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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アニメ

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

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ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 風の谷のナウシカ 』 -日本アニメ映画の最高峰の一つ-

Posted on 2020年7月19日 by cool-jupiter

風の谷のナウシカ 90点
2020年7月18日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:島本須美 榊原良子
監督:宮崎駿

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たしか初めて観たのは小学2年生の時、学校の体育館でだった。その後もテレビのロードショーで何度か観たし、大学の寮で留学生たちと一緒にも観た。おそらくそれが最後の鑑賞だった。今回はおよそ20年ぶりの鑑賞となる。ごく最近、駄作を観てしまったがために、どうしても口直しが必要だった。劇場の大画面で鑑賞して、あらためて本作は傑作だと再確認できた。

 

あらすじ

世界を焼き尽くした「火の七日間」から1000年。人類は、腐海と虫に脅かされながら生きていた。風の谷の姫ナウシカは、メーヴェを駆って、腐海を巡り、世界の真実を探求していた。だが、列国は貧困と恐怖の中でも戦争を行っていた。そしてナウシカと風の谷も、否応なくその戦いに巻き込まれていく・・・

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ポジティブ・サイド

30年以上前の作品であるにも関わらず、そのテーマの現代性に驚かされる。一つには、行き過ぎた技術文明への警鐘があり、もう一つには大自然が人類を脅かすことである。小説家の新城カズマに言わせれば「SF作品とは、人類と文明の遠近法」だが、その意味では1980年代のSFは、『 ターミネーター 』や『 ロボコップ 』といったロボットものか、そうでなければスペース・オペラまたはスペース・ファンタジーだった。中には『 ブレードランナー 』のような異色作もあったが、そこにあるのは人間が「機械」を見る眼差しだった。本作はそこに「生命」を見出している。腐海という、一見すれば究極のディストピアを、単なる恐怖や脅威の領域ではなく、ある大きな仕組みの一部として見ている。そこが非常に独特で、宮崎駿の異能あるいは異端さが際立っている。

 

本作は様々な戦争作品を取り入れつつも、それ自体が全く新しいジャンルを切り拓いたという点でも、日本映画史に残る作品である。巨神兵という、一見すれば『 ゴジラ 』にインスパイアされたように見えるモンスターが、その後の『 新世紀エヴァンゲリオン 』をインスパイアした点も興味深い。1980年代のゴジラと言えば、『 ゴジラ(1984) 』が本作と関連が深い。内容が、ではなく背景がである。オープニングでユパが探索している村に降る胞子は、どうしても核戦争後の「死の灰」を我々に想起させる。『 ゴジラ(1984) 』ではゴジラが原発を破壊し、そして日本の上空で核爆発が起きる。腐海の瘴気=放射能と見るのはいとも容易い。そして、COVID-19の第二波または第一波の揺り返しに遭っている現代日本では、もはや必携アイテムになってしまったマスクが本作では重要なガジェットになっている。世界観に普遍性があるのだ。「姫様、マスクをしてくだされ、死んじまうー!」という爺さんたちの叫びは、ブラックジョークにも悲痛な叫びにも聞こえる。時代を超えたユーモアがあり、恐怖感もあるのだ。時代と時代、ジャンルとジャンルの結節点である本作らしいと言えはしないか。

 

本作を傑作たらしめている最大の要因は、やはり主人公のナウシカのカリスマ性だろう。20年ぶりに観て、その戦闘力や指導力、カリスマ性、英知、博愛の精神に打ちのめされた。「お姫様」という存在は、基本的に王または王子なしには無力な存在である。宮崎駿はそこをひっくり返した。病に倒れた王ではなく、その娘のナウシカこそが風の谷の事実上の王である。そして指導者たる王が肉体労働を厭わず、自己犠牲に躊躇しない。国民が姫、あるいは王族の姿を見て結束、連帯する、あるいは分断、抗争していくのは世の常。それは上皇后・美智子様への国民的な感情と、親王妃・紀子様、あるいはJovianの後輩にあたる眞子内親王や佳子内親王への国民的な感情を比較してみれば分かる。2010年代のハリウッドが「機は熟した」とばかりに、優秀な“女性”にフォーカスした作品を陸続と送り出してきたが、それはほとんど『 ドリーム 』のような歴史に埋もれていた女性たちの物語だった。ナウシカのように、誰かに構想されたキャラクターはいなかった。ここでもクリエイターとしての宮崎駿の天才性が見える。もちろん、他キャラも素晴らしい。苛烈なクシャナとどこか憎めないクロトワの名コンビに、風の谷の爺さん連中、そしてよく働く子どもたちも強く印象に残る。

 

今の若い世代、10代の中学生や高校生は本作のアニメーションを見て、どのような感想を抱くのだろうか。「場面によってはあまり動かない絵があるな」とか、「画質が粗いな」と感じるのだろうか。一応説明しておくと、これは全て手描きのアニメーションなのだ。美しいかどうか、精巧かどうかという点で現代のアニメ映画、たとえば『 ウォーリー 』などとは比較にならない。だが、作画に注ぎ込まれたエネルギーの総量は決して負けていないのである。昨年(2019年)に放火被害に遭った京アニはジブリ作品にも深く関わってきたのである。

 

音楽も素晴らしい。宮崎駿作品と中期までの北野武作品には久石譲の音楽が欠かせないが、宮崎と久石のコラボとは、セルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネが組む、あるいはジョージ・ルーカスとジョン・ウィリアムズが組むようなものである。特にナウシカの飛ぶシーンのBGMが最高に情景にマッチしている。また効果音を聞き逃せない。『 スター・ウォーズ 』のミレニアム・ファルコン号やTIEファイターの飛行音、またライトセイバーのヴゥンという効果音は、そのオブジェそのものと不可分になっているが、本作ではメーヴェがそれにあたる。「飛ぶ」という行為を、視覚的にだけではなく聴覚的にも表現した宮崎の大いなる勝利である。

 

物語の内容と展開にも文句のつけようがない。劇作の基本として、物語には、キャラクターによって動かされるものと状況によって動かされるものに大別される。本作はその両方がパーフェクトなバランスで使われている。ナウシカは常に点から点へとせわしなく動くが、それは彼女自身の意思と、状況に応じた柔軟な判断である。同時に、彼女の意思とは無関係な他国の侵略や他国間の戦争によってでもある。ナウシカという万能に近い主人公が、状況をコントールしながらも状況に翻弄される。そのバランスが絶妙としか言いようがない。ストーリーの内容だけではなく、ストーリーの構成や展開も完璧である。

 

ネガティブ・サイド

ユパが「良い名を贈らせてもらう」と言った赤ちゃんの名前は結局どうなったのか。

 

巨神兵を積載したトルメキアの大型艦は、過積載で風の谷に墜落したが、それではそもそもどうやって離陸したのだろうか。他の航空機にえい航されながら滑走および離陸をしたとでも言うのか。また、蟲に襲われていたが、その蟲たちもどこで拾ってきたのだろうか。ウシアブは空を飛べるから分かるが、小型王蟲のような飛べなさそう蟲が船体に張り付いていたのは不可解だった。

 

声優陣はさすがの仕事ぶりだったが、唯一アスベルの声だけは、素人っぽく聞こえた。

 

総評

問答無用の大傑作である。小中高校生は、夏休みの宿題として本作を観るようにと各学校がお達しを出してもよいくらいである。三密を満たさないように、それこそ体育館で各学校で一日中、上映してもよい。宮崎駿がこれだけヒット作を連発できるということは商業性や大衆性というものをよく理解している証拠だが、一方で異能性や天才性も併せ持っている。ぶっちゃけた言い方をすれば、黒澤明や小津安二郎に並ぶクリエイターであると言っても良い。岩井俊二や是枝裕和は、まだ宮崎駿には及ばないというのがJovianの勝手な私見である。その宮崎の作品の中でも本作は一、二を争うクオリティである。親や祖父母は子や孫を是非とも映画館に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

Please put on the mask!

put on ~ = ~を身に着ける、の意である。対して(文脈にもよるが)、Wear a mask. は「普段からマスクを着用せよ」の意になる。日本の英語学習者はしばしばPlease relax. =どうぞおくつろぎください、のように言ってしまうが、Pleaseを頭につける命令文というのは、(これも文脈や口調によるが)かなり切羽詰まって聞こえる。「頼むからリラックスしてくれ」のような感じである。その意味で「姫様、マスクをしてくだされ」の英訳にはPleaseをつけるのがふさわしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1980年代, S Rank, SF, アニメ, 島本須美, 日本, 榊原良子, 監督:宮崎駿Leave a Comment on 『 風の谷のナウシカ 』 -日本アニメ映画の最高峰の一つ-

『 ソウル・ステーション パンデミック 』 - 前日譚っぽくない前日譚-

Posted on 2020年5月26日 by cool-jupiter

ソウル・ステーション パンデミック 50点
2020年5月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:シム・ウンギョン
監督:ヨン・サンホ

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『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』のprequelである。原作の原題はTrain to Busan = 釜山行き列車で、その出発地点はソウルだった。そのソウルでのパンデミック発生の模様を描く。COVID-19の制圧に国家総動員で取り組んで一定の成果を上げた韓国社会は、ゾンビにどう対抗するのだろうか。

 

あらすじ

ヘスン(シム・ウンギョン)とキウンは無一文のカップル。安宿の料金も払えず、ヘスンが体を売って日銭を稼いでいる。そんな中、とあるホームレスがソウル駅周辺でひっそりと失血死する。ホームレスの弟は警察を呼ぶが、何故かそこに死体はなかった・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から非常に暗澹たる気分にさせられる。韓国ではホームレスは空気なのか。『 ジョーカー 』でアーサーがテレビ番組に出演した時、“If it was me dying on the sidewalk, you’d walk right over me!”=「僕が道端で死んでいても、お前らは素通りしていくだろう!」という血の叫びが、まさにソウル駅構内およびその周辺では現実の光景になっている。こうしたEstablishing Shotのおかげで、本作は単なるホラーやパニック・アクションであるだけでなく、社会批判の意識を根底に湛えていることが伝わってくる。

 

ホームレスのおじさんの言う「病院は危険だ!」は蓋し名言だろう。ゾンビ映画で危険な場所というのはだいたいがショッピングモールがスーパーマーケットである。それは数々のゾンビ映画のオマージュに満ち溢れた『 ゾンビランド 』や『 ゾンビランド:ダブルタップ 』からも明らかである。そのセオリーを敢えて外しているのだが、この一言がまさにCOVID-19によって引き起こされた世界の医療崩壊を言い表していると考えると、非常に興味深い。

 

『 パラサイト 半地下の家族 』でキーワードとなった「におい」は本作でもフィーチャーされている。また、日本語で言うところの「足元を見る」行為の残酷さは隣国でも健在。武士や僧侶絡みの故事成語ではなかったか。貧困層を徹底的に踏みつけるストーリー展開は、韓国社会が徹底的なヒエラルキー構造になっていること、そしてそのような構造を打破するためには「第三身分による放棄」しかない、というのがヨン・サンホ監督の問題意識なのだろう。

 

物語は最後に結構なドンデン返しを用意してくれている。最終的に本当に怖いのはゾンビよりも人間なのか。資本主義社会の行き過ぎた世界を垣間見たようで震えてしまう。ゾンビによって象徴されているものは何か。ゾンビも『 ゴジラ 』と同じく時代と切り結ぶ存在である。ゾンビという存在に恐怖を抱くだけではなく、最後にはちょっぴり応援したくなるというなかなかにトリッキーな仕掛けが本作には秘められている。一見の価値はあるだろう。

 

ネガティブ・サイド

アニメーションで作る意義が弱い。アニメの良いところは、非現実的な描写が許容されるところ。極端な話、二頭身や三頭身のキャラでも存在可能なのがアニメの世界である。そこでゾンビを描く、しかも韓国産のゾンビ映画であるなら、日本もしくは世界のアニメと一線を画したanimated zombiesを描き出さなければならなかった。例えば、旅館のおばさんを倒すシーンは『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』や『 ミッドサマー 』にあるような顔面破壊描写を、ダイレクトに映し出すことができたはずだ。

 

また市街地や病院での描写はあれど、そんなシーンはこれまで数多あるゾンビ映画で充分に観た。『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』は、超特急列車内という究極のクローズド・サークルという、その設定自体がけた外れに面白かった。そうした設定の妙が本作にはなかった。

 

また肝心かなめの人間をゾンビに変えてしまう機序が何であるのかは、本作では一切明らかにされない。前作では、とある業績不振なバイオ企業が絡んでいるとのことだったが、本作では前日譚で当然に触れられるべきゾンビ発生騒動の発端部分がすっぽりと抜け落ちている。拍子抜けもいいところである。まさか前々日譚とか作るつもりではあるまいな。そんなクソのような企画と制作は『 プロメテウス 』だけで十分である。

 

総評

アニメ作品としても弱いし、傑作ゾンビ映画の前日譚としても弱い。本作は単独で鑑賞しても楽しめるように作られてはいるが、そのせいでシリーズものとしての魅力を失っている。韓国映画らしい容赦のないバイオレンス描写を追求した作品なら他をあたってほしい。ただ、ドンデン返しだけは結構な破壊力を秘めている。『 オールド・ボーイ 』には及ばないが、『 スペシャル・アクターズ 』よりは上である。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ア

韓国語は名前の最後に「ア」をつけることで軽い敬称になる。『 宮廷女官チャングムの誓い 』で、主人公チャングムがほとんどすべてのキャラクターから「チャングマ(チャングム+ア)」と呼ばれていたのを、オジサン韓流ドラマファンならばご記憶のことだろう。本作でもヘスンはヘスナ、キウンはキウナと呼ばれている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アニメ, シム・ウンギョン, 監督:ヨン・サンホ, 配給会社:ブロードウェイ, 韓国Leave a Comment on 『 ソウル・ステーション パンデミック 』 - 前日譚っぽくない前日譚-

『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

Posted on 2020年4月26日 by cool-jupiter
『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

11人いる! 80点
2020年4月26日 YouTubeにて鑑賞
出演:神谷明 河合美智子
監督:出崎哲 冨永恒雄

映画館に行けなくなって久しい。まさに世界は、ゾンビが彷徨している。あるいは未知のウィルスが蔓延しているという設定のディストピアSFの様相を呈している。そこで、ふと思い出したのが本作。まさに“三密”な宇宙船内に多種多様な人種を詰め込んだ環境は、COVID-19が猖獗を極める今こそ、再鑑賞するのにふさわしい。Amazon Primeに見当たらなかったが、YouTubeで発見。ありがたや。

 

あらすじ 

タダ(神谷明)はコスモ・アカデミーへの第一次・第二次入学試験を順調にパスした。そして最終第三次試験で、漂流中の宇宙船内で他の9名の受験生、合計10名で53日間を過ごすという最終試験に臨む。宇宙船に到着した一行は、しかし、自分たちが11人いるということが判明し・・・

 

ポジティブ・サイド 

1950~1960年代の作家的想像力をメインに構築されていたSF作品ではなく、1970年代以降のジェイムズ・P・ホーガン的な、つまり当時の最先端の科学的知見を盛り込んだSFである。ここでいうSFとはScience Fictionではなく、Space Fantasyである。原作が1975年なので、『 エイリアン 』(1979年)や『 スター・ウォーズ 』(1977年)よりも前。つまり、『 2001年宇宙の旅 』の系譜を日本が引き継いだ作品とさえ言える。冒頭の鈍く銀色に輝く巨大宇宙船を見よ。巨大な宇宙船の船体表面をクロースレンジでじっくりと映し出すことで大きさを強調する手法は、『 2001年宇宙の旅 』に始まって『 スター・ウォーズ 』や『 エイリアン 』に直接継承された手法である。本作は1986年に劇場公開された。製作者たちが、これらの先行映像作品に影響を受けなかったはずはない。重力制御装置や超距離エレベーターなど、先行SF作品でお馴染みのガジェットが随所に詰め込まれている。

 

疾走感と虚無感を併せ持ったBGMも素晴らしい。どこかファミコンゲーム『 グラディウス 』に共通するテイストの音楽が、爆発とレーザーで彩られる終盤の展開を上手く観る側に予感させてくれるような気がする。

 

宇宙の様々な星系からの人種のトップ層が、コスモ・アカデミーに集まるというのも当時としては斬新な世界観だったのではないか。今では中国やインド、ナイジェリアやブラジルの超秀才がアメリカの大学や大学院で学ぶのはもはや既定路線になっている。世界的な視点では普通のことであるが、日本的な視点からは異質だ。日本発の同時代のSF作品の金字塔である『 機動戦士ガンダム 』は、地球人同士の争いであるし、『 宇宙戦艦ヤマト 』に登場する宇宙人は、第二次世界大戦時の日本の敵国人種の投影である。そうした意味で、萩尾望都は日本人離れした先見性と想像力を持っていたと、あらためて評価することができる。

 

キャラクター造形も素晴らしい。『 機動戦士ガンダム 』におけるニュータイプの概念を先取りしたのような直感力に秀でた主人公タダを始めとして、ほとんどのキャラが立っている。特に正真正銘の王様でありながら、民主主義的に多数決を自ら提案し、その多数決の結果に諾々と従うという“王様”はユニークだ。ヒロイン的なポジションにどっかと座るフロルも良い。男勝りなところがいかにもクリシェだが、本作は1980年代半ばに公開されていて、原作は1975年であることを思い出そう。女性である、女性になる、女性として生きるという概念が今とは全く異なる、まさに別の時代において、萩尾望都が産み出したこのキャラは、漫画家というよりも女流作家、いやクリエイターとして常に新境地を切り拓いてきた氏の投影そのものだったのだろう。

 

疑心暗鬼の船内、奇病の発生、ワクチンの争奪戦など、まさにCOVID-19が猛威を振るう世界そして日本の縮図的な環境が、ここには描き出されている。SFとしてだけでなく、ミステリとしてもサスペンスとしても、また青春ものとしても、非常にハイレベルに仕上がった逸品である。

 

ネガティブ・サイド

メニールが雌雄同体というのは、厳密には誤っている。実際は無性体または雌雄未分化と言うべきだろう。このあたりの科学的知識は、1970~1980年代においてもしっかり共有されていたはず。作家というよりも編集者や校正がカバーすべきだった。

 

船内の爆発物を除去しないという序盤の過ごし方についても、なんらかの説明が必要だったはず。特にコスモ・アカデミーのような合格率が数万分の一というような超難関の最終試験に残るような頭脳エリート集団が、何故このような選択をしたのか。またハンドガンの存在をコスモ・アカデミーは感知していたのか否か、そのあたりの説明も不十分だった。

 

ほとんどのキャラが存在感を放つ一方で、赤鼻やトトは明らかに出番も少ないし存在感もない。議論がヒートアップした時などに赤鼻が上手く仲裁する、あるいは妥協できる案を提出するなどすれば、彼のアカデミー卒業後の進路に説得力が生まれた。トトにしても同じで、『 オデッセイ 』のマット・デイモン並みに限られた資源で野菜や果物の栽培に成功したという描写がほんの少しでもあれば、尚よかった。

 

船内スクリーンに時々映し出される50 DAYS TO THE ENDや24 DAYS TO THE ENDというのは、非標準的な英語だ。50 DAYS REMAININGまたは50 DAYS LEFTの方がナチュラルな表現である。

 

総評

おそらく2050年になっても古さを感じさせない古典である。Jovian自身、鑑賞はおそらく4~5度目だが、ワンシーンごとに演出がしっかりしており、無駄が一切ない。1時間30分と非常にコンパクトにまとまっている点もポイントが高い。ある意味で性別を超越したロマンス展開もあり、Xジェンダーというアイデンティティを1970年代にして認知していた最初の作品群の一つであるとも評価できるかもしれない。家に引きこもってYouTubeを観るのなら、ぜひ本作もWatch Listに加えるべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This is fate.

ヌーの口癖、「これも定め」の私訳。fateについつい冠詞のaをつけてしまう人が多いが、これはほとんどの場合、無冠詞で使う語である。冠詞の使い方をマスターすれば、英検マイナス1級、TOEIC L&R換算1400点である。こういったものは丸暗記に限る。そして、丸暗記するのならば文法書や問題集ではなく、歌詞や映画の台詞にしよう。Jovianは『 インデペンデンス・デイ 』のウィットモア大統領の演説、“Perhaps it’s fate that today is the Fourth of July”を暗記している。

YouTube

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Posted in 国内, 映画Tagged 1980年代, A Rank, SF, アニメ, 日本, 河合美智子, 監督:冨永恒雄, 監督:出崎哲, 神谷明, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 11人いる! 』 -80年代SFの傑作-

『 ウォーリー 』 -ロボットたちの織り成す美しいロマンス-

Posted on 2020年1月22日 by cool-jupiter

ウォーリー 85点
2020年1月21日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:ベン・バート
監督:アンドリュー・スタントン

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Jovianはアニメーション映画をそれほど好まない。アニメ映画は、それなりに鑑賞する。アニメーション=映像を主眼にする。アニメ=ストーリーテリングを主眼にする。手塚治虫にならって、そのように区別したい。その意味では、本作はアニメーションとアニメ、両方の分野における極北である。まさに炉火純青である。

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あらすじ

人類が宇宙に旅立った後の荒涼とした地球で、ロボットのウォーリー(ベン・バート)はゴミ収集に明け暮れていた。唯一の友だちはゴキブリのハル。だが、ある日、空から宇宙船がやってきて、探査ロボット、イヴを置いていった。イヴに一目惚れしたウォーリーは、何とかイヴとコミュニケーションを取ろうとするが・・・

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ポジティブ・サイド

ピクサー作品はLA行きの機内で観た『 モンスターズ・インク 』が個人的にさほどでもなかったので、以来長きにわたって敬遠していた。しかし、先日訪れたピクサー展の内容をつぶさに見て、その技術の粋に感銘を受けた。そして、ストーリーが最も面白そうな本作を借りてきた。その判断は間違いではなかったと思う。これは文句なしの傑作である。

 

オープニングから数十分、セリフが全くない。これだけで名作の予感がする。『 続・夕陽のガンマン 』もそうだった。テレビドラマではないのだから、映画は映像でもって物語を語らしめるべきである。『 グリンチ(2018) 』のアニメーションも美麗だったが、ピクサーはその一段上を行っている。その技術の高さについては、関西在住の方は大阪梅田のグランフロントでピクサー展を行っているので、そちらに行かれたし。このクオリティのCG画像が2008年のものだとすると、現在のピクサーの技術水準はどのあたりにあるのだろうか。それとも、時間とカネと人手をかければ、どこの組織や会社でも、この画のレベルに到達できるのだろうか。

 

それにしてもウォーリーというキャラクターの可愛らしさよ。それは外見から来るものではない。人によっては見方は様々だろうが、パッと見ではウォーリーは可愛らしくは見えない。しかし、誰もいない世界で一人せっせとゴミを収集し続ける様に、観る側もどうしても孤独感を共有してしまう。そしてその孤独さは、人間だけではなくロボットすらも蝕むものであることを思い知る。『 孤独なふりした世界で 』でピーター・ディングレイジの演じたデルという男の broken な様はウォーリーにインスピレーションを得たのではないかとも感じられた。孤独に適応した者ほど、他者とのつながりを断ち切りにくいのだ。

 

このウォーリーはR2-D2やディズニー映画『 ブラックホール 』のV.I.N.CENT.やB.O.B.の系譜に連なるロボットである。つまり、初見では可愛くは見えないのだが、徐々に愛着が湧いてくるタイプである。その造形は『 ニューヨーク東8番街の奇跡 』的であるとも言える。ウォーリーが長く孤独なゴミ収集生活から、文化的な品々を選り分け、大切に保管していることに、Humanity=ヒューマニティー=人間性と、Humanities=ヒューマニティーズ=人文学の両方の芽生えが見て取れる。一方で、地上のみならず軌道上までゴミだらけにしていく人類=Humanityとは、いったい何であるのか。そして、宇宙船アクシオム号で怠惰に生きる人類に、人間性はあるのか。その人間性が欠落したかに見える人類の産物であるイヴに、どうやって人間性が芽生えるのか。その過程が素晴らしく美しい。邦画『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』のとある脚色部分は、本作に着想を得たのではないか。

 

融通の利かないロボットたちと、故障扱いされたロボットたちのスラップスティックな対立、そして『 2001年宇宙の旅 』的な人間vs人工知能という対立、それらをすべて内包する形で花開くウォーリーとイヴの物語は、2000年代最高峰のものの一つだろう。

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ネガティブ・サイド

ストーリーにオリジナリティが少々欠けている。未来そして宇宙の世界の人間像は、漫画『 銀河鉄道999 』のとあるエピソードの丸パクリ(まあ、偶然の一致・・・というか、誰でも考え付く陳腐な未来像)である。

 

『 エリジウム 』や『 オブリビオン 』、『 インターステラー 』、『 パッセンジャー 』といった作品の下敷き的な描写もあるが、そもそも荒涼とした地球、そして宇宙に新天地を求める人類といったテーマ自体が手垢のついたものになっている。ウォーリーの孤独と人類の業をもう少し新たな次元で関連付けることはできなかっただろうか。

 

また、映像はめちゃくちゃ美しいが、これは小学校低学年の子どもを引き付けられるのだろうか。Jovian自身の経験や、甥っ子たちの観察からすると、子どもを引き付けるのは絵だけではなく声もである。その声が序盤はほとんど聞こえない、つまり本当に小さな子どもなら序盤で寝落ちしてしまう恐れなしとしないところが弱点である。

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総評

愛嬌のあるロボットの物語というのは、元来は日本のお家芸だったはずである。アメリカでロボットと言えば『 アイ、ロボット 』のように反乱するのがお約束。『 ターミネーター 』も元々は殺戮マシーンだった。だが、本作で紡がれるウォーリーとイヴの物語は、CG映像よりも美しい。中学生以上であれば、何かを感じ取れるに違いない。もちろん大人が楽しむことも十二分に可能な大傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

rogue

凶暴な、荒くれの、面倒な、のような意味である。劇中でウォーリーとイヴが“Caution, rogue robots”としてアクシオム艦内で指名手配される。人間に危害を加えかねないロボットにつき注意というわけだ。『 ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 』や『 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 』など、メジャーな映画のタイトルにも含まれている語。ドナルド・トランプ米大統領が北朝鮮を指して「ならず者国家」と言った時にも’Rogue Nation’という表現を使っていた。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, SF, アニメ, アメリカ, ベン・バート, ロマンス, 監督:アンドリュー・スタントン, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ウォーリー 』 -ロボットたちの織り成す美しいロマンス-

『 ぼくらの7日間戦争 』 -前作には及ばない続編-

Posted on 2019年12月31日2020年4月20日 by cool-jupiter

ぼくらの7日間戦争 50点
2019年12月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:宮沢りえ 北村匠海 芳根京子
監督:村野佑太

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『 ぼくらの七日間戦争 』の30年後を描いている。まるで『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』と『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』のようである。だが、前作が持っていたスピリットは弱められてしまっていた。

 

あらすじ

鈴原守(北村匠海)は歴史好きの内向的な高校生。隣に住む千代野綾(芳根京子)に密かな恋心を抱いていた。夏休み直前、綾が突然引っ越しすることになる。そんな綾に守は逃避行を提案する。なんだかんだで一週間の家でキャンプを張ることになった綾は、他にもメンバーを集め、旧石炭採掘工場に集まり・・・

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ポジティブ・サイド

本作は「大人とは何か」という問いに一つの興味深い回答を提示している。これは、いわゆる就職氷河期やゆとり世代に対して当てはまることなのかもしれない。というのも、この世代のサラリーマン(正規であれ非正規であれ)は、平成を通り越して昭和の残り香が漂う職場で、新世代たちとしのぎを削っているからである。自分たちに決定権はない。全ては上に従うばかり。しかし、時代、そして次代の突き上げは確実に迫っており、どうすべきか途方に暮れている。そんな世代の悲哀が透けて見える。王道楽土に連れて行ってくれると信じられるような上の世代が存在しない。そんな作り手たちの思いと、そんな奴らはぶっ潰せという気概の両方が感じられる。これはアラフォーに向けてのエールである。

 

「戦争」という物騒な単語を使うことの意味も認められた。戦争とは、国と国の争いである。つまり、異なる民族の戦いである。そして日本ほど異物を排除する論理および仕組みが強烈に働く文化圏は少ない。とあるキャラクターを通して、本作は日本社会の均質性や人権意識の希薄さを撃つ。これは爽快である。『 国家が破産する日 』で描かれた韓国社会に押し付けられた性急な構造改革は、日本の20年先を行っていた。今、日本と韓国の政治・経済摩擦以外で何が起きているのか。ベトナム人移民労働者の奪い合いである。そして、今後確実に激化するのはフィリピン人花嫁の輸入(何という表現だろうか)である。本作は、北海道の片田舎を通して、確かに日本社会の縮図を描いた。これは褒められるべきであろう。

 

たいしたネタばれではないと判断して書いてしまうが、TM NETWORKの“Seven Days War”は良いタイミングでplaybackされるので期待してよい。

 

ネガティブ・サイド

アニメーション映画にそれほど造詣が深いわけでもなく、外国映画も基本的にすべて字幕派のJovianにとって、一部のキャラクター達の声がとにかくキャンキャンうるさかった。特に女子連中の、まるで何かに媚びるような甲高い声というのは、一体どういった層に訴える効果があるのだろうか。

 

中盤の対大人撃退作戦のテンポが良くない。『 ぼくらの七日間戦争 』は、荒唐無稽ではあるが、スピード感あるカメラワークと演出でそこを巧みにごまかした。本作では、肝心のアクションシーンがもっさりしてしまっている。致命的とは言わないまでも、面白さをマイナスしてしまっていることは否めない。

 

現代的なガジェットも効果的に使用されたとは言い難い。炭鉱から熱気球によって脱出というのは、確かに我々世代には『 ドラゴンクエストIV 導かれし者たち 』を思い起こさせるが、現実に実行したとしてもヘリコプターやドローンに追跡されてオシマイではないか。またはあれだけ目立つものであれば、警察その他のネットワークでいとも簡単に捕捉されてしまうはずだ。どうやって無事に逃げ切った?

 

『 ぼくらの七日間戦争 』にあった体制への不満という要素が消え、非常に私的な領域で物語が進むようになった。それはそれで良いのだが、あまりにも個々のキャラクターの背景描写が弱いために、クライマックスの展開がとってつけたような皮相なものにしか映らない。各キャラクターに、ある意味では現代的なメッセージを託してはいるが、それがどうにもご都合主義に見える。唯一、綾と荘馬というキャラに伏線が二つ張られていたのみで、他キャラの背景は完全に後出しジャンケンである。それではカタルシスは生まれない。少なくとも、すれっからしの中年映画ファンには。そして、中年映画ファンこそ、本作がアピールすべきデモグラフィックであるはずだ。本作が企画され、製作され、公開されたのは、Jovianの同世代がクリエイティブな現場での主力になってきたからであろう。であるならば、若年世代だけではなく、中年世代にも刺さるストーリーを志向すべきである。そしてそれは、日本社会に蔓延する“空気”を晴らすような物語であるべきだ。

 

総評

『 ぼくら 』シリーズの精神を現代に蘇らせているとは言い難い。それでも、ジュブナイル物として観れば、平均的な仕上がりになっている。逆に本作を鑑賞してから『 ぼくらの七日間戦争 』を観るというのもありだろう。昭和と令和の“空気”の違いを如実に感じ取れることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How long have you been in love?

劇中で守のチャット相手のジジババが「いつから懸想しておった?」と尋ねてきたときの台詞である。自分の高校生、大学生の教え子たちは「懸想=けそう」という日本語を知っているだろうかとあらぬことも考えた。be in loveで、「恋をしている」の意である。B’zも“I’m in love?”と歌っているし、『 ベイビー・ドライバー 』でもケビン・スペイシーが“I was in love once.”と語っていた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アドベンチャー, アニメ, 北村匠海, 宮沢りえ, 日本, 監督:村野佑太, 芳根京子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ぼくらの7日間戦争 』 -前作には及ばない続編-

『 空の青さを知る人よ 』 -閉塞感に苛まされたら、空の青さを思い出せ-

Posted on 2019年10月28日2020年9月26日 by cool-jupiter

空の青さを知る人よ 75点
2019年10月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉沢亮 吉岡里帆 若山詩音
監督:長井龍雪

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これはJovianの観た限りの邦画アニメでは2019年で1,2を争う良作である。一部で『 天気の子 』とそっくりの構図(それも『 千と千尋の神隠し 』や『 天空の城ラピュタ 』から来ているのだが)があったりするが、全体的に音楽プロモ・ビデオ的だった『 天気の子 』とは違い、ミュージシャンをフィーチャーした本作の方が、より確かな人間ドラマを描いているのは皮肉なものである。つまり、それだけ本作の完成度が高いということである。

 

あらすじ

埼玉県秩父市。相生あかね(吉岡里帆)と相生あおい(若山詩音)の姉妹は両親を亡くして以来、二人暮らし。あかねは18歳の時に恋人のプロのミュージシャンを夢見る慎之介(吉沢亮)の上京にはついて行かず、地元の役所に就職した。そして今、18歳になったあおいは音楽で身を立てるために上京しようとするが、そこに13年前の慎之介の生霊が現れ・・・

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ポジティブ・サイド

良い意味で期待を裏切られた。吉沢亮が出ている作品はだいたい駄作か凡作。吉岡里帆の出ている作品はだいたい珍品。そうした私的ジンクスを2人そろってたたき壊してくれたからである。

 

まずは吉沢亮の意外なvoice actingの上手さに驚かされた。『 二ノ国 』というクソ作品のクソな声の演技や、『 HELLO WORLD 』の至ってオーソドックスでアベレージな声の演技と比較すれば、その技量は際立っている。もしも本職の声優たちが本作で脇を固めていても、これだけハイレベルな声の演技ができるのなら、素人っぽさで浮いてしまうこともなかっただろう。18歳のシンノと31歳の慎之介を演じ分けるだけではなく、キャラクターの表情や仕草に合わせた、今ここではこの声が欲しい、という声を出せていた。監督のディレクションの賜物だろうが、本人の努力もあったはず。『 キングダム 』で秦王・政をシンクロ率95%で演じ切ったが、あれはflukeではなかった。高良健吾の後継者はこの男で間違いない。

 

吉岡里帆の感情を抑えた、控え目な声の演技も見事だった。『 見えない目撃者 』で殻を破ったと感じたが、その印象は誤りではなかった。慈しみや愛情を豊富に感じさせながらも、拒絶する時の声音には芯の強さがあった。これも監督の演技指導と本人の探究心と練習によるものだろう。順調にキャリアを積み重ねていけば、30歳ごろには演技派と呼ばれるようになれるかもしれない。この調子で覚醒を続けて欲しい。

 

あかねとあおい、二人の姉妹が二人の慎之介と相対する時に交錯する想いは何とも複雑玄妙だ。青春をすでに過ごし終えた者とまさに青春を謳歌している者が、それぞれに異なる悲哀を経験するからだ。誰かを好きになるという気持ちは、素晴らしいものだ。だが、それは往々にしてままならない感情でもある。あかねはある意味で閉じた土地に自分を縛りつけ、止まった時間の中に生き続けている。それがあおいから見た姉の姿である。それを引っ繰り返す終盤のシークエンスは、お涙頂戴ものの典型でありながら、それでも万感胸に迫るものがあった。これは男女の複雑な恋模様であるだけでなく、家族愛であり、姉妹愛であり、自己愛の物語だからでもある。

 

ストーリーはドラマチックであるが、終盤では実にシネマティックになる。つまり、画面いっぱいにスペクタクルが展開されるということである。冒頭で述べた『 天気の子 』そっくりな構図がここで描かれるが、浮遊感や爽快感は本作の方が上であると感じた。ここではあいみょんのタイトルソングが絶妙な味付けになっている。彼女の楽曲が最高の調味料なのであるが、それは歌が主役であるということではない。音楽が映像を盛り立てているのであって、逆ではない。『 天気の子 』はこのあたりのさじ加減を誤っていたと個人的には感じる次第である。もしも良作アニメ映画を観たいという人がいれば、本作を強く推したい。

 

ネガティブ・サイド

本作は変則的なタイムトラベルものと言えないこともないが、多くの作品が犯してしまう間違いをやはり犯してしまっている。最大のものは生霊シンノの「あんとき」という表現である。その話のコンテクストを映像で表現しているので気付かなかったのかもしれないが、そこから読み取れるのは、シンノの体感では成長したあおいと出会ってしまったのは18歳のあかねと別れることになってから1日後である、ということだ。昨日のことを自分から、あるいは誰かに求められて説明する時に「あんとき」というのは、違和感のある日本語である。ここは「そのとき」であるべきだったと思う。

 

本作のグラフィックは非常に美しい。一部、実写をそのままフルCG化したようなショットが随所に挿入されていたようだが、そうした美麗なグラフィックがノイズになってしまっていたように思う。公園内の木々や落ち葉のショットが特に印象的だったが、そこあるべき動き、例えばちょっとした風のそよぎなどが、一切感じられなかった。そのため、かえって非常に無機質な印象を与える風景のショットが見られる。『 あした世界が終わるとしても 』では、実際の人間の如くゆらゆら揺れるキャラクターCGが不気味な印象を与えてきたが、本作の風景の一部は美しさと引き換えに生々しさ、リアルさを失ってしまっていた。それが残念である。

 

キャラクター造形で言えば、31歳の慎之介があかねと再会した場面にも違和感を覚えた。帰ってきたくなかった地元で再会したくなかった(多分)初恋あるいは初交際の相手に、あそこまでだらしなく迫るものだろうか。音楽に操を立てて、それが報われなかったからと言って、昔の女に慰めを求めるのは端的に言ってカッコ悪すぎる。同じ夢破れかけた男として、余りに見るのが忍びない。そうか、だからあかねは「がっかりさせないで」と言ったのか。オッサンが見るにはキツイが、ストーリー上は整合性があるシーンである。これは減点対象ではないか。

 

総評

観終わって、実に爽やかな気分になれる。それは本作が人間の心のダークな領域に恐れることなく光を当てているからだ。ダークと言っても、サイコパス的な心理ではない。普段、他人には決して見せない心の在り様を、ある者は人目を憚って、ある者は赤裸々に、スクリーン上で見せてくれるからだ。ビターなロマンス要素あり、優れた楽曲と優れた声の演技があり、カタルシスをもたらしてくれる映像演出もある。中高生から中年ぐらいまで、幅広くお勧めできる上質なアニメである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I don’t like those who say they like me.

 

あおいの「私は私を好きだと言う人は嫌い」という台詞である。those who + Vは、しばしば「~する人々」、「~する者たち」など、誰とは特定せずに一般的な人間全般を指す時に用いられる。書き言葉でも話し言葉でも、どちらでもよく使われる。昔、ハマっていたシリーズ物のゲームのトレイラー

www.youtube.com

でも確認できるので、興味のある人はどうぞ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, ラブロマンス, 吉岡里帆, 吉沢亮, 日本, 監督:長井龍雪, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 空の青さを知る人よ 』 -閉塞感に苛まされたら、空の青さを思い出せ-

『 HELLO WORLD 』 -安心の野崎まどクオリティ-

Posted on 2019年9月25日2020年4月11日 by cool-jupiter

HELLO WORLD 70点
2019年9月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北村匠海 松坂桃李 浜辺美波
監督:伊藤智彦

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Jovianは野崎まどのファンである。メディアワークスが出している作品はすべて読んだ。『 2 』を除けば、一番のお気に入りは『 小説家の作り方 』である。氏のテーマは一貫している。人間の姿をした人間以上の存在である。そのことを念頭に置いておこう。

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あらすじ

2027年の京都。堅書直美(北村匠海)の前に、10年後の未来からやってきた自分、ナオミ(松坂桃李)と共に一行瑠璃(浜辺美波)に迫っている落雷事故を回避することを目指すが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 二ノ国 』という超絶駄作の超絶クソ voice acting の後なので、ある程度は評価が上方修正されているかもしれないが、北村も松坂も浜辺も及第以上の声の演技をしていた。特に浜辺美波はJovianの贔屓目も入っているが、渡辺徹のようにナレーション業も頑張れば行けそうだ。頑張って欲しい。

 

トレイラーの段階から「この世界は全部、データだった」という直美の独白があるので、その設定そのものに驚く必要はない。我々が本当に観たいのは、【 この物語(セカイ)は、ラスト1秒でひっくり返る 】ところなのである。そして、これから本作を観ようとする諸賢におかれてはご安心されたい。ちゃんとひっくり返ってくれる。厳密にはラスト1秒というわけではないが、怒涛のコンビネーション・ブローを観る側の脳に叩き込んでくれる。

 

これは言葉の正しい意味でのSFである。アニメ作品としては『 イブの時間 劇場版 』に並ぶクオリティである。SFとは何か。人類と文明の関係性を描くフィクションである。アニメとは何か。手塚治虫に言わせれば、「物語が先に存在して、それを伝えるために絵が動くもの」である。その意味では本作は実に正統派のSFアニメである。我々が生きているこの世界が実はデータだったというのは、『 マトリックス 』以来、手垢のついたテーマではあるが、だからこそドンデン返し = big twist に挑戦してみたくなる分野でもある。繰り返すが、本作にはしっかりとしたドンデン返しが存在する。期待して欲しい。

 

本作に採用されている様々なガジェットやキャラクター造形、ショットの構図などは、優れた先行作品の影響を色濃く受け継ぐものである。まずは敵の量産型キャラクター。これは『 BLAME! 』のセーフガードを思い起こさせてくれた。つまり、非常に不気味で、恐怖を感じさせてくれた。それらが最終的にはミラクル卵の最終形態になり、シシ神のデイダラボッチバージョンになり、エヴァンゲリヲンにもなった。これは大迫力だった。エージェント・スミスがこれをやっていたら、彼の名作は更に名作の誉れ高くなったのか、一気に駄作に堕ちてしまったのか、どちらだろうか。

 

物語世界とキャラクターの真実については、アニメではないが映画化されそうでされなかった(できなかった)小説『 ループ 』が思い浮かんだし、ちょっと古い映画で言えば『 13F 』も下敷きにあったのかな。またこうした一種の入れ子構造の作品としては『 イグジステンズ 』や『 トロン 』、『 主人公は僕だった 』や『 ルビー・スパークス 』なども思い起こされた。それでいて、オリジナリティある作品に仕上がっているという、そのこと自体が最も素晴らしい点であると言えるかもしれない。伊藤智彦監督に拍手!

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ネガティブ・サイド

ストーリーテリングや世界観の構築の面では素晴らしいが、一方ではグラフィック面に大きな課題を残した。特に物語が舞台を文字通り大きく様変わりさせるシーンのグラフィックは、そのまんま『 2001年宇宙の旅 』の劣化バージョンである。というよりも、あからさまに『 LUCY/ルーシー 』(監督:リュック・ベッソン)をパクっているとしか思えないものもあった。オマージュとパクリは似て非なるものである。これらのシーンに関しては、製作者側のリスペクトが感じられなかった。そこが残念である。邦画に似せるとオマージュ、外国産の映画に似せるとパクリという判断をJovianはどうやらしているようである。

 

トレーラーにもあった街が崩壊していくビジョンは、まんま『 インセプション 』と『 ドクター・ストレンジ 』だった。もっと独創性ある映像を作って欲しかった。

 

あとは、男女が恋に落ちるプロセス、あるいは恋愛感情を自覚するプロセスに、もう少しオリジナリティが欲しい。多くのアニメ作品では身体、特に特定部位の接触が契機になることが多いように思われるが、そのようなclichéからはそろそろ卒業すべきではないだろうか。近年でも『 夜は短し歩けよ乙女 』や『 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? 』などが、まさにこうした手法を使っていた。もっと『 耳をすませば 』のような、ピュアで、それでいてロマンティックな関係性を、宮崎駿以外のクリエイターも描けるはずだ。もっと受け手を信頼すべきだし、あるいは作り手が受け手を啓蒙してやるぐらいの気概を持ってもいい。

 

総評

アニメ作品としては、個人的には年間ベスト級であると感じる。ただし、かなり人を選ぶ作品だろう。関西人、特に京都にゆかりのある人は、「これはあそこだ」、「ここは、あれだな」という見方を楽しめる。ただし、関西弁原理主義者(若い世代にはいないと思うが)の方にはお勧めできない。京都弁などは微塵も出てこない。また、ある程度のSFの素養も必要だろう。野崎まどファンなら、見逃すべきではない。 

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I did it.

 

「やってやりました」= I did it. である。何かを行って、そのことを誇らしく思うのなら、こう言おう。相手が何か素晴らしいことをやってくれたなら、“You did it.”と言おう。ただ、この do it という表現には落とし穴もある。しばしば、does itという形で、「~~が悪い」、「~が元凶だ」のような意味になる。Wedding is fine. It’s living together that does it. 結婚は問題ない。悪いのは一緒に住むことだ、のようになる。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アニメ, 北村匠海, 日本, 松坂桃李, 浜辺美波, 監督:伊藤智彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 HELLO WORLD 』 -安心の野崎まどクオリティ-

『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

Posted on 2019年8月29日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

二ノ国 10点
2019年8月25日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山崎賢人 新田真剣佑 永野芽郁 宮野真守
監督:百瀬義行

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実験的作品を観た後は、脳みそをノーマルな状態に戻したくなる。つまり、普通の作品を観たくなる。というわけで、いかにもジャパニメーションな本作のチケットを購入。これが大失敗だった。まさかこのような超絶駄作だとはゆめにも思わなかった。

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あらすじ

ユウ(山崎賢人)は車イスに乗る頭脳明晰な高校生。ハル(新田真剣佑)は運動神経抜群のバスケ部エース。二人は親友だった。そして、ハルには恋人のコトナ(永野芽郁)がいた。そしてユウも密かにコトナに想いを寄せていた。ある時、コトナが謎の男に刺される。ユウとハルはコトナを救おうと奔走するが、その時、二人は謎の異世界、「二ノ国」に飛んでしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

ない。

 

というのは流石に酷い。ジークフリード・キルヒアイスを見習い、ゴミ溜めにも美点を見出す努力をすべきだろう。敢えて挙げれば久石譲の音楽ぐらいだろうか。戦慄、じゃなかった、旋律の美しさを感じる瞬間は幾度かあった。

 

ネガティブ・サイド

はっきり言って永野芽郁は声優の才能がない。余りにも声の演技が下手すぎる。抑揚もつけられず強弱もつけられず、声にメリハリもなく、感情も乗せられず、端的に言って素人である。はっきりいってギャラをもらってよい仕事ではないし、これで観客からチケット代をもらおうというのも、面の皮が厚過ぎる。そもそも監督は何をどうディレクションしていたのだ?

 

酷いのは山崎賢人や新田真剣佑も同罪だ。ただただ五十歩百歩というだけだ。もちろん永野が百歩で山崎と新田が五十歩という意味だ。

 

作画も序盤は終わっている。ユウが帰宅した後に自室に入るシーン。あれは実際に車イスの人間がドアを開ける動作を観察した結果なのか。どう考えても遠近法が崩れている。機会あれば車イスに乗ってドアノブを回して押してみてほしい。といっても、本作を二回観ようとするのは、鍛えられたクソ映画愛好家だけだろうが。また、中盤のあるシーンでは緊迫したシークエンスがあるのだが、どう考えても光の速さで車に車いすを積み込んだとしか思えない。車イスが完全にオーパーツになっている。勘弁してくれ。車イスによって、ハル&コトナとユウの間に微妙な距離があることは受け入れられるが、その他のシーンでの車イスの扱いが酷い。この監督が車イスを単なるガジェットにしか考えていないことがよく理解できた。

 

そもそもキャラクターの思考や行動原理からして意味不明で理解不能だ。なぜコトナは不審者に追われていると感じた時に自宅や親、または110番通報をしなかった?なぜ大通りに出なかった?そして何故にハルはわき腹を刃物で刺されたコトナを見るなり、ユウに向かって「お前、何やってんだ?」と叫ぶのか。そこは「何があったんだ?」または「誰がやったんだ?」だろう。頭がおかしいのか。そして、何故にハルはコトナを抱き抱え、走り去るのか。救急車を呼ぶという知恵がないのか。

 

それにしても二ノ国という設定自体にオリジナリティも捻りも無さ過ぎる。『 あした世界が終わるとしても 』や『 バケモノの子 』、『 DESTINY 鎌倉ものがたり』、『 バースデー・ワンダーランド 』のごった煮で、最初に入った酒場は、ファイナルファンタジーの酒場の音楽かと錯覚するような典型的なTavern Musicが流れ、『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』のカンティーナと『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』の酒場兼宿屋を足したような場所。さらにそこでしゃしゃり出てくる動物キャラも面白みゼロ。せいぜい終盤の引き立て役かと思ったら、それも無し。

 

そして二ノ国はこれだけに飽き足らず、これでもかと既視感たっぷりのガジェットを繰り出してくる。船が飛び立ったシーンは「『 ハウルの動く城 』か、おい!」と劇場で我あらず声に出してしまったし、ハルの纏う鎧はどこからどう見ても漫画『 ベルセルク 』の狂戦士の甲冑のパクリで、グランディオンなる聖剣はゲーム『 クロノトリガー 』のグランドリオンと余りにも名前が似すぎている。黒幕はご丁寧にも『 GODZILLA 星を喰う者 』のメトフィエスに顔も風貌もそっくり。なんでやねん。もうちょっと捻らんかい。で、顔がデビルマンのそっくりさんって・・・ そして最後の最後も『 スターゲート 』と『 ジョン・カーター 』でフィニッシュ!って、捻らんかい!!

 

序盤にユウを頭脳派として描きながら、いきなり肉体派に華麗なる変身を遂げたり、ハルはハルで事象を正確に把握できない脳タリンちゃん。なぜコトナのわき腹に刃物が突きたてられたことで、アーシャ姫のわき腹に呪いの剣が突き立てられているのか。その因果関係は、確かにあの時点では分からない。だが、アーシャ姫の呪いを解いたことでコトナが回復したことから相関関係を読み取れないのは何故なのか。Aがダメージを負うとA´もダメージを負う。Aが回復するとA´も回復する。なるほど、A´を殺せば、Aが助かる!!って、何をどうやったらそんな思考のサーカスが展開できるのか。

 

ラストシーンも醜い。ハルとコトナ、お前らが無意識に車イスのユウに対して差別の心を抱いていたのがよく分かった。何故この場所を選んだ?何故あのような台詞を言わせた?百瀬義行という男の思考や感性に対して吐き気に近い嫌悪感を催している。

 

古今東西の映画のモンタージュで彩られたパッチワーク世界にアホ過ぎるキャラクターたち、そして返金を要望したくなるほどのヴォイス・アクティング。ここにきて年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼に躍り出てきた。いや、2010年代で最低の映画と評しても良いかもしれない。それほどのクソ映画である。

 

総評

チケットを買ってはならない。時間とカネの無駄になるだけである。漫画喫茶でこっそり一休みしようかという外回り営業マンがタダ券を持っているのであれば、真っ暗な劇場で耳栓をして二時間眠るのならば良いのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I want to forget about this film as quickly as possible.

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 宮野真守, 山崎賢人, 新田真剣佑, 日本, 永野芽郁, 監督:百瀬義行, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

Posted on 2019年7月26日2020年4月11日 by cool-jupiter

天気の子 55点
2019年7月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:醍醐虎汰朗 森七菜
監督:新海誠

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あらすじ

関東は異常気象で数十日も雨が降り続いていた。家出少年の帆高(醍醐虎汰朗)は、ふとした縁から、オカルト記事ライターの事務所で職を得る。精勤する穂高は、ある時、陽菜(森七菜)という少女のピンチを救う。弟と二人暮らしの陽菜は、しかし、実は祈ることで天気を晴れにすることができるのだった・・・

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以下、ネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

雨、雨、雨で気分が滅入るが、その分、晴れ間の美しさはとびきりである。そして『 シン・ゴジラ 』を思わせる、近未来的な東京(武蔵小杉は神奈川か)の景観はファンタジーとリアリティの境界線上にあると感じられた。現実の世界での突拍子もない事象にリアリティを持たせるためには、まずは舞台となる世界そのものを現実<リアル>から少しずらすことが必要である。本作はその導入部で成功している。何故なら、東京の爛熟した発達模様と、大都市に特有の不潔で冷酷な生態系が発達する場所の両方がフォーカスされるからだ。そして、穂高と陽菜の二人、いや主要なキャラクター達は全員、比喩的な意味での日の当たる場所に出ることはない。東京という摩天楼のひしめく街区ではなく、木造のおんぼろアパートや、明らかに空襲を免れた痕跡である、込み入った狭い路地が錯綜する地域に住まうのが穂高や陽菜である。この舞台設定により、我々はほぼ自動的にこの若い男女に感情移入させられるのである。

 

メインヒロインの陽菜のキャラクターは本作を救っている。はっきり言って、狙って作ったキャラクターである。新海誠の趣味が全開になったようである。あるいは、全ての男に媚びを売るためなのだろうか。器量良し、料理良し、家事良し、人柄良し、そしてなによりも年上と思わせておきながら年下である。これは反則もしくは裏技である。姉萌えと妹萌えの両方を満足させるからである。といっても、前振りや伏線はしっかりと用意されているので、アンフェアではない。

 

そして穂高についても。本作は典型的なボーイ・ミーツ・ガールであるが、同時に A Boy Becomes a Manのストーリーでもある。A Child Becomes an Adultでないところに注意である。大人とは何か。それは『 スパイダーマン ホームカミング 』で、ピーターとトニーが交わす会話に集約されている。つまり、責任ある行動を取れるかどうかなのだ。しかし、少年と男は違う。我々はよくプロ野球選手などが「優勝して、監督を男にしたい」と言ったりするのを聞く。ここでいう男が生物学的な意味での雄を意味するわけではないことは自明である。男とは、自らの信念に忠実たらんとする姿勢、生き様のことなのだ。そういう意味では、穂高は子どもから大人になろうとしているのではなく、少年から男になろうとしている。大人であっても男ではない男はたくさん存在する。むしろ、大人になってしまうと男になることは難しい。それは大人だらけのプロ野球の歴史を見ても、“男”という枕詞が定冠詞の如く使われる選手は、「男・前田智徳」ぐらいしか見当たらないことからも明らかである。そして、穂高は確かに男になった。その点においては、自らの信念に忠実であり続けた新海誠監督を評価すべきなのだろう。

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ネガティブ・サイド

これは周回遅れのセカイ系なのか。ひと組の男女の関係がそのまま世界の命運に直結するというプロットを、我々は90年代後半から00年代終盤にかけて、これでもかと消費してきたのではなかったか。『 君の名は。 』も、確かにそうした系譜に連ねてしまうことはできなくもないが、星というこの世(地球)ならざるものの存在が、世界をセカイに堕してしまうことを防いでいた。天気は、しかし、それこそ身近すぎて、世界がいともたやすくセカイに転化してしまう。それがJovianの受けた印象である。宇宙的なビジョンが挿入されるシーンがあるが、そのようなものは不要である。蛇足である。天気・天候と宇宙の関係を追求したものとしては梅原克文の伝奇・SF小説の傑作『 カムナビ 』がある。話のスケールもエンターテインメント性も、こちらの方が遥かに上である。惜しむらくは、梅原の著作はどれも映像化が非常に困難だということである。しかし、いつか勇気あるクリエイターたち(できれば『 BLAME! 』をアニメ映像化したスタジオにお願いしたい)が『 二重螺旋の悪魔 』をいつか銀幕上で見せてくれる日が来ると信じている。

 

Back on track. セカイ系は既にその歴史的な役目を終えたというのが私見である。それは西洋哲学史が、神、絶対者、歴史という抽象概念な概念としての世界から、フッサール以降は「生活世界」にフォーカスするようになり、さらに現代哲学は言葉遊びと現象学、脳神経科学、、心理学などが複雑に絡み合う思想のサーカス状態である。セカイ系は、思想的には「生活世界」=森羅万象という思考に帰着するものだ。自らの生きる、実地に体験できる範囲の世界のみを現実と認識することだ。しかし、そこには重要な欠落がある。想像力だ。人間の持つ最も素晴らしい能力である、想像力を弱めてしまうからだ。穂高は陽菜のために関東を犠牲にしたと言えるが、それは少年が男になる過程としては受け入れられても、子どもが大人になる過程としては違和感しかない。穂高もそうだが、それは須賀というキャラクターに特に象徴的である。この人物は、大人にも男にもなり切れず、大人のふりをした決断をする。もちろん、アニメ映画の文法よろしく、最後には主人公の味方になるのだが、それまでに見せる須賀の想像力の無さには辟易させられる。まるで自分というおっさんの至らない面をまざまざと見せつけられているようだ。「大人になれ」という須賀の台詞には、軽い怒りさえ覚えた。それも監督の意図するところなのだろうが。

 

雨を降らせ続けるという決断を下したのであれば、それがどれほど甚大な被害をもたらす決断であるのかをしっかりと描かなくてはならない。昨年(2018年)の西日本豪雨の被害はまだ我々の記憶に新しい。土砂災害もそうであるが、長雨により発生するカビ、金属の腐食、農作物の不作、疫病の発生、生態系への影響など、「昔に戻る」で決して済まない事態が出来することは日を見るより明らかだ。だいたい、あの銃があの状況で使えてしまうことがそもそもおかしい。いずれにせよ、穂高と陽菜の決断の結果、世界が“想像を超えた災厄”に見舞われていないと、それはセカイ系の物語としては不完全だ。というよりも、セカイ系の文法からも外れているではないか。特に世界全体がリアリティを欠いている。児童相談所は一体何をやっている?地域の公立小中学校は?警察も無能すぎる、と言いたいところだが、富田林署から逃げ出した男が実在するわけで、ここは減点対象にしない方が良いのだろう。

 

空の世界の描写も『 千と千尋の神隠し 』の白と式神のオマージュなのだろうか。もっとオリジナリティのあるビジョンは描けなかったのだろうか。細かい部分にも不満は残るが、全体を通じてやはりミュージック・ビデオ的な作りであるとの印象は避けられない。愛にできることを問うのは美しいが、愛が必然的に伴うネガティブな部分の描写の弱さ故に、子ども向け作品としてしか評することができない。

 

総評

最近、特に年齢を感じる。肉体的にそうだ。風邪をひいて、回復するのに4~5日を要するようになってしまった。精神的な老いも感じる。対象の新しい可能性を探ろうとするよりも、既知のものとのアナロジーで語ることが多いことは自覚しているが、仕事でも私生活でも何かを変えなければならない時期に来ているのかもしれないと感じた次第である。本作について言えば、オッサンの鑑賞に堪える部分は少ないだろう。しかし、中高大学生カップルあたりは、『 君の名は。 』と同じくらいに楽しめるのではなかろうか。

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