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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年9月

『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 80点
2018年9月9日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:スベリル・グドナソン シャイア・ラブーフ ステラン・スケルスガルド
監督:ヤヌス・メッツ

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往年のテニスファンならずとも、ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローの名前ぐらいは聞いたことがあるはずである。日本プロ野球で言えば、村山実や張本勲・・・、さすがに古すぎるか。これは彼ら二人がウィンブルドンの決勝で相まみえる過程とその結末をドキュメンタリー風に仕上げた作品である。『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』に並ぶ、いや超える作品である。あちらはフェミニズムを前面に出してきたが、こちらはテニス史上に残る名プレーヤーたちによる名勝負中の名勝負を前面に押し出してきた。扱う主題がテニスという点では同じでも、ジャンルが異なる映画である。こちらは社会性よりも、むしろ個人の内面や人間性に踏み込んだ内容になっているからだ。この作品で描き出されるボルグやマッケンロー像に、多くの人たちが類似のアスリートや他分野の偉人、もしくは身近な人間を思い浮かべることだろう。これはそういう見方ができる映画だし、そうした見方をされたがっているようにも思う。

ボルグのテニスは、乱暴に一言でまとめてしまえば大河ドラマ的だ。一話一話は抑揚に乏しく、1月に始まり、12月にクライマックスが来るようなものだ。対するマッケンローのテニスは韓国ドラマだ。一話一話が、まるでジェットコースターのように上がり下がりする。Jovianはテニス史上で最も強靭なメンタルの持ち主はシュテフィ・グラフだと信じている。彼女の動じない姿勢、ワンプレーが終わるたびにサッと後ろを振り向いて気持ちをリセットしようとしているかのような立ち居振る舞いに、多くのファンが魅せられ、畏敬の念を抱いてきた。その姿勢の源泉はボルグにあったのではなかろうか。ボルグのコーチ役のステラン・スケルスガルドの「一球に集中するんだ」という言葉に、松岡修造がウィンブルドンで叫んだ「この一球は絶対無二の一球なり!」という言葉を思い出すテニスファン兼映画ファンはきっと多いだろう。余談だが、大坂なおみがセリーナ・ウィリアムスを倒して全米オープン制覇を成し遂げた。偉業である。そこでのセリーナの振る舞いに、多くのファンがマッケンローの姿をダブらせたことだろう。動じないメンタル、少なくともそれを目に見える形で表わさないことが、トッププロには求められることが多い。例えばイワン・レンドルは1986年のウィンブルドンで、ボリス・ベッカー相手に、誤審から崩れた。いや、誤審から崩れたというよりは、誤審を許せなかったことで平常心を失い、あっさりとベッカーに退けられてしまった。しかし、メンタルの崩れからそのまま敗れ去ってしまった悲劇の例としてテニスファンの心に最も強烈に焼き付いているのは、ヤナ・ノボトナを措いて他にいないだろう。1993年のウィンブルドン決勝、最終第3セット、女王グラフを徳俵にまで追い込みながら、凡ミス連発で世紀の大逆転負けを喫した、あの試合である。ことほど然様にメンタルの在り方は、テニスにおいて、そして他の分野においても、勝負を分けるポイントになる。トップレベルなら尚更である。

Back on topic. 本作は、『 アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル 』の系統の映画と評するべきであろう。本作はプレーヤーとしてのボルグやマッケンローのフォームや仕草、話し方をよくよく研究しているとはいえ、テニスの試合そのものを直接的に魅せる手法は取っていないからだ。しかし、そのことが本作のスリルやサスペンスを減じることはいささかもない。なぜなら、本作はヒューマンドラマだからだ。内面に溜めこんだ負の感情をルーティンで抑えつけるのか、それとも蒸気機関車のエンジンよろしく、圧縮された蒸気は定期的に吐き出さなければならないのか。正反対に見える両者だが、その内側には非常に人間らしいドロドロとしたものが渦巻いていることに気付くだろう。そんな彼らが最高の舞台で究極の精神状態で闘うのだ。これ以上の対話は無い。そしてドラマの基本は対話、dialogueなのである。エンディング近くで2人が交わす誠に他愛の無い会話に、我々はこの2人の間に言葉はもはや必要ないのだということを悟るのである。何というドラマだろうか!こうしたことは実は往々にして起こることで、Jovianがパッと例として出せるのはアルトゥロ・ガッティとミッキー・ウォードのボクシング・トリロジーだ。特に第一戦の第9ラウンドは今でもボクシングファンの間で語り継がれる、言葉そのままの意味の伝説的ラウンドである。その後の二人の友情は必然であったと言える。なお、ミッキー・ウォードについては映画『 ザ・ファイター 』を参照されたい。

Jovianが観賞後、劇場のトイレから出てくると、60代と思しきシニアの面々6名ほどが、ホールウェイで感想を熱く語り合っていた。これから観る人もいるはずなので場所はもう少し選ぶべきなのだろうが、それでも実にでかい声で印象的な感想を述べてくれていた。以下、拾ってきた感想だが、いくつかを紹介する。

「いやあ、もう観てるうちにあの役者が本物のボルグに見えてきたで」

「マッケンローの人、よかったわあ」

「あの試合、やっぱり今でも覚えてるし、ホンマに凄かったなあ」

「コナーズ、ちょっとだけやったな」

「マッケンローの、あのえっちらおっちらのボレー、よう似てたわ」

分かる人には分かる感想であろう。我々はボクシングや野球、サッカーでも、もっとこうした上質のエンターテインメントたりうるドラマ映画を観たいのだ。

こうしたことは日本の映画界にも出来るはずだ。小説や漫画の映画化はそれ自体、作品やクリエイターの知名度アップや世界観の拡大、キャラクタービジネスの強化に繋がることではあるが、あまりにも画一的になりすぎてはいないか。広島カープの津田恒美をテレビ映画化した『 最後のストライク 』のような作品が、製作されねばならない。村山聖にフォーカスした『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』、さらには『 泣き虫しょったんの奇跡 』(近いうちに観に行く)など、将棋や棋士をフィーチャーした作品は作られてきている。喜ばしいことである。ある意味で絶頂で引退したボルグに、大棋士・木村義雄を重ね合わせる人も多いに違いない。個人的には『 ミスター・ベースボール 』を上回るような野球人映画を期待したい。しかも実在の人間に焦点を当てて。間違っても『 ミスター・ルーキー 』のような珍品を作ってはならない。できるはずだ、日本映画界よ!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, シャイア・ラブーフ, スウェーデン, ステラン・スケルスガルド, スベリル・グドナソン, スポーツ, デンマーク, ヒューマンドラマ, フィンランド, 監督:ヤヌス・メッツ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

MEG ザ・モンスター 50点
2018年9月8日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイソン・ステイサム リー・ビンビン レイン・ウィルソン ルビー・ローズ クリフ・カーティス マシ・オカ 
監督:ジョン・タートルトーブ

 

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  • 一部、原作小説や映画本編に関するネタバレあり

深海でのレスキューミッションのスペシャリストであるジョナス(ジェイソン・ステイサム)は、事故に遭った原潜からクルーの救出を試みるも、何かに襲われ、一部のクルーを見殺しにすることで辛くも脱出。しかし、自身の非情な決断を赦すことができず、一線から退き、タイで酒に溺れる日々を過ごしていた。一方で海洋探査基地のマナ・ワンは、マリアナ海溝の底には固い地盤ではく硫化水素の層であると推測し、さらなる深海の探査ミッションを遂行していた。予想通りに探査船は未知の深海に到達。世紀の大発見を成し遂げる。しかし、そこには探査船を攻撃してくる「何か」の存在があった。このレスキューミッションに、ジョナスが再び立ち上がる。

というのがストーリーの最初の30分ぐらいだろうか。本作は個人的にずっと楽しみにしていた。20年前だったか、小説を読んで「奇想天外な話もあるもんだ」とスケールの大きさに感動したのを覚えている。当時の小説の帯の惹句にも《映画化決定!》みたいな文字は躍っていたと記憶している。あれから20年になんなんとして、ようやっと日の目を見るとは、MEGも原作者のスティーブ・オルテンも思いもしなかっただろう。

本作は映画化にあたって、原作から大きく改変されている箇所がかなりたくさんある。ただし、Jovianも20年前の記憶に基づいて書いているので、不正確なところもあるかもしれない。悪しからずご了承を。さて、まず何が一番大きく変えられているかと言うと、それは冒頭のプロローグである。小説版では、とある肉食恐竜が海に入ってきたところをMEGが現れ、ガブリとやってしまう。読者はこれで度肝を抜かれる。実際にJovianも、「これは明らかにマイケル・クライトンの小説およびそれの映画化を意識した演出的な描写だろう」と思った。さらにクライマックスのMEGとの対決シーン。ここでジョナスは、MEGの歯の化石を刃として使い、小型潜水艇でMEGの体内に入り、中からMEGを切り裂く。MEGを倒せるとしたら、それはMEGだけ。このアイデアにも当時は大いに感銘を受けた。同じような人は他に大勢いたらしく、この手法は某怪獣映画にもその後割とすぐに取り入れられていた。しかし、映画化にあたっては別のアイデアを採用。これはこれで確かに面白い。『ジュラシック・ワールド』の第三作は、広げてしまった風呂敷をどう畳むのかがストーリーの焦点になるはずだが、案外と答えは地球自身が用意してくれているものなのかもしれない。火山がそうだったのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

ジェイソン・ステイサムの元高飛び込み選手というバックグラウンドが大いに活きる作品で、ジョナスはこれでもかと言うぐらいに果敢に海に飛び込んでいく。男の中の男である。さらにジョナスのLove Interestであるスーイン(リー・ビンビン)もmilfyで良かった。海と美女は相性が良いのだ。その子どものメイインも印象に残る。反対にマシ・オカのキャラクターのトシは良い意味でも悪い意味でも日本人というものを誤解させる作りになっている。原作小説の田中の恰好よさの反動だろうか。『 オデッセイ 』や『 グレートウォール 』で見られるように、中国の存在感は映画の中でも増すばかりである。そのことに対してとやかく言いたくなるような人、特に原作小説の大ファンであるというような人は、観ないという選択肢もありかもしれない。それでも、夏恒例のシャーク・ムービーに、久々に傑作ではないが、決してクソではない映画が作りだされた。カネと時間に余裕があるならば、劇場へGoだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アクション, アメリカ, ジェイソン・ステイサム, 監督:ジョン・タートルトーブ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『MEG ザ・モンスター』 -20年かけても原作小説を超えられなかった作品-

『 一礼して、キス 』 -採点に難儀してしまう駄作-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

一礼して、キス 15点
2018年9月7日 レンタルDVDにて観賞
出演:池田エライザ 中尾暢樹 松尾太陽 鈴木勝大
監督:古澤健

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なんでこんなもんを作ってしまったんですか、古澤健監督さんよ・・・ 確かにあなたは甘酸っぱい青春ものを撮ったり、性のデリケートな部分をちょいと面白おかしく切り取る癖のある映画監督だとは知っていたが、甘酸っぱい青春物にセクシーな要素をちょびっと取り入れると大失敗してしまうというのは『 クローバー 』や『 今日、恋をはじめます 』から、ある程度の予想はしていた。が、これほどの惨事を引き起こしてしまうとは予想外だった。本作を駄作たらしめている要素は数限りなくあるが、大きく分けると4つだ。

1つ目は、感情移入できないキャラクターたち。いきなりキスされて全く無抵抗の杏(池田エライザ)。新部長としての役割を全うしようとしない曜太(中尾暢樹)。そんな曜太を強く諌めるでもなく責めるでもない先輩や同級生や教師たち。デリカシーに欠ける、と言うよりも大人として、人間としてのネジが外れているとしか思えない言動をとる曜太の父親。存在しても、しなくても、特にストーリーに影響を及ぼさないライバル高校の生徒、そして大学の弓道部員たち。いったいぜんたい、これらのキャラクター達にどういうケミストリーを起こしてほしいのか。意図が全く見えないし、面白さがあるわけでも、緊張感が漂うわけでも、ユーモアが生じてくるわけでもない。とにかく意味が分からない。不愉快でしかない。

2つ目は、役者陣の稚拙な演技。これについては何も言うべきではないのだろう。なぜならOKテイクを出したのは監督だからだ。もしくは複数あるはずのショットからベストと思われるものを編集したスタッフの罪とも言える。古澤監督は、もう一度、北野武の言葉によくよく耳を傾けるべきだ。または失敗作の後に必ず名作を世に送り出してきた黒澤明の数々の言葉をもう一度噛みしめるべきだ。

3つ目は、照明と使い方。特に夕陽のシーンを多く使っていたが、もう少し光の角度や影が落ちる方向を考えければならない。絶対にそうはならないだろう、という角度がついた影が多すぎる。せっかくロマンチックな、もしくはセクシーなショットが撮れているところなのに、何故こんな致命的ともいえるミスを犯すのか。映画とテレビ番組の最大の違いは、映画は照明を落とした劇場で大画面で観るもので、テレビは狭い空間で明るいままに見るものである、ということだろう。つまり、映画を観る人は、まず何よりも光の使い方に注目するし、映画を作る側は光の使い方に工夫を凝らさなければならないのだ。その意味では本作は落第の烙印を押されても文句は言えまい。

4つ目は杜撰な脚本だ。台詞と実際の物語の描写や進行が合致しない場面が多すぎる。曜太が「ユキ」に電話で呼ばれて行ってしまうシーンは2度。それを指して「いつもユキさんに呼ばれると言ってしまう」という杏の台詞は、この時点ではやや過剰すぎる反応に見えてしまう。また、一度しかそんなシーンは無かったにもかかわらず、「曜太くん、いつもここにいたから」といった台詞もあった。繰り返すが、曜太がそこに佇立しているシーンは1度だけしかなかったはずだ。それを指して「いつも」というのは、やはり説得力に欠けると言わざるを得ない。それともこれも編集ミスの類なのか。他にも、曜太が誰かを殴るシーンも不自然すぎる。というよりも、これまでに見たどんな映画の殴りのシーンよりも不自然なシークエンスだった。興味のある方だけご覧あれ。

兎にも角にも、採点するのが困難になるほどの駄作である。古澤監督には宿題としてオイゲン・ヘリゲルの『 日本の弓術 』を100回読んで、無我の境地に至ってほしいと思う。一度頭を空っぽにリセットして頂きたい。『 走れ!T校バスケット部 』の出来が心配になってきてしまった。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, F Rank, ロマンス, 日本, 池田エライザ, 監督:古澤健, 配給会社:東急レクリエーションLeave a Comment on 『 一礼して、キス 』 -採点に難儀してしまう駄作-

『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

ジャッジ 裁かれる判事 75点
2018年9月6日 レンタルDVD観賞
出演:ロバート・ダウニー・Jr. ロバート・デュバル ベラ・ファーミガ ビンセント・ドノフリオ ジェレミー・ストロング ビリー・ボブ・ソーント
監督:デビッド・ドブキン

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その明晰な頭脳で勝利を追求する敏腕弁護士のハンク(ロバート・ダウニー・Jr.)は娘を溺愛するも、妻とは不仲。そんな彼の元に、母の死を知らせる電話が入る。長年に亘って疎遠だった実家に帰り、判事である父ジョセフ(ロバート・デュバル)、MLBへの夢が断たれ田舎町に引き込む兄グレン(ビンセント・ドノフリオ)、軽度の知的障害を持つビデオカメラ好きのデイル(ジェレミー・ストロング)、幼馴染にして元恋人のサマンサ(ベラ・ファーミガ)とその娘らと再会する。葬儀の後、父ジョセフが20年前に刑務所送りにした男マークが刑期を終えて出てきたその夜、ジョセフが車でマークを撥ねて死なせてしまう事案が発生する。偶然の事故なのか、故意の殺人なのか。ハンクは苦悩しながらも父ジョセフの正義を信じ、弁護に乗り出す・・・

まず、何と言っても二人のロバートの奇跡的な邂逅である。特にデュバルの存在感は凄まじい。本作で彼のキャラクターの持つ属性は多岐に亘る。判事の顔を持ちながらも、厳格すぎる父親の顔を持ち、年齢から来る衰えに戸惑い、怯え、しかし受け容れ、妻の死を嘆きながらも毎日墓参することを前向きに誓う強さを持ち合わせ、そして良き祖父の顔も見せる。これぐらいのキャリアの役者になると、『 ゲティ家の身代金 』のクリストファー・プラマー然り、『 あなたの旅立ち、綴ります 』のシャーリー・マクレーン然り、演じること(Acting)と存在すること(Being)の境目が揺らいでくるようだ。クライマックスの法廷で、ジョセフはその心情を赤裸々に語るが、そこから見えるのは父親としての業である。父という種族は、なぜこうも不器用もなのか。

そしてダウニーJr.の息子としての苦悩、懊悩。アイアンマンでもそうなのだが、父との確執や過去のトラウマに苛まれる役が何故か似合う。当初ジョセフはハンクに弁護を依頼せず、ペーペーの新米弁護士を雇うが、予備審問の時点からヘマを打つばかり。この時のダウニーJr.の演技が見もの。表情を変えずに仕草やアクションで台詞以上に雄弁に語りまくる。ここに我々は、彼の弁護士としての血の騒ぎ以上に、息子として本心では父を救いたくて堪らないとの思いを見出さざるを得なくなる。彼が法廷で流す涙は、悔し涙以上の悔しさがあったのだろう。なぜ自分が娘に注いでいるだけの愛情を、父もまた自分に注ごうとしているのかに思い至らなかった自分への後悔が透けて見える。これは父殺しを通じた、家族の再生の物語なのだ。古今の文学のお定まりのテーマとはいえ、法廷という真実を追究する極めて社会的、公共的な意味合いの強い場で、親子、それも判事と弁護士の対峙と融和が図られるのだから、これを劇的(dramatic)と言わずして何と言おう。

名優同士のぶつかり合いと、それを支える確かな実力を持つ脇役達、さらに細かなサブプロットをも収めた脚本と、それらを見事に統合した演出と監督術。いったん再生すれば、エンディングまでノンストップとなること請け合いの傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ベラ・ファーミガ, ロバート・ダウニー・Jr., ロバート・デュバル, 監督:デビッド・ドブキン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

アメリカン・ハッスル 70点

2018年9月5日 レンタルDVD観賞
出演:クリスチャン・ベイル ブラッドリー・クーパー ジェレミー・レナー エイミー・アダムス ジェニファー・ローレンス ロバート・デ・ニーロ
監督:デビッド・O・ラッセル

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原題は”American Hustle”、その意味するところは「アメリカ的な詐欺行為」である。カタカナ表記してしまうと hustle なのか hassle なのか、判別が難しくなる。

アーヴィン(クリスチャン・ベイル)はクリーニング店を複数営みながら、客の引き取り忘れ品を堂々と頂戴して財を為す一方で、美術品の贋作取引や、愛人のシドニーと組んでの金融詐欺などの不正な詐欺行為でも利益を得ていた。しかし、連邦捜査官のリッチー(ブラッドリー・クーパー)にある時、あっさりと逮捕されてしまう。だが、アーヴィンの詐欺の知識と手腕を高く評価したリッチーは司法取引を持ちかけ、FBIの指示の元に動けとアーヴィンに迫る。かくして、政治家や裏社会の大物をしょっぴくためのおとり捜査(sting operation)が始まる・・・

本作品は、一人を除いて、登場人物が全員悪人もしくはアホである。まるで北野武の『アウトレイジ』のようだ。『アウトレイジ』でも、ヤクザがマル暴刑事にカネを渡して情報を得るという場面がたびたび挿入されていたが、本作には大物マフィア(ロバート・デ・二―ロ)を起用し、彼を使って非常にサスペンスを盛り上げる瞬間が用意されている。これだけでも本作を観る価値があろうというものだ。また、クリスチャン・ベイルもハズレが無い俳優である。『ターミネーター4』など、今一つパッとしない作品もあったが、彼自身が輝いていないわけではなかった。ブラッドリー・クーパーも魅せる。クレイジー一歩手前の執念で上司に食い下がる姿に、我々はサラリーマンの悲哀を見出す。その一方で彼の仕事への熱意を、どこか冷めた目でしか見られない自分にも気がつく。なぜなら、犯罪の証拠を得るために、詐欺師と組んでいるからだ。社会正義を実現するために犯罪者を有効活用する、巨悪を打倒するために小さな悪を使う。それは正しいことなのか。そのことに最も打ちのめされるのがニュージャージー州カムデン市長ポリート(ジェレミー・レナー)である。彼こそは公僕の鑑とも言うべき存在で、アーヴィンとリッチー、英国貴族に連なるシドニー(エイミー・アダムス)らに翻弄されるがままに、カジノ事業に邁進してしまう。彼の徹頭徹尾の全体の奉仕者としての姿勢に、我々は勧善懲悪という四字熟語の意味を思わず考えさせられてしまう。しかし、何と言ってもアーヴィンの妻であるロザリン(ジェニファー・ローレンス)の見せる演技が圧巻である。彼女が見せる感情と感傷、激情の発露の後に見せる一筋の涙に、百万言にも値する意味が込められている。映画でしか表現できない技法で、だからこそ映画には他の文化・芸術媒体とは異なる魅力がある。

日本はおとり捜査に消極的であるが、その理由を推測するに主に2つあるのだろう。1つには、善人(お人好しと言い換えても良い)が多すぎて、社会全体が得られる利益よりも市民が被る不利益の方が大きいと予想されること。もう1つには、社会=法共同体という意識の低さ故に、おとり捜査そのものが更なる犯罪を誘発させてしまう可能性が高いと考えられることだ。おとり捜査ではないが、このあたりを描いた邦画に『日本で一番悪い奴ら』が挙げられる。

内容が盛り沢山で、おとり捜査以外にもアーヴィンの人間関係(妻と愛人)やリッチーと上司の謎の問答(十中八九、即興の作り話であろう)もスキット的に挿入されているため2時間超の作品となっている。しかし、観賞中は中弛みを一切感じさせず、初めから終わりまで一気に見させる力を持っていた。特に、「ああ、結局のところ、こういう結末なんだろうなあ」という予想を外されたのは嬉しい誤算というか、それもまた納得ができるエンディングであった。久しぶりにニーチェに『善悪の彼岸』でも引っ張り出して、再読しようか。そんなえも言われぬ感覚をもたらしてくれる良作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エイミー・アダムス, クリスチャン・ベール, ジェニファー・ローレンス, ジェレミー・レナー, ブラック・コメディ, ブラッドリー・クーパー, ロバート・デ・ニーロ, 監督:デビッド・O・ラッセル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

Posted on 2018年9月6日2020年2月14日 by cool-jupiter

バッド・バディ!私とカレの暗殺デート 40点

2018年9月4日 レンタルDVDにて観賞
出演:サム・ロックウェル アナ・ケンドリック ティム・ロス
監督:パコ・カベサス

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原題は”Mr. Right”、すなわち“正しい男”の意である。マーサ(アナ・ケンドリック)が自宅で待っていると、ボーイフレンドが帰って来る。どこの馬の骨ともしれない女を伴って、なおかつ熱烈なキスを交わしながら。当然、マーサは怒り心頭。男を放り出すが、傷心のマーサはヒステリーを起こし、友人(女子)にも耳を貸さず。そんな時、ふと店で知り合った凄腕の殺し屋フランシス(サム・ロックウェル)と一挙に相思相愛に。しかし、フランシスの殺人の話やバックグラウンドをすべてユーモアとしか思わないマーサは、フランシスが殺人を行う場面を目にしたことで・・・

まず、アナ・ケンドリック演じるマーサがキモい。キモすぎる。キモ子と名付けたいぐらいである。情緒不安定な今時女子を演じているのだろうが、普通に常識離れした感性の持ち主で、これを演じられる女優としては他にエマ・ストーンやジェニファー・ローレンスが思い浮かぶが、彼女らはアナ・ケンドリックほどのキモさは出せないだろう。ちなみに褒めている。

サム・ロックウェル演じるフランシスは一捻りの効いたキャラクター。自分の名前が大嫌いで、名前を呼ばれるのを嫌う。CIA上がりで、体術やナイフ、銃の扱いを極めており、殺し屋として一頃活動していたが、ある時から良心の呵責を感じ、殺しを頼んでくる依頼者を逆に殺していくという倒錯した生き方をしていた。

この2人が出会い、犯罪組織やフランシスを追いかけるFBIに扮した殺し屋達と交わることで、コメディックな展開が生まれていく・・・わけだが、少々ユーモアのポイントを外してしまっているのは否めない。サム・ロックウェルはチャランポランのキャラクターからシリアスなキャラクターまで演じられる実力派であることは『プールサイド・デイズ』や『月に囚われた男』、『スリー・ビルボード』で証明済み。今回も一部スタントダブルを使っているとはいえ、格闘アクションも自らこなすなど、トム・クルーズほどではないにせよ、まだまだ体も動かせる。日本で言えば寺島進、椎名桔平的な男と言えようか。

ただし、能力も実績もあるスター二人を共演させることで面白さが生まれるかと言うと必ずしもそうではない。というよりも、映画の面白さは何よりも脚本、撮影、そして役者の演技で決まるものだろう。これは邦画で言えば『カメラを止めるな!』や『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』などが好例である。フランシスのキャラが、単なる頭のネジが吹っ飛んだキャラなのか、それとも何らかの小ネタが数多く仕込まれた綿密に構築されたキャラなのか判別がつかないまま、結局たいしてキャラの深掘りがされなかったのは大きな減点材料である。それでも、両名、いやどちらかのファンであれば、雨の日の暇つぶしなどにDVDなど観賞する分には良いのではないだろうか。なぜなら、深く考えることなく頭を空っぽにして観ることができるからだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, サム・ロックウェル, 監督:パコ・カベサス, 配給会社:ハピネット, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『バッド・バディ!私とカレの暗殺デート』 -笑えないコメディ映画-

『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

Posted on 2018年9月5日2020年2月14日 by cool-jupiter

タリーと私の秘密の時間 60点

2018年9月2日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:シャーリーズ・セロン マッケンジー・デイビス マーク・デュプラス ロン・リビングストン
監督:ジェイソン・ライトマン

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マーロ(シャーリーズ・セロン)は40代にして、二人の子持ちに一人を妊娠中。2人目にして長男のジョナは、おそらく発達障害で、情緒的にかなり不安定なところがある。夫のドリュー(ロン・リビングストン)はSEで、出張が多く、家事はせず、夜はヘッドホンをつけてバイオ・ハザード(Resident Evil)的なゾンビ・シューティングに勤しむという、育メンからは程遠い男。オムツを替えて、授乳し、搾乳して取れたミルクを冷蔵庫に保存し、ご飯を用意し、子どもを学校へと送り迎えし、しかし家の掃除や自身の化粧はできないという、限界に近い生活の繰り返しが、コマ送りの如く、これでもかと画面上に映される。さらには学校ではspecial needs studentであるジョナにspecial aidを雇う、もしくは転校を校長から提案されてしまい、マーロのストレスは臨界点到達、メルトダウンを起こしてしまう。そこで親戚の助言を得て、ナイトナニー、すなわち夜間だけのベビーシッターをついに雇うことを決断する。

現れたタリー(マッケンジー・デイビス)は26歳という年齢に似合わぬしっかり者で、子守りのみならず、掃除や食事まで完璧にこなす。さらにはマーロのお悩みカウンセラーまで努め、さらには夫婦のセックスレス解消の手助けにまで乗り出す。はっきり言って、大きなお世話もいいところなのだが、それらが全て奏功してマーロはみるみる回復。ジョナの転校も前向きに受け入れ、長女と共にカラオケを熱唱する。ちなみに歌うのはCarly Rae Jepsenの”Call Me Maybe”。あの怪作『ピーチガール』の主題歌だ。この歌の詩は、本作にマッチしている。特に“Before you came into my life, I missed you so bad.”という部分など。Youをタリーに置き換えると、確かに”Call Me Maybe”である。それにしても日本映画は時々、どういうわけかあちらの大物の歌を拾ってくることに成功する。『秘密 THE TOP SECRET』で使われたSIAの”Alive”などが好個の一例だ。しかし、そういう慣れないことをすると往々にして失敗するのだという、反面教師でもある。

Back on track. 今、CMで濱田岳が《夫、史上初の台詞》すなわち「お、お、おれ、お皿、洗おうか?」に、《妻、3年ぶりの台詞》すなわち「ありがとう」というものがある。アメリカでも日本でも、夫というものは家政能力に欠けるようである。しかし、夫の家事や育児への参加をもっともっと促そうという動きは理にかなっているし、時代にも合っている。そもそも育メンなる言葉自体が存在することがおかしいのだと指摘する向きも多い。子育てする男、それを父親と呼ぶのだ、という指摘がまさにそれである。ドリューの姿に自分を見出す男がいれば、そのものは即座に回心、ではなく改心しなくてはならない。

本作は、惜しいかな、一部の販促物にネタバレに近いキャッチコピーが付されている。これから見てみようという諸賢は、そうした販促物にはゆめゆめ近づかないように。また、本作を見る時、何度か出てくる人魚のイメージについて、『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い起こしてみると良いかもしれない。半漁人は何のモチーフであったのか。半漁人によってサリー・ホーキンスのキャラクターは何を取り戻したのか。そのあたりに本作を読み解くヒントがあるかもしれない(ないかもしれない)。

このネタは、海外の作家ではジャック・フィニイ、日本の作家では山本周五郎もしくは赤川次郎あたりが思いつきそうだ。心理学に精通して、なおかつ鵜の目鷹の目で小説を読む、または映画を観るという人なら、タリーの登場シーンに違和感を覚えるだろう。その感覚はおそらく正しい。それを信じて観賞を続けてほしい。

シャーリーズ・セロンは、ジェシカ・チャステインと並んで、40代の女優ではトップランナーであることを本作でも証明した。シャーリーズ・セロンの出演作にハズレがあっても、セロン本人がハズレだったことはない。彼女の弛みきった腹部と、それ以上に化粧をすることも忘れてしまいました風の地味で控え目な目元の化粧に、あなたは戦慄するかもしれない。自分の奥さんがセロンほどの美人であるという人は(客観的に見て)そうそういないだろう。しかし、自分の奥さんがセロンのような疲れ切ったメイクになっていることに気付く夫はどれほどいるだろうか。我々は美貌が損なわれたところから、メイクの欠如に気付く。では、我々は妻が何を失ったのかに気付いていないことは何を意味するのか。それは、我々が妻への関心を失っていることを意味する。さあ、(一部の、いや多くの)男どもよ、本作を観て震えて眠るのだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, シャーリーズ・セロン, ブラック・コメディ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

Posted on 2018年9月3日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー 70点

2018年9月2日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:リリー・ジェームズ アマンダ・セイフライド ピアース・ブロスナン コリン・ファース ステラン・スカルスガルド ドミニク・クーパー ジュリー・ウォルターズ クリスティーン・バランスキー メリル・ストリープ シェール
監督:オル・パーカー

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180903012214j:plain

14:00の回を観賞したが、座席の埋まり具合は開演2分前の時点でおよそ9割。公開から1週間でもこの勢いを保っていられるのは、リピート・ビューイングをするお客さんが多いからだろうか。映画のキャラクターが現実と同じように年をとっていくのは、シリーズものではそれほど珍しくはない。『ミッション・インポッシブル』シリーズは言うに及ばず、『トレインスポッティング』や『ジュラシック・パーク』シリーズと『ジュラシック・ワールド』シリーズなど、オリジナル・キャストが年齢を重ねて再登場してくれることで、観る者が一気にその世界に帰っていくことができる。近年で最も衝撃的な形でそうした体験をさせてくれたのは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のトレイラーでハン・ソロ(ハリソン・フォード)が、”Chewie, we’re home.” と静かに、しかし力強く呟いたあの瞬間である。断言できる。

本作は冒頭から、サム(ピアース・ブロスナン)が呟くように歌ってくれる。前作でのあまりの音痴っぷりがトラウマになったのか、それとも編集で歌唱シーンがカットされてしまったのか、彼の歌声が聞けなかったのは、ホッとするような残念なような。ドナ(メリル・ストリープ)が亡くなったことで、ホテルを回想し、リ・オープニングすることを決めたソフィ(アマンダ・セイフライド)は、スカイ(ドミニク・クーパー)からニューヨークで一緒に暮らさないかという誘いに心が揺れる。島で母のホテルを継ぐのか、広い世界に飛び出していくのか。逡巡するソフィと島に迫り来る嵐と人々。過去と現在が、ABBAの音楽に乗って鮮やかに交錯し、若き日のドナ(リリー・ジェームス)の日記の...(dot dot dot)の部分を、我々は追体験する・・・

使用されているABBAの楽曲がややマイナーになっている点を除けば、非常に忠実に前作『マンマ・ミーア!』の世界観を継承している。こうした過去と現在をつなぐ映像作品の良し悪しは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、キャスト同士がどれだけ似ているが第一義である。例えば『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』や『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』がどうしようもない駄作で、世界観を一気にぶち壊しかねない設定(ミディ=クロリアンなど)を盛り込んだにもかかわらず、スター・ウォーズ的であり得たのは、ヘイデン・クリステンセンやユアン・マクレガーが、マーク・ハミルやアレック・ギネスと親子関係あるいは同一人物であると納得できるルックスを持っていたからだ。そこでリリー・ジェームズである。確かに前作では、若かりしドナの顔が少しぼやけた写真がいくつかあった。そして、それらはあまりにもメリル・ストリープにしか見えない写真だった。しかし、どういうわけか、メリル・ストリープとリリー・ジェームズの写真を介さずに並べるなら、同一人物であるとは言えないまでも、納得できるレベルで充分に似ている。もちろん、メイクアップ・アーティストやヘアドレッサー、照明や撮影監督の技量もあるが、このキャスティングだけで半ば本作の成功は約束されていた。ターニャとロージーの若い頃を演じた2人などは、それこそスタッフの力もあるが、びっくりするほど仕上がっていた。そしてシェール演じるドナの母親、ソフィーの祖母。確かにメリル・ストリープの母を演じて良いのは、このような妖怪(褒め言葉と捉えて頂きたい)しかいないのかもしれない。

唯一の懸念はジェームズの歌声。『シンデレラ』では“夢はひそかに/A Dream Is a Wish Your Heart Makes”を歌いあげたが、『ベイビー・ドライバー』では、やや調子っぱずれに Carla Thomasの“B-A-B-Y”とBeckの“Debra”を歌っていた(そういう指示があったのかもしれないが)。だが、それは杞憂だった。オープニングの“When I Kissed The Teacher”で、傑出したとまでは言えないものの、前作のセイフライドに全く見劣りしないパフォーマーであることを証明した。また、メリル・ストリープのあの「アッハハハーハハー」という笑いを完コピしていたのはポイント高し。その他でも、ストリープのほんのちょっとした仕草や立ち振る舞いも取り入れており、パーカー監督との息もばっちり合っていたようだ。後は物語の流れに身を任せれば良い。劇場では『コーヒーが冷めないうちに』のポスターがでかでかと4回泣けますと謳っていたが、Jovianは本作観賞中に4回涙した。そのうちの二つは、コリン・ファースとステラン・スケルスガルドの抱擁シーンと”Dancing Queen”。後の二つは劇場でご自身で確認頂きたい。

そうそう、劇場が明るくなるまで席を立ってはいけない。また、ハリーが東京で大きな商談をするシーンがあるが、そこに描出される日本および日本人像に腹を立ててはいけない。『ロスト・イン・トランスレーション』から『ラスト・サムライ』まで、日本人というのは誤解されてナンボなのである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アマンダ・セイフライド, アメリカ, ミュージカル, メリル・ストリープ, リリー・ジェームズ, 監督:オル・パーカー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

『プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング』 -プリンス・チャーミング不要論-

Posted on 2018年9月2日2020年2月14日 by cool-jupiter

プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング 55点

2018年8月30日 レンタルDVD観賞
出演:アン・ハサウェイ ジュリー・アンドリュース ヘクター・エリゾンド クリス・パイン
監督:ゲイリー・マーシャル

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原題は”The Princess Diaries 2: The Royal Engagement”、つまりは『お姫様日記2 王室の婚約』というわけである。舞台は前作『プリティ・プリンセス』から5年。ミア(アン・ハサウェイ)はジェノヴィアの王女として悠々自適の生活を送っていた。しかし、300年前に制定されたジェノヴィアの法律では、女性は結婚していなければ王位を継承できないと定められていたことが判明。その法律を掘り起こしてきたのは、王位簒奪を企み、自分の甥ニコラス(クリス・パイン)を王にしようと画策するデヴロー卿だった。かくしてミアは花婿探しに奔走する。そして女王クラリス(ジュリー・アンドリュース)はミアを支えながらも、ジョー(ヘクター・エリゾンド)との関係の進展に逡巡していた。かくして、ミアの戴冠に向けての婿探しが始まった。

前作はまさに王子様不在のシンデレラ・ストーリーであった。王子様、しばしばおとぎ話に名無しで登場し、主役の少女を颯爽と救っていく存在である。彼は英語では基本的にPrince Charmingと呼称される。敢えて訳せば「白馬の王子」となるだろうか。おとぎ話は基本的に民話/昔話が時代に取り込まれ、再構成されることで生まれる。姫の存在は、王子によって担保されているというわけだ。ミアにも「白馬の王子」が現れる。それがニコラスであり、イングランドのジャコビー公爵である。ミアが選ぶのは、前者なのか、それとも後者なのか。

本作が問うのは、女性が幸せになるのに男性の力を必要とするのかどうかであろう。もちろん、時代背景や住む国や地域が異なれば、事情も変わってくる。しかし、劇中でも言及されるように、21世紀という時代においてそうした考えが支配的である必然性があるのだろうか。一方で、政略結婚によって幸福になることもありうる。クラリス女王がそうであったように。そのクラリスが、退位してジョーとの関係をさらに一歩先に進めることに悩んでしまうのは、結婚の持つ魔力ゆえか。女王という存在のままでは、女性としての幸福を追求できない。しかし自分が女王たりえたのは、政略結婚(だけが要因では決してないが)があったからで、その結婚相手とは良き友人になれた。ジョーとの情愛からの結婚に踏み出せない理由もそこにある。政略結婚から友情が芽生えた。では、恋愛結婚からは一体何が芽生えるのだろうか。

ミアはジャコビー公爵と頻繁にデートする一方で、ニコラスとも逢瀬を重ねる。政略結婚と恋愛の、非常に分かりやすい対比である。ここでミアは、何故そもそも自分が結婚相手を探し始めたのかという原点に回帰する。『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』を思い起こさせる、感動的なシークエンスがある。それはもちろん、構図上のことであって、ミアがここで手を差し伸べるのは、過去の自分であり、21世紀という時代を担う若年世代であり、自分の人生の主役は自分であるという自覚を持って生きるべき全ての人である。これは素晴らしく胸を打つシーンで、プリンセスの乗ったヴァンを追い回して交通事故を誘発させて悪びれない島国や、ロイヤル・ファミリーの人格を無視し、単なる象徴としてだけしか扱おうとしない、これまた島国の保守派は、よくよくこのシーンを消化吸収すべきだ。王は、追いかけられたり、微笑み返したりするだけの存在を指すわけではない。

それにしても、アン・ハサウェイはこの頃に既にアン・ハサウェイとして完成されているということに驚いてしまう。垢抜けない女子高生だったはずが、見事なセレブに変身してしまっている。ある意味、『ゴジラvsビオランテ』でびっくりするような大根役者っぷりを披露した沢口靖子が、『科捜研の女』に鮮やかに変身したのを見るかのようだ。そしてクリス・パインの青さも堪能できる。この男は『モンスター上司2』でもそうだったように、悪い男を演じる時に、目の奥に純粋さを残す。栴檀は双葉より芳し。

すでに第三作の脚本が存在するらしいが、監督のゲイリー・マーシャルが鬼籍に引かれた今、実現はやや疑わしい。しかし、ジェノヴィアとミアを巡る物語の最終章を見てみたいというファンは世界中にたくさんいるに違いない。期待して待ちたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン:ハサウェイ, クリス・パイン, ジュリー・アンドリュース, ヘクター・エリゾンド, ロマンス, 監督:ゲイリー・マーシャル, 配給会社:ブエナ・ビスタLeave a Comment on 『プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング』 -プリンス・チャーミング不要論-

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』 -オリジナルには及ばないリメイク-

Posted on 2018年9月2日2020年2月14日 by cool-jupiter

SUNNY 強い気持ち・強い愛 50点

2018年9月1日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:篠原涼子 広瀬すず 板谷由夏 山本舞香 池田エライザ 小池栄子 野田美桜 ともさかりえ 田辺桃子 渡辺直美 富田望生 リリー・フランキー
監督:大根仁

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180902205717j:plain

オリジナルは韓流映画の『サニー 永遠の仲間たち』である。それを日本流にリメイクしたのが本作である。すでにオリジナルのレビューで懸念を表してはいたが、ミュージカル映画ではないのだから、エンターテインメント要素を極力排したとしても面白さを維持できるような作品を目指すべきだったのだ。というよりも、特定のデモグラフィックだけをターゲットにすることで、他の観客層を排除しかねない描写や台詞を持ってくる意図がよく分からない。もちろん、過度のバイオレンスやホラー要素、エロティックな描写は、一定の年齢層以下には見せるべきではないだろう。しかし、それとこれとは話は別で、ストーリーを見せたいのか、小室サウンドの宣伝および90年代の懐古主義をやりたいのか、その峻別ができないような作品に仕上がってしまっている。本作を純粋に楽しめる中高大学生が果たしてどれだけいるのだろうか。冒頭近く、久保田利伸の『LA・LA・LA LOVE SONG』が流れ、現在が過去に切り替わるシーンにそのことが凝縮されている。おそらく映画ファン100人に尋ねれば、80人以上が『ラ・ラ・ランド』を思い浮かべた、と答えるであろう。個人的には同作冒頭の高速道路のシーンはあまり好きになれなかったが、今作の歌とダンスシーンはもっと酷い。クオリティが低いわけではない。高い。しかし映画のテーマにそぐわない。ミュージカルでも無いのに、なぜミュージカル風味に仕立てるのか。

尺の関係だろうか、オリジナル版から一人減らしてしまったのも残念至極。これのせいで、芹香(板谷由夏/山本舞香)のかつてのリーダーとしての威厳と面影が蘇ってくるような温かみのある厳しさというものが全カットされてしまった。いくつかの歌と踊りのシーンを削れば、2時間に収まる脚本にできただろう。こうしたところから、本作が小室サウンドのプロモーションなのか、それとも映画という芸術的・文学的表現なのかが判断できないのだ。本作が本当に発するべきだったのは、オリジナルが力強く発していた「あなたは確かに生きていたし、これからも私たちの心の中で生き続ける」というメッセージを日本風に練り直して伝えることであるべきだったのだ。同時に、90年代をまるで輝かしさばかりが目立つ時代に映し、社会問題でもあったブルセラショップや援助交際の描写は抑えめにしていたことも気になった。オリジナルにあった人生や社会の暗部に、同じだけ斬り込めなかったのは何故か。世界は、ロッキー・バルボアの言葉を借りるまでもなく「陽の光や虹だけで出来ているわけでなく、意地汚い場所」(The world ain’t all sunshine and rainbows. It’s a very mean and nasty place.)なのだ。そのことを原作に最も近い形で表現してくれたともさかりえには拍手を贈りたい。

演技の面で言えば、広瀬すずはかなり忠実にオリジナルのシム・ウンギョンをコピーしていた。この点は非常に好意的に評価したい。一方で、淡路島弁が少し、いや、かなりおかしい。淡路島は不思議な地域で、兵庫と徳島の両属のようなもので、だが方言は播州弁と東部岡山弁のちゃんぽんのようなものだ。それが忠実に再現出来ていたかと言うと疑問であったし、さらに奈美(篠原涼子/広瀬すず)を淡路島出身に設定してしまったことが、あるキャラクターのバックグラウンドとそのキャラと奈美の関係に、いささかの矛盾を生んでしまっているような気がしてならない。こればかりは兵庫、大阪、徳島の人間でないと分からないかもしれない。しかし、感じる者にはそう感じられてしまうのだ。

全体として見れば、優れたオリジナル作品を可能な限り忠実に時にはコピーし、時にはトレースし、ところによっては大胆な改変を加えるか、もしくはバッサリと切り落としてしまった作品だ。細かい部分だが、担任の先生の妊娠ネタが全て削られていたり、逆に奈美の兄がエヴァンゲリオンにハマって働きもしないぷータローになっていたり(原作では、過激な労働運動にのめり込むあまり、反政府活動にまで踏み込んでしまっていた)と、ちょっと何かが違うのではないかと思わされる場面が多々あった。現実の社会が不安定であっても、女子高生の友情は不滅だというコントラスト際立つ構図であったはずが、リメイク版では、女子は輝き、少年~青年はオタクになり、オッサンは援助交際に走るという、非常に内向きな論理の世界を見せられてしまった。それが大根仁の解釈なら、それはそれとして尊重する。だが評価はしない。

良く練られたコピーである。しかし、オリジナルの暗さと明るさのコントラスト、世界の美しさと残酷さの対比が再現できておらず、中途半端な歌と踊りでお茶を濁してしまった作品、という印象に留まってしまったのは非常に残念である。観るのならばオリジナルをお勧めしたい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, リリー・フランキー, 広瀬すず, 日本, 池田エライザ, 監督:大根仁, 篠原涼子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『SUNNY 強い気持ち・強い愛』 -オリジナルには及ばないリメイク-

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