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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

Posted on 2019年1月20日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ 70点
2019年1月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジュリー・アンドリュース ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロバート・スティーブンソン

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元々は絵本である。しかし日本では、おそらく歌の『 チム・チム・チェリー 』の方が有名かもしれない。一部の世代や地域の人であれば、小学校もしくは中学校の音楽の教科書に載っていたかもしれないし、今でも幼稚園や保育園では歌っているかもしれない。エミリー・ブラント主演の新作が公開される前に、復習鑑賞も乙なものかもしれない。

 

あらすじ

時は1910年、ところはロンドン。バンクス家のジェーンとマイケルは悪戯ばかりで、乳母役が次から次に辞めていく。父は厳格な銀行家。母は参政権獲得運動に没頭と、家庭を顧みない両親。ジェーンとマイケルは自分たちが望む乳母役募集の広告をしたためるも、父はそれを破いて暖炉に捨ててしまう。しかし、その紙切れは雲の上の魔法使い、メリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)の元に届いて・・・

 

ポジティブ・サイド

ジュリー・アンドリュースの歌声の美しさ。そしてそれ以上に、彼女の演技力。決して優等生ではない子どもたちに接するに、優しさや包容力、ユーモアだけではなく、一定の厳しさ、威厳を以ってする乳母役を見事に体現した。これはそのまま『 サウンド・オブ・ミュージック 』のマリア役に結実したわけである。もちろん、ダンスの面でも卓越した技量を見せる。

 

だが、それよりもストリートパフォーマーにして煙突掃除人のバートを演じたディック・ヴァン・ダイクの歌唱とダンス、パントマイムには驚かされた。『 グレイテスト・ショーマン 』のヒュー・ジャックマンやザック・エフロンよりも、エンターテイナーとして上質なパフォーマンスを披露してくれたように感じた。特に、煙突掃除人の大集団を率いる形の歌とダンスは圧巻の一語に尽きる。『 マジック・マイク 』と『 マジック・マイクXXL 』のチャニング・テイタムでも渡り合えない(マジック・マイクはそもそも歌わない・・・)。特に夕焼けを背景に掃除人たちのシルエットが躍動するシーンは印象的だった。Jovianは今でも映画で最も衝撃的な体験といえば、『 オズの魔法使 』でモノクロがカラーに切り替わる瞬間を挙げる。映画は第一に映像の美しさ=光の使い方を追求すべきものだが、1960年代に、印象的な影の使い方があったのかと感心させられた。

 

小道具や特殊効果の使い方にも工夫と手間が見られる。部屋を片付ける魔法などは当時の映画製作技術からすれば、数時間ではとても撮れなかっただろうし、大砲の振動で家が揺れるシーンも、カメラを揺らして、それに合わせて小道具を落下させたりしていたはずだ。日本でも映画製作技術が発達したことで、例えばラドンやモスラやキングギドラを大人数でピアノ線で操演する技術は、ロスト・テクノロジーになってしまったと言われている。CGや特殊効果全盛の今、知恵と工夫で魅せる映画は逆に新鮮である。

 

ラストで、メリー・ポピンズが傘と共に帰っていくシーンには哀愁が漂う。しかし、それさえも54年ぶりの続編を予感させるものと受け止めれば、肯定的に映る。これは良作である。

 

ネガティブ・サイド

メリー・ポピンズ登場までが長い。何と開始から21分以上、メリー・ポピンズが姿を現さない。雲の上にいるのがちらりと映りはするものの、ディック・ヴァン・ダイクの熱演をもってしても、相当に長く感じた。このあたりのペース配分には一考の余地があったことだろう。

 

また、メリー・ポピンズ初登場シーンで、面接希望で長蛇の列をなしている女性たちを魔法で文字通りに吹き飛ばしたのは、参政権運動に熱を上げたり、職を求めたりする女性を貶める意図があってのことだろうか。時代が時代とはいえ、少し気になった。ロンドンでも当時は『 未来を花束にして 』のようなムーブメントが盛んだったのは間違いないが、それが(おそらく公開当時でも笑えない)ユーモアにされているのは、現代視点からするとさらに笑えない。

 

また、銀行家たちの貴族意識、選民思想に凝り固まった姿も鼻についた。Jovianのかつての同僚にヨークシャー出身のイングランド人がいたが、彼は時々、”Americans destroyed our English.”と言って、アメリカ人の文法的に破格な英語をネタにしていた。これはユーモアだが、本作に描かれる銀行家たちの歴史観は、ちょっと笑えない。もちろん時代背景が異なることは重々承知しているが、こういった考え方をいたいけな子どもたちに注入しようとすることの是々非々は、地域や時代に関わらず常に問われるべきことであろう。古今東西の古典的な名作と言うのは、時代を超えた普遍的なテーマに挑んでいるから、古典なのである。その意味では本作は傑作ではあれど古典ではない。

 

総評

1960年代は、伝説的なミュージカルが多く生み出された時代である。『 ウェストサイド物語 』、『 チキ・チキ・バン・バン 』、『 サウンド・オブ・ミュージック 』、『 マイ・フェア・レディ 』など。それらに優るとまでは言えないが、決して劣りはしない。エミリー・ブラントによる続編が上映されるまでにDVDや配信サービスで鑑賞しておくのは、悪い考えではないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アメリカ, ジュリー・アンドリュース, ディック・ヴァン・ダイク, ミュージカル, 監督:ロバート・スティーブンソン, 配給会社:ブエナビスタLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

Posted on 2019年1月18日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード 炎の宿敵 85点
2019年1月12日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン シルベスター・スタローン テッサ・トンプソン ドルフ・ラングレン フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ
監督:スティーブン・ケイプル・Jr.

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『 クリード チャンプを継ぐ男 』には、まだまだ追求すべきサブプロットがあった。アドニスのキャリアのその後はもちろん、ロッキーのホジキンリンパ腫、ビアンカのキャリアと聴力の問題、独りになってしまったメアリー・アンなどなど。それらを描きつつも、トレーラーが明かしたある名前に、ファンは騒然となった。運命の決着はいかに。

 

あらすじ

世界タイトルマッチの惜敗から、6連勝で世界ランクを駆け上がったアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はついに世界ヘビー級タイトルを獲得する。その勢いのままにビアンカ(テッサ・トンプソン)にプロポーズ。ビアンカもほどなく妊娠し、アドニスは幸せそのものだった。しかし、そこに父アポロの怨敵、イヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)の息子、ヴィクター(フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ)が現れ、アドニスに挑戦を表明する。勝負を受けるべきでないと判断するロッキー(シルベスター・スタローン)からアドニスは離反、ヴィクターとの対決に臨むも・・・

 

ポジティブ・サイド

毎度のことではあるが、ボクシング映画に出演してボクサー役を演じる役者には敬服するしかない。体作りやボクシング的なムーブの習得は生半可な努力では不可能だからだ。わけても本シリーズは、ボクシングのリアリティを特に強く追求する。それは実際にパンチを当てるからではない。ボクサーのメンタリティをよくよく表現しているからだ。そこに、家族を持たなかったアドニスが、家族を得て、そして自分が決して知ることがなかった父という存在に、自分が成ろうとするドラマが織り込まれる。そしてそれは、ロッキーにも当てはまることだ。偉大すぎる父を持つ息子は、反発してカナダに移り住んだ。息子がいながらも、息子に対して上手く接することができないロッキー。父がいないながらも、その父の影を追うアドニス。この父と子の関係に、ドラゴ親子のドラマが重層的に折り重なって来る本作は、ボクシング映画にしてヒューマンドラマでもある。その両者の融合にして極致でもある。『 エイリアン 』がSFとホラーの両ジャンルで頂点を極める作品であるように、本作もマルチ・ジャンルの作品として、一つの到達点に達していると称えたい。

 

冒頭でいきなりWBC世界ヘビー級タイトルマッチに挑むアドニスにクエスチョン・マークが浮かんだファンも多いだろう。前作ではライト・ヘビー級ではなかったか、と。しかし、HBOの実況に前作から引き続きマックス・ケラーマンとジム・ランプリーが登場、そして字幕や画面には出てこなかったが、コメンテーターとしてロイ・ジョーンズ・Jrを迎えていたことに思わずニヤリ。ライト・ヘビー級からヘビー級に“飛び級”して王座を獲得した実在のボクサーをリングサイドに置くことによって、アドニスの体重増と階級アップを説明しようというわけだ。ボクシングファンに向けたファンサービスであると同時に高度なアリバイ作りというわけで、再度ニヤリ。

 

それにしてもマイケル・B・ジョーダンの演技とボクシングは素晴らしいの一語に尽きる。メディアを前にしてのオープン・ワークアウトでは圧巻のミット打ちを披露するが、このわずか十数秒のために、何十時間、いや百数十時間は費やしてきたのではないか。それは本シリーズのみならず、すべてのボクシング映画出演者にも言えることだが、スタローンや『 サウスポー 』のジェイク・ジレンホールを超えたと評しても良いように思う。ボクサーの苦悩、それは打ちのめされての敗北にあるのではない。その姿を誰がどう見るのか。それが問題なのだ。苦労人・西岡利晃は世界王座防衛の旅に、娘をリングに上げていた。つまり、西岡は自らの雄姿を娘に見せたかったのだろう。では、アドニスは自分の雄姿を誰に見せたかったのか。そして誰に見せられなかったのか。前作のクライマックスで彼は父アポロの姿を想起することでダウンから立ちあがった。今作で彼が絶体絶命のピンチで想起するのは誰なのか。彼が体感した世界とは何だったのか。Jovianはそのシーンで鳥肌が立った。あまりにも的確で、なおかつそれがあまりにもドラマチックで、あまりにもシネマティックでもあったからだ。スティーブン・ケイプル・Jrという新人監督の力量は見事である。ほぼ新人だったライアン・クーグラーを見出したのと同様に、スタローンはこの偉才をどうやって見出したのか。その眼力の確かさには御見逸れしましたと言うしかない。

 

本作が単なるスポーツもの、ボクシングものに留まらないのは、アドニスとロッキーの関係以上に、イヴァン・ドラゴとヴィクター・ドラゴの親子関係に依るところが大きい。あまり細かく述べるとネタばれになるのだが、あの亀田親子を思い出せば分かりやすいのではないか。ボクシングによって挫折を味わった父(亀田父はそもそもプロになれなかったが)が、自らの息子にボクシングを叩き込む。そこに母親の姿は無い。しかし、その母親(ブリジット・ニールセン)が帰って来た。まるで『 レッド・ドラゴン 』で蘇った(という表現は正しくないが)チルトン博士と再会した時のような気持ちになれた。『 ビバリーヒルズ・コップ2 』以来だったか。スタローン・・・ではなく、ドルフ・ラングレンの妻役として華麗にリターンして、息子の心をかき乱す。ドラゴ親子のひたすらに内向きな関係性は亀田親子のそれとよく似ている。亀田史郎は対内藤大助戦で大毅に反則指示を行ったが、イヴァンはヴィクターにどんな指示を送ったか。そこを見て欲しい。そこにイヴァンと亀田史郎の共通点があり、その後の対応に彼らの決定的な相違が現れる。これ以外に納得のいく決着の方法は無かったであろう。

 

ネガティブ・サイド

意外なことにクライマックスを欠点に挙げたい。というのも、ここだけは誰が監督でもこうなるだろうと思える出来だったからだ。ケイプル監督が“Gonna Fly Now” を使ってのビジョンを描いていたのは間違いない。誰でもそうする。Jovianが監督したとしても間違いなくそうする。悔しいのは、それでも心動かされてしまったことだ。本作はアドニスが父を追い、父と重なり、そして文学的な意味での父殺しを果たす物語でもあるのだ。ロッキー映画の公式をぶち壊すぐらいのことをしてほしかった。それほど、陳腐にして完成度の高いクライマックスだった。おそらく、これ以上の物語は必要ない。続編を作るとすれば、それはスタローンの晩節を汚し、マイケル・B・ジョーダンのキャリアの汚点となるようなものになるだろう。

 

もう一つだけ弱点を挙げれば、ニューメキシコのロードワークのシーンが弱い。照りつける太陽、吹きすさぶ砂嵐、飢え、渇き、敗北のビジョン、そうしたものをモンタージュ的にもっと効果的に見せられなかっただろうか。『 ロッキー4 炎の友情 』の、雪原でのロッキーのトレーニングと対象的なところを見せたいという意図があったのだろうが、そこのところの描写に説得力が欠けていたように感じた。

 

総評

大小いろいろと欠点はあるものの、それは観る者が何を期待しているかによる。一つ言えるのは、これにてロッキー、そしてアドニスの物語は終わりであるということ。続編を作ってはならない。『 ロッキー5 最後のドラマ 』は毀誉褒貶の激しい作品だが、個人的には蛇足にして駄作だったと思っている。あれをリメイクする必要はどこにもない。折しもカナダの超人アドニス・ステヴェンソンがあわやリング禍というダメージを負った。アドニス・クリードにグローブを吊るせと言いたいわけではないが、これ以上のストーリーは悲劇にしかならない。ロッキー世界という一大ボクシング叙事詩の閉幕を、ぜひ大画面でその目に焼き付けるべし。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:スティーブン・ケイプル・Jr, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

Posted on 2019年1月12日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード チャンプを継ぐ男 80点
2019年1月6日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン マイケル・B・ジョーダン
監督:ライアン・クーグラー

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『 猟奇的な彼女 』と言えば、腰の入ったパンチ。パンチと言えばボクシング、ボクシングと言えば『 ロッキー 』。その魂はアポロ・クリードの息子、アドニス・ジョンソンに受け継がれた。クリードの最新作に備えて、前作を復習鑑賞した。

 

あらすじ

アポロ・クリードの息子、アドニスは我流でボクシング技術を磨いていた。メキシコのティファナで連戦連勝するも、アメリカの世界ランカーにはスパーで一蹴されてしまう。アドニスは父、アポロと激闘を繰り広げ、盟友となったロッキー・バルボアの指導を仰ぐべく、フィラデルフィアにやってきた。エイドリアンやポーリーが世を去る中、イタリアン・レストランを独り切り盛りするロッキーは、アドニスに“虎の目”を見出して・・・

 

ポジティブ・サイド

アドニスと拳を合わせる相手にSuper Sixの覇者アンドレ・ウォード、ミドル級のゲートケーパー的存在ガブリエル・ロサド、そして英国のやんちゃ坊主、トニー・ベリューと本物のプロボクサーを豪華に配置。これだけでもボクシングファンには嬉しいキャスティング。スタローン映画『 エクスペンダブルズ3 ワールドミッション 』に出演したヴィクター・オルティズは映画に出たことでキャリアが下降してしまったが、ウォード、ベリューらは既にキャリアの最終盤に入っていた。そうした意味でも安心できた。現役ボクサーが映画に出ても、あまり良いことは無いのだ。WOWOWでExcite Matchを熱心に観ている人なら、マイケル・バッファやHBOのマックス・ケラーマンやジム・ランプリーの存在が更なるリアリティを生んでいると感じられるだろう。そのHBOも2018年末でボクシング中継から撤退。何とも景気の悪い話である。

 

閑話休題。本作には Eye of the Tiger は流れないが、字幕が良い仕事をしてくれる。その瞬間は絶対に見逃しては、いや聞き逃してはいけない。

 

マイケル・B・ジョーダンは本作と『 ブラックパンサー 』のキルモンガー役で完全にトップスターの仲間入りを果たしたと評しても良いだろう。スタローンもボクシングのシルエットがきれいだったが、ジョーダンは元々の身体能力+ボクシングセンスで、スタローン以上のボクシング的な動きを披露する。

 

中盤の試合のワンテイクは圧倒的である。ズームインやズームアウトがされていたので、どこかで合成、編集されているのであろうが、はじめて東宝シネマズなんばで鑑賞した時は魂消たと記憶しているし、今回の復習鑑賞でもやはり驚かされた。

 

初代の『 ロッキー 』がそうであったように、本作も単なるボクシングドラマではない。アドニスというサラブレッドが、何者にもなれずにいることのフラストレーション、世間が自分を見る目と自分は自分でしかないという認識のギャップに、ロッキーが語った「自分はnobodyだった」という言葉が蘇ってくる。家族を失ったロッキーと、家族を手に入れようとするアドニスの、何とも切ない邂逅の物語なのだ。ロッキーがアドニスに自らの魂を渡す瞬間、“Gonna Fly Now”のファンファーレが響き渡る!!もう、この瞬間だけで100点を献上したくなる。

 

『 ロッキー 』シリーズはこれまでに何度も観てきたが、今後もふと疲れた時、目標を見失いかけた時、心が折れそうになった時に、何度でも立ち返るだろう。特に1、2と本作は何度でも見返すことだろう。

 

ネガティブ・サイド

中盤のアドニスの試合のワンショットだが、実時間では1ラウンド3分ではなかったし、ラウンド間のインターバルも1分ではなかった。そんなことに拘っても仕方がないが、映画ファンでもありボクシングファンでもあるJovian的には非常に気になるところではあった。体内時計世界王者対決というテレビ企画もあったように、ボクサーは3分を肌で分かっているものだ。映画はリアリティの追求が生命なのだから、試合の時間についてもリアルを追求して欲しかったと思うのは、高望みをし過ぎなのだろうか。

 

そして、これは完全に無理な注文だと分かってのことだが、オープニングのMGM(Metro Goldwyn Mayer)のレオを、本作に限って虎に変えるは流石に無理か。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』でも、オープニングの20th Century Foxのロゴのシーンの音をいじっていた。レオを虎には・・・やはり無理だろうか。これをもって減点すべきではないのだろう。

 

総評

ボクシングは最も歴史の古いスポーツの一つであると同時に、最も近代的なエンターテインメントでもある。アメリカのラジオ放送でニュース以外に初めて放送されたのは、ボクシングの世界タイトルマッチであった。そんなボクシングを題材にした物語が、面白くないわけがない。ましてや、この物語は『 ロッキー 』世界の出来事なのだ。ロッキーファンのみならず、広く映画ファンに勧められる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:ライアン・クーグラー, 配給会社:ワーナー・ブラザーズ映画Leave a Comment on 『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

Posted on 2019年1月5日2019年12月20日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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2018年11月17日に大阪ステーションシネマで鑑賞した『 ボヘミアン・ラプソディ 』の“胸アツ”応援上映を体験。『 シン・ゴジラ 』の時にも大都市圏で実施された発声可能上映とだいたい同じと思えばよろしい。映画自体の感想は変わらない。むしろ、repeat viewingによって各シーンの構図やカメラアングルの意味がよりはっきりと伝わってくる。複数回劇場に足を運ぶ人が多くいるというのもむべなるかな。

 

Jovianは嫁さんと観に行ったが、劇場の入りは1割程度だっただろうか。箱の大きさに対して観客数も少なく、また実際にスクリーンに字幕が表示されるパートは大音量なので、かなり叫んだつもりでも、囁き程度にしか聞こえなかった。これは自分も嫁さんも確認している。それにしても客の入りとは関係なく、こうした試みはどんどん広がるべきであると思う。映画館に行くというのは能動的な営為であっても、映画を鑑賞するというのは極めて受動的な営為だ。しかし、そこに発声や手拍子、足踏みなどが加われば、受動でありながら能動のエンターテインメントが出来上がる。

 

問題があるとすれば、劇中の楽曲はすべてのパートが歌唱され、演奏されるわけでもない。またきれいにフェードアウトしてくわけでもないため、大声で歌っていると、いきなり画面が切り替わって、劇場内に自分の声が響き渡る、ということもありうる。「でもそんなの関係ねぇ」な小島よしおな人は、“胸アツ”応援上映を体験すべきだ。目立つのはちょっと・・・という控え目な人は、途中の “We Will Rock You” のシーン、最後のライブ・エイドのシーンで思いっきり絶叫すればよい。Jovianはそうさせてもらった。特に “We Are The Champions” では涙腺決壊必定である。嫁さんと二人で涙を流し、声に詰まりながら、何とか歌い切った。英語(に限らず、たいていの言語)には Editorial We と呼ばれる語法が存在する。新聞記事などで「~~~であると思われる」という、あの表現である。また書き言葉以外でも、特にメディアの質問やインタビューでも盛んに用いられるということは『 響 -HIBIKI- 』のレビューでも示した通りである。知らず知らずのうちに読者や視聴者を著者や話者の視点に包含するわけだ。フレディの抱える劣等感、葛藤、苦悩・・・ 我々はいつの間にか彼と同化する。心に闇を抱えない者がいようか。そうした懊悩の全てが We are the champions という歌詞と歌唱と共に吹き飛ばされていったように感じられた。なんというカタルシス!

 

観終わった後、隣の座席の母娘の会話が漏れ聞こえてきた。「お母さん、ゲイって何?」娘の方はおそらく小6~中1ぐらいだっただろうか。おそらく本作をきっかけに、このような会話が日本の津々浦々で交わされたに違いない。これは、クイーンというバンドの生み出した音楽の力を称揚するだけの映画では為し得ないことだ。受け手にしっかりと考えるきっかけを与える映画である。さあ、あなたも時間と懐に余裕があれば“胸アツ”応援上映に Go! である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ラミ・マレック, ルーシー・ボーイントン, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

Posted on 2019年1月3日2019年12月7日 by cool-jupiter

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 65点
2018年12月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エイミー・シューマー ミシェル・ウィリアムズ ナオミ・キャンベル
監督:アビー・コーン マーク・シルバースタイン 

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原題は ”I Feel Pretty” である。そう聞けば『 ウェスト・サイド物語 』の同名の歌が思い浮かぶ。見目麗しくあることは常に世の女性の目標であり、それが同性からも異性からもプレッシャーとなって彼女らに重く圧し掛かる。しかし、美しさの定義とは何なのか。それは定量的に測れるものなのか。それともきわめて主観的な尺度なのか。美しい女が恋をするのか、それとも恋をするから美しくなるのか。本作は極めて普遍的なテーマを扱っている。

 

あらすじ 

レネー・ベネット(エイミー・シューマー)はぽっちゃり女子。職場は有名ブランド化粧品会社の通販部だが、オフィスはチャイナ・タウンの薄暗い地下倉庫。何とか自分を変えようとジムの扉を叩いたエイミーは、エアロバイクで大ハッスルするも、バイクが破損し、転倒。頭を強打してしまう。意識を取り戻したエイミーは、しかし、鏡に映る自分を見て、絶世の美女になったと信じ込んでしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

まず主演を張ったエイミー・シューマーを称賛したい。『 ピッチ・パーフェクト 』のファット・エイミーを超えるキャラクターを世に送り出してきたからだ。元々がコメディアンであるということだが、『 アリー / スター誕生 』のレディー・ガガのように、役者でない人間が演じるということが少しずつ一般的になって来ているようだ。エイミーの演技の素晴らしさは、その表情や行動、立ち居振る舞いの変化に見て取れる。視線、口角の上がり下がり、歩き方、口調、身振り手振りの一つ一つが、まるで別人であるかのように観る者を惑わせ、驚かせる。コメディとは面白いもので、面白いものとは笑えるものだ。笑いは、自己と対象の距離がずれた時に生じるが、そういう意味ではコメディアンは役者の素養があるとも言える。

 

日本でもお笑い芸人が映画に出演することが増えて来ているように感じるが、これは悪い傾向ではないだろう。クラシカル音楽のバックグラウンドが無い者がハリウッド映画の音楽をどんどんプロデュースするこの時代、役者に○○をさせる、ではなく○○できる者に役者をやらせる、という発想があっても良い。そうした突飛な発想で成功したのが、WWEの悪のオーナー、ビンス・マクマホンではなかったか。役者にプロレスをさせるよりも、プロレスラーに役者をさせることでアメリカのマット界は一気にエンターテインメント性を確立した。同時にドウェイン・ジョンソン、デイヴ・バウティスタらを役者として世に送り出した。日本の映画界の中でも外でも、もっと異業種交流が進んで欲しいと思う。ハリウッドの新陳代謝の良さを印象付けるという意味でも良作であると評価できる。

 

エイミーの上司を演じたミシェル・ウィリアムスも味わい深かった。元々演技力の高さは折り紙つきだったが、今作では妙に甲高い声にコンプレックスを持つ抱く女性経営者を好演している。声というのは不思議なもので、ある意味では容姿以上に人物を特徴づけることがある。そのことはクリスチャン・ベイル、そしてベン・アフレック演じるバットマンによく表れている。かといってそれだけが特徴というわけでもない。『 プラダを着た悪魔 』のミランダを正反対にしたようなキャラを、その頼りなさそうな表情、そしてルネーの忌憚のない意見に真剣に耳を傾ける姿勢、そしてその時に目の奥に宿る力強い光でもって、見事に体現していた。『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』の好演は伊達ではなかった。

 

ネガティブ・サイド

残念ながらクライマックスへ向かっての盛り上がりが弱い。レネーが超絶ポジティブ・シンキングで仕事に恋に大ハッスルして、エスタブリッシュメント層への階段を駆け上がっていく様は痛快ではあるが、そこでいわゆる嫌な女に変身してしまう必要性はあったのだろうか。いや、それが物語をより面白くするのであれば良い。しかし、本作のクライマックスでよりカタルシスを感じさせるのであれば、レネー目線のアドバイスや指摘がいつの間にか普通の女の子目線ではなくなっていく、という方が良かったように思う。

 

もう一つ、ミシェル・ウィリアムスのキャラの弟がもう一つ弱い。レネーの恋人になる男との対面シーン、会話シーンなどは元々脚本になかったか、編集でカットされてしまったのか。レネーのロマンスが絶好調になるのは良いとしても、そのことが思わぬ副産物を生み出してしまうことで、さらなるコメディもしくはドラマが展開されるポテンシャルがあったはずなのだ。これはしかし、尺の関係で泣く泣く削られてしまったというのが真相であろうが。

 

総評

近年は『 スリー・ビルボード 』、『 女神の見えざる手 』、『 ワンダーウーマン 』、『 ドリーム 』、『 パティ・ケイク$ 』など、アウトサイダーでありながらも独立不羈の精神を持つような女性に光を当てる作品が多く創り出されるようになってきた。本作もその系譜に連なる非常に軽快なコメディである。『 プラダを着た悪魔 』のアン・ハサウェイを『 ブリジット・ジョーンズの日記 』のブリジットに置き換えたような話だと乱暴にまとめてしまえば、食指が動く向きも多いと思われる。さあ、あなたもルネーを応援しよう。自分のまま、自分で自分を今よりちょっぴり好きになろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エイミー・シューマー, ナオミ・キャンベル, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:アビー・コーン, 監督:マーク・シルバースタイン, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

『 ロッキー4 炎の友情 』 -政治的なメッセージ以上のメッセージを持つ作品-

Posted on 2019年1月1日2019年12月7日 by cool-jupiter

ロッキー4 炎の友情 65点
2018年12月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン タリア・シャイア カール・ウェザース ドルフ・ラングレン
監督:シルベスター・スタローン

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12月25日はクリスマスである。クリスマスと言えば、『 ホーム・アローン 』や『 ナイトメア・ビフォア・クリスマス 』ではなく『 ロッキー4 炎の友情 』なのである。どこかに昔、WOWOWで録画したロッキーシリーズのDVDがあるはずだが、探すよりも借りてきた方が早いと思い、近所のTSUTAYAに行ってきた次第。

 

あらすじ

かつて死闘を繰り広げたロッキー(シルベスター・スタローン)とアポロ(カール・ウェザース)は友情を育み、悠々自適の生活を送っていた。そんな中、ソビエト連邦からイヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)がアメリカにやって来て、ロッキーと戦いたいとの意向を表す。アポロはロッキーではなく自分こそがドラゴと闘うとリングへ復帰、エキシビションに臨むもドラゴの強さの前に沈み、リング禍となってしまった。ロッキーはアポロとの友情に応えるべく、妻エイドリアン(タリア・シャイア)の制止を振り切り、ドラゴの待つソビエトに向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

あらためて見返して、ドルフ・ラングレンがスタローンよりもボクシングの型が整っていることに感心する。もちろんアマチュアのバックグラウンドがあるというキャラ設定によるものだが、普通にボクシングをやっていてもアメリカで8回戦ぐらいまではいけたのでは?と思わせる。昔も今も、ロシア人のボクサーは得体の知れない雰囲気を纏っている。日本と縁の深いボクサーで言えば、勇利アルバチャコフや、長谷川穂積も対戦を避けたサーシャ・バクティンなどが当てはまる。例外は池原信遂に貫禄勝ちしたウラジミール・シドレンコぐらいか。そうした不気味なソビエト人を、その図体と表情と無骨な喋りで演じ切ったラングレンに喝采。

 

ロッキーのトレーニングシーンも良い。もはや定番、クリシェと化しているトレーニング・シーンのモンタージュであるが、最新科学理論に基づき、機器を用いての効率的トレーニングを積むドラゴと、あくまで原始的なトレーニングに打ち込むロッキーのコントラストが、 ”Heart’s on Fire” に実にマッチする。ここでのロッキーのトレーニング風景は、Jovianが勝手にヘビー級プロボクサー史上最強(≠最高)と認定しているビタリ・クリチコのトレーニングとそっくりである。腹筋、雪中のランニング、丸太運び、薪割りと、笑ってしまうほどのシンクロ率である。ウクライナ人のビタリとアメリカ人のロッキーの不思議なトレーニング風景の一致は、現実(リアル)と映画(フィクション)の境目を曖昧にし、2018年という時代に見返してみた時、映画に更なる説得力(リアリティ)を持たせることに成功している。もちろん、“Burning Heart”はこれまでも、今も、これからも多くのプロボクサーに愛される名曲である(亀田興毅除く)。

 

本作の持つテーマには実に危ういものがある。友情は命に勝るのか。そして、アスリートは代理戦争を闘うべきなのか。前者に関しては分からない。しかし、後者に関しては今ならYesと言える気がする。イディ・アミンはある意味で正しかったと思う。紛争であれ戦争であれ、何らかの形で大規模な軍事力の衝突を引き起こすのなら、それらの国の首脳が殴り合えばよい。Jovianは大学時代にデンマーク人の友人から、「サッカーってのは疑似戦争なんだ!」と熱弁を振るわれたことがある。それはボクシングにも当てはまることで、近年の例で言えば、やはりフィリピンの英雄マニー・パッキャオ。彼がメキシコ人(フィリピン人からするとメキシカンはスペイン人のようなものらしい)やアメリカ人をぶっ倒すたびに国中がお祭り騒ぎになっていた。それはフィリピンがスペイン、日本、アメリカの実質的な植民地、属国になっていたという歴史と大いに関係がある。アメリカのアクション映画や戦争映画は9.11を境に大きく変わったと言われる。アンジェリーナ・ジョリーの『 トゥームレイダー 』が無邪気なアクション映画としては最後の作品であると考えられている。本作はもちろん、無邪気な映画。しかし、そんな無邪気な映画であるからこそ、あちこちに火種の燻る現代の世界を考えるに際して、ヒントになるものがあるように思えてならない。

 

ネガティブ・サイド

フィラデルフィアのロッキー・ステップが映されないとは何事か。監督スタローンに喝!

 

あのポーリーに贈った家政婦的なロボットはいったい何を象徴しているのだろうか。どう考えても、当時のアメリカの楽天主義丸出しの未来予想図にしか思えない。最新科学をトレーニングにしっかりと反映させるソビエトに対して、ロッキーは原始的なトレーニングに拘る。しかしそれはロッキーがロッキーだからであって、アメリカは決して科学技術においてソビエトに後れをとっているわけではありませんよというポーズなのだろうか。

 

そして日本版の副題をつけた配給会社に喝!なんでもかんでも『 炎の~ 』にするのが当時のトレンドだったのは分かる。音楽シーンでもマイケル・ジャクソンの『 今夜はビート・イット 』のように、何でもかんでも『 今夜は~ 』という日本語をつけてしまう時代だったのは確かだ。映画の『 ランボー 』シリーズにしてもそうで、何でもかんでも『 怒りの~ 』にすればよいというものではない。スティーブン・セガールの映画がやたらと『 沈黙の~ 』になってしまったように、日本の映画配給会社は一度前例ができてしまうとそれを変えたがらない。まるで官僚のようだ。映画本編とは関係のないところで陰鬱な気分にさせられてしまった。

 

総評

シリーズの中でもモスクワで闘うという異色の展開を見せる作品である。ロッキー映画の方程式は維持しているものの、舞台のほとんどがフィラデルフィアでないことに釈然としないファンも多かろう。しかし、『 クリード 炎の宿敵 』の日本公開が間近に迫る今、復習の意味で鑑賞する意義は充分に認められる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, C Rank, アメリカ, カール・ウェザース, シルベスター・スタローン, スポーツ, タリア・シャイア, ドルフ・ラングレン, ヒューマンドラマ, 監督:シルベスター・スタローン, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 ロッキー4 炎の友情 』 -政治的なメッセージ以上のメッセージを持つ作品-

『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

Posted on 2018年12月30日2019年12月7日 by cool-jupiter

ロッキー 90点
2018年12月24日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン タリア・シャイア カール・ウェザース バージェス・メレディス バート・ヤング
監督:ジョン・G・アビルドセン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181230021916j:plain

言わずと知れたボクシング・ドラマの金字塔。単なるスポ根物語ではなく、様々な登場人物の鬱屈が爆発しながらも、それが逆に見事なケミストリーを織りなしていくという稀有な作品。まさに脚本の勝利であり、スタローンその人の配役の勝利であり、Bill Contiの音楽の勝利である。ボクシング業界はこの映画にどれだけ感謝しても、感謝しすぎるということはない。

 

あらすじ

夜は場末のバーの古ぼけたリングで闘うロッキー(シルベスター・スタローン)は、昼はイタリア系マフィアの親分の下で借金の取り立て人をしながら日銭を稼いでいた。そんなロッキーはペットショップの店員のエイドリアン(タリア・シャイア)に美しさを見出していた。ボクシングはもう終わりだと思っていた矢先、ひょんなことから世界ヘビー級王者のアポロ・クリード(カール・ウェザース)とタイトルマッチを闘うことに。この試合で最後まで闘い抜くことができれば、何者かになることができる。そう信じるロッキーは、周囲の人間との衝突と和解を通じ、懸命にトレーニングに打ち込んでいく・・・

 

ポジティブ・サイド

スタローンは実はかなりボクシングセンスがあるのではなかろうか。パンチの型だけではなく、リングに立った時のシルエットがボクサーのそれに重なる。サウスポーのFinishing Blowと言えば、往々にして右フック。日本のボクサーで言えば長谷川穂積がカウンターの右フックの名手であった。その長谷川の右フックとは全然違うが、ロッキーの右フックの軌道は、大振りでありながらも背骨を軸にしたきれいな回転を保っており、本物のボクサー並みのトレーニングを積んできたことを容易に想像させる。そしてロッキー映画の方程式とも言うべき、音楽に乗せてのトレーニング・シーンのモンタージュ。特に不滅の名曲“Gonna Fly Now”に合わせてのそれは圧巻である。あのフィラデルフィアのロッキー・ステップスをいつか自分の両の脚で駆け上がってみたい。そう感じる映画ファンおよびボクシングファンはこれまでに数百万のオーダーで存在してきたに違いない。アメリカには何度か行ったが、いつかフィラデルフィアに行きたい。そしてあの階段を駆け上がって、ガッツポーズを決めたい。

 

しかし、ロッキー映画でJovianが最も好きなのは、トレーニングでも試合のシーンでもない。それはエイドリアンとロッキーの不器用ながらもまっすぐな恋。タリア・シャイアは、地味で内気で奥手な性格を眼鏡の向こう側に秘めていながら、麻生久美子的な健康的とも官能的とも言えない、何とも名状しがたい魅力を放っている。特にスケートリンクの上での他愛のない会話が好きだ。なぜボクシングなんかするのか?というエイドリアンの問いに「俺は歌ったり踊ったりできないからだ」と、自分を飾ることなく答えるロッキー。男の魅力は強さや富、ルックスから生まれるのは間違いないが、それ以上に飾らない実直さが大切なのだろうと観る者に強く思わせる隠れた名シーンだ。そして、初めてのキス。Jovianが好きな映画のキスシーンは『 スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲 』のミレニアム・ファルコン内でのハン・ソロとレイアのキスと、本作のロッキーとエイドリアンのキスである。

 

何年かに一回は必ず観てしまう映画だ。仕事に疲れた時。何か新しいことを始める時。この映画にインスパイアされた人間は、数限りなくいるはずだ。映画ファンは本作のような名作を語り継いでいかなければならない。

 

ネガティブ・サイド

字幕でNobodyを「クズ」と訳すのはどうだろうか。これは文字通りの意味で、「昔の俺は何者でもなかった」ぐらいの訳でよかったのではなかろうか。

 

ボクシングシーンをもう少しリアルにできなかったのだろうか。サウスポーがオーソドックスのジャブをあんなにポンポンもらうのは、当時ですら珍しかったはずだ。後は完全なない物ねだりだが、派手にパンチをもらうシーンで血と汗をもっと飛び散らせるべきだった。実際にリングサイドでボクシングを見たことがある人なら、どれほどのパンチの音が響いて、どれほど汗が弾き飛ばされるのかを身を以って体験したことがあるはず。低予算ではそこまでのリアルの追求は難しかったか。

 

総評

ボクシングを題材にした映画は数限りなく作られてきた。『 レイジング・ブル 』はボクシングの世界の闇をテーマにしていたが、『 ロッキー 』の世界ではミッキーやポーリーといった人生の落後者までもが輝く。自分も来年は頑張ろうかなという気分になれた。ありがとう、ロッキー。

 

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Posted in 映画Tagged 1970年代, S Rank, アメリカ, カール・ウェザース, シルベスター・スタローン, スポーツ, タリア・シャイア, バージェス・メレディス, バート・ヤング, ヒューマンドラマ, ロマンス, 監督:ジョン・G・アビルドセンLeave a Comment on 『 ロッキー 』 -ボクシング・ドラマの金字塔-

『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

Posted on 2018年12月29日2019年12月7日 by cool-jupiter

グリンチ 30点
2018年12月23日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ベネディクト・カンバーバッチ
監督:スコット・モシャー ヤーロウ・チェイニー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181229025951j:plain

Dr. Seussの絵本“How The Grinch Stole Christmas!”を原作とするアニメ映画で、ジム・キャリー主演で実写映画化された『 グリンチ(2000) 』をIllumination Entertainmentがアニメ化したものである。同僚のイングランド人1人とアメリカ人2人に尋ねたところ、Dr. Seussは作家としてかなり有名人で、グリンチというキャラクターも、バットマンやスーパーマン並みに知名度があるという。そのグリンチというキャラクターの魅力を本作は十二分に引き出せたか?様々な見方があろうが、個人的には否定的である。

 

あらすじ

フー達の村、フーヴィルではもうすぐクリスマス。人々の心は浮き立ち始める。しかし、村はずれの山の頂近くには、グリンチが住んでいた。彼はクリスマスが心底嫌いだった。一方で、フーの少女シンディ・ルーはクリスマスを前にある計画を胸に秘めていた・・・

 

ポジティブ・サイド

 

この美麗なCGはどうだ。さすがにUniversal Studios系列の会社だけあって、日本のアニメ映画スタジオとは基礎体力=予算が違う。これだけのCGを作成するだけの予算の、おそらく十分の一でもあれば、『 GODZILLA 星を喰う者 』のギドラもよりアクティブに動かせたであろうし、モスラも影だけでの登場ということにならなかったはずだ。先立つ物はカネである。そしてカネがあれば美麗な映像を作ることができる。個人的にはジブリのような手描きのアニメーションの方が味わい深いと感じられるが、こと美麗であること、eye-catchingであることにおいてはビッグ・バジェットの映画にはかなわない。

 

ダニー・エルフマンの音楽も素晴らしい。この人は『 ダーク・シャドウ 』や『 フランケンウィニー 』など、ちょっとおかしいキャラや独特すぎる世界観を表現させればピカイチである。劇中の“YOU’RE A MEAN ONE, MR. GRINCH”とエンドロールの“I am the Grinch”は特に強く印象に残る。グリンチのテーマソングとして両曲とも及第点以上の出来である。

 

そして愛犬マックスの活躍。ペットモデルというのは確かに産業としてもビジネスとしても成立しているが、動物を思うがままに動かすのは実写では難しい。しかしアニメならば容易い。そのことを製作者は十分に理解しているため、本作のマックスの存在感の大きさ、その活躍は実写版を大きく上回る。というか、このマックスは一家に一頭欲しい。

 

残念ながら、賞賛に値するのはここまでであった。

 

ネガティブ・サイド 

まず、シンディ・ルーのキャラクターが極端に変わり過ぎている。もちろん、児童文学も一定の普遍性を有しているし、逆に時代の要請に応えて柔軟に読み変えていくという仕事も必要である。しかし、無邪気な幼児または赤ん坊であるはずのシンディ・ルーが、腹に一物抱えたようなガキンチョになって、子どもたちを相手に一人前の友情論をぶつような頭でっかちに描かれているのは何故なのだろうか。はっきり言って、このシンディ・ルーは可愛くない。実写版では、フーヴィルの法典を盾にあれやこれやの理屈をつける町長を、無邪気で素直な質問を投げかけることで著しく狼狽させたシンディ・ルーであったからこそ、村人たちもグリンチを排除することはおかしいという空気に(あまりにも無邪気に)染まれたのである。そうした描写がないことが、本作のグリンチとフーヴィルの関係を非常にあやふやにし、それゆえにグリンチがクリスマスを憎み、それを盗んでやろうと思い立つところに一切共感できないのである。

 

可愛くないのはシンディ・ルーだけではない。グリンチも同様である。原作の絵本にはなく、ジム・キャリー版の実写映画が補足したグリンチの幼少時代の描写を一切省いてしまったのは何故なのだ。予告編や販促物では、ちびグリンチを散々露出させ、「この後、どんどんひねくれる」と煽っておきながら、そのちびグリンチの描写がないとはこれ如何に。実写版が生々しくも描き出した、幼少グリンチのトラウマは、観る者にグリンチの孤独とねじくれてしまった精神構造を納得させるに足るものであった。それがあるが故にグリンチの精神に、文字通りに大きな変化が起こるということが逆説的にではあるが、分かり易く受け入れることができるのだ。原作絵本ではグリンチは困惑すること3時間、ようやくクリスマスはリボンや包みや箱と一緒にやって来るものではないと気付くのだが、本作のグリンチは回心が早すぎる。これではグリンチの物語ではなく、シンディ・ルーの物語ではないか。時代に合わせて柔軟に解釈を変えていくことは文学上の重要な仕事として見なされうるが、英語圏では super famous なグリンチというキャラクターに関して、これではリスペクトが無さ過ぎる。

 

総評

これは古典的名作のアニメ化ではない。昨今のクリエイターが、無難に生み出したお涙ちょうだい物語の文法をなぞっただけの底浅い作品である。小学校高学年ぐらいまでならそれなりに楽しめるのかもしれないが、それ以上の年齢層には実写版を見せてあげるべし。高校生以上で、英語力には少し自信があるという人は、ここにオリジナル絵本のPDFがあるので、是非そちらも参照してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アニメ, アメリカ, コメディ, ベネディクト・カンバーバッチ, 監督:スコット・モシャー, 監督:ヤーロウ・チェイニー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

アリー / スター誕生 40点
2018年12月22日 にて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー レディー・ガガ
監督:ブラッドリー・クーパー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227140025j:plain

バーブラ・ストライザンドや、古くはジュディ・ガーランドにまでさかのぼるスター誕生物語の系譜が現代の歌姫、レディー・ガガに受け継がれた。ガガの歌唱力と意外な演技力、ブラッドリー・クーパーのカリスマ性をもってしても、しかし、これは残念ながら凡作の烙印を押されることを免れ得ないだろう。

 

あらすじ

アリー(レディー・ガガ)は、昼はウェイトレスを、夜は場末のバーで歌いながら、歌手になる夢を見ていた。そのバーに、有名ミュージシャンのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)が来店。アリーの歌に魅了されたジャクソンは、彼女を自分のコンサートの舞台に立たせる。喝采を浴びたアリーのキャリアとロマンスが動き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

“Shallow”と“Always Remember Us This Way”は素晴らしい。容易に歌詞が視覚化されてくる。それは映画のシーンとそれだけシンクロ率が高いからだ。極端な例を挙げれば、あのゴジラのテーマを聞けばゴジラが思い浮かぶし、ジョン・ウィリアムズのSuperman’s Themeを聞けば、クリストファー・リーブが思い浮かぶ。最近だと、ハンス・ジマーのワンダー・ウーマンのテーマがキャラを完璧に体現する傑作だった。冒頭の二曲は、本作を思い起こす上で絶対に欠かすことのできないピースになっているとさえ言える。

 

また、ガガの意外な素顔というか、彼女は普通の格好をしてノーメイクまたはかなり薄いメイクぐらいが最も美しいという意外な発見もある。露出多めの衣装も着てくれるし、入浴シーンやラブシーンもかなりある。スケベなビューワーも期待してよろしい。実際、ブラッドリー・クーパーはこういうシーンがやりたくて自分で監督及び主演をしたんじゃないのかと勘繰られても文句は言えまい。そういえば、シルベスター・スタローンもその昔、『 スペシャリスト 』という何とも微妙な映画で一部のファンや批評家から批判されていた。曰く、「シャロン・ストーンとベッドシーンを演じたかっただけじゃないのか」と。それでも、本来は歌手であって女優ではなかったはずのガガがここまで体を張ってくれるのだから、映画ファンは眼福とばかりに思わず、その表現をしかと受け止めねばならない。

 

個人的には映画のピークは駐車場のシーンかな。何気ない会話にこそ本当のドラマがあるように思う。『 ロッキー 』でエイドリアンとロッキーが無人のスケートリンク内で語り合うシーンこそが、Jovian的には the most romantic moment ever in filmなのだが、夜の駐車場シーンにも似たような趣があった。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの成功者とは、なぜ酒、ドラッグ、女に溺れて身を持ち崩すのだろうか。そういうのは『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』などで散々見てきたし、冒頭のジュディ・ガーランドへのオマージュであろうか、アリーの歌う“Over the Rainbow”が夢の国への旅立ちとそこでの試練、そして現実への回帰を予感させる。それはかつて何度もリメイクされてきた本作のストーリーのフラクタルでもあるだろう。それでも、この物語の陳腐さはもう少しどうにかならなかったのだろうか。雌伏、雄飛、成功、愛憎、別離、そして悲劇と、今日日の韓国ドラマでももう少し何らかの手を加えてくるだろうという、その起伏そのものが余りにも平板に感じられてしまうストーリー展開。はっきり言って、ガガの成功と歌唱力、パフォーマンスを我々があらかじめ知っているからこそ感情移入できるし説得力も生まれているのだが、これが誰か別のキャスト、たとえば歌唱力抜群だが、本当に自分の容姿容色にコンプレックスを抱いているような若い女性を起用したらどうなっていただろうか。恐らく、何の変哲もない凡百の作品との評価を受けて終わりだろう。それほど、本作のプロットは平々凡々である。

 

また現代というテクノロジーの転換期にある時代、梅田望夫の言葉を借りるならば「総表現社会」においては、すでに類似の事例がいくつもある。スケールはまったく異なるが、少し古いところではニコニコ動画初のKURIKINTON・FOXがメジャーデビューを果たしたり(その後、色々あったようだが・・・)、現在でも米津玄師やDAOKOなど、インターネット上のプラットホームからメジャーデビューを果たすという事例は、もはや珍しいものではなくなっている。また、海外の事例を挙げるとするならば、Rod Stewartに見出されたグラスゴーのストリート・パフォーマー、Amy Belleであろう。“I don’t want to talk about it”のデュエットは、始めて見た時、文字通り鳥肌が立った。

 

ことほど左様に、本作のストーリーは現実世界によってそのファンタジー性を剥ぎ取られてしまっている。YouTubeでバズったというだけでは現代に本作をリメイクする意味が無い。もっと新しいアイデアが盛り込まれてしかるべきだった。クーパーの嗅覚も少し鈍ったのだろうか。個人的には、ジャクソンとアリーは、RodとAmyのデュエットを超えなかった。

 

総評

映画としては普通の面白さである。ここで言う普通をどう捉えるかは観る人次第である。ガガやクーパーのファンであれば観るべきだ。しかし、『 ボヘミアン・ラブソディ 』と比較してはならない。音楽も演技も演出も映像も、『 ボヘミアン・ラブソディ 』に軍配が上がる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ブラッドリー・クーパー, ラブロマンス, レディー・ガガ, 監督:ブラッドリー・クーパー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 音楽Leave a Comment on 『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

二ツ星の料理人 55点
2018年12月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー ユマ・サーマン アリシア・ヴァイキャンダー リリー・ジェームズ
監督:ジョン・ウェルズ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227024144j:plain

今、最も旬を迎えつつあるリリー・ジェームズやアリシア・ヴァイキャンダーが結構なチョイ役で出演している。それだけでも観る価値があるし、細部に注意を払えば、非常に興味深い東西比較文化論ができる作品でもある。今度、”What is the best culinary experience you have ever had in a foreign country?” というお題でエッセイでも書いてみようか。

 

あらすじ

アダム(ブラッドリー・クーパー)は天才的な料理の腕前を持ちながら、酒、ドラッグ、女に溺れ、トラブルと借金のためにパリの二つ星レストランを去るしかなかった。3年後、彼はかつての同僚らと和解し、自らが見出した才能たちと再起のために新しい店をオープンさせ、ミシュランの三つ星を目指すべく奮闘するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ブラッドリー・クーパーの出演作には基本的に外れが無い。その演技力もさることながら、駄作、凡作、佳作を本能的に嗅ぎわける嗅覚に優れているのだろうか。いつでも自信満々、自らの才覚と実績を隠すことなく誇り、仕事は大胆にして繊細、しかし気に入らないものには言葉の暴力と物理的な暴力を容赦なく行使する。そんな豪放磊落なキャラクターというのは、往々にして傷心と小心の裏返しなわけで、アダムもその例に漏れない。彼が傷つき、恐れたものとは何であるのか。劇中のカウンセラーとのセッションが印象的だが、それすらもある意味では彼の本心を包み隠さず語ったものではない。そう、本作は料理人の成長物語であるだけではなく、傷ついた男の再生物語でもあるのだ。

 

本作の序盤の料理シーンでは、極力、顔と手を同時に映さないようにしている。しかし、シーンが進んでいくごとに、料理シーンでは役者の手と顔を同時に映すようになっていく。これはウェルズ監督の意図した画作りだろうか。役者の成長と上達が、キャラクターの成長と上達にオーバーラップする、非常に良い演出であると感じた。

 

演出面で言えば、アダムが上着のボタンをはずすシーンがあるのだが、それが緊張から解放されたことを見事に象徴している。アダムの成長というか、変化を如実に実感させてくれるのだが、そのことを本人あるいは他の登場人物に説明させるのではなく、演技して見せる。映画の基本にして究極でもある。北野武の『 アウトレイジ 』でも、椎名桔平がカジノでジャケットのボタンをゆっくりと留めるシーンがあったが、こちらは緊張が高まるシーンだった。対照的ではあるが、どちらも語らずに見せる、印象的なシーンだ。

 

観終わってから、本作の原題が Burnt である意味をほんの少し考えて見て欲しい。そしてここで納得のいく定義を自分なりに探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

何故この映画に出てくる料理人はどいつもこいつも煙草を吸うのだ?いや、煙草を吸うだけならまだいい。結構な重要キャラが自室兼キッチンで堂々と喫煙するというのは、いったいどういう料簡からだろうか。

 

また、これは大部分は文化の違いに起因するのだろうが、何故西洋の料理というのは、素材に無頓着(に見える)のだろうか。フランス料理に関して言えば、都パリは意味から遠く、新鮮な魚介類がパリに着くころには、保存状態がかなり怪しくなっていた。したがって、濃厚なソースが必要になる。また英国は産業革命発祥の地であるがゆえに、農村や郊外から都市部への人口の流入があまりにも急激だった。それゆえに各地の伝統的な食材や料理法が継承されず、大量生産に適した都市型の味気ない料理が残ったという。いずれにしても、東洋が大切にする素材の良さと、料理そのものの熱が伝わらないのは、個人的には大いに不満である。このあたりは『 クレイジー・リッチ! 』や『 日日是好日 』といった作品が活写した文化としての食が伝わらなかった。もちろん、洋の東西の違いは十二分に承知しているが、ミシュランが大阪のたこ焼き屋にまで星をつけたりするこの時代、全てが白の丸皿に盛りつけられただけで「食べるのをやめられない料理」の魅力は十全には伝えられないだろう。

 

本質的には料理人ではなく、ブロークン・ハートな男の物語である。しかし、食材や調理のシーンにもっともっと凝って欲しかったと思う。リアリティとは、こだわりなのだから。

 

総評

普通に楽しめる作品である。しかし、料理人や料理そのもの、また食す側の人間や、食のレビュワーまでも描いた作品『 シェフ 三ツ星フードトラック始めました 』の方が面白さでは一段上であろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, アリシア・ヴァイキャンダー, ヒューマンドラマ, ブラッドリー・クーパー, ユマ・サーマン, リリー・ジェームズ, 監督:ジョン・ウェルズ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

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