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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

3D彼女 リアルガール 45点
2018年9月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 佐野勇斗 清水尋也 恒松祐里 上白石萌歌 三浦貴大 濱田マリ 竹内力
監督:英勉

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180917034514j:plain

筒井光(佐野勇斗)はアニメをこよなく愛する高校生。統合失調症を疑うレベルで、アニメキャラの声を聞き、対話してしまう。そんな光は、ひょんなことから学園カースト最上位に属する五十嵐色葉(中条あやみ)と付き合うことになる。恋愛経験0の光の運命やいかに・・・

まず、オタクの定義を考えておきたい。漫画、ゲーム、アニメなどのコンテンツにどっぷりとハマる人間=オタク、というのは誤りである。なぜなら、それらのコンテンツの明確な境界線は誰にも引くことができないからだ。ジブリ映画の熱心なファンは通常はオタクとは見なされないが、スター・ウォーズの熱心なファンはかなりの確率でオタクである。特定のコンテンツ内部の線引きはかなりデリケートな問題で、それができれば専門家もしくはオタクであろう。またコンテンツを楽しむ方法も変容してきている。例として、将棋が挙げられる。一昔前までの将棋ファンは、プロの強さを堪能していた。つまり、端的に言えば棋譜を味わっていたわけだ。棋譜を鑑賞するには相応の棋力が必要となるが、今では「見る将」という将棋もしくは棋士を見るだけのファンもかなり多い。というか完全に市民権を得たと言ってもよいだろう。梅田望夫の啓蒙の効果もあるだろう。棋士が昼食や夕食に何を食べるのかで盛り上がるファンも多い。彼ら彼女らの中には将棋ファンもいれば将棋オタクもいる。同じことは野球やサッカーにも当てはまる。様々な人が様々な競技や娯楽を、それを提供する側が意図していなかったような方法で楽しんでいる、というのが今という時代なのだ。一億総オタク化時代とまで言う人もいるが、それはオタクという言葉を現代的な意味で用いるならば正鵠を射た表現であると思う。オタク=なんらかの対象の熱心なファン、というのが現代的なオタク像である。

それでは前時代的なオタクとは何か。その最も忌むべき象徴は宮崎勤であろう。今の10代や20代の中には、全く知らないという者もいるかもしれない。詳しくはググってもらうとして、オタク=社会不適合者、オタク=犯罪者予備軍というイメージは、ほとんどすべてこの男によって形作られたと言っても過言ではない。実際に本作中でも、光はしばしば「引きこもり予備軍」と同級生らから呼ばれる。これも一面では正しい。栗本薫はコミュニケーション不全症候群という言葉でもって極めて簡潔に言い表したが、オタクとは人間以外のものとのコミュニケーションを、人間とのコミュニケーション以上に重視する新人類なのだ。栗本薫は、最後の世代の旧人類にして新人類の理解者であると自らを以て任じていたが、おそらく原作者の那波マオの持つオタクのイメージは、もう少し後の時代のものであると推測する。おそらく漫画『げんしけん』と同時代か、その数年後に形成されたイメージだろう。『げんしけん』の最大の貢献のひとつは、オタクの心理的排外主義を明らかにしたことである。「げんしけん」への移籍を希望する他サークル所属者を、オタクたる笹原や斑目は躊躇し、一般人たる春日部さんはあっさりと受け入れるシーンがそのハイライトだ。本作でも恒松祐里が清水尋也をオタクの輪に呼び込むシーンがあるが、当の光はそこでは積極的にはなれなかった。光は旧時代のオタクでありながら、周囲の環境は新時代、現代になっているところに、本作の弱点が露呈している。

本作の欠点を無理やりまとめるなら、光はオタクとして中途半端な存在でありながらも、オタクの長所はあまり体現できておらず、しかしオタクの短所を具現化してしまっているところであろう。光がいろんな人に分け隔てなく接すると評されるのには違和感しか覚えなかった。なぜならそんなシーンはなかったから。冒頭のおばあさんと猫のシーンは、原作者や脚本、監督は光の心優しさを印象付けるために用意したのかもしれないが、逆効果だ。迷わずおばあさんに駆け寄って、工事現場の人間に大声で救急車を呼ぶように頼む。これがあるべき姿で、学校に遅刻したくないからという理由ですべてを抱え込んで突っ走るのは、心優しいオタクではなく極めて自己中心的なオタクだ。なぜなら社会のルール、規範よりも、自分のルール、規範に忠実だからだ。他者を助けるために、他者に頼る、関わるということを拒否するからだ。親友・伊東からしばしば「リアルに関わるな」という助言をもらうが、これらのキャラクターに感情移入しろと言われても、それは難しい。特に旧時代から現代までのオタク像の変遷を知っている者にとっては。とにかく歯痒くなるからだ。

中条あやみのキャラも弱い。おそらく「もやもや病」の持ち主なのだと思うが、そのことがプロットに有効に作用していない。光を好きになるきっかけはどうでもよい。人は人をとんでもない理由から、または特に大きな理由もなく好きになる。しかし、色葉が光に愛想を尽かしてもおかしくないシーンがあまりにも多すぎる。「つっつんは、なんで私と付き合ってるの?」という質問への光の答えを聞いて、それでも別れないというのは、正直理解ができない。この分野には『電車男』という優れた先行作品がある。であるならば、エルメスが電車男を変えたように、色葉が光を変えていく、または光が色葉を変えていくような、そんなプロットが必要だった。お互いが自然体のままで上手く行くのであれば、その他のキャラはばっさりと切り捨てるぐらいのことはできたはずだ。英勉監督は『トリガール!』ではそれなりに上手くオタクの特徴と魅力を引き出せていたのに、今作はなぜこうも切れが悪くなってしまっているのか。物語のペーシングも悪く、カメラワークにも光るものは無く、キャラクターの魅力も少ないとなると、どうしても辛く点をつけるしかない。キャストはそれなりに知名度も実力もある者がそろっているので、観に行くのであれば、彼ら彼女らを見に行く感覚で劇場に向かえばよいのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンス, 中条あやみ, 佐野勇斗, 日本, 監督:英勉, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

判決、ふたつの希望 90点
2018年9月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アデル・カラム カメル・エル・バシャ リタ・ハーエク クリスティーン・シュウェイリー カミール・サラーメ ディアマンド・アブ・アブード
監督:ジアド・ドゥエイリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180916114703j:plain

元・新聞記者の先輩がSocial Media上で絶賛されておられたことにインスパイアされ、鑑賞。魂を持っていかれるかと思うほどの衝撃を受けた。邦画、外国映画を合わせて、間違いなく年間ベストである。ベスト級ではなくベストと断言させていただく。

レバノン人にしてキリスト教徒、右派政党のレバノン軍団の支持者であるトニー・ハンナ(アデル・カラム)は妊娠中の妻シリーン(リタ・ハーエク)と、どこか幸せそうに、どこか不幸せそうに暮らしていた。ある日、トニーはパレスチナ人技術者のヤーセル(カメル・エル・バシャ)との間でちょっとした諍いがあり、「クズ野郎」と罵られる。謝罪を求めるトニーに、新規の仕事を受注していきたい上司の仲介もあり、ヤーセルはトニーの自動車修理工場を訪れるが、その場でトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」という暴言を受け、思わず激昂し、トニーの腹にパンチを一発お見舞い、肋骨を折ってしまった。これによりトニーはヤーセルを告訴。裁判は、しかし、いつの間にかトニーの思惑を超えた次元にまで到達してしまう・・・

まず、本作の真価を味わうためには、レバノンとその周囲の政治と軍事と歴史についてある程度の造詣が求められるが、新聞や報道で知る程度の知識でも十分に意味は理解できるはずだ。というよりも、むしろレバノンという国固有の事情を全く知らない方が様々な意味やメッセージを本作から受け取ることが容易になるかもしれない。Jovianが受け取った、本作が発しているメッセージは以下の4つである。

1つには、言葉は時に刃物よりも簡単に人を抉るということである。古代ギリシャのヒポクラテスは「医者には三つの武器がある。第一に言葉、第二に薬草、第三にメスである」と語ったとされる。言葉には人を癒す力が宿るのだ。だとすれば、言葉は人を傷つける力を持つことがあるというのは理の当然であるとも言える。『検察側の罪人』で沖野が松倉に対して非常に脅迫的で威圧的な言動をとるが、あれは一にかかって相手の≪犯罪者≫という属性を責め立てるものであった。では、犯罪者ではなく個人の職業を罵ったら?出身地を罵ったら?性別を罵ったら?年齢を罵ったら?名前を罵ったら?国籍を罵ったら?宗教を罵ったら?政治的な思想信条を罵ったら?これらが時として、フィジカルな暴力よりも人を傷つけることを我々は知っているはずである。「シャロンに抹殺されていればな!」という台詞にあるシャロンが誰のことなのか分からないという人は多いだろう。しかし、ロヒンギャ難民に対して「ミャンマー軍に殺されていればな!」などと言えば、相手がどれほど怒り、悲しみ、混乱し、悶え苦しむかは想像に難くないだろう。他者の全人的な存在を否定し、ごく一部の属性を切り取り、それを理由にその相手の死を望むような言葉が許される道理はない。漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』で真田信繁が「人には触れてはいけない痛みがある。そこに触れれば、後は命のやり取りをするしかなくなる」と喝破するシーンがあったが、トニーがヤーセルに投げつけた侮蔑の言葉は正にこれに当てはまる。

2つには、人間は必ずしも理性的に振る舞うわけではなく、感情や欲望のままに言葉を発し行動を起こしてしまう生き物であるということである。哲学者ニーチェの考察を援用させてもらえれば、人間の理性の奥底には欲望が潜んでおり、我々の思考もよくよく分析してみれば欲望に基づいたものであることが分かる。トニーもある時点までは周囲の声に耳を傾けない、ただの頑固親父でしかなかったが、ある時を境に自分の心に向き合い、自分が求めているのは、争いではなく平和的な関係であることを悟る。しかし、一度口から出してしまった言葉はもはや飲み込めない。言葉では自分の心を表せない。そこで行動で自分の気持ちを表す場面がある。人間は愚かな=非理性的な存在ではあるが、それを認め、乗り越えていくだけの強さも確かにある。勇気を持って自分の素直な心に従えば、過ちを改める機会も訪れるのだ。どこかの島国では政治家がひょいひょいとコメントを撤回するが、それをするのならば行動変容、態度変容も同時に見せて欲しいものである。

3つには、人間は非常に狭い範囲でしか物事を考えられない、ある意味で生得的な欠陥を抱えているということである。あいつはパレスチナ人だ、不法難民だ、不法就労者だ、ムスリムだ、だから暴言の対象にしても良いのだ、という論理がトニーの頭の中で一瞬で成立したことは明明白白だ。もちろん、そのような思考回路が成立するための長い期間や環境があったことも考慮に入れるべきではある。それでも、人間はいとも簡単に他者にレッテルを貼る。Jovian自身も「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉を東京の某企業で幾度も聞いた。人口当たりのクレーム発生件数は、明らかに東京>大阪、関東>関西であったにも関わらず・・・ 人間は、理性ではなく、自分の信じたいものを信じるように出来ている。我々は欲望に突き動かされる、無力で非力な存在にすぎないのか。人間が無意識のうちに育てがちな、そして意識的に拡散させる傾向をもつ、差別的な思考については、山本弘が自身の小説内で、おもにロボットやアンドロイドとの対比で描いてきた。『アイの物語』はその中でも白眉であろう。同様のことは栗本薫も評論やエッセイで、主にオタク趣味・やおい趣味擁護の論を展開する中で行ってきていた。人間はほんの少しの肌の色の違いや目の色、髪の色の違いに敏感で、それだけで容赦なく差別に走る、極端に狭い思考に囚われているのだ。もう一度、「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉に注目しよう。「やっぱり」に着目されたい。考えての台詞ではない。既に自分の中に固定観念が存在し、それにたまたま符合するような事態が出来しただけのことなのである。それがこの「やっぱり」の本質であろう。もちろん、この言葉を肯定的なコンテキストやニュアンスで使うことも十分に可能である。だが、貴方も私も「やっぱり○○○は・・・」という思いを抱く、あるいは言葉に出す時、そこに差別的な感情が根付いていないとは言い切れないだろう。人間の持って生まれた弱さなのだ。人間は、現実をありのままに受け入れるよりも、自分にとって受け入れやすい、自分の中に受け入れる土壌のある現実の一側面だけを消化吸収する傾向があるのだ。

4つには、ジアド・ドゥエイリ監督からの「これはレバノンの現実ではなく、あなたの身の回りで起きている事柄なのですよ」というメッセージである。レバノンの状況や周囲の情勢、その歴史に詳しいという人は日本では少数だろう。では、これをアメリカに例えるなら?『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』ような思わぬアシストが転がり込んできたとはいえ、トランプ政権爆誕のニュースに世界が震撼したのは記憶に新しい。それは、ヒラリーが女性層を完全に敵に回してしまっていたという重大なエラーのせいでもあるのだが、他に大きな要因を挙げるとすれば、オバマ政権時代の反動だ。バラック・オバマという黒人議員が大統領職に登りつめることで、アメリカでマイノリティ(実際はマジョリティに近いが)とされてきた黒人およびその他の人種は、社会正義の実現を期待した。ここでいう社会正義とは、恐ろしく端的に言い切ってしまえば、黒人の白人への優越である。しかし、オバマが目指したのは、全人種の平等と公正であった。これにより、民衆の願望とオバマの政治理念の間に齟齬が生じ、アメリカ分断の端緒となったわけである。トランプの出現によってアメリカは The Divided States of America と揶揄されるようになったわけではない。その前政権から、分断の萌芽はすでにあったのだ。公平性の実現によって、自らの権利や利得が侵害されると人は感じるのだ。本作の呈示するメッセージは現代日本にも見事に当てはまる。一部の日本人は、外国人労働者によって日本人の職と所得が奪われていると感じるらしい。東京都心や関西都市部でも、確かにコンビニの店員さんや飲食チェーン店の店員さんに東北および東南アジアの人たちが増えてきた。しかし、彼ら彼女らが日本人の仕事を奪っているわけではない。逆だ。Jovianの後輩に東京都心でカレー屋とラーメン屋のチェーンを営む男がいるが、正社員にもパートにもアルバイトにも、応募してくるのは外国人だらけだと言う。これは彼だけの感想ではなく、同世代。同地域の小規模ビジネス経営者の共通の悩みであるということだ。日本人がやりたがらない仕事を外国人が補完してくれていると見るべきなのだろう。本作のトニーも、ヤーセルに対する負の感情が抑えきれないのだが、彼を外国人、難民、不法就労者という面ではなく、仕事に対して忠実なプロフェッショナルであるという自身とオーバーラップする側面に気がつかされた時、ヤーセルの視界は一変する。我々は彼我の違いではなく、共通点に目を向けるべきなのだ。究極的には、人間は皆、同じ人間なのだという境地を目指すべきなのだ。皮肉なことに、それをまさに究極の能天気さで実現してしまった映画に『インデペンデンス・デイ』がある。宇宙人の襲来を受けたことで、”We can’t be consumed by our petty differences anymore.”という不都合な真実にウィットモア大統領は気付いたのだ。他者を自分と同じく、生きた血肉を持つ人間として見、そして接する。そうすることが如何に困難で、そして如何に実は容易であるのかを本作は非常にドラマチックに我々に見せてくれる。

本作の素晴らしさは、プロットだけではなく、カメラワークや演技、演出全般にも当てはまる。『赤かぶ検事奮戦記』のような関係性が盛り込まれていたりするが、そのことがドラマの主軸にはならない。むしろ、人間は世代、性別や思想信条によって親子であっても、同胞であっても、あっさりと対立してしまうことをあっけらかんと見せつける。主演の男性二人だけではなく、弁護士の対決もサスペンス感たっぷりで、手に汗握る論理と言葉の応酬の裏に、自らの信じる社会正義と紛争の調停への使命感がありありと感じられる。裁判長の威厳と迫力も、アメリカ映画のそれとは段違いである。日本の判事や判事補など、実態はともかくとして、少なくともエンターテインメントの世界では存在感は無に等しい。法廷サスペンス映画としても本作は第一級品である。何よりも役者たちの演技力に脱帽する。レバノンという国が、自らの国の抱える問題や矛盾点をさらけ出し、世界に堂々と配信するという姿勢に感銘を受ける。そして、小規模ながら日本でも配給されることに感謝したい。観て後悔は絶対にさせない、まさに現代人のための映画であると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アデル・カラム, カメル・エル・バシャ, サスペンス, ヒューマンドラマ, フランス, レバノン, 監督:ジアド・ドゥエイリ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

君の膵臓を食べたい(2018・アニメーション版) 40点
2018年9月13日 梅田ブルク7にて鑑賞
声の出演:高杉真宙 Lynn 和久井映見
監督:牛嶋新一郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180916003956p:plain

これは原作小説の良さと実写版映画の良さの両方を、悪い意味で消してしまった残念な作品である。実写版は、主人公の二人に気鋭の若手二人(浜辺美波と北村匠海)を充てることで、いくつかの欠点を抱えながらも傑作となった。であるならば、アニメ版は、実写であるが故の制約を乗り越えなければならない。少なくとも観る側はそれを期待する。そしてその期待は裏切られてしまった。以下はJovianの感想なので、波長が合う人は参考にしていただければ幸いであるし、波長が合わなければ、そんな見方をする人間も世の中にはいるんだな、くらいに思っていただければ幸いである。

まず、何よりもアニメーションの良さとは、写実性から解き放たれることである。だからこそ、あるキャラクターの数年後、数十年後を描くことも容易であるし、その逆にキャラクターの若かりし頃、幼い頃を描くことも可能なのである。実写は人間を使わざるを得ないので、どうしてもそこに解決できない問題が残る。本作をアニメ化するということは、人間では実現できない表現に挑み、成功させなければならないのだが、そんなシークエンスは残念ながら見つからなかった。実写版が原作に付け加えて成功した部分と、それによりキャラクターの成長シーンに違和感を覚えるところなどの解決にアプローチしてほしかった。それにしても、なぜCGでもアニメでも、花火の音は光とほぼ同時に届くのか。本作など、パッと見ただけでも軽く1キロメートルは離れた所から花火が上がっても、音の到達に要する時間は1秒ほどであった。どこの異世界なのだろうか。

「僕」役の高杉真宙は頑張っていたと思う。ただ、「僕」というキャラをあまりにも没個性にしすぎた。実写版にあった、女子だらけのスイーツの店で、周囲の反応に密かに焦り、狼狽していたシーンでも、無表情に抑揚のない声を貫いたのはある意味で称賛に値するものの、それは「僕」というキャラの本質を捉え違えているだろう。『ファイナルファンタジーVIII』のスコールよろしく、「僕」が他人に興味がなく、他人にどう思われているのかについてはどうでもよいという姿勢を貫いているのは、本質的には他者に対する恐れがあるからであり、実際に他者(桜良)との交流を通じて、困惑、動揺、怒りなどのネガティブなエモーションに襲われる。実写版では北村の好演もあり、その点が上手く伝わってきた、しかし、この「僕」はあまりにも無感情すぎたし、ネガティブな感情を見せるのも、他者との交流の経験不足から来るからではなく、単純に呆れているからとしか映らなかったのは大いなるマイナスだ。観る側が「僕」に感情移入するのが著しく困難になるからだ。新人監督と声優初挑戦の若手俳優にそれを望むのも詮無いことではあるのだが。

そして、個人的にもっとも落胆させられたのはラストの共病文庫に関する一連のシークエンスである。詳しくは劇場で体感してもらうしかないが、我々はここで『はじまりのうた』にてキーラ・ナイトレイがヘイリー・スタインフェルドに語った言葉を思い出すべきなのだろう。すなわち、若気の無分別から、露出度が極めて高い服に身を包むヘイリーに、大人の女子たるヘイリーは「確かにあなたはセクシーよ。その服もそそる。けど、それを男の子たちに見せてどうするの?服の中を想像させるのよ」というアドバイスを送るのである。これは映画製作にも当てはまることで、何でもかんでもナレーションしたり、キャラにやたらと説明させるものは、ほとんど間違いなく作品としては二流以下である。もちろん、ラスト一連のアニメーションを楽しむ人もいるだろう。最初に述べたように、これは波長の合う合わない問題でもあるのだ。ただ、実写版が桜という植物の強かさに寄せて、桜良の時を超えるメッセージを仮託したのに対して、今回のアニメ版はあまりにも fantastical な映像でメッセージを届けてきた。それこそがアニメーションにしかできないことだ、と言ってしまえば確かにそうなのだが、桜良の生きた証たるメッセージをあまりにも非現実的なビジョンでもって語るのは、正直テイストに合わなかった。したがって、この点数となる。

東宝シネマズ梅田では、公開からそれなりに時間がたっても、レイトショーのチケットは入手困難な日が続いた。リピーターも多いと思われる。もしも貴方が時間とお金を使って、自分の目で作品の真価を確かめたいという気概ある映画ファンであれば、ぜひ映画館に行って欲しい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 監督:牛嶋新一郎, 配給会社:アニプレックス, 高杉真宙Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

Posted on 2018年9月14日2020年2月14日 by cool-jupiter

はじまりのうた 65点
2018年9月12日 レンタルDVD観賞
出演:キーラ・ナイトレイ マーク・ラファロ ヘイリー・スタインフェルド アダム・レヴィーン ジェームズ・コーデン キャサリン・キーナー
監督:ジョン・カーニー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180914020936j:plain

原題は“Begin Again”、「もう一度始めよう」の意である。もう一度、というところが本作の肝である。

音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)は、かつては敏腕でグラミー賞受賞者もプロデュースしたこともあるほど。しかし、ここ数年はヒットを出せず、酒に溺れ、妻のミリアム(キャサリン・キーナー)とは別居。娘のバイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)を月に一度、学校に迎えに行くだけの父親業も失格の男。ある日、娘を職場に連れて行ったものの、あえなくその場で解雇を宣告されてしまう。失意のどん底のダンは、しかし、とあるバーでシンガーソングライターのグレタ(キーラ・ナイトレイ)の歌と演奏に聴き惚れる。必死の思いで彼女を説得し、ニューヨークの街中を舞台にゲリラレコーディングを敢行していくことで、ダンの周囲も、グレタと恋人のデイヴ(アダム・レヴィーン)にも変化の兆しが見られるようになる。

『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』でも触れたが、アメリカという国は≪セカンド・チャンス≫というものを信じている。本作は、音楽の力を通じで、そのセカンド・チャンスを人々がものにしていくストーリーなのである。燻っていた情熱の残り火を、もう一度完全燃焼させたいと願っているサラリーマンは、日本には大勢ではないにしろ、それなりの数が存在しているはずだ。そんな人にこそぜひ見てほしい作品に仕上がっている。また、娘が難しい年頃になったことで、距離の取り方に難儀するようになった中年の悲哀に対しても、本作は一定の対応方法を提示してくれる。洋楽はちょっと・・・と敬遠してしまうような中年サラリーマンにこそ、観て欲しい映画になっているのだ。

一例を挙げよう。ダンはグレタのギターと歌唱を聴きながら、伴奏のピアノやバイオリンによるアレンジを生き生きと思い描き、歌に命を吹き込むビジョンを抱く。そんな creativity は自分には無縁だと思うサラリーマンも多いだろう。だが待ってほしい。街の中で空き地を見つけて、アパートかオフィスビルが駐車場にならないかと想像を巡らせたことが一切ないという不動産会社や建築・建設会社の社員がいるだろうか。ダンと我々小市民サラリーマンの違いは、スキルや能力ではなく、何らかのポテンシャルに巡り合えた時に、自分を信じられるかどうかである。何らかの可能性ある投資先を見つけられるかどうかではない。小説および映画の『何者』にあった台詞、「どんな芝居でも、企画段階では全部傑作なんだよ」という言葉が思い出される。当たり前といえば当たり前だが、我々はくだらないことよりも素晴らしいものの方を想像しがちだ。その想像を創造につなげていく勇気を持つ人間のなんと少ないことか。そんな小市民たる我々は、ダンとグレタに救われるのだ。

印象的な点をもう一つ。ダンとグレタが互いに素晴らしいと認めるミュージシャン、アーティストを挙げていく酒場のシーンがある。「どんなものを食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」とはジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの言葉であるが、これは「どんな音楽を聴いているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」と言い換えることも可能であろう。ダンとグレタは、互いのプレイリストを二股のイヤホンを使ってシェアするが、これなどは我々が互いの本棚や映画のライブラリを見せ合うのに等しい。我々は普段からスーツに身を包み、自分を偽装することに抜け目がない。しかし、自分が普段から聴いている音楽を人にさらけ出すというのは実は非常に勇気がいることだ。もし、この例えがピンと来ないのであれば、あなたのPCやスマホのブラウザのお気に入りを誰かに見せるということだと思ってみてほしい。ダンとグレタの男と女とは一味違う、もっと奥深いところで響き合う関係に感銘を受けるだろう。

それにしてもキーラ・ナイトレイの歌の意外な上手さに pleasantly surprised である。Maroon 5のアダム・レヴィーンが本職の実力と迫力を見せてくれること以上に、彼女の歌う“Like a Fool”に哀愁と力強さが同居することに感動のようなものを覚えた。恋人もしくは元彼がいかに約束を守ってくれなかったかを詰る歌は無数に存在する。Christina Perriの“Jar of Hearts”、Diana Rossの“I’m Still Waiting”など、枚挙に暇がない。それでもJovianがキーラの歌う“Like a Fool”に殊更に魅了されたのは、単にBritish beautyが個人的な好みだからなのだろうか。

いずれにしても、これは素晴らしい作品である。サラリーマンとして、父として、または夫として、とにかく人生に何らかの行き詰まりを感じている男性はここから何らかの「やり直す勇気」を受け取ってほしい。切にそう願う。そうそう、早まってエンドクレジットが始まった途端に再生を止めたり、画面の前から離れたりせず、最後まで観るように。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, マーク・ラファロ, 監督:ジョン・カーニー, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

Posted on 2018年9月13日2020年2月14日 by cool-jupiter

アントマン 65点
2018年9月12日 WOWOW録画観賞
出演:ポール・ラッド エヴァンジェリン・リリー マイケル・ダグラス コリー・ストール アンソニー・マッキー 
監督:ペイトン・リード

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ちょうど3年前の今ごろ、大阪ステーションシネマで観たんだったか。続編観賞前に復習観賞。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では、キャプテン・アメリカ相手に、一般人があこがれの芸能人やスポーツ選手に会えた時のようなリアクションをとって、あらためて小市民であることを印象付けたものの、実際のバトルではとんでもないインパクトを残してくれたことで、ただの蟻んこサイズに縮むだけの男ではないことをライトな映画ファンも認識したことと思われるが、やはりヒーローはスタンドアローンの映画でこそ輝くものだ。そこで(時系列的には逆だが)本作である。

窃盗罪のために入っていた刑務所から出所したスコット・ラング(ポール・ラッド)は、再就職にも失敗し、娘の養育費の工面にも苦労する。貧すれば鈍すとはよく言ったもので、電子工学の修士号まで有しながら、コソ泥にまで堕ちたスコットは、再び盗み稼業に舞い戻るが、そこで盗み出してきたのは奇妙なスーツだった・・・

第一幕は非常にテンポよく進んで行く。なんだこれはという刑務所シーンからの出所、再出発、挫折、悪い意味でのリスタートまでが一気に、しかし過不足の無い映像での説明をもって進んで行く。時々ナレーションや、キャラクターに冗長に喋らせることで物語を動かす作品もあるが、それが有効なのはだいたいの場合、終盤である。そういう意味では、映画作りのお手本のような作品でもある。正義のヒーローらしからぬ小悪党が、実は痛快な義賊であったことが分かるまでの一連の流れは、シルクの滑らかさを持って我々を運んでいく。

第二幕はスコットがピム博士(マイケル・ダグラス)の捨て駒として、アントマンになり、使命を果たすという自覚に目覚めていくのがハイライトだ。博士の娘のホープ(エヴァンジェリン・リリー)は、かつて父がアントマンとして、母がワスプとして、極秘重大ミッションに従事し、その作戦の成功の裏に、母の犠牲があったことを知らなかった。爾来、父とは距離を置いてきたが、真相を知ることで父と和解する。スコットのことをまったく評価していなかったホープが、父が娘に注ぐ愛を知ったことで、スコットを見る目も変わっていく。父親とは何と不器用な生き物なのだろうか。

第三幕では、アベンジャーズの空飛ぶあの人との絡みもある。ここから、あのヒーロー同士の内戦に繋がっていったわけである。それにしても、アントマンの能力の何と地味なことか。小さくなることそれ自体は、科学的に何やらトンデモナイことであることは直感的に理解はできるが、原子間の距離を縮めるだとかの話になると、ちんぷんかんぷんだ。理解できれば立派な物理学者だろうし、実現したらノーベル賞どころではないだろう。しかし、アントマンがアントマンであるのは、何と言っても蟻とのコミュニケーションにある。漫画の『テラフォーマーズ』を挙げるまでもなく、蟻はパウンド・フォー・パウンドでの最強生物は何か、という議論には欠かせない存在であるし、地上のバイオマスに占める割合も人間並みに大きい。蟻にできることは何か、というよりも、集団の蟻を統率してできないことなどあるのか、という具合に問いを立て直す必要があるほど、集団としての蟻の優秀さは図抜けている。蟻さん達とのコンビネーション、チームワークが本作の大きな魅力で、アベンジャーズの他の面々と異なるところである。

アクションシーンは派手さには欠けるが、斬新さは多い。適度にコミカルなところもいい。主人公たちが小さくなる映画には古典的名作『ミクロの決死圏』があるが、我々の文明の辿ってきた道、そしてこれから進む道は、実は宇宙よりも、ミクロの世界なのではないか。量子コンピュータやナノマシンなどの話題は定期的に世間を賑わすし、それらを題材にしたエンターテインメント作品も陸続と生まれつつある。面白さや映画としての完成度はさておき、『ダウンサイズ』などは好個の一例であろう。

今まさに再撮影(?)が進行中のアベンジャーズ映画第4弾において、アントマンの果たす役割は、その体とは反比例、いや比例とも言えるだろうか、して大きい者になることが期待される。さあ、復習観賞ができたら、チケットを予約して映画館に向かうとしよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, エヴァンゲリン・リリー, ポール・ラッド, マイケル・ダグラス, 監督:ペイトン・リード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

Posted on 2018年9月12日2020年2月14日 by cool-jupiter

累 かさね 70点
2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい
監督:佐藤祐市

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180912022429j:plain

主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫や本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, スリラー, 土屋太鳳, 日本, 浅野忠信, 監督:佐藤祐市, 芳根京子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 80点
2018年9月9日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:スベリル・グドナソン シャイア・ラブーフ ステラン・スケルスガルド
監督:ヤヌス・メッツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909223208j:plain

往年のテニスファンならずとも、ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローの名前ぐらいは聞いたことがあるはずである。日本プロ野球で言えば、村山実や張本勲・・・、さすがに古すぎるか。これは彼ら二人がウィンブルドンの決勝で相まみえる過程とその結末をドキュメンタリー風に仕上げた作品である。『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』に並ぶ、いや超える作品である。あちらはフェミニズムを前面に出してきたが、こちらはテニス史上に残る名プレーヤーたちによる名勝負中の名勝負を前面に押し出してきた。扱う主題がテニスという点では同じでも、ジャンルが異なる映画である。こちらは社会性よりも、むしろ個人の内面や人間性に踏み込んだ内容になっているからだ。この作品で描き出されるボルグやマッケンロー像に、多くの人たちが類似のアスリートや他分野の偉人、もしくは身近な人間を思い浮かべることだろう。これはそういう見方ができる映画だし、そうした見方をされたがっているようにも思う。

ボルグのテニスは、乱暴に一言でまとめてしまえば大河ドラマ的だ。一話一話は抑揚に乏しく、1月に始まり、12月にクライマックスが来るようなものだ。対するマッケンローのテニスは韓国ドラマだ。一話一話が、まるでジェットコースターのように上がり下がりする。Jovianはテニス史上で最も強靭なメンタルの持ち主はシュテフィ・グラフだと信じている。彼女の動じない姿勢、ワンプレーが終わるたびにサッと後ろを振り向いて気持ちをリセットしようとしているかのような立ち居振る舞いに、多くのファンが魅せられ、畏敬の念を抱いてきた。その姿勢の源泉はボルグにあったのではなかろうか。ボルグのコーチ役のステラン・スケルスガルドの「一球に集中するんだ」という言葉に、松岡修造がウィンブルドンで叫んだ「この一球は絶対無二の一球なり!」という言葉を思い出すテニスファン兼映画ファンはきっと多いだろう。余談だが、大坂なおみがセリーナ・ウィリアムスを倒して全米オープン制覇を成し遂げた。偉業である。そこでのセリーナの振る舞いに、多くのファンがマッケンローの姿をダブらせたことだろう。動じないメンタル、少なくともそれを目に見える形で表わさないことが、トッププロには求められることが多い。例えばイワン・レンドルは1986年のウィンブルドンで、ボリス・ベッカー相手に、誤審から崩れた。いや、誤審から崩れたというよりは、誤審を許せなかったことで平常心を失い、あっさりとベッカーに退けられてしまった。しかし、メンタルの崩れからそのまま敗れ去ってしまった悲劇の例としてテニスファンの心に最も強烈に焼き付いているのは、ヤナ・ノボトナを措いて他にいないだろう。1993年のウィンブルドン決勝、最終第3セット、女王グラフを徳俵にまで追い込みながら、凡ミス連発で世紀の大逆転負けを喫した、あの試合である。ことほど然様にメンタルの在り方は、テニスにおいて、そして他の分野においても、勝負を分けるポイントになる。トップレベルなら尚更である。

Back on topic. 本作は、『 アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル 』の系統の映画と評するべきであろう。本作はプレーヤーとしてのボルグやマッケンローのフォームや仕草、話し方をよくよく研究しているとはいえ、テニスの試合そのものを直接的に魅せる手法は取っていないからだ。しかし、そのことが本作のスリルやサスペンスを減じることはいささかもない。なぜなら、本作はヒューマンドラマだからだ。内面に溜めこんだ負の感情をルーティンで抑えつけるのか、それとも蒸気機関車のエンジンよろしく、圧縮された蒸気は定期的に吐き出さなければならないのか。正反対に見える両者だが、その内側には非常に人間らしいドロドロとしたものが渦巻いていることに気付くだろう。そんな彼らが最高の舞台で究極の精神状態で闘うのだ。これ以上の対話は無い。そしてドラマの基本は対話、dialogueなのである。エンディング近くで2人が交わす誠に他愛の無い会話に、我々はこの2人の間に言葉はもはや必要ないのだということを悟るのである。何というドラマだろうか!こうしたことは実は往々にして起こることで、Jovianがパッと例として出せるのはアルトゥロ・ガッティとミッキー・ウォードのボクシング・トリロジーだ。特に第一戦の第9ラウンドは今でもボクシングファンの間で語り継がれる、言葉そのままの意味の伝説的ラウンドである。その後の二人の友情は必然であったと言える。なお、ミッキー・ウォードについては映画『 ザ・ファイター 』を参照されたい。

Jovianが観賞後、劇場のトイレから出てくると、60代と思しきシニアの面々6名ほどが、ホールウェイで感想を熱く語り合っていた。これから観る人もいるはずなので場所はもう少し選ぶべきなのだろうが、それでも実にでかい声で印象的な感想を述べてくれていた。以下、拾ってきた感想だが、いくつかを紹介する。

「いやあ、もう観てるうちにあの役者が本物のボルグに見えてきたで」

「マッケンローの人、よかったわあ」

「あの試合、やっぱり今でも覚えてるし、ホンマに凄かったなあ」

「コナーズ、ちょっとだけやったな」

「マッケンローの、あのえっちらおっちらのボレー、よう似てたわ」

分かる人には分かる感想であろう。我々はボクシングや野球、サッカーでも、もっとこうした上質のエンターテインメントたりうるドラマ映画を観たいのだ。

こうしたことは日本の映画界にも出来るはずだ。小説や漫画の映画化はそれ自体、作品やクリエイターの知名度アップや世界観の拡大、キャラクタービジネスの強化に繋がることではあるが、あまりにも画一的になりすぎてはいないか。広島カープの津田恒美をテレビ映画化した『 最後のストライク 』のような作品が、製作されねばならない。村山聖にフォーカスした『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』、さらには『 泣き虫しょったんの奇跡 』(近いうちに観に行く)など、将棋や棋士をフィーチャーした作品は作られてきている。喜ばしいことである。ある意味で絶頂で引退したボルグに、大棋士・木村義雄を重ね合わせる人も多いに違いない。個人的には『 ミスター・ベースボール 』を上回るような野球人映画を期待したい。しかも実在の人間に焦点を当てて。間違っても『 ミスター・ルーキー 』のような珍品を作ってはならない。できるはずだ、日本映画界よ!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, シャイア・ラブーフ, スウェーデン, ステラン・スケルスガルド, スベリル・グドナソン, スポーツ, デンマーク, ヒューマンドラマ, フィンランド, 監督:ヤヌス・メッツ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

MEG ザ・モンスター 50点
2018年9月8日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイソン・ステイサム リー・ビンビン レイン・ウィルソン ルビー・ローズ クリフ・カーティス マシ・オカ 
監督:ジョン・タートルトーブ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909200235j:plain

  • 一部、原作小説や映画本編に関するネタバレあり

深海でのレスキューミッションのスペシャリストであるジョナス(ジェイソン・ステイサム)は、事故に遭った原潜からクルーの救出を試みるも、何かに襲われ、一部のクルーを見殺しにすることで辛くも脱出。しかし、自身の非情な決断を赦すことができず、一線から退き、タイで酒に溺れる日々を過ごしていた。一方で海洋探査基地のマナ・ワンは、マリアナ海溝の底には固い地盤ではく硫化水素の層であると推測し、さらなる深海の探査ミッションを遂行していた。予想通りに探査船は未知の深海に到達。世紀の大発見を成し遂げる。しかし、そこには探査船を攻撃してくる「何か」の存在があった。このレスキューミッションに、ジョナスが再び立ち上がる。

というのがストーリーの最初の30分ぐらいだろうか。本作は個人的にずっと楽しみにしていた。20年前だったか、小説を読んで「奇想天外な話もあるもんだ」とスケールの大きさに感動したのを覚えている。当時の小説の帯の惹句にも《映画化決定!》みたいな文字は躍っていたと記憶している。あれから20年になんなんとして、ようやっと日の目を見るとは、MEGも原作者のスティーブ・オルテンも思いもしなかっただろう。

本作は映画化にあたって、原作から大きく改変されている箇所がかなりたくさんある。ただし、Jovianも20年前の記憶に基づいて書いているので、不正確なところもあるかもしれない。悪しからずご了承を。さて、まず何が一番大きく変えられているかと言うと、それは冒頭のプロローグである。小説版では、とある肉食恐竜が海に入ってきたところをMEGが現れ、ガブリとやってしまう。読者はこれで度肝を抜かれる。実際にJovianも、「これは明らかにマイケル・クライトンの小説およびそれの映画化を意識した演出的な描写だろう」と思った。さらにクライマックスのMEGとの対決シーン。ここでジョナスは、MEGの歯の化石を刃として使い、小型潜水艇でMEGの体内に入り、中からMEGを切り裂く。MEGを倒せるとしたら、それはMEGだけ。このアイデアにも当時は大いに感銘を受けた。同じような人は他に大勢いたらしく、この手法は某怪獣映画にもその後割とすぐに取り入れられていた。しかし、映画化にあたっては別のアイデアを採用。これはこれで確かに面白い。『ジュラシック・ワールド』の第三作は、広げてしまった風呂敷をどう畳むのかがストーリーの焦点になるはずだが、案外と答えは地球自身が用意してくれているものなのかもしれない。火山がそうだったのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

ジェイソン・ステイサムの元高飛び込み選手というバックグラウンドが大いに活きる作品で、ジョナスはこれでもかと言うぐらいに果敢に海に飛び込んでいく。男の中の男である。さらにジョナスのLove Interestであるスーイン(リー・ビンビン)もmilfyで良かった。海と美女は相性が良いのだ。その子どものメイインも印象に残る。反対にマシ・オカのキャラクターのトシは良い意味でも悪い意味でも日本人というものを誤解させる作りになっている。原作小説の田中の恰好よさの反動だろうか。『 オデッセイ 』や『 グレートウォール 』で見られるように、中国の存在感は映画の中でも増すばかりである。そのことに対してとやかく言いたくなるような人、特に原作小説の大ファンであるというような人は、観ないという選択肢もありかもしれない。それでも、夏恒例のシャーク・ムービーに、久々に傑作ではないが、決してクソではない映画が作りだされた。カネと時間に余裕があるならば、劇場へGoだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アクション, アメリカ, ジェイソン・ステイサム, 監督:ジョン・タートルトーブ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

『 一礼して、キス 』 -採点に難儀してしまう駄作-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

一礼して、キス 15点
2018年9月7日 レンタルDVDにて観賞
出演:池田エライザ 中尾暢樹 松尾太陽 鈴木勝大
監督:古澤健

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909012416j:plain

なんでこんなもんを作ってしまったんですか、古澤健監督さんよ・・・ 確かにあなたは甘酸っぱい青春ものを撮ったり、性のデリケートな部分をちょいと面白おかしく切り取る癖のある映画監督だとは知っていたが、甘酸っぱい青春物にセクシーな要素をちょびっと取り入れると大失敗してしまうというのは『 クローバー 』や『 今日、恋をはじめます 』から、ある程度の予想はしていた。が、これほどの惨事を引き起こしてしまうとは予想外だった。本作を駄作たらしめている要素は数限りなくあるが、大きく分けると4つだ。

1つ目は、感情移入できないキャラクターたち。いきなりキスされて全く無抵抗の杏(池田エライザ)。新部長としての役割を全うしようとしない曜太(中尾暢樹)。そんな曜太を強く諌めるでもなく責めるでもない先輩や同級生や教師たち。デリカシーに欠ける、と言うよりも大人として、人間としてのネジが外れているとしか思えない言動をとる曜太の父親。存在しても、しなくても、特にストーリーに影響を及ぼさないライバル高校の生徒、そして大学の弓道部員たち。いったいぜんたい、これらのキャラクター達にどういうケミストリーを起こしてほしいのか。意図が全く見えないし、面白さがあるわけでも、緊張感が漂うわけでも、ユーモアが生じてくるわけでもない。とにかく意味が分からない。不愉快でしかない。

2つ目は、役者陣の稚拙な演技。これについては何も言うべきではないのだろう。なぜならOKテイクを出したのは監督だからだ。もしくは複数あるはずのショットからベストと思われるものを編集したスタッフの罪とも言える。古澤監督は、もう一度、北野武の言葉によくよく耳を傾けるべきだ。または失敗作の後に必ず名作を世に送り出してきた黒澤明の数々の言葉をもう一度噛みしめるべきだ。

3つ目は、照明と使い方。特に夕陽のシーンを多く使っていたが、もう少し光の角度や影が落ちる方向を考えければならない。絶対にそうはならないだろう、という角度がついた影が多すぎる。せっかくロマンチックな、もしくはセクシーなショットが撮れているところなのに、何故こんな致命的ともいえるミスを犯すのか。映画とテレビ番組の最大の違いは、映画は照明を落とした劇場で大画面で観るもので、テレビは狭い空間で明るいままに見るものである、ということだろう。つまり、映画を観る人は、まず何よりも光の使い方に注目するし、映画を作る側は光の使い方に工夫を凝らさなければならないのだ。その意味では本作は落第の烙印を押されても文句は言えまい。

4つ目は杜撰な脚本だ。台詞と実際の物語の描写や進行が合致しない場面が多すぎる。曜太が「ユキ」に電話で呼ばれて行ってしまうシーンは2度。それを指して「いつもユキさんに呼ばれると言ってしまう」という杏の台詞は、この時点ではやや過剰すぎる反応に見えてしまう。また、一度しかそんなシーンは無かったにもかかわらず、「曜太くん、いつもここにいたから」といった台詞もあった。繰り返すが、曜太がそこに佇立しているシーンは1度だけしかなかったはずだ。それを指して「いつも」というのは、やはり説得力に欠けると言わざるを得ない。それともこれも編集ミスの類なのか。他にも、曜太が誰かを殴るシーンも不自然すぎる。というよりも、これまでに見たどんな映画の殴りのシーンよりも不自然なシークエンスだった。興味のある方だけご覧あれ。

兎にも角にも、採点するのが困難になるほどの駄作である。古澤監督には宿題としてオイゲン・ヘリゲルの『 日本の弓術 』を100回読んで、無我の境地に至ってほしいと思う。一度頭を空っぽにリセットして頂きたい。『 走れ!T校バスケット部 』の出来が心配になってきてしまった。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, F Rank, ロマンス, 日本, 池田エライザ, 監督:古澤健, 配給会社:東急レクリエーションLeave a Comment on 『 一礼して、キス 』 -採点に難儀してしまう駄作-

『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

ジャッジ 裁かれる判事 75点
2018年9月6日 レンタルDVD観賞
出演:ロバート・ダウニー・Jr. ロバート・デュバル ベラ・ファーミガ ビンセント・ドノフリオ ジェレミー・ストロング ビリー・ボブ・ソーント
監督:デビッド・ドブキン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180907112951j:plain

その明晰な頭脳で勝利を追求する敏腕弁護士のハンク(ロバート・ダウニー・Jr.)は娘を溺愛するも、妻とは不仲。そんな彼の元に、母の死を知らせる電話が入る。長年に亘って疎遠だった実家に帰り、判事である父ジョセフ(ロバート・デュバル)、MLBへの夢が断たれ田舎町に引き込む兄グレン(ビンセント・ドノフリオ)、軽度の知的障害を持つビデオカメラ好きのデイル(ジェレミー・ストロング)、幼馴染にして元恋人のサマンサ(ベラ・ファーミガ)とその娘らと再会する。葬儀の後、父ジョセフが20年前に刑務所送りにした男マークが刑期を終えて出てきたその夜、ジョセフが車でマークを撥ねて死なせてしまう事案が発生する。偶然の事故なのか、故意の殺人なのか。ハンクは苦悩しながらも父ジョセフの正義を信じ、弁護に乗り出す・・・

まず、何と言っても二人のロバートの奇跡的な邂逅である。特にデュバルの存在感は凄まじい。本作で彼のキャラクターの持つ属性は多岐に亘る。判事の顔を持ちながらも、厳格すぎる父親の顔を持ち、年齢から来る衰えに戸惑い、怯え、しかし受け容れ、妻の死を嘆きながらも毎日墓参することを前向きに誓う強さを持ち合わせ、そして良き祖父の顔も見せる。これぐらいのキャリアの役者になると、『 ゲティ家の身代金 』のクリストファー・プラマー然り、『 あなたの旅立ち、綴ります 』のシャーリー・マクレーン然り、演じること(Acting)と存在すること(Being)の境目が揺らいでくるようだ。クライマックスの法廷で、ジョセフはその心情を赤裸々に語るが、そこから見えるのは父親としての業である。父という種族は、なぜこうも不器用もなのか。

そしてダウニーJr.の息子としての苦悩、懊悩。アイアンマンでもそうなのだが、父との確執や過去のトラウマに苛まれる役が何故か似合う。当初ジョセフはハンクに弁護を依頼せず、ペーペーの新米弁護士を雇うが、予備審問の時点からヘマを打つばかり。この時のダウニーJr.の演技が見もの。表情を変えずに仕草やアクションで台詞以上に雄弁に語りまくる。ここに我々は、彼の弁護士としての血の騒ぎ以上に、息子として本心では父を救いたくて堪らないとの思いを見出さざるを得なくなる。彼が法廷で流す涙は、悔し涙以上の悔しさがあったのだろう。なぜ自分が娘に注いでいるだけの愛情を、父もまた自分に注ごうとしているのかに思い至らなかった自分への後悔が透けて見える。これは父殺しを通じた、家族の再生の物語なのだ。古今の文学のお定まりのテーマとはいえ、法廷という真実を追究する極めて社会的、公共的な意味合いの強い場で、親子、それも判事と弁護士の対峙と融和が図られるのだから、これを劇的(dramatic)と言わずして何と言おう。

名優同士のぶつかり合いと、それを支える確かな実力を持つ脇役達、さらに細かなサブプロットをも収めた脚本と、それらを見事に統合した演出と監督術。いったん再生すれば、エンディングまでノンストップとなること請け合いの傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ベラ・ファーミガ, ロバート・ダウニー・Jr., ロバート・デュバル, 監督:デビッド・ドブキン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

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