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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:KADOKAWA

『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

Posted on 2018年10月29日2019年11月4日 by cool-jupiter

ここは退屈迎えに来て 50点
2018年10月25日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:橋本愛 門脇麦 成田凌 渡辺大知
監督:廣木隆一

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181029013048j:plain

以下、ネタばれに類する記述および私的考察あり

 

小説でも映画でもゲームでも、まず手に取ってみたくなる、もしくはクリックしてみたくなるのは、そのタイトルが魅力的なものである時だ。タイトルが魅力的というのは、こちらがそのタイトルの意味をもっと深く知りたい、と思わせるような妖しい力を持っているということだ。少年時代に『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』と出会った方々ならば、そのタイトルの不可思議さに惹き付けられた記憶、印象が鮮明であると思う。本作はしかし、先行する魅力的なタイトルを持つ映画と同じレベルに達しなかった作品である。

 

あらすじ

私(橋本愛)は東京で過ごすこと10年、「何者」かになることができず地元に帰り、フリーのタウン誌の記者をしている。ある時、友人の誘いで高校時代の憧れの存在だった椎名(成田凌)に会いに行くことになる。一方では、高校時代の椎名の彼女「あたし」(門脇麦)は、地元の冴えない男と付き合いながらも、椎名のことを吹っ切れずにいる。青春の輝き、東京への憧憬、椎名という太陽のような存在。誰もが何かを抱えて生きていく姿を、時系列を変えて、オムニバス的に活写していく作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、最も強く印象に残ったのは渡辺大知演じる新保だった。Jovianの気のせいなのかも知れないが、おそらくゲイもしくはバイセクシャル、もしかしたらトランス・ジェンダーなのではなかろうか。本人がそれを自覚できていないのかもしれないが。煙草の吸い方が、男のそれではないように思えて仕方がなかった。また、終盤に新保が原付きで疾走する場面があるのだが、そこでの光の使い方には是非とも注目してほしいと思う。あれは乳房の象徴にしか見えなかった。独特の哲学を持つキャラで、「幸福であるためには、まず何よりも孤独であれ」などとまるでアリストテレス哲学のような思想を披歴してくれる。彼の幸福論および死生観は、Jovianのそれと近く、ある観客によっては非常に強く共感でき、また別の観客によっては嫌悪の対象となろう。どう感じるか気になる方は、劇場へ行くべし。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』と同工異曲の青春群像劇である。青春というよりも、モラトリアムと言った方が近いだろうか。椎名という太陽のような存在に照らされていた高校時代が、ある者にとっては神話的な崇高さを帯びているところが、滑稽ではあるがリアリティの源泉にもなっている。程度の差こそあれ、こうした傾向は青春を完全な過去という遠近法で見られる人にならば、ある程度共通してみられるものだ。アメリカのちょっとしたテレビドラマや映画の同窓会シーンでは、アメフトの試合のあのパスが云々、野球の試合のあの補殺が云々、プロムで誰それと誰それが云々・・・ 人は誰もが否応なく成長するが、その成長を拒む人もいるし、個人の内面レベルで成長を拒む部分も存在する。そうした、ある意味では非常にダークな心の領域を本作は見事にあぶり出す。同様のテーマの作品に興味があれば、『ワン・ナイト』(原題は”Ten Years”)をお勧めしたい。

 

この作品の特徴として、閉鎖空間でのロングのワンカットを多用するということが挙げられる。ワンカットと言えば『 カメラを止めるな! 』が近年の白眉だが、こちらは車内、室内、ファミレス内、ラブホ内、ゲーセン内と、とにかく閉鎖空間での撮影にこだわりを見せる。このことが、観る者に否応なしに最も閉鎖された空間=人間の心を意識させる。本作は椎名という太陽に照らされた者たちと、椎名の陽の部分にまったく興味のない者たちとに二分される。そんな彼ら彼女らの紡ぐアンソロジーを、時系列をバラバラに描くのだが、全てが終盤近くのとあるシーンに収斂するにつれて、その意図が見えてくる。製作者が観客を信頼しているということで、私的に評価したい。

 

そうそう、本作はタイトルをスクリーンに映し出すシーンが完璧なのである。『 アメリカン・アサシン 』並みに素晴らしい。これがあるから、色々とケチをつけたくなる箇所があっても、上手くまとまったなという印象を持てるのだ。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 勝手にふるえてろ 』で使われたネタである。こうしたトリックというかツイストは、どうやっても最初に使った者/物の勝ちなのである。もしも『 勝手にふるえてろ 』を未見なら、すぐに観よう。

 

渡辺大知と片山友希以外の若手キャストが、全体的に力不足である。特に橋本愛は、役者業は厳しいかもしれない。『 貞子3D 』や『 Another アナザー』のように、あまり喋らない役であれば良いが、基本的に台詞に抑揚が無さ過ぎる。棒読みとまでは言わないが、どんな作品に出ても、結局は「ああ、いつもの橋本愛か」と思えてしまう。これがニコラス・ケイジやトム・クルーズのレベルにまで突き抜けてしまえば良いのだが、日本でそんな俳優はあまり見当たらない。強いて言えば北野武ぐらいか。本人が本人を演じるのが一番うまいというタイプの役者だ。あるいは、どんな役も自分色に染めてしまうという、演技力ではなく素の存在感、カリスマ、オーラ、そういったもので勝負できる力。橋本愛はそのレベルにはいないし、今後も行かないだろう。と書いてきて、もう一人思い当たった。樹木希林である。一癖あるおばあちゃんキャラは全部この人だった。『 万引き家族 』然り、『 海街Diary 』然り、『 我が母の記 』然り。合掌。

 

閑話休題。本作の最大の弱点(になっているかもしれない)ポイントは、東京に住んでいる人間に、果たしてどれだけ響くかということだろう。ここで言う東京とはもちろん東京都のことではない。地理的あるいは行政的な区分での東京は、東京ではない。Jovianも東京のど真ん中(地理的な意味で)に10年半住んでいたことがあるから分かる。我々が東京と言う時、それは往々にして山手線の内側もしくは周辺であったり、吉祥寺、高円寺、中野などのちょっとした離れ、隠れ家的な雰囲気の街までである。立川は決して東京ではない。況や奥多摩をや。実際にJovianの大学のクラスメイト(正確にはセクションメイト)が、「私は浦和(当時はまだ浦和市だった)に住んでるから、池袋まで40分ぐらい。八王子の人は新宿に出るのに50分ぐらいかかるから、その意味では浦和は八王子より東京なんだよ」と言ったのをよく覚えている。また寮の同級生も「木更津は確かに遠いけど、アクアライン通ったら近いんだっつーの」と言っていたのも覚えている。東京には強烈な重力がある。東京までの距離の近さを競うような意識が近隣の県や市町村にあり、それは東京都内でも同じだった。そうした東京の内部にどっぷり浸かっている人は、本作を見て「超楽しい」と言うだろうか。それとも悲憤慷慨するだろうか。おそらくどちらでもない。無関心を装うか、無関心を貫くかだろう。東京に住んだことがある、あるいは東京の空気がどんなものかを知っていなければ、本作のアイロニーが届かないというのは残念なことだ。

 

総評

観る人を相当に選ぶだろうなと思う。高校生以下はおそらく除外されるし、40代以上の男性にとっては精神的にきつい描写がある。ガールズトークが花開くシーンはそれなりに楽しめるので、「私」もしくは「あたし」に近いアラサー女子にこそ観られるべき作品であるのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 成田凌, 日本, 橋本愛, 渡辺大知, 監督:廣木隆一, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

Posted on 2018年9月26日2019年8月22日 by cool-jupiter

ブレス しあわせの呼吸 70点

2018年9月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド クレア・フォイ トム・ホランダー
監督:アンディ・サーキス

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書評家の佐藤圭は「小説とは嘘っぱちの中に面白さを見出すもの、文学とは嘘っぱちの中に真実を見出すもの」と喝破した。その定義法を拝借するならば、映画というものには二種類あると言えるかもしれない。すなわち、物語の中に面白さを見出すべきものと、物語の中に真実を見出せるものとである。では、本作は前者なのか後者なのか。答えは両方である。

英国人のロビン・カベンディッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は茶葉の買い付け仲買人。運命の人ダイアナ(クレア・フォイ)とめでたく結婚し、子を儲けるも、幸せは長くは続かなかった。出張先のケニアはナイロビで、ポリオに罹患してしまったことにより、首より下に麻痺を負ってしまう。人工呼吸器なしでは生命維持も不可能で、医師からは余命数カ月を宣告されてしまう。病院を出たいというロビンに、ダイアナは自宅での看護を決心する。

この映画の時代背景に、まず驚かされる。ロビンのポリオ発症が1958年なのである。そして友人らの助けを借りて人工呼吸器搭載可能な車イスの発明が1962年。50年以上前に紡がれた物語が今という時代に影響を及ぼしているということに思いを致さずにはいられないし、同時にこの国でバリアフリー、ノーマライゼーション、セルフケアという概念が本当の意味で浸透し、結実し始めたのが2000年以降であるという事実には慨嘆させられてしまう。もちろん、社会のインフラがそう簡単に作りかえられるものではないが、それでもベビーカーもしくは車イスを押したことのある人ならば、我々の暮らす社会がどれほどバリアに満ちているのかを実感したことがあるはずだ。そして、そうしたバリアを是正すべく、公共の駅などにはエレベーターがどんどんと設置され、新しく建設されたショッピングモールなどは徹底的に段差をなくし、映画館は車イス使用者専用のスペースを設けている。しかし、本当のバリアは人の心の中にあるのだ。満員電車にベビーカー連れで乗り込むのは有りや無しやという議論が定期的に沸騰するが、こんな議論はそもそも論外なのだ。ベビーカーに寛容になれない社会が、車イスに寛容になれるわけがない。我々が障がい者を見るとき、我々は同時に自分が障がいを負った時の姿を投影せねばならない。人に優しくなれないのに、自分には優しくしてほしいなどというのは成熟した社会の一員とは言えまい(成熟した、は社会を修飾していると捉えても、社会の一員を修飾していると捉えてもらってもよい)。我々がいかに車イスを見るにせよ、この映画が終盤近くに見せるドイツの病院は、我々に恐ろしいまでのショックを与える。それによって、確かにわずか数十年とはいえ、我々は見方や考え方を改めてきているようだ。

本作は実話を基にしているとはいえ、おそらくかなりドラマタイズされた部分もある。死にたいと願うロビンが、生を謳歌するようになったのには、妻ダイアナの愛があったのは間違いない。素晴らしいと思えるのは、その愛を育むロマンチック、ドラマチックなエピソードを本作はほとんど映さない。撮影はして、編集でカットしてしまったのかもしれないが、その判断は正解である。劇的な愛ではなく、ありふれた愛、日常的な愛、普通の愛であるからこそ、献身的にも映る看護ができたのだろう。もちろん、この夫婦にダークな側面が無かったとは言い切れない。例えば、ロビンに間接的に多くを負っていたであろうスティーブン・ホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』は、間接的に不倫をにおわせ、最後は儚くも美しい別離に至る関係を描いていたし、一歩間違えれば江戸川乱歩の小説『芋虫』のような展開を迎えていたかもしれないのだ。邦画で似たような関係を描いた秀作では『8年越しの花嫁 奇跡の実話』が挙げられるかもしれない。劇場で観たが、Jovianの実家の隣町の話なので、DVDをレンタルしてもう一度観るかもしれない。そうそう、現実にあった乙武氏の不倫問題なども忘れるべきではないだろう。とにかく、男女の愛は様々な異なる形を取るものだが、ロビンとダイアナの愛はその普通さゆえに異彩を放っている。

Back to the topic. 本作は、観る者に感動やショックだけではなく新たな視座を与えてくれもする。劇中でロビンが「専門家はすぐに無理だと言う」と言うが、蓋し名言であろう。これは専門知識やスキルの蔑視というわけでは決してない。そうではなく、何か新しいことをするときには、自分を信じろということだ。本作には、現代の視点で見れば、数々のトンデモ医者が登場する。しかし、そうした医者たちも当時の自分たちの価値観に照らし合わせて、患者のために良かれと思ってあれやこれやを行っていたのだ。大切なのは、それが本当に他者の利益になっているかどうかを確かめることだ。患者を病気やけがという属性で語ることの愚は『君の膵臓をたべたい』で触れた。患者を人間として見ることが肝心要なのだ。

近くの映画館で本作を上映しているという方は、ぜひ観よう。単なるヒューマンドラマ以上のものが本作には盛り込まれているし、我々はそのメッセージを受け取らねばならない社会に生きているのだから。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アンドリュー・ガーフィールド, イギリス, ヒューマンドラマ, 監督:アンディ・サーキス, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

Posted on 2018年9月25日2019年8月22日 by cool-jupiter

ボーダーライン(2015) 75点

2018年9月22日 レンタルBlu-ray鑑賞
出演:エミリー・ブラント ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン ビクター・ガーバー ジョン・バーンサル ダニエル・カルーヤ ジェフリー・ドノヴァン
監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ

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劇場で見逃したまま数年が経過。続編が出ると聞き、今こそ観るときと満を持してTSUTAYAで借りてきた。この邦題は賛否両論を生むだろう。原題は”Sicario”、ラテン語由来で、【暗殺者】の意である。話の争点は、アメリカとメキシコの国境線を決める戦いでもなければ、国境地帯でのほのぼの交流物語でもない。しかし、原題に忠実に『暗殺者』というタイトルにしても、配給会社はプロモーションしにくい。いっそのこと『シカリオ』で売り出すというのも、一つの手だったのでは?原題のミステリアスな響きをそのままに日本語に持ってきたものとしては『メメント』や『アバター』、『ジュマンジ』、『ターミネーター』、『ダイ・ハード』などが挙げられる。

FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、国防総省が組織する対メキシコ麻薬カルテル部隊への参加を志願するようCIAのエージェント、マット(ジョシュ・ブローリン)に促され、チーム入り。そこで謎のコロンビア人、アレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)に出会う。メキシコから流入する不法移民、そこに付随してくる麻薬の流通量の増加に、ついに目をつぶることができなくなった米政府の上の上の方からの指示による作戦。それに従事していく中で、ケイトは辞めたはずの煙草に手を伸ばす。彼女の中の正義感が大きく揺らいでいく・・・

まず強調しておかねばならないのは、本作ではベニシオ・デル・トロのキャリア最高のパフォーマンスが見られるということである。そしてそれはジョシュ・ブローリンにも当てはまる。ブローリンは『オンリー・ザ・ブレイブ』、『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』、『デッドプール2』の劇場公開もあり、まさに2018年の顔の一人であった。それでも2015年劇場公開の本作こそが、彼のキャリア・ハイの演技を見せてくれた。彼ら2人の演技、存在感は完全に主役であるはずのエミリー・ブラントを喰っており、特に後半から終盤はデル・トロの独擅場である。原題の意味を、観る者はここで嫌というほど思い知らされるのだ。同時に、意訳された邦題の意味についても考えさせられる。正義と悪の間の境界線という次元ではなく、正義そのものの概念が揺らいでいく。正義と秩序が一致しないのだ。

メキシコの一部地域では、民間の車両が多数いる中での銃撃戦、市街地を武装車両が我が物顔で走行しても気にする素振りも見せない市民、ハイウェイの高架下に吊るされる切り刻まれた死体。非日常感ではなく、異世界感すら漂う。アメリカ側のカルテル掃討部隊も法の定める手続きなど一切無視。毒を以て毒を制すの言葉通りに淡々と進んでいく。アメリカの政府の上層部は、すでに毒を食らわば皿までと腹をくくっている。では、ケイトは?FBIの相棒レジー(ダニエル・カルーヤ)以外に信じられる者などが一切存在しない中、自分たちの作戦参加の意義を知ることで、彼女の正義感や任務への使命感は瓦解する。ジョシュ・ブローリンの底冷えを感じさせる笑顔に、戦慄させられてしまう。

本作は映画の技法の点でも非常に優れている。メキシコのフアレス地域は、まさしくアーバン・スプロールの具現化である。都市郊外部が無秩序に平面的に四方八方に拡大しているのを上空から俯瞰するショットは同時に、山に巨大な文字で刻みつけられた住所も映す。こうした地域ではきめ細かい郵便サービスはもはや不可能で、郵送物はヘリコプターで落下傘的に投下して、後は現地住人が自主的に宅配するらしい。犯罪者の根城、犯罪の温床となるにふさわしい土地であることが十二分に伝ってくる。このようなショットをふんだんに見せつけることで、クライマックスの麻薬王の邸宅がいかに豪奢であるかがより際立ってくる。しかし、我々が最も慄くのは、麻薬の恐ろしさ、麻薬のもたらす莫大なカネではない。そんなメキシコの麻薬組織を如何に潰してくれようかと画策するアメリカ側の酷薄さである。そこに正義などない。こんなゴルゴ13みたいな話があっていいのかとすら思ってしまう。フィリピンのドゥテルテ大統領は「血塗られた治世」を標榜して、麻薬取引に関わる人間を片っ端から射殺し、国際社会からは批判を、国民からは喝采を浴びた。100年後の歴史の教科書は、フィリピンの対麻薬戦争を、そしてアメリカの対麻薬戦争をどのように描き、評価するのであろうか。本作の続編が、不謹慎ながら楽しみである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョシュ・ブローリン, ベニシオ・デル・トロ, 監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

『ウインド・リバー』 -忘却と抑圧の歴史を現在進行形で提示する傑作- 

Posted on 2018年7月31日2020年2月12日 by cool-jupiter

ウィンド・リバー 80点

2018年7月29日 シネ・リーブル梅田にて観賞
主演:ジェレミー・レナー エリザベス・オルセン ジョン・バーンサル
監督:テイラー・シェリダン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180731112507j:plain

最初にキャスティングを観た時は、何かの冗談だろうと思った。ホークアイとスカーレット・ウィッチで何を作るつもりなのだと。しかし、テイラー・シェリダンは我々の持っていた固定観念をまたしてもいともたやすく打ち砕き、『羊たちの沈黙』、『セブン』の系譜に連なるサスペンス映画を世に送り出してきた。それが本作『ウインド・リバー』である。

アメリカ・ワイオミング州のウィンド・リバー地区で少女の死体が見つかる。場所は人家から遠く離れた雪深い森林近く。発見者はコリー・ランバート(ジェレミー・レナー)、地元のハンターである。捜査のためにFBIから新米エージェントのジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)が送り込まれてくる。ジェーンは地元の地理や人間関係に精通し、何よりも雪を読む力を有するランバートに捜査の協力を依頼する。そして二人は事件の真相を追っていく・・・

あまりにも広大なワイオミング州に限られた人員、しかし捜査は拍子抜けするほどあっさりと進んでいく。なぜなら、この土地の人口密度の希薄さとは裏腹に、人間関係の濃密さは反比例しているからだ。さらにこの土地には『スリー・ビルボード』のような地方、田舎に特有な閉鎖的人間関係のみならず、ネイティブ・アメリカン居留地であるという歴史に由来する抑圧への憤りが静かに漂っている。それは主人公のランバートにしても同じで、彼の家族との関わり、殺された娘の両親との関わりから、我々は実に多くの背景を悟ることができる。何もかも分かりやすく会話劇やナレーションで説明してしまう映画が多い中、これほど画で語る映画に出会えたのは僥倖だった。ただし、ネイティブ・アメリカンと独立国家アメリカとの関わりの歴史を知らなければ、少し理解が難しいかもしれない面はあった。『焼肉ドラゴン』についても、日本が朝鮮半島を植民地化した歴史を知らなければ、理解が追いつかない部分があったのと同様である。ネイティブ・アメリカンの強制移住、就中、涙の道=The Trail of Tearsの話は、怒りと悲しみ無しに知ることはできないので、興味のある向きはぜひ調べてみてほしいと思う。

本作を特徴づけているのはその狭く濃密な世界観だけではなく、主人公ランバートの雪読みの能力。小説『スミラと雪の感覚』のスミラを彷彿とさせるキャラクターである。このスミラも、デンマーク自治領グリーンランドで生まれ育ったイヌイットの混血児で、デンマーク社会を複雑な視線で見つめるキャラクターで、ランバートとの共通点が多い。雪という自然現象が本作『ウインド・リバー』の大きなモチーフとなっており、観る者は雪の持つ美しさだけではなく、命を容赦なく奪う冷徹性、あらゆるものの痕跡を掻き消してしまう暴力性、なにもかもを一色に染めてしまう無慈悲さを見せつけられる。特に雪が一面を白に染めてしまうという無慈悲さは、そのままずばりアメリカの歴史の負の側面を象徴している。近代国家として成立したアメリカの歴史は端的に言えば、対立と融和の繰り返しだ。植民地と宗主国との対立と融和、弱小州と強大州の対立と融和、自然と文明の対立と融和、エリートとコモン・ピープルの対立と融和、男性と女性の対立と融和、白人種とその他人種の対立と融和、そしてネイティブ・アメリカンとアメリカンの対立と融和。しかし、これらの歴史がすべて今も現在進行形であるということに我々は慄然とさせられる。そうした差別と被差別の関係が今も残っていることにではなく、我々が普段、いかにそうした抑圧された側を慮ることが無いのかを突きつけられるからだ。雪が染め上げる大地は、白人に無理やり染め上げられるネイティブ・アメリカンの悲哀のシンボルであろう。

閉鎖社会の中でさらに抑圧された存在として描かれるネイティブ・アメリカンの女性は、我々に忘却することの残酷さを否応なく突き付けてくる。ジェレミー・レナーが被害者の娘の父親に語る彼自身の逸話は胸に突き刺さる。我々が初めてこの父親を目にする時、どこか無機質で非人間的とも思える印象を受けてしまうのだが、そうしたイメージをいかに容易く我々が形成してしまうのは何故なのか、そしてそうしたイメージを一瞬で粉々に打ち砕くようなシークエンスがすぐさま挿入されるところに、テイラー・シェリダンの問題意識が強く打ちだされている。人間とは何であるのか、人間らしさとは何であるのか。傑作SF『第9地区』でも全く同じテーマが問われているのだが、我々は人間であることを簡単に忘れ、獣に堕してしまう。そんな獣を撃ち抜くランバートとともに、本作を堪能してほしい。今年、絶対に観るべき一本である。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, エリザベス・オルセン, ジェレミー・レナー, ジョン・バーンサル, ヒューマンドラマ, 監督:テイラー・シェリダン, 西部劇, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ウインド・リバー』 -忘却と抑圧の歴史を現在進行形で提示する傑作- 

『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 65点

2018年6月28日 梅田ブルク7にて観賞
出演:榮倉奈々 安田顕 大谷亮平 野々すみ花
監督:李闘士男

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180701023943j:plain

『 電車男 』と同じく、ネットの投稿が起源という珍しい作品である。しかし、数年後にはそれほど珍しくなくなっているのではないか、ということも予感させる。

最近の俳優や女優は誰もが若々しさをキープしているが、榮倉奈々もその一人である。しかし、それは若々しさであって若さではない。そのことは、ほんのちょっとした料理の時の仕草などにも表れていた。本人の結婚がキャリアに良い作用を及ぼしている好例である。そして、安田顕である。『HK 変態仮面』で、ある意味で鈴木亮平以上のインパクトを残した安田である。疲れを見せてはいるものの草臥れきってはいない中年サラリーマン役をこれ以上ないほど好演してくれた。サラリーマンなどという存在は、酒でも飲まなければ生き生きできないのだ。

家に帰って来ると、妻(加賀美ちえ)が死んだふりをしている。それがどんどんエスカレートする。仕舞いには死体ですらなく、宇宙人、猫、スフィンクスなど、なんでもござれである。夫(加賀美じゅん)はその真意を測りかね、会社の後輩の佐野壮馬(大谷亮平)に相談する。そうした日々が続いて行くなか、夫婦同士の付き合いが始まり、結婚という制度の本質、男女の理解について、理解と誤解が生じては消えて・・・

劇中でJovianに最も刺さったのは、課長の「お前はお見合い結婚じゃなくて恋愛結婚だろ?だったら、合わないなら別れりゃいいだろ」という言葉である。日本社会全体の未婚化・晩婚化の原因の一つに、お見合いの減退が挙げられるのは間違いない。お見合いとは、小説家にして在野の異端の歴史家、八切止夫に言わせれば「家格と家格の取り組み」であった。昭和の中期ごろまでは、地方に行けば、結婚の許可は両親・親族だけではなく、学校の恩師や勤め先の上司にまで相談や報告が必要だったというから、その濃密すぎる血縁関係、地縁関係、ゲマインシャフトとしての学校や会社の側面が知れよう。対照的に、確か日本文学史においても「恋愛?それは美男美女がやるもの」みたいな観念が支配的だったはずである。そもそも恋愛という語も、英語のloveを翻訳する必要に駆られて生み出されたものだった。このloveの概念をどう捉えるのか。同じシーンで課長が決定的に意味不明な台詞を吐くのだが、課長の謎の論理展開とloveの関連を、観ている最中によくよく咀嚼してみてほしい。

「優しい言葉は人を傷つける」、これが本作の打ち出しているテーマの一つである。何も珍しいことはない。人間関係においては、自分の意図しないところで誰かが傷つき、誰かの意図しないところで自分が傷つくこともある。だから言葉が信用ならない、というわけではない。劇中でも安田顕と大谷亮平がそろって「口に出してくれなきゃ分からないよ」と言うが、これなどは典型的な日本の夫であろう。誤解しないでほしい。Jovianが言っているのは、日本の夫は共感力に欠けるということではない。言葉という論理で動くものではあるが、決してそれに縛られる存在ではないのだ。劇中のクライマックスで、かなりの数の男性視聴者が課長とちえの父の言葉を思い浮かべるであろう。

ちえが死んだふりを繰り返すのは何故か。そもそも何故、死んだふりなのか。この映画を観ながら、あちらこちらに死のモチーフが挿入されていることに驚かされる。しかし、それは不吉な事柄としての死ではなく、必然的な事象としての死である。Jovianは唐突に大昔プレーした『クロノ・トリガー』というゲームを思い出した。とあるキャラクターが「お前達 生きていない 死んでいないだけ」と言うのだ。次の瞬間には『ファイナルファンタジー9』でビビが「生きてるってこと証明できなければ死んでしまっているのと同じなのかなぁ…」と呟くシーンが、十数年ぶりに脳内再生されたような気がした。生きるとは何か。夫婦であるとは何か。愛とは何か。自分ひとりで観賞してじっくり考察するもよし、パートナーと共に観て、ディスカッションをするのも良いだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 榮倉奈々, 監督:李闘士男, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

沈黙 サイレンス 80点

2018年4月18日 レンタルBlu-rayにて観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー リーアム・ニーソン 浅野忠信 窪塚洋介 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈
監督:マーティン・スコセッシ

原作は高校生の時に読んだが、その頃はあまりピンと来なかった。その後、いつか再読しようとは思っていながら、その機会は訪れないまま、映画化され、それでも都合が合わず、劇場観賞はできなかった。そしてようやくTSUTAYAで借りてきた。心が切り刻まれるような物語であった。たとえば『 ハクソー・リッジ 』に対して、「日本兵の描き方がおかしい」という声を挙げる人がいるが、今作にはそうは言えまい。なぜなら原作者は遠藤周作なのだから。日本の気候や風土の描き方がおかしいという批判は当たるだろう。なぜならロケ地は台湾だから。本作に対して批判すべき点があるとするなら、なぜ皆が皆、ポルトガル語ではなく英語をしゃべるのか、という点ぐらいであろう。

この映画が観る者の心を切り刻むのは、その三重の対立構造にある。迫害を受ける信徒と神父、そして迫害する幕府。そして信仰を棄てる者と信仰を棄てない者。そのような彼ら彼女らを見ながら、迫害を止めてほしい、信仰を棄ててほしいと思う自分と、信仰を棄てるな、祈らずとても神や守らんと思ってしまう自分。いずれの立場も分かる。高校生の頃にはあまり理解できなかったフェレイラ神父や井上筑後守、キチジローの選択や決断が、物理的な重みを持っているかのように、心に圧し掛かってくる。宗教的な信仰心と、政治的な信念の間にある違いとは一体何であるのか。それはおそらく、前者には≪沈黙≫の問題がいつでも、どこでも、誰にでも起こりうることではないだろうか。というのも、(為政者にとって)政治的な信念が試されるのは、それが自分のためではなく、他人のためになるかどうかを問われる時である一方で、宗教的信仰は自分が危難に陥った時、さらに他者が危機にある時にも問われるからだ。政治的な決断、自分の内なる声は、他人に聞いてもらうこともできる。しかし、信仰の対象=神が、信徒の苦難の時に沈黙を保つ理由が何であるのかは、誰に問えばよいのか。実際に、宣教師のガルペ(アダム・ドライバー)は信徒の危機を見過ごすに忍びず、結果的に命を落としてしまう。同じく宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、その悲劇を目の当たりにするのだが、これとても彼にとっての受難の端緒に過ぎなかった。

今でも小学校の社会科では、踏み絵を教えているのだろうか。小学生の頃の自分は、「形だけのことなら、踏めばええやん」と思っていた。形だけのことで・・・と思うが、我々の社会は一事が万事、形へのこだわりで構成されているではないか。ネクタイはいずれ廃れるかもしれないが、尊敬語と謙譲語の使い分け、お辞儀の角度からハンコの押印の角度に至るまで、形式の尊重は社会の隅々まで行きわたっているように感じる。しかし、信仰はおそらくそうではない。祈り=自己内対話と説明する書籍も読んだことがあるが、対話の相手が沈黙を保っているというところに、信徒の懊悩を感じ取らざるを得ない。なぜなら、我々が後生大事に守っている形式というのは、社会的な要請=他者の存在が当たり前のように前提になっているが、信仰=祈り=自己内対話においては、神の存在を確信しつつも、その不在を強く疑わなくてはならないからだ。

信仰を持つからこそ、棄ててしまう。神に語りかけるからこそ、沈黙が返ってくる。そもそも日本に渡ってきた目的は、フェレイラ師(リーアム・ニーソン)を探し、本当に棄教してしまったのかを確かめるためだったが、そのフェレイラ師もまた、心を切り刻まれてしまっていた。何が、もしくは誰が彼の心を切り刻んだのか、引き裂いたのか。決断の時に、声は聞こえてきたのか、聞こえなかったのか。それは、同じ責め苦を受けるロドリゴと痛苦を分け合うことで実感してほしい。信仰心というものが人を生かし、人を殺す。信仰心が人を救い、人を苦しませる。切り裂かれた心の奥底から湧き起る声は、誰のものなのか。それは、本作を通じて確かめてほしい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

Posted on 2018年6月24日2019年4月18日 by cool-jupiter

焼肉ドラゴン 75点

2018年6月23日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:キム・サンホ イ・ジョンウン 真木よう子 井上真央 桜庭ななみ 大泉洋
監督・原作・脚本:鄭義信

『 血と骨 』の脚本家が、監督・原作・脚本の全てを手掛けた本作は、限りなくダークでエログロな要素を持っていた『 血と骨 』とは異なり、どこかコミカルで、それでいて本気で頭に血が上るシーンあり、思わず涙があふれるシーンありの、期待以上の作品に仕上がっていた。

時は大阪万博(1970)直前、舞台は兵庫県伊丹市。おんぼろのあばら家が立ち並ぶ、行動経済成長が取り残されたその場所に彼らはいた。店主は韓国人の金田龍吉。龍の字をとって、いつの間にやら店の名は人呼んで焼肉ドラゴン。そのこじんまりとした焼肉屋を舞台に、小さな家族が慎ましやかに、けれど幸せに暮らしていく話・・・だと思って、劇場に行った人は混乱させられるであろう。これは時代に翻弄されながらも、時代に抗い、時代に折り合いをつけ、時代に飲み込まれながらも、確かに歴史に足跡を刻んだ家族の物語である。

父(キム・サンホ)、母(イ・ジョンウン)、長女の静花(真木よう子)、二女の梨花(井上真央)、三女の美花(桜庭ななみ)、末っ子の時生(大江晋平)、梨花の婚約者の哲男(大泉洋)らは、家族でありながらも実は血がつながっていたり、いなかったりのやや複雑な家族。このあたりはどこか『 万引き家族 』を彷彿とさせる。最初から違和感を覚えるシーンがいくつかある。哲男があまりにも慣れ慣れしく静花に接するシーンや、時生がまったく言葉を発しないところなど。しかし、そんな小さな違和感は脇に置き、物語はアホそのもの痴話喧嘩を交えながら陽気に進んでいく。龍吉が時生のいるトタン屋根の屋上で一緒に眺める夕陽は、沈んでいくもの、光を失うものの象徴でありながらも、必ずまた昇るもの、必ずまた光を与えてくれるものの象徴でもある。ここから物語は、家族のダークな一面を少しずつ掘り下げていくのだが、決して『血と骨』のようなバイオレントなものではない。むしろ、人間らしいというか、人間の最も根源的な本能から生まれてくる衝動のようなものにフォーカスをしていく。ある者にとってはそれは自己承認欲求かもしれない。ある者にとってはそれは認知的不協和かもしれない。ある者にとってはデストルドーであるかもしれない。

物語は適齢期3人娘たちが男とくっついてく過程を追いながら、つまり新たな家族を生み出していくための巣立ちを描きながらも、飛び立つことができなかった、いや、飛べないままに、飛行機の如く飛べると勘違いしてしまった若鳥も描く。時生が学校で受けるイジメは陰惨であり、過酷であり、残虐ですらある。こうした排除の論理と力学的構造は現代においても決して弱まってはいないと思う(ネトウヨ春のBAN祭りは、おそらく一過性のイベントとして記録および記憶されるのではなかろうか)。

それでも3人娘たちはそれぞれに自分にふさわしい男を見つける。それは決して美しい恋愛の末に勝ち取った相手ではなく、本当に本能的な、動物的なカップリングであるとしか名状できないようなものもある。そして、どんな映画であっても、このシーンではなぜか自分まで必ず緊張してしまう、父親との対面シーンが美香とその男にやってくる。ここで龍吉が語る言葉は訥々としていながらも万感胸に迫る圧倒的な説得力を有して観る者に訴えかけてくる。2018年の演技のハイライトを挙げるなら、安藤サクラとキム・サンホの二人は絶対に外せない、外してはならない。真木よう子、大泉洋、桜庭ななみ、イ・ジョンウンらの演技も堂に入ったもので、韓国ドラマ的スラップスティックコメディとなってもおかしくないシーンを、各役者が表情や声でしっかりと抑えつけていた。何という日韓のケミストリーか。個人的には今作の演技力ナンバーワンは期待も込めて大江晋平に送りたい。飛行機を睨め付ける表情とアアアーーーッッ!!という奇声からは、『 ディストラクション・ベイビーズ 』の柳楽優弥に匹敵する不気味な迫力を感じた。

それにしても印象的なワンショットの多い映画であった。特に飲み比べのシーンと龍吉の昔話のシーンは、真木とキムの表情やちょっとした仕草に注意を払って見てほしい。特に訳の分からないワンカットのロングショットを多用して『 ママレード・ボーイ 』という駄作を作ってしまった廣木隆一監督は本作から大いに学ばねばならない。

朝鮮戦争終結という歴史的なイベントを目の当たりにするかもしれない現代、そして日韓の間の歴史認識にこれ以上ないほど乖離が存在する現代にこそ、答えではなく真実(≠史実)を探すきっかけとして、多くの人に観てほしいと思える傑作である。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, キム・サンホ, ヒューマンドラマ, 大泉洋, 日本, 監督:鄭義信, 真木よう子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

ゲティ家の身代金

Posted on 2018年5月27日2020年2月13日 by cool-jupiter

『ゲティ家の身代金』 80点
2018年5月27日 MOVIX尼崎にて観賞
主演:ミシェル・ウィリアムズ クリストファー・プラマー マーク・ウォールバーグ
監督:リドリー・スコット

ケビン・スペイシーのセクハラ騒動からクリストファー・プラマーを起用してのわずか数日間での再撮影と、果たして映画としての完成度はどうなのだ? ぱっと見て継ぎ接ぎパッチワークになっているのではないかとの懸念もあったが、それは杞憂であったようだ。というよりも、クリストファー・プラマーの起用がプラスに作用したとすら言える。もちろんケビン・スペイシーが名優であることには疑問の余地は無いが、プラマーの卓越した存在感と演技力なくして、この映画の真の完成はなかったとすら思えてくれる。

ある程度のフィクション化が加えられているとはいえ、これは実話に基づく物語である。取材は綿密に行っているであろうし、当時の世相の反映や、大道具から小道具に至るまでの再現性の高さも見どころであったが、それらは全てクリアされていた。当り前ではあるが、携帯電話の無かった時代の電話のやりとり、その不便さと緊迫感、またゲティ家邸内の公衆電話に至るまで、電話というものの便利さと恐ろしさは、一定以上の年代の人々にノスタルジーを覚えさせることだろう。

主役のミシェル・ウィリアムズは『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』や『 グレイテスト・ショーマン 』でも揺るぎない演技を見せ、今最も旬な女優であることを印象付けたが、今作ではその地位をさらに確固たるものにしたようだ。母は強しを体現するシーンあり、シェイクスピアばりの「弱き物、汝の名は女なり」を体現するシーンありと役者としての幅広さと奥深さを見せる。

トレイラーからも明らかだったように、ジャン・ポール・ゲティは身代金を払うつもりは一切無かった。その身代金もあの手この手で値切りながら、さらには身代金の受け渡しを使って、節税対策にまで乗り出す始末。金持ちの金持ちたる所以とも言えるが、その一方で美術品の蒐集には並々ならぬ執念を見せ、誘拐騒動の最中にも、その入手経路から表には出せない絵画を150万ドルで購入するなど、金の使い方が異様であることをこれでもかとばかりに観客に見せつける。彼が美術品・芸術品に対しての哲学を語る場面は出色である。ラテン語で“Ars longa, vita brevis”、英語では“Art is long, life is short.”と言うが、芸術作品に現れる永遠性、美の普遍性に異様に執着する様は、観客に容易に彼の過去の人間関係のあれやこれやを容易に想起させる。尋常ではない額の金を稼ぐことで失ってきた人間性がどれほどあるのか、そのことに思いを致す時、我々は慄然とする。また、誘拐事件を通じて孫の親権などにまでくちばしを突っ込んでくるその無神経さに我々は辟易させられるのだが、そのような石油帝国の支配者が崩れ落ちるのは、忠実な僕とも言うべきマーク・ウォルバーグから。人間関係のパズルピースが実は正しくはまっていなかった時、盤石の態勢と思われた帝国が崩壊する時、老人は真の孤独を知る。その時にこそ我々は知る。老ゲティスが求めたのは、真に愛せる対象なのであったのだと。そしてそのことを見事なまでに証明してくれたのが、実は誘拐犯の一人であった。

チンクアンタという男は悪党でありながらも、誘拐したポールに感情移入し、典型的なリマ症候群を発症させる。彼にとってある時点から身代金はどうでもよくなり、ただポールの身の安全を願い、さらにはそれを交渉相手に伝えてしまう、また実際に手助けしてしまうなどの行動にまで出てしまう。これは何も珍しいことではなく、ある程度以上の年齢の人間ならペルーの日本大使館占拠事件を思い起こして、容易に理解できることだろう。

この作品が炙り出すのは、誘拐事件の卑劣さや恐ろしさではなく、まして金の魔力でもない。金そのものはただの道具もしくは手段である。端的に言えば、金は幸せになるために必要なものであって、金そのものに幸せを見出すことはできないのだ。金だけで幸せになることはできないが、金無くして幸せになることも困難だ。ある絵画を抱きしめながら事切れるゲティ老を目の当たりにする時、観る者の胸には悲しみが去来する。なぜなら、幸せになれるのに幸せになれなかった人間の哀れさに心から同情するからだ。幸福の意味を問い直してくる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クリストファー・プラマー, サスペンス, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:リドリー・スコット, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on ゲティ家の身代金

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