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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 音楽

『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

Posted on 2020年7月5日2021年1月21日 by cool-jupiter

カセットテープ・ダイアリーズ 70点
2020年7月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ビベイク・カルラ ネル・ウィリアムズ ヘイリー・アトウェル
監督:グリンダ・チャーダ

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“Born to Run”と“Born to be Wild”なら、おそらく後者の方が有名で、なおかつ多くの人の耳にも馴染みがあると思われる。しかし、ブルース・スプリングスティーンの“Born to Run”には、何か人間の心の根源に訴えかけてくるような不思議な力が宿っている。スプリングスティーンをほんの少ししか知らなかったJovianでもそれは感じることができた。

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あらすじ

1987年のイングランド。パキスタン系移民のジャベド(ビベイク・カルラ)は不景気と人種差別のはびこる田舎町ルートン、そして保守的な家族からの脱出を夢見ていた。ある時、カレッジで知り合ったループスからブルース・スプリングスティーンのカセットを渡される。その音楽を聴いたジャベドは、世界観を一変させられるような影響を受けて・・・

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ポジティブ・サイド

ボブ・ディランがノーベル文学賞を贈られるのだから、ブルース・スプリングスティーンが再評価を受けても良い。まさに世に出るべきタイミングで出てきた作品であるというのが第一印象。『 イエスタデイ 』がビートルズを再評価し、日本でも『 君が君で君だ 』という怪作で尾崎豊が(妙な意味で)再解釈された。スプリングスティーンを知らなくても、彼の音楽そして歌詞が一部の人間の心に突き刺さるというのは理解しやすい。日本でも1970年代生まれなら、尾崎豊や甲本ヒロトの歌の世界観に魂を持っていかれた人はかなりいるはずだ。今の若い世代なら誰だろう?あいみょんなどだろうか。そうした自分にとっての偶像を重ね合わせて見れば、本作の持つパワーは十分に理解可能である。

 

政治的なメッセージが込められている点も邦画はもっと見習うべきだ。マーガレット・サッチャーの死去から7年。死亡直後は「鉄の女」として、何はともあれ改革の旗手として数々の経済政策を断行した点が評価された。しかし、冷静に分析してみれば、サッチャーの遺産が現在の英国の経済成長の足かせになったことは否めない。また、その政策が社会的に弱い層への負担増につながったことも事実である。そうした時代を批判的に見つめる視点が盛り込まれている。本作には、Black Lives Matter運動をリアルタイムに目撃している我々からすると非常に興味深いデモの風景が収められている。もちろん原作の執筆中、あるいは映画の撮影中にそうした運動の勃興など予想出来ようはずもない。しかし、『 ジョーカー 』が示したように、弱者から奪うことは極めてリスキーな行為である。本作は、人間の強弱の源を経済的な富裕さにではなく人間関係の充実に求めた。これはこれで正解かどうかは分からないが、一つの解答だろう。家族や友人、恋人との関係が良好であれば、それだけで人生は何とかなるものだ。

 

恋人。そう、ジャベドにはおらず、しかし、親友のマットには恋人がいる。そのことを開始早々に見せつけられ、イングランド人だとかパキスタン系移民だとかいうことではなく、一匹の雄として負けている。そのように見る側は思わされる。だからこそ、ジャベドがイライザと距離を縮め、デートにこぎつけ、門限も破り、そして晴れて童貞を卒業する流れに素直に祝福の気持ちを抱くことができる。ジャベドとイライザ、そしてループスがスプリングスティーンの“Born to Run”に乗って町を駆け巡るシーンは、本作のハイライトの一つである。

 

本作の特徴として、保守的な家族の中での子どもたちだけではなく、夫婦の在り方に踏み込む描写があることだ。一見すると独裁者にしか見えないジャベドの父にも、ハンサムで優しく愛妻家な頃があったのだ。そして、一見して被征服者である妻が暴君の夫と渡り合う。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリーの一家にも、このような家族だけの秘話があったのではないか。そのように思わされた。

 

本作は、そのフレディ・マーキュリーと同じく、アイデンティティを鋭く問う作品でもある。その中でも上手いなと思わされたのは、昼興行(デイタイマー)のシーン。パキスタンの伝統的な音楽とブルース・スプリングスティーンの間を揺れ動くジャベドの姿に、思いがけない好感を抱いた。アイデンティティに悩む者は、アイデンティティを人よりも多く持っているから悩むのである。つまりはジレンマだ。だが、自分が複数のルーツを持つことをそのまま受け入れることができれば、それで良いのではないだろうか。大坂なおみが日本の(アホな)メディアに「あなたはアメリカ人ですか、日本人ですか?」と問われて、「私は私」と答えたのと同じである。家族との約束事を破ることが、家族との和解の素地になるという演出には感じ入った。『 ルース・エドガー 』でスッキリしない気分にさせられたという向きは、本作で口直しが可能である。

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ネガティブ・サイド 

1980年代の町の不景気具合とその悲哀は、ほぼ同時体の設定の『 リトル・ダンサー 』の描写の方が上手であると感じた。また、なけなしのカネを息子の教育につぎ込むことの意味、その背景が本作は軽い。「ユダヤ人の真似をしろ」というのがレイシズムかどうかはさておき、パキスタン系移民ならば医師か弁護士、公認会計士を目指せというのは間違いなくステレオタイプである。また勉強に打ち込まなかったらタクシー・ドライバーで一生を終えるぞという脅し文句は映画『 タクシードライバー 』を遠回しにディスっているように聞こえた。

 

ジャベドの周囲の人間関係の描写の濃淡にメリハリがなかった。近所の親友マットとの距離と、カレッジで知り合うループスとの距離、それらをジャベドが詩に書きつけるような描写や、または友情についてのくさい歌詞の一つや二つでいいから描き出されていればと思う。それらがあれば、“父と息子”の詩の威力がもっと増したと思われる。

 

個人的に気になったのは、カレッジの学長らしき先生が「ブルース・スプリングスティーンは良いが、現在流行中のこの歌手はrubbish=ゴミだというのは皆が知っている」というセリフ。またマットの父親(典型的な60~70年代の髪型!)の「ビリー・ジョエル?アホか、お前は。これだから子育ては難しい」というセリフも地味に子の心を抉る。世俗の流行や個人の嗜好に対してそこまで言うか?一歩間違うと立派な差別になると思ったが・・・

 

総評

“Thunder Road”と“Born to Run”を親父が昔持っていたオールディーズのCDで聞いたことがあるレベルのJovianでも、本作は十分に堪能することができた。また70年代の洋楽にはさっぱり疎いJovian嫁も本作を堪能できた。なので、ブルース・スプリングスティーンのことを特に知らなくても、本作は楽しめるはずである。『 イエスタデイ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』など、英国初の音楽をフィーチャーした映画は外さない。劇場の大スクリーンと音響で味わうべき一作。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

history

言わずと知れた「歴史」の意味だが、文脈によっては「過去のもの」、「もう終わってしまったもの」という意味でも使われる。

 

Forget Nicolas Cage, he’s history.   ニコラス・ケイジはもう忘れろ、奴はもう終わった。

She and I are history.   僕と彼女はもう終わってるんだ。

Is Gamera going to be history?   ガメラはこのまま終わってしまうのか?

 

色々と応用してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ネル・ウィリアムズ, ビベイク・カルラ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・アトウェル, 伝記, 監督:グリンダ・チャーダ, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

Posted on 2020年6月29日2021年1月21日 by cool-jupiter

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

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『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

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ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。

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ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

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総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don’t wear that, don’t step out of place

Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin’ you’re having a good time

‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ジュリー・ウォルターズ, ソフィー・オコネドー, ヒューマンドラマ, 監督:トム・ハーパー, 配給会社:ショウゲート, 音楽Leave a Comment on 『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

Posted on 2020年1月14日 by cool-jupiter

ティーンスピリット 20点
2020年1月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エル・ファニング
監督:マックス・ミンゲラ

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Jovianはエル・ファニングのファンである。しかし、それでも言わなければならない。これは駄作である。完全なる失敗作である。2020年は始まったばかりだが、海外クソ映画オブ・ザ・イヤー候補の最右翼であると言える。

 

あらすじ

ヴァイオレット(エル・ファニング)は英国に暮らす、歌手を夢見るポーランド系移民。ある時、“ティーンスピリット”の予選が地元で開催されることを知ったヴァイオレットは、オーディションに申し込みを行う・・・

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ポジティブ・サイド

オープニング直後にエル・ファニングが歌う“I was a fool”という歌は雰囲気があった。ストーリーの向かうところを暗示するEstablishing ShotならぬEstablishing Songだった。

 

またクライマックスの“Good Time”からのファニングの独唱そして熱唱は、『 ソラニン 』よりも上、『 リンダ リンダ リンダ 』に並ぶカタルシスをもたらしてくれた。

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ネガティブ・サイド 

Jovianが古い人間なのだろうか。今世紀の歌手の歌の数々にあまり魅了されなかった。『 アリー / スター誕生 』でも同じことを感じたが、音楽映画であるにもかかわらず、無条件に入っていける、ノセテくれる楽曲があまりにも少ないのは致命的である。そういう意味では『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は秀逸だった。

 

また、このタイトルからは何をどうやってもNirvanaの“Smells Like Teen Spirit”を想起せずにはいられない。しかし、映画全体を通じてカート・コバーンのような「叛逆」や「打破」といった荒ぶるパワーは感じられなかった。もっと言えば、アイデンティティに悩む10代特有のドラマがない。敬虔なカトリックであるヴァイオレットの母親とヴァイオレット自身の距離感の描写が不足しているし、学校で特別に影が薄い存在として描かれているわけでもない。家庭や学校でヴァイオレットが疎外を感じる描写や演出があまりなく、ヴァイオレットが馬の世話と音楽に逃避することへの説得力が生まれていない。その馬が買われていく時にも、取り乱しはするものの、鬱になるでもなく、さりとて音楽の力で立ち直るでもない。オープニングで、ブルーアワーの牧草地で馬を世話しながらiPodの音楽に耽溺する様はいったい何だったのだろうか。

 

ヴラドというキャラクターの構築も中途半端だ。呼吸法のレクチャーには、亀の甲より年の功といった趣が感じられたが、それだけ。元プロのオペラ歌手として、精神論以外のアドバイスを送ることはできなかったのか。大手レーベルとの駆け引きでも、クロアチアで培った経験や業界の裏事情通であるところなどを披露し、ナイーブでいたいけなヴァイオレットを金の亡者の大人たちから守るのかと期待させて、それもなし。唯一褒められるのは、甘やかされてダメになりそうなクソガキをぶっ飛ばしたところだけ。

 

ヴァイオレットの成功があまりにトントン拍子で、彼女自身が抱えていた問題の描写も弱いことから、サクセス・ストーリーがサクセス・ストーリーに見えない。同じく音楽にフォーカスしていた『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は、成功を掴めば掴むほどに、自身の抱える心の闇がより深まっていくことがはっきりと描写されていた。だからこそ、最後のステージでカタルシスが爆発した。ヴァイオレットは違う。元々抱えていたアイデンティティの問題や学校や家庭での疎外もいつの間にやら解消、というかそんなものは最初からなかったかのようである。

 

これにより、ヴァイオレットが自らの人生に欠いているpositive male figureとしてヴラドを受け入れるようになる、というプロットが空回りしている。ネックレスの件も同じである。実の父親を心のどこかで求めていながら、しかし、父親代わりの人物を実の父以上に慕うようになるという下地が描かれていない。ヴラドが母親に花束を贈っただけでは説得力など生まれない。それともお互いにポーランドとクロアチアからの移民で、同病相哀れむということなのだろうか。母子家庭であるヴァイオレットの家族と、ヴラドと自身の娘の関係の描写がとにかく薄くて浅くて弱い。この出来で、ヒューマンドラマで盛り上げれと言われても無理である。

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総評

エル・ファニングの熱烈ファン以外にはお勧めできない。というよりも、エル・ファニングの熱烈ファンにすらお勧めしづらい。単に彼女の体の線が露わになるタンクトップで髪を振り乱して踊り狂うところを見たいというファンぐらいしか堪能できない作品である。脚本および監督のマックス・ミンゲラの力量不足は明らかである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get that a lot.

「よくそう言われる」の意味である。ヴラドに年齢を尋ねられ、ヴァイオレットは21歳だとサバを読む。そこでヴラドに「もっと若く見えるぞ」と言われ、“I get that a lot.”と返した。このthatは、

“Let’s go for a drink after work.”

“That sounds awesome.”

のように、一つ前の事柄全般を受ける代名詞のthatである。それをしょっちゅうgetする=「よくそう言われる」となる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, エル・ファニング, 監督:マックス・ミンゲラ, 配給会社:KADOKAWA, 音楽Leave a Comment on 『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

Posted on 2019年8月22日2020年4月11日 by cool-jupiter

シークレット・スーパースター 80点
2019年8月19日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ザイラー・ワシーム メヘル・ビジュ アーミル・カーン
監督:アドベイト・チャンダン

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アーミル・カーンが出演だけではなく製作も手掛けた作品。何故にこのような作品が100館規模で上映されないのか。日本の配給会社に勤める方々に真剣に考えて頂きたいものだ。最近のインド映画は意図的に歌と踊りを減らしつつあるが、そのことが彼の国の映画のエンターテインメント性やメッセージ性を些かも減じていない。ということは、それだけ映画製作に関して確固たるポリシーとノウハウを有しているのだろう。極東の島国の住民としては羨ましい限りである。

 

あらすじ

インドの片田舎に住むインシア(ザイラー・ワシーム)は、いつかインド最大の音楽賞であるグラマー賞の獲得を夢見る少女。だが頑迷固陋な父親は彼女の夢を決して肯定しない。ある日、インシアはブルカを纏って顔や体を隠して、“シークレット・スーパースター”というハンドルネームで自分の歌をYouTubeに投稿した。動画は爆発的にヒットし、インシアはお騒がせ作曲家のシャクティ・クマール(アーミル・カーン)の目にも留まり・・・

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ポジティブ・サイド

頑固な娘とそれを見守る母親という構図は『 レディ・バード 』そっくりである。しかし、そこに厳格すぎる父、というよりも田舎(という閉鎖社会)の悪しき因習、価値観、行動原理などをすべて体現してしまったような父親が加わるだけで、サスペンスとヒューマンドラマの要素が倍増した。なぜなら、インシアやその母ナズマは父親そして夫という一人の人間に闘争を挑むのではなく、その先にあるインドという国が抱える男尊女卑的な思想や体制に挑戦しているからだ。暴君然として振る舞う父親に我々は嫌悪感を抱く。そして、誰かこの男を思いっきり懲らしめてやってくれと願ってしまう。だが、物語は安易にそれをしない。凡百の脚本ならば、アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールをこの父親と対峙させて、娘の才能を自分に託すように言わせてしまうかもしれない。もしくは、エクストリームにアホな展開にしてしまうなら、シャクティに「俺はちょうど離婚が成立した。だから、お前の嫁は、娘ごと俺が頂く」と言わせてしまうことも考えられる。しかし、それでは意味が無い。本作は、この母と娘の自立への旅路をある意味では非常にコメディックに、また別の意味では非常にポリティカルに描き出す。以下、ネタばれ。

 

シャクティの嫁さん側の弁護士に頼ろうという発想が面白い。笑えてしまう。だが、インシアのこの発想は、単純にfunnyなだけではない。彼女が目指すのは、因習の打破。だが、それは非常に強固に人々の内側に根を張っている。それを壊す、あるいは超えるために民主主義的に成立したルール、法律に則るというのは現実的かつ現代的である。象徴的なのは空港のシーン。当たり前のことだが、暴君である父親も、飛行機に積み込める荷物の重さや数の制限には従うのである。法律やルールを最大限に利用して、母と子どもたちが自由の身になるシークエンスのカタルシスは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

それにしても、主演のザイラー・ワシームは『 ダンガル きっと、つよくなる 』の姉妹の姉のギータだったのか。確かにどこかで見た気がしたわけだ。立派に成長しつつあるが、見る角度によってはJovian一押しのヘイリー・スタインフェルドにちょっと似ている。奇しくもヘイリーもザイラーもギター少女。What an amazing coincidence! ヘイリーのファンは『 はじまりのうた 』を観るべし!そして母親役は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも、ムンニーの母親を演じていた。娘のためにあらゆる手を尽くそうとする姿勢には純粋に心を打たれるばかりだ。

 

Back on track. ザイラー演じるインシアは感情の起伏が激しく、中盤まではやや感情移入しにくいキャラクターだった。だが、それも終盤手前で明かされるある出来事の真相によって、彼女が受けるショックの大きさを逆説的に表すための布石なのである。なぜ『 旅猫リポート 』は、こうした劇的な演出ができなかったのか。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも顕著だったが、女性に生まれる、そして女性を産むということがインド社会ではこれほどの重しになるのかと驚嘆させられ、また慨嘆させられる。そうした社会の悪弊を打ち破ろうとするインシアの物語のクライマックスは、まるで昨年(2018)のアカデミー賞を受賞したフランシス・マクドーマントのようであった。何というカタルシスであることか。

 

本作は単なる女性救済の物語ではない。男性のあるべき姿についても大いなる示唆を与えている。かといって、典型的な、紋切り型のヒーロー像ではなく、極めてユニークな男性像である。それぞれインシアの同級生、インシアの弟、そしてアーミル・カーン演じる音楽家である。健気さを読み取る人もいるだろうし、優しさを読み取る人もいるだろう。あるいは気高さを見出す人もいるかもしれない。男として彼らの姿に何かを感じ取らない者は、よほどの完璧超人か、あるいは鈍感を極めたダメ男かのいずれかであると断言させていただく。そうそう、インシアと同級生のチンタンはパスワードについてとあるやり取りを行うが、類似のあるいは模倣のシークエンスが、今後日本の少女漫画の映画化作品でちらほら見られると予想しておく。このシーンではJovianの脳裏では『 ロマンティックが止まらない 』と『 ロマンティックあげるよ 』の両方が流れた。我ながらオッサンだなと実感してしまう。

 

ネガティブ・サイド

インシアがYouTubeに投稿する動画は、もう数本あってもよかったのではないか。最後の最後にアーミル・カーンが歌と踊りで大いにエンターテインしてくれるとはいえ、本作は思ったよりも歌の成分が少なめである。もう少し、このギータ・・・、ではなくギター少女の音楽活動を鑑賞したかった。

 

また、アーミル・カーンが本格的に物語に絡んでくるのに、かなりの時間を要する。この不世出のスーパースターの登場を映画ファンは楽しみにしているのだから。出し惜しみはよろしくない。インターバルのタイミングと併せて、ストーリー進行のペーシングをもう少し速めても良かったのではないか。

 

総評

シネ・リーブル梅田はお盆期間中から連日の満員御礼である。エンドクレジット終了後には「いよっ!」という掛け声、口笛、拍手がごくわずかだが発生した。これは『 カメラを止めるな! 』以来である。娯楽性とメッセージの両方をハイレベルで追求した傑作である。上映してくれる箱の数は少ないが、是非とも多くの方に鑑賞頂きたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Keep it up.

アーミル・カーンが序盤で言うセリフである。意味としてはKeep up the good work. とほぼ同じと考えていい。今後もグッジョブを続けて欲しい相手に言おう。

 

Can I have a window seat?

これはインシアが空港で言う台詞。Can I have ~? で飲食物の注文から、相手の名前や住所、電話番号、メールアドレスなどの contact information まで、何でもリクエストが可能である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, メヘル・ビジュ, 監督:アドベイト・チャンダン, 配給会社:カラーバード, 配給会社:フィルムランド, 音楽Leave a Comment on 『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

Posted on 2019年6月16日2020年4月11日 by cool-jupiter

さよならくちびる 75点
東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:小松菜奈 門脇麦久 成田凌
監督:塩田明彦

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Jovianはアメリカ人ではヘイリー・スタインフェルドとアニャ・テイラー=ジョイ推しであるが、日本人では小松菜奈推しである(『 渇き 』と『 溺れるナイフ 』はWOWOW放送場を録画したままで未視聴なのだが・・・)。そして門脇麦にも高い評価を与えている。その二人が出演する作品が、どういうわけか flying under my radar. 大慌てで出勤前に劇場鑑賞してきた。

 

あらすじ

ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)は、シマ(成田凌)という元ミュージシャンかつ元ホストをローディーにして、「ハルレオ」というインディーバンドを組んでいた。しかし、ユニット内のメンバーの思いは微妙にすれ違い続け、そして解散前のツアーが始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ここは退屈迎えに来て 』で、やや調子っぱずれに歌っていた門脇麦。『 坂の上のアポロン 』で、結局歌わずじまいだった小松菜奈。この二人が予想以上の歌唱力を披露してくれた。成田凌も含めて、ギターを弾く演技もなかなか堂に入っていた。ギターを弾く姿というのは、手元よりも全身、立ち姿や座った時の姿勢で決まるような気がする。ピアノを弾く姿も、手元よりも全身の方がしっかり、はっきり表現されているように思う。『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリ然り、『 ラ・ラ・ランド 』のライアン・ゴズリング然り。

 

閑話休題。本作はバンドメンバーを巡る物語であるが、音楽以外の面も良い。ハルとレオとシマの報われない三角関係が、説明的な台詞もほとんどなく描かれる。ビジュアル・ストーリーテリングの面で秀逸なのである。レオが料理をしないこと、そのレオがハルの料理に胸を打たれる一連のシークエンスに、我々は否応なくレオのこれまでの境遇に思いを馳せずにいられなくなる。冒頭のシーンからレオは観る者に「なんなのだ、この尻軽は」と感じさせるばかりなのだが、それはきっと求められることが無かったが故の反動なのだ。単なる美少女キャラから複雑な事情や内面を抱えたキャラを演じられるようになった小松菜奈の今後がますます楽しみである。決してベッドシーンを期待しているわけではない。これまで見せてくれなかった歌唱シーンを見せてくれたのだから、今後も作品ごとに新たな地平を切り開いてほしいということである。

 

ハルを演じた門脇麦にも称賛を。100人に9人はLGBTがいるということで、もはや彼ら彼女らは珍しい存在ではない。しかし、ただ単に存在するということと、その存在が他者に認知されること、そして受け入れられるということは別物である。シマとレオの必要最低限の会話だけから、ハルの過去から現在に至る苦悩と懊悩の全てが見えてくる。ハルとレオの interaction の一部には重要な示唆が含まれている。それはLGBTもパートナーを選ぶということである。当たり前だが、ノーマルな男が全ての女性を恋愛の対象(≠欲望の対象)にするわけではないし、ノーマルな女性が全ての男性を恋愛対象にするわけでもない。それと同じことである。本作はハルとレオという対照的な人物の繋がり方を映し出すことで、我々がいかに人間関係を恋愛感情や肉体関係でもって規定したがっているのかを逆説的に炙り出す。ハルとレオは我々が期待するような関係で結びついているわけではない。にも関わらず我々は彼女らのユニットの存続を心から願ってしまう。この脚本、そして演出は見事である。唸らされる。

 

シマを演じた成田凌は、私的2019年国内最優秀俳優の認定は間違いのないところ。元ミュージシャンにして元ホストという雰囲気を確かに漂わせていた。それは、煙草を取り出した女性に即座にライターを差し出すところではなく、レオの恋慕を頑なに無視し、安易な肉体関係を結ぼうとしないところだ。また、ライブでもギターやタンバリンを演奏するところで、スポットライトを浴びようとしない佇まいも良い。そして演奏シーンで手元が移るのは、実はほとんど全部シマだったりと、音楽映画の音楽映画らしいところ、役者ではなく本当のミュージシャンですよ、と思わせたい部分の演出をほとんど一手に引き受けているところも渋い。一番スポットライトから遠い男が多分一番楽器の練習を積んできたのだろう。ハルレオのユニットメンバーの中で、おそらく最も劇的な変化を見せるのはシマであると思う。それはJovianが男性であることと無関係ではないだろうが、彼の人生において非常に重要なピースが入れ替わる瞬間の目の演技が素晴らしい。そして声も。言っていることと、心の中で思っていることが見事に一致していない。クズな男ばかりを演じてきた成田であるが、本作は期せずしてクズ男のビルドゥングスロマンとしても成立しているのである。かなりご都合主義的な展開もあるが、この着地の仕方にも唸らされた。

 

演出面では、各キャラの歩調に注目してみて欲しい。普通、誰かと一緒に歩いていると、歩調というのは合ってくるものだ。誰しも経験があるだろう。しかし、本作のハル、レオ、シマは見事に歩調が合わない

 

本作の肝は「さよならくちびる」というタイトルにもなっている楽曲である。そしてそのくちびるが誰のものなのかを、本作はオープニングのタイトルシーンで示唆する。くちびるというのは不思議なもので、くっつかないと出せない音声、離れていないと出せない音声がある。本作を見終わったら、ぜひ「さよならくちびる」の歌詞を意味を考察してみて欲しい。そこには豊穣な意味の世界が広がっていることを約束する。

 

ネガティブ・サイド

歌詞を画面にスーパーインポーズする演出は個人的には好ましくなかった。ハルが作詞に使っているノートをアップにするか、もしくはスーパーインポーズするにしても字体をハルの筆跡に近いものにしてほしかった。そうすればもっと彼女たちの音楽や歌詞の世界に入っていきやすくなったのにと思う。

 

またレオの痣が化粧であまりにも呆気なく消え過ぎである。いや、ステージ上でそれを消すぐらいは容易いのかもしれないが、車の中やレストランでまで綺麗に消えているというのは・・・ 途中でハルレオの追っかけファンである女子中学生ぐらいのペアが登場するが、その片方の子の歌唱力たるや・・・ ハルレオより普通に上手いのである。LGBTとしての生きづらさを抱えている自分が、ハルレオの楽曲によって救われたという実感を歌の形で吐露する非常に象徴的なシーンであるが、もうちょっと歌を普通に歌うようにディレクションできなかったのだろうか。

 

後は重箱の隅をつつくようで申しわけないが、シマの運転シーンである。背景が合成なのは構わない。ただ、それなりのカーブをゆるーく曲がっていくのに、ハンドルを全く動かさないというのはどうなのだろうか。直進の道路でやたらとハンドルをちょこまか動かすのも目に付くが、曲がるべきところではそれなりにハンドルを切ろうではないか。

 

総評

『 ボヘミアン・ラプソディ 』的なテーマと構成である。もちろん、映画の構想から実際の製作に要する時間を考えれば剽窃とは考えられない。むしろ、原案/脚本も務めた塩田監督の先見性、時代を読む慧眼に敬服すべきなのだろう。素晴らしい作品が世に送り出された。これは劇場鑑賞必須である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 成田凌, 日本, 監督:塩田明彦, 配給会社:ギャガ, 門脇麦, 音楽Leave a Comment on 『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

『 小さな恋のうた 』 -プロモ映画としても何か足りない-

Posted on 2019年6月9日2020年11月11日 by cool-jupiter

小さな恋のうた 40点
2019年6月8日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:佐野勇斗 森永悠希 山田杏奈 
監督:橋本光二郎

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MONGL800の歌には不思議なインパクトがあった。事実、『 小さな恋のうた 』は平成を通じて男性がカラオケで歌った曲としては一位という集計データもあるらしい。そしてJovian機体の橋本光二郎監督がメガホンを取ってこの名曲の誕生秘話をドラマ仕立てにしたというのだから、期待も高まる。Alas, I did it again. Don’t ever get your hopes up.

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あらすじ 

沖縄の高校生、リョウタ(佐野勇斗)とシンジ、コウタロウ(森永悠希)はバンドを組んで、真摯に音楽に打ち込んでいた。しかし、シンジとリョウタが交通事故に巻き込まれてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

山田杏奈は頑張っていた。山田は『 わたしに××しなさい! 』の頃より少しふっくらしたように感じたが、存在感も増していた。良いことである。前半はほとんど台詞もないが、それが爆発する終盤手前のシーンは見事の一語に尽きる。

 

森永悠希にも感銘を受けた。『 カノジョは嘘を愛しすぎてる 』ではドラムを叩き、『 羊と鋼の森 』ではピアノを弾きこなし、本作でもドラマーを演じ切った。楽器を弾ける役者は希少価値がある。もちろん、音は後からプロが入れ直しているだろうが、主要キャストの中では森永の演奏シーンが最も迫真性が感じられた。

 

世良公則のキャラクターも良かった。不可解な言動を取る大人が数名存在するこの世界で、子どものまま素直に大きくなったような大人の存在は一種の清涼剤であった。

 

ネガティブ・サイド

 

以下、マイルドなネタばれ記述あり

 

沖縄を舞台にするのはよい。それがモンパチの出身地なのだから。しかし、そこで描写すべき沖縄成分が圧倒的に不足していた。米軍基地の軍人相手に商売するバーは構わない。しかし、沖縄の空と海、沖縄らしい料理、方言をもう少し、時間にして2分で良いから描写して欲しかった。このあたりは『 洗骨 』から学ぶべきだろう。

 

不可解なのは、バンドのメンバーたちが東京の方角に向かって叫ぶシーン。しかし、そこには夕陽が。沖縄のどこの地点でも、いつの時点でも、夕陽の方角に東京は無い。何故こんな初歩的なミスを犯すのか。まさか朝日なのかとも思ったが、放課後のシーンなので夕陽で間違いない。滅茶苦茶もいいところだ。

 

全体的には物語のトーンとテーマに統一感が感じられない。楽曲の素晴らしさを売りにしたいのか。それとも友情の強さ、美しさを前面に押し出したいのか。それとも国境を超えた少年少女の心温まる交流劇を見て欲しいのか。監督の意図が分かり辛い。楽曲の素晴らしさを売りにしているわけではなさそうだ。何故なら、もしそうであるなら学園祭の屋上ライブをあのタイミングでストップしてしまうのは理にかなっていないからだ。全曲披露して、その上で教師にしこたま説教を食らえば良い。男同士、バンドメンバーの結束や友情、絆がメインテーマというわけでもなさそうだ。もしそこに焦点を当てるなら、ヴォーカルがドラマーに向かって「お前はただ叩いているだけでいいよな」などと言えるわけがないからだ。Jovianがドラマーなら相手を20発はぶん殴るだろうし、Jovianがヴォーカルでポロっとこんなことを口走ってしまったなら、20分は土下座する。そういう描写こそが必要なのだ。佐野の演じるリョウタが、この瞬間から甘ったれたガキンチョにしか見えなくなってしまった。米軍基地内に暮らすリサとの交流がメインというわけでもないようだ。沖縄の現実と米軍基地の問題を切り離すことはできない。デモ隊と基地の対立、デモ隊と主人公らの関係が特に強く描かれるわけでもなく、そこにさらに親子の葛藤という対立軸まで放り込まれても、こちらはとても消化しきれない。

 

他にも、序盤のシーンではシンジに影がなく、終盤のシーンではシンジに影があるという具合に、演出面でも統一を欠いた。影云々は、製作者側の意図的なものかもしれないが、ただでさえ色々な面でとっちらかってしまっている作品に、これ以上を混乱をもたらすような演出は不要である。

 

総評

高校生がバンドを組んで学園祭でパフォーマンスをするという映画なら『 リンダ リンダ リンダ 』の方が一枚も二枚も上手である。だが、Jovianが嫁さんと鑑賞した劇場内では、かなりの人数の女子が泣いていた。「もう2時間ずっと泣きっぱなしやったわ」という声も聞かれた。当たり前田は広島カープであるが、一レビュワーが低く評価しているからといって、作品の質が低いというわけではない。作品とそれを鑑賞するものの間には、波長のようなものがあり、それが合うと評価が高くなりやすいのだ。モンパチのファンであるなら、劇場鑑賞も一つの選択肢として検討しても良いのではないか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 佐野勇斗, 山田杏奈, 日本, 森永悠希, 監督:橋本光二郎, 配給会社:東映, 音楽Leave a Comment on 『 小さな恋のうた 』 -プロモ映画としても何か足りない-

『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

Posted on 2019年2月22日2019年12月23日 by cool-jupiter

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また行ってしまった。本当は梅田の東宝シネマに行きたかったが、ほとんど満席だった。無理してそちらにいくべきだったか。

感想としては、伊丹の東宝シネマもMOVIXあまがさき同様、盛り上がりはいま一つであった。客の入りは1割にも満たなかったか。もしも、この夜の「エーーーーーーーーーーーーーオ!!」の間の ーーーーーー (映画でもここは聴衆のウェーブを上空から映すショットに切り替わるため、音が一瞬小さくなる)を劇場で聞いた、と言う人がいれば、それはJovianの声であったはずだ。そうそう、お一人、Radio Ga Ga の時に、右腕を大きく突き出す御仁がおられた。梅田なら、または東京の劇場なら、もっとノリノリの人が多くいるのだろうか。

以下は雑感。

監督のブライアン・シンガーのスキャンダルがアカデミー賞にどう影響を及ぼすのかは、神ならぬ身には分からない。しかし、新井浩文が逮捕され、事務所も解雇され、地検に起訴されたというニュースを聞いて、改めて彼の出演作がお蔵入りになってしまったことが残念だ。何が残念かと言えば、新井その人のキャリアではない。その映画の製作に関わった多種多様な人々の努力と労力が適切な評価を受ける機を逸したのが悔やまれる。『 空飛ぶタイヤ 』でも危惧したことだが、映画を作るのに携わった多くの人、そしてその映画の公開を待つさらに多くの人を裏切るようなことは誰にもしてほしくない。『 ゲティ家の身代金 』のように、ケビン・スペイシーが盛大にやらかしてくれたおかげで失われかけたものを、クリストファー・プラマーとリドリー・スコットが莫大なカネとほんのわずかな時間で取り戻してくれたのは奇跡だったのだ。

作品と作者の関係をアカデミーの面々、そして多くの映画ファンがどう判断し、どう評価するのかは分からない。しかし、本作が傑作であるという自身の判断は変えたくないし、変えようとも思わない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ラミ・マレック, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

Posted on 2019年1月28日2019年12月21日 by cool-jupiter

バンド・エイド 50点
2019年1月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゾーイ・リスター=ジョーンズ アダム・パリー フレッド・アーミセン
監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ

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原題も“Band Aid”である。絆創膏と「音楽バンドによる助け」のダブルミーニングである。音楽によって人間関係の修復を図る作品では『 はじまりのうた 』が思い出される。テイラー・スウィフトは『 Bad Blood 』で「バンドエイドでは銃創は治せない」と歌った。しかし、バンドで治せる傷もあるはずだ。そう確信する人々が作ったのが本作であろう。

 

あらすじ

アナ(ゾーイ・リスター=ジョーンズ)はUberの運転手、ベン(アダム・パリー)は企業ロゴのデザイナーで、互いに収入は不安定。二人の間では常にケンカが絶えなかった。しかし、バンド活動の間だけはケンカを楽曲に昇華することができた。近所に住む性依存症のデイヴ(フレッド・アーミセン)を交えて、バンドを始める二人。バンド活動は順調に見えたが、アナとベンには真正面から向き合えない辛い過去があり・・・

 

ポジティブ・サイド

サンダンス映画祭に出品された作品ということで、登場人物も少なく、時間的・空間的にもそれほどの広がりを見せない。つまり鑑賞しやすく、理解もしやすい。夫婦喧嘩を経験したことのない夫婦はいないだろうし、未婚・独身者であっても、夫婦喧嘩の何たるかはある程度は想像ができるはずだ。そんな夫婦間のドロドロした愛憎を音楽活動に昇華させる。非常に健全な試みであろう。アナとベンが互いに”Fuck you, Fuck you, Fuck you”とお互いを罵るようにシャウトする様は非常にコメディックである。

 

映画をある程度見なれた人であれば、もしくは夫婦というものをある程度経験していれば、アナとベンの間に起きた悲しい過去については簡単に推測できるだろう。しかし、それに向かい合うことは決して簡単なことではない。特に女性であれば、アナが女友達とおしゃべりをするシーン、そして友達の子どもの誕生日パーティーに出席するところで、非常に強く共感するか、もしくは相当に身につまされる思いをするか、どちらかではないだろうか。

 

中盤以降には、もしかすると日本の少子化、もっと言えばセックスレスの原因はこれではないかと示唆してくるようなシークエンスがある。これはおそらく夫側がかなり身につまされるシーンになるのではないか。現代ではセックスは生殖活動以上に、愛情表現、濃密なコミュニケーションとしての意味合いの方が強い。だからこそ依存症が発生したりするわけだが、かといって生殖の意味合いが薄れたわけでは決してない。本作は夫婦の在り方を時にラブコメ調に、時にシリアスに映し出す。主演も兼ねた監督ゾーイ・リスター=ジョーンズの面目躍如といったところだろうか。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの女性というのは、人生で一番輝いていた時期に囚われる傾向が殊更に強いのだろか。『 ワン・ナイト 』や『 ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 』など、人生の最盛期を振り返る映画は枚挙に暇がない。アナも、過去に本を出版するチャンスを掴みかけたのだが、それは結局実現することが無かった。これはあまりに陳腐だ。もっと別の角度から、アナの苦境を描くことはできたはずだ。本というものが、あるモノのシンボルであることは承知している。そうであるならば歌詞にそのあるモノを示唆するものが出てこなくてはならなかったが、そんなものはなかった。それが残念だ。

 

もう一つ指摘することがあるとすれば、アダム・パリ―の演技。下手だと言いたいわけではない。ただ、妻に対する時と母に対する時で演技に違いがないのは頂けない。目つき、顔を傾ける角度、声のトーンなど、目に見える、耳に聞こえる形で演技を差をつけられないのは表現者としては敗北であろう。もちろん、監督その人によってそのような演技をするように指示された可能性もあるが、彼の一本調子の演技は本作にとってはマイナス要素である。

 

総評

テイラー・スウィフトは2015年の東京ドームでのライブで“You are not your own mistakes.”と語った。『 あなたの旅立ち、綴ります 』でシャーリー・マクレーン演じるハリエットは“You don’t make mistakes. Mistakes make you. Mistakes make you smarter.”と語った。弱点はあるものの、もしも夫婦関係に間違いがあると感じているのならば、何某かのヒントが得られるかもしれない作品に仕上がっている。

 

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『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

Posted on 2019年1月5日2019年12月20日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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2018年11月17日に大阪ステーションシネマで鑑賞した『 ボヘミアン・ラプソディ 』の“胸アツ”応援上映を体験。『 シン・ゴジラ 』の時にも大都市圏で実施された発声可能上映とだいたい同じと思えばよろしい。映画自体の感想は変わらない。むしろ、repeat viewingによって各シーンの構図やカメラアングルの意味がよりはっきりと伝わってくる。複数回劇場に足を運ぶ人が多くいるというのもむべなるかな。

 

Jovianは嫁さんと観に行ったが、劇場の入りは1割程度だっただろうか。箱の大きさに対して観客数も少なく、また実際にスクリーンに字幕が表示されるパートは大音量なので、かなり叫んだつもりでも、囁き程度にしか聞こえなかった。これは自分も嫁さんも確認している。それにしても客の入りとは関係なく、こうした試みはどんどん広がるべきであると思う。映画館に行くというのは能動的な営為であっても、映画を鑑賞するというのは極めて受動的な営為だ。しかし、そこに発声や手拍子、足踏みなどが加われば、受動でありながら能動のエンターテインメントが出来上がる。

 

問題があるとすれば、劇中の楽曲はすべてのパートが歌唱され、演奏されるわけでもない。またきれいにフェードアウトしてくわけでもないため、大声で歌っていると、いきなり画面が切り替わって、劇場内に自分の声が響き渡る、ということもありうる。「でもそんなの関係ねぇ」な小島よしおな人は、“胸アツ”応援上映を体験すべきだ。目立つのはちょっと・・・という控え目な人は、途中の “We Will Rock You” のシーン、最後のライブ・エイドのシーンで思いっきり絶叫すればよい。Jovianはそうさせてもらった。特に “We Are The Champions” では涙腺決壊必定である。嫁さんと二人で涙を流し、声に詰まりながら、何とか歌い切った。英語(に限らず、たいていの言語)には Editorial We と呼ばれる語法が存在する。新聞記事などで「~~~であると思われる」という、あの表現である。また書き言葉以外でも、特にメディアの質問やインタビューでも盛んに用いられるということは『 響 -HIBIKI- 』のレビューでも示した通りである。知らず知らずのうちに読者や視聴者を著者や話者の視点に包含するわけだ。フレディの抱える劣等感、葛藤、苦悩・・・ 我々はいつの間にか彼と同化する。心に闇を抱えない者がいようか。そうした懊悩の全てが We are the champions という歌詞と歌唱と共に吹き飛ばされていったように感じられた。なんというカタルシス!

 

観終わった後、隣の座席の母娘の会話が漏れ聞こえてきた。「お母さん、ゲイって何?」娘の方はおそらく小6~中1ぐらいだっただろうか。おそらく本作をきっかけに、このような会話が日本の津々浦々で交わされたに違いない。これは、クイーンというバンドの生み出した音楽の力を称揚するだけの映画では為し得ないことだ。受け手にしっかりと考えるきっかけを与える映画である。さあ、あなたも時間と懐に余裕があれば“胸アツ”応援上映に Go! である。

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『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

アリー / スター誕生 40点
2018年12月22日 にて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー レディー・ガガ
監督:ブラッドリー・クーパー

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バーブラ・ストライザンドや、古くはジュディ・ガーランドにまでさかのぼるスター誕生物語の系譜が現代の歌姫、レディー・ガガに受け継がれた。ガガの歌唱力と意外な演技力、ブラッドリー・クーパーのカリスマ性をもってしても、しかし、これは残念ながら凡作の烙印を押されることを免れ得ないだろう。

 

あらすじ

アリー(レディー・ガガ)は、昼はウェイトレスを、夜は場末のバーで歌いながら、歌手になる夢を見ていた。そのバーに、有名ミュージシャンのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)が来店。アリーの歌に魅了されたジャクソンは、彼女を自分のコンサートの舞台に立たせる。喝采を浴びたアリーのキャリアとロマンスが動き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

“Shallow”と“Always Remember Us This Way”は素晴らしい。容易に歌詞が視覚化されてくる。それは映画のシーンとそれだけシンクロ率が高いからだ。極端な例を挙げれば、あのゴジラのテーマを聞けばゴジラが思い浮かぶし、ジョン・ウィリアムズのSuperman’s Themeを聞けば、クリストファー・リーブが思い浮かぶ。最近だと、ハンス・ジマーのワンダー・ウーマンのテーマがキャラを完璧に体現する傑作だった。冒頭の二曲は、本作を思い起こす上で絶対に欠かすことのできないピースになっているとさえ言える。

 

また、ガガの意外な素顔というか、彼女は普通の格好をしてノーメイクまたはかなり薄いメイクぐらいが最も美しいという意外な発見もある。露出多めの衣装も着てくれるし、入浴シーンやラブシーンもかなりある。スケベなビューワーも期待してよろしい。実際、ブラッドリー・クーパーはこういうシーンがやりたくて自分で監督及び主演をしたんじゃないのかと勘繰られても文句は言えまい。そういえば、シルベスター・スタローンもその昔、『 スペシャリスト 』という何とも微妙な映画で一部のファンや批評家から批判されていた。曰く、「シャロン・ストーンとベッドシーンを演じたかっただけじゃないのか」と。それでも、本来は歌手であって女優ではなかったはずのガガがここまで体を張ってくれるのだから、映画ファンは眼福とばかりに思わず、その表現をしかと受け止めねばならない。

 

個人的には映画のピークは駐車場のシーンかな。何気ない会話にこそ本当のドラマがあるように思う。『 ロッキー 』でエイドリアンとロッキーが無人のスケートリンク内で語り合うシーンこそが、Jovian的には the most romantic moment ever in filmなのだが、夜の駐車場シーンにも似たような趣があった。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの成功者とは、なぜ酒、ドラッグ、女に溺れて身を持ち崩すのだろうか。そういうのは『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』などで散々見てきたし、冒頭のジュディ・ガーランドへのオマージュであろうか、アリーの歌う“Over the Rainbow”が夢の国への旅立ちとそこでの試練、そして現実への回帰を予感させる。それはかつて何度もリメイクされてきた本作のストーリーのフラクタルでもあるだろう。それでも、この物語の陳腐さはもう少しどうにかならなかったのだろうか。雌伏、雄飛、成功、愛憎、別離、そして悲劇と、今日日の韓国ドラマでももう少し何らかの手を加えてくるだろうという、その起伏そのものが余りにも平板に感じられてしまうストーリー展開。はっきり言って、ガガの成功と歌唱力、パフォーマンスを我々があらかじめ知っているからこそ感情移入できるし説得力も生まれているのだが、これが誰か別のキャスト、たとえば歌唱力抜群だが、本当に自分の容姿容色にコンプレックスを抱いているような若い女性を起用したらどうなっていただろうか。恐らく、何の変哲もない凡百の作品との評価を受けて終わりだろう。それほど、本作のプロットは平々凡々である。

 

また現代というテクノロジーの転換期にある時代、梅田望夫の言葉を借りるならば「総表現社会」においては、すでに類似の事例がいくつもある。スケールはまったく異なるが、少し古いところではニコニコ動画初のKURIKINTON・FOXがメジャーデビューを果たしたり(その後、色々あったようだが・・・)、現在でも米津玄師やDAOKOなど、インターネット上のプラットホームからメジャーデビューを果たすという事例は、もはや珍しいものではなくなっている。また、海外の事例を挙げるとするならば、Rod Stewartに見出されたグラスゴーのストリート・パフォーマー、Amy Belleであろう。“I don’t want to talk about it”のデュエットは、始めて見た時、文字通り鳥肌が立った。

 

ことほど左様に、本作のストーリーは現実世界によってそのファンタジー性を剥ぎ取られてしまっている。YouTubeでバズったというだけでは現代に本作をリメイクする意味が無い。もっと新しいアイデアが盛り込まれてしかるべきだった。クーパーの嗅覚も少し鈍ったのだろうか。個人的には、ジャクソンとアリーは、RodとAmyのデュエットを超えなかった。

 

総評

映画としては普通の面白さである。ここで言う普通をどう捉えるかは観る人次第である。ガガやクーパーのファンであれば観るべきだ。しかし、『 ボヘミアン・ラブソディ 』と比較してはならない。音楽も演技も演出も映像も、『 ボヘミアン・ラブソディ 』に軍配が上がる。

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