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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』 -Monsterverse本格始動を告げる傑作-

Posted on 2019年6月2日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』 -Monsterverse本格始動を告げる傑作-

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 85点
2019年6月1日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
2019年6月2日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:カイル・チャンドラー ベラ・ファーミガ ミリー・ボビー・ブラウン 渡辺謙 チャン・ツィイー
監督:マイケル・ドハティ

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土曜のレイトショーを観て、売店で思わず帽子とTシャツを衝動買いしてしまった。もう一度、もっと大きな画面と良質な音響で鑑賞したいという思いと、「ん?」と感じてしまった場面を検証したくなり、日曜朝のチケットも購入した次第である。最初は90点に思えたが、二度目の鑑賞を経て85点に落ち着いた。

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あらすじ

2014年にロサンゼルスで起こったゴジラとMUTOの戦いは、住民に甚大な被害を与えていた。それから5年。マーク(カイル・チャンドラー)は、酒に溺れた。その妻のエマ(ベラ・ファーミガ)はモナークと共に、各地に眠る神話時代の怪獣、タイタンたちとの意思疎通を図るための装置を作っていた。そして、中国でモスラの卵が孵るが・・・

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以下、本作および『 ゴジラ 』シリーズおよび他の怪獣映画のネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

Jovianが常々願っていた、「神々しいキングギドラ」が遂に降臨した!『 GODZILLA 星を喰う者 』のギドラもそれなりにまばゆい異形のモンスターであったが、とにかくアクションに乏しく、なおかつ異次元の禍々しさがなかった。Jovianの一押しである『 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 』で千年竜王として覚醒したギドラは赫奕たる聖獣だったが、あまりにもあっさりと爆散させられてしまった。その不遇の怪獣ギドラがついに輝く時が来た。トレイラーにもある火山の頂上で鎌首をもたげ、翼を目いっぱい広げる姿には、文字通りに身震いさせられた。また、真ん中の首はやたらと左の首にきつくあたっており、ドハティ監督が強調していた個性は確かに表現されていた。

 

そしてラドンの雄姿。『 空の大怪獣ラドン 』で活写された、戦闘機以上の超音速飛行に、ラドンの引き起こす衝撃波で街や橋などの建造物が破壊されていく描写が、ハリウッドの巨額予算とCG技術でウルトラ・グレードアップ!キングギドラが上空を飛ぶことで街に巨大な影を落とすシーンは『 モスラ3 キングギドラ来襲 』だったか。そこではギドラが飛ぶだけで子どもが消えた。また、『 ゴジラ対ヘドラ 』では、ヘドラが上空を飛ぶだけで人間が白骨化した。しかし、本作のラドンは、怪獣の飛行によって引き起こされる惨禍としては最上級のスペクタクルを提供してくれた。トレイラーはやや見せ過ぎな感があるが、ラドンの空中戦シーンは本当に凄いし面白い。迫力満点である。

 

モスラの造形も良い。『 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 』における蜂的な、つまり攻撃的な要素も取り込みつつ、しかし母性、慈愛にあふれるキャラクターとしても描かれている。モスラは怪獣にしては珍しく、卵、幼虫、繭、成虫と怪獣にしては珍しくコロコロその姿を変える。また平成モスラシリーズで特に顕著だったように、成虫は敵との戦いに応じて、その姿をびっくりするほど変化させる。ゴジラも各作品ごとに姿かたちは少しずつ異なるが、モスラはその変化の度合いがとても大きい。ではモスラをモスラたらしめる要素とは何か。それは何と「モスラの歌」だったようである。

 

だが本作の主役は何と言ってもゴジラだ。ハリウッドのゴジラ映画で伊福部昭の“ゴジラ復活す”と“ゴジラ登場”を聞くことができる日が来るとは・・・ これがあったからこそ、MOVIXで鑑賞した翌日に東宝のDOLBY ATMOSに追加料金を払う気になったのだ。売店では至る所でゴジラ誕生65周年を記念するグッズが売られていたが、伊福部サウンドが、もちろん編曲され、録音環境や録音技術も格段に向上しているとはいえ、65年経った今でも、何の違和感もなくゴジラという規格外のキャラクターを表現する最上の媒体として機能することに畏敬の念を抱くしかない。『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ドビュッシーの『 月の光 』を思わせる云々などど書いて、実際にドビュッシーの『 月の光 』だと分かって一人赤面したが、これはドハティ監督が伊福部サウンドをクラシカルなものとして認めているということを表しているのだろう。2014年のギャレス・エドワーズ監督の『 GODZILLA ゴジラ 』におけるゴジラに決定的に足りなかった要素が遂に補われた。『 シン・ゴジラ 』の続編は期待薄だが、本作はゴジラが日本のキャラクターではなく、日本発にして日本初のグローバルキャラクターとして確立された記念碑的作品として評価されるべきであろう。

 

前作の反省を生かし、怪獣バトルを出し惜しみせず、真っ暗闇で何が起きているのか分からないような描写は一切ない。これは喜ぶべきことだ。また、人間など蟻んこほどにも意識しなかったゴジラが、芹沢博士を、そして人間を認識するようになったのは今後のMonsterverseの展開を考えれば、様々な可能性への扉を開いたと言えるだろう。そして『 レディ・プレイヤー1 』並みとまではいかないが、怪獣コンテンツ、特に過去のゴジラ映画へのオマージュがこれでもかと詰め込まれている。古代ニライカナイならぬアトランティス、フィリピン沖から三原山への超短時間での移動を可能にしたのはこれだったのかという地球空洞説、『 モスラ3 キングギドラ来襲 』のギドラ並みの再生力を持つモンスター・ゼロ、そして『 ゴジラvsデストロイア 』におけるバーニング・ゴジラの再来と、ゴジラが実際にメルトダウンしそうになった時に周囲で何が起こるのかを実際に見せてくれるところ、そして極めつけのオキシジェン・デストロイヤーなど、怪獣映画愛に溢れた描写がそこかしこに挿入されている。映画ファン、怪獣ファン、そしてゴジラファンならば決して見逃せない大作である。

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ネガティブ・サイド

一度目では目立たなかったが、二度目の鑑賞ではっきりと見えるようになった欠点もいくつかある。まず雨のシーンが多すぎる。本作で本当に雨、そして雲が映えるのは成虫モスラが洋上に飛来するシーンだけだろう。

 

またモナークが少し画面にでしゃばり過ぎである。秘密組織であるにもかかわらず、何故あのような巨大飛行船を所有しているのだ?『 未来少年コナン 』の空中要塞ギガント、『 ふしぎの海のナディア 』の空中戦艦、PS2ゲーム『 エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー 』のフレスベルクの亜種にしか見えないが、給油や整備に成田や関空以上の空港・基地が必要になりそうだ。そんなものを所有する秘密組織があってよいのか?そしてこの巨大飛行船が、しばしば怪獣バトルに割って入るのだ。いや、割って入るだけならよい。観客の視界をふさがないでほしい。

 

また、『 GODZILLA ゴジラ 』で芹沢博士の右腕的存在だったグレアム博士(サリー・ホーキンス)を退場させる必要はあったのか?ジョー・ブロディを死なせる必要が無かったように、グレアム博士も死ぬ必要は無かった。代わりに追加された新キャラクターは、アホな台詞ばかりをしゃべる初老の科学者。

 

マーク “My God”

科学者 “zilla”

 

というやり取りはトレイラーにもあったが、Zillaにまで言及する必要はない。ここは本編からカットするべきだったのだ。ラドン登場シーンで、逃げ惑う人々の群れの中で子どもが転倒、大人が駆け寄る、轟音がして振り返るとそこには大怪獣が・・・ というクリシェはまだ許せる。しかし、軽口ばかり叩いて緊張感が感じられないキャラクターは『 ザ・プレデター 』という駄作だけでお腹いっぱいである。

 

怪獣を使って地球上化を目論むテロ組織も色々とおかしい。オルカという最重要な機器を見張りもつけずに放置して、あっさりとマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)に奪われるなど、あまりにも不可解だ。ご都合主義が過ぎる。また、『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』でも見られた齟齬だが、音波というのは音速 ≒ 時速1200 km で進むわけで、ボストンから音響を大音量で鳴らしたタイミングでワールドニュースが「世界中の怪獣がいっせいにおとなしくなりました」と報じるのは、あまりにも科学的にも論理的にも常識的にもおかしい。怪獣という途轍もない虚構をリアルなものとして成立させるためには、周辺のリアリティをしっかりと確保することが至上命題なのだ。

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総評

弱点や欠点が目立ちはするものの、それを補って余りある長所が認められる。これまでは、多勢に無勢で一方的に倒されることが多かったキングギドラが、久しぶりにゴジラと1 on 1 で戦えるのだ。そして、前作で芹沢博士がゴジラを“An ancient alpha predator(古代の頂点捕食者)”と評した理由が遂に明らかになるラストは、観る者の多くの度肝を抜き、震え上がらせることであろう。Marvel Cinematic Universeが完結し、X-MENも完結間近である。しかし、Monsterverseはここからが始まりなのだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, カイル・チャンドラー, ゴジラ, 怪獣映画, 渡辺謙, 監督:マイケル・ドハティ, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』 -Monsterverse本格始動を告げる傑作-

『 PK 』 -宗教哲学エンタメの一大傑作-

Posted on 2019年5月14日 by cool-jupiter

PK 85点
2019年5月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アミール・カーン アヌシュカ・シャルマ 
監督:ラージクマール・ヒラーニ

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ゴールデンウィーク中の神戸国際松竹のインド映画祭りで鑑賞が叶わなかった作品。やっとこさDVDを借りてきたが、思わず2回鑑賞してしまうほどのインパクトをJovianにもたらした。PKの母星は地球から目視できるようだが、それは木星なのか(劇中で語られる距離からすると違うようだが・・・)?

 

あらすじ

ベルギーに留学中のジャグー(アヌシュカ・シャルマ)はサルファラーズと恋人になるも、思わぬ形で破局。失意の彼女は故国インドに帰り、報道アナウンサーになる。ある日、彼女は「神様 行方不明」というビラを配布して回る奇妙な男、PK(アーミル・カーン)に遭遇して・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ターミネーター 』を思わせる冒頭のシーンで、アミール・カーンの役作りの本気度が分かる。『 ダンガル きっと、つよくなる 』でもそうだが、クリスチャン・ベールや松山ケンイチ、鈴木亮平のように役に合わせて体を作るものだ。それ以上に、まばたきをしない演技というクリシェのレベルを一段上に引き上げたことを評価したい。『 予兆 散歩する侵略者 劇場版 』の東出昌大はアミール・カーンから多大に学ぶことができるはずだ。

 

もちろん、ヒロインのジャグーを演じたアヌシュカ・シャルマも素晴らしい。次世代Indian Beautyという感じで、まるで森見登美彦(の描くへたれ男子キャラ)が恋焦がれてしまいそうなファーティマー・サナー(『 ダンガル きっと、つよくなる 』)とは、また違ったタイプの短髪アヒル口の美女である。彼女の導入シーンも、『 ヒットマンズ・レクイエム 』のパロディもしくはオマージュになっている。ベルギーで In Bruges で、一見すれば似た者同士が仲違いしそうになり、それでも上手く付き合っていきながら、しかしさらに上位の力のせいで・・・ と、やはりラージクマール・ヒラーニ監督は本作の着想のヒントを、マーティン・マクドナーから得たのではあるまいか。

 

インドという国は、日本とは多くの意味で異なる。おそらく最も理解が難しいのは宗教の違いだろう。これについてはインド人自身も自覚があるようで、これまでにも『 ボンベイ 』や『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』のような傑作が生み出されてきた。しかし、本作がこれらの先行作品に優る(と断言してしまう)のは、ヒンドゥー教とイスラム教といったような特定の宗教間の対立にフォーカスするのではなく、あらゆる宗教をまとめて張り倒して、それでも後に残るものは何かを追求しようとした点にある。『 ボンベイ 』で主人公が油を自らかぶって、「さあ、火をつけろ!」などと怒鳴るような方法で、相手も自分も宗教は違えど同じ人間だと気付かせる方法もある。一方で、『 インディペンデンス・デイ 』のように、宇宙人の襲来をもって、人類皆兄弟とある意味で強制的に納得させてしまう手法も存在する。本作のアプローチは後者の宇宙人型であるが、そこはハリウッドではなくボリウッド。宇宙人、必ずしも侵略者ならずである。

 

Jovianは大学で宗教哲学(古代東洋思想)を専攻したが、電話のかけ間違い(Wrong Number)という発想にはいたく感心した。これは哲学者アンリ・ベルクソンの「脳=電話交換局」というアナロジーに通じるところがあるからだ。人間と人間の対話がしばしば誤ってしまうのと同じく、人間と神との対話もしばしば誤ってしまう。このアナロジーが、さらに大きな意味で物語の入れ子構造になっている点にはさらにいたく感心した。『 きっと、うまくいく 』にも同様のプロット構造が採用されていたが、本作ではそれをさらに brush up した形で用いている。親子間の、また言葉によるコミュニケーションの難しさを実感する次第である。同時に、国籍や人種、信仰といった属性を剥いでしまった時に残るものを尊重できるかどうか。そのことの難しさと尊さをも実感させてくれる。

 

映画とは直接関係の無いところで面白いと感じたのは、宇宙人が language を必要としない種族であること。荒唐無稽に思えるが、language は communication を可能にする一つの媒体に過ぎず、心を読む能力さえあれば事足りるというのは説得力がある。心を読むとき、我々は抱くイメージ(!)は、文章を読むのではなく心象風景を読む、という心象風景である。知能=画像、と喝破する山本一成の知能論に説得力を感じつつあるJovianとしては、なぜ自分が殊更にビジュアル・ストーリーテリングを重視するのか。また、映像美に惹かれるのかを、本作に間接的に教えられたような気がする。

 

ネガティブ・サイド

PKの恋慕がやや唐突であった。ジャグーとの出会いの頃から、ほんのちょっとした会話や視線などを積み上げていくシーンがいくつかあれば、もっと良かった。

 

また、ダンスの兄貴との出会いをひ交通事故で描く必要性はあったのだろうか。何かもっと違う出会い方をしてほしかった。特に終盤の兄貴の story arc を考えると、勧善懲悪と言おうか、因果応報的な宗教的観念がどうしたって脳裏に浮かんでくる。兄貴には兄貴のカルマがあるのは分かるが、そこでもう少しマイルドな描写を模索して欲しかったと切に願う。

 

総評

宗教とは無関係、宗教には無関心。そうした姿勢の日本人は多い。しかし、本作に描かれるPKの神を巡る旅路は、宗教哲学的思考の実践としても、クリティカル・シンキングの模範としても、大いに参考になるものである。Dancing Carの部分だけはR15かもしれないが、その他のシーンでは中高生以上のあらゆる年齢層にとってeye-openingにしてjaw-droppingなストーリーを堪能することができる。これは文句なしに傑作である。

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アヌシュカ・シャルマ, アミール・カーン, インド, コメディ, ヒューマンドラマ, 監督:ラージクマール・ヒラーニ, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 PK 』 -宗教哲学エンタメの一大傑作-

『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』 -貴種流離からの英雄凱旋譚-

Posted on 2019年4月30日2020年1月28日 by cool-jupiter

バーフバリ 王の凱旋 完全版 85点
2019年4月29日 神戸国際松竹にて鑑賞
出演:プラバース ラーナー・ダッグバーティ サティヤーラージ
監督:S・S・ラージャマウリ

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『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』と同日同劇場で連続鑑賞。『 アベンジャーズ 』シリーズをマラソン上映したり、『 スター・ウォーズ 』のリバイバル上映だったり、ゴジラシリーズからの何作かをMOVIX八尾でも一挙に上映するらしい。こうしたトレンドは歓迎すべきで、更なる広がりに期待をしたい。

 

あらすじ

奴隷にして最強の棋士カッタッパの語る父アマレンドラ・バーフバリの死の真相を知ったシブドゥ/マヘンドラ・バーフバリは、親子二代にわたる因縁の決着をつけるべく、暴君バラーラデーヴァの鎮座するマヒシュマティ王国を目指す・・・

 

ポジティブ・サイド

剣の腕前では『 キングダム 』の信以上、弓の腕前では韓国ドラマの朱蒙(チュモン)以上、肉弾戦の強さなら『 沈黙の~ 』シリーズのスティーブン・セガール以上の無敵キャラをプラバースはシブドゥとしてもアマレンドラとしてもマヘンドラとしても体現した。戦闘というか、戦術。作戦行動はクライマックス前に一挙にギャグ漫画の域に到達するが、それすらも納得させられてしまいそうな超人的な活躍!バーフバリとバラーラデーヴァの一騎打ちも痺れる。『 トロイ 』のアキレスとヘクトール以上のコンバットにして、『 ターミネーター:新起動/ジェニシス 』におけるシュワちゃん vs シュワちゃん的な鋼鉄肉弾戦。その最中にも願掛けの儀式を放り込んでくるのだから、スリルとサスペンスが止まらない。これ、作ってる人たちはどんなテンションで撮っていたのだろう?きっとこういう激しい絵ほど、冷静な眼と頭で撮り切ったのだと思われる。インド映画の底力に痺れて震えるべし。

 

船でマヒシュマティ王国を目指すシークエンスは『 アラビアン・ナイト 』的であり、『 アラジン 』的であり、『 タイタニック 』的でもある。とにかくスケールが突き抜けている。こうした絵作りのインスピレーションは一体どこから手に入れているのだ。

 

本作は前篇以上に政治術、権力闘争、計略といった面が色濃く描かれるが、それだけではなく、庶民の生活に密着した面も活写される。創意創造の力でも並はずれた才能を見せるアマレンドラは、戦場における武器や戦術の創意工夫だけではなく、民衆と共に暮らす中でもその才を遺憾なく発揮する。こうした描写が、民衆がマヘンドラを目にした時にバーフバリと叫ばざるを得なくなるということに説得力を与えている。またセクハラ許すまじをあからさまに主張するシークエンスもあり、インドというある意味で頑迷な国家の在り方に対しても一石を投じている。こうしたトレンドは『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に受け継がれていったのだろう。

 

それにしてもプラバースという俳優の芸達者ぶりよ。『 キングダム 』で吉沢亮が政と漂を見事に演じ分けたことが話題になっているが、プラバースの演じ分けも見事の一語に尽きる。マヘンドラの時は口角を少し上げ、アマレンドラの時はやや眉間に皺を寄せ気味にする。前者にはどこか幼さが、後者にはどこか老成された雰囲気というか老練さが漂う。不思議なもので、それだけで両者が見分けられる。これは演技力の勝利である。王を称えよ!!

 

ネガティブ・サイド

『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』で思わせぶりに描かれたペルシャの武器商人は一体何だったのだ。あんな展開を見せられたら『 インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 』におけるカシムのような助っ人キャラになると誰でも予想するではないか。その後、一切登場せずとはこれ如何に。

 

アマレンドラとデーヴァセーナの弓矢連射シーンに匹敵するようなコンビでの戦闘シーンが、マヘンドラとアヴァンティカにも欲しかった。全編に続いてアヴァンティカの存在感が小さいのが、やはり減点対象なのだ。

 

ビッジャラデーヴァが左腕に障がいを負っているとはいえ、右腕に鉄拳は健在。それを使った戦闘シーンが無いのは何故だ。石造りの壁を素手で破壊したのを見た時、カッタッパとのジジイ対決か?と期待したのだが、そのマッチアップは実現しなかった。なんでやねん!?

 

総評

弱点、欠点もいくつか目に付くものの、それらを遥かに上回るアクションや鬼気迫る演技の数々に圧倒されること請け合いである。国母シヴァガミの瞬きしない目の迫力、バラーラデーヴァの憎悪、アマレンドラの威風、マレンドラの成長。そこにインドという国が世界に発信しようとする自国の在りうべき姿が見える。英雄叙事詩の実写映画の傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, インド, ファンタジー, プラバース, 監督:S・S・ラージャマウリ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』 -貴種流離からの英雄凱旋譚-

『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』 -インド発アクション大作-

Posted on 2019年4月30日2020年1月28日 by cool-jupiter

バーフバリ 伝説誕生 完全版 80点
2019年4月29日 神戸国際松竹にて鑑賞
出演:プラバース ラーナー・ダッグバーティ サティヤーラージ
監督:S・S・ラージャマウリ

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大学の同級生と後輩、それに顧客も絶賛していたので、いつかレンタルで借りようと思っていた作品が、ゴールデンウィークに神戸国際松竹のインド映画祭りで大スクリーンに帰ってくる。これぞ天の配剤。松竹よ、ありがとう!

 

あらすじ

とある女性が赤ん坊と共に刺客から逃れようとしている。何とか追手を始末するも、彼女は川の流れに呑まれてしまう。流される間際に彼女はシヴァ神に祈る。この赤ん坊の命だけは救うように、と。なぜなら赤ん坊は王になるべき運命の子だから・・・。すんでのところで村人に助けられた赤ん坊は25年後、立派な青年に成長した・・・

 

ポジティブ・サイド

ラージャマウリ監督もビジュアル・ストーリーテリングを理解している映画人である。冒頭の追手から逃げる女性と赤ん坊に、観る側は「一体なんだ、これは?」と思わされるが、その説明を下手な独り言や赤ん坊への語りかけではなく、神への語りかけとするところがインドらしい。そして成長した赤ん坊がシブドゥとなり、その立派な体躯にカリスマ性、また良い意味での頑固一徹な顔の持ち主であることを台詞に頼らず描き切って見せた。物語のイントロダクションかくあるべし。

 

それにしてもインド映画の映像美よ。原生自然を映し出す時、また街並みや人々の衣装を活写する時の極彩色の使い方はインド映画の基本文法なのだろうか。序盤の大瀑布から中盤の鬱蒼とした森、さらに雪山、乾いた城と城下町、雷鳴とどろく暗夜と画面を彩る色が目まぐるしく変わっていくが、それがジェットコースター的なストーリーの展開スピードとよくマッチしている。中でも、シブドゥとアヴァンティカの出会い、アプローチ、そして初めてのまぐわいには神々しささえ感じた。

 

戦闘シーンはド迫力である。『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも描かれていたが、インドには元々レスリング的な体術、武術の伝統が豊かなのだろう。手塚治虫の漫画『 ブッダ 』でもそんなシーンがあったように思う。また『 キングダム 』が本来描かなければならなかった大軍 vs 大軍の攻城戦、白兵戦、騎馬戦を本作はダイナミックに描く。キングダム原作で桓騎将軍が見せたような戦術を繰り出すアマレンドラ・バーフバリ、さらに王騎将軍並みの馬術で敵を次々に屠る様は、完全にゲームの『 三国無双 』または『 戦国無双 』シリーズを見ているようだった。つまり、爽快なのである。同じ神話的な英雄叙事詩の『 トロイ 』(主演:ブラッド・ピット)よりも、戦場の緊張感や臨場感、戦闘シーンのスペクタクルでは本作の方が優っている。後発なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、優れた先行作品を乗り越えられない後発作品もまた数多く存在する。本作は乗り越えた側である。

 

ネガティブ・サイド

シブドゥが怪力を発揮してシヴァ像を運ぶシーンには、もっと重要な意味を付すことができたのではないだろうか。例えば西楚の覇王・項羽は、若かりし頃に鼎を倒して、また元通りに立てたということで、一挙に江東で名前を売り、愚連隊のような連中を配下にすることで後の直参、古参の兵を得た。それと同じで、シブドゥもその豪勇とカリスマ性から若くして自分の腹心や耳目、爪牙になる者たちを得ていなければおかしいのではなかろうか。シヴァ像を運ぶシーンにシブドゥが怪力の持ち主であること以上の意味がなかったのが残念である。

 

怪力と言えば、バラーラデーヴァ王が野生の雄牛を素手で止めるシーンで二度ほど画面左下にCGIという小さな白字が表示されたのはどうにかならなかったのか。おそらく、今映っている動物はComputer Generated Imageですよというアピールだと思うが、それは『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』のオープニング冒頭でdisclaimerがあった。こちらでもそれをやるべきであったと思うし、画面にはできるだけノイズを入れないでもらいたい。

 

アヴァンティカとシブドゥのロマンスをもう少し追求してほしかったというのもある。先王候補のバーフバリと瓜二つ、その忘れ形見がついに現れたというだけでその威光に平伏してしまうのは理解できないこともない。ただ、シブドゥの関心がアヴァンティカから、あっさりと母デーヴァセーナに移ってしまったことで、物語の色彩と起伏がやや弱くなったように感じられてしまった。

 

総評

非常にハリウッド的でありながらも、しっかりボリウッド映画になっている。本作だけを観てしまうと、壮大な叙事詩の前篇という印象になってしまうのは否めない。リバイバル上映で鑑賞するにせよ、レンタルや配信で鑑賞するにせよ、『 バーフバリ 王の凱旋 』とセットで観るようにしたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, インド, ファンタジー, プラバース, 監督:S・S・ラージャマウリ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』 -インド発アクション大作-

『 アベンジャーズ / エンドゲーム 』 -そして伝説へ...-

Posted on 2019年4月28日2020年1月28日 by cool-jupiter

アベンジャーズ / エンドゲーム 80点
2019年4月27日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ロバート・ダウニー・Jr. クリス・エヴァンス クリス・ヘムズワース ジョシュ・ブローリン
監督:アンソニー・ルッソ ジョー・ルッソ

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全宇宙の生命の半分を消し去ったサノス。半分が消えたスーパーヒーロー達。彼ら彼女らが復讐者(The Avengers)となって、サノスに戦いを挑む・・・というストーリーではない。これはアイアンマンやソー、キャプテン・アメリカがヒーローとしての生き方以外を模索し、その上でヒーローたることを決断する物語なのだ。少なくともJovianはそのように解釈した。

 

あらすじ

 サノス(ジョシュ・ブローリン)に大敗北を喫したアベンジャーズ。アイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr.)は宇宙を漂い、地球への帰還は絶望的。キャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)は何とか前に進もうとしていたが、ソー(クリス・ヘムズワース)は自暴自棄になっていて、初期アベンジャー達は打倒サノスに団結できずにいたが・・・

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  • 以下、シリーズ他作品のマイルドなネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

 『 キャプテン・マーベル 』は正にMCUの繋ぎ目であった。冒頭の20分で「第一部、完!」的な超展開が待っている。これは笑った。いや、本作の全編にわたって、特に前半はユーモアに満ちている。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』と『 ターミネーター 』という、タイムトラベルものの優れた先行作品に大いなる敬意を表しつつ、それらへのオマージュを見せつつ、新たな物語世界を創り出し、完結させた。

 

アクション面で語ることはあまりない。何故なら褒め言葉に意味など無いからである。これだけの映像を構想した監督、それを現実のものにした俳優陣や演出、大道具、小道具、衣装、CG、VFXなどを手掛けた裏方さんたち全てに御礼申し上げる。

 

キャプテン・アメリカやソーについても多くを語りたいが、自分が最も打ちのめされた、そして最も素晴らしいと感じたのは、トニー・スターク/アイアンマンだった。彼が人の子として、人の親として、一人の男として、そしてスーパーヒーローとしての全ての生き方を全うできたことが、これ以上ない迫真性と説得力を以って伝わってきた。彼はある意味で常に父のハワード・スタークの影にいた。そのことは『 アベンジャーズ 』でも『 キャプテン・アメリカ / シビル・ウォー 』でも明白だった。父と息子の対話というのは、母と娘のそれとは何かが異なる。そのことを非常に大げさに描き切ったものに『 プリンセス・トヨトミ 』があったが、今作におけるトニー・スタークは、息子、父親、夫、ヒーローとしての生を成就し、全うしたと言える。彼が娘にかける母親に関する言葉、妻にかける娘に関する言葉の簡潔にして何と深いことか。世の男性諸賢は彼なりの愛情表現に見習うところが多いのではないか。彼は社長という一面はなくしても、技術者としての顔は残していた。そしてヒーローとしても。思えば全ては『 アイアンマン 』のラストの記者会見での“I am Iron Man.”から始まったのだ。滂沱の涙がこぼれた。

 

ネガティブ・サイド

前作『 アベンジャーズ / インフィニティ・ウォー 』で全世界の映画ファンが最も度肝を抜かれたのは、冒頭のロキの死亡と、ハルクがサノスとガチの殴り合いで完敗を喫したことだったのではないか。であれば、本作に期待するのはインクレディブル・ハルクの捲土重来がまず一つ。しかし、どうもそれが個人的にはイマイチだった。もちろん大きな見せ場はあるのだが、『 アベンジャーズ 』で“I’m always angry.”と不敵に言い放ってからのパンチ一撃でチタウリをKOしたインパクトを超えるシーンはなかった。

 

スカーレット・ウィッチとドクター・ストレンジの共闘も予想していたが、それもなかった。ヴィジョンは復活の対象ではないのだから、誰かがそこをスポット的に埋めるだろうと予想していて、それができるのはドクター・ストレンジだけだという論理的帰結には自信を持っていたがハズレてしまった。しかし、真面目な話、ヒーローが多すぎて見せ場が分散されすぎている。というか、キャプテン・アメリカの強さのインフレと、キャプテン・マーベルの素の強さがおかしい。生身のブラック・ウィドウはお役御免(トレーラーのような、射撃を練習するシーンはあったか?)、ホークアイも基本的には走り回る役というのに、キャプテン・アメリカのこのドーピング、優遇っぷりと、キャプテン・マーベルのストーンの運搬役には不可解さすら感じた。マーベルなら楽勝でストーン使用のインパクトに耐えられたのでは?

 

個人的にもうひとつピンと来なかったのはタイムトラベル理論。ブルース・バナーによれば、時間とは、小林泰三の短編小説『 酔歩する男 』の理論のようであり、また哲学者アンリ・ベルクソンの純粋接続理論のようなものでもあるらしいが、それはエンシェント・ワンが劇中で説明したマルチバース理論(と基にした因果律と多世界解釈)と矛盾しているように感じた。最大の謎は、なぜアントマン/スコット・ラングはタイムトラベル実験で年を取ったり若返ったりしたのか。時間の流れが異なる量子世界内をトニー・スターク発明のGPSを使って、時空間上の任意の点を目指すのがタイムトラベルであれば、トラベラー自身の年齢が上下するのは理屈に合わない。いや、それ以上にキャプテン・アメリカの最後の選択。それは美しい行為なのかもしれないが、論理的に破綻している。インフィニティ・ストーンを使って現在を修正し、その上で過去にストーンを戻し、過去の世界線はそのままに、現在の世界線もそのままに、そして人々の記憶や意識はそのまま保持する、というのはギリギリで納得がいくが、それもこれも全てを吹っ飛ばすキャプテン・アメリカの選択は美しいことは間違いないが、パラドクスを生んだだけのように思えて仕方が無かった。

 

総評

これはフィナーレであると同時に、新たな始まりの物語でもある。そのことは劇中のあちこちで示唆されている。しかし、それ以上に本作はトリビュートであり、様々な先行作品へのオマージュにも満ちている。そうしたガジェットを楽しむも良し、純粋にストーリーを追うことに集中しても良し、ここから先に広がるであろう新たな世界を想像するのも良し。連休中に一度は観ておくべきであろう。

 

そうそう、ポストクレジットの映像は何もない。トイレを我慢しているという人は、エンドクレジットのシーンで席を立つのもありだろう。しかし、映像はないのだが、興味深い音が聴ける。その音の意味するところを想像したい、という向きは頑張って座り続けるべし。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, クリス・エヴァンス, クリス・ヘムズワース, ジョシュ・ブローリン, ヒューマンドラマ, ロバート・ダウニー・Jr., 監督:アンソニー・ルッソ, 監督:ジョー・ルッソ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 アベンジャーズ / エンドゲーム 』 -そして伝説へ...-

『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

Posted on 2019年3月31日2020年3月23日 by cool-jupiter

サッドヒルを掘り返せ 80点
2019年3月28日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:セルジオ・レオーネ エンニオ・モリコーネ クリント・イーストウッド
監督:ギレルモ・デ・オリベイラ

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ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアを追い求めて、ついに発見したシュリーマンの気持ちとはこのようなものだったのだろうか。それほどの圧倒的な感動をもたらすドキュメンタリー映画である。本作は映画という芸術媒体の持つ力、その物語性、神話性を追究しようとした野心作でもある。

あらすじ

『 続・夕陽のガンマン 』のクライマックスの決闘の場面となったサッドヒル墓地。撮影から50年になんなんとする時、地元スペインの有志がサッドヒル墓地の復元に乗り出した。彼らはやがてSocial Mediaを通じて、世界中からボランティアを募る。そしてサッドヒルを復元させ、そこでの『 続・夕陽のガンマン 』の上映会を企画する・・・

ポジティブ・サイド

映画製作にまつわるドキュメンタリー映画には、『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』がある。スター・ウォーズ製作者のジョージ・ルーカスとファンの対立、意見の相違に焦点を当てた傑作である。また『 すばらしき映画音楽たち 』も忘れてはならない。ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーといった錚々たる映画音楽家から近現代ロックスターと映画音楽の関わりまでもを描く大作だった。本作もこのような優れた先行ドキュメンタリー作品と同じく、様々な関係者や当事者の声を丁寧に拾い上げ、映画製作の裏のあれやこれやを観る者に教えてくれる。だが、この『 サッドヒルを掘り返せ 』がその他の映画製作ドキュメンタリーと一線を画すのは、ファン達が『 続・夕陽のガンマン 』を神話に類するものとして扱うところである。というと、「スター・ウォーズも充分に神話じゃないか」という声が聞こえてきそうだが、Jovianの意見ではスター・ウォースは「おとぎ話」である。おとぎ話は、当時および各地の社会・文化的な要請から民話に超自然的な要素が加えられたものだと理解してもらえればよい。もしくは、スター・ウォーズは昔話である、もしくはジョージ・ルーカスを作者にした童話と言っても良い。子育て経験のある人なら分かるだろう。子どもは同じ話を繰り返し繰り返し聞くのが好きなのだ。「おじいさんは川へ洗濯に・・・」と言えば、たいていの子どもは不機嫌になって訂正してくる。児童心理学にまで切り込む余裕はないが、新旧スター・ウォーズのファンの対立、旧世代のファンとジョージ・ルーカスの対立の背景にあるのは、童話や昔話への子どものリアクションと本質的には同じなのである。

しかし、本作のファンは子どもではない。彼ら彼女は皆、一人ひとりが、伝説になってしまった物語に確かに描かれた舞台装置を探し求めるという点において、シュリーマンなのだ。スペインの荒野にひっそりと佇立する無数の墓標。それらを復元することに血道を上げることに何の意味があるのか。意味などない。ただただ、その世界に触れたい。その世界に浸りたい。自分という存在を確かに形作ってくれたものを自分でも形作りたい。それは生命の在り方と不思議なフラクタルを為す。『 続・夕陽のガンマン 』は、そのストーリーやキャラクター、映像美やその音楽の圧倒的なインパクト故に、何かを足したり、もしくは引いたりする必要が一切ない。それは神話である。ディズニーが、機は熟したとばかりに、次から次へと昔話やおとぎ話を実写映画化しているが、そこには必ずと言っていいほど現代的な読み変えが行われている。それは『 くるみ割り人形と秘密の王国 』でも指摘したようなフェミニスト・セオリーであることが多い。物語をその都度、作り変えていくのはディズニーだけではない。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったことがある人もない人も、ユニバーサル・スタジオは元々はフランケンシュタインの怪物やドラキュラ、狼男、透明人間などのおとぎ話や昔話を現代風に作り変えてきたということは知っているだろう。USJはゴジラやドラクエやモンハンまで取り込んで、最早何が何だか分からないテーマパークになっている。ディズニーもテーマパークを持っている。しかし、本作に登場する市井の人々はサッドヒルのテーマパーク化を一切望まない。それは繰り返すが『 続・夕陽のガンマン 』が神話だからである。キリスト教徒が創世記を書き変えたいと思うだろうか。作中で、ブロンディ(および『 荒野の用心棒 』のジョーと『 夕陽のガンマン 』のモンコ)の身に着けていたポンチョが、トリノの聖骸布=The Shroud of Turinの如く扱われているというエピソードも、このことを裏付けている。この信仰にも近い彼ら彼女らの純粋な想い故に、スペインの大地に神が舞い降りる瞬間のエクスタシーは筆舌に尽くしがたいものがある。Jovianは、「人生で最高の10分間だった」と振り返るシーン、神が降臨するシーン、そしてエンドクレジットでそれぞれ大粒の涙を流してしまった。何がこれほど人の心を揺さぶるのか。それを是非、劇場でお確かめ頂きたいと思う。

ネガティブ・サイド

『 続・夕陽のガンマン 』の一瞬一瞬を切り取るだけで絵になるのだから、変に静止画をいじくって動かしたりする必要は無かった。

また、セルジオ・レオーネやエンニオ・モリコーネのインタビュー映像があるにもかかわらず、イーライ・ウォラックやリー・ヴァン・クリーフのそれが無いのは何故だ。無いはずがないだろう。それとも編集で泣く泣く削ったとでも言うのか。とうてい承服しがたいことだ。

総評

異色のドキュメンタリーである。インディ・ジョーンズに憧れて鞭を振るったり、ジェダイに憧れてチャンバラに興じるのではなく、ただただ墓地を復元したいという人々の物語が何故これほど観る者の心を激しく揺さぶるのか。きっとそれが生きるということだからだろう。Ars longa, vita brevis. 芸術は長く人生は短い。Art is never finished, only abandoned. レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉とされる。けれど、もしもうち捨てられた芸術の復活に関わることができれば、神話を追体験できるのだ。そのような人々の生き様をその目に焼き付けることができる映画ファンは、きっと果報者である。

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Posted in 映画, 海外Tagged :ギレルモ・デ・オリベイラ, 2010年代, A Rank, エンニオ・モリコーネ, クリント・イーストウッド, スペイン, セルジオ・レオーネ, ドキュメンタリー, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

Posted on 2019年3月25日2020年4月26日 by cool-jupiter

夕陽のガンマン 80点
2019年3月21日 レンタルDVD
出演:クリント・イーストウッド リー・ヴァン・クリーフ
監督:セルジオ・レオーネ

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クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフの立ち居振る舞い、会話、銃撃。もうこの二人の存在感だけで満足できる。小学3年生ぐらいの時に、やはり親父と一緒にVHSで観た記憶がある。その頃はストーリーがほとんど分かっていなかった。それでもイーストウッドが帽子を何度も何度も銃で弾き飛ばすシーンは強烈な印象を幼心に残した。

あらすじ

賞金稼ぎのモーティマー大佐(リー・ヴァン・クリーフ)と、同じく賞金稼ぎのモンコ(クリント・イーストウッド)は、協力して賞金首の集団、インディオ一味を一網打尽にし、賞金を山分けすることに同意する。インディオ一味を内部から撹乱するために、モンコは一味に加わるが・・・

ポジティブ・サイド

本作も『 荒野の用心棒 』と並ぶマカロニ・ウェスタンの傑作である。のみならず、映画的技法においても最高峰であろう。ナレーションもなく、不必要に説明的な台詞をだらだらと喋るキャラもいない。ほんのちょっとしたショットの構図、キャラの表情や動きで、背景にあるストーリーやキャラの思考や感情が伝わる。冒頭のリー・ヴァン・クリーフの登場シーンと決闘シーンは象徴的である。牧師にしては鋭すぎる眼光、歴戦の強者に特有の話しぶり、そして彼我の獲物の射程距離を完全に把握した上での、余裕のある決闘シーン。演技と映像による語り、ビジュアル・ストーリーテリングの教科書に絶対に記載されなくてはならない場面である。

エンニオ・モリコーネの音楽についても触れないわけにはいかない。『 荒野の用心棒 』と同じく、乾いた大地と奥行きのある空を想起させるメロディラインに、火薬と血の臭いを感じさせる低音ヴォーカル、そして孤高の賞金稼ぎのシルエットをまぶたの裏に否応なく浮かび上がらせてくる口笛の旋律。エンニオ・モリコーネは、ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーに肩を並べる作曲家と評しても異論は出ないだろう。邦画の世界における伊福部昭か、それとも武満徹にも例えられるべき存在である。

クライマックスの決闘シーンのオルゴールの音色は永遠にも感じられる。この音楽が鳴りやんで欲しくない、と強く願ったが、それは『 ボヘミアン・ラプソディ 』における“We are the champions”について感じた気持ちと全く同質のものだった。これが鳴り終われば、この男の命の火が消えてしまう、という。

クリント・イーストウッドの変わらぬ存在感と、リー・ヴァン・クリーフの、ある意味での主役以上の存在感が、本作を傑作にしている。劇画『 ゴルゴ13 』の中には、プロがプロに依頼をする、またはプロがプロと共闘する話があるが、そうしたエピソードの源泉は本作にあったとしても不思議ではない。いや、本作のように銃で会話をするという技法を、漫画原作のなんちゃってコメディ映画の『 ルパン三世 』(監督:北村龍平 主演:小栗旬)が取り入れている(ルパンが五右衛門の銃を撃つシーン)ということが、本作が世界中の映画製作者に有形無形の巨大な影響を及ぼした証左ではあるまいか。一言、Timeless Classicである。

ネガティブ・サイド

モーティマーがインディオ一味を追う動機がなかなか明かされないことで、物語のトーンが安定しない。具体的には、この男が敵なのか味方なのか、観ている側が疑心暗鬼になってしまう。Jovianは彼の登場の仕方、その目つき、顔つきからして、「ははあ、こいつが今作のイーストウッドの敵役だな」と早合点してしまった。

銃撃によるコミュニケーションは痺れるほどにクールだが、果実を取ろうとする少年を助けるために、あそこまで撃ちまくる必要はあるのか。ちょっと手元が狂った、または少年が思わぬ動きをしてしまえば、過失致死傷害罪で自分が賞金首になってしまうだろう。

また、名シーンであるはずの帽子を撃ち続けるシーンを経ても、帽子にキズひとつ、穴ひとつ見当たらないのはどういうわけなのだ。小学生の時から持ち続けていた鮮烈な記憶が、少し怪我されてしまったようにすら感じた。血を一滴も流さない死体なども、せっかくのテーマ音楽のノイズになってしまっている。

総評

弱点は抱えていても、それを上回る面白さがある。また、西部劇という枠だけに括られない、バディムービーであり、ロードムービーでもある。クリント・イーストウッドの渋すぎる演技とリー・ヴァン・クリーフの存在感、モリコーネの音楽とレオーネによる監督術の全てが高次元で融合した傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, A Rank, イタリア, クリント・イーストウッド, リー・ヴァン・クリーフ, 監督:セルジオ・レオーネ, 西部劇, 配給会社:UALeave a Comment on 『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

Posted on 2019年3月11日2020年1月10日 by cool-jupiter

翔んで埼玉 80点
2019年3月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:GACKT 二階堂ふみ
監督:武内英樹

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漫画『 パタリロ! 』の魔夜峰央が原作で、漫画『 テルマエ・ロマエ 』の映画化を成功させた武内英樹が、これまた見事な映画を世に送り出してきた。私的2019年度日本アカデミー賞作品賞受賞作は、これでほぼ決まりである。面白さだけではなく、映画的な技法の面でも非常にハイレベルなものがある。それほどの会心の傑作である。

あらすじ

かつての武蔵国から東京と神奈川が独立、その余り物で構成された埼玉県人は、通行手形なしには東京に入ることもできないという迫害を受けていた。そんな時に、東京都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の属する高校に、アメリカから謎の転校生、麻実麗(GACKT)が転校してくる。始めは反目しあうものの、麗の都会指数の高さに徐々に魅せられた百美は、麗との距離を縮める。しかし、麗が卑しい埼玉の出であることを知った百美は東京と埼玉の間で引き裂かれるような思いに・・・

ポジティブ・サイド

『 テルマエ・ロマエ 』にも共通することだが、ギャグ漫画を映画化しようとするならば、製作者は至って真面目にならなければならない。阿部寛演じるルシウスが現代日本の温泉テクノロジーやデザインに度肝を抜かれる様が面白いのは、その姿に我々がギャップを感じるからだ。ギャップとは認識のズレのことで、このズレ具合が笑いを呼び起こす力になる。駄洒落が好例だろう。

「隣の家に囲いができるんだってねえ」

「へえ、かっこいい!」

というのは、へえ=塀、かっこいい=囲い、という駄洒落になっている。同じものでありながら、それを捉える時の認識の違いが面白さの源泉である(上の例が面白いかどうかはさておき)。本作の面白さは、第一に役者陣の大真面目な演技(≠素晴らしい演技)から生まれている。真面目にアホなことを語り、真面目にアホな行動を取る。特に百美が麗に完敗を喫する某テストは、その好個の一例である。学校という舞台で序列が決まるのは、往々にしてこのような出来事なのだが、本作はそれをギャグという形であまりにも端的に描いてしまった。この学校という舞台装置が曲者で、ここの生徒たちは誰もかれもが劇団四季のオーディションもかくや、と思わせるほどに大仰な演技および発声をする。詳しくは後述するが、それは東京都、特に山手線内部に象徴される、いわゆる「東京」という空間の虚飾性および虚構性とパラレリズムを為している。東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである。百美が父から離反し、麗のもとに走ることを決断したのは、この「経済学的に不都合な真実」を知ったからである。

埼玉や千葉の人間が東京に対して潜在的にどのように感じているかについては『 ここは退屈迎えに来て 』のレビューで指摘したことがある。本作の面白さの第二は、まさにこのような彼ら彼女らの意識が、極端なまでに肥大化された形で表現されているところだろう。本作に描かれる埼玉は、一漫画家の想像や妄想の産物ではない。彼が観察した埼玉県人に共通する、普遍的な埼玉県人性とでも呼ぶべき性質を、とことんリアルにパロディ化したものなのである。だからこそ本作は埼玉県で驚異的なヒットになっているのであろう。これは差別の逆構造である。『 グリーンブック 』のレビューで「差別とは、その人の属性ではないものを押しつけること」と定義付けさせてもらったが、この映画は埼玉についてのネタ的なあれやこれやを執拗に描写する。これはレッテル貼りではない。逆に、自己の再発見、再認識になっている。劇中での埼玉ディスのピークは、「ダサいたま、臭いたま・・・」とエンドレスで続く駄洒落であろう。驚くべきことに、これが Motivational Speech として抜群の効果を持つのである。なぜなら、外部からそのような属性を押しつけられれば、それはすなわち差別であるが、こうした属性を自分で自分に付与していく、そして自分にそのような属性が備わっていると知ったことで、それを乗り越えようとする意志が観る者の胸を打つ。これはJovianがヒョーゴスラビア連邦共和国の住人だからなのだろうか。

本作の面白さの第三は、語りの構造のギャップにある。百美と麗の物語は、都市伝説という形でラジオ放送されている。それが、劇中のキャラクター達とそれを車中で聞くとある家族という、もう一つのパラレリズムを形成している。我々は百美と麗の物語にいちいち反応するキャラクター達を見て、無邪気に笑う。しかし、映画は最終盤で一挙に我々の生きる現実世界を飲み込んでしまう。この物語の構造と展開には唸らされた。映画を観ている我々は、実はもっと高次の存在に見られていたのか。まるで『フェッセンデンの宇宙 』のようだ。散々笑った後に、思い返してちょっぴり怖くなる。それが現実を鋭く抉る批評的映画としての本作の素晴らしさである。

エンドクレジットでも絶対に席を立ってはならない。はなわの歌に耳を傾けながら、この作品を世に送り出したスタッフの一人ひとりに感謝の念を捧げ、精一杯の敬意を表そうではないか。

ネガティブ・サイド

東京都庁の攻囲戦がやや間延びしていた。また、このパートのみアクションが真面目で、もっと振り切ったバトルシーンを観てみたかった。また、埼玉vs千葉の、それぞれ輩出した有名人合戦は、もう何名か繰り出せたはずだ。編集で泣く泣くカットしたのだろうか。

もう一つだけ気になったのは、Jovian本人は本作を観ながら、そこかしこで笑いをこらえるのに必死になったが、生粋の大阪人である嫁さんは「さっぱり意味が分からない」という態であったことだ。これはJovianが東京都在住10年半の経験を持っていて、嫁さんは生まれも育ちも全部大阪だからという背景の違いのせいでもあるだろう。しかし、それ以上に大阪という、東京には遥かに及ばないものの、それでも強力な重力を有する土地に生まれ育った者には、マージナルマンのパトスは理解できないという民俗学的、文化人類学的な理由もあるだろう。ぶっちゃけて言えば、生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。充分に現実を批評する力を持った作品だが、もっと東京を刺すような演出があれば85点~90点もありえたかもしれない。それだけがまことに悔やまれる。惜しい。

総評

2019年もわずか3カ月しか経過していないが、本作は年間最高傑作候補間違いなしである。エンターテイメント性とメッセージ性を併せ持つ、近年の邦画では稀有な作品に仕上がっている。カジュアルな映画ファンから、ディープな映画ファンまで、幅広い層を満足させうる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, GACKT, コメディ, 二階堂ふみ, 日本, 監督:武内英樹, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

Posted on 2019年3月6日2020年1月3日 by cool-jupiter

ダンガル きっと、つよくなる 80点
2019年2月27日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:アーミル・カーン ファーティマー・サナー ザイラー・ワシーム
監督:ニテーシュ・ティワーリー

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ダンガルというのはレスリングという意味のようだ。そしてアニマル浜口というのは比喩である。アーミル・カーン演じるマハヴィルは娘の教育と訓練に関してはアニマル浜口並みにクレイジーであると言えるが、その他の面では似ても似つかない。良いとか悪いとかではなく、あくまで比喩として彼の名前を挙げていることを了承されたい。

あらすじ

国の代表にまで上り詰めながら、夢を果たせなかったレスラーのマハヴィル(アーミル・カーン)は、まだ見ぬ息子にその夢を託したいと思うようになる。しかし、生まれてくれるのはギータ(ファーティマー・サナー)、バビータなど女の子ばかり。だが、マハヴィルは気付いた。彼女たちには並々ならぬレスリングの才能があることに。マハヴィルは村の皆からの嘲笑や偏見に負けることなく、娘たちを鍛え上げようとするが・・・

ポジティブ・サイド

まず、アミール・カーンの体作りに脱帽する。鈴木亮平からマシュー・マコノヒー、クリスチャン・ベールに至るまで、役者というのは役に合わせてある程度の体作りをするものである。しかし、アミール・カーンの磨き上げられた筋肉美を堪能できるのは冒頭の5分で終わりである。肉襦袢ではなく、自らの体で望んだカーンに敬意を表する。通常は、例えばロッキー映画恒例のトレーニングシーンのモンタージュを作るため、役者はハードなトレーニングを積む。『 ロッキー4 炎の友情 』でスタローンが垂直腹筋やドラゴンフラッグをしていたのは、その典型である。そうした意味での称賛はギータを演じたファーティマ-・サナーに向けられるべきであろう。アカデミーでトレーニングに励み、実戦に臨む彼女こそがロッキーである。カーンは数分(実際の撮影はもっと長かったはずだ)のシーンのために体を作り、その後は中年太りした体を作る。デ・ニーロのような役者は世界中にいるのである。

日本でレスリングと言えば、女子が花形である。吉田沙保里や伊調馨らの名前を知らない者はいないだろう。しかし舞台はインドである。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』で知らされたように、そして近年でも「このようなニュース」が報じられるように、女性の生理現象に対して根強い偏見が残る国なのである。そのような国の、さらに辺境の村で幼い娘たちにレスリングを仕込み、肉食をさせ(これに対する拒否反応は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも見られる)、男だらけの村のレスリング大会にエントリーもさせる。もちろん、娘たちは反抗するわけだが、『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなほのぼのさなので、安心して見ていることができる。

本作はただのレスリング映画ではなく、家族の再生物語でもある。父と娘の精神的に健全な、そして不健全な別離、さらに親子の和解の物語でもある。そしてそれはギータとバビータの姉妹の成長物語でもあるのだ。父と袂を分かつ姉、父と共にあり続ける妹、彼女たちの対立と融和は、陳腐ではあるが、それゆえに見る者の胸を打つ。このあたりは『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』にも通じる。勝利と栄光への道程、それが泥臭いほどに放たれる輝きはより強くなる。

ネガティブ・サイド

クライマックスにおいて、恐るべき人間の悪意を見せつけられる。これは史実ではないのだろうが、物語をよりドラマチックにするものとして作用していなかった。『 きっと、うまくいく 』における学長には人間性が付与されていたが、本作のNASのコーチには嫌悪感しか抱けない。この演出は失敗であった。

これは『 100円の恋 』でも感じたことだが、格闘技の試合のフィニッシュ・シーンにデ・パルマ的なスローモーションは既にクリシェである。『 クリード 炎の宿敵 』の決着シーンにはスローモーションは使われなかった。もっと別の見せ方を追求できたはずである。

総評

弱点を抱えるものの、本作は傑作である。レスリングの知識や素養がなくても分かるように作られているし、それを実に自然に見せる役者たちの見えない努力に思いを馳せれば、称賛以外に何もできなくなる。やはりインド映画に外れはないようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, ファーティマ-・サナー, 監督:ニテーシュ・ティワーリー, 配給会社:ギャガ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

Posted on 2019年2月24日2019年12月23日 by cool-jupiter

きっと、うまくいく 80点
2019年2月14日 レンタルDVD鑑賞
出演:アーミル・カーン R・マーダバン シャルマン・ジョーシー カリーナ・カプール 
監督:ラージクマール・ヒラーニ

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アーミル・カーンと聞くと、パキスタン系英国人ボクサーのアミール・カーンを思い起こすのはJovianがボクシングファンだからだろうか。近所のTSUTAYAでずっと気になっていた作品で、最近のインド映画のクオリティの高さから、ついつい手にとってしまった。インド映画にはずれなし!そう力強く断言してしまいたくなるほどの良作であった。

 

あらすじ

インド最高峰の大学ICE。そこに入学する自由人にして発明家のランチョー(アーミル・カーン)、実はエンジニアよりも動物写真家になりたいファラン(R・マーダバン)、科学よりも信仰のラージュー(シャルマン・ジョーシー)の三馬鹿トリオのハチャメチャな大学生活を送っていた。しかし、卒業後にランチョーは行方をくらませる。かつての旧友らと共に、ファランとラージューはランチョーを探す旅に出る・・・

 

ポジティブ・サイド

Interval後の20分程度で、映画に慣れている人ならかなりの程度まで筋書きが読めてしまうだろう。しかし、これは脚本のレベルが低いからというわけではない。逆に、懇切丁寧に作り込まれた脚本を忠実にスクリーン上で再現しているからこそ可能なことだ。消えたランチョーを探し求める旅というロードムービー兼ミステリの要素が強いが、本作は何よりもヒューマンドラマである。そしてビルドゥングスロマンでもある。そして極めて映画的な技法が駆使されている。映画的な技法とは、映像を以って語らしめるということだ。登場人物たちの心情の変化や葛藤、人間的成長と根源的に変わっていないところが、台詞ではなく動き、立ち居振る舞い、口調などで伝えられる。人間の成長とは、時に環境の変化に適応して生き抜くことであったり、逆にそうした変化においても自分の核の部分だけは決して変えることなく自分のままであり続けることでもあるということを、本作は全編を通じて高らかに宣言する。原題の“3 idiots”=三馬鹿は、自分の心の中の大切なものを決して見失わない。それがもたらすカタルシスは圧巻である。

 

本作はまた学園ものとしての性格も有している。そして、悲しいかな、そこでは闘うべき相手、倒すべき敵として認識させられてしまう人間もいる。つまりはヴィールー学長である。しかし、彼は決して『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のトラスク校長のようなキャラクターではない。なぜなら、彼には過去があり、家族があり、信念があるからだ。三馬鹿と学長の対立は、時に『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなユーモラスなものでもあるが、その根底には教育に対する価値観の差違が存在する。これらの教育論的哲学に対する前振り、伏線もしっかりと回収されるところが素晴らしい。

 

キャラクターたちが学生であるということ単なる味付けに終わらないところも良い。日本映画でもハリウッド映画でも、結構な割合で「お前が学生であることは分かった。で、何を学んでいるんだ?」と言いたくなる作品がある。本作はそんな皮相的なキャラを扱う作品をせせら笑うかのように、工科大学の学生の活躍を存分に描いてくれる。魚の骨をいじくるだけの冒頭5分で学生としての属性を描くのを止めてしまった『 アヤメくんののんびり肉食日誌 』というキング・オブ・クソ映画を思い出してしまった。とにかく、本作に出てくる学生たちは生き生きとしている。それは、彼らが自分の本領を発揮しているからである。生きているという実感がそこにあるのである。彼らの ingenuity が一挙に爆発する終盤の事件は感動的である。

 

その感動をさらに上回るクライマックスは圧倒的ですらある。その映像美と構図、旧友との再会という点で『 ショーシャンクの空に 』とそっくりであるが、エンディングシーンの美しさにおいて、本作はショーシャンクに優るとも劣らない。インド映画の白眉にしてヒューマンドラマの一つの到達点である。

 

ネガティブ・サイド

途中で非常に悲惨な事件が発生する。もちろん、これが起きることで中盤の事件に深みが与えられるのだが、何か別の回避方法、または見せ方はなかったのだろうか。極端なことを言えば、ここで観るのを辞めてしまう人がいてもおかしくない。それぐらい衝撃的なことである。

 

もう一つだけ大きな弱点を挙げるならば、カリーナ・カプール演じるピアだろうか。彼女自身のキャラクターや演技力には文句は無い。それがインド的な価値観や社会制度なのだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、あのようなクソ男と交際し、婚約するということにもう少しだけでも抵抗を見せてくれてもよかったのではないか。

 

総評

個人的に気になる点はいくつかあったものの、観る人によっては全く気にならない点であるだろう。しかし、本作のポジティブ要素は万人の胸に突き刺さるに違いないと確信できるものがある。それほどに優れた作品である。3時間近い大作であるが、レンタルや配信であれば、適宜にトイレ休憩も取れる。高校生以上であれば充分に理解できる内容だし、中年サラリーマンにとっては、若さの泉=fountain of youthたりうる、つまり草臥れてしまった時に見返してはパワーを補充できるような作品に仕上がっている。つまりは、万人に向けてお勧めできる傑作であるということである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, R・マーダバン, アーミル・カーン, インド, カリーナ・カプール, シャルマン・ジョーシー, ヒューマンドラマ, 監督:ラージクマール・ヒラーニLeave a Comment on 『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

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