Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: フランス

『 ザ・ミスト 』 -フランス産パニック・ムービーの珍作-

Posted on 2019年5月19日2020年2月8日 by cool-jupiter

ザ・ミスト 40点
2019年5月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ロマン・デュリス オルガ・キュリレンコ
監督:ダニエル・ロビィ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190519103838j:plain
TSUTAYAは時々、TSUTAYAだけでしかレンタルできません!的な作品を出してくる。本作もその一つ。大体において、この手の商品はただの製品であって作品ではないことが多い。が、Sometimes, I am in the mood for garbage. 駄作と分かっていて観るのも、亦悦しからずや。

 

あらすじ

マチュー(ロマン・デュリス)とアナ(オルガ・キュリレンコ)には、免疫疾患のため、金魚鉢的なコンテナに隔離された娘がいた。ある時、パリが地震に見舞われ、地下から謎の霧が噴出。それを吸った人々は倒れていく。娘は無事だが、機械のバッテリーがもたない。愛娘を助けるべく、マチューとアナは霧と対峙するが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ゲティ家の身代金 』のチンクアンタを熱演したロマン・デュリスが本作でも額に汗して、子どもを守ろうとする。火事場の馬鹿力ならぬ霧場の馬鹿力で、一般人では少々無理目なアクションを易々とこなしていく・・・というような安易な展開を見せないところが良かった。リミッターが外れれば、ひょっとしたらこれぐらいなら出来るかもしれないと思わせてくれた。

 

また、金魚鉢に閉じ込められた娘が同病相哀れむように同じ疾患を抱える他の者と通信していることに意味があることも評価できる。単なるパニック・ムービー、もしくはディザスター・ムービーの場合、多くの場合は自然 vs 文明、地球 vs 人間 といったような単純、単調なテーマがモチーフになっている。謎の霧の正体は何か?いつ、どこで、どのように発生したのか?そんなことは追及しない。このあたりがハリウッド映画とフランス映画の違いなのだろう。小説にしろ、映画にしろ、人間関係を広げ過ぎず、なおかつそこにエスプリを織り交ぜてくるのがフランス流で、フランス料理のフルコースとフランス産の映画、小説は全く趣が異なる。アメリカ映画で胃もたれをおこした時には、フランス映画で中和するのも一つの手かもしれない。

 

ネガティブ・サイド

パニック・ムービー、スリラー映画とはいえ、キャラクター達の行動原理がよく分からない。いや、子どものために必死になっているということは分かる。しかし、合理的とはとても言えない行動の数々を選択するのは何故なのか。単にサスペンスフルなシーンを演出したいがためにしか見えなかった。娘のための防護服が破損していても代用品はある。例えば、『 MEG ザ・モンスター 』でも一瞬映っていたアクアボールなどは、いくらパリが海から遠いとはいえ、冷静に考えればどこかしらで調達はできるアイテムだ。変に街をかけずり回るよりも、知識と知恵をフルに活用するような展開をもっと織り交ぜられたはずだ。

 

母親の行動も、美しいと見る向きもあれば、???となる向きも多かろう。Jovianは後者である。必要なのは電池であって伝者ではない。これも無用なドラマを無理やり仕立てるというプロットありきで、人間を描くことには失敗していたように思う。

 

字幕で父親が軍隊に、「自己免疫疾患の娘がいる」と言っていたが、これは誤訳ではないだろうか。自己免疫疾患は自分の免疫系が、細菌やウィルスではなく、自分の細胞を排除の対象として攻撃してしまう疾患だからだ。もちろん、隔離に意味が無いとは言わないが、それなら娘に必要なのは免疫抑制剤なのでは?と思えてしまった。フランス語に堪能な方がおられれば、是非お確かめ頂きたい。ただし、名作傑作と言える類の映画でないことだけはご承知いただきたい。

 

総評

それなりに捻りの効いたオチもあるが、それもオリジナルというわけではない。これなら、小松左京の小説およびその映像化作品の『 首都消失 』(YouTubeで視聴可能)を鑑賞し、返す刀でハヤカワSF文庫の『 アトムの子ら 』を読んだ方が面白いだろう。あれ、微妙にネタばれしてしまったかな?どちらも相当に古い作品なので、お目こぼしいただきたい。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, オルガ・キュリレンコ, カナダ, スリラー, フランス, ロマン・デュリス, 監督:ダニエル・ロビィ, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズLeave a Comment on 『 ザ・ミスト 』 -フランス産パニック・ムービーの珍作-

『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』 -古典的SFコミックの映画化成功作品-

Posted on 2019年5月9日 by cool-jupiter

ヴァレリアン 千の惑星の救世主 65点
2019年5月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:デイン・デハーン カーラ・デルビーニュ
監督:リュック・ベッソン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190509135107j:plain

MOVIXあまがさきで公開二週目の木曜日のモーニングショーで観た記憶がある。近所のTSUTAYAで何故か目に入ったので、良い機会なのでI will give it a watch again. SFの面白さが充分に詰まった逸品に仕上がっている。

 

あらすじ

28世紀。腕っこきのエージェントであるヴァレリアン(デイン・デハーン)とローレリーヌ(カーラ・デルビーニュ)は、千の種族が生きるアルファ宇宙ステーション(「千の惑星の都市」)の中心部に広がりつつある放射能汚染エリアの調査に乗り出す・しかし、それは巨大な陰謀の一部で・・・

 

ポジティブ・サイド

デヴィッド・ボウイの“Space Oddity”と共に流れる一連の映像だけで、人類と異星生命とのFirst Contact・・・のみならず、Second、Third、Fourth・・・とテンポよく伝えてくれる。何度でも言うが、ビジュアル・ストーリーテリングは映画の基本なのである。

 

ヴァレリアンとローレリーヌの関係性の描写も簡潔に、しかし丁寧に行われる。長い廊下を歩きながらの口論にも近い対話で、観る側は二人の微妙な距離と互いへの熱量の違いを明確に知ることができる。原作コミックのテンポがきっと元々小気味良いのであろう

 

『 アバター 』にも影響を及ぼしたであろう惑星ミュールのパール人も魅力的に描かれているし、何よりその生きざまが良い。小川一水の小説『 老ヴォールの惑星 』の生命体のような、とある特性を持っていて、小川も案外原作コミックから着想を得たのかもしれないと思わされた。

 

個人的にはネザを演じたクリス・ウーが気に入った。というかこの男、有能すぎる。組織の上位にある者には腹心、耳目、爪牙が必要であるとされるが、ネザは全てを兼ね備えた有能な軍人ではあるまいか。異星生命と当たり前のように交歓交流する宇宙では、人種の違いなど何のその。彼のような男と共に戦ってみたいものだ。He is definitely the kind of guy I want to go to war with!

 

本作はある意味では陳腐なクリシェの塊とも言えるが、それだけ原作コミックが時代を先取りしていた、あるいは当時の少年少女をインスパイアしたと言えるだろう。本作のクライマックスで語られる「愛とは何か」というローレリーヌの言葉には、『 インターステラー 』のアメリア(アン・ハサウェイ)との共通点が非常に多かった。ということは、クリストファー・ノーランもある意味では本作の影響を受けたと言えるのかもしれない。デイン・デハーンのキャラクターは、それこそ100年間から存在していたのだろうけれども、ね。

 

ネガティブ・サイド

情報屋トリオが言う「情報は3分割している」というのがピンと来ない。誰かから情報を1/3ずつ買うと言うのか。もしくは超絶記憶術と忘却術をマスターしていて、それで情報を分割して記憶しているとでも言うのか。このトリオは非常に味のあるキャラクターたちだが、不可解さも残した。

 

ややネタばれになるが、黒幕もしくは悪役はBritish Englishを話すというクリシェはいつになったら廃れるのか。それとも容易に廃れないからこそクリシェなのか。本作も開始早々から「こいつが陰謀の中心かな?」という人物が2人ほど目に付くが、一人はパッと見で除外、もう一人はパッと聞いた感じで怪しい、と感じてしまう。このあたりが課題なのだろう。

 

総評

リュック・ベッソンが作りたいように作るとこうなる、という見本のような作品である。頭をからっぽにして楽しむこともできるし、作中に登場する数々のガジェットやクリーチャー、あるいはシーンの構図などを分析して、先行作品や後発作品をあれこれと思い浮かべるのも楽しいだろう。ただし、SFの全盛期は1960年代の小説だった、というハードコアなSF原理ファンとも言うべき向きに勧められる作品にはなっていない。

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, カーラ・デルビーニュ, デイン・デハーン, フランス, 監督:リュック・ベッソン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』 -古典的SFコミックの映画化成功作品-

『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』 -スタイリッシュ・ゾンビ映画の快作-

Posted on 2019年4月10日2020年2月2日 by cool-jupiter

ショーン・オブ・ザ・デッド 75点
2019年4月7日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ペッグ ニック・フロスト
監督:エドガー・ライト

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190410005206j:plain

ジョージ・A・ロメロの死の翌年に『 カメラを止めるな! 』という傑作が世に送り出された。しかし、それを遡ること十数年、イングランドでもスタイリッシュなゾンビ映画が生み出されていた。『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』は現地での製作と発表から四年後に日本で劇場公開されたが、本作のタイムラグはなんと15年である。DVD鑑賞済みとはいえ、これは劇場にまで行かねばならない。

あらすじ

ショーン(サイモン・ペッグ)はうだつのあがらない家電のセールスマン。同居人のエド(ニック・フロスト)は無職のろくでなし。いつも同じ酒場で飲むだけの日々に、ショーンの恋人のリズはついに愛想を尽かしてしまう。一念発起して変わろうと奮起するショーンだが、折しもロンドンの街は謎の原因でゾンビが溢れかえることに。ショーンは愛しのリズを救い出すことができるのか・・・

ポジティブ・サイド

冒頭でサイモン・ペッグが自宅から近所の店まで買い物に行くシーンは、まるで『 ベイビー・ドライバー 』のアンセル・エルゴートの Coffee Run の原型である。計算されたワンカット(実際は編集されているだろうが)で、街の異常さとそれに気づかないショーンの対比が、否が応にも観る側の緊張を煽る。また、本作はビジュアル・ストーリーテリングの面でも魅せる。個々の事物への瞬間的ズームアップの連続で、どのキャラクターが何をしたのかを観る者に瞬時に伝えきってしまうのである。この手法は見事である。唸らされてしまった。栴檀は双葉より芳し。

『 ベイビー・ドライバー 』で Hocus Pocus のリズムとテンポに合わせた銃撃シーンの原型となったであろう、Queenに”Don’t Stop Me Now”に合わせてゾンビをしこたまボコっていくシーンはとにかくシュールで笑える。『 ボヘミアン・ラプソディ 』の大ヒットも、本作の劇場公開を後押ししたのかもしれない。

本作を評価するにあたって何よりも優先せねばならないのは、サイモン・ペッグとニック・フロストのケミストリーである。はっきり言って、エドはクソ野郎以外の何者でもないのだが、だからこそショーンは彼の親友であり続けられる。“Never let your friends feel lonely. Disturb them all the time.”というやつである。兵庫県加古川市の【 結婚物語のブログ 】で喝破されているように、野郎同士は基本的にいつも同じ店で飯を食い、同じ店で酒を飲む生き物なのだ。もしくは「白木屋コピペ」を思い出してもらっても良い。ショーンとエドの関係の本質がそこにあり、だからこそショーンとリズの関係の脆さや危うさ、さらには得難さまでもが際立つ。マーティン・スコセッシの『 タクシードライバー 』のトラヴィスのように、女心が全くわかっていないショーンとその親友のエドに、何故か我々アホな男たちは自己同一化をしてしまう。このあたりのキャラの造形と描写は見事である。

一部にグロいシーンもあるが、本作は紛れもないゾンビ映画でありながらもユーモラスなコメディ映画でもある。その絶妙なさじ加減とテンポの良さに、エドガー・ライト監督のセンスの良さとインスピレーションの豊富さを垣間見ることができる。

ネガティブ・サイド

ショーンとエドとリズ以外のキャラクターが動き出すまでに少し時間がかかる。ゾンビという理不尽な存在は、人間性への究極の挑戦であろう。何しろ死なないのだから。愛する者との死別が、新たな恐怖と惨劇の始まりになることにどのように立ち向かうのか。そうした悲劇的展開の描写が弱い。というか、あれもこれもと盛り込み過ぎた感がある。特にショーンの家族を巡る悲劇と喜劇は、エンディングとは調和しなかった。少なくともJovianの目にはそう映った。だからこそショーンはどうしようもない愛すべきボンクラだと言えるのだが。

もう一つ、やや不満に感じたのが、「レコードを投げるのか?」ということ。このあたりのギャグは波長が合うかどうかだが、貴重なLPレコードを ninja star か何かのように放り投げていくシークエンスは、ドン引きした。

総評

映画(に限らず小説なども)は波長が合うかどうかが大きい。特にエドガー・ライト監督の作品全般に言えることだが、波長が合う部分を大いに楽しみ、合わない部分については片目をつぶるぐらいの気持ちが必要かもしれない。Jovianは『 ベイビー・ドライバー 』には90~95点ぐらいをつけたい。それぐらい好きな作品である。おそらく本作も、一部の人にはカルト的な人気を博し、そうではない人には変な作品、または普通に笑える作品として親しまれるだろう。つまり、ゾンビが苦手という人以外なら、万人に勧められる作品である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, イギリス, コメディ, サイモン・ペッグ, フランス, 監督:エドガー・ライト, 配給会社:カルチャヴィルLeave a Comment on 『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』 -スタイリッシュ・ゾンビ映画の快作-

『 パーソナル・ショッパー 』 -霊に取り憑き、取り憑かれた霊媒師-

Posted on 2018年12月25日2019年12月6日 by cool-jupiter

パーソナル・ショッパー 60点
2018年12月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クリステン・スチュワート
監督:オリビエ・アサイヤス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181225235530j:plain

Personal Shopper

近年の映画界は“幽霊”というものを少しシリアスに捉え始めたのだろうか。『 ルームロンダリング 』や『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』などの佳作が見られたが、その静かなブームの火付け役は本作だったのかもしれない。

 

あらすじ

モウリーン(クリステン・スチュワート)は、急死した兄と生前に約束をしていた。どちらか死んだ者が、生きている側にサインを送ると。彼らは霊媒師なのだ。兄からのサインを待ちながら、パーソナル・ショッパーとして有名モデルのファッション関連の買い物を代行する仕事に明け暮れるモウリーンの携帯に、ある時、不可思議なメッセージが届き始める・・・

 

ポジティブ・サイド

これは単なる幽霊の物語でもなければ、ホラー映画でもない。もちろん幽霊は登場するのだが、それはある種のガジェットとしてしか機能しない。兄の突然の死、フラストレーションの募る仕事、希薄な人間関係。こうした一連のストレスと謎のショートメッセージがモウリーンが自らに課した禁忌の扉を少しずつ開放していく。それは華やかな衣装に身を包むことであったり、性欲に身を任せたりであったりと様々だ。霊というのは不思議なもので、自分に関係のある者(例えばご先祖様など)の霊については我々はその実在を信じやすい。一方で、自分と関係の無い人間の霊の存在は、客観的にはともかく、主観的に信じようとする人はまず存在しない。つまり、モウリーンが劇中で見せる不可解ともいえる行動の数々は、彼女が彼女でない何者かになっていることを強く示唆する。そうでなければ、誰が兄の霊が見ているかもしれないと感じている中で自慰に耽るだろうか。『 ルームロンダリング 』は自分とは無関係な人間の霊を成仏させていきながらも、その行為の原点は肉親であった。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』は、妻への思慕の念から不思議な時間の円環を巡る幽霊の物語であった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、霊とは自分の半身( significant other )なのだ。普通は逆である。霊とは、この世に未練を残したまま死んだ者の残滓、と理解されている。しかし、本作はさらに一歩踏み込んで、自分を形作る非常に重要な部分でありながら、決して自分自身ではない者、それが霊という存在に仮託されているのではないかと提唱する。生きた人間には悩みは尽きないが、霊にもジレンマやコミュニケーション不全というものがあるのだ。

 

ネガティブ・サイド

非常に難解な構成である。もちろん、物語のこの部分はあれの比喩だな、とか、このXとあのYは見事な相似形になっているな、ということであれば割と分かり易い。しかし、これほどヒントの少ない映画というのも珍しいのではないか。なにしろ、ラストシーンまで到達しても、「ああ、あのシーンが伏線だったのか」と思えることが皆無なのだから。もちろん、受け取り手側の無知および無力もあろうが、カンヌ映画祭で絶賛とブーイングの両方を浴びたというのもむべなるかなである。

 

自分ではない誰かになろうとする。それは普遍的なテーマであるが、霊の力を借りて、あるいは例の存在にかこつけて描くべきテーマだったのだろうかとの疑問は残る。これほど訳が分からず色々と考えさせられたのは久しぶりでもある。『 2001年宇宙の旅 』とまで言わないが、『 ノクターナル・アニマルズ 』に並ぶ、混乱系の映画である。それも心地よい混乱ではない。眩暈、吐き気がするような混乱で、この感覚を心地よいと思う向きと不快に思う向きの両方が存在するはずだ。Jovianは残念ながら前者である。

 

総評

映画は基本的には、映像、監督、演技の三要素で採点すべきだ。本作はその三要素ではすべて平均以上のものを持っているが、必ずしも万人向けではない。カンヌですら意見が絶賛と酷評に分かれたと言うのだから、カジュアルな映画ファンの胃袋には少々重いかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, クリステン・スチュワート, サスペンス, フランス, ホラー, ミステリ, 監督:オリビエ・アサイヤス, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東北新社Leave a Comment on 『 パーソナル・ショッパー 』 -霊に取り憑き、取り憑かれた霊媒師-

『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

Posted on 2018年12月4日2019年11月23日 by cool-jupiter

リピーテッド 50点
2018年11月28日 レンタルDVD鑑賞
出演:ニコール・キッドマン コリン・ファース マーク・ストロング
監督:ローワン・ジョフィ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181204033832j:plain

少ない登場人物でサスペンスを生み出すのがフランス流だが、本作はイギリス・フランス・スウェーデンの合作とのこと。納得の仕上がりである。カトリーヌ・アルレーが現代によみがえったら、きっとこんな小説を書くのだろう。

あらすじ

クリスティーン(ニコール・キッドマン)が目を覚ますと、ベッドには見知らぬ男が。彼(コリン・ファース)はベンと名乗り、自分は夫であると言う。クリスティーンは事故により、一日しか記憶を保持できないのだ。一方、ナッシュ医師(マーク・ストロング)からの電話でビデオカメラの録画を観るように促された彼女は、過去の自分からの語りかけに次第に混乱させられていく。信じるべきはベンなのか、それともナッシュなのか・・・

 

ポジティブ・サイド

まずキャスティングだけで本作は一定の成功を収めている。早い話が、ベンとナッシュ、どちらが怪しいのだ、というのがクリスティーンの疑惑であり、観る者の関心である。英国の誇るコリン・ファースが果たして悪役なのか、それとも強面でありながら、結構良い人ばかりを演じるマーク・ストロングが悪役なのか。物語が始まって、すぐに我々は引き込まれる。

 

物語は二転三転し、ある日はナッシュを疑ったかと思えば、次の日にはベンを疑う。クリスティーンが一日の終わりに撮り溜めていくビデオはどんどんと積み重なっていく。それがある閾値に達しつつある時、クリスティーンの記憶の鍵も外れ始める。この演出は陳腐ながら見事である。記憶喪失ものは往々にして、完璧なタイミングで完璧な記憶を取り戻すからだ。ご都合主義の極みである。本作は安易なご都合主義は取らないし、人間の記憶の確かさと曖昧さの両方を、非常に説得力ある方法で描き出す。その点で凡百の記憶喪失ものとは一線を画している。

 

ネガティブ・サイド

いくつか不可解というか、設定が生かされない点もあった。クリスティーンは毎朝20代に戻るわけだが、そのことを強く示唆するようなシーンが必要だった。それが無いために、終盤で真実の一端が明かされるシーンの迫力が減じてしまっていた。また、二人の男性以外に出てくる重要人物のもたらす情報が、クリスティーンの記憶を刺激しないというのは、やや腑に落ちなかった。

 

記憶喪失とタイムトラベルもしくはタイム・パラドクスは、序盤の面白さを生み出すことにおいては数あるジャンルの中でもトップクラスであろう。それは間違いない。問題は着地なのだ。サスペンスフルな展開でせっかくここまで引っ張ったのだから、最後までそのトーンを維持して欲しかった。ファイトシーンなどは無用であった。

 

総評

名作かと言われれば否だが、駄作と言うほどでもない。雨の日のレンタルにちょうど良いだろうか。ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロングのファンなら、押さえておいて損は無いだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, イギリス, コリン・ファース, サスペンス, スウェーデン, スリラー, ニコール・キッドマン, フランス, マーク・ストロング, ミステリ, 監督:ローワン・ジョフィ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

Posted on 2018年11月18日2019年11月22日 by cool-jupiter

プラネタリウム 30点
2018年11月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン リリー=ローズ・デップ エマニュエル・サランジェ
監督:レベッカ・ズロトブスキ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181118020552j:plain

降霊術の歴史は長い。科学の発達と共に霊の領域はどんどんと狭められていっているが、日本でも30歳以上の年齢なら、こっくりさんについて聞いたことがあるはずだし、実際にやってみた人もいるだろう。霊とは、それが無くなった肉親の霊であろうと、見も知らぬ他人の霊であろうと、常に好奇の対象である。しかし、霊とは同時に現世から疎外された者でもある。そして、疎外は生者と死者を分けるだけではなく、生者と生者の間でも起きる事象である。

 

あらすじ

ローラ(ナタリー・ポートマン)とケイト(リリー=ローズ・デップ)のアメリカ人姉妹は、パリで死者を呼び寄せる降霊術を行い、日銭を得ていた。ある時、映画会社役員のコルベン(エマニュエル・サランジェ)は二人の降霊術に感銘を受け、自分でもそれを体験したいと言いだした。二人の呼ぶ霊との交流に感激したコルベンは、姉妹の力を使って映画を撮影しようと考える。時あたかも第二次大戦前夜。異邦人にとっては忍従の時代だった・・・

 

ポジティブ・サイド

ナタリー・ポートマンの美貌とリリー=ローズ・デップの爛熳さについてはくどくどとのべつ必要性は無い。Their blossoming beauty and innocence speak for themselves. である。それ以上にエマニュエル・サランジェの存在感が際立つ。目は口ほどにものを言うというのは往々にして事実(Maybe your smile can lie, but your eyes would give you away in a second.)であるが、それを演技で表現できる役者は存外に少ないのではないか。サランジェはそれができる俳優だ。パリジャン然とした伊達男ばかりがフランスの俳優ではないということを見せつける様は、清々しくもある。本作を観る人の半分以上はナタリー・ポートマンの熱心なファンであろうが、こうした未知のタレントとの出会いがあれば、それだけで20点増しである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにもストーリーに起伏がない。いや、姉妹の協力と成功、そこからの失敗と破局的な結末と上がり下がりはするのだが、それがあまりにも典型的というか、妹を霊媒師に設定する意味は特になかった。というか、科学の力で霊の存在を証明するというプロットは、現代人たる我々の目から見て、意義あるものではない。なぜなら科学の発展は世界の神秘の数々を解き明かしていくほどに、科学で説明できないものはストレートにそのまま信じるべし、という信念の持ち主も増加しつつあるからだ。そこまで極端な考えをしないまでも、天文学者や物理学者には無神論はほとんどいないと言われている。1930年代を舞台にすることで、科学的に霊を証明しようとする試みが逆に陳腐化してしまった感は否めない。

 

また、ビジネスの世界を描く必要もあったのだろうか。リュミエール兄弟が産み育てたフランスを舞台にするのだから、あくまで映画という文化・芸術・科学という媒体で姉妹の力と秘密に迫っていくようなプロットで良かった。ただでさえ戦争勃発前の陰鬱な時代に金勘定やら役員の追放やらを見ても感動も興奮もしない。ただ溜息が出るだけである。

 

本作は establishing shot の段階で結末が見えているとも言える。タイトルがプラネタリウムなのだから、汽車が疾走する平原の頭上に広がる無窮の星空がプラネタリウムであることが何を暗示、いや明示するのかを観る者はあまりにもあっさりと悟ってしまう。映画の基本的な文法、技法に則ったものとは言えるが、それが面白さを増すことに資するのかというと甚だ疑問であった。

 

総評

なにやら軸の定まらない映画である。その場に属すことのできないアウトサイダーの悲哀を描き出したいのは分かるが、様々な要素を盛り込もうと欲張ったせいで、何もかもが中途半端になってしまった残念な作品である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, エマニュエル・サランジェ, スリラー, ナタリー・ポートマン, フランス, ベルギー, ミステリ, リリー=ローズ・デップ, 監督:レベッカ・ズロトブスキ, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181018164103j:plain

勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181011185603j:plain

これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

判決、ふたつの希望 90点
2018年9月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アデル・カラム カメル・エル・バシャ リタ・ハーエク クリスティーン・シュウェイリー カミール・サラーメ ディアマンド・アブ・アブード
監督:ジアド・ドゥエイリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180916114703j:plain

元・新聞記者の先輩がSocial Media上で絶賛されておられたことにインスパイアされ、鑑賞。魂を持っていかれるかと思うほどの衝撃を受けた。邦画、外国映画を合わせて、間違いなく年間ベストである。ベスト級ではなくベストと断言させていただく。

レバノン人にしてキリスト教徒、右派政党のレバノン軍団の支持者であるトニー・ハンナ(アデル・カラム)は妊娠中の妻シリーン(リタ・ハーエク)と、どこか幸せそうに、どこか不幸せそうに暮らしていた。ある日、トニーはパレスチナ人技術者のヤーセル(カメル・エル・バシャ)との間でちょっとした諍いがあり、「クズ野郎」と罵られる。謝罪を求めるトニーに、新規の仕事を受注していきたい上司の仲介もあり、ヤーセルはトニーの自動車修理工場を訪れるが、その場でトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」という暴言を受け、思わず激昂し、トニーの腹にパンチを一発お見舞い、肋骨を折ってしまった。これによりトニーはヤーセルを告訴。裁判は、しかし、いつの間にかトニーの思惑を超えた次元にまで到達してしまう・・・

まず、本作の真価を味わうためには、レバノンとその周囲の政治と軍事と歴史についてある程度の造詣が求められるが、新聞や報道で知る程度の知識でも十分に意味は理解できるはずだ。というよりも、むしろレバノンという国固有の事情を全く知らない方が様々な意味やメッセージを本作から受け取ることが容易になるかもしれない。Jovianが受け取った、本作が発しているメッセージは以下の4つである。

1つには、言葉は時に刃物よりも簡単に人を抉るということである。古代ギリシャのヒポクラテスは「医者には三つの武器がある。第一に言葉、第二に薬草、第三にメスである」と語ったとされる。言葉には人を癒す力が宿るのだ。だとすれば、言葉は人を傷つける力を持つことがあるというのは理の当然であるとも言える。『検察側の罪人』で沖野が松倉に対して非常に脅迫的で威圧的な言動をとるが、あれは一にかかって相手の≪犯罪者≫という属性を責め立てるものであった。では、犯罪者ではなく個人の職業を罵ったら?出身地を罵ったら?性別を罵ったら?年齢を罵ったら?名前を罵ったら?国籍を罵ったら?宗教を罵ったら?政治的な思想信条を罵ったら?これらが時として、フィジカルな暴力よりも人を傷つけることを我々は知っているはずである。「シャロンに抹殺されていればな!」という台詞にあるシャロンが誰のことなのか分からないという人は多いだろう。しかし、ロヒンギャ難民に対して「ミャンマー軍に殺されていればな!」などと言えば、相手がどれほど怒り、悲しみ、混乱し、悶え苦しむかは想像に難くないだろう。他者の全人的な存在を否定し、ごく一部の属性を切り取り、それを理由にその相手の死を望むような言葉が許される道理はない。漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』で真田信繁が「人には触れてはいけない痛みがある。そこに触れれば、後は命のやり取りをするしかなくなる」と喝破するシーンがあったが、トニーがヤーセルに投げつけた侮蔑の言葉は正にこれに当てはまる。

2つには、人間は必ずしも理性的に振る舞うわけではなく、感情や欲望のままに言葉を発し行動を起こしてしまう生き物であるということである。哲学者ニーチェの考察を援用させてもらえれば、人間の理性の奥底には欲望が潜んでおり、我々の思考もよくよく分析してみれば欲望に基づいたものであることが分かる。トニーもある時点までは周囲の声に耳を傾けない、ただの頑固親父でしかなかったが、ある時を境に自分の心に向き合い、自分が求めているのは、争いではなく平和的な関係であることを悟る。しかし、一度口から出してしまった言葉はもはや飲み込めない。言葉では自分の心を表せない。そこで行動で自分の気持ちを表す場面がある。人間は愚かな=非理性的な存在ではあるが、それを認め、乗り越えていくだけの強さも確かにある。勇気を持って自分の素直な心に従えば、過ちを改める機会も訪れるのだ。どこかの島国では政治家がひょいひょいとコメントを撤回するが、それをするのならば行動変容、態度変容も同時に見せて欲しいものである。

3つには、人間は非常に狭い範囲でしか物事を考えられない、ある意味で生得的な欠陥を抱えているということである。あいつはパレスチナ人だ、不法難民だ、不法就労者だ、ムスリムだ、だから暴言の対象にしても良いのだ、という論理がトニーの頭の中で一瞬で成立したことは明明白白だ。もちろん、そのような思考回路が成立するための長い期間や環境があったことも考慮に入れるべきではある。それでも、人間はいとも簡単に他者にレッテルを貼る。Jovian自身も「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉を東京の某企業で幾度も聞いた。人口当たりのクレーム発生件数は、明らかに東京>大阪、関東>関西であったにも関わらず・・・ 人間は、理性ではなく、自分の信じたいものを信じるように出来ている。我々は欲望に突き動かされる、無力で非力な存在にすぎないのか。人間が無意識のうちに育てがちな、そして意識的に拡散させる傾向をもつ、差別的な思考については、山本弘が自身の小説内で、おもにロボットやアンドロイドとの対比で描いてきた。『アイの物語』はその中でも白眉であろう。同様のことは栗本薫も評論やエッセイで、主にオタク趣味・やおい趣味擁護の論を展開する中で行ってきていた。人間はほんの少しの肌の色の違いや目の色、髪の色の違いに敏感で、それだけで容赦なく差別に走る、極端に狭い思考に囚われているのだ。もう一度、「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉に注目しよう。「やっぱり」に着目されたい。考えての台詞ではない。既に自分の中に固定観念が存在し、それにたまたま符合するような事態が出来しただけのことなのである。それがこの「やっぱり」の本質であろう。もちろん、この言葉を肯定的なコンテキストやニュアンスで使うことも十分に可能である。だが、貴方も私も「やっぱり○○○は・・・」という思いを抱く、あるいは言葉に出す時、そこに差別的な感情が根付いていないとは言い切れないだろう。人間の持って生まれた弱さなのだ。人間は、現実をありのままに受け入れるよりも、自分にとって受け入れやすい、自分の中に受け入れる土壌のある現実の一側面だけを消化吸収する傾向があるのだ。

4つには、ジアド・ドゥエイリ監督からの「これはレバノンの現実ではなく、あなたの身の回りで起きている事柄なのですよ」というメッセージである。レバノンの状況や周囲の情勢、その歴史に詳しいという人は日本では少数だろう。では、これをアメリカに例えるなら?『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』ような思わぬアシストが転がり込んできたとはいえ、トランプ政権爆誕のニュースに世界が震撼したのは記憶に新しい。それは、ヒラリーが女性層を完全に敵に回してしまっていたという重大なエラーのせいでもあるのだが、他に大きな要因を挙げるとすれば、オバマ政権時代の反動だ。バラック・オバマという黒人議員が大統領職に登りつめることで、アメリカでマイノリティ(実際はマジョリティに近いが)とされてきた黒人およびその他の人種は、社会正義の実現を期待した。ここでいう社会正義とは、恐ろしく端的に言い切ってしまえば、黒人の白人への優越である。しかし、オバマが目指したのは、全人種の平等と公正であった。これにより、民衆の願望とオバマの政治理念の間に齟齬が生じ、アメリカ分断の端緒となったわけである。トランプの出現によってアメリカは The Divided States of America と揶揄されるようになったわけではない。その前政権から、分断の萌芽はすでにあったのだ。公平性の実現によって、自らの権利や利得が侵害されると人は感じるのだ。本作の呈示するメッセージは現代日本にも見事に当てはまる。一部の日本人は、外国人労働者によって日本人の職と所得が奪われていると感じるらしい。東京都心や関西都市部でも、確かにコンビニの店員さんや飲食チェーン店の店員さんに東北および東南アジアの人たちが増えてきた。しかし、彼ら彼女らが日本人の仕事を奪っているわけではない。逆だ。Jovianの後輩に東京都心でカレー屋とラーメン屋のチェーンを営む男がいるが、正社員にもパートにもアルバイトにも、応募してくるのは外国人だらけだと言う。これは彼だけの感想ではなく、同世代。同地域の小規模ビジネス経営者の共通の悩みであるということだ。日本人がやりたがらない仕事を外国人が補完してくれていると見るべきなのだろう。本作のトニーも、ヤーセルに対する負の感情が抑えきれないのだが、彼を外国人、難民、不法就労者という面ではなく、仕事に対して忠実なプロフェッショナルであるという自身とオーバーラップする側面に気がつかされた時、ヤーセルの視界は一変する。我々は彼我の違いではなく、共通点に目を向けるべきなのだ。究極的には、人間は皆、同じ人間なのだという境地を目指すべきなのだ。皮肉なことに、それをまさに究極の能天気さで実現してしまった映画に『インデペンデンス・デイ』がある。宇宙人の襲来を受けたことで、”We can’t be consumed by our petty differences anymore.”という不都合な真実にウィットモア大統領は気付いたのだ。他者を自分と同じく、生きた血肉を持つ人間として見、そして接する。そうすることが如何に困難で、そして如何に実は容易であるのかを本作は非常にドラマチックに我々に見せてくれる。

本作の素晴らしさは、プロットだけではなく、カメラワークや演技、演出全般にも当てはまる。『赤かぶ検事奮戦記』のような関係性が盛り込まれていたりするが、そのことがドラマの主軸にはならない。むしろ、人間は世代、性別や思想信条によって親子であっても、同胞であっても、あっさりと対立してしまうことをあっけらかんと見せつける。主演の男性二人だけではなく、弁護士の対決もサスペンス感たっぷりで、手に汗握る論理と言葉の応酬の裏に、自らの信じる社会正義と紛争の調停への使命感がありありと感じられる。裁判長の威厳と迫力も、アメリカ映画のそれとは段違いである。日本の判事や判事補など、実態はともかくとして、少なくともエンターテインメントの世界では存在感は無に等しい。法廷サスペンス映画としても本作は第一級品である。何よりも役者たちの演技力に脱帽する。レバノンという国が、自らの国の抱える問題や矛盾点をさらけ出し、世界に堂々と配信するという姿勢に感銘を受ける。そして、小規模ながら日本でも配給されることに感謝したい。観て後悔は絶対にさせない、まさに現代人のための映画であると言える。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アデル・カラム, カメル・エル・バシャ, サスペンス, ヒューマンドラマ, フランス, レバノン, 監督:ジアド・ドゥエイリ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

『セブン・シスターズ』 -七姉妹がシェアするアイデンティティが壊れる時-

Posted on 2018年7月28日2020年2月13日 by cool-jupiter

セブン・シスターズ 60点

2018年7月26日 レンタルDVDにて観賞
出演:ノオミ・ラパス グレン・クローズ ウィレム・デフォー
監督:トミー・ウィルコラ

原題は”What happened to Monday?”、「月曜日に何が起こった?」である。時は2073年、人口の爆発的増加により、水や食料、エネルギー資源のシェアが困難となり、戦争や紛争が頻発。それにより国家は衰退したものの、科学技術は進歩。より生産性の高い農作物を創り出すことに成功した。しかし、それは両刃の剣で、それを食べた女性は多胎児を妊娠するようになってしまった。ヨーロッパ連邦は人口管理の重要性を唱え、「一人っ子政策」を厳密に実施していた。二人目以降の子どもはクライオ・スリープにより、資源問題が解決される未来に目覚めることになっていた。そんな中、テレンス・セットマン(ウィレム・デフォー)は疎遠になっていた娘の出産に立ち会っていた。娘は七姉妹を出産、そのまま死亡した。残されたテレンスは秘密裏に孫娘たちを育てる。一人が指の先端を切断する怪我を負ってしまった際には、心を鬼にして残りの六人全員の指先を包丁で切り落としたほどである。そして娘たちが30歳(ノオミ・ラパス)に成長した時、祖父はもはやいなくなっていたものの、それぞれがその世界では一人のカレン・セットマンとして銀行員として働いていた。そして月曜日がある日、帰ってこなかった・・・

古くは『ソイレント・グリーン』、やや古いものでは『マイノリティ・レポート』、近年では『ハンガー・ゲーム』や『インターステラー』に見られるようなディストピアは、ありふれてはいるものの、ユニークな世界観を構築することができていた。食糧不足、生体情報管理社会、独裁者による体制・権力の維持などと書いてしまえば陳腐そのものだが、七姉妹が各曜日ごとに一人の人間を演じきるという点に、本作の独自性がある。一卵性の多胎児なので同一の遺伝子を有しているにもかかわらず、この月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日はそれぞれに実に個性的である。ある者はコンピュータ・ギークであり、ある者は格闘技に精通している。ある者は便器に嘔吐し、ある者はシャワーを浴びながら官能的な台詞を口にする。それぞれが互いに反目することもあるものの、協力しながら日々を過ごしていた。しかし、月曜日が帰ってこなかった日を境に、彼女らは自分たちの身に何かが起きつつあることを知る。そして、月曜日に何が起こったのかを追究していく。

なぜ月曜日は消えたのか。なぜ姉妹の連帯は破られたのか。本作を観賞する前に、ここのところを考え抜けば、ひょっとすると本編を見ずして真相に迫れる人もいるかもしれない。というか、このレビューもこの時点で、すでに重大な情報をバラしてしまっているわけだが、果たして貴方もしくは貴女は気付いただろうか。なにはともあれ本作を観賞してほしい。Jovian自身もシネマート心斎橋で観賞をしたかったが、スケジュールが合わずに劇場で観賞できなかったことに悔いが残る作品だった。『プロメテウス』以上のセクシーシーンから、『アンロック/陰謀のコード』並みのアクションシーンまであり、決して観る者を飽きさせない。あまりの気温の高さに外で遊んでいられないという向きは、レンタルやネット配信でどうぞ。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, イギリス, ウィレム・デフォー, ノオミ・ラパス, フランス, ベルギー, 監督:トミー・ウィルコラ, 配給会社:コピアポア・フィルムLeave a Comment on 『セブン・シスターズ』 -七姉妹がシェアするアイデンティティが壊れる時-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 もののけ姫 』 -4Kデジタルリマスター上映-
  • 『 羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来 』 -吹き替え鑑賞-
  • 『 プレデター バッドランド 』 -Clan Over Family-
  • 『 羅小黒戦記~ぼくが選ぶ未来~ 』 -劇場再鑑賞-
  • 『 爆弾 』 -佐藤二朗のベストアクト-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年11月
  • 2025年10月
  • 2025年9月
  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme