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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 1990年代

『 CUBE 』 -シチュエーション・スリラーの極北-

Posted on 2021年10月5日2021年10月5日 by cool-jupiter

CUBE 80点
2021年10月3日 Amazon Prime Videoにて鑑賞
出演:モーリス・ディーン・ウィント ニコール・デ・ボア アンドリュー・ミラー
監督:ビンチェンゾ・ナタリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20211005002118j:plain



Jovian嫁は本作を観たことがないというので、自宅で鑑賞。コロナ収束の兆しは喜ぶべきだが、映画館およびその周辺での無節操な輩が明らかに増加しているため、逆に映画館通いがしにくくなった。Give me a goddamn break…

 

あらすじ

男は目覚めると謎の立方体の中にいた。周りの部屋の人間も合わせて男女6人だが、なぜ、どのようにして立方体に閉じ込められたのか皆目見当がつかない。そんな中、アッティカの鳥の異名を持つ脱獄王が先導するが、彼はある部屋に仕掛けられた死のトラップにかかって命を落としてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭いきなり男が死亡する。しかもただの死に方ではなく、鋼線が格子状に張り巡らされたトラップによって一息で人間サイコロステーキにされてしまう。Jovian嫁は「うげ」という言葉を発したが、Jovianも大学生の時にレンタルビデオで借りてきて鑑賞したときに同じような声を発したと記憶している。それほど強烈なシーンで、タイトルにもなっているキューブという立方体の危険さが観る側に一発で伝わってくる。この人間サイコロステーキは映画『 バイオハザード 』でもレーザーの形で登場している。悪く言えばパクリ、上品に言い換えればオマージュだろう。

 

サイコロステーキのシーンという顔に酸のシーンといい、低予算映画ながらどこにカネと手間をかけるべきか、よく分かっている。グロとバイオレンスは忌避されるテーマであるが、そうであるがゆえにそのジャンルの熱心な愛好家というものが存在する。ビンチェンゾ・ナタリ監督はそのことをよく理解している。

 

キャストが無名なのもいい。次に誰が死ぬか分からないからだ。また役者としての知名度や格付けなどを演じる側も観る側も気にする必要がないし、監督も演出を好きなようになれるだろう。『 ディープ・ブルー 』のサミュエル・L・ジャクソンや『 ザ・ハント 』のエマ・ロバーツのような例もあるが、低予算映画は売れていない俳優を起用して、そこから逆にスターを生み出すべきだ。日本でも『 カメラを止めるな! 』という超低予算映画から濱津隆之やどんぐりといった役者が売れるようになった。役者>ストーリーという構図に陥りがちな邦画は、このようなアイデア一発で勝負する映画から学んでほしい。

 

グロとバイオレンスを序盤で強烈に見せつけるが、本作が優れているのは、そうした視覚的な恐怖の演出の軸を、キャラクターの変容へと変えていくところ。特に警察官クエンティンが、法執行官としての意志と責任を忘れ、暴力に物を言わせるように変貌していくのは正にホラーである。怪物の誕生である。精神科医のハロウェイや大学生のレブン、謎の男ワースなどが織りなす奇妙なチームワークと対立の構図は、ミステリでおなじみの吹雪の山荘や絶海の孤島の屋敷に閉じ込められた哀れなモブキャラたちのそれ。ここでの疑心暗鬼の様相は、『 遊星からの物体X 』にも共通するサスペンスがある。

 

数学を武器にしてキューブの謎に迫る過程、その数学が誤っていたと分かった時の絶望、そこに現われる意外な救世主など、最後の最後まで息をつかせぬハラハラドキドキ展開で突っ走る。Jovian嫁は「これって『 インシテミル 』にそっくりやな」という感想を述べたが、エンタメとしては本作が圧勝であろう。日本版リメイクの公開前に多くの方々に復習鑑賞してほしいと思う。

 

ネガティブ・サイド

キューブの中で動く部屋が存在するわけだが、それを可能にするためには立方体の中にかなりの隙間が必要である。クエンティンらのパーティーはかなりあちこちキューブ内を巡っているが、早い段階で「動く部屋」の通り道を発見できなかったのは少し考えづらい。

 

レブンが一の位が2や5の3桁の数字を数秒考えて「素数じゃない」というシーンは、やはり何度見ても奇妙だ。2以外の偶数は絶対に素数ではないし、一の位が5の二桁以上の数字は必ず5の倍数で、すなわち素数ではありえない。

 

デカルト座標も、「動く部屋」には割り振れないだろうし、「動く部屋」の通路=何もない空間や、「動く部屋」を通すために動かされる部屋にも割り振れないだろう。数学はネタに使えばキャラが一気にスマートに見えるが、そこで失敗すると一気にキャラが陳腐化してしまうという諸刃の剣である。

 

総評

観るのは3度目だが、やはりこれは傑作である。謎の密室状の構造に閉じ込められ、理不尽なストーリーが展開するというジャンルを確立し、その影響は公開から20年以上が過ぎた2020年代でも健在。『 プラットフォーム 』などは一例だろう。本作が気に入ったという人は『 CUBE 2 』は華麗にスルーして、『 CUBE ZERO 』を鑑賞しよう。クオリティは落ちるものの、思いがけない連環の物語になっていることにアッと驚くことだろう。日本版のリメイクには正直なところ不安9、期待1であるが、是非ともJovianの予想を裏切ってほしいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s face it.

直訳すれば「それに直面しよう」となるが、少し意訳すれば「そのことを直視しよう」となる。なにか都合が悪いが、それでも真実であるということを述べる前に言う。 Let’s face it. He is a good man, but he’s a bad sales rep. = 「現実を見よう。彼は良い人だが、営業マンとしてはダメだ」のように使う。  

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, アンドリュー・ミラー, カナダ, シチュエーション・スリラー, ニコール・デ・ボア, モーリス・ディーン・ウィント, 監督:ビンチェンゾ・ナタリ, 配給会社:クロックワークス, 配給会社:ポニーキャニオンLeave a Comment on 『 CUBE 』 -シチュエーション・スリラーの極北-

『 ムーラン(1998) 』 -異色のディズニー・プリンセス-

Posted on 2021年5月3日 by cool-jupiter

ムーラン(1998) 75点
2021年5月1日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:ミンナ・ウェン エディ・マーフィー
監督:トニー・バンクロフト バリー・クック

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違う『 ムーラン 』を観てしまったので、本家のムーランを借りてきた。劇場公開時にはそれほど強い感銘は受けなかったが、オッサンになって再鑑賞すると異なる印象を受けた。

 

あらすじ

北方のフン族が万里の長城を越えて侵攻してきた。そのため、皇帝は一家につき男性一名を徴発する。ムーラン(ミンナ・ウェン)は、老身の父の代わりに髪を切り、父の甲冑を身にまとって、軍へと向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

勝手な印象だが、『 メリダとおそろしの森 』は本作にかなりインスパイアされているのでは?女性でありながら戦うという、一世代前の価値観とは incompatible なストーリーが両作品ともに展開されるが、ディズニー・プリンセスの一人であるムーランは実際に戦闘に従事するだけではなく、敵を大量に殺害し、ヴィランであるシャン・ユーに至っては爆殺する。これにはびっくりした。以前は何も感じなかったが、ディズニー映画では人が直接的に死ぬ描写はご法度と知った今の目で見ると、本作の展開は衝撃的だ。

 

特に序盤のお見合いから、徴兵令、ムーランの出立、軍への合流と訓練の日々までがミュージカル調で時にコミカルに描かれるのは、まさにディズニー映画的。しかし、陽気に隊の皆で歌いながらの行軍の先に、全滅させられた味方部隊を発見する展開も衝撃的。もちろん死体や血の描写はないが、Jovianの脳裏には思わず同年代の『 プライベート・ライアン 』が浮かんできてしまった。

 

ともすれば戦争のダークな面にムーランも観る側も引き込まれそうになるが、守護龍ムーシューの存在が絶妙なストッパーになっている。この龍と幸運のコオロギ、そして愛馬カーン、同じ隊の陽気な連中とリー・シャン隊長らの存在が、異民族との戦争そして戦闘という凄惨になりかねない物語のトーンとバランスを良い塩梅に保っている。

 

ムーランの女性性が過度に強調されない点も時代と言えば時代か。女であることがばれても、守られるべき存在や男を応援する立場という属性をムーランは拒絶する。しかし、父という男性性の象徴からはなかなか自由になれない。それがムーランの時代・地域の特徴であり、それを克服するのはムーランの物語ではない。アジアというディズニーのお膝元ではない地域が舞台であることを配慮したものだと解釈しておく。

 

ネガティブ・サイド

ムーランが髪を切るシーンをもう少しドラマティックに出来なかったか。元々、お見合いも失敗続きではあったが、それでも父親を安心させたいという気持ちをムーランは抱いていた。そこで女性のシンボルでもある髪をばっさりと切るシーンにもう少し葛藤をにじませていれば、その後のリー・シャン隊長とのほのかなロマンスの予感にもっと説得力が生まれたものと思う。

 

幸運のコオロギの活躍が少し足りない。序盤にムーランに幸運をもたらす活躍が見たかった。もしくはヤオやチェン・ポーら、隊の愉快な仲間たちに幸運を分け与える描写が欲しかった。

 

総評

鏡に映る自分が自分ではないという感覚、つまり他人の目に映る自分と自分が認識する自分が異なっているという感覚は、古今東西の誰にでも共通するものだと思う。中国版ではムーランがやたらと腕っぷしが強かったりするが、機転の良さで大活躍するムーランもまた乙なものである。ただし普通のディズニー物語とは違い、人が死ぬ過程が間接的にとはいえ結構つぶさに描かれていたりするので、鑑賞は小学校高学年以上からが望ましいか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

S rest in one’s hands

Sは誰かの手にかかっている、という意味で使われる慣用表現。

 

The success of this project rests in your hands

このプロジェクトの成功は君たちにかかっている。

The future of the country rested in their hands.

国の未来は彼らにかかっていた。

 

のように使う。劇中ではムーシューにかけて、The fate of the Fa family rests in your claws. と言われていた。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, アニメ, アメリカ, エディ・マーフィー, ミンナ・ウェン, 歴史, 監督:トニー・バンクロフト, 監督:バリー・クック, 配給会社:ブエナ ビスタ インターナショナル ジャパンLeave a Comment on 『 ムーラン(1998) 』 -異色のディズニー・プリンセス-

『 ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 』 -怪獣は敵か味方か-

Posted on 2021年4月24日 by cool-jupiter

ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 80点
2021年4月17日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:中山忍 藤谷文子 前田愛 螢雪次朗
監督:金子修介

f:id:Jovian-Cinephile1002:20210424193114j:plain

平成ガメラ三部作のフィナーレ。梅田ブルク7は good job である。単なる特撮怪獣映画としてだけではなく、怪獣が存在することの意義、怪獣が人類にとってどのような存在なのかにまで踏み込んだ作品として、邦画史に残るべき作品だろう。

 

あらすじ

比良坂綾奈(前田愛)はガメラとギャオスの戦いのせいで両親を亡くして以来、ガメラを憎んでいた。引っ越した先の奈良の洞窟で見つけた謎の生物に「イリス」という名前をつけた彼女は、イリスにガメラを倒してほしいと願うようになる。しかし、イリスは実はギャオスの変異体で、綾奈と融合しようとして・・・

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ポジティブ・サイド

ゴジラであれウルトラマンであれ、街中で大暴れはするものの、人的被害について直接的に描かれることは、非常に稀だった。だからこそ初代『 ゴジラ 』や『 ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃 』は傑作だと言える。特に『 ゴジラ 』で母親が娘に「もうすぐお父さんに会えるのよ」と語りかけ、建物の崩落とともに従容として死んでいく様はトラウマものである。怪獣が大暴れすることによって遺児になってしまった綾奈の姿は、阪神大震災や東日本大震災を下敷きに見ると、また新たな感慨をもたらす。

 

公開当時も今もすごいと感じたのは、渋谷のガメラ。昭和ガメラも平成ガメラも、どこか穏やかさを湛えた顔つきだったガメラが、ギャオスへの憎悪や闘争心を隠そうともしない形相になっていたのは、劇場公開時に大学生だったJovianの心胆を寒からしめた。このガメラの顔つきは個人的にはガメラ史上ナンバーワンで、GMKの白目ゴジラに次ぐ怖さであると確信している。

 

人間パートも悪くない。飼い猫のイリスの名前を謎の卵からかえった生物につけてしまうあたり、陰影のある綾奈というキャラの小女性や孤独、さみしさを間接的に描けている。田舎の閉鎖性も妙にリアルだ。地味に奈良vs京都、つまり仏教vs神道の構図にもなっている。ギャオス/イリスは外来の異種で、ガメラは産土神の謂いなのかもしれない。このあたり、GMKの護国聖獣が日本人を殺しながら日本の国土を守ろうとしたように、怪獣は生物個々の守護者/破壊者ではなく、生態系のバランスを取る存在という解釈にスムーズにつながっていくように思う。

 

倉田と朝倉の世界観/怪獣観にもなかなか考えさせられる。地球の意思が、増えすぎた人間の数を減らそうとしているという考え方はコロナ禍の今を見越していたようにすら感じられる。世界各地で大量発生するコロナと世界各地で大量発生するギャオスが重なって感じられた人は多いことだろう。イリスがギャオスの変異体であるというのも、変異株によって大打撃を受けている兵庫・大阪地域のJovianには、考えさせられるものがある。

 

そのイリスの造形の荘厳さは『 ガメラ2 レギオン襲来 』のレギオンを超えると思う。やはり同時代の『 新世紀エヴァンゲリオン 』に使徒として出現してもおかしくない造形美である。ふわりと雲の上に姿を現すイリスの姿は禍々しく、同時に神々しい。ウネウネ系の触手で年端もいかない少女と融合しようとするところは、当時は特に何も感じなかったように記憶しているが、今の目で見ると気持ち悪いことこの上ない。そんな邪神イリスがガメラと激闘を繰り広げ、京都駅ビルという伝統と進歩の象徴を破壊するシーンは、『 モスラ 』における国会議事堂を彷彿させる。ガメラという子どもの味方であったはずの怪獣の破壊者としての側面にフォーカスし、シリアスなドラマでありながらも特撮怪獣映画の醍醐味も保っている。前作では緑色の血しぶきをまき散らしながら飛んでいく様が衝撃的だったが、今作ではそれを上回るグロ描写もあり、小片少女向けの作品には仕上がっていない。怪獣映画としてだけではなく邦画というジャンルにおいても、平成ではかなり上位の作品でありシリーズであると感じる。

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ネガティブ・サイド

人間パートが綾奈の物語に集中しすぎで、中山忍、藤谷文子らの出番というか存在意義が少々弱い。中山忍は鳥類学者・生物学者としての見識を披瀝して倉田や朝倉に対抗すべきだったし、藤谷文子も怪獣と心通わせることがどういったものなのかについて、眠っている綾奈に切々と語りかけるようなシーンが欲しかったと思う。螢雪次朗の見せ場も少なかった。

 

前作、前々作と比べて、ポリティカル・サスペンスとしての要素が薄れてしまった。嫌味な審議官がコミック・リリーフになってしまったのは少々残念だった。

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総評

『 ゴジラvsコング 』が無事に国内でオンタイムに公開されるのかどうか怪しくなってきたが、怪獣映画の人気やその需要は間違いなく高まっている。本作では玄武(ガメラ)と朱雀(イリス)の戦いが描かれた。白虎と青龍はいずこ。敵としても味方としても登場できる余地が残っている。『 ゴジラvsガメラ 』を実現させる制作者及びスポンサーは現れてくれないものか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

a natural enemy

天敵の意。増えすぎた人口を減らすためにギャオスが存在するという仮説は、なかなかに示唆的である。2020年、コロナ対策に社会経済活動を停止させた結果、インドや中国、ロシアやアメリカで空気や水が一時的にせよ浄化されたという報道があったことは記憶に新しい。コロナは地球が生み出した人類の natural enemy なのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, A Rank, 中山忍, 前田愛, 怪獣映画, 日本, 監督:金子修介, 藤谷文子, 螢雪次朗, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 』 -怪獣は敵か味方か-

『 ガメラ2 レギオン襲来 』 -レギオンの造形美を見よ-

Posted on 2021年2月14日2024年3月17日 by cool-jupiter

ガメラ2 レギオン襲来 80点
2021年2月11日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:水野美紀 永島敏行 藤谷文子
監督:金子修介

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『 ガメラ 大怪獣空中決戦 』の続く第二弾。怪獣ジャンル、そして特撮の素晴らしさをあらためて教えてくれる傑作である。コロナ禍でレイトショーも事実上禁じられているなか、ブルク7は子ども連れからオッサンの一人鑑賞組(Jovianもこれだ)で、かなり込み合っていた。やはり、ガメラという大怪獣にはそれだけの魅力がある、あるいは時代が求める何かがあるのだろう。

 

あらすじ

北海道に隕石が落下したが、自衛隊が探索しても発見できない。穂波碧(水野美紀)は隕石が動いたとの仮説を立てる。その後ほどなくして、札幌市内の通信に異常が起き始める。そして、地下鉄の線路上で謎の生物が現れ・・・

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ポジティブ・サイド

何をおいてもレギオンという怪獣の特異性に触れないわけにはいかない。隕石の正体が怪獣というのはキングギドラでお馴染みだし、宇宙出身の怪獣というのはガイガンやスペースゴジラ、ヘドラなどが先行しており、真新しいものではない。また小さな個体が巨大な個体へと変貌を遂げるのも1995年にデストロイアが先行して行っている。ただ、その小個体と巨大個体が別々の存在で、なおかつ旺盛に繁殖するというのは、これまでの怪獣映画には見られなかった特徴だ。

 

レギオンがケイ素生物であるという設定も秀逸。21世紀前の時点でケイ素生物を構想していた作品は漫画『 BLAME! 』ぐらいしかなかったと思うが、本作は『 BLAME! 』よりも前に発表されている。今でこそ宇宙生物学が花開きつつあり、ケイ素生物の実在が理論上で予測されているが、1990年代の時点でこのような世界観を構想していた人は少数だったはず。脚本家・伊藤和典の炯眼には恐れ入るほかない。そのレギオンの造形も素晴らしい。Jovianは割と昆虫の一部=宇宙由来という説を支持しているが、レギオンの甲虫的な外観はそうした考えを強力にバックアップしてくれているようで嬉しくなる。

 

本作も前作に劣らず謎の提示から謎解きまでのテンポがよく、観る者をぐいぐいと世界に引き込んでくれる。レギオンが作る草体のスケールの大きさよ。前作が『 シン・ゴジラ 』の模範的先行作品としてポリティカル・サスペンス要素を盛り込んで自衛隊出動へのハードルを下げてくれていたおかげで、本作の自衛隊の出動は非常にスムーズ。警察とビミョーに仲が悪いところもリアルで良し。ガメラと人間の共闘で侵略的宇宙生物を撃退するというのは、怪獣映画としてもSF映画としても、非常に質の高いエンターテインメントに仕上がっていると言える。

 

破壊のスケールもさらにアップ。『 ゴジラvsデストロイア 』で、ゴジラがメルトダウンして地球を吹っ飛ばしてしまうかもしれないというシミュレーションはあったが、本作は本当に仙台を吹っ飛ばしてしまった。ヘドラを除けば、怪獣映画としてはシン・ゴジラと並んで最も甚大かつリアルな被害をもたらしたと言えるかもしれない。

 

ミニチュアの街並みや建物の小道具を実際に破壊してしまうことから、一発で撮影するしかないという緊張感がある。それゆえに特撮によるバトルやエフェクトには、CGには絶対に出せない味がある。前作で宿敵ギャオスを倒したガメラは、本作では地球の敵を倒した。『 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 』の護国聖獣が日本国民を殺しながらも日本という国土を護ろうとしたというバックボーンを、金子修介監督は本作によって確立したのだろう。日本怪獣映画史に記録されるべき傑作である。

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ネガティブ・サイド

水野美紀が若い。広瀬アリスとすずの姉妹によく似ているように思うが、ということはあの姉妹も水野美紀のような熟女になっていくのだろうか。それはさておき、水野美紀がやはり大根である。前作の藤谷文子も登場するが、こちらも大根。金子監督は役者の演出よりも樋口特技監督との打ち合わせで忙しかったのだろうと苦しい擁護をしておきたい。

 

子どもからダイレクトに力をもらうという昭和ガメラの様式美を映像美と合体させたが、このようなシーンをもう少し増やして欲しかった。首都圏絶対防衛ライン前での攻防や、ウルティメイト・プラズマ発射前にマナを集めるシーンで子ども達に「ガメラ、頑張れ」と言ってもらうシーンが数秒で良いので欲しかったと個人的に思う。

 

総評

『 ガメラ3 邪神覚醒 』もDolbyCinemaで再上映されるのだろう。そうでなければ嘘だ。『 シン・ウルトラマン 』の公開を今夏に控え、令和時代に特撮ジャンルの復活なるか。かつて大映から「ゴジラとガメラの対決を」と呼びかけられた際に東宝は「貫目が違う」といって退けたが、もうそんな見栄やプライドの時代ではないだろう。GW明けには『 ゴジラvsコング 』も公開予定なのだ。邦画界は怪獣および特撮の“ユニバース”を真剣に考えるべき時に来ている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

situation

状況、の意。単なる状況ではなく、まずい状況を意味する。イラクや南スーダンの日報問題で「戦闘」という言葉が使われてしまったが、自衛隊は元々この言葉を使えなかった。代わりに使っていたのが「状況」で、「状況を開始する」とか「状況を終了する」と言い換えていたわけだ。その英語がsituationである。“We’ve got a situation.”=「まずいことになった」である。状況=situationという丸暗記は絶対にやめておこう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, A Rank, 怪獣映画, 日本, 水野美紀, 永島敏行, 監督:金子修介, 藤谷文子, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 ガメラ2 レギオン襲来 』 -レギオンの造形美を見よ-

『 ガメラ 大怪獣空中決戦 』 -特撮映画の金字塔の一つ-

Posted on 2021年1月27日 by cool-jupiter

ガメラ 大怪獣空中決戦 80点
2021年1月24日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:伊原剛志 中山忍 藤谷文子 小野寺昭
監督:金子修介

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邦画の落日が叫ばれて久しい。いつの間にか小説や漫画の映像化を作業のように淡々とこなすようになってしまったのは何故なのか。「日本にはアニメがある」という声も聞こえないではないが、『 ウルフウォーカー 』や『 羅小黒戦記~僕が選ぶ未来~ 』のような傑作が海の向こうで作られていること、そして『 劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編 』(未見)が映画界の救世主のように扱われていることに一掬の、いや多大な不安を覚える。だが、日本にはまだ特撮映画、そして怪獣映画というジャンルが残されている!

 

あらすじ

太平洋上で巨大な漂流環礁が発見された。時を同じくして姫神島で住民が消失する事件が発生。その直前の無線では「鳥」が言及されていた。島を訪れた鳥類学者・長峰(中山忍)の前に、羽毛の無い巨大な鳥を発見する。同じ頃、海上保安庁の米森(井原剛志)と保険会社の草薙(小野寺昭)は、環礁で発見された碑文を解読。環礁はガメラ、怪鳥はギャオスという古代怪獣であることが判明して・・・

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ポジティブ・サイド

これは確か高校生の時に岡山市内の映画館で父親と観た記憶がある。その後、20代後半にDVDでも観た。今回で3度目の鑑賞である。ガメラと言えば「 強いぞガメラ♪ 」の歌詞がJovianの脳内に響いてくるが、Jovianはリアルタイムで昭和ガメラは鑑賞できていない。すべてVHS鑑賞である。そうした意味で、本作を劇場、しかもDolbyCinemaで鑑賞できたことは僥倖以外の何物でもない。

 

まず、タイトルロゴの演出が恐ろしくカッコいい。『 ゴジラvsデストロイア 』のそれを彷彿させる(というか、こちらの方が後発)素晴らしい出来栄え。そこから謎の環礁、そして巨鳥の出現と矢継ぎ早の展開で、観る側をぐいぐいと引き込んでくる。そのタイミングで中山忍演じる長峰を登場させることで青年から中年までの怪獣オタクのハートもがっちりとゲット。少年層には藤谷文子を配するなど、手抜かりはない。ここが『 ゴジラ 』シリーズとの違い。『 ゴジラ 』世界でヒロインと呼べるのは、おそらく三枝未希だけだろう。

 

閑話休題。本作は怪獣映画であると同時に政治的なリアリズムを追求した『 シン・ゴジラ 』の先行作品とも言える。ガメラやギャオスといった怪獣を捕獲するか駆除するかといった議論の生々しさは、確かに『 シン・ゴジラ 』に受け継がれている。もうひとつゴジラつながりで言えば、本作は『 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 』、いわゆるGMKの先行作品的な側面も有している。つまり、人間と怪獣の戦いを経て、人間と怪獣の共闘に至るという点だ。

 

その怪獣バトルも、樋口真嗣の手腕もあって、特撮の醍醐味が存分に味わえる。CGでは決して出せない建物が破壊されるときの臨場感、そして大規模なミニチュアのセットの中で繰り広げられる着ぐるみvs着ぐるみのぶつかり合いの質感。これらが高精細になった映像とクリアな音質によって、より迫真性を増している。特にラストのコンビナートの大爆発シーンは、『 ゴジラ対メカゴジラ 』のコンビナートの爆発に勝るとも劣らない。これらの大迫力を体験させてくれた梅田ブルク7様々である。

 

人間キャラクターが魅力的だが、やはりそれ以上に怪獣たちが個性を発揮しているところが素晴らしい。ギャオスの雛が共食いをするところ、成長したギャオスが人間を貪り食うところに、ギャオスという怪獣が紛れもないヴィランであることが伝わって来る。同時に、小難しい理屈をこねる環境庁の役人の屈折と変節に、人間、特に大人もあてにならない、信用できないという思いを(オッサンになった今も)強くする。そんな中で、子どもの味方であろうとするガメラ、人間に攻撃されても一切反撃しないガメラは、やはり純粋にヒーローである。単に敵対的な怪獣を攻撃してくれる=善という図式ではない。人間の愚かさをそこに挟むことで、ガメラの立ち位置がより明確になっている。

 

空中決戦という、ゴジラにはほぼ不可能な(といっても、ゴジラも空を飛んだことはあるが)スペクタクルはまさにスリル満点。成長したギャオスが東京の空を縦横無尽に飛び回り、自衛隊の放ったミサイルがギャオスを追尾する最中、東京タワーに命中してしまうといアイデアは、もしかすると海を越えて『 GODZILLA 』(1998)をインスパイアした可能性もあるのではないか。折れた東京タワーの中腹あたりに鎮座するギャオスのシルエットはまさに邪竜。地の底から現れたガメラとの空中戦、そしてクライマックスの爆発散華へと至るシークエンスは、特撮および怪獣映画のエッセンスのすべてが詰まっている。まさに金子修介監督および樋口真嗣特技監督の面目躍如である。邦画は死につつあるが、怪獣ジャンルまで死なせてはならない。

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ネガティブ・サイド

漂流環礁の調査シーンの引きのショットでは、海とプールの合成の粗さが目立つ。時代的な制約か。他にも橋の上でギャオスが米森、長峰、子どもを襲おうとするシーンではギャオスの飛行による衝撃波が生じないところが気になった。直前に犬やおばちゃんを襲うシーンでは、自転車を吹っ飛ばすほどの威力の衝撃波を生み出しているのに。この橋の上のシーンで、風で米森や長峰が風で子どもから引き離されたところにギャオスが突撃、子どもが大ピンチという瞬間にガメラが子どもをかばって負傷する、という流れなら、ガメラ=子どもの味方という図式がもっと理解しやすくなったと思われる。

 

あとは中山忍と藤谷文子の棒読み演技か。ビジュアルは文句なしだが、セリフ回しが拙すぎる。といっても『 ゴジラvsビオランテ 』の沢口靖子ほど酷くはないのだけれど。

 

そうそう、エンドクレジットでは“アニマトロニクス”であるべき箇所が“アニマトロクス”となっていた。シミュレーションがしばしばシュミレーションと言われていたように、英語とはまだまだ距離があった90年代を思い出させてくれた。

 

総評

知名度ではゴジラに劣るが、ガメラもまた日本の誇るべき怪獣の一方の雄である。実際に、ブルク7で本作鑑賞後に「大画面で観られて良かった!」「崇高な映画!」と感想を述べあう若い男子三人組を目撃した。おそらく元々怪獣ファンなのだろうが、それでも令和の時代に昭和生まれの怪獣(平成ガメラだが)の雄姿を映画館で拝めるということには、歴史的な意義がある。工場で大量生産するかの如くテンプレ的な映画が量産される邦画の世界の関係者は、怪獣、そして特撮というジャンルにかつてどれほどのエネルギーが注ぎ込まれていたのかを思い返すべきだろう。そして、60代以上の世代はぜひ孫たちにガメラを体験させてあげてほしい。いわゆる昭和のプロレス的なノリのゴジラ映画とは違い、かなり現実的な考察がなされている平成ガメラであるが、そうした作品こそ子どものうちに味わわせてあげてほしい。そのように切に願う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How dare you!

環境活動家のグレタ・トゥーンベリの決め台詞。意味は「よくもそんなことができますね」である。中山忍演じる長峰が、ギャオスの捕獲から駆除へと方針転換した木っ端役人に対して「勝手過ぎます!」と一喝した台詞の私訳。逐語訳ならば“Too selfish!”とか“So egoistic!”となるのだろうが、より丁寧に“How dare you say that!”または“How dare you change policies!”となるだろうか。相手の言動に悪い意味で驚いたりした時、呆れたりした時に“How dare you!”と心の中で叫ぼうではないか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, A Rank, 中山忍, 伊原剛志, 小野寺昭, 怪獣映画, 日本, 監督:金子修介, 藤谷文子, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 ガメラ 大怪獣空中決戦 』 -特撮映画の金字塔の一つ-

『 12モンキーズ 』 -ウィルス&タイムトラベルものの名作-

Posted on 2020年8月23日2021年1月12日 by cool-jupiter

12モンキーズ 80点
2020年8月20日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ブルース・ウィリス マデリーン・ストウ ブラッド・ピット クリストファー・プラマー
監督:テリー・ギリアム

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200823005206j:plain
 

アホな政治家は「コロナは高温多湿に弱い」と言っていたが、日本は完全に第二波のただ中のようである。こういう時こそ過去のウィルス系の映画を観返すべきだと思う。手洗いは完全に市民に定着したようだが、我々は今こそ本作中でもブラピによって言及されるセンメルワイス医師の功績を再認識しようではないか。

 

あらすじ

2035年、人類はウィルスにより大多数が死滅。生き残った者も地下深くで生活し、地上には動物たちが闊歩している。

 

ポジティブ・サイド

ブルース・ウィリスが良い感じ。『 オールド・ボーイ 』のチェ・ミンシクが生きたタコを貪り食ったが、ブルース・ウィリスも蜘蛛をむしゃむちゃ。シャワーでは尻の割れ目を披露。そして第一次大戦のフランス軍の塹壕では一瞬だが逸物も披露。シリアスな話のはずが、どこかユーモラスだ。そこにクスリ漬けにされたウィリスと、正気ではあるが現代人の目からは狂人に見えるウィリスという二面性。序盤の時間軸とストーリーの虚実が定まらないこの感じが、いかにもテリー・ギリアムのテイスト。

 

ブラピの狂いっぷりもなかなかの見どころ。科学の進歩をテロで食い止めようとする輩は『 トランセンデンス 』などに見られるようにスマートに狂った輩が多い。そうした意味では本作のブラピのストレートな狂いっぷり(こちらも負けじと尻の割れ目を披露)は、文字通りの意味で世紀末的である。ブラピが最も面白いのは、最後の最後に実行する社会擾乱罪だろうか。なるほど、これはなかなか愉快なテロ行為で、なおかつ2020年代の現在でもリアリティがある。ブラピが最も不気味なのは、精神病棟でテレビの録画について滔々と解説するシーンだろうか。大昔に観た時には何も感じなかったが、20年以上ぶりに観返して、背筋がゾッとした。デイヴィッド・ピープルズとジャネット・ピープルズの二人の脚本家は天才ではあるまいか。ウィリスが目にする数々の動物のビジョンや他のデジャヴにも感心させられたが、このテレビ録画のシーンの気味の悪さと意味の深さには唸らされた。

 

ストーリーは軽妙にして重厚、単純にして複雑である。ウィリスもブラピも、人類を救うべく行動しているという点では同じである。重い使命である。そして、地下生活に順応してしまったウィリスの地上生活への憧憬と音楽などの世俗的な娯楽の享受が、とても大きな意味を持っている。人類のため、ではなく、自分のためにと行動するウィリスが次第次第に正気を失っていく様は痛々しい。12モンキーズという謎の軍団の探求のミステリーとサスペンスでぐいぐいと観る者を引き込んでいく。普通に鑑賞してもあっという間の2時間10分であり、再鑑賞すればさらに引き込まれる2時間10分である。

 

ネガティブ・サイド

ウィリスを途中から甲斐甲斐しく支えることになるキャサリンが、割と安易にロマンチックな関係に陥ってしまうのは何故なのか。この手のプロフェッショナルが、患者やクライアントに恋愛感情を抱くのはご法度であり、自身の気持ちをコントロールする術もある程度は体得しているはずだ。そうした人物が、相手が未来人とはいえ、いや未来人だからこそ、適切な距離を保てないというのは腑に落ちなかった。

 

ウィリスのキャラクターが最後まで混乱しっぱなしというのも気にかかった。並外れた記憶力の良さを買われた割には、肝心なところを思い出せないというのはご都合主義的だと感じた。

 

総評

幾重にも張り巡らされた伏線を見返すのも楽しいし、現今のコロナ禍と重ね合わせて人間考察してみるのもよいだろう。まだ観たことがないという若い映画ファンは、配信やレンタルで要チェックである。『 マトリックス 』や『 マイノリティ・リポート 』のようなテイストの作品を好む向きであれば、ぜひ鑑賞されたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ventilation

「換気」の意。今やいかに rooms with good ventilation / well-ventilated= 風通しの良い部屋を確保するかが、どこのオフィスや学校でも喫緊の課題になっている。知っておくべき語と言えるだろう。ちなみに緊張状態やストレスから起こるとされる「過呼吸」は hyper ventilation と言う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, SF, アメリカ, クリストファー・プラマー, ブラッド・ピット, ブルース・ウィリス, マデリーン・ストウ, 監督:テリー・ギリアム, 配給会社:松竹富士Leave a Comment on 『 12モンキーズ 』 -ウィルス&タイムトラベルものの名作-

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200727021617j:plain
 

ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』 -POVの火付け役-

Posted on 2020年6月1日 by cool-jupiter

ブレア・ウィッチ・プロジェクト 60点
2020年5月31日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ヘザー・ドナヒュー マイケル・C・ウィリアムズ ジョシュア・レナード
監督:ダニエル・マイリック エドゥアルド・サンチェス

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ウィルスやゾンビ以外にメジャーな超自然的存在(supernatural beings)といえば、やはり魔女だろう。『 ウィッチ 』のような傑作も生まれている。だが、本作の価値はPOVをメジャーなものにしたことだろう。

 

あらすじ

ヘザー(ヘザー・ドナヒュー)、マイク(マイケル・C・ウィリアムズ)、ジョシュ(ジョシュア・レナード)の3人は大学の課題としてドキュメンタリーを撮ることにした。そして、ブレアの魔女、ブレア・ウィッチについての映画を撮ろうと地元の人間にインタビューをする。そして3人は魔女のいるとされる森に踏み入って行くが・・・

 

ポジティブ・サイド

これは確か大学生の頃に同じ寮に住んでいた先輩が近所に出来たばかりのTSUTAYAで借りてきたんだった。そう、5~6人で一緒に観たと記憶している。確かアメリカ人OYR(One Year Regular=1年だけの留学生)が前年にアメリカで異例のヒットをしたとか何か言っていたんだったか。2000年か2001年のことでまさにインターネットの黎明期と発展期の間だった。国際基督教大学生だった自分たちは普通に英語のサイトにもアクセスしていて、まさにThe Blair Witch Projectのホームページを見て、「え?ヘザー・ドナヒューって本当に行方不明なの?」とか、「なるほど、アメリカでは子どもから若年層で行方不明者が出ると、牛乳パックに尋ね人情報が貼られるのか」と社会勉強になった覚えがある。

 

はっきり言って、オチを知っている状態で観ると本作は面白くも何ともない。ただし、まっさらな状態で鑑賞した当時は、今にもジャンプ・スケアがあるのではないかとビクビクしながら観ていたのを覚えている。鬱蒼とした森には何かがある。そうした予感を抱かせる描写は『 ウィッチ 』にしっかりと受け継がれている。

 

また、『 イット・カムズ・アット・ナイト 』(拍子抜け作品だったが、COVID-19が猖獗を極めていたタイミングで鑑賞すると、また違った感想になっただろうか)と同じく、邪悪な超自然的な要素が忍び寄ってきたとき、最も恐るべきは他者となる。人間同士が最も怖い。そうした、ある意味で人間存在に普遍的な弱さや醜さ、邪さをしっかりと捉えているとこもポイントが高い。

 

廃屋のシーンは鳥肌ものである。Jovianは初回に観て、さっぱり意味が分からなかった。一緒に観た先輩や同級生の面々も同じだったようだ。先輩がTSUTAYAに返しに行く前に、もう一度観たいと言って、その場でsecond viewingをしたと記憶している。そして、冒頭の街の人たちのインタビューを聞いて凍り付いた。まさに身も凍る思いがした。すべてはクライマックスのある瞬間のための演出だったわけである。

 

POVのホラーという新生面を開拓した本作であるが、おそらく現代の映画ファンの鑑賞には耐えないだろう。だがそれは、一昔前の野球選手を見て、「現代に比べると大したことねーな」という感想を抱くのと同じである。すべては積み重ねられており、それが進歩につながっているのである。

 

ネガティブ・サイド

81分と短い作品だが、こうした作品こそ70分ちょうどに短縮できないだろうか。Jovianは映画の長さとして2時間弱を推奨する者だが、このような一発勝負のモキュメンタリーは、伏線を回収する際の鮮やかさが肝になる。観客の記憶にいろいろなものがしっかりと残っているうちに勝負のタイミングを持ってきてもよかったのではないか。

 

不満のもう一つは、ヘザー以外の男性二人のキャラが立っていないこと。ベタだが、マッチョ系とインテリ系にしてしまっても良かったのではないか。「動物でも幽霊でもぶちのめしてやるぜ」みたいな脳筋男と、不可解な現象でも無理やり科学的に説明してしまうような頭でっかちのコンビが対立していく過程の方が、よりサスペンスが生まれたはずだ。

 

これを指摘しては元も子もないが、1990年代後半にあれだけ長時間撮影できるようなハンディカムは存在しなかったし、大容量バッテリーの登場もまだだった。ヘザーがあらゆるものを撮影・録画したがるのは迫真性があったが、現実的ではなかった。

 

総評

古典と言うにはまだまだ新しいが、それでも本作は一種の古典である。POVやファウンド・フッテージものの先駆的作品で、映画(に限らずエンタメ・フィクション作品)において最も大切なのはアイデアであることを世界に知らしめた功績は大きい。そういえば当時は寮のみんなでホラー映画を観るのが何故か流行っていた。『 リング 』や『 催眠 』、『 オーディション 』など。ファウンド・フッテージではなくファウンド・テープものだと中井 拓志の小説『 レフトハンド 』もイージー・リーディングの傑作だった。映画館もfully operationalにはまだ遠い。自分の青春時代である90年代後半の作品も、もう少し頻繁に渉猟してみようか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pleasantly surprised

「嬉しい驚き」の意味である。これもよくあるコロケーション(共に使われることが多い語の組み合わせ)である。I was pleasantly surprised to hear that the Oscar went to Parasite. のように使う。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1990年代, C Rank, アメリカ, ジョシュア・レナード, ヘザー・ドナヒュー, ホラー, マイケル・C・ウィリアムズ, 監督:エドゥアルド・サンチェス, 監督:ダニエル・マイリック, 配給会社:アスミック・エース, 配給会社:クロックワークス, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』 -POVの火付け役-

『 アウトブレイク 』 -アメリカの本音が詰まったウィルス・パニック映画-

Posted on 2020年5月31日 by cool-jupiter

アウトブレイク 70点
2020年5月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダスティン・ホフマン ケビン・スペイシー モーガン・フリーマン
監督:ウォルフガング・ペーターゼン

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これは確か高校3年生ぐらいの時にWOWOWだかレンタルVHSだかで家族そろって観た記憶がある。エボラ出血熱のニュースがその2~3年前にあり、人食いバクテリアなる言葉が人口に膾炙するようになった時代だったように思う。本作もまたCOVID-19禍によって再評価が進む作品の一つだろう。

 

あらすじ

サム(ダスティン・ホフマン)はアフリカで未知のウィルスが猛威を振るうの目の当たりにして、アメリカ本土も警戒の要ありと認めた。だが軍の上層部や政府は動かない。そうしている間にも、シーダー・クリークという田舎町で突如謎の感染症によって人々が死に始める。サムはこの苦境に立ち向かえるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

単純に未知の病原体が現れて人類を恐怖と混乱のただ中に放り込む・・・というだけのストーリーではない。そこには職業人と家庭人の両立をできなかった男の悲哀があり、軍という自制が必要な組織体の自制の無さという問題があり、なおかつ自然と人間の適切な距離の問題がある。さらに過剰とも思えるほどのヘリコプター・アクションもあり、よくこれだけのストーリーを2時間に凝縮したなと、脚本家と監督、そして編集の手腕に感心させられる。

 

25年前の映画だが、現代にも通じる点としてウィルスが変異する点が挙げられる。COVID-19もアジア株とヨーロッパ株の2種に大別できるとされているが、実際は何十にも何百にも枝分かれしているとされる。小説および映画化もされた『 パラサイト・イブ 』では「ミトコンドリアは人間の10倍の頻度で変異する、つまり人間の10倍のスピードで進化する」とされていた。微生物を人間がどうこうしようというのが、そもそもおこがましいことなのかもしれない。ましてや兵器にしてやろうなどと。そうしたことも本作から学べるのだ。

 

ダスティン・ホフマンの名探偵も斯くやの快刀乱麻を断つがごとしの推理や論理展開の速さは必見。そして「自分を抜きにしてアメリカの防疫を語るな!」というプライドとプロフェッショナリズム。日本にこれほど熱く有能な科学者や官僚はいるのだろうかと思われてしまう。モーガン・フリーマンやドナルド・サザーランドのいかにもアメリカ軍人らしい冷徹さも、そのコントラストが際立っている。その裏には少数を切り捨てることで絶対的多数を守ろうと決断する者たちの姿が見えるからだ。シーダー・クリークを爆撃し、ウィルスおよび感染者を文字通りに一掃しようと立案する大統領補佐官らしき男の官僚連中への「この顔を刻み付けろ!一生思い出す顔だ!」という怒声は、果たしてダイヤモンド・プリンセス号を見捨てた(としか思えない)日本政府の中でも聞かれたのだろうか。フィクションと現実を比較しても詮無いことだが、現実がフィクションに侵食されている今こそ、現実を鋭く批判検証せずに、いつするというのか。

 

アクションも熱い。現代ならおそらく95%はCGで描いてしまうであろうヘリコプターのチェイスと曲芸飛行を、おそらく9割は実物、1割は模型(ハンマーヘッドターンはさすがに模型だろう)だと思われるが、それでもこのヘリコプターアクションのシークエンスは90年代の作品では『 ターミネーター2 』のそれに次ぐクオリティであると感じた。相当な腕っこきパイロットを連れてきたのだろうな。

 

ネガティブ・サイド

ヘリコプターの燃費が良すぎる。通常巡航速度以上の飛行をずっと続けて、なおかつ戦闘機動も織り交ぜ、なおかつ巡航速度を超大幅に下回る飛行を行いつつも、給油なしで飛び続けるあのヘリコは一体全体何であるのか。またAWACSがついていながら軍用ヘリをロストするというのも頂けない。カーナビがついているのに迷子になった、あるいは暗視スコープをつけているのに暗闇でこけてしまった、そういうレベルの盛大なミスである。さすがにちょっとご都合主義が過ぎやしないか。

 

ケビン・スペイシーの感染シークエンスが不可解だ。あの一瞬でウィルスを吸い込んでしまうだろうか。あれでは、防護服周辺に来た人間全員に感染してもおかしくないではないか。その後のラボの人間が誰も発病していないところを見ると、防護服に穴が開いた瞬間に感染というのも大げさすぎる演出だと感じた。

 

土壇場での血清培養も、シーダー・クリークのような地方の片田舎でどのように行ったのだろうか。厳密な温度管理や滅菌処理など、かなり大掛かりな施設が必要となるはずだが、「いいぞ、もっとドンドン作れ!」とはこれいかに。

 

総評

色々と不可解な面もあるが、ヒューマンドラマの要素とSFの要素、そして家族愛や友情の要素に、『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』が前面に出しきれなかった人間vs自然のような視点までも包含した、ジャンル横断的な傑作である。願わくば、『 Search サーチ 』のような様式、すなわち全編これ顕微鏡下の映像だけで送る最近・ウィルスのパニック・スリラーも観てみたい。映画関係者よ、作るなら今だ!

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m on it.

itは大抵の場合、何らかの仕事やミッションを指す。「自分がそれを担当します」、「今取り組んでいるところです」のような意味で、日常会話というよりは、どちらかというと職場でよく使われる表現。実際にJovianの職場でも、

 

X: “We need to make a guideline for this.”「ガイドラインが必要だな」

Y: “I’m on it.”「私が作成します」

 

のようなやりとりはまあまあの頻度で聞こえてくる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, アメリカ, ケビン・スペイシー, スリラー, ダスティン・ホフマン, モーガン・フリーマン, 監督:ウォルフガング・ペーターゼン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 アウトブレイク 』 -アメリカの本音が詰まったウィルス・パニック映画-

『 テルマ&ルイーズ 』 -抑圧された女性の絆とロードトリップ-

Posted on 2020年5月24日2020年9月26日 by cool-jupiter

テルマ&ルイーズ 85点
2020年5月23日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ジーナ・デイビス スーザン・サランドン
監督:リドリー・スコット

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確か中学生ぐらいの時に親父がVHSを買っていたように思う。自分では観なかったが。テレビドラマ『 リゾーリ&アイルズ 』のとあるエピソードで、アイルズ先生がリゾーリの自宅に「一緒に観よう」と持ってきたのが本作。そこで興味を持った。自粛ムードを吹っ飛ばすにはちょうど良いと思い、兵庫県から大阪府へ(といっても直線距離で8kmほど)。

 

あらすじ

専業主婦のテルマ(ジーナ・デイビス)とウェイトレスのルイーズ(スーザン・サランドン)は週末の旅行に出かける。日頃、夫によって抑圧されていたテルマは、立ち寄ったバーで男性と意気投合し、酒とダンスに興じる。だが、レイプされそうになったところをルイーズに救われる。ルイーズはしかし、侮辱的な言葉を発する男を射殺してしまう。テルマとルイーズの二人は逃げるしかなくなり・・・

 

ポジティブ・サイド

『 運び屋 』や『 グリーンブック 』、『 ダンス ウィズ ミー 』のように、ロードムービーは定期的に生み出されている。その中でも本作は白眉である。抑圧から解放がある一方で、解放された先に抑圧がある。物語の進行やキャラクターの造形がひと通りではない。

 

シネマグラフィーも素晴らしい。薄暗いダイナー、そして薄暗い室内、そして全体的に日照の少ない街並みから始まって、アメリカ中西部から南西部にかけてロードトリップに出るのだが、ストーリーが進行するほどに画面にどんどんと色が出てくる。だが、ある時からその色が黄色の砂と赤茶けた岩の色に塗りつぶされていく。それはテルマとルイーズの二人のキャラクターが内面的に変化していく様と不思議なコントラストを成している。人間的に成長したくましくなっていく、あるいはクールに見えた人間が狼狽え、取り乱していく。そうしたキャラクターの心情が画面の色使いで伝わってくる。CM監督出身の巨匠リドリー・スコットらしい手腕である。

 

そのリドリー・スコットの投げかけてくるメッセージは明確である。弱者を虐げるな、ということである。テルマもルイーズも悪くない。悪いのは、テルマをレイプしようとしたハーランであるし、彼女の話をまともに聞こうともせず、浮気には精を出す夫である。ルイーズも男には恵まれているように見せて、そうではない。明確には明かされないが、悲しい過去がある。『 ジョーカー 』でも感じたことだが、弱者を踏みつけてはならない。弱者とは持たざる者である。失うものがない者は恐れるものがない。恐れるものがない者は、一線を越えてしまってもおかしくない。リドリー・スコットというと『 エイリアン 』や『 ブレードランナー 』のようにSFのイメージが強い。しかしその実態は、抑圧された環境下での人間の変化だったのではないだろうか。

 

テルマとルイーズが行く先々で罪を犯していく。本来ならば陰鬱な逃避行のはずが、爽快感が感じられるのは何故か。それは人間の本性がむき出しになっていくからだ。ルイーズは恐ろしい剣幕で「テキサスには行くな」とテルマに迫る。テルマはルイーズに「警察と取引したのか」と食ってかかる。共犯として協力し合わなければならない二人の間にすら緊張が走る瞬間がある。それすらも爽快なのだ。なぜそうなのか。それは劇場または自宅で観て、ぜひとも確かめてみてほしい。

 

ネガティブ・サイド

マイケル・マドセン演じるジミーが、とにかく男の中の男である。ルイーズに「警察には何もしゃべらないで」と頼まれて、実際に何もしゃべらなかったと推測されるのだが、そのシーンが欲しかった。テルマの夫のダリルのクソっぷりと対比させることはできなかったのだろうか。数少ない、魅力ある男性キャラだったのだが。

 

二人を追う刑事ハルも味のあるキャラだったが、その描写が少々弱い。ブラピ演じるJDと取調室で二人だけになるシーンでは、連れの刑事の「ヒューッ」という口笛から何らかの惨劇が予想されたが、いくらなんでも生ぬるすぎる。あの程度の責めでブラピが急に語尾に sir をつけて話すようになるとは考えづらい。この叩き上げの刑事をもう少し掘り下げてほしかった。

 

逃避行の発端となった酒場の女性従業員のような、二人の協力者となるような女性サブキャラがもう少しいれば良かったのにとも思う。何らかの事情を察した女性が、テルマとルイーズの逃避行を、陰ながらサポートすると演出もあってよかったのではないか。トランクに閉じ込められた警察官にタバコの煙を吹きかけてやるという演出も悪くはなかったが、より better な演出はもっといくらでもあったはずである。

 

総評

ロードムービーにしてアメリカン・ニューシネマの傑作である。80~90年代のヒットソングでHans Zimmerの音楽と鮮やかな色遣い溢れる画面とが相まって、芸術的とさえ言える美しさも備えている。道なき道を爆走するテルマとルイーズの姿に心を動かされない人がいようか。現代にも通じるメッセージが明確に込められており、そしてそれは未来へもつなげていくべきメッセージである。このような映画こそ、次世代に残していきたいし、映画館でリバイバル上映をもっと盛んに行ってほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

figure out

フィギュア・スケートのフィギュアの主な意味は、「形」や「数字」である。つまり、figure outとは、形や数字として出す、という意味である。figure out a mystery=謎を解く、figure out what to do=どうすべきを考える、という具合に使う。

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200524004122j:plain

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, アメリカ, クライムドラマ, ジーナ・デイビス, スーザン・サランドン, ブラッド・ピット, 監督:リドリー・スコットLeave a Comment on 『 テルマ&ルイーズ 』 -抑圧された女性の絆とロードトリップ-

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