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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ラブロマンス

『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

Posted on 2020年8月19日2021年1月22日 by cool-jupiter

僕の好きな女の子 70点
2020年8月17日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:渡辺大知 奈緒
監督:玉田真也

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テレビドラマの『 まだ結婚できない男 』と邦画『 ハルカの陶 』を観て、奈緒という女優を今後マークしようと思っていた。その奈緒と、Jovian一押しの俳優、渡辺大知の共演である。というわけで平日の昼間から劇場へ行ってきた。

 

あらすじ

加藤(渡辺大知)は脚本家。美帆(奈緒)は写真家兼アルバイター。二人は大の親友だが、加藤は美帆に恋心を抱いていた。けれど、告白することで、二人の関係が変わってしまうことを恐れている。加藤は美帆との距離を縮められるのか・・・

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ポジティブ・サイド

渡辺大知が『 勝手にふるえてろ 』の二とは真逆のキャラクターを好演。好きだという気持ちを意中の相手にストレートにぶつけられない世の男性10億人から、無限の共感を呼ぶパフォーマンスである。または『 愛がなんだ 』のテルコと同じく、好きだというオーラを全身から発しながらも、相手がそれに気づいてくれない、それでも満足だという少々屈折した一途キャラ。これまた世の男性5億人からの共感を呼ぶであろう。人は誰でもできない理由を思いつくことに関しては天才かつ饒舌なのだが、そのことが加藤とその悪友たちとの他愛もない喋りの中によく表れている。単なる喋りではなく、渡辺の目の演技にも注目である。さりげない演技ではなく分かりやすい演技、しかし、わざとらしい演技ではない。目で正の感情や負の感情を語っていて、美帆と共有する時間を知っているオーディエンスには伝わるが、美帆と共有する時間を知らない悪友たちには、その目の語る事柄が伝わらないという憎い演出である。

 

奈緒演じるヒロインの美帆をどう捉えるかで本作の評価はガラリと変わる。加藤の悪友の言うようにビッチ(という表現は不穏当だと思うが)と見るか、計算ずくで加藤をキープし続ける小悪魔なのか、それとも本当に男女の友情を信じて維持している、ある意味で非常に純粋な女なのか。Jovianは小悪魔であると感じた。理由は二つ。1つには写真。被写体に対する愛情がないと撮れない写真というものがある。それは、例えば『 思い、思われ、ふり、ふられ 』のカズが撮った写真であったり、『 マーウェン 』のマークが撮る人形の写真だったりする。そうしたものは一目見れば分かるし、そうした写真を無意識で撮ったとすれば、撮影者は小悪魔ではなく悪魔であろう。理由のその二は、公園で泣く美帆と、その彼氏である大賀の所作。大賀に責められたから泣いたのではなく、自分の意識していない薄汚れた面に気付いてしまって泣いたのだろう。大賀が慰めるように肩に手をかけていたのは、美帆を思いやる以上に「今は涙をこらえろ。加藤にその涙を見せるな」という意味だと受け取った。このあたりは観る人ごとに解釈が分かれるものと思う。

 

大賀と渡辺の喫茶店での対峙シーンは素晴らしい。『 聖の青春 』の松山ケンイチと東出昌大の食堂での語らいを彷彿とさせた。大賀は登場時間こそ少ないものの、スクリーンに映っている時間は、画面内のすべてを支配したと言っても過言ではない。

 

全編が芝居がかっていて、劇作家である玉田真也監督の真骨頂という感じである。居酒屋のシーンや加藤の自宅のシーンなど、下北沢の芝居小屋で見られそうなトーク劇だった。あれだけ軽妙かつ切れ味鋭いシーンをどうやって撮ったのだろう。すべて台本通りなのだろうか。それとも、大まかな方向性だけを与えて、役者たちのインスピレーションに任せて何パターンか撮影して、その中から良いものを選んできたのだろうか。

 

Jovianは東京都三鷹市の大学生だったので、井の頭公園はまさに庭だった。渡辺大知の卓抜した演技だけではなく、馴染みのある風景がいくつも出てきたことで、作品世界に力強く引き込まれた。井の頭公園で歌うギタリストの歌も素晴らしくロマンチックだった。世の細君および女子にお願いしたいのは、パートナーが沈思黙考していたら、是非そっとしておいてやってほしい。本当に考え事に耽っていることもあるが、過去の美しい思い出を反芻している時もあるから。

 

ネガティブ・サイド

加藤の職業が脚本家というのは、少々無理があると感じた。実際にテレビで放映されているわけで、美帆がそれを観ないという保証はどこにもない。又吉のエッセイが原作ということだが、加藤は駆け出しの小説家ぐらいで良かったのではないか。それなら出版前の原稿を仲間内でわいわいがやがやと論評合戦してもなんの問題もない。ジュースもケーキも手渡せないようなヘタレな加藤が、美帆との時間をそのままテレビドラマのネタにしてしまうというのは、キャラ的に合っていないと思えた。

 

萩原みのり演じる加藤の女友達、または徳永えり演じる美帆のビジネスパートナーに、何か波乱を起こして欲しかった。自分が誰かを好きな気持ちを、その誰かは決して気付いていてくれない。そのことを加藤自身が図らずも実践してしまうというサブプロットがあれば、またはそうした思考実験的なもの(たとえばドラマの脚本の推敲の過程で)を挟む瞬間があれば、よりリアルに、よりドラマチックになったのではと思う。

 

総評

カップルのデートムービーに向くかと言われれば難しい。かといって友達以上恋人未満な関係の相手と観に行くのにも向かない。畢竟、一人で観るか、あるいは夫婦で観るかというところか。Jovianは一人で観た。井の頭公園や渋谷が庭だ、という人には文句なしにお勧めできる。ラストは賛否両論あるだろうが、男という面倒くさい生き物の生態の一面を正確に捉えているという点で、Jovianは高く評価したい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

lover

「恋人」の意。日常会話ではほとんど使わない。日本語でも「カレシ」、「カノジョ」の方が圧倒的に使用頻度が高いのと同じである。劇中で二度歌われる『 友達じゃがまんできない 』の歌詞、「あなたの恋人になりたい」が泣かせる。「あなたの恋人にしてほしい」ではないのである。加藤にはTaylor Swiftの“You Are In Love”と“How You Get The Girl”、そしてRod Stewartの“No Holding Back”と”When I Was Your Man“を贈る。いつかドラマの挿入歌にでも使ってほしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 奈緒, 日本, 渡辺大知, 監督:玉田真也, 配給会社:吉本興業Leave a Comment on 『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

『 レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』 -Happy in the rain-

Posted on 2020年7月12日2021年1月21日 by cool-jupiter

レイニーデイ・イン・ニューヨーク 70点
2020年7月10日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ティモシー・シャラメ エル・ファニング セレーナ・ゴメス
監督:ウッディ・アレン

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ウッディ・アレン監督作の『 教授のおかしな妄想殺人 』や『 カフェ・ソサエティ 』がMOVIXあまがさきでリバイバル上映されていた。残念ながら再鑑賞のタイミングが合わなかったが、この巨匠はおかしな人間模様をスタイリッシュな絵で切り取らせると右に出る者がいない。本作はそんなアレンの特徴がよく出た秀作である。

 

あらすじ

ギャツビー(ティモシー・シャラメ)はポーカーで得た大金でガールフレンドのアシュリー(エル・ファニング)と自身の地元ニューヨークで最高の週末を過ごそうと考えていた。アシュリーも有名映画監督へのインタビューをニューヨークで行えるチャンスを手にしていた。二人は意気揚々とニューヨークに向かうが、ほんのちょっとしたことから思わぬすれ違いが生じてしまい・・・

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ポジティブ・サイド

オープニングからスクリーンを彩る鮮やかな背景やオブジェ、ガジェットや衣装に目を奪われる。シャラメのナレーションで田舎と形容されるヤードレー大学のキャンパス。そのオーガニックな木々や芝生や、あるいは道路の向こうに広大に広がる田園風景が、ニューヨークの象徴でもあるイエローキャブによって一挙に別種の色彩を帯びる。人工的で、なおかつ美しい色彩だ。街並みのみならずホテルやレストラン、その調度品などに至るまで色調が完璧に計算されており、その映像美だけでも、自分が日本からニューヨークに移動し方のように感じさせられる。匠の技である。

 

映画の形式(フォーム)の面でのユニークさは映像美だけに留まらない。これは超高速会話劇でもある。かといって『 シン・ゴジラ 』のように、ナード的なキャラクターが高速でまくしたてるのではなく、教養豊かなギャツビーとその周囲のキャラクターが織り成すユーモアと毒とトゲのある会話である。Jovianの妻はギャツビーを鼻持ちならない奴と見たようであるが、Jovian自身は首尾一貫してこのキャラクターに共感することができた。スノッブでも衒学的でもなく、本当に言語のセンスに長けた博識な若者に映った。自分でも時々感じるが、教養というのはひけらかすものではなく、勝手ににじみ出るものであるべきだ。反省しよう。ギャツビーみたいな良い男を目指そう。そうそう、本作におけるギャツビーの独白、心の声は『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンに近い味わい深さがある。よくよく耳を澄まされたし。また『 マリッジ・ストーリー 』でアダム・ドライバーが予想外の歌唱力を披露してくれたように、シャラメも本作でピアノ弾き語りを披露する。そちらの歌も必聴である。

 

ヒロインのエル・ファニングも味わい深い。はっきり言ってお馬鹿さんなのだが、そこが可愛らしく愛おしい。彼女を徐々に巻き込んでいく騒動は、彼女自身の魅力に端を発している。もっと言えば、ウッディ・アレン自身がエル・ファニングに愛されたい、敬服されたい、称賛されたいという欲望を持っているからこそ生まれたストーリーなのだろう。本作に登場する数々の中年のおやじキャラは全てアレンの分身なのではないかと疑いたくなる。エル・ファニング(というよりもアシュリー)のどこがそれほど魅力的なのか。一つには、目だと思う。目は口程に物を言うものだが、そのまっすぐな瞳に射抜かれれば、たいていの男はイチコロだろう。それほど今作におけるファニングの目、そして笑顔は魅力的であり説得力がある。ジャーナリスト志望ということは、まだジャーナリストではないわけで、彼女は単なる学生であり、子どもである。実際に作中でも15歳の少女扱いされるシーンがあるが、まだ何物でもない魅力的な女子に向き合うことで、男は、たとえば年齢や職業や肩書や社会的地位といった一種の虚飾から自由になれる。ただの男になれるわけだ。このエル・ファニング演じるアシュリーの魅力に、ぜひ魅了されたし。

 

惹かれ合いながらも何故かすれ違ってしまう恋人同士。雨のニューヨークに感じる旅情。映像美と音楽。これはウッディ・アレンの快作である。

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ネガティブ・サイド

セレーナ・ゴメスは悪い役者ではないが、作品世界にはまっていなかった。なんだかちんちくりんに見えるのだ。いっそのことゴメスとファニングの逆にキャスティングしてみたら?それもそれでセレーナが爺殺しの魅力を発揮したかもしれない。

 

ギャツビーの兄のフィアンセの笑い方が、兄に結婚を躊躇させるほどのものだったか?確かに奇妙な笑いであるが、これは本作のテーマである“価値観の違い”というよりは、生理的な、あるいは生得的な好悪の問題だろう。もっとスプーンやフォークの使い方が~とか、音楽や映画の趣味が~とか、そういった設定にはできなかったのだろうか。

 

少しだけ気になったのは、ギャツビーの母が“アシュリー”を見抜くシーン。母が夫に「何か変じゃない?」と語りかけるシーンは不要だったし、その筋の道の人間にしか分からない、ほんのちょっとした所作や仕草のようなものを一瞬だけで良いので見せてくれていたら、非常に説得力あるシークエンスになったはずなのだが。

 

総評

約1時間30分とは思えないほど濃密な映画である。まさに梅雨空の続く今にふさわしい映画であると言える。夫婦で鑑賞すれば、すれ違いのあれやこれやを笑い飛ばせることもできる。ただし、デートムービーにはならないかもしれない。都会人の男と田舎出身の女子、というくくりは乱暴すぎるかもしれない。だが、ガールフレンドと一緒に本作を鑑賞しようともくろむ男子諸君には、映画の中身をよくよくリサーチされたしとアドバイスしておきたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Time flies.

「光陰矢の如し」の意味だが、もっと単純に「時間が過ぎるのは早いもの」ぐらいでよい。仕事に集中していて、気が付いたら定時。飲み会ではしゃぎすぎて、気が付いたら終電間近。そんな時に“Time flies.”と呟いてみようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, セレーナ・ゴメス, ティモシー・シャラメ, ラブコメディ, ラブロマンス, 監督:ウッディ・アレン, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』 -Happy in the rain-

『 勝手にふるえてろ 』 -理想と現実のはざまで悶えろ-

Posted on 2020年6月17日 by cool-jupiter

勝手にふるえてろ 80点
2020年6月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:松岡茉優 渡辺大知 北村匠海
監督:大九明子

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これは確か2017年の年末と2018年の年始にシネ・リーブル梅田で観たんだったか。男とか女とか関係なく、自分の古傷、封印していたほろ苦い思い出を無理やり呼び起こされ、それをズタボロに引き裂かれ、しかし最後に肯定してもらえたような気分になった。映画館にはまだまだ少々行きにくい。なので面白さが保証された過去作を観るのも有意義だろう。

 

あらすじ

江藤良香(松岡茉優)は24歳OL。中学二年生の頃から一(北村匠海)に恋焦がれている。だが、ある時、会社の同期の二(渡辺大知)が猛アプローチを仕掛けてきた。大好きだけれど手が届かない一か、好きではないけれど自分を好いてくれる二か、良香は思い悩むのだが、ある出来事をきっかけに一に会おうと思い立つ・・・

 

ポジティブ・サイド

青春とは不思議なもので、長い人生の中では比較的短い期間に過ぎないが、その時に受けた影響は何年も何十年も残る、あるいは続くことがある。往々にしてその影響は歳月を経て希釈されるものだが、中には逆に強化してしまう者もいる。その代表例が主人公の江藤良香だ。

 

中学二年生の頃から一途に一に懸想して・・・と言えば聞こえは良いかもしれないが、これはもはや重度の中二病である。そうした痛い女を松岡茉優は見事に体現してくれた。ソーシャルな意味でのコミュニケーションが上手いのか下手なのか分からないキャラクターで、我々はそれをパブリックな自分とプライベートな自分を華麗に使い分ける、ある意味で立派な女性像として許容する。こうしたキャラ造形は見事だし、実際にそのように映る演出も随所に挿入されている。個人的に感じ入ったのは、良香が自分で自分にアンモナイトの化石をプレゼントとして贈るところ。玄関のむこう側とこちら側で、キャラクターがガラリと入れ替わるシーンは、良香の二面性を大いに印象付けた。こうした良香のイメージが後半の怒涛の展開とドンデン返しを大いに盛り上げる。

 

二である渡辺大知も、いつも通りの三枚目キャラながら、人間の本質の部分では熱血漢、けれど表面的にはストーカー気質という少々一通りでないキャラを好演。なんというか、ラブコメやラブロマンスやヒューマンドラマの文法に全く従わないキャラである。なので、良香と同じく、観る側が共感するようになるのに少々時間がかかる。けれど、現実にこのような男がいれば、それはよっぽど根が野暮か、さもなければよっぽど自分に正直であるかのどちらかだろう。いや、男性だけではなく女性でもそうだ。八切止夫は著書『 信長殺し、光秀ではない 』で「人間関係とは一にかかって、いかに相手に自分のこと良いように誤解させるかだ」と喝破していた。それをしない人間というのは逆に信用できる。二はそういう男である。

 

それにしても松岡茉優は本当に代表作を作り上げたなと思う。『 脳内ポイズンベリー 』の真木よう子と吉田羊を同居させたような女で、なおかつ社会性に欠ける言動=二のみならず観ている観客全員をドン引きさせる大嘘を、いたって大真面目につくところ。さらには会社を休んで自宅で過ごす様のあまりにも健康的な健全さ。世俗の歓楽には興味はなく、自分の価値観だけで十分に満足できるという、仙人のようである。一方でそうした生活を長くし過ぎたせいで、一を好きなだけで満足できる人生を10年間過ごしてきたせいで、もはや軌道修正できるかできないかギリギリのところにいる様が、多くの男女の共感も呼びやすい。『 電車男 』の逆というと変だが、構図としてはそうである。人間関係というと非常にニュートラルに聞こえるが、そこになんやかんやのドロドロとした、決して綺麗ではないものがある。だが、それらすべてが汚泥であるわけではない。ふとした言動が誰かを傷つけたりすることはある。二がそうした俗世の在り方を良香に説く様には、なにかこちらが圧倒されるようなリアリティがある。自分は知らないところで他人を傷つけてOKでも、他人が自分を傷つけることは許さない。そんな良香、さらには全ての中二病経験者に、雨中の二が切々と語りかけてくる様は感動的である。こんな痛い女を包み込めるのは、こんな泥臭い男しかいない。そんな、一歩間違えればセクシズムと受け取られかねないことも本作についてなら言える。そんなパワーを放つ快作である。

 

ネガティブ・サイド

辞表とはなんだ?退職願ではないのか?と、昨年、会社に退職届を出したJovianが突っ込んでみる。綿矢りさのミス?それとも小説の編集者や校正も見逃していた?脚本にする時に間違えた?

 

多少気になったのがフレディ。『 ボヘミアン・ラプソディ 』前の作品であるが、それでももう少し似せる努力はしてほしい。同時にやはり松岡茉優は顔が整い過ぎていて、中学時代の良香には苦しかった。いかに野暮ったく描いても栴檀は双葉より芳しである。

 

片桐はいりのキスシーンは必要か?ぎりぎりで見せないようにするほうが、観る側はかえって想像力をそそられる。想像力がテーマの一つである本作には、そうした映さない映し方がふさわしかったのでは?

 

総評

Third viewingだったが、それでも面白い。見るたびに発見ができる。松岡茉優は極めて薄い化粧で、ちょっとした照明の工夫で明るい時と落ち込んでいる時、自分の世界にいる時と会社などの他人の世界にいる時で、光量が使い分けられている。ストーリーやキャラクター以外の映画作りの技法の面でも優れた、近年の邦画の一つの到達点である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

go extinct

絶滅する、の英語である。become extinctも同じくらい使われる。絶滅すべ~きで~しょう~か~?を、“I should let my love go extinct, shouldn’t I?”とすれば、収まりがよく聞こえる。英語のフレーズやセンテンスは、リズムと一緒に覚えよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ラブコメディ, ラブロマンス, 北村匠海, 日本, 松岡茉優, 渡辺大知, 監督:大九明子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 勝手にふるえてろ 』 -理想と現実のはざまで悶えろ-

『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

ハーフェズ ペルシャの詩 60点
2020年6月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:メヒディ・モラディ 麻生久美子
監督:アボルファズル・ジャリリ

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近所のTSUTAYAでジャケットだけ見て借りてきた。あるすじも読まなかった。ジャケ買いならぬジャケ借りである。それにしても難解であった。一応、宗教学や比較人類学をやっていたJovianにも理解が及ばない部分が多くあった。

 

あらすじ

シャムセディン(メヒディ・モラディ)はコーランの暗唱者“ハーフェズ”の称号を得たことで、大師の娘ナバート(麻生久美子)がチベットからやって来た際に、家庭教師に任命された。コーランの教えを読み聞かせするうちに、シャムセディンはナバートに恋心を抱く。だが、それは許されぬ恋慕であった・・・

 

ポジティブ・サイド

シリアスなラブロマンスのはずだが、冒頭のシーンから笑ってしまった。シャムセディンと詩塾の先生との対峙が、まるで『 パティ・ケイク$  』や『 ガリーボーイ 』のストリート・ラップバトルと重なって見えたからだ。言葉と言葉の格闘技、詩歌の空中戦である。笑ってしまったと同時に唸らされもした。詩文を即座に暗唱するのは、記憶力に拠るものではなく熱情によるものだということが、このシーンでは強く示唆されていたからである。頭で考えてみると答えはXだが、心で考えてみると答えはYになる。そうした時に、人はどうすべきなのか。それが本作のテーマであることが、あらすじを読まずとも冒頭のシーンだけで伝わってきた。この監督は手練れである。

 

面白いなと思うのは、同じ名前を持つ二人の男という設定だ。厳格なシーア派優位のイラン・イスラム社会では、一昔前の日本など比較にならないほど家父長および共同体の長の権限が強い。婚姻も裁判も、法治主義国家ではなく人治主義国家のそれである。個人の自由がない社会で、共同体の規範からはみ出る者には容赦の無い排除の論理が適用される。このあたりは、程度の差こそあれ、日本も「人の振り見て我が振り直せ」であろう。片方の男は妻を愛しながらも、妻に愛されない。片方の男は、女を愛しながらも女への愛を忘れるように強要される。どこでもある物語だが、ハーフェズのシャムセディンが辿る忘却の旅は、行く先々で様々な社会矛盾をあらわにしていく。

 

なぜ処女信仰(という名目で、実際は女性への差別と抑圧に他ならない)をここまで大っぴらにするのか。愛を忘れるために処女7人に儀式に協力してもらうというのは、人の心をコントロールしたいという願望か、あるいはコントロールできるという過信の表れだろう。そしてジャリリ監督は、ある意味でそうしたイスラム社会の因習を嗤っている。それもユーモアのある笑いではない。毒を含んだ笑いだ。この村の処女は私だけだ、と語る老婆の一連のシークエンスは、悲劇であると同時に喜劇である。外国人(日本人)キャストを起用したのは、本作を諸外国に売り込むためで、その目的の一つは外部世界の視線を自国に集めることだろう。近年、レバノンが『 判決、ふたつの希望 』や『 存在のない子供たち 』を世に問うているように、2000年代のイランも、自国の矛盾を外部に観てほしいと感じていたのだ。

 

詩想の面でも本作はとても美しく、また力強い。数々の言葉が空中戦、銃撃戦のように繰り広げられるが、その中でも最も印象に残ったのはハーフェズのシャムセディンの「あなたの歩いた道の砂さえ愛おしい」というものだった。これは『 サッドヒルを掘り返せ 』のプロジェクト発起人の一人が「クリント・イーストウッドの踏んだ石に触れたかった。理由はそれだけで十分だ」という考え方に通じるものがある。クリミア戦争の前線の野戦病院では、ランプを手に夜の見回りをするナイチンゲールの影にキスをする兵士がたくさんいたと言う。このような間接的なものへの愛情表現は、一歩間違うと下着泥棒などに堕してしまうが、だからといってその気持ち、心の在りようまでは決して否定はできない。宗教でも哲学でも道徳でも、なんでもかんでも行き過ぎてしまうと有害になる。まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。なかなかに複雑な悲恋であり、なおかつ恋愛の成就である。

 

ネガティブ・サイド

イラン社会に関する説明があまりにも少なすぎる。チベット帰りという設定のナバートにコーランの読み聞かせの家庭教師をつけているのだから、コーランの文言以外にも、イラン社会の風俗習慣についてもっと語るべきだった。あるいは公序良俗についてもっと映像をもって説明すべきだった。

 

「シャムセディンが二人いる、二人に見える」というセリフが繰り返し子ども達などによって放たれるが、これも分かりにくい。シャムセディンはおそらく男性性の象徴(性的な意味ではなく)で、それが分裂している、あるいは統合失調症的症状を呈していると言いたいのだろうか。または、男性性が社会・文化・宗教によって引き裂かれている、システムの一員としてのパーソナリティと独立した個人としてのパーソナリティに分裂していることの表れなのだと思うが、どちらのシャムセディン自身の交友関係も描写がないので、内面の事象なのか外面の事象なのかが分かりづらい。というか分からなかった。

 

鏡というのは比喩的なアイテムであるが、それを処女に拭いてもらうことの意義もよく分からなかった。ペルシャ語やペルシャ文化が精通すればよいのだろうか。最大の問題は、ハーフェズという歴史上の詩人が現代イランでどのように受容され、評価されているのかが観る側に伝わってこないところだ。『 ちはやふる -上の句- 』の中で1千年前の藤原定家の歌が唐紅のイメージで描写されたように、ハーフェズの詩の世界観を、ほんの少しで良いので映像や画像で表してみてほしかった。そうすれば、言葉ではなくイメージで、ハーフェズの詩歌の影響力や遺産、その功績の大きさなどが多少なりとも伝わったのではないか。

 

総評

なんとも解釈が難しいストーリーである。はっきり言ってちんぷんかんぷんな部分も多い。ただし、一つ言えることは、今後の日本社会を考えるうえでヒントになる作品であるということである。『 ルース・エドガー 』と同じく、異文化育ちながら日本に“帰って来る”者たち(大坂なおみetc)は、今後増えることはあっても減ることは無い。そうした者たちをどのように受け入れるのか。問われているのそこである。そうした意味で本作を観れば、個の尊重と共同体の維持のバランスがいかに難しいかが肌で感じられるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント語学学習レッスン

今回は勉強法である。麻生久美子は『 おと・な・り 』でもフランス語を熱心に勉強していたが、大人(おおむね20歳以上)の語学学習はインプット→アウトプットが原則である。耳で聞く、文字を読む、それを声に出す。このサイクルを崩してはならない。もしもあなたの通う英会話スクールや、あなたが使っている教科書・参考書が「四技能をバランスよく学習する」と謳っていれば、勉強法を変えた方が良いかもしれない。語学をやるなら、リスニング50、リーディング20、スピーキング20、ライティング10ぐらいの配分で良い。中級者以前ならなおさらである。

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Posted in 国内, 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, イラン, メヒディ・モラディ, ラブロマンス, 日本, 監督:アボルファズル・ジャリリ, 配給会社:ビターズ・エンド, 麻生久美子Leave a Comment on 『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

『 シラノ恋愛操作団 』 -韓流・大人のビタースイート・ロマンス-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

シラノ恋愛操作団 65点
2020年6月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:オム・テウン イ・ミンジョン パク・シネ チェ・ダニエル
監督:キム・ヒョンソク

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『 オズの魔法使 』で満たされた心をどう鎮めるか。それは普通の現代映画を観ることである。そこで本作をチョイス。予想通り、期待通りの普通~標準以上の作品であった。

 

あらすじ

小さな劇場で俳優をしているビョンフン(オム・テウン)は、副業としてシラノ・エージェンシーを営んでいる。つまり、クライアントに演技指導をして恋愛を成就させるのだ。ある日、訪れたサンヨン(チェ・ダニエル)の依頼にビョンフンは驚いた。サンヨンが恋焦がれる相手は、かつての自分の恋人だったのだ・・・

 

ポジティブ・サイド

シラノ恋愛操作団のシラノとは、言わずと知れたシラノ・ド・ベルジュラックである。『 累 かさね 』でも触れたが、顔の美醜は恋愛においては大きなアドバンテージにもディスアドバンテージにもなりうる。だが、そんな恋愛模様はもう見飽きた。韓国映画お得意の過去に囚われる男と未来に目を向ける女の物語を堪能しよう。

 

まず、恋愛操作団を作ってしまおうという発想が面白い。日本の少女漫画を映画化した作品は、だいたい主人公とヒロインの両方に頼れるサポート役がいて、そいつらは決して主人公たちの領域に入ってこない。くっつくとしても自分たち同士がくっつく。いや、主役の領域に割り込んでくるキャラクターもいるが、それも必ず予定調和的に退場していく。名前を挙げるのが憚られるほどに、そうした作品は数多い。そうではなく、カネで恋愛サポーターを買うというのが、いかにも即物的・現世利益重視の韓国らしい。勘違い召されるな。彼ら彼女らはカネに汚いのではない。自分の願望を成就させたいという気持ちにひたすらに忠実なだけである。そうしたカネは持っていても恋愛の手練手管はちょっと・・・という一歩間違えれば非常に剣呑なキャラクターをチェ・ダニエルは見事に好演。そして、彼が恋焦がれる美女を演じたイ・ミンジョンは、ハリウッドにも進出しているイ・ビョンホンの細君。それにしてもイ・ミンジョンにせよぺ・スジにせよぺ・ドゥナにせよチャン・ジヒョンにせよ、コリアン・ビューティーには、ちんちくりんは存在しないのか。日本では広瀬すず、土屋太鳳、杉咲花、浜辺美波など、160cm未満ばっかりである。何故だ、遺伝子レベルでそこまで差はないはずだが。あと、コリアン・ビューティーの共通点として、おしとやかさゼロという特徴がある。これまた大和撫子幻想を夢見ていると、本作のイ・ミンジョンにはまったく共感できないだろう。というか、美人であるがゆえに余計に憎たらしくさえ思えてくるだろう。そう思わせない存在感と迫真性がイ・ミンジョン演じるヒジュンというキャラクターには備わっていた。

 

『 建築学概論 』のオム・テウンが、本作でも良い味を出している。劇中でパク・シネ演じるシラノ・エージェンシーの同僚が「男は女の過去の相手が気になるけれど、女は男の次の相手のことが気になるものよ」と言うくだりには感銘を受けた。男女の恋愛観の違いを「男は名前を付けて保存、女は上書き保存」とPC用語で説明したフレーズもすっかり定着したが、パク・シネの上の言葉も、もっと真剣に捉えられても良いのではないだろうか。初恋は実らないものであるが、やけぼっくいも実らない方が多いのではないか。やけぼっくいには火が付き易いと言うが、火が付いてしまっては実るものも実らない。大人になるということは、ある意味では可能性を狭めていくことである。現実を受けいれるということである。野坂昭如だったか誰かが雑誌の恋愛相談で、「男の最後の仕事はふられてやること、忘れられてやること」みたいなことを言っていた。至言であろう。韓国女性と大和撫子に大きな違いがあったとしても、韓国男性と日本男性に大きな違いはない。そう、ふられてやろう、忘れられてやろう。女が上書き保存できるのは、男たちが最後の仕事を全うし、死屍累々たる惨状の歴史を紡ぎ続けているからだ。本作は基本的にはラブコメであるが、人間の本質をしっかりと突いている。

 

ネガティブ・サイド

ヒジュンの外見的な魅力は問題ない。問題は、彼女の性格や人間性である。はっきり言って、彼女と主人公のビョンフンの過去のいさかいの原因には、共感できる人と反感・憎悪を抱く人に二分されるだろう。極端なキャラクター造形は物語作りの基本ではあるが、この展開はかなりの人の心をえぐるだろう。

 

チェ・ダニエル演じるサンヨンも、財力にモノを言わせるなら、もっといろいろな使い道があるだろう。ファンドマネージャーというと『 国家が破産する日 』を思い出すが、地獄の沙汰も金次第である。美容院やら服装やらクルマやら貴金属にカネを使ってみたものの、恋愛が上手く行かなかった。だからこそ最後の最後にシラノ・エージェンシーにたどり着いた。そんな因果を描いてほしかったと思う。

 

クライマックスへの入り方も少々間延びし過ぎの感がある。「ふられてやる、忘れられてやる」のが男の最後の勤めであるならば、もっと切れ味よくスパッと介錯してやれよ、とキム・ヒョンソク監督に言ってやりたい。

 

総評

大人が色々とこじらせると、それだけでドラマになる。愛するから信頼できるのか、信頼しているから愛せるのか。そんなことを考えるのも乙なものである。別にどちらが正解というものではない。ただ、愛さなかったことを後悔する人間はいないだろうが、信頼しなかったことを後悔する人間は星の数ほどいるだろう。そうした経験の持ち主なら、本作はそれなりに楽しめるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

an old flame

古い炎、つまりはやけぼっくいである。しばしば rekindle an old flame = やけぼっくいに再び火をつける、のような使い方をする。賢明なる諸賢が rekindle an old flame をしないことを祈る。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イ・ミンジョン, オム・テウン, チェ・ダニエル, パク・シネ, ラブロマンス, 監督:キム・ヒョンソク, 韓国Leave a Comment on 『 シラノ恋愛操作団 』 -韓流・大人のビタースイート・ロマンス-

『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

Posted on 2020年5月23日 by cool-jupiter

17歳のエンディングノート 65点
2020年5月21日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング カヤ・スコーデラリオ
監督:オル・パーカー 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200523101421j:plain
 

『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー 』の監督作。COVID-19禍が縮小傾向とはいえ、第二、第三波は来る。まさか『 フィフス・ウェイブ 』ような間抜けにもほどがある第五波が来るとは思っていないが、世界の死者数などを知ると命のはかなさについて考えざるを得ない。そこで本作をチョイス。

 

あらすじ

テッサ(ダコタ・ファニング)は若くして癌を患っている。そしてついに医師に余命宣告を受けた。彼女は死ぬまでにやりたいこと決めて、それらを実行していく。そしてテッサは最近隣に引っ越してきたアダムとの距離を確実に縮めていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

こういうストーリーでは、死に行く主人公よりも、その周辺のキャラクターが光り輝く。本作も例外ではない。テッサの父がアダムと出会って語る言葉の前半は、全ての父親に共通する心理だろう。そしてその言葉の後半は、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』におけるロブ・リグルや『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』の杉本哲太のそれと同じである。病気の娘を輝かせるのは父親というのは、古今東西の映画文法のようである。ベタではあるが、やはりオッサンの好演に心を揺さぶられる。

 

テッサの家族が一致団結していないことが本作のアクセントになっている。必死で娘に向き合う父親、その父親とは離縁していて、娘の看病や介護ができずにおろおろする母親、そして姉の病気を正しく理解するにはまだ幼すぎる弟。こうした、ちょっと普通ではない家族だからこそ、テッサは時に傷つき、そして救われもする。そして若くして妊娠する親友に、とある秘密を抱えた隣家の青年と、家族外でテッサを取り巻く面々も多士済々だ。テッサの親友のゾーイと恋人アダムが絡まないのも潔い。変に人間関係をこねくり回すよりも、これぐらいがちょうど良いと感じた。

 

『 マトリックス レボリューションズ 』のエージェント・スミスは“The purpose of life is to end.”と喝破したが、本作はその逆のテーマを非常にベタな手法で力強く称揚する。生きるからには愛し愛されたいものである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のテッサの屋内スカイダイビングのシーンは、おそらく顔だけ差し替えている。このアトラクションはフェイスマスクをつけることが多い。つけない場合は、鼻の穴や唇が常にプルプルすることになる。ダコタ・ファニングの変顔を、監督が見せたくなかったのか、それとも本人が嫌がったのか。いずれにせよ、死ぬまでにやりたいことをやるというのが本作のコンセプトなのだから、変にCGなどは使わないでほしかった。

 

中盤にアダムが街中に思わぬ仕掛けを施すが、時間的に、また労力的にちょっとこれは不可能ではないかという仕事をやってのけている。非常に良いサプライズなのだが、もうちょっとリアリスティックにしてほしかったところ。

 

テッサが自室の壁に書いていくTo do リストが少々弱い。というよりも、始まりと終わりが上手くつながっていないというか、死ぬまでにやりたいことと、開き直ってもうやっていることが、ごっちゃになっている部分があった。「明日死んでもいいように今日を生きろ」というのが本作のメッセージの一つである。ならば、そのようにテッサが思い立って行動を始める瞬間を、もっとドラマチックに描いてほしかったと思う。

 

総評

よく練られた話である。100分ほどと、コンパクトにまとまっているし、ストーリーやキャラクター同士の関係も適切な範囲でのみ盛り上がる。Jovianはエル・ファニング推しであるが、姉ダコタも素晴らしい役者であると感じる。躊躇なく下着姿になって海に向かって突撃するシーンはまさに青春である。女子高生の娘を持つ父親が、家族で鑑賞して、そして泣いて見せればよいのではと思う。娘が父の愛の大きさと深さに感動するか、それとも気持ち悪いと感じるか、そこは諸刃の剣だろうが。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

drift away

訪問看護師がテッサに「疼痛緩和が進めば、やがて意識がなくなる」と語った、“意識がなくなる”の意味である。物理的にドリフト的に本来の場所から逸れて行ってしまうという意味と、意識が今この瞬間から離れて行ってしまうという意味の二つがある。後者については、オールド・ロックンロールのファンならばロッド・スチュワートやレイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズやローリング・ストーンズが歌った“Drift Away”=『 明日なきさすらい 』を知っているはずだ。I wanna get lost in your rock and roll and drift away!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イギリス, カヤ・スコーデラリオ, ダコタ・ファニング, ラブロマンス, 監督:オル・パーカー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

Posted on 2020年5月16日 by cool-jupiter

愛人/ラマン 75点
2020年5月15日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ジェーン・マーチ レオン・カーフェイ
監督:ジャン=ジャック・アノー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200516181911j:plain
 

『 月極オトコトモダチ 』とは裏腹のテーマの作品を鑑賞してみたいと思い、本作があったなと思い出した。確か大学生3年生ぐらいの時に、当時急成長中だったTSUTAYAでVHSを借りて観た。当時、純情だったJovian青年は『 ロミオとジュリエット 』のオリビア・ハッセーを観た時と同じくらいの衝撃を味わったのだった。

 

あらすじ

20世紀初頭のフランス領インドシナ。少女(ジェーン・マーチ)は偶然にも裕福な華僑青年(レオン・カーフェイ)と知り合い、性的な関係を持つようになる。愛のないセックスに耽る二人だが、少女も青年も家族に問題を抱えており・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の一人、レオン・カーフェイが、『 グリーンブック 』で言及した韓国系カナダ人にそっくりなのである。それが原因なのかもしれないが、異邦人の悲哀が確かに感じられた。YouTubeに行けばいくらでもinterracial relationshipにあるカップルたちの日常の動画や結婚生活、喧嘩の模様などが赤裸々に語られている時代である。それは取りも直さず、ようやく時代がinterracial relationshipを許容できるようになってきたことの表れでもある(移動や情報公開のテクノロジーが行き渡った面も無論あるが)。一方で20世紀前半のインドシナで、華僑の青年と宗主国フランスの少女という、互いにアウェーな状況は、どこか『 ロスト・イン・トランスレーション 』を彷彿させた。実際に、日本語に英訳がつかなかったように、本作でも中国語に字幕が存在しない。仕事をせずとも暮らしていける富裕なこの男は世界に居場所がない。その居場所として少女を見出していく様ははかなげで悲しい。スーパーリッチなアジア人青年キャラクターとして『 クレイジー・リッチ! 』のニックが思い出される。本作の華僑青年のキャラクター造形はニックに影響を与えていてもおかしくない。

 

もう一人の主演であるジェーン・マーチは、まさにこの限られた時期にしか発揮することのできない魅力や魔力を存分に発揮したように思う。『 ガール・イン・ザ・ミラー 』でも感じたことだが、邦画の世界には脱げる役者が少ない。男でも女でもである。その意味では本作は、30年前の映画でありながら邦画の30年先を行っている。つまりは stand the test of timeな作品である。脱ぐから偉いのではなく、その瞬間にしか作れない作品をしっかりと作り、世に送り出している。本邦では、脱ぐ=話題作り、落ち目女優の勝負、体当たりの演技ぐらいにしか捉えられない。まことに貧相で皮相的である。脱ぐからセクシーだとかエロティックになるわけではない。聴診器で心音を聞いたり、マンモグラフィー検査や乳房の触診で興奮する男性医師などいない。物質としての女体に男は興奮するのではない。それへの距離を詰めていく過程に最も興奮するのである。嘘だと思うなら本作を具に観よ。最も官能的なのは、車中で男が少女の指に自らの指を重ねていくシークエンスであり、前戯やセックスそのもののシーンではない。

 

監督のジャン=ジャック・アノーは『 薔薇の名前 』でもかなり唐突なセックスシーンを描いていた。確か隠れていたところを見つかった少女が、自分から少年の手を取り、自分の胸を触らせて篭絡していく過程が妙に艶めかしかった。自身の問題意識の中に人間関係とセックスがあったのだろう。セックス=愛情表現と考えがちな男のちっぽけな脳みそではなかなか消化しきれないが、セックス=自己表現の一つとしていたフランス人少女の姿は、色々な因習を突き破ったという意味で本土ではなく植民地における『 コレット 』だったと言えなくもない。

 

主演二人に名前がない設定も素晴らしい。『 母なる証明 』の母にも名前がなかったが、名前を持たないことでその人間の“属性”が一気に肥大化し、かつ“個性”が一気に矮小化される。COVID-19における報道を考えてもらいたい。志村けんや岡江久美子のように、“名前”のある人が死亡すると、我々は戦慄させられる。一方で名前が一切出てこない報道、たとえばイタリアやアメリカの死者数を伝えられても「あの国、ヤバいな」ぐらいにしか感じない。男と女、華僑と白人、青年と少女。様々な属性に縛られる二人の関係を、どうか堪能してほしい。そして、男というアホな生き物の生態に一掬の涙を流してほしい。

 

ネガティブ・サイド

寄宿舎でもう一人いる白人少女との語らいのシーンがもっとあっても良かった。どこの誰が売春をやっていてだとかいう話よりも、男に〇〇したら幼児返りしただとか、演技で男を喜ばせてやっただとか、そういう男を震え上がらせるようなトークが聞ければ、このラマンはファム・ファタール的な属性をも帯びたことだろう。

 

またお互いの家族とのシーンも少々物足りなかった。居場所となるべき家で地獄の責め苦を味わう、あるいは虚無的な気分にさせられる。だからこそ、市場の喧騒のただ中にある“部屋”でセックス三昧になってしまう。それはとてもよくわかる。ただ、「中国人と寝やがって!」と激昂する兄や不甲斐ない母の描写がもっと序盤にあれば、ジェーン・マーチを性に積極的な少女以上の存在に描けていたと思うのである。

 

総評

時を超えて観られるべき作品である。汚らしいメコン川が、なぜか美しく懐かしく感じられる映像世界も素晴らしい。世に悲恋は数多くあれど、たいていは結ばれないままに終わってしまう。本作はいきなり結ばれる。そこから先にどうしても進めないというジレンマが痛々しい。官能シーンも良いが、鑑賞すべきは人間ドラマの部分である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Repeat after me.

リピート・アフター・ミー、つまり「 続けて言ってみましょう 」の意である。セックスの前、最中、もしくは後に女性に何かを言わせたいという男性は多い、というか大多数だろう。それを実際にやったカーフェイに拍手。そして、その行為の余りの悲しさと虚しさに胸が押しつぶされそうになった。Jovianは商売柄、しょっちゅうこのフレーズを使うが、プライベートでこれを言う、もしくは言われるようになれば、あなたは英会話スクールを卒業する時期に来ていると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, イギリス, ジェーン・マーチ, フランス, ラブロマンス, レオン・カーフェイ, 監督:ジャン=ジャック・アノー, 配給会社:日本ヘラルド映画Leave a Comment on 『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

『 ベイビー・ドライバー 』 -音楽+クルマ+犯罪+ロマンス=Baby Driver-

Posted on 2020年3月29日 by cool-jupiter

ベイビー・ドライバー 85点
2020年3月28日 所有Blu-rayにて鑑賞
出演:アンセル・エルゴート リリー・ジェームズ
監督:エドガー・ライト

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200329114230j:plain
 

これは2017年の夏に梅田ブルク7で鑑賞して以来、劇場で6~7回観た。それぐらい衝撃を受けた作品だった。4DXを体験しに、わざわざ四條畷のイオンモールまで遠征したり、爆音上映を楽しむためにMOVIX京都まで出向いたのだった。心斎橋シネマートで『 幼い依頼人 』や『 娘は戦場で生まれた 』を観たかったのだが、外出自粛要請&嫁さんからのストップ。なので自宅のテレビで本作を改めて鑑賞している。

 

あらすじ

ベイビー(アンセル・エルゴート)は逃がし屋ドライバー。音楽を聴くことで運転のスキルが極限にまで高まる。数々の強盗事件の犯人を、自慢の運転スキルで逃がしてきた。しかし、ある日ダイナーでデボラ(リリー・ジェームズ)に出会ったことで、足を洗おうと決意するが・・・

 

ポジティブ・サイド

何といっても冒頭の6分間の銀行強盗からの逃走シーンが秀逸だ。The Jon Spencer Blues Explosionの“Bellbottoms”で一気にハイになったベイビーが、天才的なドライビング・テクニックでパトカーの大群を振り切り、ヘリコプターの追跡からも見事な機転で逃げ切るのは、2010年代の映画の中でも最高のオープニングの一つだろう。市街地でドリフトで疾走する様は、まさにドライバーがやりたいという願望を持っていても絶対にやれないことを代わりに実現してくれたようで、実に爽快かつ痛快である。

 

大柄で童顔なアンセル・エルゴートが“ベイビー”というのもいい。ベイビーのごとくほとんどしゃべらないこと、幼少の頃の事故のトラウマから今も抜け出せていないこと、母親(母親的な人物)を探し求めていることなど、様々な属性を持つキャラクターであるベイビーだが、まさに名は体を表す。記憶力(retention)も抜群で、テレビをザッピングしながら様々なセリフを一瞬で気暗記していく。そのセリフを再生することで他キャラと思わぬinteractionが生まれる。まさに周囲の真似っこをするという意味で“ベイビー”=赤ん坊なのだが、そのベイビーがどんどんと自分の言葉を獲得していく過程も興味深い。

 

そのベイビーを成長させるようとして本作は2つの基軸を提示する。すなわち、疑似的な父親との関係と恋人との関係である。本作に登場する疑似的な父親はケビン・スペイシーが演じるドク、ジェイミー・フォックスが演じるバッツ、ジョン・ハムが演じるバディ、そしてCJ・ジョーンズ演じるジョーである。特にCJ・ジョーンズは本当に耳が聞こえないそうで、このような役者を起用できるところにあちら側の懐の深さを感じる(日本でもようやく『 37セカンズ 』という秀作が出たが)。文学的な意味で言えば父親とは殺すべき対象であり、実際の人間の成長過程においては乗り越えるべき対象であり、またその支配や庇護から独立すべき対象である。両親のいないベイビーに対して、虐待的な父親=バッツ、趣味を同じくする父親=バディ、支配的な父親=ドク、そして世話をしなければならない父親=ジョーとの関係、そしてそれらの関係の終わりには、何とも味わい深いものがある。アクションだけではなく、このあたりのキャラクター造形、キャラクターの関係の深さと豊かさが、2017年のJovianをrepeat viewingに走らせたのだ。

 

だが、何といってもデボラとベイビーのロマンスだ。冒頭のコーヒーを買う時のロングのワンカット(実際は30回以上の撮影を経てワンカットに見えるように編集したらしい)で、ベイビーが恋に落ちる瞬間が視覚的に表現されている。このシーンは“Harlem Shuffle”の歌詞と壁や電柱の落書き、つまり音声と文字との一致ばかりに目が行きがちだが、どうかそれ以外のアートにも注目をしてほしい。Jovianは劇場で、確か4度目ぐらいの鑑賞であるオブジェの色の変化に気が付いて、感嘆の声を漏らしたのを覚えている。そのデボラとの出会いがカフェというのも良い。運命の相手とは、しばしば日常的なシーンで出会うものだからだ。一際良かったのはベイビーが実際に恋に落ちる瞬間の演出、というより恋に落ちたと確信する瞬間の演出か。わざとらしいスローモーションやズームインを全く使わず、淡々とした会話だけでそれを表現したのが逆に非常に新鮮に映った。デボラは母親的な存在ではない。が、いずれベイビーと結婚するのだろうと予感させてくれる。そのことはベイビーがダイナーで言う“Yes, I do.”というバディの質問への返答に表れている。

 

本作のBGMは、ほとんどすべて既存の歌であり楽曲である。シーンや演出に合わせて音楽が生まれたのではなく、エドガー・ライトが使いたい音楽がまずそこにあり、それに合うようなシーン演出がなされている。それが最も端的に表れているのが、中盤の“Tequila”に合わせた銃撃戦シーンと、終盤手前の“Hocus Focus”に合わせた銃撃戦シーンである。Jovianは今でもBGMと役者の演技の融合の白眉(ミュージカル作品除く)は、『 ニューヨーク東8番街の奇跡 』で、地上げ屋が車載電話でプーッ・プーッ・プ・プーッとダイヤルするシーンだと思っているが、本作の音楽とアクションのシンクロ具合は、間違いなく映画演出の最高峰である。

 

エンディングもひたすらに美しい。ジュディ・ガーランドの『 オズの魔法使 』の如く、白黒がカラーに転じる瞬間に一瞬垣間見える虹に、自分の幼少期の映画体験の原点が強烈に思い起こされた。おそらく、エドガー・ライトも同様の経験を幼少期に持ったのではないか。白黒がカラーに転じるあの瞬間に、カンザスとオズ、つまり現実と夢幻の世界の境界が溶けたのだ。それと同じく、ベイビーとデボラが再び出会い、音楽を流し、あてどないRoad Tripに出るというビジョンが現実なのか幻想なのかはもはや重要ではないのである。

 

本作では数々の名曲がフィーチャーされているが、オッサン映画ファンとしては、本作を機に若い世代にコモドアーズの“Easy”を特に堪能してほしいと思う。

 

ネガティブ・サイド

奥手であるとしか思えないベイビーがバッカナリアという高級レストランで如才なく振る舞えるのには少々違和感を覚えた。バディの台詞をコピーして、それでデボラをディナーに誘うのはいいが、そこから先がトントン拍子過ぎる。テレビをザッピングしながら、モテる男のデートでの振る舞い方のようなものを一瞬だけでも良いのでインプットするシーンがあれば良かったのだが。

 

個人的にはベイビーがピザ屋として働くシーンや、何気ないデボラとの逢瀬のシーンがもう2~3分欲しかった。BabyからBoyに、そしてBig Boyになっていく過程がもう少しだけあれば、それぞれの疑似的な父親たちとの対決や別離がもっともっとドラマチックに感じられことだろう。

 

総評

カーチェイス映画であり、アクション映画であり、クライム映画であり、歌と音楽とダンスの映画であり、アングラノワールであり、ラブロマンスであり、コメディーであり、ヒューマンドラマであり、ビルドゥングスロマンでもあり、ファンタジー映画ですらある。古い革袋に新しい酒と言うが、全てのシーンが古くて新しい。どこかで観たような映画の構図がてんこ盛りなのだが、それがまったく気に障らず、適度なオマージュとして機能している。エドガー・ライトの才気煥発、面目躍如の一作である。鬱々とした気分をぶっ飛ばしたい時にこそお勧めの逸品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

talk shop 

劇中ではドクが“Shop, let’s talk it.”と言う。talk shopで「仕事の話をする」という意味である。商談の場であいさつやちょっとした雑談をして、本格的に仕事の話をするときなどに使ってみよう。shopを使う表現としては他に、set up shop=開業する、事業を始める、というものがある。He set up shop as a lawyer recently. =彼は最近、弁護士として開業した、という具合に使う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, アンセル・エルゴート, ラブロマンス, リリー・ジェームズ, 監督:エドガー・ライト, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ベイビー・ドライバー 』 -音楽+クルマ+犯罪+ロマンス=Baby Driver-

『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

弥生、三月 君を愛した30年 45点
2020年3月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 成田凌 杉咲花
監督:遊川和彦

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200322230853j:plain
 

一つの物語の中でキャラクターの成長や老いを描く作品は星の数ほどある。だが、本作は三月の一日から三十一日の1日を経るごとに、1年(何年か飛ばすところもあるが)が経過していく。この見せ方と構成は非常にユニークである。

 

あらすじ

山田太郎(成田凌)と結城弥生(波瑠)は、心の奥底では惹かれ合いながらも、親友のサクラ(杉咲花)の病気、そして死によって、いつしか別々の人生を歩むことになった。互いに結婚や別離を経験しながらも、二人はいつしか引き寄せられて・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200322230911j:plain
 

ポジティブ・サイド

専門家は映画を評価する際には Form と Content の面から行う。Formとは本で言うならば、装丁であり、文字のサイズやフォントであり、テキストのレイアウトであると言える。一方でContentは物語の中身そのものである。一般に映画や本の面白さは、コンテンツで決まる。だが、時にFormそれだけで桁違いの面白さやユニークさを生み出す作品が現れることがある。クリストファー・ノーラン監督の『 メメント 』が好個の一例である。本作の、一日経つごとに一年が過ぎていくという見せ方は非常に面白い。

 

高校生から50歳手前までを同一の役者で描く試みもユニークだ。『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』でも、小松菜奈が大学生から35歳ぐらいまでを演じていた。本作はその幅をはるかに上回っており、ある意味で大河ドラマ並みである。こういった大胆な試みにもっともっと邦画も取り組んでもらいたい。たとえその作品が大ヒットはしなくても、たとえばメイクアップアーティストやヘアドレッサーの技、照明の調節や光の当て方といった裏方スタッフの技術は確実に蓄積され、向上していくことだろう。その先に、第二第三のカズ・ヒロを生む土壌ができていく。突然変異を待ってはならない。豊かな才能の種を発見し、開花させなければならない。

 

本作では光と影の使い方も印象に残った。明るい背景では明るい場面と心情、薄暗い場面ではどこか沈みがちな心情、黄昏時の西日には関係の終わりが暗示されていたり、あるいは西日で満たされた病室を去る人物が完全に黒いシルエットとして映しだすことで、キャラクターの内面の闇、虚無感を表すなど、随所に工夫が目立った。なんでもかんでも光あふれる演出を施す作品が邦画には特に多い(『 君は月夜に光り輝く 』などはダメな一例だ)。真っ暗な映画館で見るからこそ光を強くしたいと思うのは理解できる。だが、真っ暗な映画館だからこそ光と影のコントラストも映えるのである。

 

今作はいまのところ波瑠のベスト・パフォーマンスになるのかな。笑顔よりも仏頂面の方が絵になる女性も一定数いる。波瑠はそんな一人だろう。『 コーヒーが冷めないうちに 』では、神経質な女性役だったが、どちらかというと感情表現を抑えた役柄の方が似合っている。ドラマや映画なら社長秘書や医師がマッチしそう。クール・ビューティー路線ではなく、満島ひかりや南果歩のような実力派路線を目指してほしい。

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ネガティブ・サイド

フォームには感銘を受けたが、コンテンツ=内容には少々興ざめした。ストーリーのほとんどはトレイラーで分かってしまう。なぜにあのような予告編を作ってしまうのか。様々なシーンの演出やメッセージも、古今東西の映画で使い古されてきたものばかり。あらゆるシーンでデジャヴを感じたと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、本作がオリジナリティに欠けるのは確かである。

 

まずもって病気で死んでいく高校生の名前が「サクラ」という時点で『 君の膵臓をたべたい 』の桜良ともろにかぶっている。そして、満開の桜に過ぎ去った幾星霜とかつての友の姿を見出すのも『 君の膵臓をたべたい 』の二番煎じである。

 

また、ラストの教室のシーンは『 傷だらけの悪魔 』と『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のクライマックスをそれぞれ足して10で割ったような迫力のなさ。というか震災をプロットに組み込むのはまだしも、放射能関連のイジメを絡める必要はあるか?いや、それをやるなら『 風の電話 』並みに取り組んでもらいたい。

 

サクラの好きだったという歌が作中の随所で重要な役割を果たすが、最後のデュエットは必要だったか。それに最後の最後のスキットも必要だろうか。日が昇り、そして沈んでいく。時は流れ、また物語が繰り返す。普遍的な事象であり、それゆえに既に陳腐化したテーマである。現に近年でも『 ライオンキング 』が再制作され、“Circle of Life”が熱唱されている。敢えて邦画がそれを繰り返す必要はない。

 

細部のリアリティに関しても改善の余地を認める。特にサクラの墓や、そこに佇立する桜の木が30年にわたって変化なしに見えるのはいかがなものか。サンタか、あるいは弥生が墓をきれいにしているという描写が一瞬でもあれば、まだ納得できたのだが。

 

電車のドアが閉まる瞬間に抱きよせる、あるいは飛び出るという描写もクリシェ以外の何物でもない。ボールを追いかけて車道に飛び出る子どもというのも、いい加減見飽きた。新しい形の表現を模索することにエネルギーの大半を費やしたのかもしれないが、中身にもほんの少しでいいから新奇さを求めてほしかった。

 

サンタの息子の歩の台詞にもおかしいところがあった。「おばさんに、『 ボールを蹴れ! 』って叱られた」と回想していたが、そんなシーンはなかった。あるいは撮影段階ではあったにせよ、編集作業の段階で誰もこの矛盾に気が付かなかったのだろうか。細部の詰めが甘いという印象ばかりが残った。

 

総評

このような新しい表現の形態は歓迎されるべきである。一方で、中身がほとんどすべてどこかで見た構図や展開のパッチワークである。評価が非常に難しい。ただ、固定電話が携帯電話に代わっていく時代の流れは面白い。40~50歳ぐらいの世代の人は本作の時間の流れに違和感なく入っていけるだろうし、若い世代は逆に古い世代のもどかしい恋愛模様を客観的に見て楽しめるのではないだろうか。ストーリーは陳腐だが、だからこそ万人に受け入れられやすいとも考えられる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s not meet anymore.

「もう会わないようにしよう」の私訳。~しよう = Let’s ~。~しないようにしよう = Let’s not ~ である。Let’s not V. というのは実際によく使う表現なので、積極的に使っていきたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ラブロマンス, 成田凌, 日本, 杉咲花, 波瑠, 監督:遊川和彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

Posted on 2020年3月16日2020年9月26日 by cool-jupiter

Red 65点
2020年3月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:夏帆 妻夫木聡
監督:三島有紀子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200314202510j:plain
 

『 幼な子われらに生まれ 』の三島有紀子が監督した。それだけでチケットを購入する価値はある。『 ロマンスドール 』と同じく、梅田ブルク7で鑑賞したが、COVID-19もなんのそのなシネフィルが集まっていた。公開から3週間でも客の入りは6~7割。ほとんどが女性。世相を反映しているのか、それとも女性の内面に響くものが本作にあるのか。おそらくその両方だろう。

 

あらすじ

村主塔子(夏帆)は商社勤めの夫と年長クラスの娘を持つ専業主婦。何不自由ない生活ではあったが、しかし、結婚や母親業にどこか満足できていなかった。ある日、娘が小学校に上がるというタイミングで建築事務所に就職した。そこで10年ぶりに鞍田(妻夫木聡)と再会し・・・

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ポジティブ・サイド

シェークスピアの言葉、「弱き者よ、汝の名は女なり」を思い起こさせる内容である。だからといって、女性が全面的にか弱く、男性の庇護なくば生きていけない存在であると言っているわけではない。逆に、女性を弱くさせる社会的・心理的なシステムというものが強固に存在していることを時に遠回しに、時にダイレクトに批判している。

 

あくまで日本においてのことだが、女性というのは年齢と共に自身のアイデンティティの構成要素を奪われて、新たな属性を半ば強制的に付与される存在であると考えられる。最初は○○ちゃん、○○さんと自分の名前で呼ばれていたのが、結婚と同時に姓を変えざるを得ないことがほとんどである。そして子どもを産むと、次には〇〇ちゃん、〇〇君のお母さんという具合に、個人名ではなく関係性で呼ばれてしまう。これは、家族内や子どもを含むグループ内では、自分の人称を一番小さな子どもに合わせるという日本語の特性も関わっているため、一概には女性差別とは言えないかもしれない(自分の子どもと話すときに、「俺は・・・」、「私は・・・」ではなく「お父さんは・・・」、「ママは・・・」となるのは外国語に見られない日本語の特徴である)。だが、差別的でないからといって、疎外を感じないというわけではない。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』では、志乃ちゃんは肉体的にも心理的にも成熟していなかったために自分自身から逃げきれなかったが、本作の塔子は自分に張り付けられた属性を脱ぎ去ってしまう。セックスシーンはオマケのようなもので、ハイライトは“脱ぐ”という行為が象徴しているものである。フィクションの世界では、裸の死体が見つかって、身元の特定が困難とされたりする。アイデンティティの多くは、身にまとっているものなのだ。

 

塔子は決して肉欲に溺れているわけではない。自分が自分らしくあることができる居場所を確保しようともがいている。それは生存の一環でもある。人間の本能に、闘争・逃走反応というものがある。危険を感じた時に、戦うか逃げるか、どちらかの反応を示すということである。塔子は逃げるばかりではなかった。しかし、戦うには相手があまりにも巨大で強大だった。塔子が旅先である女性と共に煙草を一服するシーンでかけられる「女って大変だね」という言葉に、すべてが集約されているように感じる。女を、「おんな」あるいは「オンナ」とも表記できそうに感じたシーンである。ということは、我々は普段から女性にそれだけの属性やラベルを押し付けているということでもある。このシーンでは思わず自分の頭をコツンした。「愚昧な者よ、汝の名は男なり」である。

 

エンディングは非常に美しい。タイトルの Red の意味はここに集約されているのではないか。『 真っ赤な星 』の虚無的で、それでいて力強いエンディングに通じるものがあった。

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ネガティブ・サイド

話題になっていた濡れ場は、『 ナラタージュ 』以上ではあったが、『 ロマンスドール 』並み、『 火口のふたり 』未満であった。もちろん、エロスが主題なのではなく、社会的な制度(結婚制度や親子関係etc)に縛られた個人の解放が主題なのだとは承知している。けれどもベッドシーンがどこか中途半端に見えてくるのは何故なのだろうか。別に夏帆が乳首を見せないからとか、そういう露出の問題ではない。蒼井優だって見せてくれない。たぶん、“脱ぐ”という行為に主体性が感じられないからだろう。一度目のセックスシーンでは妻夫木が夏帆を脱がせた。違う。夏帆が自分から脱いでナンボのはずだ。そうでないと、ストーリーの主題と不倫・不貞行為が一致しない。二度目では、もう最初から脱いでいた。うーん、何だろうか、この「それじゃない」感は・・・

 

行為中のカメラアングルにも改善の要ありと認む。夏帆の表情にばかりズームアップするのではなく、天井や部屋の壁からのアングルがあっても良かった。または『 アンダー・ユア・ベッド 』のように、ベッドの軋みと嬌声を強調するアングルも面白かったのではないか。鞍田の部屋は色々な本来あるべき虚飾が削ぎ落された空間なのだから、そこで男と女になってまぐわう二人を遠景で映し出すことで、社会的な衣装をもはやまとっていない二人という構図を強調することができたと見る。

 

塔子が仕事に復帰する流れも、少々唐突に映った。『 “隠れビッチ”やってました 』のひろみもそうだったが、デザイナーならデザイナーのバックグラウンドを持っているということを暗示するシーンを序盤に入れてほしかった。キッチンのレイアウトについて一瞬だけでも考え込むようなシーンがあれば、「仕事に戻りたい」という塔子の欲求をもっと素直に受け止められるのだが。

 

総評

なんか女性の考察やらベッドシーンの文句ばかり書いてしまったが、映画的な意味での見どころは随所にある。最も印象に残るのは余貴美子と塔子の対話シーンだろう。老若男女問わず、塔子の母のセリフには痺れるはずである。エンディングは賛否が分かれるだろう。Jovianは賛、嫁さんは否であった。夫婦で鑑賞すれば、互いの人生観や結婚観を語り合うきっかけにできる作品かもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

not ~ a bit

「全く~ない」の英語表現といえば not ~ at all が定番だが、not ~ a bit もかなり頻繁に使われる。鞍田が塔子に言う「君は少しも変わってないな」を英語にすれば“You haven’t changed a bit.”となるだろう。同窓会などで使ってみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ラブロマンス, 夏帆, 妻夫木聡, 日本, 監督:三島有紀子, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

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