミネーター2 』のシュワちゃんが、非常にロボットらしい動きをするのと対比できるだろう。しかし、CGアニメーションがもっと進化して、小さい頃からそのような作品に慣れ親しむ世代は、旧世代のアニメーションを見て「不気味」と感じるのかもしれない。何もかもを現時点の目で判断することは独善になってしまう恐れなしとしないだろう。この点については判断を保留すべきと感じた。冒頭10分は何となくゲームの『 インタールード 』を彷彿させた。カネと時間が余っていて、アニメーションに抵抗が無いという人なら、1800円を使ってもいいのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, 中島ヨシキ, 内田真礼, 日本, 梶裕貴, 監督:櫻木優平, 配給会社:松竹メディア事業部Leave a Comment on 『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

Posted on 2019年2月3日2019年12月21日 by cool-jupiter

十二人の死にたい子どもたち 35点
2019年1月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:新田真剣佑 北村匠海 高杉真宙 萩原利久
監督:堤幸彦

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出演に男4人だけをリストしたのは、単純にスペースの問題であって、それ以上の意味もそれ以下の意味もない。本当は自分の好み的には萩原利久だけでもよかったのだが、それだけではアンバランスだなと感じただけのことに過ぎない。それにしても、堤幸彦監督というのは、良作と駄作を一定周期で生み出してくるお人である。本作はどちらか。残念ながら駄作であった。まさに文字通りの意味で子供騙しであった。

 

あらすじ

廃病院。集められた十二人の少年少女。皆、闇サイトの呼び掛けに応じ、集団自殺する為に集って来た。しかし、そこには十三人目が既に先着していた。物言わぬ死体として・・・

 

ポジティブ・サイド

期待の若手俳優をずらりと並べたのはインパクトがあった。Jovianは萩原利久を推しているので、彼の登場は素直に嬉しい。他にも杉作や北村など、確かな演技力、表現力を有するキャスティングは、タイトルの持つインパクトとの相乗効果で、多くの映画ファンを惹きつける。

 

劇中に何度もフォーカスされる謎めいた絵画やオブジェも興味深い。妊婦を想起させるだけではなく、♂と♀のマークの複合体、つまりは性行為を意識させるようなデザインでもあり、デストルドーに衝き動かされる子どもたちの奥底に眠るリビドーを模しているかのようでもある。これからご覧になる方々は、これらの絵や像のショットがどういう場面で挿入されてくるかに是非注意を払って見て欲しい。

 

ネガティブ・サイド

端的に言ってしまえば、どこかで観た、もしくは読んだ作品のパッチワークである。タイトルから『十二人の怒れる男 』を思い起こした方は相当数いることは間違いないし、あらすじを読んで、または予告編を見て『 11人いる! 』や『 ソウ 』の影響を受けた作品なのだなという印象を持った人も多いだろう。あるいはmislead目的としか思えない「死にたい」連発のトレイラーを見て、『 インシテミル 7日間のデス・ゲーム 』や『 JUDGE ジャッジ 』の類のデスゲームなのかと勘違いさせられた人も一定数いただろうことは想像に難くない。原作者が冲方丁だと知って、意外に感じた向きも多かったのではないだろうか。Jovianはてっきり、米澤 穂信か土橋真二郎の小説が原作なのだと思い込んでいた。何が言いたいかと言うと、オリジナリティに欠けるわけである。

 

本作をジャンル分けするならば、シチュエーション・スリラー風味のミステリ兼ジュブナイル映画ということになるだろうか。だが、ミステリとして鑑賞させてもらうと、粗ばかりが目立って仕方がない。あまりにもご都合主義に満ちているのだ。堤監督は明らかに『 イニシエーション・ラブ 』を意識した画作りおよび演出を施したシークエンスを用意してくれているが、説得力が全く違う。まさに月とすっぽんだ。それはもちろん、『 イニシエーション・ラブ 』が月で、本作がすっぽんという意味である。あれを見せられて、「ははあ、なるほど、そうなっていたのか」と膝を打つ人がいるのだろうか。

 

とにかく論理的に破綻している、または都合が良すぎる点を指摘してしまうときりがない。なので、ひとつだけ余りにも間抜けすぎる台詞を紹介しておきたい。廃病院前に軽トラが止まったのを見て「なんで?!改修工事はまだ先のはずよ?」とは・・・ どこからどう見ても積み荷ゼロの軽トラック一台にそこまで焦る必要があるのは何故だ。某人物が廃病院に来るまでに使った車いす対応タクシーの運転手が警察に通報するという可能性は考慮しなかったのだろうか。

 

総評

はっきり言って面白くない。ミステリとしてもスリラーとしてもサスペンスとしても、中途半端すぎる。キャスティングに魅力を感じるのであれば鑑賞も可だろう。しかし、ちょっと面白そうだから観てみるかという気持ちで劇場に行くと、ガッカリさせられる可能性が高いだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:堤幸彦, 萩原利久, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 高杉真宙Leave a Comment on 『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

Posted on 2019年2月1日2019年12月21日 by cool-jupiter

バジュランギおじさんと、小さな迷子 80点
2019年1月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サルマーン・カーン ハルシャーリー・マルホートラ
監督:カビール・カーン

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今年の初めにパンフレットを見た時に「おー、ジョン・ハムがインド映画に出るのか」と思ったのを覚えている。実際は全く別の役者さんだが、そのように見えてしまった映画ファンは全世界で数千人はいたのではないだろうか。

 

あらすじ

パキスタンの山奥で暮らす娘シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。お祈りのために訪れたインドで不運にも迷子になってしまう。そこでパワン、通称バジュランギ(サルマーン・カーン)と出会う。バジュランギは熱心なヒンドゥー教徒で、学歴は無いが素直で誠実で無邪気な男だった。彼はこの娘をムンニーと呼び、ビザもバスポートも無しにパキスタンに彼女を送り届けようと決意するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 バーフバリ 』二部作、そして『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に続くインド映画の傑作がまたも現れた。と思ったら、現地での公開は2015年だったとのこと。『 ウィッチ 』のように2年経ってから公開されるケースはあるが、4年ものスパンを空けてというのはかなり珍しいのではないか。それだけ、今このタイミングで、日本で劇場公開する意義を配給会社が認めたということなのだろう。

 

何よりも、シャヒーダーがあまりにも可愛い。このような純粋無垢な少女を前に、大人はあまりにも無力である。つまりはベイビネスである。実際は6歳ぐらいなので、シャヒーダーをベイビーであると看做すの無理がある。しかし、シャヒーダーの口がきけないという特徴が、彼女を赤ん坊的な存在に留める大きな役割を果たしている。赤ん坊の特徴はその無垢さ、タブララサ tabula rasa であることが挙げられる。赤ん坊は白紙なのだ。シャヒーダーは白紙の存在ではない。彼女はパキスタン人であり、ムスリムであり、クリケット好きである。しかし、周囲のインド人の目には、そうした属性が可視化されていない。つまり、彼女は彼女の最も純粋な部分、つまりは人間としての部分が扱われる。彼女が肉を食べ、イスラム教のモスクに入り、クリケットのパキスタン代表チームを応援することで、周囲の人間は彼女を異物であると認識するようになる。非常に悲しいことではあるが、日本人の中には、コンビニ店員がベトナム人、中国人、韓国人、フィリピン人であるというだけのことで、非常に居丈高になり、時には高圧的、攻撃的にさえなる者が存在する。人間には様々な違いがあるものだが、そうした違いのいくつかは非常に皮相的で、自分では決定的だと思っていた差違も、実は自分の心が作り出していた幻想に過ぎないということを、本作はある意味では非常にあっけらかんと明かしてしまった。インドとパキスタンの歴史は、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のようには、なかなか理解はできない。なぜなら前者の差違は宗教的なもの、つまりは心の問題であって、後者の差違は社会システム、つまりは制度的なものであるからだ。シャヒーダー、いやムンニーと旅するバジュランギは、自分がどれほど狭隘な精神世界に住んでいたのかを、旅の中で認識するようになる。彼がモスクの中でムンニーを見つめるシーンは、終盤で非常に鮮やかなコントラストを生み出す。これには唸らされた。信じる対象は異なっても、信じるという心の営みそのものには何らの違いもなく、等しく尊重されるべき心の在り様であるということを、本作は観る者に提示する。ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。

 

本作はさらにもう一歩踏み込んで、梅田望夫が言うところの「不特定多数無限大への信頼」を体現するプロットも組み込まれている。ネットの世界には技術的には国境は無く、マスコミと同程度、時にはそれ以上の信頼をミニコミが生み出すことさえある。そうした、非常に現代的な世界の在り方を本作はリアリスティックに映し出す。傑作インド映画『 ボンベイ 』で描かれたような、圧倒的な憎悪と暴力が発露される場面があるが、その同じ力が負ではなく正の方向に作用する時、観る者に圧倒的な感動をもたらしてくれる。事実、シネ・リーブル梅田は『 カメラを止めるな! 』以来の満席であったが、クライマックスでは劇場内のそこかしこからすすり泣きの声が聞こえてきた。インド映画、そしてインドという国に対する見方を我々はアップデートしなければならない時期に差し掛かっている。

 

そうそう、主演のサルマーン・カーンのフィルモグラフィーを事前にチェックしておくと、劇中でクスリとさせられること請け合いである。興味のある方はお試しあれ。

 

ネガティブ・サイド

最後の最後のショットがやや腑に落ちない。そこに至るまでは非常にハイレベルにまとめられていたのに、あのような構図にする必要があったのだろうか。端的に言えば、この美しい映画の物語の余韻を少し壊すようにすら感じられた。

 

また、一部で露骨に『 ビバリーヒルズ・コップ 』をパクった、またはパロったシーンがあるが、こうした場面でこそ本作のオリジナリティを発揮して欲しかったと願う。

 

総評

『 search サーチ 』の監督アニーシュ・チャガンティの活躍にも見られるように、インド映画、およびインド系の映画人は今後ますます活躍していくものと予想される。そうした大きな流れの端緒の一つとして、本作は記録され、記憶されるだろう。傑作であると断言する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, インド, サルマーン・カーン, ハルシャーリー・マルホートラ, ヒューマンドラマ, 監督:カビール・カーン, 配給会社:SPACEBOXLeave a Comment on 『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

Posted on 2019年1月29日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガー・ラッシュ オンライン 60点
2019年1月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン ガル・ガドット タラジ・P・ヘンソン
監督:リッチ・ムーア フィル・ジョンストン

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およそプリンセスらしくないプリンセスのヴァネロペが、インターネット世界で様々なプリンセスおよびキャラクターと邂逅する。そして、ラルフとの友情に一つの区切り、転換点を迎える。前作の『 シュガー・ラッシュ 』が役割と人格を巡る物語であるとすれば、本作は主体の主体性、すなわち自由を巡る物語であると言える。Jovianは作家の奥泉光に私淑しているが、彼は我々の共通の師である並木浩一との対談で、並木から「自由とは、自由であろうとすること」との言葉を引き出している。Jovianがここで言う自由も、自由であろうとすることを指しているとご理解頂きたい。

 

あらすじ

ラルフとヴァネロペは、それぞれのゲームで活躍しながら、良好な親友関係を続けていた。ある日、ハプニングにより、シュガー・ラッシュのゲーム筺体が破損。修理部品を手配する為に、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛び込んでいく。そこでヴァネロペは様々な出会いを通じ、自分が本当にやりたいことを見つけ出すのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

前作でも同じことを感じたが、CGが違和感なく感じられるのは個人的には大いなるプラス。現実世界のゲームのCGは余りにも美麗になりすぎたが、一定以上の世代の人間ならドラゴンクエストやファイナルファンタジーの二次元ドット絵に愛着を感じるだろうし、パックマンやインベーダー・ゲーム、ドンキーコングのようなグラフィックでも充分だとさえ言える。CG嫌いが少し弱まってきたのだろうか。

 

前作ではレトロゲームのキャラが多数カメオ出演していたが、今作ではネットのビジネス世界の列強が勢ぞろいしている。日本からは楽天が参戦しており、そのほかにもLineやmixiも目に入ってきた。その他のネットビジネスの巨人であるAmazon,eBayを筆頭にYouTube,Facebook,Google,InstagramにTwitterと何でもござれ。これらのサービスの全てもしくはいくつかを使ったことがある人ならば、思わずニヤリとさせられる描写も多く、なおかつインターネットという世界を直観的に理解できるようなビジュアル世界も構築できている。これは凄いことだ。最も象徴的なのは、ネット世界では距離の概念が“ほとんど”無いのだということを描き出していること。また、IPアドレスによって個を識別しているということ。そしてデータのコピーにかかるコストがほぼゼロであることを良い意味でも悪い意味でも映し出したこと。これらに個人的には最も唸らされた。

 

今作ではラルフとヴァネロペの友情に新たな展開が見られる。自分の役割を受け入れることができたラルフと、やっと自分の役割を果たせるようになったヴァネロペの間に、温度差が生まれるのは蓋し当然でもあっただろう。ラルフは悪役であることを受け入れ、ゲーム外の時間でヴァネロペと変わらない時間を過ごす。しかし、ヴァネロペは決まり切ったレースコースを走ることに厭いていて、変化を求めている。シュガー・ラッシュ内でも他キャラがプリンセスとして接してくるのに対して、対等な関係を求める。ヴァネロペは「自分が自分らしくある」ことを目指したいのだ。それこそが主体の自由である。ゲームの垣根を乗り越えて、自らのアイデンティティを定めようとしてく、このリトル・プリンセスの姿に、一つのグローバル時代の個の在り様を見るようである。

 

また、本作ではディズニー世界のプリンセスが勢ぞろいする。Jovianは一部しか作品は鑑賞していないが、それでも彼女たちが語るプリンセスの条件(予告編で散々流れているのでネタばれにはあたらないだろう)に、我々はいかに個の在り方が非常に限定的、なおかつ与えられた役割を全うすること、もっと言えば非常に受動的な属性で塗り固められているかということを思い知らされ、愕然とする。ヴァネロペがネット世界でゲームの垣根を超えていくこと、麗らかに、しかし、強かに個を主張する様は、繰り返しになるが、グローバル時代の個人の来し方行く末を見るかのようだ。幅広い年代層にアピールできる作品になっている。

 

ネガティブ・サイド

ラルフは元々、the sharpest tool in the box = 頭が切れるタイプではないが、ヴァネロペの旅立ちを阻止したいが為だけに、ここまでやるか?という行為に及ぶ。現実世界でこれをやれば、御用である。ネット世界でこれをやっても、やはり御用である。ラルフは典型的な男のダメな部分をあまりに率直に、飾らずに体現してしまっている。それは共感力の欠如である。「俺は毎日楽しいぜ」と自己主張をしてもしゃーないのである。シャンクとヴァネロペの会話は至って正常なガールズトークで、だからこそラルフには理解ができない。こうした描写はクリシェとさえ呼べるが、これを見せられてしまうと男としてはかなり暗澹たる気分にさせられる。例えばラルフがシャンクに直接、自分がどれほどヴァネロペとの友情に感謝しているのか、それによって生かされているのかを訥々とでもよいから語るような場面があれば、男のダメさ加減の体現描写も少しは薄められたはずなのだが・・・

 

総評

『 レディ・プレイヤー1 』のメッセージは、「外に出ろ、人と交われ」だった。しかし、本作はもっと踏み込んで、「多様な世界に触れろ、変化を恐れるな」と言っているかのようだ。世代によって本作の受け取り方は相当に異なると思われるが、あらゆる見方が正しいのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, アメリカ, ガル・ガドット, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, タラジ・P・ヘンソン, ヒューマンドラマ, 監督:フィル・ジョンストン, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

Posted on 2019年1月28日2019年12月21日 by cool-jupiter

バンド・エイド 50点
2019年1月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゾーイ・リスター=ジョーンズ アダム・パリー フレッド・アーミセン
監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ

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原題も“Band Aid”である。絆創膏と「音楽バンドによる助け」のダブルミーニングである。音楽によって人間関係の修復を図る作品では『 はじまりのうた 』が思い出される。テイラー・スウィフトは『 Bad Blood 』で「バンドエイドでは銃創は治せない」と歌った。しかし、バンドで治せる傷もあるはずだ。そう確信する人々が作ったのが本作であろう。

 

あらすじ

アナ(ゾーイ・リスター=ジョーンズ)はUberの運転手、ベン(アダム・パリー)は企業ロゴのデザイナーで、互いに収入は不安定。二人の間では常にケンカが絶えなかった。しかし、バンド活動の間だけはケンカを楽曲に昇華することができた。近所に住む性依存症のデイヴ(フレッド・アーミセン)を交えて、バンドを始める二人。バンド活動は順調に見えたが、アナとベンには真正面から向き合えない辛い過去があり・・・

 

ポジティブ・サイド

サンダンス映画祭に出品された作品ということで、登場人物も少なく、時間的・空間的にもそれほどの広がりを見せない。つまり鑑賞しやすく、理解もしやすい。夫婦喧嘩を経験したことのない夫婦はいないだろうし、未婚・独身者であっても、夫婦喧嘩の何たるかはある程度は想像ができるはずだ。そんな夫婦間のドロドロした愛憎を音楽活動に昇華させる。非常に健全な試みであろう。アナとベンが互いに”Fuck you, Fuck you, Fuck you”とお互いを罵るようにシャウトする様は非常にコメディックである。

 

映画をある程度見なれた人であれば、もしくは夫婦というものをある程度経験していれば、アナとベンの間に起きた悲しい過去については簡単に推測できるだろう。しかし、それに向かい合うことは決して簡単なことではない。特に女性であれば、アナが女友達とおしゃべりをするシーン、そして友達の子どもの誕生日パーティーに出席するところで、非常に強く共感するか、もしくは相当に身につまされる思いをするか、どちらかではないだろうか。

 

中盤以降には、もしかすると日本の少子化、もっと言えばセックスレスの原因はこれではないかと示唆してくるようなシークエンスがある。これはおそらく夫側がかなり身につまされるシーンになるのではないか。現代ではセックスは生殖活動以上に、愛情表現、濃密なコミュニケーションとしての意味合いの方が強い。だからこそ依存症が発生したりするわけだが、かといって生殖の意味合いが薄れたわけでは決してない。本作は夫婦の在り方を時にラブコメ調に、時にシリアスに映し出す。主演も兼ねた監督ゾーイ・リスター=ジョーンズの面目躍如といったところだろうか。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの女性というのは、人生で一番輝いていた時期に囚われる傾向が殊更に強いのだろか。『 ワン・ナイト 』や『 ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 』など、人生の最盛期を振り返る映画は枚挙に暇がない。アナも、過去に本を出版するチャンスを掴みかけたのだが、それは結局実現することが無かった。これはあまりに陳腐だ。もっと別の角度から、アナの苦境を描くことはできたはずだ。本というものが、あるモノのシンボルであることは承知している。そうであるならば歌詞にそのあるモノを示唆するものが出てこなくてはならなかったが、そんなものはなかった。それが残念だ。

 

もう一つ指摘することがあるとすれば、アダム・パリ―の演技。下手だと言いたいわけではない。ただ、妻に対する時と母に対する時で演技に違いがないのは頂けない。目つき、顔を傾ける角度、声のトーンなど、目に見える、耳に聞こえる形で演技を差をつけられないのは表現者としては敗北であろう。もちろん、監督その人によってそのような演技をするように指示された可能性もあるが、彼の一本調子の演技は本作にとってはマイナス要素である。

 

総評

テイラー・スウィフトは2015年の東京ドームでのライブで“You are not your own mistakes.”と語った。『 あなたの旅立ち、綴ります 』でシャーリー・マクレーン演じるハリエットは“You don’t make mistakes. Mistakes make you. Mistakes make you smarter.”と語った。弱点はあるものの、もしも夫婦関係に間違いがあると感じているのならば、何某かのヒントが得られるかもしれない作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アダム・パリー, アメリカ, ゾーイ・リスター=ジョーンズ, ヒューマンドラマ, フレッド・アーミセン, 監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ, 音楽Leave a Comment on 『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

『 シュガー・ラッシュ 』 -深い示唆に富むディズニーアニメの秀作-

Posted on 2019年1月26日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガーラッシュ 70点
2019年1月22日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン
監督:リッチ・ムーア

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190126024155j:plain

原題は“Wreck-It Ralph”、「壊し屋ラルフ」とでも言おうか。スルーするつもりだったが、どういうわけか突然『 シュガー・ラッシュ オンライン 』を鑑賞してみたくなった。ならば、前作を観ねばなるまいと近所のTSUTAYAで借りてきた次第である。

 

あらすじ

ゲームセンターの「Fix-It Felix」は悪役ラルフが建物を壊して、善玉フェリックスがそれを直していくというゲーム。ゲームセンターの閉店後、ゲームのキャラたちは自分の時間を過ごしていたが、悪役のラルフはゲームの時間以外でも他のキャラから敬遠されていた。自分もヒーローになりたいと願ったラルフは他のゲームに「ターボ」する。そして「 シュガー・ラッシュ 」の世界でバグ持ちの少女、ヴァネロペと出会う。ゲーム世界で疎外されてきた二人は友情を育んでいくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

『 レディ・プレイヤー1 』はこれに触発されたのではないかと言うぐらい、レトロゲームのキャラクターが登場する。ザンギエフやベガに、かつてゲーセンで貴重な百円玉数枚を投じて1時間遊んだことを思い出す者もいれば、スーパーファミコンでストⅡ、ダッシュ、ターボを延々とプレーした思い出を持つ者もいるだろう。あるいはパックマン・ゴーストに郷愁を感じる者も多かろう。『 ピクセル 』はクソ映画で、中途半端にリアルなCGも現実世界と相容れない不自然さがあったが、本作では同じようにレトロゲームのキャラや世界観を構築しても、全く不自然ではない。なぜなら、世界そのものがゲームの内部だからだ。そしてたいていのゲームは、何度プレーしても同じ物語が紡ぎ出されるように出来ている。中には『 エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー 』のように、シューティングゲームでありながら分岐シナリオを取り入れた例もあるが、それでもゲームの物語やキャラの最終的な行動や属性は大きくは変化しない。

 

しかし、キャラクターが変化を望めば?キャラクターに自発的な意志があれば?それが主人公ラルフの葛藤になる。彼自身は自分は悪役であることを認識している。しかし、彼は自分のことを悪人だとは考えていない。役割は決して人格とイコールではないのだ。だからこそ、シュガー・ラッシュのヴァネロペに共感しつつも、その存在を守ろうとする。ヴァネロペは逆に不安定なバグ(glitch)を有するが故に、卓越したレーサーでありながらレースに参加することが許されない。役割を果たすことができないということが、彼女の存在意義を揺るがす。ラルフとは逆なのだ。彼女は、たとえゲーム世界が崩壊し、自分というキャラクターがリセットされてしまっても、自分の役割を全うしようとする。存在意義を果たそうとすることで存在が消えてしまうとは何たる悲劇かと思うが、そのことが物語にドラマとサスペンスと感動を与えている。

 

ここで思い出される映画がある。『 マジック・マイク 』だ。終盤でチャニング・テイタム演じるマイクは「俺は俺のライフスタイルじゃない。俺は俺の仕事じゃない。ストリッパーは俺の仕事(what I do)だけど、それが俺の人格(who I am)じゃない」と心境を吐露する。これこそがラルフの葛藤の正体であろう。これは子どもが観ても、大人が観ても、直観的に理解できる内容だ。このメッセージを届けるために舞台をゲーム世界に設定したのだとすれば、脚本家の慧眼には感服するしかない。なぜなら、ラルフという悪役が存在しなければ、フェリックスという善玉は必要とされないからだ。ラルフが何かを壊してくれてこそ、フェリックスの直す能力が重宝される。悪役にも存在理由がしっかりとあるのだ。現実の世界を舞台にこのことを描き出した傑作に『 ダークナイト 』が挙げられる。または『 アンブレイカブル 』もこのカテゴリに入れてもよいのかもしれない。現実世界を舞台に悪の存在意義=その対比としての善が存在する、ということを描こうとすると子どもが置いてけぼりになってしまう。その意味では本作は、子どもから大人までしっかり鑑賞して、なおかつ楽しむことができる逸品である。

 

ネガティブ・サイド

センチピードやQバートはそれなりに可愛いが、ヴァネロペの声(オリジナルの英語)が可愛くない。むしろ少し怖い。というか、ヴァネロペという屈折したキャラクターをよく表す声だとは思うが、話し方そのものがかなりSmart Alecな感じで、とにかく鼻につく。続編は思い切って日本語吹き替えにしようかと検討している。

 

一つ気になってしまったのが、ラルフの心境の最終的な変化。悪役も悪くは無いと感じるのは良しとして、それはヴァネロペを好いてくれるプレイヤーの存在に帰せられることなのだろうか。バグを持った破天荒プリンセスキャラが愛されるなら、壊し屋の自分だって愛されていいんじゃないのかという結論に至らないのが、個人的にはやや解せない。

 

また、クライマックスの展開は割と簡単に読めてしまうのが残念なところだろうか。それでも嫁さんはびっくりしていたので、度肝を抜かれる人はこんな展開にも度肝を抜かれるものなのだなと再認識。個人的にはこの逆転のドンデン返しはすぐに見えてしまった。

 

総評

子ども向け作品と侮るなかれ、『 グリンチ 』とは一味もふた味も違う。完成度はこちらの方が遥かに高く、かつてレトロゲーマーだった大人以外の大人たちの鑑賞にも耐えられる作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, アメリカ, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, ヒューマンドラマ, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ 』 -深い示唆に富むディズニーアニメの秀作-

『 ミスター・ガラス 』 -内向きに爆発したシャマラノヴァース-

Posted on 2019年1月25日2019年12月21日 by cool-jupiter

ミスター・ガラス 55点
2019年1月20日 東宝シネマズ伊丹にて鑑賞
出演:サミュエル・L・ジャクソン ブルース・ウィリス ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

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シネマティック・ユニヴァース=Cinematic Universeが花盛りである。アベンジャーズに代表されるMarvel Cinematic Universeに、ゴジラを中心に展開されていくであろうモンスター世界=Monsterverse、『 ザ・マミー/呪われた砂漠の王女 』の不発により始まる前に終わってしまったDark Universeなどなど。そこにシャマラン世界、すなわちShyamalan Universe、略してシャマラン・ヴァースもしくはシャマラノヴァースとも呼ばれている。今作は『 アンブレイカブル 』と『 スプリット 』の正統的続編なのである。期待に胸を膨らませずにいられようか。

 

あらすじ

フィラデルフィアには監視者と呼ばれる男がいた。警察が捉えられない悪を裁くのだ。彼の名はデイヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)。触れることで悪を感知する不死身の肉体を持つ男。その頃、ケヴィン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)は4人の女子高生を誘拐、監禁していた。24の人格を宿す人ならざる人。この二人の出会いを待ち構えていた精神分析医のサラ。彼女の施設には狂人にして天才、極度に脆い身体を持つミスター・ガラスことイライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)も収容されていた。彼女は彼らに、超人など存在しないということを証明しようとして・・・

 

ポジティブ・サイド

ジェームズ・マカヴォイの多重人格者の演技。これだけでチケット代の半分になる。特に9歳児のヘドウィグの演技は前作に引き続き、圧倒的である。少年の心の無邪気さと不安定さを一瞬で表現するところは圧巻。同僚のロンドナーも、「演技力では、ジェームズ・マカヴォイ >>> ベネディクト・カンバーバッチ、トム・ヒドゥルストン、マイケル・ファスベンダー」と認めている。一度演じた役とはいえ、こうも簡単にあれだけの役を再現できるのかと感心させられる。

 

そしてまさかのスペンサー・トリート・クラークの再登場。父親に銃まで向けたあの息子も、今ではすっかり父ダンのサポーター役が板に付いた。というか、子どもの頃と顔が全く変わっていない。ハーレイ・ジョエル・オスメントも面影をかなり残しているが、ジェイソン・トレンブレイも今の顔のまま大人になるのだろうか。

 

閑話休題。ビーストとダンの対決は、日本のキャラクターの対決に例えるとするなら、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 』の志々雄真実と『 魁!!男塾 』の江田島平八を闘わせるようなものだろうか?もしくは、ウルトラマンとゴジラの対決か?何が適切な例えになるのか分からないが、とにかくこの対決はシャマランファン垂涎のマッチアップなのである。一人自警団を実行していくであろうダンには強力なライバルが必要だった。しかし、普通の人間ではとうていダンには歯が立たない。であるならば、普通ではない人間が必要となる。バットマンがジョーカーを呼び寄せたように。またはスーパーマンにとってのレックス・ルーサーのように。それにしても、今作を観てやっと前作『 スプリット 』における駅と花束の意味が分かった。だからこそ本作のタイトルは『 ミスター・ガラス 』なのだ。誰よりも弱い身体を持つが故に、その頭脳は誰よりも冴える。何という男なのだろうか。演じ切ったサミュエル・L・ジャクソンにも脱帽だ。

 

ネガティブ・サイド

これはネタばれだが、特にメジャーなネタばれでもないので書いてしまう。一体全体、催眠ストロボとは何なのだ?いや、原理はどうでもいい。9歳児のヘドウィグならまだしも、デニスやバリーやパトリシアまでもが、「目をつぶる」という余りにも簡単な回避方法を思いつかないのは何故だ?

 

前作であれほどまでにベティ・バックリー演じるカウンセラーに自らの存在する意味、全ての人格は主人格のケヴィンを守るために存在するのだと、ビーストはケヴィンの究極の守護者なのだと確信していたにも関わらず、謎の研究者のほんの少しの言葉で、なぜあれほどまでにパトリシアたちは動揺するのか。同じことを描くにしても、前回のような本格的な、徹底的なカウンセリングシーンが欲しかった。これではフレッチャー博士も浮かばれない。

 

また本来の主人公であるミスター・ガラス、イライジャの天才性と狂人性の描写がもう一つ弱かった。いや、天才性は最後に爆発したが、『 アンブレイカブル 』で階段から落ちながらも、とある事柄を確認したことで浮かべた不気味極まりない笑顔。あれに優る狂気の表情が見られなかったのはマイナスだろう。イライジャの思考はそれが思い込みであれ、信念であれ、確信であれ、誰よりも強い。その想念の強さと大きさを宿したようなアクションまたは表情がどうしても見てみたかったが。

 

最後に個人的なネガティブを一つ。ケイシーを演じたアニャ・テイラー=ジョイの出番が少ない。Jovianは彼女とヘイリー・スタインフェルド推しなのである。

 

総評

色々と腑に落ちないこともあるが、『 アンブレイカブル 』がデイヴィッド・ダンがスーパーヒーローとして覚醒する物語で、『 スプリット 』はスーパーヴィランの誕生物語だった。狂人ミスター・ガラスはスーパーヒーローなのか、それともスーパー・ヴィランなのか。それは観る者が直接その目で確認すべきなのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, サスペンス, サミュエル・L・ジャクソン, ジェームズ・マカヴォイ, ブルース・ウィリス, ミステリ, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ミスター・ガラス 』 -内向きに爆発したシャマラノヴァース-

『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

Posted on 2019年1月24日2019年12月21日 by cool-jupiter

劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 70点
2019年1月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:葵わかな

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Jovianは民放は基本的に観ない。NHKを時々観るぐらいだ。しかし、その中でも欠かさず録画する番組が3つある。『 将棋フォーカス 』、『 コズミックフロント NEXT 』、そして『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』である。そのうちの一つが映画化されるとあっては、劇場に足を運ばねばなるまい。

 

あらすじ

アフリカ大陸。様々な動植物が生きる大地。そこにはプライドの王を目指す若獅子ウィリアム、一匹で子育てに奮闘する雌ライオンのナイラ、右腕を無くしたゴリラのドドとそのドドを見守る群れの長のパパ・ジャンティの物語が展開されていた・・・

 

ポジティブ・サイド

1時間30分程度の作品だが、おそらくこれだけの映像を作るには、軽く1万時間超の撮影が必要ではないだろうか。もしかすると10万時間超かもしれない。

 

本作でフィーチャーされるライオン達およびゴリラ達を動物と思うなかれ。これは動物賛歌の形を借りた人間社会へのメッセージなのである。そのメッセージを痛烈な批判と受け取るか、それとも厳しくも暖かい信頼のメッセージと取るかは受け手の生きる社会や家族に依るのだろう。ただし、NHKがこの映画を届けたいのは日本社会に生きる我々であることは意識せねばなるまい。好むと好まざるとに依らず、社会は多様化していく。多様化していくということは、盛者必衰、優勝劣敗、弱肉強食がはっきりしていくということでもある。それは昭和後期が成長と安定に結実した一方で、平成は激動の時代になっていたことからも明らかである。潰れるはずがないと思われた企業が倒産し、サザエさん的な家族の風景はもはやフィクションとなった。一方で、都市部の駅や公共施設、大型ショッピングモールやデパートメントストアではバリアフリー化、ノーマリゼーションが進み、街中や駅、電車内でも車イス使用者を見かけることは珍しくなくなった。白杖を持った弱視者やダウン症を持った人なども家や施設ではなく、外に行き場と生き場を求められるようになってきた。

 

本作がメインに取り上げる若獅子ウィリアム、孤軍奮闘する雌ライオンのナイラ、そして右腕の肘から先を無くしたゴリラのドドには共通点がある。それは集団から疎外されてしまった個が、それでも仲間と共に生き抜く姿である。ライオンのオスはしばしば兄弟で放浪するし、最近ではこのような動画も世界中でバズった。ライオンのオスは高等遊民であるかの如く暮らす。千尋の谷に突き落とされることはないが、それでもプライドを追い出され、過酷な環境で自らの生存を確保しなくてはならない。国営放送がニートに向けたメッセージであるというのは深読みが過ぎるだろうか。

 

女手一つで6頭もの子どもを育てるナイラを指して「母は強し」というのはいとも容易い。しかし、それこそ昭和の価値観だろう。今、国が実施している求職者支援訓練の受講者には、かなりの割合のシングルマザーが含まれている。平成とは、離婚率と未婚率の増加の時代、少子化の時代とも総括できよう。もちろん、それも多様化の一側面である。だからシングルマザーを良しとしたいわけではない。逆だ。ライオンの雌がこれほどの苦境に陥るのは、仲間がいないからだ。サポート役がいないからだ。幼い子どもと一緒に狩りをするナイラの姿に、高校生の子どものバイト代までも家計に回さなければならない世帯が存在することに、我々はもっと意識しなくてはならないだろう。

 

ゴリラのパパ・ジャンティについても同様の考察が可能である。通常、動物の群れは奇形や障碍を有する個体には厳しい。少数を救おうとすることが全体を危機に晒すことになりかねないからだ。オオカミの群れなどは老齢の個体にも厳しい。しかし、パパ・ジャンティはその名の通りにgentlemanである。劇中でも描かれるが、当初は群れの他個体はドドにサポートを与えなかった。リーダーたるパパ・ジャンティの行動が集団全体に波及したのだ。障がいを能動的に負おうとする者などいない。しかし、障がいを負うことそのものは誰にでも起きうることだ。そうした時に、疎外をされないこと。誰かが手を差し伸べてくれるということ。そうした仕組みや意識が社会の成員に共有されているということ。それこそが生きやすい社会の一つの形だと思う。そうした気付きをもたらしてくれるゴリラのパパに、我々は敬意を表すのである。

 

ネガティブ・サイド

せっかく1時間半もの時間を費やすのなら、1種類の動物だけにフォーカスしても良かったのではないだろうか。ライオンならライオンに絞ってしまうという選択肢もあったはずだし、その方がよりドラマチックに編集できたろうにと思う。全体的なペースとトーンが。ライオン物語とゴリラ物語の間で一定していなかったように感じられた。監督は誰なのだろうか?

 

総評

いつもはテレビで観ているものを劇場で観ることの意味は何か。映像や音響が優れていることは当然として、暗転した環境なのでスクリーンに没頭できることが大きい。アフリカの豊かな自然と様々な動植物の世界にスッと入っていくことができた。第二、第三の劇場版が観たいし、『 コズミックフロント NEXT 』の劇場版も作ってくれないだろうか。映像美という点では、動物よりも天体の方に分があるだろう。特に暗い劇場では。子どもを連れて観に行くも良し。大人だけで鑑賞しても良し。ライトにもディープにも楽しめる作品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ドキュメンタリー, 葵わかな, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

『 マスカレードホテル 』 -トリックとプロモーションに欠陥を抱えた作品-

Posted on 2019年1月23日2019年12月21日 by cool-jupiter

マスカレード・ホテル 40点
2019年1月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:木村拓哉 長澤まさみ
監督:鈴木雅之

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これははっきり言って失敗作である。作品として失敗している点と宣伝の面での失敗、その両方の欠点を抱えている。特に後者は深刻で、熱心な映画ファン兼ミステリファンというのは、トレイラーや各種広告媒体から、これでもかと情報を引き出し、事前に推理を組み立てる習性があるものだ。そうしたファンの習性を無視したプロモーションにはどうしても辛口にならざるを得ない。一昔前の2時間サスペンスものなどは、テレビ欄の出演者の2番目もしくは3番目が犯人と相場は決まっていたが、それと同じようなことをまだやっているのかと落胆させられた。

 

あらすじ

都内で不可解な殺人事件が3件発生した。いずれの現場にも、謎の数列が残されていたが、それは次の犯行場所を示すものだった。4件目に指定されたのはホテル・コルテシア東京。捜査1課の刑事新田浩介(木村拓哉)はホテルのフロントクラークとして潜入捜査をするのだが、ぶっきらぼうで愛想の悪い新田は優秀なホテルマンの山岸尚美(長澤まさみ)とことあるごとに衝突をするのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

小日向文世の刑事役。『 アウトレイジ 』および『 アウトレイジ ビヨンド 』でのマル暴デカ役では、温和な刑事と腹に一物抱えた刑事の両方を見事に演じ分けていた。それに次ぐ名演技を見せてくれる。味方かと思わせて敵、敵と思わせて味方と硬軟自在に演じ分けるのは熟練の技。この人の存在だけで新田の更なる活躍を描く続編、そして前日譚の製作まで想像できてしまう。素晴らしいスパイスになってくれている。

 

もう一つ称賛に値するのはホテルのフロント部分。すべて大道具と小道具が作ったと言われている。実際にこのようなホテルが存在していても全く違和感のない仕上がりになっている。『 シン・ゴジラ 』における首相官邸と同じく、映画の本道たるリアリティの追求を最も説得力ある形で感じさせてくれたのが、ホテルのフロントおよびロビーラウンジ部分。原作小説は未読なのだが、おそらく作者の東野自身のイマジネーションに忠実に、もしくはそれを超えるようなものを創り出したのではないだろうか。

 

木村拓哉と長澤まさみの演技も及第点。ホテルのフロント側とバックヤードでは表情や歩き方、声の出し方、顔つき、立ち居振る舞いの全般が、しっかりとしたコントラストを生み出していた。演技にメリハリのないタレント俳優が散見される中、この二人ぐらいキャリアがあれば、当たり前ではあるのだが。また、最初はぎこちなかったフロントクラークの新田が徐々にらしさを身につけていく過程は良かった。まさかシーンを順を追って撮影したのではあるまい。編集の勝利だろう。

 

ネガティブ・サイド

劇中で新田が3件のうちの1件のトリックを推理するのだが、いくらなんでも無理があり過ぎる。Jovianの義理の父親は元警察官だが、もしも義父が映画館にいたら、ブチ切れて怒鳴っていたか、失笑してしまっていたことだろう。Jovian自身もあまりの呆れから、思わず妻と見つめ合ってしまった。いやしくも殺人事件を捜査する警察が、関係者の証言だけを信じて、あれほど簡単な裏取りを怠るなど考えられない。リアリティのかけらもないトリックだ。

 

こちらはトリックではないが、最後に犯人が使う道具についても以下、白字で指摘しておきたい。麻薬や向精神薬の類と並んで、筋弛緩剤のような薬剤がどのように管理されているか、原作者、脚本、監督の誰も理解していないのか。それともリサーチもしていないのか。分かった上で、まあ、これぐらいならいいだろう、とリアリティの追求をある程度最初から放棄していたのか。看護学校や医学部では袋に入った注射器が無くなっただけで上を下にの大騒ぎになり、病院で上述の薬品がミリグラム単位で紛失しても警察や保健所、場合によっては都道府県知事に届け出なくてはならないということを分かっているのか。動物病院から使用の痕跡の残らない筋弛緩剤を盗み出してきたというが、そんな与太話があってたまるものか。

 

さらにプロモーションについても一言。

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何故このような販促物を作ってしまうのか。いやしくもミステリを原作にしている映画なのだから、それを観に来るファンにもかなりの割合でミステリファンがいるということが予想できないのか。ミステリファンの生態を理解できないのか。ミステリファンの最大の愉悦の一つは、読む/観る前に犯人を当ててしまうことだ。タイトルを読む、あらすじを読む、そして表紙の挿絵をじっくりと見る。それだけで犯人を割り出せてしまう小説と言うのも、実際に世に送り出されたこともあるのだ。上のイメージだけで犯人が分かるわけではないが、それでも相当数のミステリマニアが登場人物=役者を頭に入れて劇場に来たのは間違いない。そして彼ら彼女らのかなりの割合が、映画のある時点までに消去法で犯人が分かってしまったに違いない。全てはアホなパンフレットやポスターを作ってしまった広報担当の責任である。

 

また熱心な映画ファンであれば、とあるキャラクターが怪しいということもある瞬間に分かったはずだ。以下はかなりきわどいネタになるが、『 セント・オブ・ウーマン / 夢の香り 』や『 ドント・ブリーズ 』を観たことがあるならば、一目見ただけで違和感を覚えるシーンが挿入される。小説ならば叙述で乗り切れるかもしれないが、映画にしてしまうのにはちょっと無理がある設定だったか。さらに演出面で言えば、長澤まさみのとあるルーティンやキムタクのとある所作が余りにもくどすぎた。『 64 』の電話帳ぐらいでよかったのだが。

 

総評

豪華俳優陣をそろえて物語を作るのは良い。また豪華俳優陣をそれぞれチョイ役で用いるというのも『 シン・ゴジラ 』で成功した手法なので許容可能である。問題なのは、ミステリを作るに際して最も大事な犯人とトリックの部分が、あまりにもお座成りになっていることなのだ。ライトな映画ファンにはそれなりのエンターテインメントになるのだろうが、年季の入ったミステリファンや映画マニアを唸らせる出来では決してない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ミステリ, 日本, 木村拓哉, 監督:鈴木雅之, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 マスカレードホテル 』 -トリックとプロモーションに欠陥を抱えた作品-

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