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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 エンド・オブ・ザ・ワールド 』 -終末シミュレーションの平均的作品-

Posted on 2019年2月22日2019年12月23日 by cool-jupiter

エンド・オブ・ザ・ワールド 45点
2019年2月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キーラ・ナイトレイ スティーブ・カレル ロブ・コードリー
監督:ローリーン・スカファリア 

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原題は”Seeking a friend for the end of the world”である。世界の終わりネタというのは、小説から映画まで、これまで数限りなく生産されてきた。新約聖書の『 ヨハネの黙示録 』はローマ帝国滅亡のビジョンだと言われるが、旧約聖書の『 創世記 』のノアの方舟も典型的な滅亡物語だし、それをさらに遡ること数百年、『 ギルガメシュ叙事詩 』もある意味では英雄譚にして世界放浪と滅亡の物語だったのかもしれない。では本作はどうか?平均的な作品であった。

 

あらすじ

地球に天体衝突の危機が迫っている。そんな中、ドッジ(スティーブ・カレル)はふとしたことから、同じアパートのペニー(キーラ・ナイトレイ)と知り合う。混乱と平穏が交錯する中、彼らはドッジのかつての恋人を訪ねる旅を共にするようになる・・・

 

ポジティブ・サイド

『 プールサイド・デイズ 』や『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』では性格に難のある男を演じていたが、スティーブ・カレルの本領はこうした寡黙で内気で、それでいて内面に様々な感情を秘めたキャラクターなのかもしれない。特にヒスパニックのメイドに優しい声をかけるシーンと、彼女に対して声を荒げるシーンは、このキャラクターの深みをよく表していた。滅亡を前に暴徒と化す人もいれば、滅亡を前にしても淡々と日常を過ごす人もいる。前者は結構しつこく描かれるが、後者をたった一人の中年女性と中年男性のビミョーな距離感で描き切ってしまったのは新鮮であった。

 

キーラ・ナイトレイも、いわゆる成熟した大人の女でありながら内面の成長はそれほどでもない、みたいなキャラを演じるようになって久しい。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』などのキャラの原型は本作から生まれたのかもしれない。

 

家族愛と異性への愛、父と息子の対立と苦悩、非常に分かりやすいテーマが提示され、キャラクターもそこそこ魅せてくれる。弱々しいスティーブ・カレルを見てみたいという人にはお勧めできそうである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにも典型的なロードムービーだ。ロードムービーそれ自体はハズレを生み出しにくいジャンルであるが、同時に傑作も生み出しにくいジャンルでもある。まあ、本作が傑作になろうとしていたかどうかは疑わしいところだが。キャストはまあまあ豪華だが、作りはどう見ても低予算映画のそれであるからだ。本作が目指すべきは、地球滅亡が現実として迫ってきた時に、どれだけ特異な人物を描けるか、またはどれだけ特異な状況を描き出せるかだったはずだ。しかし、過去にすれちがってしまった愛する人を探し求めるというのは、小天体が地球との衝突コースに入らなくても出来る。例えば、不治の病で余命を宣告されてしまうとか、両親や親せきに望まぬ結婚を押しつけられそうになるだとか、または同窓会に出席するはずだった、かつての憧れの人が何故か来なかったからとか、色々ときっかけになるような出来事は考えられる。本作は、天体衝突という極限のディザスター・ムービーでもあるのだから、もう少し捻った展開が欲しかった。

 

総評

典型的な Rainy Day DVD である。手持ち無沙汰の雨の日に、DVD(または配信)で観るぐらいでちょうど良い作品である。もしも滅亡が差し迫った状況で個はどう振る舞うのかに感心があれば、主演ニコラス・ケイジ、監督アレックス・プロヤスの『 ノウイング 』の方が面白いと感じるはず。全体的にクソ映画ではあるが、最後のニコケイの笑顔はとても良い。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ロブ・コードリー, ロマンス, 監督:ローリーン・スカファリア, 配給会社:ツイン, 配給会社:ミッドシップLeave a Comment on 『 エンド・オブ・ザ・ワールド 』 -終末シミュレーションの平均的作品-

『 アクアマン 』 -暗くないDCヒーロー爆誕!-

Posted on 2019年2月17日2019年3月21日 by cool-jupiter

アクアマン 75点
2019年2月10日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ジェイソン・モモア ニコール・キッドマン アンバー・ハード ウィレム・デフォー
監督:ジェームズ・ワン

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DCユニバースの顔と言えばバットマンにスーパーマンだった。バットマンは、怪人リドラーとかMr.フリーズのあまりのインパクトに目が曇らされそうになるが、基本的にはゴッサムの街もバットマン/ブルース・ウェインの心の在り様も非常に暗いものだった。スーパーマンにしても、クリストファー・リーヴverのものも、シリーズが進むにつれてトーンは暗くなっていった。ワンダーウーマンにしても同じで、パラダイス島を出てからは、やはり暗い。そこにアクアマンがやってきた!暗くないDCヒーロー!これを我々は待ち望んでいたのではなかったか。

あらすじ

灯台守と海底人の王女の間に生まれたアーサー・カリー。彼はそのスーパーヒーローとしての力を使って、海で悪事を働く者たちを成敗していた。しかし、海底人たちが地上世界の支配を目論み、侵攻を始めようとしていた。地上と海底の二つの世界の戦争を止められるのは、両方の世界の人間の血を引くアーサーしかいない!アーサーは真の海底人の王となって、戦争を止められるのか・・・

ポジティブ・サイド

本作は完全に漫画である。元々がアメコミなのだから当然と言えば当然だが、漫画の「漫」の字には

①みだりに。とりとめがない。「散漫」「放漫」
②そぞろに。なんとなく。「漫然」「漫遊」
③ひろい。「漫漫」「爛漫(ランマン)」
④みなぎる。一面に広がる。「瀰漫(ビマン)」
⑤こっけいな。「漫画」「漫才」

 (漢字ペディアhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0006588000より)

以上のような意味がある。本作は驚くべきことに上の全ての特徴を備えている。一部はネガティブ・サイドに回るべきなのだろうが、話にとりとめがなかったり、フォーカスが合っていなかったり、スケールがとにかく大きかったり、パワーが漲っていたり、容赦のないギャグを放り込んできたりもする。それは漫画的な面白さなのだ。長期連載漫画などは、しばしばサブプロットが大きくなってしまったり、または伏線の回収を忘れてい(るように見え)たりすることがある。それが短ければ1時間半、長くても2時間半の映画の世界でも起こるということに、良い意味でも驚かされた。

まず、プロットからして漫画というか、原作者は和月伸宏なのかと見紛うほどに間テクスト性に溢れている。先行テクストとして挙げられる、または考えられるのは『 インディ・ジョーンズ 』シリーズ、『 ドラえもん のび太の海底鬼岩城 』、『 エイリアン2 』、『 スター・ウォーズ 』シリーズ、『 ワンダーウーマン 』、『 バトルシップ 』、『 タイタンの戦い 』、『 ジュピター 』、『 センター・オブ・ジ・アース 』、『 キングコング 髑髏島の巨神 』、『 宇宙戦争 』、『 パーフェクト・ストーム 』、『 トランスポーター 』シリーズ、『 トランスフォーマー 』シリーズ、『 マトリックス 』シリーズ、『スーパーマン リターンズ 』などであろうか。こうした仕掛けをオリジナリティの無さと見るのは容易い。しかし、独創性を追求するあまり、意味が分からないものを作ってしまうのは、映画だけではなく、例えば料理の世界でもよくあることだろう。それならば、すでに味が分かっているもので、フルコースを作った方が賢明であるとの論理も成り立つ。ジェームズ・ワンはそのように考えたようだ。

まず冒頭の潜水艦のシーンからして、同じDCの先輩、スーパーマンの『 スーパーマン リターンズ 』の飛行機のシーンと構図としては全く同じである。さらに名前が示す通り、アーサー王物語を現代風に、そしてギリシャ神話風に換骨奪胎している。また魔術師マーリンにあたる役をウィレム・デフォーに割り振るという大胆な采配。カラゼンという海の化け物は名前もビジュアルもまんまクラーケン(ハリーハウゼンが粘土で作ったものではなくCGの方)。こんなのは序の口で、とにかくどこかで見たり聞いたりしたことのある物語要素がてんこもりなのだ。しかし、それが面白さを損なわない。逆に一定水準以上の面白さを担保しているのだから興味深い。

ユーモアの面でも魅せる。ワンダーウーマンことダイアナはアイスクリームの美味しさにほっぺたが落ちそうになった。今作のヒロインのグィネヴィア・・・ではなくメラは、地上の花に関心を示す。ここでのアーサーの反応は面白い。地上人としてはどうかと思うが、地上と海底、両方の世界に属す人間としての「らしい」リアクションを見せてくれる。笑ってよいシーンだが、笑いとは自分と対象の間に距離があることから生じる反応だ。これこそが、ある意味では本作のテーマであるとも言える。

劇中でアーサーはしばしばHalf-breedなる言葉で表現される。「あいの子」とでも訳すべきだろうか。純血主義を否定はしないが、純血を保つことを教条化してしまうと、現実の世界の変化に対応できなくなる。まるでどこかの島国の現状のようである。いわゆるハーフ、もしくはミックスというべきか、混血児はしばしば異能を示す。大坂なおみ然り。アクアマンはこれまでにいそうでいなかった、人間と人間でない者を親に持つ半人間のスーパーヒーローなのだ。まさに今という時代に現れるべくして現れたヒーローと言える。

また彼の母アトランナを演じるニコール・キッドマンについては【 73 Questions With Nicole Kidman 】というYouTube動画を先に観ておくことで、より深みを見出せるようになる。特に母親であることについて最も素晴らしいこと、最も難しいことについての彼女の答えを意識してみれば、本作の見方が少し深まるはずだ。

水中のシーンでは三次元的カメラワークが冴える。ある意味、宇宙と同じ無重力的空間でのチェイスやバトルをこれほど漫画的に映し出してくるとは思っていなかった。4DXまたはMX4Dでも観てみたいと純粋に思わせてくれる。とにかく色々なものがジェットコースター的なのである。

ネガティブ・サイド 

カラゼンがトライデントを守り続けること1000年とはどういうことなのだ。アトランティスが沈んだのは11000年以上前のはずだ。また、アーサーの年齢はどうも20歳らしいが、ジェイソン・モモアに20歳役はかなり苦しい。ここらへんの数字の齟齬がどうしても気になってしまった。

あとは兵隊サメか。ハリウッド映画に出てくるサメが何をしても、もう我々は感覚がマヒしているというか、驚くはずがないと思っていたが、こんなサメを出してしまうとは・・・ 夏の風物詩の糞サメ映画に燃料を与えてしまったのか、それとも貴重な糞アイデアを奪い取ってしまったことになるのか。その答えは今年の夏以降に分かるだろう。おそらく後者だと思うのだが。

総評

ジェームズ・ワンってホラー映画作ってるんでしょ?という認識の人は What a pleasant surprise! となるだろう。とにかくヒーローがアドベンチャーしてアクションしてSFしてロマンスする映画だと思って観るべし。ファミリーで観に行ってもいいし、付き合い始めて日が浅いカップルのデートムービー、または気になる女子をデートに誘う口実にも使いやすい健全な娯楽映画でもある。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, ジェイソン・モモア, 監督:ジェームズ・ワン, 配給会社:ワーナー・ブラザーズ映画Leave a Comment on 『 アクアマン 』 -暗くないDCヒーロー爆誕!-

『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

Posted on 2019年2月6日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ・リターンズ 55点
2019年2月2日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:エミリー・ブラント ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロブ・マーシャル

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メリー・ポピンズが50年以上の時を経て、続編に帰って来る。ジュリー・アンドリュースの後を継ぐのは、ブリティッシュ・アクトレスのトップの一人、エミリー・ブラント様とくれば期待しないわけにはいかない。ややCGヘビーなトレイラーが気になったものの、いざ劇場へ。予想や期待をしていた作品ではなかったが、これはこれで受け入れ可能だ。

 

あらすじ

『 メリー・ポピンズ 』の時代から時を経ること幾星霜。時は大恐慌時代。マイケルは妻を亡くし、画業をあきらめ、銀行の出納係をしながら、子どもたちと屋敷に暮らしていた。姉ジェーンも手助けはしてくれていたが、金策ならず、家を失う危機に瀕していた。しかし、そんな時、空からメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が降臨してきて・・・

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントによるメリー・ポピンズ。どちらかと言うと童顔だったジュリー・アンドリュースのメリー・ポピンズよりも、原作小説の雰囲気が出ていたのではないだろうか。メリー・ポピンズは結構気難しいキャラだからだ。それでいて優しさや情もある。歌って踊れる素敵な魔法使い。エミリー・ブラント以外のキャスティングは今では考えられない。なによりも登場シーンが良い。風吹きすさぶ空の雲間から光と共に神々しく現れる。凧と共に降りてくるのにも意味がある。これは物語の最後の最後で見事なコントラストを成す。

 

メリー・ポピンズは乳母であるが、バンクス家のマイケルが妻を亡くし、その子どもたちには母親代わりとなるべき人物が必要だった。メリー・ポピンズがマイケルの子どもたち、ジョン、アナべル、ジョージーを風呂に入れたり、花瓶の世界に連れて行ったりするシーンは、前作のアニメーションとの融合をかなり意識した作りになっている。つまり、一目でそれと分かるCGになっている。だが、今回はそれが不思議と心地よい。なぜなら、自分が観ているものがリアルなものではなくマジカルなものであるという意識があるからだ。トレイラーで観た時は「なんじゃ、この出来損ないのCGは」と思わされたが、本編で観てみると印象がガラリと変わる。これこそ映画のマジックであろう。

 

現代的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。時代が世界恐慌時代、なので1929年~1939年のどこかの時点の物語ということになるが、本作が訴えるのは80年前の時代の問題ではない。最も分かりやすいのは母子家庭の問題だろう。人生にはpositive female figureが必要とされる時期もあるのである。叔母や家政婦では力不足なこともある。母親不在という現実から逃避するには、非行に走るぐらいしかない。しかし、もし本当に現実逃避ができるなら?本作は魔法使いのメリー-・ポピンズに仮託して、子どもという存在の想像力と生命力のたくましさについて高らかに称揚する。シングル・マザーが激増している日本社会は何某かを感じ取るべきだろう。

 

不況なのはどこの先進国でも同じだが、その構造も共通している。大資本による庶民の搾取だ。トマ・ピケティの御高説を拝聴するまでもなく、資本は資本のあるところに集まるものである。トリクルダウンなる考え方は虚妄に過ぎない。本作はファンタジー映画であるが、容赦のない現実世界の経済論理が展開されており、子どもと一緒に観に行った保護者はかなり心理的にきつい思いを味わわされたのではないだろうか。そうした苦しい思いをしたからこそ、バンクス家の絆はさらに強まるのだ。ディック・ヴァン・ダイク御大との再会は我々に新鮮な感動と驚きをもたらしてくれる。水戸の御老公様が印籠を見せる時のようなカタルシスが味わえた。

 

ネガティブ・サイド

メリル・ストリープの出番はあれで終わりなのか?せっかくの大女優の出張ってもらったのだから、再訪場面まで描いて欲しかった。

 

クライマックスの風船は悪いアイデアではないが、『 プーと大人になった僕 』が既にガジェットとして使っている。というか、風船と言えばプーだろう。良い絵ではあったものの、個人的にはインパクトが弱かった。

 

前作の煙突掃除人に相当するシークエンスとしての、街灯点灯夫たちの大移動があるが、何故あのような『 マッドマックス 怒りのデス・ロード 』的な画作りをするのだろうか。正直なところ、あれでかなり白けた。普通にやればよいのにと今でも思う。

 

だが本作の最大の弱点は、前作の名曲を何一つとして引き継がなかったことであろう。「チム・チム・チェリー」は煙突がフィーチャーされないので無理だとしても、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」(Supercalifragilisticexpialidocious)は使っても良かったはずだ。ジョン、アナべル、ジョージーの3人と一緒にこれを歌うポピンズに、打ちひしがれていたマイケルとジェーンも加わってくる。誰もがそうしたシーンを観る前に夢想してはずだ。権利関係の鬼のディズニーなのだから、いや、だからこそ、楽曲の権利関係をきっちりとさせて、映画ファンに望むものを提供して欲しかったと切に願う。『 マンマ・ミーア! 』と『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィ-・ゴー 』が同一の世界観であると受け取られたのは、同じ役者が同じ役で続投したことと同じくらいに、”Dancing Queen”が歌って踊られたという事実があるからだ。”Dancing Queen”が流れてこその世界とも言える。前作からの楽曲が無かったのには大人の事情もあろうが、個人的には大減点をせざるを得ない。

 

総評

それなりに楽しい映画である。ミュージカル好き、ディズニー映画好きであればチケットを買っても損はしないだろう。Jovianはかなりバイアスが強い鑑賞者なので、あまりレビューの点数は気にしないで頂けると幸いである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エミリー・ブラント, ディック・ヴァン・ダイク, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ロブ・マーシャル, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

Posted on 2019年1月29日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガー・ラッシュ オンライン 60点
2019年1月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン ガル・ガドット タラジ・P・ヘンソン
監督:リッチ・ムーア フィル・ジョンストン

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およそプリンセスらしくないプリンセスのヴァネロペが、インターネット世界で様々なプリンセスおよびキャラクターと邂逅する。そして、ラルフとの友情に一つの区切り、転換点を迎える。前作の『 シュガー・ラッシュ 』が役割と人格を巡る物語であるとすれば、本作は主体の主体性、すなわち自由を巡る物語であると言える。Jovianは作家の奥泉光に私淑しているが、彼は我々の共通の師である並木浩一との対談で、並木から「自由とは、自由であろうとすること」との言葉を引き出している。Jovianがここで言う自由も、自由であろうとすることを指しているとご理解頂きたい。

 

あらすじ

ラルフとヴァネロペは、それぞれのゲームで活躍しながら、良好な親友関係を続けていた。ある日、ハプニングにより、シュガー・ラッシュのゲーム筺体が破損。修理部品を手配する為に、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛び込んでいく。そこでヴァネロペは様々な出会いを通じ、自分が本当にやりたいことを見つけ出すのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

前作でも同じことを感じたが、CGが違和感なく感じられるのは個人的には大いなるプラス。現実世界のゲームのCGは余りにも美麗になりすぎたが、一定以上の世代の人間ならドラゴンクエストやファイナルファンタジーの二次元ドット絵に愛着を感じるだろうし、パックマンやインベーダー・ゲーム、ドンキーコングのようなグラフィックでも充分だとさえ言える。CG嫌いが少し弱まってきたのだろうか。

 

前作ではレトロゲームのキャラが多数カメオ出演していたが、今作ではネットのビジネス世界の列強が勢ぞろいしている。日本からは楽天が参戦しており、そのほかにもLineやmixiも目に入ってきた。その他のネットビジネスの巨人であるAmazon,eBayを筆頭にYouTube,Facebook,Google,InstagramにTwitterと何でもござれ。これらのサービスの全てもしくはいくつかを使ったことがある人ならば、思わずニヤリとさせられる描写も多く、なおかつインターネットという世界を直観的に理解できるようなビジュアル世界も構築できている。これは凄いことだ。最も象徴的なのは、ネット世界では距離の概念が“ほとんど”無いのだということを描き出していること。また、IPアドレスによって個を識別しているということ。そしてデータのコピーにかかるコストがほぼゼロであることを良い意味でも悪い意味でも映し出したこと。これらに個人的には最も唸らされた。

 

今作ではラルフとヴァネロペの友情に新たな展開が見られる。自分の役割を受け入れることができたラルフと、やっと自分の役割を果たせるようになったヴァネロペの間に、温度差が生まれるのは蓋し当然でもあっただろう。ラルフは悪役であることを受け入れ、ゲーム外の時間でヴァネロペと変わらない時間を過ごす。しかし、ヴァネロペは決まり切ったレースコースを走ることに厭いていて、変化を求めている。シュガー・ラッシュ内でも他キャラがプリンセスとして接してくるのに対して、対等な関係を求める。ヴァネロペは「自分が自分らしくある」ことを目指したいのだ。それこそが主体の自由である。ゲームの垣根を乗り越えて、自らのアイデンティティを定めようとしてく、このリトル・プリンセスの姿に、一つのグローバル時代の個の在り様を見るようである。

 

また、本作ではディズニー世界のプリンセスが勢ぞろいする。Jovianは一部しか作品は鑑賞していないが、それでも彼女たちが語るプリンセスの条件(予告編で散々流れているのでネタばれにはあたらないだろう)に、我々はいかに個の在り方が非常に限定的、なおかつ与えられた役割を全うすること、もっと言えば非常に受動的な属性で塗り固められているかということを思い知らされ、愕然とする。ヴァネロペがネット世界でゲームの垣根を超えていくこと、麗らかに、しかし、強かに個を主張する様は、繰り返しになるが、グローバル時代の個人の来し方行く末を見るかのようだ。幅広い年代層にアピールできる作品になっている。

 

ネガティブ・サイド

ラルフは元々、the sharpest tool in the box = 頭が切れるタイプではないが、ヴァネロペの旅立ちを阻止したいが為だけに、ここまでやるか?という行為に及ぶ。現実世界でこれをやれば、御用である。ネット世界でこれをやっても、やはり御用である。ラルフは典型的な男のダメな部分をあまりに率直に、飾らずに体現してしまっている。それは共感力の欠如である。「俺は毎日楽しいぜ」と自己主張をしてもしゃーないのである。シャンクとヴァネロペの会話は至って正常なガールズトークで、だからこそラルフには理解ができない。こうした描写はクリシェとさえ呼べるが、これを見せられてしまうと男としてはかなり暗澹たる気分にさせられる。例えばラルフがシャンクに直接、自分がどれほどヴァネロペとの友情に感謝しているのか、それによって生かされているのかを訥々とでもよいから語るような場面があれば、男のダメさ加減の体現描写も少しは薄められたはずなのだが・・・

 

総評

『 レディ・プレイヤー1 』のメッセージは、「外に出ろ、人と交われ」だった。しかし、本作はもっと踏み込んで、「多様な世界に触れろ、変化を恐れるな」と言っているかのようだ。世代によって本作の受け取り方は相当に異なると思われるが、あらゆる見方が正しいのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, アメリカ, ガル・ガドット, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, タラジ・P・ヘンソン, ヒューマンドラマ, 監督:フィル・ジョンストン, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

Posted on 2019年1月28日2019年12月21日 by cool-jupiter

バンド・エイド 50点
2019年1月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゾーイ・リスター=ジョーンズ アダム・パリー フレッド・アーミセン
監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ

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原題も“Band Aid”である。絆創膏と「音楽バンドによる助け」のダブルミーニングである。音楽によって人間関係の修復を図る作品では『 はじまりのうた 』が思い出される。テイラー・スウィフトは『 Bad Blood 』で「バンドエイドでは銃創は治せない」と歌った。しかし、バンドで治せる傷もあるはずだ。そう確信する人々が作ったのが本作であろう。

 

あらすじ

アナ(ゾーイ・リスター=ジョーンズ)はUberの運転手、ベン(アダム・パリー)は企業ロゴのデザイナーで、互いに収入は不安定。二人の間では常にケンカが絶えなかった。しかし、バンド活動の間だけはケンカを楽曲に昇華することができた。近所に住む性依存症のデイヴ(フレッド・アーミセン)を交えて、バンドを始める二人。バンド活動は順調に見えたが、アナとベンには真正面から向き合えない辛い過去があり・・・

 

ポジティブ・サイド

サンダンス映画祭に出品された作品ということで、登場人物も少なく、時間的・空間的にもそれほどの広がりを見せない。つまり鑑賞しやすく、理解もしやすい。夫婦喧嘩を経験したことのない夫婦はいないだろうし、未婚・独身者であっても、夫婦喧嘩の何たるかはある程度は想像ができるはずだ。そんな夫婦間のドロドロした愛憎を音楽活動に昇華させる。非常に健全な試みであろう。アナとベンが互いに”Fuck you, Fuck you, Fuck you”とお互いを罵るようにシャウトする様は非常にコメディックである。

 

映画をある程度見なれた人であれば、もしくは夫婦というものをある程度経験していれば、アナとベンの間に起きた悲しい過去については簡単に推測できるだろう。しかし、それに向かい合うことは決して簡単なことではない。特に女性であれば、アナが女友達とおしゃべりをするシーン、そして友達の子どもの誕生日パーティーに出席するところで、非常に強く共感するか、もしくは相当に身につまされる思いをするか、どちらかではないだろうか。

 

中盤以降には、もしかすると日本の少子化、もっと言えばセックスレスの原因はこれではないかと示唆してくるようなシークエンスがある。これはおそらく夫側がかなり身につまされるシーンになるのではないか。現代ではセックスは生殖活動以上に、愛情表現、濃密なコミュニケーションとしての意味合いの方が強い。だからこそ依存症が発生したりするわけだが、かといって生殖の意味合いが薄れたわけでは決してない。本作は夫婦の在り方を時にラブコメ調に、時にシリアスに映し出す。主演も兼ねた監督ゾーイ・リスター=ジョーンズの面目躍如といったところだろうか。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの女性というのは、人生で一番輝いていた時期に囚われる傾向が殊更に強いのだろか。『 ワン・ナイト 』や『 ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 』など、人生の最盛期を振り返る映画は枚挙に暇がない。アナも、過去に本を出版するチャンスを掴みかけたのだが、それは結局実現することが無かった。これはあまりに陳腐だ。もっと別の角度から、アナの苦境を描くことはできたはずだ。本というものが、あるモノのシンボルであることは承知している。そうであるならば歌詞にそのあるモノを示唆するものが出てこなくてはならなかったが、そんなものはなかった。それが残念だ。

 

もう一つ指摘することがあるとすれば、アダム・パリ―の演技。下手だと言いたいわけではない。ただ、妻に対する時と母に対する時で演技に違いがないのは頂けない。目つき、顔を傾ける角度、声のトーンなど、目に見える、耳に聞こえる形で演技を差をつけられないのは表現者としては敗北であろう。もちろん、監督その人によってそのような演技をするように指示された可能性もあるが、彼の一本調子の演技は本作にとってはマイナス要素である。

 

総評

テイラー・スウィフトは2015年の東京ドームでのライブで“You are not your own mistakes.”と語った。『 あなたの旅立ち、綴ります 』でシャーリー・マクレーン演じるハリエットは“You don’t make mistakes. Mistakes make you. Mistakes make you smarter.”と語った。弱点はあるものの、もしも夫婦関係に間違いがあると感じているのならば、何某かのヒントが得られるかもしれない作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アダム・パリー, アメリカ, ゾーイ・リスター=ジョーンズ, ヒューマンドラマ, フレッド・アーミセン, 監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ, 音楽Leave a Comment on 『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

『 シュガー・ラッシュ 』 -深い示唆に富むディズニーアニメの秀作-

Posted on 2019年1月26日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガーラッシュ 70点
2019年1月22日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン
監督:リッチ・ムーア

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原題は“Wreck-It Ralph”、「壊し屋ラルフ」とでも言おうか。スルーするつもりだったが、どういうわけか突然『 シュガー・ラッシュ オンライン 』を鑑賞してみたくなった。ならば、前作を観ねばなるまいと近所のTSUTAYAで借りてきた次第である。

 

あらすじ

ゲームセンターの「Fix-It Felix」は悪役ラルフが建物を壊して、善玉フェリックスがそれを直していくというゲーム。ゲームセンターの閉店後、ゲームのキャラたちは自分の時間を過ごしていたが、悪役のラルフはゲームの時間以外でも他のキャラから敬遠されていた。自分もヒーローになりたいと願ったラルフは他のゲームに「ターボ」する。そして「 シュガー・ラッシュ 」の世界でバグ持ちの少女、ヴァネロペと出会う。ゲーム世界で疎外されてきた二人は友情を育んでいくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

『 レディ・プレイヤー1 』はこれに触発されたのではないかと言うぐらい、レトロゲームのキャラクターが登場する。ザンギエフやベガに、かつてゲーセンで貴重な百円玉数枚を投じて1時間遊んだことを思い出す者もいれば、スーパーファミコンでストⅡ、ダッシュ、ターボを延々とプレーした思い出を持つ者もいるだろう。あるいはパックマン・ゴーストに郷愁を感じる者も多かろう。『 ピクセル 』はクソ映画で、中途半端にリアルなCGも現実世界と相容れない不自然さがあったが、本作では同じようにレトロゲームのキャラや世界観を構築しても、全く不自然ではない。なぜなら、世界そのものがゲームの内部だからだ。そしてたいていのゲームは、何度プレーしても同じ物語が紡ぎ出されるように出来ている。中には『 エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー 』のように、シューティングゲームでありながら分岐シナリオを取り入れた例もあるが、それでもゲームの物語やキャラの最終的な行動や属性は大きくは変化しない。

 

しかし、キャラクターが変化を望めば?キャラクターに自発的な意志があれば?それが主人公ラルフの葛藤になる。彼自身は自分は悪役であることを認識している。しかし、彼は自分のことを悪人だとは考えていない。役割は決して人格とイコールではないのだ。だからこそ、シュガー・ラッシュのヴァネロペに共感しつつも、その存在を守ろうとする。ヴァネロペは逆に不安定なバグ(glitch)を有するが故に、卓越したレーサーでありながらレースに参加することが許されない。役割を果たすことができないということが、彼女の存在意義を揺るがす。ラルフとは逆なのだ。彼女は、たとえゲーム世界が崩壊し、自分というキャラクターがリセットされてしまっても、自分の役割を全うしようとする。存在意義を果たそうとすることで存在が消えてしまうとは何たる悲劇かと思うが、そのことが物語にドラマとサスペンスと感動を与えている。

 

ここで思い出される映画がある。『 マジック・マイク 』だ。終盤でチャニング・テイタム演じるマイクは「俺は俺のライフスタイルじゃない。俺は俺の仕事じゃない。ストリッパーは俺の仕事(what I do)だけど、それが俺の人格(who I am)じゃない」と心境を吐露する。これこそがラルフの葛藤の正体であろう。これは子どもが観ても、大人が観ても、直観的に理解できる内容だ。このメッセージを届けるために舞台をゲーム世界に設定したのだとすれば、脚本家の慧眼には感服するしかない。なぜなら、ラルフという悪役が存在しなければ、フェリックスという善玉は必要とされないからだ。ラルフが何かを壊してくれてこそ、フェリックスの直す能力が重宝される。悪役にも存在理由がしっかりとあるのだ。現実の世界を舞台にこのことを描き出した傑作に『 ダークナイト 』が挙げられる。または『 アンブレイカブル 』もこのカテゴリに入れてもよいのかもしれない。現実世界を舞台に悪の存在意義=その対比としての善が存在する、ということを描こうとすると子どもが置いてけぼりになってしまう。その意味では本作は、子どもから大人までしっかり鑑賞して、なおかつ楽しむことができる逸品である。

 

ネガティブ・サイド

センチピードやQバートはそれなりに可愛いが、ヴァネロペの声(オリジナルの英語)が可愛くない。むしろ少し怖い。というか、ヴァネロペという屈折したキャラクターをよく表す声だとは思うが、話し方そのものがかなりSmart Alecな感じで、とにかく鼻につく。続編は思い切って日本語吹き替えにしようかと検討している。

 

一つ気になってしまったのが、ラルフの心境の最終的な変化。悪役も悪くは無いと感じるのは良しとして、それはヴァネロペを好いてくれるプレイヤーの存在に帰せられることなのだろうか。バグを持った破天荒プリンセスキャラが愛されるなら、壊し屋の自分だって愛されていいんじゃないのかという結論に至らないのが、個人的にはやや解せない。

 

また、クライマックスの展開は割と簡単に読めてしまうのが残念なところだろうか。それでも嫁さんはびっくりしていたので、度肝を抜かれる人はこんな展開にも度肝を抜かれるものなのだなと再認識。個人的にはこの逆転のドンデン返しはすぐに見えてしまった。

 

総評

子ども向け作品と侮るなかれ、『 グリンチ 』とは一味もふた味も違う。完成度はこちらの方が遥かに高く、かつてレトロゲーマーだった大人以外の大人たちの鑑賞にも耐えられる作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, アメリカ, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, ヒューマンドラマ, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ 』 -深い示唆に富むディズニーアニメの秀作-

『 ミスター・ガラス 』 -内向きに爆発したシャマラノヴァース-

Posted on 2019年1月25日2019年12月21日 by cool-jupiter

ミスター・ガラス 55点
2019年1月20日 東宝シネマズ伊丹にて鑑賞
出演:サミュエル・L・ジャクソン ブルース・ウィリス ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190125013419j:plain

シネマティック・ユニヴァース=Cinematic Universeが花盛りである。アベンジャーズに代表されるMarvel Cinematic Universeに、ゴジラを中心に展開されていくであろうモンスター世界=Monsterverse、『 ザ・マミー/呪われた砂漠の王女 』の不発により始まる前に終わってしまったDark Universeなどなど。そこにシャマラン世界、すなわちShyamalan Universe、略してシャマラン・ヴァースもしくはシャマラノヴァースとも呼ばれている。今作は『 アンブレイカブル 』と『 スプリット 』の正統的続編なのである。期待に胸を膨らませずにいられようか。

 

あらすじ

フィラデルフィアには監視者と呼ばれる男がいた。警察が捉えられない悪を裁くのだ。彼の名はデイヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)。触れることで悪を感知する不死身の肉体を持つ男。その頃、ケヴィン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)は4人の女子高生を誘拐、監禁していた。24の人格を宿す人ならざる人。この二人の出会いを待ち構えていた精神分析医のサラ。彼女の施設には狂人にして天才、極度に脆い身体を持つミスター・ガラスことイライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)も収容されていた。彼女は彼らに、超人など存在しないということを証明しようとして・・・

 

ポジティブ・サイド

ジェームズ・マカヴォイの多重人格者の演技。これだけでチケット代の半分になる。特に9歳児のヘドウィグの演技は前作に引き続き、圧倒的である。少年の心の無邪気さと不安定さを一瞬で表現するところは圧巻。同僚のロンドナーも、「演技力では、ジェームズ・マカヴォイ >>> ベネディクト・カンバーバッチ、トム・ヒドゥルストン、マイケル・ファスベンダー」と認めている。一度演じた役とはいえ、こうも簡単にあれだけの役を再現できるのかと感心させられる。

 

そしてまさかのスペンサー・トリート・クラークの再登場。父親に銃まで向けたあの息子も、今ではすっかり父ダンのサポーター役が板に付いた。というか、子どもの頃と顔が全く変わっていない。ハーレイ・ジョエル・オスメントも面影をかなり残しているが、ジェイソン・トレンブレイも今の顔のまま大人になるのだろうか。

 

閑話休題。ビーストとダンの対決は、日本のキャラクターの対決に例えるとするなら、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 』の志々雄真実と『 魁!!男塾 』の江田島平八を闘わせるようなものだろうか?もしくは、ウルトラマンとゴジラの対決か?何が適切な例えになるのか分からないが、とにかくこの対決はシャマランファン垂涎のマッチアップなのである。一人自警団を実行していくであろうダンには強力なライバルが必要だった。しかし、普通の人間ではとうていダンには歯が立たない。であるならば、普通ではない人間が必要となる。バットマンがジョーカーを呼び寄せたように。またはスーパーマンにとってのレックス・ルーサーのように。それにしても、今作を観てやっと前作『 スプリット 』における駅と花束の意味が分かった。だからこそ本作のタイトルは『 ミスター・ガラス 』なのだ。誰よりも弱い身体を持つが故に、その頭脳は誰よりも冴える。何という男なのだろうか。演じ切ったサミュエル・L・ジャクソンにも脱帽だ。

 

ネガティブ・サイド

これはネタばれだが、特にメジャーなネタばれでもないので書いてしまう。一体全体、催眠ストロボとは何なのだ?いや、原理はどうでもいい。9歳児のヘドウィグならまだしも、デニスやバリーやパトリシアまでもが、「目をつぶる」という余りにも簡単な回避方法を思いつかないのは何故だ?

 

前作であれほどまでにベティ・バックリー演じるカウンセラーに自らの存在する意味、全ての人格は主人格のケヴィンを守るために存在するのだと、ビーストはケヴィンの究極の守護者なのだと確信していたにも関わらず、謎の研究者のほんの少しの言葉で、なぜあれほどまでにパトリシアたちは動揺するのか。同じことを描くにしても、前回のような本格的な、徹底的なカウンセリングシーンが欲しかった。これではフレッチャー博士も浮かばれない。

 

また本来の主人公であるミスター・ガラス、イライジャの天才性と狂人性の描写がもう一つ弱かった。いや、天才性は最後に爆発したが、『 アンブレイカブル 』で階段から落ちながらも、とある事柄を確認したことで浮かべた不気味極まりない笑顔。あれに優る狂気の表情が見られなかったのはマイナスだろう。イライジャの思考はそれが思い込みであれ、信念であれ、確信であれ、誰よりも強い。その想念の強さと大きさを宿したようなアクションまたは表情がどうしても見てみたかったが。

 

最後に個人的なネガティブを一つ。ケイシーを演じたアニャ・テイラー=ジョイの出番が少ない。Jovianは彼女とヘイリー・スタインフェルド推しなのである。

 

総評

色々と腑に落ちないこともあるが、『 アンブレイカブル 』がデイヴィッド・ダンがスーパーヒーローとして覚醒する物語で、『 スプリット 』はスーパーヴィランの誕生物語だった。狂人ミスター・ガラスはスーパーヒーローなのか、それともスーパー・ヴィランなのか。それは観る者が直接その目で確認すべきなのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, サスペンス, サミュエル・L・ジャクソン, ジェームズ・マカヴォイ, ブルース・ウィリス, ミステリ, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ミスター・ガラス 』 -内向きに爆発したシャマラノヴァース-

『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

Posted on 2019年1月20日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ 70点
2019年1月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジュリー・アンドリュース ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロバート・スティーブンソン

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元々は絵本である。しかし日本では、おそらく歌の『 チム・チム・チェリー 』の方が有名かもしれない。一部の世代や地域の人であれば、小学校もしくは中学校の音楽の教科書に載っていたかもしれないし、今でも幼稚園や保育園では歌っているかもしれない。エミリー・ブラント主演の新作が公開される前に、復習鑑賞も乙なものかもしれない。

 

あらすじ

時は1910年、ところはロンドン。バンクス家のジェーンとマイケルは悪戯ばかりで、乳母役が次から次に辞めていく。父は厳格な銀行家。母は参政権獲得運動に没頭と、家庭を顧みない両親。ジェーンとマイケルは自分たちが望む乳母役募集の広告をしたためるも、父はそれを破いて暖炉に捨ててしまう。しかし、その紙切れは雲の上の魔法使い、メリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)の元に届いて・・・

 

ポジティブ・サイド

ジュリー・アンドリュースの歌声の美しさ。そしてそれ以上に、彼女の演技力。決して優等生ではない子どもたちに接するに、優しさや包容力、ユーモアだけではなく、一定の厳しさ、威厳を以ってする乳母役を見事に体現した。これはそのまま『 サウンド・オブ・ミュージック 』のマリア役に結実したわけである。もちろん、ダンスの面でも卓越した技量を見せる。

 

だが、それよりもストリートパフォーマーにして煙突掃除人のバートを演じたディック・ヴァン・ダイクの歌唱とダンス、パントマイムには驚かされた。『 グレイテスト・ショーマン 』のヒュー・ジャックマンやザック・エフロンよりも、エンターテイナーとして上質なパフォーマンスを披露してくれたように感じた。特に、煙突掃除人の大集団を率いる形の歌とダンスは圧巻の一語に尽きる。『 マジック・マイク 』と『 マジック・マイクXXL 』のチャニング・テイタムでも渡り合えない(マジック・マイクはそもそも歌わない・・・)。特に夕焼けを背景に掃除人たちのシルエットが躍動するシーンは印象的だった。Jovianは今でも映画で最も衝撃的な体験といえば、『 オズの魔法使 』でモノクロがカラーに切り替わる瞬間を挙げる。映画は第一に映像の美しさ=光の使い方を追求すべきものだが、1960年代に、印象的な影の使い方があったのかと感心させられた。

 

小道具や特殊効果の使い方にも工夫と手間が見られる。部屋を片付ける魔法などは当時の映画製作技術からすれば、数時間ではとても撮れなかっただろうし、大砲の振動で家が揺れるシーンも、カメラを揺らして、それに合わせて小道具を落下させたりしていたはずだ。日本でも映画製作技術が発達したことで、例えばラドンやモスラやキングギドラを大人数でピアノ線で操演する技術は、ロスト・テクノロジーになってしまったと言われている。CGや特殊効果全盛の今、知恵と工夫で魅せる映画は逆に新鮮である。

 

ラストで、メリー・ポピンズが傘と共に帰っていくシーンには哀愁が漂う。しかし、それさえも54年ぶりの続編を予感させるものと受け止めれば、肯定的に映る。これは良作である。

 

ネガティブ・サイド

メリー・ポピンズ登場までが長い。何と開始から21分以上、メリー・ポピンズが姿を現さない。雲の上にいるのがちらりと映りはするものの、ディック・ヴァン・ダイクの熱演をもってしても、相当に長く感じた。このあたりのペース配分には一考の余地があったことだろう。

 

また、メリー・ポピンズ初登場シーンで、面接希望で長蛇の列をなしている女性たちを魔法で文字通りに吹き飛ばしたのは、参政権運動に熱を上げたり、職を求めたりする女性を貶める意図があってのことだろうか。時代が時代とはいえ、少し気になった。ロンドンでも当時は『 未来を花束にして 』のようなムーブメントが盛んだったのは間違いないが、それが(おそらく公開当時でも笑えない)ユーモアにされているのは、現代視点からするとさらに笑えない。

 

また、銀行家たちの貴族意識、選民思想に凝り固まった姿も鼻についた。Jovianのかつての同僚にヨークシャー出身のイングランド人がいたが、彼は時々、”Americans destroyed our English.”と言って、アメリカ人の文法的に破格な英語をネタにしていた。これはユーモアだが、本作に描かれる銀行家たちの歴史観は、ちょっと笑えない。もちろん時代背景が異なることは重々承知しているが、こういった考え方をいたいけな子どもたちに注入しようとすることの是々非々は、地域や時代に関わらず常に問われるべきことであろう。古今東西の古典的な名作と言うのは、時代を超えた普遍的なテーマに挑んでいるから、古典なのである。その意味では本作は傑作ではあれど古典ではない。

 

総評

1960年代は、伝説的なミュージカルが多く生み出された時代である。『 ウェストサイド物語 』、『 チキ・チキ・バン・バン 』、『 サウンド・オブ・ミュージック 』、『 マイ・フェア・レディ 』など。それらに優るとまでは言えないが、決して劣りはしない。エミリー・ブラントによる続編が上映されるまでにDVDや配信サービスで鑑賞しておくのは、悪い考えではないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アメリカ, ジュリー・アンドリュース, ディック・ヴァン・ダイク, ミュージカル, 監督:ロバート・スティーブンソン, 配給会社:ブエナビスタLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

Posted on 2019年1月18日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード 炎の宿敵 85点
2019年1月12日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン シルベスター・スタローン テッサ・トンプソン ドルフ・ラングレン フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ
監督:スティーブン・ケイプル・Jr.

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『 クリード チャンプを継ぐ男 』には、まだまだ追求すべきサブプロットがあった。アドニスのキャリアのその後はもちろん、ロッキーのホジキンリンパ腫、ビアンカのキャリアと聴力の問題、独りになってしまったメアリー・アンなどなど。それらを描きつつも、トレーラーが明かしたある名前に、ファンは騒然となった。運命の決着はいかに。

 

あらすじ

世界タイトルマッチの惜敗から、6連勝で世界ランクを駆け上がったアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はついに世界ヘビー級タイトルを獲得する。その勢いのままにビアンカ(テッサ・トンプソン)にプロポーズ。ビアンカもほどなく妊娠し、アドニスは幸せそのものだった。しかし、そこに父アポロの怨敵、イヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)の息子、ヴィクター(フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ)が現れ、アドニスに挑戦を表明する。勝負を受けるべきでないと判断するロッキー(シルベスター・スタローン)からアドニスは離反、ヴィクターとの対決に臨むも・・・

 

ポジティブ・サイド

毎度のことではあるが、ボクシング映画に出演してボクサー役を演じる役者には敬服するしかない。体作りやボクシング的なムーブの習得は生半可な努力では不可能だからだ。わけても本シリーズは、ボクシングのリアリティを特に強く追求する。それは実際にパンチを当てるからではない。ボクサーのメンタリティをよくよく表現しているからだ。そこに、家族を持たなかったアドニスが、家族を得て、そして自分が決して知ることがなかった父という存在に、自分が成ろうとするドラマが織り込まれる。そしてそれは、ロッキーにも当てはまることだ。偉大すぎる父を持つ息子は、反発してカナダに移り住んだ。息子がいながらも、息子に対して上手く接することができないロッキー。父がいないながらも、その父の影を追うアドニス。この父と子の関係に、ドラゴ親子のドラマが重層的に折り重なって来る本作は、ボクシング映画にしてヒューマンドラマでもある。その両者の融合にして極致でもある。『 エイリアン 』がSFとホラーの両ジャンルで頂点を極める作品であるように、本作もマルチ・ジャンルの作品として、一つの到達点に達していると称えたい。

 

冒頭でいきなりWBC世界ヘビー級タイトルマッチに挑むアドニスにクエスチョン・マークが浮かんだファンも多いだろう。前作ではライト・ヘビー級ではなかったか、と。しかし、HBOの実況に前作から引き続きマックス・ケラーマンとジム・ランプリーが登場、そして字幕や画面には出てこなかったが、コメンテーターとしてロイ・ジョーンズ・Jrを迎えていたことに思わずニヤリ。ライト・ヘビー級からヘビー級に“飛び級”して王座を獲得した実在のボクサーをリングサイドに置くことによって、アドニスの体重増と階級アップを説明しようというわけだ。ボクシングファンに向けたファンサービスであると同時に高度なアリバイ作りというわけで、再度ニヤリ。

 

それにしてもマイケル・B・ジョーダンの演技とボクシングは素晴らしいの一語に尽きる。メディアを前にしてのオープン・ワークアウトでは圧巻のミット打ちを披露するが、このわずか十数秒のために、何十時間、いや百数十時間は費やしてきたのではないか。それは本シリーズのみならず、すべてのボクシング映画出演者にも言えることだが、スタローンや『 サウスポー 』のジェイク・ジレンホールを超えたと評しても良いように思う。ボクサーの苦悩、それは打ちのめされての敗北にあるのではない。その姿を誰がどう見るのか。それが問題なのだ。苦労人・西岡利晃は世界王座防衛の旅に、娘をリングに上げていた。つまり、西岡は自らの雄姿を娘に見せたかったのだろう。では、アドニスは自分の雄姿を誰に見せたかったのか。そして誰に見せられなかったのか。前作のクライマックスで彼は父アポロの姿を想起することでダウンから立ちあがった。今作で彼が絶体絶命のピンチで想起するのは誰なのか。彼が体感した世界とは何だったのか。Jovianはそのシーンで鳥肌が立った。あまりにも的確で、なおかつそれがあまりにもドラマチックで、あまりにもシネマティックでもあったからだ。スティーブン・ケイプル・Jrという新人監督の力量は見事である。ほぼ新人だったライアン・クーグラーを見出したのと同様に、スタローンはこの偉才をどうやって見出したのか。その眼力の確かさには御見逸れしましたと言うしかない。

 

本作が単なるスポーツもの、ボクシングものに留まらないのは、アドニスとロッキーの関係以上に、イヴァン・ドラゴとヴィクター・ドラゴの親子関係に依るところが大きい。あまり細かく述べるとネタばれになるのだが、あの亀田親子を思い出せば分かりやすいのではないか。ボクシングによって挫折を味わった父(亀田父はそもそもプロになれなかったが)が、自らの息子にボクシングを叩き込む。そこに母親の姿は無い。しかし、その母親(ブリジット・ニールセン)が帰って来た。まるで『 レッド・ドラゴン 』で蘇った(という表現は正しくないが)チルトン博士と再会した時のような気持ちになれた。『 ビバリーヒルズ・コップ2 』以来だったか。スタローン・・・ではなく、ドルフ・ラングレンの妻役として華麗にリターンして、息子の心をかき乱す。ドラゴ親子のひたすらに内向きな関係性は亀田親子のそれとよく似ている。亀田史郎は対内藤大助戦で大毅に反則指示を行ったが、イヴァンはヴィクターにどんな指示を送ったか。そこを見て欲しい。そこにイヴァンと亀田史郎の共通点があり、その後の対応に彼らの決定的な相違が現れる。これ以外に納得のいく決着の方法は無かったであろう。

 

ネガティブ・サイド

意外なことにクライマックスを欠点に挙げたい。というのも、ここだけは誰が監督でもこうなるだろうと思える出来だったからだ。ケイプル監督が“Gonna Fly Now” を使ってのビジョンを描いていたのは間違いない。誰でもそうする。Jovianが監督したとしても間違いなくそうする。悔しいのは、それでも心動かされてしまったことだ。本作はアドニスが父を追い、父と重なり、そして文学的な意味での父殺しを果たす物語でもあるのだ。ロッキー映画の公式をぶち壊すぐらいのことをしてほしかった。それほど、陳腐にして完成度の高いクライマックスだった。おそらく、これ以上の物語は必要ない。続編を作るとすれば、それはスタローンの晩節を汚し、マイケル・B・ジョーダンのキャリアの汚点となるようなものになるだろう。

 

もう一つだけ弱点を挙げれば、ニューメキシコのロードワークのシーンが弱い。照りつける太陽、吹きすさぶ砂嵐、飢え、渇き、敗北のビジョン、そうしたものをモンタージュ的にもっと効果的に見せられなかっただろうか。『 ロッキー4 炎の友情 』の、雪原でのロッキーのトレーニングと対象的なところを見せたいという意図があったのだろうが、そこのところの描写に説得力が欠けていたように感じた。

 

総評

大小いろいろと欠点はあるものの、それは観る者が何を期待しているかによる。一つ言えるのは、これにてロッキー、そしてアドニスの物語は終わりであるということ。続編を作ってはならない。『 ロッキー5 最後のドラマ 』は毀誉褒貶の激しい作品だが、個人的には蛇足にして駄作だったと思っている。あれをリメイクする必要はどこにもない。折しもカナダの超人アドニス・ステヴェンソンがあわやリング禍というダメージを負った。アドニス・クリードにグローブを吊るせと言いたいわけではないが、これ以上のストーリーは悲劇にしかならない。ロッキー世界という一大ボクシング叙事詩の閉幕を、ぜひ大画面でその目に焼き付けるべし。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:スティーブン・ケイプル・Jr, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

Posted on 2019年1月12日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード チャンプを継ぐ男 80点
2019年1月6日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン マイケル・B・ジョーダン
監督:ライアン・クーグラー

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『 猟奇的な彼女 』と言えば、腰の入ったパンチ。パンチと言えばボクシング、ボクシングと言えば『 ロッキー 』。その魂はアポロ・クリードの息子、アドニス・ジョンソンに受け継がれた。クリードの最新作に備えて、前作を復習鑑賞した。

 

あらすじ

アポロ・クリードの息子、アドニスは我流でボクシング技術を磨いていた。メキシコのティファナで連戦連勝するも、アメリカの世界ランカーにはスパーで一蹴されてしまう。アドニスは父、アポロと激闘を繰り広げ、盟友となったロッキー・バルボアの指導を仰ぐべく、フィラデルフィアにやってきた。エイドリアンやポーリーが世を去る中、イタリアン・レストランを独り切り盛りするロッキーは、アドニスに“虎の目”を見出して・・・

 

ポジティブ・サイド

アドニスと拳を合わせる相手にSuper Sixの覇者アンドレ・ウォード、ミドル級のゲートケーパー的存在ガブリエル・ロサド、そして英国のやんちゃ坊主、トニー・ベリューと本物のプロボクサーを豪華に配置。これだけでもボクシングファンには嬉しいキャスティング。スタローン映画『 エクスペンダブルズ3 ワールドミッション 』に出演したヴィクター・オルティズは映画に出たことでキャリアが下降してしまったが、ウォード、ベリューらは既にキャリアの最終盤に入っていた。そうした意味でも安心できた。現役ボクサーが映画に出ても、あまり良いことは無いのだ。WOWOWでExcite Matchを熱心に観ている人なら、マイケル・バッファやHBOのマックス・ケラーマンやジム・ランプリーの存在が更なるリアリティを生んでいると感じられるだろう。そのHBOも2018年末でボクシング中継から撤退。何とも景気の悪い話である。

 

閑話休題。本作には Eye of the Tiger は流れないが、字幕が良い仕事をしてくれる。その瞬間は絶対に見逃しては、いや聞き逃してはいけない。

 

マイケル・B・ジョーダンは本作と『 ブラックパンサー 』のキルモンガー役で完全にトップスターの仲間入りを果たしたと評しても良いだろう。スタローンもボクシングのシルエットがきれいだったが、ジョーダンは元々の身体能力+ボクシングセンスで、スタローン以上のボクシング的な動きを披露する。

 

中盤の試合のワンテイクは圧倒的である。ズームインやズームアウトがされていたので、どこかで合成、編集されているのであろうが、はじめて東宝シネマズなんばで鑑賞した時は魂消たと記憶しているし、今回の復習鑑賞でもやはり驚かされた。

 

初代の『 ロッキー 』がそうであったように、本作も単なるボクシングドラマではない。アドニスというサラブレッドが、何者にもなれずにいることのフラストレーション、世間が自分を見る目と自分は自分でしかないという認識のギャップに、ロッキーが語った「自分はnobodyだった」という言葉が蘇ってくる。家族を失ったロッキーと、家族を手に入れようとするアドニスの、何とも切ない邂逅の物語なのだ。ロッキーがアドニスに自らの魂を渡す瞬間、“Gonna Fly Now”のファンファーレが響き渡る!!もう、この瞬間だけで100点を献上したくなる。

 

『 ロッキー 』シリーズはこれまでに何度も観てきたが、今後もふと疲れた時、目標を見失いかけた時、心が折れそうになった時に、何度でも立ち返るだろう。特に1、2と本作は何度でも見返すことだろう。

 

ネガティブ・サイド

中盤のアドニスの試合のワンショットだが、実時間では1ラウンド3分ではなかったし、ラウンド間のインターバルも1分ではなかった。そんなことに拘っても仕方がないが、映画ファンでもありボクシングファンでもあるJovian的には非常に気になるところではあった。体内時計世界王者対決というテレビ企画もあったように、ボクサーは3分を肌で分かっているものだ。映画はリアリティの追求が生命なのだから、試合の時間についてもリアルを追求して欲しかったと思うのは、高望みをし過ぎなのだろうか。

 

そして、これは完全に無理な注文だと分かってのことだが、オープニングのMGM(Metro Goldwyn Mayer)のレオを、本作に限って虎に変えるは流石に無理か。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』でも、オープニングの20th Century Foxのロゴのシーンの音をいじっていた。レオを虎には・・・やはり無理だろうか。これをもって減点すべきではないのだろう。

 

総評

ボクシングは最も歴史の古いスポーツの一つであると同時に、最も近代的なエンターテインメントでもある。アメリカのラジオ放送でニュース以外に初めて放送されたのは、ボクシングの世界タイトルマッチであった。そんなボクシングを題材にした物語が、面白くないわけがない。ましてや、この物語は『 ロッキー 』世界の出来事なのだ。ロッキーファンのみならず、広く映画ファンに勧められる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:ライアン・クーグラー, 配給会社:ワーナー・ブラザーズ映画Leave a Comment on 『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

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