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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

Posted on 2019年4月7日2020年2月2日 by cool-jupiter

君は月夜に光り輝く 45点
2019年4月1日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:永野芽郁 北村匠海
監督:月川翔

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『 君の膵臓をたべたい 』の月川翔監督と北村匠海が、ヒロインに永野芽郁を迎えて、小説を映画化したのが本作である。「きみすい」の二番煎じの匂いがプンプンと漂ってくるが、その予感は間違いではなかった。

あらすじ

渡良瀬まみず(永野芽郁)は発光病という不治の病で入院中。そこにクラスの代表として嫌々ながらお見舞いに訪れた岡田卓也(北村匠海)は、まみずの願望を一つ一つ代行して叶えていくことを引き受けて・・・

ポジティブ・サイド

北村匠海の静かで、一見すると感情の乏しい演技は、こうした役どころによく当てはまる。月川監督はそれを上手く使っている。エナジェティックな女子に振り回される、受け身な男子という役が合うが、もうそろそろ違う路線を模索し始めてみてもいいのではないだろうか。それでも、北村のしなやかな強さを内に秘めた存在感や優しさ、時に一徹なまでの頑固さ、表情には決して現れることのない直情径行さ、そうしたものを全て内包したような立ち居振る舞いを魅せられるところが、単なる期待の若手俳優たちと彼を分かつ一線であろう。

永野芽郁も発光の美少女・・・、ではなく薄倖の美少女が似合う。単に病魔に冒されたか弱い女の子というだけではなく、そのうちにある願望、悲しみ、怒り、邪(よこしま)とも言えそうな欲望などの感情をないまぜにしつつも、笑顔でそれを吹き飛ばしてしまうような天真爛漫さは、『 君の膵臓をたべたい 』の浜辺美波とはまた一味違った良さがある。浜辺がミステリアス女子だとすれば、永野はパワフル女子だろう。

二人のキャラクター造形はとても魅力的で、卓也がまみずとの距離を縮めていく願望代行過程には、余命ゼロというシリアスさとは裏腹のユーモアがある。そのユーモラスな展開が、冒頭ではっきりと描かれるまみずとの永遠の別離をいっそう切ないものにしている。脇を固める長谷川京子や及川光博も、これらの若い才能のサポート役に徹しつつも、見せ場を作った。凡百のラブストーリーではあるが、多くの見せ場があり、これらキャストのファンであれば鑑賞をためらう理由はないだろう。

ネガティブ・サイド

ちょいと映画ファンさんよ。聞いてくれよ。

ブログとあんま関係ないけどさ。

このあいだ、近所の映画館行ったんです。映画館。

そしたらなんか『 君は月夜に光り輝く 』で

ヒロインが発光病に冒されてるんです。

で、よく見たらなんか窓とか超大きくて、

病室が光に溢れてるんです。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

(略)

病院ってのはな、もっと患者の容態に対して注意深くあるべきなんだよ。

さっきまで元気そうだった患者さんが、

次の瞬間に急変して緊急手術になってもおかしくない、

そんな殺伐とした雰囲気がいいんじゃねーか。健康な奴は、すっこんでろ。

などと古すぎるコピペを使いたくなるほど、本作の欠点は大きすぎる。死期が近付くほどに強く光を放つということは、ほんの少しの弱い光を放ち始めた瞬間を捉えることこそが、治療や看護、本人や家族への告知や説明の面から、決定的に重要なことなのだ。この陽光が溢れる病室は、監督、撮影監督、照明のこだわりが結実したものなのだろうが、リアリズムの観点からは完全に誤った選択である。まみずの母親も、怒りの矛先を卓也ではなく病院に向けてはどうか。

『 タイヨウのうた 』や『 青夏 君に恋した30日 』のように、本作もいくつかの場面で、季節と時刻にマッチしない光の使い方をしている。“光”が重要なモチーフになっている作品にしてこのあり様とは・・・ 月川監督は個人的には高く評価しているのだ。事実、Jovianは2018年の国内最優秀監督の次点に推している。氏の奮励と捲土重来を期したい。

主演二人の演技は及第点もしくはそれ以上を与えられるものの、甲斐翔真と今田美桜の二人の棒読みは何とかならなかったのか。さんざん練習してあのレベルなのか、それともあまり練習をせずに撮影に臨んだのかは知らないが、根本的な発声練習にもっと励むべきだ。『 ブレードランナー 2049 』のライアン・ゴズリングが見せた、彼が普段からやっていたような発声練習をもっとやるべきだ。彼ほどのトップスターでもこうした地道なトレーニングを積んでいるのだ。もっと真剣に役者業をやれと言いたい。

これは原作者にその責があるのだろうが、なぜに日本の漫画、小説、映画は劇中劇を行うとなると「 ロミオとジュリエット 」なのだ。馬鹿の一つ覚えとはこのことであろう。『 あのコの、トリコ 』という駄作だけで、これはもうお腹いっぱいである。北村匠海に女装をさせたい、あるいは芸域を広げるために女形をやってほしいということであれば、別にジュリエットである必要はない。『 ピース オブ ケイク 』の松坂桃李や『 彼らが本気で編むときは、 』の生田斗真のような役を演じる別の機会がきっと訪れるはずだ。

総評

実写の『 君の膵臓をたべたい 』の水準を期待すると、がっかりさせられる。しかし、最初からファンタジー映画であると割り切って、バイオフォトンなどという怪しげな言葉に惑わされないようにして鑑賞すれば、つまりリアリズムなど一切考えることなく観れば、純粋で芳醇で、やや苦いロマンスを味わうことができる。チケットを買う前に、よくよくそのことを心に留めておくべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 北村匠海, 日本, 永野芽郁, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

『 九月の恋と出会うまで 』 -タイムリープ要素以外はまあまあ-

Posted on 2019年4月7日2020年2月2日 by cool-jupiter

九月の恋と出会うまで 50点
2019年3月31日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高橋一生 川口春奈
監督:山本透

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何ともミステリアスなタイトルである。『 わたしに××しなさい! 』の山本透監督が、タイムリープものを扱うということに、期待と不安の両方を抱えながら、結局は鑑賞してしまった。タイムトラベルものというのは何をどうやっても矛盾が生じるものだが、そこにさえ目をつぶれば、それなりに楽しめる作品になっている。

あらすじ                    

あるアパートに引っ越してきた志織(川口春奈)は、ある夜、エアコンのダクトから「あなたに危険が迫っている」という未来からの声を聞く。不審に思う志織だったが、次々に未来を言い当てるその声を信じることに。すると声は同じアパートに住む平野(高橋一生)を尾行するように依頼してきて・・・

ポジティブ・サイド

川口春奈がいつの間にやら美人になっている。ちょっと前まで美少女だった気がするが、今は美人になっている。川栄李奈の先輩という役どころも、大人の女性らしさの演出を後押ししている。

高橋一生も変わらぬ安定感である。どこかコミュ障気味のサラリーマンを、視線を合わせず、声に抑揚を持たせず、また病人である女性に配慮ある行動はできるものの、ロマンチックさのかけらもない言葉を浴びせるなど、まさに nerd である。映画『 サイコ 』へのオマージュと思しきシーンでも、高橋一生のちょっと浮世離れした人間特有の雰囲気が、物語序盤のサスペンスを見事に盛り上げる。

この二人がどのように恋に落ちるのか。恋に落ちていく過程はどのようなものであるのか。このあたりに説得力があった。特に二人が向きになって不毛な言い争いを繰り広げる様は、誠に微笑ましい限りである。いくらかご都合主義的な展開もあるが、不必要にドラマチックな展開も少なく、全体的には非常にリアリスティックな恋模様が描かれる。高校生の恋愛模様とは一味違う、落ち着いて鑑賞できるストーリーになっている。

ネガティブ・サイド

『 コーヒーが冷めないうちに 』と同じく、タイムリープもの、タイムトラベルものの矛盾=パラドクスがそこかしこに存在する。本作はそこに「歴史の修正力」説を採用するが、なぜそのような力が働くと考えられるのかの根拠の呈示が非常に脆弱である。平野というキャラを nerd にして作家の卵にしたのは、こうしたパラドキシカルな事象を理路整然(必ずしもそれが的を射ていたり分かりやすかったりする必要はない)と説明するためではないのか。実際に本人も嬉々としてそれを語るが、そうした事柄への好奇心や愛着の見せ方が弱かった。そこが弱いために、志織は自らが消滅してしまうビジョンに怯えはするものの、そのことを現実の脅威として捉えていないように映ってしまった。従容として運命を受け入れんとする女性と、なんとかそれを阻止しようと奔走する男性というのは、クリシェではあるが、現代的とは言えない。メッセージ性が足りないのだ。それが本作の最大の欠点である。

もう一つ提言するなら、平野と詩織を巡る時間の円環が閉じた、という感覚を得られないことも問題であろう。運命に翻弄される男と女が最終的に添い遂げるというのは、古今東西で最大のクリシェであるが、なぜそうしたプロットが生き延びているのか。それは陳腐な物語に身を任せた先にあるカタルシスの爽快さの故である。『 わたしに××しなさい! 』についてもエンディングの弱さを指摘したが、このあたりが山本透監督の課題であろう。さらなる精進を期待したい。

総評

可もなく不可もなくであろう。本当に面白いタイムリープものなら、高畑京一郎の小説『 タイム・リープ―あしたはきのう 』が白眉である(映像化されているようだがJovianは未見である)。または、同じく小説から映画化された『 僕は明日、昨日の君とデートする 』の方が、ファンタジー作品と割り切っている分、より純粋にストーリーを味わうことができる。また、時間のループが綺麗に始まり、綺麗に閉じる物語としてはジェームズ・P・ホーガンの古典的名作小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『 巨人たちの星 』がお勧めである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 川口春奈, 日本, 監督:山本透, 配給会社:, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 高橋一生Leave a Comment on 『 九月の恋と出会うまで 』 -タイムリープ要素以外はまあまあ-

『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

Posted on 2019年4月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

ブラック・クランズマン 70点
2019年3月31日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジョン・デビッド・ワシントン アダム・ドライバー
監督:スパイク・リー

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原題はBlacKkKlansman、黒人のKKKメンバー男性の意である。冒頭からいきなり『 風と共に去りぬ 』のワンシーンが流される。あのスパイク・リーがスカーレット・オハラを好意的に見ているとは思えないので、これには何らかの意図があるのは間違いない。このシーンをEstablishing Shotとして見るならば、プロットは白人優越世界の終焉を予感させるものであろう。だが、スパイク・リーはそんな単純な人物では全くなかった。

あらすじ

時は1970年代。ベトナム戦争への厭戦気分が反戦運動に変わりつつあるアメリカ。コロラド州コロラドスプリングスで初めて黒人警官として採用されたロン・ストールワース(ジョン・デビッド・ワシントン)は、ある時、勢い余ってKKKに突撃電話。トントン拍子に話は進み、KKKメンバーと会うことに。しかし、彼は黒人。そこで同僚のフリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)が対面に赴くことに。電話でロン、対面はフリップという、前代未聞の二人一役潜入捜査が始まり・・・

ポジティブ・サイド

『 ゲット・アウト 』監督のジョーダン・ピールが製作として参加していることで、ユーモアとサスペンスがハイレベルで融合した佳作に仕上がっている。主演を努めたジョン・デビッド・ワシントンがとにかく面白い。笑える。黒人差別丸出しの同僚警察官に対する怒りのシャドーボクシングというかシャドー空手がとにかくコミカルだ。なるほど、これはシリアス一辺倒の映画ではありませんよ、とスパイク・リーは冒頭のワンシーンとの対比で観客に告げているわけだ。実際にジョン・デビッド・ワシントンの電話シーンはハチャメチャな面白さである。何しろ、ノリと勢いだけで黒人警官がKKKに電話をして、見ているこちらの心臓が鷲掴みにされるぐらいドキッとする差別的言辞を弄して、相手の懐に飛び込むのである。差別を笑いに転化するのは不謹慎かもしれない。しかし、『 翔んで埼玉 』でも明らかになったように、差別とは本人のものではない属性を本人の意に反して押し付けるものである、今作では被差別対象である黒人自身が黒人をクソミソにけなしまくるのがとにかくとにかく痛快なのである。

だが、本作は決してコメディ一辺倒なのではない。差別の醜悪さを描き出す実話を基にしたサスペンス映画であり、警察バディムービーであり、ヒューマンドラマでもある。むしろヒューマンドラマでしかない、とさえ言えるかもしれない。黒人のロン、ユダヤ系のフリップの二人は共にKKKからすれば排除、攻撃の対象である。敵の敵は味方などという単純な人間関係はそこにはない。ロンとフリップの間に思わぬ形で友情が花開いたりすることはなく、二人はどこまでも警察官という一点でつながる。おそらく人間同士が関係を築くのは、それだけで充分なのではないだろうか。互いが互いの仕事をリスペクトする。それだけで争いや諍いは相当に減らせるはずなのだ。

ともするとコメディになりがちなジョン・デビッド・ワシントンとはある意味で大局的なアダム・ドライバーは、警察であることやユダヤ系であることが露見しそうになるたびに、汚い差別意識丸出しの言辞を弄して、状況をサバイブしていく。とある絶体絶命に思えたシーンを切り抜けるため、彼がロンに向かって実弾を発砲するのだが、その時の口調と表情!鬼気迫る演技と言おうか、イラクにも実際に赴いた軍人上がりにこそ出せる味があった。善のルーツを持つ悪のプリンス、カイロ・レンを演じるにふさわしい役者であることをあらためて満天下に示したと言えるだろう。

本作は、最後の最後に衝撃的な絵を持ってくる。これを蛇足と見るか、これこそがスパイク・リーの本当に見せたいものなのだと見るかで、本作の評価はガラリと変わる。Jovianはこれこそがスパイク・リーの問題意識なのであると受け取った。ストーリー自体は、ゴキゲンな黒人警官がアホな差別主義者の白人の横っ面を見事に張り倒すというものなのだが、スパイク・リーの意図するものは、『 評決のとき 』におけるマシュー・マコノヒーの弁論と同質のものであろう。非常に痛切に考えさせられる映画である。

ネガティブ・サイド

Based on a true storyやInspired by a true event系の映画は近年、大量生産されてきた。粗製乱造とまでは言わないが、さすがにそろそろ食傷気味である。この手の差別の恐ろしさ、その知性と思考能力の欠落具合は『 私はあなたのニグロではない 』、『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』、『 ビールストリートの恋人たち 』、『 グリーンブック 』などでもう十二分に描かれてきた。KKKを告発したいのではなく、人々が心の中に頑強に持つ固定観念、硬直した思考を討ちたいのだろう。スパイク・リーほどの映画人であれば、自分でオリジナルの物語を紡げるはずだし、紡ぎ出さなければならない。

総評

ポール・ウォルター・ハウザー演じるKKKメンバーは『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でも陰謀論全開にして、思考能力ゼロ、コミュニケーション能力ゼロ、批判精神ゼロという頭の悪すぎる男を演じていたが、これを他山の石とせねばならない。宗教団体を支持母体とする政党や、カルト的な思想信条を隠そうともしない団体からの指示を受ける与党、そして不健全な思考の右翼化を見せる高齢世代。そうした者たちの背後に透けて見えるのは、全て同質のものなのだ。それはちくま新書『 私塾のすすめ: ここから創造が生まれる 』で梅田望夫と齋藤孝が共通して闘う敵と同じものである。ゆめゆめ他国の過去の出来事と思うことなかれ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, コメディ, ジョン・デビッド・ワシントン, ヒューマンドラマ, 監督:スパイク・リー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

『 ビリーブ 未来への大逆転 』 -法廷ものとしてのカタルシスが弱い-

Posted on 2019年4月1日2020年2月2日 by cool-jupiter

ビリーブ 未来への大逆転 60点
2019年3月30日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:フェリシティ・ジョーンズ アーミー・ハマー
監督:ミミ・レダー

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同僚のアメリカ人2名(日本在住歴10年以上)に尋ねてみた。ルース・ギンズバーグは知っているか、と。答えは否であった。グロリア・スタイネムは知っているかとの問いの答えは、然りであった。ということはアメリカ史の、少なくとも一般的な知名度はそれほど高くない人物=hidden figureの物語ということで、『 ドリーム 』のような傑作かもしれないとの期待を胸に劇場へ赴いた。あらためて心するとしよう。 The worst thing you can do for a movie is to hype it up too much.

あらすじ

ルース・ギンズバーグ(フェリシティ・ジョーンズ)はハーバード法科大学院を首席で卒業するほどの能力を持ちながらも、女性であるというだけで法律事務所で職を得ることができずにいた。やむなく大学で法学の教鞭を取るも、弁護士への夢は諦めきれなかった。そんな時、夫マーティ(アーミー・ハマー)から、興味深い事例を詳細され・・・

ポジティブ・サイド

彼女の経歴を軽く調べてみた。と言っても、wikipediaの英語ページをザーッと流し読みしただけだが。そして驚いた。正に立志伝中の人物ではないか。アメリカでは州によって運転免許を取得できたり喫煙できたりする年齢が違うことがあるが、飲酒可能な年齢が男女によって異なるという法律を覆したりしているではないか。翻ってこの極東の島国では男女の別で結婚可能な年齢が異なっている。まあ、お国もようやくこの法改正に乗り出してはいるようだが、“On the basis of sex”によって決まっている無条件の男女差別はこの社会の至るところに存在している。例えば、Jovianの嫁さんの会社では、人事部長が入社式に「女性にはあまり長く働いていただこうとは思っていませんので・・・」などと言ってしまうのである。これが21世紀の話、平成の話なのである。本作は1950年代~1970年代にかけてのアメリカ社会を描いているが、この時代のアメリカの世相や社会背景が日本(のみならず多くの国)に当てはまることに驚かされる。

本作監督のミミ・レダーは映画『 ディープ・インパクト 』やテレビドラマ『 ER緊急救命室 』で、プロフェッショナリズムとヒューマニズムの両方にバランスよくフォーカスするその手腕は既に証明されている。本作の描くプロフェッショナリズムは、弁護士というトラブルシューターの仕事の難しさであり、法律という国家が国民に望む姿を明文化したものへの向き合い方であり、ヒトが人として生きることの難しさ及び尊さである。同時にヒューマニズムとは、他者を自分と同じように生きている存在として認めることである。だが、それは決して他者と自分を同一視することではない。それは時におせっかいであり、迷惑ですらありうる。劇中のルースは、依頼人や娘を自分と同一視してしまい、客観性を欠く言動を呈してしまうことがあるのだが、周囲からの厳しくも温かい支援や気付きの促しにより、彼女自身が変化し成長していく様を我々は見ることになる。それはある意味では、本筋である法廷ドラマよりも面白い。時代だ社会だとあれこれ考察するよりも、一個の人間の成長を自分に重ね合わせてみる方が、より健全な映画の楽しみ方であろう。

フェリシティ・ジョーンズおよびアーミー・ハマーの演技は素晴らしい。特にアーミー・ハマーの父親っぷりは見事である。娘に対して母の愛を語りかける姿は、まさに人生におけるpositive male figureである。こうした父親像は、洋の東西を問わず見習わねばならない。フェリシティも良い。『 博士と彼女のセオリー 』で、勤勉な学生、献身的な妻、懸命な母、そして背徳的な女性という重厚な演技を見せたが、様々な顔を持つ一個人を本作でも見事に演じ切った。

ネガティブ・サイド

RGBの周囲以外の男の、このあまりにもステレオティピカルな描かれ方はどうだ。Jovianは同じ男として、男は基本的に賢いアホで、自尊心が高く、それでいて心の奥底には妻や母に対する恐れの感情があることを知っている。それはおそらく人類の歴史において、普遍的な男の心理の真理である。しかし、そうした男の一面がほとんど描かれることが無かったのは何故なのか。それがミミ・レダーの問題意識であるというのか。本作は女性差別を乗り越えるストーリーではなく、性差別を乗り越えるストーリーではないのか。出てくる男が悉くと言っていいほど、醜悪で単細胞で矮小なのは何故なのか。このあたりのバランス感覚が欲しかった。

ルースの弁護士としての成長をもう少し丁寧に描いても良かったのではないか。模擬法廷で堪忍袋の緒が切れてしまうようでは先が思いやられるが、そこで絶妙な助け舟を出すのが夫のマーティである。彼とのチームワークというか、ケミストリーをもっと追求して欲しかった。

クライマックスもやや弱い。大逆転というよりも大転換という感じである。アメリカ独立戦争時、トーマス・ジェファソンは“All men are created equal”という一文をものした。この考え方自体が女性を排除しているものと見られても仕方がないが、ルースはそこを指摘するのではなく、極めてアメリカ的な思考の陥穽を突く。これが分かりにくい。アメリカ人にはよく分かるのだろう。アメリカの選挙では候補者がしばしば“I love freedom! Let’s make more freedom! We should make more freedom!”という、意味がありそうでなさそうな言辞を弄すると聞く。ドラマのニュースルームのシーズン1冒頭がここでも思い出される。“Can you say why America is the greatest country in the world?”という問いへの一つの答えが“Freedom and freedom”なのである。ルースはこの点を刺すが、これはアメリカ人以外にはなかなかピンと来ないだろう。Jovian自身も最初はキョトンとなってしまった。邦題で大逆転を謳いながらも、大逆転であると感じにくい。それが本作の最大の弱点になってしまっている。そこが誠に惜しいと感じられるのである。

総評

法廷ものとしては『 判決、ふたつの希望 』には負ける。佳作であるが、女性をエンパワーする映画としては『 エリン・ブロコビッチ 』や『 ドリーム 』、『 未来を花束にして 』、『 女神の見えざる手 』の方が一枚上手である。しかし、フェリシティ・ジョーンズの多面的かつ重層的な演技は劇場鑑賞に値すると言える。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, ヒューマンドラマ, フェリシティ・ジョーンズ, 監督:ミミ・レダー, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビリーブ 未来への大逆転 』 -法廷ものとしてのカタルシスが弱い-

『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

Posted on 2019年3月31日2020年3月23日 by cool-jupiter

サッドヒルを掘り返せ 80点
2019年3月28日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:セルジオ・レオーネ エンニオ・モリコーネ クリント・イーストウッド
監督:ギレルモ・デ・オリベイラ

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ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアを追い求めて、ついに発見したシュリーマンの気持ちとはこのようなものだったのだろうか。それほどの圧倒的な感動をもたらすドキュメンタリー映画である。本作は映画という芸術媒体の持つ力、その物語性、神話性を追究しようとした野心作でもある。

あらすじ

『 続・夕陽のガンマン 』のクライマックスの決闘の場面となったサッドヒル墓地。撮影から50年になんなんとする時、地元スペインの有志がサッドヒル墓地の復元に乗り出した。彼らはやがてSocial Mediaを通じて、世界中からボランティアを募る。そしてサッドヒルを復元させ、そこでの『 続・夕陽のガンマン 』の上映会を企画する・・・

ポジティブ・サイド

映画製作にまつわるドキュメンタリー映画には、『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』がある。スター・ウォーズ製作者のジョージ・ルーカスとファンの対立、意見の相違に焦点を当てた傑作である。また『 すばらしき映画音楽たち 』も忘れてはならない。ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーといった錚々たる映画音楽家から近現代ロックスターと映画音楽の関わりまでもを描く大作だった。本作もこのような優れた先行ドキュメンタリー作品と同じく、様々な関係者や当事者の声を丁寧に拾い上げ、映画製作の裏のあれやこれやを観る者に教えてくれる。だが、この『 サッドヒルを掘り返せ 』がその他の映画製作ドキュメンタリーと一線を画すのは、ファン達が『 続・夕陽のガンマン 』を神話に類するものとして扱うところである。というと、「スター・ウォーズも充分に神話じゃないか」という声が聞こえてきそうだが、Jovianの意見ではスター・ウォースは「おとぎ話」である。おとぎ話は、当時および各地の社会・文化的な要請から民話に超自然的な要素が加えられたものだと理解してもらえればよい。もしくは、スター・ウォーズは昔話である、もしくはジョージ・ルーカスを作者にした童話と言っても良い。子育て経験のある人なら分かるだろう。子どもは同じ話を繰り返し繰り返し聞くのが好きなのだ。「おじいさんは川へ洗濯に・・・」と言えば、たいていの子どもは不機嫌になって訂正してくる。児童心理学にまで切り込む余裕はないが、新旧スター・ウォーズのファンの対立、旧世代のファンとジョージ・ルーカスの対立の背景にあるのは、童話や昔話への子どものリアクションと本質的には同じなのである。

しかし、本作のファンは子どもではない。彼ら彼女は皆、一人ひとりが、伝説になってしまった物語に確かに描かれた舞台装置を探し求めるという点において、シュリーマンなのだ。スペインの荒野にひっそりと佇立する無数の墓標。それらを復元することに血道を上げることに何の意味があるのか。意味などない。ただただ、その世界に触れたい。その世界に浸りたい。自分という存在を確かに形作ってくれたものを自分でも形作りたい。それは生命の在り方と不思議なフラクタルを為す。『 続・夕陽のガンマン 』は、そのストーリーやキャラクター、映像美やその音楽の圧倒的なインパクト故に、何かを足したり、もしくは引いたりする必要が一切ない。それは神話である。ディズニーが、機は熟したとばかりに、次から次へと昔話やおとぎ話を実写映画化しているが、そこには必ずと言っていいほど現代的な読み変えが行われている。それは『 くるみ割り人形と秘密の王国 』でも指摘したようなフェミニスト・セオリーであることが多い。物語をその都度、作り変えていくのはディズニーだけではない。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったことがある人もない人も、ユニバーサル・スタジオは元々はフランケンシュタインの怪物やドラキュラ、狼男、透明人間などのおとぎ話や昔話を現代風に作り変えてきたということは知っているだろう。USJはゴジラやドラクエやモンハンまで取り込んで、最早何が何だか分からないテーマパークになっている。ディズニーもテーマパークを持っている。しかし、本作に登場する市井の人々はサッドヒルのテーマパーク化を一切望まない。それは繰り返すが『 続・夕陽のガンマン 』が神話だからである。キリスト教徒が創世記を書き変えたいと思うだろうか。作中で、ブロンディ(および『 荒野の用心棒 』のジョーと『 夕陽のガンマン 』のモンコ)の身に着けていたポンチョが、トリノの聖骸布=The Shroud of Turinの如く扱われているというエピソードも、このことを裏付けている。この信仰にも近い彼ら彼女らの純粋な想い故に、スペインの大地に神が舞い降りる瞬間のエクスタシーは筆舌に尽くしがたいものがある。Jovianは、「人生で最高の10分間だった」と振り返るシーン、神が降臨するシーン、そしてエンドクレジットでそれぞれ大粒の涙を流してしまった。何がこれほど人の心を揺さぶるのか。それを是非、劇場でお確かめ頂きたいと思う。

ネガティブ・サイド

『 続・夕陽のガンマン 』の一瞬一瞬を切り取るだけで絵になるのだから、変に静止画をいじくって動かしたりする必要は無かった。

また、セルジオ・レオーネやエンニオ・モリコーネのインタビュー映像があるにもかかわらず、イーライ・ウォラックやリー・ヴァン・クリーフのそれが無いのは何故だ。無いはずがないだろう。それとも編集で泣く泣く削ったとでも言うのか。とうてい承服しがたいことだ。

総評

異色のドキュメンタリーである。インディ・ジョーンズに憧れて鞭を振るったり、ジェダイに憧れてチャンバラに興じるのではなく、ただただ墓地を復元したいという人々の物語が何故これほど観る者の心を激しく揺さぶるのか。きっとそれが生きるということだからだろう。Ars longa, vita brevis. 芸術は長く人生は短い。Art is never finished, only abandoned. レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉とされる。けれど、もしもうち捨てられた芸術の復活に関わることができれば、神話を追体験できるのだ。そのような人々の生き様をその目に焼き付けることができる映画ファンは、きっと果報者である。

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Posted in 映画, 海外Tagged :ギレルモ・デ・オリベイラ, 2010年代, A Rank, エンニオ・モリコーネ, クリント・イーストウッド, スペイン, セルジオ・レオーネ, ドキュメンタリー, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

『 続・夕陽のガンマン 』 -20世紀の映画の最高傑作のひとつ-

Posted on 2019年3月28日2020年1月9日 by cool-jupiter

続・夕陽のガンマン 95点
2019年3月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クリント・イーストウッド リー・ヴァン・クリーフ イーライ・ウォラック
監督:セルジオ・レオーネ

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 これは西部劇という枠を超えた、20世紀の映画の一つの到達点である。映像と音楽の幸福なる結婚、役者と演技の完璧なシンクロ。Timeless Agelss Classicである。いかなる西部劇が今後生み出されても、本作を超えることはできないだろう。

あらすじ 

時はアメリカ南北戦争の最中。賞金稼ぎのブロンディ(クリント・イーストウッド)と賞金首のトゥーコ(イーライ・ウォラック)、そして北軍士官のエンジェル・アイ(リー・ヴァン・クリーフ)の3名は、20万ドルもの大金がどこかに隠されていることを知り、互いに協力し、互いに出しぬき合い、金貨の隠し場所を探っていき・・・

ポジティブ・サイド

本作の進行はビジュアル・ストーリーテリングの極致である。最初の10分、およびラストの10分(厳密にはエンディング直前に叫び声があるが)に台詞がないのである。だが、それで充分に話が通じるのだ(キャラ紹介のために文字がスーパーインポーズされるが、これぐらいは大目に見よう)。これは実験的にこのような作りにしたのではなく、全編を通じてのセルジオ・レオーネの作家性の発露と捉えるべきだろう。映像によって物語を語らしめる。それこそが映画の基本にして究極の技法なのだが、本作では全編通じて台詞が非常に少ない。一番ペラペラしゃべるのはThe Uglyのトゥーコで、The GoodのブロンディやThe Badのエンジェル・アイはぼそぼそと話すことはあれど、むしろ表情、目の動き、立ち居振る舞いで自己表現している。このあたりは『 荒野の用心棒 』、『 夕陽のガンマン 』にも共通していたが、それがさらに洗練されたと言える。劇中のとあるシーンでのトゥーコの台詞、“When you have to shoot, shoot. Don’t talk.”は至言であろう。映画製作者たる者、この台詞を胸に刻まぬこと無かれ。Shootには「撃つ」という意味に加えて、「撮影する」という意味もあるのだ。

セルジオ・レオーネ監督は絵コンテを作らなかったと言われているが、どうやって数々のシーンを構想し、それを一発で撮影したのだろうか。汽車から飛び降りるシーンや手錠を切るシーン、さらにブロンディが砂の斜面を転げ落ちるシーンに、トゥーコがそこに瓶を転がしてブロンディにぶつけるシーンなどは、リハーサルなどできるものではないだろう。仮に何度も練習できたとしても、莫大な時間と労力が必要だっただろう。全てのシーンが絵になると称賛される本作であるが、その芸術性は元より、そうした絵作りの裏にあった労苦はどれほどのものだっただろうか。裏方さんたち及び俳優陣には相当にきついものだったろう。特に、南北戦争シーンでは大量の火薬を使用。結構危ない距離で大砲の弾が着弾するようなシーンがそこかしこにあり、しかもそれがワンテイクで近距離と遠距離、画面の奥深くでも煙が上がり、兵士が吹っ飛ぶのである。撮影当時のスペイン・フランコ軍事政権から兵士1000名を借りてきたということだが、軍隊同士の容赦ない火力がぶつかりあうシーンは、時代も手法も全く異なるが、迫真性において『 ハクソー・リッジ 』にも負けていない。橋を爆破するシーンでは本当にレンガ大の岩が猛スピードでカメラ手前に弾着する。塹壕に身を隠していたのは替え玉だったというから、もう何と言うか・・・

本作の素晴らしさは、そうしたマスの部分だけではなく、ディテールにも宿る。象徴的なのは、トゥーコが武器屋で銃を調達するシーン。まず銃の質感が良い。Jovianは2003年にロサンゼルスを旅行した時に、実弾を何発か撃ったことがある。その時の銃の重み。それを思い出した。木の台に銃身を置いた時の「ゴトリ」、「ガチャ」という擬音語。邦画が毎回疎かにするシーンである。例えば『 アウトレイジ 』で椎名桔平演じる水野が、逃亡前に調達した銃をテーブルに置く時のカチャ、コト、というしょぼい音が思い出される(『 アウトレイジ 』そのものは佳作である)。トゥーコが色々な銃の色々なパーツをあれこれと吟味するシーンに、我々はこの男がただの醜い男なのではなく、立派な賞金首であり、腕利きのガンマンであり、自分の商売道具に一方ならぬ知識と執着を持った仕事人であることを知る。イーライ・ウォラック会心の演技であろう。それはトゥーコがブロンディを追跡する際の煙草を拾い上げて吸うシーンで頂点に達する。役者の演技と監督の意図する絵作り、ストーリーテリングが完璧に一致した瞬間の一つである。

リー・ヴァン・クリーフ演じるエンジェル・アイにも、どれほどの称賛を贈っても贈り足りない。『 夕陽のガンマン 』の弱点というか、観る者の期待を裏切ったところに、一流のプロフェッショナル同士が闘うと一体どうなるのかということを、最後まで追求しなかったところである。クリーフの眼光炯炯たる目つき、顔つきは元々悪玉のそれに近い。その悪玉っぷりが存分に味わえることで、ドル箱シリーズファンのストレスも本作で一挙に解消される。

クリント・イーストウッド演じるブロンディは最初はトレンチコート姿で登場するが、物語の終盤に無言のうちに、The Good=善玉であることを証明するシーンがある。そこでのブロンディの変身は鳥肌ものである。馬さばき、射撃、煙草をつねにくゆらせるダンディズム、それら全ても、この瞬間を成立させるための小道具だったのかと思われた。この瞬間に我々は思い知る。「 この世には2種類の人間がいる。クリント・イーストウッドに痺れる者と、クリント・イーストウッドにこれから痺れる者だ」と。

クライマックスは映像と音楽と迫真の演技に圧倒されるばかりである。ブロンディの薄い切れ長の目とエンジェル・アイの射抜くような目、そしてトゥーコのぎょろ目が交錯し、互いが互いを視線だけで制し合うこの緊張感は、あらゆる映画体験の中でもトップであろう。エンニオ・モリコーネの ”The Trio” は20世の映画サントラの最高傑作のひとつであると評しても異論は出まい。もちろん、“The Ecstasy of Gold”もその一つである。

ネガティブ・サイド

強いて挙げるとするなら、メッセージ性の弱さだろうか。北軍所属のエンジェル・アイが悪玉であるのは分かりやすいが、それは軍事力批判というよりも、内戦批判だろうか。暴力を礼賛するわけではないが、決して否定はしない。法を無視するわけではないが、自らが自らに課したルールの方を重んじる、そうした強かな個の在り様が入り乱れる様は、善だ悪だと一緒くたにはできない。だからこそ、最後の最後の叫び声なのだろう。強いて挙げれば、原題が弱いのかもしれない。

総評 

これは傑作中の傑作である。20世紀最高の映画のひとつであると勝手に宣言させてもらう。おそらく世界にはこの意見に賛同してくれる人が一千万のオーダーで存在するはずだ。もうこの映画を観終わった瞬間の放心状態よ。気がついた時にはサントラを自分用に編集していた。本作は映像の面でも音楽の面でもキャラクターの面でも、世界中のあらゆる表現媒体に影響を及ぼしたと言っても過言ではない。我々は今後もこのような古典的名作を語り継いでいかなければならない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, S Rank, イーライ・ウォラック, イタリア, クリント・イーストウッド, リー・ヴァン・クリーフ, 監督:セルジオ・レオーネ, 西部劇, 配給会社:ユナイトLeave a Comment on 『 続・夕陽のガンマン 』 -20世紀の映画の最高傑作のひとつ-

『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

Posted on 2019年3月28日2020年1月9日 by cool-jupiter

バンブルビー 65点
2019年3月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ジョン・シナ
監督:トラヴィス・ナイト

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本家本元は『 トランスフォーマー 』、『 トランスフォーマー リベンジ 』、『 トランスフォーマー ダークサイド・ムーン 』の3つだけ観た。観れば観るほど面白さを失っていく作りで、マイケル・ベイにはいささか失望させられた。最後の2作はスルーさせてもらっている。しかし、Jovianが推しているヘイリー・スタインフェルドが主演とあらば、観ないわけにはいかない。

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あらすじ

時は1980年代。父の死を乗り越えられない孤独な少女チャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、リペアショップから黄色のビートルを譲り受ける。しかし、それはサイバトロンの戦士B-127が姿を変えたものだった。チャーリーは記憶と声を失った戦士をバンブルビーと名付けた。種を超えた友情を育む二人。しかし、そこにディセプティコン達が現れ、チャーリーとバンブルビーは否応なく戦いに巻き込まれていく・・・

ポジティブ・サイド

トランスフォーマー映画の大きな弱点の一つに、巨大ロボットたちの肉弾戦に説得力がないことだった。金属生命体同士の激突に、質量が感じられないことが個人的には一番の不満だった。スケールは全く違うが、『 シン・ゴジラ 』でJovianが最も好きなシーンの一つは、第四形態ゴジラが踏みしめた脚を上げただけで、家屋がバラバラになって空中を舞うシーン。おそらく時間にして2秒ほどだが、これでシン・ゴジラの実在性、迫真性が大いに増した。ちなみに、そうした細かな描写がほとんどなく、怪物同士が激突するだけのCGI shit festに『 パシフィック・リム 』がある。トレーラーにもあり、本編でもかなり笑えるシーンの一つとして、バンブルビーがチャーリーの家のソファに座って、それを壊してしまうシーンがある。彼のお茶目さを表すとともに、ボットの質量を表現する重要なシーンでもあった。

バンブルビーというキャラの魅力付けにもぬかりは無い。声を無くした彼が、コミュニケーション手段としての音声を手に入れるシークエンスは、非常にノスタルジックだ。カセットテープにレコードと、昭和の終わりから平成の初めの頃を思い出す。80年代のヒットチューンも満載で、一定以上の年齢層には刺さるだろう。バンブルビーがビートルの姿で疾走するエキサイティングなシーンから、非常にコミカルなシーンまであり、彼が単なる金属生命体ではなく、使命感と責任感のある戦士であり、それ以上に非常に心優しい人間味のあるキャラクターであることが如実に伝わってくる。ガレージで微妙に絶妙にノリノリになっているバンブルビー、嫌なものは嫌だと断固拒絶するバンブルビーを、我々はどうしたって愛さずにはいられない。

バンブルビーが魅力あるキャラクターに仕上がったのは、チャーリー演じるヘイリー・スタインフェルドの演技に依るところも大きい。こじらせ女子を演じさせれば右に出る者が無いないのは『 スウィート17モンスター 』で証明済みだ。そうそう、スティーヴィー・ニックスの楽曲は本作でも聞こえてくる。おそらくヘイリーのfavorite singerなのだろう。お父さんっ子であり、元高飛び込み選手であり、遊園地の売店のパートタイマーであり、メカニックの卵でもある。単に孤独な少女なのではなく、生き場をなくし、それでも生き場を求める少女が、それをオートリペアショップの古ぼけたビートルに見出す様、そしてバンブルビーの名付け親になり、ある意味での育ての親になり、無二の親友になり、戦友になっていく様はビルドゥングスロマンである。今も昔もメカやコンピュータにのめり込むのは男の子だったが、それを女の子にするだけでドラマが明るくなるし、よりカラフルになる。

ジョン・シナはプロレスラーとしては同時期のカート・アングルやJBLに遥かに劣った。しかし、演技に関してはストンコやバティスタよりも上かもしれない。ただ、軍人以外のキャラを見ないことには何とも言えないが。

シリーズ全てを知らなくとも楽しめるようになっているし、シリーズを全て追っている人ならもっと楽しめるだろう。とにかく監督がマイケル・ベイでなければ良いのである。

ネガティブ・サイド 

チャーリーの隣人の男の子役はキャラが上手く固まっていないという印象を受けた。気になる女子に話しかけたいが、うまくいかない。だがそれはタイミングが悪いのであって、彼が話しかける時を弁えていないというわけではない。一方で、自分で自分に ”You’re not a nerd, You’re not a nerd, You’re not a nerd.” と言い聞かせるところからして、設定ではオタクらしい。にも関わらず、部屋に飾ってあるポスターは『 遊星からの物体X 』。だがこれはリメイクのそれ。ナードならオリジナルの方を貼っとけと言いたい。また部屋にあった姉のものだと言っていた化粧品らしき瓶の数々は何なのだ?一瞬トランスジェンダーか何かかと思ったが、それならチャーリーが好きなことが説明しづらい。このキャラが充分に立っていないというか、属性が不明なのが気になって仕方が無かった。

不可解なシーンはチャーリー絡みでもあった。ネタばれになるので詳細は書けないが、何故そこでバンブルビーにそんなことをするのだ、というシーンが存在する。チャーリーのメカニックの卵設定はどこへ行ったのだ?

総評

シリーズを全て観ていない者の感想なので、見落としているもの、見誤っているものがあるはずである。それでも、欠点よりも長所が目立つ作品である。バンブルビーという名前が与えられる瞬間もいい。Prequel作品として見れば『 ハン・ソロ スター・ウォーズウォーズ 』よりも上質である。 もしも黄色のビートルが良いなと感じられたら、Jovianの先輩、水沢秋生の実質的デビュー小説『 ゴールデンラッキービートルの伝説 』をどうぞ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トラヴィス・ナイト, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

Posted on 2019年3月25日2020年4月26日 by cool-jupiter

夕陽のガンマン 80点
2019年3月21日 レンタルDVD
出演:クリント・イーストウッド リー・ヴァン・クリーフ
監督:セルジオ・レオーネ

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クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフの立ち居振る舞い、会話、銃撃。もうこの二人の存在感だけで満足できる。小学3年生ぐらいの時に、やはり親父と一緒にVHSで観た記憶がある。その頃はストーリーがほとんど分かっていなかった。それでもイーストウッドが帽子を何度も何度も銃で弾き飛ばすシーンは強烈な印象を幼心に残した。

あらすじ

賞金稼ぎのモーティマー大佐(リー・ヴァン・クリーフ)と、同じく賞金稼ぎのモンコ(クリント・イーストウッド)は、協力して賞金首の集団、インディオ一味を一網打尽にし、賞金を山分けすることに同意する。インディオ一味を内部から撹乱するために、モンコは一味に加わるが・・・

ポジティブ・サイド

本作も『 荒野の用心棒 』と並ぶマカロニ・ウェスタンの傑作である。のみならず、映画的技法においても最高峰であろう。ナレーションもなく、不必要に説明的な台詞をだらだらと喋るキャラもいない。ほんのちょっとしたショットの構図、キャラの表情や動きで、背景にあるストーリーやキャラの思考や感情が伝わる。冒頭のリー・ヴァン・クリーフの登場シーンと決闘シーンは象徴的である。牧師にしては鋭すぎる眼光、歴戦の強者に特有の話しぶり、そして彼我の獲物の射程距離を完全に把握した上での、余裕のある決闘シーン。演技と映像による語り、ビジュアル・ストーリーテリングの教科書に絶対に記載されなくてはならない場面である。

エンニオ・モリコーネの音楽についても触れないわけにはいかない。『 荒野の用心棒 』と同じく、乾いた大地と奥行きのある空を想起させるメロディラインに、火薬と血の臭いを感じさせる低音ヴォーカル、そして孤高の賞金稼ぎのシルエットをまぶたの裏に否応なく浮かび上がらせてくる口笛の旋律。エンニオ・モリコーネは、ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーに肩を並べる作曲家と評しても異論は出ないだろう。邦画の世界における伊福部昭か、それとも武満徹にも例えられるべき存在である。

クライマックスの決闘シーンのオルゴールの音色は永遠にも感じられる。この音楽が鳴りやんで欲しくない、と強く願ったが、それは『 ボヘミアン・ラプソディ 』における“We are the champions”について感じた気持ちと全く同質のものだった。これが鳴り終われば、この男の命の火が消えてしまう、という。

クリント・イーストウッドの変わらぬ存在感と、リー・ヴァン・クリーフの、ある意味での主役以上の存在感が、本作を傑作にしている。劇画『 ゴルゴ13 』の中には、プロがプロに依頼をする、またはプロがプロと共闘する話があるが、そうしたエピソードの源泉は本作にあったとしても不思議ではない。いや、本作のように銃で会話をするという技法を、漫画原作のなんちゃってコメディ映画の『 ルパン三世 』(監督:北村龍平 主演:小栗旬)が取り入れている(ルパンが五右衛門の銃を撃つシーン)ということが、本作が世界中の映画製作者に有形無形の巨大な影響を及ぼした証左ではあるまいか。一言、Timeless Classicである。

ネガティブ・サイド

モーティマーがインディオ一味を追う動機がなかなか明かされないことで、物語のトーンが安定しない。具体的には、この男が敵なのか味方なのか、観ている側が疑心暗鬼になってしまう。Jovianは彼の登場の仕方、その目つき、顔つきからして、「ははあ、こいつが今作のイーストウッドの敵役だな」と早合点してしまった。

銃撃によるコミュニケーションは痺れるほどにクールだが、果実を取ろうとする少年を助けるために、あそこまで撃ちまくる必要はあるのか。ちょっと手元が狂った、または少年が思わぬ動きをしてしまえば、過失致死傷害罪で自分が賞金首になってしまうだろう。

また、名シーンであるはずの帽子を撃ち続けるシーンを経ても、帽子にキズひとつ、穴ひとつ見当たらないのはどういうわけなのだ。小学生の時から持ち続けていた鮮烈な記憶が、少し怪我されてしまったようにすら感じた。血を一滴も流さない死体なども、せっかくのテーマ音楽のノイズになってしまっている。

総評

弱点は抱えていても、それを上回る面白さがある。また、西部劇という枠だけに括られない、バディムービーであり、ロードムービーでもある。クリント・イーストウッドの渋すぎる演技とリー・ヴァン・クリーフの存在感、モリコーネの音楽とレオーネによる監督術の全てが高次元で融合した傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, A Rank, イタリア, クリント・イーストウッド, リー・ヴァン・クリーフ, 監督:セルジオ・レオーネ, 西部劇, 配給会社:UALeave a Comment on 『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

『 ふたりの女王 メアリーとエリザベス 』 -歴史とは現代への遠近法-

Posted on 2019年3月24日2020年1月9日 by cool-jupiter

ふたりの女王 メアリーとエリザベス 75点 
2019年3月21日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン マーゴット・ロビー
監督:ジョージー・ルーク

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原題は” Mary Queen of Scots ”である。文字通り訳せば、スコットランド女王メアリーとなる。ただし、この邦題は悪くない。こちらの方が客を呼びやすいし、海外のポスターやパンフレットなどの販促物も、ふたりの女王にフォーカスをしているからだ。ジョージー・ルーク監督は単なる歴史映画ではなく、しっかりと現代をその視座に収めた物語を作ってきた。

あらすじ 

時は1580年代。舞台はグレートブリテン島。フランス帰りのメアリー(シアーシャ・ローナン)はスコットランド女王の座に就く。しかし、当時のスコットランドは、旧教カトリックと新教プロテスタントが混在。加えてメアリー自身の出自や再婚問題から、貴族や民衆に至るまで、敵味方が入り乱れ、争乱や陰謀が絶えなかった。その頃、南方のイングランドでは女王エリザベス(マーゴット・ロビー)が君臨。彼女らは対立と協力のうちに、互いへの信頼と尊敬を徐々に見出し・・・

ポジティブ・サイド

本作はジョージー・ルーク監督からの熱烈な恋文にして辛辣な批評である。誰に宛ててなのか?それは現代社会であろう。恋文と批評は併存しないのではないかと思われるかもしれないが、両者ともに対象への没入から生まれる文章だと思えば、本質的な差異はそこにはない。それではルーク監督が没入した対象とは何か。それは個と社会の関係の在り様であろう。

宗教改革後にして、ウェストファリア条約以前。つまり、信仰に対する個の意識の自由が叫ばれ、しかし、個の諸権利が著しく制限をされていた時代。個に対する教会と国家の関係が著しく揺れ動いていた時代。そうした時代に生きたメアリーという女王を活写する意味は何か。それは女性と男性の力関係を追究することであり、国家間の存立問題を考究することであり、様々な外的要因に影響されながらも個を保ち続ける崇高さを見つめ直すことだろう。

シアーシャ・ローナン演じるメアリーは、年齢相応に侍女らとガールズトークに勤しむ一方で、政治的に兄と対立する。未亡人として孤閨に耐えられないという気持ちを抱きながらも、再婚の相手は政治的な利得で決定する。そこには女性と女王という二つの属性がある。シアーシャ・ローナンは卓越した演技力と存在感で、メアリーの様々な顔を演じ分け、巧みに表現した。特に印象に残ったのは、内乱鎮圧の際、騎乗しながら手振りで指令を下すシーンだった。そこではメアリーが多分に私情の混じった判断を行っているのだが、その時のポーカーフェイスが良いのである。

対するエリザベスを演じるマーゴット・ロビーも負けていない。現英国女王はエリザベス2世で、初代エリザベスが本作で描き出されるエリザベス女王その人なのである。故マーガレット・サッチャーを彷彿させる鉄の女、いや鉄の処女で、女性らしさとは自ら決別し、政治と政事に携わる男たちの間で翻弄されながら、北方スコットランドの若き女王への妬みと嫉みの気持ちも捨てられない。そんな矛盾する個の在り様を、『 スーサイド・スクワッド 』のハーレイ・クイン、『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』のトーニャ・ハーディング以上の静かな熱演でもって披露してくれた。天然痘で瘡が残った顔を白塗りし、ウィッグをかぶり、それでもメアリーとなかなか向き合えない威厳のある女王にして、若さと美しさと強かさの全てに嫉妬し、同時に憧れてしまう一人の女性の悲哀を切々と、しかし、力強く演じ切った。

エリザベス女王の在位が世界最長となる慶事の一方で、スコットランドの独立運動が2014年という比較的最近にも盛り上がった。現英国王室は全てメアリーの直系子孫であるということを考えれば、ルーク監督は連合王国に対して多様性と統一性の両方が必要にして尊重されるべきだと考えているのだろう。同時に、近代という個の成立を追求する時代に、再び勃興の兆しを見せつつある全体主義や不健全なナショナリズムに対する警鐘を鳴らしてもいるのだろう。

ネガティブ・サイド

オープニング早々に字幕で背景を説明するのは、手抜きとまでは言わないが、もう少し見せる工夫が必要だろう。たとえばグレートブリテン島ではなくヨーロッパ大陸の当時の風俗習慣をほんの少し映像化するだけでも、当時のイングランドとスコットランドという世界に、もっと入っていきやすくなっただろう。

また、男の端くれとして、本作に描かれる男どものほとんどが、悪漢か卑劣漢か痴愚か、さもなければ小心者ということに、落胆させられる。『 真っ赤な星 』以上に、アホな男しか登場しない。唯一、メアリーが心許した男も、カエサルも斯くやという死に様を見せる。もう少し男に辛くない描写があっても良かったのではないだろうか。

総評

単なる地球の反対側の国の歴史映画と思うことなかれ。本作が描出するテーマは恐ろしいほど現在の極東の島国の状況と似通っている。多極化する世界と国粋主義化していく国と国民、そうした時代において力強く個が個であり続けるためのインスピレーションを与えてくれる大作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, シアーシャ・ローナン, ヒューマンドラマ, マーゴット・ロビー, 監督:ジョージー・ルーク, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 ふたりの女王 メアリーとエリザベス 』 -歴史とは現代への遠近法-

『 ディック&ジェーン 復讐は最高! 』 -アメリカ版鼠小僧物語-

Posted on 2019年3月24日2020年1月9日 by cool-jupiter

ディック&ジェーン 復讐は最高! 60点
2019年3月20日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジム・キャリー ティア・レオーニ
監督:ディーン・パリソット

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 嫁さんが近所のTSUTAYAで借りてきたのを一緒に鑑賞。これを見れば、今後はジム・キャリーの前歯を見るたびに、鼠小僧を連想するようになること間違いなし。原題は“Fun with Dick and Jane”で、1970年代に製作、公開された映画の現代版リメイクである。

あらすじ

IT企業に勤務するディック(ジム・キャリー)は、広報本部長への昇進を告げられる。妻のジェーン(ティア・レオーニ)も大喜びして仕事を辞めた。喜び勇んだ二人は新しい芝生を入れ、庭にプールを作り始めたが、実はディックの会社は粉飾決算で実態は経営破綻状態。社長だけは自社株を売り抜けていた。再就職活動がうまくいかないディックとジェーンは、ついに泥棒をすることになるが・・・

ポジティブ・サイド

ジム・キャリーと言えば、人間離れした怪演で知られる。それは『 グリンチ 』のレビューでも述べた。しかし、人間離れしない程度に面白い演技もできる俳優であることを本作は教えてくれる。意外にサラリーマン役がハマる。たとえばジョージ・クルーニーやケビン・コスナー、ハリソン・フォード、ブルース・ウィリスらは普通の一般人役は馴染まない。そう考えれば、ジム・キャリーの芸域の広さが見えてくる。

ティア・レオーニも良い味を出している。『 ディープインパクト 』のリポーター役で世に出たが、大統領役のモーガン・フリーマンに“I want …”と言って“Want?”と逆に凄まれてしまった小娘が、妻になり、子も持った、大人の女性を過不足なく演じている。

単なるコメディで終わることなく、『 オーシャンズ11 』や『ジーサンズ はじめての強盗 』的な手に汗握る泥棒シーンもあり、『 ショーシャンクの空に 』のような勧善懲悪物語的な一面もあり、『エリン・ブロコビッチ 』的なフィニッシュを飾る。普通に良い話である。

ネガティブ・サイド

余りにもトントン拍子に泥棒稼業が成功していくのはどうだろうか。コメディ映画に突っ込んでも詮無いことだが、そこがどうしても気になってしまった。特に子どもがいる設定は大胆に改変しても良かったのでは?

後は笑いたくても笑えないパートがいくつかある。ディックが移民局に取り締まられるパートも、誰がディックの財布を拾ったのかを明らかにしないのなら、不要だろう。単にディックがボコられて、顔が変形して、喋りも変になりました、というだけでは笑えないし、そんな方法を取らなくても、ディックの落ち目っぷりは描写できるはずだ。またジェーンも化粧品モニターで顔面に発疹ができてしまう展開もいらない。ヨガのインストラクターを辞めてしまったことで、脂肪をたくわえてしまった、という方がまだ説得力がある。ティア・レオーニは体作りに苦労するだろうが。

本作の弱点は、ジム・キャリーがあまりジム・キャリーっぽくないところである。水鉄砲を取り出そうとして取り出せないのは、面白いことは面白いが、我々がジム・キャリーに求めるのは、気持ち悪い面白さなのである。単純にコメディをやっているから面白いというのなら、ジム・キャリーである必要はどこにも無いのである。

総評

まさに手持ち無沙汰の雨の日DVDである。そうそう、TVドラマの『リゾーリ & アイルズ 』好きなら、本作には笑ってしまうかもしれない。アンジー・ハーモンがレオーニに向かって“Hey, Jane!”と呼びかけるシーンがあるのである。ジェーンはあなたでしょ!と突っ込んでしまうこと請け合いである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, コメディ, ジム・キャリー, 監督:ディーン・パリソット, 配給会社:ソニー・ピクチャーズLeave a Comment on 『 ディック&ジェーン 復讐は最高! 』 -アメリカ版鼠小僧物語-

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