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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年9月

『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

クレイジー・リッチ! 75点

2018年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:コンスタンス・ウー ヘンリー・ゴールディング ジェンマ・チャン リサ・ルー オークワフィナ ハリー・シャム・Jr. ケン・チョン ミシェル・ヨー ソノヤ・ミズノ
監督:ジョン・M・チュウ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180930202209j:plain

原題は”Crazy Rich Asians”、≪常軌を逸した金持ちアジア人たち≫の意である。ここで言うアジア人とは誰か。オープニング早々にスクリーンに表示されるナポレオン・ボナパルトの言葉、”Let China sleep, for when she wakes, she will shake the world.”が告げてくれる。中国人である。中国の躍進はアジアのみならず世界の知るところであり、その影響は政治、経済、文化に至るまで極めて大きくなりつつある。そして映画という娯楽、映像芸術の分野においてもその存在感は増すばかりである。そうした事情は、今も劇場公開中の『MEG ザ・モンスター』に顕著であるし、この傾向は今後も続くのであろう。それが資本の論理というものだ。その資本=カネに着目したのが本作である。

ニューヨークで経済学の教授をしているチャイニーズ・アメリカンのレイチェル(コンスタンス・ウー)は、恋人のニック(ヘンリー・ゴールディング)が親友の結婚式に出席するために、共にシンガポールを目指す。が、飛行機はファースト・クラス・・・!?ニックがシンガポールの不動産王一家の御曹司で常軌を逸した金持ちであることを知る。そして、ニックの母のエレノア(ミシェル・ヨー)、祖母(リサ・ルー)、ニックの元カノ、新しくできた友人たちなど、人間関係に翻弄されるようになる。果たしてレイチェルとニックは結ばれるのか・・・

本作の主題は簡単である。乗り越えるべき障害を乗り越えて、男と女は果たして添い遂げられるのか、ということである。平々凡々、陳腐この上ない。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッセーver >>>>> ディカプリオver)のモンタギューとキャピュレットの対立は貴族間の階級闘争であったが、本作はそこに様々に異なるギャップ、格差の問題を放り込んできた。それは例えば、『シンデレラ』に見出されるような、王子様に見初められる平民の娘という文字通りのシンデレラ・ストーリーの要素であり、男が恋人と母親の間で右往左往する古今東西に共通する男の優柔不断さであったり、同じ人種であっても文化的に異なる者を迎え入れられるかという比較的近代に特有の問いを包括していたり、また『ジョイ・ラック・クラブ』の世代の二世達がアメリカという土地で生まれ、成長してきたにも関わらず、アメリカ社会では生粋のアメリカ人とは認めらず、中国・華僑社会でも中国人とは認められない、二世世代の両属ならぬ無所属問題をも扱っている。また家父長不在の華僑家族におけるタイガー・マザー的存在、さらには、女の仁義なき戦い、将来の嫁vs姑による前哨戦および決戦までもがある。とにかく単純に見える主題の裏に実に多くの複雑なテーマが込められているのが本作の一番の特徴である。

詳しくは観てもらって各自が自分なりの感想を抱くべきなのだろうが、まだ未鑑賞の方のためにいくつか事前にチェックしておくべきものとしてタイガー・マザーと異人が挙げられる。民俗学や人類学の分野でよく知られたことであるが、異人は異邦の地では異人性を殊更に強化しようとする。横浜や神戸に見られる中華街、大阪・鶴橋のコリアンタウンなどは代表的なものであるし、在日韓国・朝鮮人が自分たちの学校を作り、民族教育を行うのも、異人性の強化のためであると考えて差し支えない。中国人には落地生根という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、落地成根とは異なるということに注意されたい。本作で最大のサスペンスを生むレイチェルとエレノアの対峙は、ある異人は他の異人を受け入れられるのかという問いへの一定の答えを呈示する。彼女たちは中国にルーツを持ちながらも、生まれ育った土地や文化背景を本国とは異にする者たちである。彼女たちの相克は、世代間闘争であり、経済格差間闘争であり、文化間闘争でもある。この“闘う”という営為に中国人が見出すものと現代日本人が見出すものは、おそらく大きく異なることであろう。それを実感できるというだけでも、本作には価値があると言える。

本作を鑑賞する上で、先行テクストを挙げるとするなら、エイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』であろう。Jovianの母校では、一年生の夏休みの課題の一つは伝統的にこの小説を原書で読み感想文を英語で書くというものだった。それは今もそうであるらしい。今までにチャイニーズ・アメリカン、コリアン・アメリカン、フィリピーノ・アメリカン、コリアン・カナディアン、ジャパニーズ・アメリカンらにこの小説を読んだことがあるかと尋ねたことがあるが、答えは全員同じ「俺たちのようなバックグラウンドの持ち主で読んでいないやつはいない」というものだった。映画化もされており、大学一年生の時に観た覚えがある。そこで麻雀卓を囲む母親の一人がニックの祖母を演じたリサ・ルーである。『ジョイ・ラック・クラブ』が伝えるメッセージを受け取った上で本作を鑑賞すれば、上で述べた闘争の本質をより把握しやすくなるだろう。

長々と背景について語るばかりになってしまったが、映画としても申し分のない出来である。それは、演技、撮影、監督術がしっかりしているということだ。特にニック役のヘンリー・ゴールディングとその親友を演じたクリス・パンは素晴らしい。ヘンリーは演技そのものが初めてであるとのこと。今後、ハリウッドからオファーが色々と舞い込んでくると思われる。しかし何よりも注目すべきはミシェル・ヨーである。一つの映画の中で嫌な女、強い女、責任感のある女、認める女とあらゆる属性を発揮する女優は稀だからだ。『ターミネーター』と『ターミネーター2』におけるリンダ・ハミルトンをどこか彷彿させるキャラクターをヨーは生み出した。この不世出のマレーシア女性の演技を堪能できるだけでチケット代の半分以上の価値がある。

『MEG ザ・モンスター』の原作からの改変具合、特に中国色があまりに強いことに拒否反応を示す人がいるだろうが、Jovian自身が劇場の内外(ネット含む)で聞いた残念な感想に、「なぜ皆、あんなに英語が上手なのだ?」という、無邪気とも言える疑問である。おそらくこのあたりに真田広之や渡辺謙がハリウッド界隈で日本一でありながらアジア一ではない理由がある(アジア一はイ・ビョンホンだろう)。なぜ本作の中でK-POPがディスられながらも日本文化はスシ(≠寿司)の存在ぐらいしか言及されないのか。なぜ錚々たるアジア企業やアジアの国の名前が挙げられる場で、日本の名が出てこないのか。英語というのは学問ではなく技能である。そして言語である。言語は、他者との関係の構築と調整に使うもので、特定の誰かに属するものではない。言語への無関心、そして学習への意欲の無さが、そのまま日本の国力および国際社会でのプレゼンスの低下を招いていることを、もっと知るべきだ。言語に対してアジア人たる我々が取るべき姿勢については【Learning a language? Speak it like you’re playing a video game】を参照してもらうとして、東南アジア各国は“闘争”をしているし、東北アジアでは日本と北朝鮮は“闘争”をしていないとJovianは感じる。単に時代や社会背景を敏感に写し撮った映画であること以上の意味を、アジア人たる我々が引き出せずにどうするのか。デートムービーとしても楽しめるし、深い考察の機会をもたらしてくれる豊穣な意味を持つ映画として鑑賞してもよい。台風が去ったら、劇場へ行くしかあるまい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, コンスタンス・ウー, ヒューマンドラマ, ヘンリー・ゴールディング, ミシェル・ヨー, ロマンティック・コメディ, 監督:ジョン・M・チュウ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

『プレデター』 -SFアクション映画の記念碑的作品-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

プレデター 75点

2018年9月29日 レンタルBlu-ray鑑賞
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー カール・ウェザース ビル・デューク ジェシー・ベンチュラ ソニー・ランダム リチャード・チャベス シェーン・ブラック
監督:ジョン・マクティアナン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180930025346j:plain

  • 以下、ネタばれに類する記述あり

先日、悪魔の囁きによって導かれるように観てしまった『ザ・プレデター』のあまりの酷さに、口直しが必要となり、本作を借りてきてしまった。録画DVDの山の中のどこかにありそうだが、探すのも面倒くさいのである。どうしても口直しが必要となったこの気持ちは、あの駄作を観てしまった諸賢ならば共有頂けよう。

救出専門部隊のリーダー、ダッチ(アーノルド・シュワルツェネッガー)、冷静沈着なマック(ビル・デューク)、噛みタバコを吐き散らすブレイン(ジェシー・ベンチュラ)、スー族の末裔ビリー(ソニー・ランダム)、スペイン語に堪能なポンチョ(リチャード・チャベス)、口を開けば下品なジョークを飛ばすホーキンス(シェーン・ブラック)は、ジャングル奥地の救出ミッションに、ディロン(カール・ウェザース)と共に派遣される。無事に任務を果たすも、ダッチ達はジャングルに潜む何者かとの戦いに巻き込まれ、一人また一人と戦友を失っていく。現地の者の間では、暑い年になると悪魔がやってくるという伝承があった。彼らは悪魔と戦っているのか・・・

まず素晴らしいのは、軍人のリアリティを描いていることである。自衛官もしくは元・自衛官の知人友人がいれば、自衛隊という組織内での飲み会や宴席では、「菊の花」なる宴会芸が行われているのを聞いたことがあるだろう。人体のとある解剖学的なとある部分を「菊の花」に見立てる芸で、いわゆるお座敷遊びのそれではない。軍というのは、極めて男性的な世界で、猥褻な言動に歯止めが利かないことがある。そうしたバックグラウンドのある男同士のしゃべりには独特の緩さと汚さがある。単に下品なジョークを飛ばすのではなく、ある意味で容赦のないジョーク、共に死線を越えた者同士でないと通用しないような言葉使いなのだ。それを最も端的に表すシーンが、ダッチとディロンの再会の場面だ。“You, son of a bitch!”と言いながら笑顔でハンドシェイクし、そのままアームレスリングをすることで、片やデスクワークで体がなまくらになってしまっており、もう片方は現役のままのパワーを維持していることを示す、非常に象徴的なシーンである。文字ではなく映像で説明する。これこそが映画の技法であり作法である。そして、ハンドサインやハンドジェスチャーによる意思疎通、ダッチが目線をやってアゴをくいっと動かすだけでその意を汲んで動く部隊の連中。これこそがチームワークであり、『ザ・プレデター』に最も欠けていたものだった。シェーン・ブラックが何故この要素を一切に続編に引き継がなかったのか、不思議でならない。

キャストでとりわけ素晴らしいと思えたのは目のぎょろつき具合が強烈な印象を与えるマックと、ネイティヴ・アメリカンらしい自然と対話する男ビリーである。特にビリーの寡黙さと、ホーキンスのクソつまらないジョークに一拍置いて大声で笑い出しながらも、直後にただならぬプレデターの気配を感じ、森を睨みつけるシークエンスは、映画全体のサスペンスを大いに盛り上げた。

舞台は中南米のどこかのようだが、これはどう見てもベトナム戦争映画なのだろう。森に潜む見えない敵というのはベトコンのメタファーであり、ダッチが泥にまみれて弓矢と罠で戦うのは、米軍の対ベトコン戦略のやり直しシミュレーションのように思える。米軍もやろうと思えば、森林の中で原始的な手段でも戦えるのだぞ、というところを見せたのが当時のアメリカ人の心を捕えたのかもしれない。

武士道精神と言おうか騎士道精神と呼ぶべきか、武器を持たない者は攻撃しないというポリシーのプレデターこそが実は米軍の在りうべき姿が仮託された存在なのだろうか。ダッチの言う”You are one ugly motherfucker.”という言葉に、当時の米軍のテクノロジーの濫用(枯れ葉剤!)に見られるような醜さ、汚さを見出すのはいと容易い。『ザ・プレデター』でオリビア・マンが呟く”You are one beautiful motherfucker.”という台詞は、いったい誰に向けてのものだったのだろうか。

クソのような正統続編を作ってしまったがためにオリジナルがますます輝くという点では、まるで『エイリアン』シリーズのようだ。そして目に映るもの以上の意味を盛り込んでいることで単なる面白作品以上のものに作品が昇華されているという点で、名作以上の古典的作品と呼べるものに仕上がっている。『ビバリーヒルズ・コップ』のように『プレデター』も2で止めておけば・・・ 近所のTSUTAYAで関連作品を借りてきてレトロ映画レビューみたいなのもやってみようかな。しかし、そうすると『エイリアンVSプレデター』も、もう一度観ないといけないのが辛いところ。まあ、おいおい考えてみますか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, B Rank, SFアクション, アーノルド・シュワルツェネッガー, アメリカ, カール・ウェザース, シェーン・ブラック, 監督:ジョン・マクティアナン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プレデター』 -SFアクション映画の記念碑的作品-

『ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー』 -女の友情の美しさと醜さを目撃せよ-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 45点

2018年9月27日 レンタルDVD鑑賞
出演:スカーレット・ジョハンソン ケイト・マッキノン ジリアン・ベル イラナ・グレイザー ゾーイ・クラヴィッツ
監督:ルシア・アニエロ

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原題はRough Night、≪大荒れの夜≫の意である。『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の女性版でもあるし、『バチェロレッテ あの子が結婚するなんて!』や『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』の亜種というか系列作品でもある。

ジェス(スカーレット・ジョハンソン)とアリス(ジリアン・ベル)、フランキー(イラナ。グレイザー)、ブレア(ゾーイ・クラヴィッツ)の4人は大学生時代からの親友。一生変わらぬ友情を誓った仲である。大学卒業後10年、ジェスは政治家を目指して選挙運動中、そして婚約者のピーターとの結婚も迫っていた。旧知の4人にジェスのオーストラリア留学時代のルームメイト、ピッパ(ケイト・マッキノン)も含めて5人はマイアミにてバチェロレッテ・パーティーを行うこととなる。それがとんでもない騒動の幕開けとなるとも知らず・・・

マイアミは、LAほどではないが、数多くの映画の舞台となってきた。しかし、ここで思い浮かんでくるのは『マジック・マイク』、マシュー・マコノヘイがキッドと共に旅立って行った先がマイアミである。男性ストリッパー、マジック・マイク風に表現すれば、メイル・エンターテイナー(male entertainer)である。そして彼らの仕事と言えば、女性に奉仕することである。バチェロレッテ・パーティーと言えば、メイル・エンターテイナーが定番らしい。本作では、ジェスの独身最後の夜に思いっきり羽目をはずすべく呼んだストリッパーを、アクシデントによりアリスが殺してしまう。元々、亀裂が入っていたというか火種をはらんでいた彼女らの関係は、ここからドラマチックに展開していく。それを目の当たりにする我々男性陣は、女の友情の美しさの裏にある脆さ、儚さに、時に失笑し、時に戦慄するのである。

映画として映像や音楽、脚本、演技などの面で特段に優れた点も悪い点というのも見当たらない。DVDスルーとなったのもむべなるかなという作品である。台風で何もすることがないという時に、暇つぶしがてら観るのには適しているかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, スカーレット・ジョハンソン, 監督:ルシア・アニエロ, 配給会社:コロンビア映画Leave a Comment on 『ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー』 -女の友情の美しさと醜さを目撃せよ-

『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

Posted on 2018年9月28日2019年8月22日 by cool-jupiter

ジュラシック・パーク 80点

2018年9月24日 レンタルDVD鑑賞
出演:サム・ニール ローラ・ダーン ジェフ・ゴールドブラム サミュエル・L・ジャクソン リチャード・アッテンボロー B・D・ウォ
監督:スティーブン・スピルバーグ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180928014135j:plain

ふと気になって近所のTSUTAYAで借りてきてしまった。確か劇場初公開時に岡山市の映画館で観たんだったか。1990年代半ばの映画館は、誰かが入口ドアを開けるたびに光が思いっきり入り込んでくるように出来ていた。まだまだ劇場というものの設計思想が日本では遅れていた時代だった。それでも座席予約や入れ替え制なども中途半端で、極端な話、入場券一枚で一日中映画三昧が可能なところもあった。良きにつけ悪しきにつけ、おおらかな時代だった。バイオテクノロジーやコンピュータテクノロジーが、ブレイクスルーを果たした時代でもあった。もちろん、2018年という時代に生きる者の目からすると、技術的にも設計思想にも古さが見てとれるが、この『ジュラシック・パーク』が古典とされるのは、それが生まれた背景となる時代と激しく切り結んだからだ。

大富豪のジョン・ハモンド(リチャード・アッテンボロー)は、琥珀に閉じ込められたジュラ紀の蚊の体内に保存された恐竜の血液からDNAを採取、復元。恐竜たちを現代に蘇らせ、一大テーマパークを作る構想を練っていた。そのテーマパークを見てもらい、構想に意見をもらうため、古生物学者のグラント博士(サム・ニール)、植物学者のサトラー博士(ローラ・ダーン)、カオス理論を専門とする数学者のマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)を招聘する。一方で、ジュラシック・パーク内部には、恐竜の杯を高く売り飛ばそうとするネドリーもいた。様々な思惑が入り乱れる中、島には嵐が迫る・・・

まず過去の作品を評価するに際して、映像の古さには目を瞑らなくてはならない。現代の目で過去作品を断じることはあまりすべきではない。それでも本作に関しては、初めて劇場で観た時に魂消るような気持ちになったことは忘れようもない経験だった。巨大な生物が大画面に現れたからではなく、このような巨大な生物が現実の世界に存在してもおかしくないのだ、と思わされるようなリアリティがあったからだ。単に巨大な生き物が画面に現れて暴れるというのなら、ゴジラでも何でもありだ。ゴジラには怪獣としてのリアリティ=その時代において怪獣性に仮託される別の事象・現象があるのだが。時にそれは原子力に代表されるような科学技術の恐ろしさ、戦争という災厄、公害、宇宙からの侵略者、超大国の軍事力でもあった。

Back to the topic. 恐竜を復元、再生するリアリティに何と言っても生物学の長足の進歩があった。1990年代の生物学の歴史は、素人の立場ながら乱暴にまとめさせてもらうと、分子生物学と脳科学の発達の歴史だった。前者の分子生物学は、そのまま遺伝学と言い換えても良いかもしれない。その分野の最新の知見を、コンピュータ技術などと組み合わせることで、現実感が生まれたわけだ。これは過去数年の間に『エクス・マキナ』などに見られるような人工知能、そしてロボットの主題にした映画が陸続と生まれつつあることの相似形である。歴史は繰り返すのだ。ちなみにこの分野では『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)が白眉であると思う。スカーレット・ジョハンソン主演で実写映画化されたのも、偶然ではなく満を持してというところだろう。結果は、まずまずの出来に終わってしまったが。

Back on track. 映画の面白さを語る時、どこに着目するかは観る人による。ある人は演出に魅せられるだろうし、ある人は映像美を堪能するだろうし、またある人は役者の演技に注目するだろう。しかし、ある作品が名作、さらに古典たりえるか否かは、その作品が持つテーマが普遍性を有するかどうかにかかっている。『ジュラシック・パーク』のテーマは、イアン・マルコムがランチのシーンですべて語り尽くしている。「あんたらは他人の功績に乗っかかって、その技術を応用するが、その責任はとらない。その科学技術を追求することができるかどうかだけ考えて、追求すべきかどうかを考えもしない」と厳しく批判する。ゲノム編集技術を倫理的に議論し尽くせているとは言い難い状況で研究や実験をどんどん進める無邪気な科学者たちに聞かせてやりたい台詞である。絶滅の危機に瀕するコンドルを例に挙げ、自らを正当化しようとするハモンドにも「森林伐採やダムの建設で恐竜は滅んだのではない。自然が絶滅を選んだんだ」と理路整然と反論する。科学と倫理のバランスはいつの時代においても重要なテーマである。漫画『ブラック・ジャック』の本間先生の名言「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という声が、本作鑑賞中に聞こえてきた。“Life finds a way.”と”We spared no expense”という二つの象徴的な台詞の意味についても、よくよく考えねばならない時代に生きている我々が、繰り返し鑑賞するに足る映画である。本作を観ることで、『ジュラシック・ワールド』シリーズが『ジュラシック・パーク』に多大な影響を受けていることが分かる。構図があまりにも似すぎているものがそこかしこに散見されるからだ。小説家の道尾秀介は『貘の檻』で横溝正史の『八つ墓村』から無意識レベルでの影響を受け、意図せずにオマージュ作品を書いてしまったということを機会あるごとに語っているJ・J・エイブラムスも『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で直観的な演出を即興で多数盛り込んだことで、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のオマージュを創り出した。名作とは、頭ではなく心に残るものらしい。記憶ではなく、無意識の領域に刻みつけられるものが名作の特徴であるとするならば、『ジュラシック・パーク』は文句なしに名作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, SF, アメリカ, サム・ニール, ジェフ・ゴールドブラム, ホラー, ローラ・ダーン, 監督:スティーブン・スピルバーグ, 配給会社:ユニバーサル・ピクチャーズLeave a Comment on 『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

『ザ・プレデター』 -製作者がアホだらけ=登場人物もアホだらけ-

Posted on 2018年9月27日2019年8月22日 by cool-jupiter

ザ・プレデター 20点

2018年9月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ボイド・ホルブルック トレバンテ・ローズ ジェイコブ・トレンブレイ キーガン=マイケル・キー オリビア・マン 
監督:シェーン・ブラック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180927234655j:plain

  • 以下、マイルドなネタばれ記述あり

まるで『デスノート Light up the NEW world』を観ているようだった。つまり、長い年月を経て続編を作ったにもかかわらず、そこにあるべきアイデアが全く無いという意味である。デスノートという凶悪な兵器が存在することが分かっている。そして、そのノートが力を発動する条件も解析されている。ならば可能な限りのシミュレーションを行い、万全に近い対策を取れるようになっていなければおかしい。にも関わらず、お面は無いだろうお面は・・・と落胆させられた映画ファンはきっと多かったことと思う。あの何とも言えないがっかり感、虚脱感をまた味わえるのが本作である。よほどこのシリーズ、もしくはプレデターというクリーチャーに思い入れが無い限りは、カネと時間の両方を浪費することになるだろう。注意されたし。

 スナイパーのクイン・マッケナ(ボイド・ホルブルック)は、任務の最中に異星人の宇宙船の墜落に遭遇してしまう。そこで仲間を失い、自身もピンチに陥るも、異星人の装備を偶然に発動させてしまったことで危機を脱する。事態の深刻さを重く受け止めたクインは、自閉症気味だが天才でもある息子、ローリー・マッケナ(ジェイコブ・トレンブレイ)に装備を託す。しかし、1987年から異星人の襲来を知り、研究をしていた機関がマッケナ家に迫る。一方で、異星人を狩る異星人も地球に降り立ち、事態は混迷を極める。マッケナは、刑務所へ護送中の脛に傷のある兵士たちと共に立ち上がる・・・

 

以下は、余りにも不可解な点のいくつかを書き出したものなので、これから映画本編を存分に楽しみたいと思っている方は読まない方がよいかもしれない。

 

まず言っておかねばならないのは、この映画の登場人物たちの思考や発言、行動をまともに理解しようとしてはいけない、ということである。なぜ生きたプレデターのサンプルをあれほど無造作に扱うのか。『ライフ』における“カルヴィン”の如く扱われてしかるべきではないのか。なぜプレデターの装備品を強化ガラスでも何でもない、ただのガラスケースに入れて展示しているのか。なぜ女性生物学者のケイシー(オリビア・マン)がララ・クロフトばりの体術を披露してプレデターを追跡するのか。なぜ自国の戦闘機が撃墜されているというのに、米軍は本腰を入れてプレデター掃討に乗り出さないのか。なぜ警察や軍は真っ先に張り込むべきクインの自宅に張り込まなかったのか。なぜクインの仲間たちは車を手に入れろと言われて、絶対に盗んではいけないコップ・カーを盗んでくるのか。なぜローリーが、全くの不運とはいえ、プレデター兵器で殺人を犯さねばならないのか。なぜケイシーは、いやしくも生物学者の端くれであるにも関わらず、異星生物の体液に何の抵抗もなく素手で触れてしまうのか。なぜケイシーは光学顕微鏡でプレデターの血液を覗いて、それが各種生物のハイブリッドであると分かるのか。そもそもプレデターのDNA、というか遺伝情報が書き込まれた生化学物質は光学顕微鏡で見えるサイズなのか。また、なぜ見たことがないはずの≪銀河系中の生物の遺伝情報≫を取りこんでいる、などと分析できてしまうのか。30年も研究していたなら、プレデターの装備の素材の強度などとっくの昔に分析済みだろう。なぜ通用しないと分かっている弾丸を撃ち続けるのか。徹甲弾ぐらい用意できなかったのか。またファーストはなぜスーツそのものを人類に託すのか。そこは設計図、もしくはプレデター側の情報だろう。

さらに本作の問題点は続く。どこかで見た構図が異様に多いのだ。ちょっと思い出せるだけでも『ミッション・インポッシブル』、『ターミネーター』および『ターミネーター2』、『エイリアン』および『エイリアン2』、『スタートレック』、『アイアンマン』、『インデペンデンス・デイ』および『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』などなど、Jovian以上のCinephileなら、おそらくもう20~30本は本作の先行作品というか、模倣の基になったお手本作品の名を挙げられるのではなかろうか。

オリジナルの『プレデター』が素晴らしかったのは、軍人ユニットに特有の緊張感のあるユーモア、サバイバルという共通の目的を暗黙のうちに理解し合ったチームワーク、そして戦士vs戦士へと昇華していく流れの良さだった。役者としてそこにいたはずのシェーン・ブラックにして、何故こんなクソのような続編を作れてしまうのか。本編中でやたらと「プレデターは言葉通りの意味のプレデターではない」みたいなことを何度もキャラクターに喋らせ、代わりに「エイリアン」を連呼させていたが、何か映画製作中に外部もしくはスポンサーから特別な注文でもついたのか。ここからさらに続編作る気満々のようだが、製作者を総入れ替えしない限り、同じようなクソ作品になることは火を見るよりも明らかである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, SFアクション, アメリカ, オリビア・マン, ジェイコブ・トレンブレイ, 監督:シェーン・ブラック, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『ザ・プレデター』 -製作者がアホだらけ=登場人物もアホだらけ-

『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

Posted on 2018年9月26日2019年8月22日 by cool-jupiter

ブレス しあわせの呼吸 70点

2018年9月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド クレア・フォイ トム・ホランダー
監督:アンディ・サーキス

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書評家の佐藤圭は「小説とは嘘っぱちの中に面白さを見出すもの、文学とは嘘っぱちの中に真実を見出すもの」と喝破した。その定義法を拝借するならば、映画というものには二種類あると言えるかもしれない。すなわち、物語の中に面白さを見出すべきものと、物語の中に真実を見出せるものとである。では、本作は前者なのか後者なのか。答えは両方である。

英国人のロビン・カベンディッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は茶葉の買い付け仲買人。運命の人ダイアナ(クレア・フォイ)とめでたく結婚し、子を儲けるも、幸せは長くは続かなかった。出張先のケニアはナイロビで、ポリオに罹患してしまったことにより、首より下に麻痺を負ってしまう。人工呼吸器なしでは生命維持も不可能で、医師からは余命数カ月を宣告されてしまう。病院を出たいというロビンに、ダイアナは自宅での看護を決心する。

この映画の時代背景に、まず驚かされる。ロビンのポリオ発症が1958年なのである。そして友人らの助けを借りて人工呼吸器搭載可能な車イスの発明が1962年。50年以上前に紡がれた物語が今という時代に影響を及ぼしているということに思いを致さずにはいられないし、同時にこの国でバリアフリー、ノーマライゼーション、セルフケアという概念が本当の意味で浸透し、結実し始めたのが2000年以降であるという事実には慨嘆させられてしまう。もちろん、社会のインフラがそう簡単に作りかえられるものではないが、それでもベビーカーもしくは車イスを押したことのある人ならば、我々の暮らす社会がどれほどバリアに満ちているのかを実感したことがあるはずだ。そして、そうしたバリアを是正すべく、公共の駅などにはエレベーターがどんどんと設置され、新しく建設されたショッピングモールなどは徹底的に段差をなくし、映画館は車イス使用者専用のスペースを設けている。しかし、本当のバリアは人の心の中にあるのだ。満員電車にベビーカー連れで乗り込むのは有りや無しやという議論が定期的に沸騰するが、こんな議論はそもそも論外なのだ。ベビーカーに寛容になれない社会が、車イスに寛容になれるわけがない。我々が障がい者を見るとき、我々は同時に自分が障がいを負った時の姿を投影せねばならない。人に優しくなれないのに、自分には優しくしてほしいなどというのは成熟した社会の一員とは言えまい(成熟した、は社会を修飾していると捉えても、社会の一員を修飾していると捉えてもらってもよい)。我々がいかに車イスを見るにせよ、この映画が終盤近くに見せるドイツの病院は、我々に恐ろしいまでのショックを与える。それによって、確かにわずか数十年とはいえ、我々は見方や考え方を改めてきているようだ。

本作は実話を基にしているとはいえ、おそらくかなりドラマタイズされた部分もある。死にたいと願うロビンが、生を謳歌するようになったのには、妻ダイアナの愛があったのは間違いない。素晴らしいと思えるのは、その愛を育むロマンチック、ドラマチックなエピソードを本作はほとんど映さない。撮影はして、編集でカットしてしまったのかもしれないが、その判断は正解である。劇的な愛ではなく、ありふれた愛、日常的な愛、普通の愛であるからこそ、献身的にも映る看護ができたのだろう。もちろん、この夫婦にダークな側面が無かったとは言い切れない。例えば、ロビンに間接的に多くを負っていたであろうスティーブン・ホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』は、間接的に不倫をにおわせ、最後は儚くも美しい別離に至る関係を描いていたし、一歩間違えれば江戸川乱歩の小説『芋虫』のような展開を迎えていたかもしれないのだ。邦画で似たような関係を描いた秀作では『8年越しの花嫁 奇跡の実話』が挙げられるかもしれない。劇場で観たが、Jovianの実家の隣町の話なので、DVDをレンタルしてもう一度観るかもしれない。そうそう、現実にあった乙武氏の不倫問題なども忘れるべきではないだろう。とにかく、男女の愛は様々な異なる形を取るものだが、ロビンとダイアナの愛はその普通さゆえに異彩を放っている。

Back to the topic. 本作は、観る者に感動やショックだけではなく新たな視座を与えてくれもする。劇中でロビンが「専門家はすぐに無理だと言う」と言うが、蓋し名言であろう。これは専門知識やスキルの蔑視というわけでは決してない。そうではなく、何か新しいことをするときには、自分を信じろということだ。本作には、現代の視点で見れば、数々のトンデモ医者が登場する。しかし、そうした医者たちも当時の自分たちの価値観に照らし合わせて、患者のために良かれと思ってあれやこれやを行っていたのだ。大切なのは、それが本当に他者の利益になっているかどうかを確かめることだ。患者を病気やけがという属性で語ることの愚は『君の膵臓をたべたい』で触れた。患者を人間として見ることが肝心要なのだ。

近くの映画館で本作を上映しているという方は、ぜひ観よう。単なるヒューマンドラマ以上のものが本作には盛り込まれているし、我々はそのメッセージを受け取らねばならない社会に生きているのだから。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アンドリュー・ガーフィールド, イギリス, ヒューマンドラマ, 監督:アンディ・サーキス, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

Posted on 2018年9月25日2019年8月22日 by cool-jupiter

ボーダーライン(2015) 75点

2018年9月22日 レンタルBlu-ray鑑賞
出演:エミリー・ブラント ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン ビクター・ガーバー ジョン・バーンサル ダニエル・カルーヤ ジェフリー・ドノヴァン
監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180925121059j:plain

劇場で見逃したまま数年が経過。続編が出ると聞き、今こそ観るときと満を持してTSUTAYAで借りてきた。この邦題は賛否両論を生むだろう。原題は”Sicario”、ラテン語由来で、【暗殺者】の意である。話の争点は、アメリカとメキシコの国境線を決める戦いでもなければ、国境地帯でのほのぼの交流物語でもない。しかし、原題に忠実に『暗殺者』というタイトルにしても、配給会社はプロモーションしにくい。いっそのこと『シカリオ』で売り出すというのも、一つの手だったのでは?原題のミステリアスな響きをそのままに日本語に持ってきたものとしては『メメント』や『アバター』、『ジュマンジ』、『ターミネーター』、『ダイ・ハード』などが挙げられる。

FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、国防総省が組織する対メキシコ麻薬カルテル部隊への参加を志願するようCIAのエージェント、マット(ジョシュ・ブローリン)に促され、チーム入り。そこで謎のコロンビア人、アレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)に出会う。メキシコから流入する不法移民、そこに付随してくる麻薬の流通量の増加に、ついに目をつぶることができなくなった米政府の上の上の方からの指示による作戦。それに従事していく中で、ケイトは辞めたはずの煙草に手を伸ばす。彼女の中の正義感が大きく揺らいでいく・・・

まず強調しておかねばならないのは、本作ではベニシオ・デル・トロのキャリア最高のパフォーマンスが見られるということである。そしてそれはジョシュ・ブローリンにも当てはまる。ブローリンは『オンリー・ザ・ブレイブ』、『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』、『デッドプール2』の劇場公開もあり、まさに2018年の顔の一人であった。それでも2015年劇場公開の本作こそが、彼のキャリア・ハイの演技を見せてくれた。彼ら2人の演技、存在感は完全に主役であるはずのエミリー・ブラントを喰っており、特に後半から終盤はデル・トロの独擅場である。原題の意味を、観る者はここで嫌というほど思い知らされるのだ。同時に、意訳された邦題の意味についても考えさせられる。正義と悪の間の境界線という次元ではなく、正義そのものの概念が揺らいでいく。正義と秩序が一致しないのだ。

メキシコの一部地域では、民間の車両が多数いる中での銃撃戦、市街地を武装車両が我が物顔で走行しても気にする素振りも見せない市民、ハイウェイの高架下に吊るされる切り刻まれた死体。非日常感ではなく、異世界感すら漂う。アメリカ側のカルテル掃討部隊も法の定める手続きなど一切無視。毒を以て毒を制すの言葉通りに淡々と進んでいく。アメリカの政府の上層部は、すでに毒を食らわば皿までと腹をくくっている。では、ケイトは?FBIの相棒レジー(ダニエル・カルーヤ)以外に信じられる者などが一切存在しない中、自分たちの作戦参加の意義を知ることで、彼女の正義感や任務への使命感は瓦解する。ジョシュ・ブローリンの底冷えを感じさせる笑顔に、戦慄させられてしまう。

本作は映画の技法の点でも非常に優れている。メキシコのフアレス地域は、まさしくアーバン・スプロールの具現化である。都市郊外部が無秩序に平面的に四方八方に拡大しているのを上空から俯瞰するショットは同時に、山に巨大な文字で刻みつけられた住所も映す。こうした地域ではきめ細かい郵便サービスはもはや不可能で、郵送物はヘリコプターで落下傘的に投下して、後は現地住人が自主的に宅配するらしい。犯罪者の根城、犯罪の温床となるにふさわしい土地であることが十二分に伝ってくる。このようなショットをふんだんに見せつけることで、クライマックスの麻薬王の邸宅がいかに豪奢であるかがより際立ってくる。しかし、我々が最も慄くのは、麻薬の恐ろしさ、麻薬のもたらす莫大なカネではない。そんなメキシコの麻薬組織を如何に潰してくれようかと画策するアメリカ側の酷薄さである。そこに正義などない。こんなゴルゴ13みたいな話があっていいのかとすら思ってしまう。フィリピンのドゥテルテ大統領は「血塗られた治世」を標榜して、麻薬取引に関わる人間を片っ端から射殺し、国際社会からは批判を、国民からは喝采を浴びた。100年後の歴史の教科書は、フィリピンの対麻薬戦争を、そしてアメリカの対麻薬戦争をどのように描き、評価するのであろうか。本作の続編が、不謹慎ながら楽しみである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョシュ・ブローリン, ベニシオ・デル・トロ, 監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

Posted on 2018年9月24日2019年8月22日 by cool-jupiter

食べる女 70点

2018年9月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:小泉今日子 鈴木京香 沢尻エリカ 広瀬アリス シャーロット・ケイト・フォックス 前田敦子 壇蜜 ユースケ・サンタマリア 間宮祥太朗
監督:生野慈朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180924015437j:plain

派手なアクションや手に汗握るスリル、背筋が凍るような恐怖感や息もできなくなりそうなサスペンスを求める向きには全くもってお勧めできない作品である。映画とは、何よりもまず、一般家庭では享受できないような大画面と大音響を楽しむための媒体で、そうした文字どおりの意味でのスペクタクルはこの作品には全く盛り込まれていないからである。だからといって本作には劇場鑑賞する価値が無いのかと言えば、さにあらず。充分にチケット代以上の満足感は得られるだろう。

餅月敦子(小泉今日子)ことトン子は、古本屋と文筆業の二足のわらじを履いている。同居人は猫の“しらたま”である。古本といっても料理に関連するものばかりで、トン子自身もかなりの腕前の持ち主。そんなトン子の編集者の小麦田圭子(沢尻エリカ)ことドド、トン子の親友にして割烹料理屋の女将、鴨舌美冬(鈴木京香)、ドドの飲み友、テレビドラマ制作会社のアシスタントプロデューサー白子多実子(前田敦子)らは、定期的にトン子宅で料理に舌鼓を打ちながら、男や仕事について語り合うのであったが・・・

まずエンドクレジットの特別協力だったか特別協賛だったかの、

 

      sagami original

 

というデカデカとした表示に我あらず笑ってしまった。もちろん、商品そのものは映らないのだが、それを使っているであろうシーン(使ってなさそうなシーンも)しっかり用意されているから、スケベ視聴者はそれなりに期待してよい。最もそういったシーンが期待できるはずの壇蜜     と鈴木京香    にそれがなく、逆にシャーロット    が体を張ってくれたことに個人的に拍手を送りたい。

さて、冒頭に記したようにドラマチックな展開にはいささか欠ける本作であるが、ドラマがないわけではない。実は非常に深いテーマも孕んだドラマがある。それは「人間は変わりうる」ということである。変わると言っても、何も宗教的回心のような、それこそ劇的な体験のことではない。日々の生活の中で得るほんのちょっとした気付きがきっかけになったり、人間関係の変化であったり、経済的な変化であったり、身体的な変化であったりもする。我々は普段、そうした変化があまりにも静かに進む、もしくは起きることが多いために、そうした変化を見過ごしがちである。しかし、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」を引くまでもなく、変化しないものはない。仏教にも≪諸行無常≫と言うように、人間の本質は古今東西においても変化なのである。そんな変わっていく自分、変わっていく他者に愛情を注ぐことができれば、それは自分という存在そのものを肯定することにもつながる。なぜなら、繰り返しになるが人間存在の本質が変化であるからだ。こんな自分は嫌いだという人は変化を求めれば良いし、こんな自分が好きという人は、そのように変化していく自分をそのまま楽しめば良い。なにやらニーチェの永劫回帰思想やゲーテの『ファウスト』にも通じるものがありそうだ。

印象的なプロットを紹介すると、ドドとタナベの出会いが思い浮かぶ。これなどは正に、“袖振り合うも多生の縁”を地で行くような Story Arc である。もう一つは、あかりの受動から能動への変化である。詳しくは本作を観てもらうべきだろう。一見すると下半身がだらしない女のように見えてしまうが、貞操概念に欠けるのではなく、愛情を注がれることに快楽を見出す女なのだ。それは例えば料理をおいしそうに食べてくれたり、あるいはベッドで自分を愛撫し、動いてくれることだったりする。そうではなく、愛情をストレートに自分から表現しにいくシークエンスは、昨今の少女漫画原作の映画化作品に見られる、ヒロインが走っていくのを横から車で並走しながら撮影していく、アホのような画の再生産ではなく、本当に真正面からのものだった。非常に新鮮で、『巫女っちゃけん。』あたりから既に変化の兆しは見られていたが、広瀬アリスという役者の大いなる成長を目の当たりにしたかのようだった。最後に、シャーロット・ケイト・フォックスである。そそっかしいという自覚のある人は、彼女の Story Arc を決して早合点しないようにしてほしい。ダメな女の成長物語と唐竹割の如く切って捨てるように評するのはたやすい。しかし、そうした見方をしてしまう時、我々は既に自分の中に「ダメな女」像と「できる女」像を抱いてしまっていることを自覚せねばならない。人間というものを変化する主体ではなく、固定されたキャラクターであるかのように見てしまう癖が、どうしても我々にはあるようだ。しかし、古代中国の故事に「士別三日、即更刮目相待」とある。三日で人は変わりうるし、我々も見る目を変えねばならない。割烹料理屋での無音の中でのやりとりに、静かな、それでいて非常に力強いドラマが進行していることを、本作は感じさせてくれた。こここそが本作のハイライトで、凝り固まった頭の男性諸賢は心して観るように。

反面で指摘しなければならない粗もいくつかある。ジャズバーのシーンでは明らかにBGMが編集されたものだったが、ここは店内の雰囲気をもっと濃密に醸し出すために、それこそLPレコード音を背景に撮影するぐらいでも良かった。デジタル全盛の時代ではあるが、古い写真に味わいが出てくるように、レコードにも味わいが出てくるものだ。そういえば古さを賛美する印象的なシーンが『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー』で見られた。” Sir, in your case, age becomes you. As it does a tree, a wine… and a cheese.”という、コリン・ファースへの台詞だ。映画の醍醐味には音という要素もあるのだから、ここを生野監督にはもっと追求してほしかった。また、ネコが前半で大活躍するのが、名前がしらたまというのはどうなのだろうか。稲葉そーへーの某漫画を連想したのはJovianだけではあるまい。

弱点、欠点はいくつか抱えているものの、それでも本作は秀逸な作品である。十数年前になるか、某信販会社にいた頃、20~30代女子向けに“自分にご褒美”キャンペーンとして、週末のホテル宿泊を推していたことがあった。おそらく2000年代あたりから、モノの消費から、コトの消費へと個の快楽の追求はシフトし始めていたが、本当にそれが根付き定着したのはごく最近になってからではなかろうか。失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『万引き家族』は我々に見せつけたが、本作の女たちの食事シーンは、ある意味での人間関係の最新形と言える。愛情は男女間だけのものではなく、自分で自分に向けるものでもあるし、ほんのちょっとしたことで知り合う他者にも大いに注いで良いものなのだ。それが実践できれば、愛しいセックスをしている時と同様に、人は暴力や差別から遠ざかることができるのだろう。その先に、“修身斉家治国平天下”があるのだろう。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小泉今日子, 広瀬アリス, 日本, 沢尻エリカ, 監督:生野慈朗, 配給会社:東映, 鈴木京香Leave a Comment on 『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

Posted on 2018年9月22日2020年2月14日 by cool-jupiter

ゲド戦記 15点

2018年9月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子 香川照之 風吹ジュン
監督:宮崎吾朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180922030156j:plain

冒頭から、息子による父殺しが行われる。文学の世界においては、父親殺しはオイディプス王の頃から追究される一大テーマである。吾朗は、駿を殺す=乗り越えると、高らかに宣言している。そしてそれは失敗に終わった。それもただの失敗ではない。悲惨な大失敗である。

凶作や英奇病に苦しむ王国の王子アレン(岡田准一)は、父王を殺し出奔する。その途上、大賢人ハイタカ(菅原文太)に巡り合い、世界の均衡を崩す要因を追究する旅に同行する。そして、テルー(手嶌葵)とテナー(風吹ジュン)と邂逅しながらも、人狩りのウサギ(香川照之)やその主のクモ(田中裕子)との争いにその身を投じていく・・・

まず宮崎吾朗には、商業作品で自慰をするなと強く言いたい。『 パンク侍、斬られて候 』は石井岳龍の実験なのか自慰なのか、判別できないところがあったが、今作は完全に吾朗の自慰である。それもかなり低レベルな。それは原作小説の『ゲド戦記』の色々なエピソードを都合よく切り貼りしてしまっているところから明らかである。まずゲド戦記のすべてを2時間という枠に収めることは不可能である。であるならば畢竟、どのエピソードをどのように料理していくかを考えねばならないが、吾朗はここでハイタカとアレンの物語を選ぶ。少年と壮年もしくは老年の旅を描くならば、そのたびの過程そのものに父親殺しのテーマを仮託すればよいのであって、冒頭のシーンは必要ない。『太陽の王子 ホルスの大冒険』のように、いきなり狼の群れにアレンが囲まれるシーンに視聴者を放り込めばよいのだ。本作は父殺しをテーマにしているにも関わらず、アレンがハイタカを乗り越えようとする描写が皆無なのだ。影が自分をつけ狙うというのもおかしな話だ。影がハイタカをつけ狙い、隙あらば刺し殺そうとするのを、アレンが止めようとするのならばまだ理解可能なのだが。これはつまり、偉大なる父親を乗り越えたいのだが、結局は父の助力や威光なしには、自らの独立不羈を勝ち得ることはできないという無意識の絶望の投影が全編に亘って繰り広げられているのだろうか。

本作のアニメーションの稚拙さは論ずるに値しない。一例として木漏れ日が挙げられよう。『 耳をすませば 』でも『借りぐらしのアリエッティ』でも『 コクリコ坂から 』でも何でもよい。光と影のコントラスト、その自然さにおいて雲泥の差がある。別の例を挙げれば、それは遠景から知覚できる動きの乏しさである。ポートタウンのシーンで顕著だが、街の全景を映し出すに際しては、光と影から、時刻や方角、季節までも感じさせなければならない。随所に挿入される如何にも平面的なのっぺりとした画を、『もののけ姫』でも『風立ちぬ』でも何でもよい、駿の作品と並べて、比べてみればよい。その完成度の高さ、妥協を許さぬ姿勢において、残念ながら息子は父に全くもって及ばない。

はっきり言って、15点の内訳は香川照之の演技で15点、菅原文太の演技で15点、手嶌葵の演技でマイナス15点の合計点である。哲学的に考察すればいくらでも深堀りできる要素がそこかしこに埋まっている作品であることは間違いないが、吾朗はそれをおそらく自分の中だけで消化してしまっており、観る側がイマジネーションを働かせるような余地というか、材料を適切な形で調理することなく皿に載せて「さあ、召し上がれ」と言ってきたに等しい。こんなものは食べられないし、食べるにも値しない。ゆめ借りてくることなかれ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 香川照之Leave a Comment on 『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

Posted on 2018年9月21日2020年2月14日 by cool-jupiter

幼な子われらに生まれ 70点
2018年9月18日 レンタルDVD鑑賞
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 宮藤官九郎 寺島しのぶ
監督:三島有紀子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180921024132j:plain

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で鮮烈な印象を銀幕に残した南沙良の映画デビュー作ということで近所のTSUTAYAで借りてきたが、これはなかなかの掘り出し物である。原作は重松清の同名小説だが、そちらの出版は1996年というから20年以上前である。離婚やDVが格段に増えた現在では、本作のような家族構成はさほど珍しいものではなくなった。だが、今日の日本社会の在りようを透徹した目で予見していた重松清の想像力と構想力、そんな彼の作品を現代にこそ映像化する価値があると確信した三島有紀子の炯眼を称えたい。

大企業の係長として順調に40代を送る信(浅野忠信)は子持ちのバツイチ。妻の奈苗(田中麗奈)もバツイチ子持ち。再婚同士で、奈苗の連れ子である2人の娘、薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)とともに府中の新興住宅地に暮らしていた。元々、信には心を開かなかった薫が、早苗の妊娠を機にさらに態度を硬化。信を指して、パパではない、他人だと言い、本当の父との再会を望むようになる。が、実父の沢田(工藤官九郎)はDV男であった。だんだんと薫の扱いに手を焼き始めた信は、薫を沢田に引き合わせようとし、さらには堕胎と離婚までも望むようになる・・・

これは、特に男性サラリーマンにとって、非常に身につまされる話である。信自身の言葉を借りれば、「ツギハギ家族」の物語だからである。家族の在り方は時代や地域と共に変わっていくのが必然であるが、それでも我々は家族というものに大いなる幻想を見るし、また見出したがってもいる。こうした家族の形態を別の面から映し出した秀作に『万引き家族』がある。家族というものを機能的な面から切り取りながら、大人の情緒や心理が時に一方通行になりがちであるということを鮮やかに残酷に描き出した傑作である。本作の主題はどうか。血のつながりのある子どもと、血のつながらない子ども、両方を同時に育てられるかということだ。そして、その奥底にあるのは、家族としてのまとまりは血に依るのか、情に依るのかという命題で、さらには機能に依るのかという側面も垣間見える。

主人公の信は、上司の課長の評するところによると、

「有給を全部使う」

「休日出勤は断る」

「飲み会は一次終わりで退散する」 

「子どもを遊園地に連れていく」

「子どもをお風呂に入れてやる」

という、現代の言葉で評せば、まともに父親業に精を出す男ということになろうか。育メンという言葉は当てはまらないだろう。非常に批判を受けやすく、誤解を与えやすい概念である以上に、信は最も手間のかかる時期に二人の娘の面倒は看ていないからだ。そんな信に上司は、

「仕事に打ち込む姿を見せてやるのが子育てなんじゃないのか」

と諭すように言う。これも一つの識見であろう。特に平成も終わりになんなんとするこのご時世、どういうわけか昭和的な価値観のかなりの部分がゾンビのごとく生きており、そうした価値観は、一部の組織や共同体では連綿と受け継がれているようである。信の勤める会社はまさにそうしたところで、信はあえなく倉庫送りとなり、ピッキング業務に従事させられる。この辺りから、信の家族内の亀裂は大きくなり始める。同時に、信の前妻(寺島しのぶ)の夫が末期がんで死の間近にあることも知る。そのことを知らされる信の反応は、弱みを見せる女性に対するものとしては最低最悪の部類に入る。よく知られているように、男は基本的に論理というラベルで記憶をタグ付けし、女は基本的に感情というラベルで記憶をタグ付けしている。夫婦喧嘩でこの特徴はてきめんに現れる。女性の言い分はしばしば、「だいたいあなたはいつもそうなのよ。だから○年前のあの時も~~~」という形を取る。男性には理解できない。すでに終わった事柄で論理的につながりのある事例ではないからだ。しかし、怒りという感情が記憶のタグに書き込まれているとしたら、過去に怒りを感じたエピソードが次々に想起されてくるのは当たり前のことで、信はここを前妻に徹底的に責められる。男性視聴者は心して観るように。恐ろしいのは、こうした女性の特徴が小学校6年生の薫にも既に見られることである。「私、なんかこの家、嫌だ」という薫に、「何故だ」と問いかける信。これでは平行線をたどるのも当たり前である。その信が、最終盤では劇的な変化を遂げる場面がある。詳しくは観てもらう他ないが、年頃の娘の扱いに手を焼いているという男性は、本作から学ぶことは多いはずだ。娘や妻に話しかけるときは、論理的な答えを求めてはならないし、論理的な答えを与えてもいけない。

「妊娠中毒のリスクがあるんだって」

という奈苗の言葉に、

「妊娠しているから中毒になるんだ。堕ろせば中毒にはならない」

と信が返す一幕があるが、これなどは愚の骨頂としか思えない返答だ。どう思った?どう感じた?そうか、そう感じたのか、という寄り添いの姿勢を見せることが肝要であるのに、この時の信は限界まで追い詰められていて、そんな余裕がなかった。我々はこれを反面教師としなければならない。

ありうべき父親像については、クドカン演じるDV男が驚くべきというか、恐るべき変貌を見せる。また、信の実の娘もまた、それ以上の変貌を見せる。詳しくは書けないが、家族が家族であるためには血のつながりは決定的に重要なものではないと本作は力強く断言する。それにより初めて信は薫との和解の途に就くことができた。道は険しいが、確かにその道を歩き始めた。そこに新しい命が生まれてくる。その命を守ることで、家族は家族になれる。そんな夢とも幻想ともつかないビジョンを我々は抱くことができる。何ともいえない浮遊感のようなものが本作の特徴である。明晰夢を見せられているような感覚とでも言おうか。

本作を鑑賞する時には、ぜひカメラワークにも注目してほしい。家族間の不和が増大していくシーンではカメラオペレーターの手ぶれが加わっており、まるで我々自身がその場に傍観者として存在しているかのような感覚を味わうことができる。そうではないシーンは定点カメラ、固定カメラによる撮影が行われている。そして浅野忠信の笑顔と不安と怒りとを綯い交ぜにしたような表情を味わえるだけでも美味しいのであるが、そこに南沙良の本能的、直観的な演技も堪能できるという一粒で二度おいしい話である。物語としても、映像芸術としても、非常に秀逸な作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, 南沙良, 宮藤官九郎, 日本, 浅野忠信, 田中麗奈, 監督:三島有紀子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

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