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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 1990年代

『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

Posted on 2020年5月16日 by cool-jupiter

愛人/ラマン 75点
2020年5月15日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ジェーン・マーチ レオン・カーフェイ
監督:ジャン=ジャック・アノー

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『 月極オトコトモダチ 』とは裏腹のテーマの作品を鑑賞してみたいと思い、本作があったなと思い出した。確か大学生3年生ぐらいの時に、当時急成長中だったTSUTAYAでVHSを借りて観た。当時、純情だったJovian青年は『 ロミオとジュリエット 』のオリビア・ハッセーを観た時と同じくらいの衝撃を味わったのだった。

 

あらすじ

20世紀初頭のフランス領インドシナ。少女(ジェーン・マーチ)は偶然にも裕福な華僑青年(レオン・カーフェイ)と知り合い、性的な関係を持つようになる。愛のないセックスに耽る二人だが、少女も青年も家族に問題を抱えており・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の一人、レオン・カーフェイが、『 グリーンブック 』で言及した韓国系カナダ人にそっくりなのである。それが原因なのかもしれないが、異邦人の悲哀が確かに感じられた。YouTubeに行けばいくらでもinterracial relationshipにあるカップルたちの日常の動画や結婚生活、喧嘩の模様などが赤裸々に語られている時代である。それは取りも直さず、ようやく時代がinterracial relationshipを許容できるようになってきたことの表れでもある(移動や情報公開のテクノロジーが行き渡った面も無論あるが)。一方で20世紀前半のインドシナで、華僑の青年と宗主国フランスの少女という、互いにアウェーな状況は、どこか『 ロスト・イン・トランスレーション 』を彷彿させた。実際に、日本語に英訳がつかなかったように、本作でも中国語に字幕が存在しない。仕事をせずとも暮らしていける富裕なこの男は世界に居場所がない。その居場所として少女を見出していく様ははかなげで悲しい。スーパーリッチなアジア人青年キャラクターとして『 クレイジー・リッチ! 』のニックが思い出される。本作の華僑青年のキャラクター造形はニックに影響を与えていてもおかしくない。

 

もう一人の主演であるジェーン・マーチは、まさにこの限られた時期にしか発揮することのできない魅力や魔力を存分に発揮したように思う。『 ガール・イン・ザ・ミラー 』でも感じたことだが、邦画の世界には脱げる役者が少ない。男でも女でもである。その意味では本作は、30年前の映画でありながら邦画の30年先を行っている。つまりは stand the test of timeな作品である。脱ぐから偉いのではなく、その瞬間にしか作れない作品をしっかりと作り、世に送り出している。本邦では、脱ぐ=話題作り、落ち目女優の勝負、体当たりの演技ぐらいにしか捉えられない。まことに貧相で皮相的である。脱ぐからセクシーだとかエロティックになるわけではない。聴診器で心音を聞いたり、マンモグラフィー検査や乳房の触診で興奮する男性医師などいない。物質としての女体に男は興奮するのではない。それへの距離を詰めていく過程に最も興奮するのである。嘘だと思うなら本作を具に観よ。最も官能的なのは、車中で男が少女の指に自らの指を重ねていくシークエンスであり、前戯やセックスそのもののシーンではない。

 

監督のジャン=ジャック・アノーは『 薔薇の名前 』でもかなり唐突なセックスシーンを描いていた。確か隠れていたところを見つかった少女が、自分から少年の手を取り、自分の胸を触らせて篭絡していく過程が妙に艶めかしかった。自身の問題意識の中に人間関係とセックスがあったのだろう。セックス=愛情表現と考えがちな男のちっぽけな脳みそではなかなか消化しきれないが、セックス=自己表現の一つとしていたフランス人少女の姿は、色々な因習を突き破ったという意味で本土ではなく植民地における『 コレット 』だったと言えなくもない。

 

主演二人に名前がない設定も素晴らしい。『 母なる証明 』の母にも名前がなかったが、名前を持たないことでその人間の“属性”が一気に肥大化し、かつ“個性”が一気に矮小化される。COVID-19における報道を考えてもらいたい。志村けんや岡江久美子のように、“名前”のある人が死亡すると、我々は戦慄させられる。一方で名前が一切出てこない報道、たとえばイタリアやアメリカの死者数を伝えられても「あの国、ヤバいな」ぐらいにしか感じない。男と女、華僑と白人、青年と少女。様々な属性に縛られる二人の関係を、どうか堪能してほしい。そして、男というアホな生き物の生態に一掬の涙を流してほしい。

 

ネガティブ・サイド

寄宿舎でもう一人いる白人少女との語らいのシーンがもっとあっても良かった。どこの誰が売春をやっていてだとかいう話よりも、男に〇〇したら幼児返りしただとか、演技で男を喜ばせてやっただとか、そういう男を震え上がらせるようなトークが聞ければ、このラマンはファム・ファタール的な属性をも帯びたことだろう。

 

またお互いの家族とのシーンも少々物足りなかった。居場所となるべき家で地獄の責め苦を味わう、あるいは虚無的な気分にさせられる。だからこそ、市場の喧騒のただ中にある“部屋”でセックス三昧になってしまう。それはとてもよくわかる。ただ、「中国人と寝やがって!」と激昂する兄や不甲斐ない母の描写がもっと序盤にあれば、ジェーン・マーチを性に積極的な少女以上の存在に描けていたと思うのである。

 

総評

時を超えて観られるべき作品である。汚らしいメコン川が、なぜか美しく懐かしく感じられる映像世界も素晴らしい。世に悲恋は数多くあれど、たいていは結ばれないままに終わってしまう。本作はいきなり結ばれる。そこから先にどうしても進めないというジレンマが痛々しい。官能シーンも良いが、鑑賞すべきは人間ドラマの部分である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Repeat after me.

リピート・アフター・ミー、つまり「 続けて言ってみましょう 」の意である。セックスの前、最中、もしくは後に女性に何かを言わせたいという男性は多い、というか大多数だろう。それを実際にやったカーフェイに拍手。そして、その行為の余りの悲しさと虚しさに胸が押しつぶされそうになった。Jovianは商売柄、しょっちゅうこのフレーズを使うが、プライベートでこれを言う、もしくは言われるようになれば、あなたは英会話スクールを卒業する時期に来ていると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, イギリス, ジェーン・マーチ, フランス, ラブロマンス, レオン・カーフェイ, 監督:ジャン=ジャック・アノー, 配給会社:日本ヘラルド映画Leave a Comment on 『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

『 マトリックス 』 -SFアクションの新境地を切り拓いた記念碑的傑作-

Posted on 2019年9月12日 by cool-jupiter

マトリックス 90点
2019年9月7日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン ヒューゴ・ウィービング
監督:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー

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あれから20年か。当時、Jovianは大学2年生の夏休みがちょうど終わった頃だった。確か新宿のバルト7でブラジル人、アメリカ人と一緒に観たんだったか。『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』のミディ=ファッキン=クロリアンのせいで心にすきま風が吹き抜けていたのを、この映画によって回復したんだった。

 

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あらすじ

アンダーソン(キアヌ・リーブス)は昼は巨大ソフト会社の社員プログラマー、夜はネット世界でハンドルネーム“ネオ”と名乗る凄腕ハッカー。そんな彼にトリニティという謎の女性が接触してくる。彼女についていった先で、アンダーソンは世界の真実を知ることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

本作はSFアクション映画としても、ディストピア映画としても、歴史に残る傑作である。「古い革袋に新しい酒」とはよく言ったもので、ウォシャウスキー兄弟(当時)はワイヤーアクションとスローモーションに新たな生命を吹き込んだ。カンフーを始め、未来を舞台にするSF映画であるにも関わらず、hand to hand combatをここまで追求して描くという、このギャップが最高だ。さらにブレット・タイムにはファンのみならず業界人も度肝を抜かれたことは間違いなく、以降に作成された作品は洋の東西を問わず、テレビドラマか映画であるかを問わず、とにかく360度回転カメラ撮影でブレット・タイムを使いまくっていた。そして、その影響は今でも『 わたしに××しなさい! 』や『 Diner ダイナー 』といった、ややビミョーな出来の邦画でも確認できる。とにかく、映画史を変える技法を大々的に使ったことが本作の大きな貢献の一つであることは間違いない。同時に、ブルース・リー、ジャッキー・チェンによって開拓されたカンフー映画の系譜に連なる映画である点も見逃してはならない。新しさは、時に古いものを全く違う方向性に適用することで生まれる。そのことは、スター・ウォーズが宇宙戦争でありながら、チャンバラで雌雄を決する時代劇の要素を取り入れたことが大成功の要因になったことからも明らかである。

 

もう一つ、本作の世界観が現代においても全く古びていないことも見逃せない。人間とAI、そして機械の対立、戦争そのものはテーマとしては古い。事実、1960年代に公開された『 2001年宇宙の旅 』はAIによる殺人が大きなパートを占めているし、『 ターミネーター 』シリーズはスカイネットというAIの暴走から全てが始まった。だが、本作がユニークなのは、VR技術の進展が著しい現代においてより顕著になる。すなわち、人間は機械を必要とし、機械も人間を必要としているというところだ。人間は機械に熱を提供し、人間は機械=マトリックスを揺り籠に夢を見る。そうした未来像は決して非現実的とは言い切れない。藤崎慎吾の小説『 クリスタルサイレンス 』でも、「私にとって肉体は単なるずだ袋ですよ」と言い切るキャラが登場するし、『 レディ・プレイヤー1 』でもオアシス中毒になる人間は無数にいた。『 ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 』でも、人間と虚構の親和性を論じていた。人間は現実だけに生きるわけではない。好むと好まざるとに関わらず、AIという新たなテクノロジーの勃興期である現代において、本作は鑑賞の価値をさらに増している。

 

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ネガティブ・サイド

『 インセプション 』や『 レディ・プレイヤー1 』でも、現実世界と仮想世界(夢の世界、ゲーム世界)の判別に困難をきたすシーンがあったが、マトリックス世界では体にプラグを差し込む穴があり、これによって否応なく現実世界を認識させられる。そこは良くできていると感じる。一方で、現実世界でも睡眠は必要で、睡眠時には人間は必ず夢を見るものだ。そうした夢の世界とマトリックス世界の境目にたゆたう感覚に、誰かが苦しむ、あるいは恍惚とするようなシーンがあってもよかったように思う。これは現代の視点で物語世界を眺めた時の感想かな。

 

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総評

1999年の劇場公開から20年を経てのtheatrical re-releaseは本当にありがたい。4DXでの鑑賞はかなわなかったが、梅田ブルク7のDolbyCinema2Dでも映像の美しさや迫力は十二分に伝わってくる。映画は巨大スクリーンでこそ映えるが、本作は大音響、大画面で鑑賞することで映像芸術としての魅力が倍増する。時期的にレザーコートは着辛いが、サングラス着用で劇場へどうぞ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Run, Neo! Run!

 

言わずと知れた『 フォレスト・ガンプ 』の名セリフ、 “Run, Forrest! Run!” へのオマージュであろう。アメリカでは誰かに「逃げろ」、「走れ」という時には、“Run, 名前, Run”というのがそれ以来normになっているとかいないとか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, S Rank, SFアクション, アメリカ, キアヌ・リーブス, ヒューゴ・ウィービング, ローレンス・フィッシュバーン, 監督:アンディ・ウォシャウスキー, 監督:ラリー・ウォシャウスキー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 マトリックス 』 -SFアクションの新境地を切り拓いた記念碑的傑作-

『 真実の行方 』 -若き日のエドワード・ノートンに刮目せよ-

Posted on 2019年7月5日 by cool-jupiter

真実の行方 70点
2019年7月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:リチャード・ギア エドワード・ノートン フランシス・マクドーマンド
監督:グレゴリー・ホブリット

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映画でも小説でも、多重人格ものは定期的に生産される。一人の人間が複数のパーソナリティを持つというのだから、そこから生まれるドラマの可能性が無限大である。しかし、多重人格ものは同時に、それが詐術である可能性を常に孕む。多重人格が本当なのか演技なのかの境目を行き来する作品といえばカトリーヌ・アルレーの小説『 呪われた女 』や邦画『 39 刑法第三十九条 』などがある。本作はと言えば・・・

 

あらすじ

カトリック教会で大司教が殺害された。容疑者としてアーロン(エドワード・ノートン)が逮捕され、マーティン(リチャード・ギア)が弁護を請け負うことになる。その過程でマーティンは徐々にアーロンとは別に真犯人が存在するのではないかと考え始め・・・

 

ポジティブ・サイド

『 アメリア 永遠の翼 』や『 プリティ・ウーマン 』ではやり手のビジネスマンを、『 ジャッカル 』では元IRAの闘士を演じ、今作ではBlood Sucking Lawyerを演じるリチャード・ギアは、日本で言えば世代的には大杉漣か。そのリチャード・ギアが嫌な弁護士からプロフェッショナリズム溢れる弁護士に変わっていく瞬間、そこが本作の見所である。

 

しかし、それ以上に観るべきは若きエドワード・ノートンであろう。栴檀は双葉より芳し。演技派俳優は若い頃から演技派なのである。そしてこの演技という言葉の深みを本作は教えてくれる。

 

題材としては『 フロム・イーブル 〜バチカンを震撼させた悪魔の神父〜 』、『 スポットライト 世紀のスクープ 』などを先取りしたものである。多重人格というものを本格的に世に知らしめたのは、おそらくデイヴ・ペルザーの『 “It”と呼ばれた子 』なのだろうが、本作はこの書籍の出版社にも先立っている。Jovianは確か親父が借りてきたVHSを一緒に観たと記憶しているが、教会の暗部というものに触れて、当時宗教学を専攻していた学生として、何とも言えない気分になったことをうっすらと覚えている。

 

本作の肝は事件の真相であるが、これには本当に驚かされた。2000年代から世界中が多重人格をコンテンツとして消費し始めるが、本作の残したインパクトは実に大きい。カトリーヌ・アルレーの『 わらの女 』やアガサ・クリスティーの『 アクロイド殺し 』、江戸川乱歩の『 陰獣 』が読者に与えたインパクト、そして脳裏に残していく微妙な余韻に通じるものがある。古い映画と侮るなかれ、名優エドワード・ノートンの原点にして傑作である。

 

ネガティブ・サイド

少しペーシングに難がある。なぜこのようないたいけな少年があのような凶行に走ったのかについての背景調査にもう少し踏み込んでもよかった。

 

ローラ・リニーのキャラクターがあまりに多くの属性を付与されたことで、かえって浮いてしまっていたように見えた。検事というのは人を有罪にしてナンボの商売で、法廷ものドラマでもイライラさせられるキャラクターが量産されてきているし、日本でも『 検察側の罪人 』などで見せつけられたように、人間を有罪にすることに血道を上げている。それはそういう生き物だからとギリギリで納得できる。だが、マーティンの元恋人という属性は今作では邪魔だった。『 シン・ゴジラ 』でも長谷川博己と石原さとみを元恋人関係にする案があったらしいが、没になったと聞いている。それで良いのである。余計なぜい肉はいらない。

 

よくよく見聞きすれば、アーロンの発言には矛盾があるという指摘も各所のユーザーレビューにある。なるほどと思わされた。本当に鵜の目鷹の目で映画を観る人は、本作の結末にしらけてしまう可能性は大いにある。

 

総評

これは非常に頭脳的な映画である。多重人格ものに新たな地平を切り開いた作品と言っても過言ではない。もちろん、その後に陸続と生み出されてきた作品群を消化した者の目から見れば不足もあるだろう。しかし、多重人格もののツイストとして、本作は忘れられてはならない一本である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, アメリカ, エドワード・ノートン, サスペンス, スリラー, フランシス・マクドーマンド, リチャード・ギア, 監督:グレゴリー・ホブリット, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 真実の行方 』 -若き日のエドワード・ノートンに刮目せよ-

『 PERFECT BLUE 』 -様々なクリシェの原点となった作品-

Posted on 2019年5月26日2020年2月8日 by cool-jupiter

PERFECT BLUE 75点
2019年5月23日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:岩男潤子
監督:今敏

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恥ずかしながら、これまでこの作品のことは耳にしながら、観る機会を持っていなかった。『 プラダを着た悪魔 』と同じく、観ようと思いながら、何かが自分を押し留めていた。いつになったら自分は『 タイタニック 』を観るだろうか?そんなことも映画館から帰り道で考えてしまった。

 

あらすじ

アイドル活動をしていた霧越未麻(岩男潤子)は女優への転身を目指していた。あるテレビドラマでレイプされるシーンに体当たりで挑んだことで、女優としての評価を高め始めた。しかし、彼女の周りで奇妙な傷害事件や殺人事件までもが発生するようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

驚くほどにクリシェに満ちた作品である。しかし、それは現代的な視点で観たからこそ言えることで、逆に言えば本作はどれほど後発の作品にインスピレーションを与えたか、その影響の巨大さを窺い知ることができる。

 

飯田譲治の小説『 アナザヘヴン 』のナニカの移動や運動シーンは、ここから丸パクリしたのではないかというピョーンというステップ。

 

M・ナイト・シャマランの『 スプリット 』および『 ミスター・ガラス 』のジャケットデザインのヒントはここにあったのではないかというクライマックスのワンシーン。

 

プレイステーションのやるドラゲームの『 ダブルキャスト 』も、おそらく本作から多大な影響を受けている。そのことは、劇中作のタイトルが“ダブルバインド”であることからも明らかだろう。

 

本作サウンドトラックの肝とも言える楽曲“Virtual Mima”は、プレイステーションゲームの『 エースコンバット3 エレクトロスフィア 』のサウンドトラックの無機質かつオーガニックでメタリックなサウンドにも影響を及ぼしたのではないかとも思えてならなかった。AC3自体が、かなり時代を先取りしすぎていたゲームだったが、主人公の名前もNemoとMima、何か似ているように思えないだろうか。ちなみに塚口サンサン劇場は、本作開始前に延々と“Virtual Mima”を劇場内に流し続け、観客の精神に軽い不協和音を引き起こしていた。こうした工夫は歓迎すべきなのだろう。

 

本作は、霧越未麻という人物とミマというアイドルが虚実皮膜のあわいに溶け合い、そして別れていく物語である。自分が生きている世界が何であるのか。自分という存在が確かに実在することを、誰が、または何が担保してくれるのか。女優という虚構の生を紡ぎ出すことを生業とする未麻もまた、誰かに演じられたキャラクターではないのか。何がリアルで何がフェイクなのかが分からなくなる。そんな感覚を紙上で再現してやろうと、我が兄弟子の奥泉光は意気込んで『 プラトン学園 』を執筆したのだろうか。

 

劇中でたびたび繰り返される問い、「あなた、誰なの?」に対する回答が最後の最後で語られるが、それすらも噂話好きの看護師たちへの回答なのかもしれない。どこまでも入れ子構造、二重構造を貫くその作家性は嫌いではない。

 

とにかく『 PERFECT BLUE 』が1990年代後半の様々なメディアやコンテンツに巨大な有形無形の影響を与えたことは間違いない。同時期の『 攻殻機動隊 』や『 新世紀エヴァンゲリオン 』と並ぶ古典的・記念碑的作品であることは疑いようもない。

 

ネガティブ・サイド

事件の真相探しは極めて簡単である。Jovianは最初の10~12分で犯人は分かった。時代が全く違うし、本作はそもそもミステリーではなくサイコ・サスペンス、サイコ・スリラーであることから、殺人事件の犯人や真相を追うことに主眼を置いていない。にもかかわらず、観る側に怪しいと思って欲しいキャラクターをこれ見よがしに配置するのは、少々邪魔くさく感じた。

 

また、いくらインターネット黎明期の頃の話とはいえ、自分で作っていないサイトが存在していることを未麻はもっと不審に感じて然るべきである。ファックスや電話番号にしても同じで、1980年代くらいの本には、巻末に著者の住所や電話番号が普通に乗っていたりしたのものだが、90年代だと、どうだったのだろうか。

 

総評

リアリティの面でやや弱いかなと感じるところもあるが、これはサイコ・サスペンス、サイコ・スリラーの佳作にして、ジャパニメーションの一つの到達点である。アニメに抵抗が無い、グロ描写にも抵抗が無いという向きは、時間を見つけて是非鑑賞しよう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, B Rank, アニメ, サスペンス, スリラー, 岩男潤子, 日本, 監督:今敏Leave a Comment on 『 PERFECT BLUE 』 -様々なクリシェの原点となった作品-

『プレデター2』 -宇宙の広大さを感じさせるという一点のみが評価ポイント-

Posted on 2018年10月4日2019年8月22日 by cool-jupiter

プレデター2 40点

2018年9月30日 レンタルDVD鑑賞
出演:ダニー・グローヴァー ルーベン・ブラデス ビル・パクストン
監督:スティーブン・ホプキンス

 

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*以下、ネタばれに類する記述あり

 

前作の『プレデター』が余りにも鮮烈な印象を残したため、その続編も標準以上の面白さを持っているにもかかわらず、標準以下に見られてしまう。極めて不遇な作品である。同じような憂き目に遭った作品としてはまあまあ古いところでは『あネバーエンディング・ストーリー』、そこそこ古いものでは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、それなりに最近のものでは『パシフィック・リム』が挙げられるだろう。

異常な暑さに襲われるLAの街では麻薬取引を仕切るコロンビア系ギャングとメキシコ系ギャングが市街地で警察相手に銃撃戦を繰り広げていた。ハリガン警部補(ダニエル・グローヴァー)は体を張って現場に介入するが、そこにはギャングの惨殺死体が吊るされていた。さらに、LAの街では奇妙な惨殺事件が続発する。得体の知れない殺人者を相手に、ハリガンの死闘が幕を開ける・・・

大昔に親父と一緒にWOWOWだかレンタルビデオで観た記憶がある。『リーサル・ウェポン』と『リーサル・ウェポン2 炎の約束』は劇場で観たんだったか。まあ、とにかくハリガン警部補がマータフにしか見えないのである。役者というのは、あまりに強烈なハマり役を持たない方が良いのだろう。寅さんを演じた渥美清しかり、スーパーマンを演じたクリストファー・リーブ然り、ルーク・スカイウォーカーを演じるマーク・ハミル然り。そういう意味ではハン・ソロでありインディ・ジョーンズでありリチャード・キンブル医師でもあるハリソン・フォードは大したものである。

閑話休題。SFは本来はScience Fictionの頭文字を取ったものだが、人によってはSpace Fantasyの頭文字だという人もいる。宇宙の謎、神秘、広大さ、深遠さをテーマにした娯楽作品ということだ。本作は後者として定義づけられたSFに属すると言える。プレデターの船内でハリガンが目にする数々の頭蓋骨および脊椎らしきものの中に、ゼノモーフのそれが見られるからだ。この点だけで、『プレデター』のシリーズは、『エイリアン』の持つ世界観、いや宇宙観に並んだと言える。なぜなら、我々はそこに新たな宇宙の広がりを予感するからだ。『エイリアン』を傑作たらしめた最大の要素は、疑いようもなくH・R・ギーガーが手掛けたエイリアンの造形美であるが、「エンジニア」の存在も見逃してはならない。この宇宙には未知なる存在が眠っている、潜んでいると思うだけで、胸が興奮で、あるいは恐怖で高鳴るではないか。J・P・ホーガンの傑作小説『星を継ぐもの』も、月面で見つかる死体が最大のサプライズなのだが、木星の衛星ガニメデで見つかる宇宙船に読者は宇宙の途方もない広大さを予感するのである。とは言うものの、では何故『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』にはJovianは全く感銘を受けなかったのだろうか。結局は、個人の好みの問題に尽きるのだろう。

AVPシリーズとなると、はっきり言って観るのが苦痛だったが、今なら、あるいは今こそ、フレッシュな目で観られそうな気がする。さて、今年中には観てみるとしよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ダニー・グローヴァー, 監督:スティーブン・ホプキンス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プレデター2』 -宇宙の広大さを感じさせるという一点のみが評価ポイント-

『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

Posted on 2018年9月28日2019年8月22日 by cool-jupiter

ジュラシック・パーク 80点

2018年9月24日 レンタルDVD鑑賞
出演:サム・ニール ローラ・ダーン ジェフ・ゴールドブラム サミュエル・L・ジャクソン リチャード・アッテンボロー B・D・ウォ
監督:スティーブン・スピルバーグ

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ふと気になって近所のTSUTAYAで借りてきてしまった。確か劇場初公開時に岡山市の映画館で観たんだったか。1990年代半ばの映画館は、誰かが入口ドアを開けるたびに光が思いっきり入り込んでくるように出来ていた。まだまだ劇場というものの設計思想が日本では遅れていた時代だった。それでも座席予約や入れ替え制なども中途半端で、極端な話、入場券一枚で一日中映画三昧が可能なところもあった。良きにつけ悪しきにつけ、おおらかな時代だった。バイオテクノロジーやコンピュータテクノロジーが、ブレイクスルーを果たした時代でもあった。もちろん、2018年という時代に生きる者の目からすると、技術的にも設計思想にも古さが見てとれるが、この『ジュラシック・パーク』が古典とされるのは、それが生まれた背景となる時代と激しく切り結んだからだ。

大富豪のジョン・ハモンド(リチャード・アッテンボロー)は、琥珀に閉じ込められたジュラ紀の蚊の体内に保存された恐竜の血液からDNAを採取、復元。恐竜たちを現代に蘇らせ、一大テーマパークを作る構想を練っていた。そのテーマパークを見てもらい、構想に意見をもらうため、古生物学者のグラント博士(サム・ニール)、植物学者のサトラー博士(ローラ・ダーン)、カオス理論を専門とする数学者のマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)を招聘する。一方で、ジュラシック・パーク内部には、恐竜の杯を高く売り飛ばそうとするネドリーもいた。様々な思惑が入り乱れる中、島には嵐が迫る・・・

まず過去の作品を評価するに際して、映像の古さには目を瞑らなくてはならない。現代の目で過去作品を断じることはあまりすべきではない。それでも本作に関しては、初めて劇場で観た時に魂消るような気持ちになったことは忘れようもない経験だった。巨大な生物が大画面に現れたからではなく、このような巨大な生物が現実の世界に存在してもおかしくないのだ、と思わされるようなリアリティがあったからだ。単に巨大な生き物が画面に現れて暴れるというのなら、ゴジラでも何でもありだ。ゴジラには怪獣としてのリアリティ=その時代において怪獣性に仮託される別の事象・現象があるのだが。時にそれは原子力に代表されるような科学技術の恐ろしさ、戦争という災厄、公害、宇宙からの侵略者、超大国の軍事力でもあった。

Back to the topic. 恐竜を復元、再生するリアリティに何と言っても生物学の長足の進歩があった。1990年代の生物学の歴史は、素人の立場ながら乱暴にまとめさせてもらうと、分子生物学と脳科学の発達の歴史だった。前者の分子生物学は、そのまま遺伝学と言い換えても良いかもしれない。その分野の最新の知見を、コンピュータ技術などと組み合わせることで、現実感が生まれたわけだ。これは過去数年の間に『エクス・マキナ』などに見られるような人工知能、そしてロボットの主題にした映画が陸続と生まれつつあることの相似形である。歴史は繰り返すのだ。ちなみにこの分野では『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)が白眉であると思う。スカーレット・ジョハンソン主演で実写映画化されたのも、偶然ではなく満を持してというところだろう。結果は、まずまずの出来に終わってしまったが。

Back on track. 映画の面白さを語る時、どこに着目するかは観る人による。ある人は演出に魅せられるだろうし、ある人は映像美を堪能するだろうし、またある人は役者の演技に注目するだろう。しかし、ある作品が名作、さらに古典たりえるか否かは、その作品が持つテーマが普遍性を有するかどうかにかかっている。『ジュラシック・パーク』のテーマは、イアン・マルコムがランチのシーンですべて語り尽くしている。「あんたらは他人の功績に乗っかかって、その技術を応用するが、その責任はとらない。その科学技術を追求することができるかどうかだけ考えて、追求すべきかどうかを考えもしない」と厳しく批判する。ゲノム編集技術を倫理的に議論し尽くせているとは言い難い状況で研究や実験をどんどん進める無邪気な科学者たちに聞かせてやりたい台詞である。絶滅の危機に瀕するコンドルを例に挙げ、自らを正当化しようとするハモンドにも「森林伐採やダムの建設で恐竜は滅んだのではない。自然が絶滅を選んだんだ」と理路整然と反論する。科学と倫理のバランスはいつの時代においても重要なテーマである。漫画『ブラック・ジャック』の本間先生の名言「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という声が、本作鑑賞中に聞こえてきた。“Life finds a way.”と”We spared no expense”という二つの象徴的な台詞の意味についても、よくよく考えねばならない時代に生きている我々が、繰り返し鑑賞するに足る映画である。本作を観ることで、『ジュラシック・ワールド』シリーズが『ジュラシック・パーク』に多大な影響を受けていることが分かる。構図があまりにも似すぎているものがそこかしこに散見されるからだ。小説家の道尾秀介は『貘の檻』で横溝正史の『八つ墓村』から無意識レベルでの影響を受け、意図せずにオマージュ作品を書いてしまったということを機会あるごとに語っているJ・J・エイブラムスも『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で直観的な演出を即興で多数盛り込んだことで、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のオマージュを創り出した。名作とは、頭ではなく心に残るものらしい。記憶ではなく、無意識の領域に刻みつけられるものが名作の特徴であるとするならば、『ジュラシック・パーク』は文句なしに名作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, SF, アメリカ, サム・ニール, ジェフ・ゴールドブラム, ホラー, ローラ・ダーン, 監督:スティーブン・スピルバーグ, 配給会社:ユニバーサル・ピクチャーズLeave a Comment on 『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

Posted on 2018年7月15日2020年2月13日 by cool-jupiter

耳をすませば 70点

2018年7月11日 レンタルDVDにて観賞
出演:本名陽子 高橋一生
監督:近藤喜文

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『故郷』に歌われるような、兎を追いかけられるような山も小鮒を釣れるような川もほとんど絶えて久しくなった現代でも、何故かこの歌には我々の本能的な部分に訴えかけるような力を有している。同じことが『カントリー・ロード』(原題:“Take Me Home, Country Roads”)についても言えるのだろう。この歌を聞いて『キングスマン:ゴールデン・サークル』を思い出す人もいれば、マニアックなところでは『エイリアン・コヴェナント』を思い起こす人もいるだろう。だが、日本の映画ファンの心に最も深く強く刻み込まれているのは本作『耳をすませば』ではなかろうか。

月島雫(声:本名陽子)は中三の受験生。家庭環境からか読書好き(bibliophile)に育った。Cinephile=映画好き、Bibliophile=本好き、ということである。自分が図書室から借りてくる本のいずれもが天沢聖司(声:高橋一生)という男子生徒に先んじん手借りられていることから、雫は相手をどんな男だろうと淡い幻想を抱くようになる。ある日、電車に乗っている奇妙な猫を追いかけていくと、「地球屋」という不思議な店に行きつく。その店の主人の孫が、何という奇縁か ― それとも必然か ― 天沢聖司だった。聖司の弾くバイオリンに合わせてオリジナルの作詞を施した『カントリー・ロード』を歌う雫、そこにimprovisationalに加わってくる店主とその音楽仲間たち。アンサンブルとしては日本アニメの中でも白眉であると思う。

中学を卒業したら、イタリアでバイオリン職人を目指すという聖司。『羊と鋼の森』は、もしかしたら本作に少し着想を得ていたりするのかもしれないと、ふとあらぬことも考えた。現代でも、本作の時代(色々と鑑みるに1980年代半ばか)でも、中学生にして職人の道を志す者は少ないだろう。しかし聖司の決意は固く強い。その確乎たる姿勢は好ましいものとして映るが、聖司に惹かれる雫にはどう映るのか。雫は聖司を引き留めようなどとはしない。むしろ、自分の進路が空虚なものであるかのように感じてしまう。しかし、雫には物語を紡いでみたいという欲求があった。学校の勉強などをほったらかして、全てを物語の著述に費やしてみよう。そして出来上がった作品を、まず聖司のお祖父さんに読んでもらおうと決心する雫。自分が中学生の頃、ここまで純粋にひたむきに、何かに打ち込んだ、誰かに感動させられたことがあっただろうかと自問させられた。

猫が重要な役割を演じる本作であるが、その猫がまた良い。まるで漫画およびアニメの『じゃりン子チエ』に出てきても違和感の無さそうな不思議な猫なのだ。もちろんムーンのことであって、バロンのことではない。バロンはというと、『銀河鉄道の夜』(猫アニメの方)に出てきそうなキャラだ。両方とも日本アニメーションの一つの到達点と言える作品なので、興味のある向きは一度ご観賞を。

本作のもう一つのモチーフは冒頭でも言及した『カントリー・ロード』だ。オリジナルの歌詞には“Country roads, take me home to the place I belong. West Virginia, Mountain Mama, take me home, country roads”とあるが、雫は作中でこれを「コンクリート・ロード」や「ウェスト東京」と読み替える。笑ってしまう言い換えだが、故郷と聞いた時に我々がつい思い浮かべてしまう自然豊かな郷里の里はもはや存在しないも同然である。ただ、故郷というもののイメージを創造的に破壊することはできる。コンクリート・ロードに郷愁を感じる者がいても良いではないか。故郷のイメージはそれを想う者の心の中にある。その原風景を雫は紙とペンで再現しようとしていたのだ。英語に”Home is home”という表現がある。聖司も自分の心の原風景に雫が刻みつけられたのだろう。だからこそイタリアに旅立てるのだ。

中高生ぐらいで普通に観賞してしまえば見過ごしてしまいそうなメッセージがあふれている。それでも、中高生ぐらいが最も観るべき層である作品であると思うし、家族そろって観ても良いし、小中学校あたりで道徳の授業、もしくは進路について考える時間に上映してやっても良いのではないだろうか。Timeless Classicである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, B Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 本名陽子, 監督:近藤喜文, 配給会社:東宝, 高橋一生Leave a Comment on 『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

セント・オブ・ウーマン/夢の香り

Posted on 2018年5月27日2019年3月4日 by cool-jupiter

『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』 90点
1995年 WOWOWで視聴 以後、VHSとDVDで複数回観賞
主演:アル・パチーノ
監督:マーティン・ブレスト

日本一の学生数を誇るマンモス大学が揺れている。そのブランドが揺らいでいる。学校という組織が一学生に全てを押しつけようとしている(ように見える)構図は異様ですらある。己の良心が咎める行動を人は取るべきなのか否か。その良心を裏切る行動に駆り立てる背景にあるものは何か。そうしたことを考える時、多くの映画ファンの頭には本作がよぎったのではないか。対立の構図は異なるものの、プレッシャーを与えてくる校長と、自分の良心に最後まで従うチャーリー。どこぞのアメフト部の監督・コーチと部員のようではないか。

ハイライトシーンはいくつかあるが、やはりタンゴのシーン、アル・パチーノがチャーリーを擁護する大演説、最後の”ダフネ”のシーンだろうか。時代を超える作品(Timeles Ageless Classic)で、時々思い返して見てみたくなる傑作である。

アル・パチーノ+アメリカンフットボールでは『 エニイ・ギブン・サンデー 』も良作。勝利を目指すことは大切なことではあるが、勝利以上に大切なものがある。自分というものが存在できるのは他人というものがいるからだ。チームとして戦うことの意義を力強く語るアル・パチーノとそのことを受け止める若きジェイミー・フォックスに胸打たれる感動作だ。

フットボールを通じた差別克服と友情の傑作『 タイタンズを忘れない 』も捨てがたい。某大学の元コーチは「相手のQBと友達なのか」と尋ねたらしいが、そこには友達でなければ潰していいという論理が透けて見える。友達と友達ではない者の境界線など、実は非常にあやふやなもので、いつの間にかその線を超えている者、勇気を出して踏み越えていく者、時間をかけて踏み越えて行く者たちが描かれる本作は、アメフトをプレーする、志す者なら誰もが見るべき良作であろう。

Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, S Rank, アメリカ, アル・パチーノ, ヒューマンドラマ, 監督:マーティン・ブレスト, 配給:ユニヴァーサル・ピクチャーズLeave a Comment on セント・オブ・ウーマン/夢の香り

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