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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

Posted on 2019年9月2日 by cool-jupiter

500ページの夢の束 65点
2019年8月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング トニ・コレット
監督:ベン・リューイン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190902022539j:plain

原題は“Please Stand By”、「スタンバイ願います」の意である。テレビおよび映画のスター・トレックでしばしば使われる表現である。Jovianの父およびJovianの同僚のイングランド人はコテコテのトレッキーであるが、JovianはStar Warsおfanboyである。そしてエル・ファニングのファンでもある。ならば、その姉のファンになっても良いではないか。

 

あらすじ

ウェンディ(ダコタ・ファニング)は自閉症の女子。周囲の人間や家族とすらも、時にコミュニケーションが難しくなるが、スター・トレックのハードコアなファンで、その知識の量と正確さは他のナード連中を圧倒する。ある時、パラマウント・ピクチャーズがスター・トレックの脚本コンテストを開催していると知り、自分でも応募を試みるが・・・

 

ポジティブ・サイド

自閉症の方が知り合いや身内におられるだろうか。Jovianのいとこに一人いる。とにかく数学の才能に優れ、楽器をすぐにマスターし、一度のめり込んだら何時間でも絵を描き続ける。しかし、正月やお盆に親戚が一堂に会してご飯を食べたり、結婚式や葬式の食事などでも他人を待つ、皆と同じタイミングで食べ始めるということができない。また話しがかみ合わない。というよりも、言葉の裏の意味が読み取れない。そんな自閉症の症状をダコタ・ファニングは見事に描き切った。

 

トニ・コレットも毎度のことながら良い仕事をしている。『 シックス・センス 』から『 ヘレディタリー/継承 』に至るまで、苦悩する母親といえばトニ・コレットなのである。いや、実際は姉ソーシャルワーカーにしてカウンセラーなのだが、精神的な意味での母親だと呼んで差し支えないだろう。『 セッションズ 』でもそうだったが、ベン・リューイン監督は社会からcast outされがちな人々に光を当てることに長けている。人間がサルからヒトになったと判断できる基準は様々にあるだろうが、セックスが子作りではなく愛情表現、さらに濃密なコミュニケーションになっているかどうかであると思う。『 セッションズ 』からはそれを学んだ。愛情があるからセックスするのではなく、セックスから生まれる愛情もある。陳腐ではあるが、障がい者を通じてこそ見えてくるものもある。

 

Back on track. スター・トレックは『 スター・ウォーズ 』と並んでクレイジーなファンが多いことで知られている。そのクレイジネスを活かした脚本がここに出来上がった。人は愛するものと一体化したいという欲望を持つ。スター・トレックの製作者たちはそのことをよく知っている。実際には彼ら彼女らは脚本の一般公募をしているからだ。だからこそ、本作にはリアリティがある。『 ファンボーイズ 』は死ぬ前にスター・ウォーズの新作を観たいという欲望、いや本能を満たすためのストーリーで、言ってみれば自慰行為だ。しかし、本作は愛情表現。そこが違う。500ページの夢の束は、500ページのラブレターなのである。

 

ウェンディの旅路を是非とも見届けて欲しい。

 

ネガティブ・サイド

ウェンディが「渡ってはいけない」とされていた道路を、割とあっさりと渡ってしまうシーンには少し萎えた。ルーティンに従うことで心の安定を保てる自閉症者が、いくら大好きなスター・トレックのためとはいえ、そこまで簡単に自分のルールを変えられるだろうか。このあたりにもう少し逡巡する描写が欲しかった。

 

ウェンディにクイズで挑んでいた連中は、何だったのか。ただの引き立て役か。こういう奴らこそがウェンディの旅の役に立たなくてどうする?またはウェンディ捜索に人肌脱がなくてどうする?はたから見れば変人のウェンディにも、家族やチワワ以外の誰かがいるのだということを見せて欲しかった。自閉症者はコミュニケーション能力に欠けていても、その他の能力が一般人のそれを凌駕していることが多い。そのことが他人を遠ざける原因になることもあるし、逆に他人を引きつける要因になることもありうる。実際にバイト仲間のトニー・レヴォロリはウェンディにロマンティックな意味での好意を抱いている。そうでなくとも、趣味嗜好を同じくする者同士の連帯感を描いてくれても良かったのではなかろうか。ローン・ガンメンみたいな奴らとして、彼らが登場してくれるのを期待していたのだ。

 

総評

静かな、しかし確実に長く残る余韻をもたらす映画である。トレッキーではなくても楽しめるし、逆にスター・トレックの知識が無いほうが、純粋に物語を鑑賞できるかもしれない。自分ではよく分からないけれど、他人が夢中になっているものに、人は興味を抱くものだから。ウェンディという一人の少女の旅立ちの先に、「未知との遭遇」が待っているかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Do you know who I am?

「私が誰だか知っていますか?」の意である。つまり、端的に言って名前を知っているか?と尋ねているわけである。英語学習の中級者ぐらいでも、“Do you know me?”と言ってしまう人がたくさんいるが、これは「私がどんな人間か分かってくれてるよね?」、「俺ってやつのこと、ちゃんと理解してくれてるだろ?」のような意味である。“Listen to me.”が「私を聞け」ではなく「私の言うことを聞いて」という意味だということの類推で理解しよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ダコタ・ファニング, トニ・コレット, ヒューマンドラマ, 監督:ベン・リューイン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

『 アメリカン・ピーチパイ 』 -面白スラップスティック・ラブコメディ-

Posted on 2019年8月31日 by cool-jupiter

アメリカン・ピーチパイ 65点
2019年8月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アマンダ・バインズ チャニング・テイタム
監督:アンディ・フィックマン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190831021108j:plain

 

近所のTSUTAYAで、ふと目についた。近年はLGBTを主題に持つ作品が量産されているため、本作のように女子が男子に化けるストーリーというのが逆に新鮮に映る。原題は“She’s the Man”。つまり、「彼女は男だ」という意味と「彼女はサイコーだぜ!」のダブルミーニングである。

 

あらすじ

女子サッカー部が廃部になってしまったため、ヴァイオラ(アマンダ・バインズ)はサッカーを続けるために、ロンドンに行った兄に成りすまし、兄の高校の男子サッカー部に入部する。そこでデューク(チャニング・テイタム)に恋をしてしまう。だが、デュークは学校一の美女のオリヴィアに恋をしており、そのオリヴィアは男子らしからぬ女子力の持ち主のヴァイオラのことを気に入ってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

アマンダ・バインズがひたすらに可愛らしい。川口春奈が『 桜蘭高校ホスト部 』で男装したのも悪くはなかったが、中性的、またはユニセックスな魅力を放っているとは言い難かった。アマンダはそれなりに豊かなバストをサラシできつく巻くのはもちろんのこと、もみあげ、眉毛に至るまでメイクアップしている。このあたりは予算や監督の意識の違いであって、日米のメイクアップ・アーティストの技術差であるとは思わないが。

 

チャニング・テイタムが若い。『 マジック・マイク 』の圧倒的な肉体は完成されていないが、『 ホワイトハウス・ダウン 』の頃の気弱そうに見える瞬間もありながら、闘志を内に秘めたタイプを好演した。

 

『 ミーン・ガールズ 』は女子高生の生態にリアルかつフィクショナルに迫った。一方で本作は男子高校生の生態にリアルに迫っている。特に、女子が振られて、あるいは分かれて落ち込んでいるところを狙い目だと話す悪童連に姿に、眉をひそめる向きはあっても、それが男性心理の真理の一面であることは否定できまい。

 

本作はDVDメニュー画面が面白い。英語学習中の人で、関係代名詞がちょっと・・・という方は、本作を借りてみよう。または配信サービスで探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

いくつか撮影や編集に欠点がある。弱点ではなく欠点である。その最も目立ったものは、ヴァイオラの転校初日のサッカー部の練習シーンである。わずか1秒足らずであるが、カメラマンとカメラ機材の影が映りこんでいるシーンがあるのである。これは、しかし、大きな減点要素だ。映画を映画たらしめるのは、それを撮影している人間の存在が画面内に絶対に映り込まないことである。

 

もう一つ。映画を映画たらしめるのは、一連のシークエンスを本当にその時間の経過通りに起きている出来事なのだと観る側に錯覚させるテクニックである。つまりは編集である。その編集が本作はいくつかのパートで非常に雑になっている。特に最終盤の試合後、昼の光と傾きかけた太陽の光が混在していた。役者の演技に納得いかない監督がリテイクを繰り返したのだろうか。繋がらない画を無理やり繋げても良いことはない。

 

だが本作の最大のマイナスポイントは邦題だ。なんでこんな狂ったタイトルをつけてしまうのか。夏恒例の水着映画だから、とでも言うのか。そんなシーンは冒頭の数分だけだ。

 

総評

友情、恋愛、家族の対立と絆、内面の葛藤などのありふれた要素が散りばめられているが、そのバランスが良い。何かが突出してフォーカスされていたり、あるいはあるテーマが他のテーマの小道具になっていたりはしていない。女子力の高い男はモテる、という普遍の真理は本作でも確認できる。LGBTの物語はちょっと食傷気味という向きにこそお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Pounce

 

普通は肉食動物が獲物に襲いかかる様子を描写する為に使われる動詞だが、しばしば「異性を落としにかかる」、「異性を(性的な意味で)食べに行く」の意味で使われる。もしも映画の音声と字幕の意味が普通の辞書で一致しない時は、urban dictionaryを試しみて欲しい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アマンダ・バインズ, アメリカ, チャニング・テイタム, ラブ・コメディ, 監督:アンディ・フィックマン, 配給会社:ドリームワークスLeave a Comment on 『 アメリカン・ピーチパイ 』 -面白スラップスティック・ラブコメディ-

『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

Posted on 2019年8月27日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

ロケットマン 70点
2019年8月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:タロン・エガートン リチャード・マッデン ブライス・ダラス・ハワード
監督:デクスター・フレッチャー

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ブライアン・シンガーが降板した『 ボヘミアン・ラプソディ 』を、ある意味で立て直したデクスター・フレッチャーの監督作品である。それだけでも話題性は十分だが、日本との関係で言えば、テレビドラマの『 イグアナの娘 』のテーマ曲だったことを覚えている30代、40代は多いだろう。Jovian自身のエルトン・ジョンとの邂逅はロッド・スチュワートのアルバム『 スマイラー 』収録の“レット・ミー・ビー・ユア・カー”だった。ライトなエルトン・ジョンのファンとしては、本作はそれなりに楽しめた。

 

 

あらすじ

レジー・ドワイト少年はピアノの神童だった。奨学金を得て王立音楽院に通えるほどの才能に恵まれていながら、彼はいつしかロックに傾倒していった。そして、名前をエルトン・ジョン(タロン・エガートン)に変え、音楽活動を本格化する。そして作詞家バーニー・トーピンと出会い、意気投合。彼らは成功を収めるも、エルトンは満たされたとは感じられず・・・

 

 

ポジティブ・サイド

タロン・エガートンの歌唱力、ピアノの演奏、そしてエルトンの動きの模倣。これらはラミ・マレックが『 ボヘミアン・ラプソディ 』でフレディ・マーキュリーを演じたの同じレベルにある。ただ、あまりにもあからさまなので、アカデミー賞は取れないだろうが。それでも、容姿の点ではマレックとマーキュリーよりも、エガートンとジョンの方が近い。その点は素晴らしいと称賛できるし、何よりもエルトンの幼年期を演じた子役のシンクロ度よ。写真で見比べて「うおっ!」と感嘆の声を上げてしまうほどだ。

 

そしてブライス・ダラス・ハワードは、ますますmilfy(気になる人だけ意味を調べてみよう)になったようだ。『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でアリソン・ジャネイが演じた母親とは一味違う、恐怖の母親を演じた。子どもにとって生みの親に愛されないことほど辛いことはない。その愛情がスパルタ教育という形で表れるのは、まだましな方なのかもしれない。愛の反意語は無関心であると喝破したのは、マザー・テレサだったか。この母親は子どもの持つ並はずれた才能にも頓着せず、カネの無心ばかり。このあたりの演技と演出方法が抜群であるため、物語の開始早々から我々はレジーの心象風景であるミュージカルシーンに違和感なく入っていくことができる。この冒頭のシークエンスは、どこか『 グレイテスト・ショーマン 』の“A Million Dreams”に通じるものを感じた。子どもというのは空想、イマジネーションの世界に遊ぶことができるのだ。その媒体としての音楽=LPレコードとの出会いを、今度は父親が無下に拒否する。我々の心はさらに締め付けられる。かくしてレジーは音楽へ没入せざるを得なくなる。

 

そのレジーが生涯の友のバーニーと邂逅するシーンはリアルである。エルトン・ジョン自身が監修しているのだから当然と言えば当然だが。初対面の二人は互いの音楽の趣味嗜好を確かめ合うのだが、それがぴたりと合う。そこからは意気投合あるのみ。このあたりは『 はじまりのうた 』でマーク・ラファロがキーラ・ナイトレイと互いの音楽の趣味について語り合った場面と共通するが、あれをもっと一気に凝縮した感じである。音楽家同士が理解し合うのに百万言は必要ないのである。このカフェのシーンは実に印象的だ。

 

楽曲面で言えば、すべてを自らの声で歌いきったタロン・エガートンには称賛することしかできない。特に“Your song”は、歌詞からインスピレーションを得て生まれてくるメロディにピアノと声で生命を与えていくシークエンスには、魂が震えるような衝撃を受けた。また個人的にはストーリー中盤のライブでの“Pinball Wizard”が白眉だった。発声可能上映が期待される。

 

エンターテインメントとして完成度が高く、ダンスシーンも圧巻の迫力。なによりもエルトン・ジョンのファンではなくとも、彼の抱える苦悩と共感しやすい作りになっている。愛情を得られない子ども、仮面をかぶり自分を偽る大人、自分という存在を認めてくれる別の存在を求めて彷徨するvagabond。自己を表現することで自己を隠していた天才的パドーマー。愛されるためには、愛さねばならない。そんな人生の真理のようなものも示唆してくれる。稀代の歌い手の前半生を追体験できる伝記映画にして娯楽映画の良作だ。

 

ネガティブ・サイド

映画がフィーチャーしている時代が異なるので仕方がないと言えば仕方がないのだが、エンドクレジットにおいてすら“Candle in the wind”が流れないのは解せない。もしかして、最初から続編の予定ありきなのだろうか。

 

また、一部のニュースによると、ラミ・マレック演じるフレディを作中に登場させるという構想もあったらしいが、それも色気を出し過ぎだし、話題を無理やり作りたい=商業主義的な考え方が透けて見えてしまう。そんなにクロスオーバーをしたいのであれば、悪徳マネージャーのジョン・リードをエイダン・ギレンに演じさせれば良かったのだ(クイーンにとってのジョン・リードはそこまで悪辣ではなかったらしいが)。

 

また、せっかくエルトン・ジョンの前半生に焦点をあてるのなら、レジー・ドワイトの時代にもう数分を割いてもよかった。『 ボヘミアン・ラプソディ 』の構成で最も印象深かったのは、フレディ・マーキュリーがファルーク・バルサラであった時代に光を当て、なおかつフレディがライブ・エイドの最中にファルークに戻って、母親にキスを送るシーンだ。もちろん、別人の物語なので全く同じ構成にはできないが、もっと王立音楽院での学びが後のキャリアに生きてくる描写なども欲しかった。B’zの松本も音楽の専門学校でジャズを学んだことが創作活動に活かされていると常々語っているではないか。

 

最後に、やはり締めには壮大なライブシーンが欲しかった。『 リンダリンダリンダ 』や『 ソラニン 』もそうだったが、音楽の映画の締めにはライブこそふさわしいと思うのである。

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総評

これは素晴らしい作品である。色々と注文をつけたくなるのも、それだけ素材が良いからである。1970~1980年代に青春を過ごした日本のシニア層には『 ボヘミアン・ラプソディ 』並みに刺さるのではないか。エルトン・ジョンを知らない世代でも、両親や親戚、会社の先輩などと一緒に(気が向けば)鑑賞に出かけてほしい。サム・スミスのような新世代の歌手が生まれてきた下地を作ったのは、エルトン・ジョンやジョージ・マイケルのような偉大な先達なのだから。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

“We’ll be in touch.”

『 殺人鬼を飼う女 』で日→英で紹介したフレーズがさっそく登場した。ビジネスパーソンならば、是非とも使ってみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イギリス, タロン・エガートン, ヒューマンドラマ, ブライス・ダラス・ハワード, ミュージカル, リチャード・マッデン, 監督:デクスター・フレッチャー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

『 ライオンキング(2019) 』 -CG技術の粋、それ以上でもそれ以下でもない-

Posted on 2019年8月14日2020年4月11日 by cool-jupiter

ライオンキング(2019) 50点
2019年8月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ドナルド・グローバー ビヨンセ ジェームズ・アール・ジョーンズ
監督:ジョン・ファブロー

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元々のアニメ版は中学3年生か高校1年生で劇場鑑賞したと記憶している。その後、劇団四季のミュージカル『 ライオンキング 』を2回観た。いずれも素晴らしかった。では、全編フルCGにも関わらず「実写化」と謳われる本作はどうか。映像技術の粋。それ以上でもそれ以下でもなかった。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190814202615j:plain 

あらすじ

シンバ(ドナルド・グローバー)は父ムファサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)の元、次代の王として幼馴染のナラたちと共に育てられていた。しかし、叔父のスカーの姦計によりムファサは死に、シンバはプライド・ランドから放逐された。砂漠で行き倒れていたシンバは、ミーアキャットのティモンとイノシシのプンバァと出会って・・・

 

ポジティブ・サイド

『 アルキメデスの大戦 』のグラフィックがプレステ6か7だったならば、本作の映像はプレステ9か10と言って差し支えないのではないだろうか。それほどの仕上がり、出来栄えである。CGアーテイストの労力と費やされたマシンパワーについては想像するしかないが、ディズニー以外でこれだけの資金が出せるところは思いつかない。美麗、写実的、壮大。どのような言葉で称賛しても良いし、逆にどのような言葉を用いようとも、このグラフィックの完成度の高さを充分に評げ禁止切れるものではない。IMAXでは一体どのように映るのだろうか。多分、観には行かないが。

 

冒頭の『 サークル・オブ・ライフ 』は1994年版の完コピである。恐ろしい程の再現度で、なおかつ映像が美し過ぎるために、本当のプライド・ランドであるかのように感じられる。命の連環という概念は元々は仏教から来ており、それゆえにこのシーンの圧倒的なまでの迫力は東洋人にこそ突き刺さるのではないか。惜しむらくはトレーラーが見せ過ぎているということか。

 

俳優陣のVoice Actingも素晴らしい。特にムファサのジェームズ・アール・ジョーンズ。“I am your father.”的な役でこれほど光るのは当然と言えば当然かもしれないが、百獣の王の威厳と父としての慈愛の両方を十二分にスクリーン上で描き切った。プンバァを演じたセス・ローゲンも印象に残る。この人は基本的にコメディ映画専門なのだが、本作でもその実力を遺憾なく発揮した。相棒のティロンと共に、何か喋るだけでも笑わせてくれる愛すべき間抜けキャラクターである。ザズーも好演した。プンバァ登場までのコミック・リリーフであるが、そのmotor mouthっぷりとPunは、非常に微笑ましい。

 

本作を指してキング・オブ・エンターテインメントとしばしば言われるが、それもむべなるかな。ザズーのムファサへの敬礼ポーズは『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』で「ごますりクソバード」なる二つ名を頂戴したラドンの原型は、もしかするとこれだったのかと思わされた。“Long live the King.”の台詞も同じく『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』で複数回使用された。“ The question is, who are you? ”も最近では『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』でジェシカ・チャステインが使っていたし、『 アリス・イン・ワンダーランド 』(ティム・バートン監督)でも同じセリフが聞かれた。本作およびそのオリジナルは、それ自体が巨大なインスピレーションの源泉になっている。手塚治虫の『 ジャングル大帝 』のパクリかどうかは措いておこうではないか。

 

ネガティブ・サイド

本作のテーマは何なのだろうか。もちろん、“命の連環”であり“力ある者の自制と責任”であり、“アイデンティティーの喪失と再発見”であることはわかる。そうではなく、名作であったオリジナルをフルCF実写化(?)でリメイクすることの意義を問いたいのである。『 シンデレラ 』には“Have courage and be kind.”というメッセージがあった。『 マレフィセント 』には、種族や性別、年齢に囚われることのない真実の愛の物語があった。今年(2019年)の『 ダンボ 』や『 アラジン 』には、何も感じ取れるものがなかった。だから観なかったし、おそらく今後も観ない可能性が高い。『 ライオンキング 』という不朽の名作に、現代に込められるべきメッセージとは何であるのか。それは「自分は何者であるのか」という永遠の問いを、もっと深く掘り下げることであったように感じる。何故なら、今という時代ほど、自分を見失いやすく、逆に自分というものを規定しやすい時代はないからである。

 

王であることを宿命づけられた人はほとんどいない。しかし、梅田望夫と齋藤孝から教えられるまでもなく、現代は自分にとってのロールモデルを探しやすい。この人のようになりたい、あの人から学びたい。そんな対象を容易に探せる。それが今という時代である。シンバはライオンでありながら森に住み、虫を食べる。それは自分の在り方からは程遠い。シンバはラフィキから“He lives in you.”と諭されることで、スカーとの対決に臨む決心をする。これこそが前面に押し出されるべきメッセージだったのではないだろうか。

 

そう感じるのは、“He lives in you.”(できればティナ・ターナーversionがベスト)を劇中で用いて欲しかったからである。エルトン・ジョンのそれも悪くないが、やはりティナ・ターナーのそれが聞きたかった。ライオンキングの魅力は、その楽曲の素晴らしさにこそ宿るのだから。

 

その楽曲に大きな不満が二つ。“The Lion Sleeps Tonight”のシーンが、オリジナルの夕方~夜から、真っ昼間に変更されている。何なのだ、これは。もっと納得がいかないのは、名曲中の名曲、“Can You Feel The Love Tonight?”も夜から昼間のシーンに置き換えられていることだ。シンバとナラの再会、そして成熟した雄と雌の爽やかなロマンスの予感が、夜の帳が下りるとともに高まっていくのではないのか。何故これを陽光溢れる光の世界で流すのか。歌詞と画面がケンカをしているではないか。映像および楽曲の美しさにはケチのつけようがない。しかし、その二つが同時に展開される時に大いなる矛盾が訪れる。それも一度ならず二度までも。これは大きな減点材料である。

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総評

超美麗なCG、胸を打つ楽曲、愛すべきキャラクターたち、そして勧善懲悪のストーリー。それだけである。褒めるべき点もあるが、決して褒められない点も同じくらい存在する。本作に感動したという人は、機会があれば劇団四季の『 ライオンキング 』も観てみてほしい。実写と言いながら実写ではない本作にはない、本物の臨場感がきっと味わえるから。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ジェームズ・アール・ジョーンズ, ドナルド・グローバー, ビヨンセ, ミュージカル, 監督:ジョン・ファブロー, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ライオンキング(2019) 』 -CG技術の粋、それ以上でもそれ以下でもない-

『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

Posted on 2019年8月13日2019年8月13日 by cool-jupiter

エリザベス∞エクスペリメント 40点
2019年8月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アビー・リー キアラン・ハインズ
監督:セバスチャン・グティエレス

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確か、未体験ゾーンの映画たちでパンフか何かだけ手に取った記憶がある。地雷臭がプンプン漂っていたが、Again, I was in the mood for garbage. 夏と言えばサメがゾンビのクソ映画祭りなのだが、たまには違うジャンルをば。本作はSFというよりもシチュエーション・スリラーである。しかし、シチュエーション・スリラーと呼ぶには、話があまりにもとっ散らかっているという印象である。期待せずに観た。そして、それで正解であった。

 

あらすじ

エリザベス(アビー・リー)は年の離れた億万長者の夫ヘンリー(キアラン・ハインズ)の自宅へと帰ってくる。そこは山中の湖畔にある豪邸で、室内プールにワインセラー、ブティックかと見紛うほどのドレスに靴まであり、自然に囲まれた別天地だった。しかし、ヘンリーはとある部屋にだけ、エリザベスが入ってはならないと言う。ある時、エリザベスがその部屋で見たものとは、彼女のクローンだった・・・

 

ポジティブ・サイド

ある時点までは万人の予想通りに進む。しかし、そのある時点からはやや予想の斜め上を行く展開になる。屋敷の使用人たちが発する雰囲気が、どこか『 ゲット・アウト 』の屋敷の住人およびゲストたちのそれと似ているのだ。こういう映画は観る者の予想を裏切ってナンボなのである。

 

男女、そして夫婦の仲というのは難しい。『 ゴーン・ガール 』を観るまでもなく、男(夫)と女(妻)が、腹の中に何を抱えているのかは外部の人間からは窺い知れない。夫は妻に何を求めているのか。そのような問いを突き付けられた時、そして本作のヘンリーのような夫に自分がなってしまってはいないかとの不安に襲われる諸賢は多かろうと推測する。いくら天才的科学者であっても、男はその本質においてアホなのではないか。英雄色を好む。古人に言によれば「英雄、色を好む」ということだが、逆に言えば「色を好むから英雄である」とも考えられる。

 

ヘンリーも相当であるが、オリバーもかなり危ない男である。エリザベスが魔性の女だからだと勝手に思い込むことなかれ。この盲目の青年の情念は、正常だとか異常だとかの尺度で測ってはならない。やっていることが、まんま山本弘の小説に出てきそうな無邪気で、それでいて自己中心的な思春期真っ只中の子どもの妄想である。というか、山本弘の小説に、地球が自分の意思で世界を二つに割って、片方に生きていたい生物、もう片方に死にたがっている生物を選り分けるような短編があったが、そこに出てくるアホなガキンチョとオリバーは、本質的に同じ思考、同じ行動原理を持っている。キモイの一言に尽きる。

 

男というのは、どうしようもなくアホな生き物であるということをまざまざと見せつけてくる怪作である。

 

ネガティブ・サイド

いくらなんでもセキュリティが緩過ぎるだろう。本当に見られたくないのなら、厳重に施錠しろ。というか、出入り口を作っては駄目だろう。大富豪にしてノーベル賞受賞者なら、もうちょっと頭を使って欲しい。本作はほぼ全編、邸宅内でストーリーが進行する。つまり、舞台が一つだけなのであるが、このようなご都合主義的なドラマツルギーは創作、演出上の逃げである。こういった部分でサスペンスを生み出し、それを終盤のドンデン返しへの伏線とするような脚本が望まれているのだ。

 

その一方で、家の外に出るためのセキュリティが固すぎる。というか、屋敷の外に通じる道が巧妙にふさがれて、あるいは防弾使用になっていることで、ヘンリーの秘密のクローン保管室への扉がいとも簡単に開いてしまうことに納得ができなくなる。このマッドサイエンティストは頭が良いのか悪いのか、分からなくなってしまう。本作のテーマの大きな部分に、クローンという存在に対してどのような感情を以って接するべきかというものがある。理性と感情は別物である。それは分かっている。だが、それでもヘンリーの行動原理や思考には首を傾げざるを得ないところが多々ある。結婚を「誘拐」に例えるセンスには眉をひそめてしまうし、無数にクローンが存在するならばまだしも、6人しかいない貴重なクローンをいとも簡単に始末してしまうところなど、彼の言う愛は自己と他者の関係のことではなく、性欲のことではないのかとさえ感じられてしまう。底知れないキャラクターに見せかけて、非常に底浅く感じられるのである。

 

また、盲目のオリバーについても疑念が残る。というよりも不可解さが残る。盲目であっても、信じられない能力や技能というのは身につくものだ。フィクションの世界では座頭市しかり、実在の人物では石田検校しかり。だからオリバーが銃をぶっ放すぐらいは気にしない。しかし、注射器を巧みに操るというのは一体全体どういうことだ?どの瓶に入っているのがどの薬品で、その薬品の有効期限はいつまでで、なおかつその薬品の適切な投与量がどれくらいなのかを、盲目でありながらどのようにして把握したというのか。合理的な説明が見当たらないし、思いつかない。

 

総評

扱っているテーマは面白い。しかし、邦題がまずい。∞マークは完全なるミスリード材料だ。同じようなSFチックなシチュエーション・スリラーなら、『 トライアングル 』(2009年 クリストファー・スミス監督作)や『 月に囚われた男 』をお勧めしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アビー・リー, アメリカ, キアラン・ハインズ, シチュエーション・スリラー, 監督:セバスチャン・グティエレス, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

Posted on 2019年8月7日 by cool-jupiter

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 80点
2019年8月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ポール・ホルデングレイバー
監督:フレデリック・ワイズマン

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エクス・リブリスとは、Ex librisである。exはラテン語でfromの意、librisはliber=本の複数形の奪格である。つまり、From the booksと訳すことができる。本の所有者を示すために、しばしば使われる標語のようなものである。では、ニューヨーク公共図書館の蔵書の所有者とは誰なのか。それを追究しようというのが、本作の刺激的なテーマである。

 

あらすじ

ニューヨーク公共図書館の本館と分館にそれぞれカメラが入り、各図書館ごとに特色あるサービスを提供している様子を捉えていく。そこから、公共の意味、知識の意味、世界の未来像が浮かび上がってくる。

 

ポジティブ・サイド

ドキュメンタリー映画でありながら、本作にはナレーションが存在しない。いや、ナレーションが存在しないドキュメンタリーは他にもある。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』にもナレーションは無かった。本作の最大の特徴はインタビューが存在しないこと、これである。ただ淡々と、図書館で働く人々、図書館を利用する人々の姿を映していく。彼ら彼女らの話、働きぶり、行き方来し方によって、ニューヨークの街、ひいては全米、そして世界における「公共」の意味や「知識」の意味が見えてくる。静かでありながら、非常に野心的で刺激的である。なぜなら、ITだ、デジタル化だ、IoTだと叫ばれるこの時代に、アナログの極致とも言える書物に積極的な意味を見出しているからだ。法条遥の『 リライト 』ではアナログの図書館を指して未来人の保彦は「何という無駄!」と叫んだ。書物に込められた情報だけに着目すれば、蓋し当然の感想であろう。しかし、書物にそれ以上の価値を認めるならば、話は別である。『 アメリカン・アニマルズ 』でも、アメリカ建国時代の書物は、おそらく『 ナショナル・トレジャー 』級のお宝だと見積もられている。何故か。

 

それは、書物が紙とインクという唯物論的存在ではなく、書く者と読む者との間の時間と空間を超えた相互作用として立ち現われてくるからだ。そして、それはニューヨークという街についても当てはまることなのだ。ある分館では、図書がベルトコンベアーで運ばれ、それを図書館員たちが仕分けしていくシーンがあるのだが、その直前に映し出されるのはニューヨークの街の鉄道(『 スパイダーマン2 』でトビー・マグワイアが暴走を止めたものかもしれない)なのである。街を走る鉄道が、図書館内のベルトコンベアーに、街行く人々が、図書館内の書物に例えられているのである。図書館とは、図書を保管し、貸し出すだけの場所ではない。それは人と人との交流の場であり、過去の資産を未来に間違いなく届けるためのタイムカプセルでもあり、なおかつ街、ひいては世界の縮図なのである。

 

我々は図書を物理的な物体として考え、扱うことに余りにも慣れ過ぎている。しかし、それは目が見えるものや手指に不自由を抱えていない者の発想ではないか。ニューヨーク公共図書館が利用者として積極的に含めようとしている障がい者や求職者は、現代日本ではむしろ疎外の対象になっていないか(この点で、れいわ新選組の選挙戦略だけは特筆大書に値する快挙だった)。考えてみれば、図書館とは非常に融通無碍な場所である。我々は中華料理屋やインドカレーショップ、寿司屋といった存在にあまりにも普通に接してきたために、食べ物・・・ではなく事物というものは、そもそも分類されて然るべきものという思考の陥穽にハマりがちである。しかし、巨大な図書館は洋の東西も歴史の古い新しいも清も濁も玉も石も区別しない。究極のダイバーシティがそこに顕在化している。

 

再び翻って日本はどうか。【 戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 】などという、歴史修正主義を通り越して、歴史廃棄主義とでも呼ぶべき暴挙がまかり通っている。公文書改竄に飽き足らず、公文書を廃棄するのがこの国の与党の実態である。まさに焚書である。『 図書館戦争 』的な世界の現出も近いのかと不安になる。次は坑儒か。埋められるのは誰になるのか。

 

Back on track. 本作ではJovianが私淑している梅田望夫の著書『 ウェブ進化論: 本当の大変化はこれから始まる 』の記述を裏付ける描写がある。つまり、ニューヨークに住む人間の1/3は自宅でインターネットにアクセスできないのだ。これは前掲書の「いやあ、アメリカってネット環境は遅れているのに、ネットの中はすごいんですねえ」という、とある日本人の感想と一致する。森内閣がイット革命ならぬIT革命を強烈に推進してくれたおかげで日本のネット接続環境は世界でもトップクラスである。しかし、肝心要のネットの中身はどうか。日本語圏という、ほぼ閉じた空間にしかアクセスできないのではないか。ニューヨーク公共図書館がネットへの接続を推進する背景には、英語でのコミュニケーション可能空間が広がっているいるからということもある。だが、それ以上に、ネット空間が図書館という空間とフラクタル構造を成していることも見逃せない。世界最大級の超巨大図書館があらゆる地域、時代、著者、内容の書物を飲み込んでいくのと同様に、インターネットの世界にもダイバーシティが存在する。そしてそれは、取りも直さずワールド・シティーたるニューヨークが世界の縮図になっていることと相似形を成している。

 

もちろん、森羅万象は美しいものだけで構成されているわけではない。そこには上っ面だけを糊塗した偽物も存在する。そうしたものに激しい批判を加える知識人の姿も本作は活写する。一例を挙げよう。アメリカ史における最大の負の遺産である「奴隷」を、文献によっては「労働移民」と体よく言い換えているのである。これは『 主戦場 』で化けの皮が剥がれた、「慰安婦」を「姓奴隷」と言い換えるロジックと根本的に同じことである。実に鋭い現実批評であり、フレデリック・ワイズマン監督の意識の根底に人権や人道とは何かという問いが常にあることを示している。

 

ネガティブ・サイド

ほとんど批判すべき箇所が見当たらないが3点だけ。

 

1つには、主人公と呼べる人間が見当たらなかったこと。会議のたびにリーダーシップを発揮するオジさんはいたが、それだけで彼に感情移入することは難しかった。

 

2つには、この巨大図書館の深奥に眠っているはずの貴重な書籍、一般人閲覧不可の書籍、まさに『 アメリカン・アニマルズ 』で盗難されたような書籍を見てみたかった。

 

3つには、上映時間の長さである。なんと205分である。これではまるで『 アラビアのロレンス 』だ。他の劇場ではどうったのか分からないが、シネ・リーブル梅田では2時間超ドのあたりで10分休憩が設けられていた。長すぎる作品も考えものである。

 

総評

これは大傑作である。弱点もあるが、それを補って余りある“観る者の想像力と知性を刺激する構成”がある。ニューヨークの図書館という一見するとローカルな施設が、人類にとっての普遍の価値を追求しようとしていることに畏敬の念を打たれない者はいない筈だ。現代日本の抱える問題の解決方法への鮮やかな示唆もある。異色のドキュメンタリーであるが、食わず嫌いはいけない。必見の傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ボール・ホルデングレイバー, 監督:フレデリック・ワイズマン, 配給会社:ミモザフィルムズ, 配給会社:ムヴィオラLeave a Comment on 『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

Posted on 2019年8月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

マーウェン 65点
2019年7月28日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:スティーブ・カレル
監督:ロバート・ゼメキス

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監督はロバート・ゼメキスである。Jovianは『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』シリーズは大好きだが、『 フォレスト・ガンプ 一期一会 』は楽しめなかった。おそらく自分にとって波長の合うゼメキス作品というのは、現実がフィクションに彩られる作品であって、フィクションが現実を彩る作品ではないのだろう。事実、『 リアル・スティール 』はそこそこ面白かったが、『 ザ・ウォーク 』には少々拍子抜けした。本作はどうか。これはフィクションと現実が溶け合う物語である。

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あらすじ

マークの乗る戦闘機はベルギー上空で高射砲に被弾。川に不時着したマークはナチス兵に包囲されるも、友軍の女性らの援護射撃で窮地を脱する・・・という人形劇を、マーク(スティーブ・カレル)は撮影していた。マーウェンと名付けた架空の村、それが彼と女性たちの楽園、そして終わることのないナチス兵との戦いの舞台なのだ。そしてマークは、過去に受けた暴行事件のダメージに今も苦しんでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianはトイ・ストーリーに興味は持ってこなかったが、人形劇にも一定の面白さがあることが分かった。人形とは、端的に言って依り代である。自分でありながらも、自分ではない自分をそこに投影することができる。マーク自身がいみじくも語るが、なぜ第二次大戦を舞台に、人形劇を展開し、それを写真に収めるのか。それはアメリカが善である戦争だったからと言う。つまり、マークは自分自身を善に捉えたいという願望もしくは欲求があるのである。さもなければ、そうすることでしか癒しを得られない事情がある。一見、平和的に見えるマークの暮らしに、彼の抱える暗黒面が垣間見える。彼は悪人ではない。ただ、心に抱えた闇がちょっと人より濃いだけである。彼が食らった暴行事件の大元の原因は実に他愛ないものである・・・と言い切れないのが、本作の評価を一部の批評家の間で難しくしているところだと推測する。マークは、本命女性(の人形)以外には優しく接するものの、本質的に優しくはしていない。一部のシーンで明らかになることだが、彼は身の回りの女性たち(本命除く)を性的な欲望の対象にしない。はっきり言って、これで好感度をアップしてくれる女性は、よほどのウブか、あるいはプロであろう。普通の一般的な女性というのは『 愛がなんだ 』のテルコのように「わたしって、そんなに魅力ないか?」と拗ねてしまうものなのだ。人形ではあるが、胸を丸出しの女性をオブジェのように扱うマークに恐れ慄いた男女は多いのではないだろうか。Jovianは、マークの在り方をそこまで奇異であるとは思わない。彼は、作家の本田透と非常に近い思考の持ち主なのだろう。つまり、一途な純愛を貫こうとするあまりに自分の気持ち悪さに気がつかないのだ。自分の気持ちだけに忠実になって、対象を見ずに暴走する。それは時に若気の無分別などとも言われたりするが、早い話が「恋は盲目」なのだ。いい年こいたオッサンが中学生ぐらいの精神年齢でロマンティックな夢を見る。いくらマークが心に抱える闇があるとはいえ、これを美しいと感じるのはマイノリティで、マジョリティはこれをキモいと感じるだろう。Jovianはもちろんマイノリティだ。

 

『 アリータ バトル・エンジェル 』が切り拓いた、実写とCGのシームレスなつながりを、スケールは全く違うが本作も多用する。というよりも、アリータはいつの間にか実写(そのほとんどは実際はCGのはず)世界に違和感なく溶け込んだが、本作ではいつの間にか我々はマークの妄想世界である人形劇世界、マーウェンに違和感なく溶け込む。ただし、これもかなり人を選ぶ演出だろう。マーウェンはマークにとっての桃源郷であっても、客観的にはそうではないからだ。好意的に見ればマークは芸術家でマーウェンは芸術作品だ。しかし否定的に見れば、マークはキモオタでマーウェンは同人作品だ。このあたりも波長が合うかどうかで見方が綺麗に割れるであろう。Jovianは波長が合った。マークは象牙の塔に住む芸術家である。

 

マーウェンを荒らすナチス兵との終わりなき闘争がマークの心象風景であるというメタ的構造も良い。中盤から終盤にかけて、マークの心的世界が現実世界を侵食することを明示するカメラワークがある。スクリーンそのものに語らせる、映画の基本的な技法にして究極の技法でもある。その上で、誰もが揺りかごの中で一生を全うできる訳ではない。現実世界は時に疲れるし、ロッキー・バルボアに説教されるまでもなく「世界は陽光と虹だけでできているわけでもない」=“The world ain’t all sunshine and rainbows.”それでも、幸せは世界に存在する。メーテルリンクの『 青い鳥 』と同じく、それに気付けるかどうかなのだ。ほろ苦さを漂わせながら、甘酸っぱさを予感させつつ物語は閉じる。なんとも不思議な余韻である。

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ネガティブ・サイド

再度強調するが、本作を堪能できるかどうかは、ゼメキスの世界観と波長が合うかどうかにかかっている。おそらく普通の映画ファンの7割は波長が合わないと思われる。彼ら彼女らはマークに都合の良い妄想全開のマーウェン、そして健気に甲斐甲斐しくマークを見守る人形たちを「非現実的」、「人格者」、「性格良すぎ」と見るであろう。もっとダイレクトに言えば、マーウェン=ハーレムだと捉える向きもいるはずだ。そこでプラトニックに振る舞うマークを心から格好いいと思える人は少数派で間違いない。マークは万人受けしないキャラなのだ。男からも女からも好かれにくいキャラなのだ。最初からマイナーな層しか狙っていないのかもしれないが、それを万人受けする作品に昇華させてこその巨匠だろう。マーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノのように、アクが強くても、メジャーヒットする作品を生み出せる人は生み出せるのだ。

 

スティレット・ヒールは1960年代になって初めて作られた、つまり第二次大戦中には決して存在しないことを明示するシーンがあるが、「マーウェンでは時々不思議なことが起こるのざ」とマークは嘯く。その時のBGMは“Addicted to love”。これは1980年代の楽曲だろう。マーウェンという独特な空間の神秘性を棄損してしまっている演出であるように感じるのはJovianだけだろうか。

 

『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』のパロディをやるなら、徹底的にやってもらいたい。デロリアンは権利関係か何かで使えないのか?それなら、燃えるタイヤ痕もいらない。非常に中途半端な演出であり、シークエンスだった。

 

裁判所のシーンも、保護司や弁護士はマークがああなってしまうことは予見できなかったのだろうか。日本でもレイプ被害者の女性が裁判員裁判で、フード、サングラス、マスク、マフラー、手袋などの完全装備で出廷したという新聞記事を読んだ記憶がある。何がきっかけでPTSDを発症するかは分からないが、それでも避けられる不安や懸念は避けるべきだ。このあたりが事実に基づくのか、事実と相違するのかは調べてみなければ分からない。しかし、マークがマーウェンから卒業するきっかけ作りのための態の良い演出に使われてしまった感は否めない。

 

総評

観る人を選ぶ映画であることはすでに述べた。誰にお勧めしたいかよりも、どんな人にお勧めしないか、それを語ったほうが有益かもしれない。中高大学生ぐらいのカップルのデートムービーには間違いなく不向きである。君達は素直に『 天気の子 』でも観に行きなさい。オッサンからの心からのアドバイスである。大人のお一人様も避けた方が良いだろう。自分を客観視した時に、「何やってんだ、俺は?」と感じることはある程度以上の年齢の人間には避けられない、一種の賢者タイムであるが、それをチケット代を払って大画面に没頭した後に味わいたいという奇特な人は、きっとマイノリティであろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ファンタジー, ロバート・ゼメキス, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

Posted on 2019年8月1日2020年5月23日 by cool-jupiter

アバウト・レイ 16歳の決断 70点
2019年7月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ナオミ・ワッツ スーザン・サランドン
監督:ゲイビー・デラル

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LGBTは、おそらく人類誕生の昔から存在していた。“生産性が低い”とどこかの島国のアホな政治家が主張する彼ら彼女らが、歴史を通じて存在してきたのは何故か。それには諸説ある。日本でも、江戸川乱歩の傑作長編『 孤島の鬼 』などは歴史に敵に新しい方で、安土桃山時代の織田信長や、室町初期の足利義満、またはそれ以上にまで遡る歴史がある。近年、LGBTをテーマにした作品が数多く生産されている。メジャーなものでは『 ボヘミアン・ラプソディ 』、マイナーなものでは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』など。本作は諸事情あって公開が延期されるなどした作品であるが、それもまた時代であり世相であろう。

 

あらすじ

レイ(エル・ファニング)はトランスジェンダー。生物学的には女性だが、精神的には男性、そして肉体的にも男性として生きたいと強く願っている。しかし、未成年のレイがホルモン療法を受けるには、両親の同意が必要。母マギー(ナオミ・ワッツ)は悩んだ末に、レイをサポートすることを決断する。そのために、レイの父、自らの元夫の協力と理解を得ようとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

エル・ファニングが好演している。おそらく、この撮影前であれば、肉体的な成熟具合が不十分であるため、男性的な肉体を欲するようになる動機が弱くなる。これよりも後のタイミングで撮影するとなると、完全に女性になってしまい、中性さが失われる。つまり、決断の遅さが目立ってしまい、観る側の共感を得ることが困難になる。公開が遅れたことは残念であるが。それゆえに『 孤独なふりした世界で 』との距離感、つまり中性性と女性性の差が際立つ。つまり、ベストタイミングでの撮影だったわけである。とても年頃の女の子とは思えない、大股開きでの座り方。男子との取っ組み合いのけんかの後に、気になる女子に「女を殴るなんて、あいつらサイテー」と言われた時の複雑な表情。胸の膨らみをサラシで隠し、ダボダボの服で身体の曲線を目立たなくさせ、生理が止まると医者に説明を受けた時には心底嬉しそうに笑う。エル・ファニングのキャリア屈指のパフォーマンスではないだろうか。But as for her career, the best is yet to come!

 

女三世代で暮らす中には緊張が走る瞬間や女性特有の人間関係、B’zの『 恋心 ~KOI-GOKORO~ 』が言うところの「女の連帯感」を感じさせる場面もある。祖母ちゃんが立派なゲイで、彼女とパートナーの間には、家族といえども入り込めない空気が存在するのである。だが、そこに冷たさはない。自分の信じる道、生きると決めた道を行く姿勢を見せることが、レイの生き方をexemplifyすることになるからだ。三世代それぞれに異なる女性像を描くことで、単なる家族の物語以上の意味が付与されている。

 

それにしてもナオミ・ワッツの脆さと強さ、健気さと不完全さを同居させる演技はどうだ。日本では篠原涼子、アメリカではジュリア・ロバーツらがタフな母親を演じ、好評を博しているが、それもこれもナオミ・ワッツのようなactressがバランスをとってくれているからだろう。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーの一番の肝である、父親からホルモン療法の同意書を得るというミッションをこれ見よがしに引き延ばすのはよろしくない。すれっからしの映画ファンならずとも。この筋道は簡単に読めてしまう。

 

レイが地域や学校で苦悩する姿の描写が足りなかった。例えば、ゲイならばパートナーを見つけることができれば、それが自身の幸福にも相手の幸福にもつながる。しかし、トランスジェンダーというのは、自分自身の身体と精神が折り合えないところに辛さがある。パートナーを見つけることが問題解決になるわけではない。自分が自分を見るように、他人が自分を見れくれない。だからこそ、自分の身体を変えて、新しいコミュニティで新しい生活を始めたいという、レイの切なる気持ちを見る側が素直に共感できるような描写がもっと欲しかったと思う。

 

総評

ライトではなく、しかし、シリアスになりすぎないLGBTの物語、そして家族の別離と再生の物語である。日本で誰かリメイクしてくれないだろうか。こういったストーリーは現代日本にこそ求められているはずだ。その時は行定勲監督で製作してもらいたい。日本映画界でも出来るはずだし、やるべきだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, スーザン・サランドン, ナオミ・ワッツ, ヒューマンドラマ, 監督:ゲイビー・デラル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

Posted on 2019年7月16日 by cool-jupiter

イット・カムズ・アット・ナイト 40点
2019年7月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョエル・エドガートン
監督:トレイ・エドワード・シュルツ

スティーブン・キング原作の『 IT イット 』、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』に代表されるように、Itは元々、正体不明の存在を意味する。身近なところでは、It is a beautiful day today. や It’s really cold in this room.、It’s not that far from here to the station. などのような英文の主語It は、それ単独では意味が決定できない。必ずそれに続く何かがないと、天気なのか、気温なのか、距離なのか、正体は分からない。『 イット・フォローズ 』でもそうだったが、怪異の正体が不明であること、それが恐怖の源泉というわけで、ホラー映画のタイトルに It を持つ作品が多いのは必然なのである。それでは本作はどうか。はっきり言って微妙である。

 

あらすじ

ポール(ジョエル・エドガートン)は、老人を射殺し、遺体を焼いて、埋めた。彼は森の奥深くで家族を守りながら暮らしていたのだ。ガスマスクと手袋、そして銃火器で彼らは“何か”から身を守っていた。そこへウィルという男性が現れる。彼は自分にも家族がいるのだと言い・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からミステリアスな雰囲気が漂う。同時に、観る者に考えるヒントを与えている。ガスマスクや手袋に注目すれば、細菌またはウィルスの空気感染もしくは飛沫感染が疑われる。ならば保菌者は?これは銃が有効な相手。となると小動物や虫ではなく大型の動物。普通に考えれば人間ということになる。そしてそれは十中八九、ゾンビであろう。It comes at nightというタイトルから、太陽光線の下では活動できないゾンビであることが容易に推測される。そうした設定のゾンビは、リチャード・マシスンの小説『 地球最後の男 』から現在に至るまで、数千回は使われてきた。低予算映画とは、つまりアイデア型の映画なわけで、陳腐な設定にどのような新しいアイデアがぶち込まれてきているのかが焦点になる。そうした意味で、本作の導入部はパーフェクトに近い。

 

またジョエル・エドガートンの顔芸も必見である。『 ある少年の告白 』でも、恐ろしいほど支離滅裂ながら、なぜかカリスマ的なリーダーシップを発揮する役を演じていたが、本作でもその存在感は健在。恐怖心と勇気、愛情と非情、相反する二つの心情を同居させながらサバイバルしようとする男が上手く描出できていた。

 

ネガティブ・サイド

意味深な導入部を終えると、ストーリーは一転、停滞する。It comes at night. というタイトルにも関わらず、何もやってこない。いや、色々なものが夜には出現してくる。それは思春期の少年と年上女性とのロマンスの予感であったり、夜な夜な見てしまう悪夢であったり、開けてはいけないとされる扉を開けてしまいたくなる誘惑であったりする。問題は、それらが怖くないこと、これである。恐怖の感情は、恐怖を感じる対象の正体が不明であることから生まれる。しかし、本作のキャラ、なかんずくポールの息子のトラヴィスは、恐怖の感情そのものに恐怖している。つまり、彼の恐怖の感情と見る側のこちらの恐怖の感情がシンクロしにくいのである。彼らは恐怖の対象が何であるのかある程度理解しており、その対策のための防護マスクや手袋を持っている。こちらは、恐怖の正体についてある程度の推測はできているため、いつそれが姿を現すのかを待っている。つまり、恐怖を感じるのではなく、やきもきするのである。じれったく感じるし、イライラとした気持ちにすらさせられるのである。

 

設定がよく似た作品に『 クワイエット・プレイス 』があるが、ホラー作品としてはこちらの方が王道的展開で安心できる。本作は、「(ゴジラより)怖いのは、私たち人間ね」と喝破した『 シン・ゴジラ 』の尾頭ヒロミよろしく、人間関係そのものが恐怖であることを描く、陳腐な作品である。似たようなテーマを持つ作品としては『 孤独なふりした世界で 』の方が優れているし、正体不明の何かが迫ってくる映画としては『 イット・フォローズ 』に軍配が上がる。

 

総評

真夏日に家の外に出たくない。そんな時に気軽に暇つぶしする感覚でしか観られないのではないか。人間関係の微妙な機微の描写や、ポスト・アポカリプティックでディストピアンな世界観の構築をそもそも追求していない作品だからである。ホラーというよりはシチュエーション・スリラーで、そちらのジャンルを好む向きならば鑑賞してもよいかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, シチュエーション・スリラー, ジョエル・エドガートン, ホラー, 監督:トレイ・エドワード・シュルツ, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

『 パピヨン 』 -監獄および脱獄ジャンルの佳作-

Posted on 2019年7月11日2020年4月11日 by cool-jupiter

パピヨン 70点
2019年7月7日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:チャーリー・ハナム ラミ・マレック
監督:マイケル・ノアー

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『 ボヘミアン・ラプソディ 』でオスカーを受賞したラミ・マレックが出演していることで、派手に宣伝されていた。元々は1970年代のスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンの出演作のリメイクということだが、残念ながらオリジナルは未見である。が、名作との誉れ高いので、近いうちに鑑賞してみたい。

 

あらすじ

金庫破りのパピヨン(チャーリー・ハナム)は、属する組織にはめられて、殺人の濡れ義務を着せられる。結果、仏領ギアナの刑務所送りにされる。復讐のために脱獄を決意したパピヨンは、ギアナへの途上で詐欺師にして大金持ちのルイ・ドガ(ラミ・マレック)と出会う。彼を守ることで逃亡資金を確保しようと企むが・・・

 

ポジティブ・サイド

チャーリー・ハナムの肉体変化。デニーロ・アプローチといえばクリスチャン・ベールだが、ハナムも相当の努力をしたことが見て取れる。序盤の筋肉美が中盤以降にどんどんと萎れていくが、そうしたシーンほどスクリーン・タイムは短い。編集の結果なのか、予定通りなのか。『 アベンジャーズ / エンドゲーム 』の雷神ソーのような激太りは肉襦袢で何とでもなるが、痩せたように見せるのは難しい。ならば本当に痩せるしかない。ここにハナムのプロフェッショナリズムを見る。また、『 SANJU サンジュ 』でもランビール・カプールがサンジャイ・ダットの青年期から壮年期、そして老年期を見事に描き出したが、ハナムもかなり良い仕事をしたと評価できる。一瞬でその場の誰が権力者なのか、実力者なのかを見抜く眼力があり、一瞬も油断することなく、また交渉力にも長ける。犯罪者ではあるが、男としての魅力も兼ね備えている。

 

ドガを演じるラミ・マレックも悪くない。非常に弱々しい印象を与え、実際に弱い。だからこそ、庇護の対象となることに違和感が無い。しかし、肉体的に弱くとも、彼は知能犯である。中盤以降では刑務所内である程度自由に動くことができる立場と信用を得ている。具体的には描写されないが、『 ショーシャンクの空に 』のアンディと同じような働きをしたのだろうと推測ができる。

 

この二人が奇妙な紐帯を形成していくのがドラマの肝の部分である。お互いに相手を金づる、用心棒と看做していた関係が、ある時から質的に変化していく。特にパピヨンが独房に送り込まれたところで、ドガから意外な形で差し入れが届くが、その差し入れを受け取ったパピヨンの勇気百倍、元気百倍という演技は観る者すらエンパワーしてくれる。彼は食べ物によってエネルギーを得たわけではない。いや、それもあるが、他人から陥れられたことにショックを受け、また脱獄と復讐を生きる原動力にしていたところで、見返りを求めない友情を育むことができたからである。だからこそ、彼が落ちていく絶望の闇もますますのその濃さを増すのである。各シークエンスごとの明暗のコントラストが非常に鮮やかなのである。

 

オリジナルと比較すれば劣るらしいが、それでもいわれなき抑圧を受ける者が、したたかに雄々しく戦う様には胸を打つ何かがある。鬱屈の多いこの現代社会への一服の清涼剤にはなっているのではないか。

 

ネガティブ・サイド

色鮮やかなショットの数々だけではなく、傷や血、埃、汚泥などを見せつける一方で、ショットの構図そのものはどこかで見たようなものが多かった。格子を挟んでのキスや、ペラペラ喋るだけ喋った男がお役御免とばかりに死んでいくのは百万回観た。例えそうしたシークエンスが不可欠だったとしても、我々は古い革袋に新しい酒が入っていることを期待するのである。

 

また最後の最後にパピヨンとドガが送り込まれる Devil’s Islandから、「悪魔の島」感がなかったのが残念であった。確かに生気の無い人間が、ただただ食べ物に群がる様というのは漫画および映画の『 ドラゴンヘッド 』、ボルヘスの小説『 不死の人 』のイメージを想起させる。しかし、肝心のドガが最初から結構いきいきとしているのには違和感があった。自我を喪失させるほどに消耗しているところを、パピヨンと再会して、徐々に正気と気力、体力を取り戻していくという流れでないと、悪魔の島の環境の劣悪さや抑圧感、閉塞感が感じ取れない。おそらくこのあたりがオリジナルとの差なのであろう。

 

パピヨンが最後に言う「妻」とは誰なのか。このあたりもエンディングまたはポストクレジットのシーンで明らかにしてほしかった。

 

総評

『 モンテ・クリスト伯 』、『 キングコング 』、『 ブラッド・スローン 』、『 ショーシャンクの空に 』、『 白鯨との闘い 』、『 キャスト・アウェイ 』などの要素や構図がずいぶんと見え隠れする。それを好意的に受け取るか、否定的に受け取るかは個人の判断に委ねられるべきだろう。Jovianは映画的な演出の面に弱点を見出しつつも、本作が持つ現代的なメッセージは肯定的に捉えたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, セルビア, チャーリー・ハナム, マルタ, モンテネグロ, ラミ・マレック, 監督:マイケル・ノアー, 配給会社:トランスフォーマーLeave a Comment on 『 パピヨン 』 -監獄および脱獄ジャンルの佳作-

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