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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

Posted on 2019年2月19日2019年12月22日 by cool-jupiter

雪の華 35点
2019年2月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 登坂広臣 
監督:橋本光二郎

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『 羊と鋼の森 』の橋本光二郎監督ということで期待をしていた。期待は禁物なのだが、それでも期待するのが人の性。そして、その期待は少し裏切られてしまった。元々は10年以上前の中島美嘉の楽曲にインスパイアされたようだが、確かに当時はテレビでもカラオケボックスでも『 雪の華 』が流れまくっていたのを覚えている。

 

あらすじ 

平井美雪(中条あやみ)は小さな頃から病弱で、医師からは遂に余命一年を宣告されてしまう。失意の美雪はひったくりに遭うも、綿引悠輔(登坂広臣)に荷物を取り戻してもらう。雄輔は美雪に、「声を出していけ」と激励して去っていく。ある日、街で偶然雄輔を見かけた美雪は、雄輔の勤めるカフェにまでついて行き、そこで100万円で一カ月だけ自分の恋人になって欲しいとお願いするが・・・

 

ポジティブ・サイド

アメリカ、カナダ、オーストラリア、英国、韓国、中国、メキシコ、エジプト、インド、スペインなどではなく、フィンランドにフォーカスした作品とは本邦初ではないだろうか。知人の話では冬のフィンランドは朝の9時頃からようやく明るくなり、昼の3時過ぎを回ったあたりから薄暗くなり始めるということだった。しかし、本作は夏のフィンランドと冬のフィンランド、両方をしっかりと収めてくれる。ただ収録は夏と冬に分けて行ったわけではないと思われる。フィンランドの工芸品、街並み、ホテル、景観そして旅情ある景色を味わわせてくれる、非常に貴重な映画である。そして本作の価値およびオリジナリティはそこまでであった。

 

ネガティブ・サイド

主役二人の芝居のクオリティが低い。もちろん、素人っぽさというか普通の人がちょっとした偶然から付き合うようになり、ドラマチックな関係を育んでいく過程を映し出したいというのは理解できる。しかし中条あやみの演技が端的に言ってキモイ。恋に恋する乙女を演じているのは理解できるが、ラノベのキャラクターではあるまいし、初心でありながらも百戦錬磨的な雰囲気を出しているのは何故なのだ。たとえば幼少の頃から病弱で、小説や文学の世界に没頭していたり、または映画や少女漫画の世界に憧れていたり、という描写があれば、まだ理解できる。しかし、そうしたキャラクターのバックグラウンドを特に描くことなく、「お兄ちゃんを私に取られたと思って、嫉妬してる?」などと言うのは、唐突過ぎる。その一方で、フィンランドのホテルで部屋が一室しかないというところで慌てふためいたり、そうかと思えば部屋に一人籠りながら、期するところありげにドアの方に振り返るなど、キャラクター属性に一貫性を欠いている。

 

ここからは少しネタばれ気味であるが、ネタばれではあっても、大したものではないと判断できるのであえて書く。Jovianは冬のフィンランドに行ったことはまだないが、それでも終盤の展開が荒唐無稽であることは分かる。地元の人が「そんな服装じゃ無理だ」というのに、雪降りしきる森林そして雪原を日本のちょっと寒い日ぐらいの服装で駆け抜けていく悠輔の姿は決して感動的なものではない。滑稽を通り越してお粗末でさえある。日本映画に特有の「主役級のキャラクターが駆けていくのを横から追いかけていくショット」にはうんざりである。これまでに唯一、こうしたショットで意味を見出せたのは『ちはやふる -下の句- 』で千早が学校のグラウンドを遠景に走り出すシーンぐらい。競技かるたを個人競技と見誤ってしまった千早が、サッカーや野球の練習をする生徒達を背景に走るシーンは、仲間の元へと帰ろうとする千早の内面の心象風景と合致していた。このように意味のあるショットは認める。しかし、ただ単にそれがよく使われている手法だからといって採用するのならば、単なるクリシェの拡大再生産をしているに過ぎない。橋本監督には期待するところ大なのである。次作での奮起を期待したい。

 

総評

中条あやみファンなら観よう。しかし、彼女の今後の成長の伸び代に関しては、あまり良い感触は得られないだろう。なにか一つ、殻を破る役をオーディションに出まくってでも掴みとって欲しい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 中条あやみ, 日本, 登坂広臣, 監督:橋本光二郎, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

『 アクアマン 』 -暗くないDCヒーロー爆誕!-

Posted on 2019年2月17日2019年3月21日 by cool-jupiter

アクアマン 75点
2019年2月10日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ジェイソン・モモア ニコール・キッドマン アンバー・ハード ウィレム・デフォー
監督:ジェームズ・ワン

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DCユニバースの顔と言えばバットマンにスーパーマンだった。バットマンは、怪人リドラーとかMr.フリーズのあまりのインパクトに目が曇らされそうになるが、基本的にはゴッサムの街もバットマン/ブルース・ウェインの心の在り様も非常に暗いものだった。スーパーマンにしても、クリストファー・リーヴverのものも、シリーズが進むにつれてトーンは暗くなっていった。ワンダーウーマンにしても同じで、パラダイス島を出てからは、やはり暗い。そこにアクアマンがやってきた!暗くないDCヒーロー!これを我々は待ち望んでいたのではなかったか。

あらすじ

灯台守と海底人の王女の間に生まれたアーサー・カリー。彼はそのスーパーヒーローとしての力を使って、海で悪事を働く者たちを成敗していた。しかし、海底人たちが地上世界の支配を目論み、侵攻を始めようとしていた。地上と海底の二つの世界の戦争を止められるのは、両方の世界の人間の血を引くアーサーしかいない!アーサーは真の海底人の王となって、戦争を止められるのか・・・

ポジティブ・サイド

本作は完全に漫画である。元々がアメコミなのだから当然と言えば当然だが、漫画の「漫」の字には

①みだりに。とりとめがない。「散漫」「放漫」
②そぞろに。なんとなく。「漫然」「漫遊」
③ひろい。「漫漫」「爛漫(ランマン)」
④みなぎる。一面に広がる。「瀰漫(ビマン)」
⑤こっけいな。「漫画」「漫才」

 (漢字ペディアhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0006588000より)

以上のような意味がある。本作は驚くべきことに上の全ての特徴を備えている。一部はネガティブ・サイドに回るべきなのだろうが、話にとりとめがなかったり、フォーカスが合っていなかったり、スケールがとにかく大きかったり、パワーが漲っていたり、容赦のないギャグを放り込んできたりもする。それは漫画的な面白さなのだ。長期連載漫画などは、しばしばサブプロットが大きくなってしまったり、または伏線の回収を忘れてい(るように見え)たりすることがある。それが短ければ1時間半、長くても2時間半の映画の世界でも起こるということに、良い意味でも驚かされた。

まず、プロットからして漫画というか、原作者は和月伸宏なのかと見紛うほどに間テクスト性に溢れている。先行テクストとして挙げられる、または考えられるのは『 インディ・ジョーンズ 』シリーズ、『 ドラえもん のび太の海底鬼岩城 』、『 エイリアン2 』、『 スター・ウォーズ 』シリーズ、『 ワンダーウーマン 』、『 バトルシップ 』、『 タイタンの戦い 』、『 ジュピター 』、『 センター・オブ・ジ・アース 』、『 キングコング 髑髏島の巨神 』、『 宇宙戦争 』、『 パーフェクト・ストーム 』、『 トランスポーター 』シリーズ、『 トランスフォーマー 』シリーズ、『 マトリックス 』シリーズ、『スーパーマン リターンズ 』などであろうか。こうした仕掛けをオリジナリティの無さと見るのは容易い。しかし、独創性を追求するあまり、意味が分からないものを作ってしまうのは、映画だけではなく、例えば料理の世界でもよくあることだろう。それならば、すでに味が分かっているもので、フルコースを作った方が賢明であるとの論理も成り立つ。ジェームズ・ワンはそのように考えたようだ。

まず冒頭の潜水艦のシーンからして、同じDCの先輩、スーパーマンの『 スーパーマン リターンズ 』の飛行機のシーンと構図としては全く同じである。さらに名前が示す通り、アーサー王物語を現代風に、そしてギリシャ神話風に換骨奪胎している。また魔術師マーリンにあたる役をウィレム・デフォーに割り振るという大胆な采配。カラゼンという海の化け物は名前もビジュアルもまんまクラーケン(ハリーハウゼンが粘土で作ったものではなくCGの方)。こんなのは序の口で、とにかくどこかで見たり聞いたりしたことのある物語要素がてんこもりなのだ。しかし、それが面白さを損なわない。逆に一定水準以上の面白さを担保しているのだから興味深い。

ユーモアの面でも魅せる。ワンダーウーマンことダイアナはアイスクリームの美味しさにほっぺたが落ちそうになった。今作のヒロインのグィネヴィア・・・ではなくメラは、地上の花に関心を示す。ここでのアーサーの反応は面白い。地上人としてはどうかと思うが、地上と海底、両方の世界に属す人間としての「らしい」リアクションを見せてくれる。笑ってよいシーンだが、笑いとは自分と対象の間に距離があることから生じる反応だ。これこそが、ある意味では本作のテーマであるとも言える。

劇中でアーサーはしばしばHalf-breedなる言葉で表現される。「あいの子」とでも訳すべきだろうか。純血主義を否定はしないが、純血を保つことを教条化してしまうと、現実の世界の変化に対応できなくなる。まるでどこかの島国の現状のようである。いわゆるハーフ、もしくはミックスというべきか、混血児はしばしば異能を示す。大坂なおみ然り。アクアマンはこれまでにいそうでいなかった、人間と人間でない者を親に持つ半人間のスーパーヒーローなのだ。まさに今という時代に現れるべくして現れたヒーローと言える。

また彼の母アトランナを演じるニコール・キッドマンについては【 73 Questions With Nicole Kidman 】というYouTube動画を先に観ておくことで、より深みを見出せるようになる。特に母親であることについて最も素晴らしいこと、最も難しいことについての彼女の答えを意識してみれば、本作の見方が少し深まるはずだ。

水中のシーンでは三次元的カメラワークが冴える。ある意味、宇宙と同じ無重力的空間でのチェイスやバトルをこれほど漫画的に映し出してくるとは思っていなかった。4DXまたはMX4Dでも観てみたいと純粋に思わせてくれる。とにかく色々なものがジェットコースター的なのである。

ネガティブ・サイド 

カラゼンがトライデントを守り続けること1000年とはどういうことなのだ。アトランティスが沈んだのは11000年以上前のはずだ。また、アーサーの年齢はどうも20歳らしいが、ジェイソン・モモアに20歳役はかなり苦しい。ここらへんの数字の齟齬がどうしても気になってしまった。

あとは兵隊サメか。ハリウッド映画に出てくるサメが何をしても、もう我々は感覚がマヒしているというか、驚くはずがないと思っていたが、こんなサメを出してしまうとは・・・ 夏の風物詩の糞サメ映画に燃料を与えてしまったのか、それとも貴重な糞アイデアを奪い取ってしまったことになるのか。その答えは今年の夏以降に分かるだろう。おそらく後者だと思うのだが。

総評

ジェームズ・ワンってホラー映画作ってるんでしょ?という認識の人は What a pleasant surprise! となるだろう。とにかくヒーローがアドベンチャーしてアクションしてSFしてロマンスする映画だと思って観るべし。ファミリーで観に行ってもいいし、付き合い始めて日が浅いカップルのデートムービー、または気になる女子をデートに誘う口実にも使いやすい健全な娯楽映画でもある。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, ジェイソン・モモア, 監督:ジェームズ・ワン, 配給会社:ワーナー・ブラザーズ映画Leave a Comment on 『 アクアマン 』 -暗くないDCヒーロー爆誕!-

『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

Posted on 2019年2月15日2019年12月22日 by cool-jupiter

チワワちゃん 70点
2019年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 成田凌 吉田志織
監督:二宮健

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門脇麦と成田凌という『 ここは退屈迎えに来て 』でも見れらた若手の実力者の共演である。それだけでもチケットを買う価値はある。実際に I got my money’s worth. 

 

あらすじ

「チワワ」(吉田志織)が死んだ。バラバラ殺人だ。ミキ(門脇麦)はチワワの恋人だったヨシダ(成田凌)やその取り巻き、友人、知人らにチワワがどんな人間だったのかを確かめていく。そこで知ったのは、自分が全く知らないチワワの姿で・・・

 

ポジティブ・サイド

非常にドラッギーな映像から始まる。まるで、これから見るのは映像麻薬ですよ、とでも宣言しているかのようだ。そして実際にその通りである。女子の下着パーティーあり、プール内での美少女同士のキスありと、いったい何を観に来たのだろう?と頭がクラクラしてくるような映像を二宮監督は放り込んでくる。Good jobである。

漫画が原作であるということで敬遠することなかれ。いわゆる少女漫画を原作とする十把一絡げの青春ムービーとは明らかに一線を画す映画である。大ヒット(少女)漫画のストーリーというのは、基本的にファンタジーである。王子様に見出されるお姫様のお話である。なので、そうした映画を観ながら「ああ、俺にもこんな甘酸っぱい、青っちい時代があったなあ」という風にはとても感じられないのである。もしもそのように感じられる映画ファンがいれば、相当に幸運な人生を送れた証である。リア充爆発しろ。しかし、本作の描く青春模様はファンタジーではない。それは青春の一面を異常に肥大化させた、あるいは極度に誇張させたものである。美少女または美男子が転校して来て、自分の隣の席に座るようになる、やがてその相手と劇的展開を経て恋仲になるなどという漫画のような、というか漫画そのものの経験をしたことのある人など、一万人に一人ぐらいしかいないのではなかろうか(分母が十万人でも五千人でも、希少性が高いという意味では大差ないだろう)。しかし、本作で描かれるような若気の無分別を経験したことのない人というのは、あまりいないように感じる。もちろん、危ない筋から大金を強奪するというのは論外だが、ちょっとしたあぶく銭を一瞬の享楽のために溶かしてしまっただとか、行きずりの相手とベッドインしただとか、家に帰れない事情があって知人友人宅を転々としただとか、クラブで飲んで踊り明かしただとか、そういう経験である。Jovian自身もこの映画ほどのクレイジーな経験はしていないが、大学時代には先輩の車に同級生らと乗り込めるだけ乗り込んで、吉祥寺の「ホープ軒」でアホほどラーメンを喰ったその足で、環七沿いの「なんでんかんでん」でやはりしこたま豚骨ラーメンを喰い、そのまま何故か港の見える丘公園に乗り込んで大騒ぎし、返す刀で井の頭公園に戻って、やはり乱痴気騒ぎに興じたことがあった。良い思い出であると同時に、今思い起こしてみても、何故あれほど全力で騒いで遊んで楽しめたのか分からない。

本作はチワワがなぜ殺さなければならなかったのかについては明確な答えは出さない。その筋の仕業だろうとは推測されるが、もはやそれは重要でも何でもない。本作には大人と言えるキャラクターが数えるほどしか出てこない。その一人、浅野忠信は圧倒的な迫力と存在感でカメラ小僧を威圧する。このカメラ小僧はある意味で子どもの代表であり象徴でもある。チワワに恋焦がれるも、カメラのファインダー越しにしかチワワを見ることができず、チワワと個人的な関係を築きたいという欲望が隠しきれないにもかかわらず、自分の撮る映画に出演して欲しいという願いを伝えることでしか、コミュニケーションが取れない。映画に出て欲しいというのは、自分にとっての理想的なキャラクターになって欲しいという意味だろう。浅野忠信はチワワという「現存在」が未来に「投企」されていないという事実を冷徹にも暴きだした。一方でカメラ小僧は美しく天真爛漫で無邪気に快楽を享受するチワワを記録しようとして、ヨシダにそれをぶち壊される。この成田凌演じるヨシダは大人と子どものちょうど境目である。B’zの“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の「あいつ」のような男なのだ、と言えばピンと来るB’zファンあるいは邦楽ファンも多いだろう。青春群像劇としては異色の野心作に仕上がっている。吉田志織という原石がこれからどういう光を放つようになるのかは未知数だが、期待の若手勢ぞろい作品という点では『 十二人の死にたい子どもたち 』よりも本作の方が面白い。

 

ネガティブ・サイド

舞台を現代に設定し直す必要はあったのだろうか。確かにSNSが効果的なガジェットして使用はされていたが、チワワという存在の皮相性と深層性を際立たせるものではなかった。舞台を原作のまま1990年代にして、『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』の如く、若さゆえの暴走、若さゆえに無分別、それゆえの刹那的な輝きを記憶に留めるような物語の方がより印象的になったのではと思う。SNSが発達した時代というのは、携帯のカメラやデジカメなども相当に進化している世界なわけで、チワワの画像や映像、音声やテキスト情報などが膨大な量で残っていても全く違和感がない、というかチワワに関するそうした記録。情報の類があまりにも少なすぎて、「本当に現代なのか?」という違和感が最後までどうしても拭えなかった。

 

これは完全に自分が監督になったつもりでのぼやきだが、劇中でチワワが歌って踊る“Television Romance”を何故エンドクレジットシーンに採用しなかったのだろうか。チワワとその周辺の人間関係はほとんど全部この歌で描写されてしまっているではないか。チワワの物語の余韻に浸るべき瞬間にこそ、このテーマソングがより強く輝けるのではないのか。そこのところを非常に惜しいと思う。

 

総評

「くだらなかったあの頃に 戻りたい 戻りたくない」という“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の一節が強烈に脳裏に浮かんでくる。そんな一作である。もちろん、いい年こいたオッサンの抱く感傷と、まさに20歳前後の登場人物たちと同世代の映画ファンの抱く感想は、大いに異なるはずだ。観る者によって呼び起される感覚が異なるというのは、それだけ良い作品なのだ。一面ではなく多面的に見ること、見られること。それを是非、劇場で大画面で体験しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, ミステリ, 吉田志織, 成田凌, 日本, 監督:二宮健, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

Posted on 2019年2月12日2019年12月22日 by cool-jupiter

PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 45点
2019年2月3日 東宝シネマズなんばにて鑑賞
出演:野島健児 佐倉綾音 弓場沙織
監督:塩谷直義

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タイトルが挑発的だ。日本社会における突出したサイコパスとしては、『 友罪 』の元ネタにもなった神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗、そして佐世保女子高生殺害事件の女子高生などが思い浮かぶ。社会はそうした人間を排除してはならない。しかし、慎重に隔離せねばならないと個人的には考えるが、意見を異にする人も多いはずだ。そうした意見を表明するに際して、娯楽作品の形を借りるのは幅広い層にメッセージを届けるにはある程度効果的だと思われる。

 

あらすじ

時は近未来。「システム」の開発と普及により、サイコパシーを数値で割り出すことが可能になった世界。個人は、犯罪だけではなく、自らの潜在的なサイコパス指数によっても拘束を受ける社会。宜野座伸元(野島健児)は青森の潜在犯隔離施設に何かを嗅ぎつけるが、そこには国家的な陰謀が展開されており・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・クルーズの『 マイノリティ・リポート 』のようである。ただ、犯罪、特に殺人を防ごうとするマイノリティ・リポート的世界とは異なり、サイコパスそのものを取り締まる本作の世界観はリアリスティックでありながらも異様でもある。社会とは元々は一人もしくは少数ではサバイバル不可能な人間という生物が、生存可能性を最大にするために編み出したものであろう。古代人の骨から、重篤な障がいを持ちながらも、成人するまで生きていた個体も多数いたことが判明している。社会は様々な個性を包括することで強くなる。しかし、本作の描く社会には排除の論理が強く働く。もともと障がいは“障害”だった。Jovianの視力はかなり悪く、眼鏡やコンタクトレンズなしには生活や仕事は難しい。もしも戦国時代に生まれたなら、結構な穀潰しとして扱われたのは間違いない。しかし、視力は矯正できる。また『 ブレス しあわせの呼吸 』や『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』でも描かれているように、我々の社会は確かに障がい者を包括する方向へと変化してきている。十年前に比べると、エレベータ付きの駅、車いす対応のタクシー、その他にも車いす対応の映画館や美術館の数などは格段に増えた。しかし、精神的な障がい(と呼ぶべきかどうかは悩ましい)は目に見えないため、対応も難しい。『 ザ・プレデター 』は駄作中の駄作だったが、自閉症に関する非常に興味深い仮説を提示した。本作は個人の内に犯罪係数なるものを読み取るシビュラシステムというものが存在する。これはこれでありうる装置であると感じた。『 ターミネーター3 』も凡庸なSFアクションだったが、T-800がジョン・コナーに向かって、呼吸や脈拍のデータからその行動は云々と伝えるシーンを思い起こさせた。人間の精神を崇高なものではなく、あくまでフィジカル面から読み取れるものだという非常に乾いた世界観は悪くない。

 

ネガティブ・サイド

プロットにあまりにも捻りがなさすぎる。「サンクチュアリ」というのは現実の日本社会への風刺であろうが、それをやるならば大多数の無辜の民に思える人間たちこそが実は・・・という形でないと、現実批判にはならない。サイコパスの理想郷、桃源郷なるものを作れるとすれば、それは社会の支配者層をサイコパスが占めることだろう。そして、実は現実世界で多大な成功を収める政治家や実業家、芸術家にはかなりの割合でサイコパスが含まれているというのは周知の事実である。ユートピアに見えたものが一皮剥げばディストピアだった、というのは1950年だから続くSFのクリシェである。そうした norm をひっくり返すような強烈なアイデアを期待したかったが、それは無い物ねだりだったのだろうか。

 

また宜野座の義手が強力すぎないか。義手そのものの強度はそういう設定であるとして、彼の体のその他の部分は生身だ。そしてまっとうな物理法則(作用反作用や慣性etc)を考えれば、あのような無茶苦茶なアクションシークエンスは生み出せないし、鑑賞することもできない。シビュラシステムという虚構にリアリティを持たせるためにも、その他の要素も充分にリアリスティックに作るべきであったが、そのあたりのポリシーや哲学が製作者側に欠けていたか。虚淵玄の強烈な、ある意味で凶暴な思想と個性に振り回されてしまったか。

 

もう一つ。本作はMX4Dで鑑賞したが、それによってプラスアルファの面白さが生まれたとはとても思えなかった。次作を鑑賞する時は、通常料金またはポイント鑑賞をしようと思う。

 

総評

『 亜人 』やアニメゴジラなど、アニメーション作品の3部作構成がトレンドなのだろうか。できれば『 BLAME! 』のように、重要エピソードを一作品に程よくまとめてくれると有りがたいのだが。アニメーションに抵抗がなければ、見ても損はしない。しかし、得もしないか。第二部はスルーしようかと思案中である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, サスペンス, 佐倉綾音, 弓場沙織, 日本, 監督:塩谷直義, 配給会社:東宝映像事業部, 野島健児Leave a Comment on 『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

Posted on 2019年2月11日2019年12月21日 by cool-jupiter

七つの会議 65点
2019年2月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:野村萬斎 香川照之
監督:福澤克雄

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働くことの正義を問うとは大仰な煽り文句だ。しかし、『 空飛ぶタイヤ 』が結構なカタルシスをもたらしてくれる娯楽作品であると同時に、現実を鋭く抉る批評的作品でもあったことから、本作も同工異曲の映画であろうと予想していた。働くことの正義なるものについての論評はしがたい作品であるが、水準以上の面白さは有していた。

 

あらすじ

東京建電の八角民夫(野村萬斎)は、居眠り八角の異名を持つ怠け者。しかし、八角の排除を試みようとした社員は皆、謎の異動に処されてしまう。八角の勤務態度の裏にあるものとは?上司の北川(香川照之)と八角の関係は?そこには東京建電の抱える深い闇が広がっていて・・・

 

ポジティブ・サイド

どのキャラクターも見事に立っている。主人公の八角演じる野村萬斎がまさに狂言回しである。それに輪をかけて北川演じる香川照之がブラック企業の幹部を体現している。それはリアリティを追求する方法ではなく、一部の特徴を誇張・肥大化させることで達成されている。それは正しいドラマの作り方でもある。古代ギリシャの時代から、ドラマツルギーとは人間の一側面を過大に描くことで成り立ってきたとさえ言える。本作に登場するキャラクターは、誰もかれもが典型的なキャラをその役割や職務に応じて演じている。「現実的であるということは陳腐なことである」とは小説家・奥泉光の言だが、いわゆるブラック企業の在り方やダメ社員の処遇については、我々は実はほとんど知らないのではないか。我々の耳目に入る情報は極端なものか、メディアが編集したものか、もしくはひときわ声の大きい個人が知らせてくれるものぐらいだろう。そうした意味で、この映画に出てくるあらゆるキャラクターはリアルさには欠けるものの、典型的と評してよい。キャラクターが立っているというのは、そういうことである。

 

さらに池井戸潤作品の特徴である現実批評の精神は本作にも通底している。特に政府による文書の改竄や統計データの不正が明らかになった昨今、明らかに我々が本作を視聴する目は厳しくなる。厳しいというのは審美眼のことではなく、フィクションと現実を重ね合わせてみようとする姿勢のことである。東芝やオリンパスのような巨大企業の不祥事の構造の全貌が判明せず、チャレンジなる曖昧模糊とした言葉で管理職は平社員にプレッシャーを与え、そして責任のはっきりしない不祥事が発生する。本作はそんな現実世界の出来事を忠実になぞるかのように、次から次へと悪役候補が現れては消え、そしてまた現れてくる。これは面白い。我々はあまりにも「皆が悪いのだ」という論調に慣れ過ぎている。これは『 華氏119  』の当時のB・オバマ米国大統領の言葉でもある。しかし、元凶というものは確かに存在し、そしてそれは追及されねばならないと、本作は宣言している。特に上位の会社が下位の会社の財布の中身まで覗き込み、カネの使い方にまであーだこーだとくちばしを突っ込んでくるところは、某愛知の自動車メーカーと某大阪・寝屋川市自動車部品メーカーの関係を見るかのようだった。不正とは、現場レベルやノンタイトルの従業員が行うようなものではない。それは上からの圧力によるものであることがほとんどだろう。一部のサラリーマンや公務員にとっては、本作は非常に胸のすく展開であるに違いない。

 

ネガティブ・サイド

残念だが細部にリアリティが不足しているように思う。『 真っ赤な星 』にもあった不倫ネタ、「俺、お前とのことを真剣に考えているから」という台詞は陳腐であるからこそリアルなのであるが、これはお仕事ムービーであり、サラリーマン映画なのである。前半の不倫プロットのパートは不要というか、八角の存在感の無さ、そして神出鬼没さ、目敏さ、そして意外なコミュニケーション力を演出したかったのだろうが、この部分がかなり冗長だったように感じた。

 

また東京建電の抱える闇であるが、こんな事実が発覚しなかった方がおかしいとすら感じる。あの業界やあの業界は独自に部品のスペックをチェックしているし、特に福知山線の脱線事故からこちら、列車の製造およびメンテナンスの主眼は安全性に置かれていると聞く。キャラクターは典型的でも良いのだが、ストーリーにはやはりリアリティを求めたい。製造業や営業という職務に従事する人が鑑賞すれば、かなり突っ込みどころの多い作品になっていることは、容易に想像がつく。そこが本作の惜しいところである。

 

総評

単体の映画として見れば『 空飛ぶタイヤ 』に軍配が上がる。しかし、社会全体を風刺する、または国民性を追究する、サラリーマンという生き物を“生態模写”するという意味の面白さでは優るとも劣らないものがある。新元号になってから就業していく、世に出ていく中高生たちが見てみれば、平成という世の働き方に良い意味でも悪い意味でも感じ入ることがあるのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, 日本, 監督:福澤克雄, 配給会社:東宝, 野村萬斎, 香川照之Leave a Comment on 『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

Posted on 2019年2月6日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ・リターンズ 55点
2019年2月2日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:エミリー・ブラント ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロブ・マーシャル

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メリー・ポピンズが50年以上の時を経て、続編に帰って来る。ジュリー・アンドリュースの後を継ぐのは、ブリティッシュ・アクトレスのトップの一人、エミリー・ブラント様とくれば期待しないわけにはいかない。ややCGヘビーなトレイラーが気になったものの、いざ劇場へ。予想や期待をしていた作品ではなかったが、これはこれで受け入れ可能だ。

 

あらすじ

『 メリー・ポピンズ 』の時代から時を経ること幾星霜。時は大恐慌時代。マイケルは妻を亡くし、画業をあきらめ、銀行の出納係をしながら、子どもたちと屋敷に暮らしていた。姉ジェーンも手助けはしてくれていたが、金策ならず、家を失う危機に瀕していた。しかし、そんな時、空からメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が降臨してきて・・・

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントによるメリー・ポピンズ。どちらかと言うと童顔だったジュリー・アンドリュースのメリー・ポピンズよりも、原作小説の雰囲気が出ていたのではないだろうか。メリー・ポピンズは結構気難しいキャラだからだ。それでいて優しさや情もある。歌って踊れる素敵な魔法使い。エミリー・ブラント以外のキャスティングは今では考えられない。なによりも登場シーンが良い。風吹きすさぶ空の雲間から光と共に神々しく現れる。凧と共に降りてくるのにも意味がある。これは物語の最後の最後で見事なコントラストを成す。

 

メリー・ポピンズは乳母であるが、バンクス家のマイケルが妻を亡くし、その子どもたちには母親代わりとなるべき人物が必要だった。メリー・ポピンズがマイケルの子どもたち、ジョン、アナべル、ジョージーを風呂に入れたり、花瓶の世界に連れて行ったりするシーンは、前作のアニメーションとの融合をかなり意識した作りになっている。つまり、一目でそれと分かるCGになっている。だが、今回はそれが不思議と心地よい。なぜなら、自分が観ているものがリアルなものではなくマジカルなものであるという意識があるからだ。トレイラーで観た時は「なんじゃ、この出来損ないのCGは」と思わされたが、本編で観てみると印象がガラリと変わる。これこそ映画のマジックであろう。

 

現代的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。時代が世界恐慌時代、なので1929年~1939年のどこかの時点の物語ということになるが、本作が訴えるのは80年前の時代の問題ではない。最も分かりやすいのは母子家庭の問題だろう。人生にはpositive female figureが必要とされる時期もあるのである。叔母や家政婦では力不足なこともある。母親不在という現実から逃避するには、非行に走るぐらいしかない。しかし、もし本当に現実逃避ができるなら?本作は魔法使いのメリー-・ポピンズに仮託して、子どもという存在の想像力と生命力のたくましさについて高らかに称揚する。シングル・マザーが激増している日本社会は何某かを感じ取るべきだろう。

 

不況なのはどこの先進国でも同じだが、その構造も共通している。大資本による庶民の搾取だ。トマ・ピケティの御高説を拝聴するまでもなく、資本は資本のあるところに集まるものである。トリクルダウンなる考え方は虚妄に過ぎない。本作はファンタジー映画であるが、容赦のない現実世界の経済論理が展開されており、子どもと一緒に観に行った保護者はかなり心理的にきつい思いを味わわされたのではないだろうか。そうした苦しい思いをしたからこそ、バンクス家の絆はさらに強まるのだ。ディック・ヴァン・ダイク御大との再会は我々に新鮮な感動と驚きをもたらしてくれる。水戸の御老公様が印籠を見せる時のようなカタルシスが味わえた。

 

ネガティブ・サイド

メリル・ストリープの出番はあれで終わりなのか?せっかくの大女優の出張ってもらったのだから、再訪場面まで描いて欲しかった。

 

クライマックスの風船は悪いアイデアではないが、『 プーと大人になった僕 』が既にガジェットとして使っている。というか、風船と言えばプーだろう。良い絵ではあったものの、個人的にはインパクトが弱かった。

 

前作の煙突掃除人に相当するシークエンスとしての、街灯点灯夫たちの大移動があるが、何故あのような『 マッドマックス 怒りのデス・ロード 』的な画作りをするのだろうか。正直なところ、あれでかなり白けた。普通にやればよいのにと今でも思う。

 

だが本作の最大の弱点は、前作の名曲を何一つとして引き継がなかったことであろう。「チム・チム・チェリー」は煙突がフィーチャーされないので無理だとしても、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」(Supercalifragilisticexpialidocious)は使っても良かったはずだ。ジョン、アナべル、ジョージーの3人と一緒にこれを歌うポピンズに、打ちひしがれていたマイケルとジェーンも加わってくる。誰もがそうしたシーンを観る前に夢想してはずだ。権利関係の鬼のディズニーなのだから、いや、だからこそ、楽曲の権利関係をきっちりとさせて、映画ファンに望むものを提供して欲しかったと切に願う。『 マンマ・ミーア! 』と『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィ-・ゴー 』が同一の世界観であると受け取られたのは、同じ役者が同じ役で続投したことと同じくらいに、”Dancing Queen”が歌って踊られたという事実があるからだ。”Dancing Queen”が流れてこその世界とも言える。前作からの楽曲が無かったのには大人の事情もあろうが、個人的には大減点をせざるを得ない。

 

総評

それなりに楽しい映画である。ミュージカル好き、ディズニー映画好きであればチケットを買っても損はしないだろう。Jovianはかなりバイアスが強い鑑賞者なので、あまりレビューの点数は気にしないで頂けると幸いである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エミリー・ブラント, ディック・ヴァン・ダイク, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ロブ・マーシャル, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

Posted on 2019年2月4日2019年12月21日 by cool-jupiter

あした世界が終わるとしても 45点
2019年1月31日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:梶裕貴 中島ヨシキ 内田真礼 
監督:櫻木優平

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これは『 風の谷のナウシカ 』以来の戦闘美少女の系譜の物語に、別世界(parallel universeやalternate realityと呼ばれるアレ)との対立、そして戦闘ロボットや、それでも変わらない醜い人間の政治力学などを一挙にぶち込んだ野心作である。しかし、監督やクリエイターたちのやりたいことを多すぎて、観る側にメッセージが伝わりづらくなっている。将棋指しが勝負師・芸術家・研究家の三つの顔を持つように、映画製作者も芸術家としてだけではなく、発信者や発明者のような側面にも力を入れて欲しいと願う。

 

あらすじ

何故かこの世界では人が突然死する。狭間真の母もそうして死んでしまった。以来、父は仕事に没入するあまり家のことを顧みなくなった。一人になった真に寄り添ってくれているのは幼馴染の琴莉だった。二人の仲がようやく動き出そうとする時に、突如、ジンが現れる。ジンはもう一つの世界の真だった。彼の目的は二つ。一つは真の保護、もう一つは・・・

 

ポジティブ・サイド

映像は文句なしに美麗である。ディズニーのように巨額予算が無くても、ここまで出来るというのがJapanimationの利点であろう(アニメーターの待遇の悪さ、および中国資本化によるアニメーターの待遇改善のニュースもあったが・・・)。アクションシーンでズームインとズームアウトを頻繁に行いながらも、キャラクターを猛スピードで動かすところには唸らされた。『 BLAME! 』でも用いられた手法であるが、それをもう一歩先に推し進めた印象を受けた。

 

また企業が政府に先立って動く世界というのも、この現実世界を先取りしているように思える。プーチン政権下のロシアがクリミアを力で併合したり、トランプ政権がメキシコ国境に壁を作る/作らないで大揉めしていたりしているが、歴史的な流れとして世界はどんどんとボーダーレスになっていっている。そして国境を超えることで新たな価値を帯びるのは情報と貨幣だ。特に仮想通貨の浸透とその暴落は記憶に新しい。今は振り子の針の揺り戻しが来ているが、反対方向に大きく振れるのも時間の問題だろう。

 

閑話休題。本作で最も面白いなと感じたのは、美少女ロボの言動。むしゃむしゃと食べ物を頬張り、「出るところから出るような構造になっています」と説明するのは、一部の純粋なマニアやオタクを欣喜雀躍させるか、あるいは彼ら彼女らは怒り心頭に発するのではないだろうか。好むと好まざるとに依らず、技術は進歩していく。ユダヤ・キリスト教の神がImago Deiに似せて人間を作ったように、人間もロボットをどんどんと人間に似せていく。これは間違いない。『 コズミック フロント☆NEXT 』の1月17日の回「 どこで会う!?地球外生命体 」で、ある科学者が「肉体というものは不完全で不要かもしれない、けれど、この目で美しい景色を見たり、この耳で美しい音楽を聴いたり、この口で美味しいものを食べたりすることが生き物としてのあるべき姿だと思う」という趣旨を述べていた。本作に登場するミコとリコに対して親近感を抱けるか、もしくは嫌悪感を催すかで、観る側の心根がリトマス試験紙のように測れてしまうかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

オマージュなのか、それとも作り手の意識の中にそれだけ強く刻みこまれてしまっているのか。作品のそこここに先行テクストからの影響が色濃く現れている。これが道尾秀介の『 貘の檻 』が横溝正史の『 八つ墓村 』へのオマージュになっていたのと同様の事象なのか、それとも意識して様々な作品の要素をぶち込むことで、監督兼脚本の櫻木優平氏が悦に入っているのか。おそらく後者ではないかと思われる。現代は、しかし残念ながら、パスティーシュやオマージュではなく、オリジナリティで勝負しなければならない。まずは守破離ではないが、何か一つの要素をしっかりと追求する。そこから自分なりのスタイルを確立していくことを目指すべきだ。以下、Jovianが感じたオリジナリティの無さについて。

 

まず並行世界というもの自体が、手垢に塗れたテーマだ。その古い革袋に新しい酒を入れてくるのかと期待したら、その世界の発生のきっかけは旧日本軍の研究開発していた次元転送装置とは・・・ 旧日本軍て、アンタ・・・ 『 アイアン・スカイ 』以上に荒唐無稽だ。こちらとあちらに同じ人間が存在していて、その命がリンクしているという設定がすでに理解できない。なるほど、世界が分裂してしまった時点ではそうだろう。だが、極端な例を考えれば、こちらの世界の妊婦さんが流産をしてしまった時、あちらの世界の人は必ず妊娠しているのか?そうでなければ、例えば妊婦が死んでしまった場合は胎児も自動的に死亡すると思われるが、そもそもあちらの世界で存在しない命がこちらで消えてしまった時は?などなど、観ている瞬間から無数に疑問が湧いてきた。並行世界というのは、タイムトラベルや記憶喪失ものと並んで、非常にスリリングな導入部を構成することができるジャンルだが、それだけに細部を詰め方、および物語そのものの着地のさせ方が難しい。その意味で本作は、離陸した次の瞬間に墜落炎上したと言っていいだろう。

 

また、その並行世界の成り立ちの説明がどういうわけかナレーションで為される。どうしても言葉で説明したいというのなら、何らかのキャラクターに喋らせるべきだ。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』における酔っ払い男のように。このナレーションは完全にノイズであった。

 

そこで生まれた世界の日本には皇女がいるという。ならば「にほんこうこく」というのは日本皇国かと思っていたら、日本公国であるという。どういう国体を護持すれば、そんな国が生まれるというのか。平安時代に並行世界が生まれたのならまだしも、昭和の中頃にこれはない。いくらアニメーション作品と言っても、歴史的な考証は最低限行わなくてはならない。映画とは、リアリティを追求してナンボなのだ。なぜなら、映画という芸術媒体が発するメッセージは往々にしてフィクションだからだ。だからこそ、それ以外の部分はリアルに仕上げなくてはならない。まあ、本作にはそもそもメッセージが無いわけだが。

 

護衛兼攻撃用ロボットが、エヴァンゲリオン、『 BLAME! 』のセーフガードなど、様々な先行作品の模倣レベルから脱していない。ボス的キャラもネットでしばしばネタにされる小林幸子を否応なく想起させてくる。そしてセカイ系で散々消費された僕と美少女戦士達の闘いが、世界そのものの命運を決めることになるという、周回遅れのストーリー。また『 ミキストリ -太陽の死神- 』と全く同じ構図がヒロインキャラに投影されていたりと、どこかで見た絵、どこかで聞いた話の寄せ集め的な物語から脱却できていない。櫻木監督の奮起と精進に期待をしたい。

 

総評

ポジティブともネガティブとも判断できなかったものに、キャラの動きが挙げられる。モーション・キャプチャをアニメの絵に適用しているのだと思うが、とにかくキャラがゆらゆらと動く。生きた人間であれば自然なのかもしれないが、アニメのキャラにこれをやられると不気味である。『 ターミネーター 』や『 ターミネーター2 』のシュワちゃんが、非常にロボットらしい動きをするのと対比できるだろう。しかし、CGアニメーションがもっと進化して、小さい頃からそのような作品に慣れ親しむ世代は、旧世代のアニメーションを見て「不気味」と感じるのかもしれない。何もかもを現時点の目で判断することは独善になってしまう恐れなしとしないだろう。この点については判断を保留すべきと感じた。冒頭10分は何となくゲームの『 インタールード 』を彷彿させた。カネと時間が余っていて、アニメーションに抵抗が無いという人なら、1800円を使ってもいいのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, 中島ヨシキ, 内田真礼, 日本, 梶裕貴, 監督:櫻木優平, 配給会社:松竹メディア事業部Leave a Comment on 『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

Posted on 2019年2月3日2019年12月21日 by cool-jupiter

十二人の死にたい子どもたち 35点
2019年1月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:新田真剣佑 北村匠海 高杉真宙 萩原利久
監督:堤幸彦

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出演に男4人だけをリストしたのは、単純にスペースの問題であって、それ以上の意味もそれ以下の意味もない。本当は自分の好み的には萩原利久だけでもよかったのだが、それだけではアンバランスだなと感じただけのことに過ぎない。それにしても、堤幸彦監督というのは、良作と駄作を一定周期で生み出してくるお人である。本作はどちらか。残念ながら駄作であった。まさに文字通りの意味で子供騙しであった。

 

あらすじ

廃病院。集められた十二人の少年少女。皆、闇サイトの呼び掛けに応じ、集団自殺する為に集って来た。しかし、そこには十三人目が既に先着していた。物言わぬ死体として・・・

 

ポジティブ・サイド

期待の若手俳優をずらりと並べたのはインパクトがあった。Jovianは萩原利久を推しているので、彼の登場は素直に嬉しい。他にも杉作や北村など、確かな演技力、表現力を有するキャスティングは、タイトルの持つインパクトとの相乗効果で、多くの映画ファンを惹きつける。

 

劇中に何度もフォーカスされる謎めいた絵画やオブジェも興味深い。妊婦を想起させるだけではなく、♂と♀のマークの複合体、つまりは性行為を意識させるようなデザインでもあり、デストルドーに衝き動かされる子どもたちの奥底に眠るリビドーを模しているかのようでもある。これからご覧になる方々は、これらの絵や像のショットがどういう場面で挿入されてくるかに是非注意を払って見て欲しい。

 

ネガティブ・サイド

端的に言ってしまえば、どこかで観た、もしくは読んだ作品のパッチワークである。タイトルから『十二人の怒れる男 』を思い起こした方は相当数いることは間違いないし、あらすじを読んで、または予告編を見て『 11人いる! 』や『 ソウ 』の影響を受けた作品なのだなという印象を持った人も多いだろう。あるいはmislead目的としか思えない「死にたい」連発のトレイラーを見て、『 インシテミル 7日間のデス・ゲーム 』や『 JUDGE ジャッジ 』の類のデスゲームなのかと勘違いさせられた人も一定数いただろうことは想像に難くない。原作者が冲方丁だと知って、意外に感じた向きも多かったのではないだろうか。Jovianはてっきり、米澤 穂信か土橋真二郎の小説が原作なのだと思い込んでいた。何が言いたいかと言うと、オリジナリティに欠けるわけである。

 

本作をジャンル分けするならば、シチュエーション・スリラー風味のミステリ兼ジュブナイル映画ということになるだろうか。だが、ミステリとして鑑賞させてもらうと、粗ばかりが目立って仕方がない。あまりにもご都合主義に満ちているのだ。堤監督は明らかに『 イニシエーション・ラブ 』を意識した画作りおよび演出を施したシークエンスを用意してくれているが、説得力が全く違う。まさに月とすっぽんだ。それはもちろん、『 イニシエーション・ラブ 』が月で、本作がすっぽんという意味である。あれを見せられて、「ははあ、なるほど、そうなっていたのか」と膝を打つ人がいるのだろうか。

 

とにかく論理的に破綻している、または都合が良すぎる点を指摘してしまうときりがない。なので、ひとつだけ余りにも間抜けすぎる台詞を紹介しておきたい。廃病院前に軽トラが止まったのを見て「なんで?!改修工事はまだ先のはずよ?」とは・・・ どこからどう見ても積み荷ゼロの軽トラック一台にそこまで焦る必要があるのは何故だ。某人物が廃病院に来るまでに使った車いす対応タクシーの運転手が警察に通報するという可能性は考慮しなかったのだろうか。

 

総評

はっきり言って面白くない。ミステリとしてもスリラーとしてもサスペンスとしても、中途半端すぎる。キャスティングに魅力を感じるのであれば鑑賞も可だろう。しかし、ちょっと面白そうだから観てみるかという気持ちで劇場に行くと、ガッカリさせられる可能性が高いだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:堤幸彦, 萩原利久, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 高杉真宙Leave a Comment on 『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

Posted on 2019年2月1日2019年12月21日 by cool-jupiter

バジュランギおじさんと、小さな迷子 80点
2019年1月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サルマーン・カーン ハルシャーリー・マルホートラ
監督:カビール・カーン

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今年の初めにパンフレットを見た時に「おー、ジョン・ハムがインド映画に出るのか」と思ったのを覚えている。実際は全く別の役者さんだが、そのように見えてしまった映画ファンは全世界で数千人はいたのではないだろうか。

 

あらすじ

パキスタンの山奥で暮らす娘シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。お祈りのために訪れたインドで不運にも迷子になってしまう。そこでパワン、通称バジュランギ(サルマーン・カーン)と出会う。バジュランギは熱心なヒンドゥー教徒で、学歴は無いが素直で誠実で無邪気な男だった。彼はこの娘をムンニーと呼び、ビザもバスポートも無しにパキスタンに彼女を送り届けようと決意するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 バーフバリ 』二部作、そして『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に続くインド映画の傑作がまたも現れた。と思ったら、現地での公開は2015年だったとのこと。『 ウィッチ 』のように2年経ってから公開されるケースはあるが、4年ものスパンを空けてというのはかなり珍しいのではないか。それだけ、今このタイミングで、日本で劇場公開する意義を配給会社が認めたということなのだろう。

 

何よりも、シャヒーダーがあまりにも可愛い。このような純粋無垢な少女を前に、大人はあまりにも無力である。つまりはベイビネスである。実際は6歳ぐらいなので、シャヒーダーをベイビーであると看做すの無理がある。しかし、シャヒーダーの口がきけないという特徴が、彼女を赤ん坊的な存在に留める大きな役割を果たしている。赤ん坊の特徴はその無垢さ、タブララサ tabula rasa であることが挙げられる。赤ん坊は白紙なのだ。シャヒーダーは白紙の存在ではない。彼女はパキスタン人であり、ムスリムであり、クリケット好きである。しかし、周囲のインド人の目には、そうした属性が可視化されていない。つまり、彼女は彼女の最も純粋な部分、つまりは人間としての部分が扱われる。彼女が肉を食べ、イスラム教のモスクに入り、クリケットのパキスタン代表チームを応援することで、周囲の人間は彼女を異物であると認識するようになる。非常に悲しいことではあるが、日本人の中には、コンビニ店員がベトナム人、中国人、韓国人、フィリピン人であるというだけのことで、非常に居丈高になり、時には高圧的、攻撃的にさえなる者が存在する。人間には様々な違いがあるものだが、そうした違いのいくつかは非常に皮相的で、自分では決定的だと思っていた差違も、実は自分の心が作り出していた幻想に過ぎないということを、本作はある意味では非常にあっけらかんと明かしてしまった。インドとパキスタンの歴史は、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のようには、なかなか理解はできない。なぜなら前者の差違は宗教的なもの、つまりは心の問題であって、後者の差違は社会システム、つまりは制度的なものであるからだ。シャヒーダー、いやムンニーと旅するバジュランギは、自分がどれほど狭隘な精神世界に住んでいたのかを、旅の中で認識するようになる。彼がモスクの中でムンニーを見つめるシーンは、終盤で非常に鮮やかなコントラストを生み出す。これには唸らされた。信じる対象は異なっても、信じるという心の営みそのものには何らの違いもなく、等しく尊重されるべき心の在り様であるということを、本作は観る者に提示する。ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。

 

本作はさらにもう一歩踏み込んで、梅田望夫が言うところの「不特定多数無限大への信頼」を体現するプロットも組み込まれている。ネットの世界には技術的には国境は無く、マスコミと同程度、時にはそれ以上の信頼をミニコミが生み出すことさえある。そうした、非常に現代的な世界の在り方を本作はリアリスティックに映し出す。傑作インド映画『 ボンベイ 』で描かれたような、圧倒的な憎悪と暴力が発露される場面があるが、その同じ力が負ではなく正の方向に作用する時、観る者に圧倒的な感動をもたらしてくれる。事実、シネ・リーブル梅田は『 カメラを止めるな! 』以来の満席であったが、クライマックスでは劇場内のそこかしこからすすり泣きの声が聞こえてきた。インド映画、そしてインドという国に対する見方を我々はアップデートしなければならない時期に差し掛かっている。

 

そうそう、主演のサルマーン・カーンのフィルモグラフィーを事前にチェックしておくと、劇中でクスリとさせられること請け合いである。興味のある方はお試しあれ。

 

ネガティブ・サイド

最後の最後のショットがやや腑に落ちない。そこに至るまでは非常にハイレベルにまとめられていたのに、あのような構図にする必要があったのだろうか。端的に言えば、この美しい映画の物語の余韻を少し壊すようにすら感じられた。

 

また、一部で露骨に『 ビバリーヒルズ・コップ 』をパクった、またはパロったシーンがあるが、こうした場面でこそ本作のオリジナリティを発揮して欲しかったと願う。

 

総評

『 search サーチ 』の監督アニーシュ・チャガンティの活躍にも見られるように、インド映画、およびインド系の映画人は今後ますます活躍していくものと予想される。そうした大きな流れの端緒の一つとして、本作は記録され、記憶されるだろう。傑作であると断言する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, インド, サルマーン・カーン, ハルシャーリー・マルホートラ, ヒューマンドラマ, 監督:カビール・カーン, 配給会社:SPACEBOXLeave a Comment on 『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

Posted on 2019年1月29日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガー・ラッシュ オンライン 60点
2019年1月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン ガル・ガドット タラジ・P・ヘンソン
監督:リッチ・ムーア フィル・ジョンストン

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およそプリンセスらしくないプリンセスのヴァネロペが、インターネット世界で様々なプリンセスおよびキャラクターと邂逅する。そして、ラルフとの友情に一つの区切り、転換点を迎える。前作の『 シュガー・ラッシュ 』が役割と人格を巡る物語であるとすれば、本作は主体の主体性、すなわち自由を巡る物語であると言える。Jovianは作家の奥泉光に私淑しているが、彼は我々の共通の師である並木浩一との対談で、並木から「自由とは、自由であろうとすること」との言葉を引き出している。Jovianがここで言う自由も、自由であろうとすることを指しているとご理解頂きたい。

 

あらすじ

ラルフとヴァネロペは、それぞれのゲームで活躍しながら、良好な親友関係を続けていた。ある日、ハプニングにより、シュガー・ラッシュのゲーム筺体が破損。修理部品を手配する為に、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛び込んでいく。そこでヴァネロペは様々な出会いを通じ、自分が本当にやりたいことを見つけ出すのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

前作でも同じことを感じたが、CGが違和感なく感じられるのは個人的には大いなるプラス。現実世界のゲームのCGは余りにも美麗になりすぎたが、一定以上の世代の人間ならドラゴンクエストやファイナルファンタジーの二次元ドット絵に愛着を感じるだろうし、パックマンやインベーダー・ゲーム、ドンキーコングのようなグラフィックでも充分だとさえ言える。CG嫌いが少し弱まってきたのだろうか。

 

前作ではレトロゲームのキャラが多数カメオ出演していたが、今作ではネットのビジネス世界の列強が勢ぞろいしている。日本からは楽天が参戦しており、そのほかにもLineやmixiも目に入ってきた。その他のネットビジネスの巨人であるAmazon,eBayを筆頭にYouTube,Facebook,Google,InstagramにTwitterと何でもござれ。これらのサービスの全てもしくはいくつかを使ったことがある人ならば、思わずニヤリとさせられる描写も多く、なおかつインターネットという世界を直観的に理解できるようなビジュアル世界も構築できている。これは凄いことだ。最も象徴的なのは、ネット世界では距離の概念が“ほとんど”無いのだということを描き出していること。また、IPアドレスによって個を識別しているということ。そしてデータのコピーにかかるコストがほぼゼロであることを良い意味でも悪い意味でも映し出したこと。これらに個人的には最も唸らされた。

 

今作ではラルフとヴァネロペの友情に新たな展開が見られる。自分の役割を受け入れることができたラルフと、やっと自分の役割を果たせるようになったヴァネロペの間に、温度差が生まれるのは蓋し当然でもあっただろう。ラルフは悪役であることを受け入れ、ゲーム外の時間でヴァネロペと変わらない時間を過ごす。しかし、ヴァネロペは決まり切ったレースコースを走ることに厭いていて、変化を求めている。シュガー・ラッシュ内でも他キャラがプリンセスとして接してくるのに対して、対等な関係を求める。ヴァネロペは「自分が自分らしくある」ことを目指したいのだ。それこそが主体の自由である。ゲームの垣根を乗り越えて、自らのアイデンティティを定めようとしてく、このリトル・プリンセスの姿に、一つのグローバル時代の個の在り様を見るようである。

 

また、本作ではディズニー世界のプリンセスが勢ぞろいする。Jovianは一部しか作品は鑑賞していないが、それでも彼女たちが語るプリンセスの条件(予告編で散々流れているのでネタばれにはあたらないだろう)に、我々はいかに個の在り方が非常に限定的、なおかつ与えられた役割を全うすること、もっと言えば非常に受動的な属性で塗り固められているかということを思い知らされ、愕然とする。ヴァネロペがネット世界でゲームの垣根を超えていくこと、麗らかに、しかし、強かに個を主張する様は、繰り返しになるが、グローバル時代の個人の来し方行く末を見るかのようだ。幅広い年代層にアピールできる作品になっている。

 

ネガティブ・サイド

ラルフは元々、the sharpest tool in the box = 頭が切れるタイプではないが、ヴァネロペの旅立ちを阻止したいが為だけに、ここまでやるか?という行為に及ぶ。現実世界でこれをやれば、御用である。ネット世界でこれをやっても、やはり御用である。ラルフは典型的な男のダメな部分をあまりに率直に、飾らずに体現してしまっている。それは共感力の欠如である。「俺は毎日楽しいぜ」と自己主張をしてもしゃーないのである。シャンクとヴァネロペの会話は至って正常なガールズトークで、だからこそラルフには理解ができない。こうした描写はクリシェとさえ呼べるが、これを見せられてしまうと男としてはかなり暗澹たる気分にさせられる。例えばラルフがシャンクに直接、自分がどれほどヴァネロペとの友情に感謝しているのか、それによって生かされているのかを訥々とでもよいから語るような場面があれば、男のダメさ加減の体現描写も少しは薄められたはずなのだが・・・

 

総評

『 レディ・プレイヤー1 』のメッセージは、「外に出ろ、人と交われ」だった。しかし、本作はもっと踏み込んで、「多様な世界に触れろ、変化を恐れるな」と言っているかのようだ。世代によって本作の受け取り方は相当に異なると思われるが、あらゆる見方が正しいのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, アメリカ, ガル・ガドット, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, タラジ・P・ヘンソン, ヒューマンドラマ, 監督:フィル・ジョンストン, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

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