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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

デッドプール

Posted on 2018年6月3日2020年2月13日 by cool-jupiter

デッドプール 80点

2016年6月 東宝シネマズ梅田 109シネマズHAT神戸その他およびブルーレイにて鑑賞
主演:ライアン・レイノルズ
監督:ティム・ミラー

のっけからブッ飛ばされる映画である。アメコミでキャラクターの存在自体は聞いたことはあったし、X-MEN映画でもウルヴァリンと激闘を演じていたので、予備知識ゼロではなかった。それでも劇場で観た時の衝撃は忘れられないものがあった。

何よりも第4の壁の超え方に、あまりにも遠慮が無い。Jovianが初めて第4の壁を経験したのは映画『ネバーエンディング・ストーリー』だったが、この物語にはそれこそしっかりとした Build-Up があった。日本でも古畑任三郎が視聴者に語りかけてきたり、近年だと『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でディカプリオが観客に話しかけてきたが、デッドプールの節操の無さには文字通り度肝を抜かれる思いがした。なぜならストーリーと一切関係の無いことで話しかけてきたからだ。

そうして観客をポカーンとさせておいたまま、カーチェイスアクションとバトルシーンに雪崩れ込んでいく。CG全開のファイトとはいえ、グロシーンの連発にR指定映画であることを思い出す。DCやマーベルには決してできない演出が炸裂する。そこから一気に回想シーンへ。ここでようやく人心地ついた観客は、じっくりとラブ・ストーリーが醸成・・・されるシーンを楽しめるわけではない。なぜなら、やはりこれはR指定映画。いきなりのベッドインから、あれよあれよの時間の経過、そして残酷な運命の瞬間と、傭兵ウェイド・ウィルソンがミュータントに変貌する瞬間までが一気にジェット・コースターのように展開される。 

Jovianのお気に入りのシーンは、T・J・ミラーとのコントそのものの掛け合い。男の淡い友情がさらりと描かれる名シーンであると感じている。“To you, Mr. Pool. Deadpool. That sounds like a fuckin’ franchise.という台詞には、紛れもなくシリーズ化への希望が込められた映画で、ミラーも実はここで密かに第4の壁を壊していた、ということを『デッドプール2』を観たうえで本作を見返すと、そう思えてくるのだ。

アメコミ映画では割と珍しく本格的な刀アクションを見せてくれ、誰もがやりたくて、しかしできなかった首切断からのサッカーボールをキックを実現してくれたりと、とにかくR指定映画作りを役者もスタッフも満喫していた様子がうかがえる。

またクレイジーと言えるほどの小ネタが投入されており(それは続編も継承した路線)、初見では笑えなくとも、その他のメジャー作品(アメコミに限らない)を観るたびに、何らかのオマージュを見つけることができるかもしれない。逆に、熱心なアメコミファン、映画ファンであれば、3分に1回は笑える、あるいは感心させられる映画であるとも言える。

これまで数人のカナダ人にライアン・レイノルズについて尋ねてみたことがあるが、「カナダでライアンと言えば、レイノルズじゃなくてゴズリングだぞ」、「悪い役者ではないが、出演作のほとんどがゴミ(garbage)だ」、「誰だ、そいつは?」など散々な評価であった。だが本作によって遂にライアン・レイノルズは代表作を得たと言ってもよいだろう。

今作を際立たせている要素にBGMがある。特にヒロインのヴァネッサとの関係性の構築は、ほとんど全てベッド上で行われるが、ニール・セダカの“Calendar Girl”があまりにもハマっている。またデッドプールの大ピンチシーンで流れてくるChicagoの“You’re the inspiration”のディスト―ションは、まんまプールのダメージと精神状態を表現する素晴らしい演出。エンディングで流れるWham!の“Careless Whisper”は、今になって聞き返すと寂しさがしみじみと込み上げてくる。

とにかく傑作である。頭を空っぽにして楽しんでも良いし、あらゆるカメオや小ネタを見逃すまいと鵜の目鷹の目で観賞してもよい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, ライアン・レイノルズ, 監督:ティム・ミラー, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on デッドプール

デッドプール2

Posted on 2018年5月31日2020年1月10日 by cool-jupiter

デッドプール2 75点

2018年5月31日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
主演:ライアン・レイノルズ ジョシュ・ブローリン
監督:デビッド・リーチ

 

* ネタバレ部分は白字

『アトミック・ブロンド』という、ありえなさそうで、おそらく実際はあったのだろう極限状況で、実際にありそうな、つまり主人公が次から次に雑魚敵を屠っていくのではなく、一人また一人と苦労しながら倒していく、そんなファイト・シーン、アクション・シークエンスを撮り切ったデビッド・リーチがすったもんだの末にデッドプールの続編を撮影するとなると、確かに一抹の不安はあった。しかしそれは杞憂であった。

前作の『デッドプール』でこれでもかと取り入れられていた Fourth Wall Break 、いわゆる第四の壁破りは今作では鳴りを潜めていた。が、その理由を我々はエンディングで知る。デッドプールは破ってはいけないものを次々に破っていく。それは因果律であったり業界のお約束でもあったりする。エンドクレジットのシーンでは絶対に席を立ってはいけない。

前作ではラブ・ストーリーであることを悪党を串刺しにしながら高らかに宣言していたが、今作でもやはり悪党をぶちのめしながらファミリー・フィルムであることを宣言する。前作でウェイドとヴァネッサが、どれだけ自分が家族に恵まれてこなかったかを競う場面が印象的だったが、今作はその家族の意味を追求しようというわけか。その思惑はしかし、良い意味で裏切られる。

冒頭のアクション・シーンでは前作の冒頭およびクライマックス並みのグロシーンがあるので、耐性が無い人は注意されたい。ただし本当に注意しなければならないのは、冒頭のクレジットシーンである。前作では笑える人には笑える、笑えない人にはさっぱり笑えないクレジットシーンから物語が始まったが、今作は観客を混乱の只中に叩き込む。なぜ、なぜ、なぜ・・・ 

コミックに詳しくない、あるいはトレイラーをじっくり観てきた人ほど、ある意味で裏切られる展開が待っている。だが、デッドプールが何故その選択肢を選んだのかについて理解できないという場合には、今作が家族映画であるということを思い出してほしい。家族を構成するものは何か。夫婦だけでは普通は家族とは言わないのだ。実際に英語で “I have a family of four.” と言うと、「自分には子どもが4人います」という意味になる。ウェイド・ウィルソンにとっての家族の意味を考えることが非常に重要である。

アクション面では期待を裏切らない。元々、『ジョン・ウィック』シリーズの制作に関わっていたリーチ監督だけに、アクション・シークエンスには常に驚きと興奮がある。冒頭の刀を使ったアクションシーンは『キル・ビル』を、ケーブルとのバトルシーンは『ターミネーター2』を、第3幕のCGバトルは『インクレディブル・ハルク』を思わせる(実際にその直前のシーンで、あるキャラがアボミネーションという言葉を口にする)。にも関わらず既視感に捉われるわけではないというのが監督としての力量を物語っている。パクリとオマージュの境界線がここにある。もちろん、『 レディ・プレーヤー1 』ほどではないが、今回も前作に続いて小ネタが満載である。DCのスーパーマンに言及するのは朝飯前で、ジョージ・マイケル、アカデミー賞選考委員、さらにはカナダという国までディスっていくのは痛快である。更なる続編は、黒澤明作品にインスパイアされているとの情報もあるので、単なるネタだけではなくシネマトグラフィーの面からも大いに期待できそうだ。前作からのキャラも再登場し、さらにはX-MENシリーズについてもある程度知っておかなければならないというハードルはあるが、それを差し引いても満足できる出来だ。

最後に本作を観る際に、ある意味で最も重要なアドバイスを。ビルの壁に注意をしてほしい。そう、『 ベイビー・ドライバー 』で冒頭、ベイビーがコーヒーを買うシーンを観る時の、あるいはそれ以上の集中力で、ビルの壁に注意を払って欲しい。以上である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジョシュ・ブローリン, ライアン・レイノルズ, 監督:デビッド・リーチ, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on デッドプール2

レディ・プレイヤー1

Posted on 2018年5月30日2020年1月10日 by cool-jupiter

レディ・プレイヤー1 55点

2018年4月22日 東宝シネマズなんばにて鑑賞
主演:タイ・シェリダン ハナ・ジョン=カーメン
監督:スティーブン・スピルバーグ

  • 本文中でネタバレに触れるところは白字で表示

正気とは思えないほどの量のカメオが散りばめられて、あるいは堂々と扱われている映画であるということは、すでにあらゆるメディアで喧伝されている。どこにどんなカメオが出ているのかも、すでに語りつくされている感がある。なので、ここでは作品のプロット紹介や分析は極力行わず、素直に自分の感想のみを語りたいと思う。

まず思うのは、この映画は決してスピルバーグのイマジネーションが爆発してできた作品ではないということ。おそらくEve Onlineのようなゲームがさらに発展すれば、成功するかどうかは別にして、このようなゲームシステムが現実のものになることは想像に難くない。あれほどの数の人間がその世界にどっぷりハマるかどうかは別として、『マトリックス』のように現実世界かマトリックス世界か瞬時に見分けがつかないような“世界”がそこにあるのであれば、そちらを住処にしてしまう廃人は一定数は出現するのは間違いない。ゲームの世界で情報や貨幣をやりとりし、さらには現実世界と同等か、それ以上の人間関係の構築も実際には起きるだろう。友情や恋愛感情がネット上でも生まれてしまうように。

オアシス創始者のジェームズ・ハリデーについて。あれだけ詳細な彼の言動に関する資料、データベースがあれば、エッグ探しはもっと前に誰かが終わらせていたと思うのだが・・・ 現時点のインターネット上でも時々恐ろしくなるほどの短時間で問題解決が為されることがある。それは集合知によるもので、その最たる例がWikipediaだろう。Wikipediaの最大の貢献は、知識・情報を広範囲にカバーしているところではなく、関連する知識や情報同士のつながりが、ネットのハイパーリンクという有機的な形で結実したことだと考える。Wikipediaの記事を読みながら、いつの間にか関連の薄い記事まで読んでしまっていた、という経験は多くの人が持っていることと思う。オアシス並みに深く潜れて、なおかつ情報を有機的にやりとりできる空間であれば、あのレースの攻略はもっと先に誰かが見つけていなければおかしいと感じたし、それこそアクシデント的にギアを入れ間違えていた、というプレーヤーがこれまで誰もいなかったということにも違和感を覚えた。

とはいえ、そんなことを言い始めたら、あらゆる映画のあらゆるご都合主義に文句をつけなくてはいけなくなる。この映画はゲーム、漫画、小説、アニメ、音楽のごった煮をどれだけ楽しめるかが肝である。もちろん無数にあるカメオ要素を抜きにしてもよく出来たエンターテインメントであると評価できるが、スピルバーグの意図がそこではなく、あくまでも自分にインスピレーションを与えてくれたもの全てを使って映画を作りたかった、ということであれば、そこを評価しないというのはフェアではない。

何から語れば良いのか分からないので、最も興奮した場面のことを。ハイライトは何と言ってもガンダムとメカゴジラの対決だろう。ゴ◯ラは権利関係で出せないと最初から分かっていたが、まさかまさかのメカゴジラ。しかもメカゴジラのVer.06~07か?こんな夢の対決が大スクリーンで見られるとは!! 2020年の怪獣対決前にこんなプレゼントがもらえるとは思っていなかったので、これは嬉しい不意打ち。観るつもりはなかったけれど、『ランペイジ 巨獣大乱闘』も見てみるか。

最後にどうしても、この点だけには触れておかねばならない。ウェイド、サマンサらが最後に下す決断は現実的な意味と“現実”的(世界と“世界”の対比で考えてほしい)な意味で正しく尊い。だが、その現実世界のサマンサ=オアシス内での無敵、万能の象徴にも見えるアルテミスが、何故いきなり典型的な女の子として描かれてしまうのか。かつて庵野秀明はエヴァンゲリオンを通じて「現実を受け入れろ」と迫って来た。それはヒロインに拒絶されろ、ということ。究極的には人間は現実世界で生きるしかない、というメッセージだったのではなかったか。だからこそ庵野が描いたゴジラ世界はリアリズムを徹底的に追求したのではなかったか。スピルバーグは、仮想世界のキャラクターは、当人の人格そのものではないという考え方なのだろうか。ゲーム世界の富を現実世界に還元出来うるという考え方が行き渡った“世界”が確かにそこにあり、大企業もそこに参加している“世界”なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが、仮想世界と現実世界があまりにもシームレスにつながっていることに強い違和感というか拒絶の感覚を覚えたのは果たして自分だけだろうか。オアシスに対して加えた重大な変更が意味を持つのは、果たして誰にとってなのだろうか。そういったことを考えると、ブログで好き勝手に書いている自分と、現実世界に生きている自分は、果たして同じ人間なのだろうか、という思考のループに囚われてしまった。

スペクタクルとして観れば80点超を与えられるが、哲学的に考察した時にどこか釈然としない部分が残る。総合的に判断して55点か。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, タイ・シェリダン, 監督:スティーブン・スピルバーグ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on レディ・プレイヤー1

ゲティ家の身代金

Posted on 2018年5月27日2020年2月13日 by cool-jupiter

『ゲティ家の身代金』 80点
2018年5月27日 MOVIX尼崎にて観賞
主演:ミシェル・ウィリアムズ クリストファー・プラマー マーク・ウォールバーグ
監督:リドリー・スコット

ケビン・スペイシーのセクハラ騒動からクリストファー・プラマーを起用してのわずか数日間での再撮影と、果たして映画としての完成度はどうなのだ? ぱっと見て継ぎ接ぎパッチワークになっているのではないかとの懸念もあったが、それは杞憂であったようだ。というよりも、クリストファー・プラマーの起用がプラスに作用したとすら言える。もちろんケビン・スペイシーが名優であることには疑問の余地は無いが、プラマーの卓越した存在感と演技力なくして、この映画の真の完成はなかったとすら思えてくれる。

ある程度のフィクション化が加えられているとはいえ、これは実話に基づく物語である。取材は綿密に行っているであろうし、当時の世相の反映や、大道具から小道具に至るまでの再現性の高さも見どころであったが、それらは全てクリアされていた。当り前ではあるが、携帯電話の無かった時代の電話のやりとり、その不便さと緊迫感、またゲティ家邸内の公衆電話に至るまで、電話というものの便利さと恐ろしさは、一定以上の年代の人々にノスタルジーを覚えさせることだろう。

主役のミシェル・ウィリアムズは『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』や『 グレイテスト・ショーマン 』でも揺るぎない演技を見せ、今最も旬な女優であることを印象付けたが、今作ではその地位をさらに確固たるものにしたようだ。母は強しを体現するシーンあり、シェイクスピアばりの「弱き物、汝の名は女なり」を体現するシーンありと役者としての幅広さと奥深さを見せる。

トレイラーからも明らかだったように、ジャン・ポール・ゲティは身代金を払うつもりは一切無かった。その身代金もあの手この手で値切りながら、さらには身代金の受け渡しを使って、節税対策にまで乗り出す始末。金持ちの金持ちたる所以とも言えるが、その一方で美術品の蒐集には並々ならぬ執念を見せ、誘拐騒動の最中にも、その入手経路から表には出せない絵画を150万ドルで購入するなど、金の使い方が異様であることをこれでもかとばかりに観客に見せつける。彼が美術品・芸術品に対しての哲学を語る場面は出色である。ラテン語で“Ars longa, vita brevis”、英語では“Art is long, life is short.”と言うが、芸術作品に現れる永遠性、美の普遍性に異様に執着する様は、観客に容易に彼の過去の人間関係のあれやこれやを容易に想起させる。尋常ではない額の金を稼ぐことで失ってきた人間性がどれほどあるのか、そのことに思いを致す時、我々は慄然とする。また、誘拐事件を通じて孫の親権などにまでくちばしを突っ込んでくるその無神経さに我々は辟易させられるのだが、そのような石油帝国の支配者が崩れ落ちるのは、忠実な僕とも言うべきマーク・ウォルバーグから。人間関係のパズルピースが実は正しくはまっていなかった時、盤石の態勢と思われた帝国が崩壊する時、老人は真の孤独を知る。その時にこそ我々は知る。老ゲティスが求めたのは、真に愛せる対象なのであったのだと。そしてそのことを見事なまでに証明してくれたのが、実は誘拐犯の一人であった。

チンクアンタという男は悪党でありながらも、誘拐したポールに感情移入し、典型的なリマ症候群を発症させる。彼にとってある時点から身代金はどうでもよくなり、ただポールの身の安全を願い、さらにはそれを交渉相手に伝えてしまう、また実際に手助けしてしまうなどの行動にまで出てしまう。これは何も珍しいことではなく、ある程度以上の年齢の人間ならペルーの日本大使館占拠事件を思い起こして、容易に理解できることだろう。

この作品が炙り出すのは、誘拐事件の卑劣さや恐ろしさではなく、まして金の魔力でもない。金そのものはただの道具もしくは手段である。端的に言えば、金は幸せになるために必要なものであって、金そのものに幸せを見出すことはできないのだ。金だけで幸せになることはできないが、金無くして幸せになることも困難だ。ある絵画を抱きしめながら事切れるゲティ老を目の当たりにする時、観る者の胸には悲しみが去来する。なぜなら、幸せになれるのに幸せになれなかった人間の哀れさに心から同情するからだ。幸福の意味を問い直してくる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クリストファー・プラマー, サスペンス, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:リドリー・スコット, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on ゲティ家の身代金

セント・オブ・ウーマン/夢の香り

Posted on 2018年5月27日2019年3月4日 by cool-jupiter

『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』 90点
1995年 WOWOWで視聴 以後、VHSとDVDで複数回観賞
主演:アル・パチーノ
監督:マーティン・ブレスト

日本一の学生数を誇るマンモス大学が揺れている。そのブランドが揺らいでいる。学校という組織が一学生に全てを押しつけようとしている(ように見える)構図は異様ですらある。己の良心が咎める行動を人は取るべきなのか否か。その良心を裏切る行動に駆り立てる背景にあるものは何か。そうしたことを考える時、多くの映画ファンの頭には本作がよぎったのではないか。対立の構図は異なるものの、プレッシャーを与えてくる校長と、自分の良心に最後まで従うチャーリー。どこぞのアメフト部の監督・コーチと部員のようではないか。

ハイライトシーンはいくつかあるが、やはりタンゴのシーン、アル・パチーノがチャーリーを擁護する大演説、最後の”ダフネ”のシーンだろうか。時代を超える作品(Timeles Ageless Classic)で、時々思い返して見てみたくなる傑作である。

アル・パチーノ+アメリカンフットボールでは『 エニイ・ギブン・サンデー 』も良作。勝利を目指すことは大切なことではあるが、勝利以上に大切なものがある。自分というものが存在できるのは他人というものがいるからだ。チームとして戦うことの意義を力強く語るアル・パチーノとそのことを受け止める若きジェイミー・フォックスに胸打たれる感動作だ。

フットボールを通じた差別克服と友情の傑作『 タイタンズを忘れない 』も捨てがたい。某大学の元コーチは「相手のQBと友達なのか」と尋ねたらしいが、そこには友達でなければ潰していいという論理が透けて見える。友達と友達ではない者の境界線など、実は非常にあやふやなもので、いつの間にかその線を超えている者、勇気を出して踏み越えていく者、時間をかけて踏み越えて行く者たちが描かれる本作は、アメフトをプレーする、志す者なら誰もが見るべき良作であろう。

Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, S Rank, アメリカ, アル・パチーノ, ヒューマンドラマ, 監督:マーティン・ブレスト, 配給:ユニヴァーサル・ピクチャーズLeave a Comment on セント・オブ・ウーマン/夢の香り

『 モリーズ・ゲーム 』 -The fact is stranger than fiction-

Posted on 2018年5月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

題名:モリーズ・ゲーム 75点
場所:2018年5月21日 東宝シネマズなんばにて観賞
主演:ジェシカ・チャステイン
監督:アーロン・ソーキン

今の日本で最も売れていて最もノッている40代女性の役者はおそらく吉田羊だろう。では今のアメリカで最も売れていて最もノッている40代女性の役者はおそらくジェシカ・チャステインだろう。『ツリー・オブ・ライフ』、『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『ゼロ・ダーク・サーティ』、『インターステラー』、『 女神の見えざる手 』などの傑作に貢献する一方で、『 スノーホワイト 氷の王国 』や『 オデッセイ 』といった駄作にも出演してしまった。だがしかし、映画が作品としてパッとしなくとも、チャステイン自身がパッとしなかったということはこれまで決してなかった。今後も無いであろう。

厳格な父の元、幼少の頃から勉強とモーグルに打ち込んできたが、背骨に故障。医師の助言もあり、ここでスキーをあきらめるかと思いきや、あっさり復帰。五輪代表にあと一歩というところに迫る中で不運なアクシデント。「スポーツで最悪なのは五輪で4位になること?マジで?ふざけんな!」で締めくくられる一連の怒涛のナレーションで、主人公モリーの前半生があっさりと描かれる。まさにモーグル的なアップダウンと疾走感で一気に観客を物語世界に引き込む。2017年の私的ベスト『 ベイビー・ドライバー 』の冒頭のカーチェイス・シークエンスに優るとも劣らない見事なイントロである。

モリーがいかにしてロースクール進学を先延ばしし、職を得、そして失い、自分でポーカールームをマネジメントするまでに至ったのか。彼女を突き動かす原動力が何であるのかは物語終盤に明らかになるが、これはある意味で予想されていたこと。しかしその見せ方とタイミングが絶妙だ。ケビン・コスナー演じるモリーの父親は、アメリカ的な父親、つまり家父長制度の長であることを体現する一方で、いわゆる幻想の良き父をも体現するという離れ業をやってのける。スーパーマンのリメイクや『 ドリーム 』などでもそうだったが、父親的なフィギュアで好演を見せ続ける今、まさに円熟期であると言えよう。ネタバレにならない程度に留めて書くならば、この物語はほとんど全て、モリーが父親的存在を殺し、父親的存在を許していく過程を描く話、つまりは父殺しだ。モリーが挑発的な服装と言動を見せつつも、決して性を売り物にしない理由もそこにある。

もう一人のモリーにとっての重要な父親的存在としてイドリス・エルバ演じる弁護士についても言及せねばならない。『 マイティ・ソー 』シリーズ、そして『 ダークタワー 』などで重要な役割を演じてきたが、彼のキャリアの中でもこれは Best Performance である。クライアントであるモリーを時に諭し、時に叱り、時に寄り添い、そして全力で守る。『 ダークタワー 』では我が子を千尋の谷に突き落とすような父親像を打ち出していたが、本作ではモリーの実父を演じたケビン・コスナー以上に、父親としての温かみ、厳しさ、生々しさを観る者に感じさせた。エルバが娘にどのように接しているのか、そしてモリーがそれをどのように受け取っているのか、エルバの登場シーンからはそこにも注目しながらストーリーを堪能してほしい。

モリーが掴み取っていく成功と遭遇する悪意や恐怖、それらが絡まり合い限界点に達する時、父親像の破壊と再創造の瞬間がやってくる。詳しくは述べられないが、ぜひこの父娘の反発と和解を味わってもらいたい。そしてクライマックスの裁判から感動のエンディングへ一気になだれ込んでほしい。そこで初めてモリーが言った「スポーツで最悪なのは五輪で4位になること?マジで?ふざけんな!」の言葉の意味を悟るからだ。そこで受け取るメッセージはきっと観る者を勇気づけるはずだ。2時間20分の長丁場の映画だが、体感では1時間50分ほどだったか。ぜひ多くの人に観てもらいたい作品である。

 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジェシカ・チャステイン, ドラマ, 監督:アーロン・ソーキン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 モリーズ・ゲーム 』 -The fact is stranger than fiction-

『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

Posted on 2018年5月22日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:私はあなたの二グロではない 70点
場所:2018年5月20日 テアトル梅田にて観賞
主演:ジェームズ・ボールドウィン
監督:ラウル・ペック

自分の無知と無理解、想像力の欠如を思い知らされ、恥ずかしくさえ思ってしまう、そんなドキュメンタリー映画だった。メドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング・Jr、マルコムXらを軸に、アメリカという国でどのような差別が生まれ、行われ、助長され、継続され、そして解消されないのかを、ジェームズ・ボールドウィンの未完の原稿(タイトルは”Remember This House”)を元に紐解いていくのだ。

これまで映画における語りで最も印象に残っていたのは、ありきたりではあるが『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンだったが、本作のサミュエル・L・ジャクソンの静かで、怒りも憎しみも感じさせない語りの奥底にはしかし、強さと悲哀も確かにあった。哀切の念が胸に響いてくる、というものではなく、知って欲しいということを力強く、それでいて淡々と訴えかけてくるこの語り、ナレーションを持つことでこのドキュメンタリーは完成したとさえ言えるかもしれない。

人種差別の問題に肯定的に取り組んでいく話としてパッと思い浮かぶのは『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『 タイタンズを忘れない 』、『 ドリーム 』、『 それでも夜は明ける 』、差別の恐ろしさを前面に押し出した作品としては『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』あたりか。

本作はドキュメンタリーなので、ドラマ性を強調するのではなく、事実に対するJ・ボールドウィンの解釈、それに対する様々な人々の反応を追っていく形で展開していく。しかし、その方法が時にはクリシェ/clicheであり、時には非常に大胆に観客の不意を突いてくる。遊園地やスポーツの映像を交えながら、無邪気にレポーターがアメリカの娯楽を素晴らしさを称えながら、語りはそのままに突然、警官が民衆に暴力をふるうシーンに切り替わっていく。まるでこれもアメリカという国の娯楽なのですよ、と言わんばかりに。

また討論番組で、イェール大学の哲学教授が颯爽と現れ、ボールドウィンに「君の主張には重要な見落としがある。人と人が触れ合うのに、人種は関係ない。絆を結び方法も一つだけではない。私は無知な白人よりも教養ある黒人の方を身近に感じる」と述べるのだ。もっともらしい意見に聞こえるが、ボールドウィンは毅然と反論する。「私は警察官とすれ違うたびに、後ろから撃たれるのではないかという恐怖に苛まれてきた。そしてそれは私の思い込みではないく現実の脅威だった」と。

こうした場面が鮮やかなまでに対比して映し出すのは、差別者には恐怖心が無く、被差別者には恐怖心しかない・・・ということではない。ボールドウィンは言う、「私は二グロではない。私は人間だ。もしもあなたが私を二グロであると思うのなら、あなたの中にそう思いたい理由があるのだ」と。これこそが恐怖の核心であろう。よく差別者は「差別ではない。区別だ」と理屈を述べるが、その根底には被差別者に対する恐怖が存在する。これは黒人に限ったことではく、ネイティブ・アメリカンに対してもそうであるし、女性差別も構造的にそうであろう(そのことを端的に描き出した作品に『 未来を花束にして 』がある)。

アメリカという国に住む人間という意味で、皆は家族なのだ。家族でありながら、断絶があるのは何故か。ボールドウィンが書こうとして書き切れなかった “Remember This House” という本のタイトルの意味がここでようやく見えてくる。家族というのは、自分で選べない、気がつけばそこに存在しているという意味では、究極のファンタジーなのだ。アメリカという国に生まれ育ったものが、家族として一つ屋根の下に暮らせないことの欺瞞を嘆きつつも、融和への希望を捨てず、歴史を背負い、未来を見据えるボールドウィンの目に映るは、果たしてヒューマニズムかヒューマニティか。

アメリカ史をある程度知らなければ、チンプンカンプンとまでは言わないけれども、物語として咀嚼することが難しいだろう。しかし、このドキュメンタリーを観て、某かの意味を見出せないとすれば、それは余程の幸せ者か、さもなければドストエフスキー的ではない意味での白痴であろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジェームズ・ボールドウィン, スイス, ドキュメンタリ, フランス, ベルギー, 監督:ラウル・ペック, 配給会社:マジックアワーLeave a Comment on 『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

Posted on 2018年5月21日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:スプリット 75点
場所:2017年5月21日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

*注意 本文中に本作のネタバレあり

M・ナイト・シャマランの映画は当たりと外れの落差が大きすぎる。しかし、本作は当たりなので安心して観賞してほしい・・・と言えないのが難しいところ。まず『スプリット』を本当の意味で理解し、咀嚼するためには『シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』の全て、もしくはいずれかを観ておかなければならないからだ。

ストーリーは単純で、ジェームズ・マカヴォイ演じる正体不明の男がアニャ・テイラー・ジョイ演じるケイシーを含む女子高生3人を誘拐・監禁するところから始まる。そこで彼女らは自分たちを攫った男はDID(dissociative identity disorder)=解離性同一性障害、つまりは多重人格であることを知る。複数の人格の中には若い女性、9歳児、デザイナー、屈強な成人などがおり、中には話の通じる人格、上手く利用できそうな人格として現れるものもいるのだが、どういうわけケイシーはあまり動揺を見せず、淡々と状況に対処し、9歳児を上手く騙す手前までは行く。ここに至って観る者は「何故ケイシーはこの状況に対処できるのか」と不審に思うが、巧みに挿入されるケイシー自身の過去のフラッシュバックが徐々にその全体像を現わしてくることで、彼女の冷静さや強かさに納得できてしまう。

マカヴォイは定期的にカウンセラーと会いながらも、カウンセラーを欺こうとする。その一方で彼女の理解や協力を得ようとする動きも見せるなど、誘拐・監禁と同じく、観る者に疑念を植え付けていく。同時にビーストという人格の出現を予期させるも、カウンセラーは当初、「それはファンタジーである」として受け容れない。一体、このストーリーはどこに向かって進んでいくのか、観客が予測をつけられないままにビーストが出現し・・・

というのが大筋だが、詳しくは観て確かめてもらうしかない。賞賛すべきは、まず何と言っても複数人格を見事に演じ分けたジェームズ・マカヴォイに尽きる。圧巻なのは物語中盤のカウンセラーとの面談シーンで、数十秒、時には数秒間隔で人格を切り替えてみせるという離れ業を成し遂げた。また終盤にも人格が次々に入れ替わりながら心の声を叫んでいくというシーンは鳥肌もの。またこの時のカメラワークは恐ろしいほど完ぺきな角度とタイミングでマカヴォイの表情を捉えている。練りに練られて撮影されたシーンで、映画製作の時のお手本として取り上げたくなるような名シーンだった。

ケイシー役のアニャも負けていない。9歳児を巧みに操縦したかと思えば、その9歳児の迫力に圧倒されてしまうのだが、恐怖を飲み込む演技が非常に上手い。恐怖していることを9歳児には悟らせないように、しかし観る者に非常に分かりやすい形で伝えるという、矛盾する演技を堪能させてくれる。またそのシーンで9歳児バージョンのマカヴォイがダンスを披露してくれる。不気味さという点では、劇中随一だ。シャマラン監督に言わせると、死んでしまった人格がそのダンスを通じて蘇ってくることを表現しているとのことで、実に不安を掻き立てるワンシーンに仕上がっている。

物語の締めには何とデイビッド・ダンが登場し、ミスター・グラスに言及する。この瞬間、あるシャマラン信者は歓喜したであろうし、あるシャマラン信者は茫然自失したであろう。『スプリット』は『アンブレイカブル』の世界のスーパーヴィラン誕生の物語であり、この多重人格男は次回作でアンブレイカブルを体現するD・ダンことブルース・ウィリスとの対決が決定しているのだ。ダンがこの多重人格男に触れた時、一体何を読み取るのか、そして狂人ミスター・グラスは何をたくらみ、仕掛けてくるのか。今から2019年の新作『グラス(仮題)』公開が待ち遠しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, スリラー, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:モーガン プロトタイプ L-9 40点
場所:2017年8月 レンタルDVDにて自宅観賞
出演:アニャ・テイラー=ジョイ ケイト・マーラ ミシェル・ヨー
監督:ルーク・スコット

巨匠リドリー・スコットの息子ルークの監督作品、となればある種の期待と一抹の不安を抱いて観賞に臨まざるを得ない。ましてテーマが人工生命。人工知能をいきなり通り越して人工生命ともなれば、そこで描かれる物語は、倫理、技術、文化、文明、政治、経済などを何かしらの形で反映させていなければならない。ちょうど『エイリアン』の世界では、超長距離貨物宇宙船が現代の貨物船ぐらいのノリで描かれていたように、人工生命の前段階にあるであろう、ロボットや人工知能についてもある種の説得力を以ってその存在を示唆してくるであろうと予想していた。そしてその予想は裏切られた。父を殺そうとして失敗する息子は大洋の向こうにもこちら側にもいるものである。

はっきり言って、出てくるキャラの行動が全て不可解すぎる。特に主役の人工生命モーガン(アニャ・テイラー=ジョイ)と面談セッションを持つ男性があまりにも非合理的で、モーガンが危険であるというよりも、モーガンというプログラムにバグを人為的に生じさせるのが狙いなのかと勘繰ってしまうほどだった。

SFサスペンス、もしくはSFスリラーの趣を漂わせながら進んで行くのが、ある時点からSFアクション映画になってしまうのも残念なところ。この手の失敗の最大級の見本としてはトム・クルーズ主演の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』が挙げられる。元々はホラーであることが期待されていたはずが、開始2分でアドベンチャーを予感させ、その1分後にはアクション物になり、ようやくホラーの雰囲気が漂ってきたところでコメディ要素を放り込み、中盤から終盤にかけてははモンスター映画になるという、まさに軸が定まらない話だった。

本作はそこまで迷走はしていないものの、観る者が抱く予感を悪い意味で裏切ることが多い。また副題にもう少し細工を凝らしても良かったのではないか。普通に考えれば、プロトタイプL-1からL-8はどこに行った?となるだろう。

色々と酷評してしまったが、光る部分もある。それはやはりアニャ・テイラー=ジョイ。元々は『スプリット』を劇場観賞して、驚天動地のエンディングに打ち震えたのだが、結末と同じくらいアニャ・テイラー=ジョイの演技にも感銘を受けたし、将来性も感じた。無邪気でなおかつ残酷さも秘める少女から、弱さと強かさを同居させるキャラまで演じてきたが、なかなか二面性のある役というのは演じ切れるものではない。それをキャリアの若い段階でこれほど立て続けにオファーが来ているというのは、やはり業界でも注目の若手として高く評価されているのだろう。今後も応援をしていきたい女優である。というわけで、本作はアニャ・テイラー=ジョイのファンにだけお勧めできる映画である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, 監督:ルーク・スコット, 配給会社:20世紀フォックスLeave a Comment on 『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:ウィッチ 70点
場所:2017年7月 シネリーブル梅田にて観賞
主演:アニャ・テイラー=ジョイ
監督:ロバート・エガース

魔女映画の傑作(公開当時)と言えば『 ブレアウィッチ・プロジェクト 』が想起される。レンタルビデオで観た時はあらゆるシーンの意味が分からず、その場でもう一度見直したら、いくつか背筋が凍るような場面があった。ホラー映画は一部の傑作を除いてあまり楽しむことはそれ以来なかったが、本作は久しぶりの個人的ヒットであった。

冒頭、主人公一家が追放されるシーンの直後に森の遠景を映し出す、いわゆるEstablishing Shotがあまりにも暗く、家族の今後の生活に暗雲が立ち込めていることを明示していた。

しばらくは平穏に過ごす家族に、しかし災いが訪れる。赤ん坊がいきなり消えてしまうのだ。その場で子守りをしていたアニャ・テイラー=ジョイ演じるトマシンは家族の中で立場を失っていく。

この作品を観賞する上では、アメリカの家族文化やキリスト教に関する一定の理解があることが望ましい。それによって主導的な役割を果たそうとする父親を見る目が大きく変わってくるだろう。

本作では魔女が何度かその姿を見せる。時に不気味な老婆であったり、時に妖しい美女であったりと、観る者をも惑わせる。魔女は姿を変えるのか、と。姿かたちが特定できない魔物のような存在を描いたホラーの傑作と言えば『遊星からの物体X』が思い出される。一人また一人と隊員が死んでいく中で、誰が”The Thing”であるのかが分からないのが最大の恐怖。それと同じように、家族は次第に疑心暗鬼に駆られていく。中盤においては双子の妹が重要な役割を担うが、彼女らを見ていて不覚にもニコラス・ケイジ版の『ウィッカーマン』を思い浮かべてしまった。時に幼い少女の無邪気さほど邪悪なものは無いということを我々は思い知らされてしまう。

物語が進む中で、ついにはトマシンの弟も魔女の手にかかり死んでいくのだが、このシーンは筆舌に尽くしがたい恐ろしさを醸し出すことに成功している。観る者は魔女の呪いの恐ろしさと、家族の反応の異様さの両方に恐怖を感じるであろう。魔女がもたらす災いにより家族が崩壊していく様を目の当たりにすることで、人間が本質的に恐れるのは人間ならざる者ではなく、人間そのものであることが露わになる。そのことは実は、冒頭で共同体から追放される家族自身がすでに経験していることでもあったのだ。人間関係の崩壊、それこそが本作のテーマであると思わせておきながら、しかし思いもよらぬ結末が待っている。この結末をあるがままに受け取ることによって、劇中の魔女の不可解さが説明される。それと同時に、ある肝心なシーンが意図的に映し出されていないことが別の解釈の余地を観る者に与えている。この映画の視聴後の虚脱感はヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』を想わせる。こちらも同工異曲の小説で、かなり古い作品ではあるものの、現代にも通じる面白さを秘めている。

本作で他に注目すべきは、音楽の恐ろしさと英語の古さ。一瞬の不協和音でびっくりさせてくるようなこけおどしではなく、脳に響いてくる不協和音とでも言おうか。また英語の古さがリアリティを与え、非現実的な物語に逆に更なる深みを与えることに成功している。カジュアルな映画ファンにはキツイかもしれないが、スリラーやサスペンスが好きな向きにもお勧めしたい一本。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, カナダ, ホラー, 監督:ロバート・エガース, 配給会社:インターフィルムLeave a Comment on 『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

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