Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: 2010年代

『NERVE ナーヴ 世界で一番危険なゲーム』  ―雨の日の暇つぶしに最適な一本―

Posted on 2018年7月5日2020年2月13日 by cool-jupiter

NERVE ナーヴ 世界で一番危険なゲーム 50点

 2018年7月5日 WOWOW録画観賞
出演:エマ・ロバーツ デイブ・フランコ ジュリエット・ルイス エミリー・ミード マイルズ・ハイザー
監督:ヘンリー・ジュースト アリエル・シュルマン

アホなYouTuberが続々逮捕される時期があったが、この映画まさにそれを描いている。登場人物が次々にしょっ引かれるわけではないが、普通に法に抵触するようなことを平気でやってのける人間たちがこんなにいるものなのかと、エンターテインメントの世界でも現実世界でも慨嘆させられる。カネのためなのか注目のためなのか、人はアホな行動に出ることがある。それが無意識であれば「そういうこともたまにはあるわな」と思えるが、どこからどう見ても他者への対抗意識だったり、自意識過剰のこじらせ過ぎだったりするのだ。ワイドショーに出てくるような底浅い評論家の好きそうなタームを使えば「自己承認欲求」である。

本作のテーマもそれである。かといって、どうやってそれを満たすかではない。それを満たすのは簡単なことである。過激なことをして注目を浴びればよい。実際に、冒頭数分でシドニー(エミリー・リード)というチアリーダーがフットボールの試合で生尻を披露する。彼女はプレーヤーとしてプレーをしていたに過ぎない。それはNerveというゲームのウォッチャー(有料視聴者)によってdareされたものだったからだ。詳しくは Truth or Dare でググって欲しい。要するに、アングラサイトに有料でサインアップして、YouTuberのような連中にdareをする。そのdareをプレーヤーがコンプリートできれば、難易度に応じて賞金が支払われる。そんなゲームにひょんなことから参加を決意したのがヴィー・デルモニコ(エマ・ロバーツ)だった。ニューヨークのスタテン・アイランドから出たこともなく、兄を亡くした反動から娘をメインランドの美術大学に送り出せず、引き留めてしまう子離れできない母親(ジュリエット・ルイス)と暮らしていたが、好きな男に間接的にふられてしまったこと、その引き金になったのが自分を取り巻きのように扱っていたシドニーだったことから、一瞬やけくそになってしまう。そんな瞬間にNerveに登録して、見知らぬ男と5秒キスすることで100ドルが振り込まれてきた。そのキスの相手の男イアン(デイブ・フランコ)もたまたまNerveのプレーヤーで、ウォッチャーたちは二人の過激なプレーを要求するようになり、手軽に振り込まれてくるカネに目がくらんだ二人は、ゲームをプレーし続けるのだが・・・

的中するかどうかは別にして、結末を予測するのは容易い。Nerveのようなアンダーグラウンドのゲームが当局の目をかいくぐって存在し続けるのは不可解であるし、ウォッチャーから集めたカネをプレーヤーに瞬間的に分配するのはまだしも、物語が進むと、Nerveの管理者(と思しき者)がプレーヤーの銀行口座からカネを抜き取っていくのも描写される。こんな犯罪集団というか、実際に犯罪を強く教唆するようなリクエストがアングラネットゲームとはいえポンポン飛び出すような場所を、ネット先進国の一つアメリカ様が放置しておくとは思えない。だが、そこは巨大予算の映画ではないので無視しよう。深く考えると楽しめるものも楽しめない。しかしNerveというゲームのシステムそのものは非常にリアリスティックだ。野尻抱介の小説『南極点のピアピア動画』だったか、優れたネット動画コンテンツに対して「カネ払えない詐欺」のような描写があったと記憶している。確かにYouTubeのような動画共有サイトには、有料にできるのではないかと思うコンテンツも数多く存在する。まあ、そうした動画のクリエイターは広告でとんでもない額を稼いでいることがあるということが、昨今の春・夏のネトウヨBAN祭りなるムーブメントで満天下に示されたわけだが、それでも優良ゆえに有料化できそうなコンテンツはまだまだたくさん埋もれている。一部の本格的なYouTuberはペイトリオンに引っ越しつつあるようだが。

Back on track. おそらくほとんどの人は同じシチュエーションに置かれた時、ウォッチャーの方を選ぶだろう。なぜなら匿名のままでいられるからだ。しかし、その部分が深く抉られるとしたら?コンテンツを楽しみたいという欲求から傷害や人死にまで出る事態になった時に、自分はそこことをどう受け止めるのか。匿名であることから、自分のせいではないと開き直れるのか。ゲームをプレーするように促していただけだと自分を納得させられるのか。このあたりは本当に難しい。なぜなら Truth or Dare という実際に人々に親しまれているゲームのダークサイドを抽出して、ある意味で最も未成熟なネットユーザーたちがそれに晒された時、こうした事態が起こるのは容易に想像できる。動画の視聴者数や再生回数を競ってアホな行動に走り、お縄を頂戴する羽目に陥る愚か者たちを我々はすでにたくさん見てきているではないか。プロットそのものは陳腐というか破綻しているところもある。色々な意味で力になってくれるnerdの友達を主人公があっさり捨ててスリルを求めてNerveのプレーヤーとone night standに走ってしまうところなど、男に振られた反動にしても、酷過ぎるではないか。だが、そこには目をつぶらなければならない。繰り返すが、Nerveというゲームそのものは、『レディ・プレーヤー1』同様に、現実の延長線上にありそうな話だということで、ディテールさえ無視してしまえば存外に楽しめる、雨の日の暇つぶしにちょうど良い作品に仕上がっている。

主役を張ったエマ・ロバーツは高校生と言うには少し厳しいが、下着シーンも披露してくれるなど、文字通り体を張っていた。今後いくつか出演作をチェックしてみようと思う。また『ギルバート・グレイプ』のヒロインが今作の主人公の母親というのは、観終ってから映画.comを見ていて気がついた。どこかで見た顔だと登場シーンからずっと考えていたが、元気そうでなによりである。雨の日は映画観賞、雨の日こそ映画観賞である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, エマ・ロバーツ, 監督:アリエル・シュルマン, 監督:ヘンリー・ジュースト, 配給会社:プレシディオLeave a Comment on 『NERVE ナーヴ 世界で一番危険なゲーム』  ―雨の日の暇つぶしに最適な一本―

『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

Posted on 2018年7月3日2021年1月17日 by cool-jupiter

死の谷間 55点

2018年7月1日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:マーゴット・ロビー キウェテル・イジョホー クリス・パイン
監督:クレイグ・ゾベル

原題は“Z for Zachariah”、ZはゼカリヤのZ、という意味である。映画ファン、特にヒューゴ・ウィービングもしくはナタリー・ポートマンのファンという方であれば、即座に『Vフォー・ヴェンデッタ』を思い浮かべることだろう。これもVは復讐(ヴェンデッタ)のV、という意味である。また古いSF小説ファンであれば、レイ・ブラッドベリの『ウは宇宙船のウ』(R is for Rocket)や『スは宇宙(スペース)のス』(S is for SPACE)を思い起こすだろう。本作の原題の意味は、ZはゼカリヤのZ、である。ゼカリヤと聞いてゼカリヤ・シッチンの名前を挙げる人はかなりのオカルトマニアであろう。またゼカリヤと聞いて「ああ、聖書のゼカリヤ書ね」と分かる人はかなりの博識であろう。作中で一瞬だけではあるが、核戦争を生き延びた人類最後の女性と思われるアン(マーゴット・ロビー)が、”A for Adam”という本を手に取るシーンがある。AはアダムのA、ということだ。このアダムは言わずと知れたエデンの園のアダムである。ゼカリヤという名がここで暗示するのは、それが人類最後の男であるということだ。

そのようなPost-Apocalypticな世界において、人類最後の女として生き延びているのがアン・バーデン(マーゴット・ロビー)である。相棒にして愛犬のファロと共に、狩猟採集生活を送っている。非常に興味深いのは、アンは物語冒頭で対放射線の防護服を身にまとって、街の図書館らしきところから本を頂戴してくるところ。もちろん、食糧や日用品をあらかた失敬した後のことであろうと思われるが、これはサバイバルにおいて実に重要なことだ。貴志祐介の小説の『クリムゾンの迷宮』という佳作がある。シチュエーション・スリラーに分類されるであろう物語で、広大無辺の大地に突如取り残される男女複数名のサバイバル・ゲームを描く。その中で、主人公ペアはゲーム主催者から支給されるものの中から、食糧や武器ではなく、「情報」を選択する。これが決定的に重要な決断で、情報≒知識こそが、長い目で見たときに最も生存に資するリソースなのだということを示している。本作も同じく、アンの住む家には数多くの書籍があり、アン自身も農家で生まれ育ったことから、大自然の中で生き抜く知恵、そして孤独に耐えうる強い信仰を備えていた。一人と一匹の生活は、それなりに上手く回っていた。

そこに闖入者のジョン・ルーミス(キウェテル・イジョホー)がやって来る。科学者にして、黒人で、無神論者であり、酒に飲まれてしまうこともある。アンとは非常に対照的な属性の持ち主である。この二人が協力して、ガソリンを調達するシーンは、知恵が自然を克服する好個の一例である。人間の無力さは、力の欠如ではなく知識の不足から来ることを端的に証明している、非常に印象的な場面である。さらに一歩進んで、ジョンは核汚染されたエリアから来た水で構成される滝を使っての水力発電を思いつく。そのためには木材、それも数年から数十年単位で乾いた木が必要となる。それを調達するために、アンの心の拠り所であり父の遺産でもある教会を解体するか否かで、意見が分かれてしまう。将来ここにやってくる人間のためにも、食糧が保存できるように冷蔵庫などを稼働させなければならないというジョンと、別の人間など来ないと思うアン。信者と無神論者の穏やかな対立を描いた場面であると同時に、子を作るに際して能動の男と受動の女という対極的な姿をも描いた名シーンである。結論を急がずに暮らしを続ける二人の前に、しかし、ケイレブ(クリス・パイン)という若い炭鉱夫だという白人男性が現れる。物語はここから大きく動き始める。

とはいっても、アンを巡る男2人の仁義なき戦いというわけではなく、信仰の有無、肌の色の違いなど、この「死の谷間」を除いて荒廃してしまった世界で果たしてどれほどの意味を持つのか疑わしいことにも、人間は拘泥してしまうのだという、究極的な人間ドラマが描かれる。ケイレブ=Caleb=カレブである。聖書に描かれるカレブは神への信仰を生涯揺るがせにせず、荒涼としたエジプトの大地を脱出し、約束の地へたどり着いた男である。このことを知っていて映画を観る(あるいは原作小説を読む)のと、予備知識なしで観ることで、おそらく違う感想を抱くだろう。それは自分ならばどうするだろうかという主観的な見方と、この名前のキャラクターに込められた運命はこうであるという、運命論的な見方に二分されるのではなかろうか。もちろん、女性目線で分析することも大いに奨励されるべきであろうし、実際に理性と欲望の狭間でアン自身が翻弄されてしまうようなシーンもある。あらゆる場面で自分なりの解釈が可能であるし、創世記の如く、すでに誰もが知っている物語の再解釈と見ることもできる。スペクタクルには欠けるものの、思考実験として大いに知的好奇心をくすぐってくれる作品である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アイスランド, アメリカ, キウェテル・イジョホー, クリス・パイン, スイス, スリラー, マーゴット・ロビー, 監督:クレイグ・ゾベル, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

パンク侍、斬られて候 30点

2018年7月1日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:綾野剛 北川景子 東出昌大 染谷将太 浅野忠信 國村隼 豊川悦司
監督:石井岳龍
脚本:宮藤官九郎

まず30点というのは、Jovianの個人的感覚であって、この点数が他のサイトやレビュワーさんの点数よりも正確であるとは思わない。また観る者全員が傑作もしくは駄作であると一致した意見を見る作品は比較的少ないはずだ。Roger Ebertのようなプロの映画評論家の意見であっても、必ずしも賛成する必要は無い。自分の感性を信じるとともに、他者の感性も尊重すべきだ。現に映画館では、Jovianの嫁とその右隣のお客さん、さらには右側少し下のお客さんは映画のかなりの部分を熟睡していた。一方で、映画のちょっとしたギャグシーンで「クスッ」「ハハハ」「ワハハハ」というような声も聞こえてきた。彼ら彼女らはこの映画を楽しんだことだろう。重畳である。問題は、何故自分が楽しめなかったのか、というよりも、この映画のどのあたりが自分と波長が合わなかったのかを考えた方が建設的かもしれない。

まず、人によっては開始1分でずっこけるだろう。どうみても江戸時代で日本人にしか見えない綾野剛がルー大柴のようなカタカナ交じりの日本語を話す。それ自体は見る人によっては面白いのかもしれないが、リアリティを重視する自分としては全く面白くなかった。むしろ興醒めだった。また主要キャストに女性は北川景子しかいないのだが、そのせいでその登場シーンの印象が薄れるというか、「いや、このタイミングでこの登場の仕方をするってことは、冒頭のあのキャラが北川景子で決定やないか」と、キャスティングそのものがプロットをばらしてしまっているも同然なのだ。脚本のクドカンは何をやっているのか。

もちろん評価すべき点もある。家老として対立関係にある國村隼と豊川悦司は邪悪な笑みでその演技力の高さを見せつけるし、北川景子も無表情に清楚に踊る。反対にクスリでもやっているんじゃないのかというトリッピーな目で踊る染谷将太は、エキセントリックな役を演じさせれば同世代のトップランナーの一人であることをあらためて証明した。『新宿スワンⅡ』で綾野剛と共演した浅野忠信は今回は肉体派の演技に加えて、イカれたメンタルの持ち主を違和感なく演じることができることを教えてくれた。役者の面々には褒めるところが非常に多いのだが、これが映画全体を通して見ると、エンターテインメント性を思ったよりも持っていないのだ。

それは細部への過剰なこだわりによるものであろう。観賞中にやたらと気に障ったのは、アクションに対して効果音を多用しすぎであるということ、その効果音もやたらと大きく、音そのものが前面に出しゃばっていることだ。またCGの多用も文字通り目についた。『不能犯』の松坂李桃の目を覗き込んだ時の視覚効果もそうだったが、あまりにカクカクした、あるいはきれいすぎる曲線や、人工的にしか見えないクリアに色分けされた領域など、製作者側が限られた予算でこんなビジュアル、あんなビジュアルを使いたいと張り切った結果が、面白さに反映されないのだ。

本当に、これは観る側と作る側の波長の問題で、あらゆる作品について認識の乖離は起こりうる。シネマティックな作品は必ずしもドラマティックではないのだ。それだけはどうしようもない。ただし、これだけは言わねばなるまい。

パンク侍、斬られずに候!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, コメディ, 北川景子, 日本, 監督:石井岳龍, 綾野剛, 配給会社:東映Leave a Comment on 『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 65点

2018年6月30日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:オールデン・エアエンライク ウッディ・ハレルソン エミリア・クラーク ドナルド・グローバー フィービー・ウォーラー=ブリッジ ヨーナス・スオタモ ポール・ベタニー
監督:ロン・ハワード

  • ネタバレに類する情報は白字で表示

まず『スター・ウォーズ』という世界についてのおさらいをしておこう。スター・ウォーズは未来の世界のSF物語ではない。A long time ago in a galaxy far far away…で始まる通り、おとぎ話なのだ。John Williamsの、あのテーマ曲のイントロで一気にあの世界に引き込まれる感覚、というのはスター・ウォーズファンならずとも共有できる感覚だろう。おとぎ話の世界には独特の文法が存在する。それは往々にしておじいさん、おばあさんの形であったり、王や王国の形であったり、動物との意思疎通の形であったり、魔法や怪物の形で存在する。このように考えればスター・ウォーズという一大叙事詩が、言葉そのままの意味で、詩という独特の形式で英雄譚を語る手法を採用していることが分かる。

人はスター・ウォーズ世界に見出すものは、個人により、また時代により大きく異なる。そのことは『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』に詳しい。初期三部作に戦う女性像を見出す人もいれば、古き良き西部劇を見出す人もいるだろう(カンティーナなどは典型的なBar Fightであるが、それがハン・ソロというキャラを何よりも雄弁に物語るシーンでもあった)。壮大なスペース・オペラだと感じる人もいれば、『隠し砦と三悪人』と『オズの魔法使』を足して2で割ったように感じる人もいる。スター・ウォーズの最大の魅力は、何度観ても発見ができる、子どもと大人で楽しみ方が異なる、その世界観に浸るためのアイテムが豊富にあるということである。つまり、スター・ウォーズは旅行なのだ。日常世界からの一時的な脱出なのだ。事実、Jovianは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を劇場で5回観たし、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は劇場で7回観た。

それを踏まえて言えば、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』には確かにreplay valueがある。ただリピート・ビューイングはあとIMAXや3Dで1~2回かなという印象である。それは娯楽作品としては優れているが、スター・ウォーズ作品としての力は弱い、という評価である。しかし、そんなことは観る前から分かっていたことだ。映画史上で最も愛されるキャラクターであるハン・ソロの若き日を描いて面白くないわけがない。一方で、映画史上で演技力と存在感の乖離が最も大きいハリソン・フォードを乗り越えるのは、誰にとっても困難極まる仕事であろう。もともとジョージ・ルーカスは役者に演じることを求めず、彼ら彼女らの素の姿を自分の世界に配置することを好んでいた。そのことがハリソン・フォードにとっては幸運だったが、後継のオールデン・エアエンライクにとっては不運だった。顔や声がそれほど似ているわけではないからだ。しかし、似せようと努力はしていたし、映画は『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』や『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と同じく、3~5分ごとに見覚えのあるガジェットやクリーチャーのみならず、どこかで見た構図、どこかで見たカメラアングル、どこかで見たアクションが挿入されるなど、ファンサービスに徹したのか、それとも製作者側がオリジナル・トリロジーの呪縛に囚われているのか判断しかねる部分も多い。最後に登場するダース・モールは新たなスピンオフを明確にオビ=ワン・ケノービにすることを決断したものか。アニメシリーズで復活していたとはいえ、これは嬉しい不意打ちであった。

こういう映画の粗筋などを述べるのは無粋だし、上述したようにスター・ウォーズに何を見出すのかは個々人の自由である。Jovianは、とあるシーンで思わず「だからC-3POはファルコン号と話せたのか」とはたと膝を打った瞬間があった。見た瞬間に気づくべきであったのに、そこに思い至らなかったのは誠に汗顔の至りである。また自分にとってのスター・ウォーズとは、John Williamsの音楽とドロイド、ミレニアム・ファルコン号の三者から成るものであると認識できたのは収穫であった。フォースやライトセイバーが自分にとっては副次的なものであったという気付きはちょっとした衝撃でもあった。日常世界から非日常世界へ飛び出していくことを夢見る若きハン・ソロに自分を重ねても良いし、頭をできるだけ空っぽにして、上質なSFアクション・ムービーとして観るのも良い。満足できれば最高だし、不満足であれば、それはあなたが純粋なスター・ウォーズ愛を持っている証明であると考えよう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, オールデン・エアエンライク, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 65点

2018年6月28日 梅田ブルク7にて観賞
出演:榮倉奈々 安田顕 大谷亮平 野々すみ花
監督:李闘士男

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180701023943j:plain

『 電車男 』と同じく、ネットの投稿が起源という珍しい作品である。しかし、数年後にはそれほど珍しくなくなっているのではないか、ということも予感させる。

最近の俳優や女優は誰もが若々しさをキープしているが、榮倉奈々もその一人である。しかし、それは若々しさであって若さではない。そのことは、ほんのちょっとした料理の時の仕草などにも表れていた。本人の結婚がキャリアに良い作用を及ぼしている好例である。そして、安田顕である。『HK 変態仮面』で、ある意味で鈴木亮平以上のインパクトを残した安田である。疲れを見せてはいるものの草臥れきってはいない中年サラリーマン役をこれ以上ないほど好演してくれた。サラリーマンなどという存在は、酒でも飲まなければ生き生きできないのだ。

家に帰って来ると、妻(加賀美ちえ)が死んだふりをしている。それがどんどんエスカレートする。仕舞いには死体ですらなく、宇宙人、猫、スフィンクスなど、なんでもござれである。夫(加賀美じゅん)はその真意を測りかね、会社の後輩の佐野壮馬(大谷亮平)に相談する。そうした日々が続いて行くなか、夫婦同士の付き合いが始まり、結婚という制度の本質、男女の理解について、理解と誤解が生じては消えて・・・

劇中でJovianに最も刺さったのは、課長の「お前はお見合い結婚じゃなくて恋愛結婚だろ?だったら、合わないなら別れりゃいいだろ」という言葉である。日本社会全体の未婚化・晩婚化の原因の一つに、お見合いの減退が挙げられるのは間違いない。お見合いとは、小説家にして在野の異端の歴史家、八切止夫に言わせれば「家格と家格の取り組み」であった。昭和の中期ごろまでは、地方に行けば、結婚の許可は両親・親族だけではなく、学校の恩師や勤め先の上司にまで相談や報告が必要だったというから、その濃密すぎる血縁関係、地縁関係、ゲマインシャフトとしての学校や会社の側面が知れよう。対照的に、確か日本文学史においても「恋愛?それは美男美女がやるもの」みたいな観念が支配的だったはずである。そもそも恋愛という語も、英語のloveを翻訳する必要に駆られて生み出されたものだった。このloveの概念をどう捉えるのか。同じシーンで課長が決定的に意味不明な台詞を吐くのだが、課長の謎の論理展開とloveの関連を、観ている最中によくよく咀嚼してみてほしい。

「優しい言葉は人を傷つける」、これが本作の打ち出しているテーマの一つである。何も珍しいことはない。人間関係においては、自分の意図しないところで誰かが傷つき、誰かの意図しないところで自分が傷つくこともある。だから言葉が信用ならない、というわけではない。劇中でも安田顕と大谷亮平がそろって「口に出してくれなきゃ分からないよ」と言うが、これなどは典型的な日本の夫であろう。誤解しないでほしい。Jovianが言っているのは、日本の夫は共感力に欠けるということではない。言葉という論理で動くものではあるが、決してそれに縛られる存在ではないのだ。劇中のクライマックスで、かなりの数の男性視聴者が課長とちえの父の言葉を思い浮かべるであろう。

ちえが死んだふりを繰り返すのは何故か。そもそも何故、死んだふりなのか。この映画を観ながら、あちらこちらに死のモチーフが挿入されていることに驚かされる。しかし、それは不吉な事柄としての死ではなく、必然的な事象としての死である。Jovianは唐突に大昔プレーした『クロノ・トリガー』というゲームを思い出した。とあるキャラクターが「お前達 生きていない 死んでいないだけ」と言うのだ。次の瞬間には『ファイナルファンタジー9』でビビが「生きてるってこと証明できなければ死んでしまっているのと同じなのかなぁ…」と呟くシーンが、十数年ぶりに脳内再生されたような気がした。生きるとは何か。夫婦であるとは何か。愛とは何か。自分ひとりで観賞してじっくり考察するもよし、パートナーと共に観て、ディスカッションをするのも良いだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 榮倉奈々, 監督:李闘士男, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』 ―人間関係の変質と本質を描く―

Posted on 2018年7月1日2020年1月10日 by cool-jupiter

ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 55点

2018年6月28日 WOWOWシネマの録画を視聴
出演:ローズマリー・デウィット ジェニファー・ガーナー ディーン・ノリス アダム・サンドラー J・K・シモンズ アンセル・エルゴート ティモシー・シャラメ オリヴィア・クロシッチア
監督:ジェイソン・ライトマン

原題は”Men, Women & Children”。これをどう訳すのかは翻訳家や配給会社のセールス・プロモーション次第だが、ステイ・コネクテッドはアウト、つながりたい僕らの世界も・・・ぎりぎりアウトのように感じる。つながりたいという視点は、「自分たちはつながっていない。または、悪い意味でつながってしまっている」という、狭隘な、もしくは一段下からの視点になってしまいかねない。実際にそうした見方で凝り固まってしまった、醜悪とも言える人物も登場する。一方で、人間関係、コミュニケーションの本質において、時代の変化やテクノロジーの進化に関係なく、人間は他者とのつながりを求めてしまう生き物であるということも再確認させてくれる。だから、「つながりたい僕らの世界」という日本版の副題は“ぎりぎり”でアウトなのである。その理由は冒頭、唐突に登場するボイジャーにある。この超高速で今も太陽系の彼方のさらに向こう側へ飛び出しつつある探査機は、地球外生命へのメッセージが込められている。そう、人間は、どれだけ技術の進歩を見ても、やはり他者とのつながりをもとめずにはおれない存在なのだ、ということを非常に大袈裟な形でのっけから呈示してくる。原題も、大人の男、大人の女という、つながりを求めあうものの本質的な理解にはなかなか至れない存在同士を対比させ(その事実をコミカルにシリアスに描いたのが『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』)、さらにその対比存在として、子どもを挙げているではないか。互いが互いを必要としながら、ステイ・コネクテッドとあることができないのは、現代になって生じた問題ではなく、テクノロジーの進歩によって可視化された事柄であるに過ぎない。そのことを本作はしっかりと描いている。

登場するのは、女房に逃げられた中年ケント(ディーン・ノリス)とその反動でフットボールを辞め、MMORPGにハマってしまう男子ティム(アンセル・エルゴート)、さらにひょんなことからティムと良い仲になるブランディ(ケイトリン・ディーヴァー)、その母親にして娘のPC、携帯にキーロガーなどを仕込んで、メールやテキストのやりとりを監視、さらに削除、時になり済ましまで行うパトリシア(ジェニファー・ガーナー)、そのパトリシアの開くセッションでケントが知り合うことになる、娘の写真撮影を行いながらハリウッド進出のサポートを目論むジョアン(ジュディ・グリア)、その娘で高校ではチアリーダーを努めるハンナ(オリヴィア・クロシッチア)、そのハンナとひょんなことからセックスできそうになるが、ポルノサイトの見過ぎで生身の女子相手に不能になってしまっていたクリス(トラビス・トープ)、その父親で妻とはセックスレス、息子のPCでポルノサイトを閲覧し、果てはエスコートにまで手を出すドン(アダム・サンドラー)、その妻で「求められたい」という感覚を取り戻したいがために出会い系サイトに登録して不倫を楽しむヘレン(ローズマリー・デウィット)。その他にもハンナのチアメイトで上級生とひょんなことからセックスしてしまい妊娠させられてしまう拒食症気味のアリソン(エレナ・カンポーリス)、その父親のJ・K・シモンズ(役の名前は出てこなかった・・・?)、フットボールを辞めたティムを罵るばかりかブランディに物を投げてぶつけるという暴挙に出て、しこたま殴られるダニー(ティモシー・シャラメ)など、かなり豪華なキャスティングである。

このように人間関係は割と複雑だが、ストーリーそのものは凡庸である。どこかで観た話のパッチワークである。ただし、そこにコミュニケーションとディスコミュニケーションの対立を見出すかどうかが、この作品の評価の分かれ目になる。かつて小説家の栗本薫は『 コミュニケーション不全症候群 』でオタクを「人間を仲間と思わず、機械を仲間と思う人種」と定義した。スマホやPCを対話の相手と見なすのか、それともスマホやPCの向こう側に対話の相手を見出すのか。何やら梅田望夫が「ビル・ゲイツはコンピュータをパーソナルものにすることに大いなる可能性を見出した。セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジはパソコンの向こう側に広がる世界に大いなる可能性を見出した」と言う具合に、新旧のITの巨人を対比してみせた。なにやら本作のテーマにも通じる比喩である。時代と人間の変質と本質の関わりに興味を抱く向きは、観賞必須であると言えよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, J・K・シモンズ, アメリカ, アンセル・エルゴート, ジェニファー・ガーナー, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:パラマウント・ピクチャーズLeave a Comment on 『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』 ―人間関係の変質と本質を描く―

『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

Posted on 2018年6月28日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハクソー・リッジ 80点 

2017年7月2日 東宝シネマズ梅田 その他爆音上映など複数回観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド テリーサ・パーマー サム・ワーシントン ヒューゴ・ウィービング ビンス・ボーン
監督:メル・ギブソン

まずはメル・ギブソン監督に賛辞を送らねばならない。これは戦争映画の傑作であり、英雄譚の傑作であり、なおかつリアルな軍隊論、戦争論のドキュメンタリー映像でもある。小さな頃の兄弟喧嘩で弟を反射的にレンガで殴打してしまい、意識不明になるような重傷を負わせてしまったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)。それ以来、彼は「汝、殺すなかれ」の教えを胸に刻みつける。時は流れ、第二次世界大戦も佳境へ。同世代が次々と志願兵となって戦地に赴く中、デズモンドは将来の妻となる看護師のドロシー(テリーサ・パーマー)と出会い、恋に落ちる。そして彼自身も遂に戦場へと向かう決心をする日が来る。無事に入隊するものの、「銃には触らない」「人は決して殺さない」という軍と対極にあるその思想信条に、仲間や上官は困惑し、デズモンドを排除しようとするようになるが・・・

何がこの男をそこまでして戦地に向かわせるのか。そして、銃を持たず、ただただ衛生兵として戦場で傷ついた兵士たちだけを救出していくことにどのような意味があるというのか。自らの身を守る術を持たないまま、戦場に立つことの恐ろしさや危険性をどれほど自覚できているのか。デズモンドが子どもの頃は、ただの性質の悪い飲んだくれにしか見えなかった父親(ヒューゴ・ウィービング)が、息子が戦地に向かうと聞いた時に語る昔話は、これらの疑問に対する彼なりの答えであった。思いの丈をこのような形で見せるのは反則である。劇場でも、そして自宅でも泣いてしまったではないか。懐古趣味とすら映ったその行動は、過去の戦争によって植え付けられたトラウマのせいであったことを我々はここで初めて明確に知る。ウィービングのベスト・パフォーマンスはこれまでは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』であったと思っていたが、今作にこそ彼の最高の演技があると評価を見直したい。

戦場シーンは凄惨の一語に尽きる。血みどろなどという表現では生ぬるい、泥と臓物と火薬と煙が入り混じった、命であったモノがそこかしこに散らばっている。もちろん、五体満足な遺体も、死んだふりをしている役者ではなく、本当に仮死状態にでも追い込んでいるのではないのかという迫真の演技。我々はよく「死んだ魚の目」などと言って生気の無さを表現したりするが、今作もひょっとして微妙に目や顔などにVFXを施しているのか。いや、ギブソン監督はCGを多用するスタイルは好まないから、これもやはり迫真の演技か。

戦場の悲惨さが際立つのは、命の火はあまりにも呆気なく消えるのだという、その無慈悲なまでの描写にある。これは日本のテレビ映画『 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~ 』でも取り入れられていた手法である。まさかギブソン監督が香川照之を観たりはしていないと思うが、それでもアメリカ人である彼が日本人の水木しげると同じ問題意識にたどり着いたのは興味深い。水木は戦局苛烈と報じられた南部戦線で左腕を失うわけだが、同じく戦争で左腕を失ってしまった人物を我々はちょうど最近、『 焼肉ドラゴン 』の龍吉に見出したところである。つくづく戦争の理不尽さを思い知らされる。ギブソンと言えば『 マッドマックス 』、『 マッドマックス 』と言えばオーストラリア。大日本帝国軍がオーストラリア北部にまで侵攻していたことは、一般にはあまり知られていないのではないか。やってしまったことは取り消しようがないが、やってしまったことを無かったことにしようとしても仕方がない。論語に「過ちて改めざる、是を過ちという」とある。いつか来た道に舞い戻ってはならない。

Back on track. 戦争前の訓練シーンではお決まりとも言える愉快なキャラクター達が登場するが、最も笑えるのはおそらくハウエル軍曹(ヴィンス・ヴォーン)であろう。オーウェン・ウィルソンと組んだ『 ウェディング・クラッシャーズ 』や『 インターンシップ 』で残した印象が強烈で、それゆえに彼が『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹並みに口汚く新兵を罵っていく様は痛快ですらある。しかし、この痛快さが上述した戦場および戦闘シーンの凄惨さを倍増させている。ギブソン監督の手腕である。

その戦場でデズモンドが取る行動、すなわち衛生兵として負傷者の救護にあたることの意味を、観る者はすぐには見出せない。なぜなら、あまりにも呆気なく命が消えていくから。デズモンドが徹宵で戦場を駆け巡り、一人また一人と兵士を救い出していく様には初めはその英雄的行動に感動を、次にはその早く逃げてほしいという祈りを我々にもたらす。なぜ逃げないのか。それがデズモンドの信念であり信仰であると言ってしまえばそれまでだが、これは彼なりの父殺し(あくまでも文学的意味での)になっているのだろう。戦場で共に戦い、ともに死ねなかった戦友たち。父は友の死を悼んでいるのではなく、共に死ねなかったことを悔やんでいる。まるで『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』冒頭でトニー・スタークがスカーレット・ウィッチに見せられたようなビジョンだ。父が戦争に行きたいが許可してもらえない息子の願いを叶えるために、かつての上官を頼るシーンには、このような背景が見えてくる。軍を強くするのは、訓練ではなく「お前を独りでは死なせない」という連帯意識を共有することであろう。父やかつての上官はそれを知っていた。デズモンドは現実にそれを証明した。もしかしたら彼こそが軍人の鑑とすら言えるのかもしれない。なんという逆説であることか。

対照的に、日本軍兵士の描写は極めて陰鬱的である。この点をどう評価するのが、ある意味での思想のバロメーターになるのかもしれない。映画的演出上の脚色と見るもよし、史実の忠実な描写と見るもよし、フィクションとして距離を置くのもよいだろう。ただこの作品を通じて感じた何らかのメッセージを受け取ったのであれば、それを大事にしてほしい。戦争とは往々にして美化されるものだし、逆に美化されなければ、とても戦争などに行けるものではない。平和日本の今に乾杯するためにも、多くの人に今作に触れてほしいと思う。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, オーストラリア, ヒューマンドラマ, 監督:メル・ギブソン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

沈黙 サイレンス 80点

2018年4月18日 レンタルBlu-rayにて観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー リーアム・ニーソン 浅野忠信 窪塚洋介 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈
監督:マーティン・スコセッシ

原作は高校生の時に読んだが、その頃はあまりピンと来なかった。その後、いつか再読しようとは思っていながら、その機会は訪れないまま、映画化され、それでも都合が合わず、劇場観賞はできなかった。そしてようやくTSUTAYAで借りてきた。心が切り刻まれるような物語であった。たとえば『 ハクソー・リッジ 』に対して、「日本兵の描き方がおかしい」という声を挙げる人がいるが、今作にはそうは言えまい。なぜなら原作者は遠藤周作なのだから。日本の気候や風土の描き方がおかしいという批判は当たるだろう。なぜならロケ地は台湾だから。本作に対して批判すべき点があるとするなら、なぜ皆が皆、ポルトガル語ではなく英語をしゃべるのか、という点ぐらいであろう。

この映画が観る者の心を切り刻むのは、その三重の対立構造にある。迫害を受ける信徒と神父、そして迫害する幕府。そして信仰を棄てる者と信仰を棄てない者。そのような彼ら彼女らを見ながら、迫害を止めてほしい、信仰を棄ててほしいと思う自分と、信仰を棄てるな、祈らずとても神や守らんと思ってしまう自分。いずれの立場も分かる。高校生の頃にはあまり理解できなかったフェレイラ神父や井上筑後守、キチジローの選択や決断が、物理的な重みを持っているかのように、心に圧し掛かってくる。宗教的な信仰心と、政治的な信念の間にある違いとは一体何であるのか。それはおそらく、前者には≪沈黙≫の問題がいつでも、どこでも、誰にでも起こりうることではないだろうか。というのも、(為政者にとって)政治的な信念が試されるのは、それが自分のためではなく、他人のためになるかどうかを問われる時である一方で、宗教的信仰は自分が危難に陥った時、さらに他者が危機にある時にも問われるからだ。政治的な決断、自分の内なる声は、他人に聞いてもらうこともできる。しかし、信仰の対象=神が、信徒の苦難の時に沈黙を保つ理由が何であるのかは、誰に問えばよいのか。実際に、宣教師のガルペ(アダム・ドライバー)は信徒の危機を見過ごすに忍びず、結果的に命を落としてしまう。同じく宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、その悲劇を目の当たりにするのだが、これとても彼にとっての受難の端緒に過ぎなかった。

今でも小学校の社会科では、踏み絵を教えているのだろうか。小学生の頃の自分は、「形だけのことなら、踏めばええやん」と思っていた。形だけのことで・・・と思うが、我々の社会は一事が万事、形へのこだわりで構成されているではないか。ネクタイはいずれ廃れるかもしれないが、尊敬語と謙譲語の使い分け、お辞儀の角度からハンコの押印の角度に至るまで、形式の尊重は社会の隅々まで行きわたっているように感じる。しかし、信仰はおそらくそうではない。祈り=自己内対話と説明する書籍も読んだことがあるが、対話の相手が沈黙を保っているというところに、信徒の懊悩を感じ取らざるを得ない。なぜなら、我々が後生大事に守っている形式というのは、社会的な要請=他者の存在が当たり前のように前提になっているが、信仰=祈り=自己内対話においては、神の存在を確信しつつも、その不在を強く疑わなくてはならないからだ。

信仰を持つからこそ、棄ててしまう。神に語りかけるからこそ、沈黙が返ってくる。そもそも日本に渡ってきた目的は、フェレイラ師(リーアム・ニーソン)を探し、本当に棄教してしまったのかを確かめるためだったが、そのフェレイラ師もまた、心を切り刻まれてしまっていた。何が、もしくは誰が彼の心を切り刻んだのか、引き裂いたのか。決断の時に、声は聞こえてきたのか、聞こえなかったのか。それは、同じ責め苦を受けるロドリゴと痛苦を分け合うことで実感してほしい。信仰心というものが人を生かし、人を殺す。信仰心が人を救い、人を苦しませる。切り裂かれた心の奥底から湧き起る声は、誰のものなのか。それは、本作を通じて確かめてほしい。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

わたしに××しなさい! 50点

2018年6月24日 梅田ブルク7にて観賞
出演:玉城ティナ 小関裕太 佐藤寛太 山田杏奈 金子大地 佐藤寛太
監督:山本透 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180624213244j:plain

*以下、ネタバレに類する記述あり

まず、こんなポスターを作った配給会社の担当者および責任者は記者会見を開いて謝れ。景品表示法違反の疑いがある。というのは冗談だが、別に過激ミッションでも何でもない。単なるこじらせウェブ小説家女子高生(雪菜=玉城ティナ)が、自身の作品に恋愛要素を織り交ぜていくために、自分でも恋愛的な体験をしていくことで、作品の質も上がるだけではなく、当初予想もしていなかった自分自身の変化に戸惑いを感じ初めて・・・という、そこだけ見ればよくある話。むしろ、このストーリーを支えるのは、疑似恋愛の相手役である生徒会長(北見時雨=小関裕太)や、ウェブ小説のライバルである氷雨(=金子大地)、雪菜の従兄弟の霜月晶(=佐藤寛太)、さらには時雨の幼馴染の水野マミ(=山田杏奈)や小説の編集者(=オラキオ)などだ。

主人公は『 暗黒女子 』で輝けそうで輝けなかった玉城ティナ(清水富美加に光をかき消されたという印象)。『 あさひなぐ 』の西野七瀬もそうだったが、メガネが似合う女子というのは、一昔前に比べて確実に増えているらしい。それでもこのメガネ女子は、冒頭のクレジットシーンで見事なキャットウォークを披露して、独立不羈で我儘、甘えたい時に甘えて、無視する時は無視しますよ、というキャラクターであることを観る者に予感させてくれる。そして、その期待は裏切られない。

ウェブ小説が好評を博している雪菜は、編集者や読者からの要望もあり、恋愛要素を作品に取り入れようとする。しかし、空想するばかりで実体験の無い自分にはそれはできそうにない。そうか、それなら疑似恋愛体験をして、それを自作に盛り込めばよい、と考える。ここで候補として従兄弟の昌が浮上してくるが、雪菜はあっさりと拒絶。その代わりに、ひょんなことからダークサイドを秘めていた北見時雨の弱みを握り、ミッションと称して、手を握らせたり、ハグさせたりして、その心象風景を小説に取り入れていく。それにより、ライバル作家の氷雨に一歩リードするものの、時雨の幼馴染には何かを感づかれ・・・

というように、どこかで見たり聞いたりしたようなプロットのモンタージュ作品である。それによってある意味、安心して観賞もできるが、興奮させられたり驚かされたりすることも少ない作品である。したがって、観る側の興味は畢竟、役者の演技や作品の演出に移行していく。

まずは主演の玉城ティナ。何度でも言うが、メガネが似合う。そして定番中の定番、女友達がいない。これは安心して見ていられる。女の友情は一定年齢以上の男には共感できないところが多い(理屈である程度の理解はできるのだが、長々と大画面で見せつけられるのは正直キツイ。『 図書館戦争 』での柴崎と笠原の関係ぐらいが清々しくていい)。特徴的なのは容姿だけではない。話し方もだ。当り前だが、活字と発話は異なる。漫画や一部のライトノベルなどでおなじみの手法として、特徴的な語彙を多用する、または語尾を特定の形に統一する、などがある。雪菜の喋りは、この文法に映画的に正しく則っており、メガネ以外のもう一つの特徴としてキャラ立ちに大きく貢献しており、彼女の役者としての力量を見た気がする。

相手役の古関は『 覆面系ノイズ 』では学ランがパツパツで、高校生役はちょっと無理では?という印象を受けたが、ブレザーなら充分に通用する。また終盤では素の顔と仮面の顔を一瞬で入れ替えるシーンがあるが、こんな演技力あったっけ?とも思わされた。どこか坂口健太郎を思わせるルックスもあって、同じぐらいの活躍を期待したい。

その他、三白眼が印象的な佐藤寛太、武田玲奈とキャラもろ被りに思える山田杏奈、普通に出版社もしくは証券会社あたりにいそうな会社員役のオラキオなど、若手を中心に今後に期待を持てるキャストが集まっていた。だからこそ、もっとユニークなテーマを追求してほしかったと思う。「誰かを傷つけたくない」というのは恋愛(に限らず人間関係全般)において、美しいお題目ではあるが、ただ臆病であることを誤魔化したいからこその台詞。そんなことは誰もが分かっている。それを乗り越えるのが青春の、醍醐味であり、ある意味では終わりでもある。実験的なテーマの作品に、ポテンシャルを秘めた若手キャストで挑むからには、監督にも何らかのチャレンジが求められるが、エンディングのあのバレット・タイムは何とかならなかったのだろうか。他にもっと印象的な絵作りはできなかったのか。監督と自分の波長が合わなかっただけなのだが、最後の最後の着地で少しミスってしまった作品、そんな感想を抱いた。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 古関裕太, 日本, 玉城ティナ, 監督:山本透, 配給会社:ティ・ジョイLeave a Comment on 『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

Posted on 2018年6月24日2019年4月18日 by cool-jupiter

焼肉ドラゴン 75点

2018年6月23日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:キム・サンホ イ・ジョンウン 真木よう子 井上真央 桜庭ななみ 大泉洋
監督・原作・脚本:鄭義信

『 血と骨 』の脚本家が、監督・原作・脚本の全てを手掛けた本作は、限りなくダークでエログロな要素を持っていた『 血と骨 』とは異なり、どこかコミカルで、それでいて本気で頭に血が上るシーンあり、思わず涙があふれるシーンありの、期待以上の作品に仕上がっていた。

時は大阪万博(1970)直前、舞台は兵庫県伊丹市。おんぼろのあばら家が立ち並ぶ、行動経済成長が取り残されたその場所に彼らはいた。店主は韓国人の金田龍吉。龍の字をとって、いつの間にやら店の名は人呼んで焼肉ドラゴン。そのこじんまりとした焼肉屋を舞台に、小さな家族が慎ましやかに、けれど幸せに暮らしていく話・・・だと思って、劇場に行った人は混乱させられるであろう。これは時代に翻弄されながらも、時代に抗い、時代に折り合いをつけ、時代に飲み込まれながらも、確かに歴史に足跡を刻んだ家族の物語である。

父(キム・サンホ)、母(イ・ジョンウン)、長女の静花(真木よう子)、二女の梨花(井上真央)、三女の美花(桜庭ななみ)、末っ子の時生(大江晋平)、梨花の婚約者の哲男(大泉洋)らは、家族でありながらも実は血がつながっていたり、いなかったりのやや複雑な家族。このあたりはどこか『 万引き家族 』を彷彿とさせる。最初から違和感を覚えるシーンがいくつかある。哲男があまりにも慣れ慣れしく静花に接するシーンや、時生がまったく言葉を発しないところなど。しかし、そんな小さな違和感は脇に置き、物語はアホそのもの痴話喧嘩を交えながら陽気に進んでいく。龍吉が時生のいるトタン屋根の屋上で一緒に眺める夕陽は、沈んでいくもの、光を失うものの象徴でありながらも、必ずまた昇るもの、必ずまた光を与えてくれるものの象徴でもある。ここから物語は、家族のダークな一面を少しずつ掘り下げていくのだが、決して『血と骨』のようなバイオレントなものではない。むしろ、人間らしいというか、人間の最も根源的な本能から生まれてくる衝動のようなものにフォーカスをしていく。ある者にとってはそれは自己承認欲求かもしれない。ある者にとってはそれは認知的不協和かもしれない。ある者にとってはデストルドーであるかもしれない。

物語は適齢期3人娘たちが男とくっついてく過程を追いながら、つまり新たな家族を生み出していくための巣立ちを描きながらも、飛び立つことができなかった、いや、飛べないままに、飛行機の如く飛べると勘違いしてしまった若鳥も描く。時生が学校で受けるイジメは陰惨であり、過酷であり、残虐ですらある。こうした排除の論理と力学的構造は現代においても決して弱まってはいないと思う(ネトウヨ春のBAN祭りは、おそらく一過性のイベントとして記録および記憶されるのではなかろうか)。

それでも3人娘たちはそれぞれに自分にふさわしい男を見つける。それは決して美しい恋愛の末に勝ち取った相手ではなく、本当に本能的な、動物的なカップリングであるとしか名状できないようなものもある。そして、どんな映画であっても、このシーンではなぜか自分まで必ず緊張してしまう、父親との対面シーンが美香とその男にやってくる。ここで龍吉が語る言葉は訥々としていながらも万感胸に迫る圧倒的な説得力を有して観る者に訴えかけてくる。2018年の演技のハイライトを挙げるなら、安藤サクラとキム・サンホの二人は絶対に外せない、外してはならない。真木よう子、大泉洋、桜庭ななみ、イ・ジョンウンらの演技も堂に入ったもので、韓国ドラマ的スラップスティックコメディとなってもおかしくないシーンを、各役者が表情や声でしっかりと抑えつけていた。何という日韓のケミストリーか。個人的には今作の演技力ナンバーワンは期待も込めて大江晋平に送りたい。飛行機を睨め付ける表情とアアアーーーッッ!!という奇声からは、『 ディストラクション・ベイビーズ 』の柳楽優弥に匹敵する不気味な迫力を感じた。

それにしても印象的なワンショットの多い映画であった。特に飲み比べのシーンと龍吉の昔話のシーンは、真木とキムの表情やちょっとした仕草に注意を払って見てほしい。特に訳の分からないワンカットのロングショットを多用して『 ママレード・ボーイ 』という駄作を作ってしまった廣木隆一監督は本作から大いに学ばねばならない。

朝鮮戦争終結という歴史的なイベントを目の当たりにするかもしれない現代、そして日韓の間の歴史認識にこれ以上ないほど乖離が存在する現代にこそ、答えではなく真実(≠史実)を探すきっかけとして、多くの人に観てほしいと思える傑作である。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, キム・サンホ, ヒューマンドラマ, 大泉洋, 日本, 監督:鄭義信, 真木よう子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 ウィキッド 永遠の約束 』  -Political Correctnessを気にせず鑑賞を-
  • 『 射鵰英雄伝 』 -しっちゃかめっちゃか中国歴史アクション・ファンタジー-
  • 『 映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城 』 -より現代的・教育的なリメイク-
  • 『 大栗先生の超弦理論入門 』 -読みやすいが入門書ではない-
  • 『 HELP 復讐島 』 -孤島のリベンジ-

最近のコメント

  • 『 桐島です 』 -時代遅れの逃亡者- に ヒフミヨのヒンメリの歌灯に より
  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より

アーカイブ

  • 2026年3月
  • 2026年2月
  • 2026年1月
  • 2025年12月
  • 2025年11月
  • 2025年10月
  • 2025年9月
  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme