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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: コメディ

『 映像研には手を出すな! 』 -キャラ作りや演出が中途半端-

Posted on 2020年10月7日2022年9月16日 by cool-jupiter
『 映像研には手を出すな! 』 -キャラ作りや演出が中途半端-

映像研には手を出すな! 40点
2020年10月3日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:齋藤飛鳥 山下美月 梅澤美波 小西桜子 桜田ひより 福本莉子 浜辺美波
監督:英勉

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旬な女優と人気アイドルを集めて作りました的なにおいがプンプンする作品。そういう映画は嫌いではないが、キャスティングが逆だろうと思う。すなわち、主役に役者、端役にアイドルにすべきだ。このあたりに邦画界の構造的な弱点が見え隠れしている。

 

あらすじ

浅草みどり(齋藤飛鳥)、水崎ツバメ(山下美月)、金森さやか(梅澤美波)の個性あふれる3人は、芝浜高校で“最強の世界”を描き出すべく映像研を設立する。しかし、大・生徒会は有象無象の部活や同好会の乱立を快く思っておらず、部活動統廃合令を出してきた。果たして映像研は無事に活動をできるのか・・・

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ポジティブ・サイド

映画作りをする人々を題材にする映画というのはJovianの好みである。近年の邦画でも『 カメラを止めるな! 』という傑作が生まれた。英監督過去作『 トリガール 』は微妙な恋愛要素を入れたことでストーリーの密度や純度が低下してしまったが、本作の主役3人は男にわき目もふらず“最強の世界”を目指すところが小気味よくて、共感もしやすい。恋愛のあれやこれやで空回りする青春もあるにはあるだろうが、大多数の人間は友人や仲間との部活や遊びも同じくらい、時には恋愛以上に大切にしているものだ。

 

CG技術の向上と廉価化も本作は上手く取り入れている。アニメのラフ画をそのまま空間上に描き出し、皆が推敲を重ね、完成形に仕上げていく作業は、まさに現代的なアニメ作りを映像で巧みに表現できていた。今後は邦画も背景や大道具や小道具をCGで描くことが増えていくはず。そうした中、目の前には存在しないものを前に演技する力が、役者には今後ますます求められていく。そうした時代の端緒を描いているとも言えそうだ。

 

アホな部活や同好会が百花繚乱状態の学校だなと序盤で思わせてくれるが、それらを巧みに盛り込んだ終盤の展開は、お約束ではあるがカタルシスがある。『 賭けグルイ 』では有象無象の生徒は食われる存在に過ぎなかったが、本作はモブ連中がドンデン返しの立役者になっていた。これこそ王道的展開というものである。

 

ネガティブ・サイド

キャスティングが奇異に思える。原作を知らないJovianでも「なんか違うぞ?」と感じた。主演に浜辺美波を据えることができていれば、もっとコミカルでユーモラスな「浅草みどり」像を打ち出せていたに違いない。もしくは売り出し中の桜田ひよりもハマりそう。水崎ツバメを演じた山下美月と金森さやかを演じた梅澤美波の配役も逆であると感じた。役者の両親を持ち、読モでもあるサラブレッドには、長身かつ端正な顔立ちの梅澤の方が水先ツバメというキャラにマッチしているように思えた。

 

映画のあちらこちらにどこかで見たようなセットやガジェット、ロケーションが出てくる。

『 暗黒少女 』や『 東京喰種 トーキョーグール 』、『 翔んで埼玉 』や『 賭けグルイ 』など。もちろん、ほとんどすべてのシーンでオリジナルのロケ地を選定していると思われるが、構図の切り取り方がどれもこれも平凡、もっと言えば陳腐に見える。『 水曜日が消えた 』の図書館が『 図書館戦争 』と同じでカメラワークもそっくりだったことにウンザリしたが、作品を作る時に作り手、ことに監督は常にオリジナリティを追求してほしい。それはストーリーだったり、役者に求める演出だったり、カメラワークだったりと様々にあるが、どれでもいいのだ、クリシェで満足してはならない。

 

ストーリー展開にも粗が目立つ。なぜ大・生徒会にあれだけ激しく抵抗する映像研が、文化祭に出展するために他の部活や同好会を潰す必要があるのか。生徒会に反発しながら、やっていることが生徒会と同じになっているではないか。敏腕プロデューサーたる金森氏の面目が、これでは丸つぶれである。

 

ロボ研と手を組む展開は悪くないが、そのロボ研の連中が完全に単なるコミックリリーフ、いや、それ以下の扱い。巨大ロボの存在意義をロマンだと語るその言や良し。ならば、なぜ巨大ロボの戦い方や戦闘時のポーズや武器その他についても熱く語らないのか。そのあたり原作者とは話さなかったのか。もしくは英勉監督の中にはロマンがないのか。巨大ロボットとは、少年の自我の象徴である、怪獣とは、外部世界の理不尽さの象徴である。少年がそうしたものと戦うためには大人にならなければならないが、それはできない。だから巨大ロボに頼るのだ。英監督の心の中に、そうした観念はないのか。巨大ロボットのロマンとは何かについて真摯に向き合った形跡が見られない。

 

最後に、せっかく作ったアニメが映し出されないのは何故なのか。PCのEnterを押下した瞬間に、なぜか点灯していた講堂の照明まで消えたが、どういうことなのだ?執拗なまでに繰り返された爆発音の音響が本番で一切鳴り響かなかったのは何故なのだ?映像研の作品を観客が見られないというこのモヤモヤをどう我々は晴らせばよいのだ?

 

他にも気象研究部だとかピュー子だとか、本当に必要だったのだろうかと疑問になる。

 

色々な要素をとことん納得いくまで追求することなく、とりあえずテキトーにまとめてみました。そんな感じの作りに見えてしまい、残念である。

 

総評 

英監督は2010年以降、普通の映画監督とは思えない多作多産っぷり。だが、それが劇作術の向上の為せる業というよりも、漫画原作の映画化作業テンプレのようなものを手に入れてしまったからに思えてならない。まあまあ面白いけれど、突き抜けた面白さにはならないのだ。この手の「クリエイターを主人公にした物語」ならば、『 バクマン。 』の大根仁監督の方が手腕は優っているように思う。原作ファンにならお勧めできると思われる。Jovianの横の方に座っていた女子高生?女子大生?みたいなペアが、終始クスクスケラケラしていたから。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Creators …

金森の言う「クリエイターって奴らは」の私訳。こういう表現は十把一絡げにして複数形で表す『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』で、ハン・ソロの言葉を無下にするレイアを見たC-3POが一言、“Princesses …”=「お姫様という人種は・・・」と慨嘆していた。職場などで「まったく中年オヤジは・・・」と思ったら“Middle aged men …”、「管理職って奴らは・・・」と感じたら“Managers …”と複数形にして心の中でつぶやこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, コメディ, 小西桜子, 山下美月, 日本, 桜田ひより, 梅澤美波, 浜辺美波, 監督:英勉, 福本莉子, 配給会社:東宝映像事業部, 齋藤飛鳥Leave a Comment on 『 映像研には手を出すな! 』 -キャラ作りや演出が中途半端-

『 無職の大卒 』 -この世に役立たずなど存在しない-

Posted on 2020年9月30日2022年9月16日 by cool-jupiter

無職の大卒 70点
2020年9月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ダヌシュ サムドラカニ アマラ・ポール
監督:ヴェールラージ

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インディアン・ムービー・ウィークの一作。インドは近年、宗教・神学・哲学問題(『 PK 』)や国境問題(『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』)、さらには教育問題(『 ヒンディー・ミディアム 』)などの分野で優れた作品を送り出してきた。そして本作は就職問題に関する快作であった。

 

あらすじ

大学で土木工学を学んだラグヴァラン(ダヌシュ)は、IT専攻でなかったばかりに、就職に失敗してしまった。日がな一日、家事でもして過ごしていたところへ、隣家に妙齢の美女のいる家族が引っ越してきて・・・

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ポジティブ・サイド

大卒にして無職というのは、ある意味でその国の発達の度合いを測る目安になるのかもしれない。そもそも子どもを大学にやれる経済力が親世代に求められる。一方で、順調に若者を吸収してきた労働市場が飽和状態になりつつある。そのようなインドの現状、そして多くの先進国の一昔前の姿を、本作は如実に映し出す。だが、悲壮感が漂うばかりではない。多くのインド映画はあまりにも強権的、威圧的な家父長制の家族や社会を映すが、本作の親子関係は時にシリアスでありながら、基本的にはコミカルだ。

 

インド映画で工科大学と言えば『 きっと、うまくいく 』が思い出される。エンジニアの卵たちがここぞという場面で本領発揮するシーンには痺れた。本作でもタイトル通りに工科大卒の無職たちが大いに躍動するシーンが収められているが、そこで得られるカタルシスは非常に大きい。これはJovianがいわゆる就職氷河期世代に属するからだろうか。

 

主演のダヌシュは普段の情けなさと、やる時はやる男というギャップがたまらなく魅力的である。父に叱られ、母に甘え、弟に劣等感を抱いているのかと思えば、キレッキレのダンスを披露し、無手勝流のケンカ術でチンピラをコテンパンに叩きのめす。女性は男性のギャップの大きさに惚れるというが、確かにラグヴァランはギャップの塊である。

 

悪役である大企業の社長とそのボンクラ息子が、成長著しいインドという国家の負の面を見事に体現している。見ていて本当に腹が立ってくる嫌味キャラなのだが、それは役者の演技力ゆえか、それとも半沢直樹的な下克上や倍返しを容赦なくやってくれ!と思いたい、観る側の心の在りようゆえか。おそらくその両方だろう。「 万国のプロレタリア団結せよ! 」と叫んだのはマルクスであるが、これを今風に言い換えれば「 万国の大卒無職、団結せよ! 」となるだろうか。ある意味で安心して見ていられる勧善懲悪ものであり、多民族社会を維持するインドらしい結末も用意されている。2014年の映画であるが、古さは全くない。

 

ネガティブ・サイド

一言、脚本が粗い。ヒロインが二人いるのも紛らわしいし、本命であるべきシャーリニとの関係が劇的に進展するわけでもない。そもそも、もう一人のヒロインが生み出される経緯が気に食わない。中盤で唐突に「え・・・?」という展開が待っているが、この事件がご都合主義にしか思えないのだ。ここまでドラマチックな展開を無理やりに作らなくても、もっと現実味のあるサブプロットで、後半~終盤の展開は描けたはずである。

 

シャーリニのバックグラウンドもイマイチはっきりしない。自分の父親の倍以上を稼ぐらしいが、歯科衛生士?それとも歯科医?彼女の職業的背景がはっきりしないので、無職のラグヴァランとの距離感や職を持ったラグヴァランとの関係性が奥深いところでは把握しにくかった。

 

少しだけ残念だったのはエンディング。振り切ったアクションの直後に、どこか唐突に、知り切れトンボな感じで終わってしまう。絢爛豪華な終わり方が観たかったのだが・・・

 

総評

はっきり言ってシーンとシーンのつながりは滅茶苦茶である。しかし、それをインド映画独特のでたらめなパワーで乗り越えている。そこにしっかりとメッセージも込められている。この世に役立たずなど存在しない。もしも誰かが無能だとするなら、それは時代やコミュニティがその者に活躍の機会を与えていないからだ。そのよう感じさせてくれるインド映画の快作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Can you ~ ?

最もスタンダードな英語の依頼表現。劇中では“Can you come here?”という具合に使われていた。Canは可能性や能力があるという意味の助動詞だが、疑問文の場合はほぼ依頼だと思って間違いない。Are you able to ~ ? と Can you ~ ? を使い分けられれば、英会話初心者は卒業である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アマラ・ポール, インド, コメディ, サムドラカニ, ダヌシュ, ヒューマンドラマ, 監督:ヴェールラージLeave a Comment on 『 無職の大卒 』 -この世に役立たずなど存在しない-

『 ジェクシー! スマホを変えただけなのに 』 -気軽に笑える安心コメディ-

Posted on 2020年8月25日2021年1月22日 by cool-jupiter

ジェクシー! スマホを変えただけなのに 65点
2020年8月22日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アダム・ディバイン アレクサンドラ・シップ
監督:ジョン・ルーカス スコット・ムーア 

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監督および脚本は『 ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い 』のジョン・ルーカスとスコット・ムーアのコンビ。となると、大いに笑えてちょっぴり考えさせられるコメディに仕上がっているのは間違いない。日本版の副題は『 スマホを落としただけなのに 』のパロディだが、ホラー要素はないので安心して観に行ってほしい。

 

あらすじ

フィル(アダム・ディバイン)はスマホ依存症。ある時、街中で偶然にケイト(アレクサンドラ・シップ)と知り合うも、直後にアクシデントでスマホが壊れてしまう。新しいスマホを手に入れたフィルは、「あなたの生活向上を支援します」というジェクシーというAIと奇妙な共同生活を始めるのだが・・・

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ポジティブ・サイド

主役のフィルはなんと『 ピッチ・パーフェクト 』と『 ピッチ・パーフェクト2 』のトレブルメーカーズの嫌味な男筆頭のバンパーを演じたアダム・ディバインではないか。ベラーズの面々は男とのある意味でとても不毛な惚れた腫れたの関係から華麗に卒業していったが、こちらは対極的にお一人様を楽しむ優雅な中年男。『 結婚できない男 』の阿部寛とは方向性がまるで違うが、フィルのような独身貴族は全世界で軽く数百万人は存在するのではないか。それほどリアルな人物の造形であり描写である。まず、職業がネット記事のライターというところが笑わせる。誰しも「○○○がオワコンである5つの理由」とか「株で成功する人が共通して持つ3つの習慣」といった、テンプレ感丸出しの記事を読んだことがあるだろう。つまり、常日頃から我々をスマホにくぎ付けにすることに血道を上げる職業人なのだ。この情けないやら有り難いやらの中間の存在のフィルに感情移入できるかどうかが大きなポイント。もしも、「何だ、つまんねー主人公だな」と感じるなら本作はスルーしよう。「なんか親近感がある」と思えれば劇場へ行こう。

 

スマホに気を取られて道を歩いていて人にぶつかってしまう。その時、ぶつかった相手ではなく自分のスマホの方を気にかけてしまうフィルに、「人の振り見て我が振り直せ」と感じる人も多いはずだ。だが人間万事塞翁が馬。これがもとでケイトに出会い、ケイトとの出会いがジェクシーとの出会いをもたらしたのだから。ケイト演じるアレクサンドラ・シップのフィルモグラフィーを見て、こちらにもびっくり。なんとあの怪作『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』のストームではないか。だが本作ではミュータントではなくいたって普通の人間。というよりもいたって普通の女子である。笑顔がチャーミングで、それでいて野暮なフィルのデートの誘いを快諾。半年ぶりにすね毛を剃ったという女子力ゼロの発言から、小洒落た高級レストランを出て街中のバーへ。あれよあれよの夜中のサイクリング軍団への合流から、深夜の路上の情熱的で扇情的なキス。日本の少女漫画の映画化では絶対に描けないような極めてリアルな大人のデートである。そのすべてに輝きを与えているのは他ならぬケイト。正直、なぜこれで男がいないのかと訝しくなるが・・・おっと、これ以上は劇場で確かめてほしい。

 

スマホと人間の恋愛というと『 her 世界で一つの彼女 』という優れた先行作品がある。あちらは純粋なSFだったが、こちらは純粋なコメディ。そのことを象徴的に表すのが、ジェクシーとフィルのテレホンセックス。言葉で互いを高め合うのではなく、充電用ケーブルのコネクタをスマホ本体に抜き差しするという物理的なセックス。もう笑うしかない。トレイラーで散々映されているから、このぐらいはネタバレにはならないだろう。ジェクシーの魅力は何と言ってもuncontrollableなところ。電源を切ろうにも切らせてくれないし、フィルのプライバシーや口座、SNSにも易々とアクセス。生活を向上させてくれるかどうかはビミョーであるが、フィルを生き生きとさせていることは間違いない。ケイトと自分を比較して「あの女にはポケモンGOもGoogle Mapsもない」と言い放つ。それがフィルにはそれなりに堪える台詞なのだから、情けないやら身につまされるやらで、なんだかんだで笑ってしまう。

 

ストーリーは完全に予定調和で、ランタイムも90分を切るというコンパクトな作りである。脇を固めるキャラも人間味があるし、マイケル・ペーニャは『 アントマン 』並みのマシンガントークで相変わらず笑わせてくれるし、フィルの生活はスマホを片時も手放せない現代人なら、思わず理解してしまったり共感してしまうシーンのオンパレードである。何も考えずに80分笑って、時々はスマホから離れて友人や恋人、家族と語らおう。そんな気にさせてくれるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

スマホショップの老婆は必要だったか。いや、必要だったのは分かるが、何らかのキーパーソンであると見せかけて、これでは・・・。『 ステータス・アップデート 』の不思議なアプリ入りのスマホのように、特定の人物からしか手に入らない特別なスマホとAIという設定の方が良かったのではないか。フィルのようなスマホのヘビーユーザーなら、ジェクシーのことを「なんかヤバいぞ」と感じた瞬間にその場でググるはずだし、新しくできた友人たちにジェクシーというAIを知っているかと尋ねることもできたはずだ。ジェクシー搭載のスマホがありふれたものなのか、それとも希少なのか。そこがはっきりしない点が釈然としなかった。

 

主人公のフィルがジャーナリスト志望という点もストーリーとは密接にリンクしていなかった。ジェクシーに振り回される自分を題材に、【 スマホに振り回されないための10の心得 】みたいな記事を書いてバズる、あるいはマイケル・ペーニャ演じる上司にしこたま怒られる、という展開があっても良かったように思う。そうした経験が肥やしになってこそ、ラストが光り輝くのだろう。

 

細かい点ではあるが、土砂降りの雨のシーンとその後の会社のシーンがつながっていなかた。フィルはびしょ濡れ、オフィスの大きな窓からは陽光が燦々、というのは邦画でもちらほら見られるミスだ。

 

総評

本作は様々な層を楽しませるだろう。高校生以上のカップルや夫婦で楽しんでも良し。もちろん優雅な独身貴族も歓迎だ。そして、あなたがトム・クルーズの大ファンだというなら、本作は決して見逃してはならない。Jovianは何が何でも字幕派だが、本作に関しては日本語吹き替えにも興味がある。誰か吹き替え版の感想を詳細にどこかに書いてくれないかな。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

think outside the box

『 サラブレッド 』でも紹介したフレーズ。マイケル・ペーニャ演じるボスが会議中に言う台詞。意味は「既存の枠組みにとらわれずに考える」である。ビジネスパーソンなら知っておきたいし、実践もしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アダム・ディバイン, アメリカ, アレクサンドラ・シップ, コメディ, 監督:ジョン・ルーカス, 監督:スコット・ムーア, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 ジェクシー! スマホを変えただけなのに 』 -気軽に笑える安心コメディ-

『 タバコイ タバコで始まる恋物語 』 -本音と建て前と男と女-

Posted on 2020年6月27日 by cool-jupiter

タバコイ タバコで始まる恋物語 50点
2020年6月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:又吉直樹
監督:中川通成

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200627224818j:plain
 

煙草に対する風当たりが強くなって久しい。『 風立ちぬ 』ですら喫煙シーンの多さで叩かれる時代である。Jovianも2012年7月23日にタバコをやめて今に至る。ある意味、2020年代では作れない映画なのかもしれない。

 

あらすじ

宮内正(又吉直樹)は馬鹿がつくほど正直な男。他人の言葉は全て鵜呑みにするし、嘘をついたこともない。おかげで合コンでは失敗続き。だが、ある日、馴染みの中華そば屋の主人からタバコをもらう。そのタバコを吸ってみると、宮内はどういうわけけ他人の本音が目に見えるようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

色々なところで芸が細かい。又吉のタバコのくわえ方、火のつけ方、たばこの持ち方、火の消し方、全てが素人っぽい。実際に喫煙者ではないのだろう。もしくは喫煙者だったとしても、見事に非喫煙者になりきった。煙の吐き出し方も、肺まで吸い込んで吐き出している時と、単にふかしているだけの時があった。タイトルの通りに、タバコの描写には一定のこだわりが見られた。

 

ヒロイン役の遠藤久美子のファッションも細かい。もともと高身長なところへハイヒールを履いているため、又吉を見下ろす構図になることがほとんどだが、はじめてキスをする場面だけはヒールではなかった。つまり、目線の高さが又吉とエンクミでちょうど合う。高飛車と呼ばれる女性が、ちょっと下に降りてきたわけで、このビジュアル・ストーリーテリングは上手い。

 

描き出される男女のステレオタイプも嫌味には感じられない程度に抑えられているので許容できる。男は女をベッドに連れ込むためならアホになる。というか、下半身と脳が戦うと大抵の場合、下半身が勝つ。脳が勝つのは、羞恥心が極度に強いか、あるいは相手に対して本気の時である。本気ではない相手に自分のセックスの感想を求めるところはリアルである。本命にそれができるとすれば、極度のナルシストか、あるいはベテラン夫婦だろう。

 

非常にコンパクトにまとまって、それなりにツイストもあり、カタルシスも感じられる。典型的なrainy day DVDだろう。

 

ネガティブ・サイド

タバコの効果効能がよく分からない。嘘をついた時にその人の本音が見えるようになると宮下正自身は得心しているが、必ずしもそうではない。ダイレクトに思考を読んでいる時も多い。昨今話題になっている賭けマージャンで正がカネを稼ぐシーンがあるが、マージャンは相手の待ちを回避しただけで勝てるゲームではない。また、せっかくのアイテムであるが、その効果に一貫性がないように見えるのは減点対象である。

 

合コンで調子に乗り過ぎた結果、会計に窮した正がクレジットカード払いをする。それは良い。問題なのは、飲食店で分割払いを申し出るところだ。飲食店や宿泊施設は一回払いしか受け付けられない。なぜならそうした店は返品が不可な商品やサービスを提供しているからだ。一回払いで清算した後にリボや分割に変更する、あるいはリボや分割専用カードを使うべきだった。

 

正の鈍さも、正直なところどうかと思う。人を疑うことを知らないことと、物事を深く突き詰めて考えられないことは、全く別の事柄だ。『 アントマン 』のスーツでも、『 続・夕陽のガンマン 』の金(ゴールド)の情報でも、誰か一人だけしかそれを持っていない、ということはありえない。『 水曜日が消えた 』でも感じたことだが、“水曜日”が消えたなら、他の“曜日”も消える/消えたのではないか?普通はそう疑うものだ。正が仕事でも恋愛でも絶好調になった時に、「仕事でも恋愛でも成果を出せる奴はこういうアイテムを持っているんじゃないのか?」という考えに至らない愚鈍なキャラクターである点がマイナス、さらにこれまでに嘘をついたことがない正直者というキャラ属性とその愚鈍さの間につながりがないのもマイナスである。

 

ストーリーそのものも極めてありきたりだ。もうちょっと捻りが欲しかった。特に序盤のとある女性の言う「彼氏はいないよ、旦那はいるけど」は必要だったか?『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』のホークアイ以前にこのセリフが日本で使われていることには少々感心したが、アベンジャーズの原作コミックの方がおそらく先だし、このセリフのおかげで、エンクミの背景がすぐに見えてしまう。色々な意味で工夫しすぎたせいで、面白さが減じてしまっているように感じた。

 

総評

悪い作品ではないが、面白い作品でもない。又吉の演技の稚拙さには敢えて目をつぶってこの点数をつけている。ただ、4~5年前、Jovianが結婚を意識していたころに観たEテレの『 オイコノミア 』で又吉が自身の恋愛観や結婚観を語っていたり、公開が延期になっている映画『 劇場 』の原作小説を読んだりしていれば、本作には興味深い点もいくつか発見できる。正の参加する合コンの回数が3回というのは、ある意味良く出来たプロットである。又吉のファンならば観ても損はないかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

obnoxious

『 ハンナ 』で gross =キモイ を紹介したが、この obnoxious はその上級版だろうか。意味は「キモイ」、「うざい」、「イヤな感じ」など、ネガティブなイメージを持つ人に対して使うことが多い。合コンで正は何人かの女子に obnoxious であると思われていた。この語が日常会話でスラっと使えれば、英会話スクールは卒業していいだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, コメディ, 又吉直樹, 日本, 監督:中川通成Leave a Comment on 『 タバコイ タバコで始まる恋物語 』 -本音と建て前と男と女-

『 ゾンビーノ 』 -人間とゾンビの共生は可能か-

Posted on 2020年6月4日 by cool-jupiter

ゾンビーノ 65点
2020年6月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キャリー=アン・モス ビリー・コノリー クサン・レイ
監督:アンドリュー・カリー

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間もなく「withコロナの時代」になると言われている。コロナは未知のウィルスであり、それはゾンビや魔女に例えられるだろう。そうした異形の存在と人類が平和共存できるかどうか。さらには高度に発達したAIと人類の共生は可能か。陳腐なテーマであるが、今という時代においては重要な問いである。

 

あらすじ

放射能のせいで死者がゾンビとしてよみがえる世界。だがゾムコム社の開発した首輪により、ゾンビは無害・無力化された。そうした世界で、ティミー(クサン・レイ)は母親が見栄で手に入れてきたゾンビによっていじめっ子たちからたまたま救われる。ティミーはゾンビ(ビリー・コノリー)にファイドと名付け、奇妙な友情を育んでいくが・・・

 

ポジティブ・サイド

ゾンビは元々ブードゥーの呪いによる産物とされているが、普通に考えればそれはない。かなりの確率で、脳血管障害で仮死状態に陥った者が息を吹き返した、だがその時に構音障害や構語障害、あるいは片麻痺などを発症したのだろう。そうした人物が都合の良い単純労働力と見なされ、生かされていた。それがゾンビのルーツだろう。本作のゾンビはもちろん人を襲うのだが、それがゾンビの主たる属性にはなっていない。ゾンビが労働力として、あるいは愛玩動物として扱われる社会を描いており、これは極めてユニークな世界観だ。

 

ティミーとファイドの友情は、abnormalでありながらも美しい。ゾンビというある意味で絶対服従してくれる危険な存在と友情を育むのは、どこかロボットと疑似父子・疑似親友関係を結ぶ『 ターミネーター2 』のジョン・コナーとT-800のようであり、異形の存在者との奇妙な友情という点では『 グーニーズ 』のチャンクとスロースを思い起こさせる、ほっこり系でもある。それだけなら動物との友情やロボットとの友情と特に変わりはない。本作の貢献は、キャリー=アン・モス演じるティミーの母とゾンビであるファイドとの、奇妙な関係とその劇的な帰結にある。その脇には、女性ゾンビのタミーとの関係を深める脇役もいる。ゾンビと共存する世界というのは、ある意味でゾンビと本当の家族になることだ。家族がゾンビ化して葛藤する映画はおそらく2000本ほど存在するだろうが、ゾンビと家族になる映画というのは、おそらく20本以下ではないだろうか。本作はその貴重な一本である。

 

本作はほのぼの映画である反面、強烈な社会風刺でもある。ゾンビという物言わぬ、思考力を持たぬ、搾取される側であり、なおかつ人間性を喪失した存在という属性の諸々が、人類そのものに一挙に投影されることになるからである。これには恐れ入った。冒頭のコメディックなナレーションと白黒映像は大いなる伏線である。本作は多くの男性諸氏の心胆を寒からしめるのではないか。同時に、人間と非人間の関係性、その境目を大いに揺さぶってくる。コメディでありならがコメディの枠を大いに超えた良作である。

 

ネガティブ・サイド

コメディとして『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』のような突き抜けた面白さがない。ティミーの父親の抱えるトラウマがそもそも面白くないのだ。葬式にこだわる気持ちは分からないでもないが、そうした気持ちがこれだけ持続するからには、ゾムコム社も当初はテクノロジーに欠陥があって、ゾンビを飼いならすことにはしばしば失敗した、そして多くの犠牲がその過程で出た。そうした歴史的な経緯が必要だっただろう。

 

政府ではなく企業がでかい顔をする世界というのは確かに近未来的であるが、本作の世界観とは合わない。経済=金銭の授受が絡むと、様々な境目がそれだけで揺らぐからだ。人はカネのためならプライドも捨てられるし、衣服だって脱ぐ。近未来SFの要素は歓迎だが、あまりにも現実社会とリンクした要素は不要である。そうした経済優位の社会を描くのなら、それこそゾンビという労働力をいかに搾取できるかが社会的地位の高さにつながっているというディストピアを描くべきだったと思う。

 

グロいシーンは不要だったように思う。真夜中に月を背景に立ち上がる老婆のシルエット、のように序盤から中盤にかけてはボカした描写だけで良かった。そうすることで、後半のストーリーがよりカラフルになったはずだし、タミーを愛するナード男の怒りにも共感しやすくなったことだろう。

 

総評

多様性の重要さが叫ばれて久しい。その一方で差別問題の根深さが浮き彫りになる事件も頻発している。Homo homini lupusな世界が現出する一方で、橋や塔や動物やゲームのキャラクターと結婚する者も出てくる時代である。そして、新型コロナウィルスの出現で、ソーシャル・ディスタンスなる概念と行動まで生まれた。人間同士の関係がまさに揺らいでいる。本作は10年以上前の作品であるが、人間と非人間との奇妙な関係の醸成にフォーカスしている。今こそ再鑑賞すべき時を迎えていると言えるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

There is no such thing as ~

~などというものは存在しない、の意である。劇中では There is no such thing as a stupid question. = マヌケな質問なんてないんだよ、というふうに使われていた。

 

There is no such thing as a perfectly safe drug.

There is no such thing as a foolproof plan.

 

といった感じで使う。職場であなたの提案が上司や同僚の抵抗にあったら、“There is no such thing as a risk-free investment/project!”と反論しよう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, カナダ, キャリー=アン・モス, クサン・レイ, コメディ, ビリー・コノリー, 監督:アンドリュー・カリー, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 ゾンビーノ 』 -人間とゾンビの共生は可能か-

『 一度死んでみた 』 -バランスが少々悪いコメディ-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

一度死んでみた 55点
2020年3月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:広瀬すず 吉沢亮 堤真一
監督:浜崎慎治

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『 一度死んでみた 』の映画化作品。映画化されても、原作の持っている構造的な欠点は何一つ解消されていない。だが、映像化には成功したと言えるだろう。なぜなら、キャラクターが血肉を得て、背景が色鮮やかに再現されたからだ。

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あらすじ

野畑七瀬(広瀬すず)は製薬会社社長の野畑計(堤真一)が大嫌い。そんな父が死んだ。「一度死んで二日後に蘇る薬」を飲んだからだ。開発中の若返りの薬を巡る競合他社からのスパイを炙り出すためだったが、復活を前に計は荼毘に付されることに。七瀬は、存在感の希薄な社員、松岡(吉沢亮)と共に計を救おうと奔走するが・・・

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ポジティブ・サイド

原作ではスッカスカだった様々な事物の描写が見事に映像化された。これは素晴らしい。特に「デスデスデス」のメタル『 一度死んでみた 』は、劇場では予告編の前の時間にかなり流されていて、その再現度(というか説得力)の高さにびっくりした。本編でもフルで見られるので是非とも堪能してほしい。『 サヨナラまでの30分 』のライブよりも、こちらの告別式・・・ではなくミサの方が、個人的には楽しめた。他にも「ま・さ・に」や、藤井さんの不思議なたたずまいや、ドラムソロと山手線駅名歌唱、さらに「ここよー!」など、ぼんやりとしたイメージでしか把握できていなかったディテールがリアリティのある映像になっていた。このあたりは浜崎慎治監督の手腕によるものと認められる。CMというのは見た目一発で視聴者に色々なものを伝えなくてはならない。そのあたりの手練手管は見事だった。

 

全編を93分にまとめたのも見事。変に細部に凝ることなく、原作の持ち味であるテンポの良さをそのまま映像化する際に保ったのは好判断であった。タイムリミットのある物語というのは、どこかで緩急をつけることで終盤のリミット近くのサスペンスを盛り上げるのが定石。本作はその部分をクリスマスイブのお通夜を情感たっぷりに、ロマンティックな予感を漂わせつつ、しかしコメディ路線にのっとって描いた。つまりはファミリーや中高生カップルでも安心して観られる作りになっているということである。アップダウンにメリハリがあるので、体感では75分ぐらいの上映時間に感じられた。ジェットコースター的な展開の映画としては、なかなかにハイレベルな作品である。

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ネガティブ・サイド

テンポの良さとは対照的に、物語全体のトーンは全くもって一貫性を有していない。大部分はスラップスティック・コメディなのだが、一部にシリアスなドラマあり、一部にロマンスありと、ところどころで監督が変わったのかと思うぐらいに変調する。最も違和感を覚えたシークエンスは、葬儀場(?)を確保するまでのコメディ調と、そこからのライブ・・・ではなくミサだった。“水平リーベ僕の船”も悪くないのだが、原作に逆らってでも“一度死んでみた”と順番を入れ替えてもよかった。「デスデスデスデス!」で一気にミサを盛り上げ、このエモーショナルなバラードを後ろに持ってきた方が終盤の流れに調和するし、しんみりとしたムードの中、これ幸いとばかりに悪人たちが棺桶を運ぶ絵の卑劣さと間抜けさが際立ったはずだ。

 

広瀬すずのハイキックについても・・・浜崎監督はまだまだ分かっていない。見せてはダメなのだ。いや、見えてはいないが、演出が実に中途半端だ。『 ダンス ウィズ ミー 』の三吉彩花のように照れることなく恥じることなく見せてしまうか、あるいは『 はじまりのうた 』のキーラ・ナイトレイの教えのごとく、見る者に想像をさせねばならない。

 

これでもかと原作小説に忠実だったのに、何故に最後の最後で小説の描写と異なる画を撮ってしまったのか。本作のメッセージの一つは「言葉にしないと分からない」だったのではないか。最後の最後のシーンが全体のトーンを壊してしまった。終わりよければすべて良しなのだが、終わり悪ければすべて悪しである。

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総評

コンテンツの面では十分に面白い。フォームの面では改善の余地がある。ただ、ひねくれた映画マニアでもないかぎり、フォームなどは気にするべきではないし、気にしてもしょうがない。料理がそれなりに美味しければ、食器が多少おかしくても許容すべきだろう。そのことで過度の料理人を責めても意味はあまりない。逆に言えば、長編映画初監督にしてこれだけディテールを再現する力があるのだから、浜崎慎治というオールド・ルーキーには期待できるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You stink.

「くーさーい!」の英訳である。年頃の娘にこう言われる男親の悲哀はいかばかりか。なお、同様の台詞は『 トップガン 』でマーヴェリックがスライダーに言い放っていた。ちなみに国際的に活躍する公認会計士の方から「“These numbers stink.”とは時々言いますね」と聞いたことがある。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, コメディ, 吉沢亮, 堤真一, 広瀬すず, 日本, 監督:浜崎慎治, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 一度死んでみた 』 -バランスが少々悪いコメディ-

『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

Posted on 2020年2月9日2020年9月27日 by cool-jupiter

ヲタクに恋は難しい 10点
2020年2月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高畑充希 山崎賢人
監督:福田雄一

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うーむ、日本版『 ラ・ラ・ランド 』だと喧伝されていたので、ミュージカル好きとして観に行ったが、これは酷過ぎる。過去10年でも最低レベル。『 シグナル100  』も酷かったが、2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤーはこちらで決まりである。

 

あらすじ

桃瀬成海(高畑充希)は転職先で幼なじみの二藤宏嵩(山崎賢人)に再会する。成海は前の勤め先で恋人に腐女子であることがばれてしまい、逃げるように転職してきたのだった。そんな時、ゲーヲタであることを隠さない宏嵩に「俺という選択肢はないのか?」と問われた成海は、宏嵩と付き合うことにするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

高畑充希は、かなり歌唱力がある。

 

山崎賢人は、まあ並みより少しマシ程度の歌唱力である。

 

佐藤二朗のオープニングのプレゼンは、つまらないか面白いかの二択で言えば、まあ面白いのではないだろうか。

 

賀来賢人の顔芸は、おそらく本職の声優ドルヲタを怒らせる一歩手前のギリギリの線を見切ったユーモアがあったように思う。

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ネガティブ・サイド

まず、福田監督は何の意図があってミュージカル形式にしたのか。歌や踊りというのは、自己表現の極まった形なのである。言葉にできないサムシングを歌や踊りで表現するのである。ヲタクであるという自分の本性を隠したくてたまらない成海が、その心情を歌や踊りで表現するという営為の矛盾についてどう思うのか。『 キャッツ 』にはいろいろと不満を抱いたが、それでも天上世界に昇り、再生を果たしたいというジェリクル・キャッツの想いは歌と踊りから溢れ出ていた。本作にはそれがない。例えば『 モテキ 』の森山未來の喜びのダンス、あるいは『 愛がなんだ 』の岸井ゆきのが口ずさむ魂からのラップ、もしくは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』のトランスジェンダーのユリシーズの苦悩、そうした言葉にするのが難しいサムシングが、本作では歌と踊りの形で表出されていない。ミュージカルであることに必然性を一切感じないのである。

 

それだけならまだマシなのだが、『 オペラ座の怪人 』をパロったシーンでは久しぶりに映画を観て頭に来た。劇中でもイケメンと評される宏嵩がクリスティーンの位置に置かれるだと?火傷で爛れた顔を持つファントムを、某キャラが仮面をかぶって演じるだと?「彼女の趣味ごと彼女を愛せ!」と主張する菜々緒(もう某キャラをばらしてしまったが別にいいだろう・・・)が、それを言うか?イケメンだけれど内面が醜男である宏嵩と、醜男だけれど内面が純粋すぎるファントムを対比させたつもりなのだろうが、ファントムに本当に足りなかったのは外見上のルックスではなく自分への自信と他者への信頼である。だからこそクリスティーンを必死に口説くのではなく、催眠術を使うのであるし、男と女ではなく、師匠と弟子という関係で迫ろうとするのである。ファントムに欠けているのは対人能力、コミュニケーション能力であり、それは一世代も二世代も前のヲタク像である。福田監督の意識の根底にあるのは、非常に古いヲタク像であり、ヲタクという種族が迫害されている時代のイメージなのではないか。ストーリーは2018年のことのようだが、本作で描写されるヲタクはゼロ年代、いや90年代のそれである。ムチャクチャもいいところである。

 

大解釈に就職し、恋人もおり、趣味も充実し、その趣味を存分に表現できる場を持ち、その感動を分かち合える仲間がいる成海が、「リア充援護」などという言葉を使う。それは欺瞞である。リア充というのは成海のような人間を指す言葉である。もはやオッサンであるJovianの肌感覚でしかないが、2015年以降のヲタクには栗本薫のヲタクの定義、すなわち「人間よりも非人間に親しみを持つ」という定義は当てはまらない。20年前にコスプレしていれば準犯罪者か犯罪者予備軍のように見られていたが、今ではハロウィーンに代表されるように、コスプレも一つの文化となった。同じことが他の多くのヲタク趣味にも当てはまる。なぜ2020年、令和にもなって『 電車男 』の時代のヲタク像を見せられなければならないのか(『 電車男 』が悪いと言っているわけではない、念のため。電車男の時代は、オタクは日陰者で迫害される側だったと強調しているに過ぎない)。

 

時代錯誤はこれだけではない。成海は趣味の異なる宏嵩相手にもATフィールドを張っていたが、これなどは90年代のヲタクの心のバリアの象徴である。当時のヲタクは、それぞれの分野ごとに異民族であり、異なる離島に暮らして平和共存していた。だからこそ、出会ってしまうと分かり合うことができず激しい対立を引き起こしてしまっていた。だが、ゼロ年代以降、特にインターネットの発達とともにそうした不毛な争いは(少なくともリアル世界では)減少していった。これは歴史的な事実である。そして、雑多なオタク趣味が確立すると同時に、オーバーラップする領域はボーダーレス化していった。これも歴史的事実である。離島に橋がかかったのである。そして、そうした離島同士の付き合いが現実の付き合いに発展していくのが今という時代である。Twitterを見よ。定期的に#カプ婚が報告されてくるではないか。

 

本作が最も意味が分からないのは、そうした離島と離島の架け橋を渡る行為、すなわちゲーヲタを声優アイドルヲタ、もしくはBLやギャルゲーのヲタ趣味を理解するために宏嵩が手を出すアイテムやイベントが、ことごとく的外れであることだ。それは自分の好きな分野以外のことにはとことん疎いという従来のヲタクの性質だけでは説明がつかないほどである。対する成海もキャラに一貫性がない。下着の色をそこまで気にする女性なら、あのシチュエーションで見送りにすら来ない宏嵩は、恋愛相手としてもセックス・フレンドとしても対象外だろう。ヲタク趣味を隠さないで済むという気楽な相手なら、下着の色など本来どうでもいいはずである。主役二人のヲタクとしての性質が、時代の面でも、人物の面でも、一貫性をとにかく欠いているのである。

 

観ていて、ひらすら疲れた。何度寝てやろうかと思ったことか。恋をするのは難しいというのは、自分がヲタクだからではない。自分で自分を好きになれないから、他人を好きになれないだけだ。様々なジャンルのヲタクを一括りにして「ヲタクはキモイから無理」と切って捨てる成海という人間のこの考え方は、まさに差別主義者のそれである。原作は知らないが、この映画は全編が壮大な茶番劇である。『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』よりも馬鹿にされた気分である。かつてのゲームヲタク、SFヲタク、現役のボクシングヲタク(見るだけ)、映画ヲタク、ミステリヲタクであるJovianは本作によって大いに気分を害された。

 

総評

上映中にあちらこちらで「クスクス」という笑いが漏れていたが、声の主たちは皆、若々しく聞こえた。きっと若い世代にはちょっと変な人たちがネットスラングをリアルに使ったりするフシギな物語に映ったのだろう。だが、90年代やゼロ年代のヲタク文化を少しでも知っている人間なら、本作はとうてい許容できるものではないだろう。結局、福田監督はヲタクに対して何のリスペクトも抱いていないからである。それは人間模様を映し出す映画監督としては、あまりにも基本的素養に欠けているということである。元々、作る作品のほとんどが賛否両論を呼ぶ御仁であるが、今作はシリアスな映画ファンからは9割以上の酷評を得るのではないか。それほど酷い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

So, sue me.

映画に出てくるセリフではないが、「だから俺を訴えろよ」という意味の言葉である。往々にして開き直って言われることが多い。2000年前後、アメリカの掲示板などではしょちゅう、“I’m an otaku, so sue me,”(俺はヲタクだけど、それが何か悪いのか?)と書き込まれていて、「アメリカという国は、何か違う空気が流れているなあ」と感心したことを今でもよく覚えている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, コメディ, 山崎賢人, 日本, 監督:福田雄一, 配給会社:東宝, 高畑充希Leave a Comment on 『 ヲタクに恋は難しい 』 -過去10年で最低レベルの作品-

『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

Posted on 2020年1月27日2020年1月28日 by cool-jupiter

デンジャラス・バディ 55点
2020年1月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サンドラ・ブロック メリッサ・マッカーシー
監督:ポール・フェイグ

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嫁さんが借りてきて、一緒に観た。まあ、普通の出来ではないだろうか。真犯人はこの二人のどっちかだろう、と迷っている最中にヒントが。まあ、ミステリではないので謎解き要素を求めなければ、そこそこ楽しめるはず。

 

あらすじ

敏腕FBI捜査官のアッシュバーン(サンドラ・ブロック)は上司の昇進に伴って、空いたポジションを得ようと意気込むが、その上司からボストンの事件を担当するに命じられる。そこでは粗野で乱暴な女刑事マリンズ(メリッサ・マッカーシー)とコンビを組むことになってしまった。水と油の二人は果たしてバディとして認め合って、事件を解決できるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

劇場公開2014年の作品であるが、アラフィフのサンドラ・ブロックが胸元をかなり露出し、悪玉にお色気作戦で近づき、そしてバディ役であるメリッサ・マッカーシーに酒場その他の猥談で完敗を喫するのだから面白い。サンドラ自身も、こういう映画を大ヒットさせようとはあまり思っておらず、気分転換にたまには映画製作を気軽に楽しもうというノリでいるのではないか。そう思えるほどに脚本はぺらっぺらである。次の展開が見え見えである。だが、それで良いのである。アッシュバーンというキャラもどこかで観たキャラ要素の寄せ集め。美人で頭脳明晰な腕利き刑事。しかし男には縁がなく40代で独身。Single cat ladyをしているが、肝心の猫はお隣さんの借り物。吉田羊とテイラー・スウィフトを足して二で割ったようではないか。

 

バディ役を努めるメリッサ・マッカーシーは『 ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン 』をテアトル梅田で観た記憶がある。そして『 ゴーストバスターズ(2016) 』でも。レベル・ウィルソンと渡辺直美とフランシス・マクドーマンドを足して三で割ったようなキャラである。美貌はないが、勘の良さと腕っぷし、そして正義感と報われない家族愛とセックス・フレンドを持っているという、アッシュバーンとは正反対のキャラ。こういう二人を組ませようというのは、作ったような話でリアリティはない。だからこそ、逆に安心して観られるのである。

 

アッシュバーンとマリンズが互いを人間として認め合えるようになるため二つのクラブが重要な役割を果たすが、これらのシークエンスは誠にユーモラスである。我々が笑うのは、たいてい意味や認識にずれが生じている時だが、アッシュバーンの服装をマリンズが強制的に変えてしまうところに、ニヤリとさせられてしまう。決してエロティックな意味ではなく(それもないことはないが)、服をビリビリと破いてしまうことで、逆に男っ気のなさが際立ってしまうからである。このあたりから、この一風変わった女刑事たちが本格的な凸凹コンビに見えてくる。そして、次なるクラブのシークエンスで、凸凹コンビはバディとなる。酒というのは人間関係の潤滑油にも燃焼材にもなるが、酔っぱらった女二匹の乱痴気騒ぎは、確かに観る側をして彼女らを応援したくなる気持ちにさせてくれる。

 

事件の解決の仕方も明快だ。アッシュバーンに男はいりませんよ、というビジュアル・メッセージである。陳腐ではあるが、死線を共に潜り抜ける経験は「血よりも濃いものを作ることがある」(B’zの“RUN”)のである。

 

ネガティブ・サイド

ドジでお茶目なアッシュバーンが序盤から中盤にかけてどんどん冴えてくるのが、ちょっと不満である。敏腕であることは十分に伝わる。ただ、バリバリに仕事ができる女刑事ではなく、どういうわけか事件を解決できてしまう不思議ちゃん的なキャラが面白さの源泉なのだから、その設定を崩してはダメである。終盤でそのおっちょこちょいのダメ設定が復活するが、流血ネタにする必要はあったのだろうか?また仮にも警察官であればハイムリッヒ法ぐらい知っているのではないかと思うが。

 

マリンズのファック・バディが一人だけしか出てこないのも不満である。ファックの相手は10人中9人が黒人だというなら、黒人のバディも出すべきだ。そうすることでアッシュバーンとマリンズの女の艶のコントラストがくっきりと浮かび上がってきたことだろう。それによってアッシュバーンがマリンズ相手にシャッポを脱ぐのもスムーズになっただろうと思われる。そうしたシーンがないと、麻薬のディストリビューターの黒人男が追いかけて痛めつけるシークエンスが一種の弱いものイジメに見えてしまう。

 

また、内勤の黒人刑事も色々な情報を渡してくれるが、結局は主役の女性二人の引き立て役になってしまっている。サポート役ではなく引き立て役である。彼に警察官らしい見せ場を作ってほしかった。

 

総評

基本的にコメディであって、サスペンスやミステリ要素を期待してはいけない。とにかくメリッサ・マッカーシーのパワフルなパフォーマンスと、サンドラ・ブロックの微妙にずれた変なおばさんっぷりを楽しむ映画である。まあ、典型的なrainy day DVDだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Same page

縁の下の力持ちポジションの黒人捜査官のセリフである。正しくは“We are on the same page.”だが、略してsame pageとなっている。be on the same page = 同じページにいる = 共通の認識を持っている、という意味である。外資系企業の会議では“Are we on the same page?”や“I believe they and we are on the same page on this deal.”というように使われているはずである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, サンドラ・ブロック, メリッサ・マッカーシー, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:エスピーオーLeave a Comment on 『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

Posted on 2020年1月27日 by cool-jupiter

テリー・ギリアムのドン・キホーテ 70点
2020年1月24日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アダム・ドライバー ジョナサン・プライス ステラン・スカルスガルド オルガ・キュリレンコ
監督:テリー・ギリアム

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アダム・ドライバーと『 2人のローマ教皇 』のジョナサン・プライスの競演を、テリー・ギリアムが監督する。見逃す理由はない。

 

あらすじ

若手CM映画監督のトビー(アダム・ドライバー)はスペインでドン・キホーテの映画を撮影していた。ある時、トビーはDVDを渡される。収録されていたのは10年前にトビーが作った『 ドン・キホーテを殺した男 』だった。ドン・キホーテを演じた老人ハビエル(ジョナサン・プライス)とトビーは再会するが、ハビエルは自分が本当にドン・キホーテだと思い込んでいた。かくしてハビエルはトビーを従者サンチョだと勘違いし、二人は何故か冒険の旅に出ることになってしまった・・・

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ポジティブ・サイド

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』などのインド映画の持つ色彩感覚と、『 荒野の用心棒 』や『 続・夕陽のガンマン 』といったウェスタンの乾いた世界観が、ほどよくブレンドされている。目に優しいというわけではないが、entertainingでinspiringな世界を切り取ることは、映画作りにおいて重要なパートである。

 

アダム・ドライバーも新境地を切り拓いたかもしれない。『 パターソン 』での妻を愛する平々凡々な男から『 マリッジ・ストーリー 』での泥沼離婚調停中の舞台演出家まで、基本的に何でもこなせる男だが、今作では現実と妄想の間を揺れ動く役を見事に演じきった。自分が狂っているのであれば自分で自分を狂っているとは認識できない。眼前で起こる不可思議な事態の数々が事実であるのか虚構であるのか、その虚実皮膜の間に囚われた男の混乱を、非常にシリアスに、また非常にコメディックに表現した。特に、アンジェリカが炎にその身を今まさに焦がされようとしているシーンは、とてつもないサスペンスを感じつつも、不謹慎にも笑ってしまった。悔しい!舞台演劇などで、ちらほら目にする演出なのに!それでも、トビーのリアクションのクソ真面目さによって逆にコメディの色合いがより濃くなっている。真面目にやればやるほど馬鹿馬鹿しくなるのである。その塩梅が素晴らしいと感じた。

 

だが、それでも本作はジョナサン・プライスの独擅場であると言わねばならない。「我こそは崇高なる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ!」と高らかに宣言し、愛馬と共に時に荒野を、時に宮廷(に見せかけた修道院)を堂々と闊歩する姿はいっそ神々しい。自身とサンチョの旅をアドベンチャーともクエストとも表現するが、それは実に正しい。冒険の旅は、しばしば冒険そのものが目的になる。『 アクアマン 』や『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、Aという目的のためにはBというアイテムが必要、しかしそのアイテムはCという人物にしか在処が分からず、そのCはDという街に住んでいて・・・ という構造になっていたが、これは我々が慣れ親しんできたゲーム『 ドラゴンクエスト 』の典型的なパターンである。魔王を倒すでも巨人を倒すでもいい。しかし、冒険の旅というものは旅立ち、放浪し、各地を巡り、未知なる人と邂逅するだけで目的のほとんどを遂げていると言っていい。まるで人生のようだ。盲目的に自分の使命を信じるハビエルは滑稽ではあるが、リスペクトに値する。その思いにおいて、いつしか我々観る側はトビーの思いとシンクロしてしまう。ドン・キホーテという世界で最も有名な狂人を、これほどまでに血肉化させてくれたジョナサン・プライスの姿に、ますますアカデミー賞助演男優賞獲得の予感が強まった。

 

ネガティブ・サイド

ロシアのウォッカ王の迫力と言うか、貫禄と言うか、存在感がもう一つだった。財力にモノを言わせて、ある意味でとても無垢な老人を引っかけて笑い者にしてやろうという企みは、映画の作り手としても人生においても老境に入った自分を笑う人間を、さらに笑ってやろうというメタメタな構造のユーモアなのかもしれない。だが構想30年、企画と頓挫が9回にしてやっと作品が完成し日の目を見たのだから、出資者をパロディにするにしても、もう少し敬意を持ったやり方はなかったのだろうか。まあ、テリー・ギリアム御大には何を言っても無駄かもしれないが。

 

ペーシングにやや難がある。序盤のトビーの監督シーンなどはもう少し圧縮できると思われる。また、荒野を放浪するシーンや行き倒れそうになるシークエンスも、もう少し圧縮できたと思う。全体的にテンポが一定しておらず、一部のシーンでは眠気を誘われてしまった。

 

総評

ドゥルシネア姫への忠節、愛、敬慕の念で動くドン・キホーテが恐ろしくカッコ悪く、逆にそれがカッコ良く見えてくるのだから不思議なものである。そのキホーテが狂乱の喧騒から目覚める時に、確かにバトンは受け渡された。周囲の声に惑わされることなく、自らの信じる道を突き進めという、ギリアム御大の、ある意味での遺言なのかもしれない。ドン・キホーテに関する基礎的な知識が必要とされるが、冒険譚であると思えば、多少の意味不明な旅路のイベントも消化できるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I feel it in my bones.

劇中で三回ぐらい使われるセンテンスである。「直感的にそれが分かる」の意で、それはしばしば直前に言及された事柄を指す。I know it in my bones. またはI knew it in my bones.とも言う。it以外を目的語に取ることも可能である。映画で用例を確認している暇はないという大多数の向きは、One Directionの“Story of My Life ”か作詞作曲エルトン・ジョン、歌唱ロッド・スチュワートの“Country Comfort ”を視聴してみてはどうだろうか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アダム・ドライバー, アドベンチャー, イギリス, コメディ, ジョナサン・プライス, スペイン, フランス, ベルギー, ポルトガル, 監督:テリー・ギリアム, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

『 ジョジョ・ラビット 』 -戦争と差別の愚かしさをユーモラスに批判する-

Posted on 2020年1月21日 by cool-jupiter

ジョジョ・ラビット 75点
2020年1月20日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ローマン・グリフィン・デイビス トマシン・マッケンジー スカーレット・ジョハンソン サム・ロックウェル
監督:タイカ・ワイティティ

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正直なところ、トレイラーを観る限りは面白そうに思えなかった。しかし、アメリカではかなり評価が分かれているようである。評価が分かれるというのは、好きな人は好きになれるし、嫌いな人にとっては忌むべき作品ということである。誰もが50点をつける映画ならば、お呼びでないのである。

 

あらすじ

母ロージー(スカーレット・ジョハンソン)と暮らすジョハネス(ローマン・グリフィン・デイビス)はナチズムを信奉する10歳のドイツ人少年。彼のイマジナリー・フレンドはアドルフ・ヒトラー総統その人だった。ヒトラーの親衛隊になることを夢見るジョジョは、キャプテン・K(サム・ロックウェル)が開く合宿で、手りゅう弾による怪我を負ってしまう。自宅で養生するジョジョは、母が匿っているユダヤ人のエルサ(トマシン・マッケンジー)と遭遇してしまい・・・

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ポジティブ・サイド

役者陣の奮闘が目立つ。コメディカルでフレンドリーでありながら、ファシストの顔を全く隠せていないヒトラーを演じた監督タイカ・ワイティティは、正直なところ総統閣下に外見は似ていない。しかし、髪を振り乱し、大げさなジェスチャーで、煽るかのようにがなり立てるのは、確かにヒトラーその人の特徴をよく捉えていた。

 

その友だち(?)であるジョジョと、さらにその友だちであるヨーキーは、確かに子供らしい子どもだった。『 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。 』の子どもたちは一部「ガキども」と呼びたい連中が混ざっていたが、ヨーキーは純粋だった。純粋ということは染まりやすいということで、染まりやすいということは、別の色にもすぐに染まるということである。事実、ユダヤ人の脅威を感じていたヨーキーは、戦局苛烈となるとすぐさま反ロシア、反アメリカに転じた。このことがヨーキーの心を揺るがす様は切ない。そして、ジョジョが蝶を追いかけた先で見せる表情そして動作に、我々は心臓を握りつぶされてしまうかのような苦しみを感じる。この子役たちの演技は見事である。

 

しかし最も印象に残ったのはスカーレット・ジョハンソンとサム・ロックウェルだった。『 マリッジ・ストーリー 』でも母親役を熱演したが、ジョハンソンはこのまま篠原涼子の路線に突入するのであろう。つまり、健康的な色気を振りまきつつ、硬軟を自在に織り交ぜた母親像を見せてくれるに違いない。演技面でも、コロコロと変わる表情に、元々ハスキーな声を生かしたシークエンスが光っていた。そして、嗚呼、サム・ロックウェル!頭のイカれた軍人と思わせて、人間味溢れる大人の男を好演した。ある尋問のシーンの睨みつけるような目つき、そして連行されていく時の「やり切った男の誇らしげな笑顔」に、我あらず敬礼をしてしまった。

 

第二次大戦当時の街並みや服装、家具調度品にはリアリティがあったし、ブリティッシュ寄りの、ややゲルマン風の英語を話す役者たちも、ドイツ人として受け取ることができた。そのドイツ人の中でも、ゲシュタポ(秘密警察)の連中の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさの同居した言動は、ファシズムの再来は絶対に阻止せねばならないとの思いを強くさせてくれる。同時に、このような恐怖と脅威の源は「国家のため」という美辞麗句と共にやって来るのだということを改めて知った。ゲシュタポのリーダー格の長身の大尉が見せる笑顔は、狂信者のそれである。あの時代のドイツがいかに狂っていたのか、背筋が寒くなる。なぜなら、それは当時の日本の姿でもあるからである。

 

エルサとジョジョの関係は、どうなるのか。それは観る者の想像力に委ねられているのだろう。しかし、『 The Fiction Over the Curtains 追記とその他雑感 』で触れたように、誰かに強制された形ではなく、自発的な意志で表現することが必要である。それこそが自由の証だからである。二人が幸せになれたかどうかは分からない。だが、エルサとジョジョは自由になった。それだけで鑑賞後、胸がいっぱいになった。

 

ネガティブ・サイド

ジョジョの顔の怪我の程度が軽すぎる。『 ワンダー 君は太陽 』のオギーとまでは言わないが、せめて『 累 かさね 』の累ぐらいのメイクは施せたのではないか。こうした妙な配慮のようなものが、ディズニーの悪いところの一つである。

 

ジョジョが母ロージーから言い渡される「ウサギのように勇敢で賢くあれ」という教えを体現する場面が欲しかった。ゲシュタポが登場するシーンで、ジョジョが機転を利かせると期待したのだが・・・

 

どうでもいいことだが、ウサギの死体をあのように放り投げても、あんなにクルクル回転はしないと思うが。その嫌な年上の少年の顛末を描いてくれなかったのは、少々残念だった。Jovianの脳内では、あの二人組は戦地の上官に修正を喰らって、歯を2~3本折られたことになっている。

 

総評

前半はコメディ、中盤で一瞬だけ『 ダンケルク 』的な戦争映画となり、後半からエンディングはジョジョのビルドゥングスロマンである。子どもの目から見ると戦争や差別的な思想が空虚で愚かに映るのか、それとも戦争や差別が、本来はタブラ・ラサである子どもをアホにしてしまうのか。おそらくは両方ともが正解なのだろう。このヒトラー率いるドイツ(とムッソリーニ率いるイタリア)と同盟を組んで世界を敵に回し戦った日本は、悪い意味で忘れてはならない。偏狭なナショナリズムが(またも)台頭しつつある日本人こそ、本作を観るべきではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I couldn’t care less.

ジョジョことジョハネスの脳内ヒトラーのセリフである。直訳すれば「今以上に少なく気にかけようと思ってもできない」である。意訳すれば「クソどうでもいい」となる。Less = より少なく、can’t / couldn’t = できない、を組み合わせて、「より少なくできない、なぜなら今が最小だからだ」ということ。似たような表現に I couldn’t agree more. = 今以上に賛成しようとしてもできない=「これ以上なく賛成」がある。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, コメディ, サム・ロックウェル, スカーレット・ジョハンソン, トマシン・マッケンジー, ヒューマンドラマ, ローマン・グリフィン・デイビス, 監督:タイカ・ワイティティ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ジョジョ・ラビット 』 -戦争と差別の愚かしさをユーモラスに批判する-

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