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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

Posted on 2020年7月14日 by cool-jupiter

MOTHER マザー 70点
2020年7月11日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:長澤まさみ 奥平大兼 阿部サダヲ 夏帆
監督:大森立嗣

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3歳娘を自宅に放置して脱水、そして餓死に至らしめたとして母親が逮捕される事件が世間を賑わせている。個人的にはどうでもいいことだ。そんな母親はどこの国や地域にも、いつの時代にもいる。そして、それは父親であっても祖父母であっても、血縁のある保護者であっても血縁のない保護者でも同じこと。にもかかわらず、なぜ我々は母親という存在に殊更に「子を愛せ」と命じるのか。本作を鑑賞して、個人的に何となくその答えを得たような気がしている。

 

あらすじ

秋子(長澤まさみ)は仕事も続かず、男にもだらしのないシングルマザー。息子の周平を虐待的に溺愛しながら、周囲に金を無心して生きている。そんな時に、秋子はとあるホストとの出会いから家を空けて・・・

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ポジティブ・サイド

長澤まさみのこれまでのイメージをことごとく破壊するような強烈な役柄である。年齢的に少々厳しい(若すぎる)のではないかというのは杞憂だった。日本の女優というのは、キャンキャンと甲高い声を出すことはできても、怒鳴り声の迫力はイマイチというのが定例だったが、長澤まさみはその面でも非常にドスの利いた声を出せていた。また、息子の横っ面をまさにひっぱたく場面があるが、これがロングのワンカットの一部。自身の顔のしわを気にしながら、口答えする息子に一発お見舞いし、また何事もなかったかのようにコンパクトを覗き込みながら顔のしわを気にする様子には震えてしまった。

 

全編にわたってロングのワンカットが多用されており、それが目撃者としての自分=観客にもその場の展開への没入感を高めている。冒頭の秋子の家族の大ゲンカや、阿部サダヲとのラブホの一室での取っ組み合いの大ゲンカなどはその好例である。物を投げたり、あるいはベッドシーツが乱れたりするので、テイクを重ねるのはなかなかに大変だっただろう。一発勝負で撮ったにせよ、複数回のテイクから良いものを選んだにせよ、こうした絵作りに妥協しない姿勢は高く評価されてしかるべきだ。昨今の邦画の演技力の低下を見ると、尚のことそう感じる。

 

周平役の奥平大兼の演技もなかなか良かった。自分で考えたのか、それとも監督の演出・演技指導なのか、まともな教育やしつけを受けてこないままに大きくなったという感じがありありと出ていた。その最も印象的なシーンは、夏帆演じる市役所職員に喫茶店に連れていかれるシーン。周平の箸の持ち方がめちゃくちゃなのである。幼稚園児の頃から、箸の持ち方を誰にも教わってこなかったことが容易に察せられる。事実、小児の周平がカップラーメンもお湯でもどさず、固い乾麺のままバリボリと手で持って食べるシーンが序盤にある。青年期と小児期の周平はあまり似ていないのだが、それでも同一人物なのだということが、この橋の持ち方ひとつで強く印象付けられた。

 

本作は鑑賞する人間の多くを不快にさせる。それは徹頭徹尾、秋子を救いのない人物として描いているからだ。だがそれ以上に、我々が無意識のうちに抱く「母」という存在のイメージ、もっと言えば固定観念が本作によって揺さぶられるのも、不快感の理由に挙げられはしないだろうか。これが例えば父親なら『 幼な子われらに生まれ 』のクドカンのようなキャラなら、「まあ、そういうクズはたまに見るかな」ぐらいの感覚を抱かないだろうか。育メンなる言葉が生まれ、一時期はもてはやされたが、「育メンと呼ぶな、父親と呼べ」という強烈かつ当たり前すぎるツッコミによって、この新語はあっさりと消えていった。対照的に母にまつわる言葉や概念のあれやこれやには、「母性」、「母性愛」、「聖母」、「慈母」、「母は強し」、「母なる大地」、「母なる海」、「母なる星」、「母なる故郷」など、往々にして愛、包容力、受容、癒し、庇護などのイメージと不可分である。それが高じると「母源病」などという、非科学的かつ差別的な言葉や概念が生まれる。だが、そうした母に対する迫害的な意識は我々には希薄なようだ。今でも書店に行けば、子育てや受験、果ては就職や結婚に至るまで、この人生の節目における成功と失敗の多くを、母親の功績あるいは責任であると説く書物は山と存在する。それは我々が母親に愛されたいという願望を隠しきれていないからだろう。ちょっとしたボクシングファンならば、本作を観て亀田親子をすぐに思い浮かべたはずだ。亀田三兄弟の母親がパチンコ屋でインタビューを受けながら「自分の子のボクシングの試合は見ない」と答えていた番組を見たことのある人もいるだろう。ちょっとリサーチすればわかることだが、亀田三兄弟の母も秋子ほどではないが、母親失格(という表現を敢えて使う)の部類の人間である。だが、そんな母に対しても長男・興毅は「お母さん、俺を産んでくれてありがとう」と疑惑のリング上で吠えた。はたから見れば、自分を愛してくれない育ててくれない母親に、である。また次男・大毅は内藤大助戦で父親に反則を教唆され、それを忠実に実行した。のみならず、マスコミからの「父親からの指示ですか?」という質問に対して「違います、僕の指示です」という珍回答を行った。どこからどう見ても真っ黒な父を、それでも健気にかばったのである。秋子と周平の関係を歪だと断じるのはたやすい。だが、そんな親子関係はありえない、極めてまれなケースだと主張するのは、実は難しい。『 万引き家族 』によって揺さぶられた日本の家族関係・親子関係は、本作によってもう一段下のレベルで揺さぶられている。このメッセージをどう受け取るのかは個々人による。だが、受け取らないという選択肢はないと個人的には思っている。多くの人によって見られるべき作品である。

 

ネガティブ・サイド

長澤まさみは確かに体を張ったが、いくつかのラブシーン(?)には、はなはだ疑問が残る演出がされている。たとえばラブホテルの一室での仲野大賀との絡み。ベッドの上でゴロンゴロンしているだけで、長澤まさみが上を脱ぐのを嫌がったのだろうか。大森監督は『 光 』で橋本マナミを脱がせた(とはいっても、乳首は完全防御だったが)実績があるので、期待していたが・・・ いや、長澤の裸が見たいのではなく、迫真の演技が見たいのである。『 モテキ 』では谷間を見せて、胸も一応軽く触らせていたのだから、それ以上の演出があってもよかったはずだ。やっぱり長澤まさみの裸が見たいだけなのか・・・

 

真面目に論評すると、『 “隠れビッチ”やってました 』の主人公ひろみと同じく、本当にアブナイ男、それこそ『 チェイサー 』の犯人のような男に出会わなかったのは何故なのか。その男癖の悪さから、本当にやばい相手だけは見抜ける眼力、もしくは女の勘のような描写が一瞬だけでも欲しかった。

 

メイクにリアリティがなかった。あんな生活でこんな肌や髪の質は保てないだろうというシーンがいくつもあった。このあたりは取材やリサーチの不足、もしくはメイクアップアーティストの意識の欠如か。最終的には監督の責任だが。

 

これは個人差があるだろうが、BGMが映像や物語と合っていない。特にクライマックス前の神社のシーンのBGMはノイズに感じられた。全体的に音楽や効果音が使われていないため、余計にそう感じられた。ただし、このあたりの感性は個人差が大きい。

 

少々残念だったのは、ラストか。以下、白字。呆然自失の長澤まさみを映し続けるが、その表情が崩れる瞬間を見たかった。それも、泣き出すのか、それとも笑い出すのか、その判別がつかない一瞬を捉えて暗転、エンドロールへ・・・という演出は模索できなかったか。『 殺人の追憶 』のラストのソン・ガンホの負の感情がないまぜになった表情。『 ゴールド/金塊の行方 』のラストのマシュー・マコノヒーの意味深な笑顔。こうした表情を長澤まさみから引き出してほしかった。

 

総評

こうした映画はテアトル梅田やシネ・リーブル梅田のようなミニシアターで公開されるものだった。だが、長澤まさみという当代随一の女優を起用することで全国的に公開されるに至った。多少の弱点がある作品ではあるが、それを上回るパワーとメッセージを持っている。母の愛、母への愛。自分と母との距離を見つめなおす契機にもなる作品だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

bring up

「育てる」の意。直訳すれば「持ち上げる」となるように、小さな子どもの背丈がぐんぐん伸びる手伝いをしてやるイメージで、「体が大きくなるまで育てる」のような意味である。名詞のupbringingには「養育」、「生い立ち」、「しつけ」のような意味があり、やはり幼少から成人に至る時期ぐらいまでを指して使われることが多い。劇中で秋子が叫ぶ「私が育てたんだよ!」は、“I brought him up!”となるだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 夏帆, 奥平大兼, 日本, 監督:大森立嗣, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズ, 長澤まさみ, 阿部サダヲLeave a Comment on 『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

Posted on 2020年7月5日2021年1月21日 by cool-jupiter

カセットテープ・ダイアリーズ 70点
2020年7月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ビベイク・カルラ ネル・ウィリアムズ ヘイリー・アトウェル
監督:グリンダ・チャーダ

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“Born to Run”と“Born to be Wild”なら、おそらく後者の方が有名で、なおかつ多くの人の耳にも馴染みがあると思われる。しかし、ブルース・スプリングスティーンの“Born to Run”には、何か人間の心の根源に訴えかけてくるような不思議な力が宿っている。スプリングスティーンをほんの少ししか知らなかったJovianでもそれは感じることができた。

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あらすじ

1987年のイングランド。パキスタン系移民のジャベド(ビベイク・カルラ)は不景気と人種差別のはびこる田舎町ルートン、そして保守的な家族からの脱出を夢見ていた。ある時、カレッジで知り合ったループスからブルース・スプリングスティーンのカセットを渡される。その音楽を聴いたジャベドは、世界観を一変させられるような影響を受けて・・・

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ポジティブ・サイド

ボブ・ディランがノーベル文学賞を贈られるのだから、ブルース・スプリングスティーンが再評価を受けても良い。まさに世に出るべきタイミングで出てきた作品であるというのが第一印象。『 イエスタデイ 』がビートルズを再評価し、日本でも『 君が君で君だ 』という怪作で尾崎豊が(妙な意味で)再解釈された。スプリングスティーンを知らなくても、彼の音楽そして歌詞が一部の人間の心に突き刺さるというのは理解しやすい。日本でも1970年代生まれなら、尾崎豊や甲本ヒロトの歌の世界観に魂を持っていかれた人はかなりいるはずだ。今の若い世代なら誰だろう?あいみょんなどだろうか。そうした自分にとっての偶像を重ね合わせて見れば、本作の持つパワーは十分に理解可能である。

 

政治的なメッセージが込められている点も邦画はもっと見習うべきだ。マーガレット・サッチャーの死去から7年。死亡直後は「鉄の女」として、何はともあれ改革の旗手として数々の経済政策を断行した点が評価された。しかし、冷静に分析してみれば、サッチャーの遺産が現在の英国の経済成長の足かせになったことは否めない。また、その政策が社会的に弱い層への負担増につながったことも事実である。そうした時代を批判的に見つめる視点が盛り込まれている。本作には、Black Lives Matter運動をリアルタイムに目撃している我々からすると非常に興味深いデモの風景が収められている。もちろん原作の執筆中、あるいは映画の撮影中にそうした運動の勃興など予想出来ようはずもない。しかし、『 ジョーカー 』が示したように、弱者から奪うことは極めてリスキーな行為である。本作は、人間の強弱の源を経済的な富裕さにではなく人間関係の充実に求めた。これはこれで正解かどうかは分からないが、一つの解答だろう。家族や友人、恋人との関係が良好であれば、それだけで人生は何とかなるものだ。

 

恋人。そう、ジャベドにはおらず、しかし、親友のマットには恋人がいる。そのことを開始早々に見せつけられ、イングランド人だとかパキスタン系移民だとかいうことではなく、一匹の雄として負けている。そのように見る側は思わされる。だからこそ、ジャベドがイライザと距離を縮め、デートにこぎつけ、門限も破り、そして晴れて童貞を卒業する流れに素直に祝福の気持ちを抱くことができる。ジャベドとイライザ、そしてループスがスプリングスティーンの“Born to Run”に乗って町を駆け巡るシーンは、本作のハイライトの一つである。

 

本作の特徴として、保守的な家族の中での子どもたちだけではなく、夫婦の在り方に踏み込む描写があることだ。一見すると独裁者にしか見えないジャベドの父にも、ハンサムで優しく愛妻家な頃があったのだ。そして、一見して被征服者である妻が暴君の夫と渡り合う。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリーの一家にも、このような家族だけの秘話があったのではないか。そのように思わされた。

 

本作は、そのフレディ・マーキュリーと同じく、アイデンティティを鋭く問う作品でもある。その中でも上手いなと思わされたのは、昼興行(デイタイマー)のシーン。パキスタンの伝統的な音楽とブルース・スプリングスティーンの間を揺れ動くジャベドの姿に、思いがけない好感を抱いた。アイデンティティに悩む者は、アイデンティティを人よりも多く持っているから悩むのである。つまりはジレンマだ。だが、自分が複数のルーツを持つことをそのまま受け入れることができれば、それで良いのではないだろうか。大坂なおみが日本の(アホな)メディアに「あなたはアメリカ人ですか、日本人ですか?」と問われて、「私は私」と答えたのと同じである。家族との約束事を破ることが、家族との和解の素地になるという演出には感じ入った。『 ルース・エドガー 』でスッキリしない気分にさせられたという向きは、本作で口直しが可能である。

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ネガティブ・サイド 

1980年代の町の不景気具合とその悲哀は、ほぼ同時体の設定の『 リトル・ダンサー 』の描写の方が上手であると感じた。また、なけなしのカネを息子の教育につぎ込むことの意味、その背景が本作は軽い。「ユダヤ人の真似をしろ」というのがレイシズムかどうかはさておき、パキスタン系移民ならば医師か弁護士、公認会計士を目指せというのは間違いなくステレオタイプである。また勉強に打ち込まなかったらタクシー・ドライバーで一生を終えるぞという脅し文句は映画『 タクシードライバー 』を遠回しにディスっているように聞こえた。

 

ジャベドの周囲の人間関係の描写の濃淡にメリハリがなかった。近所の親友マットとの距離と、カレッジで知り合うループスとの距離、それらをジャベドが詩に書きつけるような描写や、または友情についてのくさい歌詞の一つや二つでいいから描き出されていればと思う。それらがあれば、“父と息子”の詩の威力がもっと増したと思われる。

 

個人的に気になったのは、カレッジの学長らしき先生が「ブルース・スプリングスティーンは良いが、現在流行中のこの歌手はrubbish=ゴミだというのは皆が知っている」というセリフ。またマットの父親(典型的な60~70年代の髪型!)の「ビリー・ジョエル?アホか、お前は。これだから子育ては難しい」というセリフも地味に子の心を抉る。世俗の流行や個人の嗜好に対してそこまで言うか?一歩間違うと立派な差別になると思ったが・・・

 

総評

“Thunder Road”と“Born to Run”を親父が昔持っていたオールディーズのCDで聞いたことがあるレベルのJovianでも、本作は十分に堪能することができた。また70年代の洋楽にはさっぱり疎いJovian嫁も本作を堪能できた。なので、ブルース・スプリングスティーンのことを特に知らなくても、本作は楽しめるはずである。『 イエスタデイ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』など、英国初の音楽をフィーチャーした映画は外さない。劇場の大スクリーンと音響で味わうべき一作。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

history

言わずと知れた「歴史」の意味だが、文脈によっては「過去のもの」、「もう終わってしまったもの」という意味でも使われる。

 

Forget Nicolas Cage, he’s history.   ニコラス・ケイジはもう忘れろ、奴はもう終わった。

She and I are history.   僕と彼女はもう終わってるんだ。

Is Gamera going to be history?   ガメラはこのまま終わってしまうのか?

 

色々と応用してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ネル・ウィリアムズ, ビベイク・カルラ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・アトウェル, 伝記, 監督:グリンダ・チャーダ, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

Posted on 2020年6月29日2021年1月21日 by cool-jupiter

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

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『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

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ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。

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ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

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総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don’t wear that, don’t step out of place

Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin’ you’re having a good time

‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ジュリー・ウォルターズ, ソフィー・オコネドー, ヒューマンドラマ, 監督:トム・ハーパー, 配給会社:ショウゲート, 音楽Leave a Comment on 『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

Posted on 2020年6月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 70点
2020年6月14日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン エマ・ワトソン フローレンス・ピュー ティモシー・シャラメ
監督:グレタ・ガーウィグ

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Jovianと同世代(不惑)か、それ以上の世代ならば、ハウス名作劇場の『 愛の若草物語 』を観ていたことだろう。まさかグレタ・ガーウィグが同作品を参照していたとは思わないが、豪華なキャスティングにもかかわらずマーチ四姉妹の特徴はしっかりと保たれていた。

 

あらすじ

ジョー(シアーシャ・ローナン)は小説家志望。長女メグ(エマ・ワトソン)や三女エイミー(フローレンス・ピュー)、四女ベス、そして向かいに住む裕福なローレンス家の長男ローリー(ティモシー・シャラメ)らと、南北戦争時代の陰鬱なアメリカで、それでも健気に前向きに生きていこうとするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメの共演となると『 レディ・バード 』を思い出す。実年齢からすればハウス名作劇場のような10代半ばを演じるのは厳しいはずだが、それを感じさせない。フローレンス・ピューとベス役のエリザ・スカンレンの童顔の果たす役割も大きいだろう。若草物語と言えば、どうしたって姉妹の少女時代の話がメインになる。同時に原題のLittle Womenというのも、「私たち姉妹は小さいけれども立派な大人の女性なのだ」という意味を内包している。そうでなければ Little Sisters や Little Girls というタイトルがつけられていたはずだ。そうした姉妹のビルドゥングスロマンを、本作はジョーの15歳時代と22歳時代を交互に行き来することで、効果的に、そしてユニークに描き出した。

 

効果的に、というのは『 若草物語 』の背景をくどくどと説明しなかったところ。『 スパイダーマン ホームカミング 』でも、蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを手にするも、自らの不注意でアンクル・ベンを死なせてしまって・・・という誰もが知っているオリジンをばっさりと省略したところが潔かった。それと同じで、いきなりジョーが作家として世に旅立とうとするところから本作は始まる。これでいいのだ。

 

ユニークというのは、ある意味で観る側を置いてけぼりにしてもかまわないぐらいの勢いで二つの時間軸を何の前触れも説明もなく移動するところである。もちろん、ジョー15歳の時点ではあるキャラクターが存在して、ジョー22歳時点ではあるキャラクターが存在しないなど、『 若草物語 』に関する事前の背景知識があったり、キャラクターたちの話している事柄をすぐに理解できれば、目の前のシーンが“いつ”なのかを把握するのはたやすい。そうでなければ多少難しい。だが、それでもよいのである。この少々ややこしい時間の描写方法により、ストーリーの虚実皮膜の間が徐々にblurryになっていく。これがクライマックスの演出で効いてくる。これはなかなかの仕掛けである。

 

ローラ・ダーンはやはり『 ジュラシック・パーク 』のイメージが強かったが、『 マリッジ・ストーリー 』で完全に独立不羈の女性へと飛躍して、今では完全なる肝っ玉母ちゃんである。『 ジョジョ・ラビット 』のスカジョも良かったが、あちらはママ。こっちは母ちゃん、という感じ(本人は「ママと呼んで」とローリーに言っていたが)。

 

それでもパフォーマーとしては主役のシアーシャ・ローナンが光っていた。抑圧された時代を雄々しく生きる強い女性・・・ではなく、抑圧された時代に打ちのめされることで強くなった人物という印象を強く受けた。生涯をかけて打ち込めるもの、それが彼女にとっては物語や小説を執筆することだった。冒頭で「辛いことが多かったから、私は楽しい物語を書く」といった趣旨のジョー・マーチの言葉が映し出されるが、彼女にとって物語をつづることは、自分の人生を追体験することであり、経験することのなかった人生を生きることであり、生きていた人物が確かに「生きていた」ということを証明するための試みでもある。そして、それはそのまま今の時代に『 若草物語 』を再解釈しようとしたグレタ・ガーウィグ監督の意図と重なる。想像力があり、聡明で、時代によって規定される人間の枠組みにはまらず、孤高の生き方を目指すが、孤独に対して怯えや悲しみの心情を隠すことなく素直に吐露することもできる。どこまでもリアルなジョー・マーチ像が、確かにシアーシャ・ローナンによって生み出された。女性のみならず、男性も、子どもも、高齢者をエンパワーしてくれる、力強いパフォーマンスである。

 

ネガティブ・サイド

時代背景に関する説明がもう少し欲しかった。キャラクターの説明をばっさりと省略した点は評価に値するが、それと同じように時代背景や当時の社会の空気の説明までも省いてしまうのは賛成しない。国が内戦状態であることや、家父長の不在、独身女性の不遇なども、もう少し語れた、あるいは描写できたはずだ。

 

出版社の編集長に、女性キャラクターの行く末のあれこれを指示させるやり方はあまり上手いとは言えない。これはおそらくグレタ・ガーウィグ監督自身の経験が投影されているものと推測する。過去の人間の声を現代人が代弁することは良い。だが現代人の声を過去の人間に代弁させるのには少々違和感を覚える。

 

エマ・ワトソンとフローレンス・ピュー、特にピューにもっと見せ場が欲しかった。一番の見どころがジョーとの喧嘩とは・・・。さらにはclichéとしか言えない仲直りを見せつけられては・・・。『 ミッドサマー 』の時のように、精神的な脆さ、不安定さを引き出すことができていれば、後半の幸せなシーンがより際立ったように思う。シアーシャ・ローナンが主役ではあるが、その主役を最も輝かせるべき姉妹は、フローレンス・ピューであるべきだった。

 

総評

若草物語を知っている人なら劇場へ行こう。若草物語を知らないなら、最低限のあらすじやキャラクターだけを予習して劇場へ行こう。生きづらさを抱えていたり、過去に囚われて前になかなか進みだせない。そう表現してしまうと大仰だが、誰もがどこかで何かを間違えて、そのせいで目の前の現実に向き合えないことがある。そうした現実に、物語の力で向き合ったジョー・マーチの姿は、観る者に勇気を与えてくれる。豪華女優陣が勢ぞろいしているからではない。単純に良い作品だから、ぜひ劇場へ行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be hard on ~

三女エイミーの台詞に、“The world is hard on ambitious girls.”というものがあった。「若い女性が大志を抱くと、世間の風当たりが強くなる」のような意味である。be hard on ~=~にきつく当たる、のような意味である。いじめに少し近いか。学校でのいじめはbullyだが、「職場でマネージャーにいじめられて、腹立つ!」は“I’m so frustrated because the manager is hard on me!”のようになる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ワトソン, シアーシャ・ローナン, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, フローレンス・ピュー, 伝記, 歴史, 監督:グレタ・ガーウィグ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

Posted on 2020年6月7日 by cool-jupiter

気狂いピエロ 70点
2020年6月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジャン=ポール・ベルモンド アンナ・カリーナ
監督:ジャン=リュック・ゴダール

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200607005255j:plain
 

相も変わらず近所のTSUTAYAは『 ジョーカー 』推しのようである。ひねくれ者のJovianは、ならばと『 パズル 戦慄のゲーム 』を借りて失敗した。というわけで今回は間違いのないようにゴダール作品をチョイス。

 

あらすじ

フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は結婚生活に飽いていた。そんな時にかつての恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と出会い、一夜を共にした。だが、翌朝の部屋には謎の男の死体が。そして、その部屋にまた別の男が訪ねてくる。二人は男を始末し、あてのない逃避行に出るが・・・

 

ポジティブ・サイド

とにかくマリアンヌを演じたアンナ・カリーナの魅力的である。Jovianは英会話講師として延べ数百人以上教えてきた中で、最も美人だった女性と髪型と輪郭、なによりも目がよく似ているのである。まさにfem fatalだな、と感じる。男というのは美女に破滅させられてナンボなのかもしれない。それは古今東西に普遍の真理なのかもしれない。

 

逃げていく先々で小さな犯罪を繰り返していくフェルディナンとマリアンヌの姿に、どうしたってハッピーエンドなどはありえない。ならば破滅が訪れるまでに、精一杯に生を謳歌するまで。詩想に欠けた思想の持ち主であるフェルディナンは、とにかく衒学的な言葉ばかりを呟く。対照的にマリアンヌの紡ぎ出す言葉は豊かな感情に彩られていて、運動的であり行動的なものだ。つまり、ゴダールが映し出そうとしたのは、この二人のキャラクターの対比ではなく、男性性と女性性の対比でもあったのだろう。現にフェルディナンは「時が止まってほしい」などどファウストのようなセリフを吐くロマンティストだし、相方のマリアンヌはセンチメンタルでミステリアスでセクシーだ。そして、この物語の主題はマリアンヌに属することは、序盤に登場するサミュエル・フラー監督の言葉、すなわち「 映画=エモーション 」からも明らかだ。

 

本作は物語というよりも芸術作品の性格の方が強いと感じる。フェルディナンとマリアンヌがアパルトマンの最上階で繰り広げる殺人劇と逃走のワンカットは芸術的である。またガソリンスタンドでの疑似ボクシングシーンや、別のガソリンスタンドで車を盗み出すシーンには舞台演劇的な面白おかしさがある。なによりマリアンヌが自らの掌の運命線の短さを面白おかしく嘆きながら歌い、海辺の木々の間を縫うようにフェルディナンと走り抜けていき、語り合い歌い合うシークエンスには、陽気な絶望感がある。マリアンヌは執拗にフェルディナンをピエロ呼ばわりするが、これは非常に象徴的なことだ。『 ジョーカー 』のキャッチフレーズ、“Put on a happy face.”を引用するまでもなく、ピエロの顔は笑っていても、頭は非常に冷静に笑いを狙っているか、もしくは心が怒りや悲しみに支配されているものだからである。そう考えれば、見ようによってはアホな結末にも、それなりに納得がいくものである。物語ではなく場面場面のドラマを楽しむように鑑賞するのが良いのだろう。

 

ネガティブ・サイド

南仏のビーチでアメリカ人観光客を相手にベトナム戦争を茶化して小金を稼ぐシーンは、フランス流の、というよりもゴダール流の反米・反ベトナム戦争宣言なのだろうが、もっと間接的な描写はできなかったのだろうか。『 サッドヒルを掘り返せ 』(最近、Blu-rayを買った)でセルジオ・レオーネは「主義主張を宣言する映画ではなく、人々の語りを促進するような映画を作りたい」という旨を語っていた。Jovianは別に映画人でも何でもないが、レオーネの意見に与する者である。

 

また、この時のベトナム人女性の化粧や衣装が、VCに川上貞奴を足して2で割ったようなものに映った。貞奴をご存じない方は伝説の踊り手ロイ・フラーを描いた『 ザ・ダンサー 』を鑑賞されたい。

 

全体的にロングのワンカットのシーンは印象的だが、フェルディナンが風呂場で水責めされるシーンだけはちゃちいと感じた。それこそ息ができないというところまで追い込んでも良かったはず。線路に座り込ませたり、結構高いところからジャンプさせたりという演出をしているのだから、水責めシーンにもっと注力できたはずだ。

 

総評

なにやら『 太陽がいっぱい 』と『 ファム・ファタール 』と『 テルマ&ルイーズ 』と『 俺たちに明日はない 』のごった煮を観たよう気分である。ということは、それだけ古典的なキャラクター造形や物語構成になっているわけで、見ようによっては新しいとも古いとも言える。ただ一つだけ確かなのは、去年の暮れに亡くなったアンナ・カリーナと再会するのであれば、本作はそのベストな一作だろうということだ。

 

Jovian先生のワンポイント仏語レッスン

À la recherche du temps perdu

In search of lost time = 失われた時を求めて、の意。言わずと知れたマルセル・プルーストの大部の労作、『 失われた時を求めて 』である。Temps=Timeである。これがtempoにそっくりだということが分かれば、temporaryやcontemporaryといった語の意味を把握しやくなるだろう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アンナ・カリーナ, ジャン=ポール・ベルモンド, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:ジャン=リュック・ゴダール, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

『 42 世界を変えた男 』 -Take him out to the ballgame-

Posted on 2020年5月19日 by cool-jupiter

42 世界を変えた男 60点
2020年5月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:チャドウィック・ボーズマン ハリソン・フォード
監督:ブライアン・ヘルゲランド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200519231513j:plain
 

MLBも日本プロ野球も開幕が遅れている。球春未だ来たらず。ならば野球映画を観る。大学生の頃に観たトミー・リー・ジョーンズ主演の『 タイ・カップ 』もなかなかに刺激的だったが、second viewingならこちらにすべきかと思い直した。

 

あらすじ

第二次大戦後の1947年、ブルックリン・ドジャースGMのブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)は、ニグロ・リーグのスターの一人、ジャッキー・ロンビンソン(チャドウィック・ボーズマン)を史上初の黒人選手としてMLBに招き入れる。そしてロビンソンは、差別や偏見にプレーで対抗していく・・・

 

ポジティブ・サイド

JovianがMLBのことを知ったのは中学生ぐらい、青島健太がやっていたBSスポーツニュースを通じてだったか。マイケル・ジョーダンがバスケを引退、野球に転向というニュースにびっくりしたのを覚えている。その翌年ぐらいか、野茂英雄が海を渡ったのは。その頃から日本でも本格的にメジャーリーグが認知され始め、イチローと新庄のメジャー行きで完全にMLBが身近なものになったと感じられるようになった。個人的には大学生の頃に読んだパンチョ伊東の『 野球は言葉のスポーツ 』で、メジャーの歴史の広さと深さに初めて触れたと感じた。ニグロ・リーグの消滅(人によっては発展的解消とも呼ぶが)を、MLBへの人材流出が続く日本にも重ね合わせた名著だった。

 

本作は差別と融和の構造を鮮やかに描き出している。当時の野球人たちのロビンソンへの反応と同じくらいに、一般人であるファンの差別が恐ろしい。純粋無垢に見える野球少年が、差別思想に凝り固まった大人たちの圧力に屈して罵りの言葉を吐き出す様はグロテスクである。本作はそうした目をそむけたくなる、耳をふさぎたくなるようなシーンを真正面から描く。そうすることで、差別する者の醜さを炙り出す。これは怖い。自分にも何らかの意味での差別思想がないとは言い切れない。そうした時に、ロビンソンを口汚く罵るフィリーズのチャップマン監督を思い出そうではないか。こんな人間になってはおしまいである。

 

本作ではハリソン・フォードが光っている。基本的にフォードは(トム・クルーズや木村拓哉と同じく)誰を演じてもハリソン・フォードになってしまう。だが、本作では実在したブランチ・リッキーの模倣に徹した。それが奏功した。Jovianは東出昌大は当代きっての大根役者だと断じるが、『 聖の青春 』の羽生善治の物真似は素晴らしかった(というか、東出に演技をさせなかった監督の手腕なわけだが)。ブランチ・リッキーの表情、声、話し方、立ち居振る舞い、思想信条を研究して、役をものにしたというよりも、まさに物真似をした。フォードのファンならば必見の出来に仕上がっている。

 

主役を張ったチャドウィック・ボーズマンも好演・はっきり言って顔立ちはロビンソン本人には似ていないのだが、苦悩を内に秘めて、しかしフィールドでそれを決して表に出さない。かといって、ほぼ同時代人であるジョー・ディマジオのようなcool-headedなプレーヤーでもない。投手を挑発し、観客をエキサイトさせる一流アスリートである様を体現している。

 

ネガティブ・サイド

肝心かなめの野球シーンに迫力がない。本作は伝記であり、ヒューマンドラマであるが、スポーツ映画ではなかった。残念ながら野球をしている時のボーズマンは、最もロビンソンから離れた存在に見えてしまった。『 フィールド・オブ・ドリームス 』のシューレス・ジョー・ジャクソンが何故か右利きにされていたが、レイ・リオッタのスイングには力強さとキレがあった。『タイ・カップ 』のトミー・リー・ジョーンズの走塁と殺人スライディングにはスピードと躍動感(と殺気)があった。残念ながら、チャドウィック・ボーズマンのスイングにはパワーが欠けているし、走塁にはスピードがない。守備にしても『 マネーボール 』のクリス・プラットの方が(一塁手としては)遥かに様になっている。

 

史実として、リッキーはニグロ・リーグの最優秀選手を連れてきたわけではない。折れない心の持ち主をpick outしたとされている。だが、パンチョ伊東らの著書やその他の研究によると、当時のジャッキー・ロビンソンはニグロ・リーグ全体で上から3~4番手という、トップ中のトップだったことは間違いないようである。であるならば、当時の白人が持っていなかった異質なスピード、異質なパワーというものを、もう少しはっきりとした形で描き出すべきだったと思う。

 

また野球そのものの描写もめちゃくちゃである。いくら何でも一塁から離れてリードを取り過ぎだし、絶妙のタイミングの牽制球で、帰塁のタイミングも遅いのにセーフになったりしている。また、劇中でビーンボールや頭部直撃デッドボールも描かれるが、それらの投球が『 メジャーリーグ 』のチャーリー・シーンの荒れ球よりも速い。というか、佐々木朗希のストレートよりも速く見えるビーンボールもあるなど、野球に対する愛情もしくは造詣、または競技経験のある者が作ったとは思えないCGピッチングには、正直なところかなり呆れてしまった。

 

総評 

ジャッキー・ロビンソンと聞いて「誰?」となる人も若い世代には多いだろう。それは仕方がない。オリックス時代のイチローを全く知らない世代の野球ファンもいるのだ。そのイチローがMLB1年目に新人王(とMVP!)を獲得した時に「日本のプロ野球で実績充分な者をMLBは新人扱いするのか?」とMLB内外で論争が沸き起こった。その当時に下された結論は「ニグロ・リーグのトップスターだったジャッキー・ロビンソンもMLBでは新人で、それゆえに新人王を獲得した」というものだった。イチローの偉業の向こうにロビンソンがいる。差別に屈しなかった男の物語には食指が動かない向きも、イチローの先達の物語になら興味を抱くのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

as you see fit

「あなたの好きなように」、「あなたが適切だと思えば」の意。

 

Make changes as you see fit.  好きなように変更を加えてくれ。

Raise your hand and ask questions as you see fit.  挙手をして好きなように質問したまえ。

 

職場で使うとちょっとかっこいい。ぜひ機会を見つけて口に出してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, チャドウィック・ボーズマン, ハリソン・フォード, ヒューマンドラマ, 伝記, 監督:ブライアン・ヘルゲランド, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 42 世界を変えた男 』 -Take him out to the ballgame-

『 飛べない鳥と優しいキツネ 』 -生きづらさを抱える少女に捧ぐ-

Posted on 2020年5月18日2020年10月13日 by cool-jupiter

飛べない鳥と優しいキツネ 70点
2020年5月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ファンヒ スホ
監督:イ・ギョンソプ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200518233644j:plain
 

近所のTSUTAYAで狙っている『 悪魔を見た 』と『 チェイサー 』が常に借りられている。そんなバイオレンスものを観てはならぬという天の声だろうか。だったら全然テイストの違う青春ものでも観るかと、本作を借りてきた

 

あらすじ

ミレ(キム・ファンヒ)は、ネットゲームと小説の執筆に没頭して、現実逃避していた。だが現実の世界の友だち作りも少しずつ上手く行っていた。そんな時、耽溺していたゲームの配信終了の知らせが届く。傷心のミレはネットで知り合ったヒナという人物に会いに行くが・・・

 

ポジティブ・サイド

主演のキム・ファンヒの、何と地味で、それゆえに何と輝いていることか。思春期という時代は様々なこと、たとえば初恋であったり男女交際であったり、あるいは知的生産活動であったり、あるいは人間関係の拡大(たとえそれがネットゲームの世界であっても)にいそしむ時期である。そうした子どもと大人の中間的な存在をキム・ファンヒは見事に体現した。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の南沙良を見た時と同じようなインパクトを感じた。彼女の無表情や小声に騙されてはいけない。それはすべてラストに爆発するための大いなる伏線なのだ。

 

韓国の映画を見ていて思うのは、人と人の距離が近いということ。それは時に抱擁という形を取ったり、あるいは容赦のない攻撃の形も取りうる。前者の例は『 建築学概論 』のスンミンが悪友の腕の中で泣きじゃくるシーンであり、後者は本作のイジメであろうか。大昔のテレビドラマ『 人間・失格〜たとえばぼくが死んだら 』のような、いわば子どもだらけの伏魔殿というか、『 ミーン・ガールズ 』からコメディ要素を抜くとこんな感じになるのだろうか。『 地獄少女 』の冒頭にあるようなイジメ描写が続く様は、かなりの鬱展開と言える。だが、これもミレの無表情と同様に、必要な描写なのだ。どうか辛抱してお付き合い頂きたい。

 

ある時点から明確な希死念慮を抱くようになるミレだが、それが薄れていく瞬間がある。ネットで知り合ったヒナと一緒にピザを頬張る姿からは生命力があふれてくるようである。食べるとは生きることそのものである。まるで『 風の電話 』で、どのシーンを見ても、誰かが何かを食べていたことを思い出す。

 

本作は随所に面白いカメラワークがある。夜の街中でミレとヒナが手紙を読み合うシーンでは『 3D彼女 リアルガール 』の文化祭的なシーンはシネマティックかつドラマチックだった。他にもランの植木鉢を抱えて廊下を走るミレの姿を左右から映し出す演出は、そのシーンの滑稽さと相まって不思議な時間を演出していた。その後は『 町田くんの世界 』に負けず劣らずのファンタジー展開となるが、それぐらいは目をつぶってほしい。女子中学生の成長物語として、普遍的な何かを感じられる良作である。

 

ネガティブ・サイド

ミレが心の拠りどころにしているオンライン・ゲームの描写が弱い。というか、実写化する必要があるのだろうか。もちろん、ネトゲの世界を実写で描く意義のある作品はいくらでも考えられるが、本作は違うだろう。描くべきはネトゲ内のコミュニケーションの在り方、そしてそこに没入する孤独な少女の姿だ。ゲーム音楽家の裏谷玲央氏は「昔も今もゲームはコミュニケーション・ツールです」と断言しておられたが、蓋し真理であろう。ミレが欲していたのはゲーム体験ではなく、他プレーヤーとパーティーを組んで、ともに何かを成し遂げることだったのだから。そのあたりの描写の薄さ、中途半端な実写化が、ミレに「ヒナに会わなければならない」と感じさせることに寄与していない。

 

ミレの家庭環境が改善された様子が描かれなかったのも気になる。父親と対峙せよ、とまでは思わないが、教師に対してとんでもない行動に出たように、父親に対しても何らかの反抗を見せてほしかった。

 

あとはヒナに秘められた因果か。もちろん物語の進行上、容易く想像はつくのだが、そこから講演でフリーハグを提供するようになっていった過程を、ほのめかす程度でよいので描写してほしかった。ある意味でヒナは自己満足の世界に溺れている。その背景を知らせてくれれば、人が生きることは綺麗ごとではないという真実が垣間見えたのだが。

 

総評 

これまた韓国産の良作である。イジメ描写の容赦の無さに、邦画との違いを思い知らされる。一方で、思春期に普遍的に共通する悩みや友情の美しさも称揚しているため、物語自体には比較的入っていきやすい。案外、中高生が親子で鑑賞してもよいかもしれない。どこか『 エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へhttps://jovianreviews.com/2019/09/23/eighth-grade/ 』に通じるものが本作にはある。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

クロム

これも簡単、「それなら」の意である。それなら一緒に宿題をしよう。それなら今日のメシは俺が作ろう。そういう時の「それなら」である。何度でも強調するが、言葉を学ぶ時にコンテクストを絶対に無視してはならない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, キム・ファンヒ, スホ, ヒューマンドラマ, ロマンス, 監督:イ・ギョンソプ, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 飛べない鳥と優しいキツネ 』 -生きづらさを抱える少女に捧ぐ-

『 ぼくのエリ 200歳の少女 』 -人間らしさの根源に迫る-

Posted on 2020年5月10日 by cool-jupiter

ぼくのエリ 200歳の少女 70点
2020年5月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:カーレ・ヘーデブラント リーナ・レアンデション
監督:トーマス・アルフレッドソン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200510205717j:plain
 

韓国映画やアメリカ映画のような、胃にかなり重く来るような食べ応えの作品を立つ続けに見ると、やはり北欧産の映画に惹かれてしまう。色々なものをそぎ落とす演出と世界観は、時に不思議な魅力を生み出す。ゾンビものもいいが、吸血鬼ジャンルも、このご時世にはいいのかなと感じた。

 

あらすじ

学校でいじめられている内気な少年のオスカー(カーレ・ヘーデブラント)は、隣室に引っ越してきた謎めいた少女エリ(リーナ・レアンデション)と出会う。同じ頃、近隣では、血を抜き取られるという殺人事件が起こるようになり・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200510205749j:plain
 

ポジティブ・サイド

キャスティングがとにかく素晴らしい。オスカーを演じたカーレ・ヘーデブラントもエリを演じたリーナ・レアンデションも、このタイミングでしか撮れない絵を見事に作り出している。『 ネバーエンディング・ストーリー 』のバスチアンやアトレーユ、幼心の君や、『 スタンド・バイ・ミー 』の4人組、『 ぼくらの七日間戦争 』の1年2組の面々らのように、主演の二人は大人と子どもの境目であるという奇妙な存在感を大いに発揮していた。

 

安易に人外のモンスターが登場する=ホラー映画、に仕立て上げないところにも好感が持てる。これは人間の物語で、もっと言えば人間が人間らしくある、あるいは人間らしさを失うこととは何かを問うている。我々はよく「人命ほど尊いものはない」と口にする一方で、「けしからん、死刑にせよ!」などと勝手に他者を断罪したりする。いじめっ子や問題のある親のせいで、学校にも家にも居場所がないオスカーが、吸血鬼エリと親しく交わることを誰が咎められようか。『 東京喰種 トーキョーグールhttps://jovianreviews.com/2019/08/14/tokyo-ghoul/ 』と同工異曲の作品であるが、オスカーの方がより社会的に疎外された存在であるため、エリとの交流の儚さがより際立っている。

 

エリとホーカンの関係も象徴的だ。実に甲斐甲斐しく夜な夜な血液集めに奔走するホーカンは、何故に好き好んで少年を狙うのかと思っていたが、それ自体が伏線だったとは。ある意味で少年の心のままに老齢に達してしまったホーカンと永遠に老いることのないエリの奇妙な共生関係は、エリとオスカーの未だ見ぬ将来について実に示唆的だ。

 

オスカーに拒まれて血を流すエリの不気味なまでの美しさは、映像美の一つの到達点ではないだろうか。そして、最終盤の、荒れ狂うエリの狂暴さとその場面の静謐さのコントラストも実に鮮やかである。北欧産のスリラーにしてヒューマンドラマの良作である。

 

ネガティブ・サイド

1時間26分48秒時点のボカシ、これは果たして必要だったか。「女の子じゃないよ」というエリの言葉は二通りに解釈できる。すなわち、1) 自分は女の子と呼ばれるような年齢ではない、そして2) 自分は性別的に女ではない、である。おそらく、その両方と解釈すべきなのだろうが、ここは恐れることなく“そのもの”、あるいは“そのものの痕跡”を見せてほしかった。あるいは、『 11人いる! 』のフロルの裸を目撃したアマゾンのごとく、オスカーにもっと分かりやすい反応をさせても良かったのではないか。

 

エリに襲われたことで半吸血鬼化した人物が、太陽光にあたってしまったことで焼け死ぬシーンがあるが、いくら何でも大げさすぎる演出ではないか。『 ミュージアム 』の殺人鬼ぐらいの演出で良かったのだが。

 

ヴァンパイアの特徴である「招かれないと部屋に入れない」を効果的に使っていた一方で、「影がない」という特徴は反映されず、ばっちり影ができていたり、「鏡に映らない」という衝撃的な画作りもできたはずだが、それもなし。特に鏡を使った印象的なカメラワークが随所にあるのだから、これは是非やってみてほしかった。元々太陽光を浴びられないエリなのだから影の件は置いておくにしても、鏡に映らないにはぜひ挑戦してほしかった。

 

総評

医療従事者の子どもが学校でいじめられているという、なんともやりきれない気分にさせられるニュースが報じられている。いじめっ子には直ちにやり返せとは思わないが、疎外がどのような結果につながるかについては真剣に考えなければならないだろう。誰かのために必死に生きる。その結果、残虐なことも起こりうる。それを美しいと思えることが人間らしい思いやりなのか。何とも言えない余韻を残す佳作である。

 

Jovian先生のワンポイントスウェーデン語レッスン

gå

英語にすると、go=行く、の意である。エリがオスカーにこのように叫ぶシーンがある。英語のgoは「ゴウ」だが、こちらは「ガウア」という感じ。むやみに辞書を引くのではなく、状況から未知の言葉の意味を類推する癖をつけておこう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, カーレ・ヘーデブラント, スウェーデン, ヒューマンドラマ, レーナ・リアンデション, 監督:トーマス・アルフレッドソン, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 ぼくのエリ 200歳の少女 』 -人間らしさの根源に迫る-

『 かもめ食堂 』 -フィンランドに流れる時の優しさ-

Posted on 2020年4月23日2020年4月26日 by cool-jupiter

かもめ食堂 70点
2020年4月22日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:小林聡美 片桐はいり もたいまさこ
監督:荻上直子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200423233440j:plain
 

『アベンジャーズ / エンドゲーム 』のルッソ兄弟がガッチャマンの実写化を行うという。松坂桃李主演で微妙な出来に仕上がった同作だが、デビルマンではなくガッチャマンに目を付けたのは、改善の余地を認めたからなのか。そして、ガッチャマンと言えば本作『 かもめ食堂 』も忘れてはならないのである。

 

あらすじ

ヘルシンキの街角にある日本食レストラン「かもめ食堂」では閑古鳥が鳴いていた。オーナーのサチエ(小林聡美)は、最初の客になってくれた日本びいきの青年トンミから、ガッチャマンの歌を教えてほしいと言われ、答えられなかった。ある時、偶然に出会ったミドリ(片桐はいり)にガッチャマンの歌を教えてもらった奇縁から、二人でかもめ食堂を盛り立てることに。そこにロストバッゲージで途方に暮れるマサコ(もたいまさこ)も加わって・・・

 

ポジティブ・サイド

まるで『 パターソン 』のように、平凡な人間の平凡な日常の繰り返しが、とても愛おしく、とても輝かしいものになっていく。フィンランドを舞台にした映画といえば、映像美だけが特徴だった『 雪の華 』があるが、本作にはロマンスも奇跡も何もない。それがどこまでも心地よく感じられるのである。

 

『 パターソン 』と同じく、事件らしい事件がほぼ起こることがなく、登場人物たちのほんのちょっとしたコミュニケーションや、ほんのちょっとした非日常的な行為が、とてつもない癒しになってくれる。本作でも常に誰かが何かを食べているが、『 食べる女 』と同じく、見ているこちらも笑顔になれる。それは、料理を作る者、それを食べる者が笑顔だからに他ならない。笑顔とは何か。それは幸福や満足が表情に現れたものである。それでは幸福や満足とは何か。その一つの答えを本作は提示している。つまり、自分が自分らしくあれる、もしくは自分の自分らしさを発見することができる、ということである。

 

本作に登場する女性たちは、皆とても個性的で、すなわち魅力的である。セックス・オブジェクトして魅力的という意味ではない。人間として輝いているという意味である。輝いているのも、金箔を身にまとっているからではない。内面が光っているのだ。カモメではなく閑古鳥が営巣している食堂を、何の危機感もなくゆったりと経営するサチエ、地図をテキトーに指差してフィンランドにやって来たミドリ、荷物をなくして困っていそうで困っていないマサコ。彼女らが織り成す交流は、韓国映画を立て続けに観てきたJovianにとっては文字通りの清涼剤である。主役のサチエがミステリアスで良い。いつからかもめ食堂を経営しているのか、なぜフィンランド語がペラペラなのか、どこでどのように勉強したのか、家族は?出身地は?生い立ちは?などと無限に疑問が沸き上がって来るが、そのすべてに答えが出てこない。ミドリもマサコもそんなことは尋ねないし、ミドリの今後の予定やマサコの荷物の中身について、誰も詮索しない。この濃密過ぎず、さりとて淡泊過ぎない人間関係が心地よいのである。この3人の織り成すケミストリーの素晴らしさは、ラストシーンに凝縮されている。幸福とは何か。それは人が人と交わる時に、自分らしくあれることなのだ。

 

フィンランドであろうとアラスカであろうと、人と人とが触れ合うのに必要なのは語学力ではない。求めるられるのは、それこそコミュニケーション力だ。マサコが地元の同年代女性と言葉が通じないながらも切り結び、そして理解し合う一連のシークエンスは、英語をはじめとする語学学習に悩む人たちへの大きなヒントになる。

 

キャストは皆、助演として年季の入った女優たち。ロングのワンカットが多用されているのも、俳優の実力への信頼の証。ワイワイガヤガヤのレストランものでは『 シェフ 三ツ星フードトラック始めました 』とテイストは大いに異なるが、面白さの面ではまったく劣っていない。

 

ネガティブ・サイド

トンミのTシャツは毎回笑わせてくれたが、「風林火山」は武士道とはあまり関係がない。日本通というトンミの設定が少々壊れてしまっている。海外で真面目にJapan Studiesをやっている人間は、そんじょそこらの日本人よりも日本のことに詳しかったりする。Jovianも大学時代に、ジブリ映画を研究するために日本(もっと言えば小金井市の近く)に来たというイングランド人もいたのである。トンミの日本びいきという設定は、もっとアニメなのか武士道なのか、その領域をもっとspecificにすべきだった。

 

コピ・ルアックのおまじないも、別にコーヒー豆に直接指先で触れる(それを見せる)必要はなかった。実家が元焼肉屋だったJovianとすれな、サチエがしっかり手洗いをする描写が2秒でよいので欲しかったところである(今という時期だから余計にそう感じるのかもしれないが)。

 

『 サウナのあるところ 』で活写されたサウナという閉鎖空間が一種のカウンセリング・ルームになっているという描写が欲しかったところである。特に丑の刻参りおばちゃんとマサコには、ぜひサウナで裸の語らいを続けてほしかったと思っていたのだが、そうしたシーンはゼロ。編集でカットしたのか。まさか最初から撮影しなかったなどということはあるまい。カモメと猫と森と空だけで十分に異国風情は表せるが、フィンランドらしさを最も出せるのは間違いなくサウナである。

 

総評

外出の自粛を要請するという謎の日本語表現によって、我々の日常が奪われて久しい。おそらく5月末まで緊急事態宣言は続くだろう。なんでもない日常の尊さ、そして自分を自分らしくしてくれるものについて、我々は気づき始めている。ドラマチックさは全くないが、だからこそヒューマンドラマとして成立している珍しい作品である。レンタルや配信で、ぜひチェックしてみよう。

 

Jovian先生のワンポイントフィンランドレッスン

キトス

「ありがとう」の意である。これも理解するのに字幕は不要。前後の状況がはっきり分かって、言葉を発する人間の表情や身振り手振り、口調などをしっかりと観察すれば、未知の言葉の意味もおのずと明らかになることが多い。もたいまさこ的なコミュニケーションを目指そうではないか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, B Rank, ヒューマンドラマ, もたいまさこ, 小林聡美, 日本, 片桐はいり, 監督:荻上直子, 配給会社:メディア・スーツLeave a Comment on 『 かもめ食堂 』 -フィンランドに流れる時の優しさ-

『 ちょっと今から仕事やめてくる 』 -生きていれば何とかなる-

Posted on 2020年4月19日 by cool-jupiter

ちょっと今から仕事やめてくる 60点
2020年4月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:工藤阿須加 福士蒼汰 黒木華 吉田鋼太郎
監督:成島出

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200419130523j:plain
 

原作小説を買って、そのまま積読にしてしまっていた。先にDVDを観てしまおうと決断。Jovianも去年、会社を辞めて転職したので、それなりの期待をもって鑑賞した。

 

あらすじ

広告代理店の営業の青山(工藤阿須加)は、ブラックな職場環境・上司によって精神的に疲弊していた。自ら線路に落ちようとしたところ、小学校の同級生の山本(福士蒼汰)に助けられる。意気投合した二人は飲みに行く。そこから青山は少しずつ明るさを取り戻し、仕事でも成果を出せるようになってきたのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない 』は、最後には先輩社員も怒鳴りながらも仕事に協力してくれた。一方で、本作で職場をブラックにしているのは、先輩社員ではなく部長。そこにある力関係の差はさらに大きい。Jovianは、管理職が怒鳴るだけではブラック企業とは認定できない。Jovianの幼馴染のブラック企業の定義を引用させてもらうと、「ブラック企業とは、お客さんからではなく従業員から儲ける企業である」。つまり、休日出勤や時間外労働をさせる、罰金を取る、有給休暇を取得させない、経費を出さない&給料から差っ引く、などなどである。青山の職場はこれらが漏れなくそろっている。間違いなくブラック企業である。暴力や暴言は認められるべきでも許されれるべきでもないが、それに値するミスをやらかしてしまうことはありうる。問題はそれに対して、どのようなフォローを組織が行うのかである。その他にもPCのセキュリティがガバガバだったりと、企業研究映画としても少々興味深い作品である。

 

工藤阿須加の自然体に近い演技も悪くない。最近、韓国映画を立て続けに見ているせいか、心情がそのまま言動に出てくるストレートな演技との対比がよく見て取れた。青山の会社の社訓の一つに「心なんか捨てろ、折れる心がなければ耐えられる」というものがあった。これは洗脳に近い。無表情に虚空を見つめて立ち尽くす青山の姿には、山本ならずとも剣呑な雰囲気を感じ取ることだろう。青山の心の声に「俺、このまま壊れちゃうのかな」的なものがあったが、これは“すでに壊れている”者の声であると思ってよい。壊れてからでは手遅れである。壊れそう=壊れている、という認識で動かなければ、過労死や自殺は減らないのである。青山はブラック企業勤めのサラリーマンの悲哀をかなり上手に体現していたものと思う。

 

福士演じる山本のケアも評価できる。経済的な格差が拡がって久しいが、日本における貧困層は遥か昔から存在していた。Jovianは大学の授業の課題図書であった『 日本の下層社会 』を読んで、衝撃を受けたことを今でも覚えている。貧困の原因の多くは、家族の喪失であったり、障がいや疾病にあることを看破していたのだ。というよりも、国はそうした者たちへのセーフティネットを整備してこなかった、と言ったほうが良いのかもしれない(このことは、コロナ禍にあえぐ一般国民への支援体制をさっぱり構築できない現政府を見れば実感いただけよう)。『 ヘヴィ・ドライヴ 』にも描かれていたが、すでにこの上なく奪われた者たちから、さらに奪うようなことをしてはならないのである。その先にあるのは正の拒否しかないのだから。山本は青山を常に酒食に誘うが、これは非常に重要なことである。一つには、鬱のサインの一つに食欲減退があるということである。劇中でそのことが明示されるわけではないが、山本は明らかに青山のヘルプサインの有無にアンテナを張っている。もう一つには、関係を近づけ、コミュニケーションを円滑にするためである。『 RED  』で柄本佑が夏帆に「コミュニケーション取りやすくしとくのって重要だよ?」といけしゃあしゃあと言ってのけるシーンがあるが、これは蓋し真実である。また、飲食を共にすることが実際にそのような効果を持つことは『 食べる女 』や『 風の電話 』が明らかにしている。

 

山本の生き様は、格差や分断が固定してしまった日本社会対する一つのアンチテーゼとしての意味を有している。日本語では“仕事”という言葉で一括りにされるが、例えば英語なら、job, work, task, occupationなど様々に分類されている。「アメリカの野球はプレーだが、日本の野球はワークだ」と言った助っ人プロ野球選手もいたのである。生きていくうえで何をすべきか、それはvocation = 天職を得ることだろう。Vocationとは、「声に呼ばれること」という意味である。天の声でも内なる声でもいい。そうした声に耳を傾けて行う仕事がvocationである。同義語にcallingもある。山本と青山の交流の果てにあるようなcallingを、我々も日々の生活の中で少しずつ追求していきたいものである。

 

ネガティブ・サイド

非常に良い話であるが、やはり福士蒼汰の大阪弁がノイズであった。イントネーションはだいたい合っている。大阪弁を研究し、練習した跡は認められる。しかし、決定的にダメなのは、ほんのちょっとした長母音の使い方である。なんのこっちゃという方は、身近に大阪人(関西人でもよい)に「目」「歯」「手」を音読してもらおう。それぞれ「めぇ」、「はぁ」、「てぇ」となるだろう。大阪出身京都育ちのはずの黒木華が、このあたりは現場で指導してやることはできなかったのだろうか。大阪弁ネイティブではない人間に山本役を演じさせることで、山本という存在の背景情報が非常に胡散臭く感じられてしまう。そういう効果を敢えて狙う必要はない。ストーリーが展開していけば、自然にそうなるようになっているのだから。

 

Facebookの投稿の“Hello! Stage first day today.”という投稿もいただけない。英語に堪能な者にチェックを受けていないのがバレバレである。stage first dayなどというコロケーションは存在しない。おそらく機械翻訳にかけたのだろう。正しくは“Hello! It’s opening day today!”もしくは“Hello! It’s my play’s opening day today!”などとすべきである。ニューヨークで演出家というのは『 マリッジ・ストーリー 』におけるアダム・ドライバーである。英語がペラペラでなければ絶対に務まらない。ファンタジーなのは福士の山本ではなくこちらであろう。

 

原題も本当は「ちょっと今から会社やめてくる」であるべきなのだろう。会社はいくらでも辞めていいが、仕事は辞めてはいけない。青山の母もが「生きていれば何とかなる」と言ってくれていることの意味の一部には、「会社で働かなくても、仕事をすることはできる」ということも含まれているはずである。

 

山本の正体が明らかになる後半からは、ストーリーのテンポがかなり落ちる。妙なホラーテイストのシーンもちらほらあるが、それらはすべてノイズである。1時間5分ぐらいで話のトーンが大きく変わるが、それを1時間15分あたりに持ってきて、後半から終盤をもっと凝縮することができれば、カタルシスもより大きくなったかもしれない。

 

総評

軽いタイトルに重い内容である。しかし、2017年の作品であってもまったく古くないし、おそらく2025年に鑑賞しても古くならない内容だろう。現代では個の強さが求められるとビジネス誌やインフルエンサーは叫ぶばかりだが、それらが指すのは結局スキルであることが多い。そうではなく、自分の心の声、あるいは天の声に耳を傾けてみようではないかというのが、本作のメッセージの一つである。大学生や20代、30代の比較的若いサラリーマンにお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

What do you do?

よく「お仕事は何ですか?」=What do you do? のように説明・解説されているいるが、厳密に言えば間違っている。What do you do? というのは文字通り「今は何をしているの?」である。小学校の同級生と10年ぶり20年ぶりに再会すれば「うわっ、久しぶり!今、なにやってんの?」と尋ねるだろう。そして答えは「今は自営業やねん」とか「実は大学院に行ってる」だったりするだろう。What do you do? は、必ずしも仕事だけを尋ねる表現ではないのである。

 

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