SEOBOK ソボク 70点
2021年7月18日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:コン・ユ パク・ボゴム
監督:イ・ヨンジュ
シネマート心斎橋以外で韓国映画を観るのは久しぶりな気がする。きっと『 The Witch 魔女 』とは趣が異なるサイキックアクション映画だった。
あらすじ
元国家情報局エージェントのギホン(コン・ユ)は、人造クローンのソボク(パク・ボゴム)の護衛の任に就くが、ソボクは不死の秘密を解明する鍵だとして、何者かの勢力から襲撃を受けた二人は逃走を図る。ギホンとソボクは衝突しながらも、互いへの理解を深めていくが・・・
ポジティブ・サイド
『 トガニ 幼き瞳の告発 』の気弱でありながら芯の通った父親、『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』の嫌味な父親、『 82年生まれ、キム・ジヨン 』の無自覚な夫など、作品ごとにガラリと変わるコン・ユの表現力、演技力が今作でも遺憾なく発揮されている。どこか陰影を秘めた俳優で、それが感情を素直に、爆発的に吐露させる際に鮮やかなコントラストを成す。そうしたシーンに敢えてBGMを用いない、あるいは極めて抑制的に使うのが韓流の特徴で、ここは日本の映画人も見習うべきところだろう。
コントラストという意味では、逃亡劇のバディとなるソボクを演じたパク・ボゴムが対極に来る。与えられた命令の意味を考えず、ただそれに従おうとするだけのギホンと、自分の生まれた意味、存在する意味を常に問いかけてくるソボクという図式は、これがSFアクション映画でありながら、ヒューマンドラマでもあるのだということを素朴に、しかし確実に強調している。何をどう問いかけても、しかし、人間、腹は減る。腹が減ったら食うしかない。禅問答も一興だが、腹が減っては戦はできぬ。こうした「食べる」演技と演出も韓流の真骨頂である。現実離れした設定が極めて現実的に見えてくる。
アクションにも抜かりはない。『 新 感染半島 ファイナル・ステージ 』あたりからCGのレベルも如実に上がってきた韓国映画だが、本作の終盤でソボクが荒ぶる超能力で殺戮と破壊をもたらすシーンはなかなかの説得力。漫画『 AKIRA 』にインスピレーションを得ていると思しきシーンもあり、また銃火器を使うシーンでも徴兵制の国であるというリアリティを感じさせた。暴力から目を背けない、暴力を描き切るという姿勢に関しては韓国はぶれない。
ソボクという名前が、秦の始皇帝が不死の霊薬を手に入れるために派遣した徐福であるというのは面白いと感じた。同時に、中国や日本へのサラリとしたアピールにもなっていて、韓国エンタメ界は、自国ではなく世界をマーケットにしていることも見て取れた。『 ゴジラvs.コング 』の小栗旬の扱いの酷さにはがっかりしたが、ハリウッドで活躍する大谷級の俳優の出現を待ちたい。韓国やインドに抜かれる前に・・・
ネガティブ・サイド
クローン人間なのか、それとも超能力人間なのか、不死の存在なのか。ソボクといういくらでも深めていけるキャラの属性がイマイチはっきりしなかった。クローン人間というのは技術的には難しくないとかつての教え子(阪大の学生)に教わったことがある。障壁になるのは法律や倫理。ゲノム編集やデザイナー・ベイビーが現実味を帯びつつある中、クローンという設定はやや拍子抜けである。
ソボクのテレキネシスが序盤と終盤にしか発揮されないが、中盤の市井のシーンでも見てみたかった。社会性の欠落したソボクが、色々とやらかして、それを兄貴分たるギホンが色々と諭していく。その過程でギホンは自らの主体性の無さに気が付く・・・というのはあからさま過ぎるだろうか。
科学的な意味でのソボクの生みの親である女性研究者の姉的、母性的な面をもっと強調していれば、ギホンの兄的、父性的な面とのコントラストが際立って、ソボクという極めて抑制的なキャラクターに逆説的に人間味を与えることができたと思う。この博士の思考や行動の軸がやや定まっていなかったように見えたのは残念。
総評
荒唐無稽なプロットながら、役者の演技力とそれをさらに強調する演出によって、見応えのあるストーリーに仕上がっている。大企業、官僚機構、そして超大国のアメリカを軸に壮大なスケールで描こうとしたことが成功しているのかどうかは怪しい。しかし、気宇壮大な物語を中で個人がいかに生きるべきかを模索しようするという点で、映像化できそうな漫画や小説ばかりを映画化する邦画界は大きく差をつけられている。久々に韓国を映画を観て、あらためてそう感じた。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
invalidate
無効にする、の意。手元にクレジットカードがあれば有効期限のところに、good through または valid through の表示があると思われる。この valid に接頭辞 in と接尾辞 ate をくっつけて出来上がった語、割と難しめに見える語も、身近なところでその語源(形態素)が使われていたりするものである。