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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2010年代

『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

アリー / スター誕生 40点
2018年12月22日 にて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー レディー・ガガ
監督:ブラッドリー・クーパー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227140025j:plain

バーブラ・ストライザンドや、古くはジュディ・ガーランドにまでさかのぼるスター誕生物語の系譜が現代の歌姫、レディー・ガガに受け継がれた。ガガの歌唱力と意外な演技力、ブラッドリー・クーパーのカリスマ性をもってしても、しかし、これは残念ながら凡作の烙印を押されることを免れ得ないだろう。

 

あらすじ

アリー(レディー・ガガ)は、昼はウェイトレスを、夜は場末のバーで歌いながら、歌手になる夢を見ていた。そのバーに、有名ミュージシャンのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)が来店。アリーの歌に魅了されたジャクソンは、彼女を自分のコンサートの舞台に立たせる。喝采を浴びたアリーのキャリアとロマンスが動き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

“Shallow”と“Always Remember Us This Way”は素晴らしい。容易に歌詞が視覚化されてくる。それは映画のシーンとそれだけシンクロ率が高いからだ。極端な例を挙げれば、あのゴジラのテーマを聞けばゴジラが思い浮かぶし、ジョン・ウィリアムズのSuperman’s Themeを聞けば、クリストファー・リーブが思い浮かぶ。最近だと、ハンス・ジマーのワンダー・ウーマンのテーマがキャラを完璧に体現する傑作だった。冒頭の二曲は、本作を思い起こす上で絶対に欠かすことのできないピースになっているとさえ言える。

 

また、ガガの意外な素顔というか、彼女は普通の格好をしてノーメイクまたはかなり薄いメイクぐらいが最も美しいという意外な発見もある。露出多めの衣装も着てくれるし、入浴シーンやラブシーンもかなりある。スケベなビューワーも期待してよろしい。実際、ブラッドリー・クーパーはこういうシーンがやりたくて自分で監督及び主演をしたんじゃないのかと勘繰られても文句は言えまい。そういえば、シルベスター・スタローンもその昔、『 スペシャリスト 』という何とも微妙な映画で一部のファンや批評家から批判されていた。曰く、「シャロン・ストーンとベッドシーンを演じたかっただけじゃないのか」と。それでも、本来は歌手であって女優ではなかったはずのガガがここまで体を張ってくれるのだから、映画ファンは眼福とばかりに思わず、その表現をしかと受け止めねばならない。

 

個人的には映画のピークは駐車場のシーンかな。何気ない会話にこそ本当のドラマがあるように思う。『 ロッキー 』でエイドリアンとロッキーが無人のスケートリンク内で語り合うシーンこそが、Jovian的には the most romantic moment ever in filmなのだが、夜の駐車場シーンにも似たような趣があった。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの成功者とは、なぜ酒、ドラッグ、女に溺れて身を持ち崩すのだろうか。そういうのは『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』などで散々見てきたし、冒頭のジュディ・ガーランドへのオマージュであろうか、アリーの歌う“Over the Rainbow”が夢の国への旅立ちとそこでの試練、そして現実への回帰を予感させる。それはかつて何度もリメイクされてきた本作のストーリーのフラクタルでもあるだろう。それでも、この物語の陳腐さはもう少しどうにかならなかったのだろうか。雌伏、雄飛、成功、愛憎、別離、そして悲劇と、今日日の韓国ドラマでももう少し何らかの手を加えてくるだろうという、その起伏そのものが余りにも平板に感じられてしまうストーリー展開。はっきり言って、ガガの成功と歌唱力、パフォーマンスを我々があらかじめ知っているからこそ感情移入できるし説得力も生まれているのだが、これが誰か別のキャスト、たとえば歌唱力抜群だが、本当に自分の容姿容色にコンプレックスを抱いているような若い女性を起用したらどうなっていただろうか。恐らく、何の変哲もない凡百の作品との評価を受けて終わりだろう。それほど、本作のプロットは平々凡々である。

 

また現代というテクノロジーの転換期にある時代、梅田望夫の言葉を借りるならば「総表現社会」においては、すでに類似の事例がいくつもある。スケールはまったく異なるが、少し古いところではニコニコ動画初のKURIKINTON・FOXがメジャーデビューを果たしたり(その後、色々あったようだが・・・)、現在でも米津玄師やDAOKOなど、インターネット上のプラットホームからメジャーデビューを果たすという事例は、もはや珍しいものではなくなっている。また、海外の事例を挙げるとするならば、Rod Stewartに見出されたグラスゴーのストリート・パフォーマー、Amy Belleであろう。“I don’t want to talk about it”のデュエットは、始めて見た時、文字通り鳥肌が立った。

 

ことほど左様に、本作のストーリーは現実世界によってそのファンタジー性を剥ぎ取られてしまっている。YouTubeでバズったというだけでは現代に本作をリメイクする意味が無い。もっと新しいアイデアが盛り込まれてしかるべきだった。クーパーの嗅覚も少し鈍ったのだろうか。個人的には、ジャクソンとアリーは、RodとAmyのデュエットを超えなかった。

 

総評

映画としては普通の面白さである。ここで言う普通をどう捉えるかは観る人次第である。ガガやクーパーのファンであれば観るべきだ。しかし、『 ボヘミアン・ラブソディ 』と比較してはならない。音楽も演技も演出も映像も、『 ボヘミアン・ラブソディ 』に軍配が上がる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ブラッドリー・クーパー, ラブロマンス, レディー・ガガ, 監督:ブラッドリー・クーパー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 音楽Leave a Comment on 『 アリー / スター誕生』 -脚本に現代的な味付けが足りない-

『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

Posted on 2018年12月27日2019年12月6日 by cool-jupiter

二ツ星の料理人 55点
2018年12月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ブラッドリー・クーパー ユマ・サーマン アリシア・ヴァイキャンダー リリー・ジェームズ
監督:ジョン・ウェルズ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181227024144j:plain

今、最も旬を迎えつつあるリリー・ジェームズやアリシア・ヴァイキャンダーが結構なチョイ役で出演している。それだけでも観る価値があるし、細部に注意を払えば、非常に興味深い東西比較文化論ができる作品でもある。今度、”What is the best culinary experience you have ever had in a foreign country?” というお題でエッセイでも書いてみようか。

 

あらすじ

アダム(ブラッドリー・クーパー)は天才的な料理の腕前を持ちながら、酒、ドラッグ、女に溺れ、トラブルと借金のためにパリの二つ星レストランを去るしかなかった。3年後、彼はかつての同僚らと和解し、自らが見出した才能たちと再起のために新しい店をオープンさせ、ミシュランの三つ星を目指すべく奮闘するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ブラッドリー・クーパーの出演作には基本的に外れが無い。その演技力もさることながら、駄作、凡作、佳作を本能的に嗅ぎわける嗅覚に優れているのだろうか。いつでも自信満々、自らの才覚と実績を隠すことなく誇り、仕事は大胆にして繊細、しかし気に入らないものには言葉の暴力と物理的な暴力を容赦なく行使する。そんな豪放磊落なキャラクターというのは、往々にして傷心と小心の裏返しなわけで、アダムもその例に漏れない。彼が傷つき、恐れたものとは何であるのか。劇中のカウンセラーとのセッションが印象的だが、それすらもある意味では彼の本心を包み隠さず語ったものではない。そう、本作は料理人の成長物語であるだけではなく、傷ついた男の再生物語でもあるのだ。

 

本作の序盤の料理シーンでは、極力、顔と手を同時に映さないようにしている。しかし、シーンが進んでいくごとに、料理シーンでは役者の手と顔を同時に映すようになっていく。これはウェルズ監督の意図した画作りだろうか。役者の成長と上達が、キャラクターの成長と上達にオーバーラップする、非常に良い演出であると感じた。

 

演出面で言えば、アダムが上着のボタンをはずすシーンがあるのだが、それが緊張から解放されたことを見事に象徴している。アダムの成長というか、変化を如実に実感させてくれるのだが、そのことを本人あるいは他の登場人物に説明させるのではなく、演技して見せる。映画の基本にして究極でもある。北野武の『 アウトレイジ 』でも、椎名桔平がカジノでジャケットのボタンをゆっくりと留めるシーンがあったが、こちらは緊張が高まるシーンだった。対照的ではあるが、どちらも語らずに見せる、印象的なシーンだ。

 

観終わってから、本作の原題が Burnt である意味をほんの少し考えて見て欲しい。そしてここで納得のいく定義を自分なりに探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

何故この映画に出てくる料理人はどいつもこいつも煙草を吸うのだ?いや、煙草を吸うだけならまだいい。結構な重要キャラが自室兼キッチンで堂々と喫煙するというのは、いったいどういう料簡からだろうか。

 

また、これは大部分は文化の違いに起因するのだろうが、何故西洋の料理というのは、素材に無頓着(に見える)のだろうか。フランス料理に関して言えば、都パリは意味から遠く、新鮮な魚介類がパリに着くころには、保存状態がかなり怪しくなっていた。したがって、濃厚なソースが必要になる。また英国は産業革命発祥の地であるがゆえに、農村や郊外から都市部への人口の流入があまりにも急激だった。それゆえに各地の伝統的な食材や料理法が継承されず、大量生産に適した都市型の味気ない料理が残ったという。いずれにしても、東洋が大切にする素材の良さと、料理そのものの熱が伝わらないのは、個人的には大いに不満である。このあたりは『 クレイジー・リッチ! 』や『 日日是好日 』といった作品が活写した文化としての食が伝わらなかった。もちろん、洋の東西の違いは十二分に承知しているが、ミシュランが大阪のたこ焼き屋にまで星をつけたりするこの時代、全てが白の丸皿に盛りつけられただけで「食べるのをやめられない料理」の魅力は十全には伝えられないだろう。

 

本質的には料理人ではなく、ブロークン・ハートな男の物語である。しかし、食材や調理のシーンにもっともっと凝って欲しかったと思う。リアリティとは、こだわりなのだから。

 

総評

普通に楽しめる作品である。しかし、料理人や料理そのもの、また食す側の人間や、食のレビュワーまでも描いた作品『 シェフ 三ツ星フードトラック始めました 』の方が面白さでは一段上であろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, アリシア・ヴァイキャンダー, ヒューマンドラマ, ブラッドリー・クーパー, ユマ・サーマン, リリー・ジェームズ, 監督:ジョン・ウェルズ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 二ツ星の料理人 』 -レーゾンデートルを見失った男の再生物語-

『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

Posted on 2018年12月26日2019年12月6日 by cool-jupiter

春待つ僕ら 40点
2018年12月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:土屋太鳳 北村匠海 小関裕太
監督:平川雄一朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181226021500j:plain

巷間言われて久しいが、土屋太鳳は本当にもうそろそろ女子高生役は卒業すべきだ。せっかく『 累 かさね 』で一皮むけたところを見せながら、これでは元の木阿弥ではないか。彼女のハンドラー達は何をやっているのだろうか。また、今作も漫画を映画化するにあたって、漫画的な文法を取り入れている。映画と漫画は異なる媒体なのだから、世の映画監督たちはもっと原作者と突っ込んだ議論を行い、おおいに芸術論を戦わせればよい。原作者や原作ファンをリスペクトすることと、彼ら彼女らに阿ることは全くの別物なのだ。

 

あらすじ

春野美月(土屋太鳳)は引っ込み思案な女子。しかし、高校入学を機に自分を変えようと思い、周囲に溶け込もうと努力するも空回り。そんな時、バイト先のカフェで同じ高校のバスケ部の面々と知り合うことに。バスケ部と過ごすうちに確かな変化を実感する美月の前にしかし、幼馴染が現れて・・・

 

ポジティブ・サイド

どうしても題材として同じ競技を扱う『 走れ!T校バスケット部 』と比較せずにはいられない。バスケをプレーしているシーンに限っては、本作の圧勝である。T高の方は、あまりにも珍妙なプレーシーンが多かったし、何よりもストーリーとバスケの試合内容が噛み合っていなかったのが致命的だった。本作は、役者連中にかなりバスケを練習させたと見え、一連のプレーやシュートシーンに合成の類はほとんど無かったように見えた。これは大きな加点材料だ。特に北村匠海と磯村勇斗は意外にバスケの動きが様になっている。経験者なのだろうか。

 

また小関裕太も良い味を出すようになった。演技力には改善の余地があるが、何を観ても金太郎飴的な演技しかできないアイドルやなんちゃって役者が跳梁跋扈する日本映画界で、それなりに幅のある役を任せられる(それらを見事に演じ切っているかどうかは別にして)というのは、ポテンシャルが認められてのことだろう。本作でもかなりユニセックスな演技を披露してくれる。来年か再来年には、『 クローズ 』に出ていそうなヤンキー役をやってくれないだろうか。

 

ネガティブ・サイド

これでもかというぐらい欠点や弱点がある作品だが、それらを全て指摘することに意味は無い。なので、どうしてもこれだけは見逃せない、許せないという類のものに焦点を当てたい。

 

まず第一に、北村匠海のキャラ、永久に「寝たらなかなか目覚めない」などという属性付けは必要だったか。そんな『 SLAM DUNK 』の流川の二番煎じキャラに何の意味があるのだ?原作がそうなっているからといって安易にそれを踏襲し、そして肝心の映画ではその属性に何らかの意味があったのだと感じさせるシーンがゼロと来れば、監督に文句の一つや二つも言いたくなる。10巻以上の漫画の物語を2時間という尺に過不足なく収めるのは至難の業だ。それこそが脚本や監督の腕の見せ所のはずなのだが・・・ また同じシーンで美月が「起きて!!」と大声を出すシーンがあるが、これも必要だったか?引っ込み思案で内気な少女が、友情に触れることで変わり、成長し、仲間の応援のために心の底から大声を張り上げられるようになる、という余りにも分かりやすい展開のために、美月の大声はもっと後までとっておくべきではなかったか。といっても、トレイラーで件のシーンはしこたま強調されているので、今更そんな指摘をしても詮無いことではあるのだが。

 

バスケのプレーについては、それなりにリアリティのある絵を撮れていたものの、その他の描写が弱い。というよりも首を傾げざるを得ないものもある、というのが残念である。例えば、いくらアメリカ帰りのバスケの申し子とはいえ、シュート成功率90%はないだろう。NBAのトップ中のトップでもフリースロー成功率が90%を超えるのはイースタン、ウェスタン、両カンファレンス合わせても毎年10人にも満たないはずだ。それこそシャキール・オニールを日本の高校に連れて来てプレーさせでもしない限り、そんな数字は絶対に生まれない。漫画は漫画であるが、映画とは大きな嘘をつくために細部のリアリティに徹底的にこだわりぬかねばならないのである。

 

最後に、永久と亜哉の 1 on 1 のシーン。何度も倒され、顔に泥がついた永久のシャツがびっくりするぐらい真っ白なのはどういうことなのだろうか。また、「チャラくは無いな、皆マジでバスケやってるから」と豪語する部員たちのスポーツバッグが、夏を過ぎても新品同様にしか見えないのは何故なのか。運動部の連中がバッグを使いこめば、数カ月もすれば、あちらこちらに擦り傷や綻びが目立ってくるものだ。そうした、バスケに費やした時間を観る者に感じさせる小道具が一切出てこないのが最大の減点材料だ。平川監督はそれなりにキャリアがあるが、もう一度、映画監督の仕事とは作品世界を存立させるに足るリアリティを担保することであるということを勉強し直してほしい。

 

総評

40点なのか45点なのか悩んだが、総合的には『走れ!T校バスケット部』と同点か。バスケシーンでは本作の勝ち。バスケ以外のリアリティはT高の方が上。しかし、良作とも光るところはあるものの、欠点の方が大きく目立った。土屋や北村のよほどのファンでなければ、わざわざ劇場でチケット代を払ってまで観ることはない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, 北村匠海, 古関裕太, 土屋太鳳, 日本, 監督:平川雄一朗, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

『 パーソナル・ショッパー 』 -霊に取り憑き、取り憑かれた霊媒師-

Posted on 2018年12月25日2019年12月6日 by cool-jupiter

パーソナル・ショッパー 60点
2018年12月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クリステン・スチュワート
監督:オリビエ・アサイヤス

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Personal Shopper

近年の映画界は“幽霊”というものを少しシリアスに捉え始めたのだろうか。『 ルームロンダリング 』や『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』などの佳作が見られたが、その静かなブームの火付け役は本作だったのかもしれない。

 

あらすじ

モウリーン(クリステン・スチュワート)は、急死した兄と生前に約束をしていた。どちらか死んだ者が、生きている側にサインを送ると。彼らは霊媒師なのだ。兄からのサインを待ちながら、パーソナル・ショッパーとして有名モデルのファッション関連の買い物を代行する仕事に明け暮れるモウリーンの携帯に、ある時、不可思議なメッセージが届き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

これは単なる幽霊の物語でもなければ、ホラー映画でもない。もちろん幽霊は登場するのだが、それはある種のガジェットとしてしか機能しない。兄の突然の死、フラストレーションの募る仕事、希薄な人間関係。こうした一連のストレスと謎のショートメッセージがモウリーンが自らに課した禁忌の扉を少しずつ開放していく。それは華やかな衣装に身を包むことであったり、性欲に身を任せたりであったりと様々だ。霊というのは不思議なもので、自分に関係のある者(例えばご先祖様など)の霊については我々はその実在を信じやすい。一方で、自分と関係の無い人間の霊の存在は、客観的にはともかく、主観的に信じようとする人はまず存在しない。つまり、モウリーンが劇中で見せる不可解ともいえる行動の数々は、彼女が彼女でない何者かになっていることを強く示唆する。そうでなければ、誰が兄の霊が見ているかもしれないと感じている中で自慰に耽るだろうか。『 ルームロンダリング 』は自分とは無関係な人間の霊を成仏させていきながらも、その行為の原点は肉親であった。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』は、妻への思慕の念から不思議な時間の円環を巡る幽霊の物語であった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、霊とは自分の半身( significant other )なのだ。普通は逆である。霊とは、この世に未練を残したまま死んだ者の残滓、と理解されている。しかし、本作はさらに一歩踏み込んで、自分を形作る非常に重要な部分でありながら、決して自分自身ではない者、それが霊という存在に仮託されているのではないかと提唱する。生きた人間には悩みは尽きないが、霊にもジレンマやコミュニケーション不全というものがあるのだ。

 

ネガティブ・サイド

非常に難解な構成である。もちろん、物語のこの部分はあれの比喩だな、とか、このXとあのYは見事な相似形になっているな、ということであれば割と分かり易い。しかし、これほどヒントの少ない映画というのも珍しいのではないか。なにしろ、ラストシーンまで到達しても、「ああ、あのシーンが伏線だったのか」と思えることが皆無なのだから。もちろん、受け取り手側の無知および無力もあろうが、カンヌ映画祭で絶賛とブーイングの両方を浴びたというのもむべなるかなである。

 

自分ではない誰かになろうとする。それは普遍的なテーマであるが、霊の力を借りて、あるいは例の存在にかこつけて描くべきテーマだったのだろうかとの疑問は残る。これほど訳が分からず色々と考えさせられたのは久しぶりでもある。『 2001年宇宙の旅 』とまで言わないが、『 ノクターナル・アニマルズ 』に並ぶ、混乱系の映画である。それも心地よい混乱ではない。眩暈、吐き気がするような混乱で、この感覚を心地よいと思う向きと不快に思う向きの両方が存在するはずだ。Jovianは残念ながら前者である。

 

総評

映画は基本的には、映像、監督、演技の三要素で採点すべきだ。本作はその三要素ではすべて平均以上のものを持っているが、必ずしも万人向けではない。カンヌですら意見が絶賛と酷評に分かれたと言うのだから、カジュアルな映画ファンの胃袋には少々重いかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, クリステン・スチュワート, サスペンス, フランス, ホラー, ミステリ, 監督:オリビエ・アサイヤス, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東北新社Leave a Comment on 『 パーソナル・ショッパー 』 -霊に取り憑き、取り憑かれた霊媒師-

『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

Posted on 2018年12月20日2019年12月6日 by cool-jupiter

オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 50点
2018年12月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョン・キューザック クラーク・デューク クレイグ・ロビンソン ロブ・コードリー
監督:スティーブ・ピンク

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181220153154j:plain

原題は“Hot Tub Time Machine”、邦題はおふざけが過ぎるかもしれないが、内容を考えれば、これぐらいぶっ飛んだタイトルの方が逆に的確かもしれない。主役はジョン・キューザックだったはずだが、あるところからロブ・コードリーが文字通りの意味でsteal the showを行う。『 ジュラシック・パーク 』ではサポーティング・アクターだったはずのジェフ・ゴールドブラムが、『 ロスト・ワールド ジュラシック・パーク 』では主役に躍り出たような感じか。

 

あらすじ

アダム(ジョン・キューザック)は同棲していた彼女に捨てられ、自棄になっていた。そこに旧友のルー(ロブ・コードリー)が自殺未遂を図ったとの連絡を受け、病院に急行。そこでもう一人の旧友ニック(クレイグ・ロビンソン)とも再会を果たす。ルーは回復、日常の憂さを晴らすべく、かつて3人で盛り上がったスキー・リゾートにアダムの甥っ子ジェイコブ(クラーク・デューク)と共に繰り出す。街の凋落ぶりに落胆する3人だったが、気を取り直してジャグジーで乾杯。そして目覚めた時には1980年代にタイムスリップしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

高校生がロッカールームで騒ぐ、あるいは大学生が寮内で騒ぐのと同じノリを、いい年こいたおっさん連中が維持していることにはある種の爽快感と痛快さがある。こうした超高速会話劇は日本では『 シン・ゴジラ 』が傑作とされているが、英語圏では(言語特性の違いも大きいが)ごく普通のスピードだったりする。英語に堪能な人は、ぜひ本作のキャラクターたちが使いこなす、いわゆる four-letter words を研究してみよう。

 

本作のテーマは、人生における後悔、怒り、不都合な真実をタイムトラベルによって解消できるかということである。これだけなら何の変哲もないタイムトラベル物語なのだが、タイムマシンがお風呂であること、そして過去に行き着いた主人公たちは自分たちの認識では中年(一人未成年含む)なのだが、鏡に映された姿は若い頃の自分たち。そして、周りの人間にも若い=同時代の人間であると認識されるところだ。まるで藤子・F・不二雄の漫画『 未来の想い出 』のようだ(€ちなみに映画化作品の『 未来の想い出 Last Christmas 』はまだ観ていない)。人間は往々にして現状の不満の原因を過去に求める。それをやり直すチャンスが得られたら、トライするだろうか?それとも現状を受け止めて、過去には一切手を触れないようにするだろうか。

 

本作では興味深いサブプロットが進行する。現在の世界で片腕の無い男が、過去ではその片腕があるのだ。この部分は以外に面白い。いったい、いつこの男は片腕を無くすのか?しかも、どのように?馬鹿馬鹿しいプロットではあるが、これがあるために劇中のとあるシーンにスリルとサスペンスが生まれている。

 

ネガティブ・サイド

少し80年代をチープに描き過ぎではなかろうか。また、タイムパラドックスの代表例とも言える親殺しのパラドクスは、もう少しうまい具合に料理できなかったか。この分野には『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』という不朽の名作が天高く聳え立つが、いっそのことパロディ色を前面に押し出しても良かった。また、『 バタフライ・エフェクト 』を思わせるような、過去のほんの少しの改変が未来に巨大な影響を及ぼすかのような描写もあったが、そのあたりのシリアスさは全くもってスルーされてしまった。冒頭にも述べたが、主人公が途中で交代してしまったかのようなちぐはぐさも気になった。こうしたことは稀に起こるが、成功例は少ない。最近では『 ボーダーライン 』でベニシオ・デル・トロがエミリー・ブラントから steal the show をした例が挙げられる。全体的に色々なものをパッチワーク的につなぎ合わせたような不揃い感が強く残り、コメディとしての面白さは維持しているが、映画としては失敗作という印象を受けた。特に夜中のとある屋根の上のシーンの星空の作り物感にはガッカリさせられた。リゾート地の星空なのだから、もう少しリアリスティックかつロマンティックな星空を描くべきだ。タイムトラベルという大ウソをつくのだから、細部のリアリティにもっとこだわるべきだ。

 

総評

珍妙な邦題をつけられた作品が好きだ、という向き以外には強くお勧めする理由はない。ただ『 プールサイド・デイズ 』で割と真面目でまともな隣人を演じていたロブ・コードリーの、頭のねじを意図的に外したような演技に興味があるという人は、雨の日にでも観てみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, ジョン・キューザック, ロブ・コードリー, 監督:スティーブ・ピンクLeave a Comment on 『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

Posted on 2018年12月19日2019年11月30日 by cool-jupiter

来る 35点
2018年12月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岡田准一 黒木華 小松菜奈 松たか子 妻夫木聡 柴田理恵
監督:中島哲也

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原作は小説『 ぼぎわんが、来る 』で、こちらはまあまあ面白い。『 リング 』の貞子より怖いと評す向きもあったが、恐怖を感じる度合いは人それぞれであろう。しかし、小説、そして映画としての怖さと面白さは『 リング 』の圧勝である。本作は映画化に際して原作の持つメッセージをかなり削ぎ落としてしまっている。そのことが残念ながら裏目に出た、残念な映画化作品である。

 

あらすじ

田原秀樹(妻夫木聡)は妻、香奈(黒木華)と幸せな結婚生活を送っていた。そして香奈が妊娠。秀樹は理想的な父親となるべく努力を始めるが、周囲では怪異が起こり始める。不安を覚えた秀樹は友人の伝手からジャーナリストの野崎(岡田准一)を紹介してもらい、そこから霊感の強い真琴(小松菜奈)を紹介してもらうも、事態は好転せず・・・

 

ポジティブ・サイド

本作の最大の見どころは2つ。1つは小松菜奈の露出である。美脚やへそを遠慮なく披露し、入浴シーンのおまけつき。『 恋は雨上がりのように 』でも、艶のある表情、そして姿態・・・ではなく肢体を見せてくれたが、有村架純の次にラブシーンを解禁してくれるのは、小松で決まりか。

 

もう1つは、黒木華のベッドシーン。これまでもいくつかラブシーンはあったが、今回は一味違う。といっても露出具合とかそういう話ではない。女性性ではなく、動物性を感じさせるような演技。理性ではなく本能の赴くままに抱き合う様はよりいっそう官能的だった。

 

と手放しで褒められるのはここまで。もちろん、妻夫木聡の高レベルで安定した演技力や、そのキャラクターに知らず自身を重ね合わせて見ることで慄然とさせられる男性映画ファンは多かろう。しかし、それが映画の面白さにつながっているかというとそうではない。それが惜しい。そうそう、柴田理恵も良い味を出している。はっきり言ってギャグとホラーの境目を頻繁に行ったり来たりする本作の中で最も象徴的なキャラにして、最も振れ幅が大きいキャラを演じ切ったのはお見事。彼女のシリアス演技だけで笑いながら震えてしまった。

 

ネガティブ・サイド

まず、原作の三部作構成および語り手=人称=視点の変更というアイデアを中途半端に取り込んだのが、そもそも間違いだった。取り入れるなら全て取り入れる。映画的に翻案するなら、すべて映画文法に従わせる。そのどちらかのポリシーを選んで、貫くべきであった。同じように、視点があちこちに移動する小説を原作とする映画に『 白ゆき姫殺人事件 』がある。こちらは原作のテイストを維持しながらも、Twitterのツイートを終盤に一挙に爆発させるという手法を取ることで、映画的なカタルシスを倍増させることに成功した。このように、何か新しいアイデアがあるのでなければ、原作にとことん忠実になるか、もしくは原作をとことん映画的に料理してしまうべきだ。中途半端は良くない。この批評は原作既読者ならばお分かり頂けよう。

 

秀樹のパートは妻夫木聡の卓越した演技力もあり、一見して理想的な夫そして父に透けて見える厭らしさ、あざとさ、狡猾さ、弱さ、狡さなどの負の要素が観る者に特にショックを与える。それは妻役を演じた黒木華にしても同じで、口角をゆっくりを上げながらニヤリと笑うその顔に震え上がった男性諸氏は多かっただろうと推測する。しかし、こうした裏のあるキャラたちが物語の序盤にあまりにも生き生きと描かれるためか、主役であるはずの岡田准一演じる野崎のキャラが全く立たない。もちろん、彼には彼なりのストーリー・アークがあるのだが、そのインパクトが非常に弱い。男が水子の霊に苛まされるというのは新しいと言えば新しいが、その恐怖をもっと効果的に描く方法はあったはずだ。例えば、あり得たはずの美しい家庭、そして家族のビジョンをほんの十数秒で良いので映すだけでも、その喪失感と絶望感、後悔、苦悩などが描けたのではなかったか。あるいは撮影はしたものの、尺や演出の関係でカットしてしまったのか。観客が対象に対して感じる恐怖というのは、観客がキャラと一体化してこそ効果的に感じられる。ある意味で世捨て人になってしまっている野崎ではなく、平凡な、しかしありふれた幸せを享受する野崎を想像させてこその恐怖ではなかろうか。

 

クライマックスはほとんどカオスである。壮大なセットを組み、日本中から除霊の腕っこきを集めるのだが、ギャグと見まがうシーンとシリアスな描写とが入り混じるのには、苦笑を禁じ得なかった。優れた原作小説を調理する方法が分からない中島監督が、自身の混乱と嗜好の分裂をそのまま映像で表現したのかと考えさせられるぐらい、統一感に欠けるクライマックスが展開される。これを怖いと思う人は、恐怖の閾値があまりにも低い。全体を通じてペースが悪く、ぼぎわんという怪異の存在に対する恐怖を登場人物たちが描き切れていない。そのため、それを見物する我々観客に恐怖がなかなか伝わらない。ホラー映画なのに、さっぱり怖くないのだ。これは致命的であろう。

 

総評

はっきり言ってキャスティングの無駄遣い。脚本段階のミスで、大物の俳優らが出てくるのが遅すぎるし、原作にあった“視点の変更”というアイデアも、視覚言語たる映画にうまく換骨奪胎できなかった点が、兎にも角にも悔やまれる。キャスティングに魅力を感じる人ほど、観終わった後に徒労感を抱くだろう。同工異曲の満足感=ホラーを求めるなら『 不安の種 』のオチョナンさんの方がお勧めである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ホラー, 妻夫木聡, 小松菜奈, 岡田准一, 日本, 松たか子, 監督:中島哲也, 配給会社:東宝, 黒木華Leave a Comment on 『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

Posted on 2018年12月14日2019年11月30日 by cool-jupiter

ヘレディタリー/継承 50点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トニ・コレット アレックス・ウルフ ミリー・シャピロ アン・ダウド ガブリエル・バーン
監督:アリ・アスター

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heredityという言葉がある。遺伝という意味で、よりなじみ深い英単語ならinheritが挙げられるだろう。ityがつくことで、性質や状態を意味する。身近な例としては、abilityやunity、facilityがある。これにさらに、aryをつけると、場所や範囲、領域を意味するようになる。好個の一例がdictionaryだろう。dictについては、predictやcontradictから類推は容易だ。原題も”Hereditary”であることから、誰かが何かを受け継いでいることを指すのは一目瞭然なのだが、誰かとは誰か、何かとは何であるのかを理解するのは一筋縄ではいかなかった。

 

あらすじ

その一家は祖母を亡くした。その娘のアニー(トニ・コレット)は母には複雑な感情を抱いていながらも、仕事のミニチュア・ハウス作りに没頭する。息子のピーター(アレックス・ウルフ)と娘のチャーリー(ミリー・シャピロ)も日常に回帰しようとするが、名状しがたい異様な空気を一家は振り払うことができず、ある夜、悲劇が発生してしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

非常に珍しい Establishing Shot から始まる映画である。ミニチュアのドールハウスを映したかと思えば、その部屋の一つにどんどんズームインしていく。それがピーターの寝室とぴたりと重なるところで、父がピーターを実際に起こしに来る。のっけから唸らされた。今からあなたが観るのは、全て誰かが組み立てた話なのですよ、とあけっぴろげに語られたような気がしたからだ。そして、実際にその通りなのである。

 

何と言ってもチャーリーを演じたミリー・シャピロに拍手を送りたい。強面のジェイソン・クラークをそのまま性転換させ幼児化させたようで、メイクの力もあるだろうが、尋常ならざる雰囲気を見た目だけで醸し出している。天才肌のグレイス・マッケナとは一味違う、一種異様な空気を纏うことができる子役だ。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアのようなキャリアを歩まないことを切に願う。

 

アメリカのメジャーな映画の母親役はトニ・コレットかアリソン・ジャネイとでも決まっているのだろうか。ほんの少し前まで、邦画のきれいなおばあちゃんは吉永小百合、ちょっとエキセントリックなおばあちゃんは樹木希林だったように。本作では主演だけではなく製作総指揮も務めたとのことだが、おそらく鏡の前で相当に顔の筋肉を動かしてから撮影に臨んだに違いない。恐怖の演出のための表情が、コメディ一歩手前にまで到達してしまっている。トニ・コレットでなければギャグになってしまうところを、その存在感と卓抜した演技力で見事に場面を締め付けている。

 

顔芸ではピーターも負けてはいない。特に運転席のシーンでは、観ているこちらも冷や汗をかくというか、脂汗をかくというか、バックミラーを見て後ろを確認すると、そこには!という演出は、おそらく『 ジュラシック・パーク 』で一気にスパークし、今やクリシェと化したが、今作はバックミラーを覗きこみたくても覗きこめないという演出で観る者の不安と恐怖を掻き立てた。残念なのは、恐怖の描写ではこのシーンがピークだったことか。

 

ネガティブ・サイド

ホラーとは何か、については実に興味深い議論がある。Cinemassacreの二人(James RolfeとMike Matei)による Is it horror? という動画がある。議論の冒頭で“Horror is something that’s always changing and adapting to the state of the world”=「ホラーは常に変化して、世界の状態に適応していくもの」という指摘がなされるが、これは正しい。そして、その議論を援用するならば、ホラーの定義は地域によって異なってもよいはずだ。極めて日本的なバックグラウンドを持つ人が、この映画から感じ取る恐怖とは、視覚的な恐怖や聴覚的な恐怖であったり、家族の崩壊の恐怖であったりで、宗教的・哲学的な意味での恐怖を感じ取る人がいたとすれば、相当に鋭い感受性か、もしくは類まれな知識と教養の持ち主と思われる。この映画から後者の意味での恐怖を受けるとすれば、それは西洋文明に相当明るい人のはずだ。Jovianは平均よりも上の知識をその方面に有していると自負しているが、正直なところ、家族の崩壊以上の意味を感じ取ることは難しかった。最後の最後の場面で諸々の伏線、前振りが回収されていく様は見事であったが、それはホラーといよりもサスペンスやスリラーであるように感じられた。

 

ホラー=恐怖とは、理不尽なもの、理屈が通じない状況から生まれるものだろう。しかし、本作の悲劇の始まりは、チャーリーがある行動を取ったから、という実に他愛のないものだった。隠す意味もないのだが、その行動とは「ケーキを食べる」である。もう、これだけでホラーの要素が薄まってしまうだろう。もちろん、その後の悲劇は本当に悲劇としか言いようがないのだが、その過程で観る者が感じるのはサスペンスであってホラーではない。これは西洋人であろうと東洋人であろうと同じだと考えられる。

 

本作は『 ローズマリーの赤ちゃん 』になろうとして、しかし『 タロス・ザ・マミー/呪いの封印 』になってしまった、と言えば通じるだろうか。誰がどう見ても怖い作品を作ろうとして、謎解き要素が強めの作品が出来上がったという感じである。同工異曲でもっと怖い作品を観たいという人は、『 ウィッチ 』を観よう。色々と腑に落ちた点をしっかりと頭に叩き込んでもう一度劇場に向かえば異なる感想を持つ可能性は高いが、残念ながらその予定はない。

 

総評

おそらく評価が真っ二つに分かれる作品である。恐ろしさを感じる人は感じるだろうし、スリルやサスペンス、またはミステリー要素を感じ取る人も相当数いると思われる。ホラーというものは常に現実に即しながら、必ず現実をはみ出た部分を持っている。どの方向にどの程度はみ出るかによって、どのような人にどの程度の恐怖感を催させるかが決定されるわけだ。そうした意味では、観る人を選ぶ作品である。もしもトニ・コレットのファンならば、即、劇場へGO!! である。イヤミス好きという人にもお勧めできる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, トニ・コレット, ホラー, 監督:アリ・アスター, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

Posted on 2018年12月12日2019年11月30日 by cool-jupiter

くるみ割り人形と秘密の王国 40点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マッケンジー・フォイ キーラ・ナイトレイ モーガン・フリーマン
監督:ラッセ・ハルストレム ジョー・ジョンストン

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チャイコフスキーの“くるみ割り人形”と言えば、圧倒的に「行進曲」と「花のワルツ」のイメージが強いだろう。この軽快にして優雅な調べは、聴く者の心に沁み入るような印象をもたらす。この典雅な音楽に乗せて展開される映像世界はどのようなものになるのだろうかと期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

母を亡くして以来、内向的になってしまったクララ(マッケンジー・フォイ)は、あるクリスマス・イブに名付け親のドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)の邸宅を訪れる。そこでは各人へのクリスマスプレゼントが用意されており、自分の名前が書かれた札のついた紐をたどっていく仕組みだ。そしてクララが紐をたどっていく先には、不思議な世界が広がっていた・・・

 

ポジティブ・サイド

インターステラーのマーフがここまで大きくなったかと、マシュー・マコノヒーならずとも父のような目で見てしまう。クロエ・グレース・モレッツ的な存在になるのか、それともジェニファー・ローレンスのような恐れ知らずの女優にまで変貌するか。今後が実に楽しみである。なんとなくルックスが杉咲花を思わせるのだが、出演作は本人およびハンドラーもしっかりと吟味をしてほしいと切に願う。

 

ゴッドファーザーのモーガン・フリーマンも、日本の国村準に負けず劣らずのハイペース出演。正直なところ、この偉大なる俳優のキャリア、というか寿命もそこまで長くは残されてはいないだろう。彼の今後の一作一作が、文字通りの遺作になる覚悟で臨んでいる。言えるうちに言っておこう。この不世出の名俳優に乾杯。

 

そしてキーラ・ナイトレイである。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』では典型的なお姉さんキャラを演じていたが、本作ではハイテンションお姉さんキャラに変貌を遂げた。しかし、大人でありながら大人の余裕をそれほど感じさせないお姉さんキャラという点では、いつものキーラなので、彼女のファンであってもそうではなくても、安心して鑑賞できる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは人による。Jovianは好意的に受け取った。キーラは何となく、蒼井優を思わせる。可愛らしさ、色気、儚さ、物憂げな様子、名状しがたい負の感情、倒錯。そうしたところが共通しているように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーそのものに真新しいところはない。というよりも、ディズニーらしい改変が加えられている。ディズニーがよく知られた物語を実写化すると、しばしばフェミニスト・セオリーなどの現代的な読み変えを行う。女性はどこまでも受け身で、物語を雨後がしていくのはもっぱら男性的なキャラクター達というのが古典的な物語の在り様だ。赤ずきんちゃんでも白雪姫でも何でもよい。そうしたおとぎ話の女性の受動性とディズニー映画の女性の積極性には見事なコントラストがあるのだが、それが常に成功するわけではない。なぜクララがいきなりガンガン闘えるのか。なぜクララに女王の威厳が備わっているのか。なぜクララが機械仕掛けに精通しているのか。こうした男性的な特徴を、特に説明もなくクララが持っていることが、物語にマイナスに作用しているように思う。近年の実写ディズニー映画で個人的に最も面白かったのはリリー・ジェイムズの『 シンデレラ 』だ。なぜなら、女性の女性性を損なうことなく、一貫した物語に仕上がっていたからだ。クララ本人とその母親、そして四つの王国の背景がほとんど語られないままにキャラが動き出すせいで、観客は置き去りにされたかのように感じてしまう。

 

また、CGの量は何とか抑えられなかったのだろうか。全ての王国の背景が、あまりにも作り物然としていた。CGが今後どれほどの進歩を見せるのかは分からないが、それでもCGはCGとして目に映るだろう。最近観た『 グリンチ(2000) 』でも感じたことだが、着ぐるみや特殊メイクは幼稚かもしれないが、存在感という点ではいかなるCGにも勝る。最近も『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ほとんど動かないキングギドラを見せられたが、かつての昭和、平成のキングギドラは二十人ほどの操演によって動いていたという。しかし、ピアノ線による操演技術はロストテクノロジーとなって久しい。今ではエキストラの人間さえもCG作成して合成してしまう映画が多いが、ディズニーほどの予算を持っているのなら、オーガニックな素材をふんだんに使った映画を作り続けるべきだ。本作のCGヘビーな面は、技術の進歩というよりも技術の後退、継承の失敗という文脈で捉えるべきではないだろうか。

 

総評 

はっきり言って、本作にはストーリー上の面白さは無い。キャストにお気に入りがいないのであれば、素直にスルーするのが吉である。そうはいっても、チャイコフスキーの音楽の調べによって語られる物語の映像美は、雨の日の過ごし方やちょっとした時間つぶしのためには最適であるのかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ファンタジー, マッケンジー・フォイ, モーガン・フリーマン, 監督:ジョー・ジョンストン, 監督:ラッセ・ハルストレム, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

Posted on 2018年12月8日2019年11月30日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 50点
2018年12月1日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ ジュード・ロウ
監督:デビッド・イェーツ

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原題は“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald”、『 ファンタスティック・ビースト:グリンデルバルドの罪 』というわけだが、ウィザーディング・ワールドでは罪の概念がマグル/ノーマジの世界とは異なるのだろうか。個人的には、グリンデルバルドはそこまでつの罪を犯しただろうか?と首をかしげてしまった。

 

あらすじ

悪の大魔法使い、グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が移送中に逃亡に成功。ダンブルドア(ジュード・ロウ)と接触したニュート(エディ・レッドメイン)は、彼に代わってグリンデルバルドの追跡を依頼される。大魔法使いのダンブルドア自身がその任にあたらないことに訝しさを覚えつつも、ニュートはロンドンからパリへと向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

シリーズと呼ばれる作品は映画界に数多く存在する。しかし、Saga / サーガ と見なされうるだけの力と奥深さを持つ作品は少ない。『 スター・ウォーズ 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』は間違いなくサーガだが、『 猿の惑星 』や『 ミッション・インポッシブル 』はサーガではないと感じている。サーガとは英雄譚であると同時に、魅力的なキャラクターと物語を生み出す世界観そのものだろう。「ルークやダース・ベイダー(≠アナキン)が出てこないから、新三部作はスター・ウォーズではない!」と怒るファンはいなかった。我々スター・ウォーズファンが怒り、嘆き悲しんだのは、フォースと言う銀河に満ちる神秘的な力を生物学的に解釈してしまったところだった。世界観を破壊されたからなのだ。そういった意味では、キャラクターではなく世界観こそが、シリーズとサーガを分ける一つの大きな指標だろう。『 ハリー・ポッター 』は紛れもないもサーガだった。本作もサーガの一端を担っていると言える。それはニュートやティナが登場していること以上に、魔法や魔法生物の存在によるところが大きい。前作でかなり唐突にアメリカに舞台を移したことには面食らったが、今作はパリ、さらには中国の妖怪も大暴れし、日本の妖怪も一瞬だけ登場する。世界の奥深さ、広大さを切り取った素晴らしい構成だと感じた。

 

ネガティブ・サイド

登場人物が一気に増えすぎた感は否めない。前作のニュート、ティナ、ジェイコブ、クイニーのリユニオンが期待されていたはずだが、そこへ持ってきてニュートの兄、その兄の婚約者、さらにクリーデンスの親など、メインのプロットであるグリンデルバルドの追跡とは直接に関連しないサブプロットが多すぎる。『 アントマン&ワスプ 』でもそうだったが、ストーリーは詰め込めば詰め込むだけ良いというものではない。過剰なサービス精神が必ずしもエンターテインメントになるわけではない。

 

冒頭でも述べたことだが、本作の最大の弱点は、グリンデルバルドが多くの魔法使いを扇動するばかりで、罪と呼べるのはオープニングの闘争および逃走シーンぐらい。だいたい、こんな危険な魔法使いが逃げ出したというのに、魔法省は数ヶ月間も動かず。ハリポタ世界でもヴォルデモートの復活を信じず、闇の軍団の成長に楔を打ち込もうとする動きは大きくならなかった。魔法使いは皆、基本的に能天気なのだろうか。闇祓いというのはアラスター・ムーディのような、好戦的・・・とは言わないまでも、闘うことに慎重になりすぎず、闘うとなれば手足や目玉ぐらいは犠牲に闘うものではないのか。ニュートが闇祓いを忌み嫌うのは、自分たちの知識や理解の範疇に収まらない生物を駆除しようとするからではなかったか。なぜグリンデルバルドにもっと立ち向かっていかないのか?映画的ご都合主義が見え隠れしていた。これは大きな減点材料だ。

 

総評

本シリーズは全5作で完結するとされている。であるならば、次作ではマクゴナガル先生の若い頃versionが登場してもおかしくない。個人的には、ハリポタ世界でスネイプ先生に次いで最も好きなキャラクターだ。ダンブルドアがストーリーに絡んできたからには、彼女の登場も期待される。作品としてはもう一つだが、Wizarding Worldの広大さを感じられるという意味では及第点。

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Posted in 映画Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

Posted on 2018年12月6日2019年11月23日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 60点
2018年11月29日 レンタルDVD鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ
監督:デビッド・イェーツ

 

ハリー・ポッターは最初の1冊だけ小説を読んだ。映画は全部観た。原作の翻訳者が大学の大先輩で、2000年ごろの大学祭での講演も聞いたことがある(ただの自慢話だったと記憶しているが)。Universal Studios Japanにも何度か行ったが、ハリポタのアトラクション・ライドは必ず乗ってきた。大ファンというわけではないが、The Wizarding World of Harry Potterの世界にはそれなりに魅了されてきた。作品としては続編(sequel)だが、物語としては前日譚(prequel)である。

 

あらすじ

魔法動物学者のニュート(エディ・レッドメイン)は、様々な魔法動物の収集と保護のためにアメリカを訪れる。しかし、魔法のトランクから一部の動物が脱走。アメリカ魔法省からお咎めを受ける。逃げ出したファンタスティック・ビースト、さらには未知の魔法生物を探し求めて、ニュートの冒険が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッターの世界と地続きなので、非常に入りやすい。服装、街並み、呪文など、いかにも前シリーズを意識していて、すんなりと世界に入って行ける。

 

キャラクターも良い。ハリポタ世界のマグルは、はっきり言ってあの嫌味な一家の印象しかないが、ジェイコブ・コワルスキーに(ダン・フォグラー)は嫌味がない。彼は人間味に溢れ、なおかつ非常に好感を抱きやすい好漢だ。このノーマジ=人間とニュート、ティナ(キャサリン・ウォーターストン)、クイニー(アリソン・スドル)が織り成す関係こそが物語の軸になるということが即座に分かる。素晴らしいは褒めすぎだが、しっかりとした導入部分を作れている。

 

今作では、オブスキュラスという魔法生物?怪物?が猛威をふるう。ハリポタ世界のデスイーターをさらに凶悪かつ破壊的にした感じで、そのCGビジュアルは美麗にして禍々しい。ハリポタ世界では、純血と混血の対立と融和が裏テーマとして存在していたが、ファンタビ世界では、愛される者と愛されない者の対立と融和が、おそらく裏テーマとして設定されているようだ。これはこれで興味深いし、時代や社会の背景を如実に映し出していると言える。愛は種を超えるのか。世界を超えるのか。なかなかに深遠なテーマに挑んでいる。その意気やよし。

 

エディ・レッドメインは『 博士と彼女のセオリー 』では圧巻の演技を見せた。『 ホーキング 』では同役をベネディクト・カンバーバッチが演じたが、両者の30歳前後での純粋な演技力だけに注目すれば、レッドメイン > カンバーバッチとなろう。本作でもその演技力の高さは遺憾なく発揮されており、様々な魔法生物に相対した時の声の出し方、票の作り方、なで方や触り方、歩き方や忍び寄り方の随所に、現実世界の動物学者やレンジャーたちと共通するモーションが見られた。興味と暇のある方は、ぜひ本作のニュートの動き方、立ち居振る舞いを頭に刻みつけた上で、NHKの『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』を視聴してみよう。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、ハリー、ハーマイオニー、ロンの3人組のケミストリーには及ばない。というか、比べること自体が酷であろう。J・K・ローリング自身もそのことを自覚しているからこそ、メインキャラ達を大人に設定し、そこにノーマジを加えてきたのだろう。しかし、ハリポタ世界の sequel ならまだしも、prequel の世界では、それは最善手ではなかった。

 

また、これも比べるのは酷なのだが、ハリー・ポッターにおけるヘドウィグのテーマほどの象徴性のあるサウンドトラックが無かった。例えば、スター・ウォーズにおけるミレニアム・ファルコンのテーマ・・・までは望むべくもないが、これを聞くとニュートの顔が思い浮かぶ、という力のあるサントラが欲しかった。

 

シリーズが続いていくほどに、様々な謎やキャラクターの過去も明かされていくと思うが、グリンデルバルドの登場があまりにも唐突すぎたように感じた。このキャラの深堀りは次作以降に行われるのだろうが、ヴォルデモートの「名前を言ってはいけないあの人/He who must not be named」のような、そんなインパクトある二つ名が欲しかった。

 

最後に、やはりハリポタ世界におけるセブルス・スネイプのようなキャラクターが欲しかった。それがクリーデンス(エズラ・ミラー)なのか、それとも別キャラなのか、それともスネイプ先生は唯一無二の存在なのだろうか。抱える闇の深さが、実は愛の大きさを示していたという屈折したキャラの存在がやはり望まれる。

 

総評

前の打席で場外ホームランを打ってしまうと、次の打席で二塁打を打っても特に騒がれない。そんな不条理さが感じられてしまう。しかし、ニュートというキャラクターはとても魅力的で、今後どのような魔法生物と出会い、どのような魔法生物の知識を披露してくれるのかと思うと、それはそれで胸躍るものがある。期待しすぎないこと。それが今シリーズを鑑賞する時に最も大事なことなのかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エズラ・ミラー, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ゾーイ・クラヴィッツ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

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