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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:キノフィルムズ

『 エンテベ空港の7日間 』 -古い革袋にビミョーに新しい酒-

Posted on 2019年10月18日2020年4月11日 by cool-jupiter

エンテベ空港の7日間 55点
2019年10月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダニエル・ブリュール ロザムンド・パイク
監督:ジョゼ・パジーリャ

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嫁さんの希望で台風明けに本作を鑑賞。我が家はたいていの場合、婦唱夫随なのである。Jovianもトレイラーなどから少し興味を持っていた。だが、『 アルゴ 』のような水準を期待してはいなかった。結果的に、それで正解であった。

 

あらすじ

 

1976年。ボーゼ(ダニエル・ブリュール)とクールマン(ロザムンド・パイク)はエールフランス機をハイジャックし、ウガンダのエンテベ空港に飛行機を降ろす。彼らの狙いは獄中のパレスチナ解放闘士の解放。イスラエルのラビン首相と国防相のペレスは態度を保留しつつ、交渉と軍事作戦の両方を立案して・・・

 

ポジティブ・サイド 

ハイジャック、というよりもテロリストという呼称の方がふさわしいか。我々はテロリストという人種には血も涙もないと考えがちである。事実、『 ホテル・ムンバイ 』が描き出すテロリストたちには血も涙もなかった、中盤までは。実際に彼ら彼女らも生きた人間であり、人間であるからには親から生まれ、生まれたからには最初の数年から十数年は誰かに育てられたはずなのだ。そこで洗脳されてしまえば終わりであるが、人と触れ合わずに生きることは不可能である。テロリストにも人間らしさがあるという視点は、当たり前ではあるが新鮮でもあった。本作は、そのテロリストを主人公に据える。『 シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 』や『 ユダヤ人を救った動物園 〜アントニーナが愛した命〜 』などの作品と同様に、ダニエル・ブリュールは善悪の境界線上を行くようなキャラクターを演じさせれば、非常に良い仕事をする。ロザムンド・パイクも『 プライベート・ウォー 』とは全く逆のキャラクターを見せかけて、本質的には同じような人間を演じている。すなわち、自分の生命よりも自分の信念に忠実なタイプの人間だ。そうであっても、例えばパイクのキャラクターも飛行機の乗客から、「シャツのボタンが一つ外れている」と指摘され、思わず女性性を発露させてしまうところや、ブリュールのキャラにしても、妊娠していると言う女性を解放したりと、人間性が感じられた。

 

特に、ブリュールのキャラに関しては、エンテベに向かう前の給油地での機関士との会話、そしてエンテベに着いて以降の機関士との会話で、自分自身の正義の定義が揺らいでいるように感じた。というよりも、元々、善悪の狭間にいるのではなく、自らの信念と思考の中間点に囚われやすい人物なのかもしれない。自分はドイツ人だが、ナチではないという主張もこのことを裏付けているように思う。本人に取材できたはずはないので、このあたりがジョゼ・パジーリャ監督の構想及び解釈なのだろう。

 

テロリスト同士の対話、テロリストと人質の対話でストーリーが進行していく中、イスラエルのラビン首相とペレス国防相の駆け引きも大いなるスリルとサスペンスを生んでいる。事態の解決に向けてのアプローチがそのまま彼らの水面下での駆け引き、権力闘争になっているところが興味深い。またラビン首相の指摘、すなわち「パレスチナは敵だが、隣国でもある。彼らから離れることはできない。いつか話し合いで和平をもたらす必要がある」という言葉がそれだ。アメリカには厄介な隣国として、例えば『 ボーダーライン 』で描かれるようなメキシコがあり、インドには『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』で描かれたようなパキスタンという隣国がある。日本には北朝鮮および韓国という、なかなか手強い隣国があるが、れいわ新選組の山本太郎も「国の位置は動かせない」と冷静に指摘している。本作はアクションの少ない対話劇である。大人の対話をじっくりと鑑賞しようではないか。

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ネガティブ・サイド

対話劇であることは良いが、最後の最後に見せ場であるはずのオペレーション・サンダーボルトが、本当にサンダーボルトの如く、一瞬で終わってしまう。せっかく劇場の大画面と大音響で映画を鑑賞するのだから、もう少し見せ場を作って欲しかった。

 

オープニングから随所に挿入されるダンスも蛇足である。バタンと倒れ続ける1人は、例え一部に脱落者がいたとしても、「”The Show Must Go On” ですよ」と言いたいのだと思うが、それならエンディングのクレジットシーンに舞台ダンスシーンの全てを持って来ても良かった。ダンスシーンが各所に入れられることで、ただでさえ歩みの遅い物語のペースが更に悪くなっていたように感じた。

 

配球会社や広報会社は盛んに「4度目には訳がある!」と、古い革袋に新しい酒が入っているかのように喧伝していたが、テロリストの苦悩や葛藤、その悲劇性ならば前述した『 ホテル・ムンバイ 』の方が遥かに生々しかったし、思考と信念の違いに思い至り愕然とする人物の描写ならば『 判決、ふたつの希望 』が先んじているし、完成度でも優っている。

 

総評

イスラエルとパレスチナの問題は、もう百年以上続いている。何がどうしてこうなったのかは一言で説明できないが、欧米列強、就中、イギリスが元凶であることは間違いない。しかし、そうしたことはおくびにも出さず、テロリストの葛藤に焦点を当てた対話劇を作り上げたのだと思えば、パジーリャ監督への評価も上がることはないが、下がることもない。政治的ドラマではなくヒューマンドラマを観るつもりでチケットを買われたし。

 

Jovian先生のワンポイント独語会話レッスン

Scheiße!

 

劇中でロザムンドが吐き捨てるドイツ語の卑罵語である「シャイセ!」と発音しよう。英語では“Shit!”となる。排泄物を指して苛立ちを表現するのは、どこの国でも変わらない。Jovianの大学の先輩にドイツ留学者がいたが、彼も常に「シャイセ!」と吐き捨てていた。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, イギリス, サスペンス, ダニエル・ブリュール, ロザムンド・パイク, 監督:ジョゼ・パジーリャ, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 エンテベ空港の7日間 』 -古い革袋にビミョーに新しい酒-

『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

Posted on 2019年9月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

ガーンジー島の読書会の秘密 70点
2019年9月1日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:リリー・ジェームズ
監督:マイク・ニューウェル

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Jovianはアンニャ・テイラー=ジョイ、ヘイリー・スタインフェルド、そしてリリー・ジェームズ推しである。『 シンデレラ 』以来、彼女の虜なのである。どれくらいファンなのかというと、彼女が脱いでいる『 偽りの忠誠 ナチスが愛した女 』は観ないと決めているほどである。なので、どうしても点数が甘くなるのである。

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あらすじ

 

作家のジュリエット(リリー・ジェームズ)は、偶然からガーンジー島の住民と文通を始める。そして、ナチス占領下で始まったガーンジー島の読書会に惹かれ、ついに島を訪れる。しかし、そこには会の創始者であるエリザベスの姿がなかった。ジュリエットは島民たちとの交流を通じて、真相を追うが・・・

 

ポジティブ・サイド

ナチス・ドイツに占領されていた島の住民が抱える秘密となれば、その中の一人あるいは相当数がダブル・エージェントだったと考えるのが自然だろう。冷戦時代をフィーシャーしたスパイ小説や現代のスパイ映画に余りにたくさん接してしまうと、戦時の秘密=裏切りという思考の陥穽にはまってしまう。本作はそのようなclichéにはあらず。また、島民たちの人間関係にもダークな面はあるものの、横溝正史が描いたりするような日本の閉鎖的な田舎のそれではないので、安心してほしい。

 

リリー・ジェームズは本作でも可憐である。しかし、単なる可憐な花ではない。彼女は文通から始まったガーンジー島の住民との交流と、島への訪問、そして読書会への参加に大いなる喜びを感じながらも、その喜びがロンドンで得られるそれはとは異なる類のものであることにも気づいてしまう。これは、ジュリエットが与えられる幸せではなく、自らが幸せを掴み取りにいく物語なのである。女性に対しては自立を促すメッセージ性を有しており、男性に対しては自身を持つように促すメッセージ性を有している。

 

『 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』と同じく、リリー・ジェームズがタイプライターをカタカタと叩き、『 マイ・ブックショップ 』的な雰囲気がほんのり漂うガーンジー島の物語は、戦争後に個人が依って立つべき生きる基準のようなものが示してくれる。

 

ネガティブ・サイド

ガーンジー島の読書会の面々は、少し口が軽すぎる。スリルやサスペンスが今一つ盛り上がらない。なぜエリザベスの姿が見えないのか。彼女が消えた理由は何か、どこへ行ったのか。それらが解き明かされる際のカタルシスが弱い。というのも、それがある意味でデウス・エクス・マキナ的にもたらされるからである。

 

またジュリエット自身が少々無節操に見えてしまうのも弱点である。アメリカ人の婚約者とガーンジー島の読書会のメンバーの間で揺れ動くのは、clichéと言えばclichéであるが、許容可能な定番設定である。しかし、編集者の男性にまで思わせぶりな態度を取る必要はない。というよりも、このキャラは普通に女性で良かったのではないか。何でもかんでも現代的にアレンジすれば良いというわけではない。

 

島の人間関係に、あまりにも戦争が影を落とし過ぎているのも、ちと気になった。日本ほどではないだろうが、英国も多様な文化を誇る島国。それはつまり、多種多様な人間関係の模様があるということである。それが、あまりにも戦争一色に塗り変えられたように感じられた。島民たちの間にはもっと清々しく、もっとドロドロした人間模様が戦争前からあったはずだ。それが感じ取れなかった。そういうものを消し去ってしまうのが戦争だと言ってしまえばそれまでかもしれないが。

 

総評

ヒューマンドラマの佳作である。ミステリ要素もサスペンス要素もそれほど強くないが、島民たちが触れようとしない真実の物語が、主人公の成長の軌跡と不思議なシンクロをしているところが印象的である。ぜひ劇場にどうぞ。一人でも多くの方に、リリー・ジェームズのファンになってもらいたいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Off you go.

 

『 デッドプール 』でもエド・スクラインが使用していた台詞である。「もう行ってくれ」、「出て行け」、「さあ、行った行った」のようなニュアンスで捉えればよいだろう。

 

I am all ears.

『 GODZILLA ゴジラ 』でデヴィッド・ストラザーンが渡辺謙に言う台詞でもある。「聞こう」、「ぜひ聞きたい」、「あなたの話をしっかりと聞くつもりだ」というニュアンスと思えばよい。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, フランス, ラブロマンス, リリー・ジェームズ, 監督:マイク・ニューウェル, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

Posted on 2019年9月2日 by cool-jupiter

500ページの夢の束 65点
2019年8月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング トニ・コレット
監督:ベン・リューイン

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原題は“Please Stand By”、「スタンバイ願います」の意である。テレビおよび映画のスター・トレックでしばしば使われる表現である。Jovianの父およびJovianの同僚のイングランド人はコテコテのトレッキーであるが、JovianはStar Warsおfanboyである。そしてエル・ファニングのファンでもある。ならば、その姉のファンになっても良いではないか。

 

あらすじ

ウェンディ(ダコタ・ファニング)は自閉症の女子。周囲の人間や家族とすらも、時にコミュニケーションが難しくなるが、スター・トレックのハードコアなファンで、その知識の量と正確さは他のナード連中を圧倒する。ある時、パラマウント・ピクチャーズがスター・トレックの脚本コンテストを開催していると知り、自分でも応募を試みるが・・・

 

ポジティブ・サイド

自閉症の方が知り合いや身内におられるだろうか。Jovianのいとこに一人いる。とにかく数学の才能に優れ、楽器をすぐにマスターし、一度のめり込んだら何時間でも絵を描き続ける。しかし、正月やお盆に親戚が一堂に会してご飯を食べたり、結婚式や葬式の食事などでも他人を待つ、皆と同じタイミングで食べ始めるということができない。また話しがかみ合わない。というよりも、言葉の裏の意味が読み取れない。そんな自閉症の症状をダコタ・ファニングは見事に描き切った。

 

トニ・コレットも毎度のことながら良い仕事をしている。『 シックス・センス 』から『 ヘレディタリー/継承 』に至るまで、苦悩する母親といえばトニ・コレットなのである。いや、実際は姉ソーシャルワーカーにしてカウンセラーなのだが、精神的な意味での母親だと呼んで差し支えないだろう。『 セッションズ 』でもそうだったが、ベン・リューイン監督は社会からcast outされがちな人々に光を当てることに長けている。人間がサルからヒトになったと判断できる基準は様々にあるだろうが、セックスが子作りではなく愛情表現、さらに濃密なコミュニケーションになっているかどうかであると思う。『 セッションズ 』からはそれを学んだ。愛情があるからセックスするのではなく、セックスから生まれる愛情もある。陳腐ではあるが、障がい者を通じてこそ見えてくるものもある。

 

Back on track. スター・トレックは『 スター・ウォーズ 』と並んでクレイジーなファンが多いことで知られている。そのクレイジネスを活かした脚本がここに出来上がった。人は愛するものと一体化したいという欲望を持つ。スター・トレックの製作者たちはそのことをよく知っている。実際には彼ら彼女らは脚本の一般公募をしているからだ。だからこそ、本作にはリアリティがある。『 ファンボーイズ 』は死ぬ前にスター・ウォーズの新作を観たいという欲望、いや本能を満たすためのストーリーで、言ってみれば自慰行為だ。しかし、本作は愛情表現。そこが違う。500ページの夢の束は、500ページのラブレターなのである。

 

ウェンディの旅路を是非とも見届けて欲しい。

 

ネガティブ・サイド

ウェンディが「渡ってはいけない」とされていた道路を、割とあっさりと渡ってしまうシーンには少し萎えた。ルーティンに従うことで心の安定を保てる自閉症者が、いくら大好きなスター・トレックのためとはいえ、そこまで簡単に自分のルールを変えられるだろうか。このあたりにもう少し逡巡する描写が欲しかった。

 

ウェンディにクイズで挑んでいた連中は、何だったのか。ただの引き立て役か。こういう奴らこそがウェンディの旅の役に立たなくてどうする?またはウェンディ捜索に人肌脱がなくてどうする?はたから見れば変人のウェンディにも、家族やチワワ以外の誰かがいるのだということを見せて欲しかった。自閉症者はコミュニケーション能力に欠けていても、その他の能力が一般人のそれを凌駕していることが多い。そのことが他人を遠ざける原因になることもあるし、逆に他人を引きつける要因になることもありうる。実際にバイト仲間のトニー・レヴォロリはウェンディにロマンティックな意味での好意を抱いている。そうでなくとも、趣味嗜好を同じくする者同士の連帯感を描いてくれても良かったのではなかろうか。ローン・ガンメンみたいな奴らとして、彼らが登場してくれるのを期待していたのだ。

 

総評

静かな、しかし確実に長く残る余韻をもたらす映画である。トレッキーではなくても楽しめるし、逆にスター・トレックの知識が無いほうが、純粋に物語を鑑賞できるかもしれない。自分ではよく分からないけれど、他人が夢中になっているものに、人は興味を抱くものだから。ウェンディという一人の少女の旅立ちの先に、「未知との遭遇」が待っているかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Do you know who I am?

「私が誰だか知っていますか?」の意である。つまり、端的に言って名前を知っているか?と尋ねているわけである。英語学習の中級者ぐらいでも、“Do you know me?”と言ってしまう人がたくさんいるが、これは「私がどんな人間か分かってくれてるよね?」、「俺ってやつのこと、ちゃんと理解してくれてるだろ?」のような意味である。“Listen to me.”が「私を聞け」ではなく「私の言うことを聞いて」という意味だということの類推で理解しよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ダコタ・ファニング, トニ・コレット, ヒューマンドラマ, 監督:ベン・リューイン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

『 存在のない子供たち 』 -大人たる者、傍観者になることなかれ-

Posted on 2019年8月16日2020年4月11日 by cool-jupiter

存在のない子供たち 90点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ゼイン・アル・ラフィーア
監督:ナディーン・ラバキー

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レバノン『 判決、ふたつの希望 』は紛れもない大傑作であった。事実、Jovianは2018年の最優秀外国映画に選ばせてもらった。では、同じくレバノン発の本作はどうか。こちらも年間最優秀映画級の超良作であった。

あらすじ

ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は身分証明のない推定12歳の男の子。当然、学校に行くこともできず、スラムで日銭を稼がされる日々を送っている。ある日、まだ年端もいかない妹が結婚させられてしまう。それに反発したゼインは街を飛び出し、ふとしたことから知り合ったエチオピア移民の女性ラヒルとその乳飲み児ヨナスと共に暮らすことになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、本作を観ている2時間超の時間のほとんど全てがリアルなドキュメンタリーに感じられた。いや、ドキュメンタリー映画でもスクリーンの外側には、音響や照明、カメラ・オペレーター、監督その他が存在する。本作は、まさにレバノンのスラム街をリアルに切り取ったドキュメンタリーにしか見えなかった。ゼインというキャラクターが本当に存在し、脚本通りの演技をしているのではなく、彼自身の日常を表現しているようにしか思えなかったのだ。不自然な、つまり演出上の光や音響を極力排し、レバノンという国の暗部を隠すことなく映し出しているのである。

 

原題はCapharnaum、英語ではChaosの意、日本語ならば“混沌”とでも訳せようか。随所にスラムを俯瞰するショットを挟み、いかにスラム街が入り組んでおり、混沌とした空間であるのかを観る者に想起させる。本作が世に問うテーマは至ってシンプルである。子供を不当に苦しめるなということである。我々は自分で選択してこの世に生まれてきたわけではない。知らないうちに世界に投げ出されている。近代ドイツ哲学者のハイデガーの言葉を借りれば、「被投性」である。ゼインは知らぬ間にレバノンのスラム街に生まれ、知らぬ間に労働に従事させられている。ゼインはそこで必死に生きている。彼は自分自身を常に「投企」している。彼は12歳とは思えない度胸と知恵、行動力を持っている。しかし、悲しいかな、身体も頭脳も子どもであり、致命的なことに身分証明を持っていない。この物語はゼインの存在証明を求める闘争でもある。

 

物語前半のゼインは、自らが生き抜くために奮闘する。だが、物語後半でラヒルが不法移民として拘束されてしまうと、物語は一転、『 火垂るの墓 』となる。つまり、子どもが子どもを育てようとする物語に変貌する。かの作品のキャッチコピーは「4歳と14歳で生きようと思った。」であった。だが、ゼインは推定12歳、ヨナスは推定12~13カ月の乳幼児。これでどうやって生きて行けと言うのか。ゼインがあらゆる手段でヨナスを世話し、食べさせていこうとすることに胸が潰れた。息を飲まずにはいられなかった。物語冒頭で初潮を迎えた妹に、それを隠すようにてきぱきと指示を出すゼインは、生活力という言葉だけでは説明がつかないほどのサバイバル能力を有している。そして、密造酒ならぬ密造ドラッグでカネを稼ぐ様には、喝采さえ送ってやりたくなってしまう。『 火垂るの墓 』の清太は火事場泥棒を働いたが、生活力に関してはゼインの方が一枚上手と認めざるを得ない。

 

子どもが生きていく。子どもが子どもの世話をする。子どもに関わらず結婚させられ、適齢期でもないのに妊娠させられる。そうした現実が存在することの重さに、無力感を覚える。しかし、無力感を覚えてはならないのだ。我々にできること、すべきこと、してはならないことが諸々あるのだ。物語は最後に大きなどんでん返しを用意する。ゼインのマグショットを撮影するシーンと思わせて、それは身分証明書用の写真を撮影するシーンなのだ。この時にゼインが初めて見せる子どもらしい表情、すなわち曇りのない笑顔に、心臓を握りつぶされるほどのショックを受けた。大人が大人であることの証明、それは「子どもが屈託のない笑顔を見せることができる」、そんな世界を用意することだ。傍観者になっていて、どうするのだ。それがJovianがラバキー監督から得たメッセージである。ジアド・ドゥエイリ監督といい、ラバキー監督といい、何という作り手であることか。

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ネガティブ・サイド

人身売買男アスプロはお縄を頂戴しないのか。法廷で自らの罪状を告白し、刑に服さないのか。ゼインの両親やアサードだけではなく、この男もしょっぴかなければこの物語は閉じないと思われる。

 

両親が検事に言い返すシーンも不要だったのではないか。新しい子どもに何らかの希望を託したいという、その一瞬の想いまで否定するには、ゼインの両親の叫びは悲痛に過ぎた。『 焼肉ドラゴン 』にもあったシーンだが、子どもを授かった瞬間の気持ちまで否定するのは、観る側の精神に相当以上のダメージを与える。子どもの名前を否定するぐらいで良かったと個人的には思う。

 

総評

これは年間ベスト作品である。ベスト級ではなくベストである。まだ2019年は4ヶ月半を残しているが、それでもそのように断言させていただく。レバノンに手を差し伸べなくてはならないわけではない。しかし、保育園や幼稚園がうるさい。公園で遊ぶ子どもが邪魔だ。そんな気持ちを抱いてしまった時に、まず“子供たちの存在”に思いを馳せようではないか。大人にとって子供たちの笑顔以上に優先されるべきものなどないのだから。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, S Rank, サスペンス, ゼイン・アル・ラフィーア, ヒューマンドラマ, レバノン, 監督:ナディーン・ラバキー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 存在のない子供たち 』 -大人たる者、傍観者になることなかれ-

『 空母いぶき 』 -素材は一流、演技は二流、演出・構成は三流-

Posted on 2019年5月26日2020年2月8日 by cool-jupiter

空母いぶき 50点
2019年5月25日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:西島秀俊 佐々木蔵之介 佐藤浩市 
監督:若松節朗

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どこかのアホなハゲチャビン放送作家がいちゃもんをつけていたので、どれほどのものかと思い、鑑賞。観る前から酷評していたコピペ作家とは違い、Jovianは劇場に赴き、この目で観た。感想は、素材は一流、演技は二流、演出・構成は三流であった。

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あらすじ

世界の警察を自任する国がその座から降りたことで、各国にはナショナリズムが再燃しつつあった。その中でも小国家連合「東亜連邦」は、日本近海で緊張感を高め、軍事衝突の危機が高まりつつあった・・・

 

ポジティブ・サイド

佐々木蔵之介のキャリアで、これは最高の演技であろう。少々近視眼的な思考の持ち主であるものの、職務に忠実、使命を必達しようとする強い意志を持ち、何より有能にして、平和を真に希求する軍人にして船乗りである。自衛隊もしくは大日本帝国海軍にモデルとなる人物がいる/いたのだろうか。

 

空母いぶきを含む連隊全艦に、政治と軍事の狭間でぎりぎりの行動、つまり専守防衛を逸脱しない範囲で軍事力の行使をしなければならないという緊張感が全編に漂っている、いや漲っている。それは特に艦長の秋津竜太(西島秀俊)と副長の新波歳也(佐々木蔵之介)の関係が、日本という国の持つ矛盾(と言っていいだろう)をそのまま体現しているからだ。軍事力を有するということは、それを行使するかしないかの問題ではない。いつ、どこで、どのようにそれを行使するかが問題になる。なぜなら、現代の兵器はあまりにも進み過ぎてしまって、一発の破壊力が大きいからである。あるいは、日本の場合なら、ミサイルや爆弾の一発、敵機一機、敵船一隻、極端な話、敵兵一名に防衛線を破られただけで、ある意味負けだからである。守りに徹するというのは、甘んじて先制攻撃を受けるということであり、核兵器を持つような狂った相手が敵になるなら、その時点ですでに敗れているとさえ言える。それでも日本が核武装を選ぶことなく、そして今後もそうすることを選ばないだろうということを、本作は強く語りかける。

 

本作で最も光ったのは「忖度」シーン。Jovianの義父は元警察官であるが、どうしても同期と出世に差がつくことは有りうる。片や巡査長、片や警察署署長。同期であっても敬語で話す。しかし、二人きり、あるいはプライベートの付き合いであれば、警察学校時代の関係に戻れる。そうしたフラットな関係が根底にあるから、上司となった同期にも忖度ができる。周囲に対して、上下関係を示すことができる。そうしたことを切々と教えてもらったことがある。秋津と新波の対話は、ドラマのひとつのピークであった。

 

ネガティブ・サイド

コンビニのシーンは不要である。これは全てノイズである。中井貴一は素晴らしい役者だが、何の存在感も感じられなかった。本田翼もいらない。あんなジャーナリストはいらない。100社中でたった2社だけが建造間もない航空母艦の取材乗船を許可されたというのに、もっと張り切れと言いたい。冒頭で東アジアで軍事的緊張が高まっているとご丁寧にもアナウンスしてくれているのに、リポーターがこの調子では・・・ 中井貴一らは平和ボケ日本の象徴と言えないこともないが、マスコミまでもがこの調子では日本の未来は本当に暗いと言わざるを得ない。これらのシーンを全て削れば、2時間以内に収まったのではないか。

 

海上自衛隊も何をしているのか。マスコミの持ち物検査ぐらいしろ。何故に民間人が作戦行動中の船内を自由に行き来できるというのか。それを許可させるなら、広報担当官を貼りつけさせるか、もしくは護衛を口実に同室内にいてその挙動には常に目を光らせるべきだろう。戦闘において最も危険なのは、強大な敵ではなく足を引っ張る味方だからだ。結果的にグッジョブを成し遂げたとはいえ、それは偶然の産物に過ぎない。

 

キャラクターには臨場感、緊張感、緊迫感があるが、肝心かなめのストーリー展開にそれがない。何故に東亜連邦軍は、最もやってはいけない戦力の逐次投入をしてくるのか。いぶき艦隊に「どうぞ各個撃破してください」と言っているようにしか思えなかった。せっかく初撃でいぶきに打撃を与えたのだから、そのダメージの程度を探ろうとしないのは何故か。観る側としては、艦載機を飛ばせない空母に襲いかかる敵航空編隊というのをどうしても期待する。当たり前田の広島クリシェだが、それが最もサスペンスフルな展開だからだ。であるにもかかわらず、艦載機用のエレベーターの修理が完了した、ちょうどそのタイミングで敵機襲来というのは、あまりにもご都合主義が過ぎる展開だろう。これでハラハラドキドキしてください、と観客に伝えるのは無理だ。

 

佐藤浩市演じる垂水総理の優柔不断っぷりから歴史的決断に至る過程、周囲からの過剰とも思える圧力も、残念ながら既に『 シン・ゴジラ 』が描き出してくれていた。二番煎じであるし、何よりもポリティカル・サスペンスとして弱いと言わざるを得ない。

 

本作全体を通じての最大の弱点は、間延びした台詞の数々である。それこそ『 シン・ゴジラ 』の二番煎じとなってしまうが、全員が1.3倍速ぐらいで喋れたはずだ。トレイラーにあるのでネタばれにはあたらないが、玉木宏の「総員、衝撃に備えい!」がその最も悪い例であろう。記憶が鮮明ではないが、「アルバトロス隊、会敵まで○秒」や「敵魚雷、着弾まで○秒」というカウントにまったく緊張感がない。絶叫しろと言っているわけではない。張りつめた声を出してほしいと言っているのだ。戦闘シーンも前半はBGM無し、後半はありと方針がはっきりしない。とにかくキャラの台詞が間延びしていて気持ち悪い。特に気持ちが悪いのは高嶋政宏である。スーパーX3に搭乗してデストロイアに向かっていった孤高の軍人はどこに行った?この男だけは張りつめた声で軟弱な台詞を吐くという離れ業を見せてくれた。ギャグにすらなっていない、ひどいキャラクターである。

 

その他、対艦ミサイルを食らい、間近で僚艦が爆発炎上したにも関わらず、戦闘翌日の朝日を一身に浴びる空母いぶきのなんと美しいことよ。艦隊にいささかの煤けもなく、甲板に金属片や微細なひびなども見当たらない。戦闘そのものが乗員全員の白昼夢だったとでも言うのか。若松監督はこの絵で何を伝えたかったのというのか。一介の映画ファンには知る由もない。

 

総評

自衛隊の協力が得られていないところから色々と察することができる。原作未読者の感想であるが、キャラクターはいずれも立っている。しかし、一部の大根役者の演技がその他大勢の役者の足を引っ張っている。また、演出にリアリティが圧倒的に足りない。大人の鑑賞に耐える作品に仕上がっていない。かといって子どもに見せるような作りにもなっていない。残念ながら、興行的にも振るわないだろうし、批評家や一般ファンからの評価も芳しいものとはならないだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アクション, サスペンス, 佐々木蔵之介, 佐藤浩市, 日本, 監督:若松節朗, 西島秀俊, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 空母いぶき 』 -素材は一流、演技は二流、演出・構成は三流-

『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』 -古典的SFコミックの映画化成功作品-

Posted on 2019年5月9日 by cool-jupiter

ヴァレリアン 千の惑星の救世主 65点
2019年5月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:デイン・デハーン カーラ・デルビーニュ
監督:リュック・ベッソン

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MOVIXあまがさきで公開二週目の木曜日のモーニングショーで観た記憶がある。近所のTSUTAYAで何故か目に入ったので、良い機会なのでI will give it a watch again. SFの面白さが充分に詰まった逸品に仕上がっている。

 

あらすじ

28世紀。腕っこきのエージェントであるヴァレリアン(デイン・デハーン)とローレリーヌ(カーラ・デルビーニュ)は、千の種族が生きるアルファ宇宙ステーション(「千の惑星の都市」)の中心部に広がりつつある放射能汚染エリアの調査に乗り出す・しかし、それは巨大な陰謀の一部で・・・

 

ポジティブ・サイド

デヴィッド・ボウイの“Space Oddity”と共に流れる一連の映像だけで、人類と異星生命とのFirst Contact・・・のみならず、Second、Third、Fourth・・・とテンポよく伝えてくれる。何度でも言うが、ビジュアル・ストーリーテリングは映画の基本なのである。

 

ヴァレリアンとローレリーヌの関係性の描写も簡潔に、しかし丁寧に行われる。長い廊下を歩きながらの口論にも近い対話で、観る側は二人の微妙な距離と互いへの熱量の違いを明確に知ることができる。原作コミックのテンポがきっと元々小気味良いのであろう

 

『 アバター 』にも影響を及ぼしたであろう惑星ミュールのパール人も魅力的に描かれているし、何よりその生きざまが良い。小川一水の小説『 老ヴォールの惑星 』の生命体のような、とある特性を持っていて、小川も案外原作コミックから着想を得たのかもしれないと思わされた。

 

個人的にはネザを演じたクリス・ウーが気に入った。というかこの男、有能すぎる。組織の上位にある者には腹心、耳目、爪牙が必要であるとされるが、ネザは全てを兼ね備えた有能な軍人ではあるまいか。異星生命と当たり前のように交歓交流する宇宙では、人種の違いなど何のその。彼のような男と共に戦ってみたいものだ。He is definitely the kind of guy I want to go to war with!

 

本作はある意味では陳腐なクリシェの塊とも言えるが、それだけ原作コミックが時代を先取りしていた、あるいは当時の少年少女をインスパイアしたと言えるだろう。本作のクライマックスで語られる「愛とは何か」というローレリーヌの言葉には、『 インターステラー 』のアメリア(アン・ハサウェイ)との共通点が非常に多かった。ということは、クリストファー・ノーランもある意味では本作の影響を受けたと言えるのかもしれない。デイン・デハーンのキャラクターは、それこそ100年間から存在していたのだろうけれども、ね。

 

ネガティブ・サイド

情報屋トリオが言う「情報は3分割している」というのがピンと来ない。誰かから情報を1/3ずつ買うと言うのか。もしくは超絶記憶術と忘却術をマスターしていて、それで情報を分割して記憶しているとでも言うのか。このトリオは非常に味のあるキャラクターたちだが、不可解さも残した。

 

ややネタばれになるが、黒幕もしくは悪役はBritish Englishを話すというクリシェはいつになったら廃れるのか。それとも容易に廃れないからこそクリシェなのか。本作も開始早々から「こいつが陰謀の中心かな?」という人物が2人ほど目に付くが、一人はパッと見で除外、もう一人はパッと聞いた感じで怪しい、と感じてしまう。このあたりが課題なのだろう。

 

総評

リュック・ベッソンが作りたいように作るとこうなる、という見本のような作品である。頭をからっぽにして楽しむこともできるし、作中に登場する数々のガジェットやクリーチャー、あるいはシーンの構図などを分析して、先行作品や後発作品をあれこれと思い浮かべるのも楽しいだろう。ただし、SFの全盛期は1960年代の小説だった、というハードコアなSF原理ファンとも言うべき向きに勧められる作品にはなっていない。

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, カーラ・デルビーニュ, デイン・デハーン, フランス, 監督:リュック・ベッソン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』 -古典的SFコミックの映画化成功作品-

『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』 -テーマにもっとフォーカスすべし-

Posted on 2019年3月7日2020年1月10日 by cool-jupiter

サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 55点
2019年3月3日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ルカ・カイン
監督:デイモン・カーダシス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190307225442j:plain

原題は“Saturday Church”である。どう考えてもこの邦題は『 サタデー・ナイト・フィーバー 』を意識している。そうに違いない。それではあまりにセンスが無さ過ぎる。それとも、そうした中年以上の世代を映画館に呼び込み、無意識の差別意識を炙り出そうという試みなのだろうか。

 

あらすじ

父が死に、ニューヨークのブロンクスで母と弟と暮らすユリシーズ(ルカ・カイン)。彼は体は男であったが、心は女だった。そんな彼は学校ではいじめに遭い、家では無理解に苦しんでいた。ある時、たまたま出会ったトランスジェンダーの人々と交流を持つようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

街並み、そして人間が息をしている。それはカメラが決してユリシーズの目線から離れないからである。といっても、これは主観ものではない。上空からのショットや、『 マトリックス 』のような360°回転のショットなどがないということである。映像作品としてその部分だけを切り取れば、非常にさびしい。しかし、ユリシーズというキャラクターを描写するのには良い選択であった。

父が死んだことで、母が仕事を増やさざるを得ず、子どものサポートを叔母に依頼する。この叔母さんは怖い。悪意を持っているから怖いのではなく、自らの考えの正統性を盲信しているから怖いのだ。オウム真理教以来、我々はカルトの恐ろしさをよく知っている。この叔母からはカルト的な臭いがプンプンするのである。『 愛と憎しみの伝説 』のマミー、ジョーン・クロフォードとは比べるべくもないが、このような人間というのは確かに存在する。そこにリアリティがある。

主演のルカは、中性的な顔つき、体つきでハマり役である。もちろん、メイクさんらの助力も得てのことである。トランスジェンダーというのは、同性愛よりも理解するのが難しいところがある。異性を好きになる気持ちが同性に向くだけだという意味では、同性愛は分かりやすい。しかし、自分の体と心がフィットしていないという感覚は理解できそうで、なかなか出来ない。服や靴や帽子が合わないのであれば取り換えれば済むが、自分の体となるとそうはいかない。Jovianや何人かの同級生は第二次性徴時にホルモンバランスが崩れたせいか、胸や乳首が痛くなった経験があるが、あのような痛みや違和感が常に付きまとう感じなのだろうか。ユリシーズというキャラクターの不安定さを歩き方や話し方、目線で表現できていたように感じた。特にハイヒールを履く場面は、よほど研究をしたに違いないと思わせる表現力を見せてくれた。

母親も良い。 Positive make figure を欠いたアメリカの一般的家庭は往々にして空中分解するか、それまでに母親が新しいパートナーを見つけるかするのだが、この母ちゃんは強い。女は弱し、されど母は強し。そういえば『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』で誓ったはずの母親孝行をまだ果たしていない・・・

 

ネガティブ・サイド

ミュージカルの要素は必要だったのだろうか。もっと日常的な部分の演出に力を入れて、この作品世界のリアリティをもっと追求する方向に舵を切っても良かったのではないだろうか。

また、ユリシーズのロマンスがあまりにも唐突過ぎた。確かに良い雰囲気を出してはいたけれど、いきなりお互いに「君なしでは生きていけない」などと、オリビア・ハッセー版の『 ロミオとジュリエット 』の如くあっという間に恋に落ちて、深夜のストリートで踊り合い、歌い合うのは、シネマテッィクではあるが、ドラマティックではない。片方はトランスジェンダー、もう片方はゲイというカップルの誕生を、もっと丁寧に作り込むべきだった。そこにこそドラマがある。また、残念ながらこのシーンではユリシーズ役のルカ・カインの歌唱力の弱さが際立ってしまう。非常に惜しいシーンになってしまっている。

またキャストの多くは黒人であるが、一人だけ出てくる東洋系の男が作品全体のノイズになっているように感じたのは、自分も東洋人の端くれだからだろうか。最後のユリシーズのドラァグクイーンとしてのデビューの描写も弱かった。ある意味、人生で初めて輝く舞台なのだから、それこそ観る者を耽溺させるような映像美で、自分が自分らしくあることの美しさを称揚するようなメッセージを発して欲しかったと願う。

ちなみに邦題の「愛を歌う場所」もノイズに分類してよいだろう。単純に『 サタデー・チャーチ 』で充分だったはずである。

 

総評

色々な意味で惜しい作品である。ただし、デイモン・カーダシス監督にはメッセージ性と芸術性のある作品を撮れる力があることが分かった。次作があれば、ぜひチェックしてみようと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ミュージカル, ルカ・カイン, 監督:デイモン・カーダシス, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』 -テーマにもっとフォーカスすべし-

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

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これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

Posted on 2018年9月5日2020年2月14日 by cool-jupiter

タリーと私の秘密の時間 60点

2018年9月2日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:シャーリーズ・セロン マッケンジー・デイビス マーク・デュプラス ロン・リビングストン
監督:ジェイソン・ライトマン

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マーロ(シャーリーズ・セロン)は40代にして、二人の子持ちに一人を妊娠中。2人目にして長男のジョナは、おそらく発達障害で、情緒的にかなり不安定なところがある。夫のドリュー(ロン・リビングストン)はSEで、出張が多く、家事はせず、夜はヘッドホンをつけてバイオ・ハザード(Resident Evil)的なゾンビ・シューティングに勤しむという、育メンからは程遠い男。オムツを替えて、授乳し、搾乳して取れたミルクを冷蔵庫に保存し、ご飯を用意し、子どもを学校へと送り迎えし、しかし家の掃除や自身の化粧はできないという、限界に近い生活の繰り返しが、コマ送りの如く、これでもかと画面上に映される。さらには学校ではspecial needs studentであるジョナにspecial aidを雇う、もしくは転校を校長から提案されてしまい、マーロのストレスは臨界点到達、メルトダウンを起こしてしまう。そこで親戚の助言を得て、ナイトナニー、すなわち夜間だけのベビーシッターをついに雇うことを決断する。

現れたタリー(マッケンジー・デイビス)は26歳という年齢に似合わぬしっかり者で、子守りのみならず、掃除や食事まで完璧にこなす。さらにはマーロのお悩みカウンセラーまで努め、さらには夫婦のセックスレス解消の手助けにまで乗り出す。はっきり言って、大きなお世話もいいところなのだが、それらが全て奏功してマーロはみるみる回復。ジョナの転校も前向きに受け入れ、長女と共にカラオケを熱唱する。ちなみに歌うのはCarly Rae Jepsenの”Call Me Maybe”。あの怪作『ピーチガール』の主題歌だ。この歌の詩は、本作にマッチしている。特に“Before you came into my life, I missed you so bad.”という部分など。Youをタリーに置き換えると、確かに”Call Me Maybe”である。それにしても日本映画は時々、どういうわけかあちらの大物の歌を拾ってくることに成功する。『秘密 THE TOP SECRET』で使われたSIAの”Alive”などが好個の一例だ。しかし、そういう慣れないことをすると往々にして失敗するのだという、反面教師でもある。

Back on track. 今、CMで濱田岳が《夫、史上初の台詞》すなわち「お、お、おれ、お皿、洗おうか?」に、《妻、3年ぶりの台詞》すなわち「ありがとう」というものがある。アメリカでも日本でも、夫というものは家政能力に欠けるようである。しかし、夫の家事や育児への参加をもっともっと促そうという動きは理にかなっているし、時代にも合っている。そもそも育メンなる言葉自体が存在することがおかしいのだと指摘する向きも多い。子育てする男、それを父親と呼ぶのだ、という指摘がまさにそれである。ドリューの姿に自分を見出す男がいれば、そのものは即座に回心、ではなく改心しなくてはならない。

本作は、惜しいかな、一部の販促物にネタバレに近いキャッチコピーが付されている。これから見てみようという諸賢は、そうした販促物にはゆめゆめ近づかないように。また、本作を見る時、何度か出てくる人魚のイメージについて、『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い起こしてみると良いかもしれない。半漁人は何のモチーフであったのか。半漁人によってサリー・ホーキンスのキャラクターは何を取り戻したのか。そのあたりに本作を読み解くヒントがあるかもしれない(ないかもしれない)。

このネタは、海外の作家ではジャック・フィニイ、日本の作家では山本周五郎もしくは赤川次郎あたりが思いつきそうだ。心理学に精通して、なおかつ鵜の目鷹の目で小説を読む、または映画を観るという人なら、タリーの登場シーンに違和感を覚えるだろう。その感覚はおそらく正しい。それを信じて観賞を続けてほしい。

シャーリーズ・セロンは、ジェシカ・チャステインと並んで、40代の女優ではトップランナーであることを本作でも証明した。シャーリーズ・セロンの出演作にハズレがあっても、セロン本人がハズレだったことはない。彼女の弛みきった腹部と、それ以上に化粧をすることも忘れてしまいました風の地味で控え目な目元の化粧に、あなたは戦慄するかもしれない。自分の奥さんがセロンほどの美人であるという人は(客観的に見て)そうそういないだろう。しかし、自分の奥さんがセロンのような疲れ切ったメイクになっていることに気付く夫はどれほどいるだろうか。我々は美貌が損なわれたところから、メイクの欠如に気付く。では、我々は妻が何を失ったのかに気付いていないことは何を意味するのか。それは、我々が妻への関心を失っていることを意味する。さあ、(一部の、いや多くの)男どもよ、本作を観て震えて眠るのだ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, シャーリーズ・セロン, ブラック・コメディ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『タリーと私の秘密の時間』 -震えて眠れ、男ども-

『 アメリカン・アサシン 』 -新世代のエージェント誕生の物語-

Posted on 2018年7月8日2020年1月10日 by cool-jupiter

アメリカン・アサシン 65点

2018年7月7日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:ディラン・オブライエン マイケル・キートン テイラー・キッチュ シャーロット・ヴェガ
監督:マイケル・クエスタ

  • 以下、本作および他作品のネタばれは白字で表示

これは思わぬ掘り出し物である。『アンロック 陰謀のコード』も佳作ながら、大物俳優を序盤でこれ見よがしに抹殺したことが、逆に観る側に「ああ、コイツが真犯人か」と思わせてしまった点が大いなるマイナスであった。今作はその轍を踏まず、主人公ミッチ・ラップ(ディラン・オブライエン)の師匠スタン・ハーリー役にマイケル・キートンを配した。この師匠というのが味噌で、上司や同僚にしてしまうと、スパイ映画の文法、いや様式美か、とも言うべき裏切りが発生してしまう。師匠と弟子という関係ならば、デイヴィッド・マレルの小説『ブラック・プリンス』がその壮絶な対決を描いている。これを超えるのは難しい。映画化してほしいが、題材がかなり古いので現代風へのアレンジが必須だ。しかし、ランボーの原作者でもある同著者の作品であるから、今後そうした展開が無いとは言い切れない。ともかく、師匠と弟子というのも戦う運命にあるというのは、エンターテインメント界では簡単に予想できることだ。しかし、ここに新世代の様式が生まれた。同じ師匠に教わった弟子同士の対決である。と、ここまで書いてきて「なんかそんな話もどこかで観たか、読んだ気がする」と思えてきたが、思い出せないので、まあ良いだろう。

物語はスペインの美しいビーチで、ミッチが恋人のカトリーナ(シャーロット・ヴェガ)にプロポーズをして、イエスの返事をもらうところから始まる。しかし、次の瞬間、ビーチを含むリゾートが突如、テロ集団に銃撃され、周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図へ。ミッチも被弾、カトリーナも死亡。ミッチはここから、体を鍛え、格闘技を身につけ、アラビア語を使いこなし、コーランの知識と立派なあごひげを蓄え、聖戦を従事する戦士として、自分の妻になるはずだった女性を殺したテロ集団にその身を投じようとする。もちろん復讐のためである。しかし、組織に入り込めるかという、まさにその瞬間、CIA率いる特殊部隊が突撃、ミッチの敵を呆気なく射殺してしまった。CIAは独力でここまでたどり着いたミッチをスカウト。本格的なエージェントして育成するためにスタン(マイケル・キートン)に身柄を預ける。そんな中、ロシアのプルトニウムが大量に盗み出され、核爆弾がどこかで秘密裏に製造される恐れありという事案が発生。CIAおよびスタンとミッチにも召集がかかるが、犯人はかつてのスタンの弟子であった・・・

アクションシーンは『アトミック・ブロンド』と同じく非現実的な現実路線である。つまり主人公も適度に殴られ蹴られブン投げられる。決して無敵ではないところに好感が持てるし、それでいてしっかり勝ってしまうのだが、彼自身がそのことに自信を抱いているわけではないと吐露する場面があるのが素晴らしい。そんな恋人を失った復讐の鬼と化した男が普通さを残しているところに、親しみやすさも湧いてくるし、応援してやりたいという気持ちも生まれてくる。『ミッション・インポッシブル』シリーズのイーサンは、『アンブレイカブル』のブルース・ウィリスか『MONSTERZ モンスターズ』の山田孝之かといったような非現実さしか、いつの間にか感じなくなってしまった。そんな中、颯爽と現れたディラン・オブライエンの新境地に我々は喝采を送りたくなってしまうのである。

また、この映画の公開されるタイミングも幸運に助けられている。核兵器を持つことで、たとえ小国でも大国と同じ交渉のテーブルに着くことができるのだということは北朝鮮が世界中に示した事実である。また、アメリカ海軍艦隊が本格的にフィリピンから撤退をしたことで中国が南シナ海にかなり大っぴらに進出するようになったのは疑いようの無い事実だ。その米海軍艦隊を核で一発で消し飛ばしてやろうというのは、アイデアとして非常に面白いし、存外にリアリティを有していた。こんな漫画『沈黙の艦隊』みたいな与太話が、作品のリアリティとエンターテインメント性を高めているのは、僥倖なのか、それともプロデューサーの眼力なのだろうか。まあ、両方か。

元々はヴィンス・フリンの小説が元ネタで、シリーズ化も期待できそうだ。フリンというと『ゴーン・ガール』のギリアン・フリンが思い浮かぶが、ヴィンスの方もメモリーにインプットしておいた方が良さそうである。

この映画はタイトルの出し方というか、そのタイミングが秀逸の一語に尽きる。アサシンと言いながら、やっていることは殺人および破壊工作なのだが、暗殺を行うシーンは無い。それでいて『アメリカン・アサシン』というタイトルに偽りがないのは見事である。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』あたりからますます険のある顔つきが堂に入ってきたマイケル・キートンを堪能するもよし、『メイズ・ランナー』でブレイクを果たしたディラン・オブライエンをひたすら堪能するもよし、冒頭の3分で退場する恋人カトリーナ役のシャーロット・ヴェガを応援するのも良いだろう。BGMやCGも効果的かつ印象的で、劇場鑑賞向きの作品である。観ておいて損は無い一本であろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, ディラン・オブライエン, マイケル・キートン, 監督:マイケル・クエスタ, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 アメリカン・アサシン 』 -新世代のエージェント誕生の物語-

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