ヘーゲルの実践哲学構想: 精神の生成と自律の実現 70点
2020年4月28日~5月17日にかけて読了
著者:小井沼広嗣
発行元:法政大学出版局
アホな政府が緊急事態宣言を出してくれたおかげで、比較的安全なはずの映画館が大阪・兵庫で休業。尼崎市民のJovianにとっては痛手である。なので、ゴールデンウイークから今までは読書に費やした。といっても小説ではなく大部の哲学書である。Jovianの親友の一人が、ついに単著を上梓したのである。
あらすじ
近代ドイツの哲学者ヘーゲルの哲学思想の変遷を追いながら、ルソーの社会契約論やカントの批判的理性などの受容と対決、そしてヘーゲル固有の『 精神現象学 』に至る過程を詳述していく。その中で現代社会におけるヘーゲル研究の意義を問い直していく。
ポジティブ・サイド
著者の小井沼とJovianは同じ国際基督教大学の同学年の同学科、のみならず同じ寮で4年間を過ごした仲である。共に宗教学・旧約聖書学の碩学・並木浩一に師事しながらも、卒論ゼミには入れてもらえなかったというところまで同じである。最後に会ったのは2014年だったか。Jovianの同窓生にはいっぱしの大学教員があと二人いるが、学者としては小井沼が一歩抜け出したようである。
本書は大部の哲学書である。したがって読むのに文字通りの意味で骨が折れる。一応、宗教哲学・宗教社会学のバックグラウンドのあるJovianでも1日に30ページ読むのがやっとであった。しかし、ヘーゲル哲学の骨子、そして西洋哲学史の大まかな流れさえ知っていれば、本書は非常にエキサイティングな読書体験を提供してくれる。もしヘーゲルについても西洋思想史についてもよく知らないという場合も心配無用。本書の副題と惹句が非常に優れた本書のサマリーになっている。すなわち、本書およびヘーゲル哲学の射程とは「精神の生成と自律の実現」である。
簡単に言い換えれば、精神の生成とは、精神が生成する/生成されることを指す。なぜ能動と受動の両方で記述されるのか。それこそが弁証法である。また、自律とは読んで字のごとく、自らが自らを律することであるが、この時、「自ら」が主語であり同時に述語になっていることに注意。自己が分裂しているわけだ。主体でありながら客体でもあるというの矛盾した状態は、アリストテレス哲学やカント哲学においては退けられるものだったが、ヘーゲルはそこを乗り越えたのである。そして、自律の実現とは、律する側の自己と律される側の自己の関係の完成である。ここで国家と個人の関係を想起できれば Sehr gut = Very good である。 ヘーゲルにとって精神の活動とは歴史の展開であり、個人の精神の弁証法は、そのまま共同体や国家の発展にシンクロナイズすると考えられるのである。
逆に言えば、これほど動的な哲学が生まれたのは、ヘーゲルの生きていた時代が激動していたからである。隣国でフランス革命が起こり、個人と国家の関係が一度リセットされ時代。そして小領邦がプロイセンとして結集し、貨幣制度や税制度を統一させていく時代。そうした、既存のシステムが崩壊し、再構築されていくという時代に、ヘーゲルは自身の哲学を重ね合わせた。そうした知識を背景に本書を丹念に読み込んでいけば、アメリカのオバマ政権→トランプ政権→バイデン政権という流れの理解や、あるいは韓国と北朝鮮の関係の変遷を読み解く一助になりうる。
もしくは、コロナ禍が収束しない現代日本というシステムおよび市民性や国民性についての考察を深めることも可能だ。ヘーゲルは古代ギリシャやローマのような、個人の内面的な構造と共同体の統治構造が一致するような、原始の共和制を強く志向していたが、同時に個人の精神の生成とその完成の先も志向していた。つまり、個々人の精神活動=自律がぶつかりあう社会だ。今日の日本に置き換えるなら、例えばマスク警察、自粛警察などは自律が行き過ぎて他律にまでなってしまい、一般人同士の間での分裂や紛争にまでなってしまっている。まさに「承認をめぐる闘争」である。だが、承認闘争における勝者が勝者として存在することができるのは敗者が対極に存在するからである。逆に言えば、敗者の存在なくして勝者は存在しえない。勝者は敗者に依存するのだ。たとえば、橋下徹やひろゆきといった無責任系のコメンテーターはまさにこれで、自分の思想やルールを他者に強いる人間は、実は《主》ではなく《奴》である。ヘーゲルを通じて、現代日本の言論空間や生活空間への考察や分析を深めることもできるのだ。
再度言うが、読破には並々ならぬ忍耐が要求される。しかし、そこで得られる知的な刺激は、映画や小説といったエンターテインメントから得られる刺激とは明らかに一線を画している。2年に一冊は、何らかの哲学書を読んでみるのも大人の嗜みかもしれない。そうした趣味嗜好に賛同いただけるという向きには、本書をぜひともお勧めしたい。
ネガティブ・サイド
元々の狙いがヘーゲル以前の哲学者の思想とヘーゲルその人の思想の対決と受容、そして発展(それもイェーナ期限定)であるため、思想史全体からのヘーゲル哲学の俯瞰が全くされていない。たとえば、ヘーゲルにおよそ100年先行するパウル・ティリッヒがアリストテレスの目的論を下敷きに自己の神学論を構築した。同じようにヘーゲルも国家論・共同体論においてアリストテレス哲学を継承している。古代ギリシャ哲学がいかにヨーロッパ思想史に影響を及ぼし続けているのかについて、概説的にでも触れる箇所があれば、専門家や学者の卵以外にとっても読みやすいテキストになる。
他に気になった点として、より一般的な歴史的な視点からのヘーゲル哲学の解説がない点である。ヘーゲル哲学の根本とは、精神の生成 → 精神の自律 → 精神の実現である。これはそのまま当時のプロイセン王国の発展とフラクタルになっていると言える。小さな土地に根付いた小さな共同体が、様々な法や制度によって一体化していき、国から王国、そして帝国(この頃にはヘーゲルは死去しているが)に発展していくという歴史的な過程が、ヘーゲルの思考と思想に影響しなかったはずがない。そのあたりを説明するために一章を割いても良かったのではないだろうか。
現代日本に対する批判あるいは応援のメッセージが見いだせない。たとえば故・今村仁司や赤坂憲雄は、著作の中で必ずと言っていいほど自説や新規の仮説を導入するに際して、日本社会の分析や考察に援用できるような視点を盛り込んできた。そうしたところまで目配せができれば、哲学者という存在も象牙の塔の住人と揶揄されなくなるのではないか。
総評
70点をつけてはいるが、5点はオマケである。300ページ超で5,000円以上の哲学書にハイスコアをつけるのは土台不可能である。これは同朋のよしみである。だが、コロナがアウトブレイクし、なおかつ一部の先進国(嗚呼、もはやそこに本邦はないのか)では収束の兆しも見えている今日、我々は国家と個人、政府と市民の関係性を大いに問い直されたと言える。個としてどう生きるべきか、共同体をいかに構成・維持していくべきか。こうした疑問を抱き、かつ何らかの自分なりの答えを出したいという人には、本書がなんらかの示唆を与えてくることは間違いない。
Jovian先生のワンポイント独語レッスン
geist
ガイストと読む。これだけだと何のことやらだが、ポルターガイストを思い浮かべてほしい。そう、英語にすると ghost なのである。霊と訳されるだけではなく、文脈に応じて spirit =精神とも解釈される。ピンとこないという人は、『 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 』を10回観るべし。哲学や文芸批評に造詣が深い人なら、zeitgeist = 時代精神という言葉も見たり聞いたりしたことがあるはず。本書でも259ページで出てくる言葉である。