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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 国内

『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

Posted on 2019年3月21日2020年1月9日 by cool-jupiter

思い出のマーニー 75点
2019年3月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:高月彩良 有村架純
監督:米林宏昌

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原作は英国児童文学の“When Marnie was there”、本作の英語翻訳も同名タイトルでアメリカ公開された。スタジオジブリ製作の実質的な最終作品ということで、これを観てしまうと何かが終ってしまう気がしていた。しかし、いつまでも避け続けるわけにもいかず、DVDにて鑑賞と相成った。

あらすじ

喘息持ちで周囲と打ち解けられない杏奈は、転地療養のため田舎の海辺の村の親戚の元へ旅立つ。そこでも同世代とは友達になれない杏奈は、村はずれの古い屋敷で、マーニーと出会う。二人は徐々に打ち解け、無二の親友になっていくが・・・

ポジティブ・サイド

12歳という思春期の少女と世界の関わりを描くのは難しい。異性または同性への憧憬、肉体および心理や精神面の変化、社会的役割の変化と増大。別に少女に限らず、少年もこの時期に劇的な変化を経験する。ただ、ドラマチックさでは少女の方が題材にしやすい。本作は児童文学を原作するためか、主人公の杏奈(有村架純)と外的世界の関わり、および彼女の肉体的な変化についてはほとんど描写しない。その代わり、非常に暗い内面世界に差し込む一条の光、マーニー(高月彩良)との不思議な交流を主に描写していく。これは賢明な判断であった。

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』で鮮烈に描かれたように、外界との交わりを絶ってしまった少女の物語は誠に痛々しい。そこに蜘蛛の糸が垂らされれば、カンダタならずとも掴んでしまうであろう。そこで杏奈は、マーニーの幼馴染である男性の影に怯え、嫉妬し、慷慨し、悲しむ。ところがクライマックスでは。こうした杏奈のネガティブな感情の全てがポジティブなものへと転化してしまう。これは見事な仕掛けである。同じような構成を持つ作品として『 バーバラと心の巨人 』を挙げたい。少女の抱える心の闇を追究した作品としては、本作に負けず劣らずである。

杏奈とマーニーが秘めた心の内を明かし合うシーンは切々と、しかし力強く観る者の胸を打つ。自らの心の在り様をさらけ出すことは大人でも難しい。愛されていないのではないかと思い悩むのは、愛されたいという強烈な欲求の裏返しなのだ。マーニーとの一夏のアバンチュールを経て、確かに変わり始めた杏奈の姿に、ほんの少しの奇跡の余韻が漂う。我知らず涙が頬を伝った。

ネガティブ・サイド

少年少女が抱く後ろ向きな想いというのは、その瞬間にしか共有できない、あるいは同じような、似たような経験をした者にしか共有できないものではある。であるならば、杏奈の小母さんが伝えるべきは、銭勘定ではなく真っ直ぐな愛情であるべきだ。もちろん子育て綺麗ごとではなく、カネがかかってナンボの人生の一大事業である。であるならば、そのことに後ろめたさを感じる必要はない。子どもの生きる世界と大人の生きる世界は違う。しかし、愛情という一点は絶対的に共有できる価値観なのだ、というテーゼを提示しているのが本作ではないのか。ここが作品全体の通奏低音に対してノイズになっているように感じられてしまった。

また、マーニーが金髪碧眼であるのは遺伝的にどうなのだろうか。児童文学やアニメだからといって、現実世界のルールを捻じ曲げてよいわけではないだろう。まあ、たまに遺伝子のいたずらで、劣勢遺伝が発現することもあるようだが、ここがどうにも気になった。杏奈が転地療養先のとある同世代女子とどうしても打ち解けられない点として機能していた、見ることも出来ないわけではないが、釈然としない設定であった。

ジブリ作品全体を通して言えることだが、やはり俳優と声優は別物だ。北野武の『 アウトレイジ 』シリーズが分かりやすい。周り全てが役者で一人だけ素人が混じっていると、恐ろしく浮いてしまう。本作の声優陣はそこまで酷評はしないが、やはりかしこに小さな違和感を覚えてしまった。まあ、ジブリにそれを言っても詮無いことなのだが。

総評

良作である。ジブリ作品の最高峰というわけではないが、標準以上の面白さもメッセージ性も備えている。10代の少年少女向けというよりも、むしろ内向きな青春を過ごした大人のカウンセリング的な作品としての方が、高く評価できるかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:米林宏昌, 配給会社:東宝, 高月彩良Leave a Comment on 『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

Posted on 2019年3月11日2020年1月10日 by cool-jupiter

翔んで埼玉 80点
2019年3月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:GACKT 二階堂ふみ
監督:武内英樹

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漫画『 パタリロ! 』の魔夜峰央が原作で、漫画『 テルマエ・ロマエ 』の映画化を成功させた武内英樹が、これまた見事な映画を世に送り出してきた。私的2019年度日本アカデミー賞作品賞受賞作は、これでほぼ決まりである。面白さだけではなく、映画的な技法の面でも非常にハイレベルなものがある。それほどの会心の傑作である。

あらすじ

かつての武蔵国から東京と神奈川が独立、その余り物で構成された埼玉県人は、通行手形なしには東京に入ることもできないという迫害を受けていた。そんな時に、東京都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の属する高校に、アメリカから謎の転校生、麻実麗(GACKT)が転校してくる。始めは反目しあうものの、麗の都会指数の高さに徐々に魅せられた百美は、麗との距離を縮める。しかし、麗が卑しい埼玉の出であることを知った百美は東京と埼玉の間で引き裂かれるような思いに・・・

ポジティブ・サイド

『 テルマエ・ロマエ 』にも共通することだが、ギャグ漫画を映画化しようとするならば、製作者は至って真面目にならなければならない。阿部寛演じるルシウスが現代日本の温泉テクノロジーやデザインに度肝を抜かれる様が面白いのは、その姿に我々がギャップを感じるからだ。ギャップとは認識のズレのことで、このズレ具合が笑いを呼び起こす力になる。駄洒落が好例だろう。

「隣の家に囲いができるんだってねえ」

「へえ、かっこいい!」

というのは、へえ=塀、かっこいい=囲い、という駄洒落になっている。同じものでありながら、それを捉える時の認識の違いが面白さの源泉である(上の例が面白いかどうかはさておき)。本作の面白さは、第一に役者陣の大真面目な演技(≠素晴らしい演技)から生まれている。真面目にアホなことを語り、真面目にアホな行動を取る。特に百美が麗に完敗を喫する某テストは、その好個の一例である。学校という舞台で序列が決まるのは、往々にしてこのような出来事なのだが、本作はそれをギャグという形であまりにも端的に描いてしまった。この学校という舞台装置が曲者で、ここの生徒たちは誰もかれもが劇団四季のオーディションもかくや、と思わせるほどに大仰な演技および発声をする。詳しくは後述するが、それは東京都、特に山手線内部に象徴される、いわゆる「東京」という空間の虚飾性および虚構性とパラレリズムを為している。東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである。百美が父から離反し、麗のもとに走ることを決断したのは、この「経済学的に不都合な真実」を知ったからである。

埼玉や千葉の人間が東京に対して潜在的にどのように感じているかについては『 ここは退屈迎えに来て 』のレビューで指摘したことがある。本作の面白さの第二は、まさにこのような彼ら彼女らの意識が、極端なまでに肥大化された形で表現されているところだろう。本作に描かれる埼玉は、一漫画家の想像や妄想の産物ではない。彼が観察した埼玉県人に共通する、普遍的な埼玉県人性とでも呼ぶべき性質を、とことんリアルにパロディ化したものなのである。だからこそ本作は埼玉県で驚異的なヒットになっているのであろう。これは差別の逆構造である。『 グリーンブック 』のレビューで「差別とは、その人の属性ではないものを押しつけること」と定義付けさせてもらったが、この映画は埼玉についてのネタ的なあれやこれやを執拗に描写する。これはレッテル貼りではない。逆に、自己の再発見、再認識になっている。劇中での埼玉ディスのピークは、「ダサいたま、臭いたま・・・」とエンドレスで続く駄洒落であろう。驚くべきことに、これが Motivational Speech として抜群の効果を持つのである。なぜなら、外部からそのような属性を押しつけられれば、それはすなわち差別であるが、こうした属性を自分で自分に付与していく、そして自分にそのような属性が備わっていると知ったことで、それを乗り越えようとする意志が観る者の胸を打つ。これはJovianがヒョーゴスラビア連邦共和国の住人だからなのだろうか。

本作の面白さの第三は、語りの構造のギャップにある。百美と麗の物語は、都市伝説という形でラジオ放送されている。それが、劇中のキャラクター達とそれを車中で聞くとある家族という、もう一つのパラレリズムを形成している。我々は百美と麗の物語にいちいち反応するキャラクター達を見て、無邪気に笑う。しかし、映画は最終盤で一挙に我々の生きる現実世界を飲み込んでしまう。この物語の構造と展開には唸らされた。映画を観ている我々は、実はもっと高次の存在に見られていたのか。まるで『フェッセンデンの宇宙 』のようだ。散々笑った後に、思い返してちょっぴり怖くなる。それが現実を鋭く抉る批評的映画としての本作の素晴らしさである。

エンドクレジットでも絶対に席を立ってはならない。はなわの歌に耳を傾けながら、この作品を世に送り出したスタッフの一人ひとりに感謝の念を捧げ、精一杯の敬意を表そうではないか。

ネガティブ・サイド

東京都庁の攻囲戦がやや間延びしていた。また、このパートのみアクションが真面目で、もっと振り切ったバトルシーンを観てみたかった。また、埼玉vs千葉の、それぞれ輩出した有名人合戦は、もう何名か繰り出せたはずだ。編集で泣く泣くカットしたのだろうか。

もう一つだけ気になったのは、Jovian本人は本作を観ながら、そこかしこで笑いをこらえるのに必死になったが、生粋の大阪人である嫁さんは「さっぱり意味が分からない」という態であったことだ。これはJovianが東京都在住10年半の経験を持っていて、嫁さんは生まれも育ちも全部大阪だからという背景の違いのせいでもあるだろう。しかし、それ以上に大阪という、東京には遥かに及ばないものの、それでも強力な重力を有する土地に生まれ育った者には、マージナルマンのパトスは理解できないという民俗学的、文化人類学的な理由もあるだろう。ぶっちゃけて言えば、生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。充分に現実を批評する力を持った作品だが、もっと東京を刺すような演出があれば85点~90点もありえたかもしれない。それだけがまことに悔やまれる。惜しい。

総評

2019年もわずか3カ月しか経過していないが、本作は年間最高傑作候補間違いなしである。エンターテイメント性とメッセージ性を併せ持つ、近年の邦画では稀有な作品に仕上がっている。カジュアルな映画ファンから、ディープな映画ファンまで、幅広い層を満足させうる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, GACKT, コメディ, 二階堂ふみ, 日本, 監督:武内英樹, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

『 リンダ リンダ リンダ 』 -濡れネズミたちの青春賛歌-

Posted on 2019年3月10日2020年1月10日 by cool-jupiter

リンダ リンダ リンダ 65点
2019年3月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ペ・ドゥナ 香椎由宇
監督:山下敦弘

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“We will rock you”や“We are the champions”のQueenには敵わないにしても、それでもTHE BLUE HEARTSはビッグネームである。 “キスしてほしい”や“TRAIN-TRAIN”を聞いたことが無いという中高生は、今でも少数派だろう。1980年代に少年時代を過ごした者がTHE BLUE HEARTSおよび甲本ヒロトから受けた影響は巨大である。その中でも一際輝くのは“リンダリンダ”であろう。そのタイトルを冠した映画ならば観ねばなるまい。

 

あらすじ

とある高校のバンドが、ちょっとしたいざこざからメンバーの脱退を招いてしまう。残されたメンバーは3日後に迫った文化祭のステージのために、韓国人留学生のソン(ぺ・ドゥナ)にボーカルとして新加入してもらい、オリジナル曲ではなくTHE BLUE HEARTSの“リンダリンダ”の練習を始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

『 スクールガール・コンプレックス 放送部篇 』を思わせる、BGMを極力排除した学校風景にはノスタルジアを感じた。この映画には、ドラマチックな展開は特に何も起こらない。しかし、そのことがシネマティックではないということを必ずしも意味しない。映画とはリアリティの追求が第一義で、本作にはそれがある。女子高生(というか女子全般)の人間関係の軽さと重さ、その底浅さと深さが全て表現されている。具体的に語ればネタばれになるが、本編の面白さを損なわないような例を挙げるとするなら、とある教室を皆が覗き込むシーンであろう。ここでは唐突に、現在の日本映画界の大スターが登場するので期待してよい。このシークエンスにおけるペ・ドゥナの目が素晴らしい。漫画的な目とでも言おうか、本来は日本語が不自由なはずの彼女が目で思いっきり語ってくれる。いや、目だけではなく立ち姿や口の微妙な開け方など、とにかく彼女の心の動きが手に取るように分かるのだ。そして、それを見つめる仲間の女子高生たち。自分にはこんな青春は無かったが、そこにあるリアリズムは確かに受け取った。

終盤にかけて、ようやく事件らしきことが起こるのだが、それをカバーしようとする彼ら彼女らがまた良い味を出している。はっきり言って中盤の描写はかなり中弛み気味なのだが、そうした陳腐な会話劇が、彼らを単なる有象無象のキャラクターに堕してしまわないような装置としてうまく機能していたのだと知る。この脚本はなかなかに心憎い。クライマックスは『 ボヘミアン・ラプソディ 』の同工異曲である。“リンダリンダ”ともう一曲が披露されるのだが、これは反則である。これは嬉しい不意打ちというやつである。このカタルシスは、『 ボヘミアン・ラプソディ 』とは決して比較してはならないが、それでも80年代に青春を経験したという世代に激しく突き刺さることは間違いない。

 

ネガティブ・サイド

甲本雅裕のキャスティングは悪くは無いが、ややノイズのようにも感じられた。甲本ヒロトという、ある意味でフレディ・マーキュリーのような男を憧憬の対象にするからこそストーリーが立つのである。彼そして彼らバンドとの距離が遠いからこそリアリズムが生まれるのであって、その逆ではない。悪い役者でも悪い演技でもないが、どうにもミスキャストに感じられた。

そしてラストの体育館の時計。撮影時点、または編集の時点で誰も気付かなかったのだろうか。これは大きな減点要素である。

 

総評

ドラマを期待するとガッカリするかもしれない。香椎由宇の水着姿が終ったところで離脱する人がいてもおかしくない。それほど静かな立ち上がりである。しかし、じっくりと向き合えば、ぺ・ドゥナの卓越した演技力と青春の普遍性を描いた、陳腐で芳醇な友情物語が味わえる。映画ファン、そしてTHE BLUE HEARTSファンにもお勧めをしたい。そしてぺ・ドゥナという小動物的な小悪魔の魅力も堪能して欲しい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, C Rank, ヒューマンドラマ, ペ・ドゥナ, 日本, 監督:山下敦弘, 配給会社・ビターズ・エンド, 香椎由宇Leave a Comment on 『 リンダ リンダ リンダ 』 -濡れネズミたちの青春賛歌-

『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

Posted on 2019年3月9日2020年1月10日 by cool-jupiter

凛 りん 30点
2019年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて鑑賞
出演:佐野勇斗 本郷奏多
監督:池田克彦

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『 火花 』はそれなりに面白い私小説であり、映画であった。又吉本人は心外に思うだろうが、あれはどう見ても私小説である。エンターテインメントの本質はフィクションにある。小説家にしてJovianの兄弟子(と勝手に私淑させてもらっている)奥泉光もそのような趣旨の発言をたびたびしている。あらすじだけ読んで、又吉の作家、クリエイターとしての本領を味わえると直感した。しかし、期待した分だけ、落胆も大きかった。

 

あらすじ

北関東の田舎で小さな子どもが消えた。同じ地方の高校で、野田耕太(佐野勇斗)は仲間たちとお気楽に暮らしていた。何者も何事も永続はしない。それが彼の信条だった。そこに東京からの転校生、天童義男(本郷奏多)がやってきた。寡黙な彼は周囲になじめなかったが、野田のグループは彼を温かく迎え入れる。彼らは次第に打ち解けていくが、ある時、町で二人目の子どもが消えた。人々はそれを「100年に一度起こる神隠し」の再発であると考えるようになり、天童が疑われるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

意外なほどにメッセージ性を持っている。母子家庭、一昔前の言葉で言えば欠損家庭に生きる主人公。そして、それぞれ家族や家庭に問題を抱える親友たち。(邦画において)キラキラまばゆいものとして描かれることの多い高校生活と仲間たちとの友情を、永続しないものと最初から諦観して受け入れている(かのように見える)主人公。環境面の設定だけ見れば、これまでに1万回は観てきたような作品だが、これほど各キャラクターが闇を抱えている作品というのは、湊かなえの『 告白 』、『白ゆき姫殺人事件 』、そして『 チワワちゃん 』ぐらいだろうか。このような緊張感ある設定は歓迎したい。何故なら、友情の美しさを無条件に肯定するような作品はこれまでにうんざりするほど量産されてきたからだ。

本郷奏多と千葉雄大は、どのように若々しさを保っているのかを個人的に尋ねてみたいと常々思ってきた。土屋太鳳が女子高生役を演じるたびにブーイングが巻き起こるが、本郷に対してそのようなリアクションは全く出てこない。彼の fountain of youth は何なのだろうか。もちろん、肌が白いから褒めているのではなく、ニヒリストに見えても、内面に熱くドロドロとしたものを持っていることが、言葉の端々から感じられるような複雑な、一筋縄ではいかないようなキャラクターを上手く表現できているからこその称賛である。

本作は『 グーニーズ 』のような友情もの、冒険ものとして味わうべきである。そうすれば、それなりに楽しめる。というか、楽しむにはそれしかないとでも言おうか・・・

 

ネガティブ・サイド

ポジティブと裏腹だが、本作の持つメッセージ性がそのまま弱点にもなっている。一体、話の軸足をどこに置きたいのだろうか。主人公たちの高校生とは思えないニヒリズム?それと対称を為すような友情の永続性への確信?それとも神隠しのミステリ?これらすべてが互いに干渉することなく成立していれば、それは脚本と監督の卓越した手腕によるものだ。しかし、これらの要素がどれも底浅く、互いが互いを一切補完しないのであれば、メッセージ性を詰め込み過ぎて失敗した作品と評価されても仕方がないだろう。

具体的には、主人公の耕太のキャラクターが首尾一貫していない。特に天童に対しての接し方に一貫性を欠いている。特に親友の一人への接し方と比較してみると、不自然さが際立つ。冒頭で語られるような、ややニヒリスティックな哲学ゆえのことであれば、天童に対して疑惑や怒りを向けるのであれば、もう一人の親友に対しても同様の態度を取れと思う。また、東京行きに興味は無いし、地元で普通の職に就くと常々語るのなら、なぜ東京から来た女性に胸キュンするのか。いや、恋というのは気が付いたら落ちているものだから、そこは目をつぶれる。しかし、それは幼馴染の女子を無下に扱う理由にはならない。そして、そのような態度こそが、天童を東京の高校から転校せしめたある事情と見事な相似形をなしている。つまり、耕太の天童への怒りは滑稽至極なものとして映らざるを得ない。キャラがぶれまくっているのだ。

問題があるのはキャラクター造形だけではない。誘拐の真相もだ。ここでいう真相とは、神隠しの真相である。というか、横溝正史の『 八つ墓村 』に言及するまでもなく、田舎というのは人間関係が良くも悪くも濃密である。だからこそ、他人の家の複雑な事情なども簡単に周囲にシェアされるし、転校生は既存の人間関係の輪になかなか溶け込めない。そうした中で何らかの犯罪が行われれば、それによって誰がどのような利得を上げるのかがすぐに明らかになってしまう。つまり、地元民の犯行であれば、すぐに露見するのである。

また100年に一度の神隠しというのも笑止千万である。日本のどこを探しても100年毎に○○が起きるなどという伝承はないのである。理由は考えるまでもない。100年に一度の何某かの現象が法則性を帯びると考えられるには、少なく見積もっても300~400年は必要である。問題は誰がそれを語り継ぐのか、あるいは記録に残すのかである。もしも貴方の住む地域に何らかの伝承があれば、それは誰かが人為的にごく最近作ったものだと思ってよい。まさに『 八つ墓村 』である。

神隠しの真相も噴飯ものである。というか、真相など無い。こんな結末など許してよいものか。ミステリの賞に応募すれば、編集者が原稿を破り捨てること請け合いである。とにかく物語の核心がどこにあるのか分からず、またミステリ要素についても、特に驚かされるものがあるわけでもない。又吉に書けるのは、やはり私小説だけなのだろうか。

 

総評

『 ミステリーを科学したら 』の由良三郎先生が本作を鑑賞したら、何と言うだろうか。あるいは綾辻行人あたりなら、何と評すだろうか。確かなのは、彼は決して本作を褒めないだろうということだ。映像作品としても光るところに乏しい。佐野ファン、または本郷ファン、または又吉ファンでなければ、敢えて観るまでもない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 佐野勇斗, 日本, 本郷奏多, 監督:池田克彦, 配給会社:KATSU-doLeave a Comment on 『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

Posted on 2019年3月1日2019年12月23日 by cool-jupiter

母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 65点
2019年2月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:安田顕 倍賞美津子 松下奈緒 村上淳 石橋蓮司
監督:大森立嗣

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タイトルだけで物語が全て語られている。元はエッセイ漫画だったようだが、そちらは未見である。しかし、それが特別な物語でも何でもなく、男が普遍的に持ついつまで経っても子どもの部分を健全に誇張もしくはデフォルメした話であることは直感的に分かる。

 

あらすじ

宮川サトシ(安田顕)は中学生にして急性白血病を患ってしまった。母の明子(倍賞美津子)の必死の看病の甲斐もあって、サトシは回復。時は流れ、サトシは塾講師として慎ましやかに父・利明(石橋蓮司)と母と暮らしていた。しかし、母が癌で倒れてしまう。サトシはあらゆる手を尽くして母の回復を祈願するが・・・

 

ポジティブ・サイド

安田顕がまたしてもハマり役だった。『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』に続いて、高身長女性とペアになるのだが、それが妙に似合うのだ。サトシは塾講師として教務と教室運営をしているのだが、どういうわけか真里(松下奈緒)という超絶美人と付き合うようになる。この映画が、地方移住を時々真面目に語る5chの「 塾講夜話 」スレッドの住人達に希望を抱かせないことを祈りたい。その真里は、マザコンの性根を丸出しにするサトシを支え、明子にも献身的に寄り添い、宮川家の夕餉にも赴き、談笑する。はっきりいって完璧すぎるのだが、真里が最も輝くのはサトシを叱りとばす場面である。我々男は母親に注意されたり、小言を言われたり、世話を焼かれたりするだけでも、どういうわけか無性に腹が立つ。それは母の愛は無条件かつ無償で得られる物だという錯覚または傲慢さから来ているのではあるまいか。その愛が失われるという事態に直面して、サトシは母を失うまいと百度参りから滝行まで、あらゆる手を尽くす。それは見ていて非常に痛々しい。なぜなら、効果が無いと分かっていても、自分でもおそらく同じようなことをしてしまうからだ。そのように感じる男性諸氏は多いだろう。母の愛は偉大であるなどと無責任に称揚しようとは思わない。しかし、母の愛に息子はどう応えるべきなのかについて、本作は非常に重要な示唆をしてくれる。中学生以上なら充分に理解ができるはずだ。それも直観的に。

 

本作は、よくよく見ればとても陳腐である。日本のどこかで毎日、これと同じようなことが起きている。しかし、それがリアリティにつながっている。冒頭でサトシが棺桶の中の母に語りかけるシーンなどは、まさにJovianの父が、Jovianの祖母の葬式前夜に行っていた所作とそっくりであった。多分、自分もああなるのだろうなと理屈抜きに納得させられてしまった。

 

サトシの兄は最後の最後に良い仕事をしてくれる。母の病室にそっけなく貼られている「おばあちゃん」の絵に、我々はサトシの甥っ子または姪っ子の存在を知るわけだが、この物語はどこまでもサトシと母、父、真里の閉じた世界で進行していく。しかし、兄の祐一の登場によってそんなものはすべて吹っ飛ぶ。『 洗骨 』でも述べた、「日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海がある」という言葉を我々はまたもや想起する。Jovianは自分のことをサトシ型の人間であると感じたが、自分を祐一型の人間であると感じる人も多くいることだろう。それは感性であったり環境であったりで決まるわけだが、このような兄弟関係、家族関係は実に微笑ましい。家族は離散を運命づけられているということを『 焼肉ドラゴン 』に見た。しかし、無条件に再会そして再開できるのも家族ならではなのである。本作鑑賞を機に、母親にちょっと電話してみたという男性諸賢は多かろう。それが本作の力である。

 

ネガティブ・サイド

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の南沙良の鼻水タラーリは映画ファンに衝撃を与えたが、安田顕も負けてはいない。だが、本作は少しお涙ちょうだい物語に寄り過ぎている。観る者に「衝動的な泣き」よりも「受動的な泣き」をもたらす作りは、ただでさえ題材がチープなのだから避けるべきだった。『 日日是好日 』では、日常の平穏と死のコントラストが際立っていたが、それは何よりも一期一会、つまり出会いの一つ一つ、経験の一つ一つが、何一つとして同じではないという思想が溢れていたからだ。典子が父からの電話に出なかったことを悔やむシーンがあったからだ。サトシも母からの電話を疎ましく思うシーンがあるが、遠方に住む典子とは違い、サトシは両親と同居している。そのことが、いつか必ず来る母との別離のドラマを少し弱くしている。

 

上映時間は108分だが、編集によってもう8分は削れたようにも思う。特に坂道と自転車のシーンは不要であるように感じた。ロッキーをパロったシーンは笑えたが、それも映画のトーンと少しケンカしていた。サトシのある意味での変わらない幼児性を表したものかもしれないが、それは他のシーンで充分に伝わって来る。

 

これは個人の主観または嗜好に依るところ大なのだが、最後の晩餐論争は陳腐を通り越してくだらなく感じた。理由は観た人ならお分かり頂けよう。何故なら「うちのが一番に決まっている!」からである。これは冒頭の梅干し論のところにも当てはまるもので、もし祖母なり母なり、場合によっては父が漬物や総菜を作ってくれていたなら、一番美味しいのはそれに決まっている。おふくろの味が最強である。You are programmed to want the taste of home cooking. それが真理である。最後の晩餐論争は、キャラクターから距離を取れる人でないと、その面白さが伝わらない。非常に良いシークエンスなのだが、諸刃の剣になってしまっているように思えた。

 

総評

男というのはつくづく不器用な生き物だと思う。我々はもしかすると何から何まで母や妻に負わなければ生きていけないのではないか。しかし、それでも良いのかもしれない。母なる海に抱かれるとは使い古された表現だが、だからこそ、そこには真実があるのだろう。そういえば日付が変わって昨日がおふくろの誕生日だった。罰あたりな息子ですまん。今週末にはご飯に誘おう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 倍賞美津子, 安田顕, 日本, 村上淳, 松下奈緒, 監督:大森立嗣, 石橋蓮司, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

Posted on 2019年2月25日2019年12月23日 by cool-jupiter

洗骨 65点
2019年2月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:奥田瑛二 筒井道隆 水崎綾女 大島蓉子
監督:照屋年之

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風葬にした遺体の骨を数年後に取り出して洗うという、文化人類学的に非常に興味深い風習を映画にしたというからには観ねばなるまい。この映画の意図やテーマは何であるのかを、なるべくまっさらな状態で受け止めてみたいと思い、予告編やパンフレットには極力近寄らずに鑑賞してみた。

 

あらすじ

新城信綱(奥田瑛二)は妻、恵美子を亡くして以来、セルフ・ネグレクト気味に生きてきた。しかし、粟国島の風習である洗骨を行う時になって、東京から長男の剛(筒井道隆)、名古屋から長女の優子(水崎綾女)が帰省してくるも、優子のお腹は大きく、しかしその子の父親であるはずの男の姿はなく・・・

 

ポジティブ・サイド

奥田瑛二、筒井道隆はいぶし銀の役者としてその地位を確立しているが、水崎綾女は恥ずかしながら初見であった。飄々として、それでいて色気もあり、しなやかさもあり、慈しみも感じさせ、なおかつ守ってあげたくなるようなキャラを見事に体現した。これは彼女の演技力なのだろうか、それとも素の姿に近いのだろうか。今後まだまだ上に行けそうな雰囲気もあり、なおかつ桜井ユキ的な活躍にも期待をできそうにも思える。もちろん、大島蓉子のような肝っ玉母ちゃんキャラをもこなす演技派に成長してもらっても結構である。

 

沖縄を舞台にした映画で、おそらく最もシリアスなのは『 ハクソー・リッジ 』であろう。そして沖縄を舞台にした映画で最も(意図的に)馬鹿馬鹿しいのは『 ゴジラ対メカゴジラ 』であろう。とにかくキングシーサーを眠りから呼び覚ますために、やたらと長い歌を聴かせなければならないし、そのキングシーサーはというと、メカゴジラよりも格段に弱かった(ようにしか見えない)描写しか印象に残っていない。それでは本作はどうか。監督がゴリであるからなのかは分からないが、シリアスさと馬鹿馬鹿しさを同居させようとしていたのが伺える。シリアスなシーンには必ずと言っていいほど冷静な突っ込みが入れられる。本来であれば誰も知る由のない親子の諍いに対して「よそでやってよ」とボヤくキャラもいる。いや、そうした人物が存在していたとしても、描写はしないのが映画的な文法ではなかったか。しかし、Jovianはこうした描写を評価したい。なぜなら、鑑賞後の劇場内で「いや~、沖縄の海はホンマにあんなんやで」、「島の人はあんなふうによう笑うねん」、「真面目な話をしてる時でも、なんか面白いことを言うてまうねん」と上品な大阪弁で熱弁を振るうおばあちゃんがおられたからだ。そうか、沖縄出身の方にはリアリスティックに見えるのか、と得心したのである。

 

本作はBGMがほとんどない。それが不思議と心地よい。『 君の名前で僕を呼んで 』と共通するような自然そのものの音を味わえる。『 おと・な・り 』で強く感じさせられた基調音が、本作では際立っている。この部分だけに注目すれば、まるで北野武の映画のようだ。

 

本作のもう一つのモチーフに海がある。日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海があるとよく言われる。それぞれに思うところあり、打ち解けられない男たちが問答無用で母なる海に抱かれるシークエンスは、海の生命力と包容力の観る者に感じさせる。それらの力は母の象徴でもあったろう。海は最も身近な異界であるが、母の胎内こそが故郷で、我々は生まれ出たその瞬間から、この世という異界に生きているのかもしれない。であるならば、粟国島の東がこの世、西があの世という世界観もフィクションなのかもしれない。実際に、子どもたちは元気にあの世とこの世の境界線を走り回っていたし、大人もそれを強く止めることはなかった。愛する者の死を受容する為に骨をこの手に持つ。それは取りも直さず、生の終着点が死であることを思い知らされることである。しかし同時に、自分の骨を洗う誰かがこの世に存在するという安心感のようなもの、自分の骨を洗うまだ見ぬ誰かの存在を想起することにもつながる。加地伸行の言葉を借りるならば、親孝行の孝の本質とは「生命の連続」である。ハイデガーの言葉を借りるならば、我々は頽落している。死を忘れるな。メメント・モリ。死者との向き合い方について、『 おくりびと 』以上に直球の作品が放たれた。映画ファンなら観るべし。

 

ネガティブ・サイド

非常にわざとらしい段ボール箱があったが、ああいうものは要らない。もしくは、もっと存在感を小さくして見せるべきだ。説教臭い要素を入れたい、または観る側に露骨にメッセージを伝えたいのなら、文学でやってくれ。

 

優子のお相手であるはずの店長の空気の読め無さ、ウザさが全体のバランスを壊していると感じた。ともすれば重い空気が流れかねない雰囲気の中でライトな感じを演出したかったのだろうが、逆に空気をぶち壊していた。お笑い芸人が役者をやることを否定はしない。しかし、役どころによるだろう。面白い役を面白い人にやらせて、果たして本当に面白いのか。ゴリではなく、照屋年之に問いたい。

 

またリアリティを追求すべき箇所で、おいおいちょっと待て、監督が気付かないのもおかしいが、他の女性スタッフの誰も気がつかなかったのか?と首をかしげざるを得ない描写がある。これのせいで、非常に良い味を出していた大島蓉子のキャラが一気に皮相的になってしまった。最近もある芸能人が出産後にある行為を行って、一部の人間を驚かせたというニュースがあった。また出産に立ち会ったことのある人間なら、赤ん坊が出て来てハイ、終わりではないということを知っているはずだし、たとえそうした経験が無くとも、ペット、特に犬や猫(これを観察するのはなかなか難しいか)の出産を観察したことがあれば、分かるはずのことだ。クレジットに医療監修はあったかな・・・

 

総評

大きな弱点があるものの、それでも映画作品として観た時に示唆的であったり、感動的であったり、ユーモラスであったり、シリアスであったりする。つまり、観る者の心に訴えかける作品に仕上がっている。小さな子どもに「せっくすうー!」と叫ばせるのはどうかと思うが、敢えて思春期の子どもに見せてやるという選択をする親がいてもよい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 大島蓉子, 奥田瑛二, 日本, 水崎綾女, 監督:照屋年之, 筒井道隆, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

Posted on 2019年2月19日2019年12月22日 by cool-jupiter

雪の華 35点
2019年2月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 登坂広臣 
監督:橋本光二郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190219024702j:plain

『 羊と鋼の森 』の橋本光二郎監督ということで期待をしていた。期待は禁物なのだが、それでも期待するのが人の性。そして、その期待は少し裏切られてしまった。元々は10年以上前の中島美嘉の楽曲にインスパイアされたようだが、確かに当時はテレビでもカラオケボックスでも『 雪の華 』が流れまくっていたのを覚えている。

 

あらすじ 

平井美雪(中条あやみ)は小さな頃から病弱で、医師からは遂に余命一年を宣告されてしまう。失意の美雪はひったくりに遭うも、綿引悠輔(登坂広臣)に荷物を取り戻してもらう。雄輔は美雪に、「声を出していけ」と激励して去っていく。ある日、街で偶然雄輔を見かけた美雪は、雄輔の勤めるカフェにまでついて行き、そこで100万円で一カ月だけ自分の恋人になって欲しいとお願いするが・・・

 

ポジティブ・サイド

アメリカ、カナダ、オーストラリア、英国、韓国、中国、メキシコ、エジプト、インド、スペインなどではなく、フィンランドにフォーカスした作品とは本邦初ではないだろうか。知人の話では冬のフィンランドは朝の9時頃からようやく明るくなり、昼の3時過ぎを回ったあたりから薄暗くなり始めるということだった。しかし、本作は夏のフィンランドと冬のフィンランド、両方をしっかりと収めてくれる。ただ収録は夏と冬に分けて行ったわけではないと思われる。フィンランドの工芸品、街並み、ホテル、景観そして旅情ある景色を味わわせてくれる、非常に貴重な映画である。そして本作の価値およびオリジナリティはそこまでであった。

 

ネガティブ・サイド

主役二人の芝居のクオリティが低い。もちろん、素人っぽさというか普通の人がちょっとした偶然から付き合うようになり、ドラマチックな関係を育んでいく過程を映し出したいというのは理解できる。しかし中条あやみの演技が端的に言ってキモイ。恋に恋する乙女を演じているのは理解できるが、ラノベのキャラクターではあるまいし、初心でありながらも百戦錬磨的な雰囲気を出しているのは何故なのだ。たとえば幼少の頃から病弱で、小説や文学の世界に没頭していたり、または映画や少女漫画の世界に憧れていたり、という描写があれば、まだ理解できる。しかし、そうしたキャラクターのバックグラウンドを特に描くことなく、「お兄ちゃんを私に取られたと思って、嫉妬してる?」などと言うのは、唐突過ぎる。その一方で、フィンランドのホテルで部屋が一室しかないというところで慌てふためいたり、そうかと思えば部屋に一人籠りながら、期するところありげにドアの方に振り返るなど、キャラクター属性に一貫性を欠いている。

 

ここからは少しネタばれ気味であるが、ネタばれではあっても、大したものではないと判断できるのであえて書く。Jovianは冬のフィンランドに行ったことはまだないが、それでも終盤の展開が荒唐無稽であることは分かる。地元の人が「そんな服装じゃ無理だ」というのに、雪降りしきる森林そして雪原を日本のちょっと寒い日ぐらいの服装で駆け抜けていく悠輔の姿は決して感動的なものではない。滑稽を通り越してお粗末でさえある。日本映画に特有の「主役級のキャラクターが駆けていくのを横から追いかけていくショット」にはうんざりである。これまでに唯一、こうしたショットで意味を見出せたのは『ちはやふる -下の句- 』で千早が学校のグラウンドを遠景に走り出すシーンぐらい。競技かるたを個人競技と見誤ってしまった千早が、サッカーや野球の練習をする生徒達を背景に走るシーンは、仲間の元へと帰ろうとする千早の内面の心象風景と合致していた。このように意味のあるショットは認める。しかし、ただ単にそれがよく使われている手法だからといって採用するのならば、単なるクリシェの拡大再生産をしているに過ぎない。橋本監督には期待するところ大なのである。次作での奮起を期待したい。

 

総評

中条あやみファンなら観よう。しかし、彼女の今後の成長の伸び代に関しては、あまり良い感触は得られないだろう。なにか一つ、殻を破る役をオーディションに出まくってでも掴みとって欲しい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 中条あやみ, 日本, 登坂広臣, 監督:橋本光二郎, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

Posted on 2019年2月15日2019年12月22日 by cool-jupiter

チワワちゃん 70点
2019年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 成田凌 吉田志織
監督:二宮健

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門脇麦と成田凌という『 ここは退屈迎えに来て 』でも見れらた若手の実力者の共演である。それだけでもチケットを買う価値はある。実際に I got my money’s worth. 

 

あらすじ

「チワワ」(吉田志織)が死んだ。バラバラ殺人だ。ミキ(門脇麦)はチワワの恋人だったヨシダ(成田凌)やその取り巻き、友人、知人らにチワワがどんな人間だったのかを確かめていく。そこで知ったのは、自分が全く知らないチワワの姿で・・・

 

ポジティブ・サイド

非常にドラッギーな映像から始まる。まるで、これから見るのは映像麻薬ですよ、とでも宣言しているかのようだ。そして実際にその通りである。女子の下着パーティーあり、プール内での美少女同士のキスありと、いったい何を観に来たのだろう?と頭がクラクラしてくるような映像を二宮監督は放り込んでくる。Good jobである。

漫画が原作であるということで敬遠することなかれ。いわゆる少女漫画を原作とする十把一絡げの青春ムービーとは明らかに一線を画す映画である。大ヒット(少女)漫画のストーリーというのは、基本的にファンタジーである。王子様に見出されるお姫様のお話である。なので、そうした映画を観ながら「ああ、俺にもこんな甘酸っぱい、青っちい時代があったなあ」という風にはとても感じられないのである。もしもそのように感じられる映画ファンがいれば、相当に幸運な人生を送れた証である。リア充爆発しろ。しかし、本作の描く青春模様はファンタジーではない。それは青春の一面を異常に肥大化させた、あるいは極度に誇張させたものである。美少女または美男子が転校して来て、自分の隣の席に座るようになる、やがてその相手と劇的展開を経て恋仲になるなどという漫画のような、というか漫画そのものの経験をしたことのある人など、一万人に一人ぐらいしかいないのではなかろうか(分母が十万人でも五千人でも、希少性が高いという意味では大差ないだろう)。しかし、本作で描かれるような若気の無分別を経験したことのない人というのは、あまりいないように感じる。もちろん、危ない筋から大金を強奪するというのは論外だが、ちょっとしたあぶく銭を一瞬の享楽のために溶かしてしまっただとか、行きずりの相手とベッドインしただとか、家に帰れない事情があって知人友人宅を転々としただとか、クラブで飲んで踊り明かしただとか、そういう経験である。Jovian自身もこの映画ほどのクレイジーな経験はしていないが、大学時代には先輩の車に同級生らと乗り込めるだけ乗り込んで、吉祥寺の「ホープ軒」でアホほどラーメンを喰ったその足で、環七沿いの「なんでんかんでん」でやはりしこたま豚骨ラーメンを喰い、そのまま何故か港の見える丘公園に乗り込んで大騒ぎし、返す刀で井の頭公園に戻って、やはり乱痴気騒ぎに興じたことがあった。良い思い出であると同時に、今思い起こしてみても、何故あれほど全力で騒いで遊んで楽しめたのか分からない。

本作はチワワがなぜ殺さなければならなかったのかについては明確な答えは出さない。その筋の仕業だろうとは推測されるが、もはやそれは重要でも何でもない。本作には大人と言えるキャラクターが数えるほどしか出てこない。その一人、浅野忠信は圧倒的な迫力と存在感でカメラ小僧を威圧する。このカメラ小僧はある意味で子どもの代表であり象徴でもある。チワワに恋焦がれるも、カメラのファインダー越しにしかチワワを見ることができず、チワワと個人的な関係を築きたいという欲望が隠しきれないにもかかわらず、自分の撮る映画に出演して欲しいという願いを伝えることでしか、コミュニケーションが取れない。映画に出て欲しいというのは、自分にとっての理想的なキャラクターになって欲しいという意味だろう。浅野忠信はチワワという「現存在」が未来に「投企」されていないという事実を冷徹にも暴きだした。一方でカメラ小僧は美しく天真爛漫で無邪気に快楽を享受するチワワを記録しようとして、ヨシダにそれをぶち壊される。この成田凌演じるヨシダは大人と子どものちょうど境目である。B’zの“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の「あいつ」のような男なのだ、と言えばピンと来るB’zファンあるいは邦楽ファンも多いだろう。青春群像劇としては異色の野心作に仕上がっている。吉田志織という原石がこれからどういう光を放つようになるのかは未知数だが、期待の若手勢ぞろい作品という点では『 十二人の死にたい子どもたち 』よりも本作の方が面白い。

 

ネガティブ・サイド

舞台を現代に設定し直す必要はあったのだろうか。確かにSNSが効果的なガジェットして使用はされていたが、チワワという存在の皮相性と深層性を際立たせるものではなかった。舞台を原作のまま1990年代にして、『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』の如く、若さゆえの暴走、若さゆえに無分別、それゆえの刹那的な輝きを記憶に留めるような物語の方がより印象的になったのではと思う。SNSが発達した時代というのは、携帯のカメラやデジカメなども相当に進化している世界なわけで、チワワの画像や映像、音声やテキスト情報などが膨大な量で残っていても全く違和感がない、というかチワワに関するそうした記録。情報の類があまりにも少なすぎて、「本当に現代なのか?」という違和感が最後までどうしても拭えなかった。

 

これは完全に自分が監督になったつもりでのぼやきだが、劇中でチワワが歌って踊る“Television Romance”を何故エンドクレジットシーンに採用しなかったのだろうか。チワワとその周辺の人間関係はほとんど全部この歌で描写されてしまっているではないか。チワワの物語の余韻に浸るべき瞬間にこそ、このテーマソングがより強く輝けるのではないのか。そこのところを非常に惜しいと思う。

 

総評

「くだらなかったあの頃に 戻りたい 戻りたくない」という“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の一節が強烈に脳裏に浮かんでくる。そんな一作である。もちろん、いい年こいたオッサンの抱く感傷と、まさに20歳前後の登場人物たちと同世代の映画ファンの抱く感想は、大いに異なるはずだ。観る者によって呼び起される感覚が異なるというのは、それだけ良い作品なのだ。一面ではなく多面的に見ること、見られること。それを是非、劇場で大画面で体験しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, ミステリ, 吉田志織, 成田凌, 日本, 監督:二宮健, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

Posted on 2019年2月12日2019年12月22日 by cool-jupiter

PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 45点
2019年2月3日 東宝シネマズなんばにて鑑賞
出演:野島健児 佐倉綾音 弓場沙織
監督:塩谷直義

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190212030628j:plain

タイトルが挑発的だ。日本社会における突出したサイコパスとしては、『 友罪 』の元ネタにもなった神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗、そして佐世保女子高生殺害事件の女子高生などが思い浮かぶ。社会はそうした人間を排除してはならない。しかし、慎重に隔離せねばならないと個人的には考えるが、意見を異にする人も多いはずだ。そうした意見を表明するに際して、娯楽作品の形を借りるのは幅広い層にメッセージを届けるにはある程度効果的だと思われる。

 

あらすじ

時は近未来。「システム」の開発と普及により、サイコパシーを数値で割り出すことが可能になった世界。個人は、犯罪だけではなく、自らの潜在的なサイコパス指数によっても拘束を受ける社会。宜野座伸元(野島健児)は青森の潜在犯隔離施設に何かを嗅ぎつけるが、そこには国家的な陰謀が展開されており・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・クルーズの『 マイノリティ・リポート 』のようである。ただ、犯罪、特に殺人を防ごうとするマイノリティ・リポート的世界とは異なり、サイコパスそのものを取り締まる本作の世界観はリアリスティックでありながらも異様でもある。社会とは元々は一人もしくは少数ではサバイバル不可能な人間という生物が、生存可能性を最大にするために編み出したものであろう。古代人の骨から、重篤な障がいを持ちながらも、成人するまで生きていた個体も多数いたことが判明している。社会は様々な個性を包括することで強くなる。しかし、本作の描く社会には排除の論理が強く働く。もともと障がいは“障害”だった。Jovianの視力はかなり悪く、眼鏡やコンタクトレンズなしには生活や仕事は難しい。もしも戦国時代に生まれたなら、結構な穀潰しとして扱われたのは間違いない。しかし、視力は矯正できる。また『 ブレス しあわせの呼吸 』や『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』でも描かれているように、我々の社会は確かに障がい者を包括する方向へと変化してきている。十年前に比べると、エレベータ付きの駅、車いす対応のタクシー、その他にも車いす対応の映画館や美術館の数などは格段に増えた。しかし、精神的な障がい(と呼ぶべきかどうかは悩ましい)は目に見えないため、対応も難しい。『 ザ・プレデター 』は駄作中の駄作だったが、自閉症に関する非常に興味深い仮説を提示した。本作は個人の内に犯罪係数なるものを読み取るシビュラシステムというものが存在する。これはこれでありうる装置であると感じた。『 ターミネーター3 』も凡庸なSFアクションだったが、T-800がジョン・コナーに向かって、呼吸や脈拍のデータからその行動は云々と伝えるシーンを思い起こさせた。人間の精神を崇高なものではなく、あくまでフィジカル面から読み取れるものだという非常に乾いた世界観は悪くない。

 

ネガティブ・サイド

プロットにあまりにも捻りがなさすぎる。「サンクチュアリ」というのは現実の日本社会への風刺であろうが、それをやるならば大多数の無辜の民に思える人間たちこそが実は・・・という形でないと、現実批判にはならない。サイコパスの理想郷、桃源郷なるものを作れるとすれば、それは社会の支配者層をサイコパスが占めることだろう。そして、実は現実世界で多大な成功を収める政治家や実業家、芸術家にはかなりの割合でサイコパスが含まれているというのは周知の事実である。ユートピアに見えたものが一皮剥げばディストピアだった、というのは1950年だから続くSFのクリシェである。そうした norm をひっくり返すような強烈なアイデアを期待したかったが、それは無い物ねだりだったのだろうか。

 

また宜野座の義手が強力すぎないか。義手そのものの強度はそういう設定であるとして、彼の体のその他の部分は生身だ。そしてまっとうな物理法則(作用反作用や慣性etc)を考えれば、あのような無茶苦茶なアクションシークエンスは生み出せないし、鑑賞することもできない。シビュラシステムという虚構にリアリティを持たせるためにも、その他の要素も充分にリアリスティックに作るべきであったが、そのあたりのポリシーや哲学が製作者側に欠けていたか。虚淵玄の強烈な、ある意味で凶暴な思想と個性に振り回されてしまったか。

 

もう一つ。本作はMX4Dで鑑賞したが、それによってプラスアルファの面白さが生まれたとはとても思えなかった。次作を鑑賞する時は、通常料金またはポイント鑑賞をしようと思う。

 

総評

『 亜人 』やアニメゴジラなど、アニメーション作品の3部作構成がトレンドなのだろうか。できれば『 BLAME! 』のように、重要エピソードを一作品に程よくまとめてくれると有りがたいのだが。アニメーションに抵抗がなければ、見ても損はしない。しかし、得もしないか。第二部はスルーしようかと思案中である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, サスペンス, 佐倉綾音, 弓場沙織, 日本, 監督:塩谷直義, 配給会社:東宝映像事業部, 野島健児Leave a Comment on 『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

Posted on 2019年2月11日2019年12月21日 by cool-jupiter

七つの会議 65点
2019年2月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:野村萬斎 香川照之
監督:福澤克雄

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190211024641j:plain

働くことの正義を問うとは大仰な煽り文句だ。しかし、『 空飛ぶタイヤ 』が結構なカタルシスをもたらしてくれる娯楽作品であると同時に、現実を鋭く抉る批評的作品でもあったことから、本作も同工異曲の映画であろうと予想していた。働くことの正義なるものについての論評はしがたい作品であるが、水準以上の面白さは有していた。

 

あらすじ

東京建電の八角民夫(野村萬斎)は、居眠り八角の異名を持つ怠け者。しかし、八角の排除を試みようとした社員は皆、謎の異動に処されてしまう。八角の勤務態度の裏にあるものとは?上司の北川(香川照之)と八角の関係は?そこには東京建電の抱える深い闇が広がっていて・・・

 

ポジティブ・サイド

どのキャラクターも見事に立っている。主人公の八角演じる野村萬斎がまさに狂言回しである。それに輪をかけて北川演じる香川照之がブラック企業の幹部を体現している。それはリアリティを追求する方法ではなく、一部の特徴を誇張・肥大化させることで達成されている。それは正しいドラマの作り方でもある。古代ギリシャの時代から、ドラマツルギーとは人間の一側面を過大に描くことで成り立ってきたとさえ言える。本作に登場するキャラクターは、誰もかれもが典型的なキャラをその役割や職務に応じて演じている。「現実的であるということは陳腐なことである」とは小説家・奥泉光の言だが、いわゆるブラック企業の在り方やダメ社員の処遇については、我々は実はほとんど知らないのではないか。我々の耳目に入る情報は極端なものか、メディアが編集したものか、もしくはひときわ声の大きい個人が知らせてくれるものぐらいだろう。そうした意味で、この映画に出てくるあらゆるキャラクターはリアルさには欠けるものの、典型的と評してよい。キャラクターが立っているというのは、そういうことである。

 

さらに池井戸潤作品の特徴である現実批評の精神は本作にも通底している。特に政府による文書の改竄や統計データの不正が明らかになった昨今、明らかに我々が本作を視聴する目は厳しくなる。厳しいというのは審美眼のことではなく、フィクションと現実を重ね合わせてみようとする姿勢のことである。東芝やオリンパスのような巨大企業の不祥事の構造の全貌が判明せず、チャレンジなる曖昧模糊とした言葉で管理職は平社員にプレッシャーを与え、そして責任のはっきりしない不祥事が発生する。本作はそんな現実世界の出来事を忠実になぞるかのように、次から次へと悪役候補が現れては消え、そしてまた現れてくる。これは面白い。我々はあまりにも「皆が悪いのだ」という論調に慣れ過ぎている。これは『 華氏119  』の当時のB・オバマ米国大統領の言葉でもある。しかし、元凶というものは確かに存在し、そしてそれは追及されねばならないと、本作は宣言している。特に上位の会社が下位の会社の財布の中身まで覗き込み、カネの使い方にまであーだこーだとくちばしを突っ込んでくるところは、某愛知の自動車メーカーと某大阪・寝屋川市自動車部品メーカーの関係を見るかのようだった。不正とは、現場レベルやノンタイトルの従業員が行うようなものではない。それは上からの圧力によるものであることがほとんどだろう。一部のサラリーマンや公務員にとっては、本作は非常に胸のすく展開であるに違いない。

 

ネガティブ・サイド

残念だが細部にリアリティが不足しているように思う。『 真っ赤な星 』にもあった不倫ネタ、「俺、お前とのことを真剣に考えているから」という台詞は陳腐であるからこそリアルなのであるが、これはお仕事ムービーであり、サラリーマン映画なのである。前半の不倫プロットのパートは不要というか、八角の存在感の無さ、そして神出鬼没さ、目敏さ、そして意外なコミュニケーション力を演出したかったのだろうが、この部分がかなり冗長だったように感じた。

 

また東京建電の抱える闇であるが、こんな事実が発覚しなかった方がおかしいとすら感じる。あの業界やあの業界は独自に部品のスペックをチェックしているし、特に福知山線の脱線事故からこちら、列車の製造およびメンテナンスの主眼は安全性に置かれていると聞く。キャラクターは典型的でも良いのだが、ストーリーにはやはりリアリティを求めたい。製造業や営業という職務に従事する人が鑑賞すれば、かなり突っ込みどころの多い作品になっていることは、容易に想像がつく。そこが本作の惜しいところである。

 

総評

単体の映画として見れば『 空飛ぶタイヤ 』に軍配が上がる。しかし、社会全体を風刺する、または国民性を追究する、サラリーマンという生き物を“生態模写”するという意味の面白さでは優るとも劣らないものがある。新元号になってから就業していく、世に出ていく中高生たちが見てみれば、平成という世の働き方に良い意味でも悪い意味でも感じ入ることがあるのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, 日本, 監督:福澤克雄, 配給会社:東宝, 野村萬斎, 香川照之Leave a Comment on 『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

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