Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: アメリカ

『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

Posted on 2019年10月14日2020年4月11日 by cool-jupiter

ホテル・ムンバイ 85点
2019年10月13日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:デブ・パテル アーミー・ハマー
監督:アンソニー・マラス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191014153502j:plain

 

テロと聞けば9.11を思い浮かべるのは、それだけ我々がアメリカ的な価値観に染まっている証拠である。だが、世界ではテロが頻発している。テロリズムとは何かを定義するのは難しいが、私や個、あるいはその集団が国家あるいは国家に準じる存在・団体・組織に攻撃を仕掛けること言えはしないか。そうした意味でなら、本作は紛れもなくテロリズムを、そして世界の現実を描き出している。

 

あらすじ

2008年11月、ムンバイ各地で同時多発テロが発生した。タージマハル・パレス・ホテルも襲撃を受け、ホテル内には多数の客およびスタッフが取り残された。テロを鎮圧可能な特殊部隊は遠くニューデリーにいる。彼らの到着まではもたない。アルジュン(デブ・パテル)ら、ホテルマンの従業員たちは決死の覚悟で宿泊客らを匿い、逃そうとするが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191014153622j:plain


 

ポジティブ・サイド

自分の拙い語彙力や表現力では、本作の凄さや価値を充分に伝えられない。例えて言うならば、『 グランド・ブダペスト・ホテル 』のような群像劇を、『 クワイエット・プレイス 』や『 ALONE アローン 』以上の緊張感、緊迫感で、そして『 デトロイト 』以上の臨場感で作り上げた、と言えば良いだろうか。

 

まず、銃声が怖い。マシンガンを乱射しているわけだから、当たり前と言えば当たり前だが、銃声の質をこれほどまでに追求した作品は、これまでに甘利生産されてこなかったのではないだろうか。邦画の任侠映画やアメリカの刑事ドラマのようなパァンパァンといった軽い音ではなく、腹の底にズシンと来るような重低音の聞いた銃声が、ひたすらに怖い。『 プライベート・ウォー 』も理不尽な暴力の描写方法がホラー映画のそれであったが、本作は効果音と音響効果だけでホラー映画に分類したくなるほどのリアリティと凄惨さである。

 

そして、テロリスト連中が怖い。無表情に、淡々と、それでいて油断なく動き回り、引き金を引くその指先に全く躊躇が無い。ブルという名のイスラム過激派組織の、まさに「考えない兵士」である。だが本作は、そんな末端のテロリストたちも生きた人間であるという描写をそこかしこに挿入する。血も涙もない殺人マシーンなのではなく、イスラムの教義に忠実な信者で、仲間を怒らせかねない冗談も飛ばし、水洗トイレをありがたがる年少の者たち。つまりは無邪気なのだ。アメリカ人を人質にし、インドは「お前たちの富を奪って発展した」と吹き込まれているが、その実、ピザを旨そうに喰い、履いている靴はNikeがどこかのスニーカー。ということは無知なのだ。本当の悪は、声だけしか出てこないブルであって、テロ実行部隊は操り人形に過ぎない。これは示唆的である。我々が大切にしている信念や理念は、どこから来ているのか。例えば、必死に会社のために頑張ってきたというのに、その会社が実は単なるブラック企業で、社会貢献を理念に掲げながら、実際は経営者の懐を潤すためだけに存在していたら?深刻さの度合いは全く異なるが、そんなことが、鑑賞後、ふと脳裏をよぎった。自分はお客さんに非人間的に接していないだろうか、と。

 

閑話休題。本作で最も印象に残るキャラクターは料理長のオベロイである。『 セッション 』におけるJ・K・シモンズを彷彿させるプロフェッショナリズムの塊のようなオジサンで、そのカリスマ性とリーダーシップは、確かに実在のシェフに基づくのだろう。

 

デブ・パテル=虐げられている、苦難に陥る、のようなイメージがあったが、その印象は本作を以ってさらに強化された。オベロイ料理長とはまた異なる意味でプロフェッショナルであり、ターバン(パグリー)と豊かな髭のせいで、ホテル客を疑心暗鬼にさせてしまうが、人間は外見ではなく内面で判断すべきということを我々に思い知らせてくれるシーンを披露する。『 PK 』でも用いられたネタであるが、我々はいかに外見で人を判断し、その内面を知ろうとしないのかを痛感させられる。多民族・多文化共生は言うは易く行うは難し。いつの間にか移民大国となった日本、大坂なおみやラグビー日本代表のようにダイバーシティを体現する存在がかつてないほど身近になっているからこそ、我々はインドに学ぶことが多い。

 

一部でチクリとCNNを刺すシーンがあるが、これはオーストラリア人監督としてのアメリカへのメッセージだろうか。

 

ネガティブ・サイド

全体的にストーリーに一本太い芯が通っていない。アーミー・ハマーが妻子を助けようと奮闘するぐらいだが、行き当たりばったり感が否めない。また、テロリストたちが客やスタッフを一人また一人と殺害していく、そしてホテルマンたちが客を匿おうとする、逃がそうとするシーンの一つひとつはこの上なくサスペンスフルであるが、客やスタッフの全体像が不透明であるため、何階建ての何階まで侵入された、何人中の何人が殺されてしまったという意味での、追い詰められる感覚が欲しかった。まあ、もしもそれがあれば窒息してしまったかもしれないが。

 

後はテロリストが「まだ少年じゃないか!」と形容されていたが、ちょっとそれは苦しい。どう見ても立派な20代だからだ。本当に10代半ばぐらいの俳優たちをキャスティングするという選択肢はなかったのか。それともそれが史実なのだろうか。それぐらいは映画的な演出として許容されると思うが。

 

冒頭で頼んでいない品を頼んだものと笑顔で言い張るインド人の食堂店員がいるが、個の描写は必要だったのだろうか。タージ・ホテルとその他のインドの店との格の違いを見せようという意図かもしれないが、そんなものは不要である。

 

最後にアルジュンが自宅に帰るシーンがあるが、普通は地元当局や警察に事情聴取も嵐を喰らうだろう。内部で一体何が起こっていたのか。どうやって生き延びたのか。そういったプロセスをすっ飛ばしてしまったのは頂けない。茫然としたまま原付に乗っていたが、茫然としたまま、聴取を受けて、茫然としたまま自宅に帰れば良かった。

 

総評

弱点も数多くあるが、間違いなく2019年公開作品の最高峰の一つである。よく知られたことであるが、世界史上の宗教戦争の99.9%は経済戦争である。テロリズムはその延長線上にある。ジハードの意味を、テロに利用された少年たち同様に、我々は決して誤解してはならない。信じるもののために奮励努力する。本作はそれを二極化された視点から描いているとも言える。分断・分裂によって起こる悲劇を描いたインド映画としては『 ボンベイ 』に並ぶ傑作が誕生したと言える。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Guest is God.

 

インドには日本と同じく、「お客様は神様です」という言葉が存在する。それが Guest is God である。あまりにも直球の訳であるが、実際にこう言うのだから仕様がない。英語ではもう少しマイルドになり、“The customer is always right.”となる。神様ならぬかみさんに頭が上がらない男性諸賢には“MEN to the left because WOMEN are always right! ”という言葉を贈る。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, インド, オーストラリア, サスペンス, デブ・パテル, ヒューマンドラマ, 監督:アンソニー・マラス, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

Posted on 2019年10月9日2021年11月7日 by cool-jupiter

ジョーカー 85点
2019年10月5日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ
監督:トッド・フィリップス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191009003925j:plain

 

Believe the hype. という表現がある。「誇大広告を信じろ」、つまり「ガチですごいんだ」という意味である。公開前から世界中の批評家やPR担当者たちは本作を手放しで絶賛した。否が応にも期待が高まる。往々にして、Hype can ruin a film. 一部に誤っていると思われる広告やキャッチコピーの類もあるが、本作は間違いなく傑作である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191009003948j:plain

 

あらすじ

アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、緊張すると笑ってしまうという障がいを抱えながらも、ゴッサムの片隅でピエロ稼業をしながら、コメディアンになることを夢見ていた。母親と二人暮らしで、フランクリン・マレー(ロバート・デ・ニーロ)がホストのテレビ番組を楽しんでいた。だが、街も人々も彼の存在をどこまでも軽んじる。そんな時、同僚から護身用にとアーサーは拳銃を手渡され・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から異様な雰囲気である。男は笑いながら苦しんでいる。笑い過ぎて、呼吸ができず苦しくなったわけではない。その笑い声には陽気さはなく、悲愴感が漂う。笑うことそのものが苦しみで、その苦しみが更なる笑いをもたらしている。そのようにすら感じられる。何ともダークで不安を煽るオープニングである。

 

すでに世界中で100万回指摘されていることだが、やはり『 タクシードライバー 』によく似ている。その一方で必ずしも似ているばかりでもない。トラヴィスは劇中で最後に自分を袖にした女を華麗に見限るが、アーサーはそうではない。トラヴィスは劇中でも現実世界(我々の生きている映画の外の世界、の意)でも信者を得るが、アーサーは劇中では信者を、現実世界では共感者を得ている。トラヴィスは非モテ男の支持を得た一方で、アーサーの支持基盤は社会の底辺に生きる者、あるいは社会から疎外された者たちだろう。彼の住む集合住宅はオンボロもいいところで、立地も街の中心部から相当に離れている。なおかつ駅から降りてとんでもない上り階段に臨まなくてはならない。街には行政的な課題が山積しているが、市政は動かない。このような地域や状況は、先進国と言われる国でも密かに進行しつつある事態である。これだけでも我々はアーサーやその道化師仲間たちに共感させられる。底辺にいる俺たちだって生きているんだ。この時点で彼らにシンクロしてしまう人間は相当に多いはずだ。そのタイミングを狙って、DCやワーナーは本作を世に送り出してきたのではないか。だとすれば、マーケティング戦略としては満点であろう。

 

日本との類似を指摘する声も多い。実際にJovianもそう思う。十把一絡げに言ってしまえば、いわゆる嫌韓嫌中な方々がアーサーと同じような境遇にいそうだ。偏見であることは承知しているが、どうしても本作はそのように観る者に迫ってくる。社会が悪い。俺は悪くない。俺という人間が生まれきたことには意味があるはずだ。俺の生まれはこの国で、俺の親はこの立派な国の人間だ。そのような妄想的観念が覆された時に人はどうなるのか。KKKの熱心なメンバーがDNA鑑定を受けたら、4代前に黒人がいた、という話は実はよく聞こえてくる。それを機に改心する者もいれば、自殺する者もいたという。自分という人間の出自に関心を持つことは至極当然であろう。問題はそれに強すぎるこだわりを持つことだ。だが、アーサーのように社会に無視され、奪われ、虐げられるだけの者が、他に何を拠り所に生きろと言うのか。

 

アーサーがジョーカーに変貌していく過程にリアリティがあるかと問われれば、無いと答える。ひょんなことから銃を手に入れ、ふとしたきっかけで発砲せざるを得なくなることに必然性はない。だが、自分がそうした立場に置かれた時、どのように反応するだろうかという思考実験の材料にはなる。アーサーという個人に特徴的な意図せざる笑いがこみ上げてくるというコンディションを抱えており、それは確かにハンディキャップになっている。けれども、それが彼がジョーカーに変わっていく触媒ではない。アーサーをジョーカーに変えたものは、陳腐な表現をすれば社会の闇である。寄る辺なき者たちは、きっかけさえあればジョーカーになり得る。本作はそのように主張しているかのようだ。もっと言えば、悪とは善の対立概念ではない。悪とは善の欠如でもない。悪とは、それ自体が救いになりうる。そのような逆説を本作は提示している。クライマックスのジョーカーは、誰がどう見てもゼーロータイによって実際に担ぎ上げられてしまったイエス・キリストのアナロジーに他ならない。もしくは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』のパラレル・ユニバースであるとも言えるかもしれない。

 

ホアキン・フェニックスの怪演には感動を覚えたが、特にとあるシーンでアーサーがじっと沈黙するシーンには身震いした。その黒い両目の奥に譬えようのない怒りと悲しみを感じ取ったからだ。目の演技としては今年一番と言っても差し支えないだろう。仮面をかぶる、あるいは顔面に過剰なメイクアップを施す。それは内心にある全ての負の感情を覆い隠すためのものである。顔では笑って、心では泣いている。もしくは顔は笑って、心は怒っている。そのような二律背反のキャラクターをJ・フェニックスは、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーと遜色ないレベルで演じ切った。米アカデミーがどのように反応するのかは分からないが、『 ドント・ウォーリー 』と本作で、本ブログにおける2019年の海外最優秀俳優はJ・フェニックスで決まりである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191009004017j:plain

 

ネガティブ・サイド

終盤のテレビ番組開始前に、アーサーは少し喋りすぎだったように感じる。具体的に言えば、ロバート・デ・ニーロに“Can you introduce me as Joker?”と全てを尋ねる必要はなかった。単に、“Can you introduce me as … ”で、いったん別の場面へカット。そこから出演ゲストの紹介場面に戻って来た時に、初めて“Joker”という名前に言及した方が、よりドラマチックだったはずだ。陳腐と言われるかもしれないが、『 ダークナイト 』においても、バットマンが実際に劇中で“ダークナイト”と呼称されるシーンは最終盤だった。それゆえにそのシーンは観る者に鳥肌を立たせるほどの衝撃を与えた。ジョーカーという名前、顔、風貌にもっとインパクトを与える演出があったはずである。

 

また、これは映画に対する不平不満ではないが、【 本物の<悪>を観る覚悟はできたか? 】だとか【 本当の悪は笑顔の中にある 】というキャッチコピーこそ、誇大広告だろう。アメリカで一番多く使われたと思しき販促フレーズの一つは“PUT ON A HAPPY FACE”であるようだ。「幸せの仮面をかぶれ」という意味である。アーサーという人物の人生そのものがある意味で仮面であることを絶妙に言い表している。単に刺激的なキャッチコピーをつけてみました、というだけでは短期的な利益にはなるかもしれないが、長期的には信用を無くすだけだろう。PR担当企業にはよくよく考えてもらいたい。

 

総評

非常に野心的で挑戦的な映画である。悪が救いであると、ここまで高らかに謳い上げた作品は少ないのではないか。アーサーという心優しい、ある意味でとても哀れな男が壊れていく様には同情を禁じ得ない。しかし、その同情が共感に、共感が信仰に、信仰が人々の具体的な行動に結びついてしまった時、悲劇は起こる。これは純然たるフィクションなのだろうか。それとも現実世界のシミュレーションなのだろうか。一つだけ言えるのは、本作が今年を代表する一本であることは間違いないということである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191009004043j:plain

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

EVERYTHING MUST GO

 

直訳すれば「あらゆるものが消えねばならない」だが、これでは意味不明だ。この go の使い方から“Let it go”を連想できれば英語学習の中級者またはそれ以上のレベルと言える。劇中での使われ方を見れば一目瞭然で「全品売り尽くしセール開催中」というような意味である。Jovianは実際に15歳でアメリカ、ニューヨークを旅行中にこの表示を見たことがあるし、その後のドラマや映画でもチラホラ見かける。知っておいて損はない表現である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クライムドラマ, ヒューマンドラマ, ホアキン・フェニックス, ロバート・デ・ニーロ, 監督:トッド・フィリップス, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

Posted on 2019年10月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

サラブレッド 65点
201910月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:オリビア・クック アニャ・テイラー=ジョイ
監督:コリー・フィンリー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191007015337j:plain

 

Jovianは『 ウィッチ 』以来、アニャ・テイラー=ジョイの大ファンである。映画ファンならば、○○が出演していたら観る、あの監督の作品は観る、あの脚本家の作品は絶対にチェックする、そういう習性があるものだろうが、アニャはJovianの一押しなのである。

 

あらすじ

感情のないアマンダ(オリビア・クック)と彼女の家庭教師を引き受けている旧友のリリー(アニャ・テイラー=ジョイ)。二人は奇妙な友情を育んでいた。そして、リリーは憎い継父の殺害計画をアマンダと共に練るようになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

これまでも胸元を露わにする服装はちらほら着用してくれていたが、今回は遂に水着を解禁。アニャのファンは狂喜乱舞すべし。というのは冗談だが、それでもプールに潜るアニャは大画面に大いに映える。彼女はどこかファニー・フェイスなのだが、水中で目を閉じて黒髪がたゆたうに任せるアップのショットはひたすらに cinematic である。

 

オリビア・クックも魅せる。『 ラ・ラ・ランド 』でエマ・ワトソンが桁違いの演技力を見せつけたが、冒頭のリリーの住む屋敷を散策して回るシーンと、テレビを観ながら泣いて見せるシーンは、オリビアの演技力の高さを大いに物語っている。

 

監督のコリー・フィンリーは舞台の演出家で、映画の監督はこれが初めてのようだ。先に述べたアマンダの屋敷を見て回るシーンはロングのワンカットで撮影されており、カメラ・オペレーターが役者との絶妙な距離感を保ちつつ、どこか『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』を彷彿させるドラムを主旋律にした人間の不安を掻き立てるようなBGMが奏でられる。『 記憶にございません! 』の中井貴一と吉田羊の情事前のシーンは技術的に際立っていたが、映画的な技法としての完成度は本作のオープニングシーン(馬の後である、念のため)の方が上である。Establishing Shotの極致であり、迷走する人間関係と心理のメタファーになっている。

 

殺人を計画するにあたって、チンケなドラッグ・ディーラーを使うところもよい。やるかやらないか分からない、そんな根性がありそうでなさそうな pathetic な男と、獣性を秘めた女性たちのコントラストがサスペンスを盛り上げている。男という生き物は本質的には女の引き立て役なのかもしれない。Rest in peace, Anton Yelchin.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191007015515j:plain 

ネガティブ・サイド

登場人物があまりにも少ないせいで、オリビアの感情の欠落が周囲の人間にどのように受けとめられてきたのか、あるいは受け入れられずにきたのかが分からなかった。ちょっとエキセントリックな奴、と思われるだけならいいが、「サラブレッドを殺した奴」というのはちょっと違うと思う。走れなくなった馬を安楽死させるのは、割とよく知られた事実であるし、レースに勝てず気性が穏やかな馬は、乗馬クラブに行き、レースに勝てず気性が荒い馬は動物園で肉食動物のエサにされている。これもよく知られた事実である。馬を殺したこと、その方法が残虐であったことを指してアマンダを「ヤバい奴」に認定するのはちょっと納得がいかなかった。これはJovianの実家がかつては焼肉屋で、Jovian自身も小学校6年生の時に牛の屠殺場に実際に親子で見学に行った経験を持つからかもしれない。

 

継父を殺したいほど憎く思っている背景の描写も弱い。登場シーンからして張りつめた空気が二人の間に漂っているが、そうした緊張感の漲るシーンをもう2,3か所、時間にして2~3分ほどでよいので、各所に挿入されていれば、劇中に二つ存在する真夜中のシーンのサスペンスがもっと盛り上がったのにと思う。

 

総評

女は怖い。つくづくそう感じさせてくれる。女性に対して満腔の敬意と言い知れぬ恐怖を抱くJovianのような小市民は、本作のような女の物語を非常に怖く、危うく感じる。これはネガティブにではなく、作品に対するポジティブな賛辞である。小市民男性は本作を観て、男と言う生き物のケツの穴の小ささを再確認しよう。亭主関白を自認する人は観ないことをお勧めする。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

outside the box

 

しばしば think outside the box という使い方をする。直訳すれば「箱の外で考える」だが、意訳すれば「固定観念にとらわれることなく考える」、「既存の枠組みを超えて思考する」ということ。これができるかどうかが、学生にとっても社会人にとっても、ますます重要になってくるだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, オリビア・クック, サスペンス, 監督:コリー・フィンリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

Posted on 2019年10月3日 by cool-jupiter

ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 75点
2019年9月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クメイル・ナンジアニ ゾーイ・カザン
監督:マイケル・ショウォルター

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191003224355j:plain

 

Jovianはインド映画好きである。だが、インドの隣国パキスタンのことはよく知らない。せいぜい『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でインドから宗教的に分離した国であるということぐらいしか知らなかった。そんなパキスタン出身のクメイル・ナンジアニ自身の逸話が映画化された。外国人が増加しつつある日本においても非常に示唆的な作品であると言えよう。

 

あらすじ

スタンダップ・コメディアンのクメイル(クメイル・ナンジアニ)はパキスタン出身。アメリカで芸人としてのキャリアを追求する一方、因習にうるさい母親たちを断り切れず、形だけの礼拝、形だけのお見合いをしていた。ひょんなことからアメリカ人のエミリー(ゾーイ・カザン)と知り合い、逢瀬を重ね、親しくなるが・・・

 

ポジティブ・サイド

脚本を書いて、それを自分でも演じる映画人としてM・ナイト・シャマランが思い浮かぶが、彼はチョイ役専門である。シャマランの本業は監督であるが、クメイル・ナンジアニはコメディアンにして、映画の主演も張る。そして、見事な演技力。自分で自分を演じるのは存外に難しいものと思う。なぜなら、そんな練習は普通はしないから。そこはしかし、スタンダップ・コメディアンのキャリアが生きている。あらゆる状況を自分の言葉と仕草と小道具で説明し、受け手に何らかの変化(特に笑い)を励起させるという意味ではお笑い芸人は案外、役者の素養を備えているものなのかもしれない。クメイルを見ていて感じるのは、彼は誰に対しても気後れしないのだな、ということ。異国で暮らすことは難しいことだ。異国だからこそ、自国のらしさにこだわってしまうことが人間にはよくある。『 クレイジー・リッチ! 』でも指摘したが、異邦人は自らのユニークさ、違いを殊更に強調しようとする傾向がある。クメイルはパキスタンそしてイスラムの伝統や因習を一方的には否定しない。しかし、それらを受け入れもしない。個人として自立している。アメリカ的と言えばアメリカ的だし、現代的と言えば現代的である。こうした個の強さを兼ね備えた人間の物語にはインスパイアされることが多いが、その逆に「こうした種類の人間にはとても敵わないな」とも思わされる。けれど、よくよく考えてみれば勝つだとか負けるだとかに思いを巡らせてしまうこと自体がおかしなことだ。クメイルの生き様から学ぶべきことは「自分らしくあれ」ということ。これは現代の日本人にとっても inspirational で motivational なことだろう。9.11はきっかけになっているが、たとえあのテロがなくとも、クメイルは自国および自分をネタにした可能性は高い。

 

そうそう、こんな辺境のブログを読んでいる英語教育関係者がいるかどうかは知らないが、multi-national students を教えるに際しては、外国および外国人のイメージをその国の出身者でない者に尋ねるのはタブーである。TESOL、またはそれに類した教授法を学んだ人であればお分かり頂けよう。外国のことはその国の人間に語ってもらう。生徒、受講生には自国のステレオタイプを語ってもらい、それをクラスでシェアするのが原則である。クメイルのパキスタンネタのコメディを笑うのは時に難しいかもしれないが、大坂なおみをネタにした芸人が壮絶に滑ったり、ダウンタウンの浜田がブラックフェイスを批判されても「差別の意図はなかった」として反省しなかったことを、我々はもっと真摯に受け止めねばならない。外国語の教育に携わる人間こそ、語学ではなく国際的な歴史と人権意識を学んでほしいと切に願う。この国では、文法と形式に拘泥するくだらない教育者もどきが余りにも数多く跋扈している。

 

Back on track. ゾーイ・カザンは相変わらずキュートである。プリティーである。こんな女性をバーで口説き、そのままベッドインできれば最高であろう。美人だから最高なのではない。語るのが辛い過去があり、クメイルを好いているが故に、自分を棚に挙げつつも、彼が秘密を打ち明けなかったことに激怒する人間らしさが魅力なのである。男という生き物は、なぜか女性に幻想を抱きがちである。そういった幻想をぶっ飛ばす(性的な意味ではない)夜の語らいシークエンスは、実話か、もしくはそれに近い逸話があったのだろう。このあたりが凡百のラブロマンスとは異なるところであり、我々が人種や宗教、国籍などを飛び越えて、クメイルとエミリーというカップルを好ましく思える所以である。

 

本作はアメリカ版『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』でもある。破局してはいるもののクメイルはエミリーのステディだった。そんな男が相手の女性の両親とどのように向き合い、どのように語り合い、どのように信頼を勝ち得ていくのか。たいていの男性既婚者が通る道ではあるが、見ていて大変に辛い展開もあり、微笑ましくなれるところもある。これらを通して、我々小市民もクメイルとエミリーのドラマに共感できるのである。確かに、我々はinternational / interracial な関係をなかなか築くことができる社会には生きていない。しかし、個としての強さを学ぶことはできるし、実は人種や宗教といった面を取っ払えば、我々一人ひとりは同じく等しく人間なのだというよく分かる。そのような見方を本作は許してくれる。『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』とセットで見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

次から次に現れるお見合い相手のパキスタン人女性が揃いも揃って、とてつもなく美人である。そんなことがありうるのだろうか。パキスタン人女性に美人は少ないと言っているわけではない。念のため。アメリカにいるパキスタン人の皆が皆、クメイルのような男ばかりではないだろう。Jovianなら、あの母親が見繕ってきた一人目の相手に一目惚れしてしまったかもしれない。結婚するかどうかは別にして、好意的な気持ちは間違いなく抱く。そういった美女をすべてつれなく袖にしたというのは実話なのだろうか。どうにも信じがたい。『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』のように、存命の人間を描くと、その部分はどうしても美化されがちである。お見合いプロットに出てきた女性たちは、文字通りに美化されすぎていると推測する。そんなことをしなくても、エミリーの魅力は外見ではなく内面にあることは充分に伝わってきた。自身を持ってほしい。

 

クメイルのコメディアン仲間たちとエミリー、そしてエミリーの両親のinteractionはなかったのだろうか。コメディアン連中は全員、白人。これは事実に即してのキャスティングなのだろうが、無意識のうちに我々が異なる人種の間に感じ取ってしまう緊張感のようなものが、単なる虚妄に過ぎないという展開が、もっと欲しかった。

 

総評

これは傑作である。なぜ劇場公開をスルーしてしまったのか。痛恨の極みである。事実は小説よりも奇なりと言うが、そうした事実の一つひとつは、実は結構、陳腐なエピソードだったりする。例えば、ガールフレンドの父親と会話をするというのは、たいていの男にとっては必須の通過儀礼だ。そうしたイニシエーションは陳腐だが、一つとして同じものはない。クメイルとエミリーの関係も類型的ではあるが、とてもユニークだ。上質のロマンスに興味があれば、是非本作を観よう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get it, man.

 

「 気持ちは分からんでもないがな 」という感じの意味である。【『ジョジョの奇妙な冒険』で英語を学ぶッ!】という奇書で、柱の男カーズが放つ台詞である。“I got it.”=分かった、“I get it.”=分かる、である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クメイル・ナンジアニ, ゾーイ・カザン, ラブロマンス, 監督:マイケル・ショウォルター, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

『 ピクセル 』 -レトロゲーマーのノスタルジー映画 -

Posted on 2019年9月29日 by cool-jupiter

ピクセル 65点
2019年9月23日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:アダム・サンドラー ミシェル・モナハン ピーター・ディンクレイジ
監督:クリス・コロンバス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190929190449j:plain
 

カーラ・デルヴィーニュとアシュリー・ベンソンの交際1年のニュースに、彼の国の自由さを感じた。Pretty Little Liarsの主要キャストのその後を追いかけようと、『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』に続いて、トローヤン・ベリサリオの『 マーターズ 』を探しているも、クソ映画との評判のせいか見つからず。ならば、劇場で観たこちらを最鑑賞。

 

あらすじ 

サム(アダム・サンドラー)はゲームの天才少年だった。長じてもゲームに興じ、妻に逃げられた冴えない中年のサムは、ある時、ホワイトハウスに召集される。かつて宇宙に送られたメッセージに含まれたゲーム映像が宣戦布告と受け取られ、宇宙人がゲームの形式で地球を攻撃してきたのだ。サムたちはこの危機をクリアできるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

ドンキーコングやパックマンが隆盛を極めた時期とJovianが小学生になる、つまりゲームをプレーできるようになる時期は微妙にずれていた。が、ここに登場するゲームはどれもこれも懐かしいものばかりである。特にスペースインベーダーは親父と銭湯に行った時に、よくプレーさせてもらったし、百円玉を山と積んだオッサンのプレーを傍で眺めていたこともある。古き良き時代という言葉は好きではないが、ノスタルジックな気持ちにさせてくる映画であることは間違いない。特にアラフォーには刺さる作品であろう。

 

本作は子どもであり続けることと大人になることの両方が追求される、ユニークな作品でもある。主人公のサムは子どもの頃から大好きだったゲームに大人になっても興じているが、彼は世界大会の決勝で敗れたことが、抜けない棘のように心に刺さったままなのだ。その棘が抜ける瞬間こそが作品にとってもサムというキャラクターの成長にとってもハイライトなのである。一個人の内面の変化が世界の危機を救う(または引き起こす)というのは、『 新世紀エヴァンゲリオン 』に象徴されるように、オタクの好物テーマなのである。そのことをクリス・コロンバス監督はよく理解している。オタクの好きなレトロゲームをふんだんに使い、リアルに再現しているから面白いのではない。オタクが苦手とする心の成長をドラマチックに描いているから面白いのである。

 

だからといって、オタクの生態を美化しているわけでもない。特にサムの友人ラドローによる米軍精鋭への pep talk の脱線ぶりはたくまざるユーモアを生み出している。『 ハクソー・リッジ 』ではヴィンス・ヴォーンが恐ろしくも面白おかしい鬼軍曹を好演したが、あちらは毒の効いたユーモア。こちらはコミュ障の哀れさとみじめさが笑える形で爆発する。笑ってはいけないはずなのに、笑ってしまう。

 

もちろん、ロマンスもあるので安心してほしい。ピーター・ディンクレイジの趣味はちょっと理解できないが、ラドローの趣味は理解できる。もちろん、逆の意見もあるだろう。大切なことは、「愛」の形の多様性を認めることだ。そんな教訓も得られるエンタメ作品である。

 

ネガティブ・サイド

地球人は、やはり宇宙人による侵略を受けないと一つにまとまることができない生物なのだろうか。これは『 インディペンデンス・デイ 』以来、いやそれ以前から、ずっと立てられ続け、そして答えを出せていない問いである。ID4から幾星霜、我々の間の分断は進むばかりである。日陰者たちが活躍する物語には胸がスカッとするものの、現実の人間社会の問題は何一つ解決しないという寂しさも残る。最後に残るハイブリッドは素晴らしいと思うが、アダム・サンドラーとミシェル・モナハンのロマンスも描いて欲しかったと思う。

 

街中にピクセルが放たれた時こそ、米軍兵士が活躍する場で、そこにスペクタクルがあるべきだったと思う。なぜなら、屈強なソルジャーたちを大活躍させながらも、やっぱり最後はアーケイダーズでないと手に負えないという流れが欲しかったからだ。イギリスの対センチピードでそうなったが、あれはゲームのルールを軍人が理解できていなかったからで、ルール関係なしの市街戦なら、米軍兵士の独壇場だったはず。そこで彼らを大活躍させ、しかし、最後はやはりレトロゲームでないと決着がつけられない、という流れの方がもっとノレたと思うのだが。

 

総評

二度目の鑑賞だが、フツーに面白い。ただし、あくまでフツーの面白さであって、それ以上ではないので注意。今の若い世代では何のことやら分からない描写もあるだろう。個人的には、中学生ぐらいの頃だったか、『 スーパーマリオクラブ 』で日米のマリオカートのチャンピオン同士のマッチレースで、全米王者(子ども)が日本王者(子ども)を圧倒したのを思い出した。ゲームでもやはりアメリカは王国なのである。だからといって日本のゲーマーが劣るわけではない。かつてゲーマーだった少年少女であれば、レンタルや配信で一度はチェックされたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Did I do good?

 

「俺は上手くやったかな?」 goodは基本的に形容詞なので、文法的には少々おかしい。しかしそんな事を気にしていては、外国語の運用能力など身につかない。言語学習は基本的にネイティブスピーカーの真似をすることである。これと同じような台詞は『 ベイビー・ドライバー 』でも聞こえる。ジョン・ハムがアンセル・エルゴートに“You did good, kid.”と言う台詞がそれである。機会を見て、一度使えば身に着く簡単フレーズだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アダム・サンドラー, アメリカ, コメディ, ピーター・ディンクレイジ, ミシェル・モナハン, 監督:クリス・コロンバス, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ピクセル 』 -レトロゲーマーのノスタルジー映画 -

『 エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ 』 -学校教材に適した映画-

Posted on 2019年9月23日2020年4月11日 by cool-jupiter

エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ 70点
2019年9月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エルシー・フィッシャー ジョシュ・ハミルトン
監督:ボー・バーナム

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190923204828j:plain


 

オバマ前アメリカ大統領が2018年のfavorite movies に挙げた内の一本。『 ブラインドスポッティング 』や『 ブラック・クランズマン 』、『 ビールストリートの恋人たち 』などの系列の一本と書くと、「え?」と思われるかもしれないが、アメリカ(に代表される先進国)における“分断”は人種の間にだけ生まれているわけではないのである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190923204848j:plain


 

あらすじ

ケイラ(エルシー・フィッシャー)は8年生。何らかのトピックについて自分の意見を語る動画をYouTubeにアップしているが、閲覧回数は全く伸びない。そして学校でも、“学年で最も無口な生徒”賞を頂戴してしまう。ひょんなことから学校一の美少女の誕生日パーティーに招かれたケイラは、自分を変えようと意を決してパーティーに出席するが・・・

 

ポジティブ・サイド

まるで『 スウィート17モンスター 』の低年齢バージョンである。コミュ障気味というか、自意識過剰な女子の物語であると言えば、概要はお分かり頂けよう。ただし、ヘイリー・スタインフェルド演じるネイディーンは内に溜めこんだマグマを周囲の人間に対して爆発させる痛いタイプの女子だが、こちらのケイラは内に溜めこんだマグマを不特定多数無限大(梅田望夫風に言えば)に向けて爆発させ、空回りするタイプ。ここに本作の特徴がある。つまり、人間関係の本質が、テクノロジーの存在とその進歩により、変化しつつあるのだ。

 

そのことは劇中でも若者達によって語られる。高校生とモールでファーストフードを食べながら、どんなアプリを使っているか、いつからそれを使っているのかで、中学生と高校生ですらジェネレーション・ギャップを感じるのだ。況や、オッサンをや。『 マネーボール 』でブラピ演じるビリー・ビーンが愛娘に言う、“Don’t go on the Internet. Watch TV, read newspapers and talk to people.”=「インターネットなんか見るな。テレビを見て、新聞を読んで、人と話すんだ」という台詞が端的に世代間のギャップを表してくれている。ケイラはまさにビリー・ビーンの娘と同世代なのだ。生身の人間関係と同じくらいに、ソーシャル・メディア上での自分の評価を気にしてしまう世代なのだ。

 

もう一つ、これは日本の若い世代を中心に当てはまることでもあるのだが、ケイラは調べ物をする時に即座にYouTubeへ行く。Jovianはそれ自体は悪いことではないと考える。学習に最も重要な要素はタイミングである。知りたい、学びたい、と思った時こそが絶好のタイミング=レディネスである。問題は知りたい、学びたいという対象や内容である。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』で、大阪のとある小学校の性教育の授業について紹介したが、本作でも学校現場の性教育の一端が開陳される。ごく一部ではあるが、正直アホかと思う導入部である。性教育に関してはおそらく二通りしかない。教師、あるいは大人が自身の体験を真摯に語って聞かせてやる。もしくは、極めてドライに男女の身体の解剖生理学を教え込む。これらしかないと個人的には思っている。前者の好例は【 3年B組金八先生5 第21話 】である。特に若い世代に真剣に観て欲しいと切に願う。学校の先生の話は真面目に聞こう。高校生、大学生、浪人生あたりは英会話スクールの先生の話も真面目に聞・・・かなくても別に構わない。

 

Back on track. 劇中でケイラは自分が生身の人間であることを思い知らされるシークエンスがある。ここで我々は、いかに心と体を一致させるのが困難であるかを思い知る。それは子どもだからとか大人だからという問題ではない。月並みではあるが、コミュニケーションとはテクニックやルールではなく、愛情の有無で決まるものなのだ。相手を思いやる心がそこにあるかどうかなのだ。そのことを全編通して不器用に見せてくれた父親のジョシュ・ハミルトンは『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』のロブ・リグルと同じく、素晴らしい仕事をしてくれた。世代間の分断、男女の分断を乗り越える熱演だったと評したい。

 

ネガティブ・サイド

高校生グループに混じった時に、もう少しケイラが浮いた感じがあれば、彼女が背伸びしようとするところにもっと説得力が生まれたはずだ。特にYouTubeの自分語り動画並みの背伸びを現実世界でやって、そのせいで痛い目を見るというサブ・プロットがあれば、動画のアップロードを止めることに必然性が生まれたと思う。このあたり、やや唐突過ぎるように感じられた

 

最終盤で、美少女キャラに溜まりに溜まったマグマを吐き出すが、これでは足りない。イケメン男子の方にもぶちかましてやる必要があった。これではバランスが悪いし、カタルシスが充分に得られない。「私は生身の人間で、その中には心があるのよ!」という叫びは、クソ女子とクソ男子、両方にぶつけてやらないと片手落ちではないか。

 

エンディングのもうひと押しも弱かった。自分の住んでいた世界の狭さを知って、人生の次のステージに進んでいくという筋立てでは『 レディ・バード 』が先行しているし、率直に言えば『 レディ・バード 』の方が面白さでは上である。

 

総評

正直なところ、エンターテインメント作品としては普通である。『 スウィート17モンスター 』を私立高校向けの視聴覚教材とするなら、こちらは私立中学校の視聴覚教材にちょうど良いかもしれない。娘の扱いに手を焼いているという世の困ったオジさん連中のエールにもなっている作品なので、自分はそれに当てはまると考える諸兄には速めの劇場鑑賞をお勧めしたい。親子関係に自身があれば、ぜひ娘さんも連れて行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out there

 

これが会話でサラッと使えればJovian先生はその学習者を上級と認定する。辞書的には「そこに」、「世の中には」というような意味になるが、実際は文脈などによってもう少し深い意味が生まれる。例えばテレビドラマ『 X-ファイル 』の THE TRUTH IS OUT THERE=真実はそこにある、は辞書的な意味で使われているが、『 摩天楼を夢見て 』のクライマックスでは「セールスってのは現場で学ぶんだ」という現場=out thereで表現していた。本作でもケイラの父が “put you out there”=自分の身を現場に置くことを説いていた。つまり、世の人々のいるところ、世俗に身を置け、という意味である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エルシー・フィッシャー, ジョシュ・ハミルトン, ヒューマンドラマ, 監督:ボー・バーナム, 配給会社:トランスフォーマーLeave a Comment on 『 エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ 』 -学校教材に適した映画-

『 アド・アストラ 』 -B級思弁的SF映画-

Posted on 2019年9月23日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 アド・アストラ 』 -B級思弁的SF映画-

アド・アストラ 50点
2019年9月21日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ブラッド・ピット トミー・リー・ジョーンズ
監督:ジェームズ・グレイ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190923180354j:plain

 

原題はAd Astra、To the starsの意味である。Adはラテン語の前置詞で、次に来る語が対格(accusative)か奪格(ablative)かで意味が変わる。Astraは対格で、ラテン語の原義的にはInto the starsが近い感じか。Jovianのall time favoriteSF小説の一つであるJ・P・ホーガンの『 星を継ぐもの 』でコールドウェルがハントのスカウトに成功して“This calls for a drink”といって、乾杯する時に二人が言う台詞が“To the stars”だった。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190923180431j:plain

 

あらすじ

ロイ(ブラッド・ピット)は宇宙飛行士。ある時、リマ計画で太陽系辺縁を目指し、消息を絶った父が生きていると知らされる。そして、その父の存在が地球に甚大なダメージをもたらしかねない。ロイは父とコンタクトを取るべく、火星経由で海王星を目指すことになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

超長距離宇宙航行については、我々はワープ航法やクライオ・スリープ技術に慣れてしまっているせいか、宇宙という絶対的に孤独な空間で長時間を過ごす人間の精神にかかる負担というものを見過ごしがちである。『 インターステラー 』でも、23年を孤独に過ごした男がいたが、彼にはTARSがいた。ロイは通信もシャットダウンし、孤独に宇宙を旅したが、そこで去来する多くの想念をブラピの表情だけで描き切るという、予算があるのだかないのだか分からない撮り方をしたことが、結果的に上手くいった。宇宙は本来、人間にとって優しくも温かくもない存在で、究極的に人間に無関心である。そうした存在と孤独に対峙した時に人はどうなるのかを、心理テストに必ずパスするロイというキャラクターを通じて、ブラピは見事に描出した。このあたりが評論家に受けているのだろう。

 

月面や火星の星空が、さすがの美しさだった。CGとはいえ、NHKのコズミック・フロントで時々やっている5~15分の星空+音楽のショートプログラム、あれを彷彿させる。科学がどれだけ進んでも、人間がどれほど想像力をたくましくしても、星母子の世界には本当の意味でたどり着くことはできない。『 君の名は。 』でも感じたが、

星(多くの文化ではそれは太陽と月だ)は死と再生、破壊と創造のモチーフだ。地球外知的生命体との邂逅を求めて宇宙に飛び立った父、海王星付近で発生するサージという現象、そして本質的な意味での父の愛に飢えていたロイが、その父との再会を果たすべく目指す星の世界を見れば、これは父と息子という、ちょっと風変わりな star-crossed lovers の物語なのだ。静謐で、思弁的な、我々が忘れかけていたSF的なSFである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190923180417j:plain


 

ネガティブ・サイド

過去の優れたSF作品へのオマージュが散りばめられている、と表現できればよいのだが、実際はデジャヴを感じるばかりである。『 ゼロ・グラビティ 』、『 火星の人 』、『 インターステラー 』、『 コンタクト 』など、どこかで見た構図やショットで溢れていて、オリジナリティは見出せなかった。

 

また冒頭でその姿を明らかにして、観る者の度肝を抜く軌道エレベータも、なぜEVA(というか単純に屋外作業か)を行う時に命綱その他の安全装置や器具をつけないのか。あの世界では軌道エレベータ作業員には『 フリーソロ 』が義務付けられているというのか。そんな馬鹿な話があるはずがないだろう。

 

また、月面での車両ドンパチも意味不明である。人間の愚かしさ、尽きることのない領土的野心を描きたかったのかもしれないが、本作は思弁的SFのはず。アクションも入れておかないと観客が寝てしまうと思ったのなら、それは大間違い。もっと文明と人間の精神の関係を掘り下げるような描写・演出を用いれば、SFファンはついてくる。近年でも『 メッセージ 』(監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ)のように、極力アクション要素を排除しても高い評価を得るSFが生み出されている。

 

JovianはSF小説やSF映画は好きだが、科学的な知識の幅や量は並みか、それより少しはマシという程度である。そんなJovianでも、わずか80日足らずで火星から海王星に到達できるということには驚愕した。月面にマスドライバーでも設置して、そこから更に月軌道上に設置したローンチ・リングで再加速でもさせないと無理だろう。火星から海王星までは光速でも4時間。光速の1%などという、宇宙警察にでも反則切符を切られそうなスピードでも400時間。これで約16日。実際は80日ほどかかっており、加速と減速も加味すれば、やはりロケットの最高速度は光速の1%は出ているように思える。うーむ、ハードSFとして見れば、これは荒唐無稽もいいところだ。反物質は確かに実在するが、それを燃料として計算できる量を確保するには、地球よりも遥かにでかい捕獲&貯蔵装置が必要と何かのSF小説で読んだ記憶がある。機本伸司の『 僕たちの終末 』か、山本弘だったか。いずれにせよ、本作はハードSFとして科学的に頑強な基盤を持った作品ではない。というか、たった80日で行けるのなら、これまでに既に何度も海王星行きミッションが組まれていないとおかしいだろう。人類の危機なのだろう?考えれば考えるほど、本作のプロットには科学的、論理的な穴が見えてくる。

 

では、思弁的なSFとしてはどうか。地球外知的生命体探査というのは胸躍るミッションであるが、クルー同士で諍いを起こして実質的にミッション・アボートでは話にならない。知性ではなく、心で感じる何かを大切にしましょう系のメッセージなのかと思ったが、終盤の親子を巡る超展開に茫然。トミー・リー・ジョーンズは何がしたいのだ。いや、探査がしたいのは分かる。だが、これでは小説『 地球最後の男 』や映画『 猿の惑星 』を足して2で割ったようなプロットにすらならないではないか。これなら『 インターステラー 』でアン・ハサウェイがどうしようもなくマット・デイモンを追いかけようとした、またマシュー・マコノヒーがそのアン・ハサウェイを追いかけようとした不条理ながらも力強い愛というもの、という演出の方が遥かに説得力があった。

 

 

総評

骨太なSFを期待するとがっかりさせられる。いや、何が骨太なのかは、鑑賞する者の嗜好やバックグラウンドによって様々だろうし、そうあるべきだ。ブラピのファンであれば2時間まるまるブラピである。迷わず劇場へGoだ。しかし、ハードコアなSFやスペース・オペラ、スペース・ファンタジーを期待しているファンは、呆気にとられるか、または心地よい眠りに誘われるかのどちらかだろう。鑑賞前によくよく検討されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I am feeling good, ready to do my job to the best of my abilities.

 

to the best of one’s ability / abilities で「力の限り」、「全力で」、「精一杯に」の意味である。ラグビーのワールドカップが、本記事の時点で進行中である。ラグビーにもフォーカスした『 インビクタス/負けざる者たち 』でも、モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラが“All I ask is that you do your work to the best of your abilities and with good heart.”と述べる印象的なシーンがある。外資系に転職する際の面接、あるいは勤務初日のあいさつにでも使ってみたいフレーズである。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, トミー・リー・ジョーンズ, ブラッド・ピット, 監督:ジェームズ・グレイ, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 アド・アストラ 』 -B級思弁的SF映画-

『 アス 』 -我々の敵とは誰か-

Posted on 2019年9月22日2020年4月11日 by cool-jupiter

アス 75点
2019年9月19日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ルピタ・ニョンゴ
監督:ジョーダン・ピール

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190922015435j:plain 

ジョーダン・ピール監督の『 ゲット・アウト 』は、一部意味不明な描写があったものの、全体的にはギャグとホラーの両方をハイレベルに融合させた傑作だった。ピール監督の意識の根底に人種差別の問題があるのは間違いない。そして、その問題意識は本作にも貫かれているし、この作品はそのように観られるべきだろう。だが、Jovianは直感的には少々異なる見方、分析および考察をした。

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

あらすじ

アデレード(ルピタ・ニョンゴ)は、幼少期に自らの分身を目撃したショックから失語症になってしまった。月日は流れ、彼女は夫と娘と息子と共にカリフォルニアにバカンスにやってきた。しかし、彼女はそこで過去のトラウマがまたしても自分の身に迫っていると予感し、恐怖に怯える。果たして、深夜、家の外に自分たちそっくりの一家が現れて・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭のウサギは異世界への案内人代わりか。『 マトリックス 』でもそうだったが、J・ピール監督は、どのような世界に我々を誘ってくれるのか。

 

ドッペルゲンガーと遭遇する物語で近年の白眉と言えばドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『 複製された男 』だろうか。アデレードたちのもとに現れたアス=私たちは、普通に考えれば地下世界のクローンなのだが、Jovianは彼ら彼女らはインターネット世界のアバター=自分の分身を体現したものなのかと感じた。たいていの人はインターネット上では意見が過激になるし、他者に対して攻撃的な態度に出てしまいがちだ。そして、そんな一部の過激なネット上の声が、現実世界の政治にまで影響を及ぼす。そんなディストピアな世界にまさに我々は住んでいる。同じ国に住まう者が、同じ国に住まう者を攻撃する。アジア系のアメリカ人、ヒスパニック系のアメリカ人、様々なアメリカ人が存在する。『 ボヘミアン・ラプソディ 』でフレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックはエジプト系のfirst generation Americanであると、自身がオスカー授与式の際に語っていたことを覚えている映画ファンも多いだろう。一方で『 ブラック・クランズマン 』に見られるように、同じアメリカ人でありながらも、白人か黒人かという違いだけで、一方が他方を攻撃の対象にすることもある。また、人種の別に依らず、価値観、信条などでも一方が他方を攻撃することがある。プロライフ派が人工中絶を行うクリニックを爆破する事件(というか犯罪、またはテロ行為)は今でも行われているのだ。また政治的思想もアメリカの分断の特徴である。共和党主義者と民主党主義者で“分断”されるアメリカ=USA=US=Us=アスを、この映画は象徴しているのだろう。現実世界ではトランプ支持の声は決して大きくなかったものの、実はネットではトランプ支持の声が相当にあったという分析もある。まるで梅田望夫が著書『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 』で2005年の郵政解散での小泉勝利を予見したように、ネット上の言説空間での声は時に現実世界にまで影響を及ぼすのである。

 

こうした穿った、明後日の方向の分析をしてしまうのは、Jovianが日本の現状について問題意識を抱いているからだろう。『 判決、ふたつの希望 』で日本のコンビニ店員さんたちがどんどん外国人労働者になってきていることに触れたが、これは外国人による日本への攻撃なのか。つまり虐げられる、弱い立場にあった者たちが力(それは往々にして経済力と政治的な発言力だ)を持ちつつあることを脅威であると感じることなのか。それとも、外国人との共存を模索する契機とすべき変化なのか。レッドが片言の英語を話すのは、現代日本で問題になっている親の片方が外国人である子どものランゲージ・バリアーのモチーフと見るのはさすがに穿ち過ぎか。いや、オーソドックスな分析や考察は他サイト、他ブログに譲ろう。本当に強調すべきは、本作は実に多様な見方を許容する深みのある作品であるということだ。

 

他に特筆すべきことがBGMのクオリティの高さである。『 ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 』でも重低音の効いた、静かで、それでいて迫力のあるサウンドが魅力的だったが、本作のBGMの重低音は下腹部ではなく背筋に響いてくる感じがする。このサウンドは音響の良い劇場で味わって頂きたいと思う。

 

ルピタ・ニョンゴ渾身の演技。ジョーダン・ピール監督の現実批評とユーモアのセンスのバランス感覚。意表を突くカメラワークもある。決して見逃すことなかれ。

 

ネガティブ・サイド

普通の人間が決して知らない、近づけない地下世界があるという世界観は、既に『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』が先行している。また、序盤早々のモグラたたき(Whack ‘em All)は地下に住む存在が顔を出したら、すかさずブッ叩くという世界観の背景を表したものかと思ったが、それを説明または強調する描写や演出はなかった。うーむ・・・

 

アスの長男の撃退が、江戸川乱歩の『 目羅博士の不思議な犯罪 』である。かなり衝撃的なシーンのはずだが、個人的には「おいおい、ここでそのネタかよ」であった。だが、ここは評価が分かれるシーンであろう。たまたまJovianのテイストに合わなかっただけである。

 

父親がユーモラスなのだが、『 ゲット・アウト 』のリル・レル・ハウリーの面白さには到底及ばなかった。同じ監督であっても微妙にトーンの異なる映画であったが、今回の父親はもっと振り切った面白さを表現して欲しかった。アスが家の外で手に手を取っているシーンは、もっとファニーにできただろう。そうすることで、ストーリーの陰陽の反転がもっと鮮やかに感じ取れることができただろう。

 

総評

これは傑作であると言ってよい。『 ゲット・アウト 』とどちらが上かと言われれば、評価は分かれるだろう。一つ言えるのは、ピール監督は、映画でもって現実批評をさせれば、いま最も旬な監督であるということだ。US=アメリカのことだけだと思わずに、この物語現代日本社会に当てはめた時に、どのようなアレゴリーになっているかを考察してみるとよい。きっと様々な仮説が生まれてくることだろう。単なるホラーではない、思考を刺激するホラー映画である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You gotta be kidding me!

 

マイケル・ルイス著の『 マネーボール:不公平なゲームに勝利する技術 』でビリー・ビーンが他球団のドラフト1位指名を聞いた時に“You fucking gotta be kidding me!”と叫んだとされる。訳書では「ほんとか、おい!」となっている。何か信じがたいこと、冗談だろうと思えるようなことが起きた時に、この台詞を使ってみよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ホラー, ルピタ・ニョンゴ, 監督:ジョーダン・ピール, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 アス 』 -我々の敵とは誰か-

『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

Posted on 2019年9月19日2020年4月11日 by cool-jupiter

フリーソロ 70点
2019年9月16日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アレックス・オノルド
監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ 監督:ジミー・チン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190919203336j:plain

ミハエル・シューマッハの容態が好転しつつあるとの報があった。ふとアイルトン・セナの事故死を思い出した。モータースポーツの危険性は改善はされたものの、依然残っている。マリンスポーツ然り、スカイスポーツ然り、ボクシングを始め格闘技は言うに及ばず。だが最も危険なのはmountaineering、特に安全用の装備や危惧を一切用いないフリーソロは自殺行為と呼んでも差し支えないだろう。なぜそのような危険な営為に従事する人々が存在するのか。本作はそこに一定の回答を提示する。

 

あらすじ

アレックス・オノルドは世界最高レベルのクライマー。彼には夢があった。ヨセミテ国立公園の巨岩エル・キャピタンをフリー・ソロで登攀すること。練習と鍛錬を積み重ねたアレックスは遂にフリー・ソロでエル・キャピタンに挑む・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190919203419j:plain 

ポジティブ・サイド

NHKの『 体感!グレートネイチャー 』でヨセミテ特集を観たことがある。エル・キャピタンかどうかは定かではないが、寝袋に収まってミノムシの如く岩肌にぶら下がっているクライマーを見て、クレイジーな人間がいるものだ、と感じたことはよく覚えている。しかし、アレックス・オノルドはさらにクレイジーだ。安全装備なしで、この巨岩に挑むというのだから。

 

登山家とクライマーはおそらく別人種だろうなと思わされた。登山を趣味にするのは経営者や医者が多いと言われる。俗世のストレスなどから一時的に逃れたいのだろう。アレックス・オノルドのようなクライマーは天然生粋のアスリート型なのだろう。殴られると痛い、減量はきつい、報酬は人気が出ないと上がらないというボクシングのようなもので、「なぜ登るのか?」とアレックスに尋ねれば、“Because I can’t sing or dance.”と答える可能性は高そうである。アレックスはヴァンで暮らすベジタリアン。収入は成功した歯科医ほどあるが、家を買ったりすることには興味が無い。ガールフレンドはいるが、手を焼かされるというか、文字通り骨を折らされている。グーグルの創業者二人が受けたことで注目を集めたモンテッソーリ教育をアレックスも受けているのだが、もしもアレックスのような個人が日本にいれば、きっと京都大学へ行くのだろう。変人は京大では褒め言葉らしいから。Jovianは現役時代に京大に落ちたからな!

 

Back on track. ドローンをふんだんに使った本作のカメラワークは文字通りに息を飲む。また、エル・キャピタンに挑むアレックスには荘厳なBGMが似合っているが、そこにはお決まりの映画的演出が一切ない。一瞬足を踏み外した、指にかかったはずの岩に亀裂が入った。そんなクリシェは一切存在しない。そんなものを入れる余地はない。だからこそ、アレックスは気にする素振りも見せなかったが、観客側が肝をつぶすような瞬間が撮影されている。Jovianはこの瞬間にイスから飛び上がってしまった。ドキュメンタリーでしか出せない味であり迫力である。

 

ネガティブ・サイド

クライマーのなかでもフリー・ソロをやるのは1%未満ということで、それだけ難易度も危険度も高いことが分かる。もちろん一般人たる我々にもその危険性は直感的に分かるが、それをもっとエキスパートの視点から語ってもらいたかった。アレックスのメンター的存在、練習パートナー的存在のクライマーは登場するが、その他に登場するのは個人となたクライマーの写真が多かった。もっと現役のクライマーたちに、エル・キャピタンとはどのような存在か、それにフリー・ソロで挑むのは、ドン・キホーテよりもクレイジーなことであると語ってもらいたかった。

 

ドローンによる撮影技術は素晴らしかったが、アレックスの見ている世界を我々も見てみたかった。例えば『 クリード 炎の宿敵 』で、コーナーにくぎ付けにされたクリード視点でヴィクター・ドラゴのパンチを雨あられと浴びるシーンがあったが、あのような当事者の視界というものを体験してみたかった。アレックス本人のそれは無理にしても、他のクライマー(もちろんロープや安全器具を使った状態で)に小型カメラ付きの帽子なりヘルメットなりをかぶってもらって撮影することもできたのではないだろうか。

 

総評

非常に力強いドキュメンタリーである。ボルダリングがスポーツとして普及しつつある今、本家ロック・クライミングに興味のある人も増えてきているのではないだろうか。そうした人々が見ても楽しめるだろうし、普通の映画ファンが見ても充分にスリリングである。ドキュメンタリー好きならば、劇場の大画面で鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get a feel for someone/something

 

文字通り、「感触を得る」という意味である。劇中ではget a feel for the route = ルートの感触を得る、という具合に使われていた。

get a feel for the new car

get a feel for the atmosphere of the city

get a feel for what this computer is capable of

これも状況・文脈に応じて練習してみよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, アメリカ, アレックス・オノルド, ドキュメンタリー, 監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ, 監督:ジミー・チン, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

『 ブラインドスポッティング 』 -見えない自分のアイデンティティを巡って-

Posted on 2019年9月18日2020年4月11日 by cool-jupiter

ブラインドスポッティング 70点
2019年9月15日 大阪ス―ションシティシネマにて鑑賞
出演:ダビード・ディグス ラファエル・カザル
監督:カルロス・ロペス・エストラーダ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190918234509j:plain
 

オバマ前アメリカ大統領が選んだ favorite movies of 2018の一つであると鑑賞後に知った。Jovianがオバマ氏は大統領としては功罪相半ばする人物だと今でも考えている。彼の美点はトレイボン・マーティン射殺事件の下手人であるジマーマンへの無罪判決に怒りと悲しみの涙を流せることであり、彼の醜悪な点は『 華氏119 』ミシガン州フリントの水道水汚染に対して必要な手段を講じず、下手なパフォーマンスで逃げ切ろうとしたところだ。だが、オバマ氏の映画鑑賞眼には興味がある。本作はどうだろうか。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190918234530j:plain


 

以下、ネタバレに類する記述あり

 

あらすじ

黒人青年コリン(ダビード・ディグス)と白人青年マイルズ(ラファエル・カザル)は11歳の頃からの親友だった。過去のある事件の保護観察期間があと3日で終わろうという夜にマイルズは銃を購入。コリンはそれを煙たがる、その翌日の仕事帰り、コリンは警察官が逃げる黒人男性を射殺するところを目撃する。動揺するコリン。マイルズはそれを茶化す。徐々に、二人の間の盲点が浮かび上がってきて・・・

 

ポジティブ・サイド

オープニングからスクリーンが左右に二分割されている。コリンとマイルズ、二人が見ているオークランドの景色は、実は少し異なっているということが観客に「視覚的に」分かるように作られている。これは面白い試みである。

 

アメリカ社会の抱える問題は至って明白である。差別意識である。いや、意識ではなく無意識と言った方がふさわしいかもしれない。マイルズという男は親友が黒人、嫁さんも黒人という、一見すると人種差別とは無縁な男に映る。しかし、コリンの目撃した黒人射殺事件について、「4発撃たれた」という報道のコメントに「それがどうした? 14発撃ち込まれた奴もいたじゃないか!」と返す。数の問題ではないだろう。相手が抵抗しているわけでもないのに、警告や威嚇射撃もなく、複数回発砲することの是非を考えようとしないのか。こうしたところにコリンとマイルズの意識の違いが垣間見えるが、この無意識レベルで見えている、感じているものの違いが徐々に大きくなり、爆発していく展開は見事である。

 

コリンが射殺事件の現場を目撃してから抱く恐怖感は、ジェームズ・ボールドウィンが『 私はあなたのニグロではない 』で執拗に訴えていた、死への恐怖と全く同質のものである。『 ビールストリートの恋人たち 』でファニーが警察に理由なくしょっ引かれ、いつまでも自由を奪われたままでいるという物語を経験した者からすれば、コリンに共感することはいと容易い。想像力や感受性が豊かな方であれば、現在の日本の言論空間で在日外国人、なかんずく在日韓国人が感じる恐怖もこれと同質であると実感できれば、いかに日本が不自由で不寛容な国家になりつつあるのかを実感頂けよう。マイルズも言ってみれば『 パティ・ケイク$ 』に代表されるようなホワイト・トラッシュ=ゴミのような下層白人なのだ。それでも、彼は死の恐怖とは無縁に生きてくることができた。そこに埋めがたい人種の溝が存在する。しかし、決して埋めらない溝ではない。物語は、絶望ではなく希望をもって終わっていく。

 

それにしても、社会的な弱者やマイノリティを描くに際しては、普通の台詞や対話ではもう一つ足りない。『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』はそこをミュージカル風に仕立てたが、自らの内に眠るマグマを爆発させるための技法としては、本作のようなラップの方が遥かに良い。ラグタイム、ジャズ、ブルース、ロック、ラップ。これらは全て、黒人のソウルから生まれたものだからである。

 

それにしてもクライマックスの例の警察官の「殺すつもりはなかった」ってアホかいな。銃を向けて、1発で飽き足らず4発をぶち込んでおいて、殺すつもりはなかった。これがアメリカの現実なのである。これを我々は他山の石とせねばならない。

 

ネガティブ・サイド

いわゆるホワイト・トラッシュが無意識、無自覚に差別の構造に加担していたことを、もっと衝撃的に伝える演出が欲しかった。冒頭でマイルズがveggieなハンバーガーを「喰ってられるか」と吐き出すが、その後に店員にイチャモンをつけるシーンで、軽いラップ調で相手を罵ってもよかったのではないだろうか。そうすることで、黒人になり切れない白人を描くこともできるし、その後の金持ち白人のパーティーでみじめな思いをさせられるシーンが、よりhopelessでhelplessに描くことができたと思う。客の立場にある白人が、店員である白人を罵りながら、IT長者の主催するパーティーで黒人とケンカになってしまうというプロットは斬新で面白い。そこで親友で黒人のコリンが自分に加勢してくれなかったことで、マイルズは二重の意味で裏切られたように感じる。その部分の苦悩がもっと深まるような演出がほしかった。

 

コリンとマイルズの関係についても、単なる友情だけではなく、仕事上のプロフェッショナリズ、例えば『 ブラック・クランズマン 』におけるストールワースとジマーマンのような奇妙なパートナーシップが描かれていれば、二人の間のギクシャクした空気が、希望と共に回復していくところがより説得力と迫真性をもって感じられたはずだ。そのあたりがエストラーダ監督の課題なのかもしれない。

 

総評

100分以内でまとまったコンパクトな映画で、それでいてメリハリもしっかりついている。プロットはややpredictableだが、クライマックスのサスペンスは息をするのも忘れるほどの迫力がある。本作が究極的に問うのは、人間とは何かということである。この問いに正しく答えるのは難しいだろう。ただ、我々は正解を出すことはできなくとも、何が誤答であるかは即座に判断できるはずだ。本作を通じて、意識の盲点を意識するようにしてみて頂きたい。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190918234558j:plain

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Chill out!

 

チルド・フードなどでお馴染みchillである。意味は主に二つ。一つはcalm down = 落ち着け、の意である。もう一つは、hang out = 何もしない、遊ぶ、の意味である。文脈や状況によって使い分けたり、解釈を変えてみよう。Chillだけでも「落ち着け」、「静かにしろ」の意味で使うことも多い。ジョン・シナはWWEでプロレスをやっていた頃は、よく“Chill, chill, chill”と観客に言っていた。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ダビード・ディグス, ラファエル・カザル, 監督:カルロス・ロペス・エストラーダ, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 ブラインドスポッティング 』 -見えない自分のアイデンティティを巡って-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 フロントライン 』 -見せ方に一考の余地あり-
  • 『 時限病棟 』 -ピエロの恐怖再び-
  • 『 28年後… 』 -ツッコミどころ満載-
  • 『 ラブ・イン・ザ・ビッグシティ 』 -自分らしさを弱点と思う勿れ-
  • 『 近畿地方のある場所について 』 -やや竜頭蛇尾か-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme