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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 海外

『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

Posted on 2020年6月23日2021年2月23日 by cool-jupiter

暗数殺人 75点
2020年6月21日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:キム・ユンソク チュ・ジフン チン・ソンギュ
監督:キム・テギュン

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心斎橋シネマートで予告編を観た時から気になっていた。これはタイトルの勝利である。暗数という聞き慣れない言葉それ自体が強烈なインパクトを持って我々に迫って来る。そして本編も実に強烈なサスペンスであった。

 

あらすじ

刑事キム・ヒョンミン(キム・ユンソク)は恋人殺しの容疑をかけられたカン・テオ(チュ・ジフン)から、「全部で7人殺した」という告白を受ける。テオが死体を埋めたと供述した場所を掘ってみると確かに白骨死体が発見された。だが、テオは突如、「自分は死体を運んだだけだ」と供述を翻して・・・
 

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ポジティブ・サイド

まずはカン・テオという殺人者を演じたチュ・ジフンの迫真の演技に満腔の敬意を表したい。ADHDなのかと思わせるほどの落ち着きのなさの中に、冷酷冷徹な計算が働いている。テオという男は警察や検察がどういう論理で動き、どういう論理では動かないのかを熟知している。人を食ったような態度はその余裕の表れである。同時に、警察や刑事の個人的な心情や信条を巧みに利用する。狡知に長けたサイコパスで、「他人の命はゴキブリと同じ。けど俺の命は違う」という酒鬼薔薇聖斗のような二重倫理の持ち主である。また『 チェイサー 』の殺人鬼ヨンミンが語っていたように、血抜きに言及するところ、死体の重さを生々しく語るところに、韓国映画と邦画の決定的な差を思い知らされるようだった。銀幕の世界の殺人者をどこか神秘的な存在に描いてしまいがちな邦画と、文字通りの意味で血肉の通った人間として描く韓国映画の違いである。命が鴻毛よりも軽く、理不尽な理由であっさりと奪われる。その背景には、お定まりの悲惨な過去があり、うっかり同情させられそうになる。

 

対するキム・ユンソクの刑事役は、警察という「組織でこそ力を発揮できる組織」の一員にはとても馴染まない男である。検挙数や起訴数がそのまま手柄になり昇進に直結するとなれば、誰も暗数殺人などに興味は示さないだろう。では何故、キム・ヒョンミン刑事はテオの供述する暗数殺人に殊更に執着するのか。明確には語られないが、そこには死別した妻に対する愛情が感じられた。悪気はなく、むしろ善意から「結婚はしないのか?」と声をかけてくる同僚警察。だがヒョンミンにそのつもりはない。詳しい説明はなされないが、彼は妻を忘れていないし、忘れるつもりもない。だが、周囲は自分の妻がまるで最初から存在していなかったかのように扱う。そのギャップが刑事ヒョンミンの静かな原動力になっているかのような描写には唸らされた。最後に彼が語る刑事としての捜査の哲学は、韓国社会全体に向けたキム・テギュン監督のメッセージなのだろう。

 

本作のキーワードの一つに「再開発」というものがある。村落の墓地の再開発、アーバンスプロールによって無秩序になってしまった地域の再開発。そうした社会の姿勢は否定されるべきものではない。『 パラサイト 半地下の家族 』で注目されたエリアは再開発と保存の間で揺れていると報道された。開発は、それがsustainableなものである限り、許容されるべきとは思う。一方で、開発されることによってその痕跡を消し去られてしまう者も確実に存在する。

 

『 トガニ 幼き瞳の告発 』のように、韓国映画は実在の事件から着想を得るのが得意なようである。それはつまり、社会を揺るがすような事件は風化させてはならないという韓国映画人の気概の表れなのだろう。本作も同様である。少し異なるのは、大きなスポットライトを浴びた事件ではなく、そもそも日の目を見なかった事件の深淵に光を当てようという試みであることだ。これは現代日本にとっても関連が無いこととは言えない。COVID-19がどこか他人事のように扱われていた2020年2月~3月であったが、志村けんや岡江久美子といった「名前のある」人物が相次いで死亡したことで、国民全体に危機意識が急激に高まった。逆に言えば、名前のない人間が死亡しても、特に誰も気にしないということである。そして名前とは認知・認識の最たる道具である。余談だが、この「名前」というものに意識を持ちながら本作を観ると、名優キム・ユンソク演じる刑事キム・ヒョンミンにある瞬間に同化することができる。

 

認識されない。それは取りも直さず、その人間がいなくなったとしても社会が回っていくということである。だが、個人のレベルではどうか。御巣鷹山への日航機墜落事故、尼崎の福知山線脱線事故など、被害者の遺族の多くが望むのは「事故を風化させないこと」である。事件の被害者も同じだ。忘却しないこと。あなたという人間が存在したこと、その痕跡を消さないこと。それは推し進めるべきは分断ではなく連帯だという強力なメッセージであると思えてならない。

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ネガティブ・サイド

中盤にヒョンミンが失態を犯して、刑事から交番勤務の警察官に降格および左遷させられるが、ヒョンミンは気にすることなく捜査を継続する。果たしてそんなことは可能なのだろうか?交番勤務でも警察のデータベースにはアクセス可能だが、足を使った捜査は無理だろうし、何より上司に報告の義務があるだろう。それとも韓国の交番勤務の警察官は日本とはまったく違う仕組みで働けるのだろうか。エンドクレジット前の字幕で、キム・ヒョンミン(仮名)は2018年時点でも刑事として捜査継続中とされるが、こうした降格・左遷劇は脚色なのか。だとすれば少々やり過ぎである。

 

『 エクストリーム・ジョブ 』でブレイクを果たしたチン・ソンギュの活躍が少ない。コミカルな役から大悪人まで演じ分けられる遅咲きの役者だが、見せ場がいかんせん少ない。目立たないバディで終わってしまったのが残念である。

 

総評

韓国映画らしい骨太のメッセージと、娯楽映画として申し分のないサスペンスに満ちた良作である。社会の暗部から決して目をそらさないというあちらの映画人の哲学や思想信条を感じる。静のキム・ユンソクと動のチュ・ジフンの演技対決も見応えがある。映画館に足を運ぶ価値がある一作である。 

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ソンベ

先輩の意味である。先=ソン、輩=べ。『 建築学概論 』でも聞こえてきていたように思う。日本語も韓国語も結構な部分を中国語に負っていることは否めない。上下関係に厳しい韓国社会にも日本語と同じように「先輩」が存在する。階級社会の警察なら、辞めても関係は残る、または続くのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, キム・ユンソク, サスペンス, チュ・ジフン, チン・ソンギュ, 監督:キム・テギュン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

Posted on 2020年6月20日 by cool-jupiter

チェイサー 80点
2020年6月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ユンソク ハ・ジョンウ ソ・ヨンヒ
監督:ナ・ホンジン

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『 PMC ザ・バンカー 』のハ・ジョンウの出演作。鬱映画だと聞いていたが、この作品は確かに精神的にくるものがある。

 

あらすじ

元刑事のジュンホ(キム・ユンソク)はデリヘルを経営している。しかし、所属する女性二人が行方をくらます。誰かに売り飛ばされたと直感したジュンホはミジン(ソ・ヨンヒ)使って独自におとり捜査を開始。自店に他店にも記録のあるヨンミン(ハ・ジョンウ)という客をジュンホは追走して捕まえるが・・・

 

ポジティブ・サイド

2000年代の作品だが、やはりここにも『 国家が破産する日 』の傷跡が見える。刑事を辞めて、どういうわけかデリヘル経営者になっているジュンホが、最初は自社の商品を誰かに奪われていると憤慨し、行動を起こす。それが徐々に、社会的な弱者を自分が守らねばという使命感へと変わっていく。警察はあてにならない。所詮は権力者の犬である。ナ・ホンジン監督のそんな信念のようなものが物語全体を通じて聞こえてくるようである。

 

それにしても、ジュンホ演じるキム・ユンソクの妙な迫力はどこから生まれてくるのか。『 オールド・ボーイ 』でオ・デスを演じたチェ・ミンシクもそうだが、一見すると普通のオッサンが豹変する様は韓国映画の様式美なのか。『 アジョシ 』の悪役、マンソク兄のように三枚目ながら、やることはえげつない。こうしたギャップが、決してlikeableなキャラクターではないジュンホを、観ている我々がだんだんと彼のことを応援したくなる要因だ。最初の15分だけを観れば、ジュンホが主役であるとは決して思えない。むしろ、こいつが悪役・敵役なのでは?とすら思える。普通に社会のゴミで、普通に女性の敵だろうというキャラである。何故そんな男を応援したくなるのか。その絶妙な仕掛けは、ぜひ本作を観て体験してもらうしかない。アホのような肺活量と無駄に高い格闘能力も、何故か許せてしまう。なんとも不思議なキャラ造形である。

 

だが、キャラの面で言えばハ・ジョンウ演じるヨンミンの方が一枚も二枚も上手。『 殺人の追憶 』の真犯人はこんな顔だったのではないかと思わせるほど平凡な見た目ながら、その内面は鬼畜もしくは悪魔。このギャップにも震えた。それも『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクター博士のような超絶知性のサイコパスではなく、『 殺人の追憶 』や『 母なる証明 』などのポン・ジュノ作品でも静かにフィーチャーされた知的障がい者を思わせる男で、どこまでが素なのかが全くつかめない。本当に知的に問題のあるキャラかと言うと違う。ミジン(そして、その前の二人も)を自宅に連れ込んで、あっさりと監禁してしまうまでの流れは、非常に知性溢れる犯罪行為である。けれど、警察の取り調べにあっさりと口を割ってしまうところなど、どこか幼い子どもを思わせる素直さ。これほど掴みどころのない猟奇殺人者はなかなか見当たらない。その語り口はどこか『 ユージュアル・サスペクツ 』のケビン・スペイシーを彷彿させる。実在の事件と犯人に基づいているというところに韓国社会の闇と、その闇に多くの人に目を向けてほしいという韓国映画人の気迫を感じる。

 

それにしても韓国映画のバイオレンス描写というのは、いったい何故にこれほど容赦がないのか。ミジンを殺そうと金槌で特大の釘を後頭部にぶち込もうとするシーンは、観ているだけで痛い。『 ソウ 』でとあるキャラクターが壮絶な自傷行為を行うシーンも視覚的に痛かったが、本作はもっと痛い。路上のチェイスでついにジュンホがヨンミンを捕らえ、マウント状態からアホかというぐらい殴るシーンも痛い。邦画にありがちな口から血がタラリといったメイクや演出ではない。顔が腫れる、出血する、傷跡が残る、痛みで目がチカチカする。殴られる側の痛みが観る側にまで伝染してくるかのような描写だ。

 

鬱映画とは聞いていたが、エンディングも救いがない。まさしく韓国版『 セブン 』である。奇しくもこれもケビン・スペイシーか。猟奇殺人者やシリアル・キラーの恐ろしいところは、殺人行為そのもの以上に、何が彼ら彼女らを殺人に駆り立てるのかが不明なところにある。弁護士との接見シーンでヨンミンが性的に不能だから、その腹いせに女性を殺したのだという説が開陳される。単純で分かりやすい説明だ。だが、ヨンミンの甥っ子の負った頭の大怪我はいったい何なのか。ヨンミンが女刑事の“性”を揶揄するシーンは何を意味するのか。宗教的なシンボルを半地下の部屋の壁に描きたくったのは、いったいどういう衝動に突き動かされたからなのか。ヨンミンという殺人鬼の内面に迫ることなく閉じる物語は、我々に圧倒的な無力感と敗北感を味わわせる。だが、その先に一縷の望みもある。社会の底辺に生きる者同士の連帯を予感させて、物語が終わるからだ。後味の悪さ9、光の予感1である。それでも光は差しこんでくると信じたいではないか。

 

ネガティブ・サイド

ギル先輩とその仲間たちとジュンホの絡みが欲しかった。何の説明も示唆もないままに、「またお前が何かやりやがったのか!」という態度は、下手をすると偏見や差別になりかねない。もちろん偏見や差別に対する糾弾の意味合いも本作には込められている。けれど、偏見・差別は関係性が全く存在しない相手との間に発生する傾向のあるものだ。彼らの態度は、悪を許すまじというある意味で度を超えた正義感の持ち主であるジュンホという人間へのまなざしではなく、デリヘル経営者という社会のはみ出し者への視線に感じられた。

 

ジュンホの部下であるチンピラは最後はどこに行った?素晴らしく良い顔の俳優である。この男の活躍をもっと堪能したかったのだが。

 

クライマックスの展開の引っ張り方が少々強引かつ冗長だった。検事から12時間以内に証拠を出せと言われて、タイムリミットが設定されているうちはよいが、それを過ぎてしまった後の流れとテンションが中盤から後半のそれに比べて、やや落ちた。

 

総評

傑作と評して良いのかどうかわからないが、それでも最後までハラハラドキドキを持続させる良作である。グロ描写や暴力描写が多めなので観る人を選ぶ作品だが、社会矛盾を穿つメッセージ性と、社会的弱者を救うのはまた別の社会的弱者という希望とも絶望とも取れる内容は、これまた観る人を選ぶ。サスペンスの面だけ見れば、迷うことなく傑作である。この緊張感はちょっと他の作品では得られない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

アニ

日本語では「いいや」ぐらいの軽い否定語。アニアニ=いやいや、も韓国映画ではちらほら聞こえてくるような気がする。外国語学習のコツの一つに「はい」、「いいえ」と1~10の数字をまずは覚えろ、という教えがある(ボクシングジャーナリスト・マッチメーカー・解説者のジョー小泉)。なかなか機会は訪れないだろうが、韓国旅行や韓国出張の際に土産物屋であれこれ売りつけられそうになったら「アニアニ」と言ってやんわりと断ろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, A Rank, キム・ユンソク, サスペンス, スリラー, ソ・ヨンヒ, ハ・ジョンウ, 監督:ナ・ホンジン, 配給会社:アスミック・エース, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

Posted on 2020年6月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 70点
2020年6月14日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン エマ・ワトソン フローレンス・ピュー ティモシー・シャラメ
監督:グレタ・ガーウィグ

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Jovianと同世代(不惑)か、それ以上の世代ならば、ハウス名作劇場の『 愛の若草物語 』を観ていたことだろう。まさかグレタ・ガーウィグが同作品を参照していたとは思わないが、豪華なキャスティングにもかかわらずマーチ四姉妹の特徴はしっかりと保たれていた。

 

あらすじ

ジョー(シアーシャ・ローナン)は小説家志望。長女メグ(エマ・ワトソン)や三女エイミー(フローレンス・ピュー)、四女ベス、そして向かいに住む裕福なローレンス家の長男ローリー(ティモシー・シャラメ)らと、南北戦争時代の陰鬱なアメリカで、それでも健気に前向きに生きていこうとするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメの共演となると『 レディ・バード 』を思い出す。実年齢からすればハウス名作劇場のような10代半ばを演じるのは厳しいはずだが、それを感じさせない。フローレンス・ピューとベス役のエリザ・スカンレンの童顔の果たす役割も大きいだろう。若草物語と言えば、どうしたって姉妹の少女時代の話がメインになる。同時に原題のLittle Womenというのも、「私たち姉妹は小さいけれども立派な大人の女性なのだ」という意味を内包している。そうでなければ Little Sisters や Little Girls というタイトルがつけられていたはずだ。そうした姉妹のビルドゥングスロマンを、本作はジョーの15歳時代と22歳時代を交互に行き来することで、効果的に、そしてユニークに描き出した。

 

効果的に、というのは『 若草物語 』の背景をくどくどと説明しなかったところ。『 スパイダーマン ホームカミング 』でも、蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを手にするも、自らの不注意でアンクル・ベンを死なせてしまって・・・という誰もが知っているオリジンをばっさりと省略したところが潔かった。それと同じで、いきなりジョーが作家として世に旅立とうとするところから本作は始まる。これでいいのだ。

 

ユニークというのは、ある意味で観る側を置いてけぼりにしてもかまわないぐらいの勢いで二つの時間軸を何の前触れも説明もなく移動するところである。もちろん、ジョー15歳の時点ではあるキャラクターが存在して、ジョー22歳時点ではあるキャラクターが存在しないなど、『 若草物語 』に関する事前の背景知識があったり、キャラクターたちの話している事柄をすぐに理解できれば、目の前のシーンが“いつ”なのかを把握するのはたやすい。そうでなければ多少難しい。だが、それでもよいのである。この少々ややこしい時間の描写方法により、ストーリーの虚実皮膜の間が徐々にblurryになっていく。これがクライマックスの演出で効いてくる。これはなかなかの仕掛けである。

 

ローラ・ダーンはやはり『 ジュラシック・パーク 』のイメージが強かったが、『 マリッジ・ストーリー 』で完全に独立不羈の女性へと飛躍して、今では完全なる肝っ玉母ちゃんである。『 ジョジョ・ラビット 』のスカジョも良かったが、あちらはママ。こっちは母ちゃん、という感じ(本人は「ママと呼んで」とローリーに言っていたが)。

 

それでもパフォーマーとしては主役のシアーシャ・ローナンが光っていた。抑圧された時代を雄々しく生きる強い女性・・・ではなく、抑圧された時代に打ちのめされることで強くなった人物という印象を強く受けた。生涯をかけて打ち込めるもの、それが彼女にとっては物語や小説を執筆することだった。冒頭で「辛いことが多かったから、私は楽しい物語を書く」といった趣旨のジョー・マーチの言葉が映し出されるが、彼女にとって物語をつづることは、自分の人生を追体験することであり、経験することのなかった人生を生きることであり、生きていた人物が確かに「生きていた」ということを証明するための試みでもある。そして、それはそのまま今の時代に『 若草物語 』を再解釈しようとしたグレタ・ガーウィグ監督の意図と重なる。想像力があり、聡明で、時代によって規定される人間の枠組みにはまらず、孤高の生き方を目指すが、孤独に対して怯えや悲しみの心情を隠すことなく素直に吐露することもできる。どこまでもリアルなジョー・マーチ像が、確かにシアーシャ・ローナンによって生み出された。女性のみならず、男性も、子どもも、高齢者をエンパワーしてくれる、力強いパフォーマンスである。

 

ネガティブ・サイド

時代背景に関する説明がもう少し欲しかった。キャラクターの説明をばっさりと省略した点は評価に値するが、それと同じように時代背景や当時の社会の空気の説明までも省いてしまうのは賛成しない。国が内戦状態であることや、家父長の不在、独身女性の不遇なども、もう少し語れた、あるいは描写できたはずだ。

 

出版社の編集長に、女性キャラクターの行く末のあれこれを指示させるやり方はあまり上手いとは言えない。これはおそらくグレタ・ガーウィグ監督自身の経験が投影されているものと推測する。過去の人間の声を現代人が代弁することは良い。だが現代人の声を過去の人間に代弁させるのには少々違和感を覚える。

 

エマ・ワトソンとフローレンス・ピュー、特にピューにもっと見せ場が欲しかった。一番の見どころがジョーとの喧嘩とは・・・。さらにはclichéとしか言えない仲直りを見せつけられては・・・。『 ミッドサマー 』の時のように、精神的な脆さ、不安定さを引き出すことができていれば、後半の幸せなシーンがより際立ったように思う。シアーシャ・ローナンが主役ではあるが、その主役を最も輝かせるべき姉妹は、フローレンス・ピューであるべきだった。

 

総評

若草物語を知っている人なら劇場へ行こう。若草物語を知らないなら、最低限のあらすじやキャラクターだけを予習して劇場へ行こう。生きづらさを抱えていたり、過去に囚われて前になかなか進みだせない。そう表現してしまうと大仰だが、誰もがどこかで何かを間違えて、そのせいで目の前の現実に向き合えないことがある。そうした現実に、物語の力で向き合ったジョー・マーチの姿は、観る者に勇気を与えてくれる。豪華女優陣が勢ぞろいしているからではない。単純に良い作品だから、ぜひ劇場へ行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be hard on ~

三女エイミーの台詞に、“The world is hard on ambitious girls.”というものがあった。「若い女性が大志を抱くと、世間の風当たりが強くなる」のような意味である。be hard on ~=~にきつく当たる、のような意味である。いじめに少し近いか。学校でのいじめはbullyだが、「職場でマネージャーにいじめられて、腹立つ!」は“I’m so frustrated because the manager is hard on me!”のようになる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ワトソン, シアーシャ・ローナン, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, フローレンス・ピュー, 伝記, 歴史, 監督:グレタ・ガーウィグ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

ハーフェズ ペルシャの詩 60点
2020年6月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:メヒディ・モラディ 麻生久美子
監督:アボルファズル・ジャリリ

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近所のTSUTAYAでジャケットだけ見て借りてきた。あるすじも読まなかった。ジャケ買いならぬジャケ借りである。それにしても難解であった。一応、宗教学や比較人類学をやっていたJovianにも理解が及ばない部分が多くあった。

 

あらすじ

シャムセディン(メヒディ・モラディ)はコーランの暗唱者“ハーフェズ”の称号を得たことで、大師の娘ナバート(麻生久美子)がチベットからやって来た際に、家庭教師に任命された。コーランの教えを読み聞かせするうちに、シャムセディンはナバートに恋心を抱く。だが、それは許されぬ恋慕であった・・・

 

ポジティブ・サイド

シリアスなラブロマンスのはずだが、冒頭のシーンから笑ってしまった。シャムセディンと詩塾の先生との対峙が、まるで『 パティ・ケイク$  』や『 ガリーボーイ 』のストリート・ラップバトルと重なって見えたからだ。言葉と言葉の格闘技、詩歌の空中戦である。笑ってしまったと同時に唸らされもした。詩文を即座に暗唱するのは、記憶力に拠るものではなく熱情によるものだということが、このシーンでは強く示唆されていたからである。頭で考えてみると答えはXだが、心で考えてみると答えはYになる。そうした時に、人はどうすべきなのか。それが本作のテーマであることが、あらすじを読まずとも冒頭のシーンだけで伝わってきた。この監督は手練れである。

 

面白いなと思うのは、同じ名前を持つ二人の男という設定だ。厳格なシーア派優位のイラン・イスラム社会では、一昔前の日本など比較にならないほど家父長および共同体の長の権限が強い。婚姻も裁判も、法治主義国家ではなく人治主義国家のそれである。個人の自由がない社会で、共同体の規範からはみ出る者には容赦の無い排除の論理が適用される。このあたりは、程度の差こそあれ、日本も「人の振り見て我が振り直せ」であろう。片方の男は妻を愛しながらも、妻に愛されない。片方の男は、女を愛しながらも女への愛を忘れるように強要される。どこでもある物語だが、ハーフェズのシャムセディンが辿る忘却の旅は、行く先々で様々な社会矛盾をあらわにしていく。

 

なぜ処女信仰(という名目で、実際は女性への差別と抑圧に他ならない)をここまで大っぴらにするのか。愛を忘れるために処女7人に儀式に協力してもらうというのは、人の心をコントロールしたいという願望か、あるいはコントロールできるという過信の表れだろう。そしてジャリリ監督は、ある意味でそうしたイスラム社会の因習を嗤っている。それもユーモアのある笑いではない。毒を含んだ笑いだ。この村の処女は私だけだ、と語る老婆の一連のシークエンスは、悲劇であると同時に喜劇である。外国人(日本人)キャストを起用したのは、本作を諸外国に売り込むためで、その目的の一つは外部世界の視線を自国に集めることだろう。近年、レバノンが『 判決、ふたつの希望 』や『 存在のない子供たち 』を世に問うているように、2000年代のイランも、自国の矛盾を外部に観てほしいと感じていたのだ。

 

詩想の面でも本作はとても美しく、また力強い。数々の言葉が空中戦、銃撃戦のように繰り広げられるが、その中でも最も印象に残ったのはハーフェズのシャムセディンの「あなたの歩いた道の砂さえ愛おしい」というものだった。これは『 サッドヒルを掘り返せ 』のプロジェクト発起人の一人が「クリント・イーストウッドの踏んだ石に触れたかった。理由はそれだけで十分だ」という考え方に通じるものがある。クリミア戦争の前線の野戦病院では、ランプを手に夜の見回りをするナイチンゲールの影にキスをする兵士がたくさんいたと言う。このような間接的なものへの愛情表現は、一歩間違うと下着泥棒などに堕してしまうが、だからといってその気持ち、心の在りようまでは決して否定はできない。宗教でも哲学でも道徳でも、なんでもかんでも行き過ぎてしまうと有害になる。まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。なかなかに複雑な悲恋であり、なおかつ恋愛の成就である。

 

ネガティブ・サイド

イラン社会に関する説明があまりにも少なすぎる。チベット帰りという設定のナバートにコーランの読み聞かせの家庭教師をつけているのだから、コーランの文言以外にも、イラン社会の風俗習慣についてもっと語るべきだった。あるいは公序良俗についてもっと映像をもって説明すべきだった。

 

「シャムセディンが二人いる、二人に見える」というセリフが繰り返し子ども達などによって放たれるが、これも分かりにくい。シャムセディンはおそらく男性性の象徴(性的な意味ではなく)で、それが分裂している、あるいは統合失調症的症状を呈していると言いたいのだろうか。または、男性性が社会・文化・宗教によって引き裂かれている、システムの一員としてのパーソナリティと独立した個人としてのパーソナリティに分裂していることの表れなのだと思うが、どちらのシャムセディン自身の交友関係も描写がないので、内面の事象なのか外面の事象なのかが分かりづらい。というか分からなかった。

 

鏡というのは比喩的なアイテムであるが、それを処女に拭いてもらうことの意義もよく分からなかった。ペルシャ語やペルシャ文化が精通すればよいのだろうか。最大の問題は、ハーフェズという歴史上の詩人が現代イランでどのように受容され、評価されているのかが観る側に伝わってこないところだ。『 ちはやふる -上の句- 』の中で1千年前の藤原定家の歌が唐紅のイメージで描写されたように、ハーフェズの詩の世界観を、ほんの少しで良いので映像や画像で表してみてほしかった。そうすれば、言葉ではなくイメージで、ハーフェズの詩歌の影響力や遺産、その功績の大きさなどが多少なりとも伝わったのではないか。

 

総評

なんとも解釈が難しいストーリーである。はっきり言ってちんぷんかんぷんな部分も多い。ただし、一つ言えることは、今後の日本社会を考えるうえでヒントになる作品であるということである。『 ルース・エドガー 』と同じく、異文化育ちながら日本に“帰って来る”者たち(大坂なおみetc)は、今後増えることはあっても減ることは無い。そうした者たちをどのように受け入れるのか。問われているのそこである。そうした意味で本作を観れば、個の尊重と共同体の維持のバランスがいかに難しいかが肌で感じられるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント語学学習レッスン

今回は勉強法である。麻生久美子は『 おと・な・り 』でもフランス語を熱心に勉強していたが、大人(おおむね20歳以上)の語学学習はインプット→アウトプットが原則である。耳で聞く、文字を読む、それを声に出す。このサイクルを崩してはならない。もしもあなたの通う英会話スクールや、あなたが使っている教科書・参考書が「四技能をバランスよく学習する」と謳っていれば、勉強法を変えた方が良いかもしれない。語学をやるなら、リスニング50、リーディング20、スピーキング20、ライティング10ぐらいの配分で良い。中級者以前ならなおさらである。

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Posted in 国内, 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, イラン, メヒディ・モラディ, ラブロマンス, 日本, 監督:アボルファズル・ジャリリ, 配給会社:ビターズ・エンド, 麻生久美子Leave a Comment on 『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

『 シラノ恋愛操作団 』 -韓流・大人のビタースイート・ロマンス-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

シラノ恋愛操作団 65点
2020年6月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:オム・テウン イ・ミンジョン パク・シネ チェ・ダニエル
監督:キム・ヒョンソク

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『 オズの魔法使 』で満たされた心をどう鎮めるか。それは普通の現代映画を観ることである。そこで本作をチョイス。予想通り、期待通りの普通~標準以上の作品であった。

 

あらすじ

小さな劇場で俳優をしているビョンフン(オム・テウン)は、副業としてシラノ・エージェンシーを営んでいる。つまり、クライアントに演技指導をして恋愛を成就させるのだ。ある日、訪れたサンヨン(チェ・ダニエル)の依頼にビョンフンは驚いた。サンヨンが恋焦がれる相手は、かつての自分の恋人だったのだ・・・

 

ポジティブ・サイド

シラノ恋愛操作団のシラノとは、言わずと知れたシラノ・ド・ベルジュラックである。『 累 かさね 』でも触れたが、顔の美醜は恋愛においては大きなアドバンテージにもディスアドバンテージにもなりうる。だが、そんな恋愛模様はもう見飽きた。韓国映画お得意の過去に囚われる男と未来に目を向ける女の物語を堪能しよう。

 

まず、恋愛操作団を作ってしまおうという発想が面白い。日本の少女漫画を映画化した作品は、だいたい主人公とヒロインの両方に頼れるサポート役がいて、そいつらは決して主人公たちの領域に入ってこない。くっつくとしても自分たち同士がくっつく。いや、主役の領域に割り込んでくるキャラクターもいるが、それも必ず予定調和的に退場していく。名前を挙げるのが憚られるほどに、そうした作品は数多い。そうではなく、カネで恋愛サポーターを買うというのが、いかにも即物的・現世利益重視の韓国らしい。勘違い召されるな。彼ら彼女らはカネに汚いのではない。自分の願望を成就させたいという気持ちにひたすらに忠実なだけである。そうしたカネは持っていても恋愛の手練手管はちょっと・・・という一歩間違えれば非常に剣呑なキャラクターをチェ・ダニエルは見事に好演。そして、彼が恋焦がれる美女を演じたイ・ミンジョンは、ハリウッドにも進出しているイ・ビョンホンの細君。それにしてもイ・ミンジョンにせよぺ・スジにせよぺ・ドゥナにせよチャン・ジヒョンにせよ、コリアン・ビューティーには、ちんちくりんは存在しないのか。日本では広瀬すず、土屋太鳳、杉咲花、浜辺美波など、160cm未満ばっかりである。何故だ、遺伝子レベルでそこまで差はないはずだが。あと、コリアン・ビューティーの共通点として、おしとやかさゼロという特徴がある。これまた大和撫子幻想を夢見ていると、本作のイ・ミンジョンにはまったく共感できないだろう。というか、美人であるがゆえに余計に憎たらしくさえ思えてくるだろう。そう思わせない存在感と迫真性がイ・ミンジョン演じるヒジュンというキャラクターには備わっていた。

 

『 建築学概論 』のオム・テウンが、本作でも良い味を出している。劇中でパク・シネ演じるシラノ・エージェンシーの同僚が「男は女の過去の相手が気になるけれど、女は男の次の相手のことが気になるものよ」と言うくだりには感銘を受けた。男女の恋愛観の違いを「男は名前を付けて保存、女は上書き保存」とPC用語で説明したフレーズもすっかり定着したが、パク・シネの上の言葉も、もっと真剣に捉えられても良いのではないだろうか。初恋は実らないものであるが、やけぼっくいも実らない方が多いのではないか。やけぼっくいには火が付き易いと言うが、火が付いてしまっては実るものも実らない。大人になるということは、ある意味では可能性を狭めていくことである。現実を受けいれるということである。野坂昭如だったか誰かが雑誌の恋愛相談で、「男の最後の仕事はふられてやること、忘れられてやること」みたいなことを言っていた。至言であろう。韓国女性と大和撫子に大きな違いがあったとしても、韓国男性と日本男性に大きな違いはない。そう、ふられてやろう、忘れられてやろう。女が上書き保存できるのは、男たちが最後の仕事を全うし、死屍累々たる惨状の歴史を紡ぎ続けているからだ。本作は基本的にはラブコメであるが、人間の本質をしっかりと突いている。

 

ネガティブ・サイド

ヒジュンの外見的な魅力は問題ない。問題は、彼女の性格や人間性である。はっきり言って、彼女と主人公のビョンフンの過去のいさかいの原因には、共感できる人と反感・憎悪を抱く人に二分されるだろう。極端なキャラクター造形は物語作りの基本ではあるが、この展開はかなりの人の心をえぐるだろう。

 

チェ・ダニエル演じるサンヨンも、財力にモノを言わせるなら、もっといろいろな使い道があるだろう。ファンドマネージャーというと『 国家が破産する日 』を思い出すが、地獄の沙汰も金次第である。美容院やら服装やらクルマやら貴金属にカネを使ってみたものの、恋愛が上手く行かなかった。だからこそ最後の最後にシラノ・エージェンシーにたどり着いた。そんな因果を描いてほしかったと思う。

 

クライマックスへの入り方も少々間延びし過ぎの感がある。「ふられてやる、忘れられてやる」のが男の最後の勤めであるならば、もっと切れ味よくスパッと介錯してやれよ、とキム・ヒョンソク監督に言ってやりたい。

 

総評

大人が色々とこじらせると、それだけでドラマになる。愛するから信頼できるのか、信頼しているから愛せるのか。そんなことを考えるのも乙なものである。別にどちらが正解というものではない。ただ、愛さなかったことを後悔する人間はいないだろうが、信頼しなかったことを後悔する人間は星の数ほどいるだろう。そうした経験の持ち主なら、本作はそれなりに楽しめるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

an old flame

古い炎、つまりはやけぼっくいである。しばしば rekindle an old flame = やけぼっくいに再び火をつける、のような使い方をする。賢明なる諸賢が rekindle an old flame をしないことを祈る。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イ・ミンジョン, オム・テウン, チェ・ダニエル, パク・シネ, ラブロマンス, 監督:キム・ヒョンソク, 韓国Leave a Comment on 『 シラノ恋愛操作団 』 -韓流・大人のビタースイート・ロマンス-

『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

Posted on 2020年6月12日2020年8月16日 by cool-jupiter
『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

オズの魔法使 100点
2020年6月9日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジュディ・ガーランド
監督:ビクター・フレミング

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『 ジュディ 虹の彼方に 』が公開されてからわずか3か月。まさか本作を映画館で観ることができる日が来るとは。コロナに感謝・・・とは口が裂けても言えないが、それでも1990年代にアメリカで『 スター・ウォーズ 』のオリジナル三部作(リマスター版)が劇場でリバイバル上映された時は、多くのファンが熱狂したのだろう。平日の朝だったためか、Jovian以外は女子大生二人組とおじさん一人、おばさん一人しか見当たらなかった。それでもTOHOシネマズには感謝しかない。

 

あらすじ

カンザスに暮らすドロシー(ジュディ・ガーランド)は、虹の向こうにより良い世界があることを夢想していた。ある日、竜巻がカンザスを襲う。風で飛ばされた窓で頭を打ったドロシーは、気が付くと魔法の国オズに飛ばされていた。そして、ドロシーの家は西の悪い魔女を下敷きにしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

陳腐な感想であるが、ジュディ・ガーランドが歌う“Over the Rainbow”が素晴らしい。フィルムそのものがまだまだ貴重な時代、ロングのワン・カットで一気に歌い上げる。そして歌い終わった直後、すぐそばでたたずむトトにキスをする。これは監督の意図した演出なのか、それともジュディ・ガーランド自身の自発的な演技なのか。ここではないどこかを夢想した少女が、家族ではなく犬によって現実に引き留められた瞬間である。このシーンがあるからこそ、“There is no place like home.”と祈るシーンが際立つ。

 

そのトトの演技も堂に入ったものである。犬の演技としては『 野性の呼び声 』などは問題にならない(というか、あちらは人間が演じている)。『 パターソン 』のネリーと互角だろうか。籠から飛び出すシーン、窓からドロシーの部屋に飛び込んでくるシーン、魔女に向かってキャインと吠えるシーン、全てが絵になる犬である。

 

ドロシーを出迎えるのがマンチキンというのもいい。言ってみればミゼットの町なのだが、『 ウィロー 』と同じく、現実的な非現実さを生み出すとともに、社会のdiversityとinclusivenessへの遠回しな批判にもなっている。元々のミス・ガルチもカンザスの大地主で土地の者に対して横暴に振る舞っていたことが伺い知れるが、西の悪い魔女もマンチキンを搾取していたことは想像に難くない。そういう見方が原作小説の発表から100年が過ぎた今も出来るのだ。

 

ミュージカルとしても特級品である。特に“We’re off to see the wizard”のシークエンスは、役者の演技と楽曲のリズムとクオリティが高いレベルで融合している。ドロシーの10代少女の躍動感のあるステップ、かかしのふにゃふにゃなステップ、ブリキ男のカクカクとしたステップ、臆病なライオンのネコ科を思わせる意外としなやかな足さばきから生まれるステップをYouTubeで観よ。ジュディ・ガーランドは赤いハイヒールで華麗なステップを踏んでいる!その他のキャストのダンスも見事。先日、『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でカイロ・レン/ベン・ソロを卒業したアダム・ドライバーがコレオグラファーとの議論で「カイロ・レンはそんな動きはしない」とこだわりを見せたと言われている。演技者として絶賛されているアダム・ドライバーのこだわりを100年近く前の役者たちが持っていた、あるいは監督のフレミングがしっかりとそう映るように演出したということに畏敬の念を抱く。

 

“If I only had a brain”、“If I only had a heart”、“If I only had the nerve”の3曲のインパクトも強烈である。特にかかしとブリキ男のダンスは幼少の頃に何度も観ては一緒に踊っていたように記憶している。そして、ブリキ男の左右に体をグイーンと傾けて、倒れそうだけれど倒れないという演出は、マイケル・ジャクソンのゼロ・グラビティとして80年代に蘇った。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンが音楽と映像をパーフェクトに結び付けた新時代である。MJのゼロ・グラビティのインスピレーションは、本作にあったと言われている。それだけ象徴的な映画なのである。

 

色々と記憶に残るシーンが多い本作だが、最も強烈な印象を残しているのは、やはり悪い西の魔女だ。緑の肌に漆黒の衣装、神出鬼没で炎とともに現れ煙とともに消えていく。そしてほうきに乗って、ブルーインパルスもかくやのcontrailを引いていく。その笑い声と笑い方はジャバ・ザ・ハットのペット、コワキアン・モンキーに受け継がれている。多くの兵士(『 スター・ウォーズ 』でルークやハン・ソロ、チューバッカがトゥルーパーに変装するネタ元も本作だ、間違いない)を従えながらも、しかし死亡するや否や、その部下たちはドロシーたちに感謝の念をもってひざまずく。これもまた当時の資本家と小作人の関係を戯画化し、さらに批判しているシーンである。こうした社会的なメッセージがそこかしこにあるのだ。また魔女の弱点が水というのもいい。M・ナイト・シャマランの『 サイン 』も、本作にインスパイアされたのではないのかと勝手に想像している。また、久々に“Over the Rainbow”とセットで本作を観て、Trouble melts like lemon dropsという歌詞に魔女の死に様が暗示されていることに気づいた。なるほど。

 

大道具や小道具、美術も良い仕事をしている。かかしやライオン、ブリキ男の衣装や顔のメイクアップにはケチのつけようがないし、マンチキンの国の建物や道は今見ても張りぼてには見えない。遠景が描かれた絵は、当時の遠近法と風景描写技術の粋だろう。ドロシーのパーティーが遠くに歩いていくたびに“We’re off to see the wizard”が歌われるが、その歌の切れ目と一行がカーブを曲がっていく、あるいは坂道を下っていくのが見事にシンクロしていて、なおかつ遠近法を壊さないギリギリのラインにもなっている。それらを完璧に収めたカメラワークも見事の一語に尽きる。

 

本作と全く同じテーマを異なるアプローチで追求したのがメーテルリンクの『 青い鳥 』だろう。結局、現代の作品から古典に至るまで、本作が及ぼした影響はあまりにも巨大で不滅である。職場の50代のイングランド人に最近尋ねたことがある。「Rod Stewartの“Sailing”は、本当にRod自身が言うように英国では第二の国歌のようなものなのか?」と。曰はく、「俺より上の世代ではそうだろう」と。同じように20代と30代のアメリカ人にも尋ねてみたことがある。「“Over the Rainbow”は第二のアメリカ国歌か?」と。答えは二人とも「然り」であった。

 

オズの国が現実なのか幻想なのか、それはどちらでもよい。いかようにも解釈可能なところが素晴らしいのである。ただ、ドロシーがマンチキンやグリンダらと話す時には使わず、かかし、ブリキ男、ライオンと話す時には使う特定の語彙がある。そこに注目すれば、オズの国の正体が見えてくる。これまでに何度も鑑賞しているのに気付かなかった。鑑賞するたびにこうした発見をもたらしてくれるのも、本作が名作たるゆえんである。

 

ネガティブ・サイド

無い。いや、無いことはないのだが、画質や音質にケチをつけても意味はない。

 

総評

20世紀の最高傑作と勝手に断言する。エンターテインメント性と社会的なメッセージの両方を併せ持っている。そのどちらにおいても、現代に通じる。むしろ、普遍性を持つと言うべきか。小学生ぐらいの子どもを持つ親は、ぜひ我が子に見せてあげてほしい。高校生や大学生のカップルは、ぜひ劇場で鑑賞してみてほしい。オールド映画ファンもこれを機に劇場へGo! だ。暗転した劇場で白黒~セピアなカンザスが、彩り鮮やかなオズの国に切り替わるシーンの感動は、劇場でこそ体験すべきである。そして、極上の歌と踊りと語りを大画面で心ゆくまで堪能しようではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

courage

ライオンが欲しがる勇気である。英会話講師としてよく受ける質問の一つに「courageとbraveryはどう違うんですか?」というものがった。「courage bravery differenceでググってください」と言いたかったが、そこはグッとこらえて、受講生の中から答えを引っ張り出さねばならない。それこがex(外へ)+duco(導く)=educateである。Enjoy = 楽しむ、enlarge = 拡大する、encourage = 勇気を与える、ここまで引き出せれば、courageとは、振り絞る勇気であると分かる。一方でbraveryは元々備えている勇気である。良い教師ほど教えないものである。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1930年代, SS Rank, アメリカ, ジュディ・ガーランド, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ビクター・フレミング, 配給会社:MGM映画会社Leave a Comment on 『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

Posted on 2020年6月10日2022年3月7日 by cool-jupiter

ルース・エドガー 70点
2020年6月7日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケルビン・ハリソン・Jr ナオミ・ワッツ オクタビア・スペンサー
監督:ジュリアス・オナー

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“Black Lives Matter”の抗議運動は止まりそうもない。もちろん、良い意味で止まってほしいと切に願う。『 ハリエット 』で描かれた「地下鉄道」が黒人と白人の両方によって運営されていたように、差別する側が廃止する運動を起こさないことには、問題は解決しない。そしてかの国の白人大統領は市民に銃口を向けることを厭わぬ姿勢を鮮明に打ち出している。そんな中、アメリカからまたも秀作が送り出されてきた。

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あらすじ

ルース(ケルビン・ハリソン・Jr)は裕福な白人家庭に養子として育った優等生。だが、高校教師のハリエット・ウィルソン(オクタビア・スペンサー)はルースの書いたあるレポートをきっかけに彼の心の闇を嗅ぎつけて・・・

 

ポジティブ・サイド

物語の振り子があっちこっちにすごい勢いで振れていく。白人vs黒人というような紋切り型の対立軸はここにはない。あるのはできる黒人と落ちこぼれの黒人の対立軸、白人とアジア系の対立軸、血のつながった家族と養子縁組をした家族、とにかくそこかしこに火種・・・と言っては大げさだが、人間関係を緊張させる要素が潜んでいる。そうした人間関係の中心に位置するのがルースであり、彼の言動は学校や家庭といった水面に良い意味でも悪い意味でも常に波紋を呼ぶ。この見せ方は上手い。巧みである。日本の少女漫画を映画化した作品でも、完璧超人な男子キャラが学校の外ではトラブルや心の闇を抱えていることが多い。だが本作のルースは、その闇の深さや濃さを容易に周囲の家族や教師に悟らせない。いや、映画を観る者すらもある意味では彼に翻弄される。いったいルースは善量なのか、それとも悪辣なのか。彼が善だとすれば、様々な対立軸の総てにおいて善なのか。そうした観る側の疑問がそのまま劇中でサスペンスを盛り上げる。

 

見た瞬間に分かることだが、主人公ルースは黒人、両親は白人。ああ、養子なのか、ということがすぐに察せられるが、interracial marriageやinterracial relationshipsという言葉が存在するように、人種と人種の間には越えがたい壁、埋めがたい溝がある。そして戦争・紛争の絶えない地域で幼少期を過ごしたルースが、アメリカという“一見すると平和な国”に順応するのはたやすくなかったであろうことも容易に想像がつく。Jovianは両親に「子育てに見返りなんかないで。親からしたら、子どもが一人で歩いたり、言葉をしゃべったりしただけで満足や」と言われたことがある。このあたりが血のつながりと養子の差、違いなのかと少しだけ思う。無償の愛を注ぐ母エイミーと父ピーターが、実子ではないルースに対して疑念を生じさせていく過程には、胸が締め付けられるような悲しみと、怒りの感情が呼び起こされるような身勝手さの両方がある。両親、特に母エイミーの視点からルースの行動を見ると、思い通りにならない我が子への苛立ちの気持ちが、血がつながっていないからこそ増幅される、だからこそエイミーはそれを必死で抑え込もうとする、という二重の苦悩が見えてくる。いやはや、なんとも疲れる映画体験である。

 

だが最も我々を披露させるのはオクタビア・スペンサー演じるハリエットである。彼女自身、黒人として様々な経験を経て教師という職業に身を捧げている。同じ教育に携わる者としてJovianはハリエットの善意が理解できる。黒人にはそもそもチャンスがあまり巡ってこない。だからこそ、そのチャンスを確実につかめそうなルースをさらに引き上げるために、劣等生の黒人生徒を排除した。ハリエットはそれを善意で行っている。Jovianは映画を鑑賞しながら、岡村隆史の「コロナ後の風俗を楽しみにしよう」という旨の発言、そしてその発言の擁護者たちを思い起こしていた。「岡村は女性を貶めたのではなく、一部の人間を励まそうとしていた」という論理である。ちょっと待て。善意に基づいた言動なら、その結果が苦痛をもたらしても正当化されるというのか?これではまるで戦前の大東亜共栄圏建設のスローガンと同じではないか。そしてこのようなエクストリームな論理がある程度幅を利かせているところに、戦後75年にして、日本がいまだに“戦争”を総括できないという貧弱な歴史観しか持たないことを間接的に証明している。

 

Back to track. 教師たるハリエットの誤りは明白である。だがそのハリエットが、自身だけではなく身内に苛まれていることを、とてつもなくショッキングな方法で我々は見せつけられる。ハリエットの教育方法は本当に誤りなのか、ハリエットが一部の生徒に厳しく接することは彼女の罪なのか、と我々は自問せざるを得なくなる。

 

最終盤のルースの行動によって、我々は彼の本当の姿はこうだったのか!と、これまたショッキングな方法で見せつけられる。だが、ラストのラストで彼が取る行動、そして見せる表情には『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』のように自分から逃げようとしているかのようである。だが、彼が逃げようとしている自分とは誰か?善良な優等生ルースなのか、それとも狡知に長けた怪物なのか。その解釈は観る者に委ねられているのだろう。

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ネガティブ・サイド

D-runnerの正体が明かされない。かなり高い確率でデショーンなのだろうと思われるが、もう少しD-runnerがいったい誰なのかを示唆してくれる描写が欲しかったところ。この文字面だけでは drug-runnerに思えてしまい、かなり剣呑である。そういう効果を狙ってのことだろうが。

 

ステファニー・キムというキャラクターは素晴らしかったし、演じた役者も見事の一語に尽きる。だが、彼女にこそルース並みの演出を求めるべきではなかったか。本作は視点によって、また対立軸のこちらかあちらかで善と悪がころころと入れ替わる。そのことにキャラクターだけではなく観る側も振り回される。だが、ステファニー・キムのようなキャラクターこそ、劇中登場人物は振り回されるが、観ている我々は「ははーん、こいつは本当はこうだな」と思わせる、あるいはその逆で、登場人物たちは一切振り回されないが、観ているこちらはステファニーの本性、立ち位置について考えが千々に乱れてまとめようにもまとめられない、そんな工夫や演出があってしかるべきだったと思う。

 

本作は珍しく校長が無能である。いや、『 ワンダー 君は太陽 』や『 ミーン・ガールズ 』でも分かるように、アメリカの校長というのは有能、または威厳の持ち主でないと務まらない。なぜこの人物がこの学校で校長をやっているのか、そこが腑に落ちなかった。

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総評

秀逸なサスペンスである。現代アメリカ社会の問題がこの一本に凝縮されている。こうした作品を鑑賞することは、現代日本人にとって決して無駄なことではない。日本の小学校では両親の片方が日本人、もう片方がフィリピン人、ブラジル人、イラン人という生徒が増加傾向にある。そのこと自体の是々非々は問わない。しかし確実に言えることは、いずれそうしたinterracialな出自の子たちの中から超優等生が生まれてくる、ということである。日本の学校、そして社会・国家はそうした子をどう受容するのか。本作は一種の教材であり、未来のシミュレーションでもある。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

keep ~ in the loop

常に~を情報共有の輪に入れておく、のような意味である。作中では母エイミーが息子ルースに「私たち、最近keep each other in the loopができてなかったでしょ」と言っていた。日常生活で使っても良いが、どちらかというとビジネスの場で使うことが多いように思う。単にin the loopという形でも使われることが多い。実際にJovianの職場でもイングランド人が“Why am I not in the loop?”と立腹する事案が先日発生した。同僚や家族、友人とはkeep each other in the loopを心がけようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, ケルビン・ハリソン・Jr., サスペンス, ナオミ・ワッツ, 監督:ジュリアス・オナー, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

『 デッド・ドント・ダイ 』 -Old habits die hard.-

Posted on 2020年6月9日2021年1月21日 by cool-jupiter

デッド・ドント・ダイ 60点
2020年6月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ビル・マーレイ アダム・ドライバー セレーナ・ゴメス
監督:ジム・ジャームッシュ

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監督がジャームッシュでメインキャストにアダム・ドライバーがいる。それだけで劇場鑑賞する理由としては十分である。傑作『 パターソン 』のクオリティは期待してはいけない。それでも、なんらかのゾンビ映画の新味を期待するのは罪ではないだろう。

 

あらすじ

地球の極でアメリカ政府は水圧破砕工事を行った。その結果、地球の自転軸に狂いが生じ、日照時間が異様に長くなり、あるいは夜が明けなくなってしまった。そして月は邪悪な波動を放つようになった。その結果、死者がゾンビとして蘇るようになった。田舎町センターヴィル警察署所長ロバートソン(ビル・マーレイ)とピーターソン巡査(アダム・ドライバー)たちは、町を救うことができるのか・・・

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ポジティブ・サイド

ゾンビの発生を天文学的なスケールで説明しようとしたのは珍しい。あったとしても隕石と共に未知の病原体がやってきて・・・というような『 ブロブ/宇宙からの不明物体 』や『 遊星からの物体X 』(ナード男の店にわざとらしく飾られているところにニヤリ)的なものではない。地球の自転軸が狂ってしまうという、ある意味で『 ザ・コア 』的なもの。これによって不自然に昼が長くなり、また夜が明けなくなり、そして逢魔が時がずっと続いてしまうという不思議な世界観が成立した。このアイデアはなかなか面白い。同時に時計が止まったり、スマホの充電がいきなり切れたりと、不吉な予感を煽るのも上手い。

 

あちこちに先行ゾンビ映画へのオマージュがある。『 ゾンビーノ 』でも“Old habits die hard.”=昔からの癖はなかなか改まらない、と言われていたように、本作のゾンビは生前に好きだったものにどうしようもなく惹かれてしまう。その対象はコーヒーであったり、ファッションであったり、片思いの相手だったりと様々だ。これも『 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 』へのオマージュだろう。スモンビなる言葉が生まれて久しい。日本ではそれほど人口に膾炙していないが、歩きスマホが大問題になっている国々では結構使われているようだ。ゾンビが生者だった頃の属性を継承するのがこれまでのゾンビ映画の文法だったが、本作は生者にゾンビそのものを投影している。生きていても死んでいても変わらないではないか、と。深く考えることなく、目の前の自分の好物だけに集中する。それはおそらく現代人に最も目立つ特徴だろう。ジャームッシュ流の批判である。

 

パトカーで町を見回るビル・マーレイとアダム・ドライバーのコンビの掛け合いが面白い。天変地異のただ中にありながら、どこか日常を思わせる。そのアンバランスさが本作をドラマとコメディのどちらかに偏り過ぎないようにしている。ゲームの『 バイオハザード 』のごとき世界がアベニューに現出するなか、パトカーで町を見回る3人組の掛け合いも楽しい。一人は恐怖に駆られ、一人は勇気と不安のはざまで揺れ動き、一人は物語の結末を確信している。そう、この物語では特定の人間は地球に不要であると判断されているようなのだ。ジャームッシュの意図は別にあるのだろうが、COVID-19によって浮かび上がってきた「ソーシャル・ディスタンス」なる概念、そして中国の空が晴れ渡ったり、インドのガンジス川の水が澄んだりと、人間がコロナ禍と呼んでいる現象が地球にとってはどうなのかというパラダイム・シフトが起きつつある。そうした現実を背景に本作を観た時、監督の意図とは異なるメッセージを観る側は受け取ることだろう。本作では森に暮らす世捨て人のボブが小説『 白鯨 』を拾うこと。そして、COVID-19の死者が欧米で異様に多く、アジアで異様に少ないこと。この二つをくっつけて考えてみよう。そうすれば、本作はコメディではなく、ブラック・コメディへと鮮やかに変身する。

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ネガティブ・サイド

ティルダ・スウィントン演じるゼルダというキャラクターは不要だと感じた。もしくは、もっとキャラを改変するか、あるいはダイレクトに『 キル・ビル 』のユマ・サーマンを模してしまえば良かったのではないか。名前がゼルダで見た目がエルフ、それが長剣を振るうとなると、どうしたってゲーム『 ゼルダの伝説 』のリンクを想起せざるを得ない。オマージュをささげるなら、ゲームのキャラではなく映画のキャラにしてほしい。

 

そのスウィントン演じるゼルダの裏設定にも( ゚Д゚)ハァ?である。これではまるで『 アンダー・ザ・スキン 種の捕食 』のパクリに近い。というか、これではオマージュとは呼べないだろう。さらに『 未知との遭遇 』もそこに混じる(要素は反対だが、造形がそっくり)となると、これも萎えてしまう。どうせスター・ウォーズネタを込めているのだから、アダム・ドライバーに持たせる刃物もダンビラではなくライトセイバー・・・ではなく竹刀のような形の剣にすればよかったのにと思う。映画に込めるメッセージばかりに神経が行ってしまい、小道具や美術がおろそかになってしまっていたか。

 

セレーナ・ゴメスの扱い方が雑というか、妙なキラキラマークは要らない。カメラワークや演出で見せてこそだろう。『 スプリング・ブレイカーズ 』のように、セレーナ・ゴメス(やその他のキャスト)をカメラワークと照明、衣装、メイクで充分に輝かせることが出来たはずだ。これだけキャスティングにカネを使っているのだから、裏方にカネを回せない、もしくは手間暇かけてディレクションできないというのは本末転倒ではないか。

 

総評

映画館がついに本格始動をし始めた。しかし、どこも座席間を開けている。おかげでJovianも嫁さんと離れ離れで鑑賞している。だが、そうした時こそ思弁的なメッセージを含む映画をじっくりと鑑賞するチャンスとは言えまいか。その意味では、本作は徐々にwithコロナに移行しつつあり、なおかつ第二波の襲来に備えつつある今こそ、じっくりと鑑賞すべき価値を持っていると言える。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Oh boy

「少年よ!」という意味ではない。もちろん文脈によってはそういう意味を帯びるだろうが、これは「あれまあ」や「おやおや」や「うわー」や「ひえー」のような意味もある。つまりは感嘆詞である。Boy単独で使うことも多いが、その場合は、I played tennis yesterday. Boy, am I sore today. = 機能テニスをしたんですが、いやはや今日は筋肉痛ですよ、という具合に倒置が起こる。自分で使いこなせる必要はないが、聞いた時に分かるようにしておくと吉。“Oh boy”という感嘆詞は、セサミストリートのエルモがしょっちゅう口にしている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, スウェーデン, セレーナ・ゴメス, ビル・マーレイ, ブラック・コメディ, 監督:ジム・ジャームッシュ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 デッド・ドント・ダイ 』 -Old habits die hard.-

『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

Posted on 2020年6月7日2021年1月21日 by cool-jupiter

ハリエット 65点
2020年6月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シンシア・エリヴォ ジャネール・モネイ
監督:ケイシー・レモンズ

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これまでにも『 グリーンブック 』や『 アメリア 永遠の翼 』、『 2019年総括と2020年展望 』など、当ブログでもハリエット・タブマンについては何度か触れてきた。その映画がついに公開である。極端な話、Jovianはコロナ禍の今年はこれと『 ゴジラVSコング 』だけで良いとすら思っていたほどである。Don’t get your hopes up …

 

あらすじ

アラミンタ・ロス(シンシア・エリヴォ)は、メリーランド州で奴隷として過酷な労働に従事させられていた。ある時、さらに過酷な南部へ売り出されることになったミンティはブローダス家から逃げ出し、自由のある北部を目指す。無事に逃げ切ったミンティは、名をハリエットに変え、南部奴隷の解放に尽力するようになり・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは英会話講師(現在はトレイナー業務がメインになっている)で、特にTOEFL iBTを担当することが多かった。なのでアメリカ近現代史はそれなりに勉強せざるを得なかったし、その中で最も多く名前が出てくる人物というのはユリシーズ・グラント、ジョージ・ワシントン、ハリエット・タブマン、ジョン・ミューアあたりだろうか。トレイラーでシンシア・エリヴォを見た時、キャスティングの正しさを直感した。そして実際に本編を観て、キャスティングの正しさを確認できた。シンシア・エリヴォは、演技力だけではなく歌唱力と存在感でハリエット・タブマンという立志伝中の英傑をスクリーン上に現出せしめた。特に印象的だったのは「決めつけないで!」と一喝するシーン。女性だとか黒人だとかの前に、人間としての尊厳を問う、非常に鋭い演出だったと感じた。

 

公開のタイミングが良いのか悪いのか分からないが、警察官によるジョージ・フロイド氏の殺害事件、それに対する抗議(暴動は除く。あの大多数はよその土地から来た火事場泥棒であることが判明している)が静かな内戦状態(英語ではThe Civil War = 内戦 ≒ 南北戦争)になっているところを見れば、黒人差別問題の根深さがどこまで遡れるかが分かるだろう。そうした奴隷たちが歌うバラードが一種の暗号として働くところは、史実を知る者としてニヤリとさせられた。同時に、作業の手を止めると容赦なく暴力を振るわれる労働環境にも慄然とさせられた。自分がテキストや問題集、ネット上のpassageで知っていたハリエット・タブマンとその時代が、情報ではなく、現実として迫ってきたからだ。

 

ハリエットの女モーゼとしての活躍は目覚ましい。Jovianの知識では彼女は北部のフィラデルフィアに脱出後に19回南部へ旅立ち、合計で200~300人(一説には800人とも)の脱出を助けたとも言われているが、本作は70人という数字を呈示した。それもリアリスティックな数字だろう。徒歩で、集団で、馬と犬と銃で追ってくる相手から数日~数十日を逃げ切るというのがどれほど大変なことか。そうした逃走劇の難しさも本作は描いている。

 

当然ながら、歌や音楽も素晴らしい。特にTheme Songである“Stand up”は、『 キャッツ 』の主題歌“Beautiful Ghosts”に勝るとも劣らない哀切さと希望への確信をもって歌われているし、サム・クックの“A change is gonna come”とボブ・マーレーの“Redemption Song”のように聞く者にインスピレーションを与えてくれもする。これもまたシンシア・エリヴォの起用が正解たる理由である。

 

それにしても日本の映画レビューサイトや評論家は、ハリエット・タブマンを指して「紙幣に載るのは黒人女性として初」のような御幣のある表現、あるいは自分自身が誤解している、もしくは勉強不足であることを露呈してしまうかのような書き方をするのだろうか。ハリエット・タブマンは黒人女性として初なのではなく、女性として初であり、もっと言えばアメリカ紙幣にこれまで顔が載ったのはすべて大統領である。ゆえにハリエット・タブマンを正確に評するなら、「大統領以外でアメリカ紙幣に載った人物」となる。そして2020年現在、アメリカ史に女性大統領は存在していないし、今年2020年に女性候補者が立つ見込みもない。

 

ネガティブ・サイド

ハリエットが散発的な失神症状に悩まされていたのはよく知られている。だが、意識を喪失している間に神と交信していた、というのは初めて聞いた。おそらくケイシー・レモンズ監督の独自解釈なのだろうが、ハリエットの妙な神格化はやめてほしかった。『 ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男 』にもあったように、沼地の渡れるポイントを知るごく一部の人間、のような描かれ方の方が好ましかった。劇中でも川を渡っていたが、実際にハリエットが追っ手を振り切るのに使った地形は沼が最も多かったとされている(Jovianが文献などで知る限りでは)。その卓越した自然の観察力と洞察力、人間の五感と運動能力をフルに駆使して追走者から毎回見事に逃げおおせる、という描写はできなかったのだろうか。

 

ジョー・アルウィン演じる領主の描写にも不満である。これではまるで『 ジャンゴ 繋がれざる者 』のディカプリオではないか。もちろん、当時の白人地主がああいう格好であったことは承知している。それでも、これではあまりにもstereotypicalであるし、ハリエットの追走者として役不足である。

 

ハリエット・タブマンと言えば「地下鉄道」、「地下鉄道」と言えばハリエット・タブマンのはずだが、肝心かなめのこの人的ネットワークがほとんど描写されなかった。地下鉄道のユニークなところは黒人と白人、両方で構成されているところで、なおかつそのネットワークの全容を知る人間がほとんどいなかった、と考えられているところである。実際に劇中でも、逃走奴隷をかくまったとしてハリエットの父が追われることになるが、組織の全容を知る人間が増えるとそれだけ危険が増す。誰か一人でも捕まって拷問されてしまったら組織として一巻の終わりだからである。そうした人的ネットワークの広大さと緻密さ、その大きさを全て知っている組織人かつ一匹狼のハリエットという人間像が打ち出されなかったのは個人的には少しがっかりであった。

 

総評

普通に面白い作品、標準以上のレベルに仕上がった伝記映画のはずだが、観る側が期待に胸を高鳴らせすぎたようである。ただし、これはハリエット・タブマンをそれなりによく知っている人間の感想である。実際にJovianの嫁さんはかなり感動したらしく、本作を絶賛していた。現実の世界と本作を重ね合わせて見ることで、様々なものが浮かび上がって来るという意味では、単なるエンタメ的な伝記以上の価値があるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

emancipation

「自由」、「解放」といった意味である。劇中ではfreedomやliberationといった語が使われていたと記憶しているが、emancipationはなかった。だが、アメリカの奴隷解放には、このemancipationが使われている。Freedom, liberation/liberty, emancipationの使い分けが適宜にできるようになれば、英検1級レベルの手前ぐらいだと判断できる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アメリカ, ジャネール・モネイ, シンシア・エリヴォ, 伝記, 歴史, 監督:ケイシー・レモンズ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

Posted on 2020年6月7日 by cool-jupiter

気狂いピエロ 70点
2020年6月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジャン=ポール・ベルモンド アンナ・カリーナ
監督:ジャン=リュック・ゴダール

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200607005255j:plain
 

相も変わらず近所のTSUTAYAは『 ジョーカー 』推しのようである。ひねくれ者のJovianは、ならばと『 パズル 戦慄のゲーム 』を借りて失敗した。というわけで今回は間違いのないようにゴダール作品をチョイス。

 

あらすじ

フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は結婚生活に飽いていた。そんな時にかつての恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と出会い、一夜を共にした。だが、翌朝の部屋には謎の男の死体が。そして、その部屋にまた別の男が訪ねてくる。二人は男を始末し、あてのない逃避行に出るが・・・

 

ポジティブ・サイド

とにかくマリアンヌを演じたアンナ・カリーナの魅力的である。Jovianは英会話講師として延べ数百人以上教えてきた中で、最も美人だった女性と髪型と輪郭、なによりも目がよく似ているのである。まさにfem fatalだな、と感じる。男というのは美女に破滅させられてナンボなのかもしれない。それは古今東西に普遍の真理なのかもしれない。

 

逃げていく先々で小さな犯罪を繰り返していくフェルディナンとマリアンヌの姿に、どうしたってハッピーエンドなどはありえない。ならば破滅が訪れるまでに、精一杯に生を謳歌するまで。詩想に欠けた思想の持ち主であるフェルディナンは、とにかく衒学的な言葉ばかりを呟く。対照的にマリアンヌの紡ぎ出す言葉は豊かな感情に彩られていて、運動的であり行動的なものだ。つまり、ゴダールが映し出そうとしたのは、この二人のキャラクターの対比ではなく、男性性と女性性の対比でもあったのだろう。現にフェルディナンは「時が止まってほしい」などどファウストのようなセリフを吐くロマンティストだし、相方のマリアンヌはセンチメンタルでミステリアスでセクシーだ。そして、この物語の主題はマリアンヌに属することは、序盤に登場するサミュエル・フラー監督の言葉、すなわち「 映画=エモーション 」からも明らかだ。

 

本作は物語というよりも芸術作品の性格の方が強いと感じる。フェルディナンとマリアンヌがアパルトマンの最上階で繰り広げる殺人劇と逃走のワンカットは芸術的である。またガソリンスタンドでの疑似ボクシングシーンや、別のガソリンスタンドで車を盗み出すシーンには舞台演劇的な面白おかしさがある。なによりマリアンヌが自らの掌の運命線の短さを面白おかしく嘆きながら歌い、海辺の木々の間を縫うようにフェルディナンと走り抜けていき、語り合い歌い合うシークエンスには、陽気な絶望感がある。マリアンヌは執拗にフェルディナンをピエロ呼ばわりするが、これは非常に象徴的なことだ。『 ジョーカー 』のキャッチフレーズ、“Put on a happy face.”を引用するまでもなく、ピエロの顔は笑っていても、頭は非常に冷静に笑いを狙っているか、もしくは心が怒りや悲しみに支配されているものだからである。そう考えれば、見ようによってはアホな結末にも、それなりに納得がいくものである。物語ではなく場面場面のドラマを楽しむように鑑賞するのが良いのだろう。

 

ネガティブ・サイド

南仏のビーチでアメリカ人観光客を相手にベトナム戦争を茶化して小金を稼ぐシーンは、フランス流の、というよりもゴダール流の反米・反ベトナム戦争宣言なのだろうが、もっと間接的な描写はできなかったのだろうか。『 サッドヒルを掘り返せ 』(最近、Blu-rayを買った)でセルジオ・レオーネは「主義主張を宣言する映画ではなく、人々の語りを促進するような映画を作りたい」という旨を語っていた。Jovianは別に映画人でも何でもないが、レオーネの意見に与する者である。

 

また、この時のベトナム人女性の化粧や衣装が、VCに川上貞奴を足して2で割ったようなものに映った。貞奴をご存じない方は伝説の踊り手ロイ・フラーを描いた『 ザ・ダンサー 』を鑑賞されたい。

 

全体的にロングのワンカットのシーンは印象的だが、フェルディナンが風呂場で水責めされるシーンだけはちゃちいと感じた。それこそ息ができないというところまで追い込んでも良かったはず。線路に座り込ませたり、結構高いところからジャンプさせたりという演出をしているのだから、水責めシーンにもっと注力できたはずだ。

 

総評

なにやら『 太陽がいっぱい 』と『 ファム・ファタール 』と『 テルマ&ルイーズ 』と『 俺たちに明日はない 』のごった煮を観たよう気分である。ということは、それだけ古典的なキャラクター造形や物語構成になっているわけで、見ようによっては新しいとも古いとも言える。ただ一つだけ確かなのは、去年の暮れに亡くなったアンナ・カリーナと再会するのであれば、本作はそのベストな一作だろうということだ。

 

Jovian先生のワンポイント仏語レッスン

À la recherche du temps perdu

In search of lost time = 失われた時を求めて、の意。言わずと知れたマルセル・プルーストの大部の労作、『 失われた時を求めて 』である。Temps=Timeである。これがtempoにそっくりだということが分かれば、temporaryやcontemporaryといった語の意味を把握しやくなるだろう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アンナ・カリーナ, ジャン=ポール・ベルモンド, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:ジャン=リュック・ゴダール, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

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