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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2010年代

『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

Posted on 2018年6月18日2020年2月13日 by cool-jupiter

空飛ぶタイヤ 70点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:長瀬智也 ディーン・フジオカ 岸部一徳 笹野高史 寺脇康文
監督:本木克英

 

『 TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ 』以来の久しぶりの長瀬智也である。あの「マザァファッカァァーーーーーーッ!!!!」の長瀬智也である。我々はもっとはっちゃけた長瀬を観たいのだが、この作品で長瀬は、演技力という技術ではなく、リアリティというか存在感で大いに魅せる。それは中小企業の赤松運送の社長ながらホープ自動車という大企業を相手に一歩も引かず、最後には勧善懲悪的に勝利を収めるからではない。むしろ、長瀬の人間としての至らなさや苦悩を今作は冒頭の5分である意味描き切っている。長瀬は決して超人的な体力、知力、精神力、リーダーシップを持った人間ではなく、本当にそこかしこにいるような中小企業の社長なのだ。そこには先入観もあり、誤りもあり、逡巡もあり、後悔もある。つまり、極めて人間的なのだ。今作が描こうとしたのは、人間の強さは、弱さに飲み込まれないところにあるということでもあるはずだ。

また『 坂道のアポロン 』で何故か妙に浮いていたディーン・フジオカは本作ではスーツとネクタイの力を借り、若くして大企業の課長職を務めることで説得力ある存在感を発揮した。大企業では往々にして血も涙もないようなタイプが上に行きやすいが、観る者にあっさりと「ああ、コイツもその類か」と思わせる職場での所作は見事。芝居がかった演技も、ムロツヨシと並ぶことで中和されていた。この男は多分、スーツ以外の衣装を着こなすことはまだできない。が、ポテンシャルはまだまだ十分に秘めているし、良い脚本や監督との出会いでいくらでも上に行けるに違いない。

それにしても、これは元々の題材となった事件があまりにも有名すぎて、WOWOWでドラマ化までは出来ても、銀幕に映し出されるようになることは予想していなかった。本作で思い出すことがある。Jovian自身、とある信販会社で働いていた頃、〇菱〇そ〇の会社員から「不良品作りやがって、このヤローー!!」と電話口で怒鳴られたことがある。一瞬カチンと来たが、すぐに冷静さを取り戻し、「ああ、この人もきっと全く関係ない人にこうした言葉を浴びせかけられたのだろうな」と分析したことを覚えている。組織の中では、個の意思は時に無用の長物にさえなってしまう。その個の意思を貫こうとすることで、思いっきり冷や飯を喰らわされることもありうる。超巨大企業などは特にそうだろう。かといってそれは中小企業でもありうることだということは、佐々木蔵之介の役を見て痛切に感じさせられた。

これは中小企業と大企業の闘い、というよりもゲマインシャフトとゲゼルシャフトの闘い、と言い表すべきなのかもしれない。なぜなら長瀬演じる赤松社長は資金繰りに奔走し、カネの誘惑に溺れかけてしまうところもあるし、長年一緒に戦ってきた戦友に去られてしまう場面すらある。一方でディーン・フジオカ演じる沢田は、実は濃密な人間関係を社内に持っていて、彼らと共闘もするからだ。我々は何を軸に人間関係を構築し、何を信念に行動していくのか。問われているのは、大企業や中小企業の在り方だけではなく、個の生きる指針でもあったように思う。

今作はエンドクレジットが微妙に短く感じられたが、気のせいだったのだろうか?それにしてもつくづく凄いなと唸らされるのは、映画製作に関わる人間の数とその職種の多様さ。このキャスティングが長瀬ではなく山口だったらと思うとぞっとする。そんなことさえ思えてしまうほどの、大作であり力作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ディーン・フジオカ, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:本木克英, 配給会社:松竹, 長瀬智也Leave a Comment on 『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

Posted on 2018年6月18日2020年1月10日 by cool-jupiter

メイズ・ランナー 最期の迷宮 50点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ディラン・オブライエン カヤ・スコデラーリオ トーマス・ブロディ=サングスター キー・ホン・リー ウィル・ポールター
監督:ウェス・ボール

*一部ネタバレあり

第一作を60点、第二作を50点と考えるならば、今作にもこの点数を付けざるを得ない。まず、迷宮が出てこない。シティーを目指すのは分かるが、一部のポスターにあったような迷路に囲まれた巨大なタワーが立ち並ぶようなシティーではなく、普通に壁に囲われた、どちらかといえあ『進撃のタイタン』のような壁、そして街だ。もっとも、謎の超高層ビル群がそこには存在するのだが。

本作のような、いわゆるYAノベル(Young Adult Novels)を原作にしたヒット映画には他には『ハンガー・ゲーム』シリーズや『ダイバージェント』シリーズがあるが、いずれの作品にも共通するのが、「なぜこんなポスト・アポカリプティックな世界で、これだけ資源を浪費できるのか?」ということ。まあ、これは『マッドマックス』の頃から、決して尋ねてはならない問いなのかもしれないが。

原作のトーマスその他一部キャラが持っていたテレパシーという要素を取り除いたことで生まれたサスペンスもあれば、そのために付け加えられた余計なアクションもあった。特に最後のモブとWCKDの激突と戦闘のシーンは、「とりあえず爆発シーンを入れとくか」程度のやっつけ仕事にしか見えなかった。なぜあのタイミングでローレンスは突撃し、なぜシティーを奪還すると息巻いていた連中は、ビル群を灰燼に帰すまで破壊しつくしたのか。元々がYAノベルだけにあまり深く追及しても仕方がないのかもしれないが、映画のスペクタクルとは爆発や格闘シーンにあるのではなく、活字で表現されない/され得ない細部の描写にこそあるはずだ。まさかそれがラストシーンの Maze ならぬ Maize にあるわけではないと信じたいが・・・

1および2を観たファンであれば観賞して、この結末を見届けるべきなのだろう。そして自分なりにトーマスの目に宿る決意とその手に握りしめた血清の意味について納得がいくように解釈をしてほしい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ディラン・オブライエン, 監督:ウェス・ポール, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

Posted on 2018年6月17日2020年2月13日 by cool-jupiter

ワンダー 君は太陽 75点

2018年6月16日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイコブ・トレンブレイ ジュリア・ロバーツ オーウェン・ウィルソン
監督:スティーブン・チョボウスキー

*一部ネタバレあり

これは傑作である。何が本作を傑作たらしめるのか。それは主人公オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)が自分自身の力で何かを成し遂げる様子を逐一カメラに収めているからではなく、むしろオギーの周囲の人間が知らず知らずのうちにオギーの影響を受けているということを観客に非常に分かりやすい形でプレゼンテーションしてくれているからだ。またオギー自身も、決して子どもに似つかわしくない明晰すぎる頭脳やタフすぎる精神力を備えているわけでもない。言わば、ちょっと特殊な顔を数々の手術で治してきただけの普通の男の子なのだ。オギーを見ることは、ある意味で自分自身の暗い心と向き合うことでもある。誰もが何かしらの罪悪感や劣等感に苛まされているものだが、もしもそれがほんのちょっとのきっかけで取り除かれるのであれば、人は人にもっと優しくなれるかもしれない。どうせ自分は背が低いから、どうせ自分は太っているから、どうせ自分は二重瞼じゃないから、どうせ自分は・・・ と自分にマイナスの符号ばかりつけるということを、我々はしがちである。しかし、ほんの少し見方を変えれば、ほんの少し接し方を変えれば、ほんの少し勇気を振り絞れば、何かが大きく変わるかもしれない。そんな気にさせてくれる作品である。

もちろん、オギーの学校生活は初めはとても辛いものだ。誰もがオギーを「疫病神」扱いする。しかし、そんな中でも手を差し伸べてくれる子どもはいるし、オギーにはその手を握り返すだけの勇気があった。またテストで困っているクラスメイトに、こっそり自分の答案用紙を見せてやるなどの優しさや茶目っ気もある。他校の年上の生徒に友達が殴られたのに対して敢然と立ち向かう姿勢すら見せる。しかし、考えてみれば、こうしたことは全て普通のことであると言える。これがドラマチックであるのは、オギーが特別な少年だからではなく、オギーを特別な少年であると思い込んでいる我々の側にその原因があることが明らかになってくる。そのことを本作はある種の群像劇の形で教えてくれる。

この映画は、オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)、母イザベル(ジュリア・ロバーツ)、姉ヴィアや愛犬のデイジー、その他にも姉の友人やボーイフレンド、オギーのクラスメイトや友人、教師、校長先生らの目を通じて、オギーの周囲の人間ドラマを構成していく。特に姉ヴィアが経験する親友との突然の断絶と新しい出会いは、『 レディ・バード 』でも似たようなテーマが扱われていたように、普遍的な事象であると言える。それが特殊な色彩と帯びて見えるとするなら、やはりそれは観る側の目にフィルターが掛かっているからなのかもしれない。そのことを暗示するのがオギーが友達のジャック・ウィル(ノア・ジュプ)と組んで発表する理科研究プロジェクトであると思う。

その他、個人的にツボだったのは、スター・ウォーズからチューバッカとダース・シディアスが参戦していること。このぐらいの年齢の子になると、旧三部作と新三部作を分け隔てなく愛でられるということは『 ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス 』でも触れられていたが、時代は確実に進んでいるようである。それでも学校のとあるイジメのシーンでオギーを指して悪ガキのジュリアンが”Darth Hideous”と呼ぶところなどは、前述のジャック・ウィルの子どもらしさとはまた別の子どもらしさを見せられ、ぞっとしてしまった。このクソガキを巡ってはさらに一悶着あり、彼の良心と両親にも見せ場が与えられる。そこで、この世は陽の光と虹だけで出来ているわけじゃないんだ、というロッキー・バルボアの言葉を言葉を思い出す人もいるだろう。また劇中で『オズの魔法使い』が一瞬出てくるのだが、この作品でも虹は重要なモチーフになっている。それをオギーとジャック・ウィルはあっさり観ないという選択をするのだが、ここからもオギーと皆の物語は、魔法ではなく皆の知恵や勇気によって紡がれているものだということが暗示されているようだった。

再度繰り返すが、本作の素晴らしさは、オギーその人ではなく、彼の生きる世界の明るさと暗さ、その両方に我々が魅せられるからだ。愛犬デイジーとの別れや、そのことに独り寂しく涙する父などの姿なくして、オギーの成長はなかったし、物語世界の豊饒さは生まれなかったのではないだろうか。人は変わることができる、それは『スリー・ビルボード』のテーマでもあったが、そのことは本作にも通低している。映画ファンであってもなくても、見て損は無い傑作である。

それにしても主演のジェイコブ・トレンブレイはアダム・ドライバーそっくりだし、親友役のノア・ジュプはトーマス・ブロディ=サングスターに良く似ている。将来に期待が持てそうな子役たちである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オーウェン・ウィルソン, ジェイコブ・トレンブレイ, ジュリア・ロバーツ, ヒューマンドラマ, 監督:スティーブン・チョボウスキー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

Posted on 2018年6月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

プールサイド・デイズ 65点

2016年にWOWOWで録画観賞
出演:スティーブ・カレル トニ・コレット リーアム・ジェームス サム・ロックウェル
監督:ナット・ファクソン ジム・ラッシュ

初っ端からスティーブ・カレルに左フックを一発喰らったような気分にさせられる。母親の恋人に「お前は10点満点で3点だ」などと言われて、夏のバカンスを楽しめる子どもがどこにいるものか。こんな嫌味な役をやらせると何故かハマるのは往々にしてコメディアン。『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』における品川佑もそんな感じだった。

14歳のダンカンは、母親(トニ・コレット)とそのボーイフレンドのトレントと共に夏を過ごすべく海辺のリゾート地に車で移動していた。そんなダンカンの居場所は車の最後尾の座席とも言えないような空間。現代の“The Way, Way Back”はここを指すようだ。もちろん居心地が悪いのは車の中だけではない。別荘ではトレントの連れ子が派手系のギャルでダンカンとは明らかに違う”人種”なのだ。畢竟、ダンカンはそんないたたまれない場所には長くは留まれない。自転車に乗ってウォーター・パークへ逃避するのだが、そこでパークの従業員のオーウェン(サム・ロックウェル)と出会う。

アメリカではよく、子どもを育てるには Positive Male Figure が必要だ、などと言われる。実際に、父親のいない家庭では、娘が早期に妊娠することが多いとするデータもあるようだ。日本でも昔は欠損家庭(恐ろしい響きだ)、今では父子家庭や母子家庭と呼称されるが、やはり父、あるいは父に相当する人物の不在は子の成長に影響を及ぼすことは想像に難くない。ただし、父は父だから父なのではなく、父親であることの勤めを果たすからこそ父になりうるということを我々は決して忘れてはならない。そのことは『 万引き家族 』におけるリリー・フランキーが逆説的に証明してくれた。その役割を果たしてくれるのは、今作ではサム・ロックウェルなのである。

14歳というのは不思議な年齢で、まさに子どもと大人の中間地点と言える。第二次性徴が終わっている頃とはいえ、肉体的な成熟はまだまだ先だし、精神的な成熟はもっともっと先だ。そうした自らの変化に誰もが戸惑う時期で、女子はだいたい母親から一通りのレクチャーを受けるものだが、男子に対してしっかりと向き合う大人の男というのは、今はどれほどいるのだろうか。というよりも、昔から日本にはこのような意味での「父親」はあまり存在しなかったのではないかと思う。だからこそ一頃、『父性の復権』なる文庫が飛ぶように売れていたのではないか。

話が逸れた。プールに逃げ場を見出したダンカンは、オーウェンにアルバイトに誘われる。別荘に居場所がないダンカンには断る理由は無い。かくしてダンカンの一夏の成長物語が始まる。本作の素晴らしいところは、オーウェンというキャラがダンカンを対等の男として扱うところであり、大人のあれやこれや(たとえば恋愛や仕事振り)についても隠さないところである。それはつまり、大人に成りきれていない男子を体現しているとも言える。威厳や威圧で関係を構築しようとするトレントと、仲間意識で関係を構築するオーウェンのどちらが「父親役」としてふさわしいのかは言うまでもない。ダンカンも一夏の恋を経験し、オーウェンも同僚のケイトリンと真剣交際に至る一方で、トレントは別荘の目と鼻の先で浮気・・・ 当たり前のように一悶着があり、そしていよいよ夏も終わり、別離の時へ。

最後の最後でトレントに立ちはだかるオーウェンは、間違いなく父親像を体現していた。人生には Positive Male Figure と Negative Male Figure の両方が存在するが、オーウェンは間違いなく前者であった(ちなみに後者でいっぱいの映画の代表例はエドガー・ライト監督の『 ベイビー・ドライバー 』)。それにしても幸薄い母親役と言えば『 シックス・センス 』の時からトニ・コレット、その一方で殺人者からレイシストの暴力警察官役までこなすサム・ロックウェルが共演するというのは、それだけでなかなかに味わい深いものがあった。夏に観賞するにはぴったりであるし、ファミリーもしくは父子で堪能するのも良いだろう。素晴らしい作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, 監督:ジム・ラッシュ, 監督:ナット・ファクソン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

『月に囚われた男』 -月という二面性の表象-

Posted on 2018年6月15日2020年2月13日 by cool-jupiter

月に囚われた男 65点

2018年3月10日 レンタルDVDにて観賞
出演:サム・ロックウェル ケビン・スペイシー
監督:ダンカン・ジョーンズ

この5年だけでも、人類の月に関する知識やイメージはどんどんと再構成されていっている。月の空洞、月の発光現象、月の誕生にまつわる仮説(ジャイアントインパクト説が書き換えられる日もそう遠くなさそうだ)、極地の氷の存在・・・ 月は最も身近な天体にして、いまだにその正体がよく分かっていない地球の兄弟姉妹、もしくは子どもなのだ。しかし、月に関して確実に分かっていることもいくつかある。大きさや質量、その組成などだ。非常に興味深い事実、または常識として、月は常に地球に同じ麺を向けている。自転と公転の周期が一致しているとも言えるが、とにかく地球から月の裏側が決して見えない。月には隠れた領域がある。つまり、月は二面性の象徴である。これが本作のテーマであろうと思う。

サム・ロックウェル演じる3年契約の派遣労働者サム・ベルは月面基地に住みながら、黙々と資源採掘と地球への輸送業務に従事していた。相棒は人工知能のガーティ(声はケビン・スペイシー)。ところがある日、事故に遭い、気がつくと自分と瓜二つの男が基地内にいる。あいつは俺なのか・・・?

 この謎そのものはそれほど長く引っ張られるわけではない。恩田陸の小説『月の裏側』みたいな精神的・心理的なホラー展開も無いので、そちら方面に耐性の無い方でも楽しむことができる。ただ、何を以ってホラーと呼ぶべきか、その定義は曖昧模糊としていることは認めなければならないが・・・

月というある意味では究極の極限環境に独り。そこに現れた異物が自分だったら?人は人と分かり合えなかったり、傷つけあったり、それでも良好な関係へと改善させていったりということができるが、相手が自分なら?自己と非自己の境目はどこにあるのだろうか。主に西洋哲学が二千年に亘って発し続けてきた問いである。目に見えているもの、感覚が捉えられるものの向こう側の領域、それを《超越》と哲学では呼ぶが、この映画はまさに超越の領域がどんどんと顕わになってくるその過程に真髄がある。見えなかったものが見えてくる。それこそまさに「月」の《表象》だからだ。

そこに人工知能のガーティの存在である。今年で製作50周年記念の『2001年宇宙の旅』を思い浮かべずとも、我々は人工知能が決して協力的な存在ではないことを知っている。しかし、この映画のガーティは、ケビン・スペイシーの非常に抑えた Voice acting の効果もあり、非常にユニークな、もっと言えば親しみを感じる、融通が利くキャラクターとして、卓越した存在感を発揮する。我々が知覚できない人工知能の奥底の領域でどのような演算が働いたのか、ガーティの言動に我々は人間らしさを見出す。月面に存在する機械の人間らしさと、地球でのうのうと暮らしている生身の非人間性。その鮮やかな対比は、二人のサム・ベルの対立と協力よりも、圧倒的に衝撃的に個人的には感じられた。

この映画の欠点というか、創作品全般に言えることだが、もっと受け手を信用してほしい。エンディングのあのナレーションなどは完全に不必要、蛇足だ。哲学的な思考を促す作品だからといって、その観賞者が必ずしも浮世離れしているわけではない。そこだけが少し残念な、SFの佳作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SF, イギリス, ケビン・スペイシー, サム・ロックウェル, 監督:ダンカン・ジョーンズ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『月に囚われた男』 -月という二面性の表象-

スリー・ビルボード ー予想外の展開と胸を打つエンディングー

Posted on 2018年6月14日2020年2月13日 by cool-jupiter

スリー・ビルボード 85点

2018年2月3日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:フランシス・マクドーマンド ウッディ・ハレルソン サム・ロックウェル ルーカス・ヘッジズ
監督:マーティン・マクドナー

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妻と一緒にこの映画を劇場で観たのだが、すでに結婚していて良かったと思えた。なぜならこの映画の放つ強力なメッセージの一つは、”人は人を傷つける”だからだ(ちなみに、独身時に観て、「独身で良かった」と思えたのは『ゴーン・ガール』だった)。しかし、本作が観る者の心に強烈に焼き付けてくるものは”人は変われる”、”人は人を赦せる”ということでもある。

原題は“Three Billboards Outside Ebbing, MIssouri”である。ミズーリ州にはエビングという地名は無いようだが、マーティン・マクダナー監督が意図したのは、架空の空間を創り上げることで、そこが現実にはどういう場所なのかをより強く浮かび上がらせることだったのだろう。この系列の事件で最も有名なのはトレイボン・マーティン射殺事件であろう。映画で例を挙げるなら『 フルートベール駅で 』(主演はマイケル・B・ジョーダン)や『 デトロイト 』か。『 私はあなたのニグロではない 』でも、横暴という言葉では描写しきれない暴力警官への恐怖が語られたが、それこそがアメリカ市民の紛れもない本音なのだろう。

エビングの片田舎のミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、娘をレイプされ、殺されてしまった母親である。夫とは離婚済みで、あちらは若い女と付き合っている。警察は捜査はしつつも、犯人逮捕に至る気配は無い。業を煮やしたミルドレッドは大枚をはたいて町はずれに3つの巨大立て看板(ビルボード)を出す。そこには警察のウィロビー署長を詰る言葉が書かれていた。これによって、警察や地元住民とミルドレッドとの間に溝が生まれてしまう。現代でこそ、各種のデジタルデバイスやICT技術の発達で情報へのアクセスは、田舎でも都会でもそれほどの違いなく行えるようになった。しかし、一度でも日本の田舎(それも日本昔話級の)に住んだことがある者であれば、そこは公共性が高く、閉鎖性が低い都市とは全く異なるコスモロジーが支配する土地であることを認識できるだろう。このエビングという町も同じである。全くの偶然だが、この映画を劇場で観た時、すぐ前の座席にアメリカ人夫婦(アクセントから判断)と思しき2人が座って鑑賞していた。物語の序盤から、登場人物たちがとんでもない言葉遣いをすることに苦笑したり、絶句したりしていた。そして第二幕に差し掛かろうかという時に、2人して退席してしまった。もしも英語に堪能な知人、もしくは英語のネイティブスピーカーの友人がいれば、ぜひ一緒にこの映画を観てほしい。恐ろしいほどの汚い言葉が飛び交う。これはアメリカに特有の話でもなく、日本の片田舎でも同じだ。Jovian自身の経験からも言える。田舎における情報の伝播速度、そして容赦の無い言葉遣い、それはすなわち秩序に対する異物排除の論理の強さの表れでもある。もちろん、そこで観る者が予想するのは、対立の解消と融和である。しかし登場人物の行動や心情、物語の展開が、あまりにも現実離れというか、映画製作、物語製作の文法からかけ離れている本作では、先を読んでやろうなどと意気込むことに意味はない。その最も良い(悪いとも言える、それは人による)例はウッディ・ハレルソン演じるウィロビー署長とミルドレッドが公園のぶらんこで二人きりで話すシーンだ。ここで署長は自身がすい臓がんで余命幾ばくもないことをミルドレッドに告げる。普通なら署長に何らかの同情を示すだろう。しかしミルドレッドは「あんたの病気のことは分かっていてビルボードを出した」と言ってのける。いくら娘を亡くしてしまったからといっても、この態度はないだろうと観る者は思うが、ミルドレッドの暴走はこれだけにとどまらない。トレイラーでも見られるが、火炎瓶で警察署を燃やすところまで行ってしまうのだ。

もちろん、ビルボードの出現をきっかけに警察や地元住民とミルドレッドの間に、軋轢が生じる。そこではサム・ロックウェル演じる人種差別主義者が服を着て歩いているかのような無茶苦茶な警察官ディクソンもいる。ある事件をきっかけにそのディクソンがビルボード管理会社の社員ら(白人)にしこたま暴行を加えていく。このシークエンスは『 バードマン 』ばりのワン・ロングショットで映されており、その迫力と結末も相俟って、恐るべき仕上がりになっている。このようにエビングの町で、秩序が混沌としていく中で、ミルドレッドの家族の秘密というか背景も明らかになって来る。Jovianは以前に父にも母にも言われたことがある、「祖父ちゃんや祖母ちゃんには必ずあいさつしとくんやぞ」と。いつ突然会えなくなるか分からないからだ、と今は理解している。ミルドレッドが娘を亡くしてしまう直前に持った会話は、確かに悔やんでも悔やみきれない類のものだ。しかし、だからと言って色々な人の好意を無下にしたり、警察署を燃やすことの理由にはならない。観る者がミルドレッドに共感することができないまま、しかし、物語はこれまた予想外の方向に火事を、ではなく舵を切っていく。これは書き間違いではない。ちなみにこの火事を引き起こすキャラクターの一人は、『 アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 』では鍛治になっていた。

もうここまでの展開で、頭がストーリーを処理していくのにも一苦労するのが、ここからさらに予想外の展開へ進んでいく。それが何であるのかは実際に体感するしかないが、人は人を傷つけはするが、人は人を赦すこともできるのだと強く確信させてくれる。CHAGE & ASKAのYAH YAH YAHを何故か無性に歌いたいという気持ちで映画館を後にすることになった。『 女神の見えざる手 』を上回るような予想外の展開。スローン女史が近年の映画キャラクターで最も輝く女性であるとするなら、本作のミルドレッドは最も深い闇を抱えたキャラでありながら、もっとも包容力のある女性でもある。このような作品との出会いは、人生を豊かにしてくれる。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルのオスカー受賞もむべなるかな。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, イギリス, ウッディ・ハレルソン, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, フランシス・マクドーマンド, 監督:マーティン・マクドナー, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on スリー・ビルボード ー予想外の展開と胸を打つエンディングー

友罪

Posted on 2018年6月12日2020年1月10日 by cool-jupiter

友罪 35点

2018年6月10日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:生田斗真 瑛太 佐藤浩一 夏帆
監督:瀬々敬久

良く言えば群像劇。悪く言えば支離滅裂。この映画のテーマが何であるのかを直感的に感得することは難しい。殺人者との交流なのか、犯罪者の更生なのか、家族の離散と再生なのか、友情の喪失と復活なのか。結びのシーンを見るに、おそらく過去に喪失してしまった友情を、現在ではもう手放さない、相手がどうであれ自分がどうであれ受け容れるんだという意味合いに解釈できないでもないが、とにかく物語の軸があまりに定まらないので、観終ってからも釈然としない気持ちが最も強く残っている。もちろん、感銘を受けた部分もあるのだが、それ以上に困惑させられたシーンの方が多い。

最も太い軸は、益田(生田斗真)と鈴木(瑛太)が町工場で一か月の試用期間を通じて、一通りでない関係性を構築していくパート。同時にそこに佐藤浩一演じるタクシードライバーや、山本美月演じるジャーナリストも絡んでくるのだが、特に佐藤の役の背負う十字架があまりにも重すぎ、これだけで一本の映画にした方が良いのではないかと思えた。佐藤の息子が無免許で車を運転し、子ども3人を撥ねて死なせたのだ。刑務所でお務めはすませたものの、そんなものは遺族にしてみればどうでも良いことで、佐藤は遺族に時につきまとわれ、時に謝罪を拒否され、果ては身内にまで「頭を下げることに慣れ過ぎている!」と怒鳴られる始末。事件当時は一家を守る目的で敢えてバラバラになることを選択したが、そうこうしているうちに刑務所を出てきた息子が、女と同棲し、子どもまで作っていることが発覚(判明と書くべきなのかもしれないが、この息子の言動には本当に辟易させられたので、敢えて発覚とする)し、息子の独断専行ぶり、家族を潰し、家族を奪った者がのうのうと家族を作ろうとするーそれも家族に相談なしにーその姿勢に佐藤は心底慨嘆させられる・・・ もうこれだけで脚本を一つ書けそうである。しかしこれはメインではなくサイドストーリー。

本筋は少年Aの成長後の生活環境である。酒鬼薔薇聖斗と聞けば、30歳以上であれば即座に反応することだろう。神戸連続児童殺傷事件と言えば、ある程度若い世代でも聞いたことがあるだろう。佐世保の女子高生殺害事件よりも大きく扱われた、あの事件。Jovianは一時期、東京三鷹市に住んでいたが、目と鼻の先の府中刑務所に少年Aがいるという噂を聞いて、一瞬だけだが震えた記憶がある。もちろん作品中の少年Aは 酒鬼薔薇聖斗その人ではないが、その名前が青柳健太郎と聞けば、彼の本名を思い出す人も多いだろう。まるで漫画『寄生獣』の田宮良子と田村玲子のように。

あまりストーリーについてくどくどと述べても生産的ではないし、もっと思い返して考えてみたいというテーマでも作りでも無かった。ただし、罪を犯した者が幸せになってはいけないのか、という問いには自分なりの答えを出す必要があるのだろう。佐藤浩一は「無い」と言い切った。Jovianはあると思う。ただし、絶対に後ろめたさを感じなくてはならないし、絶対に自分の家族は守らなくてはいけない。その姿勢が全く見えない佐藤の息子には、正直反吐が出そうだった。まあ、それも考えさせるためのプロット上の工夫であると見做すなら、一定の効果を上げていると言えよう。

演技者として生田斗真は、エキセントリックな役はこなせても、悔恨の念を強くにじませたり、恐怖を感じる、そして恐怖を抑え込むような演技にまだまだ成長の余地を残していた。対する瑛太は『光』や『64 ロクヨン』などのちょっと頭がイってしまった、または直情径行なキャラを演じさせれば、日本では今最も巧みな表現者かもしれない。佐藤浩一の演技力は折り紙つきだし、『ピンクとグレー』あたりからセクシーシーンも普通にこなせる夏帆も存在感を見せる。その他のキャストも魅力的な役者を多く配しており、中でも瀬々監督との相性が良い飯田芳は、無鳥島の蝙蝠とでも言おうか、自分より強い者と新入りの間を行ったり来たりする実に人間らしい役どころを見せてくれた。

最後に瀬々監督にも一言。『8年越しの花嫁 奇跡の実話』は素晴らしい作品で、映画化に際しての脚色もドラマチックさを大いに増してくれたもので、クライマックスの怒涛の動画メッセージは反則級の演出であると思った。だがしかし、『ストレイヤーズ・クロニクル』は邦画史上でも稀に見る駄作であった。意図のはっきりしないカメラアングル、つながらないストーリー、能力を効果的に活用できないガキンチョ集団、それを追う大人の組織の頭の悪さ、まったくサスペンスを生まないクライマックスと、ダメなエンターテインメントはこうやって作れという教材のような酷い出来であった。次回の同監督の作品のクオリティによっては、見切りをつける決断をしなくてはならないかもしれないと不本意にも感じさせられる本作『友罪』であった。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 瑛太, 生田斗真, 監督:瀬々敬久, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 友罪

万引き家族

Posted on 2018年6月10日2020年2月13日 by cool-jupiter

万引き家族 80点

2018年6月10日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:リリー・フランキー 安藤サクラ 松岡茉優 樹木希林
監督:是枝裕和

* 本文中にいくつかネタバレに類する情報あり 

予告編は何度も何度も映画館で目にしてきたが、誤解や批判を恐れずに言わせてもらえば、かなりミスリーディングな作りになっている。それを好意的に取るか、それともアンフェアと受け取るかは観る人による。

東京近郊のあばら家に暮らす柴田治(リリー・フランキー)、柴田信代(安藤サクラ)、柴田亜紀(松岡茉優)、柴田祥太(城桧吏)、柴田初枝(樹木希林)の5人家族。稼業はそれぞれ日雇い労働者、アイロン掛けバイト、女子高生風俗バイト、万引きアシスタント、年金だ。

生活費の足りない部分は万引きで補うわけで、そこでは様々なテクニックからおまじないまでが使われる。そこには美しさも何もない。翔太は「学校っていうのは家で勉強できない奴が行くところだ」と言い放つシーンに、なるほどと思う者もいれば、とんでもないクソガキだと嫌悪感を催す者もいるだろう。同じことは亜紀にも当てはまる。家族で一番のお祖母ちゃんっ子で、信代にも彼氏ができました報告をするなど、一見普通に見えるが、やっていることは風俗一歩手前というか、まあ風俗嬢である。しかし、そこで客に差し伸べる手の優しさは観る者に何かを見誤らせる力を持っている。それは初枝にしても同じで、あるところから定期的に金を受け取るのだが、それは狙ってもらっていたものなのか、それとも意図せずもらえてしまった金なのか。これは是枝監督自身が舞台あいさつで述べていたことだが「(劇中の祥太のある決断の背景を尋ねられて)そんなに単純に作っていないんですよねえ・・・」という第一声を漏らしていた。ということは、これらのキャラクターの複雑に見える行動の原理も単純であるはずがなく、多様な解釈はそれこそ観る側が監督の意図を正しく汲んだものとして、このレビューを続けたい。

ある日の万引き帰り、治と祥太はとあるアパートのベランダに放置されている女の子を拾ってくる。「ゆり」という名のその子は依頼、柴田家の一員となり、家族の輪に加わり、家族の和に触れる・・・わけではない。生みの親か、それとも育ての親かというのはある意味で文学その他の永遠のテーマで、ごく近年に限っても是枝裕和監督の『 そして父になる 』や『 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス 』などで提起される問題だ。そしてそこに答えなど無い。あってはならない。もちろん、この疑似家族が家族らしさを体現しないのかと言うと、そんなことはない。おそらく今では失われて久しいちゃぶ台を囲んでの夕餉の団欒が頻繁に活き活きと描かれるし、縁台に出て、家族そろって隅田川の花火を楽しむ描写も存在する。しかし、騙されてはならない。そこにある美しさは上辺のもので、花火は音が聞こえるだけで決して花火そのものは見えない。誰しもに親が存在するのは理の当然ではあるが、家族という実体(花火)を求めて、音だけ(疑似家族)を楽しむその様は美しくも歪である。他にも例えば5才のゆりや第二次性徴手前ぐらいの祥太に盗んできたインスタント食品ばかりを食べさせるのは、緩やかなネグレクトではないのか。学校に行かせないのもネグレクトを構成しないのか。この家族に美しさだけを見出したとすれば、それは失敗であろう。

治「お前、さっきオッパイ見てただろ?いいんだ、男はみんなオッパイ好きなんだ。ここも大きくなってきたか?」

祥太「うん、病気かと思って心配してたんだ」

このような会話は父と息子の間で必ず交わされるべき会話であろうし、それができないのなら、そいつに父親の資格は無いとすら思う。ただ、とある駄菓子屋での出来事をきっかけに祥太の中で生まれた変化、自意識の芽生えに関して、治はあまりにも無関心すぎたし、家族という絆をあまりにも機能的に捉え過ぎるきらいがあった。海水浴を楽しむところをピークに、疑似家族はあっけなく自壊していく。警察の取り調べを受けるシーンで安藤サクラが見せる演技は圧巻の一語に尽きる。家族は選ぶものなのか、選ばれるものなのか、それとも最初から所与のものなのか。あらゆる思考と感情の対立と矛盾に一気に押し潰された個の悲哀が切々と語られるその様に、涙が止まらなかった。

この映画で最も素晴らしいのは、もしかしたら音楽かもしれない。『 アメリカン・ビューティー 』におけるトーマス・ニューマン、『 その男、凶暴につき 』の久米大作のような、さりげなさに潜む力強さと奥深さにしびれた。それを一番感じたのは、監督と主役二人の舞台登場シーン。映画本編よりもマッチしていたのではなかったか。

ネットの一部では「万引きは犯罪で、この映画は犯罪を美化している」という映画を観たかどうか怪しいレビューもあれば、「日本人は万引きなどしません」という現実を見ているかどうか怪しいレビューもある。「是枝は文化庁から助成金をもらっておきながら、国からの祝意は丁重に辞退するというのは倫理の二重基準であり、怪しからん!」という声まであるようだ。是枝監督は言うまでもなく納税者であり、公的サービスを受ける権利を有している。一方で国が祝意(それが単なる電報であれ国民栄誉賞であれ)を送ることそのものがかつてないほど政治色を帯びているのが現代日本である。Jovianは今も羽生結弦の国民栄誉賞授与検討のタイミング(大会すべてが消化されていない段階でマスコミにリークするか?その他のアスリートに対して配慮が無さ過ぎるし、村田諒太の批判は真っ当至極と感じた)について政府に疑念を抱いているし、祝意を表したいのなら、それこそパルムドール受賞発表直後で良かった。彼の行動を二律背反だとレッテル貼りするのは容易い。しかし、それがどうした?作品を鑑賞することなく行動を批判することに意味などない。芸術を好意的にしろ批判的にしろ評価したいのなら、まずは作品を鑑賞すべきだ。であれば是枝も耳を貸すだろう。氏には是非、今後も骨太の創作活動を続けて頂きたく思う。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, リリー・フランキー, 安藤サクラ, 日本, 松岡茉優, 樹木希林, 監督:是枝裕和, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 万引き家族

羊と鋼の森

Posted on 2018年6月10日2020年2月13日 by cool-jupiter

羊と鋼の森 85点

2018年6月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:山崎賢人 三浦友和 鈴木亮平 上白石萌音 上白石萌歌
監督:橋本光二郎

漫画、それも特に少女漫画の映画化に際しての御用達俳優としての地位を一頃確立してしまっていた山崎賢人が遂に殻を破った。間違いなく山崎のこれまでのキャリアにおけるベストである。そして2018年はまだ半分を消化していないにもかかわらず、Jovianは本作を年間最高の邦画として推したいと思う。

雪が降りしきる北海道の学校で、何とか食べていける職業につければと漠然と考える山崎賢人演じる外村直樹は三浦友和演じる調律師と出会い、その仕事振りに魂を揺さぶられるほどの衝撃を受け、同じ道を志すために東京の調律学校を2年かけて卒業し、地元の街の楽器店に就職する。そこで、鈴木亮平演じる先輩調律師やピアノに励む上白石姉妹らとの厳しくも美しい関係を通じて成長をしていく。

これだけだと典型的なビルドゥングスロマンなのだが、何よりも小説という文字媒体で音楽、そしてピアノの調律を描いていたものを、さらに映像化しようというのだ。眩暈がしそうな労苦だ。

マリー・シェーファーというカナダ人作曲家が提唱した「サウンドスケープ」という概念がある。音の風景、音風景、音景などと訳されることが多い。音という要素が景色として理解される瞬間というのは、誰もが一度は経験したことがあると思う。本作ではピアノの音をしばしば森の風景に翻訳する。それが主人公の外村のバックグラウンドに密接に関わっているからだ。音が人間の感覚に与える豊饒な影響については『すばらしき映画音楽たち』に詳しいので、興味を抱かれる向きは是非DVDなどで観賞を。本作はクライマックスの手前でジョン・ケージの”4分33秒”を彷彿させるシーンがあり、音楽方面に造詣が深い観客をも深く満足させる力を持っている。

それだけではなく、この映画はビジュアルストーリーテリングのお手本、教材にも成りうる作品であるとも評価できる。冒頭から、陰鬱とも言える暗いシーンが続く。それは語りのトーンの暗さではなく、視覚的な暗さでもある。その中でも、窓だけが一際明るく、その向こうに雪や新緑、光などのナチュラルな風景の広がりを感じさせ、外の世界とこちらの世界の接点としてのガジェットとして効果的に機能している。また登場人物の顔にも不自然、不必要とも言える照明が当たらず、服装も地味もしくは単色に抑えられ、否が応にもピアノの黒鍵と白鍵のコントラストを観る者に想起させる。それゆえに音の先に広がる豊饒な風景の色彩が一層の迫力と臨場感、説得力を以って我々に迫って来るのだ。

この映画はお仕事ムービーでもある。アニメ・ゴジラは世界の世界性を問いかけてきたが、ハイデガー哲学のもう一つの柱は道具である。道具的存在と道具の道具性。道具的連関。世界は道具でつながり、道具は素材から作られ、素材は自然から生まれる。劇中で外村が言う、「この道なら世界に出ていけると思う」という世界は、国際社会ではなく、生活世界、あるいはマルクスの言う【歴史】そのものだ。主人公の外村が自分に対しての自信の無さと、それは間違いであるということを厳しく優しく諭す鈴木亮平のキャラクター。仕事に自信を持ち始めた時、仕事に慣れ始めた時の陥穽。視覚や触覚の動員。コミュニケーションの大切さと、それを重視し過ぎてはいけないという教訓。感覚の言語化。調律という職業、職務を通じてこれらが描かれていくのだが、それは調律師に限ったことではなく、仕事や人間関係などのあらゆる面において応用されうる、また基本でもある事柄がさりげなく、それでいて大胆に開陳される。職業人も、そして中高生や大学生にこそ観てほしいと切に願う。

それにしても山崎は橋本監督と相性が良いのだろうか。繊細かつ些細な演技をこの監督の作品では見せることができるのに、なぜ他の作品では判で押したような紋切り型のキャラクターになってしまうのだろうか。やはり監督の演出のセンスとこだわりなのか。たとえば同監督の『 orange オレンジ 』はそれほどの良作ではないが(失礼!)、随所にリアリティある演出が観られた。一例として、土屋太鳳の独白とも言える語りかけに無言を貫くシーンで、山崎の喉が良いタイミングで動くのだ。心理学に詳しい人なら、観念運動について知っているだろう。人間の思考はしばしば筋肉の動きに連動するが、それが最も顕著に表れる身体部位は喉なのである。同じく、刺激(光に限らない)に対する脳の反応として最もよく現れる運動の一つが瞬きである。本作では山崎の瞬きが実に効果的に映し出されており、これは橋本監督の知識、教養の広さと深さ、そして演出へのプロフェッショナリズムを山崎に叩き込んでいることの証明に思えてならない。三浦や鈴木が演技を通じて山崎を導いたように。

観終った時、主人公の名前が外村直樹であることと道具的存在者の意味について、余裕のある方は考えてみてほしい。宮下奈都という作家の哲学的識見の広さと深さ、そして橋本光二郎という監督の表現力の大きさに、畏敬の念を抱くはずだ。そして久石譲の作るピアノの旋律に、「懐かしさ」を感じてほしい。それは明るく、静かに、澄んでいるから。音楽という空気の振動でしかないものが、いかにして芸術足り得るのか。それを生みだす道具としての楽器が、どれほど複雑玄妙に作られ、維持されているのか。物質としてのピアノと芸術としての音楽をつなぐ存在として立ち現れる調律師に、あなたは自分と世界の関わりを観るに違いない。これは、文句なしの大傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 山崎賢人, 日本, 監督:橋本光二郎, 配給会社:東宝Leave a Comment on 羊と鋼の森

図書館戦争

Posted on 2018年6月9日2020年2月13日 by cool-jupiter

図書館戦争 75点

2013年 大阪ステーションシネマ、WOWOWおよびDVD観賞
出演:岡田准一 榮倉奈々
監督:佐藤信介

有川浩原作の小説を映画化した、これはでありながらも、ある種のノンフィクションの色彩をも帯びている。”正化”という元号の時代も三十年を数える頃、メディア良化法案という法律が成立した日本社会で、メディア良化隊なる実力行使部隊が、書店や図書館、インターネット空間をも検閲の対象にしていた。それに対抗していた図書館の一つが、謎の襲撃を受け、多数の民間人の命と甚大な数の本が失われた。まさに現代の焚書坑儒である。それに対抗すべく、図書隊が設立され、条件付きながらも火力を有し、検閲に対抗していた。そこには笠原郁(榮倉奈々)とその教官、堂上篤(岡田准一)も所属しており、日々、戦闘訓練に励んでいた。

ここまで書けば、完全にファンタジー小説の映像化であるが、なぜこれがSF、そしてノンフィクションたりえるのか。作家の新城カズマは、SFとは「人間と文明全体を接続する」と定義している(『 われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方 』)。文明が、その最古にして最大の産物たる書物を抑圧する方向に向かう時、人間はどう振る舞うのか。それを本作品は描いている。書物という人類の叡智の集積の象徴を守ろうとする者と、公序良俗の維持という美名の元、銃火器を振り回す者、そしてそうした抗争に無関心な大部分の一般大衆とに。書物、そして広く表現を抑圧することは、世界史においては常だった。それを乗り越えたことが近代の黎明で、グーテンベルクの活版印刷術の発明はその曙光だった。その啓蒙の文明を抑圧する物語。これがSFではなくて何なのか。

そもそもの図書隊設立の発端は、「日野の悪夢」と呼ばれる図書館襲撃事件だった。有志の民間人団体が図書館員および図書館利用者を射殺し、図書を丸ごと火炎放射器で焼き払ったのである。そして警察は動かなかった。これだけで、いかに現実の日本社会と乖離しているのかが分かるのだが、この物語は単純に、図書隊=善、メディア良化委員会=悪、という善悪二元論に還元されるわけではない。作中で堂上が言う「俺たちは正義の味方じゃない」という台詞はその象徴である。我こそは正義であると信じて疑わなくなる時、人は道をたやすく踏み外す。これは歴史が証明するところである。

キャラクターたちは思想の自由を守るために戦うのだが、それは相手も同じ。信じる道が異なるだけで、信じる心そのものは否定はできない。だからこそ不条理に思える戦いにも身を投じることができるのだろう。絶対に自分では参加したくないが。また思想が著しく制限されかねない世の中に生きるからこそ、どこまでも個人に属する感情、恋愛感情もより一層美しく描写することに成功している。

それにしても佐藤信介監督というのは、武器がよほど好きなのだろうか。フェチ的なカットや思わせぶりなズームイン&アウトを戦闘シーンで多用するが、その一方でディテールの描写に弱いところもある。一例は、嵐の中での野営キャンプシーン。画面手前の木の枝やテントは強風に煽られていても、画面奥の木々やテントはほとんど無風状態。これははっきり言って頂けない。が、そのことが物語のテーマを棄損するわけでもないし、作品の価値を減じるわけでもない。

「本とは歴史であり、真実である」と図書隊司令(石坂浩二)は言う。「読書は個人の思想であり、個人の思想を犯罪の証拠とすべきではない」とも述べられる。公文書の改竄という重大犯罪が、その背景もよくよく解明されないままにうやむやにされ、共謀罪なる、公権力の恣意で市民を逮捕することも可能になりかねない法案が通過する現代にこそ、もう一度見返されるべき良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アクション, 岡田准一, 日本, 榮倉奈々, 監督:佐藤信介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 図書館戦争

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