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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 無限ファンデーション 』 -眩しく暗い青春の一ページ-

Posted on 2020年4月3日 by cool-jupiter

無限ファンデーション 60点
2020年4月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:南沙良 原菜乃華 小野花梨 西山小雨
監督:大崎章

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200403230017j:plain
 

基本的にはTSUTAYAでは旧作か、あるいはキャンペーン割引料金の準新作しか借りないJovianであるが、劇場に行けない昨今、新作料金でDVDを借りるのもありだろう。嗚呼、南沙良・・・

 

あらすじ

内向的な女子高生・未来(南沙良)は、リサイクル工場から聞こえてくる歌声に惹かれ、不思議な少女・小雨(西山小雨)と邂逅する。学校では、未来のスケッチブックに注目したナノカ(原菜乃華)らに誘われ、演劇部に入部する。新しくできた仲間たちとの関係は、しかし、ある時から思わぬ方向へ向かい始め・・・

 

ポジティブ・サイド

全編これ即興というのは、大昔に大学の寮の先輩が出演していた芝居で見たことがある。下北沢だったか。本作には大まかなプロットが存在し、何度かリハーサルもやったらしい。それはそうだ。

 

冒頭で流れてくる西山小雨の「とべフレ」に、未来ならずとも引き込まれるだろう。あいみょん作曲かつ提供の『 さよならくちびる 』の「さよならくちびる」も良かったが、こちらの劇中歌の「とべフレ」も負けず劣らず美しい。いや、俳優ではなく歌手が歌っているだけあって、歌唱力や表現力はこちらの方が上だと言える。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンのように俳優が歌うことで生まれる味わいもある。一方で、本職の歌い手だから出せる味もある。西山小雨の起用は成功である。

 

少女漫画原作の映画とは異なり、青春、もっと言えば思春期の人間関係の暗い面にフォーカスする。友情とは、しばしば閉じた人間関係で、女子のそれは特にそうである。南沙良演じる未来は、いわゆる陰キャから陽キャへと脱皮する。だが、そのことがもたらす波紋の大きさは、この年代にとっては確かに受け止めづらいものだろう。主要キャストたちは、張り詰めた緊張感の中ですらも即興劇を完遂した。こうした映画撮影の技法は、もっと頻繁に採用されてもよいと思う。故・志村けんはアドリブを生み出すのも受け止めるのも名手だったということだが、役者のポテンシャルを発揮させるのも監督や脚本家、撮影監督や照明、音響の役割の一部でもあるだろう。そうした、良い意味での裏方スタッフと役者のケミストリーを最も強く感じさせたのは、やはり南沙良だった。持ち前の動物的な勘で各シーンを彩ったが、それにしてもこの若き女優の鼻水たら~りは、もはや芸術の域に達している。つくづくそう感じられる。

 

「傷つくのが怖い」というのは、なかなか吐露しづらい。しかし、そうした恐れの気持ちを持ったことのない人は圧倒的な少数派ではないだろうか。本作は、そうした人間関係の近さと遠さ、優しさと痛みの両方を思い起こさせてくれる良作である。

 

ネガティブ・サイド

ところどころでシーンのつながりが変であった。特に(悪い)印象に残ったのはスケッチブックを廊下で見せるシーン。「え、そこで切って、ここにつなげる?」という画の移り変わりがある。このあたりは即興劇の技術的な限界だろう。ただ、欲を言えば別の撮影監督ならばどうなっていただろうか、ということ。例えば『 1917 命をかけた伝令 』のロジャー・ディーキンスは絶対に無理だとしても、『 恋は雨上がりのように 』で小松菜奈の魅力を見事にフレーム内に捉え切った市橋織江なら、どのような画の切り取り方をするのだろうか。そんなことを考えてしまった。

 

また語りの力が弱かったのも気になった。特に演劇部顧問の先生にはもうちょっと頑張ってほしかった。屋上での語りは、抒情的でもなく、かといって叙事的でもなく、とにかく薄かった。陽光溢れる屋上で、ある意味で非常にダークな話を語っているのに、そこのコントラストが際立たなかった。

 

この先生自身が実に中途半端な大人であるせいで、部員同士の衝突を和らげる緩衝材になれていない。もしくは、部員間に蓄積されていたマグマの噴出量をコントロールできていなかった。大人の大人たるゆえん、子どもとの違いの一つは、妥協ができるところだ。青春模様、つまりは子どもの子どもらしさを強調させるためには、大人の大人らしさが対極に必要だった。

 

ラストショットは『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』と重複している。大崎監督は、もっと違うビジョンを構想できたはずである。

 

総評

青春映画はアホかというぐらいの勢いで陸続と生産されているが、鮮烈な青春映画というのは邦画には存外に少ない。本作はその数少ない一作である。公開中の『 もみの家 』(観に行っていいのだろうか・・・)もそうらしいが、南沙良は居場所を探し求める少女を演じさせれば天下一品である。韓国語をマスターして韓国映画に出るか、あるいは英語をマスターしてアメリカや英国の映画に進出することを考えてみてはどうか。トップレベルのサッカー選手や野球選手が海外に活躍の場を求めるのは当たり前になりつつある。映画人もそうあるべきだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You are so good at drawing, aren’t you?

「絵、超うまくない?」というセリフの私訳である。絵を描くというのはdrawやpaintという動詞で表されるが、draw = 固いもので描く、paint = 柔らかいもので描く、と理解しよう。鉛筆やペンで描けばdraw、筆やブラシ、もしくは自分の指(finger-painting)で描けばpaintである。英会話スクールのノン・ネイティブの先生の実力を確かめたければ、英検1級だとかTOEIC975点だとかではなく、上のような質問にその場でスパッと答えてくれるかどうかを目安に考えてみてほしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 南沙良, 原菜乃華, 小野花梨, 日本, 監督:大崎章, 西山小雨, 配給会社:SPOTTED PRODUCTIONSLeave a Comment on 『 無限ファンデーション 』 -眩しく暗い青春の一ページ-

『 ココア 』 -甘味を知ってこそ苦みが際立つ-

Posted on 2020年4月1日2020年4月1日 by cool-jupiter

ココア 50点
2020年3月31日 自宅にて録画鑑賞
出演:南沙良 出口夏希 永瀬莉子
演出:阿部博行

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200401224950j:plain
 

第30回フジテレビヤングシナリオ大賞なるものがあるらしい。それを14歳にして受賞した俊英がいる。その作品を映像化したのが本作である。Jovianお気に入りの南沙良出演ということで録画していたが、なぜ今まで観ることがなかったのか。単純に忘れていたからに他ならない。では何故思い出したのか。2020年3月4日のNHKの深夜ドラマ『 ピンぼけの家族 』を観ようとしたら録画失敗していたからである。嗚呼、南沙良・・・

 

あらすじ

家にも学校にも居場所がない灯(南沙良)、両親の不倫に苛まされている香(出口夏希)、笑顔を決して見せない志穂(永瀬莉子)の3人の女子高生。生きづらさを感じる彼女たちだが、周囲の人間とのちょっとした交わりから変化が生まれて・・・、

 

ポジティブ・サイド

どことなくビジュアルノベル『 428 〜封鎖された渋谷で〜 』なテイストが感じられるドラマである。場所が渋谷だからではなく、一見無関係に見えた登場人物たちが、実はどこかでゆるくつながっていてもおかしくないのだ、という感じが実によく似ているのである。

 

南沙良の鼻水たら~りは『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』に引き続き健在である。日本の女優の涙にくれるシーンの極北としては『 万引き家族 』の安藤サクラの落涙か、南沙良の鼻水だろう。

 

表現者としては浦上晟周が良い味を出している。演技に垣間見えるぎこちなさそれ自体もも、演技なのだろう。気になるクラスメイトの女子に猛アタックを仕掛けるところ、無理やり距離を詰めて座ろうとするところ、問答無用でほっぺにキスするところ、それらすべてがぎこちない。ゆえに、かえって迫真性が生まれている。Jovianは高校生の頃、上のような行為のいずれも実行できなかった。リア充爆発しろ渡辺大地と浦上晟周が、南沙良と永瀬莉子を上手く引き立てていると感じた。

 

ココアという飲み物がコーヒーと巧みに対比されている。コーヒーの苦さを美味しいと感じることができるかどうか。そうした羽化前の少年少女たちの物語として、それなりに見ごたえはあった。

 

ネガティブ・サイド

やはりテレビの限界なのか、照明のしょぼさやカメラアングルのバリエーションの乏しさが目立つ。特に目ざとい映画ファンであるならば、渡辺大地の頭上の枝の枯れ葉が、設定上はそれぞれ異なる夜であっても、位置と枚数が全く同じであることに気づくだろう。全く同じことが、川沿いの帰り道のシーンについても言える。大急ぎで撮影しました、ということがほとんどあらゆるシーンから伝わってくる。このあたりのリアリズムが、テレビ映画と劇場公開される映画の一番の違いの一つだろう。

 

主演の一角を担った出口夏希、永瀬莉子ともに表現力に欠ける。発声と表情は、まあ及第か。問題はちょっとした仕草やジェスチャーがあまりにも乏しいこと。敢えて酷評させてもらえれば、学芸会に毛が生えた程度のお芝居。役者を志すなら、年に150本は映画を観て、先達から吸収すべし。

 

本編と全く関係のないCMの愚痴になるが、第一生命のCMに出てくる看護師がナースキャップをつけていた。日本でいまだにナースキャップをつける看護師というのは、漫画かアダルトビデオぐらいにしか出てこないと思っていたが・・・ CM監督の全員がそうであるとは思わないが、もっと現実に対するアンテナの感度を高めてほしい。テレビドラマやテレビ映画の監督や演出家も同様である。

 

総評

CMの存在がこれほどウルサイとは。やはり民放の映画やドラマは観るものではないのかもしれない。ひたすらに内向的な少女のイメージの強い南沙良の、陽キャな面と陰キャな面の両方を楽しむ作品という位置づけにしかならない。案外、男子高校生ぐらいが楽しめる作品なのかな。ただ、女子高生の中には『 スウィート17モンスター 』みたいなのもいるので、奥手な男子諸君はよくよく勉強してから女子にアプローチをしよう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Are you a virgin?

「おじさんって、童貞?」の私訳である。処女でも童貞でも、性体験のない者は性別問わず英語ではvirginである。シュワちゃんの映画『 ツインズ 』では、ダメダメ兄貴のヴィンセントが弟ジュリアス(シュワルツェネッガー)に、“Are you a virgin?”と、思わず言ってしまうシーンがある。Jovianはそこで、「ははあ、男もvirginと言うのか」と学んだことをよく覚えている。

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Posted in テレビ, 国内Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 出口夏希, 南沙良, 日本, 永瀬莉子, 演出:阿部博行Leave a Comment on 『 ココア 』 -甘味を知ってこそ苦みが際立つ-

『 殺人の追憶 』 -人間の内面を鋭く抉る秀作-

Posted on 2020年3月17日2020年9月26日 by cool-jupiter

殺人の追憶 80点
2020年3月15日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:ソン・ガンホ
監督:ポン・ジュノ

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シネマート心斎橋がポン・ジュノ特集を再開してくれたおかげで、本作を劇場鑑賞することができた。ポン・ジュノは異才・異能の持ち主である。人間の内面をこれほど透徹した目で見つめられるのは、映画監督というよりも哲学者、芸術家気質だからではないだろうか。

 

あらすじ

時は1986年、場所はソウルのはずれの田舎町。同じ手口による女性の連続殺人事件が起こる。捜査を担当するパク刑事(ソン・ガンホ)は、ソウル市内から派遣されてきたソ・テユン刑事と対立しながらも捜査を進めていく。だが、それでも殺人事件は起こり続け・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200315141612j:plain
 

ポジティブ・サイド

韓国映画のごく大雑把な特徴は、描写のリアリティとエネルギーである。特に暴力に関しては、全く逃げることなく容赦のない演出を繰り出してくる。ただ単にバイオレンスを映し出しているわけではない。一方が他方に無条件に暴力をふるうことができるのは、そこに力の不均衡があるからである。それは例えば警察という国家権力の後ろ盾を持った組織に属していることであったり、あるいは相手が知的障がい者であったりするからである。ポン・ジュノが本作(そして彼の作品に通底するテーマとして)を通じて描き出し批判するのは、暴力の発生を触媒する理不尽な社会的および心理的なメカニズムである。

 

そのことはソン・ガンホ演じるパク刑事とソ・テユン刑事のほとんどと言っていいほど噛み合わないコンビネーションによって表現されている。根拠がまったくないにも関わらず観相術の達人を自称するパク刑事は、初対面のソ・テユン刑事に勘違いからドロップキックを浴びせ、しこたまパンチも食らわせた。つまりは人を見る目もなく、人の話も聞かないダメ警察官である。一方でソ・テユン刑事は冷静沈着かつ理知的で、「書類は嘘をつかない」を信条に、科学的に、理性的に捜査を進めていく。模範的な刑事と言えよう。だが、ある時点から、この二人の属性のバランスが逆転していく。どんどんと冷静になっていくパク刑事、どんどんと理性を失い暴力に走り出すソン刑事という具合に。その過程が、お互いの捜査の進捗によって可視化されている点が非常にユニークだ。特にパク刑事は「犯人には陰毛が生えていない」という仮説に基づいて、銭湯をはしごする様は滑稽である。だが本人はいたって真面目なのだ。同時に、老若男女に丁寧に聞き込みをし、ほんのわずかな手がかりも逃さず、着実に事件の真相に迫っていくソ刑事は、まっとうな捜査を進めていくほどに暴力への衝動に抗えなくなっていく。この対比が実によく描けている。暴力を食い止めるために暴力が必要なのか。暴力を食い止めるためには非暴力をもってせねばならないのか。ポン・ジュノが投げかける問いに答えは出せない。

 

本作は映画の技法の面でも粋を凝らしている。特に冒頭、現場保全をしようと大声で周囲に注意しまくるパク刑事のロングのワンカットや、スナックでの口論から所長の嘔吐までのワンカットが印象的だ。また、犯人と思しき男との路地裏の追跡劇、そして犬の遠吠えまでのサスペンスあふれるシークエンスは岩代太郎の音楽の力も大きい。犯行がしばしば灯火管制の夜に行われるというのも興味深い。町の暗さに感化されて、人間の内面の闇が暴れだすのか、それとも人が住居にこもるのをチャンスとばかりに犯行に走るのか。

 

ミステリ作品としても秀逸。日本語とも共通する韓国語のとある言語的特性を巧みに使った伏線は見事(Jovian嫁は即座に見破っていたようだが・・・)。被疑者の身体的な特徴と犯行に使われた道具との間の矛盾を的確に指摘するソ刑事の味がいい。また、とある条件のそろった日に殺人を重ねるというのは映画『 ミュージアム 』の元ネタになったのではないかとも感じた。

 

最後の最後にソン・ガンホが見せる表情。すべてはこれに尽きる。後悔に驚愕、そして疑惑と確信を両立させる渾身の顔面の演技である。これによって我々はパク刑事やソ刑事の経験した内面の変化、すなわち暴力衝動が劇中のキャラクターたちだけのものではなく、自身の内面に潜む闇として確かに存在するものであるという真実を突きつけられるのである。このような形で第四の壁を突き破って来るとは、ポン・ジュノというのはつくづく稀有なクリエイターである。

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ネガティブ・サイド

ソ刑事が寝落ちしてしまうシーン、そしてその後に車のエンジンがかからずに、被疑者を乗せたバスを追跡できなかったというシーンが、かなりご都合主義的に見えた。交代制で見張っている言われていたし、刑事は基本的に単独行動はしないものだ。車のエンジンがかからないというのも、それ以前になんらかのそうした前振りとなる描写が必要だった。

 

犯行のパターンが解析できたところで、なぜラジオ局に働きかけないのか。特定の手紙を受け取ったら警察に連絡するように言えるはずだ。Jovianが警察署長あるいは担当の刑事なら絶対にそうする。頭脳明晰なソ・テユンの考えがそこに至らなかったというのは少々信じがたい。

 

最後に、チョ刑事の足はどうなった?

 

総評

『 パラサイト 半地下の家族 』以上、『 母なる証明 』に並ぶ大傑作である。重ねてシネマート心斎橋に感謝。劇場支配人の鑑賞眼の鋭さと商売人として機を見るに敏なところ、その両方のおかげで本作を大スクリーンで鑑賞できた。このレベルの邦画は、黒澤明とは言わないまでも小津安二郎まで遡らなくてはならないのではないか。邦画は10年前の時点で既に韓国映画に抜かれていたようである。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

チョンマリヤ?

「本当か?」の意である。これも劇中で何度も出てくるので、把握しやすい。チョンマル=本当、となるようだ。関西弁の「ホンマ」と音がそっくりである。ヤというのは中国語・漢文で言うところの「也」だろう。これをつけて語尾をrising toneにすれば疑問文の出来上がりである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, サスペンス, ソン・ガンホ, ヒューマンドラマ, ミステリ, 監督:ポン・ジュノ, 配給会社:シネカノン, 韓国Leave a Comment on 『 殺人の追憶 』 -人間の内面を鋭く抉る秀作-

『 バハールの涙 』 -女、命、自由の時代を求めて-

Posted on 2020年3月14日 by cool-jupiter

バハールの涙 70点
2020年3月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゴルシフテ・ファラハニ エマニュエル・ベルコ
監督:エバ・ユッソン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200311081126j:plain
 

『 パターソン 』でパターソンの愛妻ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニの主演映画。英語、フランス語、ペルシャ語にクルド語まで解すとは、いったいどんな才媛なのだ。本作では一転、武器を取り、女性部隊を率いる勇猛な女性役。日本からこういう女優が出てこないのは何故なのだ?

 

あらすじ

バハール(ゴルシフテ・ファラハニ)はある日、ISの襲撃を受け、夫は殺され、息子は連れ去られ、自らと妹も拉致され、凌辱された。なんとか脱出したバハールは、女性部隊「太陽の女たち」を結成する。彼女たちを取材するジャーナリストのマチルド(エマニュエル・ベルコ)も、徐々にバハールの信頼を得ていく・・・

 

ポジティブ・サイド

ゴルシフテ・ファラハニの憂いを帯びた表情が何とも言えず良い。閉ざされ冷え切った心の奥底には、しかし、マグマが煮えたぎっている。そんな相反するような属性を併せ持つキャラクターをしっかりと体現した。バハールという女性は架空の存在のようであるが、その存在感は群を抜いている。小説や映画にありがちな、一見すると小市民だが、実は特殊部隊上がりだったとか、幼少から格闘技や暗殺術を叩き込まれていたといったような、ある意味でお定まりの背景を持っていないことが、逆にリアリティを高めている。平塚らいてうは「元始、女性は太陽だった」という言葉を残した。太陽は光と熱の塊であるが、表面よりも内部の方に圧倒的なエネルギーを蓄えている。植物にその無限のエネルギーを分け与え、我々動物はそのおこぼれに頂戴している。バハールをはじめとした「太陽の女性たち」が歌う「女、命、自由の時代」の歌には、名状しがたい力が溢れている。彼女らの歌う「女 命 自由の時代」というのは、それこそ「男 死 束縛の歴史」が続いてきたことへの痛烈な批判である。これを中東だけの事象であると思い込むことなかれ。ほんの1世紀前の極東の島国は、アジア中に死と破壊をもたらす戦争への道を、男だけの論理の世界で突き進んでいったのである。バハールが常に虚無的な表情で銃を手に持っているのは、それだけ目の前の現実に抑圧されているからに他ならない。我々も妻や母が虚無的な表情になっていないか、少しは気を配ろうではないか。

対照的に、エマニュエル・ベルコ演じるマチルドは、明らかに『 プライベート・ウォー 』のメリー・コルビンだろう。ホムスで逝ったコルビンの意思を受け継ぐかのように、マチルドはホムスの爆撃で片目を失明し、それ以来眼帯を巻いている。そのマチルドも、ジャーナリストとしての報道の使命を果たすことや真実を追求するために記者をしているわけではない。コルビンと同じく、市井の名もなき人々との出会いを羅針盤に、彼女は戦地を取材している。「我々は世界のことを考えすぎている」と養老孟司は喝破したが、本当は生身の人間に思いを馳せるべきなのだ。空爆があったとか、災害があった、疫病が流行したというニュースに触れる時、その地域にリアルタイムで生きる人々を想像する力を育むべきなのだ。彼女が自らを突き動かす行動原理を語る時、我々はバハールとマチルドが同志であることを知る。「女は弱し、されど母は強し」とはよく言ったものである。

 

本作は赤と黒が入り混じった光の使い方が印象的である。人間の内部のドロドロとした感情と、「太陽の女たち」を取り巻く現実のダークさ、不透明さを象徴しているかのようである。どこか『 エイリアン2 』を思わせる光の使い方である。

 

良いところなのかどうかは微妙だが、本作を鑑賞するにあたって、中東情勢やイスラム国の台頭、クルド人の歴史などを詳しく知っている必要はない。バハール、そしてコルビン・・・ではなくマチルドという個人の生き様に注目すべし。

 

ネガティブ・サイド

アクションやヒューマンドラマの演出がやや弱い。ストーリーそのものが充分にドラマチックであるからだろうか。ペルシャ絨毯の上に女性たちがどっかと腰を下ろして、各自銃の手入れに余念のない様子は印象的だった。いかにも非日常、緊急事態である。このような何気ない描写の中に感じる違和感=非常時、異常事態のただ中、というものをもっと使ってほしかったと思う。

 

後は石頭の男性司令官を、もうちょっと柔軟に描けなかっただろうか。あれでは融通さに欠けるただの無能、しかも下手をすればへっぴり腰のオッサンにしかならない。女性・母というもののしたたかさを描くために、男性をことさらアホに描く必要はない。男は元来、アホである。だからこそISを作ったり、そこに参加したりするわけである。

 

総評

一言、良作である。派手なドンパチはないが、それでも戦闘の緊迫感は伝わってくるし、なによりもバハールとコルビンの生き様がこの上なく inspirational である。戦争、紛争のニュースに接する時、我々は「あー、なんかやってるな」ぐらいにしか感じないが、それでもそこには生きた人間、死んでいく人間が存在することをこのような映画を通してあらためて知らされた。戦地のスーパーマンではなく、人間として強さの純度を高めた個人の物語であり、非常に現代的な作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You name it.

序盤の英語とフランス語とクルド語が入り混じっている場面で使われていた。意味は「その他にも色々ある」のような漢字である。実際の使い方についてはこの動画を見てもらえるとよく分かるだろう。こういった何気ない表現を会話やスピーチ、プレゼンの中で自然に使えれば英会話の中級者である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, エマニュエル・ベルコ, ゴルシフテ・ファラハニ, ジョージア, スイス, ヒューマンドラマ, フランス, ベルギー, 監督:エバ・ユッソン, 配給会社:コムストック・グループ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バハールの涙 』 -女、命、自由の時代を求めて-

『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

Posted on 2020年3月8日2020年9月26日 by cool-jupiter
『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

野性の呼び声 65点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ハリソン・フォード ダン・スティーブンス オマール・シー
監督:クリス・サンダース

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307195028j:plain
 

Jovianは小さい頃にアニメ『銀牙 -流れ星 銀- 』が好きだった。ある程度活字にはまるようになってからは本作の原作者ジャック・ロンドンの『 白い牙 』も繰り返し読んだ(文庫や単行本ではなく、巻末に付録がたくさんついた児童文学書だった)。本作は『 白い牙 』とは裏腹に、飼い犬が野性に帰っていくストーリーである。

 

あらすじ

19世紀末。飼い犬だったバックは、盗難の末に売り飛ばされ、そり犬となる。郵便配達人のそりを引く群れに加わったことでバックは徐々に野性を取り戻していく。しかし、その郵便配達チームも解散。数奇な運命をたどるバックは、ジョン・ソーントン(ハリソン・フォード)と再会を果たして・・・

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ポジティブ・サイド

本作には厳然たるテーマが存在する。バックが最初に連れて来られるアラスカ州、そしてユーコン準州は大自然という言葉では言い表せない自然の威厳、驚異、そして美がある。日本人は「自然」という英語をしばしば nature と訳すが、本作に描かれる自然はまさに wilderness である。本作の大部分はカナダだが、鑑賞中にアメリカの裸足の郵便配達人(ジェームズ・E・エド・ハミルトンが特に著名)を思い起こした。本作の描く一つ目のテーマは現代社会にも共通するものである。

 

一つには、テクノロジーの発展により仕事を奪われる者が出てくることである。そして、仕事を奪われるのは人間だけとも限らない。犬もそうである。時と場所を変えれば、牛や馬もそうだろう。郵便配達人として犬そりを操るペロー(オマール・シー)の情熱と、それゆえに仕事を失った時の落胆のコントラストは、現代社会に生きる我々にも大きな説得力を持って迫って来る。

 

二つには、大自然への憧憬である。今という時代ほど、科学が日進月歩し、人類全体の世界に対する知識が向上しつつある時代はなかった。GoogleアースやGoogleマップ、Googleストリートビューは、良いか悪いかは別にして、地球上の大部分から未知の土地という概念を奪い取ってしまった。人間はすでに持っているものよりも、持っていないものを欲しがる生き物である。文学『 野性の呼び声 』が時を超えて何度も映画化されるのは、我々がそれだけ大自然への憧憬、さらには畏怖を求めているからに他ならない。そうした文脈で考えれば、なぜキングコングが現代に復活し、ゴジラと対決するのかにも意味を見出すことができる。地図にない土地を目指すソーントンとバックのコンビは、逆説的であるが現代人の姿をそのまま反映したものである。

 

三つには、人間性とは何かという問いである。本作のテーマの柱はバックが野性の呼び声を聞き、野性に回帰していくことであるが、それが同時にバックの相棒であるソーントンが人間性を取り戻す旅路でもある。人間とは何かを定義、説明することは難しい。だが我々は直感的に人間らしくない事柄は理解することができる。「血も涙もない奴だな。それでもお前は人間か!」と思ったことは誰でもあるだろう。もしくは「そこまでやっちゃあ、人間おしまいだよ」でも良い。我々は本能的にありうべき“人間像”を持っている。ソーントンを巡っては大きく二つの物語がある。一つは彼の家族、もう一つは彼と揉めて、彼を狙うゴールド・ハンターである。家族との別離に懊悩するのも人間であるが、その苦しみから逃れるために人里離れたユーコンに引きこもるのは人間らしいとは言えない。そのソーントンがバックとの交流を通じて変化していく様には迫真性がある。特に砂金を集めて何をするのかを自問するソーントンの姿は、ともすれば経済活動に没頭しがちな現代人への遠回しな批判となっている。

 

ハリソン・フォードのナレーションが耳にとても心地よい。『 ショーシャンクの空に 』におけるモーガン・フリーマンの何とも言えないゆったりとしたナレーションにそっくりで、それが耳にとてもよく馴染む。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、息子と難しい関係を持つ父親を演じていたが、本作のフォードの演技はそれよりも遥かに味わい深いものがある。

 

動物にとっての自然なこと、そして人間にとって自然なこと。そうした雄大なテーマをユーコンやアラスカの大自然を背景に描く本作は、ファミリーで観るのにうってつけだろう。小中学生の息子と父親というペアをお勧めしたい。

ネガティブ・サイド

『 ライオンキング 』のCGと同じで、バックという犬、その他の犬や動物たちの再現度も非常に高い。にもかかわらず、やはりCG酔いを起こしてしまいそうになるのは、本作はテーマにおいても映像面においても、自然と人工物(CG)の対比がこれ以上なく露になるからである。『 ライオンキング 』のように、全編にわたって一切人間が出てこないのであれば、CG動物たちにも映像的な一貫性が感じられる。だが、人間との交流や動物同士の交流や対立をふんだんに描く本作では、バックがあまりにも擬人化されていると感じられたり、他の犬とバックとの関係にあまり動物らしさを感じられなかったりもした。『 ハチ公物語 』や『 マリリンに逢いたい 』のような、本物の犬を起用した映画はもう作れないのだろうか。JovianはAnimal rightsの考え方に大方では同意するが、それでも動物に危害を加えない方法での映画撮影というのはできると思っている。

 

全編を通じて、本作はBGMが弱い。BGMのクオリティが低いという意味ではない。音量が全体的に小さすぎると思う。犬ぞりが疾走するシーンや雪崩のシーン、カヌーで川下りをするシーンなどでは特にそう感じた。本作は会話劇やアクションで魅せるタイプの映画ではない。映像と音楽・効果音で観る者の想像力を刺激しなければいけないタイプの作品である。その意味では、音質ではなく音量の低さが少々気になったところである。せっかくの素晴らしいBGMが、腹にまで響いてこなかった。

 

総評

チケット代の元は十分に取れるクオリティの作品である。単なる動物物語ではなく、そこに時代を切り結ぶテーマがあり、さらに普遍的なテーマもある。だからといって小難しい理屈が分からないと楽しめないというわけではない。アニメの『 フランダースの犬 』が理解できる子どもであれば、人間と犬は非常に濃密な関係を構築することが肌で理解できることだろう。今般の事情では難しいが、親子連れで映画館で鑑賞してほしいと思える作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Here be dragons

作中で直接使用される表現ではないが、地図の範囲外、あるいは地図はあっても誰もその内部を探検したことがないという領域は“Here be dragons”と呼称される。外資系に勤めている方で、完全に新規の事業を興したり、あるいは新規の地域での顧客開拓を目指すとなった時に、「そこは“Here be dragons”ですね」と(心の中で)呟いてみてはどうだろうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アドベンチャー, アメリカ, オマール・シー, ダン・スティーブンス, ハリソン・フォード, ヒューマンドラマ, 監督:クリス・サンダース, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

Posted on 2020年3月7日2020年9月26日 by cool-jupiter

ジュディ 虹のかなたに 75点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:レニー・ゼルウィガー ジェシー・バックリー フィン・ウィットロック
監督:ルパート・グールド

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『 オズの魔法使 』は『 スター・ウォーズ 』と並んで、Jovianにとってオールタイム・ベストの一つである。そこでドロシーを演じたジュディ・ガーランドの晩年を描いた物語とあれば、観ないという選択肢は存在しない。

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あらすじ

ジュディ(レニー・ゼルウィガー)は子どもと共にステージに上がって、日銭を稼ぐ日々。カネが底を尽き、ホテルとの契約も解消となったジュディは元夫の家に駆けこむ。子どもと一緒に暮らすための家、そして親権を手に入れるため、ジュディはロンドンでの公演に臨むが・・・

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ポジティブ・サイド

ジュディ・ガーランドについては、実はそれほど多くは知らない。ただ、一般的な意味での幸せな人生を歩んでこなかった人であるということは、どこかで読んでいた。彼女はバイセクシャルで、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョンのような、マイノリティの悲哀を誰よりも先に体現した、一種の先駆者だったのだ。『 イミテーション・ゲーム 』で描かれた頃の英国が舞台で、いわゆるLGBTが枕を高くして寝られる地域でも時代でもなかった。そうした状況で、彼女が同性愛の男性カップルとささやかな交流を持つシーンに、大女優にして大歌手であるジュディ・ガーランドではなく、一人の“普通”の人間の姿を垣間見るようだった。

 

本作は、過酷な生活環境に置かれたジュディの子役時代と現在を行き来する。そうすることで、現在の彼女の苦しみの根の深さを浮き彫りにする。同時に、彼女が何を求め、何を得られなかったのかをも明らかにする。ジュディが求めていたもの、それは愛である。愛ほど定義に困る概念はないが、本作でジュディの求める愛は「求めること」である。あの虹の彼方に夢の国がある。夢の国にたどり着くことではなく、その旅路そのものに意味があるのだ。ラストの“Over the Rainbow”のもたらす感動は圧倒的である。『 サウンド・オブ・ミュージック 』の“エーデルワイス”、そして『 キャッツ 』の“メモリー”、そして“Beautiful Ghosts”を合わせたかのようである。

 

『 アリー / スター誕生 』の冒頭のタイトルが浮かび上がってくるシーンでレディー・ガガが口ずさんでいたのが“Over the Rainbow”である。『 スタア誕生 』で得られるはずだったオスカーは、しかし、ジュディの手には渡らなかった。それをゼルウィガーが今年、手に入れた。泉下の人となって久しいジュディも、get happy したことと思う。

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ネガティブ・サイド

LGBT、ドラッグ、乱れた生活、壊れていく人間関係。成功する人間が堕ちていく様には一定のルールでも存在しているのだろうか。もちろん、ジュディ・ガーランドは20世紀半ばの人物で、彼女こそが成功と失敗のジェットコースターに乗った第一世代ではあるのだが、ストーリーそのものにも真新しさはなかった。

 

また、ある人物の特定の時期にスポットライトを当てるやり方も『 スティーブ・ジョブズ 』などでお馴染みである。もっと『 オズの魔法使 』制作当時に比重を置いた作りでも良かったのかもしれないと感じる。

 

後はエンディングのクレジットシーンで、ジュディ・ガーランド本人の映像や写真が絶対に映されると期待していたが、それがなかった。何故だ。権利関係なのか。作りはハリウッドのbiopicのクリシェなのに、こうしたところでは王道を外してくる。何故なのだ、ルパート・グールド監督?

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総評

ジュディ・ガーランドの名を知らなくても、“Over the Rainbow”を知らないという人はいないだろう。歌手としても歌の方が、女優としてよりも作品の方が大きいという存在。それがジュディ・ガーランドである。そんな彼女がジュディ・ガーランドとしてではなく、一人の人間としてステージ上で“愛”を求めて歌う。若い世代で本作に感銘を受けたならば、ぜひとも『 オズの魔法使 』や『 スタア誕生 』を観てほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

take ~ seriously

「 ~を真剣に受け取る 」、「 ~を真面目に捉える 」といったような意味である。『 ダークナイト 』でジョーカーが【 昼間のセラピー・セッション 】から立ち去る時に、“Why don’t you give me a call when you wanna take things a little more seriously?”と言い放つときにも使われている。これの反対表現は take ~ lightly である。ちなみに『 グーグル ネット覇者の真実: 追われる立場から追う立場へ 』には“Are you taking me lightly?”というフレーズは一時グーグル社内で流行したというくだりがある。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ヒューマンドラマ, フィン・ウィットロック, レニー・ゼルウィガー, 伝記, 歴史, 監督:ルパート・グールド, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

『 黒い司法 0%からの奇跡 』 -人間の良心に切々と訴える-

Posted on 2020年3月2日2020年9月26日 by cool-jupiter

黒い司法 0%からの奇跡 75点
2020年2月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン ジェイミー・フォックス ブリー・ラーソン
監督:デスティン・ダニエル・クレットン

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原題は“Just mercy”。これはdouble meaning=ダブル・ミーニングで、一つの意味は「ただ慈悲のみ」、もう一つの意味は「公正な慈悲」である。民法のドキュメンタリー番組か何かのタイトルのごとき邦題に頭痛がしてくる。黒人差別(正確には貧困差別)を撃つ作品のタイトルに「黒い」という形容詞を用いるセンスがよく分からない。普通に「慈悲と公正」とか「司法と正義」のような比較的シンプルなタイトルにできなかったのだろうか。

 

あらすじ

アラバマ州で林業を営むジョニー・D(ジェイミー・フォックス)は、突然警察に逮捕され、死刑囚にされてしまった。犯してもいない罪で、刑務所に入れられた彼のような人々の元に、ハーバード大学卒業の黒人弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)がやって来た。冤罪を晴らし、自由を得るための苦闘が始まるが・・・

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ポジティブ・サイド

これが30年前のアメリカの現実であり、そして21世紀も20年が過ぎようとしている今という時代にも現在進行形の物語である。そのことに驚かない自分に驚かされる。『 私はあなたのニグロではない 』から『 ブラック・クランズマン 』まで、黒人差別をテーマにした映画は、それこそ無数に作られてきた。本作は何が違うのか。それは、差別の構図に別の角度から光を当てたことである。

 

冤罪で収監され、有罪判決を受けた黒人。それを支援しようとする黒人弁護士。だが、ジョニー・Dはそのことに心を動かされない。彼にとっては最初、ブライアンは同胞でも味方でもない。北部からやってきたよそ者、大学卒のエリート。そうした自分とは異なる属性の人間だった。黒人差別や人種差別という言葉には、それ自体に差別の概念が埋め込まれている。なぜなら黒人は黒人を差別しない、アジア人はアジア人を差別しない、そうしたことを無邪気に前提しているかのように聞こえるからである。実際にはそうでない。ブライアンは最終盤で、差別の構造を鮮やかに解き明かして見せる。このシーンではJovianは思わず膝を打った。日本でも“上級国民”なるワードが人口に膾炙するようになって久しい。本当にそうした人種が存在するのかどうかはさておき、池袋高齢者ドライバー暴走事故は確かに我々に上級国民の存在を示唆する非常に象徴的な事件となった。上級国民の反対概念とは何か。それは下級国民である。では、下級とはどのようにして決まるのか。ブライアンは“それ”を正義の反対概念に置くことで、世界で急速に進む富の寡占、世界の分断を遠回しにだが強烈に撃ち抜く。ジョニー・Dの有罪の決め手となった証言をしたマイヤーズという男の肌の色、そして経済状態を見よ。彼こそが下級国民の象徴である。

 

同時に本作は差別からの解放を謳い上げるだけではなく、人間の尊厳についても非常に鋭く切り込んでいく。ベトナム戦争によりPTSDになり、殺人に至ってしまった男の死刑執行のシークエンスには恐怖と荘厳さが同時に存在する。なぜ死刑囚の死にこれほど心が揺さぶられるのか。それは我々が彼に同化するからである。共感するからである。ブライアンに心を開かなかったジョニー・Dが、なぜブライアンと共闘する気持ちになったのか。囚人たち(大部分は冤罪だが)が互いに固い絆を結び合っているのはどうしてなのか。それは孔子の言う仁である。巧言令色鮮し仁と言うが、ブライアンがジョニー・Dとの面談を重ねていく過程をよくよく見てほしい。人権派弁護士とは、理論家ではなく行動家なのだ。看護師の祖ナイチンゲールも「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」と喝破している。ブライアンは、『 クリード チャンプを継ぐ男 』、『 クリード 炎の宿敵 』のアドニス・クリード並みに戦っている。派手さはない。しかし、ブライアンもまたファイターであることは疑いようもない。

 

それにしてもアメリカでも日本でも、裁判官というのはむちゃくちゃだなと思わされる。『 裁判官! 当職そこが知りたかったのです。 -民事訴訟がはかどる本-  』は知り合いの弁護士先生方にすこぶる評判が悪いが、普通の人間であるならば感じるべきことを感じられない裁判官の存在に、恐ろしいまでの無力感や絶望感を味わわされてしまう。これは下手のホラー映画よりも遥かに怖い。ブライアンはそれをどう乗り越えたんか。それは良心である。従容として電気椅子に座る死刑囚にも、自らの正義を盲信する保安官にも、良心がある。それこそが人間を人間にしてくれるのではないだろうか。

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ネガティブ・サイド

ブライアンが受ける屈辱的な仕打ちや、命の危険すら感じる脅迫的な警察の対応が序盤でパタッと終わってしまうのは少々拍子抜けである。アラバマというディープ・サウスの土地柄を表しているのかもしれないが、実際には調査や接見のあらゆる局面で差別や妨害があったはずである。職務上のパートナーであるエバ(ブリー・ラーソン)も脅迫を受けるが、そうしたシーンやプロットにもう少し尺を割けなかっただろうか。再審請求までが、少しトントン拍子に進み過ぎているように感じられた。差別されるのは黒人という属性ではない。エバは白人であっても差別の対象になっている。マイヤーズもそうだ。序盤の展開があまりにも黒人差別にフォーカスしているせいで、終盤に差別の本質が明かされた時のインパクトがあまり強くなっていないように感じられた。

 

ブライアンを脱がせた刑務所職員の男の変節(?)というか変化も不自然に感じられた。彼が変わっていく契機は、死刑の執行ではなく、囚人たちの人間関係に感化されることであるべきだった。

 

総評

これは傑作である。このような戦う弁護士が存在し、着実にたくさんの人々を救ったということに畏敬の念を抱かずにはいられない。同時に、正義とは何であるのかについても強く考えさせられる。法の下での平等がただのお題目に過ぎないのか。法治国家と言いながらも人治国家になりつつある某島国に暮らす人々は本作を観よう。袴田事件に憤り、涙を流す人なら、本作は必見である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get away with murder

直訳すれば「殺人をもって逃げる」だが、実際は「めちゃくちゃなことをしてもお咎めなし」、「好き勝手し放題である」というような意味となる。ジョニー・Dは冤罪であり、真犯人は「文字通りの意味で殺人を犯しながらもお咎めなしで済んでいる(=literally get away with murder)」と劇中では使われている。読売新聞が米大統領の発言を「(日本や中国は)25年にわたって『殺人』を犯しておきながら許されている」と訳して物議をかもしたのは記憶に新しい。日本の貿易が犯罪的であるかどうかは別にして、某国の某総理大臣夫妻などはまさにこれ=get away with murderであろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, ジェイミー・フォックス, ヒューマンドラマ, ブリー・ラーソン, マイケル・B・ジョーダン, 伝記, 監督:デスティン・ダニエル・クレットン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 黒い司法 0%からの奇跡 』 -人間の良心に切々と訴える-

『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

Posted on 2020年3月1日2020年9月26日 by cool-jupiter

ロマンスドール 70点
2020年2月26日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:蒼井優 高橋一生
監督:タナダユキ

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劇場公開最終日の夜に駆け込んだ。平日の夜にもかかわらず、かなりの入り。席は7割がた埋まっていただろうか。意外というか予想通りというか夫婦やカップルが多かった。次に目立ったのは女性同士のペア、その次は女性のおひとり様。男性おひとり様は2名だったか。

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あらすじ

美大卒業後にフラフラしていた北村哲雄(高橋一生)はひょんなことからラブドール生産工場に就職する。新ドール作成の起爆剤として、本物の女性の胸を型に取ることになる。人工乳房作成のためと偽ってバイトを募集。そこにやって来た園子(蒼井優)にほれ込んでしまった哲雄は勢い余って即告白。やがて二人は結婚する。順風満帆に見えた結婚生活だが、哲雄は自分の本当の職業を園子になかなか告げられず・・・

 

ポジティブ・サイド

『 宮本から君へ 』でも感じたことだが、蒼井優にはオスの本能をくすぐる何かがある。本人はどうかは知りようもないが、演じている時の彼女からは常にそのような匂いが感じられる。それがフェロモンというものなのかもしれない。そうした匂いを無意識に分泌しつつも、屈託のない笑顔で社会貢献を語るギャップ。居酒屋での談義のシーンでは、その魅力のギャップに震えた。今、最も女盛りの女優だろう。

 

『 嘘を愛する女 』や『 九月の恋と出会うまで 』では、物語自体の弱さもあってか高橋一生がそれほど光らなかった。本作では対照的に男の人生のアップダウンを見事に好演。居間のテーブルに掛けて、夫婦で向き合い、真剣に話し合う様は、さながら日本版『 マリッジ・ストーリー 』である。定点カメラで撮影されたBGMも何もないシーンから、確かに圧を感じた。それは劇場内にいた他のカップルや夫婦も同じだっただろう。夫婦とは「なる」ものではなく、「あり続けようとする」ものなのだと、あらためて思い知らされた。

 

夫婦とは何か。哲学的な答えなら夫婦の数だけ出てくるだろうが、社会的に最も端的な定義(日本国内)はおそらくこれである。すなわち、「この人以外とはセックスしませんと公にできるパートナーを持つこと」である。だからこそ不貞が叩かれるのである。『 500ページの夢の束 』でも指摘したが、セックスは生殖行為以上に愛情表現である。とある老夫婦とペットのシークエンスは、それを迂遠に、しかし端的に表していた。ペットは我が子なのである。大多数のペットオーナーが飼い犬や飼い猫を指して「うちの子」と言うのはそういうことである。この老夫婦と哲雄と園子の夫婦のコントラストは非常に鮮やかだった。

 

仕事に打ち込み、仕事に逃避する哲雄像も良かった。職人というのは少々世間ずれしているものであるが、「仏作って魂入れず」とならないために、文字通りに一肌脱いだ園子に負けず、哲雄も一肌脱ぐ。このシーンから生じるパトスは男やもめの悲哀そのものである。不覚にもJovianも落涙しそうになった。タナダユキ監督は何という絵を作るのか。

 

ピエール瀧が本作では工場経営者として光っている。終盤で警察に逮捕されるシーンは、その絵のシュールさと現実とのリンク具合いに不覚にも笑ってしまった。実際にこういう艇的にしょっぴかれる仕事というのは存在する。こち亀で両津が部長に裏ビデオ屋の店長職を紹介していたのは一例である。風俗店の店長職などで求人があったら、こうしたポジションであるかもしれないと思った方が良いだろう。

 

閑話休題。蒼井優の脱ぎっぷりに期待してはいけない。やっぱり乳首は見せてくれない。けれど、それは大した問題ではない。色っぽい濡れ場が企図されているような作品ではない。セックスシーンは生きている証、愛情表現の手段の描写である。夫婦で観に行くべき作品と言えるだろう。

 

ネガティブ・サイド

妻・園子の抱える秘密があまりにも陳腐である。できの悪い韓国ドラマのようである。というか、冒頭のシーンは必要だっただろうか。これのせいで、ストーリーによい意味での緊張感が生まれなかった。冒頭1分はカットすべきだった。

 

きたろう以外の職人たちとの仕事描写や対話の描写があれば尚よかったのにと思う。本作においてはラブドールに求められているのは、性欲処理の手助けではなく愛情の注ぐ対象となることである。男はしばしばクルマを愛車と呼んだり、飛行機を愛機と呼んだりする。つまり、ドールは相棒なのだ。相棒に何を求めるのか、それは男によって違う。そうした男同士の哲学をほんのちょっとでもぶつけ合う描写があれば、哲雄が究極のドールの制作に没頭していく様にもっとリアリティを与えられただろう。

 

細かい点では無精ひげのタイミングも気になった。生活においてセルフネグレクト状態になった時、キッチンの惨状とは対照的に顔面はきれいだった。『 わたしは光をにぎっている 』のラストにおける光石研のような容貌や状態にはできなかったか。元々生えていた無精ひげが、仕事にのめりこみ過ぎてどんどんと伸びてきたという描写の方が説得力があったように思う。

 

総評

彫刻ガラテアを作ったピュグマリオンの逆バージョン、それが哲雄である。夫婦関係、特に閨房のそれをこのような形で描くことは非常に示唆的である。「俺なら・・・なのに」とか「俺のところとは・・・が違うな」と思いながら鑑賞しても良し、「なんだこりゃ?」と困惑しながらも観るのも良し。「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」と言われる。哲雄の生き方から何かを感じ取れれば、蛆がわくことはないに違いない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

To err is human.

正式には、“To err is human, to forgive divine.”である。「過つは人の性、許すは神の心」などと訳されることが多い。劇中できたろうが弟子たる哲雄に「間違うからな、人間ってのは」と語り掛けたセリフの私訳には、この格言を選びたい。Jovianがもしもこの格言を訳すのであれば、「失敗したっていいじゃないか、にんげんだもの」と相田みつを風に訳してみたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:タナダユキ, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 高橋一生Leave a Comment on 『 ロマンスドール 』 -不器用夫婦の不器用物語-

『 ガルヴェストン 』 -逃避行ものの佳作-

Posted on 2020年2月29日 by cool-jupiter

ガルヴェストン 60点
2020年2月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ベン・フォスター リリ・ラインハート
監督:メラニー・ロラン

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シネ・リーブル梅田で見逃した作品。あの怪作『 複製された男 』にメインキャストとして出演していたメラニー・ロランの監督作ということは後で知った。これは観るしかない。

 

あらすじ

裏社会の男ロイ(ベン・フォスター) は肺を病んでいた。医師の説明もまともに聞かず病院を去ったロイは、組織のボスに命じられるまま仕事先に向かう。だが彼はそこで襲撃を受ける。組織はロイを始末しようとしたのだ。相手を撃ち殺したロイは、その場に居合わせた若い娼婦のロッキー(エル・ファニング)を連れ、逃亡の旅に出るが・・・

 

ポジティブ・サイド

ベン・フォスターがベテランの貫禄を見せれば、エル・ファニングも新鋭以上の存在として重厚な演技を見せる。水着などはただのサービスに過ぎない。酒場での酒の飲み方、たばこの吸い方に咥え方、歩き方に笑い方、すべてに slutty な雰囲気をまとっていた。『 ウォールフラワー 』のエマ・ワトソンも悪くなかったが、彼女はどうしてもハーマイオニーのイメージから脱却できないところがある。エル・ファニングは『 マレフィセント2 』でも、充実の初夜を過ごしたという表情を見せていた。つまりは演技派なのだ。

 

だが、ファニング以上に印象に残ったのは、テキサス州ガルヴェストンの安モーテルを経営するナンシー・コヴィントンを演じたC・K・マクファーランドである。このオバちゃんの放つ存在感よ。『 影踏み 』の安宿のお上もそれなりに裏街道の人間という風情があったが、比較にならない。地下世界の殺し屋や素性不明の娼婦相手に初対面で上下関係を植え付け、それでいて包容力も見せつける。BiographyをIMDbでチェックしたが、映画やテレビドラマのチョイ役として息長く活躍している女優のようである。このオバちゃんの圧倒的なオーラを体感するだけでも本作を観る価値はあるだろう。

 

物語はテキサスの陽光や海のきらめきを活写しつつも、ストーリーはダークな領域に向かっていく。不惑のロイと19歳のロッキーの間に小さな女の子が入ってくることで、物語が陳腐なロマンスに堕してしまうことを防いでいるし、この子の存在がエンディングに驚きと彩りを与えている。どこかアメリカン・ニューシネマを思わせる作りである。エル・ファニングの新境地・・・とまでは言わないが、新しい一面に触れられるだろう。

 

ネガティブ・サイド

アメリカン・ニューシネマを思わせるというのは、アメリカン・ニューシネマではないからそう言えるわけである。ロイという殺し稼業の男の運命が、途中で見えてしまうのが本作の弱点である。これ見よがしにロイにタバコを吸わせるのは逆効果だった。

 

逃避行にあまり緊張感がないのが残念である。『 ベイビー・ドライバー 』のように、明らかに警察に追われているという単純なスリルやサスペンスがないし、ロイの属していた組織やそのボスの怖さもあまり伝わってこない。ロイの犯した殺人がテレビのニュースで報じられるシーンというのは、それまでのロイのプロフェッショナルな姿勢や警戒心がただの杞憂だったように感じられるのである。逃亡劇が面白いのは、『 逃亡者 』のリチャード・キンブルのように逃げる者が肉体的に強者ではなかったり、あるいは漫画『 カムイ伝 』の抜け忍びカムイのように逃げる側が実力者であったりする場合である。ロイは弱くもなく、さりとて強くもなくという感じである。超凄腕であるが、病気のために弱っている・・・という描き方をすれば、また異なる緊張感を生み出せたのではないだろうか。

 

中盤にロッキーが客を取るシーン(明確に描写はされないが)では、どこで手に入れてきたのか、whoreのコスチュームをゲットしてくる。どこで買ってきたのか。なぜ買ってきたのか。いつ買ってきたのか。このあたりの展開や描写にリアリティを著しく欠いていた。

 

終盤の展開と描写が、どことなく『 ベイビー・ドライバー 』と重複する。ガン・アクションやカーアクションは、正直言って拍子抜けするレベルである。このあたりにもう少し力を入れれば、芸術度は上がらなくても娯楽性は上がっただろう。劇場で鑑賞すれば、ポップコーンがもうちょっとは進んだに違いない。

 

総評

傑作ではないが、駄作でもない。COVID-19が本格的に流行し始め、不要不急の集まりや外出は控えよとの政府のお達しも出ている。手持無沙汰の終末に、レンタルや配信で自宅で気軽に鑑賞するのに向いている作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Just so you know

「一応言っておくけど」、「念のために言わせてもらうが」のような意味合いである。Jovianが感銘を受けたNancy Covingtonが“I’m friends with lots of cops, just so you know.”とロイに不敵に言い放つシーンは迫力満点である。自分で使えずとも、こうしたすべての単語は知っていても、それらが組み合わさると字面にはない意味になる表現というのは、知っておいて損はない。『 女神の見えざる手 』でも聞かれた。英語好きな人にはこちらの動画(02:38~)を勧めたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エル・ファニング, ヒューマンドラマ, ベン・フォスター, リリ・ラインハート, 監督:メラニー・ロラン, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 ガルヴェストン 』 -逃避行ものの佳作-

『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

Posted on 2020年2月24日2020年9月27日 by cool-jupiter
『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

スキャンダル 70点
2020年2月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ニコール・キッドマン シャーリーズ・セロン マーゴット・ロビー ジョン・リズゴー
監督:ジェイ・ローチ

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日本でも2000年あたりから、焼肉屋や居酒屋から女性の水着グラビアつきのカレンダーが消えていったと記憶している。あれはビール会社から店へのプレゼントだった。女性をセックス・オブジェクトとして見る傾向は徐々になくなってきてはいるが、今でも外国人(西洋人だろうが東洋人だろうが)は、日本のコンビニに並ぶ漫画雑誌や週刊誌の表紙が一様にグラビアになっていることに衝撃を受けるようだ。何がセクハラかは定義しづらい。しかし、曖昧であればいいわけではない。本作は日本の中年おやじにはどう映るのだろうか。

 

あらすじ

TVネットワークの巨人、FOXニュースの元キャスターのグレッチェン・カールソン(ニコール・キッドマン)はCEOのロジャー・エイルズ(ジョン・リズゴー)をセクハラで提訴した。カールソンはその他の被害女性たちが立ち上がるのを待つ。主要キャスターのメーガン・ケリー(シャーリーズ・セロン)は女性を蔑視するD・トランプ大統領候補との論戦の中、自身とロジャーの関係を思い起こしていた。そして野心を秘めたケイラ・ボスビシルはロジャーと面会するチャンスを得るが・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭でシャーリーズ・セロン演じるメーガン・ケリーが第四の壁を突き破って、FOXニュースとはどんな組織であるのかを懇切丁寧に説明してくれる。つまりは究極のトップダウンな組織なわけである。権力者が長く居座るとろくなことがない。星野仙一が中日ドラゴンズの監督を辞した時に、そうした旨のことを言っていた。ここに抑圧された個の存在を容易に嗅ぎ取ることができる。

 

アナウンサーは、ニュースを正確に読み、ニュースに適宜にコメントをつけ、あるいは専門家から適宜にコメントを引き出す。その仕事に性別は本来は関係ない。それでも日本でも女子アナ相手にこんな質問が飛ぶ土壌が今でもあるのだ。女子アナという言葉はあるが、男子アナあるいは男性アナとは普通は言わない。つまりはそういうことである。

 

脚本家が『 マネー・ショート 華麗なる大逆転 』のチャールズ・ランドルフなので、ストーリーの進行の仕方がよく似ている。つまり、説明的なセリフもナレーションもなく、淡々と進んでいく。観る側はいきなりテレビ局の真ん中に放り込まれた気分になる。そこは完全なる別世界だ。異なる論理の支配する世界。組織の構造を知ったら、あとはキャラクターを追う。そうしないとストーリーについていけない。非常に上質な、大人向けの作りと言える。

 

本作ではロジャー・エイルズを単純なセクハラ大魔王として描いていないところが興味深い。彼の妻は彼をとことん信じているし、FOX内部にはチーム・ロジャーの一員であることを自認する女性も数多く存在する。彼女らに名誉男性というレッテルを貼ることはたやすい。だが、それは安直に過ぎる。『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』でジョーダン・ベルフォートから多額の金を前借した女性社員は、涙を流して彼に感謝していた。極悪人であっても人を重用することはできるし、人に好かれること、リスペクトされることもある。いや、むしろ巨大な帝国を築いた人間なのだからカリスマ性があって当然なのだとも考えられる。「英雄色を好む」と古今東西で言われるが、我々は人間をあまりにも性別や貧富などの属性で見ることに慣れすぎて、人間そのものを見なくなってしまっているのではないか。ロジャー・エイルズの没落は痛快である一方で、苦い味も残す。そのバランス感覚が良い。彼を全面的な悪に描くのではなく、その背後にトランプ現大統領のような人間がいることを描くことで、権力を持った男の危険性や組織論への新たな見方も提供しているからだ。

 

ニコール・キッドマンの不退転の決意を示す表情、弱気になりながらも子供たちの前では気丈に声を振り絞る様、そしてケリー・メーガンの同調に目を丸くする様は堂に入っている。セクハラの告発はやはり勇気がいるのだ。復讐に燃える女ではなく、個の強さを信じる個人を演じるからこそ、これほどの強さを感じさせてくれるのだろう。次に素晴らしいと感じたのは、ケイト・マッキノン。完全なる男社会におけるゲイなのだが、こういった存在に光を当てられる監督ジェイ・ローチや脚本家チャールズ・ランドルフの感覚は素晴らしいと思う。単純な男女の物語に二分化されてもおかしくないストーリーが、彼女の存在によって強者とマイノリティの対立の構図になっているからである。

 

後味は苦い。まるで『 ブラック・クランズマン 』のエンディングのようである。伊藤詩織さんが元TBS記者の山口敬之相手の裁判で実質勝利を収めたのが昨年の2019年。本作が描くストーリーはトランプ政権誕生前夜の2016年。これは記録映画ではない。現在進行形の物語である。

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ネガティブ・サイド

ストーリーのその後がもっと知りたかった。カールソンらが多額の示談金を得たこと、そしてロジャーらがさらに高額の退職金を得たことが字幕で示されたが、その後についてもう一言二言触れてほしかった。例えば、#MeToo運動との関連だとか、他局や他の会社、他国にもこうした運動が広まったということなど。

 

主役がカールソンなのかケリーなのかが少々分かりにくい。歴史的(と言うほど昔ではないが)にはカールソンなのだろうが、物語的にはケリーなのだろう。であれば、ケリーの存在感をさらに際立たせるためにD・トランプ候補との舌戦などにもう少し尺を割くべきだったと思う。例えば、トランプのツイッター連投をしっかり時系列順に画面に表示し、いかに彼の投稿が支離滅裂であるかを示すこともできたはず。

 

あとは視聴者側からの視点がほんの数か所で良いので挿入されていれば、もう少しわかりやすくなったはずである。ほとんどすべてがFOXの局内で完結してしまうストーリーであるため、市井の人の反応が分からない。テレビのニュースというのは報じる側と視聴する側の両方が存在してこそ成立するのだから、ニュースの受け手が「ロジャー・エイルズ提訴される」の報にどのように反応したのか、そうした声をもう少しつぶさに拾う必要があったのではないか。

 

総評

これは決して対岸の火事ではない。いや、火事という言い方をしてしまうこと自体が当事者意識の欠如になるかもしれない。狭義のセクハラとは性的な関係の強要なのだろうが、広義に解釈すれば性的な機能を人間性よりも上位に置く関係の構築という、人間性の否定となる。セクハラとはスケベな言動ではなく、無礼・失礼な言動であるということを、Jovianをはじめアホな中年男性はまず思い知る必要がある。セクハラはすまいと心に決めた男性はぜひ本作を鑑賞しよう。「俺はセクハラなんかしたことないよ」と無自覚に胸を張れる男性は、本作を観ても無意味であろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

A fish rots from the head.

「魚は頭から腐る」の意。日本語なら「鯛は頭から腐る」だが、元はロシアのことわざであるようだ。魚を鯛に置き換えたのが日本らしい。上等な魚に言い換えることで、上等な組織ほど、トップから腐敗していくことを端的に表している。某議員が某総理にあてた言葉がまさにこれである。偶然だろうが非常に良いタイミングで英語の同じ意味のことわざが本作で使われている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, カナダ, シャーリーズ・セロン, ジョン・リズゴー, ニコール・キッドマン, ヒューマンドラマ, マーゴット・ロビー, 伝記, 監督:ジェイ・ローチ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 スキャンダル 』 -セクハラおやじ、観るなかれ-

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