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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アンダー・ザ・シルバーレイク 65点
2018年10月21日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド
監督:デビッド・ロバート・ミッチェル

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181022025940j:plain

『 イット・フォローズ 』の監督の最新作。前作は、正体不明の何者か、というか何者かは分かっている=姿は完全に見えている者が、ゆっくりと歩いてついてくるという異色ホラー。特にイットがドアをノックするシーンは、笑いながらも怖気を奮ってしまった。あのシュールさをもう一度味わためなら1800円は惜しくない。だが、しかし、本作を真に鑑賞したと言えるようになるには1800円では足りないようだ。

 

あらすじ

サム(アンドリュー・ガーフィールド)は30歳過ぎても働かず、LAの街で自堕落に過ごしていた。上半身裸で過ごす同じコンドミニアムに住む中年女性を覗いたり、女優を夢見てオーディションを受けまくっているセックスフレンドがいたり、レトロゲーム機で共に遊ぶナーディな男友達がいたりと、家賃は滞納しながらも、それなりに何とかやっていた。ある日、ミステリアスな美女サラと良い雰囲気になりながらもベッドインできず、翌日にもう一度来てと言われたので尋ねてみたら、部屋はもぬけの殻。しかし、怪しい女がサラの部屋から何かを回収していった。その女を尾行するうち、サムはLAの街のアンダーグラウンドな領域に徐々に近づいていく・・・

 

ポジティブ・サイド

数多くの映画を想起させる作品である。『 マルホランド・ドライブ 』のように、ある意味で脳髄に損傷を与えかねない映画である。普通のサスペンスやスリラー、またはミステリだと思って劇場に行くと、予想や期待を裏切られることは必定である。しかし、それが良い。何もかもを説明してほしいと思うのは、あまりにもおこがましいのではないか。本作には、LAの街やハリウッドで功成り名遂げた人物は隠されたメッセージを発していて、それを受け取ることができるのはスーパーリッチな一部の人だけであるという、サムの妄想的な考えを通じて、観客に訴えかけてくる。すなわち、「この映画には秘密のメッセージが仕込まれているのですよ」ということだ。

 

我々はとんでもない量の小ネタを見せつけられる。とても書き切れるものではないが、おそらく誰もが初見でピンと来るのは、サムの手がネチャネチャと糸を引くシーンであろう。何をどうしたってスパイダーマンを思い出す。ニヤリとすべきなのだろう。小ネタというか直接ネタというか、ある映画を語るに際して別の映画にも言及しなくてはならなくなるという点では『 レディ・プレーヤー1 』的であると言える。劇中ではアルフレッド・ヒッチコックがfeature されるシーンがある。さらにサムの部屋には『 サイコ 』のポスターが貼ってあるのだ。彼の頭の中には一体何が詰まっているのだ、と思わされても仕方がない言動がどんどんと繰り出され、もはや彼の妄想なのか、全ては現実世界の偶然なのか、虚実が定かならぬ領域にまでストーリーが進んだところで、臨界点を迎え・・・ないのである!まるでジョニー・デップの『 ナインスゲート 』のエンディングを思わせる城に入っていくシーンには鳥肌が立った。

 

まだ本作を観ていないという人は、サムが自室でセックスしているシーンをしっかりと見ておくべし。見るのは彼の尻ではなく、壁に貼ってあるポスターである。万が一、それが何であるのか、もしくは誰であるのか分からないということであれば、このYouTube動画を見てみよう。それでも知らないというのなら、とにかく自分の中でカリスマと思える人物をしっかり思い描いて鑑賞に臨むようにしてほしい。

 

物語はここから一挙に漫画的領域にまで到達する。それは『 ゲット・アウト 』的な領域に到達するという意味でもあり、ノストラダムス予言のトンデモ研究者・川尻徹的な手法で暗号解読をする現代版geekであるとも言える(ちなみにnerdとは、『 X-ファイル 』のスピンオフ『ローン・ガンメン』3人組のような連中を指す)。普通に考えればサムはクレイジーであるとしか言いようがないのだが、途中では実際に人が死ぬ。しかし、それすらもサムの妄想であるかもしれないと思わせる仕掛けが施されている。サムのマスターベーションにも注目だ。

 

お前の言っていることはサッパリ意味が分からんし、何故こんな卑猥なレビューを読まされねばならんのだと思われる向きもあるだろう。しかし、冒頭で述べたように本作は一回こっきりの鑑賞では意味不明な箇所が多すぎる。それが魅力にも磁力にもなっている。吸い寄せられるように映画館に向かってしまう自分が想像できて怖いのだ。不思議な魅力が詰まった映画なのだ。

 

ネガティブ・サイド

LAが舞台だと聞いて胸を躍らせるような人、特に『 ラ・ラ・ランド 』に感動した人などは、本作には辟易させられることは間違いない。『 ノクターナル・アニマルズ 』や『 ドニー・ダーコ 』、あるいは『 ブレードランナー 』のように複数回見てようやく意味が分かる、もしくは見れば見るほどに発見があるというタイプは、DVDやブルーレイが手に入るようになるまで、非常に悶々とした気持ちにさせられる。おそらくカジュアルな映画ファンが10人いれば、そのうちの9人が一回鑑賞で満腹になるのではないだろうか。また、ハードコアな映画ファンが10人いても、そのうちの6人は一回で満腹になってしまうのではなかろうか。自分としては日本語と英語の両方でリサーチの上、何度でも観てみたいが、そうするとチケット代と時間が問題になる。そこを減点して良いものかどうか迷うが、『 ラ・ラ・ランド 』と同点になる程度には楽しめた。これは褒めているのだろうか・・・

 

総評

主人公サムの『 アイム・ノット・シリアルキラー 』的な行動が許容できる人、もしくはとんでもないシネフィルなら、本作を絶賛できるだろう。あるいは糞味噌に酷評できるかもしれない。案外、純愛ジャンルが好きだ、という人が最も本作を堪能できるのかもしれない。一人で鑑賞して、帰り道にリサーチをしたりレビューを渉猟するも良し、連れを誘って鑑賞し、帰りに喫茶店であーだこーだと解釈をぶつけ合うのも良いだろう。面白さは人によって異なるだろうが、手応えの重さがずっしりとあることだけは請け合える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, スリラー, 監督:デビッド・ロバート・ミッチェル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 50点
2018年10月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サム・ワーシントン オクタビア・スペンサー
監督:スチュアート・ヘイゼルダイン 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181021222129j:plain

説教と評させてもらったが、いわゆるお小言の意味ではない。言葉そのままの意味での説教である。つまり、宗教的な教えを説くことである。では、宗教とは何か。宗教はどのように定義されているのか。これについては古今東西のあらゆる思想家が、まさしく百家争鳴してきた。いくつかの卓抜な定義の一つに、加地伸行がその著書『 儒教とは何か 』で開陳した「宗教は、死および死以後の説明者である」というものがある。これだけで宗教なるものの十全な定義とは個人的には承服しがたいが、しかし宗教を定義するに際して欠くべからざる部分をしっかりと押さえているのは間違いない。人は何故に死ぬのか。特に無辜の良民が戦争や災害に巻き込まれて死ぬのは何故なのか。罪のない幼子が病魔や犯罪によって命を奪われるのは何故なのか。こうした悲劇と無縁な人もいるだろうが、それでもこうした問いと無縁な人がいるとは思われない。その意味で、欠点は多々あるものの、本作は十分に世に送り出される意味はあったのかもしれない。

 

あらすじ

マック(サム・ワーシントン)は、父の振るう理不尽な暴力に母と共に耐える少年時代を過ごした。そんなマックも成人し、結婚し、子を持つようになった。ある湖畔に家族でキャンプをしている時、マックの愛娘が姿を消す。連続誘拐殺人藩にさらわれた可能性が高い。ある小屋で娘の血染めの服が見つかるが、本人は見つからず。遺体のないまま葬儀が執行される。家族の不和は広がる。ある日、「あの小屋で待っている」という謎の手紙がマックに届く。差出人はパパ、これは家族の中だけで通じる暗喩で神のことだ。マックは家族を遠出させ、山小屋に一人で向かっていく・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からオクタビア・スペンサーが世話焼きなおばちゃんとして登場するが、何故に彼女はこうした役が異様に似合うのだろうか。『 ヘルプ ~心がつなぐストーリー~ 』然り、『 シェイプ・オブ・ウォーター 』然り、『 gifted ギフテッド 』然り、『 ドリーム 』然り。日本で今、母親役と言えば吉田羊なのかもしれないが、アメリカでおばちゃん役と言えば、オクタビア・スペンサーであろう。彼女の豊満で包容力ある演技を堪能したい向きはぜひ観よう。

 

ネガティブ・サイド

サム・ワーシントンは、broken-heartedの父親役で存在感を示した。ただ、ちょっと男前過ぎるか。ニコラス・ケイジが『 ノウイング 』で見せた哀切と安堵の入り混じった二律背反的な演技を求めるのは少し酷だろうか。彼の父親としての苦悩が、より静かに、しかし確実に観る者に伝われば、ドラマはもっと盛り上がったに違いないのだが。

 

本作の最大の弱点は、あまりに宗教色を強く出しすぎたところだろうか。登場人物が足繁く教会に通うからではなく、あまりにも聖書的な寓話の要素が強いからだ。旧約聖書のヨブ記に描かれる義人ヨブの如く、マックは苦難と絶望に何の前触れもなく落とされる。ヨブのように声高く神に抗議しないのは、自身の信仰心の薄さを自覚していたからなのか。神の愛については、小説および映画の『 沈黙 サイレンス 』が逆説的に描いた。これがあまりにもハードすぎるのであれば、旧約聖書のヨナ書がお勧めだ。わずか4ページほどの非常に人間味あふれる寓話である。神は小市民のヨナに対して、誠に人情味ある答えをしてくれる。もちろん、異なる宗教の神は異なる方法で人間に接するものであるのだが。

 

本作のテーマは“赦し”であると言えよう。娘の死を受け止められない父親が、それを芯から受け止めるためには、下手人をその手で殺すことが考えられる。だが、それをしても娘は決して浮かばれない。『 ウィンド・リバー 』、『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』が一定の答えを提示した、愛する者の死の受容と赦しが本作でも描かれるが、その点に弱さを感じる。本作は果たしてドラマなのか、それともファンタジーなのか。『 オズの魔法使 』的に、観る者を惑わせるのだが、その手法もやや陳腐だ。そうした見せ方そのものは批判しないが、もう少し洗練された方法で説得力を持たせてほしかった。

 

総評 

誰にでも手放しで絶賛してお勧めできるタイプの作品ではない。人によっては怒り心頭に発してもおかしくない描写があるので、異なる文化圏の異なる思想信条を持つ人たちの物語であることを踏まえなければならない。ここのところを納得できれば、もしくは適切な距離感を自分で保つことができれば、大人の鑑賞に耐えうる作品にはなっていると言えよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, サム・ワーシントン, ファンタジー, 監督:スチュアート・ヘイゼルダイン, 配給会社:アルバトロス・フィルム, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

Posted on 2018年10月19日2019年11月1日 by cool-jupiter

スターシップ9 40点
2018年10月16日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クララ・ラゴ アレックス・ゴンザレス
監督:アテム・クライチェ

 

シネマート心斎橋またはシネ・リーブル梅田で鑑賞するはずだったが、色々と重なり未鑑賞のままだった作品。閉鎖空間SFは、Jovianのまあまあ好物テーマなのである。この分野の傑作と言えば『 エイリアン 』であり『 CUBE 』だろう。また、少ない登場人物でスリルやサスペンスを生み出すのはフランスの小説や映画の技法だが、今作はスペインとコロンビアの合作である。期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

エレナ(クララ・ラゴ)は、独り恒星間宇宙船に乗っていた。ある時、空気の循環システムに故障が発生、近くの船に救難信号を送った。そこにやって来たのはエンジニアのアレックス(アレックス・ゴンザレス)。朴念仁のアレックスだったが、すぐにクララとまぐわい、惹かれ合う。故障も修理され、アレックスは自分の船に還っていく。クララも自分の旅を続けていく。しかし、アレックスにはある秘密があった・・・

 

ポジティブ・サイド

宇宙に漂う船に乗組員は一人。船内には無機質な機械音と、AIによる音声だけが響く。誰がどう見ても『 2001年宇宙の旅 』を想起させる設定である。もちろん、ほとんどの全てのSF(Space Fantasy)映画はキューブリックに多くを負っているわけで、そこから陸続と名作、傑作が生まれてきた。『 エイリアン 』や『 スター・ウォーズ 』のオープニングの巨大な宇宙船のショットは、いずれも『 2001年宇宙の旅 』にインスパイアされたものだ。本作はどうか。少し違う。本作がその名を連ねるべき系譜は『 パッセンジャー 』や『 月に囚われた男 』のそれである。非常に狭い空間を描くことで、宇宙の広大さと人間の心の孤独の深さの両方を描いているからだ。同時に、これらの映画(だけではなく、あれやこれらのSF作品)に通じている人は、本作の見せる展開に満足するであろうし、同時にがっかりもするであろう。この辺りは完全に個人差と言うか、style over substance とでも言おうか。雨の日にSFでも観るかぐらいの気分で再生するのが吉だ。

 

ネガティブ・サイド

自分の中で盛り上がりすぎていたせいか、イマイチ話に乗って行けなかった。例えば『 エイリアン 』は、それこそクルーの面々があまりにも普通にプロフェッショナルだった。宇宙船を飛ばすのは、船の操舵や飛行機の操縦よりも簡単な、大型バスを走らせるような、もしくは工場のアセンブリーラインを操作するかのようなカジュアルさが、テクノロジーの進化を何よりも如実に物語っていた。本作は、いきなり船が故障するわけで、もちろんそこから発生する素晴らしい物語も無数に存在する。賛否両論の『 ゼロ・グラビティ 』が一例か。

 

本作は、多くの先行作品に敬意を払うあまりに、オリジナリティをどこかに忘れてきてしまっている。率直に言わせてもらえば、本作のプロットは(そのツイスト=どんでん返しも含めて)下北沢の芝居小屋で見れそうなほど陳腐だ。構造的に全く同じ物語は『 世にも奇妙な物語 』でも見られた。そして、またもや森博嗣の『すべてがFになる』ネタである。SFはたいていの場合、時間と共に風化してしまう。なぜならテクノロジーや知識の進歩が、ほとんど常に物語を陳腐化させる方向に働くからだ。それを防ぐには、根源的な問いを作品をして発せしめるか、何よりもユニークな方向に作品を持っていくかをするしかない。本作は、残念ながら、そのいずれも果たせていない。

 

総評

新しいもの、もしくはSF的なアクションを期待すると失望を覚えること必定である。SF映画はそれこそ星の数ほどあるのだから、レンタルショップで適当に借りてきても、おそらく5割程度の確率でこれよりも面白い作品に出会えるはずだ。もちろん、この数字はその人の映画鑑賞歴によって上下する。ただし、もしも貴方が自らをして熱心なSF映画ファンであると任じるなら、本作に過度の期待を抱いてはならない。もしも貴方がライトなSFファンということであれば、本作を手に取る価値はあるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アレックス・ゴンザレス, クララ・ラゴ, コロンビア, スペイン, 監督:アテム・クライチェ, 配給会社:熱帯美術館Leave a Comment on 『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181018164103j:plain

勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』 -天才的頭脳は誰が為に使う?-

Posted on 2018年10月17日2019年11月1日 by cool-jupiter

バッド・ジーニアス 危険な天才たち 65点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:チュティモン・ジョンジャルーンスックジン チャーノン・サンティナトーンクン
監督:ナタウット・プーンピリヤ

 f:id:Jovian-Cinephile1002:20181017024107j:plain

教育が過熱している。ある国や地域が富を一定以上に蓄積させると、その富は衣食住以外のものに費やされる。最も安全にして確実な投資先は、子への教育であると言う人もいるのだ。こうした事情はタイにおいても当てはまりつつあるらしく、本作のような面白一辺倒ではない作品を世に問うてきた。これは、タイという国家が教育の面でも、また娯楽の面でも、成熟しつつあることの証左と受け取るべきなのかもしれない。

 

あらすじ

リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)は頭脳明晰な女子高生。特待生として、授業料も免除されている。そんな彼女がひょんなことから親友のグレースに試験中に助け舟を出したことで、裕福な家庭の子女らがリンにカンニングへの協力を持ち掛ける。無論、有料で。受諾したリンは大金を稼ぎ始める。それは、さらに大きなカンニングの舞台へとやがて繋がり・・・

 

ポジティブ・サイド

カンニングを描くテレビドラマや映画というのは時々あったように思うが、全編これカンニングを主題に描く作品というのは前代未聞ではなかろうか。観る者がどのような学生時代を過ごしてきたかにもよるのだろうが、Jovianは大いにサスペンスを感じた。カンニングは言うまでもなく重罪で、その罪の重さは、例えば日本とアメリカを比較すれば、話にならないほどの差が存在する。もちろん、アメリカの方がその罪は遥かに重いと見なされる。日本ではaicezukiなるハンドルネームの予備校生が京都大学の入試の最中にYahoo知恵袋に問題の解答を求める投稿をしたことが社会問題になったことをご記憶の方も多かろう。これは2011年のことであったが、翌2012年、栄えあるハーバード大学の学部生125人が一斉にカンニングを行ったことで100名超が退学処分になったことも日本で報じられ、話題になった。

 

ことほど左様にカンニングの罪は重く、それゆえにカンニングに成功して得られる物も大きいというわけだ。実際にリンはクラスメイト複数名にテスト問題の正解を伝達することで、日本円にして数十万円もの金額を手にする。高校生には分不相応だろう。またカンニングをさせてもらった生徒らも親の覚えが目出度くなり、アメリカはボストンの大学に進むことを勧められる始末。ここから物語は一気にギアを上げる。カンニングに用いる小道具やテクニックが、実際に実行可能なレベルのもので構成されており、それがリアリティとなり、サスペンスを生むという好循環を生んでいる。

 

キャラクターにも深みがある。リンとバンクの二人の秀才が正解を導き出す役割を担うのだが、前者は父子家庭の一人娘、後者は母子家庭の一人息子というコントラストが鮮やかだ。リンはある意味で非常に功利的な思考をする一方で、バンクは母親の苦労に純粋に感謝し、学校の推薦を得てシンガポールに留学し、立派に学問を修め、職を得て金を稼ぎ、そして母親の恩に報いたいと願っている。得られるものと得られないものを冷静に計算するリンは、ある意味でカンニングのリスクとその罪の重さを実感出来れば、そこから足抜けできる。だが、母親に経済的に楽をさせてやりたいと強く願うバンクは、一歩間違えれば倫理的判断を誤ってしまう恐れなしとしない。彼の実家がクリーニング屋を営んでいるというのも、非常に象徴的である。本作はそうした二人の天才の頭脳だけではなく、心理学的な変化を丹念に描くことで観る者に問いかけてくる。「頭脳を売り物にすることは果たして悪いことなのか?」と。この問いに答えるのは大問題である。良いと答えても、悪いと答えても、倫理的な問題を孕むからだ。リンが最終的に導き出す答えは如何に。

 

ネガティブ・サイド

本作は実際に韓国で起きたカンニング事件にインスピレーションを得たとのことだが、本作のメイントリックとも言うべきアイデアは少し弱い。厳密にはカンニングではないが、日本でもこれと同じようなことをしている学生や社会人は少なからず実は存在する。昨今、国内の大学編入や院への進学においてもTOEFL iBTで一定以上のスコアを求める大学や大学院が増えている。しかし、実はここに抜け穴がある。結構な数の大学や大学院が、実はTOEFL ITPのスコアも受け付けているのだ。そしてTOEFL ITPはTOEFL iBTよりも難易度が低く、なおかつ日本人が大いに苦手とするSpeaking Sectionが存在しないという利点もある(ITPはListening, Grammar, Reading iBTはReading, Listening, Speaking, Writing)。海外旅行に行ったついでに、というよりもTOEFL ITPを受験する為に海外に行く人というのは僅かではあるが、確かに存在する。そういう意味ではアイデアとして、本作が採用するカンニング方法は少々陳腐である。というか、同じようなカンニング方法が既に日本で二十数年前に実行されていたことが、明らかにされている。興味のある向きは「豊田真由子」で検索して、色々と当たってみるべし。

 

本作のような環境でカンニングを実行するに当たっては、それこそオーシャンズの如き綿密なプランニングと、一般人の思考の盲点を突くことが鍵となる。本作でそれを実現するとすれば、第三のピースがあれば計画はより万全に近くなったであろう。つまり、故意に捕まる役を仕込むのだ。問題の解答と、解答の伝達を同じ人間が担当するから失敗のリスクが高まるのだ。ただし、計画について知る人間が増えれば増えるほど、情報漏洩のリスクも高くなる。本能寺の変の前の明智秀満の言である。そうしたことを考えると、本作のクライマックスはいささかリアリティに欠ける展開であったと評価せざるを得ない。

 

総評

タイの映画にはこれまでほとんど触れてこなかった。タイ(シャム)を舞台にした映画には『 王様と私 』(ユル・ブリンナーverの一択である)があるが、タイ映画を映画館で観たのは、これが初めてだったかもしれない。製作される映画のレベルとその国の文化や芸術や娯楽の成熟度はおそらく相関関係にある。そうした経験則に基づくならば、タイも成熟しつつあると見て間違いない。それにしてもリン役とバンク役のそれぞれの俳優の演技力の高さよ。日本の同世代は、役者といよりもアイドルという感じだが、タイではジャ○ーズのような事務所は存在せず、それゆえに役者個々の実力が評価されているのだろうか。いくつか釈然としない点はあるものの、サスペンスとしてもクライム・ドラマとしても、それなりの完成度を誇る作品に仕上がっている。観て損をすることはないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, タイ, チャーノン・サンティナトーンクン, チュティモン・ジョンジャルーンスックジン, 監督:ナタウット・プーンピリヤ, 配給会社:サジフィルムズ, 配給会社:マクザムLeave a Comment on 『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』 -天才的頭脳は誰が為に使う?-

『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

Posted on 2018年10月16日2019年11月1日 by cool-jupiter

散り椿 50点
2018年10月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:岡田准一 西島秀俊 麻生久美子
監督:木村大作

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181016103251j:plain

散り椿

すっかりアイドル路線から俳優路線にシフトした岡田准一である。しかし、出身地である大阪府枚方市ではご当地ひらパー園長を務め、大真面目に面白おかしいひょうきん兄さんを演じる好漢でもある。ヒット作品もイマイチな作品も、岡田准一なのだからと妙に納得できる力をつけてきている。そして、出番こそ少ないものの麻生久美子である。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』では男子高校生の欲情を微妙に、絶妙にそそる駐在妻を演じ、『 シーサイドモーテル 』では娼婦を、『 モテキ 』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『 ラブ&ピース 』あたりでは幸薄い大人の女を演じるなど、常にそこはかとない色気を振りまいてきた麻生久美子である。これだけで映画の成功は半分は約束されていたはず、だったが・・・

 

あらすじ

剣の達人にして清廉の武士、瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の上層部の不正を届け出た。しかし調査の最中、ある藩士が殺害された。その下手人としての疑いが新兵衛にかけられたことで、新兵衛は、妻の篠(麻生久美子)と共に出奔。それから八年、篠の死を看取った新兵衛は、藩政の正道化を目指すかつての仲間にして出奔の原因ともなった榊原采女(西島秀俊)のいる国もとを訪れる。藩政の行方が懸かった権力闘争に、新兵衛も巻き込まれていく・・・

 

ポジティブ・サイド

殺陣の迫力と、その長回しでの収録には恐れ入った。西部劇にドンパチ対決がなくてはならないように、時代劇には必ず殺陣がなくてはならない。その殺陣を、編集の力を極力借りることなく一気に描き切り、撮り切ったことに、役者、照明、音声収録、カメラオペレーターらの苦労を思い知る。武士を描く、もしくはチャンバラを描く映画は定期的に生み出されるが、これほどしっかりとした時代劇は『 一命 』以来である。

 

岡田准一の存在感は相変わらず高いレベルで安定している。本来ならば馬を称えるべきなのだろうが、暴れ馬を一瞬で御してしまうシーンを冒頭に持ってくることで、新兵衛は単なる剣術馬鹿なのではなく、一廉の武士であることを明示した。これがあることで悪代官の権化のような石田玄蕃(奥田瑛二)と対峙しても、その格を保っていられる。また悪役側の雄たるべき新井浩文の役に対しても格上であることを観客に一瞬で知らしめた。これこそが映画の技法である。

 

篠の妹の里美(黒木華)や、新兵衛や采女の盟友の娘、美鈴(芳根京子)らの女優陣も作品に落ち着きと生活感をもたらしている。『 クレイジー・リッチ! 』でも顕著であったが、ある特定の地域や時代、もしくは家庭や生活の背景を物語る際に、家政のシーンを描写するというのは非常に効果的である。もしくは『 万引き家族 』を思い出しても良いだろう。あのごちゃごちゃした空間は、生活レベルの低さ、貧しさを言葉ではなく映像で如実に説明した。本作も里美が忙しなく動き回るシーンをいくつか挿入することで、新兵衛が帰ってきた藩、そして家に生活感があることが感じられる。最愛の妻を亡くした新兵衛が、落ち着いて逗留できる場所を見つけられたことの新兵衛の安堵の気持ちを、縁側のシーンで鮮やかに描き切った。これもまた映画の技法である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、指摘しておかねばならない弱点もある。物語が余りにも特定の人物の周辺だけで展開されている。農民のために新田を開墾するというのなら、武家の坂下家だけではなく、ほんの数ショット、時間にして20秒で良いので藩の農民の生活ぶりを映し出す必要があったと思う。それがあれば、後半の殿の江戸からの帰還の重みと采女の心情と信条の強さがより際立ったであろうと思う。

 

もう一つ残念なのは、後半に颯爽と登場する殿がデウス・エクス・マキナになるのかと期待させながら、狂言回しにすらならないことだ。また石田玄蕃の終盤での行動の必然性が分からない。何故あそこで、このキャラクターを狙ったのか。それは玄蕃の思惑というよりも作者の思惑だ。物語を進め、ドラマを盛り上げたい以上の意図が読み取れない事件が発生するのである。ここから本作は一挙に陳腐化する。水戸黄門であれば印籠を出して最後にシャンシャンで済むわけであるが、本作はテレビドラマではなく、小説を基にした映画である。殺陣の迫力のみでクライマックスを押し切ってしまうのは大したものと言えなくもないが、悪役の玄蕃の言動や行動原理が首尾一貫せず、また死に様にも美しさが無い。もっと陳腐な死に方でよいのだ。結局は小物だったのだから。もしくは福本清三や、あるいは斬られ侍の藤本長史が決して出来ない(してはならない)顔芸で死んでいっても良かった。クライマックスに至る過程とその決着の必然性と美しさの欠如が、本作から大きく減点しなくてはならない要素になってしまっている。

 

最後にもう一つ細かい点を追加するなら、雪のシーンは何とかならなかったのだろうか。黒と白のコントラストは映画館では特に映えるものだが、そこに映像美以外のものが込められていなければ、それは製作者の自慰に過ぎない。手を血で染め、愛する人もなくし、友を支えることもできずに悶々とした日々を過ごして新兵衛と、前途に洋々たる希望を抱く若武者の坂下藤吾(池松壮亮)が対比されるシーンがあったが、これで良いのだ。逆にオープニング早々の雪がしんしんと降るシーンは画としては美しくとも、映画としては失敗であると断じさせていただく。

 

総評

時代劇というのは年々難しくなっているジャンルである。水戸黄門すら打ち切られて久しい。今後も戦国時代をパロディ化した原作を基に映画を作るというトレンドは続くと思われるが、本格的な時代劇映画の再興は遠いと思われる。が、岡田准一、西島英俊というキャスティングからも、製作者たちは本作をカジュアルな女性ファンにも届けたいと願っているのは明白である。そうした層に向けてのヘビーな絵作り、ライトな物語というのであれば、納得できないことはない出来である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, 岡田准一, 日本, 時代劇, 監督:木村大作, 西島秀俊, 配給会社:東宝, 麻生久美子Leave a Comment on 『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

Posted on 2018年10月14日2019年10月31日 by cool-jupiter

おと・な・り 70点
2018年10月11日 レンタルDVD鑑賞
出演:岡田准一 麻生久美子
監督:熊澤尚人

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181014203626j:plain

タイトルはおそらくquadruple entendreになっている。【音】、【大人】、【お隣】、【音鳴り】の4つの意味が考えられる。これは音を鍵にした物語であり、二人の30歳の大人の物語であり、その二人は同じアパートのお隣さん同士であり、音を媒介に人と人とが繋がる物語である。

 

あらすじ 

風景専門の写真家に転向したいのだが、事務所や仕事の状況がそれを許してくれない野島聡(岡田准一)。フランスに留学し、フラワーデザイナーになるという目標に邁進する登川七緒(麻生久美子)。同じアパートに住む隣人同士だが、顔を合わせたことはない。しかし。幸か不幸か、安普請のアパートで互いの生活音や大きな声は筒抜け。二人には奇妙な連帯感が生まれていた・・・

 

ポジティブ・サイド

「基調音」は、『 羊と鋼の森 』のレビューで概説した、サウンドスケープの構成概念である。街行く人の多くがイヤホンで耳をふさぎ、個人の趣味や学びに没入する時代であるが、それでも自分の生活圏やコミュニティ特有の音というものには親しんでいるはずである。おそらく多くの人がお盆や年末年始に帰省することで、それを実感しているものと思われる。例えば都会に住んでいる人が地方の田舎に帰れば、静けさと鳥や虫の鳴き声などに驚き癒され、あるいは田舎の人間が大都市に出てくれば、電車や車の走行音や人々の雑踏に驚き煩わされるかもしれない。基調音は、読んで字のごとく生活のベースに根付いた音なのである。そういう意味では、我々が基調音を最も意識するのは、基調音が存在しない時と言えるであろう。

 

本作で聡が出す声や音、七緒が出す声や音は、互いの生活リズムに深く刻まれている。その基調音が非在の時、もしくはそこに強烈なノイズが混じった時、自分はどう感じるのか。どう動くのか。そんなことを思わず考えさせられてしまう。

 

また30代という、難しい年齢そのものがテーマにもなっている。ステレオタイプな見方を本作は採るが、男は自分のキャリアの方向性について大きな決断を迫られ、女は恋愛や結婚に向けて動くべきなのか、それともキャリアを追求すべきなのかを迫られる。迫られる、という受動態に注目されたい。自分にその選択を迫ってくる主体は誰なのか、何であるのか。それは両親かもしれないし、友人かもしれないし、知人かもしれないし、上司かもしれないし、耳を傾けることを拒否してきた自分の内なる声かもしれない。本作は、その内なる声を、非常に独創的な方法で鑑賞者に聞かせる手法を取る。これは上手い。女性をロマンティックに誘う時には、相手に本音を言わせてはならない。女性を怒らせる時には、相手に喋らせる。個人差はあるだろうが、女性という生き物は確かにこのような性質を有しているようだ。

 

映画というのはリアルを積み重ねて、面白さを追求していく媒体であり芸術だ。そして、我々が最もリアルを感じるのは、キャラクターに共感できた時なのである。そうした意味で本作は30歳前後で人生の岐路に立つ男女に、大きな示唆を与えうる作品である。

 

また、エンディング・クレジットにも注目、いや注耳してほしい。陳腐と言えば陳腐だし、画期と言えば画期的な仕掛けが施されている。レンタルする方は最後までしっかりと鑑賞をしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

ペーシングにやや難ありと言わざるを得ない。まるで韓国ドラマを観ているかの如く、「早く出会え、早く気付け」と思わされてしまう。また、そこに至るまでにSHINGOの話を引っ張りすぎている。谷村美月は素晴らしい仕事をしたが、彼女の出演シーンはもう3分は削れただろう。それを岡田准一と麻生久美子のパートに費やして欲しかった。しかし、それを見せずに想像させるのも、一つの手法として認められるべきだろう。音がテーマの本作なら尚更である。なので、このあたりのネガティブな評価は意見が分かれるところだろう。

 

もう一つケチをつけるとするなら、岡田准一のカメラマンとしてのたたずまいが少し弱い。風景専門のカメラマンならば、『 LIFE! 』におけるショーン・ペンのような雰囲気を醸し出して欲しかった。つまり、ベストショットを撮れるまで辛抱強く待ち構える根気と、ベストショットを嗅ぎつける動物的な嗅覚である。もちろん、かつて写真を撮った橋の、度の位置のどの方角かまでしっかりと記憶しているというプロフェッショナリズムは垣間見えたが、もっとカメラマンを演じて切ってほしかった。これも無い物ねだりだろうか。

 

総評

非常に完成度の高いヒューマンドラマに仕上がっている。2009年の作品だが、岡田准一のキャリア自身も投影されていたのではないだろうか。アイドルとしての自分と俳優としての自分。どの道を選択し、究めようとするのか。そのあたりの人生の岐路を役に託して撮影に臨んだのかもしれない。その他、麻生久美子、岡田義徳、市川実日子、森本レオらも素晴らしい仕事した。アラサーに大きな示唆を与えうる映画であるし、キャリアや人間関係にストレスを抱える人の鑑賞にも耐える作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, B Rank, ラブロマンス, 岡田准一, 日本, 監督:熊澤尚人, 配給会社:ジェイ・ストーム, 麻生久美子Leave a Comment on 『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

Posted on 2018年10月14日2020年1月3日 by cool-jupiter

あのコの、トリコ。 20点
2018年10月11日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:吉沢亮
監督:宮脇亮

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全く立たないキャラクター、中学か高校の学芸会レベルの演技。あまりにもご都合主義過ぎるプロット展開などなど、誰が何をどのように作れば、これほどの駄作になるのか。調べてみると、映画の監督はこれが初という宮脇亮氏。テレビ番組作りと同じノリで映画を作ってしまったのだろうか。テレビ番組というのは、基本的には明るい部屋で、比較的小さな画面で、ご飯を食べたり、携帯やPCをいじったり、料理をしたりしながら観ることが多い。視聴者を画面にくぎ付けにするのではなく、ゆる~く、ライトに観られる。それがテレビの本質の一部である。対照的に、映画は真っ暗な空間で、大画面と大音響で、観客をスクリーンに吸い寄せるかのごとく美しい光と影のコントラストを映し出さねばらない。本作は映画であったのか。答えは残念ながら否である。

 

あらすじ

鈴木頼(吉沢亮)、立花雫(新木優子)、東條昴(杉野遥亮)の3人はいずれも役者を夢見る幼馴染。3人でオーディションを受けるものの、頼はいつも不合格。親の転勤でいつしか2人とも離れ離れに。しかし、ある時、雫がモデルとして雑誌に出ているのを目にし、心の奥底に燻っていた想いが蘇ってきた。雫のそばに行きたい。俳優になりたい。頼は上京し、雫と同じ学校に転入し、雫との再会を果たす。そして、何故か雫の付き人になってしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド 

残念ながら、そのようなものは無かった・・・で、終わらせるのはあまりにも容易い。しかし、『 銀河英雄伝説 』でラインハルトがキルヒアイスを評したように「ゴミ溜めの中にも美点を見出す」ことも時には必要であろう。

 

強いて挙げれば、主演の吉沢と岸谷五朗の演技だけが及第点~合格点に近い。特に吉沢に関しては、冒頭の5分で主人公の頼の属性をナレーションに頼ることなく過不足なく演技だけで説明できていた。押しの弱さ、声の小ささ、やたらと広いパーソナル・スペース、猫背でトボトボと歩く様、LINEの他愛のないスタンプで心ときめかせてしまう初心さ、人と極力、目線を合わせようとしない=軽度の視線恐怖症の症状など、対人スキルの未熟さを一気に見せた。そして、そこがピークだった。

 

岸谷は、舞台・映画の監督役として、寡黙でいて妙な迫力を醸し出し、現場ではカリスマ性と統率力を併せ持つキャラクターを演じていた。今でも岸谷のベストパフォーマンスは『 月はどっちに出ている 』とテレビ映画の『最後のストライク~炎のストッパー・カープ津田恒美 』だと思っているが、本作は岸谷のキャリアの中ではトップ15に入るかもしれない。プロミスのCMの谷原章介のような服装、格好が以外にハマる。Jovianは岸谷の演技力や存在感を少し見誤っていたのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

こちらはもう何から挙げて、何で終わればいいのか分からない。何よりも雫役の新木優子、昴役の杉野遥亮ともに演技が下手すぎる。かろうじて棒読みではないというだけで、声の強弱のコントロール、抑揚の付け方、リズム、区切りなどなど、自主製作映画界に連れて行っても、演技偏差値は50前後ではなかろうか。それに表情についても、もっと研究し、鏡の前で練習すべきだ。それだけではもちろん不足で、演技指導者にきっちりフィードバックをもらう必要もある。雫に関しては劇中で二度、感情を吐露というか、一気に吐き出すシーンがあるのだが、その二つともが単にいつもより大きな声を出してみました、という演技。しかも表情に変化はほとんど無し。監督は何故これをOKテイクにしたのか。それとも何十通りと撮り切って、最もマシなものを編集でつなぎ合わせたのがコレだと言うのか。とうてい納得がいくものではない。実際にJovianが映画を観終わってトイレに向かう途中ですれ違った女子高生と思しき二人組は「新木優子、あかんわ。演技下手すぎ」「なー、ホンマに!」と実に忌憚のない感想を述べ合っていた。新木には1,800円の内、300円を返せと言いたい。

 

さらに輪をかけて酷いのが二人いる。一人は杉野遥亮だ。あまり率直に評すと批評ではなく攻撃になりそうなので止めておく、としか言えない。ただ、新木ともども、この程度の演技力で俳優、女優を演じ、トントン拍子に映画の世界の出世階段を昇っていくというのは、リアリティに欠ける。映画というのは、というよりも一般に娯楽とされるものの多く(それは小説であったり、ゲームであったり、遊園地やテーマパークのアトラクションであったりだ)は、リアリティを積み重ねて大きな幻想を作り上げるというコンセプトで成り立っている。その最大の媒体はやはり映画だ。その映画の作り手として、この監督を持ってきてしまったこと自体が最大のミスだ。杉野と宮脇には1,800円の内、1,000円を返せと言いたい。

 

宮脇監督に(こんな声など届かないと知りつつ)強く言っておきたいのは、観客を信用しなさい、ということだ。主演三人の中で唯一、まともな演技ができる吉沢の心の声をナレーションにして観客に聞かせる一方で、表情や立ち居振る舞いで思考や感情を表現することができない未熟な役者二人にはそれをさせないというのは、「この映画を見に来る一番の客層は吉沢ファンの中高生女子だろう。だったら吉沢のパートを丁寧に描いて、ついでに分かりにくいかもしれないから心の声も聞かせてやれ。漫画の吹き出しと同じ原理だ」などと考えていたとしてら、それは失敗であり侮辱である。漫画の技法をそのまま映画に持ち込んでも成功するとは限らない。いや、往々にして失敗する。持ち込むべきはキャラクターであって、描写や演出方法ではない。

 

他にもシーンとシーンのつながりの不自然さ(昼間のシーンなのに、太陽の位置が下がっていたり)や、キャラの立たせ方の不自然さ(頼の演技力の不自然な高さ)など、99分の上映時間に収めたのは立派かもしれないが、もう5~10分を費やして詰めるべき細部があったのではなかろうか。あまりに詳細を書き出すときりがないため、残りは割愛せざるを得ないが、物語以前の部分で破綻してしまっているシーンが多いし、それが目に付いてしまうのである。大きな減点対象だ。

 

総評

『 ママレード・ボーイ 』も度肝を抜かれるような駄作だったが、吉沢の出演作は外れになるというジンクスでもあるのだろうか。『 BLEACH 』も酷い出来だった。MIYAVIも大根だったが、杉野も負けてはいない。五十歩百歩である。どちらが五十歩であるかは観る人それぞれの判断に委ねたい。よほど原作に強い思い入れがある、もしくは吉沢亮の大ファンであるという以外の向きにはお勧めは難しい。または、新木優子の下着姿に興味があるという健全な男子は、そこを見終えたら静かに退出するというのも一つの選択肢ではある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 吉沢亮, 日本, 監督:宮脇亮, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

『 裸足のイサドラ 』 -ダンスが切り開いた近代の地平を描く逸品-

Posted on 2018年10月12日2019年10月31日 by cool-jupiter

裸足のイサドラ 65点
2018年10月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:バネッサ・レッドグレーブ
監督:カレル・ライス

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ラテン語には“Si Monumentum Requiris, Circumspice.”という格言がある。英語圏では今でも時折、普通に使われる表現で、意味は“If you seek his monument, look around.”である。日本語に訳すとなれば、「彼の者の功績を見んとすれば、周囲を見渡すべし」ぐらいだろうか。イサドラ・ダンカンと聞いてピンとくる人がいれば、舞踊に携わるか、あるいはアメリカ史、とくに芸術の分野に造詣が深い人であろう。もしくは映画『 ザ・ダンサー 』でリリー・ローズ・デップが演じた天真爛漫、天才肌の少女ダンサーを思い起こしてしまうような相当なCinephile=シネフィルであろう。または、塾や英会話スクールでTOEFL講座を担当させられる、職務に忠実なパートタイム/フルタイムの講師ぐらいか。本作はさかのぼること1969年(本邦では1970年)に公開された、イサドラ・ダンカンの伝記的映画である。彼女が残した影響は、実は現代にも及んでおり、あたりを見渡せば、確かに彼女の遺産が豊かに花開いていることを知るだろう。

 

あらすじ

伝統的なバレエという束縛から解き放たれるために、トゥシューズを脱ぎ捨てたイサドラ・ダンカン。彼女はアメリカからヨーロッパに移り、伝統的な概念を次々に打ち壊していく。それは時に不倫であったり、ソビエト連邦行きであったり、ロシア人との結婚であったり、学校を建てて貧しい子どもを養うことでもあった。そんな彼女の自由な生き方を数々のダンスと共に活写する。

 

ポジティブ・サイド

イサドラ・ダンカンについて語るならば、その自由奔放な生き方そのものがしばしば話題になるが、彼女が何よりもまずダンサーであったことを考えれば、その踊りを観る者に見せつけなくてはならない。ベリーダンスに始まり、モダンダンスに昇華されていく過程にはしかし、踊り以外の要素がどんどんと投入される。それは、踊りは彼女が追究しようとした対象ではなく、彼女の生き方が踊りという形で外在化したものである、ということを宣言しているかのようだ。事実、その通りなのであろう。

 

冒頭でイサドラが古代ギリシャの彫刻の数々に心をときめかせるシーンがある。それらの彫刻は、どれもミロのヴィーナスよろしく、どこかしら破損であったり欠損があったりする。しかし、ここで我々は人類史上屈指の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉、”Art is never finished, only abandoned.”を思い出すべきなのかもしれない。よく言われることではあるが、ミロのヴィーナスを作った彫刻家が誰であれ、もしも彼/彼女が現代に蘇り、「大変だ、両腕を修復しなくては!」と言えば、我々は大慌てでそれを止めることだろう。不完全だから美しいのである。壊れているからこそ美しいのである。

 

イサドラは同じく、自然に美を見出す。それは寄せては返す波の動きであったり、風にそよぐ木々の葉の動きであったり、そうした何気ない自然物の動きを、自分の踊りに取り入れるのである。これも文献によく書かれていることだが、ライバルであり師であったロイ・フラーが踊りを自然、科学、技術、音楽などと統合しようとしたことに対しての、ある意味でのアンチテーゼであったと思われる。劇中のソビエト連邦帰りのイサドラが故国アメリカの地で言う「胸に手をあてて内なる声に耳を傾けると、正しい生き方が分かる。それこそが真の革命だ」という言葉にそのことがよく表れている。自然の衝動、動物的な本能の体現こそが彼女のダンスの真骨頂なのだ。そのことを端的に示すエピソードとして、彼女が始めたダンス・スクールに通う子弟は皆、貧しい子どもであった。イサドラ曰く、「お金持ちの子どもは要らない。あの子たちは飢えていない」

 

無論、あまりにも先進的というか革命的な彼女の考え方および行き方には反発がつきまとう。芸術や美の観念を常に壊し、覆し、更新していくからだ。しかし、旧体制、旧意識の人間側から為される反発に対する反論は痛快であり、衝撃的でもある。アメリカという国の自己認識と、外国のアメリカ認識には常に乖離があるのだということを思い知らされる。このあたりのアメリカの自己イメージがどのようなものであり、それがいかに変遷していないのかはドラマのニュースルームのシーズン1冒頭を観れば良く分かる。人のふり見て我がふり直せと思わなくてはなるまい。

 

イサドラを演じるのはバネッサ・レッドグレーブ、なんと『ディープ・インパクト』の主役レポーターの母親役だった。レジェンドだ。もっと古い映画も観ないといけないなと反省。発掘良品として本作をリコメンドしてくれたTSUTAYAに感謝。

 

ネガティブ・サイド

おそらく欧米では常識に属することなので、あまり丁寧に描写はされていないが、バレエがモダンダンスに進化した歴史的経緯を知らないままに見るのは、少し苦しいかもしれない。東京オリンピックと言えば2020ということになりそうだが、1964年の東京オリンピックがどのようなものであったのかは、徐々にメディアなどでも再特集がされるようになってきた。例えば、バレーの回転レシーブは今でこそ中学生、小学生でも高学年なら易々とこなす子もいるだろう。しかし、1960年代においては画期的な技だったのである。当時の回転レシーブを現代の目で見て評価をしてはならないのと同じで、イサドラのダンスを現代視点で見つめてはならないのだ。

 

おそらく日本の中高生あたりからすれば、『 累 かさね 』で土屋太凰が披露したダンスの方がより強く印象に残るだろう。しかし、ひらひらとした衣装を身に纏い、裸足で舞台を駆け回り、煽情的ともいえる舞を想像し、また創造した祖は、紛れもなくイサドラ・ダンカンその人なのである。ジャズがラグタイムにその創発を負っているように、モダンダンスはイサドラのインスピレーションに余りにも多くを負っている。そのことを、劇中でほんの少しでも触れる、あるいは予感させる描写があれば、東洋で鑑賞される際にも、観る者が違和感をそれほど抱くことなく、物語を追えたのではなかろうか。しかし、これは本来なら無いものねだりなのだろう。イサドラ没後40年ほどで本作が製作されていることを考えれば、間違いなく製作者たちは生前のイサドラと交渉のあった人たち、イサドラをライブで観た人たちに取材をしているはずで、また同時代の観客の多くはイサドラの踊りについて、かなりの程度の知識を持っていたと推測されるからだ。これは今時の野球少年でも、王貞治と聞けば「あ、知ってる!」となるのと同じである。それでも、映画という媒体が後世にまで残り、外国にまで広まるものという自覚が製作者にもあったはずで、だからこそ敢えてそこを減点の対象としたい。

 

総評

題材は一見古いものの、それは現代にまで影響を及ぼしうる巨大なものであることはすでに述べた。カメラワークやBGM、カットと編集の技術についても全く気にならない。古くても古くない映画である。古典というにはまだ少し新しいが、それでも扱われている人間は実在の人物であり、彼女の息吹、生き様には時代を超えて訴えかけてくるメッセージがある。ダンスに興味がある人だけでなく、広くアメリカ史や現代史に興味があるのであれば、借りてきて損をすることはないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1970年代, C Rank, イギリス, バネッサ・レッドグレーブ, 伝記, 監督:カレル・ライス, 配給会社:ユニバーサルLeave a Comment on 『 裸足のイサドラ 』 -ダンスが切り開いた近代の地平を描く逸品-

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