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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 歴史

『 海辺の映画館 キネマの玉手箱 』 -観客、傍観者になることなかれ-

Posted on 2020年8月19日2021年1月22日 by cool-jupiter

海辺の映画館 キネマの玉手箱 70点
2020年8月18日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:厚木拓郎 細山田隆人 細田善彦 吉田玲
監督:大林宣彦

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大林監督と言えば、赤川次郎の小説の映画化、そして『 ねらわれた学園 』(てやんでい、という表現は本作で初めて触れた気がする)や『 時をかける少女 』などの青春タイムトラベル小説の映画化というイメージ。惜しくも遺作になってしまった本作にも、やはりタイムトラベル要素が組み込まれている。R.I.P to Nobuhiko Ōbayashi.

 

あらすじ

広島県尾道市の海辺の映画館「瀬戸内キネマ」が閉館にあたって、日本の戦争映画をオールナイト上映することになった。それを観に来ていた毬男(厚木拓郎)、鳳介(細山田隆人)、茂(細田善彦)は、突如劇場を襲った稲妻の閃光に包まれ、銀幕の世界へと入り込んでしまい・・・

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ポジティブ・サイド

物語世界に入ってしまう作品というのは、外国産だと『 はてしない物語 』や『 ジュマンジ 』、やや古いところでは『 ラスト・アクション・ヒーロー 』などが思い浮かぶ。邦画では『 今夜、ロマンス劇場で 』のように銀幕から出てくる系はあっても、逆は少ない。その意味では本作には希少価値がある。玉手箱とは、一種のタイムマシーンの謂いであろう。

 

全編戦争映画で、太平洋戦争だけではなく戊辰戦争や日中戦争までもが描かれている。これだけでも大林宣彦監督が、司馬遼太郎的な中途半端に自身に都合の良い歴史観を持っていないことが分かる。日本の歴史において明治や大正が最高で、昭和中期だけが歴史の鬼子なのだという司馬史観は、小説家の空想ではあっても、確固たる世界観や歴史観としては成立しない。「歴史はどこを見ても常に戦争前夜である」と言ったのはE・H・カーだったっけか。戦争などというものは、その悲惨さを知らなければ回避しようと努力などできないと思う。

 

本作は、厚木拓郎演じる毬男が吉田玲演じる希子を様々な時代で過酷な境遇や戦禍から救い出そうと奮闘する様を軸に進んでいく。異なる映画、すなわち異なる時代の異なる場所、異なる人物として巡り合う希子たちを三馬鹿が救い出そうと必死に頑張る姿は、大林流の独特かつ前衛的なタッチの映像により、とてもコミカルに見える。だが、それこそが監督の意図する仕掛けである。笑いは、自分と対象との距離が一定以上にある時に生まれる(コメディアンと自分がそっくりだったら笑えないだろう)。つまり、毬男たちの姿を笑うことで歴史上の戦争と現代の観客の距離感が演出されているわけだ。しかし、時にユーモラスなそのタッチも時代を経るごとに、つまり太平洋戦争に近付くほどにダークでシリアスなトーンを増してくる。監督の故郷である広島に原爆が落とされる前夜に至っては、絶望的なムードさえ漂う。せっかく何とか脱出させることができたと思った希子も、結局は広島に帰ってきてしまうのだ。この歴史の距離感がどんどんと近くなってくるにつれて、笑えなくなってくる感覚。時間を巡る不思議な物語の描き方の点で『 弥生、三月 君を愛した30年 』の3.11に通じるものがある。だが、地震は天災でも原爆は人災である。避けられたはずなのに避けられなかった。そこで生きて、そこで死んだ人たちがいた。その人たちの生死に何らかの形で自分が時を超えて関わることができたという、この不思議な映画体験こそが大林監督が次世代に伝えたい、残したいものなのだろう。

 

幸いにも日本は平和ボケと言われて久しい。それはなんだかんだで戦争、そして悲惨すぎる敗北を知っている世代が政治の世界に長老として存在していたからだ。今の政治家を見よ。自分の頭では何も考えられない甘やかされたボンボンだらけである。こういう連中は人の痛みに鈍感なので、権力を握ると弱い者いじめに走る。消費税増税が好例だ。大林監督のメッセージは単純である。傍観者になるな。テレビでもPCのモニターでもいい。その先にある世界(政治や経済や娯楽や文化や芸術)を想像せよ、体感せよ、そして行動せよということだ。

 

ネガティブ・サイド

3時間の作品だが、2時間40分程度に仕上げられなかったのかな。この酷暑の折、映画館に出向くまでに結構な量の汗をかいてしまい、どうしても鑑賞中に水分補給が必須になる。現に途中、何人もトイレ休憩に立ったし、中にはそのまま戻ってこない観客もいた(これは大林作品以外でも時折見られる現象ではあるが)。途中にギャグのようなIntermissionを挿入しているが、本当にそこで5分程度のIntermissionをとっても良かったように思う。夏の映画館で2時間30分超は膀胱的にはかなりしんどい。

 

文字をスクリーンにスーパーインポーズさせるのは別に良いのだが、その背景色が最初から最後までカラフルだったのは、個人的にはあまりピンとこなかった。『 オズの魔法使 』のように、モノトーンの映画はモノトーン、近代以降はカラー、というように区別してもよかったのではないか。

 

以下、かなりどうでもよいこと。和姦と強姦の両方が描かれるが、PGレーティングはどうなっているのだろうか。特に沖縄戦時の笹野高史演じる軍人が山崎絋菜を犯すシーンはアウトだろうと思う。そして、成海璃子は『 無伴奏 』の時と同じく、乳首は完全防備。なんだかなあ・・・

 

総評

年に数回しか映画に行かないという人々には、なかなかお勧めしづらい。けれども、宮崎駿が正真正銘の引退作に『 君たちはどう生きるか 』というメッセージを発しようとしているのと同様、戦争を知っている世代からのメッセージには耳を傾けるべきと思う。映画ファンであれば、大林監督の反戦への思いと次世代への希望を体感してほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

troupe

桜隊=The Sakura Troupeの「隊」である。発音は troop と同じ。語源も同じとされる。『 スター・ウォーズ 』のストーム・トゥルーパーや珍作かつ傑作『 スターシップ・トゥルーパーズ 』はtroopにerがついたものである。Troupeの意味としては、『 ロケットマン 』でもフィーチャーされた名曲“Your Song”の歌詞にある、a travelling showであると理解しよう。この語を普通に知っていれば英検準1級以上の語彙力である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ファンタジー, 厚木拓郎, 吉田玲, 日本, 歴史, 監督:大林宣彦, 細山田隆人, 細田善彦, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 海辺の映画館 キネマの玉手箱 』 -観客、傍観者になることなかれ-

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

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ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

Posted on 2020年6月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 70点
2020年6月14日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン エマ・ワトソン フローレンス・ピュー ティモシー・シャラメ
監督:グレタ・ガーウィグ

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Jovianと同世代(不惑)か、それ以上の世代ならば、ハウス名作劇場の『 愛の若草物語 』を観ていたことだろう。まさかグレタ・ガーウィグが同作品を参照していたとは思わないが、豪華なキャスティングにもかかわらずマーチ四姉妹の特徴はしっかりと保たれていた。

 

あらすじ

ジョー(シアーシャ・ローナン)は小説家志望。長女メグ(エマ・ワトソン)や三女エイミー(フローレンス・ピュー)、四女ベス、そして向かいに住む裕福なローレンス家の長男ローリー(ティモシー・シャラメ)らと、南北戦争時代の陰鬱なアメリカで、それでも健気に前向きに生きていこうとするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメの共演となると『 レディ・バード 』を思い出す。実年齢からすればハウス名作劇場のような10代半ばを演じるのは厳しいはずだが、それを感じさせない。フローレンス・ピューとベス役のエリザ・スカンレンの童顔の果たす役割も大きいだろう。若草物語と言えば、どうしたって姉妹の少女時代の話がメインになる。同時に原題のLittle Womenというのも、「私たち姉妹は小さいけれども立派な大人の女性なのだ」という意味を内包している。そうでなければ Little Sisters や Little Girls というタイトルがつけられていたはずだ。そうした姉妹のビルドゥングスロマンを、本作はジョーの15歳時代と22歳時代を交互に行き来することで、効果的に、そしてユニークに描き出した。

 

効果的に、というのは『 若草物語 』の背景をくどくどと説明しなかったところ。『 スパイダーマン ホームカミング 』でも、蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを手にするも、自らの不注意でアンクル・ベンを死なせてしまって・・・という誰もが知っているオリジンをばっさりと省略したところが潔かった。それと同じで、いきなりジョーが作家として世に旅立とうとするところから本作は始まる。これでいいのだ。

 

ユニークというのは、ある意味で観る側を置いてけぼりにしてもかまわないぐらいの勢いで二つの時間軸を何の前触れも説明もなく移動するところである。もちろん、ジョー15歳の時点ではあるキャラクターが存在して、ジョー22歳時点ではあるキャラクターが存在しないなど、『 若草物語 』に関する事前の背景知識があったり、キャラクターたちの話している事柄をすぐに理解できれば、目の前のシーンが“いつ”なのかを把握するのはたやすい。そうでなければ多少難しい。だが、それでもよいのである。この少々ややこしい時間の描写方法により、ストーリーの虚実皮膜の間が徐々にblurryになっていく。これがクライマックスの演出で効いてくる。これはなかなかの仕掛けである。

 

ローラ・ダーンはやはり『 ジュラシック・パーク 』のイメージが強かったが、『 マリッジ・ストーリー 』で完全に独立不羈の女性へと飛躍して、今では完全なる肝っ玉母ちゃんである。『 ジョジョ・ラビット 』のスカジョも良かったが、あちらはママ。こっちは母ちゃん、という感じ(本人は「ママと呼んで」とローリーに言っていたが)。

 

それでもパフォーマーとしては主役のシアーシャ・ローナンが光っていた。抑圧された時代を雄々しく生きる強い女性・・・ではなく、抑圧された時代に打ちのめされることで強くなった人物という印象を強く受けた。生涯をかけて打ち込めるもの、それが彼女にとっては物語や小説を執筆することだった。冒頭で「辛いことが多かったから、私は楽しい物語を書く」といった趣旨のジョー・マーチの言葉が映し出されるが、彼女にとって物語をつづることは、自分の人生を追体験することであり、経験することのなかった人生を生きることであり、生きていた人物が確かに「生きていた」ということを証明するための試みでもある。そして、それはそのまま今の時代に『 若草物語 』を再解釈しようとしたグレタ・ガーウィグ監督の意図と重なる。想像力があり、聡明で、時代によって規定される人間の枠組みにはまらず、孤高の生き方を目指すが、孤独に対して怯えや悲しみの心情を隠すことなく素直に吐露することもできる。どこまでもリアルなジョー・マーチ像が、確かにシアーシャ・ローナンによって生み出された。女性のみならず、男性も、子どもも、高齢者をエンパワーしてくれる、力強いパフォーマンスである。

 

ネガティブ・サイド

時代背景に関する説明がもう少し欲しかった。キャラクターの説明をばっさりと省略した点は評価に値するが、それと同じように時代背景や当時の社会の空気の説明までも省いてしまうのは賛成しない。国が内戦状態であることや、家父長の不在、独身女性の不遇なども、もう少し語れた、あるいは描写できたはずだ。

 

出版社の編集長に、女性キャラクターの行く末のあれこれを指示させるやり方はあまり上手いとは言えない。これはおそらくグレタ・ガーウィグ監督自身の経験が投影されているものと推測する。過去の人間の声を現代人が代弁することは良い。だが現代人の声を過去の人間に代弁させるのには少々違和感を覚える。

 

エマ・ワトソンとフローレンス・ピュー、特にピューにもっと見せ場が欲しかった。一番の見どころがジョーとの喧嘩とは・・・。さらにはclichéとしか言えない仲直りを見せつけられては・・・。『 ミッドサマー 』の時のように、精神的な脆さ、不安定さを引き出すことができていれば、後半の幸せなシーンがより際立ったように思う。シアーシャ・ローナンが主役ではあるが、その主役を最も輝かせるべき姉妹は、フローレンス・ピューであるべきだった。

 

総評

若草物語を知っている人なら劇場へ行こう。若草物語を知らないなら、最低限のあらすじやキャラクターだけを予習して劇場へ行こう。生きづらさを抱えていたり、過去に囚われて前になかなか進みだせない。そう表現してしまうと大仰だが、誰もがどこかで何かを間違えて、そのせいで目の前の現実に向き合えないことがある。そうした現実に、物語の力で向き合ったジョー・マーチの姿は、観る者に勇気を与えてくれる。豪華女優陣が勢ぞろいしているからではない。単純に良い作品だから、ぜひ劇場へ行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be hard on ~

三女エイミーの台詞に、“The world is hard on ambitious girls.”というものがあった。「若い女性が大志を抱くと、世間の風当たりが強くなる」のような意味である。be hard on ~=~にきつく当たる、のような意味である。いじめに少し近いか。学校でのいじめはbullyだが、「職場でマネージャーにいじめられて、腹立つ!」は“I’m so frustrated because the manager is hard on me!”のようになる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ワトソン, シアーシャ・ローナン, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, フローレンス・ピュー, 伝記, 歴史, 監督:グレタ・ガーウィグ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

Posted on 2020年6月7日2021年1月21日 by cool-jupiter

ハリエット 65点
2020年6月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シンシア・エリヴォ ジャネール・モネイ
監督:ケイシー・レモンズ

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これまでにも『 グリーンブック 』や『 アメリア 永遠の翼 』、『 2019年総括と2020年展望 』など、当ブログでもハリエット・タブマンについては何度か触れてきた。その映画がついに公開である。極端な話、Jovianはコロナ禍の今年はこれと『 ゴジラVSコング 』だけで良いとすら思っていたほどである。Don’t get your hopes up …

 

あらすじ

アラミンタ・ロス(シンシア・エリヴォ)は、メリーランド州で奴隷として過酷な労働に従事させられていた。ある時、さらに過酷な南部へ売り出されることになったミンティはブローダス家から逃げ出し、自由のある北部を目指す。無事に逃げ切ったミンティは、名をハリエットに変え、南部奴隷の解放に尽力するようになり・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは英会話講師(現在はトレイナー業務がメインになっている)で、特にTOEFL iBTを担当することが多かった。なのでアメリカ近現代史はそれなりに勉強せざるを得なかったし、その中で最も多く名前が出てくる人物というのはユリシーズ・グラント、ジョージ・ワシントン、ハリエット・タブマン、ジョン・ミューアあたりだろうか。トレイラーでシンシア・エリヴォを見た時、キャスティングの正しさを直感した。そして実際に本編を観て、キャスティングの正しさを確認できた。シンシア・エリヴォは、演技力だけではなく歌唱力と存在感でハリエット・タブマンという立志伝中の英傑をスクリーン上に現出せしめた。特に印象的だったのは「決めつけないで!」と一喝するシーン。女性だとか黒人だとかの前に、人間としての尊厳を問う、非常に鋭い演出だったと感じた。

 

公開のタイミングが良いのか悪いのか分からないが、警察官によるジョージ・フロイド氏の殺害事件、それに対する抗議(暴動は除く。あの大多数はよその土地から来た火事場泥棒であることが判明している)が静かな内戦状態(英語ではThe Civil War = 内戦 ≒ 南北戦争)になっているところを見れば、黒人差別問題の根深さがどこまで遡れるかが分かるだろう。そうした奴隷たちが歌うバラードが一種の暗号として働くところは、史実を知る者としてニヤリとさせられた。同時に、作業の手を止めると容赦なく暴力を振るわれる労働環境にも慄然とさせられた。自分がテキストや問題集、ネット上のpassageで知っていたハリエット・タブマンとその時代が、情報ではなく、現実として迫ってきたからだ。

 

ハリエットの女モーゼとしての活躍は目覚ましい。Jovianの知識では彼女は北部のフィラデルフィアに脱出後に19回南部へ旅立ち、合計で200~300人(一説には800人とも)の脱出を助けたとも言われているが、本作は70人という数字を呈示した。それもリアリスティックな数字だろう。徒歩で、集団で、馬と犬と銃で追ってくる相手から数日~数十日を逃げ切るというのがどれほど大変なことか。そうした逃走劇の難しさも本作は描いている。

 

当然ながら、歌や音楽も素晴らしい。特にTheme Songである“Stand up”は、『 キャッツ 』の主題歌“Beautiful Ghosts”に勝るとも劣らない哀切さと希望への確信をもって歌われているし、サム・クックの“A change is gonna come”とボブ・マーレーの“Redemption Song”のように聞く者にインスピレーションを与えてくれもする。これもまたシンシア・エリヴォの起用が正解たる理由である。

 

それにしても日本の映画レビューサイトや評論家は、ハリエット・タブマンを指して「紙幣に載るのは黒人女性として初」のような御幣のある表現、あるいは自分自身が誤解している、もしくは勉強不足であることを露呈してしまうかのような書き方をするのだろうか。ハリエット・タブマンは黒人女性として初なのではなく、女性として初であり、もっと言えばアメリカ紙幣にこれまで顔が載ったのはすべて大統領である。ゆえにハリエット・タブマンを正確に評するなら、「大統領以外でアメリカ紙幣に載った人物」となる。そして2020年現在、アメリカ史に女性大統領は存在していないし、今年2020年に女性候補者が立つ見込みもない。

 

ネガティブ・サイド

ハリエットが散発的な失神症状に悩まされていたのはよく知られている。だが、意識を喪失している間に神と交信していた、というのは初めて聞いた。おそらくケイシー・レモンズ監督の独自解釈なのだろうが、ハリエットの妙な神格化はやめてほしかった。『 ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男 』にもあったように、沼地の渡れるポイントを知るごく一部の人間、のような描かれ方の方が好ましかった。劇中でも川を渡っていたが、実際にハリエットが追っ手を振り切るのに使った地形は沼が最も多かったとされている(Jovianが文献などで知る限りでは)。その卓越した自然の観察力と洞察力、人間の五感と運動能力をフルに駆使して追走者から毎回見事に逃げおおせる、という描写はできなかったのだろうか。

 

ジョー・アルウィン演じる領主の描写にも不満である。これではまるで『 ジャンゴ 繋がれざる者 』のディカプリオではないか。もちろん、当時の白人地主がああいう格好であったことは承知している。それでも、これではあまりにもstereotypicalであるし、ハリエットの追走者として役不足である。

 

ハリエット・タブマンと言えば「地下鉄道」、「地下鉄道」と言えばハリエット・タブマンのはずだが、肝心かなめのこの人的ネットワークがほとんど描写されなかった。地下鉄道のユニークなところは黒人と白人、両方で構成されているところで、なおかつそのネットワークの全容を知る人間がほとんどいなかった、と考えられているところである。実際に劇中でも、逃走奴隷をかくまったとしてハリエットの父が追われることになるが、組織の全容を知る人間が増えるとそれだけ危険が増す。誰か一人でも捕まって拷問されてしまったら組織として一巻の終わりだからである。そうした人的ネットワークの広大さと緻密さ、その大きさを全て知っている組織人かつ一匹狼のハリエットという人間像が打ち出されなかったのは個人的には少しがっかりであった。

 

総評

普通に面白い作品、標準以上のレベルに仕上がった伝記映画のはずだが、観る側が期待に胸を高鳴らせすぎたようである。ただし、これはハリエット・タブマンをそれなりによく知っている人間の感想である。実際にJovianの嫁さんはかなり感動したらしく、本作を絶賛していた。現実の世界と本作を重ね合わせて見ることで、様々なものが浮かび上がって来るという意味では、単なるエンタメ的な伝記以上の価値があるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

emancipation

「自由」、「解放」といった意味である。劇中ではfreedomやliberationといった語が使われていたと記憶しているが、emancipationはなかった。だが、アメリカの奴隷解放には、このemancipationが使われている。Freedom, liberation/liberty, emancipationの使い分けが適宜にできるようになれば、英検1級レベルの手前ぐらいだと判断できる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アメリカ, ジャネール・モネイ, シンシア・エリヴォ, 伝記, 歴史, 監督:ケイシー・レモンズ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

Posted on 2020年3月30日 by cool-jupiter

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 60点
2020年3月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三島由紀夫
監督:豊島圭介

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悪質タックル問題からまんまと逃げきった感のある日大の田中理事長だが、このオッサンが学内で権力を掌握する過程の発端は日大全共闘にまでさかのぼるということは、多くのメディアが指摘した。その全共闘の東大版が本作である。日大・田中理事長は、いわば暴力でのし上がったが、本作は全共闘の弁論、いわば言葉と言葉のぶつかり合いに焦点を当てている。

 

あらすじ

1969年5月、東京大学駒場キャンパス900番教室。保守論壇の大物として君臨していた三島由紀夫は東大全共闘から体制側の人間と見られ、集会に“招待”されていた。暴力を辞さない全共闘の招きに応じた三島は、言論で彼らと渡り合うが・・・

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ポジティブ・サイド

『 坂道のアポロン 』の時代が、まさにここである。と、したり顔で語ってみても、Jovian自身が当時に生きていなかったのだから偉そうなことは言えない。それでも、人並み程度には歴史に関心を持っている身としては、やはり色々と調べた時期もあったのである。なによりもJovianの母校である国際基督教大学(ICU)は、おそらく他の日本の大学よりも学生運動に対するアレルギーが格段に強い。今はどうかは分からないが、少なくとも2000年前後、Jovianがまだ青い大学生であった頃はそうであった。そのことは、当時のICUと他大学のキャンパスの模様を比較してみれば一目瞭然であった。同時期の法〇大学や学●院大学、東京□立大学(当時)のキャンパスには、「総長の辞任を要求する!」だの「学生食堂値上げ断固反対!」だの「サークルにも部室を与えよ!」だのといった、過激(当社比)な立て看板が散見されたのである。学生運動とはつまり、子どもの駄々なわけである。駄々という言葉が酷ならば、若気の無分別と言い換えてもよい。それが時代の機運もあってか、極めて組織的かつ反体制的に盛り上がった。同時期の他国の運動はいざ知らず、日本の学生運動の一番の本質を、Jovian自身はそのように見ている。

 

と私的に総括してしまうと、これは映画のレビューではなく歴史の解釈になってしまう。ここからは、少々真面目に映画をレビューしたい。

 

まず、なぜ今になって三島由紀夫なのか。東大全共闘なのか。そうした疑問が当然に沸き起こる。様々な答えが考えられるが、豊島圭介監督やプロデューサー達の問題意識の根っこに、現代日本における思想と言論の変遷(または変質や変異と言ってもいい)があることは間違いない。元々、右派・右翼とは「体制の維持を是とする集団および思想」であり、左派・左翼とは「体制の変革を是とする集団および思想」を指す。ところが、どういうわけか現代日本では右翼(ネトウヨ)が憲法改正を声高に叫ぶ一方で、左翼(パヨク)が平和主義や基本的人権の尊重をあらためて強調するという奇怪な状況が生まれている。こうした状況の萌芽が、1968~1969年という“内乱の時代”に見つけられるのではないか、というのが本作の制作者たちの主張だろう。そして、それはかなりの程度、的を射ているものと考える。その理由は後述する。

 

本作はドキュメンタリー映画として、非常に上質であり、また秀逸である。三島由紀夫という人物の生涯ではなく、全共闘との討論の場にスポットライトを当てることで、三島の人物像、そして思想の全体像が逆にくっきりと浮かび上がってきた。特にエンターテインメント性が高いと感じられたのは、演劇作家の芥正彦との噛み合わない議論である。文学者の三島は、コミュニケーションを“Not real space, Not real time”でも成立しうるものとして、演出家・劇作家の芥は“Real space, Real time”でしか成立しないものとして議論する。滑稽だ。三島ならば本能的、直感的に芥と自身の立ち位置の違いを冷静に指摘することもできたはずだ。また、芥がとことんまで理論武装して語る言葉の空虚さを突くことも可能だったはずだ。芥の思想の根幹にあるのは、マルクスの“歴史”やサルトルの“対自存在”への批判的意識である。三島は反知性主義の根源を、知性の極みにあると見るか、知性の底辺にあると見るか、それについては分かりかねると述べる。だが、芥を見る限りにおいては、反知性主義は知性の極みから生じるようである。賢哲の愛智家の言葉をいくら借りても空虚にしか聞こえない。なぜなら、芥の思想は常に何かに対する批判という形でしか存在していないからだ。芥に限らず、全共闘の連中は、世界は諸事実との関係から成るのだから、まずは存在する個々の事物との関係の在り方を問わねばならない云々と「お前らはヴィトゲンシュタインの出来損ないか!」と一喝してやりたくなる主張を繰り返すが、彼らは一様に自分自身の存在と向き合わなかったし、今も向き合っていない。三島ほどの賢者なら、全共闘の連中が言う物象化論を逆手にとって、「お前たちこそ、その拳を武器にして、その手にゲバ棒を掴んで、自分自身をモノ化、武器化している」と容易に反論できたはずだ。それをしなかったという事実それ自体が、基地外を基地外(敢えてこう変換している)として扱わず、主体性ある人間として扱っている証拠である。こうした三島の思想を現代人に問うのは、製作者が現代人の知性とコミュニケーション能力に一縷の望みを抱いているからだろう。

 

非常に興味深く、また勉強になったと感じられたのは三島の天皇観。天皇機関説と天皇主権説がごっちゃになっていて「なんじゃ、こりゃ?」と面食らった。しかし、三島の生きた時代背景、そして三島が個人的に得た天皇体験に裏打ちされたものと知り、得心することができた。「天皇は反日」なるキチガイとしか思えない発言をするネトウヨ連中や神社庁のトップ、さらに日本会議のお歴々には、個人的な天皇体験というものがないのだろう。ゆえに、天皇=国体=自身の理想とする国家像がめでたく等号で結ばれることとなる。そうした者たちにとって、天皇とは人間ではなく記号なのである。泉下の三島は現在の保守論壇をどのように見つめているのだろうか。

 

1969年というのは、実に象徴的な時代である。東京オリンピックの数年後であり、大阪万博のまさに前夜であった。つまり、日本という国が強烈な外部の視線にさらされ続けた時代だったのだ。そこで日本という国の在り方を自身の在り方に重ね合わせて希求した三島由紀夫と、反動と反抗という形でしか希求できなかった全共闘。もとより言論に勝敗も何もないものだが、どちらが大人でどちらが子どもかは火を見るよりも明らかである。経済格差以外に、日本でも思想の“分断”が見られる。これも内乱の火種になるだろう。アメリカはオバマが分断を生み出し、結果トランプ政権が爆誕した。今や、その反動でバイデン勝利の芽がどんどんと成長しつつある。そして、そこからまた分断が生まれ、内乱状態になるのだろう。日本とて同様である。我々がこの作品から受け取るべきメッセージは何か。様々なものがあるが、最も陳腐なものは「対話を志向せよ」ということだろうか。

 

Jovianは実は三島の作品を読んだことがない。不勉強の誹りは甘んじて受ける。

 

ネガティブ・サイド

何かとお騒がせの東出昌大のナレーションは、はっきり言って下手である。『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』の田辺誠一と大塚寧々と同じくらいに下手である。言葉に抑揚や強弱がないのだ。別にナレーターまでが熱情をほとばしらせて喋るべし、とまでは思わない。だが、本読みしているだけにしか聞こえない。臨場感を生み出してやろうという気概が感じられないし、実際には作品に緊張感や深みを与えていない。もっとマシな人選はできたはずだ。

 

三島および東大全共闘を現代から語る面々にインパクトがない。瀬戸内寂聴はそれなりに著名人だが、もっと他にインタビューすべき相手や、過去の映像や活字を掘り起こすべき対象はいくらでもいるはずだ。パッと思いつくだけでも菅直人や猪瀬直樹といった政治家(いや、政治屋か)や、高橋源一郎といった文筆家にもインタビューができたはずだし、するべきだった。もしくは石原慎太郎に三島や当時の日本のアカデミアや論壇の在り方がどのようなものだったか証言させてもよかった(耄碌していて無理だったのかもしれないが)。もしくは、それこそ丸山眞男その人も引っ張り出せたはずだ。本人へのインタビューはもはや不可能だが、それでも丸山の講義や講演の多くはテープに残されている。実際にJovianも在学中に聞いたことがある。丸山自身が全共闘を語った記録が残っていないわけがない。そうしたものを発掘してこそ「報道のTBS」ではないのか。全共闘の主要メンバーが「なぜ全共闘は敗北したのか」という問いに「敗北はしていない。運動は市井の中に拡散していったのだ」と詭弁を弄するが、これなどは三島が批判していた「暴力を闘争と言い換える」という行為そのままである。こうした点を批判する声を上げられる人間を連れてくるべきだったのだ。

 

本作の弱点は、現代に対するメッセージが非常に貧弱な点である。もちろん、三島の言葉や、あるいは全共闘の歴史から一義的なメッセージのみを受けとったとすれば、それはそれで失敗だろう。それでも、今という時代を狙って三島および全共闘にスポットライトを当てたことの意義を、製作者はいくらかでも自らの言葉で語るべきだった。その意味では『 主戦場 』には大きく劣っている。

 

総評

非常にスリリングな議論が収録されているが、はっきり言って、東大全共闘の面々の論理が過去も現在も破綻している。三島と全共闘の共通の敵として「猥褻な日本」があると芥は言うが、これも詭弁だ。三島の言うエロティシズムの定義をよくよく思い起こされたい。芥は自分たちの存在が「猥褻な日本」という観念に侵害されていた。だから闘ったと言う。だが、それこそまさに自分たちが三島を集団レイプしようとしていたことと表裏一体であることにどうして気づけないのか。これこそ、Jovianが全共闘や学生運動を駄々っ子だと断じる理由である。あれは、ちょっと過激な部活動に過ぎなかった。もちろん、これはJovianの私見に過ぎない。感想は観た人の数だけあってよい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

believe in ~

三島が言う「私は諸君らの熱情は信じる」の“信じる”である。believe ~ = ~を(良い・正しいものとして)信じる、という意味である。一方、believe in ~ = ~に対して強い信念を持つ、という意味である。このあたりの使い分けができれば、英語初級者は卒業である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ドキュメンタリー, 三島由紀夫, 伝記, 日本, 歴史, 監督:豊島圭介, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

Posted on 2020年3月7日2020年9月26日 by cool-jupiter

ジュディ 虹のかなたに 75点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:レニー・ゼルウィガー ジェシー・バックリー フィン・ウィットロック
監督:ルパート・グールド

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『 オズの魔法使 』は『 スター・ウォーズ 』と並んで、Jovianにとってオールタイム・ベストの一つである。そこでドロシーを演じたジュディ・ガーランドの晩年を描いた物語とあれば、観ないという選択肢は存在しない。

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あらすじ

ジュディ(レニー・ゼルウィガー)は子どもと共にステージに上がって、日銭を稼ぐ日々。カネが底を尽き、ホテルとの契約も解消となったジュディは元夫の家に駆けこむ。子どもと一緒に暮らすための家、そして親権を手に入れるため、ジュディはロンドンでの公演に臨むが・・・

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ポジティブ・サイド

ジュディ・ガーランドについては、実はそれほど多くは知らない。ただ、一般的な意味での幸せな人生を歩んでこなかった人であるということは、どこかで読んでいた。彼女はバイセクシャルで、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョンのような、マイノリティの悲哀を誰よりも先に体現した、一種の先駆者だったのだ。『 イミテーション・ゲーム 』で描かれた頃の英国が舞台で、いわゆるLGBTが枕を高くして寝られる地域でも時代でもなかった。そうした状況で、彼女が同性愛の男性カップルとささやかな交流を持つシーンに、大女優にして大歌手であるジュディ・ガーランドではなく、一人の“普通”の人間の姿を垣間見るようだった。

 

本作は、過酷な生活環境に置かれたジュディの子役時代と現在を行き来する。そうすることで、現在の彼女の苦しみの根の深さを浮き彫りにする。同時に、彼女が何を求め、何を得られなかったのかをも明らかにする。ジュディが求めていたもの、それは愛である。愛ほど定義に困る概念はないが、本作でジュディの求める愛は「求めること」である。あの虹の彼方に夢の国がある。夢の国にたどり着くことではなく、その旅路そのものに意味があるのだ。ラストの“Over the Rainbow”のもたらす感動は圧倒的である。『 サウンド・オブ・ミュージック 』の“エーデルワイス”、そして『 キャッツ 』の“メモリー”、そして“Beautiful Ghosts”を合わせたかのようである。

 

『 アリー / スター誕生 』の冒頭のタイトルが浮かび上がってくるシーンでレディー・ガガが口ずさんでいたのが“Over the Rainbow”である。『 スタア誕生 』で得られるはずだったオスカーは、しかし、ジュディの手には渡らなかった。それをゼルウィガーが今年、手に入れた。泉下の人となって久しいジュディも、get happy したことと思う。

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ネガティブ・サイド

LGBT、ドラッグ、乱れた生活、壊れていく人間関係。成功する人間が堕ちていく様には一定のルールでも存在しているのだろうか。もちろん、ジュディ・ガーランドは20世紀半ばの人物で、彼女こそが成功と失敗のジェットコースターに乗った第一世代ではあるのだが、ストーリーそのものにも真新しさはなかった。

 

また、ある人物の特定の時期にスポットライトを当てるやり方も『 スティーブ・ジョブズ 』などでお馴染みである。もっと『 オズの魔法使 』制作当時に比重を置いた作りでも良かったのかもしれないと感じる。

 

後はエンディングのクレジットシーンで、ジュディ・ガーランド本人の映像や写真が絶対に映されると期待していたが、それがなかった。何故だ。権利関係なのか。作りはハリウッドのbiopicのクリシェなのに、こうしたところでは王道を外してくる。何故なのだ、ルパート・グールド監督?

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総評

ジュディ・ガーランドの名を知らなくても、“Over the Rainbow”を知らないという人はいないだろう。歌手としても歌の方が、女優としてよりも作品の方が大きいという存在。それがジュディ・ガーランドである。そんな彼女がジュディ・ガーランドとしてではなく、一人の人間としてステージ上で“愛”を求めて歌う。若い世代で本作に感銘を受けたならば、ぜひとも『 オズの魔法使 』や『 スタア誕生 』を観てほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

take ~ seriously

「 ~を真剣に受け取る 」、「 ~を真面目に捉える 」といったような意味である。『 ダークナイト 』でジョーカーが【 昼間のセラピー・セッション 】から立ち去る時に、“Why don’t you give me a call when you wanna take things a little more seriously?”と言い放つときにも使われている。これの反対表現は take ~ lightly である。ちなみに『 グーグル ネット覇者の真実: 追われる立場から追う立場へ 』には“Are you taking me lightly?”というフレーズは一時グーグル社内で流行したというくだりがある。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ヒューマンドラマ, フィン・ウィットロック, レニー・ゼルウィガー, 伝記, 歴史, 監督:ルパート・グールド, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

『 スウィング・キッズ 』 -Your memory never fades away-

Posted on 2020年2月24日2020年9月27日 by cool-jupiter

スウィング・キッズ 80点
2020年2月22日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:D・O ジャレッド・グライムス
監督:カン・ヒョンチョル

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シネ・リーブル梅田ではたびたび予告編が流れていて、気になっていた作品。タップダンスは兵庫県立芸術文化センターで一度、live performanceを見たことがある。『 サニー 永遠の仲間たち 』の監督がダンスをどう料理してくるのか興味津々だったが、『 ダンス ウィズ ミー 』の矢口史靖監督は本作を観て、『 スウィングガールズ 』の頃に立ち返るべきであろう。

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あらすじ

1951年、米中二大国の代理戦争の場となった南北朝鮮戦争時、韓国の捕虜収容所の米国人所長は、対外的イメージアップおよび北朝鮮人の思想軟化と懐柔のために、タップダンスのチームを下士官のジャクソン(ジャレッド・グライムス)に作らせる。人民共和国軍の英雄の弟ロ・ギス(D・O)らは衝突しながらも練習を積み重ねていくが・・・

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ポジティブ・サイド

ジャクソンが一人で踊るタップダンスに見入ってしまったロ・ギスが、それから目にするもの耳にするもの全てがタップダンスのリズムで捉えられてしまうようになってしまうシークエンスが素晴らしく良かった。歌や踊りというのは、往々にして言葉で表現することが難しい感情や衝動の発露である。有り余ったエネルギーをタップダンスに注ぎ込むようになるロ・ギスだが、そこに至るまでの内面の葛藤および外部からの視線が良いバランスで描けている。変顔で踊れる喜びを表現するシーン、そして屋外での練習を何事もなかったかのように誤魔化すシーンは白眉である。

 

そのタップダンスのシーンも圧倒的である。特にダンサー兼教官役のジャクソンには、俳優ではなく本職のタップダンサーを起用。これは正しい判断だろう。『 はじまりのうた 』でも歌手役にMaroon 5のアダム・レヴィーンを起用したが、俳優に歌わせるよりも歌手に演技させた方が良いことも多い。ジャクソンのタップダンスが圧倒的にハイクオリティであるため、それに応戦する、何とかして食らいつこうとするロ・ギスの奮闘がさらに際立つ。チームの他のメンバーも踊れるデブに伝統舞踊の男、4か国語を操る女子パンネなど多士済々。特に、最後の女子は何かと話題の唐田えりかにどこか似ている。唐田も本格的に韓国語+ダンスを習得して、韓国芸能界でサバイバルをしてみてはどうか。あちらで5~10年戦って、大谷亮平のように凱旋帰国すればよい。また語学学習者、特に英語学習者はパンネのしゃべりを参考にされたい。KISSの法則、すなわちKeep it simple and shortである。一定以上の長さの外国語を話すときには、直訳はご法度である。正確に話すのではなく、通じるように話すことを心掛けたし。

 

Back on track. 前半はとにかく陽気にダンス・ダンス・ダンスである。米兵と北朝鮮捕虜の間のいざこざすらもダンスバトルで解決(?)したりする。だが本作の監督はカン・ヒョンチョルである。輝かしい瞬間の背後にはどす黒い社会的背景が存在することを骨の髄まで知っている、そしてそれを表現することを恐れない映画人である。米国、特に収容所所長がタップダンスチームの結成とその成功に血道を上げるのと同様に、北朝鮮捕虜たちも策謀をもって暗躍し始める。ダンスという芸術で理解し合える異国人たちも、政治体制やイデオロギーによって簡単に引き裂かれる。逆に言えば、政治的・思想的な差異は言葉では乗り越えられないということでもあり、政治的・思想的なイデオロギーは言葉でもって強化されるということでもある。序盤でもロ・ギスの戦友的なポジションの男が米兵相手にびっくりするような流暢さで卑罵語を繰り出し、中盤以降では戦争で片腕と片足をなくした男が恐るべき無表情で息つく間もなく共産主義への傾倒と自由主義・資本主義への憎悪を語る。その迫力に、時は戦時、場は捕虜収容所であるという容赦のない現実を思い知らされる。正気では戦争などできはしない。そうした戦争の狂気にあてられた人民共和国軍闘士の暗躍とクリスマスの公演会、その両方が頂点に達するクライマックスのカタルシスとカオスに、観る者は呼吸を忘れる。このクライマックスの衝撃は、2020年はまだ2か月しか経過していないが、年間トップクラスだろう。

 

朝鮮戦争という同じ民族同士の殺し合い最中、異国人同士がタップダンスで語らい、争い、相互理解を果たしたというフィクションがこれほどのリアリティをもって迫ってくるのは何故か。分断と融和が同時進行する世界に対しての、本作は一つのメッセージである。

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ネガティブ・サイド

CGの使い方に不満が残る。民族舞踊男が帽子に長い白帯をつけて舞うシーンは、できればCG処理せずにオーガニックに見せてほしかった。やろうと思えばできたはずだし、それこそ役者ではなく本物の民族舞踊の踊り手にそこだけ踊ってもらうという選択肢もあったのではないか。

 

同じくロ・ギスのコサックダンスのシーンも滑稽に映った。あれほどスピーディーに両足をばたつかせることができるなら、ジャクソンとのタップダンスバトルでも圧勝できたのではないかと思わされてしまった。前半のコミカルなトーンとは合っていたが、ストーリー全体を通してみた時には違和感の方が強く感じられた。

 

所長からサムシクへのクリスマスプレゼントもやや奇異に映った。サムシクに男の子がいる、あるいはサムシクが野球好きという描写が一切ないままにグローブとボールを渡されても、観る側の心にそれほど響かない。所長が意外にも人間味のある男であることは伝わったし、サムシクが鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしたのもよかった。だが、このシーンにはもうちょっと事前の説明が不可欠だったように思う。

 

総評

これまた韓国映画の傑作である。鑑賞前に『 サニー 永遠の仲間たち 』を観ておけば、カン・ヒョンチョル監督の問題意識や美意識がより深く見えてくるだろう。朝鮮戦争の歴史に通暁しておくことが望ましいが、必須ではない。異国人同士が言葉以外の方法でコミュニケーションを取ることの難しさと易しさ、その両方を描いているのだということが分かれば、本作のメッセージを受け取ることはできる。邦画がこの域に達するのは、もう無理なのだろうか。そう思わされてしまうほどの完成度である。劇場鑑賞を強くお勧めする。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ミアナムニダ

『 国家が破産する日 』でミアネ=ごめん、を紹介したが、このミアナムニダは「申し訳ない」というような意味である。韓国旅行で万が一粗相をやらかしてしまったら、上のように言ってみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, D・O, ジャレッド・グライムス, ヒューマンドラマ, 歴史, 監督:カン・ヒョンチョル, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 スウィング・キッズ 』 -Your memory never fades away-

『 1917 命をかけた伝令 』 -アカデミー賞級の傑作-

Posted on 2020年2月23日2020年9月27日 by cool-jupiter

1917 命をかけた伝令 80点
2020年2月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ジョージ・マッケイ ディーン=チャールズ・チャップマン
監督:サム・メンデス

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アカデミー賞レースでは惜しくも『 パラサイト 半地下の家族 』に敗れたが、芸術性や社会性ではなく娯楽性で言えば、こちらの勝ちであると感じた。全編ワンカットは『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』や『 ある優しき殺人者の記録 』、『 ウトヤ島、7月22日 』(近く観たい)が、一部ワンカットは『 カメラを止めるな! 』などが行っている。だが、本作はワンカットにロジャー・ディーキンスとトーマス・ニューマンまで加えてきたのである。

 

あらすじ

時は1917年4月。イギリスのブレイク上等兵(ディーン=チャールズ・チャップマン)とスコフィールド上等兵(ジョージ・マッケイ)は、エリンモア将軍より伝令となるよう指令を受ける。二人は戦地を潜り抜け、伝令を伝え、1600人の将兵の命を救えるのか・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは劇場で映画を観る時は、ほとんど毎回何らかの飲み物を買ってから行く。しっかりトイレを済ませておけば、少しはのども乾く。そうでなくとも唇やのどを単に少しだけ潤したいと思える瞬間もある。だいたい2時間の映画を観れば、500mlの飲み物の7~8割がたは飲み干している。だが、本作に関しては一口も飲むことなく映画が終わってしまった。エンディングクレジットが終わり、劇場が明るくなって、初めて一口目を飲んだ。それほど引き込まれていた。

 

本作の良さは、ワンカット編集にあるのではない。実際には、スクリーンが暗転するシーンが2回ほどある。ワンカットなのか、ワンカットでないのかはall but minor detailsである。素晴らしいのは、観る者に息をもつかせぬ工夫の数々である。ブレイクがマッケイを選び、将軍から伝令を届けるように言われ、すぐに出発することになるまでが、体感で5分程度。戦争映画にありがちな同僚の兵士とのいざこざや馬鹿話などは一切なし。塹壕の中、無数の兵士とすれ違い、あるいはかきわけながらも進むブレイクとスコフィールドを、トーマス・ニューマンの音楽が包み込む。この時に感じられる緊張感は、『 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』におけるチャーチルの執務室および会議室のBGMから生み出される緊張感と同質のものだった。本作では、心を癒してくれるような音は最後の最後近くになるまで聞こえてこない。極端な話、サントラだけを聞いても映像が目に浮かんでくるほど、音と映像がマッチしていた。『 シン・ゴジラ 』における“Persecution of the masses (1172)”や“Black Angels (Fob_10_1211)”を思い浮かべて頂ければ、この感覚が伝わるものと思う。

 

また数々のカメラアングルとズームイン、ズームアウトのタイミングの精妙さにも驚かされる。名手ロジャー・ディーキンスであるのだから当然だとも言えるが、いくつかのシーンでは純粋に撮影方法が見当もつかないものがあった。特にブレイクとスコフィールドが有刺鉄線網を抜けるところ、泥地を踏破するところは必見である。個人的に最も称賛をしたいのは、ブレイクとスコフィールドがドイツ軍撤退後の塹壕に潜入するシーンである。ここでの光と影の使い方には文字通りに息をのんだ。光と影だけでこれほどのサスペンスを生み出した映画は、近年では『 ブレードランナー2049 』ぐらいだろうか。奇しくもそちらもロジャー・ディーキンスである。

 

ブレイクとスコフィールドの顔にも注目してほしい。特にブレイクの見る見るうちに血の気が引いていく顔、そして序盤ではヘタレにすら見えたスコフィールドが最終盤では戦士の顔に変化しているところにぜひ気付いてほしい。コリン・ファースやマーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチらを惜しむことなくチョイ役に留めたことが大成功している。とにかく歩き、走り、戦い、逃げて、叫ぶ。非常に原始的であるが、だからこそ人間の本能に訴えてくるようなパワーのある作品である。第一次世界大戦の英国軍にも簗田政綱のような人物がいたのである。こうした集団に埋没した個を掘り起こすことができるのが、その国の強みなのだろう。

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ネガティブ・サイド

スコフィールドとスナイパーの撃ち合いは、緊迫感はあったものの、リアリティはなかった。鐘楼の上のスナイパーとの撃ち合いは『 ワンダーウーマン 』でも見た(撃ち合ってはいなかったが・・・)し、現実的に考えてupper groundは先に標的を見つけた鐘楼のドイツ軍スナイパーにあるはずだし、そもそもあれほど連発で的を外すスナイパーなどいないだろう。

 

またデヴォンジャー連隊の下士官や将校の連中があまりにも石頭なのは史実だったのだろうか。将軍からの伝令だと言っても、まともに取り合おうとしないのは説得力がなかった。これも史実だと言われてしまえばそれまでなのだが・・・ 確かに「将在外,君命有所不受」と『 孫子の兵法 』にあるが、第一次大戦の頃にもそんな現場の将校がいたのだろうか。それでは戦争に勝てないように感じるが・・・ 史実を脚色するのは良いが、あまりにもドラマチックにしてしまうのには個人的には反対である。

 

総評

『 ハクソー・リッジ 』や『 ダンケルク 』に匹敵する傑作である。20世紀までの戦争映画は、超人的な個人あるいは少人数のチームが絶望的な戦局をひっくり返すものが主流だったが、21世紀の戦争映画は普通の個人が全力で自分のミッションを遂行しようとする姿を描くのが主流になっているように感じる。ワンカット編集や撮影技術、音楽以上に注目すべきは、戦争そして人間の切り取り方が極めて現代的であるという点であるように思う。本作は傑作である。必見である。

 

Jovian先生のワンポイント仏語会話レッスン

Je ne sais pas.

英語にすれば I don’t know. である。「知らない」の意である。フランスに旅行に行くのであれば、Je ne sais pasにプラス、Oui, Non, S’il vous plaitの3つと、Bon jour, Bon soir, Bonne nuitのあいさつ、それにAu revoirを知っておけば、後は気合と笑顔でなんとかなるだろう。フランスに行ったことがないJovianだが、それは保証する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, A Rank, アクション, アメリカ, イギリス, ジョージ・マッケイ, ディーン=チャールズ・チャップマン, 伝記, 歴史, 監督:サム・メンデス, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 1917 命をかけた伝令 』 -アカデミー賞級の傑作-

『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』 -やや演出過多か-

Posted on 2020年2月4日2020年9月27日 by cool-jupiter

イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 65点
2020年2月1日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:フェリシティ・ジョーンズ エディ・レッドメイン ヒメーシュ・パテル
監督:トム・ハーパー

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原題は“The Aeronauts”、飛行士であるが、aviator=アビエイターが飛行機の操縦士を指す一方で、気球の操縦士を主に指す。ジェームズ・グレイシャーは実在した気象学者だが、アメリア・レンは歴史上の人物たちから着想を得た架空の人物である。エディ・レッドメインとフェリシティ・ジョーンズのコンビは、『 博士と彼女のセオリー 』には及ばないものの、またも良作を作り上げた。

 

あらすじ

時は1862年、ロンドン。科学者のジェームズ・グレイシャー(エディ・レッドメイン)は気象を予測できるようになりたいと研究心を燃やしていたが、学会では相手にされなかった。そんな折、気球操縦士のアメリア・レン(フェリシティ・ジョーンズ)の気球に乗せてもらえることになるのだが・・・

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ポジティブ・サイド

気象学は目立たないながらも非常に重要な学問である。スパコンの使い道のトップは天気予報であるとも言われる。日本のここ数年の猛暑酷暑に、今季の暖冬など、さらに本土での竜巻の発生やゲリラ豪雨など、日本の天候気候は確実に変化しつつある。天気予報や気象学の果たす役割は大きくなるばかりである。そうした時代の到来を予見していたのかどうかは分からないが、気象学の始祖の一人であるジェームズ・グレイシャーにフォーカスするというのは意義深いことであると感じた。

 

エディ・レッドメインは年齢に不相応なチャーミングさがある。『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』のニュート・スキャマンダー役でも若い魔法生物学者をこれ以上ないほど具現化してくれたが、本作でも少年の目と志を持つ科学者を体現した。科学者は往々にして子どもがそのまま大きくなったような人間が多く、純粋さというものを感じさせることが多い。それは素晴らしくもあり、また危うくもある。マッド・サイエンティストというのは大抵の場合、好奇心があまりにも旺盛で、それが倫理を大きく上回ってしまう時に生まれてしまう。本作のジェームズも、科学調査の名の下に自信の装備を軽視し、フライトそのものを危機においやってしまう。観る側に、「頑張れ!」という気持ちと「何やってんだ、お前は!」というフラストレーションを絶妙のバランスで起こさせるのである。

 

有川浩の自衛隊三部作ではないが、『 海の底 』と『 空の中 』というのは人類にとってかつては謎多き領域であり、今に至っても謎が残された領域である。航空パニック映画などではしょっちゅう乱気流に揺さぶられたり、積乱雲の中で雷に襲われたり(『 天空の城ラピュタ 』が好例だろう)するのが定番である。そこに、ほぼむき出しの気球で挑もうというのだから、なにをどうしたってスリリングになる。実際に、『 ゼロ・グラビティ 』とまではいかないが、全編これスリルと驚異と恐怖のオンパレードである。

 

それに立ち向かうヒロインとして、フェリシティ・ジョーンズが気球操縦士を熱演した。彼女は、ジェシカ・チャステイン同様に、クソ作品に出演することはあるが、自身の演技がクソだったことは無いという素晴らしいactressである。未亡人として打ちひしがれていながらも、社交界の場で如才なく振舞う。そしてダンスパートナーを抜かりなく観察し、王立協会の権威に屈従することもない。アメリア・レンは架空のキャラクターであるが、そのファースト・ネームからはどうしたって『 アメリア 永遠の翼 』のアメリア・エアハートを思い起こさずにはおれない。空を飛ぶことが危険なのではなく、墜落することが危険なのであるが、ヴィクトリア朝時代には、飛行がそれなりに娯楽であったようだ。ジョーンズは、いわばそうした道化の役どころも理解していた。言ってみれば、ありえないほど完璧な人物なのである。それを嫌味に感じさせないのが、この役者の凄いところである。

 

『 キャッツ 』のクライマックスにも気球が出てくるのだが、映画そのものの出来はイマイチだった。だが、本作によって個人的にはredeemされたかなと感じることができたのは僥倖であった。

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ネガティブ・サイド

スリルを生むための演出なのだろうが、ジェームズがベテラン飛行家アメリアのアドバイスを聞かず、防寒着を持ってこないというのは考えられない。気球による飛行そのものの歴史が極めて短いというのならまだしも、フランスでも高度7000メートルを飛んだという知らせが届いている。つまり、新聞記事なり何なりで、その高度の空はどのような環境なのか、知っているはずだ。それはアメリアにしても同じで、なぜ手袋を持ってこないのか。自他ともに認める経験豊富なaeronautであるならば、せめて自分だけでも装備は万全を期してもらいたい。そうするとスリルやサスペンスを生み出しづらくなる、というのは製作者側の甘えである。

 

また、アメリアもジェームズも危機的な状況の中、しゃべり過ぎである。観る側に状況説明をしてくれるのはありがたいが、どのような仕組みで危機が到来しているのかを解説してくれなくても構わない。飛ぶことは危険なことではない。落ちるのが危険なのだ。そのことは、現代人たる我々観客はよくわかっている。ピンチの場面でのセリフ量をもっと減らし、映像やBGMに状況を語らせる努力をトム・ハーパー監督は行うべきだった。

 

また一部の危機的な飛行シーンでアメリアが超絶的な活躍を見せるのは、正直言って演出が過剰であると感じた。ほんの少しでよいので、アメリアが気球を作る作業場で、ロープの素材やその強度、球皮の素材や厚みなどについて語ってくれていれば、彼女の行動は無鉄砲さではなく勇気や信念に支えられたものであると確信できたのだが。

 

映画そのものについての注文ではないが、字幕にも少々注文を付けたい。アメリアが新聞記事を読んで落胆と後悔がないまぜになったような表情を見せるシーンで、新聞の文字はPierre and his brideとなっているところが、「ピエールとアメリア」となっていた。女性は男性の所有格付きで表現される時代に、aeronautとしての矜持を捨てなかったアメリアの葛藤を描く重要なシーンだが、字幕がそれを壊してしまっていたと感じる。細かいところではあるが、指摘しておきたい。

 

総評

ケチをつける箇所もあるが、良作であることは間違いない。ジェームズとアメリアが吊り橋効果のせいでロマンスを始めてしまうということもない。劇場の大画面で美しい空や荒れ狂う空を体感頂きたいと思う。気球(のような乗り物)が重要なテーマやモチーフになっている作品としては、野尻抱介の小説『 ふわふわの泉 』や『 沈黙のフライバイ 』所収の短編『 大風呂敷と蜘蛛の糸 』をお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

reach for the stars

直訳すれば「星に向かって手を伸ばす」であるが、実際は「手に入れられそうにないものを得ようとする」という比喩的な表現である。これは割とよく使われる表現で、テレビドラマ『 ニュースルーム 』のシーズン1のエピソード1の冒頭シーンのジェフ・ダニエルズの名演説でも使われているし、『 グレイテスト・ショーマン 』のtheme songである“This is me”の歌詞の一部として力強く歌われている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アメリカ, イギリス, エディ・レッドメイン, ヒメーシュ・パテル, ヒューマンドラマ, フェリシティ・ジョーンズ, 歴史, 監督:トム・ハーパー, 配給会は:ギャガLeave a Comment on 『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』 -やや演出過多か-

『 フォードvsフェラーリ 』 -戦友と共に戦い抜くヒューマンドラマ-

Posted on 2020年1月12日 by cool-jupiter

フォードvsフェラーリ 75点
2020年1月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マット・デイモン クリスチャン・ベール
監督:ジェームズ・マンゴールド

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タイトルはやや misleading である。アメ車のフォードとイタ車のフェラーリの戦いというよりは、フォード社内のイニシアチブ争いがメインになっている。そういう意味では『 OVER DRIVE 』というよりは、『 七つの会議 』&『 下町ロケット 』的である。もちろん、カーレースは迫力満点で描写されており、アクション面でも抜かりはない。

あらすじ

フォード社はフェラーリ社を買収しようとするも失敗。フォード2世はその腹いせにフェラーリを公式レースで破ることを決意。ル・マン24優勝経験者のキャロル・シェルビー(マット・デイモン)を登用する。シェルビーはドライバー兼開発者のケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)と共に、新車の開発に邁進するが・・・

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ポジティブ・サイド

マット・デイモンが光っている。元ドライバーとしての炎がくすぶっていながら、健康上の理由でレースには出られない。カリスマ性と口舌で車のセールスマンとして成功しながらも、勝負師として完全燃焼しきれないというフラストレーションが隠せていない、そんな男を好演した。このレーサーでありながら会社員という二面性が、シェルビーというキャラクターを複雑にし、また味わい深い人物にしている。サラリーマンがロマンを感じやすく、なおかつ親近感を覚えやすいのである。

そんなシェルビーのsidekick を演じたケン・マイルズも渋い。ふと、『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーは、ケンの孫、つまりピーターの息子なのかな、などとあらぬことも考えた。スポーツカーはスポーツカーらしく乗れと顧客に言い放つのは、傲慢さからではなく、クルマへの純粋な愛着からである。そのことは、自分のクルマを“she”と呼ぶことからも明らかである。男性は自分の乗り物をしばしば愛車や愛機と呼ぶのである。だからといってケンがクルマ一辺倒の男だというわけではない。彼にはプロフェッショナリズム以上に妻と息子への愛情があり、チームへの信頼がある。開発中のクルマのパーツや性能の不満をあけすけに語るのは、それをチームが改善できると確信しているからだ。

この現場組と、フォード2世をはじめとする経営側、つまり背広組の間のイニシアチブ争いがプロットの大きな部分を占めている。フェラーリ買収の失敗はドラマの始まりであり、1966年のル・マン24時間レースは、ドラマの大きな山であるが、本筋は男たちの友情と、ある種の権力闘争である。営業と企画、支部と本社など、普通のサラリーマンが入りこめる話である。特に、現場のリーダーであるシェルビーに己を重ね合わせる一定年齢以上の会社員は多いのではないか。中間管理職として胃が痛くなるような展開が続き、ただでさえ心臓に爆弾を抱えているようなものなのに、胃にまで穴が開いてはかなわない。そんなシェルビーがル・マンのレースで、犯罪スレスレの行為で敵チームをかく乱する一方で、フォード社の獅子身中の虫とも言うべき副社長を相手に一歩も引かない対決姿勢を鮮明にする。このような男を上司にしたい、またはこのような男を同僚に持ちたい、と感じるサラリーマンは日本だけで300万人はいるのではないか。

レースシーンも迫力は十分である。特に7000rpmの世界は新幹線のぞみ以上の世界で、人馬一体ならぬ人車一体の世界である。“There’s a point at 7,000 RPMs where everything fades. The machine becomes weightless. It disappears.”というシェルビーの呟きが何度か聞こえるが、何かもが消え去った世界でケン・マイルズの脳裏に浮かんだものは何であったのか。それは劇場でご確認いただきたい。

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ネガティブ・サイド

レースシーンの結構な割合がCGである。CGの醸し出すウソ臭さは、気にする人は気にするし、気にしない人は気にしない。Jovianは気になってしまうタイプである。ちょうどグランフロント大阪のピクサー展でサーフェシングやライティングについて見学をしてきたというタイミングの良さ(悪さ?)もあったのかもしれないが。

背広組で唯一、現場の力になろうとするリー・アイアコッカ(ジョン・バーンサル)の存在感が皆無である。上層部へのプレゼンの失敗フェラーリの買収交渉失敗、副社長の現場介入阻止の失敗と、失敗続きである。これが史実なのだろうか。もうちょっと美化した描き方はできなかったのだろうか。

翻訳に一か所、間違いを見つけてしまった。新聞のヘッドライン“FORD LOSES BIG”が、「 フォード、巨額の損失 」と訳されていたが、これは誤りである。正しくは、「フォード、(レースで)惨敗」である。林完治氏のポカであろう。

総評

これは血沸き肉躍る傑作である。レースのスリルと迫力よりも、モノづくりに全精力を惜しみなく注ぎこむ男たちのドラマを楽しむべきである。男と男が分かり合うためには激しい言葉をぶつけあうことも必要だが、取っ組み合いの喧嘩の方が早い場合もある。我々がシェルビーとマイルズの関係に魅せられるのは、二人が子どものまま大人になっているからなのだ。男一匹で観ても良し、夫婦でもカップルでも良し、家族でそろって観るのも良しである。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’ll be damned.

「こいつは驚いた」というニュアンスの表現である。かなりインフォーマルな表現である。とにかくビックリした時に使おう。“I’ll be damned.”だけでも頻繁に使われるが、 I’ll be damned if ~ という形で使われることも多い。

I’ll be damned if he knocks out the champion.

I’ll be damned if I fail this test.

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, クリスチャン・ベール, スポーツ, ヒューマンドラマ, マット・デイモン, 伝記, 歴史, 監督:ジェームズ・マンゴールド, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 フォードvsフェラーリ 』 -戦友と共に戦い抜くヒューマンドラマ-

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