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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2020年代

『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年1月29日2020年11月11日 by cool-jupiter

サヨナラまでの30分 40点
2020年1月28日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:北村匠海 新田真剣佑 久保田紗友
監督:萩原健太郎

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入れ替わり系のストーリーは時代や地域を問わずに生産され続けている。それだけ思考実験しやすいジャンルであり、またテクノロジーの進化とも相性が良いジャンルなのだろう。本作は新しい視点は提供してくれたが、様々な描写が不足しているため、説得力がなかった。

 

あらすじ

アキ(新田真剣佑)はギタリスト兼ヴォーカリスト。バンドのメジャーデビューを前に不慮の交通事故で世を去ってしまう。カセットテープとウォークマンを残して。そのウォークマンを偶然に拾った颯太(北村匠海)は、カセットテープを再生している間は、颯太の体にアキが入り、颯太は幽霊状態になってしまうことが分かり・・・

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ポジティブ・サイド

以外と言っては失礼かもしれないが、北村匠海の歌唱力が目立った。声を張り上げる役をあまり演じてこなかったというのもあるが、アマチュアの声ではなかった。それとも本職がアテレコしているのか?いや、そうは聞こえなかった。一応歌手もやっているようだが、もしまだタバコを吸っているのなら止めたほうがよい。また演技力でも成長を見せた。『 累 かさね 』における土屋太鳳と同じく、一人二役とは言っても、実際は北村が1.5、新田真剣佑が0.5ぐらいの配分に感じられた。

 

邦画の青春映画というと、おそらく7割以上が高校を舞台に高校生が繰り広げるが、大学生や社会人ものというのも味わい深いものがある。ある程度、酸いも甘いも嚙み分けてきて、その上で自分の道にのめりこめるからだ。好きという気持ちだけで突っ走る中高生も、それはそれで甘酸っぱく感じないわけでもないが、オッサンにはもうそろそろキツイ。自分がそれなりに謳歌した大学時代を軸にした映画の方が楽しみやすい。

 

本作のテーマである“上書き”は、おそらく意見がかなり割れることだろう。Jovian自身は賛と否、両方の意見を持っている。ここでは賛の意見を。バンドというのは不思議なもので、英単語のbandは音楽のバンドだけではなく、ひも、縄など、ぐるぐる巻きにして留めるもの、縛るものなどを指す。ボクシンググローブをつける前に、ボクサーは拳にバンデージを巻くのである。アキは、自分自身が生き返ることではなく、バンドの存続を願った。虎は死して皮を残すではないが、自分抜きにバンドが続くことを承認している。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のレビューでは、「フレディ死すともクイーンは死せず」と書いた。フレディ在りし頃のQueenは記録にも記憶にも残っている。そして、フレディが死に、ディーコンも事実上脱退したQueenは今も活動中で、まさに日本ツアーを敢行中である。もっと卑近な例を挙げればモーニング娘。やAKB48などは、メンバーが入れ替わってもグループとしては存続を続けている。大切なのは、人間同士のつながりそのものよりも、そのつながりによって何を生み出すのかである、という主張にも一理はある。本作はそのことをファンタジー形式で提示したと言える。我々はすぐにスマホで録音をし、写真や動画を撮るようになってしまったが、萩原監督は本作を通じて、「人とつながれ、何かを生み出せ」という現代人批判を行っているのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

厳密には入れ替わりものではないが、それでもオリジナリティはなかった。カセットテープというのも、『 ルーム・ロンダリング 』で渋川清彦が「バカヤロー、デモと言えばテープと相場が決まってんだよ」と喝破している。

 

また肝心の入れ替わりにおいても、高畑京一郎の小説『 ダブル・キャスト 』のプロット、すなわち入れ替わり可能時間がどんどん短くなっていく、が遥かに先行している。その上、サスペンス要素や謎解き要素でも面白さでも、高畑の小説の方が優っている。今風に言えばラノベに分類されてしまうかもしれないが、一昔前のジュブナイル小説の傑作なので、今の若い世代にもぜひ読んでほしいと思う。

 

閑話休題。本作は『 小さな恋のうた 』のパラレル・ストーリーであるとも言える。バンドの主要メンバーが死んでしまった。さあ、どうする?という問いに、“上書きする”という一定の答えを出した。それは良い。だが、その過程でアキの霊体?が随時にツッコミを入れるのが気に入らない。「俺がいないと何もできない奴らが・・・」というセリフは本当に必要だったのだろうか。また、肝心のアキと颯太の対話劇がもう一つ盛り上がらない。この点でも同じ音楽にフィーチャーした作品『 さよならくちびる 』に及んでいないと感じられた。絵的にも、オリジナリティに欠ける。颯太とカナが連弾でトロイメライを弾くところなどは、『 蜜蜂と遠雷 』の月の光の連弾シーンに重なる。とにかく、どこかで観た構図のオンパレードなのだ。

 

本作は颯太のビルドゥングスロマンであるが、肝心の颯太のキャラが一貫性を欠いている。アキが地獄と感じる透明人間状態を天国だと言いながら、ちゃっかりECHOLLのメンバーとの交流を楽しんでいる。アキと自分の間に即席カーテンを設けながら、いつの間にかそれも消えている。駄作の『 L・DK 』でも、雷鳴に怯えて思わず手を伸ばしてしまったというベタな描写は為されていた。そもそも颯太の音楽のバックグラウンドに関する描写が何もないままにストーリーが進行していくのはご都合主義であるし、アキが無断でアップした曲の評価も最後まで判明しなかった。このアキと颯太の対話劇の欠如・不足により、颯太が「彼女も共有すべきでしょ」と不敵に言い放つ流れが、とてつもない違和感を生み出す。

 

細かいツッコミになるが、クライマックス前も颯太もカナも汗一つ流していない。真夏に自転車を全力で飛ばしてきた、もしくは走ってきたのなら、汗ぐらい流そう。別に久保田紗友の白シャツを汗で濡らして透け透けにしろ、などと言っているわけではない。シーンとシーンの連続性を大事にしなさいと言いたいのだ。バラバラに撮影したものが、一つの流れに見える。それが映画の技法なのだ。

 

総評

単体で見れば、鑑賞には耐えうる。しかし、他の先行作品や類似作品と比べた時に、ストーリーの面でも音楽の面でも、光る点が少ない。北村や新田のファンならチェックしておくべきだろうが、熱心な映画ファンを満足させうるクオリティに達しているとは感じなかった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

live on borrowed time

借りられた時間を生きる、の意。本作のアキのような状況を指す。すなわち、死んだも同然の身だが、天から与えられたかりそめの時間を奇跡的に生きている、という意味である。または、余命が残りわずかな状態で生きている、という意味にもなる。ボクサーがまぶたから大量に出血して、それでもTKOにならず戦い続けている様を指して、“He’s fighting on borrowed time!”という実況を2~3度聞いたことがある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ファンタジー, 久保田紗友, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:萩原健太郎, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2020年1月27日2020年2月9日 by cool-jupiter
『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

キャッツ 25点
2020年1月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:フランチェスカ・ヘイワード テイラー・スウィフト
監督:トム・フーパー

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『 マンマ・ミーア! 』のレビューで「Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』」であると述べた。それらに続くのが『 オペラ座の怪人 』と『 キャッツ 』である。両親が劇団四季・友の会の会員だったのだ。劇は確か5回観た。サントラはオリジナル・ロンドン・キャストで数限りなく聞いた。その上で言う。これは映画化失敗である。

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あらすじ

ロンドンの片隅。新参猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのは年に一度のお祭り、ジェリクル・ボールだった。オールド・デュトロノミーによって選ばれた一匹の猫は天上に昇り、新たな生を得るのだ。その座を競って、猫たちは夜を徹して歌い、踊って・・・

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ポジティブ・サイド

オールド・デュトロノミーを雌に変えたことに最初は戸惑ったが、これはこれでありだろう。英語では、猫の人称(猫称?)代名詞はしばしばsheになるし、イングランドに君臨するのは女王である。ロンドンの猫たちの頂点が雌であっても不都合は何もないし、それぐらいの設定変更をしないと、映画化の意義もない。実際にジュディ・デンチは良かった。

 

また、アスパラガスをイアン・マッケランに演じさせるというのはキャスティングの大いなる勝利である。老人が時代を嘆くのは滑稽かもしれないが、それを実力者が演じることで大いに説得力が増している。

 

アンドリュー・ロイド・ウェバー御大とテイラー・スウィフトの手による“Beautiful Ghosts”は言葉で説明するのが難しいほどに感情を揺さぶる音楽であり歌詞であり歌唱である。劇中で歌うヘイワードとエンディング・ロールで歌うテイラーに最敬礼する。

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ネガティブ・サイド

見た目や動きの気持ち悪さは英語でも日本語でも死ぬほど語られているので、敢えてJovianが触れるまでもないだろう。ジェニエニドッツとゴキブリどもとの大きさの比率がおかしいし、水を飲むバストファー・ジョーンズの顔が一切濡れないのも不自然である。どうしても言わないと気が済まないのはこれぐらいか。

 

夜中~深夜にかけて街中を散歩していると、公園の砂場で猫たちが集会を開いている場面に遭遇することがある。そうした経験のある人は多いだろうし、人からそのような話を聞いたことがある人も多いことだろう。その中には首輪をした猫もいれば、ボロボロに傷を負った野良もいるのである。まさかジェリクル・ボールを本当に開いているとは思わないが、それでも猫たちの営為には、人知の及ばないミステリアスな領域が常に存在しているようである。『 キャッツ 』というのは、そうした人間の与り知らない猫の世界の物語である。であるにも関わらず、オープニングでいきなりロンドンの街のネオンライトを浴びながら自己紹介をしていく猫たちに強い違和感を覚えた。“月明かりの中”で密やかに、しかし盛大に行われるのがジェリクル・ボールではないのか。夜目が効く猫があんな光を浴びたら動けなくなるのではないのか。というか、人間の世界の片隅で繰り広げられるドラマのはずが、人間の世界のど真ん中で行われるかのような演出を入れるのには感心しない。舞台演出をそのまま映像にしてしまうとシネマティックにならないというフーパー監督の判断なのだろうが、それは間違っている。映像的に煌びやかであることと、それが素晴らしいものであるということは必ずしもイコールではない。キャッツのような物語は特にそうである。

 

色々と演出にも首尾一貫性がない。ジェニエニドッツが躾けるゴキブリやネズミの寸法がおかしかったかと思えば、バストファー・ジョーンズの言う高級クラブ通いは実際は高級残飯漁りという猫の生活のリアルさを描いている。一方で、舞台版ではスキンブルシャンクスが車掌を務める“魔法列車”はゴミとして捨てられた廃品の寄せ集めで作られたものという、これまた猫の生活のリアルさを表現していた一方で、こちらの映画では本物の線路に本物の鉄道を見せていた。なぜ人間の領域に出てくるのだ?ロンドンの片隅でこっそりやってくれ。シネマティックな演出をするなら、猫のリアルな生態とミステリアスな側面を絶対に外してはいけないのである。

 

マキャビティとグロールタイガーが手を組むというのも妙に感じた。犯罪世界のナポレオンが海賊と組むか?フーパー流の新規の味付けなのだろうが、これは個人的には受け入れられなかった。またイドリス・エルバ演じるマキャビティがどこかユーモラスになってしまっていたのも減点対象である。神出鬼没で猫世界のルールもお構いなしというのが、マキャビティの魅力であり、怖さでもあった。それが生まれ変わりを切望して、オールド。デュトロノミーを脅迫するチンピラに成り下がるとは・・・ 舞台版ではジェリクル・キャッツ候補たちが総力を結集して追い払う悪の権化が、なんともみみっちく矮小化されてしまったという印象である。

 

ハイライトであるはずのグリザベラが歌う“Memory”のシークエンスにも不満である。心の底からの“TOUCH ME!”という悲痛ともいえる叫び、そして歌い終わって、猫たちに背を向けながらも、後ろに手をそっと差し出し、誰かがその手に触れてくれるのを恐る恐る待つグリザベラ、そこにデュエットを歌ってくれたシラバブがグリザベラの手をそっと撫でる。そして猫たちが次々にグリザベラに触れていくという、あの流れが感動を呼ぶのではないか。天に昇る猫を選ぶのはオールド・デュトロノミーだと言いながらも、その場の猫たち全員がデュトロノミーの宣告を待たずにグリザベラを認めるという、あのシークエンスが胸を打つのではないか。それを序盤からヴィクトリアがべたべたとグリザベラに触り、あまつさえジェリクル・ボールに招き入れる。違う。ボロボロに打ちひしがれていながらも、それでも誰かに触れてほしい、抱いてほしいというグリザベラの勇気と圧巻のパフォーマンスが我々の心を震わせるのである。無理やり連れてきてはいけないのだ。なぜトム・フーパーとリー・ホールはこのような脚本を書いてしまったのか。理解に苦しむ。最も感動的であるはずのシーンで萎えてしまうった。おそらく舞台『 キャッツ 』を愛する人の多くが、このように感じたのではないだろうか。

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総評

舞台版をこよなく愛する人と、本作を映画で初めて観る人によって、評価はガラリと変わるのだろう。実際にJovianの嫁さんはミュージカルを未見の状態で本作を鑑賞し、高い評価を与えていた。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』の評価が割れているのも、従来通りの物語を期待するファンと、新世代の物語を期待するファンの間で評価が割れていて、それが予想以上の低評価につながっている。SWでは後者の勢力がマジョリティであるが、本作『 キャッツ 』では前者の勢力が優勢なようである。舞台版『 キャッツ 』を愛する人は、期待をせずに劇場へ向かわれたし。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ghost

幽霊、の意ではない。テイラー・スウィフトが歌う“Beautiful Ghosts”というのは、おそらく Beautiful Ghosts(from the past)のことかと思われる。a ghost from the past は「過去の亡霊」という意味ではなく、「長らく出会っていなかった過去の知り合い」ぐらいの意味である。生まれ変わるグリザベラに「あなたはこれだけ多くの素晴らしい猫たちに祝福された」というメッセージを送っている・・・のだと思う。猫とポエムを真面目に解釈しようとしてはいけない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, テイラー・スウィフト, フランチェスカ・ヘイワード, ミュージカル, 監督:トム・フーパー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

Posted on 2020年1月27日 by cool-jupiter

テリー・ギリアムのドン・キホーテ 70点
2020年1月24日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アダム・ドライバー ジョナサン・プライス ステラン・スカルスガルド オルガ・キュリレンコ
監督:テリー・ギリアム

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アダム・ドライバーと『 2人のローマ教皇 』のジョナサン・プライスの競演を、テリー・ギリアムが監督する。見逃す理由はない。

 

あらすじ

若手CM映画監督のトビー(アダム・ドライバー)はスペインでドン・キホーテの映画を撮影していた。ある時、トビーはDVDを渡される。収録されていたのは10年前にトビーが作った『 ドン・キホーテを殺した男 』だった。ドン・キホーテを演じた老人ハビエル(ジョナサン・プライス)とトビーは再会するが、ハビエルは自分が本当にドン・キホーテだと思い込んでいた。かくしてハビエルはトビーを従者サンチョだと勘違いし、二人は何故か冒険の旅に出ることになってしまった・・・

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ポジティブ・サイド

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』などのインド映画の持つ色彩感覚と、『 荒野の用心棒 』や『 続・夕陽のガンマン 』といったウェスタンの乾いた世界観が、ほどよくブレンドされている。目に優しいというわけではないが、entertainingでinspiringな世界を切り取ることは、映画作りにおいて重要なパートである。

 

アダム・ドライバーも新境地を切り拓いたかもしれない。『 パターソン 』での妻を愛する平々凡々な男から『 マリッジ・ストーリー 』での泥沼離婚調停中の舞台演出家まで、基本的に何でもこなせる男だが、今作では現実と妄想の間を揺れ動く役を見事に演じきった。自分が狂っているのであれば自分で自分を狂っているとは認識できない。眼前で起こる不可思議な事態の数々が事実であるのか虚構であるのか、その虚実皮膜の間に囚われた男の混乱を、非常にシリアスに、また非常にコメディックに表現した。特に、アンジェリカが炎にその身を今まさに焦がされようとしているシーンは、とてつもないサスペンスを感じつつも、不謹慎にも笑ってしまった。悔しい!舞台演劇などで、ちらほら目にする演出なのに!それでも、トビーのリアクションのクソ真面目さによって逆にコメディの色合いがより濃くなっている。真面目にやればやるほど馬鹿馬鹿しくなるのである。その塩梅が素晴らしいと感じた。

 

だが、それでも本作はジョナサン・プライスの独擅場であると言わねばならない。「我こそは崇高なる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ!」と高らかに宣言し、愛馬と共に時に荒野を、時に宮廷(に見せかけた修道院)を堂々と闊歩する姿はいっそ神々しい。自身とサンチョの旅をアドベンチャーともクエストとも表現するが、それは実に正しい。冒険の旅は、しばしば冒険そのものが目的になる。『 アクアマン 』や『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、Aという目的のためにはBというアイテムが必要、しかしそのアイテムはCという人物にしか在処が分からず、そのCはDという街に住んでいて・・・ という構造になっていたが、これは我々が慣れ親しんできたゲーム『 ドラゴンクエスト 』の典型的なパターンである。魔王を倒すでも巨人を倒すでもいい。しかし、冒険の旅というものは旅立ち、放浪し、各地を巡り、未知なる人と邂逅するだけで目的のほとんどを遂げていると言っていい。まるで人生のようだ。盲目的に自分の使命を信じるハビエルは滑稽ではあるが、リスペクトに値する。その思いにおいて、いつしか我々観る側はトビーの思いとシンクロしてしまう。ドン・キホーテという世界で最も有名な狂人を、これほどまでに血肉化させてくれたジョナサン・プライスの姿に、ますますアカデミー賞助演男優賞獲得の予感が強まった。

 

ネガティブ・サイド

ロシアのウォッカ王の迫力と言うか、貫禄と言うか、存在感がもう一つだった。財力にモノを言わせて、ある意味でとても無垢な老人を引っかけて笑い者にしてやろうという企みは、映画の作り手としても人生においても老境に入った自分を笑う人間を、さらに笑ってやろうというメタメタな構造のユーモアなのかもしれない。だが構想30年、企画と頓挫が9回にしてやっと作品が完成し日の目を見たのだから、出資者をパロディにするにしても、もう少し敬意を持ったやり方はなかったのだろうか。まあ、テリー・ギリアム御大には何を言っても無駄かもしれないが。

 

ペーシングにやや難がある。序盤のトビーの監督シーンなどはもう少し圧縮できると思われる。また、荒野を放浪するシーンや行き倒れそうになるシークエンスも、もう少し圧縮できたと思う。全体的にテンポが一定しておらず、一部のシーンでは眠気を誘われてしまった。

 

総評

ドゥルシネア姫への忠節、愛、敬慕の念で動くドン・キホーテが恐ろしくカッコ悪く、逆にそれがカッコ良く見えてくるのだから不思議なものである。そのキホーテが狂乱の喧騒から目覚める時に、確かにバトンは受け渡された。周囲の声に惑わされることなく、自らの信じる道を突き進めという、ギリアム御大の、ある意味での遺言なのかもしれない。ドン・キホーテに関する基礎的な知識が必要とされるが、冒険譚であると思えば、多少の意味不明な旅路のイベントも消化できるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I feel it in my bones.

劇中で三回ぐらい使われるセンテンスである。「直感的にそれが分かる」の意で、それはしばしば直前に言及された事柄を指す。I know it in my bones. またはI knew it in my bones.とも言う。it以外を目的語に取ることも可能である。映画で用例を確認している暇はないという大多数の向きは、One Directionの“Story of My Life ”か作詞作曲エルトン・ジョン、歌唱ロッド・スチュワートの“Country Comfort ”を視聴してみてはどうだろうか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アダム・ドライバー, アドベンチャー, イギリス, コメディ, ジョナサン・プライス, スペイン, フランス, ベルギー, ポルトガル, 監督:テリー・ギリアム, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

『 シグナル100 』 -2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補-

Posted on 2020年1月25日 by cool-jupiter

シグナル100 15点
2020年1月24日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:橋本環奈 小関裕太
監督:竹葉リサ

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土橋真二郎の小説『 扉の外 』のような設定か?とトレイラーで感じた。地雷臭がプンプン漂ってきていたが、そこに突っ込むのも時には乙なものである。There are times when you dare to go into a mine field.

 

あらすじ

文化の日の特別授業で、樫村怜奈(橋本環奈)、榊蒼汰(小関裕太)ら同じクラスの36名は催眠によって、特定のシグナルにより自殺をしてしまうという強力な暗示を受けてしまう。半信半疑の生徒たちだが、一部の生徒が携帯を使うと、彼ら彼女らは自殺をしてしまった・・・

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以下、ネタバレに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

教師が生徒に暗示をかけるという視点は面白い。大人と子どもという関係以上に、教師と生徒というのは支配-被支配の関係にあり、前者は後者に暗示をかけやすいからである。

 

導入部は非常にスピーディーである。早く催眠にかかる部分を観たいという観客の欲求と、早く生徒たちがバタバタと死んでいく場面を見せたい監督の思惑が、ぴったりとシンクロする。変にキャピキャピした序盤を長引かせなかった竹葉監督の、その部分は評価したい。

 

あとは白熱電球で死ぬ男子生徒が個人的にはツボだった。彼には大いに笑わせてもらった。

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ネガティブ・サイド

まずシグナル100の基準があまりにも曖昧過ぎる。他者への暴力を禁じるといっても、どの程度の行為が暴力なのか判然としない。序盤の金髪ヤンキー風の生徒は教師の胸倉を掴んで自殺に追い込まれたが、その後も生徒同士で胸倉を掴むぐらいの行為は頻繁に行われる。が、それが引き金で死んだ生徒はいない。

 

他にも不可解なシグナルはいくらでもある。自分だけは生き延びようと他人を次々に自殺に追い込もうとする奴が当然のように出てくるわけだが、あまりにも不用心だ。たとえば、「他人の血液を飲む」というシグナルがあるにもかかわらず、女子と濃厚なディープキスを交わすのは何故だ?相手がたまたま歯槽膿漏か何かで口内で微量でも出血していたらどうするのだ?

 

酒を飲む、あるいは酒を浴びるというシグナルも意味不明だ。もちろん酒が何かを知らない高校生など存在しないだろうが、このような類の暗示は未就学児童には効くのだろうか。もしくは、認知症の持ち主には?日本語を解さない相手には?そもそも、なぜ学校に缶ビールがあるのだ?

 

10秒以上見つめ合うというシグナルも頻発しているように見えるが、なぜ自殺が励起されない?7人以上に指差されるというシグナルも、ディスカリキュア(算数障害)の持ち主には通じるのか?そもそも、7人以上に指差されたとしても目をつぶればどうなるのだ?朝の定義も何なのだ?空が白むことか?朝日が地平線や水平線から昇ることか?朝日を直接見ることなのか?それとも時刻を認識することなのか?

 

だいたい高校生にしては頭が悪すぎる奴らが多すぎる。図書館に行くのはグッジョブと言えるが、事の発端である教師の死体を調べようとしないのは何故だ?職員室のデスクなどを調べるのも重要だが、なぜ遺体のところに行かない?衣服のポケットを漁ろうとは思わいのか?教師がまだ生きていて、何かを聞き出せるかもしれないとは誰一人として思わなかったのか?サバイバルに必要なのは、食料ではなく情報だという大原則を誰も知らないのか・・・

 

また催眠の小道具であるDVDそのものを調べることに、誰も思い至らないのは何故だ?あの世界では誰も小説『 リング 』を読んで、あるいは映画『 リング 』を観ていないのか?催眠を解く方法が実質的に無いというのなら、その催眠をさらに別の催眠で上書きしてみようということは誰も思いつかないのか?ひょっとしたら、高校生というのはそんなものなのかもしれない。しかし、「今あいつに一人で出会うのは危険だ。みんなで手分けして探そう!」というシーンは、さすがに脚本や監督の罪だろう。一人で出くわしたら危険な相手を、なぜ個別に散らばって探そうというのか。冷静な判断力を欠いていたという言い訳では済まない。とにかく登場人物がどいつもこいつもアホすぎる。観ていてイライラしてくるため、みんなに生き残ってほしいと思えないのである。

 

総評

はっきり言ってクソつまらない。これを観るぐらいなら、『 催眠 』や『 神様の言うとおり 』、『 不能犯 』をレンタルや配信で観た方がはるかに有意義である。または野崎まどの小説『 [映]アムリタ 』を読むべきだ。原作の漫画を読んでいないので何とも言えないが、かなり大部の物語を無理やり1時間30分に詰め込んだのだろうか。だとしたら完全な脚本レベルでの失敗である。こうしたシチュエーション・スリラー、デス・ゲームは不可解な死と、それを裏付ける/説明する合理的な仕組みの解明の両輪でストーリーを前進させなければならない。本作には後者が欠けている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I can’t seem to remember anything that’s worth a lesson.

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, シチュエーション・スリラー, 小関裕太, 日本, 橋本環奈, 監督:竹葉リサ, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 シグナル100 』 -2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補-

『 ラストレター 』 / Last Letter

Posted on 2020年1月24日 by cool-jupiter

Last Letter  70 / 100
At MOVIX Amagasaki, on January 24th, 2020
Main Cast: Masaharu Fukuyama, Ryūnosuke Kamiki, Nana Mori, Suzu Hirose, Takako Matsu,
Director: Shunji Iwai

 

ラストレター 70点
2020年1月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:福山雅治 神木隆之介 森七菜 広瀬すず 松たか子
監督:岩井俊二

 

Before going in, I was a bit apprehensive because the trailers seemed to give away a bit too much. However, this film proved to be a lot better than I assumed it would be.

 

鑑賞前は、トレイラーがややネタバレ過ぎではないかと心配していた。しかし、実際の映画は思っていたよりも遥かに良い出来だった。

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Plot Summaries

Yuri – played by Takako Matsu – was attending a class reunion on behalf of her deceased elder sister Misaki – played by Suzu Hirose. Mistaken for her sister, Yuri had to start corresponding with Kyoshiro Otosaka – played by Masaharu Fukuyama –, her own first love and her sister’s ex boyfriend. And so, their bizarre correspondence began …

 

あらすじ

裕里(松たか子)は死去した姉・未咲(広瀬すず)の同窓会に出席して、姉の死を知らせようとした。だが、姉と間違われてしまった裕里は、自身の初恋の人であり、姉の大学時代の交際相手だった乙坂鏡史郎(福山雅治)と文通を始めることになってしまった。それは自分の娘と姉の娘が、未咲の人生を追体験することにも重なっていき・・・

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Positives

Great camerawork. The director of photography really did an awesome job framing nearly every shot so beautifully and quietly. Most of the shots in Acts 1 & 2 were dimly lit as hardly any lighting was provided, or so it seemed. However, that’s what made the picture of two girls walking together amazingly impressive as they shone in broad daylight in their full glory. It just made me feel as if the two girls, Ayumi and Soyoka, were reincarnations of their mothers. This is the kind of scene you have to see in a darkened theater.

 

I also liked the background music. The piano sounds make you feel serene and calm. Lately, there are many Japanese films that use orchestra as if to say “This is where you shed tears, Go ahead!” and those films just get on my nerves. I think director Shunji Iwai, along with Takeshi Kitano, is the best filmmaker in Japan who knows how to use discreet, transparent music. The tick tuck sound of a clock in Ayumi’s home was memorable as it made it much clearer that there was no one around. A beautiful entanglement of light and shade and sound and silence was simply breathtaking. While there are many creators who try to be artistic but end up being artsy, Shunji Iwai is definitely the one who is artistic not because he tries to be but because HE IS. You have got to love his works.

 

The scene where Kyoshiro visited his deceased first love was purely heart-wrenching. He hadn’t been able to move on for 25 years, and now he has to. The fact that the girl you were once in a relationship with is gone forever without you knowing that life was such a bi*ch to her is crushing. Whatever happened, Kyoshiro left Misaki, and that’s where her life began to get darkened. Being about as old as Kyoshiro, I was able to what was going on in his head. If I was a teenager or in my twentieth, it would be virtually impossible for me to sympathize with him in this moment. Tears welled up in my eyes as his lonely soul finally had the moment of redemption.

 

To think, when writing a letter, you are conversing with yourself. You write as you read and you read as you write. In your head is the person who will receive the letter. This is how Kyoshiro, an unpopular novelist, created his first and only book whose title was Misaki. That was his way of keeping Misaki alive. Now, the bizarre correspondence has brought Misaki back to life one more time, and that is the beauty of this story. All the characters relived the life of Misaki, and so, they start to live their lives. The Last Letter from Misaki, the mother, to Ayumi, her daughter, was meant to pass the torch of life. Great stuff.

 

ポジティブ・サイド

何とも美しい、そして計算されたカメラワークである。基本的には序盤から中盤にかけてのほとんどのショットは暗く、極力照明を使わず自然光のみを頼りに撮影されているが、だからこそ終盤の陽光をいっぱいに浴びる鮎美と颯香の姿が際立って美しい。暗転した劇場の大画面で観るとなおさらにそう感じる。

 

ピアノをメインにした控えめで淡い旋律も心地よい。壮大なオーケストラで「はい、ここが涙を流す場面ですよ」と出しゃばる邦画は結構多い。削ぎ落された、透明感あるBGMの使い手となると日本では北野武と岩井俊二が双璧だろうか。鮎美の家の時計のチクタク音も、周囲の静寂を引き立てている。光と影と音と静寂のコラボレーションが素晴らしい。芸術的であろうとして失敗する作家は多いが、岩井俊二は芸術的であろうとして芸術的な作品を送り出せる稀有な監督である。

 

未咲の思い出に囚われて前に進むことができなかった鏡史郎が、美咲の仏壇を訪れ、沈黙のうちに語らうシーンは胸が締め付けられるようだ。未咲の暗く、辛い人生の責任の一端が自分にもあるのだと自分を責める鏡史郎の気持ちが手に取るように分かる。これはおっさんにしかできないだろう。10代では到底不可能。20代後半でも無理だろう。そんな不甲斐ない男の魂も最後には救済されることに、落涙した。

 

思うに手紙というのは、自己内対話なのだ。書きながら読む、読みながら書く。その自己内対話の繰り返しが未咲という小説として結実した。そして今また文通という形で未咲が語られることで、それぞれの人生が動き出す。未咲は生きていたし、今後も未咲は語りかけてくる。なぜなら未咲の思い出は鮎美に受け継がれたから。

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Negatives

The biggest gripe I have with this film is that there are a couple of characters whose story arcs were left half-explored, one being that of Yuri’s husband and the other being that of Yuri’s mother in law.

 

Also, I just didn’t understand why Kyhoshiro never picked up on the difference between the handwriting of the letters. His knowing that Yuri was pretending to be Misaki wasn’t a good explanation, for there were two kinds of letters, those sent by Yuri and those sent by Ayumi. It’s unthinkable that Kyoshiro, a novelist who is into writing stuff with pencils, never noticed the handwriting differences

 

I wish that the makeup artists could have done a better job. Misaki and Ayumi, both played by Suzu Hirose, and the high school girl Yuri and Soyoka, both played by Nana Mori, matched the description right down to a tee and that caused me some confusion. If they resembled just a little less, the drama revolving around them would have been much more compelling.

 

ネガティブ・サイド

裕里の義母と夫をめぐる物語にしっかりとして決着(という表現は大げさかもしれないが)をつけてほしかったと思う。裕里はある意味で過去に一区切りをつけて現実に帰っていくわけで、その現実の先にある少々やっかいな夫と義母の姿を見たかったと思うのである。

 

また鏡史郎が手紙の筆跡の違いに気が付かないことにも納得がいかない。裕里が未咲のふりをしていたと知っていたということは答えにならない。いずれにしても裕里の筆跡と鮎美の筆跡は異なっているはずで、文筆を生業にする者の端くれの鏡史郎がそのことを一顧だにしないのは不自然である。塾かどこかで手書きの作文か小論文を教えているのだから猶更にそう感じる。

 

メイクアップアーティストの方々がもうひと頑張りして、未咲と鮎美、裕里と颯香をもう少しだけ「似ていない」ように見せてくれたらと思った。そっくりな親子というのは存在するが、これではまるで一卵性双生児である。髪型だけではなく、肌の色や肌質、鼻の形、目尻などはもう少し細工をできたのにと思う。似ていないところを出すことで、似ているところを強調する技法を追求してほしかった。

 

Recap

This is a well-shot, well-acted and well-directed film. Going back and forth between the past and the present and Miyagi and Tokyo felt like a smooth ride. Retelling the story of a deceased person is kind of a cliché, but the letter correspondence is such an old communication that it’s new today. And when a new story is penned by a director as good as Shunji Iwai in a well thought-out and well-executed manner, you get a masterpiece.

 

総評

カメラワークが素晴らしく、演技も良い。そしてディレクションにも文句なし。過去と現在、宮城と東京とを行き来する構成にも混乱はなく、スムーズに進行する。亡くなった人物の物語を語ることはクリシェであるが、文通という形を現在に蘇らせたのはユニークである。そして岩井俊二に物語を紡がせれば、傑作が生まれるのである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 広瀬すず, 日本, 松たか子, 森七菜, 監督:岩井俊二, 神木隆之介, 福山雅治, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ラストレター 』 / Last Letter

『 ジョジョ・ラビット 』 -戦争と差別の愚かしさをユーモラスに批判する-

Posted on 2020年1月21日 by cool-jupiter

ジョジョ・ラビット 75点
2020年1月20日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ローマン・グリフィン・デイビス トマシン・マッケンジー スカーレット・ジョハンソン サム・ロックウェル
監督:タイカ・ワイティティ

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正直なところ、トレイラーを観る限りは面白そうに思えなかった。しかし、アメリカではかなり評価が分かれているようである。評価が分かれるというのは、好きな人は好きになれるし、嫌いな人にとっては忌むべき作品ということである。誰もが50点をつける映画ならば、お呼びでないのである。

 

あらすじ

母ロージー(スカーレット・ジョハンソン)と暮らすジョハネス(ローマン・グリフィン・デイビス)はナチズムを信奉する10歳のドイツ人少年。彼のイマジナリー・フレンドはアドルフ・ヒトラー総統その人だった。ヒトラーの親衛隊になることを夢見るジョジョは、キャプテン・K(サム・ロックウェル)が開く合宿で、手りゅう弾による怪我を負ってしまう。自宅で養生するジョジョは、母が匿っているユダヤ人のエルサ(トマシン・マッケンジー)と遭遇してしまい・・・

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ポジティブ・サイド

役者陣の奮闘が目立つ。コメディカルでフレンドリーでありながら、ファシストの顔を全く隠せていないヒトラーを演じた監督タイカ・ワイティティは、正直なところ総統閣下に外見は似ていない。しかし、髪を振り乱し、大げさなジェスチャーで、煽るかのようにがなり立てるのは、確かにヒトラーその人の特徴をよく捉えていた。

 

その友だち(?)であるジョジョと、さらにその友だちであるヨーキーは、確かに子供らしい子どもだった。『 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。 』の子どもたちは一部「ガキども」と呼びたい連中が混ざっていたが、ヨーキーは純粋だった。純粋ということは染まりやすいということで、染まりやすいということは、別の色にもすぐに染まるということである。事実、ユダヤ人の脅威を感じていたヨーキーは、戦局苛烈となるとすぐさま反ロシア、反アメリカに転じた。このことがヨーキーの心を揺るがす様は切ない。そして、ジョジョが蝶を追いかけた先で見せる表情そして動作に、我々は心臓を握りつぶされてしまうかのような苦しみを感じる。この子役たちの演技は見事である。

 

しかし最も印象に残ったのはスカーレット・ジョハンソンとサム・ロックウェルだった。『 マリッジ・ストーリー 』でも母親役を熱演したが、ジョハンソンはこのまま篠原涼子の路線に突入するのであろう。つまり、健康的な色気を振りまきつつ、硬軟を自在に織り交ぜた母親像を見せてくれるに違いない。演技面でも、コロコロと変わる表情に、元々ハスキーな声を生かしたシークエンスが光っていた。そして、嗚呼、サム・ロックウェル!頭のイカれた軍人と思わせて、人間味溢れる大人の男を好演した。ある尋問のシーンの睨みつけるような目つき、そして連行されていく時の「やり切った男の誇らしげな笑顔」に、我あらず敬礼をしてしまった。

 

第二次大戦当時の街並みや服装、家具調度品にはリアリティがあったし、ブリティッシュ寄りの、ややゲルマン風の英語を話す役者たちも、ドイツ人として受け取ることができた。そのドイツ人の中でも、ゲシュタポ(秘密警察)の連中の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさの同居した言動は、ファシズムの再来は絶対に阻止せねばならないとの思いを強くさせてくれる。同時に、このような恐怖と脅威の源は「国家のため」という美辞麗句と共にやって来るのだということを改めて知った。ゲシュタポのリーダー格の長身の大尉が見せる笑顔は、狂信者のそれである。あの時代のドイツがいかに狂っていたのか、背筋が寒くなる。なぜなら、それは当時の日本の姿でもあるからである。

 

エルサとジョジョの関係は、どうなるのか。それは観る者の想像力に委ねられているのだろう。しかし、『 The Fiction Over the Curtains 追記とその他雑感 』で触れたように、誰かに強制された形ではなく、自発的な意志で表現することが必要である。それこそが自由の証だからである。二人が幸せになれたかどうかは分からない。だが、エルサとジョジョは自由になった。それだけで鑑賞後、胸がいっぱいになった。

 

ネガティブ・サイド

ジョジョの顔の怪我の程度が軽すぎる。『 ワンダー 君は太陽 』のオギーとまでは言わないが、せめて『 累 かさね 』の累ぐらいのメイクは施せたのではないか。こうした妙な配慮のようなものが、ディズニーの悪いところの一つである。

 

ジョジョが母ロージーから言い渡される「ウサギのように勇敢で賢くあれ」という教えを体現する場面が欲しかった。ゲシュタポが登場するシーンで、ジョジョが機転を利かせると期待したのだが・・・

 

どうでもいいことだが、ウサギの死体をあのように放り投げても、あんなにクルクル回転はしないと思うが。その嫌な年上の少年の顛末を描いてくれなかったのは、少々残念だった。Jovianの脳内では、あの二人組は戦地の上官に修正を喰らって、歯を2~3本折られたことになっている。

 

総評

前半はコメディ、中盤で一瞬だけ『 ダンケルク 』的な戦争映画となり、後半からエンディングはジョジョのビルドゥングスロマンである。子どもの目から見ると戦争や差別的な思想が空虚で愚かに映るのか、それとも戦争や差別が、本来はタブラ・ラサである子どもをアホにしてしまうのか。おそらくは両方ともが正解なのだろう。このヒトラー率いるドイツ(とムッソリーニ率いるイタリア)と同盟を組んで世界を敵に回し戦った日本は、悪い意味で忘れてはならない。偏狭なナショナリズムが(またも)台頭しつつある日本人こそ、本作を観るべきではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I couldn’t care less.

ジョジョことジョハネスの脳内ヒトラーのセリフである。直訳すれば「今以上に少なく気にかけようと思ってもできない」である。意訳すれば「クソどうでもいい」となる。Less = より少なく、can’t / couldn’t = できない、を組み合わせて、「より少なくできない、なぜなら今が最小だからだ」ということ。似たような表現に I couldn’t agree more. = 今以上に賛成しようとしてもできない=「これ以上なく賛成」がある。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, コメディ, サム・ロックウェル, スカーレット・ジョハンソン, トマシン・マッケンジー, ヒューマンドラマ, ローマン・グリフィン・デイビス, 監督:タイカ・ワイティティ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ジョジョ・ラビット 』 -戦争と差別の愚かしさをユーモラスに批判する-

『 リチャード・ジュエル 』 -権力は暴走する-

Posted on 2020年1月19日 by cool-jupiter

リチャード・ジュエル 70点
2020年1月18日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ポール・ウォルター・ハウザー サム・ロックウェル
監督:クリント・イーストウッド

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『 ザ・レポート 』や『 スノーデン 』で描かれていたように、巨大な力を持つ組織というのは、暴走する危険を常に孕んでいる。クリント・イーストウッドはその点でFBIに目を付けた。日本でも、安倍首相にヤジを飛ばしただけで警察官に引っ張っていかれる時代である。本作を見て学べることは多いかもしれない。

 

あらすじ

リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)は法執行官に憧れる警備員。記念公園の警備中に発見した不審なリュックには爆弾が仕掛けられていた。人々を必死に避難させる中、爆発が起こる。リチャードは英雄として報じられた。しかし、FBIは彼を容疑者として扱い始めた。リチャードは旧知の弁護士ワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)に救いを求めて・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは1996年当時、高校生だったので、なんとなくこの事件のことは覚えている。が、それよりも松本サリン事件や地下鉄サリン事件のインパクトの方が強かった。どちらにも共通するのは、権力は暴走するということだ。序盤にリチャードとワトソンが出会い、そして別れるシーンが特に印象的だ。ワトソンの言う“Don’t become an asshole.”=「クソ野郎になるな」というのは、クリント・イーストウッドがメディアや警察権力に対して発したいメッセージなのだろう。『 ハドソン川の奇跡 』と本作は、その最も象徴的な作品である。

 

フェイクニュースの時代の萌芽が1990年代に既に見られていたというのは、新鮮な発見だった。こうした風潮は、インターネットの発達を見た2000年代に端を発すると思っていた。メディアスクラムの圧迫感はいつの時代、どの地域でも変わらないことも再確認できた。メディアが欲しているのは英雄でも極悪人でもなく、ニュースそのものであるようだ。終盤にリチャードが言い放つセリフは、そのまま松本サリン事件の冤罪被害者の河野義行氏の言葉と受け取ることもできる。権力に屈してはならないのだ。アメリカでも日本でも、世界のたいていの国では、主権者は国民であって、国家や国家機関ではない。これに関しては、まんまとレバノンへの逃亡を果たしたカルロス・ゴーンに対して法相の森雅子が「無罪を自ら証明せよ」と発言して、日本は“推定有罪”の国だと改めて内外に示したことを思い出してもよらえばよい。権力は暴走する。そして暴走した権力ほど厄介なものはない。『 スノーデン 』でも感じたことだが、権力の暴走に歯止めをかけるのは権力側ではなく、市民・国民側なのだ。そして、そのためには適切な知識も必要である。日本のテレビドラマでは今でも取り調べに弁護士が同席しないことがほとんどのようである。『 まだ結婚できない男 』の何話目かにそんなエピソードがあった。めちゃくちゃである。何かの間違いで警察に引っ張られたら、弁護士の同席および黙秘を主張する。本作からは、あらためてそのことを学ぶことができる。

 

それにしても、主演のポール・ウォルター・ハウザーは『 アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル 』で“But I do.”を繰り返した、薄気味悪い陰謀論男そのままの雰囲気。それゆえに英雄から容疑者に転落していく様が、奇妙に似合っている。劇中でも形容されたように、「下層白人男性」という表現が合っている。White Trashという概念もこの時代に生まれていたのだろうか。はっきり言って、弁護士のアドバイスを実行できないアホなのであるが、それはアホだからではなくナイーブだからである。そのことは、彼とその母ボビの関係から見て取れる。その母を演じたキャシー・ベイツは、圧巻の演技。今すぐアカデミー賞の助演女優賞にノミネートしろ、と言いたくなるほどである。特に中盤終わりに記者会見の場で行ったスピーチは、母親という人種の愛の深さを観る者の心に切々と訴えかけてきた。

 

弁護士のワトソンを演じたサム・ロックウェルは、本人には全然似ていない。しかし、情報不足でメディアに揚げ足を取られながらも、自らが見込んだ男を救うために真剣に取り組む様にプロフェッショナリズムを見た。Jovianも最近、弁護士の先生から法的な助言を頂く機会があったが、情報というのは包み隠さず伝えなければならない。医療従事者と法曹相手にはなおさらであると、改めて感じた次第である。喋るなと言われているのにペラペラと喋るリチャードの弁護を降りなかったのは、それだけで尊敬に値する。ないとは思いたいが、本格的に弁護士の力を借りる事態が出来すれば、このような男に依頼したい。

 

ネガティブ・サイド

アトランタ・ジャーナルの女性記者はいったいどこまでが実話なのだろうか。ワトソンの車に勝手に乗り込んだり、FBI捜査官から文字通りの寝技で情報を取ったり、“疑惑”と“事実”と合弁したりと、支離滅裂である。特に、疑惑を事実として報じる姿勢は『 ザ・レポート 』の素人心理学者の言う「彼が真実を言っていない、という真実が明らかになった」という論法と同じである。屁理屈の極みである。その同じ女性が、リチャードの母の魂の演説に心動かされ、改悛の涙で頬を濡らすのは、あまりにも唐突すぎやしないか。もっと丹念にリチャードの周辺を調査したり、今風に言えばファクトチェックを綿密に行ったりする描写がないままに心変わりを見せられても、シラケるだけである。

 

その調査についてもFBIはお粗末の一語に尽きる。公衆電話までの距離や、そこに到達するまでの時間も調査すらしない。普通に考えればリチャードとその母の家の捜索および物品の押収に踏み切るまでに、公衆電話の受話器の指紋の有無や、当日のリチャードの荷物や服装に関する聞き込み、各所にあるはずの防犯カメラの映像のチェックなど、素人ですらパッと考え付く捜査を行わない。少なくともそのような描写はない。FBIから突っ込みが入りそうである。もしくは事実として、これらの捜査は(少なくとも事件の初期段階では)行われていなかったのだろうか。背景に何があったのかが見えないので、メディアやFBIの方針転換が唐突に映ってしまうのが弱点である。

 

日本語版トレイラーにあった、【 最後に明らかになる衝撃の真実とは- 】という煽りは必要か?そういう物語ではないはずだが。

 

総評

繰り返して言うが、権力とは暴走するものである。アメリカの、それも1990年代のことだからと、他人事と思うことなかれ。真実を追わず胡散臭そうな者を追う警察の腐敗した姿勢は、日本に生きる我々も注意せねばならない点である。カタルシスには少々欠けるし、伝記映画として見ても、キャラクターの深掘りが足りない。しかし、ヒューマンドラマとしては立派に成立している。社会派映画としても良作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Give me a holler.

直訳すると「叫び声をよこせ」だが、実際は「呼んで/声かけてね」ぐらいの意味である。『 サイモン・バーチ 』でも、まったく同じセリフが使われているシーンがあった。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, ポール・ウォルター・ハウザー, 伝記, 監督:クリント・イーストウッド, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 リチャード・ジュエル 』 -権力は暴走する-

『 カイジ ファイナルゲーム 』 -ようこそ、底辺の世界へ-

Posted on 2020年1月15日 by cool-jupiter

カイジ ファイナルゲーム 55点
2020年1月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:藤原竜也 関水渚
監督:佐藤東弥

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原作はほとんど読んでいないが、映画されたカイジは2作とも観ている。比喩的な意味での地下世界と文字通りの意味での地下世界を融合させた独特の世界観は、本作でも健在である。

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あらすじ

2020年の東京五輪終了後、日本の景気は恐ろしく冷え込んだ。円の価値は暴落し、インフレが進行し、日本の産業は外資に次々と買われた。日本は、ごく一部の富裕層と大多数の貧民に分断されてしまった。派遣会社にピンはねを喰らいながら、カイジ(藤原竜也)は貧困の中で生きていた。ある時、多額の賞金もしくは秘密の情報が懸賞として得られる「バベルの塔」というゲームへの参加を促される。それは、日本という国家をも巻き込む壮絶なゲームへの入り口だった・・・

 

ポジティブ・サイド

もはや藤原竜也劇場である。独壇場である。底辺の似合う男とは言い得て妙である。Jovianは原作をほとんど読んでいないが、藤原竜也が漫画のカイジに似ていない(容姿や振る舞いetc)ことは直感で分かる。それでも、漫画のカイジというキャラクターを自らの演技でねじ伏せ、新たなカイジ像を作り上げたのは藤原の演技力の勝利として称えるべきである。

 

爽やかな優男という路線で行き詰っていた福士蒼太も、『 ザ・ファブル 』に続いて、まあまあ良い感じである。大義名分のために弱者を切り捨てることを厭わない姿勢に、今の日本の根本的な政治姿勢に通じる。財政健全化を謳いながら、道路や建設関連にカネをジャブジャブと使い、福祉の拡充を謳って消費増税を断行した直後に、高齢者医療費の自己負担比率の引き上げを検討する(Jovianはその政策自体には賛成であるが、現政権は言っていることとやっていることが違い過ぎるのが大問題である)など、口から出まかせもいいところである。虚偽と欺瞞に満ちた自分に陶酔する木っ端役人が実に似合っていた。福士は爽やか路線を中川大志に譲り、嫌味な奴、もしくはクズ路線を藤原竜也から受け継ぐべし。

 

日本社会全体を巻き込むスケールの壮大さは評価できる。カイジの世界(映画に限っては)について言えることは、クモの糸は常に垂らされているということ。その糸を奪い合うのか、順番に掴むのか。それとも全員が掴める方法を考えるのか。問われているのは、そこである。これは正解を選ぶという問題ではなく、自分の生き方を定義するということである。「こうするしかないんだ!」と絶叫する官僚=上級国民は、物事は白か黒か、正解か不正解かしかないという思考の陥穽に囚われている。「みんなで泥水をすするべきだ!」と力強く宣言するカイジは「みんなで貧困を分かち合うべきだ」と言っているわけではない。困っている人がいれば、手を差し伸べよう。情けは人のためならず。カイジはそう言っている。そして、それが原作者の福本伸行や監督の佐藤東弥のメッセージであろう。少々鼻につくメッセージではあるが、Jovianはこうしたストレートな社会的な主張を行うこと自体を評価したいと思っている。

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ネガティブ・サイド

『 カイジ 』シリーズを観たことがある者ならば、展開が容易に読める。というか、ちょっとしたミステリやサスペンスを見慣れていれば、中盤まではほとんど誰にでも分かるような展開である。愛人がいた。その愛人が子どもを産んだ。愛人は子どもを産んだ直後に死亡した。では、その子どもは?という疑問に思い至らないというのは考えづらい。

 

またストーリーの本筋(ゲーム/ギャンブル)と直接の関連がないので書いてしまうが、旧円を廃止して新円を発行するというトンデモなアイデアが出される。いや、そうしたアイデア自体は突拍子もないわけではない。本作は不景気がますます進行した近未来の日本を舞台にしているわけで、無能な政治家や官僚に打てる手は「徳政令」くらいだろう。本作では預金封鎖で庶民から接収したカネで国の借金をチャラにしてしまおうという気宇壮大なプランが描かれるが、これはリアリティが無さ過ぎる。第一に、減りつつあるとはいえ、日本のタンス預金は数百兆円と見積もられている。貧困が拡大した世界で、物語中のタンス預金がこの10分の1だとしても数十兆円。これらのカネが一気に新円と交換されれば、あっという間に円高となり、日本の生命線の輸出関連産業が吹っ飛ぶ。第二に、政治家や資産家が預金封鎖前に新円をしこたま仕入れておくというのもリアリティに乏しい。環境大臣・小泉進次郎の公開された資産が0円だったというのは記憶に新しいが、こういう連中はとっくにオフショアやタックスヘイヴンで資産を運用しているものなのである。劇中で総理大臣はじめ、有力政治家や資産家が新円の事前入手に血道を上げるのは不自然かつ不可解にも映る。まあ、金持ちの底なしの欲望を表しているのかもしれないが・・・

 

その欲深連中を映すカメラのアングルがおかしい場面がある。カイジ側が食い込んでいたのは造幣局であって、閣僚連中ではなかったはず。どう考えても閣僚・資産家の一人が撮影したとしか思えないショットが映る。これは普通に編集ミスだろう。

 

人間秤というゲームのルールにある3つのF、すなわちFRIEND、FIXER、FAMILYが最初に画面に映し出される時のFIXERの綴りがFIXARになっていた。2度目に表示された時は正しいFIXERになっていたが。この程度の英語はしっかり確認すべきだし、編集やCG作成作業時に誰も気付かなかったというのは、キツイ表現を使えば、恥ずべきことである。

 

関水渚のラッキーガールという設定は何だったのか。ゲームやギャンブルに絡む描写はほとんど無かった。もうちょっとマシな扱いをしてほしかった。また外野のザワザワもなかった。少しさびしいファイナルであった。

 

総評

過去作のキャストも一瞬だけ駆けつけたりしてくるので、いきなり本作を観るというのはお勧めできない。実質的なギャンブル勝負は2回だけなので、そこに物足りなさを感じる向きも多いかもしれないし、一部のキャラクターに仕込まれた設定の読みやすさは明白にマイナスである。しかし、一寸の虫にも五分の魂を感じさせる展開もあり、下剋上のカタルシスもある。シリーズに付き合ってきた人々も、カイジ/藤原竜也にお別れをするために、シリーズ未見の人は過去作をチェックした上で、劇場に向かわれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

The price has gone up again!

「また値上がりしてやがる」というカイジの台詞の私訳。「上がる」というのは、だいたい go up で表現できる。血糖値や血圧、税率、仕事量、飛行機、風船など、上に行くものなら何でも go up でOKである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, ミステリ, 日本, 監督:佐藤東弥, 藤原竜也, 配給会社:東宝, 関水渚Leave a Comment on 『 カイジ ファイナルゲーム 』 -ようこそ、底辺の世界へ-

『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

Posted on 2020年1月14日 by cool-jupiter

ティーンスピリット 20点
2020年1月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エル・ファニング
監督:マックス・ミンゲラ

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Jovianはエル・ファニングのファンである。しかし、それでも言わなければならない。これは駄作である。完全なる失敗作である。2020年は始まったばかりだが、海外クソ映画オブ・ザ・イヤー候補の最右翼であると言える。

 

あらすじ

ヴァイオレット(エル・ファニング)は英国に暮らす、歌手を夢見るポーランド系移民。ある時、“ティーンスピリット”の予選が地元で開催されることを知ったヴァイオレットは、オーディションに申し込みを行う・・・

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ポジティブ・サイド

オープニング直後にエル・ファニングが歌う“I was a fool”という歌は雰囲気があった。ストーリーの向かうところを暗示するEstablishing ShotならぬEstablishing Songだった。

 

またクライマックスの“Good Time”からのファニングの独唱そして熱唱は、『 ソラニン 』よりも上、『 リンダ リンダ リンダ 』に並ぶカタルシスをもたらしてくれた。

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ネガティブ・サイド 

Jovianが古い人間なのだろうか。今世紀の歌手の歌の数々にあまり魅了されなかった。『 アリー / スター誕生 』でも同じことを感じたが、音楽映画であるにもかかわらず、無条件に入っていける、ノセテくれる楽曲があまりにも少ないのは致命的である。そういう意味では『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は秀逸だった。

 

また、このタイトルからは何をどうやってもNirvanaの“Smells Like Teen Spirit”を想起せずにはいられない。しかし、映画全体を通じてカート・コバーンのような「叛逆」や「打破」といった荒ぶるパワーは感じられなかった。もっと言えば、アイデンティティに悩む10代特有のドラマがない。敬虔なカトリックであるヴァイオレットの母親とヴァイオレット自身の距離感の描写が不足しているし、学校で特別に影が薄い存在として描かれているわけでもない。家庭や学校でヴァイオレットが疎外を感じる描写や演出があまりなく、ヴァイオレットが馬の世話と音楽に逃避することへの説得力が生まれていない。その馬が買われていく時にも、取り乱しはするものの、鬱になるでもなく、さりとて音楽の力で立ち直るでもない。オープニングで、ブルーアワーの牧草地で馬を世話しながらiPodの音楽に耽溺する様はいったい何だったのだろうか。

 

ヴラドというキャラクターの構築も中途半端だ。呼吸法のレクチャーには、亀の甲より年の功といった趣が感じられたが、それだけ。元プロのオペラ歌手として、精神論以外のアドバイスを送ることはできなかったのか。大手レーベルとの駆け引きでも、クロアチアで培った経験や業界の裏事情通であるところなどを披露し、ナイーブでいたいけなヴァイオレットを金の亡者の大人たちから守るのかと期待させて、それもなし。唯一褒められるのは、甘やかされてダメになりそうなクソガキをぶっ飛ばしたところだけ。

 

ヴァイオレットの成功があまりにトントン拍子で、彼女自身が抱えていた問題の描写も弱いことから、サクセス・ストーリーがサクセス・ストーリーに見えない。同じく音楽にフォーカスしていた『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は、成功を掴めば掴むほどに、自身の抱える心の闇がより深まっていくことがはっきりと描写されていた。だからこそ、最後のステージでカタルシスが爆発した。ヴァイオレットは違う。元々抱えていたアイデンティティの問題や学校や家庭での疎外もいつの間にやら解消、というかそんなものは最初からなかったかのようである。

 

これにより、ヴァイオレットが自らの人生に欠いているpositive male figureとしてヴラドを受け入れるようになる、というプロットが空回りしている。ネックレスの件も同じである。実の父親を心のどこかで求めていながら、しかし、父親代わりの人物を実の父以上に慕うようになるという下地が描かれていない。ヴラドが母親に花束を贈っただけでは説得力など生まれない。それともお互いにポーランドとクロアチアからの移民で、同病相哀れむということなのだろうか。母子家庭であるヴァイオレットの家族と、ヴラドと自身の娘の関係の描写がとにかく薄くて浅くて弱い。この出来で、ヒューマンドラマで盛り上げれと言われても無理である。

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総評

エル・ファニングの熱烈ファン以外にはお勧めできない。というよりも、エル・ファニングの熱烈ファンにすらお勧めしづらい。単に彼女の体の線が露わになるタンクトップで髪を振り乱して踊り狂うところを見たいというファンぐらいしか堪能できない作品である。脚本および監督のマックス・ミンゲラの力量不足は明らかである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get that a lot.

「よくそう言われる」の意味である。ヴラドに年齢を尋ねられ、ヴァイオレットは21歳だとサバを読む。そこでヴラドに「もっと若く見えるぞ」と言われ、“I get that a lot.”と返した。このthatは、

“Let’s go for a drink after work.”

“That sounds awesome.”

のように、一つ前の事柄全般を受ける代名詞のthatである。それをしょっちゅうgetする=「よくそう言われる」となる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, エル・ファニング, 監督:マックス・ミンゲラ, 配給会社:KADOKAWA, 音楽Leave a Comment on 『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

『 フォードvsフェラーリ 』 -戦友と共に戦い抜くヒューマンドラマ-

Posted on 2020年1月12日 by cool-jupiter

フォードvsフェラーリ 75点
2020年1月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マット・デイモン クリスチャン・ベール
監督:ジェームズ・マンゴールド

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タイトルはやや misleading である。アメ車のフォードとイタ車のフェラーリの戦いというよりは、フォード社内のイニシアチブ争いがメインになっている。そういう意味では『 OVER DRIVE 』というよりは、『 七つの会議 』&『 下町ロケット 』的である。もちろん、カーレースは迫力満点で描写されており、アクション面でも抜かりはない。

あらすじ

フォード社はフェラーリ社を買収しようとするも失敗。フォード2世はその腹いせにフェラーリを公式レースで破ることを決意。ル・マン24優勝経験者のキャロル・シェルビー(マット・デイモン)を登用する。シェルビーはドライバー兼開発者のケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)と共に、新車の開発に邁進するが・・・

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ポジティブ・サイド

マット・デイモンが光っている。元ドライバーとしての炎がくすぶっていながら、健康上の理由でレースには出られない。カリスマ性と口舌で車のセールスマンとして成功しながらも、勝負師として完全燃焼しきれないというフラストレーションが隠せていない、そんな男を好演した。このレーサーでありながら会社員という二面性が、シェルビーというキャラクターを複雑にし、また味わい深い人物にしている。サラリーマンがロマンを感じやすく、なおかつ親近感を覚えやすいのである。

そんなシェルビーのsidekick を演じたケン・マイルズも渋い。ふと、『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーは、ケンの孫、つまりピーターの息子なのかな、などとあらぬことも考えた。スポーツカーはスポーツカーらしく乗れと顧客に言い放つのは、傲慢さからではなく、クルマへの純粋な愛着からである。そのことは、自分のクルマを“she”と呼ぶことからも明らかである。男性は自分の乗り物をしばしば愛車や愛機と呼ぶのである。だからといってケンがクルマ一辺倒の男だというわけではない。彼にはプロフェッショナリズム以上に妻と息子への愛情があり、チームへの信頼がある。開発中のクルマのパーツや性能の不満をあけすけに語るのは、それをチームが改善できると確信しているからだ。

この現場組と、フォード2世をはじめとする経営側、つまり背広組の間のイニシアチブ争いがプロットの大きな部分を占めている。フェラーリ買収の失敗はドラマの始まりであり、1966年のル・マン24時間レースは、ドラマの大きな山であるが、本筋は男たちの友情と、ある種の権力闘争である。営業と企画、支部と本社など、普通のサラリーマンが入りこめる話である。特に、現場のリーダーであるシェルビーに己を重ね合わせる一定年齢以上の会社員は多いのではないか。中間管理職として胃が痛くなるような展開が続き、ただでさえ心臓に爆弾を抱えているようなものなのに、胃にまで穴が開いてはかなわない。そんなシェルビーがル・マンのレースで、犯罪スレスレの行為で敵チームをかく乱する一方で、フォード社の獅子身中の虫とも言うべき副社長を相手に一歩も引かない対決姿勢を鮮明にする。このような男を上司にしたい、またはこのような男を同僚に持ちたい、と感じるサラリーマンは日本だけで300万人はいるのではないか。

レースシーンも迫力は十分である。特に7000rpmの世界は新幹線のぞみ以上の世界で、人馬一体ならぬ人車一体の世界である。“There’s a point at 7,000 RPMs where everything fades. The machine becomes weightless. It disappears.”というシェルビーの呟きが何度か聞こえるが、何かもが消え去った世界でケン・マイルズの脳裏に浮かんだものは何であったのか。それは劇場でご確認いただきたい。

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ネガティブ・サイド

レースシーンの結構な割合がCGである。CGの醸し出すウソ臭さは、気にする人は気にするし、気にしない人は気にしない。Jovianは気になってしまうタイプである。ちょうどグランフロント大阪のピクサー展でサーフェシングやライティングについて見学をしてきたというタイミングの良さ(悪さ?)もあったのかもしれないが。

背広組で唯一、現場の力になろうとするリー・アイアコッカ(ジョン・バーンサル)の存在感が皆無である。上層部へのプレゼンの失敗フェラーリの買収交渉失敗、副社長の現場介入阻止の失敗と、失敗続きである。これが史実なのだろうか。もうちょっと美化した描き方はできなかったのだろうか。

翻訳に一か所、間違いを見つけてしまった。新聞のヘッドライン“FORD LOSES BIG”が、「 フォード、巨額の損失 」と訳されていたが、これは誤りである。正しくは、「フォード、(レースで)惨敗」である。林完治氏のポカであろう。

総評

これは血沸き肉躍る傑作である。レースのスリルと迫力よりも、モノづくりに全精力を惜しみなく注ぎこむ男たちのドラマを楽しむべきである。男と男が分かり合うためには激しい言葉をぶつけあうことも必要だが、取っ組み合いの喧嘩の方が早い場合もある。我々がシェルビーとマイルズの関係に魅せられるのは、二人が子どものまま大人になっているからなのだ。男一匹で観ても良し、夫婦でもカップルでも良し、家族でそろって観るのも良しである。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’ll be damned.

「こいつは驚いた」というニュアンスの表現である。かなりインフォーマルな表現である。とにかくビックリした時に使おう。“I’ll be damned.”だけでも頻繁に使われるが、 I’ll be damned if ~ という形で使われることも多い。

I’ll be damned if he knocks out the champion.

I’ll be damned if I fail this test.

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, クリスチャン・ベール, スポーツ, ヒューマンドラマ, マット・デイモン, 伝記, 歴史, 監督:ジェームズ・マンゴールド, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 フォードvsフェラーリ 』 -戦友と共に戦い抜くヒューマンドラマ-

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