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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

Posted on 2018年12月30日2019年12月7日 by cool-jupiter

ロッキー 90点
2018年12月24日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン タリア・シャイア カール・ウェザース バージェス・メレディス バート・ヤング
監督:ジョン・G・アビルドセン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181230021916j:plain

言わずと知れたボクシング・ドラマの金字塔。単なるスポ根物語ではなく、様々な登場人物の鬱屈が爆発しながらも、それが逆に見事なケミストリーを織りなしていくという稀有な作品。まさに脚本の勝利であり、スタローンその人の配役の勝利であり、Bill Contiの音楽の勝利である。ボクシング業界はこの映画にどれだけ感謝しても、感謝しすぎるということはない。

 

あらすじ

夜は場末のバーの古ぼけたリングで闘うロッキー(シルベスター・スタローン)は、昼はイタリア系マフィアの親分の下で借金の取り立て人をしながら日銭を稼いでいた。そんなロッキーはペットショップの店員のエイドリアン(タリア・シャイア)に美しさを見出していた。ボクシングはもう終わりだと思っていた矢先、ひょんなことから世界ヘビー級王者のアポロ・クリード(カール・ウェザース)とタイトルマッチを闘うことに。この試合で最後まで闘い抜くことができれば、何者かになることができる。そう信じるロッキーは、周囲の人間との衝突と和解を通じ、懸命にトレーニングに打ち込んでいく・・・

 

ポジティブ・サイド

スタローンは実はかなりボクシングセンスがあるのではなかろうか。パンチの型だけではなく、リングに立った時のシルエットがボクサーのそれに重なる。サウスポーのFinishing Blowと言えば、往々にして右フック。日本のボクサーで言えば長谷川穂積がカウンターの右フックの名手であった。その長谷川の右フックとは全然違うが、ロッキーの右フックの軌道は、大振りでありながらも背骨を軸にしたきれいな回転を保っており、本物のボクサー並みのトレーニングを積んできたことを容易に想像させる。そしてロッキー映画の方程式とも言うべき、音楽に乗せてのトレーニング・シーンのモンタージュ。特に不滅の名曲“Gonna Fly Now”に合わせてのそれは圧巻である。あのフィラデルフィアのロッキー・ステップスをいつか自分の両の脚で駆け上がってみたい。そう感じる映画ファンおよびボクシングファンはこれまでに数百万のオーダーで存在してきたに違いない。アメリカには何度か行ったが、いつかフィラデルフィアに行きたい。そしてあの階段を駆け上がって、ガッツポーズを決めたい。

 

しかし、ロッキー映画でJovianが最も好きなのは、トレーニングでも試合のシーンでもない。それはエイドリアンとロッキーの不器用ながらもまっすぐな恋。タリア・シャイアは、地味で内気で奥手な性格を眼鏡の向こう側に秘めていながら、麻生久美子的な健康的とも官能的とも言えない、何とも名状しがたい魅力を放っている。特にスケートリンクの上での他愛のない会話が好きだ。なぜボクシングなんかするのか?というエイドリアンの問いに「俺は歌ったり踊ったりできないからだ」と、自分を飾ることなく答えるロッキー。男の魅力は強さや富、ルックスから生まれるのは間違いないが、それ以上に飾らない実直さが大切なのだろうと観る者に強く思わせる隠れた名シーンだ。そして、初めてのキス。Jovianが好きな映画のキスシーンは『 スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲 』のミレニアム・ファルコン内でのハン・ソロとレイアのキスと、本作のロッキーとエイドリアンのキスである。

 

何年かに一回は必ず観てしまう映画だ。仕事に疲れた時。何か新しいことを始める時。この映画にインスパイアされた人間は、数限りなくいるはずだ。映画ファンは本作のような名作を語り継いでいかなければならない。

 

ネガティブ・サイド

字幕でNobodyを「クズ」と訳すのはどうだろうか。これは文字通りの意味で、「昔の俺は何者でもなかった」ぐらいの訳でよかったのではなかろうか。

 

ボクシングシーンをもう少しリアルにできなかったのだろうか。サウスポーがオーソドックスのジャブをあんなにポンポンもらうのは、当時ですら珍しかったはずだ。後は完全なない物ねだりだが、派手にパンチをもらうシーンで血と汗をもっと飛び散らせるべきだった。実際にリングサイドでボクシングを見たことがある人なら、どれほどのパンチの音が響いて、どれほど汗が弾き飛ばされるのかを身を以って体験したことがあるはず。低予算ではそこまでのリアルの追求は難しかったか。

 

総評

ボクシングを題材にした映画は数限りなく作られてきた。『 レイジング・ブル 』はボクシングの世界の闇をテーマにしていたが、『 ロッキー 』の世界ではミッキーやポーリーといった人生の落後者までもが輝く。自分も来年は頑張ろうかなという気分になれた。ありがとう、ロッキー。

 

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Posted in 映画Tagged 1970年代, S Rank, アメリカ, カール・ウェザース, シルベスター・スタローン, スポーツ, タリア・シャイア, バージェス・メレディス, バート・ヤング, ヒューマンドラマ, ロマンス, 監督:ジョン・G・アビルドセンLeave a Comment on 『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

Posted on 2018年12月29日2019年12月7日 by cool-jupiter

グリンチ 30点
2018年12月23日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ベネディクト・カンバーバッチ
監督:スコット・モシャー ヤーロウ・チェイニー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181229025951j:plain

Dr. Seussの絵本“How The Grinch Stole Christmas!”を原作とするアニメ映画で、ジム・キャリー主演で実写映画化された『 グリンチ(2000) 』をIllumination Entertainmentがアニメ化したものである。同僚のイングランド人1人とアメリカ人2人に尋ねたところ、Dr. Seussは作家としてかなり有名人で、グリンチというキャラクターも、バットマンやスーパーマン並みに知名度があるという。そのグリンチというキャラクターの魅力を本作は十二分に引き出せたか?様々な見方があろうが、個人的には否定的である。

 

あらすじ

フー達の村、フーヴィルではもうすぐクリスマス。人々の心は浮き立ち始める。しかし、村はずれの山の頂近くには、グリンチが住んでいた。彼はクリスマスが心底嫌いだった。一方で、フーの少女シンディ・ルーはクリスマスを前にある計画を胸に秘めていた・・・

 

ポジティブ・サイド

 

この美麗なCGはどうだ。さすがにUniversal Studios系列の会社だけあって、日本のアニメ映画スタジオとは基礎体力=予算が違う。これだけのCGを作成するだけの予算の、おそらく十分の一でもあれば、『 GODZILLA 星を喰う者 』のギドラもよりアクティブに動かせたであろうし、モスラも影だけでの登場ということにならなかったはずだ。先立つ物はカネである。そしてカネがあれば美麗な映像を作ることができる。個人的にはジブリのような手描きのアニメーションの方が味わい深いと感じられるが、こと美麗であること、eye-catchingであることにおいてはビッグ・バジェットの映画にはかなわない。

 

ダニー・エルフマンの音楽も素晴らしい。この人は『 ダーク・シャドウ 』や『 フランケンウィニー 』など、ちょっとおかしいキャラや独特すぎる世界観を表現させればピカイチである。劇中の“YOU’RE A MEAN ONE, MR. GRINCH”とエンドロールの“I am the Grinch”は特に強く印象に残る。グリンチのテーマソングとして両曲とも及第点以上の出来である。

 

そして愛犬マックスの活躍。ペットモデルというのは確かに産業としてもビジネスとしても成立しているが、動物を思うがままに動かすのは実写では難しい。しかしアニメならば容易い。そのことを製作者は十分に理解しているため、本作のマックスの存在感の大きさ、その活躍は実写版を大きく上回る。というか、このマックスは一家に一頭欲しい。

 

残念ながら、賞賛に値するのはここまでであった。

 

ネガティブ・サイド 

まず、シンディ・ルーのキャラクターが極端に変わり過ぎている。もちろん、児童文学も一定の普遍性を有しているし、逆に時代の要請に応えて柔軟に読み変えていくという仕事も必要である。しかし、無邪気な幼児または赤ん坊であるはずのシンディ・ルーが、腹に一物抱えたようなガキンチョになって、子どもたちを相手に一人前の友情論をぶつような頭でっかちに描かれているのは何故なのだろうか。はっきり言って、このシンディ・ルーは可愛くない。実写版では、フーヴィルの法典を盾にあれやこれやの理屈をつける町長を、無邪気で素直な質問を投げかけることで著しく狼狽させたシンディ・ルーであったからこそ、村人たちもグリンチを排除することはおかしいという空気に(あまりにも無邪気に)染まれたのである。そうした描写がないことが、本作のグリンチとフーヴィルの関係を非常にあやふやにし、それゆえにグリンチがクリスマスを憎み、それを盗んでやろうと思い立つところに一切共感できないのである。

 

可愛くないのはシンディ・ルーだけではない。グリンチも同様である。原作の絵本にはなく、ジム・キャリー版の実写映画が補足したグリンチの幼少時代の描写を一切省いてしまったのは何故なのだ。予告編や販促物では、ちびグリンチを散々露出させ、「この後、どんどんひねくれる」と煽っておきながら、そのちびグリンチの描写がないとはこれ如何に。実写版が生々しくも描き出した、幼少グリンチのトラウマは、観る者にグリンチの孤独とねじくれてしまった精神構造を納得させるに足るものであった。それがあるが故にグリンチの精神に、文字通りに大きな変化が起こるということが逆説的にではあるが、分かり易く受け入れることができるのだ。原作絵本ではグリンチは困惑すること3時間、ようやくクリスマスはリボンや包みや箱と一緒にやって来るものではないと気付くのだが、本作のグリンチは回心が早すぎる。これではグリンチの物語ではなく、シンディ・ルーの物語ではないか。時代に合わせて柔軟に解釈を変えていくことは文学上の重要な仕事として見なされうるが、英語圏では super famous なグリンチというキャラクターに関して、これではリスペクトが無さ過ぎる。

 

総評

これは古典的名作のアニメ化ではない。昨今のクリエイターが、無難に生み出したお涙ちょうだい物語の文法をなぞっただけの底浅い作品である。小学校高学年ぐらいまでならそれなりに楽しめるのかもしれないが、それ以上の年齢層には実写版を見せてあげるべし。高校生以上で、英語力には少し自信があるという人は、ここにオリジナル絵本のPDFがあるので、是非そちらも参照してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アニメ, アメリカ, コメディ, ベネディクト・カンバーバッチ, 監督:スコット・モシャー, 監督:ヤーロウ・チェイニー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

アリー / スター誕生 40点
2018年12月22日 にて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー レディー・ガガ
監督:ブラッドリー・クーパー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227140025j:plain

バーブラ・ストライザンドや、古くはジュディ・ガーランドにまでさかのぼるスター誕生物語の系譜が現代の歌姫、レディー・ガガに受け継がれた。ガガの歌唱力と意外な演技力、ブラッドリー・クーパーのカリスマ性をもってしても、しかし、これは残念ながら凡作の烙印を押されることを免れ得ないだろう。

 

あらすじ

アリー(レディー・ガガ)は、昼はウェイトレスを、夜は場末のバーで歌いながら、歌手になる夢を見ていた。そのバーに、有名ミュージシャンのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)が来店。アリーの歌に魅了されたジャクソンは、彼女を自分のコンサートの舞台に立たせる。喝采を浴びたアリーのキャリアとロマンスが動き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

“Shallow”と“Always Remember Us This Way”は素晴らしい。容易に歌詞が視覚化されてくる。それは映画のシーンとそれだけシンクロ率が高いからだ。極端な例を挙げれば、あのゴジラのテーマを聞けばゴジラが思い浮かぶし、ジョン・ウィリアムズのSuperman’s Themeを聞けば、クリストファー・リーブが思い浮かぶ。最近だと、ハンス・ジマーのワンダー・ウーマンのテーマがキャラを完璧に体現する傑作だった。冒頭の二曲は、本作を思い起こす上で絶対に欠かすことのできないピースになっているとさえ言える。

 

また、ガガの意外な素顔というか、彼女は普通の格好をしてノーメイクまたはかなり薄いメイクぐらいが最も美しいという意外な発見もある。露出多めの衣装も着てくれるし、入浴シーンやラブシーンもかなりある。スケベなビューワーも期待してよろしい。実際、ブラッドリー・クーパーはこういうシーンがやりたくて自分で監督及び主演をしたんじゃないのかと勘繰られても文句は言えまい。そういえば、シルベスター・スタローンもその昔、『 スペシャリスト 』という何とも微妙な映画で一部のファンや批評家から批判されていた。曰く、「シャロン・ストーンとベッドシーンを演じたかっただけじゃないのか」と。それでも、本来は歌手であって女優ではなかったはずのガガがここまで体を張ってくれるのだから、映画ファンは眼福とばかりに思わず、その表現をしかと受け止めねばならない。

 

個人的には映画のピークは駐車場のシーンかな。何気ない会話にこそ本当のドラマがあるように思う。『 ロッキー 』でエイドリアンとロッキーが無人のスケートリンク内で語り合うシーンこそが、Jovian的には the most romantic moment ever in filmなのだが、夜の駐車場シーンにも似たような趣があった。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの成功者とは、なぜ酒、ドラッグ、女に溺れて身を持ち崩すのだろうか。そういうのは『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』などで散々見てきたし、冒頭のジュディ・ガーランドへのオマージュであろうか、アリーの歌う“Over the Rainbow”が夢の国への旅立ちとそこでの試練、そして現実への回帰を予感させる。それはかつて何度もリメイクされてきた本作のストーリーのフラクタルでもあるだろう。それでも、この物語の陳腐さはもう少しどうにかならなかったのだろうか。雌伏、雄飛、成功、愛憎、別離、そして悲劇と、今日日の韓国ドラマでももう少し何らかの手を加えてくるだろうという、その起伏そのものが余りにも平板に感じられてしまうストーリー展開。はっきり言って、ガガの成功と歌唱力、パフォーマンスを我々があらかじめ知っているからこそ感情移入できるし説得力も生まれているのだが、これが誰か別のキャスト、たとえば歌唱力抜群だが、本当に自分の容姿容色にコンプレックスを抱いているような若い女性を起用したらどうなっていただろうか。恐らく、何の変哲もない凡百の作品との評価を受けて終わりだろう。それほど、本作のプロットは平々凡々である。

 

また現代というテクノロジーの転換期にある時代、梅田望夫の言葉を借りるならば「総表現社会」においては、すでに類似の事例がいくつもある。スケールはまったく異なるが、少し古いところではニコニコ動画初のKURIKINTON・FOXがメジャーデビューを果たしたり(その後、色々あったようだが・・・)、現在でも米津玄師やDAOKOなど、インターネット上のプラットホームからメジャーデビューを果たすという事例は、もはや珍しいものではなくなっている。また、海外の事例を挙げるとするならば、Rod Stewartに見出されたグラスゴーのストリート・パフォーマー、Amy Belleであろう。“I don’t want to talk about it”のデュエットは、始めて見た時、文字通り鳥肌が立った。

 

ことほど左様に、本作のストーリーは現実世界によってそのファンタジー性を剥ぎ取られてしまっている。YouTubeでバズったというだけでは現代に本作をリメイクする意味が無い。もっと新しいアイデアが盛り込まれてしかるべきだった。クーパーの嗅覚も少し鈍ったのだろうか。個人的には、ジャクソンとアリーは、RodとAmyのデュエットを超えなかった。

 

総評

映画としては普通の面白さである。ここで言う普通をどう捉えるかは観る人次第である。ガガやクーパーのファンであれば観るべきだ。しかし、『 ボヘミアン・ラブソディ 』と比較してはならない。音楽も演技も演出も映像も、『 ボヘミアン・ラブソディ 』に軍配が上がる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ブラッドリー・クーパー, ラブロマンス, レディー・ガガ, 監督:ブラッドリー・クーパー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 音楽Leave a Comment on 『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

二ツ星の料理人 55点
2018年12月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー ユマ・サーマン アリシア・ヴァイキャンダー リリー・ジェームズ
監督:ジョン・ウェルズ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227024144j:plain

今、最も旬を迎えつつあるリリー・ジェームズやアリシア・ヴァイキャンダーが結構なチョイ役で出演している。それだけでも観る価値があるし、細部に注意を払えば、非常に興味深い東西比較文化論ができる作品でもある。今度、”What is the best culinary experience you have ever had in a foreign country?” というお題でエッセイでも書いてみようか。

 

あらすじ

アダム(ブラッドリー・クーパー)は天才的な料理の腕前を持ちながら、酒、ドラッグ、女に溺れ、トラブルと借金のためにパリの二つ星レストランを去るしかなかった。3年後、彼はかつての同僚らと和解し、自らが見出した才能たちと再起のために新しい店をオープンさせ、ミシュランの三つ星を目指すべく奮闘するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ブラッドリー・クーパーの出演作には基本的に外れが無い。その演技力もさることながら、駄作、凡作、佳作を本能的に嗅ぎわける嗅覚に優れているのだろうか。いつでも自信満々、自らの才覚と実績を隠すことなく誇り、仕事は大胆にして繊細、しかし気に入らないものには言葉の暴力と物理的な暴力を容赦なく行使する。そんな豪放磊落なキャラクターというのは、往々にして傷心と小心の裏返しなわけで、アダムもその例に漏れない。彼が傷つき、恐れたものとは何であるのか。劇中のカウンセラーとのセッションが印象的だが、それすらもある意味では彼の本心を包み隠さず語ったものではない。そう、本作は料理人の成長物語であるだけではなく、傷ついた男の再生物語でもあるのだ。

 

本作の序盤の料理シーンでは、極力、顔と手を同時に映さないようにしている。しかし、シーンが進んでいくごとに、料理シーンでは役者の手と顔を同時に映すようになっていく。これはウェルズ監督の意図した画作りだろうか。役者の成長と上達が、キャラクターの成長と上達にオーバーラップする、非常に良い演出であると感じた。

 

演出面で言えば、アダムが上着のボタンをはずすシーンがあるのだが、それが緊張から解放されたことを見事に象徴している。アダムの成長というか、変化を如実に実感させてくれるのだが、そのことを本人あるいは他の登場人物に説明させるのではなく、演技して見せる。映画の基本にして究極でもある。北野武の『 アウトレイジ 』でも、椎名桔平がカジノでジャケットのボタンをゆっくりと留めるシーンがあったが、こちらは緊張が高まるシーンだった。対照的ではあるが、どちらも語らずに見せる、印象的なシーンだ。

 

観終わってから、本作の原題が Burnt である意味をほんの少し考えて見て欲しい。そしてここで納得のいく定義を自分なりに探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

何故この映画に出てくる料理人はどいつもこいつも煙草を吸うのだ?いや、煙草を吸うだけならまだいい。結構な重要キャラが自室兼キッチンで堂々と喫煙するというのは、いったいどういう料簡からだろうか。

 

また、これは大部分は文化の違いに起因するのだろうが、何故西洋の料理というのは、素材に無頓着(に見える)のだろうか。フランス料理に関して言えば、都パリは意味から遠く、新鮮な魚介類がパリに着くころには、保存状態がかなり怪しくなっていた。したがって、濃厚なソースが必要になる。また英国は産業革命発祥の地であるがゆえに、農村や郊外から都市部への人口の流入があまりにも急激だった。それゆえに各地の伝統的な食材や料理法が継承されず、大量生産に適した都市型の味気ない料理が残ったという。いずれにしても、東洋が大切にする素材の良さと、料理そのものの熱が伝わらないのは、個人的には大いに不満である。このあたりは『 クレイジー・リッチ! 』や『 日日是好日 』といった作品が活写した文化としての食が伝わらなかった。もちろん、洋の東西の違いは十二分に承知しているが、ミシュランが大阪のたこ焼き屋にまで星をつけたりするこの時代、全てが白の丸皿に盛りつけられただけで「食べるのをやめられない料理」の魅力は十全には伝えられないだろう。

 

本質的には料理人ではなく、ブロークン・ハートな男の物語である。しかし、食材や調理のシーンにもっともっと凝って欲しかったと思う。リアリティとは、こだわりなのだから。

 

総評

普通に楽しめる作品である。しかし、料理人や料理そのもの、また食す側の人間や、食のレビュワーまでも描いた作品『 シェフ 三ツ星フードトラック始めました 』の方が面白さでは一段上であろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, アリシア・ヴァイキャンダー, ヒューマンドラマ, ブラッドリー・クーパー, ユマ・サーマン, リリー・ジェームズ, 監督:ジョン・ウェルズ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

Posted on 2018年12月20日2019年12月6日 by cool-jupiter

オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 50点
2018年12月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョン・キューザック クラーク・デューク クレイグ・ロビンソン ロブ・コードリー
監督:スティーブ・ピンク

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181220153154j:plain

原題は“Hot Tub Time Machine”、邦題はおふざけが過ぎるかもしれないが、内容を考えれば、これぐらいぶっ飛んだタイトルの方が逆に的確かもしれない。主役はジョン・キューザックだったはずだが、あるところからロブ・コードリーが文字通りの意味でsteal the showを行う。『 ジュラシック・パーク 』ではサポーティング・アクターだったはずのジェフ・ゴールドブラムが、『 ロスト・ワールド ジュラシック・パーク 』では主役に躍り出たような感じか。

 

あらすじ

アダム(ジョン・キューザック)は同棲していた彼女に捨てられ、自棄になっていた。そこに旧友のルー(ロブ・コードリー)が自殺未遂を図ったとの連絡を受け、病院に急行。そこでもう一人の旧友ニック(クレイグ・ロビンソン)とも再会を果たす。ルーは回復、日常の憂さを晴らすべく、かつて3人で盛り上がったスキー・リゾートにアダムの甥っ子ジェイコブ(クラーク・デューク)と共に繰り出す。街の凋落ぶりに落胆する3人だったが、気を取り直してジャグジーで乾杯。そして目覚めた時には1980年代にタイムスリップしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

高校生がロッカールームで騒ぐ、あるいは大学生が寮内で騒ぐのと同じノリを、いい年こいたおっさん連中が維持していることにはある種の爽快感と痛快さがある。こうした超高速会話劇は日本では『 シン・ゴジラ 』が傑作とされているが、英語圏では(言語特性の違いも大きいが)ごく普通のスピードだったりする。英語に堪能な人は、ぜひ本作のキャラクターたちが使いこなす、いわゆる four-letter words を研究してみよう。

 

本作のテーマは、人生における後悔、怒り、不都合な真実をタイムトラベルによって解消できるかということである。これだけなら何の変哲もないタイムトラベル物語なのだが、タイムマシンがお風呂であること、そして過去に行き着いた主人公たちは自分たちの認識では中年(一人未成年含む)なのだが、鏡に映された姿は若い頃の自分たち。そして、周りの人間にも若い=同時代の人間であると認識されるところだ。まるで藤子・F・不二雄の漫画『 未来の想い出 』のようだ(€ちなみに映画化作品の『 未来の想い出 Last Christmas 』はまだ観ていない)。人間は往々にして現状の不満の原因を過去に求める。それをやり直すチャンスが得られたら、トライするだろうか?それとも現状を受け止めて、過去には一切手を触れないようにするだろうか。

 

本作では興味深いサブプロットが進行する。現在の世界で片腕の無い男が、過去ではその片腕があるのだ。この部分は以外に面白い。いったい、いつこの男は片腕を無くすのか?しかも、どのように?馬鹿馬鹿しいプロットではあるが、これがあるために劇中のとあるシーンにスリルとサスペンスが生まれている。

 

ネガティブ・サイド

少し80年代をチープに描き過ぎではなかろうか。また、タイムパラドックスの代表例とも言える親殺しのパラドクスは、もう少しうまい具合に料理できなかったか。この分野には『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』という不朽の名作が天高く聳え立つが、いっそのことパロディ色を前面に押し出しても良かった。また、『 バタフライ・エフェクト 』を思わせるような、過去のほんの少しの改変が未来に巨大な影響を及ぼすかのような描写もあったが、そのあたりのシリアスさは全くもってスルーされてしまった。冒頭にも述べたが、主人公が途中で交代してしまったかのようなちぐはぐさも気になった。こうしたことは稀に起こるが、成功例は少ない。最近では『 ボーダーライン 』でベニシオ・デル・トロがエミリー・ブラントから steal the show をした例が挙げられる。全体的に色々なものをパッチワーク的につなぎ合わせたような不揃い感が強く残り、コメディとしての面白さは維持しているが、映画としては失敗作という印象を受けた。特に夜中のとある屋根の上のシーンの星空の作り物感にはガッカリさせられた。リゾート地の星空なのだから、もう少しリアリスティックかつロマンティックな星空を描くべきだ。タイムトラベルという大ウソをつくのだから、細部のリアリティにもっとこだわるべきだ。

 

総評

珍妙な邦題をつけられた作品が好きだ、という向き以外には強くお勧めする理由はない。ただ『 プールサイド・デイズ 』で割と真面目でまともな隣人を演じていたロブ・コードリーの、頭のねじを意図的に外したような演技に興味があるという人は、雨の日にでも観てみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, ジョン・キューザック, ロブ・コードリー, 監督:スティーブ・ピンクLeave a Comment on 『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

Posted on 2018年12月14日2019年11月30日 by cool-jupiter

ヘレディタリー/継承 50点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トニ・コレット アレックス・ウルフ ミリー・シャピロ アン・ダウド ガブリエル・バーン
監督:アリ・アスター

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181214032146j:plain

 

heredityという言葉がある。遺伝という意味で、よりなじみ深い英単語ならinheritが挙げられるだろう。ityがつくことで、性質や状態を意味する。身近な例としては、abilityやunity、facilityがある。これにさらに、aryをつけると、場所や範囲、領域を意味するようになる。好個の一例がdictionaryだろう。dictについては、predictやcontradictから類推は容易だ。原題も”Hereditary”であることから、誰かが何かを受け継いでいることを指すのは一目瞭然なのだが、誰かとは誰か、何かとは何であるのかを理解するのは一筋縄ではいかなかった。

 

あらすじ

その一家は祖母を亡くした。その娘のアニー(トニ・コレット)は母には複雑な感情を抱いていながらも、仕事のミニチュア・ハウス作りに没頭する。息子のピーター(アレックス・ウルフ)と娘のチャーリー(ミリー・シャピロ)も日常に回帰しようとするが、名状しがたい異様な空気を一家は振り払うことができず、ある夜、悲劇が発生してしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

非常に珍しい Establishing Shot から始まる映画である。ミニチュアのドールハウスを映したかと思えば、その部屋の一つにどんどんズームインしていく。それがピーターの寝室とぴたりと重なるところで、父がピーターを実際に起こしに来る。のっけから唸らされた。今からあなたが観るのは、全て誰かが組み立てた話なのですよ、とあけっぴろげに語られたような気がしたからだ。そして、実際にその通りなのである。

 

何と言ってもチャーリーを演じたミリー・シャピロに拍手を送りたい。強面のジェイソン・クラークをそのまま性転換させ幼児化させたようで、メイクの力もあるだろうが、尋常ならざる雰囲気を見た目だけで醸し出している。天才肌のグレイス・マッケナとは一味違う、一種異様な空気を纏うことができる子役だ。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアのようなキャリアを歩まないことを切に願う。

 

アメリカのメジャーな映画の母親役はトニ・コレットかアリソン・ジャネイとでも決まっているのだろうか。ほんの少し前まで、邦画のきれいなおばあちゃんは吉永小百合、ちょっとエキセントリックなおばあちゃんは樹木希林だったように。本作では主演だけではなく製作総指揮も務めたとのことだが、おそらく鏡の前で相当に顔の筋肉を動かしてから撮影に臨んだに違いない。恐怖の演出のための表情が、コメディ一歩手前にまで到達してしまっている。トニ・コレットでなければギャグになってしまうところを、その存在感と卓抜した演技力で見事に場面を締め付けている。

 

顔芸ではピーターも負けてはいない。特に運転席のシーンでは、観ているこちらも冷や汗をかくというか、脂汗をかくというか、バックミラーを見て後ろを確認すると、そこには!という演出は、おそらく『 ジュラシック・パーク 』で一気にスパークし、今やクリシェと化したが、今作はバックミラーを覗きこみたくても覗きこめないという演出で観る者の不安と恐怖を掻き立てた。残念なのは、恐怖の描写ではこのシーンがピークだったことか。

 

ネガティブ・サイド

ホラーとは何か、については実に興味深い議論がある。Cinemassacreの二人(James RolfeとMike Matei)による Is it horror? という動画がある。議論の冒頭で“Horror is something that’s always changing and adapting to the state of the world”=「ホラーは常に変化して、世界の状態に適応していくもの」という指摘がなされるが、これは正しい。そして、その議論を援用するならば、ホラーの定義は地域によって異なってもよいはずだ。極めて日本的なバックグラウンドを持つ人が、この映画から感じ取る恐怖とは、視覚的な恐怖や聴覚的な恐怖であったり、家族の崩壊の恐怖であったりで、宗教的・哲学的な意味での恐怖を感じ取る人がいたとすれば、相当に鋭い感受性か、もしくは類まれな知識と教養の持ち主と思われる。この映画から後者の意味での恐怖を受けるとすれば、それは西洋文明に相当明るい人のはずだ。Jovianは平均よりも上の知識をその方面に有していると自負しているが、正直なところ、家族の崩壊以上の意味を感じ取ることは難しかった。最後の最後の場面で諸々の伏線、前振りが回収されていく様は見事であったが、それはホラーといよりもサスペンスやスリラーであるように感じられた。

 

ホラー=恐怖とは、理不尽なもの、理屈が通じない状況から生まれるものだろう。しかし、本作の悲劇の始まりは、チャーリーがある行動を取ったから、という実に他愛のないものだった。隠す意味もないのだが、その行動とは「ケーキを食べる」である。もう、これだけでホラーの要素が薄まってしまうだろう。もちろん、その後の悲劇は本当に悲劇としか言いようがないのだが、その過程で観る者が感じるのはサスペンスであってホラーではない。これは西洋人であろうと東洋人であろうと同じだと考えられる。

 

本作は『 ローズマリーの赤ちゃん 』になろうとして、しかし『 タロス・ザ・マミー/呪いの封印 』になってしまった、と言えば通じるだろうか。誰がどう見ても怖い作品を作ろうとして、謎解き要素が強めの作品が出来上がったという感じである。同工異曲でもっと怖い作品を観たいという人は、『 ウィッチ 』を観よう。色々と腑に落ちた点をしっかりと頭に叩き込んでもう一度劇場に向かえば異なる感想を持つ可能性は高いが、残念ながらその予定はない。

 

総評

おそらく評価が真っ二つに分かれる作品である。恐ろしさを感じる人は感じるだろうし、スリルやサスペンス、またはミステリー要素を感じ取る人も相当数いると思われる。ホラーというものは常に現実に即しながら、必ず現実をはみ出た部分を持っている。どの方向にどの程度はみ出るかによって、どのような人にどの程度の恐怖感を催させるかが決定されるわけだ。そうした意味では、観る人を選ぶ作品である。もしもトニ・コレットのファンならば、即、劇場へGO!! である。イヤミス好きという人にもお勧めできる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, トニ・コレット, ホラー, 監督:アリ・アスター, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

Posted on 2018年12月12日2019年11月30日 by cool-jupiter

くるみ割り人形と秘密の王国 40点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マッケンジー・フォイ キーラ・ナイトレイ モーガン・フリーマン
監督:ラッセ・ハルストレム ジョー・ジョンストン

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チャイコフスキーの“くるみ割り人形”と言えば、圧倒的に「行進曲」と「花のワルツ」のイメージが強いだろう。この軽快にして優雅な調べは、聴く者の心に沁み入るような印象をもたらす。この典雅な音楽に乗せて展開される映像世界はどのようなものになるのだろうかと期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

母を亡くして以来、内向的になってしまったクララ(マッケンジー・フォイ)は、あるクリスマス・イブに名付け親のドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)の邸宅を訪れる。そこでは各人へのクリスマスプレゼントが用意されており、自分の名前が書かれた札のついた紐をたどっていく仕組みだ。そしてクララが紐をたどっていく先には、不思議な世界が広がっていた・・・

 

ポジティブ・サイド

インターステラーのマーフがここまで大きくなったかと、マシュー・マコノヒーならずとも父のような目で見てしまう。クロエ・グレース・モレッツ的な存在になるのか、それともジェニファー・ローレンスのような恐れ知らずの女優にまで変貌するか。今後が実に楽しみである。なんとなくルックスが杉咲花を思わせるのだが、出演作は本人およびハンドラーもしっかりと吟味をしてほしいと切に願う。

 

ゴッドファーザーのモーガン・フリーマンも、日本の国村準に負けず劣らずのハイペース出演。正直なところ、この偉大なる俳優のキャリア、というか寿命もそこまで長くは残されてはいないだろう。彼の今後の一作一作が、文字通りの遺作になる覚悟で臨んでいる。言えるうちに言っておこう。この不世出の名俳優に乾杯。

 

そしてキーラ・ナイトレイである。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』では典型的なお姉さんキャラを演じていたが、本作ではハイテンションお姉さんキャラに変貌を遂げた。しかし、大人でありながら大人の余裕をそれほど感じさせないお姉さんキャラという点では、いつものキーラなので、彼女のファンであってもそうではなくても、安心して鑑賞できる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは人による。Jovianは好意的に受け取った。キーラは何となく、蒼井優を思わせる。可愛らしさ、色気、儚さ、物憂げな様子、名状しがたい負の感情、倒錯。そうしたところが共通しているように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーそのものに真新しいところはない。というよりも、ディズニーらしい改変が加えられている。ディズニーがよく知られた物語を実写化すると、しばしばフェミニスト・セオリーなどの現代的な読み変えを行う。女性はどこまでも受け身で、物語を雨後がしていくのはもっぱら男性的なキャラクター達というのが古典的な物語の在り様だ。赤ずきんちゃんでも白雪姫でも何でもよい。そうしたおとぎ話の女性の受動性とディズニー映画の女性の積極性には見事なコントラストがあるのだが、それが常に成功するわけではない。なぜクララがいきなりガンガン闘えるのか。なぜクララに女王の威厳が備わっているのか。なぜクララが機械仕掛けに精通しているのか。こうした男性的な特徴を、特に説明もなくクララが持っていることが、物語にマイナスに作用しているように思う。近年の実写ディズニー映画で個人的に最も面白かったのはリリー・ジェイムズの『 シンデレラ 』だ。なぜなら、女性の女性性を損なうことなく、一貫した物語に仕上がっていたからだ。クララ本人とその母親、そして四つの王国の背景がほとんど語られないままにキャラが動き出すせいで、観客は置き去りにされたかのように感じてしまう。

 

また、CGの量は何とか抑えられなかったのだろうか。全ての王国の背景が、あまりにも作り物然としていた。CGが今後どれほどの進歩を見せるのかは分からないが、それでもCGはCGとして目に映るだろう。最近観た『 グリンチ(2000) 』でも感じたことだが、着ぐるみや特殊メイクは幼稚かもしれないが、存在感という点ではいかなるCGにも勝る。最近も『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ほとんど動かないキングギドラを見せられたが、かつての昭和、平成のキングギドラは二十人ほどの操演によって動いていたという。しかし、ピアノ線による操演技術はロストテクノロジーとなって久しい。今ではエキストラの人間さえもCG作成して合成してしまう映画が多いが、ディズニーほどの予算を持っているのなら、オーガニックな素材をふんだんに使った映画を作り続けるべきだ。本作のCGヘビーな面は、技術の進歩というよりも技術の後退、継承の失敗という文脈で捉えるべきではないだろうか。

 

総評 

はっきり言って、本作にはストーリー上の面白さは無い。キャストにお気に入りがいないのであれば、素直にスルーするのが吉である。そうはいっても、チャイコフスキーの音楽の調べによって語られる物語の映像美は、雨の日の過ごし方やちょっとした時間つぶしのためには最適であるのかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ファンタジー, マッケンジー・フォイ, モーガン・フリーマン, 監督:ジョー・ジョンストン, 監督:ラッセ・ハルストレム, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

Posted on 2018年12月8日2019年11月30日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 50点
2018年12月1日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ ジュード・ロウ
監督:デビッド・イェーツ

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原題は“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald”、『 ファンタスティック・ビースト:グリンデルバルドの罪 』というわけだが、ウィザーディング・ワールドでは罪の概念がマグル/ノーマジの世界とは異なるのだろうか。個人的には、グリンデルバルドはそこまでつの罪を犯しただろうか?と首をかしげてしまった。

 

あらすじ

悪の大魔法使い、グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が移送中に逃亡に成功。ダンブルドア(ジュード・ロウ)と接触したニュート(エディ・レッドメイン)は、彼に代わってグリンデルバルドの追跡を依頼される。大魔法使いのダンブルドア自身がその任にあたらないことに訝しさを覚えつつも、ニュートはロンドンからパリへと向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

シリーズと呼ばれる作品は映画界に数多く存在する。しかし、Saga / サーガ と見なされうるだけの力と奥深さを持つ作品は少ない。『 スター・ウォーズ 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』は間違いなくサーガだが、『 猿の惑星 』や『 ミッション・インポッシブル 』はサーガではないと感じている。サーガとは英雄譚であると同時に、魅力的なキャラクターと物語を生み出す世界観そのものだろう。「ルークやダース・ベイダー(≠アナキン)が出てこないから、新三部作はスター・ウォーズではない!」と怒るファンはいなかった。我々スター・ウォーズファンが怒り、嘆き悲しんだのは、フォースと言う銀河に満ちる神秘的な力を生物学的に解釈してしまったところだった。世界観を破壊されたからなのだ。そういった意味では、キャラクターではなく世界観こそが、シリーズとサーガを分ける一つの大きな指標だろう。『 ハリー・ポッター 』は紛れもないもサーガだった。本作もサーガの一端を担っていると言える。それはニュートやティナが登場していること以上に、魔法や魔法生物の存在によるところが大きい。前作でかなり唐突にアメリカに舞台を移したことには面食らったが、今作はパリ、さらには中国の妖怪も大暴れし、日本の妖怪も一瞬だけ登場する。世界の奥深さ、広大さを切り取った素晴らしい構成だと感じた。

 

ネガティブ・サイド

登場人物が一気に増えすぎた感は否めない。前作のニュート、ティナ、ジェイコブ、クイニーのリユニオンが期待されていたはずだが、そこへ持ってきてニュートの兄、その兄の婚約者、さらにクリーデンスの親など、メインのプロットであるグリンデルバルドの追跡とは直接に関連しないサブプロットが多すぎる。『 アントマン&ワスプ 』でもそうだったが、ストーリーは詰め込めば詰め込むだけ良いというものではない。過剰なサービス精神が必ずしもエンターテインメントになるわけではない。

 

冒頭でも述べたことだが、本作の最大の弱点は、グリンデルバルドが多くの魔法使いを扇動するばかりで、罪と呼べるのはオープニングの闘争および逃走シーンぐらい。だいたい、こんな危険な魔法使いが逃げ出したというのに、魔法省は数ヶ月間も動かず。ハリポタ世界でもヴォルデモートの復活を信じず、闇の軍団の成長に楔を打ち込もうとする動きは大きくならなかった。魔法使いは皆、基本的に能天気なのだろうか。闇祓いというのはアラスター・ムーディのような、好戦的・・・とは言わないまでも、闘うことに慎重になりすぎず、闘うとなれば手足や目玉ぐらいは犠牲に闘うものではないのか。ニュートが闇祓いを忌み嫌うのは、自分たちの知識や理解の範疇に収まらない生物を駆除しようとするからではなかったか。なぜグリンデルバルドにもっと立ち向かっていかないのか?映画的ご都合主義が見え隠れしていた。これは大きな減点材料だ。

 

総評

本シリーズは全5作で完結するとされている。であるならば、次作ではマクゴナガル先生の若い頃versionが登場してもおかしくない。個人的には、ハリポタ世界でスネイプ先生に次いで最も好きなキャラクターだ。ダンブルドアがストーリーに絡んできたからには、彼女の登場も期待される。作品としてはもう一つだが、Wizarding Worldの広大さを感じられるという意味では及第点。

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Posted in 映画Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

Posted on 2018年12月6日2019年11月23日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 60点
2018年11月29日 レンタルDVD鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ
監督:デビッド・イェーツ

 

ハリー・ポッターは最初の1冊だけ小説を読んだ。映画は全部観た。原作の翻訳者が大学の大先輩で、2000年ごろの大学祭での講演も聞いたことがある(ただの自慢話だったと記憶しているが)。Universal Studios Japanにも何度か行ったが、ハリポタのアトラクション・ライドは必ず乗ってきた。大ファンというわけではないが、The Wizarding World of Harry Potterの世界にはそれなりに魅了されてきた。作品としては続編(sequel)だが、物語としては前日譚(prequel)である。

 

あらすじ

魔法動物学者のニュート(エディ・レッドメイン)は、様々な魔法動物の収集と保護のためにアメリカを訪れる。しかし、魔法のトランクから一部の動物が脱走。アメリカ魔法省からお咎めを受ける。逃げ出したファンタスティック・ビースト、さらには未知の魔法生物を探し求めて、ニュートの冒険が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッターの世界と地続きなので、非常に入りやすい。服装、街並み、呪文など、いかにも前シリーズを意識していて、すんなりと世界に入って行ける。

 

キャラクターも良い。ハリポタ世界のマグルは、はっきり言ってあの嫌味な一家の印象しかないが、ジェイコブ・コワルスキーに(ダン・フォグラー)は嫌味がない。彼は人間味に溢れ、なおかつ非常に好感を抱きやすい好漢だ。このノーマジ=人間とニュート、ティナ(キャサリン・ウォーターストン)、クイニー(アリソン・スドル)が織り成す関係こそが物語の軸になるということが即座に分かる。素晴らしいは褒めすぎだが、しっかりとした導入部分を作れている。

 

今作では、オブスキュラスという魔法生物?怪物?が猛威をふるう。ハリポタ世界のデスイーターをさらに凶悪かつ破壊的にした感じで、そのCGビジュアルは美麗にして禍々しい。ハリポタ世界では、純血と混血の対立と融和が裏テーマとして存在していたが、ファンタビ世界では、愛される者と愛されない者の対立と融和が、おそらく裏テーマとして設定されているようだ。これはこれで興味深いし、時代や社会の背景を如実に映し出していると言える。愛は種を超えるのか。世界を超えるのか。なかなかに深遠なテーマに挑んでいる。その意気やよし。

 

エディ・レッドメインは『 博士と彼女のセオリー 』では圧巻の演技を見せた。『 ホーキング 』では同役をベネディクト・カンバーバッチが演じたが、両者の30歳前後での純粋な演技力だけに注目すれば、レッドメイン > カンバーバッチとなろう。本作でもその演技力の高さは遺憾なく発揮されており、様々な魔法生物に相対した時の声の出し方、票の作り方、なで方や触り方、歩き方や忍び寄り方の随所に、現実世界の動物学者やレンジャーたちと共通するモーションが見られた。興味と暇のある方は、ぜひ本作のニュートの動き方、立ち居振る舞いを頭に刻みつけた上で、NHKの『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』を視聴してみよう。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、ハリー、ハーマイオニー、ロンの3人組のケミストリーには及ばない。というか、比べること自体が酷であろう。J・K・ローリング自身もそのことを自覚しているからこそ、メインキャラ達を大人に設定し、そこにノーマジを加えてきたのだろう。しかし、ハリポタ世界の sequel ならまだしも、prequel の世界では、それは最善手ではなかった。

 

また、これも比べるのは酷なのだが、ハリー・ポッターにおけるヘドウィグのテーマほどの象徴性のあるサウンドトラックが無かった。例えば、スター・ウォーズにおけるミレニアム・ファルコンのテーマ・・・までは望むべくもないが、これを聞くとニュートの顔が思い浮かぶ、という力のあるサントラが欲しかった。

 

シリーズが続いていくほどに、様々な謎やキャラクターの過去も明かされていくと思うが、グリンデルバルドの登場があまりにも唐突すぎたように感じた。このキャラの深堀りは次作以降に行われるのだろうが、ヴォルデモートの「名前を言ってはいけないあの人/He who must not be named」のような、そんなインパクトある二つ名が欲しかった。

 

最後に、やはりハリポタ世界におけるセブルス・スネイプのようなキャラクターが欲しかった。それがクリーデンス(エズラ・ミラー)なのか、それとも別キャラなのか、それともスネイプ先生は唯一無二の存在なのだろうか。抱える闇の深さが、実は愛の大きさを示していたという屈折したキャラの存在がやはり望まれる。

 

総評

前の打席で場外ホームランを打ってしまうと、次の打席で二塁打を打っても特に騒がれない。そんな不条理さが感じられてしまう。しかし、ニュートというキャラクターはとても魅力的で、今後どのような魔法生物と出会い、どのような魔法生物の知識を披露してくれるのかと思うと、それはそれで胸躍るものがある。期待しすぎないこと。それが今シリーズを鑑賞する時に最も大事なことなのかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エズラ・ミラー, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ゾーイ・クラヴィッツ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

Posted on 2018年11月30日2019年11月23日 by cool-jupiter

ステータス・アップデート 70点
2018年11月25日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ロス・リンチ オリビア・ホルト コートニー・イートン グレッグ・サルキン ロブ・リグル ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:スコット・スピア

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『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』のスコット・スピア監督の作品ということで迷わず鑑賞。やはり今後は、自分の頭の中の心象風景を、自分なりにチョイスした音楽に乗せられる監督がどんどん台頭してくるのだろうなという印象をさらに強くさせられた。かの武満徹や伊福部昭は映画音楽を手掛けることはあっても、サントラの発売には当初、かなり否定的だったと言われる。映像+音楽=映画音楽という信念の持ち主であったことと、あくまで自分たちは音楽家であって実業家ではないという信念の持ち主であったためと考えられている。しかし、今後はジャンルの混合・混淆もますます進み、音楽畑や文学畑から映像畑に進出してくる、あるいはその逆の流れも生じてくるのだろう。スピア監督は、そうした時代の潮流の象徴の一人であるように思う。

 

あらすじ

両親が別居することになったカイル(ロス・リンチ)はカリフォルニアから4800km離れたコネティカットに引っ越し、母と祖父、妹と暮らし始める。しかし、学校や地域そのものに馴染めず苦悩する。そんな中、モールのショップで「ユニバース」というアプリ入りのスマホを手に入れたカイルは、そこに投稿した内容が実現することを知る。次々に願いを叶え、望みのものを手に入れていくカイルだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ドラえもんのひみつ道具を一つだけ手に入れることができるなら、何がいいだろうか?と夢想したことのある人は多いはずだ。タケコプターやどこでもドア、ほんやくコンニャクあたりが有力候補だろうが、Jovianは間違いなく、もしもボックスを選ぶ。本作のカイルは、そういう意味で自分と重なる。そしてその願いも、まるでのびたのそれのようなのだ。小学生でも高校生でもオッサンでも、結局願うことは同じレベルなのだと思うと気恥ずかしいやら面映ゆいやら。世界征服のようなスケールの大きな願いではなく、あくまで自分の生活世界の中で完結するような願い。カイルが叶えたいと思うのは、非常に小市民的な夢なのだ。

 

本作はアメリカのスクール・カーストの実態も活写する。『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』や『 ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 』で描かれていたように、アメリカのハイスクールでカースト上位に来るのは、フットボールチームのスターとチアリーダーなのであるが、本作はその地域性もあって、アイスホッケーチームのエースが序列のトップに来る。アメリカという国の広さを物語ると共に、自分がアメリカに対して知らず先入観を抱いていたことも思い知らされた。このアイスホッケーというのがミソで、思わぬユーモアを生み出してくれる。また『 ピッチ・パーフェクト  』並みに歌唱とダンスにも力を入れているシーンがあり、ここはスコット・スピア監督の趣味と手腕が爆発した箇所であると言える。ビジュアルの力でストーリーテリングを行うのは映画の基本にして究極だが、そこに音楽や歌謡を効果的に用いることのできる、いわば新世代の監督たちも台頭してきた。トップランナーはエドガー・ライトだろうが、スコット・スピア監督も、今後はほぼ無条件で観るべき監督リストに載せておこう。

 

非常に陳腐ではあるのだが、本作はカイルという主人公を決してミヒャエル・エンデの『 はてしない物語 』のバスチアンのようには描かない。というよりも、この世界のバスチアンとファンタージェンのバスチアンを丁寧に切り取り、前者をカイルに、後者をカイルの親友、デレクに仮託したようである。どこまでも子どもの目線を貫くプロット構築は見事である。

 

そして子どもと対比されるのは大人である。具体的にはカイルの父と母である。母は息子に非常に現代的なアドバイスを送る。それはおそらく多くの子どもたち、いや、それよりも大人たちに突き刺さるメッセージである。在野の歴史家にして小説家の八切止夫は「人間関係は、いかに相手に誤解されるかにかかっている」と著書『 信長殺し、光秀ではない 』で喝破した。このメッセージは、ロブ・リグル演じる父親に実はそっくりそのまま当てはまる。それにしても、このコメディアンは一癖ある父親を演じさせれば天下一品である。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも強烈なインパクトを残したが、スピア監督と相性が良いのだろうか。素晴らしいケミストリーが生まれている。

 

最後に、ジョン・マイケル・ヒギンズに触れねばならない。『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズの毒舌解説者と言えばお分かり頂けよう。単なる勘だが、この人は多分、台本半分、アドリブ半分で喋っているのではなかろうか。韓国のイム・ヒョンシクに並ぶアドリブの帝王であるような気がしてならない。これは褒め言葉である。

 

ネガティブ・サイド

祖父はこの物語に必要だったか?コミックリリーフならロブ・リグルがいるし、デレクも単独で充分に面白い。祖父の存在は完全にカットして、上映時間を数分で良いから短くするか、または編集でそぎ落とした他のシーンの増量に回してほしかった。

 

またエンディングのクレジットシーンに10秒程度のスキットが挿入されるが、これも果たして必要だったのだろうか。

 

「ユニバース」というアプリの効力の範囲や期間が不透明であったり、一度アップデートされたステータスを再びダウングレードすることは可能か?などの疑問も湧いてきてしまうが、これをちょっと不思議な青春映画と見るか、それとも現代的な本格ファンタジーと見るかで評価が分かれるかもしれない。

 

総評

これは面白い。こういった作品こそ、配給会社はもっと数多くの箱で見られるように努力してもらいたい。娯楽あり、哲学ありと面白さと深さの両方を追求している作品で、小学校の高学年から大人まで幅広い層のビューワーを楽しませることができるポテンシャルを秘めた作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジョン・マイケル・ヒギンズ, ファンタジー, ロス・リンチ, ロブ・リグル, 監督:スコット・スピアLeave a Comment on 『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

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